「e-文藝館=湖(umi)」 自
分史のスケッチ
むねうち あつし むねうち あつし 随筆家 大学教員 日本ペンクラブ会員 1935.12.8
東京都千代田区神田に生まれる。 掲載作は、書き下ろし。
演歌つれづれ
演歌つれづれ
宗内 敦
−自伝風エッセイ−
はじめに
第一話 「遠いえにしの かの人へ」
第二話 「演歌は心の帰り船」
第三話 「啼くな小鳩よ」
第四話 「せんせい」
第五話 「月が鏡であったなら」
第六話 「ヤマはふるさと」(炭鉱節)
第七話 「白い花の咲く頃」
第八話 「雪のふるまちを」
第九話 「この世の花」
第十話 「かあさんの歌」
第十一話 「越後獅子の歌」
第十二話 「人生劇場」
第十三話 「人生の並木道」
第十四話 「閑話休題」
第十五話 「トロイカ」
第十六話 「赤いハンカチ」
第十七話 「無法松の一生」
第十八話 「夜のプラットホーム」
第十九話 「有楽町で逢いましょう」
第二十話 「バラが咲いた」
第二十一話 「恋心」
第二十二話 「船頭小唄」
第二十三話 「月の沙漠」
はじめに
誰にも、懐かしい思い出の歌があるだろう。また、日頃愛唱する歌があるだろう。“戦前生まれの戦後育ち”の私にとっては、それはもっぱら、「リンゴの歌」
に始まる戦後歌謡曲、それもとりわけ演歌調の歌ということになる。中学時代の「啼くな小鳩よ」、高校時代の「雪のふるまちを」、大学時代の「有楽町で逢い
ましょう」……などなど、口ずさめばはや、折々の出来事、行き交いし人々が、ほのぼのと思い浮かぶ。
最近、ある有線放送の情報誌に「たかが演歌、されど演歌」なるテーマで、思い出の歌にことよせたエッセイをいくつか書いた。だが、書くほどに往時が偲ば
れ、ときには、不覚にも涙がこぼれることさえあった。思えば、戦後日本の復興とともに大きな国民歌謡にまで高まった演歌・歌謡曲は、当時の日本人の精神的
支柱のひとつでもあった。終戦直後は小学生、すぐに春思う年頃に入った私は、その歌謡曲に琴線を弾かれ、そのまま、“歌は世につれ人につれ”ならぬ、“世
につれ歌につれ”て長じてきた。得意のときもしかり、友に去られ、恋を失い、目標を無くして失意のときなどは、どんなにか、口ずさむ歌の数々に励まされ、
また慰められてきたことか。これはしかし、ひとり私だけのことではなく、とりたてて非凡ならざる私たちにとっては、それほど特異なことではないだろう。な
かでも、戦中戦後に苦難の青春を送った世代には、格別当たるのではなかろうか。
当初は、いかにもエッセイらしい毎回読み切りの内容を予定した。が、二,三話書くうちに、いつのまにやら、演歌にことよせたわが人生の回想譜とはなって
しまった。編集子にはたいへん申し訳ないと思いつつも、ことほど左様にこれも致し方のないことよ、と妙な納得をして書き終えた。ところが、終えてなんとも
腹膨るる思い。思い出の歌はあまりに多く、それから後というものは、一杯きこしめしたときや湯船につかっているときは言わずもがな、散歩・散策などの遊休
時はもちろんのこと、読書・執筆などの研究・仕事中でさえ、あろうことか、いつか鼻唄まじりに唄って、往時を追懐しているのである。
かりそめのエッセイが事始めとなり、止みがたく、歌つれづれに来し方が偲ばれる。ままよそれなら、いっそ思い出すまま、来し方を辿ってみたら……。そん
な、絶とうにも絶ちがたい回想の思いを歌に託した気侭なエッセイ、しばしまどろみ歌いつつ、書き綴ってみよう。
第一話 「遠いえにしの かの人へ」
たわいなく酔いしれてしまうくせに、どういうものか酒好きで、よく何軒もはしごをする。だが、やはり一番たのしいひとときは、明るく朗らかな、しかしほ
んのこころもち控えめな女の子をそばにおいてゆっくりと飲み、そして一曲くちずさむときである。それができるところを、“地元”八王子に一軒、そしてなん
と、遠く京都の祇園にもひとつもっているのが、自慢である。
八王子には月に一、二回、祇園には年に数回行く。行けば必ず、一曲唄うことになる。まわりがひとしきり済んで一瞬静まると、待ちかねたように、その“控
えめな”女の子が
「ハイ、酒は涙か溜息か、出番です」
と、そっとマイクを差し出す。もちろん、断わりはしない。このしばしの往き来が、私にとってえも言われぬひとときなのだ。思いいれたっぷりに、忘我のう
ちにときめきうたう。
酒は涙か 溜息か
心のうさの 捨てどころ
しかし、私が唄うのは、この一番の歌詩だけである。伴奏が繰り返されて二番になっても三番になっても、私はひたすら、繰り返す。
酒は涙か 溜息か
心のうさの 捨てどころ
はるかに遠く、十代の中頃に、習い覚えたギターを奏でながら、「影を慕いて」や「酒は涙か溜息か」など、今でいう“演歌”を唄って“恋心”に憧れた。や
がて熱愛……、はかない別れ。そのとき、かりそめに口ずさんだ演歌エレジーが、なんと虚しくひびいたことか。
演歌なるものの空々しさ− 。そこから逃れ出るように、ギター教則本を、古賀政男のものからカルカッシへと代え、やがて「禁じられた遊び」や「アルハン
ブラ宮殿の思い出」の虜になって、大学生にもなると、ギターに限らず、ピアノ・チェロ・ヴァイオリンなどいろいろなクラシック音楽会にしばしば出向くよう
になった。
もちろん、流行りの歌を唄わないわけではなかった。学生時代には、「有楽町で逢いましょう」、「赤いハンカチ」など、よく唄ったものだ。が、“演歌”な
どという言葉がいつの間にやら市民権を得るようになっていたとは露知らぬこと、以前のように心を寄せて唄うなどということは、すっかりなくなっていた。
彼女が人妻になっていることを聞いたのは、二十代も終わりの頃、久しぶりに会った郷里の友人とどこかのスタンドバーで思い出話にふけっているときだっ
た。とうに、えにしなき人と思ってはいたが、我知らず、酔ってうるんだ目が熱くなる。ふと気がつくと、いつのまにか口ずさんでいた。
酒は涙か 溜息か
心のうさの 捨てどころ
とおいえにしの かの人に
夜毎の夢の 切なさよ
何としたこと。唄いながら、涙がこぼれた。
面白きかな。言われるように、演歌はやはり心のふるさとなのか。爾来、加齢とともに再び“演歌”を好むようになり、とくにこの唄「酒は涙か溜息か」を愛
唱するようになった。
だがしかし、いつの頃からか、この歌はただに遠きかの人だけを偲ばせるのではなく、こころ残したまま遠く去りゆきて還り来るはずもない人々を思い起こさ
せる歌ともなっていった。
とおいえにしの かの人に
夜毎の夢の 切なさよ
声に出して唄うと、情けなくも、たちまち瞼がうるんでしまう。私がここから先を唄うのは、ひとり静かに篭って、はるか彼方に思いを馳せるとき。そのと
き、遠きかの人や、今はなき友、なき師……、そして泉下の父・母が、あるときはひとりとどまり、またあるときは走馬燈のごとく、現われては消え、消えては
現われる。
忘れた筈の かの人に
のこるこころを なんとしょう
高橋掬太郎作詞・古賀政男作曲の「酒は涙か溜息か」、この歌は私にとって、「遠いえにしのかの人」びとへ捧げる相聞・追悼の歌である。
第二話 「演歌は心の帰り船」
演歌は、なんとも不思議な代物だ。“愛”だ、“恋”だに始まって、“泣く”だの、“別れ”だの、“面影”だのと、およそセンチメンタル(感傷的)な言葉
をこれでもかこれでもかと並べ立てる。ひとつ掲げれば
啼くな小鳩よ 心の妻よ
なまじ啼かれりゃ 未練がからむ
たとえ別りょうと 互いの胸に
抱いていようよ おもかげを
いわずと知れた「泣くな小鳩よ」、岡晴夫で一世を風靡した大流行歌である。だが、こんな陳腐な、心の上っ面をなぞるセンチメンタリズム(感傷の世界)
が、どうして私たちの心を捉えるのだろうか−。もちろん、こうした演歌がなにか空々しくて、とても唄う気になぞなれないときもある。人によって異なるだろ
うけれど、私ごとで言えば、“遠きかの人”や今は泉下の父・母と痛哭の別れをしたとき、つまりはたとえようもなくうちひしがれたときがそうである。それが
しかし、しばしのとき経ると、いつのまにやら、またぞろ唄って胸にしびれるようになるから、摩訶不思議−。まこと演歌とは、つれづれの心にじわりと沁みく
る媚薬である。
センチメンタリズムは、思春期とともにやってくる。思春期は、人に対する関わり方やものの見方を一変させ、それまでとはまったく異なる人生を出発させ
る。第二の誕生と言われるゆえんである。異性愛が生まれ、愛して苦しみ、別れて悲しむ。そして、人の世のなんたるかが分かるようになる。どうして、感じや
すくならずにいられようか。たくさんの少年少女が、“愛”を知って“恋”に憧れ、“苦悩”を知って“悲哀”にうたれる。こうして、演歌の心、センチメンタ
リズムは、人が人らしく生まれ変わった心の中に、一つのふるさととして産まれ落ちる。
しかし、人は理性の存在である。やがて淡き感傷などは幼稚未熟の証しとされ、他のもろもろの衝動やコンプレックスとともに心の表層(意識の世界)から放
逐されて、心の深層(無意識の世界)に押し込められる。だが、ふるさとはふるさと。そこがどんなに貧しかろうと、どれほど遠かろうと、傷つき、悲しむと
き、あるいは悩み、苦しむとき、人は心のどこかで、心安まるふるさとに帰りたいと思うだろう。
懐かしい心のふるさと、センチメンタリズム。ちょうど、私たちがふるさとを懐かしむのと同じように、人はいつでもセンチメンタリズムを懐かしんでいる。
ふるさとへ帰りたい−、このノスタルジー(郷愁)を刺激し、いつしかふるさとへの渡し船に乗せるのが、甘悲しい歌と調べ、これがすなわち、演歌である。
波の背の背に 揺られて揺れて
月の潮路の かえり船
霞む故国よ 小島の沖じゃ
夢もわびしく よみがえる
捨てた未練が 未練となって
今も昔の 切なさよ
瞼合わせりゃ 瞼にしみる
霧の波止場の ドラの音
誰でも知っている田端義夫の「かえり船」。これも“古典的”大演歌である。しかし、帰りゆく先はどこなのか。故国に戻るのか、あるいは故国を去って別れ
ゆくのか、この歌詞だけでは決めかねる。だが、唄ってみれば、温かい母の胸乳に揺すられるようなそのメロディに、誰もがすぐに分かるだろう。揺られて揺れ
て行く先が、まごうかたなく“ふるさと”であることを。ちなみに、唄は次のように続いていく。
熱いなみだも 故国に着けば
うれし涙と 変わるだろ
鴎ゆくなら 男のこころ
せめてあの娘に 伝えてよ
言わずもがなのことであるが、“あの娘”はもちろん、熱き心のふるさとである。
中学生の頃から唄い続ける「帰り船」。唄い続けて年経るごとに、ふるさとをもたないこの私に、“ふるさと”恋しの思いをつのる。まさしく演歌は、心のふ
るさと“センチメンタリズム”への帰り船である。
第三話 「啼くな小鳩よ」
演歌の心、センチメンタリズム。それは、人が第二の誕生(思春期)をしたときの心のふるさとである。私は東京・神田の生まれだが、幼少時から各地を転々
とし、東京・千葉・福岡・佐賀・山口の各都県で合計8回家を移り、小学校・中学校・高等学校を各2校ずつ経験して、大学に入るとき、ようやく東京に戻って
きた。父のふるさとである山口県徳山市にも行ったことがなかったから、悲しいことに、ふるさとと呼べるものがない。それなのに、ときには話の文脈で、中・
高校を過ごした福岡県の飯塚地方や佐賀県の小城近辺、さらには母の郷里、山口県下関を“ふるさと”と言わねばならぬことがある。現代っ子ならいざ知らず、
大抵の者がふるさとといえるようなところをもっていた時代に生まれた者としては、なんともさびしい話である。そこでなおさら、心のふるさとがなつかしく、
なによりの依り処となっている。私の演歌への思い入れは、間違いなくここに源をもっていよう。
私の心のふるさと、センチメンタリズムの原点は、今なお脳裡に焼きつく“初恋”の顛末だ。当時私は、千葉県市川市の万葉歌ゆかりの手古奈神社近くに住
み、中学1年生だったが、2学期の初め、気の毒なほど田舎訛りの、しかしぽっちゃりと色白でおとなしい女の子が転校してきた。名前は“よう子”といった。
隣り座席になったせいもあるが、内気でともだちのできないよう子を慰めるために、休み時間中や放課後によく連れ立って遊んだ。一番たくさんやったのは、そ
う、“お一つ、お二つ……、お一つ残って、おさらい”とやる、あの“お手玉”だ。
まだ終戦後数年の窮乏の時代だったから、これでもましな遊びで、二人はもう夢中になってそれに興じたものである。だが、別れがすぐにやってきた。我が家
が急に、遠い九州へ転出することになったのである。
そのことを打ち明けてから、よう子はすっかり口数が少なくなった。しかし、私たちはそれから毎日、ほとんど口もきかずに、ただ黙々とお手玉をしながら、
まるで死刑執行の日を待つように、ひたすら別れの日へと戦き向かったのだった。
その日、梨畑をはさんで二つに分かれるいつもの別れ道で、私たちは茫洋と見つめあった。どうやって別れを告げたらよいのか、しばらくは互いに立ちつくす
だけだった。−と、よう子の目から突然涙が噴き出し、かと思うと、彼女はやおら梨畑に向けて指さし、
「お願い! あの梨ひとつ取ってきて、よう子一生のお願い!」と叫んだ。
戦後の混乱期とて、梨畑には防犯用の鉄条が張りめぐらされていた。立ち竦む私に、よう子は容赦なく何回も同じ言葉をあびせて、あとはただ泣きじゃくるば
かりだった。這いくぐり、よじ登り、傷だらけで戻った私から梨を受け取ると、よう子は、一瞬じっと私を見据えた後、ものも言わずに踵を返して走り去った。
九州に行って、やがて思春期に入った私は、やたら歌謡曲を唄う少年になっていた。「湯の町エレジー」や「かえり船」など、今でいう演歌をとりわけ好んで
いたが、なかでも「啼くな小鳩よ」はことさらの愛唱歌だった。
啼くな 小鳩よ 心の妻よ
なまじ啼かれりゃ 未練がからむ
たとえ別りょうと 互いの胸に
抱いていようよ おもかげを
さらば 小鳩よ 心の妻よ
瞳曇るな また逢う日まで
帽子振り振り 後ふり向けば
暁の野風が ただ寒い
それは、“心の妻よ”のくだりになると、何故か泪がにじみ、切なくも心地よくよう子が偲ばれるからであった。九州は筑豊地方のふくよかな山野に抱かれ、
しばらくの間私は、この歌を唄い続けて、よう子を偲び続けたのである。
−それから長じて、そして年経て、バーやクラブでひとときの憩いをとるような年になって、よう子の面影はとうにすっかり消え失せていたが、私は“よう
子”という子がいると必ずひいきにして、言うのである。
「いつか、よう子一生のお願いって、言ってごらん。そんな仲になろうね」
そして、「啼くな小鳩よ」を一曲付け加えることを忘れなかった。
面白がって、私もよう子よと言っては、ハワイ旅行をねだったりする子も現われ、幾人もの“よう子”に出合ったが、ついにこれまでそんな仲になった“よう
子”はいなかった。
だが“よう子”は、「啼くな小鳩よ 心の妻よ」の歌詞とともに、遠い遥けきところから揺りかごのように私をゆさぶる、いわば刷り込まれた
(imprinting)心のふるさとである。あるとき私は、翳りある子に惹かれて“よう子”の呼び名を与え、彼方むかしを今につないでおとぎの世界に足
を踏み入れ、いくたびか彼女とかりそめの逢瀬をもつことになった。
この秘めごとは、さすがに今は恥ずかしい。しばらくはまだ胸の奥にしまって、よいしおがあったら、語ってみたい。
第四話 「せんせい」
「先生、先生」と、囁くように呼びかける若い女性の声に振り向くと、日頃から心憎からず思っている教え子のI子が、大学で週に一度は必ず会っているとい
うのに、とっても懐かしそうな顔で呼びかけていた。
それは、ワインが欲しくなるとよく立ち寄る、JR・中央線大月駅前(山梨県大月市)のワイン店で、気に入りのワインを何本か買って、これを誰にプレゼン
トしようかなどと、ちょっと浮いた気分で店先を出たときだった。
「ねぇ、先生、そんなにお買いになって、どうなさるの」
すーっと、いとも自然に近寄って、ワインのつまったビニール袋を覗きこみながら、彼女は少し甘え声で言った。微笑って答えずにいると、今度は、少し詰問
調に、
「ねぇ、先生、どうなさるの」
それでもまだ黙ったままにしていると、
「先生ったらー」と、躰をよじって、すねるように私を睨まえた。
I子がビニール袋を覗きこんだその瞬間に、思い出していた。もう随分前になるけれども、大学の近くのレストランで、二人で食事をしたことがあった。私と
出合ったときに声をかけて近寄ればそのまま食事に誘ってもらえるという評判を、彼女は大胆にも実行して、まるで恋人のようにいそいそとついて来た。見かけ
によらずすれっからしかと思ったら、それがたったひとグラスのワインで頬を染め、舌がもつれるとかで恥ずかしがり、すっかり寡黙になった。なんとも可愛ら
しかった。その折、もっとワインに強くなれるように、いつかワインをプレゼントしよう、と口を滑らしていた。彼女は今、きっとそのことを思い出しているに
違いない。
ちょっとからかってみたくなった。
「これは僕のいい人たちにあげるんだ。残念ながら、君の分ははいってないよ」
いたずらっぽく、わざと大袈裟に、彼女を覗きこんだ。I子は、一瞬ふくれて、しかしすぐに私の表情を読みとって、今度はさもさも嬉しそうに、
「いじわる!、先生のいじわる」
と言いながら、私の手からビニール袋を奪いとり、
「行こ、行こ。先生、お茶飲みに行こう」
と、さっささっさと足早に先を歩き始めた。
先生と呼ばれるほどの馬鹿ではないが、御多分に洩れず、たくさんの“先生族”同様、私も“先生”と呼ばれるのが大好きだ。私が“先生”になったのは、三
十代の後半、裁判所を辞めて、今いる大学に移ったときである。その歓迎会で、ゼミの学生たちが歌ってくれたのが、森昌子の「せんせい」。余計のようだが、
何故、“森昌子の”とわざわざ言うかは、この歌は誰がなんと言おうと、透明で清純なあの森昌子の声でなくてはならないからである。
淡い初恋 消えた日は
雨がしとしと 降っていた
傘にかくれて 桟橋で
ひとり見つめて 泣いていた
おさない私が 胸こがし
慕いつづけた ひとの名は
先生 先生 それは先生
三十過ぎて結婚し、慌てたように年子の二人の子供をつくって、仕事をもつ妻と子育てに追われる毎日。その二、三年は、大晦日の“紅白歌合戦”を見ること
さえなく、流行りの歌に馴染む間もなかった。この歌は、まるで私のために、学生たちがつくってくれたのかとさえ、一瞬、錯覚したほどである。“先生 先生
それは先生”と“大合唱”されたときには、心底、学生たちから恋い慕われているようで、天にも上る心地よさ−。よくぞ教師になりにけり、と痛切に思った
ものである。
“先生”と呼ばれる心地よさ。しかし、“先生”と呼ぶ心地よさもまた、格別だ。私にも、この歌と同じように、先生を思慕して止まぬ“幼い日の”思い出が
