招待席

なかえ ちょうみん  思想家  1848.11.1 - 1901.12.13   高知県高知城下山田町に生まれる。 東洋のルソーと呼ばれまた闘士と呼ばれた政治家志向の、しかも和漢洋に視野と見識の及んだ堅実な経営思想をもち時代に 重きを成した。 掲載作は、明治十四年(1881)三月二十四日「東洋自由新聞」に掲載され、憲法や政体の在るべきを示唆し、感化は新憲法にも及んでい る。   (秦 恒平)





             君民共治之説
           中江 兆民



 政体の名称数種あり、曰(いは)く立憲、曰く専制、曰く立君、曰く共和なり。其事実に就て之を校するときは立憲にして専制なるあり、共和にして立君なる あり、共和未だ必ずしも民政ならずして立君も亦た未だ必ずしも民政ならずんばあらず。今や海内(かいだい)の士皆政治の学に熱心し政体の是非得失を講ぜざ る者なし、然(しか)るに東洋の風習常に耳を憑(たの)みて嘗(かつ)て脳を役(えき)せず、形態を摸擬して嘗て精神を問はず、是(こゝ)に於て耳食の徒 往々名に眩して実を究めず、共和の字面に恍惚意を鋭(と)して必ず昔年(せきねん)佛国の為(な)せし所を為して以て本邦の政体を改正する有らんと欲する 者亦其人無しと為さず。其迷謬(めいびゆう)固(もと)より不学寡聞の致す所にして未だ深く咎むるに足らずと雖(いへど)も、今にして其惑(そのわく)を 弁ぜずんば啻(たゞ)にシュウ(=草カンムリに秀)苗(びよう)淆乱(かうらん)大(おほひ)に我儕(われら)自由の暢路(ちようろ)を妨碍(ばうぐわ い)するのみならず、亦た恐らくは蠧毒(とどく)侵蝕暗(あん)に国家元気の幾分をショウ(=爿のツクリに戈)賊する有らん。然(しかれ)ば則ち此惑を弁 ずること亦た方今の当(ま)さに務むべきの急たり、故に一日の紙上を費し聊(いさゝ)か之を弁説せんとす。
 共和政治の字面(じづら)たるや羅甸(ラテン)語の「レスピュブリカー」を訳せるなり。「レス」は物なり「ピュブリカ」は、公衆なり、故に「レスピュブ リカー」は即ち公衆の物なり公有物の義なり。此公有の義を推して之を政体の上に及ぼし共和共治の名と為せるなり。其本義此(かく)の如し、故に苟(いやし く)も政権を以て全国人民の公有物と為し一に有司に私(わたくし)せざるときは皆「レスピュブリカー」なり、皆な共和政治なり、君主の有無は其(その)問 はざる所なり。然れば則ち今に於て共和政治を立てんと欲せば其名に就て之を求めん乎(か)、将(はたま)た其事を取らん乎、其名に就て之を求むるときは古 昔(いにしへ)ウェニース国の如きも亦た称して共和と曰(い)へり。然れども其実は決して人民をして其政治に干預せしめたる者に非ずして衆貴族(しゆうき ぞく)相合議(あひがうぎ)して之れを行ふに過ぎず、是れ豈(あ)に真の共和政治ならんや、独り此れのみならず、即ち見今(いまみる)佛国の共和政治の如 きも之を英国立君政体に比するときは共和の実果して孰(いづ)れに在りと為さん乎(や)。是れに由りて之れを観れば、共和政治固(もと)より未だ其名に眩 惑す可らざるなり、固(もと)より未だ外面の形態に拘泥す可らざるなり。
 試(こゝろみ)に英国の政治を看よ、其名称其形態並(ひとへ)に厳然たる立君政治に非ず乎(や)、然れども其実に就て之を考ふるとき毫(がう)も独裁専 制の迹(あと)あること無く、其宰相は則ち国王の指命する所なりと雖(いへ)ども、然れども要するに議院輿望(よばう)の属する所の外(ほか)に取ること 能(あた)はず、究境挙国人民の公選する所にして、北米聯邦人民の大統領を選すると異なること無し。其法律は則ち挙国人民の代員の討論議定する所にして、 固より二三有司の得て出入(しゆつにう)する所に非ざるなり。是は則ち宰相を選する者は人民なり、之を執行せしむれば、則ち行政立法の権並(ひとへ)に皆 人民の共有物なり、其君主の如きは特に人民をして立法行政二権の間に居て之れが和解調停を為さしむるに過ぎざるのみ、官として夫れ然り、是を以て共有なら ざるは無く、省庁として共有ならざるは無し、是にして「レスピュブリカー」に非ずと曰(い)はゞ世界何物か之を「レスピュブリカー」と曰はんや、「レス ピュブリカー」なる者の形態に拘(こだわ)る可(べか)らずして共和政治の名称に惑ふ可らざこと以て観る可きなり。
 蓋(けだ)し見今(いまみる)共和政治の名称に惑ふ者其党分ちて二と為(な)す。曰く共和政治を忌悪する者なり、曰く共和政治を景慕する者なり。之を慕 ふ者の説に曰く、共和を以て政治を為すときは復(ま)た君と民とを別つ可らずと、其意蓋(けだ)し必ず米国若(もし)くは佛国の政体の如くにして後已まん と欲す。之を忌む者の説に曰く、若し共和を以て政治を為すときは将(ま)さに我君を何(いづ)れの地に置かんとする乎(か)と、其意蓋し我邦の必ず米国若 (もし)くは佛国の如く絶て君を置くこと無きに至ることを懼(おそ)るゝなり。是れ皆皮相の見(けん)のみ、形態に拘るの論のみ、設令(たとへば)前説の 人をして眩惑して回(めぐ)らず終に其為す所を為さしめば其禍固(もと)より測る可らず、後説の人をして其志を得せしめば則ち圧制束縛の政益々力を逞くし て其害も亦必ず、言ふに勝(た)ゆ可からざるに至らん。嗚呼(あゝ)毫釐(がうりん)の差にして千里の謬(びゆう)を致す寒心せざる可(べ)けん哉 (や)。仲尼(ちゆうじ)曰く必ずや名を正さん乎(か)と、名の正しからざる一日数千萬の善男子をして長く五里霧中に彷徨して出(いづ)る処を知らざらし むるに至らん、是れ乃ち吾儕(われら)の「レスピュブリヵー」の実(じつ)を主として其名を問はず、共和政治を改めて君民共治と称する所以(ゆえん)な り。君民共治の方今(いままさ)に行はるゝ者は嚮(さ)きの所謂(いはゆる)英国是れなり、嗚呼人民たる者能く政権を共有すること一に英国の如くなること を得ば此れも亦以て憾(うらみ)無きに非(あら)ず乎(や)。誠に是(かく)の如くなる日は前説の人恨(うらみ)を留むる所無くして、後説の人も亦憂(う れひ)を懐(いだ)く所無きを得ん。

    (東洋自由新聞、第三號、明冶一四・三・二四)