「e-文藝館=湖(umi)」 随 感随想

むらかみ じょういちろう  画家・村上華岳の嗣子 この掲載作を執筆した昭和四十九年二月二日時点で筆者は兵庫県北摂開発局長であった。村上華岳は、近 代日本画の最も優れた精神世界を実現した最良の人と評価され、文学者志賀直哉らの敬愛をあつめた。編輯者の出世作といわれた華岳を書いた長篇に『墨牡丹』 があり、そのご縁でこの筆者とも消息を交わしあった。 (秦 恒平)





   華 岳追憶  花隈の屋根の下


        村上 常一朗



 戦前の花隈というところはなかなか情緒のある街だったように思う。言わば私の幼年時代の思い出というわけである。父(村上)華岳が京都での画壇生活を断 ち切り、芦屋のアトリエも閉じて花隈に帰ったのは、昭和二年養父の五郎兵衛が死去し家督をついだときのことである。それまで、つまり大正の終り頃の私たち の生活は何と言っても京都が大部分で時々、芦屋と花隈へ泊りがけで出向いてきた。大正末期と言えば、美術品の経済的価値が高まり、大資本の百貨店は競って 美術部を段け市場を拡大させていた時代である。父の属していた國展もまさしく最盛期であって、大正十四年には第二部(洋画)を設け会員として梅原龍三郎、 川島哩一郎らが参加し、評議員では川路柳虹、田中喜作、福原信三が名をつらねる有様であった。今の國画会の母胎である。

 京都時代の父は無類の散歩ずきだったようだ。両親と一緒に街をぶらぶらと歩いた記憶は鮮明である。しかし最後は新京極の秋田屋で絵葉書を買ってもらっ て、母と二人だけ先に帰宅することが多かったように思う。母からの文書では画家仲間の交際が拡がるばかりで、勉強も画を描く時間も収人も減るばかりであっ たと言う。夜の野っ原を渡ってくる唄声が夢うつつのなかできこえる。甲高いが抑揚がよくきいた声である。それは父のうたう常磐津なのであった。同志たちと の談論風発。それは波光や紫峰や麦僊であろうが上機嫌になっていた父は、ひとしきりに母にジョットオやラファエルの画集を前にして制作の抱負を夜おそくま で語ったそうである。
 私は母に伴われて京都から花隈や芦屋によく出かけた。その当時は東海道線もまだ蒸気機関車で京都から随分と時間がかかったように思う。汽車のなかで信玄 袋から取り出される手作りの弁当の冷え切ったつめたさがうまかったし、母と一緒にのる人力車がたのしかったことを憶えている。花隈では何と言っても初孫で あった私が主客で大いに歓待をうけた。花隈の屋敷はさして広いものではなかったが門構えだけは昔日の庄屋の風格を偲ばせた。前庭に大きなあんずの木があっ て季節には美しい花を咲かせた。身軽な私はよく木登りをして、たくみに屋根によじのぼった。登ったり、乗り越えたり、下ったりする屋根の形状は思いのほか 複雑で位置の見当を狂わせた。思いもかけないところに空間が出現する。確めるとそれが平素親しんでいる中庭であったりするのである。屋敷の周囲を店子の長 屋がとりまき、そこには若い芸者さんばかりが住んでいた。だから屋根づたいに彼女たちの二階の窓辺に近づくことができるわけであった。驚いた顔付で「華岳 先生の坊ちゃんや」と言って窓越しに彼女たちの部屋に招じ入れられるのであるが、ここでも私は主客で小さな探険家は大いに歓待をうけた。饅頭などを御馳走 になり今度は下足を借り何喰わぬ顔で帰館するのである。所有者不明の下足が増えて女中が困っていたことを思い出す。女たちの飼っている猫をつれ帰って虐待 したことから、この私の小さな探険は露見してしまった。祖父も父母も別にとがめる風でもなかったが、子供心にもやはりやめた方がよさそうな気がした。
 花隈の屋敷は紙襖や板戸の至るところに絵がかいてあった。それらはすべて華麗な花鳥画であって養父の命で父が描かされたものである。同時にそれは養父の 自慢のひとつでもあったわけである。床の間には『竹薮に狸』が長い間かかったままであった。文展の落選作であったが技巧の熟達した素直な作品であった。飾 りつけはそれだけではなかった。ティツィアノやボティチェリ、アンゼリコの大きを複製画までがかけられた。養父はその絵を指差しながら、貝殻から生まれて くるヴィナス誕生や受胎告知の意味を客に解説したそうである。養父は庭の一部に離れ屋敷を増築し、そこを華岳の画室にあてるつもりであった。しかし養父は 華岳の膨大な蔵書や仮張りや大きを絵具箱、ひとかかえもある絵具皿、石膏像などを見てからは口を閉じてしまった。結局離れ屋敷は無用となり物置の役しか果 さなかった。そこには華岳の蔵書の一部が積み上げられるだけになってしまったが、それを手にとりながら、養父は変ってゆく時代を敏感に膚で感じとり、素直 になっていたのであろう。
 養父が死去すると父は直ちに建具屋を呼び、紙襖や板戸を取替え、自分の絵を一切合切、見事に焼きすててしまった。それは何か執念めいた処理の仕方だった そうである。