ある。
小学6年のときだったか、保健室に赴任してきた若い女の先生がギリシャ神話に出てくる愛と美の女神“アフロディテ”のように思われた。日毎につのるあこ
がれ−。なんとか声をかけたいが、機会がない。あるとき、腐りかけた渡り廊下で一寸釘を踏み、それがゴム靴を通って足裏に突き刺さった。飛び上がる痛みを
忘れ、歓喜にふるえながら、保健室までぴょんぴょん片足でたどり着いた。
だが、うわずった声で「先生!」と懸命に足裏を差し出す必死の願いも空しかった。アフロディテはほんの一瞥くれただけで、私の躰のどこにもひとさわりす
ることなく、あっという間に釘を引き抜くと、赤チンキひとつつけてもくれず、「ハイ、いいわよ」と言うや、もう用が済んだとばかり、くるりと背を向けた。
取りつくしまもなかった。それなのに、否それだからか、思慕の情はいっそう高まり、その後私は、学校にいる間中、彼女がどこにいるか、神経を尖らせてウロ
ウロと追い求める始末だった。だがしかし……、
臨海学級で、学年全員が船橋の海に行ったときだった。生徒たちのマドンナは、纒わりつく小魚の群れに追われて、人魚のように水中を駆け巡り、ときどき、
「もう、やめてー!」と歓喜に耐えぬ叫び声を上げていた。私は少し遠いところから眩しげに眺ているだけだったが、そうこうするうち、腕白たちにどこをさわ
られたのか、突然、彼女は悲鳴をあげ、一種名状しがたい甘い声音で助けを呼んだ。
「キャー、助けて! 先生、先生、イシヅカ先生!」
イシヅカ先生とは、柔道二段とかの体育の教師で、日頃から彼女との仲が怪しいというもっぱらの噂だった。後から思えば、それが女の“嬌声”を聞いた最初
だったが、何故かそのとき、こんな声がでるようでは噂はほんものだ、と悄然たる思いだった。
はるか昔の、初恋の前の“先生 先生 それは先生”顛末記である。
それにしても、何故にかくも“先生”は恋い慕われるのだろうか。思うにそれは、初期の親子一体化を抜け出た子どもたちの次なる一体化の対象だからではあ
るまいか。親は初め、幼児にとっては全知全能、そして全幅の愛を注いでくれる絶対の庇護者。共に居れば燦々たる愛に包まれ、なにごとか為さんとすれば不可
能はないほどに手助けされ、本能的欲求はすべて満たされる。いわば、父・母は、“形而下”の“神・仏”である。しかしやがて親子の分離が始まると、親なる
神仏は虚しくも幻想にすぎないことが知られ、いずこへか消えていく。だが、“神仏”なるものへの希求は、心の奥深いところで、いつか“神仏”と一体化せん
ものと初期の原始体験の復活を夢見ている。そこに現われ出るのが、まさしくわれらが“先生”たちなのではあった。
“先生”を慕う“おさな子”らの心情は、結局は、形而下の神に向けての回帰である。それを曲解して、ゆめ傲慢にも己が“無欠にして魅力溢れる”からだと
思ってはなるまい。やがてはそれも幻想となり、ついには形而上の神が求められるに至るが、所詮“先生”は、形而下の神から形而上の神への橋渡しをする一時
的な天使の役を担うに過ぎない。にもかかわらず、ときどき、そこに行き過ぎた“信仰関係”が生まれ、どちらが悪いとか言うではなく、大いなる欺瞞のもと
に、さまざまな“生き神様”が造り出される。いわく、「・・・教」、「・・・協会」などの教祖様である。
さてさて、つまらぬ議論はおいて、“おさな子”たちが心の底から「先生」と呼びかけるとき、それはものごころつく前の、どこまでも優しく頼りになった、
幻想の中の父・母(神・仏)へ帰依している。だからこそ、“先生”ということばは、呼ぶ方にも、呼ばれる方にも、たまらぬ心地よさで韻くのだ。
私はその日、私からもらったロゼワインを宝物のようにしっかりと抱きかかえながら、今度はひとグラスのワインですっかり饒舌になったI子の
「ね、先生。こんどどこかでお会いしたら、そのときはお酒飲みに行きましょう。ね、先生」
と、連発される“せんせい”攻撃に身を任せながら、久しぶりにアフロディテを想い出していた。
第五話 「月が鏡であったなら」
月が鏡で あったなら
恋しあなたの 面影を
夜毎うつして 見ようもの
こんな気持ちでいるわたし
ねえ 忘れちゃいやヨ 忘れないでネ
昼はまぼろし 夜は夢
あなたばかりに この胸の
熱い血潮が さわぐのよ
こんな気持ちでいるわたし
ねえ 忘れちゃいやヨ 忘れないでネ
今どきこんな歌を唄ったら、若い人たちにはむろんのこと、同世代の人たちからもまず笑われてしまう。「忘れちゃいやよ」という、昭和も十一年、私の生ま
れた頃の作品である。ナツメロ番組にもめったなことでは出てこない。こんな歌が、私にとっては、そのときの情景がまざまざと浮かび上がるほどの思い出深い
歌なのだから、我ながらおかしくてたまらない。
中学三年の二学期初め、私は学校で放課後の補習授業を受けていた。当時は、都会地を除けば塾とか予備校とかそんなものは全然無い時代で、昨今のような権
利意識や労働者意識の強い時代から見れば嘘のような話だが、たくさんの学校・教師がそれこそ無償・無報酬で高校受験生のために補習授業を行っていた。とは
いっても、私のいた中学は、筑豊地方の中心である飯塚市からも少し離れた、炭鉱町と農村の混在する相当田舎の学校だったから、七〜八クラスあった三年生の
うち、二クラス分の高校進学者しかいなかった。先生たちの奉仕の負担は思うほど過重ではなかったかもしれない。
それはともかく、今でもはっきり覚えている。厳しい残暑の中、どういうことかすっかり疲れきっていた私は勉強どころではなく、遠くから聞こえてくるつく
つく法師のまぬるい声に眠気を誘われながら、早く終わらないかと時間ばかり気にしていた。授業が終わるともう嬉しくて、自分のクラスのある隣の棟に駈け
入った時には解放感でいっぱいになっていた。ほかに人影も見えず、何か自分独りの世界がそこにはあった。その時どうしたことか、私は突然、大きな声でこの
歌「忘れちゃいやよ」を唄い出していた。
月が鏡で あったなら
恋しあなたの 面影を
夜毎うつして 見ようもの
こんな気持ちでいるわたし
ねえ
と、“ねえ”のところを思い入れたっぷりにやった時である。どっと、悲鳴をもまぜた爆笑が廊下の窓を突き破るように、隣の棟から沸き起こった。我に返っ
た私は、ここでやっと、もう一つのクラスがまだ補習授業を終えていないことに気がついた。しかしすでに、時は遅し。私には、まるでみんなお化けのように首
をのばして窓から顔を出し、いっせいにこちらを見ているようでたまらなかった。恥ずかしさで居たたまれず、一目散に逃げだしていた。
いったい何に思いを連ねてこのような歌を唄うようになったのか、今ではとても思い出せない。が、とにかく思春期まっさかりの頃だから、この歌の歌詞を色
々なことに重ね合わせて、ときにしんみり、ときに威勢よく唄っていたことだけは、間違いない。さらに思えば、それは多分、隣のクラスの、丸顔でぽっちゃり
したA子の面影がいちばんたくさん重ね合わされていたのではなかろうか。ちなみに、この出来事のあとしばらくして、私は担任から職員室の片隅に呼ばれ、言
うも恥ずかしいが、こう言われている。
「補習授業のときお前がいつもA子のうしろに座ることが職員室で問題になっている。女なんて星の数ほどあるし、K高校に入れば、嫌っていうほど寄ってく
る。今は勉強だけするときだ。いいな、分かったな」
九州に行って、やがて思春期に入った私の中学時代は、振り返っていちばん懐かしい少年時代であった。それはもちろん、誰にも心うずく春の目覚めの時でも
あるからだが、とりわけ私にとっては、都会から田舎へと環境が激変し、それにつれて、それまではただ通うだけといったような単調そのものの学校生活が一挙
に生き生きと躍動するようになったからでもあった。
小学校時代、私は六年間を通じ、国語と算数が“優”、ほかはすべて“良”といった、なんとも平凡な、おとなしいだけが取柄の子どもだった。それが九州に
行って中学二年に入ると、突然、クラスの級長になってやがては学年一、二を争う優等生になり、修業式には学年総代で各種免状をもらうまでに変貌した。
このきっかけが面白い。人生なんて、ほんとにひょんなことから変わってしまうものだと、つくづく思う。ある日おなかをこわしてトイレに入っていると、
(当時のトイレは男女兼用だったから)同じクラスの女の子たちがやって来て、用を済ませた後、わいわいがやがやと転校生(すなわち私)の噂話を始めたので
ある。出るに出られず聞いていると、“言葉のとってもきれいなかわいい子”ということに落ち着いた。昨今の若者では分からないかもしれないが、地方では学
校の教師などもみな田舎弁丸出しだったから、その頃は映画でも見ない限り、標準語でしゃべる会話などなかなか聞かれなかった時代である。だが、彼女たちの
こんな驚きと賞賛も、それまで人(友だち)から誉めそやされたことなど一度もなかった私にとっては、それこそびっくり仰天、彼女たちが去ったあとも、興奮
してトイレから出るのをしばらく忘れたほどだった。
−その数日後のことである。柄の悪い、いかにもねじくれたような連中から、便所の裏の、じめじめとほの暗い所に呼び出された。言わずと知れた、生っちょ
ろい転校生にやきをいれてやろうという、今でいう“いじめ”である。兄弟げんかひとつしたことのない私は、初め震え上がった。相手が何人いるかも確認でき
ないほどだった。が、彼らの背後の、さらに暗い物陰で同級のカズ子たちが覗きこんでいるのを見つけて、一瞬の間に心が決まったから不思議である。私は、嬲
るように平手を張ってくる相手に、全く同じ調子で平手を返した。ひとを打ったのは生まれて始めてだったが、妙な快感があった。あとはもう目茶苦茶な殴り合
いだったが、私が大勢に組み敷かれたとき、
「あんたら、なにやっとるとな、馬鹿たれ、止めんしゃい!」
と怒鳴るカズ子に救われた。これ以来、私は九州のおなご(女子)は、情厚くして剛毅という神話を抱くに至ったが、このカズ子とは、何が原因だったのか、
やがて卒業という頃、教室のど真中で喧嘩になり、組み敷かれて数発平手を食わされた。痛いほど懐かしい思い出である。
その後、二年一学期初頭、クラスの役員選挙で、どういうわけか私は、とりわけ女の子に人気があり、決選投票の末、級長に選出された。おかしなもので、級
長になると、毎時間、授業初めに号令をかけなければならないし、またいつ指名されるかも分からないのでいつも真剣に授業を受けるようになり、知らぬ間に、
行動的で、本当の優等生になっていった。こうして、私は生き生きと躍動的な、思い出深い中学生時代を過ごすことになったのである。
「月が鏡であったなら、恋しあなたの面影を、夜毎うつして見ようもの……」
晩酌時とか入浴中、私は上機嫌のとき、よくふっと「忘れちゃいやよ」を唄い出す。家族は必ず、またまたあの歌かと失笑するのだが、かまわず歌い続ける。
このとき、私の心はすっかり家族を離れ、そして今という時を離れて、遠いあの時に戻っている。どっと沸き上がる爆笑、担任の苦言、そしてA子。もちろん、
それだけではない。授業中鉛筆転がしの点取りゲームをやっていつも一緒に叱られたヒロシ、取っ組み合いのけんかをしてからいっぺんに親しくなったタケオ、
そして女だてらに私を組み敷いて平手を食わせたカズ子……。
条件づけ(conditioning)とは、恐ろしい。四十年も経っているというのに、この歌を唄えば、まるで歌が鏡であるかのように、今でも即座に、
当時が生き生きと思い浮かぶ。どんなに失笑を買おうとも、もともと失笑から始まったこの歌「忘れちゃいやよ」、昔を思い出させてくれる限り、いつまでも私
の愛唱歌なのである。
第六話 「ヤマはふるさと」(炭鉱節)
クイズ番組ではないが、職員社宅・鉱員住宅・労働争議ときただけでは、おそらく何のキーワードか分からないだろう。が、落盤事故、ボタ山と続けば、かな
り若い人たちでも分かるはずだ。そう、私の中学・高校生活はまた、長兄の勤めにつれての炭鉱(住宅)暮らしでもあった。私にとって、ボタ山を包みこむ筑豊
の山野と炭鉱町は、忘れ得ぬ心の“ふるさと”なのである。
職業柄、私は毎年、全国各地の小・中・高校と教育委員会をいくつか訪ねる。講演で呼ばれているときもあるが、大半は教育実習でお世話になっている学生た
ちの指導を兼ねての挨拶まわりである。先だって、そうした仕事のひとつで、(少しばかり古い表現で恐縮だが)久しぶりに本州を越えて九州に渡り、北九州市
のとある中学校へ赴いたが、その学校を囲んで広々と平坦な団地一帯が、面影ひとつ残すことなく、ボタ山をも均した旧炭鉱地域だと聞いて驚いた。その上、そ
こに通う生徒たちは、自分たちが住まい、通い、日常の生活を行うその地域が炭鉱地域であったこと、ましてやボタ山が林立していたことなど全く知らない世代
であり、またその親世代も昔の炭鉱生活などとは全く無縁の人々であるとなれば、隔世の感しきりであった。たまたまその学校の校長先生が私と同年、同じ福岡
県内の炭鉱育ちとかですっかり話が合い、仕事を忘れての思い出話に耽るうち、“望郷”の念ひたすら起きて、思わずかの地に足を向けることになったのも無理
からぬところではあったろう。
私は帰路、足をのばして小倉から折尾、そこから筑豊本線で飯塚・天道へと行き、中学時代を過ごしたあの懐かしい“ふるさと”へと向かった。だが、そこは
先に見た北九州市の学校・団地となんら異なることのない様相だった。いくつかの丘陵の狭間に建られていた長屋住宅、その中心部の雑貨販売所、少しはずれて
ぽつん、ぽつんと積み上げられていたボタ山……、それらはあとかたもなく消え、少し均されて、全国どこにも見られる変哲のない住宅地があるばかりである。
それは奇妙な感慨であった。実は、ここを訪れたのは、昭和二十六年にこの地を去ってから二度目のこと、一度目はエネルギー源の転換による国策で閉山に
なってから十数年後の昭和五十年のことだった。そのとき、二十数年ぶりに見る思い出の地は、住宅も購買所も、そして野球大会や盆踊りが催されたグラウンド
も、たしかに建物・設備の一切が消え失せ、どこに何があったのか全く思い出すよすがもない一面荒涼たる丘陵世界が横たわるばかりであった。しかしそこに
は、在りし日の繁栄を象徴するかのように、かつてのボタ山が小さなピラミッド形の小山となって、いくつか空を向いて無念をさらすように残っていた。私は、
夢の跡なる草莽の上に、櫓太鼓に合わせて“炭坑節”を踊るゆかた姿の老若男女を思い浮かべ、しばし立ちすくんで昔を悼んだ。それが、この唯今はどうだろ
う。ボタ山は失せ、丘陵は生まれ変わって、昔を偲ばせるものは何一つない別世界−。それは私を根こそぎ過去から断絶させ、回想の思いさえ奪って……、迫り
くるのは呆然たる喪失感と容認できない“異文化”ショックだけである。
私はまるで、龍宮城から帰った浦島太郎や、無理矢理居留地に連れていかれたアメリカインディアンさながらに、もろくもアイデンティティが揺らぐのを感じ
た。過去が過去として治まり、しっかりと現在に連なっていてこそ、自分が自分だと確信できる。しかし、思い出すことも叶わぬほどに、過去は根こそぎ払われ
た。記憶喪失の患者と同じ、根なし草のような危うさである。私(たち)の過去を奪い、昔を全く知らぬげに幸せそうに行き交う人々……。なにやら憎悪の気持
すら生まれてくる。連れて想えば、父祖伝来の地を奪われ、そこに畏文化と異民族の繁栄を見なければならなかったアイヌやインディアンなど原住民の屈辱と無
念、そして民族一体のアイデンティティの喪失感はいかばかりのものであったろう。ちなみに、今や日常的にも用いられるようになったエゴ・アイデンティティ
(自我同一性)なる概念は、エリクソン・Hによって、居留地インディアンの絶望的な“根こぎ感”から逆説的に導き出されたものであった。
私は、自分を取り戻すためにも、昔を思い出さなければならなかった。けれども、眼の当りにする情景はあまりにも生き生きと現実感に富み、そこに過去の情
景を引き出そうとする努力は、結局、空しい幻想的な試みにすぎなかった。私がようやく確かな記憶の糸をたぐれるようになったのは、博多から乗った新幹線
「のぞみ」が関門トンネルをくぐり抜け、再び“本州”に戻ってからのことである。
昭和二十三年十一月、中学一年生だった私は、ただひとり東京発博多行きの普通夜行列車に乗り、長兄と次兄・三兄の待つ九州へと旅立った。新幹線でわずか
六時間足らずで着いてしまう昨今では思いも及ばぬ、一昼夜とさらに半日かけての長旅だった。だが、疲れ切って着いた鉱山里(やまざと)は、都会から大田舎
へ移った不安や淋しさをあっという間に払拭してくれた。米はきちんと配給され、それ以外に芋・乾パンなどが特配されて、米粒がまぶれただけの芋御飯が主食
の、昨日までの飢えた毎日が嘘のような食生活−。これだけで、私たちにはまさしく“天国”だったのである。
父は、NHK国際局に勤務し、いくつかの大学で中国語の講師をしていた。それが、終戦で一挙に職を失い、一家七人路頭に迷うことになった。子どもたちに
土産一つ買わず、本ばかり買いあさっていた父が蔵書のすべてを玄関に並べて急造の古本屋を始め、夜は大学生だった長兄とカストリ屋台を闇市に引き出して精
一杯の生計を立てたが、まさに明日の暮らしをどうするかといった苦しい毎日だった。後年老いてもなお豊かな乳房を誇っていた母が、肋骨の浮いたあばら骨の
なかにようやく豆粒のような乳首を張り付けているというほどに痩せ細っていた。父にどんな知識があったというのだろう。近所の、比較的豊かな家のゴミ箱か
ら腐ったさつま芋を漁って来ては、よくカリカリとしたカラメルを作ってくれたが、当時、甘味といえば、さつま芋とこのカラメルぐらいのものだった。しか
し、こうした貧しさは、何も我が家だけに限らず、終戦直後の都会の世相そのものだったと言えるだろう。
こんな我が家に“豊かな”生活をもたらしたのは、大学を出てすぐに(二十三年四月)九州の石炭会社に勤めるようになった長兄である。当時、戦後復興の基
幹産業として、石炭業界は国から保護され、特配物も多く、食料事情は特段に恵まれていた。早速社宅を借りた長兄の許に父を除いて全員移ることになったが、
しかし鉄道運賃もままならぬ有り様は、最初は次兄、次に三兄、そして私と状況が整い次第の移住で、最後に母と妹がやってきたのは、年も明けてからのこと
だった。
炭鉱に行って初めて経験する夏の盆踊りは圧巻だった。近隣の中小鉱山の人々も加わって、普段静かな社宅街からは信じられないほどの大勢の人が集まり、大
櫓を真ん中にグラウンドいっぱい幾重もの輪を作って踊り続けるのである。
月が出た出た 月が出た
〜〜炭坑の上に出た
あんまり煙突が高いので
さぞやお月さん 煙たかろ さのよいよい
盆踊りと言えば、戦後の復興を象徴するかのように各地でメイン音頭だった「炭坑節」。今ではたくさんの地元音頭が生まれてすっかり影が薄れているが、こ
れに敵う踊りの名調子はまだ聴かない。これを踊って、鉱山(ヤマ)の人々は、束の間の喜びを謳っていたのである。
戦後しばらくは、好況に沸く石炭業界だった。だが、やがて二次産業・三次産業の興隆とともに本格的な戦後の経済復興が始まると、繁栄の礎となりながら、
炭坑で働く人々の生活はいっこうに向上せず、逆に低下していった。労働争議が起こり、炭坑街が騒然となることも少なくなかった。ピケを破るために会社側が
〜組のヤクザを雇ったとか、それに対抗して労働側もまたヤクザを雇って幹部職員を襲撃するとか、いろいろな噂が飛び交い、若いエリート社員だった兄を守る
とかで屈強の“先山”(*)
たちが我が家を見回りにきたときなどは、まるで戦争末期の敵機襲来にも似た緊張だった。そうこうするうち、私たち一家に暖かい交わりを示してくれていた炭
鉱所長が、団交の真っ最中に脳卒中で死亡する事件も起こった。やがてくる石油資源へのエネルギー源転換を前に、ヤマは早くも過渡期の混乱に入っていたので
ある。
そのようなこととは関わりなく、私はヤマと学校の二つの生活にすっかり馴れ、楽しい少年時代を謳歌していた。中学三年時の相撲大会も忘れられない。私は
当時どちらかと言えば小柄の方だったが、学校で相撲部や柔道部に所属していた“猛者”たちを次々と連破して、最初の五人抜きを達成した。そのとき、観てい
た人たちの中から次のような声が上がったとかで、母はいつまでも自慢であった。
「あの子は“職員社宅”の子やけん、それで強かとよ。なんちゅったちゃ、栄養が違うけん」
これを聞いて、私もまた誇らしかった。が、今にして思うのである。私にはどこまでも優しく思いやりのある母ではあったが、そのとき何故、ヤマの大半を占
める鉱員住宅の人々に対して、その置かれている状況を思いやる心を教えてはくれなかったのかと……。
戦後数年の僅かな期間を除けば、一握りの会社側職員を例外として、ヤマは職住ともに悲哀と抑圧に満ちた忍従一色の世界であった。肉体を責め刻む苛酷な労
働と低賃金、年中行事のような落盤事故と死傷事故、越え難い“身分制度”とさまざまな差別……。職員と呼ばれる管理職や上級事務職が住まう“職員社宅”
は、陽あたりもよい一戸建てまたは二軒長屋の庭つき住宅だったが、坑夫とその家族にあてがわれる“鉱員住宅”は、便所・炊事場が共同の、貧困と不健康をそ
のままあらわすような、陽あたりも悪い、狭くじめじめとした長い連棟の長屋だった。私には、鉱員住宅の親しい友人が二人いたが、二人とも、進学か就職かを
決定する三年二学期までに、私から離れていった。ひとりの友は、ときどき理由も分からず不機嫌になって、よく私に殴りかかった。殴られれば殴り返すといっ
た蛮気な気風にいつの間にか染まっていた私だったが、この友にだけは、時に殴るがままに任せていた。屈折する友の気持ちをどこかで汲み取っていたのではな
かったかと、今にして少しは慰むのである。
思えば、ボタ山に月を掲げて踊る盆踊りは、もろもろの悲哀と抑圧を発散する年に一度の祭りであった。そこでは炭鉱節が、手拍子・合唱して幾度も幾度も繰
り返されたが、それはヤマの人々がその哀歓のすべてを投げ入れた“恨み節”だったに違いない。“職員社宅”に住まい、わずか数年の行きずり人の私に、鉱山
(ヤマ)を語る資格があろうはずもないが、しかし年経るにつれて、ヤマの生活を振り返るたびに、疼くようにヤマの人々への共感と罪責感がいやまして、いつ
しかこの私にも、ヤマは哀切のわが“ふるさと”となっている。そのふるさとが今、うたかたの如く消え去って、耐え難い根こぎのほかには残るものとてない。
ここではもはや、土門拳描くあの『筑豊のこどもたち』(一九六〇年)さえ、訴える力も奪われ、遠い歴史の中の単なるひとこまにしかなりえまい。かくなる様
を、古くから棲んで鉱山(ヤマ)を“ふるさと”としてひたすらに耐え忍んでいた人々は、どこで、どのように見ているのだろうか。
ひと山 ふた山 み山越え よいよい
奥に咲いたる八重椿
なんぼ色よく咲いたとて
様ちゃんが通わにゃ 仇の花 さのよいよい
あなたがその気で言うのなら よいよい
思い切ります 別れます
もとの娘の十八に
返してくれたら 別れます さのよいよい
尽きぬ思いに、いつしか口ずさむ炭鉱節。そのとき、夢を覚ますようにチャイムが鳴って、やがて終着を知らせるアナウンスが聞こえてきた。ふと見やると、
車窓の外は、ボタ山ならぬ東京タワーが、そしてたくさんの高層ビルが煌々とまばゆいばかりに輝いていた。
(*) 先山 坑内で石炭を採掘する坑夫。採掘された鉱石を搬出するのが“後山”
第七話 「白い花の咲く頃」
遠い少年時代に遥けく思いを馳せるとき、ふっと胸元から切ないように浮かんでくる歌がある。
白い花が 咲いてた
ふるさとの 遠い夢の日
さよならと 言ったら
黙ってうつむいてた お下げ髪
悲しかったあの時の
あの白い花だよ
赤い花、青い花、黄色い花、絞りの花……、どの花もとりどりにみな美しい。私たちは古来より、その美しい花々に連ね、さらなる思いとともに女性
を描く。例えば、源氏物語の夕顔、若紫、葵の上……。とはいえ、ただに真白き花こそよけれ。それは春を迎えてなお春知らぬけがれなき乙女をこそ徴してい
る。この歌「白い花の咲く頃」が世に出た昭和二五年、中学三年生だった私はまさにそのけがれなき乙女たちと学び舎をともにしていた。
同じクラスにカズ子、隣のクラスにA子がいた。ともに純白の花だったが、カズ子は際立ち映える大輪の薔薇、A子はそっと隠れ咲く一輪のコスモスであっ
た。たくさんの花が咲き乱れる中で、私はとりわけこの二つの花に惹かれていた。カズ子とは一年生のときから同じクラスで共にクラスのリーダー、何かにつけ
て一緒に居ることが多かった。卒業直前には取っ組み合いのけんかをしたり、その息づかいがいつも私の身近にあった。不幸にも彼女は片方の目が悪く、学校を
終えたら手術をしたいとしみじみ洩らしたことがあったが、これも卒業間際だっただろうか。一方、A子とは、クラスも違い、ついに一度も言葉を交わすことさ
えなかった。三年の二学期、男女各一名の学年代表に選ばれて飯塚市内の研究モデル校とやらを見学に行ったことがあった。しかし、引率教師の後を連れだって
歩きこそすれ、互いに目元を合わせることさえ懼れ、ついに一言の言葉を交わすこともできなかった。思えば、両極二つの花に惹かれて過ごした中学時代では
あった。
心ときめく中学時代もあっという間に終わり、私は飯塚市の県立嘉穂高校に進学した。飯塚は、当時筑豊炭田の中心都市としてにぎわい、学校は活気に溢れて
いた。学期ごとに行われる実力試験で五十番以内に入れば九州大学への合格は間違いないと言われるほど、学力レベルも高かった。しかし私は、勉学など放り棄
て、入学後すぐに柔道部に入り、脇目も振らずに打ち込んだ。中学三年時の相撲大会での5人抜きがよほど腕に自信をもたせたのだろうか−。
今でもその感触が右足ふくらはぎに熱く残っている。校内紅白勝ち抜き戦で初めて試合というものに出た時の、本当の初試合だった。私は、躰の大きい相手を
思いきり引きつけ、思わず腰を引く相手の股間に右足を送り込み、思いっきり左足を刈り取った。自分でも驚く見事な大内刈りではあった。
そしてその後は“柔道一直線”だった。入学直後の実力試験で上位一桁だった成績が夏休み前の試験では一挙に落ちて百番目前、しかし私は懲りるどころか、
夏休みには市内の道場に連日通って新学期に入る時には段位をもらうまでになっていた。黒帯の柔道着を束ね左腕に差し込んで歩く姿は、我ながら颯爽として胸
が高鳴り、“姿三四郎”もかくやとばかり、高下駄で街を闊歩した。クラスの女子生徒が練習を覗きにきたりすると相手と八百長で背負い投げや肩車といった大
業をかけあい、気分はまるでスーパースターそのもの、世の中は自分を中心に回っているとさえ思っていた。……だが、一度だけ苦い思いをしたことがある。汽
車で通学の途中、同じ柔道部の仲間が他校の生徒と口論になり、途中下車して勝負をつけようということになった。助っ人気分でついて降りてから驚いた。当方
二人に対して何と相手側は七・八人、これでは全然勝負にならない。例によって便所裏のほの暗いところで対決とはなったが、最初に二・三発返しただけで後は
やられっぱなし、手も足も出なかった。駅員が飛んできてくれなかったら、前歯の二・三本は折っていたに違いない。とんだ姿三四郎だったが、この屈辱の敗戦
は、以後何事によらず無謀な戦はけっしてしないという貴重な人生訓を残してくれた。
それもこれも、しかしみな夢のように瞬く間のことだった。夏休みを終えてわずか二カ月後、長兄の転勤につれて思い出の筑豊を離れ、佐賀県多久市に転住する
ことになった。十月初旬、飯塚駅で、春爛漫の時を過ごした“ふるさと”、そして友人たちに別れを告げる列車に乗った。そのとき私は、いつしか遠ざかってい
た二つの花のまぼろしを見た。
過ぐる春の夕べ、畏友・河西万文画伯を京都・祇園の花見小路に誘った。そこで、何たる奇縁、画伯は思いもかけぬ女人と三十年ぶりに出合うことになった。
画伯は常々、祇園の茶屋に上がって実にきれいな舞妓さんを描いた、と昨日のことのように言っていた。私は羨み、何か縁があるなら、ぜひ『一力茶屋』のよ
うな料亭を紹介してほしいと懇願したが、画伯の時空を越えたおおらかさはいつも私をはぐらかし、いつどこでどのような事情で舞妓を描いたのか、さっぱり分
からず仕舞だった。そこで、画伯の話を嘘とは決めないまでも昨日今日のことではないと思ってはいたが、それが何と三十年前のことであったとは!
当夜、祇園に行けばいつも立ち寄る『鳥しげ』の料理に舌鼓を打ってから、これまた好みのクラブ『勝きぬ』に案内したが、それというのも、画伯の審美眼に
かなうイチコ・ママなる女性
を見せたいが一念であった。といって、私がママと特別な関係にあるわけでも何でもない。行くのが年に数回だけではめったなことでは顔も合わさず、最近よう
やく覚えてもらった程度である。だが、私の方は早くから目を留め、私がこれまで見知ってきた女性たちとは明らかに水の異なる別世界で生まれ育ってきたであ
ろう艶やかな姿態と物腰に、時に垣間見ては少年のように魅入られていた。
当夜、私はすでにかなり酔っていた。彼女がいつ傍らに来て、どのような話の流れでそこに至り着いたのか全く分からなかったが、ふと画伯との間で交わされ
る話の筋が分かった時には、あまりの奇縁に感動し、すっかり目が覚めていた。まだ芸大の学生だった河西青年が洋画の大家・林武画伯のお供で茶屋に上がり、
そこで描いた当時の舞妓がこの目の前にいるイチコ・ママその人だったのだ。私は彼女が舞妓をしていたことなど露知らなかったが、幼な顔に戻して舞妓姿を思
い描けば、その可憐さは言うに及ばぬ。河西青年がただただモデルに見惚れて筆が進まなかった様子が目に浮かぶようだった。
当時を偲んで、彼女がいろいろと語ってくれた。林画伯は、処女でなければ絵にならない、と彼女を海水浴に連れ出しては色々なポーズを取らせたそうだが、
その情景などはたちまち目に浮かび、それだけでもすでに一幅の絵であった。そんな思い出話に聞き惚れるうち、この花を最初に手折った人は誰なのかと、今度
はつくづくその横顔に見惚れていた。
『勝きぬ』を出て、階下のカラオケバーに入った。これも彼女の手がける店なのか、しばらくするとイチコ・ママがやってきた。ここで河西画伯の十八番「白い
花の咲く頃」が始まったが、驚くまいことか、いつもはテンポと音程の変調で失笑すら誘うこの歌が、この日ばかりはひと味どころか百味も違う熱唱だった。
画伯が半身に構える。空手の名手でもある画伯のその姿は、それだけではや人を圧倒する。そのまま目をつぶって唄いだしたが、その真摯さに思わず知らず胸を
打たれた。
白い花が 咲いてた
ふるさとの 遠い夢の日 ……
声を張り上げ、まるで怒っているかのような、かみつくような歌い方であった。しかし、見事なまでに悠揚迫らぬテンポで歌詞をしみじみかみしめている……。
さながらオーケストラを従える大歌手のように、伴奏が歌に合わせてついてくる。
白い雲が浮いてた
ふるさとの 高いあの峰
さよならと 言ったら
こだまがさようならと 呼んでいた
淋しかったあの時の
あの白い雲だよ
目を閉じたまま、ときどき躰がわずかに揺れるだけである。遠い昔に馳せる思いは、イチコ・ママの幼き舞妓姿か−。いやいや、彼女との再会に刺激され、この
唯今は胸底深くしまい込んでいるさらに“昔”の《ひとつこと》をこそ思い出しているのではなかろうか。絞り出すような画伯の歌声が私の胸にそう響くのであ
る。
白い月が ないてた
ふるさとの 丘の木立に
さよならと 言ったら
涙の眸でじっと みつめてた
悲しかったあの時の
あの白い月だよ
私も心の中で一緒に唄っていた。そして、ずっと忘れていた、否、胸底深く包み込んでいた飯塚駅での別れの時を思い起こしていた。
汽車が発つとすぐに、私は車窓から身を乗り出して遠ざかる友人たちに手を振った。その時、私は確かに見たのである。ずっと後ろのホームの柱に私に向かっ
て手を振っている一人の女の子を。はっと胸を突かれて思わず見やると、たちまち彼女は柱の陰に隠れ消え、白いスカートだけが柱を巻くように翻ってい
た……。
あれは、カズ子であったか、A子であったか。それともまぼろしであったのか−。
今となってはもはや知る由もないが、未だ世の中の汚濁を知らず、私の心の中にも、また見渡す山野一面どこにでも、白い花が満ち溢れていた頃であった。
幼い青春の日々、それはどんなに未熟であろうとも、今の私を作り出した掛け替えのない日々でもある。この歌「白い花の咲く頃」を唄うと、いつも往事の甘
酸っぱい想いが遥か彼方から舞い戻り、しばし戯れの後、静かに手を振って消えてゆく。切なくもまた懐かしいひとときである。
第八話 「雪のふるまちを」
いつの頃からであろうか。少し大げさに言えば、私には今(現在)という時がリアリティを失い、ただ幻のように通り過ぎてゆく時の流れだけが意識されるよう
になっている。妻がいて、子ども達がいて、茶の間が談笑に沸き立つ正月、そのような幸せな時であればあるほど、この幸せがあっと言う間に過去の一齣にすぎ
なくなってしまうという思いに囚われて仕方ないのである。そしてその思いは幾ばくもせず、確かめるときがやってくる。私はひとりになった静かな暗闇の世界
で、嗚呼、あの楽しかったひとときもやはり幻に過ぎなかったのだと自分に言い聞かせながら、この孤独の時こそが間違いなく“うつつ”そのものの世界なのだ
と胸に問い返し、まぼろしの如く通り過ぎたひとときの幸せをまるで遠い思い出のようになつかしく思い起こしては、娘の嬌声、息子の哄笑、妻の笑顔……、そ
の一つひとつを忘れ得ぬ珠玉とすべくひたすら心に刻みつける作業に没頭するのである。
しんしんと雪降り積もる信州・小諸、旅のなぐさめに入った街外れの小料理店で、カウンターでひとり、ふるまわれた地酒の暖かさにほろ酔って、いつか時間
を忘れていた。さてとばかりに腰を上げたとき、天井片隅の有線ラジオから忍び寄るようになつかしい歌が流れてきた。
雪のふるまちを 雪のふるまちを
思い出だけが通りすぎてゆく……
「ああ、」と、思わず私はつぶやいて、上げかけた腰を前よりもいっそう深く沈めて頬づえをつき、空のお猪口に手を伸ばした。
雪のふるまちを
遠い国から落ちてくる
この思い出を この思い出を
いつの日か包まん
あたたかき 幸せのほほえみ
あれが原体験とでもいうのか、こうしてこの歌に聴きいると、まるでお伽の国に引きこまれるように、たゆたうこともなく、高校時代のあの夢まぼろしのひと
ときにタイムスリップしていってしまうのである。
昭和二八年、深秋冴えわたる月明の下、時に肩を組み合い、私たちは十人近い集団で、この年瞬く間に日本中に美しい白雪を敷きつめていった「雪のふるまち
を」を酔いしれたように歌いながら、佐賀県・小城町の国道を闊歩していた。私たちは大学受験を控えて克己勉励の時であったが、さらなる奮励のために一夜気
晴らしをやろうとて、ある友人宅で歓談飲食に及び、別れの前のひととき、旧制高校生ばりに高歌放吟のため外に出たものであった。このしみじみとした短調の
メロディをまるで寮歌のように皆元気はつらつと謳い上げるなかで、けれど私だけはひとり離れ、少し遅れて涙しながらつぶやくように歌っていた。
春爛漫の時を過ごしたふるさと“筑豊”といさぎよく別れ、いざ新天地と臨んだ多久の町は佐賀から唐津へ向かう唐津線の中頃にあった。私はその炭坑町か
ら、ふたつほど駅を佐賀方面に戻って、北に秀麗“天山”を望む静謐な城下町、小城の高等学校(小城高校)へ転校した。しかし、ここでの生活は、私にとって
苦難のものとなった。
転校して一年後、親しい友だちもでき、さてこれから来年の大学受験に立ち向かっていこうという矢先、はや長兄の転勤が決まって、一家は福岡県・篠栗町へ
移ることになった。ここでまた転校では、受験勉強にも差しつかえる。転校してからの成績も、今一つあがっていない。ということで、私一人、多久の町に残
り、小城での高校生活を続けることになった。ところが、急ぎのこととて寄留先が決まらない。年内は兄の知人宅、正月明けからは、どういう事情でそうなった
のか、学校近くに住む国語のK先生宅に世話されることになった。しかしこのK先生が三月の中頃、突然転任・転住することになって、私は親類・縁者など誰一
人いない小城の町にひとりあっという間に放り出されることになった。家族とともに転居していたらと悔いたが、もはや転居・転校することもかなわなかった。
急きょ探した下宿先は、七十を越えたひとりずまいの老婦人宅だった。だが、ここがまた落ち着かない。食事はおいしく、孫の面倒でも見るように世話しても
らったが、買い物を頼まれたり、リヤカーで手作りの野菜類を運ぶなど、親類・知人宅によくお使いにやらされた。小さな田舎町とて、下宿させてくれるところ
など滅多なことでは見つからない。仕方なく、学校の裏門近くの駄菓子屋さんの二階一室を間借りして移ったのが、三年一学期六月の初旬だった。
しかし、移ってからがまた大変だった。洗濯物は家主の奥さんがやってくれたからよかったが、三度の食事には困り果てた。夜は外食できたが、朝は開いてい
る店などどこにもない。午前中は毎日、前日買ったパンを二、三個かじるだけで、いつも腹の虫を鳴かせていた。それでも最初のうちはまだよかった。一ヶ月も
たたないうちに、仕送りの金だけではとてもやっていけないことが分かり、私は全く途方に暮れた。長兄一人で支えるわが家の経済が精一杯であることは分かっ
ていたし、しかし食費にこと欠くようでは、とても勉強どころではない。仕方なく毎日曜日に、多久市の露天掘り鉱山に出かけて採掘作業に従事し、日当を稼い
だ。そんなことは家族には知らせず、しっかり勉強しているから御休心を、と手紙に書いて、それがせめてもの思いやり、などと思い上がっていた。
そのころ、もう名前も顔もすっかり忘れてしまったが、救い主のように急に親しくなった友人がいた。この友人宅にはたびたび遊びに行き、将棋を指しては夕
食を馳走になった。否、食事時間まで粘って食事をふるまわせたと言ったほうがよいかもしれぬ。どこも貧しい時代であった。十人ほどもいた大家族で、おかず
は味噌汁と山盛りの白菜漬け物だけだったが、その時以上においしい食卓に加わったことは、爾来今日まで、一度もない。弟妹が何人かいて、兄も姉も、どちら
も中学を出ただけで仕事に就いていた。とうてい大学などには行ける状況ではなく、彼は高校に行けるだけで感謝していた。そんな一家が、のほほんと何の疑問
もなく進学の道を考えている私であったのに、当時の境遇に同情し、暖かく迎え入れてくれた。それほど世話になっていながら、小城を離れてから一度も手紙す
ることさえせず、いつか友人の名前も顔も忘れてしまった。−思い出すたび、あまりの申し訳なさに、胸うずく思いである。
夏休みには、家族のもとに帰らず、連日アルバイトを続けていた。鶴嘴で石炭岩盤を打ち砕いては篭一杯に背負って小さなボタ山を上り、頂上から背中を丸め
て一気に篭の石炭を放り落とす。下では女の人たちが、バラバラになって選りやすくなった採石群から良質の石炭を拾い集めるのである。なかなかの重労働で、
時には不覚も取って、罵られ、嘲られた。雨の日など、土砂が粘って、なかなか篭から中身が離れず、篭の重みで勢いあまってひっくり返り、幾度もボタ山を転
がり落ちた。骨身にこたえる毎日だった。終えて帰ってからは全身から力が抜け、とても勉強する気持ちにはなれず、ギターを弾き、俳句を詠んで、すさぶる気
持ちを慰めた。「蛍雪時代」や「学燈」の俳句欄に投稿し、同年齢の寺山修司の名前を知ったのはその頃だった。
そして、夏休みが終わる頃、私は恋に陥っていた。
つのりくるおもひ熱砂で顔ぬぐふ
彼女が前年まで“飯塚市”に住んでいたという奇縁が、一歳年上の彼女と私を結びつけた大きなきっかけだったように思う。けれども、どこでどのように知り
合ったのか、今では全く記憶にない。私たちの逢瀬はいつも、芝居小屋を改良した多久市内の小さな映画館の桟敷席で、彼女が仕事を終えてから大急ぎで作って
きたおにぎりを頬張りながら、鶴田浩二や佐田啓二、津島恵子や桂木洋子といった当時の人気スターによる青春映画を見ては別れる、それだけの何ともつましい
ものであった。二人で一度だけうどん店に入ったのが、後にも先にも一回きりの余所での食事、そんな彼女に、私は生涯にたった一度きりしか書いたことのない
恋文を送った。その内容は今でも鮮明に覚えているが、まさしく一途な思いであった。
冷や水を浴びせられたのは、二学期に入ってからの実力試験の結果だった。それほど力の差はないと思っていた友人たちとの間にあまりに大きな学力差がつ
き、愕然とした。取り返しのつかない夏休みのつけ。何のために当地に残っていたのか、初めてリアルに実感したが、すでに時遅く、その後それなりに頑張って
はみたものの、以後もどんどん順位は下がり、やがては諦めの境地であった。
そんな私を友人たちは変わらぬ好誼で遇し、何かと誘って仲間にしてくれた。あの深秋の一夜も、そうした交友の一齣であった。しかし、すでにして落ちこぼ
れ、家族は遠く、ギターと俳句に心慰め、彼女と会っては心取り戻すという、何かはかなく時が流れて行くむなしさの中にいた私には、それもかえってつらかっ
た。
「雪のふるまちを 雪のふるまちを 思い出だけが通りすぎてゆく……」
痛いほど胸に沁みこむ歌だった。家族と離れ、ひとりこの地にいるのが何か不思議な気持ちになった。流れゆく時間が現実のものではなく、歌の文句のよう
に、まるでまぼろしの時を刻んでいるようだった。いつしか私は、心ここにあらざる気持ちで彼らの後に付いていた。見上げると、時節はずれの雪が降り出し、
やがて前を行く友らをさえぎり、遠ざけていった。彼らもまた、はやまぼろしとなって思い出の中に溶けこんでゆく−。
静かに雪が降っていた……。
雪のふるまちを 雪のふるまちを
足音だけが追いかけてゆく
雪のふるまちを
ひとり心にみちてくる
この悲しみを この悲しみを
いつの日かほぐさん
緑なす 春の日のそよ風
雪国の夜の、忍び寄るような雪の歌はまだ終わってはいなかった。けれど私は、急に躰一杯雪にまぶれてみたくなった。間奏を聞きながら席を立ち、勘定を終
えて戸口に来たとき、終章が始まった。
雪のふるまちを 雪のふるまちを
息吹とともにこみあげてくる……
それを一緒に口ずさみながら戸を開けると、風が出てきたのか、一瞬、ひゅうーっと切ない風音とともに、雪が舞い込んできた。打ち震える胸の期待−、しか
しもちろん、外は雪降るばかりで誰いるはずもない。が、かいくぐるように目を凝らして少し行くと、やがて雪闇を分けて人影が現れ、温もった女の躰が、まぶ
りつく雪を溶き払うように、ひっそり近寄ってきた。そしていつか並んで、ともに雪を踏みしめ踏みしめ、別れの駅への道行きを始めた−。
永遠の別れになるやもしれぬ。二人ともそれはよく分かっていた。多久の地も、小城の地も、ひとたび受験のために旅立てば、私にとって再び戻ることのないか
りそめの地であった。しかし私たちは、ついに一言も交わすことなく、雪道を辿って駅まで着いた。たちまちのうちに汽車は来て、私はデッキで最後の別れの手
を振った。すべらかな頬、涼やかな目−、ひたすらに凝視めくる彼女を見て、私は突然、このただ今をまぼろしだと思った。この清しい人を私は知らない。これ
は彼女であって彼女ではない。確かに二人は人目を忍び、囁き合って、その温もりを肌身近くで通い合わせた。けれど私は、その躰のどこにも、指先ひとつにも
触れたことさえなく、彼女の家族、彼女の仕事、彼女の住む家、彼女の悩み、その喜びも悲しみも、何も知らない。嗚呼、この未知なる人が今、未知なるまま私
から離れようとしている。夢まぼろしとしか思えない……。一度でよい、その躰に触れておきたい−。と彼女の頬に手を差し伸べたが、もう届かなかった。たち
まちのうちに汽車は出て、そして、たちまちのうちに、彼女も駅も降りしきる雪の中に消え去った。
多久での出来事、小城での出来事、すべてがもはや、遠いまぼろし−。
雪のふるまちを 雪のふるまちを
思い出だけが通りすぎてゆく……
第九話 「この世の花」
「そこ、きちっと座って!」
苛立たしげな声でその女医は言った。叫んだと言った方がよいかも知れぬ。
共済組合の指定する人間ドックに入ったときのことである。眼科検診のとき、若い、といっても三十代半ばくらいの女医に突然命令されて、私は不意をつかれ
驚いた。何を威張っているのか、否々、怒っているのかと思ったが、それでも素直に椅子に座ったところ、すぐに追い打ちをかけられた。
「そこにアゴ載せて……、もっときちんと載せて!」
不遜な医者が五万といても、これほどまでのは珍しい。「何だ、その態度」と言い返したいところだったが、ここは辛抱しどころと、いつものように我慢し
た。が、あっと言う間のおざなりの検眼が終わって、
「異常なし、はい次ぎ」という手仕舞方にはさすがにぐっときた。そこで、間髪を入れず、言ってみた。
「この頃、目がかすんで、虫が飛ぶように黒いものが浮かぶんですが……」
「……」
「何でしょうか。心配ないでしょうか」
ここで女医氏、黒眼鏡越しに私をぎろりと視た。
「飛蚊症です」
「ヒブンショウって?」
「飛蚊症です」
「で、ヒブンショウって、なんですか?」
「……」
予想に違わず、問答無用、お後がつかえているからぐだぐだ言わずに帰んなさい、とばかりの態度である。誰から見ても理不尽そのもの、それではひとこと言
上せねば……。いざとなれば殴り飛ばしても悪くはない。神様だってお許しくださる。これが、あまりな理不尽に出合って耐えに耐えた後の私のいつもの考え方
である。だから、強い。
「ねぇ、あんた」とついドスを利かせて詰め寄る姿勢を見せたとき、
「すいません、患者さん。それ、私から説明します」
横から慌てて取りなす若い声が聞こえた。私はすっかり看護婦の存在をどこかに措いてしまっていたが、それはまたかわいらしい小柄な若い娘だった。
「すいません、それあちらで説明することになっています、どうぞこちらへ」
と、私を促す。でも、それくらいのことでは今さら納まらない。それでもわざわざ目元をゆるめて
「センセイ、ヒブンショウって、治るんですか?」
「……」
「何が原因ですか、治るんでしょうか?」
「老化です」
「老化って……、どうやったら、治るんですか」
「……」
これは真剣に訊きたいのだ。
「どうやったら治るんですか、教えてください」
きちんと応じれば、それで許そうと一方でまだ寛大な気持ちをもっていたのだが、女医氏、またぎろりと目を剥いて
「治りません、老化です!」
ここまでくれば、もう駄目である。ここでたしなめなければ、世のため、人のためにもけっしてなるまい。相手が女では少しばかり勝手が悪いが、しかし立派
に医者である。私はついと立ち上がって詰め寄った。相手を威嚇しようなどという気持ちは、さらさらない。引き金をうたれたときの私の癖で、いわば条件反射
である。妻子に言わせると、こうしたとき私の形相は恐ろしいほどに豹変する。自分ではなかなか自覚できないが、ときどき相手の反応でそれを察知する。この
ときもそうだった。検眼台の向こうで、あの傲岸不遜の女医氏が椅子から跳ねて後ずさった。こちらが驚くほどのおびえ様に、かえって一瞬私がひるむ。
「あっ、す、すいません、ムネウチさん。すいません、こちらにおいでになってください。私が御説明いたします、私に説明させてください」
と再び若い看護婦の、急きこんだ声が聞こえてきた。思わず振り向くと、彼女はまるで手をあわせんばかりに、懇願する目で私を誘っている。その必死の表情
を見て、私はたちまち了解できた。こうした出来事がここでは再三再四度々起こって、か弱い看護婦たちがいつも懸命のフォローをしている。もしここで私が退
かなければ、あとでどんなにかいたぶられるに違いない……。
もともと馬鹿を承知の幕開けである。ことが見えれば鉾を納めて幕引きとしよう。女医奴に覗られぬようにウインクをして、ちょっと笑顔を送ったところ、看
護婦さんは一挙に弛み、次にはにゅっと微笑って応えてくれた。大人にはないそのはにかみの、何とまぶしいかわいらしさ。そのおさな顔をいとしく視るうち、
これはまたどうしたことか、何か一瞬の間に連想がはたらいて、思い出すことなどほとんどなくなっていた二十歳のときのあのくすぐったい思い出が、潮満つよ
うに湧き上がってきたから妙である。
手術を終えてからいつの間にか眠りこみ、気がついたら一夜明けてうっすらと朝だった。隣のベットには、高校三年生の妹が、手術後とは思えぬ安らかな顔で
まだ眠っていた。そうだ、兄妹そろって枕を並べて盲腸を切ったのだった、と慌ただしかった昨日一日がつくづく思い返される。
乱暴な話であった。腹痛でうずくまった妹を病院に連れていってひとり慌ただしく帰って来た母が「急性盲腸炎ですぐ手術することになった。それで、お前も
一緒にやってもらう。さ、早く準備しなさい」というのである。あっけにとられたが、いつも痛い痛いと言っている話を医者にしたら、そりゃあ慢性盲腸だから
早く切ったがよい、付添いの世話はどうせの一緒、だから一緒にやってしまえば後が楽、ということになり、もう入院手続きも済ませてきた、と全く否やを言わ
せない。あれよあれよと思う間に、私は病院に連れていかれ、診療室に入れられていた。
それからがまた、いっそう何のことやら、呆然とする間の出来事だった。手術の前にあそこを剃りますから、とそんな説明があったかなかったか、たちまち
ベットに寝かされた私は、看護婦たちからズボンとパンツをずり下ろされ、いきなりゾリゾリと剃られ始めた。まだあそこの根元あたりでパンツが止まっている
からと多少の安心も束の間、そこまで剃り終えると、今度はいよいよ無防備にして全部陥落させようとの勢いである。彼女たちの会話でそれが分かった。
「今度は、ほら、あんたがやりんしゃい」
その声で、真っ赤になって天井を見上げるばかりだった私も、ようやく我に返り、そっと下半身の方へ目を向けると、ここで初めて、事態がはっきり見えてき
た。にこにこご満悦の年かさ二人の看護婦が、見習いだろうか、まだ学校(中学校)を出たほどの子どものような若い看護婦に剃刀をもたせ、それいけ、それい
けとけし立てている。若い看護婦さんは、無理矢理持たされた剃刀もつ手を振りほどこうとするが、先輩達に押さえられて逃げも叶わず、ただ嫌々をして、ベッ
トの縁でもがいていた。彼女の目が、ふっと私の視線に気づく。みるみる赤く染まって、棒立ちになって、目を逸らす。
そこへ、ちょうど院長先生が戻ってきた。元軍医だったとかの、色黒でいかにも武骨な体躯に似つかしい野太い声で「終わったか?」と覗き込んだが、途端
に、「馬鹿ーっ!」と、一喝した。
「そんなとこまで剃る奴あるか、もういい、もういい」と言った後、こんどは大声で笑い上げた。そして、どんな意味があったのか、私にウィンクひとつ送って
寄こした。その後は、解き放されたようにほっとしたけなげな顔と、無念そうな二つの顔とが入り乱れてそそくさ私の下半身の後始末する様子を、今度は私が心
楽しく眺める番だった。
それから小一時間もしないうちの手術だった。妹が先で次が私、二、三十分位だったろうか。初めに海老のように身体を折り曲げて腰随に麻酔を打たれるとき
二、三度魚のようにぴくついたが、後は何の苦痛もなかった。それよりも、あのようなことがあった後だったので、手術台で仰向いたとき、局所に意識がいって
仕方なかった。他の看護婦なら構わないが、あの看護婦さんには視られたくない、と妙な羞恥心にとらわれた。ふわっと、ガーゼのような軽いものが載せられる
感触があったときには、本当に安堵した。
夕方、麻酔が切れて痛みが襲い始めた頃、あの若い看護婦さんがやってきた。私附きになったと挨拶されたときは、ただひたすらに心が躍り、痛みなどどこか
へ飛んでいった。
「お通じはありましたか」と、さわやかな問い方。
「おつうじって?」
「ガスのこと」
「ガスって、おならのことですか」
ふふっと笑って、
「そう、お通じがあると、もう安心。お食事ができるんです」
しかし、遂に水一杯飲めないまま夜が来て、朝が来た。
そして、病院内に人の動く気配が感じられるようになると、すぐに彼女がやってきた。
「おはようございます。検診です」
そっと額に載せる掌の温もりが、何とも優しく心地よい。
「お熱はありませんね。でも、一応計りますね」と言いながら私の寝間着の襟元をはだけ、そっと体温計を脇の間に包み込ませる。
「お通じは、ありましたか」
「それが、まだ」
「じゃあ、浣腸しましょう」
「……、……」
「お熱もないし、傷跡は順調、あとはお通じだけね。浣腸すれば、すぐガスが出て、お食事ができるの。最初のご飯はとってもおいしいですよぅ」
腹をすかした術後の食事はそれはおいしいに違いない。だけど、浣腸と聞いて、少しふるえた。この人にやってもらうのか。でも、あの恥ずかしがりや、できる
のかしら。どんな顔してやるのだろう、と一瞬めくるめくように頭が回転したのも束の間、「はい、お熱は三五度六分」と、抜いた体温計を読み上げながら、毛
布をめくって、あれよあれよもあらばこそ、あっと言う間に挿し込まれた。いつでも準備OKだったとは、これはさすがに勝負にならぬ。
小柄な躰を、さわやかに、きびきびと、すっと来てすっとかえる。そんな彼女が、退院前日の夜、妹がトイレに立った合間を縫うようにやってきた。退院してし
ばらくは無茶しちゃ駄目よ、などと明るかったが、突然しんみりとなって、ぽつんと言った。
「あたし、学校に行きたい。家はみんな中学までしか行ってないの」
「……」
返す言葉が見つからなかった。眸がかすかに濡れているようだった。
「妹さんと仲よかとね」
「ひとりっきりの妹だから」
「……」
「……」
彼女を屋上に誘いたいと思い、私は躰を起こして、半身になった。そこへ妹が戻ってきた。「じゃあ、お二人とも、お休みなさーい」と、彼女はすっと戻って
いった。
住み込み見習い看護婦の彼女の夜の楽しみは、屋上で星空を眺めることだった。と彼女が言っていたのを思い出し、私は二階の病室から階段を上って、そっと
屋上に忍び出た。七夕様の頃なのに、夕べの重さをそのまま下ろし、星ひとつない梅雨闇だった。そこに、かすれて低く、忍ぶような歌声が流れていた。
あかく咲く花 青い花
この世に咲く花 数々あれど
涙にぬれて 蕾のままに
散るは乙女の 初恋の花
すがりつくように何かを求めている彼女の気持ちが、若い私にも伝わってきた。何の脈絡があるのだろうか。この年、二浪の揚げ句に入った地方大学の、とり
わけ寮生活の殺伐さが思い出された。旧制高等学校の気風が残っているのはよいにしても、ショート・ショートの遊郭通いに、夜中の十時頃から高下駄履いてが
たぞろがたぞろうち揃って寮を出てゆき、深夜がたぞろと次々帰ってくる。その年の参院選で、初めての一票を売春防止法を掲げる藤原道子に捧げた私の胸に
は、毎夜耐え難く響くのだった。彼女の歌を聴くうちに、もう一度やり直そうという気持ちが沸々と起こってきた。けれど、そっと隠れ見るだけで、彼女に声を
掛けることはその夜とうとうできなかった。
翌日、退院のとき、彼女は手を振り続けて見送ってくれた。しかし十月の末、大学を中退して戻ってきたその足で赤いバラの花束をもって病院を訪ねた時には、
彼女はもうそこには居なかった。あの夜屋上で声をかけ得なかったことが、返すがえすも悔やまれた。将来を語り合って彼女を励ましてやりたかったが、願いは
遂に叶えずじまいに終わってしまった。
翌年三月、私は大学再受験のため、一路東京へと下関を発った。
いつしか記憶の片隅に埋もれていた物語。それが不意に甦ってきたのは何ゆえだろうか。醜悪なる介添人(女医)から受けた侮辱の傷跡は、たとえおもては取り
繕えても、やはり何事かをもって補わなくては癒されない。私の内なる自我は、面影連なる人をよすがに、善美なる人を一瞬の内に引き出してそれをなそうとし
たのかもしれぬ。あのとき彼女は、私にとってまさしくこの世の花であった。
私は帰りしな、あの看護婦さんに送るべく、辺りで一番瀟洒な花圃店に入り、赤いバラの花束を求めた。
第十話 「かあさんの歌」
「戦後五十年・不滅の歌謡ヒットパレード! 名曲の感動をあなたに」とは、戦後五十年にちなんだ、あるテレビ曲の歌番組である。時期が時期だけに、毎度
お馴染みのナツメロでも普段よりいっそう感慨深く、ほろりとつい涙もこぼれる。田端義夫の「かえり船」、竹山逸郎の「異国の丘」、美空ひばりの「悲しい
酒」などを聞くと、もうたまらない。
こうした歌番組の中に、先日ちょっと珍しく、唱歌・童謡を取り上げたものがあった。私はそこで、久しぶりに山田耕筰の「砂山」を聞いて、思わず、じーん
ときた。
海は荒海 向うは佐渡よ
雀なけなけ もう日は暮れた
みんな呼べ呼べ おほしさま出たぞ
周知のように、「砂山」には中山晋平と山田耕筰がそれぞれに作曲したものがある。私は哀愁に満ちた山田耕筰の曲の方が好きであるが、どういう訳か、明る
い中山晋平の曲がよく歌われて、こちらの方は出番が少ない。その日、珍しく山田耕筰の曲が取り上げられた。この歌を私が好んで聴いたのは、高校時代から長
い浪人時代にかけてであったが、とりわけ童謡歌手の田端典子の歌を聴くのが好きだった。どうして童謡歌手の歌声がよかったのか、その訳はよく分からない。
ただ、少女の声でありながら、どこか帰り行く先がないような哀愁を感じさせる唄いぶりに、何か引き込まれるように聴き入っていたことを覚えている。その後
彼女の名前も声もほとんど聞くことはないが、もう一度彼女の「砂山」を聴いてみたいものである。
こうした、子供時代を偲ぶ歌の数々の終わりに、「かあさんの歌」が登場した。それまでの演出がよかったのか、出演者の感情が高まって、歌いながら歌い手が
泣き、聴きながらゲストたちが泣きだした。つられるわけでもなく、私も思わず涙をこぼしていた。ふるさとが恋しい、子どもの時が恋しい……。が、それもこ
れも皆、果ては母さんにつながっていく。誰が何と言ったって、心の底から一番恋しくなるのは、やっぱり母さんなのだ。まして、母さんを亡くし、母さんに不
孝を重ねた者たちには、これほど胸を締めつけてくる唄はほかにけっしてありはしない。
母さんは 夜なべをして
手袋あんでくれた
木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて
せっせとあんだだよ
ふるさとの便りはとどく
いろりのにおいがした
母が逝ってはや十五年。その遠い思い出を辿って行き着くところは、窮乏極まった時代の、母には辛く、しかし私にはどこまでも甘い、あの道行きである。戦争
末期から戦後しばらくの数年間、小学児童だった私は、よく母に連れられ、農家への買い出し、山や林への薪
拾いに行ったが、私たちはその道中の往き帰り、いつもしっかり手を繋ぎあっていた。私の母の思い出、私と母の絆は、どちらもここから始まり、他のどこから
も始まらない。私には、これを遡る母の記憶は全くないのである。
当時、わが家は千葉県市川市に在住していたが、芋や米麦、野菜の買い出しは、丘陵を越えた近在の農家に行くばかりでなく、時には遠く京成成田線のみもみ
(実籾)や大和田まで電車に乗って出かけていった。そして、みもみや大和田に出かけた時は、必ず薪拾いをするのであるが、みもみなどは当時、駅を降りて道
なりにゆくとすぐに鬱蒼とした森に連なり、子どもの私には全く暗く寂しい山奥の大田舎だった。私たちは森をかき分けかき分け、時間を惜しんで折れ木や朽ち
木、それに松ぼっくりなどの薪を拾った。余談だが、私はそこで森をわがものとするたくさんの動物に出合い、とりわけ蛇のとぐろ姿に飛び上がって、何か生き
物への畏怖のようなものを初めてもったように覚えている。
背中いっぱい背負って、帰りはいつも夜中だった。今のように電灯などの明かりはない時代だったから、山道や町外れの夜道はとても恐かった。小学生ごとき
を連れていたとて、何の役にもたちはすまい。が、母は私の手を引いているだけで心丈夫になるというのか、いつも私の手をしっかりと握りしめ、めったなこと
で私を離すなどということはしなかった。私もまたそれなりナイトの気分で、母の手を捕まえて離すことなどさらさらなかった。人と行き交うことはめったにな
かったが、それだけに、時おり暗闇の中から人影がぬっと分け出てきたときには、口の中がくわーっと火を噴き、頭は打たれたように響いて、真冬の極寒時でも
防空頭巾の中は汗でびっしょりになった。夜道を行くとき、繋ぎ合った私たちの掌はいつも湿って、乾くときなどしばしもなかった。
こうして苦しい時代だからこそ生まれた母子の固い絆ではあったが、私は思春期に入って人並み以上の反抗期を過ごし、さらに大学受験に失敗して長年の浪人時
代を送るなどして、母には大きな心労を与え続け、幾度も絆を壊しかけた。
振り返れば、昭和二九年三月、私が高校を卒業するとき、わが家に再び春がやってきた。復活なったNHK国際局に呼び戻されることになり、父が本徳寺での
長い隠遁生活を終え、月初めに上京した。弟妹の世話から解放された長兄は結婚し、博多でデザインの仕事をしていた三兄もようやく進学できるようになって東
京の大学(國學院大學)に入学が決まった。あとは私が受験に成功しさえすれば万事がOK、母には心休まる春が来るところであった。
しかし、私は九州大学への受験に失敗した。そして、父と三兄の居る東京に出て大學受験に備えることになった。ところが、六年ぶりに一緒になった父と折り
合えず、口論・衝突を繰り返し、一時は家を出て新聞販売店に住み込むなどさんざんな生活になり、結局その年は受験どころではなく、一校も受験することさえ
できなかった。私は父・三兄と別れて母の居る下関に向かい、今度は母の元で、地元高校の補習科に通って受験勉強をすることになった。
だが、すっかり学力も落ちて勉学意欲の低下した私は、二浪したのだから今度は東大をと願う母の気持ちを裏切り、再び受けた九大を落ち、地元の国立大学に
やっとこ合格するという仕儀だった。親類・縁者・近隣に対する母の肩身の狭さは想像に難くなかったが、私には他になしようとてなかった。だが、親不幸とは
重ねるものなのか、今度は母の反対にもかかわらず、私は再度の受験を目指してわずか半年でそこをやめ、昭和三二年三月、勇躍上京して東京教育大学への入試
に臨んだのであった。
しかし、思いとは裏腹に、私はその受験に失敗し、何と四年目の浪人生活を余儀なくされるという大失態をやらかした。
茫漠たる気持ちであった。もう国立大学への進学は無理かも知れない。私立に行くためには、せめて、初年度の入学納付金ぐらいは稼がなくては……。その
年、父はNHKを辞めて豊橋の愛知大学に移り、東京・武蔵野の二間の借家には、大学四年生になった兄と、私のために進学を一年遅らされて当時タイプの学校
に通っていた妹の三人暮らしだったが、あまりのふがいなさに、身の置き所もなかった。それもあって、言い訳がましく仕事しようという気持ちがことさら湧い
てきたのかも知れない。私は三月の下旬、三鷹駅前の牛乳店で牛乳配達をやることにしたが、これはまた心底辛い仕事だった。
起床は夜中の三時、店に着くのが三時半。そして冷蔵庫から牛乳瓶を四箱自転車の荷台に乗せて明け方前に配達に出るのであるが、これを三往復する。たかが
四箱とはいえ、素人の悲しさ、自転車はずっと酔いどれて躰は緊張の連続である。また、当時の寒気は昨今と違って身を裂く厳しさがあった。手袋などもたない
裸の手だったから、初めの数日は、自転車の運転中に突然痛みが走って手の甲が一文字に切れ、見る間に血が滲み出して、それが凍る。結局そこは二ヶ月しかも
たず、職安で荻窪の印刷所を紹介してもらい、卒業アルバムなどを作るコロタイプ印刷の仕事に移った。
ここでの仕事は、さして疲れる労働ではなかった。しかし、八時に出掛け、夕方六時に帰宅するというペースでは、やはり受験勉強の時間はほとんどとれない。
私は小城での生活を思い返しながら、内心忸怩たる思いであった。これでは(三教科の)私立大学でも落ちてしまう……。あれが“逃避”というものなのか。こ
れでは駄目だと重々分かっていながら、私はしばしの憩いを求めて、駅前の映画館にちょくちょく通うようになっていた。同世代の裕次郎が演じるさっそうたる
若者ぶりをうらやみ、錦之助や橋蔵の時代劇で憂さを晴らした。
八月の暑い盛りだった。母から、赤いインクで宛名書きされた手紙が届いた。私はそれを映画館までもってゆき、映画の幕間に開いてみて、愕然とした。中身
もみんな赤いインクで書かれていた。兄と妹のどちらかが心配して知らせたに違いない。「勉強しないで、映画館ばかり行っているようだが、もう我慢できな
い。親子の縁を切る」と、それはまた激烈な内容だった。母としたら、堪忍袋の緒が切れた、というところであったろう。八月まで働き、それから本格的な受験
勉強をと考えていたのが、いつの間にか、どんな大学でもいい、もうしばらく仕事して金だけは貯めておこう、という甘い考えに変わっていた。タイミングのよ
い檄文だった。踏ん切りがつき、私は八月一杯で仕事をやめ、いよいよ最後の受験勉強にとりかかることになった。
しかし、やっぱりどうしても身が入らない。妹と一緒に予備校の模擬試験を受けに行っても、成績は全く振るわない。こまめに手紙をくれる母だったが、その
後ぴたりと何も言って来なくなったのをよいことに、またぞろ怠け心が台頭して、映画館などにも時には行くなど、気持ちはあれども如何ともしがたく時が流れ
る、といった状態になりかけていた。
寒さが沁み始める十一月の初めだった。母から、私宛に小さな荷物が届いた。開けてみると、分厚い手編みの手袋とセーターが入っていた。手紙はどこにも
入ってはいなかった。母には見捨てられてしまったようにも思っていたので、私はしばし、二つの手編みものを凝視めたまま、母に思いを馳せていた。すると、
これもまた母から送り届けられるかのように、けっして忘れてはいけなかった、しかしいつの間にか忘れてしまっていた、あの重苦しい本徳寺での一齣が甦って
きた。
それは、高校卒業の年(昭和二九年)、受験を終えて、母の居る本徳寺に仮寓していたときのことである
母の実家には、私とちょうど同じ年のイトコがいた。その年はからずも同時に九州大学を受験したが、明暗分かれ、見事に合格したのはイトコの方だった。す
でに深夜のラジオ放送で結果を知っていた私たち母子は、その朝、何となく朝起きしてしまい、朝日の射し込む寺の縁側に出て、ぽーっと気抜けしたように、語
る言葉もなく庭先に目を向けていた。と、寺の入り口あたりに、誰か竹箒で掃いている。イトコの母親(母の義姉)だった。私たちと目が合うと、彼女は軽く会
釈し、ずっとそうしていたという風にかがみこみ、まだそれほど伸びてはいない少しばかりの草をつまみ、石ころを拾った。別に勝ち誇った顔をしているわけで
はなかった。戦中から戦後、そして父が戻ってからもずっと、なにくれとなく「本徳寺」の世話を母の実家がしてくれていたし、それはそれで自然の成り行きで
あったが……、母は、それほど遠くもないのに、会釈を返しただけで、言葉をかけることもなく、黙っていた。見てはならないものを見るようにそっと覗き見る
と、母はきゅっと唇をかみしめ、身じろぎもせず、義姉の方を凝視めていた。初老の母の、その柔和な顔に浮かぶ峻烈な切なさ……。
あのとき、今度はがんばるぞと心に誓ったのではなかったか−。あれからすでに三年有余。痛いほど母の気持ちが伝わってきた。どんなに自分が不孝をなして
いるのか、切ないまでに母に詫びる気持ちが湧いてきた。とても十分には言い表し得ないが、そのとき私は、恐らく、初めて何ものにも代え難い掛け替えのない
存在として母をとらえたのではなかっただろうか。
後年、母をなくしてからしばらくの間、私は本徳寺での一齣を思い出しては涙し、涙しては甦らせて、母を偲び続けていた。
母さんは 夜なべをして
手袋あんでくれた
木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて
せっせとあんだだよ
ふるさとの便りはとどく
いろりのにおいがした
母から贈られたあのときの手袋とセーター。贈られたときの思い出だけを残して、とうの昔になくなっている。いつ、どこで、どのようになくなったのか、全
く覚えるところではない。こんな息子が、親不孝者でなくて何であろう。
「母さんは夜なべをして手袋編んでくれた 木枯らし吹いちゃ冷たかろうて……」
年追う毎に亡母は恋しく、いつ、どこで、どのように歌っても、瞼が熱くなってどうしようもないのである。
第十一話 「越後獅子の歌」
辛い出来事、悲しい出来事、みじめな出来事−。どのような出来事もしかし、遠く過ぎれば、その大方は記憶の彼方に去り、あるいは懐かしい思い出の世界に
移っていく。これが時の流れというものであろう。だがときには、どれほど年経ても往時の情景そのままに、思い出すたび胸苦しく迫ってくるものがある。まし
てそれが一つの歌と重なり合うとき、その歌を聴くにつけ、唄うにつけ、記憶はさらにあらたまり、より鮮明になっていく。
笛にうかれて 逆立ちすれば
山が見えます ふるさとの
わたしゃ孤児 街道ぐらし
ながれながれの 越後獅子
今日も今日とて 親方さんに
芸がまずいと 叱られて
撥でぶたれて 空見上げれば
泣いているよな 昼の月
「越後獅子の歌」。先夜、NHKテレビの美空ひばり追悼番組が、第一章を少女時代の、第二章を後年の、時代を越えた二つの歌唱場面を一つに繋いで聴かせて
くれた。思うに、ひばりにとってこの歌は、彼女の遠い昔の心の風景そのものなのではなかったか。後年の沁みじみたる唄いぶりには、対比の妙、ひばりの境涯
などが重なって、思わず知らず泣かされたが、それはまた私にとっても、遠いあの日の時々刻々をたび毎に刷り直す、忍ぶに難い歌なのであった。
春めいた生ぬるさと冷え冷えた寒気が混じり合って妙にうすら寒い曇り日だった。昭和三三年三月二十日、その日は、前年失敗して今度は最後の受験と心に決
めて再挑戦した東京教育大学の合格発表日で、お昼を少し越えた頃、私は山手線大塚駅を下車して、のろのろと都電大塚駅前に向かっていた。東京教育大学へ
は、中央線でそのままお茶の水まで行って地下鉄丸の内線に乗り換えればよいし、新宿から池袋に回り、やはり丸の内線に乗って茗荷谷駅で降りれば、それでも
よかった。どちらから行っても同じほどの時間で、それがまた一番早い方法だったが、私は池袋をやり過ごし、次の大塚までわざわざ回ってそこから都電に乗っ
て茗荷谷まで行くという、一番遠回りの行程を選んでいた。
試験の出来具合はどう考えても昨年以上のものではなかった。合格は万に一つないと確信していた。大学までの道のりが、とてつもなく近いような遠いよう
な、そこに行き着くことが怖かった。まわりの風景は見れども見えず、都電乗り場に立ってからも、うつろに何台も電車をやり過ごすばかりだった。母の顔、兄
の顔、妹の顔、そしてこれまでのこと、明日からのこと……。さまざまな思いがよぎっては消え、消えてはよぎり、その合間を縫ってやるせない絶望感が襲って
くる。
どれくらい過ぎたのだろうか。ふと、どこかで小さな歓声とまだらに手を打つ音がして、我に返った。振り向くと、一つ通りを越えた向かいのビルの合間に、
ちょっとした人だかりがしている。今ではすっかり変貌して華麗な高層ビル繁華街だが、当時の池袋・大塚近辺は、駅近くにもまだ崩れ落ちたままのビル跡がい
くつか点在し、なお戦禍の跡を色濃く残すモノクロの世界があった。その焼け跡の一つに、二重三重ほどにまだらな人の輪ができて、何やら見入り、そしてとき
どき小さな拍手を送って囃している。遠く垣間見ると、それは猿回しだった。
動かなかった二本の足が自然に向いた。通りを渡って人の輪のうしろに立つと、赤い紐で首をつながれた小さな猿がテープレコーダーから流れる唄に合わせて、
飛んだり跳ねたり、宙返ったりしている。その猿の躍動を眺るうちに、立ちん坊の疲れがどっと出て、私は輪をかき分けて前に出た。最前列には、ビルの礎石跡
がちょうどほどよい腰掛けになり、汚れた白装束の傷痍軍人が何人も前屈みに座って“ショー”を見ていた。その一隅に私は座った。ずーんとコンクリートの寒
気がたちまちズボンを抜けて尻の肉まで伝わってきたが、腑抜けたようになっていた私には、それもかえって心地よい。
眺るともなしにサルの踊りを眺るうちに、小一時間も経ったろうか。猿回しの大きな声に、目が覚めたように意識が戻った。
「いよいよ、お別れの時がきました。サル奴の最後のひと踊りが終わったら、拍手喝采、どうぞ過分なお捻りをお願いしたぁーく、おん願い奉りまぁーすー。そ
れでは、今は盛りの若き歌姫、美空ひばりの越後獅子の歌とござぁーい」
笛にうかれて 逆立ちすれば
山が見えます ふるさとの
わたしゃ孤児 街道ぐらし
ながれながれの 越後獅子
ギターをつま弾きながら幾度も鼻歌まじりに唄った歌で、悲しい歌だと思ったことは一度もなかった。それがこの時、聴くや否や哀しくなって涙があふれ、ど
ういう訳か、突然、この歌に纏わる思い出が甦った。
高校二年時の正月、私は妹を連れて小城の町まで映画を観に行った。たしかひばり映画の三本立てだったように思うが、そのうちの一本の主題歌が「越後獅子の
歌」だった。当時、盆や正月に映画館に行くのは最上級の娯楽で、館内は満員、私たちはずっと立ち見で過ごしたが、感動的な場面になるたびに立ち見席はどよ
めいて揺れ、時には人垣が崩れて横倒しになるほど危険だった。妹が人波に押しつぶされないようにと必死に抱きかかえているうちに、後にも先にもそれっきり
の経験ではあるが、洋服のポケットから財布をすり取られ、私はなけなしの小遣い銭を失った。
甘辛い思い出が何をよすがに現れ出たのか。ふいと湧き出たそのエピソードが緒となって、やるせない悔恨とともに、再び〈来し方〉に思いが至る。上京、父
との葛藤、帰省、補習科時代、入学・中退、職安通い、牛乳配達、印刷作業……。
印刷工場での情景が甦った。インクの匂いが充満する薄暗い印刷室の片隅で、六十を越えた熟練工から新参の私までの五人がめいめい、そこここの機材に腰掛
けて、黙々と昼を取っている……。誰もみな、いつも版で捺したように、コッペパン一つだった。次いで、日光への職場慰安旅行の情景が浮かび上がった。
それは、中小印刷会社の組合連合組織による集団合同バス旅行だった。ちょうど観光バスでの見物旅行のように全くせわしないものだったが、長い間浮かれた
気分とは全く遠い生活を続けていた私には、それでも充分楽しめた。華厳の滝も美事だったが、何よりも感動し、胸躍らせたのは、若い女性達の開放的な姿だっ
た。辺りかまわず高声で交わす会話と哄笑、色とりどりの半袖シャツやショートパンツ、そこから抜け出る両の手・両足−。浮き立つような華やぎが、胸底深く
刻みこまれた。今、その情景が浮かぶや虚しく、何故か、青春とは全く杜絶したとの思いが募り、絶望感が極まった。
今日も今日とて 親方さんに
芸がまずいと 叱られて
撥でぶたれて 空見上げれば
泣いているよな 昼の月
私のすぐ目の前だった。小猿は手をかざし、空を見上げた姿勢のまま、静止した。第二幕のエピローグであり、最終幕のプロローグでもある。間奏が流れる
間、早くも名残を惜しむような、何か切ない雰囲気が周りに漂う。この時、どうしたことか、小猿がつと小走って腰掛けた私の前に立ちはだかった。そしてじっ
と凝視めてくるではないか。媚びるような、また必死のような眼差しだった。が、それも一瞬、私がその意味を悟ったときには、小猿は手綱を引かれて後ろに強
く引き戻されていた。
最後の芸が始まった。
ところ変われど 変わらぬものは
人の情けの 袖時雨
ぬれて涙で おさらばさらば
花に消えゆく 旅の獅子
踊りが終わると、観客の中からぱらぱらと銭が投げられた。猿回しは動かず、それを小猿が一つ二つと拾っては戻って主人に渡す。その小猿が、近くの銭を拾
うとき、再び駆け寄り、首を傾げて私を見上げた。
小猿が望んで止まないもの、それは、上着のポケットの中に入っていた。昼食用に駅の売店で求めた餡ぱんだった。私はもそもそとそれを取り出し、割って半
分を小猿に呉れた。小猿はせわしく受け取り、一瞬口に入れかけたが、手綱を引かれて振り返り、一目散に主の許に駈けて行った−。
昭和三三年三月二十日。絶望の思い極まるこの日の時々刻々は、当日後刻のどんでん返しがあったにも拘わらず、その後私にとって心中深く、大いなる原体
験・原風景となっていった。どれほど時経ても、またどれほど豊かに幸せな時でも、思い出すたび忍ぶに難く、唄と踊りと小猿の瞳に収斂されて、再び情景があ
らたまり、より鮮明に刷り直されるのである。
第十二話 「人生劇場」
人生とは分からないものである。この年になればそういう経験も幾度かはもって鍛えられ、少々の意外性には驚かなくなっているが、まだ二十歳そこそこの若者
であった。本当に飛び上がらんばかりに驚いた。いや、私は完全に飛び上がって驚いた。名前が、合格者掲示板にきちんと載っているのである。
夢ではないか、間違いではないか、と何度見直しても確かに“ムネウチアツシ”となっている。私は高まる鼓動を抑え、そこでひと跳ね飛び上がって体勢を整
えてから、数十メートル先の校門まで走り、そこから加速して地下鉄「茗荷谷」まで一気に走り抜けた。しかし、切符を買おうという段になって、見間違いで
は、同名異人では……、と急に不安になった。
今来た道を逆に走り戻った。恐るおそる今度は受験番号までしっかり確かめる念の入りようで確認したところ、けっして間違いではなかった。不思議なものであ
る。急に視野が開けて辺りが見え、構内が透いて見えるようになった。試験会場だった建物が見え、その向かいの建物が見え、その間を抜ければ、何やら下って
林のような木々の茂みに通じている。何か“大学”の息吹といったものが迫ってきた。母や兄妹が家で待っていることも忘れて、いつか二つの校舎を抜けて、緑
の立て込む方角に向かっていた。
林の中の行き着くところに、周径四、五百米ほどの池があった。緋鯉が泳ぎ、真鯉もいる。橋を渡って池の中島に入ると銅像があり、見上げれば、柔道創始者
の加納治五郎の勇姿であった。加納治五郎が東京教育大学の前身、東京高等師範学校ゆかりの人物であることを初めて知り、胸を張ってさらに見上げると、木々
は空に向かってどこまでも高かった。感動とともに、発句した。
学び舎は樹齢百年そびえ立つ
遅れた青春時代が始まった。トンネルが長かった分、開放感はまた大きかった。「“東京”生まれの“九州”育ちは男の最高の氏素性」などとほざいてPR
し、友を求めた。いつの間にか、すっかり“田舎者”になっていたが、〈内から外へ〉もの眺る視線が変わり、そのようなことなど全く無頓着に、駆け足で青春
を取り戻そうとしていた。振り返れば赤面することばかりだが、真面目もまじめ、大真面目であった。
* * *
青年心理学の権威、桂広介教授が学科の新入生を集めて茶話会を開いてくれた時のことである。先生は一人ひとり順番に出身地の由緒や風物・風景を質ねるの
であるが、私は小京都と呼ばれる小城の明媚を語ったあと、小城名産の羊羹を自慢した。九州に移る前、千葉県・市川に住んでいた幼少年時代、成田山の土産物
羊羹の他に羊羹を知らず、その羊羹を絶品だと思っていた。虎屋を知らず、米屋を知らず、まして藤村の羊羹なぞ知る由もなかった私にとって、羊羹と言えば、
それは成田山の羊羹だった。私は、得意満面に言ったものである。
「成田山の羊羹だって、小城の羊羹には敵いません」
先生は、くくっと微笑って、
「君ィ−、成田山の羊羹はここいらでもけっしておいしいほうではないよ」
* * *
当時住んでいた三鷹の家は、狭い路地に面した二間(六畳・三畳)の小さな借家だった。路地をぬけると、幅員六メートルほどの表通りに出る。前年、印刷所
に勤めている時、毎朝八時に家を出ていたが、私はその通りで、自転車に乗って通学する一人の女高生に出会ううち、いつか彼女を見染めていた。下膨れの頬、
どこか懐かしい面影をもっているのである。仕事を辞め受験勉強に忙しくなっても、時刻が来ると落ち着かなくてそわそわと表に出た。年明けには母が上京して
きていたが、ある日遂に見とがめられた。
「お前、毎朝、何してるの?」
ジョギングなどは流行っていない時代であった。正直に打ち明けると、母は翌日から私に替わって通りに出て、彼女を数日観察した。お眼鏡にかなったらし
い。とてもよい娘なのでお付き合いすればよい、自分で言えなければ私が仲立ちしてやってもいい、と言い出した。虚を突かれ、流石に断ったが、受験が終わっ
て再び表通りに出てみた時には、卒業でもしたのか、彼女はもうそこを通らなかった。
夏休み明けだったように思う。夕方帰宅時にすっかりOL姿になっている彼女を三鷹駅の改札口で見かけた。私は咄嗟に、急ぎ足で追い、人通りの中、呼び止
めた。細かいところはすっかり忘れているが、僕と付き合ってください、と直入に言ったことだけは覚えている。だが、
「どこのどなたか知りませんが、突然そんなことを言われても、何てお答えしていいか分かりません。失礼します」
彼女はすたすたと立ち去り、これが夢の終わりであった。
後日譚である。しばらくして、学友のK君が、奈良で興福寺の阿修羅を隠し取りしてきた、と一枚の写真を見せた。それを覗いて、本当に驚いた。何という偶
然、彼女と阿修羅はまるで瓜二つである。それまで阿修羅を知らなかった私は、それ故、阿修羅をすっかり女性像だと思いこんだ。モノクロのその阿修羅像、そ
れ以後ずっと、私の学生時代の写真帳の一番終わりの指定席に納まっている。
* * *
「君、碁やるかい?」
これが、その後教育臨床心理学の大家になった原野広太郎先生との出会いだった。当時、私が入った心理学科には、新制大学第一期の博士課程を出て助手にな
りたての原野先生を中心に、院生・学部上級生の間で囲碁が流行っていた。学生控え室や空いた実験室では、昼休みと言わず放課後と言わず、必ず一組・二組の
“対局”が行われていたものである。私は、ときどきそんなところに顔を出して、ぼーっと見物していた。
「ええ、まあ」
「どれくらい?」
「さあっ」
という曖昧な返事をどう読みとったのか、先生は一番手直りでやろうと言い出した。ところが、私が五番たて続けに勝って、たちまち五子局になり、
「君はきれいな碁を打つねぇー」
と、先生が負け惜しみともつかぬ感嘆の言葉を洩らして、そこで打ち止めになった。当たり前である。先生はじめ、当時の皆さんの碁は、まさに丁々発止の
切った張ったで、小さく勝っては大場を取られ、丸ごと死んではそのまま終了という、典型的なザル碁・ケンカ碁だったから、勝つのに何の苦労もなかったので
ある。
それ以後、私が師匠になって、先生は急速に腕を上げたが、先生は局面が良くなってくると、左手に碁石をたくさん持ってじゃらじゃらいわせながら、よく唄
い出すのである。
やると思えば どこまでやるさ
それが男の 魂じゃないか
義理がすたれば この世はやみだ
なまじとめるな 夜の雨
その先生が、碁を打っている途中で急に真顔になり、「今日は元気がないねぇ、どうしたの」とまじまじと私を見つめた。唐突の妄動、一瞬の間の失恋−。そ
れを全部打ち明けたわけではないが、私の繰り言を聴くうちに、先生の顔は弛み、再び真顔に戻ると、唄い出した。
あんな女に 未練はないが
なぜか涙が 流れてならぬ
男ごころは 男でなけりゃ
わかるものかと あきらめた
先生が唄うのはいつも一番だけで、二番を聞くのは初めてだった。歌の文句がしみじみと心に滲みこんできた。いい歌だと思った。私は先生に、もう一度唄う
ようにせがむと、先生は特別に応えることもなく、今度は目を閉じて唄うのである。そして、三番まで続けてくれた。
時世時節は 変わろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界
大学を卒業して十年後、私は就職先で人生上の大きな危機に立たされた。その時、この原野先生と桂先生に、まさしく義理と人情の助けを受けて男泣きに泣く
ことになったが、この時はもちろん、思いも及ばぬことであった。
* * *
何か書いてみたいという衝動が一挙に沸き起こってきた。兄に従いてそれまでやってきた俳句はもう嫌だった。才のないのは棚に上げ、短すぎて、不自由すぎ
て、思いのたけが表現しきれないような気がしたからである。そこで同級の友人を誘って「黎明」なる同人誌を始めた。夏休み明けに企画し、その年(昭和三三
年)の十二月に第一号を出している。資金難から三号雑誌にも至らず、私の手元に第三号の原稿を残したまま翌年九月に第二号を出したきりで終わったが、今開
いてみると、実に懐かしい。加藤勇三君(同級)、東田浩君(同級)、千種つよし君(俳句仲間)らの名前が見える。
第二号には、兄の友人で、しばらくの間私とも親交厚かった西本鶏介氏が見事な裸体画をもって表紙を飾っている。そして、氏の『青春放浪譚』は、痛快・ロマ
ンの傑作である。氏は児童文学者として随分前から一家をなしているようであるが、もし「黎明」が続刊され、この『青春放浪譚』が完成していたら、氏は小説
家としても、より早く世に出ていたに違いない。
それはともあれ、私の文章こそ、見るも無残で情けない。「黎明雑壇」と称するところの次なる一文は、文意が一応通っているからまだ許せるが、
「ああ日本人」
曾野綾子さんの「ああ日本人」(毎日新聞十二月一日)の小時評が波紋を呼んでいるらしい。映画会社に就職の内定した学生を全学連に関係していたと密告し
た警官と、入社を取り消した人事部を批判した後、当のクビになった学生を最もいくじなしとして、この三人を象徴的に「ああ日本人」と云っているのである。
しかし前二者の組織体には絶望しているが、学生(特に全学連?)には期待を持っているらしい。それ故あえてその学生を批判したのだと云う。ところで全学連
の過激分子に操られる学生達に何を期待するのだろうか。彼らは大学での学問の結果思想開眼したのではなくあり余るエネルギーをただぶちまけているだけだ。
真に思想的に目覚めているならば資本主義経営体に成功の道を求めるはずがない。学生の政治活動は無責任そのものであり、およそナンセンスである。警官の
とった態度の問題はさておき、このような学生を弁護するような甘い人達こそ「ああ日本人」である。
次の編集後記となると、顔から火が出て、汗が噴く。
☆創刊号の編集後記には、いろいろと大きな抱負を述べるつもりだった。しかし、どうも気恥ずかしい。本号があまりにみすぼらしいからである。だが、こんな
気持こそ恥ずべきなのであろう。私達はまだ幼いのである。大きな事を考えていても、それを成就できる可能性を持っているだけだ。何でも披瀝して、自分の力
を認識し、飛躍への礎石とすべきである。そうしているうちに、「黎明」の中からも、明日の日本の各界を背負う人材も発掘されようというものである。
☆ひどいワラ紙の小説の雑誌、いわゆる大衆小説雑誌の中の下劣な小説の中から、時としてある種の情緒とか倫理とかいったものが直情的に共感されて、はっと
することがある。
もちろん、エロに於てしかりである。低俗な大衆小説や浪曲や歌謡曲の世界はそれぞれ共通しているが、そういうものを全く持たない人は少ない。ただそう
いった世界を無条件に受け入れている人また受け入れざるを得ない人が意外に多いことが問題なのだ。そうして彼らの情緒や倫理は堕してゆき、衝動的な犯罪さ
え起こすようになる。
判り易い文章、そしてばからしい小説の内容でありながら、結構楽しめて知らず知らず読者の情操を高め、倫理を与えることができるような小説、これは立派
な文学だと、僕は思う。……そんな小説をじゃんじゃん書いて、やがて文壇に乗り出そう等という暇と野心のある方をご紹介ください。
四年間もの紆余曲折した浪人生活の何が生かされているというのか。まさに「ああ宗内君」である。
* * *
大学一年時の暮れも押しつまった頃、当時北海道にいた長兄が上京して三鷹の家にやってきた。父も豊橋(愛知大学)から帰り、近くに住んでいた次兄もやって
きたので、母が馳走をするとて駅前の商店街に買い物に出かけた。しかし昼に出た母が夕方になっても帰らない。やきもきするうち、隣の家主宅に母から気弱な
声で電話が入った。駅前でバックしてくる車に跳ねられ、足首を捻挫して病院に連れてこられた。手術すると言って相手方も病院も放してくれない。歩けば歩け
るので帰りたいが、帰ったら事故が無かったということにして後の治療費は一銭も出さないと言っている。何とかしてくれ、と言うのである。兄たちはとっさの
こととて、顔を見合わせあれこれ言うばかりでよい思案も浮かばない。さればと私は家を飛び出し、二十分ばかり走って病院に行き、母の様子を確かめ、もう手
術の準備ができているとかうだうだ言う相手側と病院側を尻目に即座に母を連れ帰った。
母は相当乱雑に扱われていたらしく、このまま引き下がるわけにはいかないと大いに息巻き、悔しがる。そこで翌日、私は運転手の雇用主たる駅前の土建業者
の家に爾後の治療費・慰謝料としてなにがし請求しに行った。すると、まるでやくざ映画そのものである。あまり人相のよくないのが玄関口に大勢出てきて、
「金をゆすりにくるとは許せねぇ!、警察に連れてってやる」と胸ぐら掴んで脅す奴まで現れる。しかし、そこは駅のホームから丸見えの所で、ホーム上では何
事ならんと、うかがい見る強い味方が幾人もいた。私はそこまで届く大音声
で、「警察に行こうじゃないか、さあ行こう」と言って胸ぐらを掴んでいた相手を突き飛ばした。じっと見ていた主がここで初めて「いくら欲しいんだ、千円で
いいか」と口を開いた。「三千円だ」と応じると、「中取って、二千円でどうだ」ときたので、即座に二千円の現金払いで決着した。
二千円が当時どれほどの価値があったのかは定かではないが、葉書が五円、山手線循環切符が十円、国立大学の授業料が半期四千五百円の時代である。母から
その時、お前が一番頼りになると言われ、俺はやっぱり東京生まれの九州男児だ、と思わず口ずさんだのが、“やると思えばどこまでやるさ”、人生劇場の歌で
あった。
やると思えば どこまでやるさ
それが男の 魂じゃないか
義理がすたれば この世はやみだ
なまじとめるな 夜の雨
それ以来、この歌はますますの愛唱歌となり、ことあるたびに我が身を奮い立たせる歌とはなったが、私の人生劇場は、まさにまさしく、この年昭和三三年に
幕明けしたのである。
第十三話 「人生の並木路」
先日、妹が九州から突然上京して、訪ねてきた。娘の学園祭をちょっと見に出てきたのだという。確かに飛行機なら一飛び、ちょっと出かけてきたというとこ
ろであろうが、それにしてもまことにご苦労なことである。妹もやはり並の親馬鹿なのかと微笑ましかったが、兄妹仲良くやっているかどうかも心配なのでの一
言が、私を一挙に、皮肉混じりの感慨から混じり気ない感慨の世界に導いた。
姪はこの春上京して、慶応大学に進学した。以前には、会うたび、来るたびたった一人の兄(甥)のことを、私はあんなバカにはならない、ずぼらにはならな
いなどと悪し様に言いたい放題だったが、何のことはない、結局、数ある女子大など目もくれず、兄と同じ大学に一直線に入ってしまった。そして、嫌だ嫌だと
言いながらまた、親にねだったか、大学に近い三田の駅前に一軒家を借りて、二人で仲良く(?)暮らしている。兄妹とはかくあるものかな、と今更ながらの感
慨が、私と妹とのむかしむかしの物語を一晩しっかり追憶させることとはなった。
私の長い浪人生活のあおりを食って、三つ年下の妹は大学進学を一年遅らせ、私と同じ年に共立女子大学に入った。心ならずもの浪人中、タイプの学校に通っ
ていたが、そのようなことには何の不服も言わない性質であった。私たちは、母が上京していた大学一年時を除いて、妹が二五歳で結婚するまでずっと二人で一
緒に暮らしたが、その間も彼女は、まるで共働き夫婦の妻のように私の面倒をみながら、不平・不満を洩らすことなど、ほとんどありはしなかった。
昨今のように炊事や洗濯が楽な時代ではない。それは大変な時代であった。当初、わが借家には水道が引かれていなかった。台所の木戸を出て、家主と共同の
汲み上げポンプの井戸水を使用するのであるが、夏は冷えびえて心地よい水温が、冬は指先を凍らせるまで厳しさを募らせる。また、暖房は練炭炬燵ひとつの時
代だから、室内にいても震える寒さで、冬季に台所で水洗いをしたり、まして戸外で洗濯板を用いるなどは、凍る手指をどうやって凍傷から守るかといった、ま
さに必死の苦行であった。もちろん私も時にはやったが、気ままにやる作業と、やらねばならぬ作業とでは苦しさがまったく違う。こうして私は、のほほんと大
学に通い、裁判所に勤めて、一生頭が上がらないほど、妹には世話になった。
妹には、親しい学友が何人もでき、よく家まで遊びに来た。なかでも、阿部さん、河原さん、崎山さんは何度も泊まりがけでやってきて、私も入って、一晩中
トランプをしたものである。やっていることは、他愛のないババ抜きやナポレオン・ブリッジであるが、ナポレオン・ブリッジなどはやり出すと止められなくな
り、ほとんどいつも徹夜に近いのぼせようであった。
何故こんなにも友だちがよくやってきていたのか、不思議な気もする。それはわが家には他に遠慮しなければいけない人間がだれ一人居ないという気安さも
あったのだろうが、これは妹のひそかな陰謀によるものであったかもしれない。短足胴長の、どう見ても男前からはほど遠い兄貴殿に、何とか好いてくれる人は
できないものかとの思いが、妹の中に随分とあったのではなかろうか。それ故、何かと口実を設け、機会を作ってはみんなを連れてきた。もしそうだとすると、
まことに遺憾なことに、私も彼女たちも妹を完全に裏切ったことになる。私から見れば、彼女たちはどれも皆、可憐で気だてよく、そしてなかなかの器量好し
で、誰を恋人にしても申し分はなく(失礼)、実際、一、二の人に淡い恋ごころを抱いたこともなくはない。ただそれが、相手に伝わることがなかったというだ
けのことではあったのだが。
こんな楽しい“家庭生活”があったから、自分の大学にも身近になかなかの女子学生がたくさんいたにもかかわらず、私の目がそちらの方に向くことはほとん
どなかった。今でも交友のある尾添さんは可憐で評判だったし、吉永さんは女優の吉永小百合の姉であるが、小百合よりも姉さんの方がずっといいという人が幾
人もいた。私の父は、三年も四年も見ていたらどんな人柄か見分けられる、だから大学在学中に嫁を見つけるのが一番だ、とよく言っていたものだが、そういう
意味では、私は父の期待をも裏切ったことになる。
ともあれ、妹は世話の焼ける兄の面倒を、おおかた五年にも亘って母に成り代わって見続けたが、振り返れば、妹についての思い出は私の面倒を見るエピソー
ドから始まっている。
小学校の一、二年生頃だったのではなかろうか。私は、父に叱られ、玄関横部屋の小窓から這い上って霧除け庇
の小屋根の上に乗り、午前中からずっと、横になったまま過ごしていた。母が呼ぼうが兄たちが呼ぼうが、拗ねて強情を張っていたが、そのうち誰も呼ばなくな
り、夕闇が迫る頃には、寒さと空腹で耐えきれなくなっていた。死んでも下りてやるものかとなお強情を張りつつも、何か救いの手を待つようになっていた。
窓の開けられる音がして、ほっとしたのも束の間、「ほっとけ、ほっとけ」と、父の怒声が突き抜けてくる。それに遠慮したかのような、妹の低い小声がささ
やきかけた。
「アー坊っ」
アー坊とは、小さい頃の私の愛称である。毛布と、小皿に乗せられたくしゃくしゃの握り飯が二つ、そっと小屋根の上に差し入れられた。
次いで古い想い出は、戦争の終結前後、私が九、十歳頃のことである。
夏には妹を連れて京成電車でよく船橋や幕張の海に行った。電車の途中、京成電車と省線電車が並行するところがあって、今ではどうなのだろうか、その場面
になるといつも京成電車がスピードを上げて省線電車を追い越す。胸躍らせて見守るうちに、期待は必ず叶えられ、二人で顔を見合わせ歓声をあげたものであ
る。だが、海水浴に行っていた訳ではない。全き食糧難の時代、少しでも食べる糧にしようとて、とりわけ母の期待を担って、悲壮な思いで貝を拾いに出かけて
いたのである。あるとき、妹を浜辺に残し、少し離れた沖に出て、首が潜る満潮ぎりぎりのところまで貝を採り、ようやく浜辺に戻ってみると、そこだけ人だか
りがして、その真ん中で妹が「アー坊、アー坊」と私の名を呼んで泣いていた。海辺は夕暮れ、人気も退いてきたのに、それでも私が戻ってこないということで
妹は泣き続けていたのであるが、たちまち泣き止む妹を眺て、周囲は一瞬、不審そうに静まり返った。人々はアー坊なるこの子の弟が溺れ死んだとばかり思って
大騒ぎしていたのに、“大きな”男の子がやってきたのでびっくりしたのである。
「アー坊って、君?」
ほっと安堵の顔とともに、一人の大人が訝しそうに問いかけてきたのを、昨日のことのように思い出す。
そんなにも苦労した貝の一包みだったが、津田沼駅で乗り換える時、一瞬足元に置き忘れた。すぐに戻ってはみたものの、もう影も形もありはしなかった。
世話はされたが、私はやはり兄であった。大学四年の最後の期末試験時、妹は帰ってくるなり急きこんで、試験のとき頭にきてしまった、と話し出したので
あったが、突然顔を歪めて泣き出した。何のことかと訊けば、試験中にカンニングを疑われて監督の体育助手につまみ出され、どんなに弁明しても、試験は全科
目落第、卒業も延期と言うばかりで、言い訳があるなら親が出て来い、とけんもほろろに叩き出されたと言うのである。
並のことでは取り乱さない妹の態度に、尋常一様でない状況が汲み取れた。老骨にむち打って懸命に仕送りをしてくれる父、結婚後も折々の援助を忘れない長
兄。その恩愛を思えば、卒業延期など起こり得ていい話ではない。妹もそれを思えばこその、口惜し泣きであろう。
翌日、試験が終わるや、早速に妹の大学に出向き、共同助手室のようなところにその助手を訪ねた。学生服が一般的な時代だったが、私は当時、背広を着て、
ネクタイをつけ、生意気にも名刺を刷っていた。名乗ってその名刺を出すと、彼女は明らかに狼狽し、声がうわずった。
名刺には、「東京教育大学教育学部心理学科 宗内 敦」と刷り込まれている。私には、彼女が誤解したことがすぐに分かった。それも無理はない。年齢から
いっても、名刺の主は、立派に助手か、少なくともドクターコースの学生でしかあり得ない。私はその時ほど、相手の受け身の心理に乗じて押し込んだことはな
い。慇懃な態度を取りながら、最後には、カンニングなどはなかった、誤解であったとはっきり言わせた。何のことはない、何も入れてはいけないとされる机の
下の棚の中に、たまたま誰かが置き忘れた、試験とは無関係の書物が一冊あっただけのことなのである。要するに妹は、何かのはずみに彼女に目をつけられたの
か、運悪くたまたま彼女の機嫌の悪い日に遭遇したのであった。
その妹が、『谷崎文学におけるサド・マゾについて』といった恐ろしいテーマの卒論を書いて、それが元で母校の助手に残ることになったから面白い。そして
二年後、学士会館で友人の結婚披露宴の受け付けをしているとき、別の披露宴に来ていた男性に見染められ、お見合いとなった。それから半年後、とんとんと進
んで妹は、色とりどりの想い出を数々残して、ちょうど二五歳の適齢期に、幸せな結婚生活に入っていった。
泣くな妹よ 妹よ泣くな
泣けばおさない 二人して
故郷をすてた かいがない
遠いさびしい 日暮れの路で
泣いてしかった 兄さんの
涙の声を 忘れたか
「人生の並木路」。兄と妹を歌って、これほどしっとりした歌は他に知らない。私は妹と二人で住むようになってこの歌が好きになり、別れてからはますます
好きになって、何かのはずみで妹を思い出してはこの歌を唄い、この歌を聴いては必ず妹を思い出していた。そのような時よく浮かんでくるのが、東京から九州
に移ったばかりの頃の、あの道行きである。
当時住んでいたのは、福岡県上山田群臼井町というところだったか、長兄が勤める明治鉱業平山炭坑の社宅街である。北側は小高い丘陵、それから次第に登っ
てそのまま常緑樹が密生する急斜面の山になり、その先は見上げるばかりの高い山の連なりだった。社宅街から今は廃線でなくなってしまった国鉄の上山田線臼
井駅まで、どれくらいあったのだろうか。ゆうに一里はあったように記憶するが、田圃に挟まれたまっすぐな一本道を、次兄と三兄は毎朝二人で駅まで歩き、そ
こから汽車で通学していた。その同じ道を、途中までではあるけれど、私と妹が、毎夕、二人で往っては二人で戻る。家からどれほどの距離があったか定かでな
いが、田圃道を折れてまた田圃の中を行くと、他には何もないまま、ぽつんと煙突のある小さな建物だけがあり、それが炭坑社員用の浴場であった。ときたま三
兄と行くときには、時間が遅いせいか、よく人が入っていて、一度だけではあるが、どこの餓鬼どもかとばかりに「けつの穴でも洗って入れ!」と怒鳴られたり
したこともあったが、妹と行くときは、時間が少しでも早いせいか、不思議にいつも誰もいなかった。私たちは、宝物のように抱いてきた蜜柑を湯船に浮かべ、
それがたゆたう様を心ゆくまで楽しんでから、今度は顔を見合わせながら皮をむき、一袋ずつゆっくりと味わうのである。
冬の暮れは早く、帰る時はもう暗い。月のない夜は手を繋ぎ、明かりのない田舎道を寒さと恐怖に追われて駆け足で帰って行った。行きはよいよい帰りは怖い、
そんなむかしむかしの物語である。
たったの一回きりではあるが、真実、兄らしく振る舞い、その役割を演じ担ったことがある。
結婚して数カ月後、妹が突然やってきた。来るなり、思い詰めたように「しばらく家には帰りたくない」と言うのである。事情を訊くと、夫に疑わしい様子が見
える。容認しがたい、とのことである。だが、理由を聞いて、思わず、吹き出しそうになった。背広の内ポケットの中に、銀座のどこぞのホステスの名刺が入っ
ていたというのである。それまで見たこともないようなその真剣な眼差しに、咄嗟に笑いを押さえ込んだが、世間知らずの初さに感動する気持ちも一瞬湧いた。
取り越し苦労であることを、妙に真剣な顔で色々語ったことを覚えている。もちろん、そう言われることを期待していた妹は、すぐにそそくさと戻っていっ
た。
それからしばらくして、夫の転勤で、妹は九州の佐賀に行くことになった。転任・転住の挨拶回りの途中、合間を縫って築地の勝鬨橋袂の家庭裁判所支庁まで
訪ねてきたが、晴れ晴れとしていかにも幸せそうな新妻だった。
「身綺麗にして早くいい人見つけてね」
これが別れのことばだったが、そのとき土産にもらった整髪器の「サボー」、それは今でも大切な私の宝物である。
爾来三十年、妹はずっと九州に住み、年に一回会うことも難しい。
後年、高度経済成長が始まり、やがて未曾有のバブル経済の時代がやってこようなど、まったく想像だにできない頃であった。大学に通っていてもその先行きは
けっして楽観できず、しかし通えるだけでもどんなに恵まれているのか、その幸せを噛みしめながら、二人寄り添い、アルバイトで学費・生活費を補填しなが
ら、ひたすら前を向いて、懸命に生きていた。
雪も降れ降れ 夜路のはても
やがてかがやく あけぼのに
わが世の春は きっとくる
生きてゆこうよ 希望に燃えて
愛の口笛 高らかに
この人生の 並木路
長い人生の道程で言えば、むしろ短いとも言えるのかもしれないが、かけがえのない青春時代を共に歩んだあの年月は、まさに人生の並木路であった。
第
十四話 「閑話休題」
先日、勤務先地元の山梨日々新聞から文化部記者が訪れて、私の近況を訊くうち、この歌つれづれの思い出話の目的や意
図、さらには終着先を問うのである。だが、もともと何かを狙って意識的に始めたものではない。書き初めの時に述べたように「かりそめのエッセイが事始めと
なり、止みがたく、歌つれづれに来し方が偲ばれ……、絶とうにも絶ちがたい回想の思いを歌に託した」までである。だから、時折友人たちから、どこまで書く
のか、何を目的に書いているのかなどと訊かれることがあっても、ひたすら微笑ってごまかしていた。しかし、此度はどっこい、そうはいかない。社宛に『琅』
を送るたび、簡単ながら文化欄で紹介して貰っている手前がある。まして記者氏は、妙齢の佳人であった。私がつい頑張ったのも無理なかったが、その咄嗟の思
いつきが、文化欄の「近況」というコラムに写真入りで紹介された。ちょっと面映ゆいが、それをここで引いてみる。
<半生を歌で回顧>
都留文科大の宗内敦教授は、編集発行人を務める文芸誌『琅』にエッセイ『演歌つれづれ』を連載している。
自身の少年期から大学時代、家庭裁判所の調査官、大学教授に至るまでの半生を、その当時の流行歌やよく聴いた歌など、戦後の演歌・歌謡曲と絡める内容。
現在十三話までを掲載しており、今年中に二十話まで完結させ、エッセイ集として刊行する計画。
「学生は演歌を嫌がるが、私にとっては当時の生きざまや感じ方を思い起こしてくれるまさに心の帰り船」
過去を振り返って懐かしむだけでなく、美しいものを再確認することで自分を見直し、人生を再出発しようという思いで書き続けているという。
(中略)
専門は臨床心理学。連載当初は心理学的解釈を加えながら書いたが面白くなく、「今は好きなように書いている。連載の締めの曲は何と言っても暗い時代の支
えになった川田姉妹の『月の砂漠』で決まり」(望月水佐子)
回想の思いを筆にのせるにあたって、おぼろではあるが、一つだけ意識していたことがある。これまでの生きざまを語り、人となりをあらわして、妻子への遺
書にしておきたい、という思いである。これは、いくばくか熟齢した者にとっては共通の心理と言えるのではなかろうか。それがこともあろうに、いかに佳人を
前にして連想がはたらいたとしても、よくも「美しいものを再確認することで自分を見直し、人生を再出発しようという思い」などときれい事に言い替えたもの
である。そのようなことは、これまで一度とて考えたこともなかった。
だが、よくよく思えば、それは確かに私の本心でもあった。遺書を残すということは、死を前提にした感情であるが、さほど遠くないところに死を見据えれ
ば、逆に差し迫って残りの生に思いが移る。さすればまた当然のこと、誰しもよく生き、できれば新しい生き方はないかと考える。記者に答を強要されて、心の
奥ではすでに出ていたこの当たり前の結論(本心)が意識にのぼってきたまでのことである。
よりよく生きて、よりよく逝く。しかして、『未だ生を知らず、焉
んぞ死を知らん(孔子『論語』)』。私の思い出話は、次第に私自身の生きた証を求めて来し方を辿るようになっていった。そして私は、さまざまな人に出会
い、さまざまな出来事に遭遇するうち、まこと美しい贈り物を数々もらっていることに今更ながら気が付いた。きわめて常識的ではあるが、それが即ち、愛であ
り、実であり、誠である。言わずもがな、私の人生はこれらの贈り物によって支えられ、また力づけられてきた。これをもう一度思い返し、再び私の宝物として
取り戻すとき、心洗われて少しは汚れた心や人生が修復され、新しい方向づけも得られるのではなかろうか−。
こうして、単なる懐旧懐古の旅ではなく、人生の再出発を期して純美なるものを再確認する歌つれづれの想い出行脚が始まった。
さらにもう少し本音を探れば、それが外的な人間関係であろうと内的なコンプレックスであろうと、はたまた生死であろうと、私はさまざまなしがらみから解
放されて自由になりたいと思っている。遊び心を横溢させて歌つれづれに来し方を自在に再体験し、それを憶することなく赤裸に描いていくことは、自ら開いて
解放を得る卓抜な手段ではあるまいか。昨今、“書くことの効果”がいろいろなところでさまざま取り沙汰されるようになったが、私のそれはこれにも多少当た
るであろう。
そこで、歌つれづれなるこの物語は、私が自己解放を得たと自分で納得するところまで続けられる。第二十話『月の沙漠』で終わりとは一応言ったが、これは
大体の目安で、終わりなく延々と続けられるかもしれないし、またある時突然終わるかもしれない。それはちょうど、端から見ればすでに堪能するほど乗り尽く
し、あるいはもう二輪車に乗れるほど充分に成熟しているやに見えるにも拘わらず、いつまでも三輪車遊びに執着する幼児に似ている。三輪車を巧みに操っては
いても、ある子はまだ技術的に不充分だと思い、ある子は山を越え空を飛ぶファンタジーの世界がまだ充分には満たされていないと考えている。子どもが三輪車
に執着するのはそのためである。彼らは、心の中で納得がいくまでその段階に留まろうとし、けっして次の段階に進まない。が、ひとたび納得がいくと突然その
行為(三輪車乗り)を終了し、放っておいても次なるステップ、例えば二輪車・鉄棒・虫採り遊びに移行する。このように、留まるも行くも子どもの思いひとつ
にかかっているが、いつ先に進むのか、それは当の子ども自身でさえ、容易に認識し、選択し得るところではないのである。
どのように見え、どのように思われようと、私はこの物語の命脈を、私の内なる自我の赴くままに委せている。
第十五話 「トロイカ」
さて、結局のところ、物事の裏表が分かり、少しは自分のことも分かるようになったのは、いい加減年齢をとってからのことである。若い頃は、分かっているつ
もりで実は何も分かっていない。悩んでいるつもりでもまた、それほどの悩みではけっしてなかった。
「四十三歳にもなれば、この世に経験することの多くがあこがれることと失望することとで満たされているのを知らないものもまれである」とは、『夜明け前』
で島崎藤村が言わせる言葉であるが、なにせ折角の浪人生活からも何ほども学ばなかった凡愚な若者である。振り返れば、人を知らず、自分を知らず、まして世
間や人生の襞など全く分からず、長いトンネル(浪人生活)を抜け、ひたすら憧憬して表の世界を生きていた。恥ずかしいばかりの未熟さと、うらやましいほど
の若さに包まれていた。その学生時代に好んで唄ったのが、哀愁とロマンに満ち溢れたロシアの歌である。ちょうど歌声喫茶全盛の時代で、それは流行歌的盛況
とも言えたが、カチューシャ、ともしび、黒い瞳、赤いサラファン、ステンカラージン、山のロザリア・・・と、あげれば切りがない。その中で、とりわけ愛唱
したのが『トロイカ』である。
雪の白樺並木
夕日が走る
走れトロイカ ほがらかに
鈴の音高く
ひびけ若人の歌
高鳴れバイヤン
走れトロイカ かろやかに
粉雪けって
トンネルを抜ければ、真白にまぶしい雪世界。まさに胸の高鳴る歌だった。学生時代の四年間、時には昼食を抜かねばならないほど窮したこともあったが、自
分を不幸せだと思うようなことは一度とてなく、鈴の音高く、粉雪蹴って、高鳴る鼓動とともに日々を送った。ギターを弾き、囲碁を打ち、音楽会に行き、野球
をやってスケートをやって、妹の可憐な友人たちとトランプを楽しみ、麻雀・花札・オイチョカブなど手遊びもやった。“オイチョの宗さん”という栄えある
(?)ニックネームを貰い、最上級生になって“ファイティング宗”という称号も与えられた。あの暗かった浪人時代に比べると天地の隔たり、何をやっても順
調で先行きに何の不安も感じない。そしてほどほどにやった勉強の賜物が、国家公務員上級職試験と家庭裁判所調査官試験の突破である。何に集中するというわ
けでもないが、いつも何かに熱中し、やる事なすことすべてが結果を顕して、まさに順風満帆だった。
一九六〇年(昭和三五年)六月十五日、“安保反対”を絶叫する激しいジグザグデモの真っ只中にいた。もともと学生運動には、批判的だった。それが、何か
参加しなくてはならないような気分に誘い込まれ、笛と太鼓に踊らされるうち、いつか撥乱反正の思いに駆られ、絶叫とジグザグの波に呑み込まれていた。しか
し、国会議事堂を目前にして、私は突然、我に返った。はずみで隊列の外を向いたとき、学内でよく見知った男が目に入った。何と、権威主義丸だしの似非イデ
オロギストが旗を振り、笛を吹いているではないか。あんな男がリーダーとは! たまらなくなって隣を見ると、私以上にノンポリだった筈の友人が目を血走ら
せ“安保反対!、安保反対!”と声をからし、回りを見れば、笛と太鼓に音頭を取られ、誰もが同じ一糸乱れず、狂ったように絶叫とジグザグ運動を繰り返して
いる。ひとたび冷めると、それはもう空しい操り人形の踊りのようにしか見えなくなった。 たちまち私は、その人波を抜け出ると、三十分ほど後には、あの喧
噪とは全く別世界の、情趣溢れる神楽坂の坂道を上っていた。
何がきっかけだったか忘れたが、当時私は、連珠(五目並べ)に熱中し、神楽坂に住まう第三世名人・高木楽山先生の許に毎週一回通っていた。先生は総白髪
で相当なお年寄りに見えたが、実際は今の私ほどではなかっただろうか。指南料の話になったとき、
「一回五百円でお願いします」
と私が言うと、柔和なお顔に笑みを浮かべ、そんなに貰っちゃ悪いと断る。「いえ、それだけの勉強をさせて貰いますから」と強引に押すと、「それじゃ、代
わりに夕食を出しましょう」と話が決まった。
当時、国立大学の授業料が月額五百円、ピアノやギターの個人レッスンの月謝もせいぜい五百円程度だったから、私も随分奮発したものだが、その代わりに、名
人直々の懇篤な指南と、味噌汁・新香のほか二皿のおかず付きという、当時としては大変なご馳走をいただき、それは全く安いものであった。しかも、夕食は毎
回、妙齢のお嬢さんが運んでくる。指南料は、週二回月額二千円の家庭教師をひとつ増やしてまかなった。
この安保当日、名人宅を辞して今度は家庭教師先へ急ぐ途中、民家から洩れ聞こえるラジオの臨時ニュースに愕然とした。騒乱デモの中で東大女子学生(樺美智
子さん)が圧死、そのほか重軽傷者多数という。うまく危険を回避したという安堵感と死者重傷者に対する罪障感の入り交じった複雑な思いに捕らわれたのを覚
えている。樺さんはデモ出動時に、隊列の中に数名の後輩女子学生を見つけて声を掛け、警官隊との衝突を予期して、けっして隊列の端には出ないように注意し
たとのことであったが、自らはそれを守らなかったようである。その忠告を守って無傷で帰った一人から、後年、鎮魂の涙と共に、これを聞かされた。−合掌。
私の腕はめきめきと上がり、名人との対戦で、一ヶ月後には先手随意打ちなら必勝、三カ月後には三手目指定打ちで互角に打てるようになった。名人は、主賓
として招待される各地の(素人)連珠大会に必ず私を参加させたが、プロ並みの腕になっていた私は連戦連勝、出れば必ず優勝した。余談になるが、この腕前を
利用して、日頃の憎い連珠敵を討ち取らせて溜飲を下げたのが、親友のA君である。
大学を卒業して二、三年経った頃、A君が言うのである。職場で五目並べが流行っているが、ひとり強いおっさんがいて、それが鼻高々と威張りくさり、皆が一
様に怒っている。こてんと伸してへし折って貰いたい。早速行って後手白番で対局したが、三三、四四の黒番禁手を打たせるなどして七番連勝。すると相手が言
うのである。「いつも白しかもったことがないから勝手が違った。白番なら勝てる」。今度はいっそう短い時間で、瞬く間に七連勝した。
A君には、きっちりお返しをして貰った。職場で卓球が流行っていたが、最強のB氏の態度がきわめて不快なのである。弱い相手にもカットを連発し、右往左
往する私など、そのたび鼻先で笑われた。そこで、高校時代国体に出たことのあるA君に御登場を願うことにした。とはいえ、B氏の技量も抜群に見え、正直な
ところ、多少の不安もなくはなかった。しかしそれはあくまで杞憂に過ぎなかった。A君にとっては下手なカット球ほど生ぬるいものはないらしく、そのたび毎
に「チャン(ス)ボール」と派手に打ち込み、結局B氏は、どんなに頑張っても・ポイント戦でせいぜい5、6ポイントしか取れなかった。
ある日名人宅に先客があった。私たちの対局を二、三番観戦してから帰ったが、後で名人がおっしゃるのである。彼は自分の弟子だったが、今は新興の他の連
盟に属し、そこでの名人位を争う程になっている。その新興連珠連盟が新聞社を通じて名人決定戦を申し込んできているが、囲碁・将棋の名人戦と同じ対局料を
出せばいつでも応じる。
私は、樂山先生の自信とプライドに感銘すると同時に、四、五歳年長に見えた先客への不快の念を禁じ得なかった。恩義ある人を裏切って余所へ行き、それで
も平気で訪ねてくる−。今でもそれほど変わりはしないが、裏も表も見えなかった直情径行の若者にとって、当時そのようにしか判断できなかった。因縁であろ
うか。後年、大学を卒業して家庭裁判所調査官になったが、所属庁こそ違え、その人・磯部恭三氏(当時、名人)は同職先達の人であった。そしてとある合宿訓
練所で一緒になる機会があり、腕に覚えの千載一遇の好機とばかり対局を申し入れたが、受けつけてはもらえなかった。
浪人生活が長すぎたので、大学卒業後の進路については、結局、公務員関係しか選べなかった。大学院進学の道もあったが、経済上の問題と、オーバードクター
がごろごろしていた状況がそれを諦めさせた。そこで、国鉄・たばこ専売公社など三公社五現業に始まり、警察庁上級職、自衛隊幹部候補生など特別職公務員、
国家公務員一般行政職、家庭裁判所調査官……と何でも狙った。中には年齢制限に抵触するものもあったが、最終的には、国家公務員試験上級甲種合格の資格を
もって、労働省を第一志望、法務省を第二志望と決めて面接に望むことにした。しかし、最後の最後で、私は家裁調査官として東京家庭裁判所に入ってしまっ
た。そのいきさつは、こうである。
国家公務員試験の心理分野を合格して最初に面接があったのが労働省だった。が、当日、指定された午前九時に集まっても、私の順番は待てど暮らせどやって
こない。午後になってもまだ呼び出されず、じりじりとする中でようやく気がついた。何と、面接の順番は、合格順位に従って行われていたのである(当時は、
順位付きで合格発表がされていた)。それなら、時間を分けて呼び出せばよいのに−。三時を回って、他に誰も居なくなって、ようやく呼び出された。私は美事
にぴったり、最下位・番であった。面接の途中で、何のはずみか、成績順位の話になり、私は揶揄されたように感じ、そこで言ったものである。
「家裁の試験では一番だった。成績なんてたまたまのこと。もう一度受けたら一番にだってなれる」
即座に、面接官の中からお返しが来た。
「もう一度受けたら、今度は家裁の方がビリ、こっちの試験だって落ちるかもしれないよ」
このやりとりで、私は勝手にダメだと諦めた。翌日、東京家庭裁判所に出向いたところ、その応対は雲泥の違いで、それは面接などというものではなかった。
所長自ら頭を下げての勧誘である。その代わり、あっと言う間に入所承諾書に押印させられ、数日後、労働省から採用内定の電報が届いた時には、後の祭りで
あった。私はわざわざ、大きな菓子折を二つ持って労働省秘書課まで出向き、後輩たちにくれぐれも後を引かないようにと頭を下げ、畏まって内定を辞退した。
昨今では取れるだけ内定を取って後は知らぬ顔の半兵衛というのが常識のようだが、当時ではこのような律儀な行為もけっして私だけの例外ではなかったはずで
ある。
前は見えても左右が見えない。これではいつか落とし穴にはまる。私は自ら墓穴を掘ってそこに落ち込み、第二志望の法務省矯正局をも辞退する羽目になって
しまった。家庭裁判所の仕事がけっして気に入らないわけではなかった。むしろ、心の奥では一番望んでいた仕事であったかもしれない。当時、高度成長につれ
て高校進学率が高まるなか、中卒のまま就労生活を余儀なくされる少年たちが、転職を重ね、やがて都会に流れついて泡の如く埋没し非行化していく様が社会問
題となっていた。私は浪人中、いくつか職に就くうち、そうした若者を幾人も目の当たりに見ており、労働行政を通じてその問題解決につくしたいというのが、
労働省を志望した理由でもあった。しかし見方を変えれば、家裁の仕事はその問題解決を個々の少年たちへの個別的な援助を通して行うもので、心理学を生かす
という意味では、むしろこちらの方が興味深い。ただ、家裁では他職種(裁判官)の下に付くという立場が越えがたいネックとなり、恩師たちの反対もあって、
志望順位を下げていたものであった。
だが、ここに到ってはやむなく、私は心機一転、家庭裁判所に入った。入ってみれば、非行を犯した少年たちの原因を探り処遇の方針を立てるという仕事の内
容は性にも合い、アイデンティティにも関わるほどの重みがある。次第に専門職としての期待が膨らみ、将来への不安も消え、そのまま一直線に青春のトロイカ
を走らせ続けることになった。
黒いひとみが待つよ
あの森越せば
走れトロイカ 今宵は
楽しいうたげ
黒い瞳が待っていた。楽しい宴 も待っていた。
しかし私は、ロシアで唄われる『トロイカ』の元歌がこのような明るい青春歌ではなく、恋人を専制地主に奪い取られた若い馭者が雪原に郵便馬橇を駆りなが
らその嘆きと悲しみを仲間の老馭者に訴える失意のエレジーであることを知らなかった。就職して十年後、今から思えばそれもまた懐かしいが、私は執拗な職場
いじめの標的となり、一転吹雪に見舞われて道を失い、絶望の淵に追いやられた。人を知らず、自分を知らず、まして世間を知らない私には当然の結果だったの
かもしれないが……。
夢見るごとく、晴れた雪原を疾駆していた。愚かと言えば愚かだが、遅かれ早かれ、ものごとには裏があり、人生には失望も満ち溢れることが分かってくる。
だからこそ、憧れることしか知らなかった青春の時代は、この上なく貴重でいとおしい。今、『トロイカ』を唄えば、たちまち走馬燈の如く当時が巡り、一時な
りとも真っ白な心が戻ってくる。
注(・) 随意打ち 先手後手ともに自由に打つことで、素人が普通にやるやり方である。研究し つくされ、先手必勝である。
注(・) 指定打ち
先手にハンデをつけて両者が対等に戦えるよう、後手が先手の打着点を指定 するもの。先手の三手目を指定するのと、五手目を指定するものとがある。
第十六話 「赤いハンカチ」
アカシヤの 花の下で
あの娘がそっと 瞼を拭いた
赤いハンカチよ
怨みに濡れた 目がしらに
それでも泪は こぼれて落ちた
北国の 春も逝く日
俺たちだけが しょんぼり見てた
遠い浮き雲よ
死ぬ気になれば ふたりとも
霞の彼方に 行かれたものを
情景がそのまま浮かんで、甘く切なく、理屈抜きに心に沁みくる唄である。もちろん、唄は歌詞とメロディとが一体となって成り立っているのであるが、この
しみじみたる唄の何とも言えない情感は、“赤いハンカチ”から生まれてくる。これを白いハンカチ、青いハンカチ、黄色いハンカチとしてみたら、もう全くダ
メである。赤という色、いや、赤という言葉からは愛と歓喜と情熱が最も普遍的な意味あいをもって連想され、そして、ハンカチは別れを象徴しているが、この
“赤いハンカチ”でそっと押さえられた瞼から一瞬こらえきれない涙がこぼれるからこそ、まさに切なく愛と歓びの終わりが奏でられるのである。
この歌を口ずさむとき、こうした抑えおさえた甘哀しい情景がごく自然に思い浮かび、どこかで見たような、というよりは、まるでむかし自分にこのようなこ
とがあったかのような気持ちに引き込まれ、過ぎ去りしあの日あの時を偲ぶかのように切なく唄ってしまう。甘い悔恨とともにひめやかに偲ばれるあの人、かの
人−。打ち明ければ、私の遠い想い出の中にも、そんな赤いハンカチの乙女が一人、ひっそりとおさまっている。
学生時代、私はなけなしの金をもってときどき学生食堂に行った。貧しい時代だったから、昼をぬくのはけっして私だけではなく、だからそんなことはさらさ
ら意に介さず、それよりいくらかゆとりができて心置きなく昼食を取りにいけるときの喜びだけが心を占めて、そのようなときは幸せを噛みしめたものだった。
しかし、二年生のある時期、ちょっぴり無理して食堂に行ったのには、少しばかり訳があった。
当時、東京教育大学の教育学部には、私の所属していた心理学科の他に、教育学科・特殊教育学科、それにどう繋がるのか良く分からなかったが、音楽・絵
画・彫塑などをやる芸術学科というのがあった。今と違って四年制大学にはまだ女子学生が少ない時代である。心理学科は一学年定員・名、内女子学生は・名い
たが、教育学科も特殊教育学科も大体同じで、学年が上がるにつれ、その数は減っていく。しかし、この芸術学科だけは格別で、どの学年も圧倒的に女子学生の
方が多かった。それも、なかなかの美形が多いのである。この美形たちが、一般教育科目で教室を一緒にすることが少なくない。噂では、芸術的技能では芸大生
に劣ることがあっても、頭脳の方はむしろ優秀で、芸術関係を目指す中ではダントツ最高なのだという。私たちは、彼女たちを当時のフランス人気女優のパスカ
ル・プチとかミレーヌ・ドモンジョとかいろいろに見立て、助平根性の強い奴は、わざわざ同じ講義を取ったり、近くに屯したり、後を付けて街の食堂やレスト
ランまで出向いたものであった。
そのような中で、私は一人の女子学生に目を止めた。皆の話題にはほとんど出なかったが、出たといえば同じ心理学科の上級生の妹ではないかという噂ぐらい
で、いつも黒や紺のフレアのスカートと飾りのない白いブラウスを着た、小柄で丸顔の、地味だがいかにも清潔・清楚な女性だった。何よりも私を惹いたのは、
彼女はそれまで私がほのぼの思いを寄せてきたかの人たちにどこか連なる面影を宿していたことである。
彼女は、他の少々派手な芸術学科生とは違い、外に出ることはなく、いつも安い学生食堂で、いつも同じ一人の友だちと一緒に昼を取っていた。いつか私はそ
れを知って、昼を取れるときは必ず学食に行き、少し離れたところで、ひとつまみずつ素うどんをすすりながら、彼女のゆっくりな食事に歩調を合わせていた。
彼女は、食事の終わりに必ず少しお茶をすすり、終わるとスカートのポケットから赤いハンカチを取りだして、口の辺りをそっと拭く。どうしてそのように感じ
られたのか不思議であるが、彼女の一連の食事風情から、私は初めて、上品ということを心に思った。
彼女とのただこれだけの“逢瀬”を楽しみに、私は幾度も昼食代を無理し、また行き交うときは胸ときめいて注目したが、私ごときは所詮眼中に入らないの
か、彼女がこちらを見やることなど、ついに一度もなかった。
三年次に入ると、いろいろと多忙で関心事も広がり、その姿を見ることも少なくなった。四年次になると全く見かけなくなり、卒業の頃にはもうすっかり放念
していた。そんな彼女と再会したのは、大学を卒業して数カ月後のことだった。
東京家庭裁判所に入って、当時日比谷公園内の一角にあった二階建てモルタル造りの少年審判部に配属された。東京・区が八、九程の管轄区に分けられ、各区
部が大体八人編成ぐらいで、その中にほぼ一人程度の調査官補が居た。私はその調査官補、つまりは見習いであった。
所属する部(室)の統括調査官が、当時六十を少し越えた和田辰雄先生だった。何故家裁調査官が先生なのか定かでないが、調査官は、事務官・書記官等の庁
内他職種、警察・鑑別所等の関連諸機関から先生という敬称をもって呼ばれ、内々でもそう呼び合うのが習わしだった。恐らく以下のような事情も大きく関わっ
ていたのではなかろうか。
戦後、アメリカの制度を取り入れて誕生した家庭裁判所では、家事事件や少年事件を専門的に調査・診断する役割として、家庭裁判所調査官なる職種を設け
た。しかし、人材養成が間に合わず、当初は広く世間に人を求めてそれを調査官として採用した。そのとき目立ったのが、教師あるいは教職経験者、満州など外
地から引き揚げてきた元官僚である。そのような経歴のある人々を周囲は無下には扱えず、尊称して先生と呼んだ。因みに、当時の東京家庭裁判所の首席調査官
は、東京都教育長の経歴を有していた。
その中にあっても、和田先生は最も先生らしい先生であった。ご父君は東大図書館長を務めた一流の学者、先生自身も東大美学の出身で服飾史の専門家だった
が、戦災で蔵書を一切焼かれた揚げ句、職場も失い、家裁調査官になった。一見柔和で気弱にさえ見えるが、しかし易々とは人を寄せず、芯は剛直な人だった。
その和田先生に、どういう訳か、私は大変可愛がられた。見習いだから、鑑別所や少年院など、月に幾度も出張にお供したが、私は交通費や昼食代を全く払っ
たことがない。規定通り私にも一等車の交通運賃とそれなりの日当がきちんと出ていたのに、先生は私の切符も同時に求め、昼はいつも鰻をご馳走してくれた。
「あの気むずかしい先生に可愛がられるなんて、君も変な男だ」と、周囲の人たちから言われたものである。
思えばしかし、私は純情だった。毎朝早く登庁をして全室員の机を拭き、十時や三時にはお茶を入れ、冬には下庁時にだるまのストーブの後始末をして翌朝早
く石炭を焚く。一部の人には嫌味こそ言われたが、若輩としては当たり前のこのようなことが、気に入られた一因だったかもしれない。「礼節を知る人は大好き
です」とは和田先生から賜った言葉だが、先生から寄せられる信頼と好誼は、身分年齢を超えて善意や好意を拘りなく授受する自然な感覚を育ててくれた。
後年、私が職場不適応の末、大学に職を移したとき、和田先生は退職してなお不遇をかこつ境遇であったが、「わがことのように嬉しい。私にとっても、近年
の快挙です」と、喜んで下さった。
そんな和田先生と、新任赴任の年の真夏の真昼時、銀座数寄屋橋公園で出張時の待ち合わせをしている時だった。
地下鉄丸の内線西銀座駅で下り、数寄屋橋口から上ってそのまま公園に出ると、そこにはいつものように、人待ち顔の若い男女が幾人も立っていた。人と待ち
合わせるときの常で小半時も早く着き、公園前の数寄屋橋バス停に立って、昼間でも雑踏する賑やかな晴海通りを眺るともなく見はるかすうち、公園入り口の
『数寄屋橋 此処に ありき』という菊田一夫の碑(注)の前に静かに立っている若い女性の姿がふっと目に留まった。純白のブラウスに揺らめく紺のフレアス
カート。ほのかに記憶が甦り、近寄ってその横顔を覗いてみると、口紅をつけ、化粧して、幾分大人になったようだが、まごうことなくかの女だった。
胸の弾みを押さえながら、しばらく様子を窺うと、ときどき腕の時計を覗いては溜息をつき、去ろうとしては行き泥み、また人待ち顔に佇み直す。その風情か
らは、かなり待ち尽くした様子が見える。気付いてみれば、辺りは皆入れ替わって、先刻からずっと待ち人しているのは、彼女と私の二人だけだった。
罪深い気持ちで盗み見るうち、いつか彼女も気が付いて、力ない目を私に向けた。私は咄嗟に、時計を覗き、思わせぶりに溜息をつく。待ち人来たらず、私も
また耐え難く心乱れている……。額から汗が噴き出し、忘れていた暑さが一挙に戻った。ときどき周囲を見やり、時計を覗き、その度毎に彼女を眺ると、彼女も
また同じようにして、ときたまそっと私に視線を向ける。
しばらくして、ふっと二人の目が合った。何かを共有しているような、ほっとした気分で、どこからとなく笑みが生まれ、それを二人で交わし合った。そし
て・分、・分、……・分と経つうちに、互いに人待ち顔ながら、少しずつ間が狭まり、まるで初めてデートした男女がためらいがちにちょっと離れているといっ
たほどに近寄ったときだった。
彼女の顔が急にこわばり、一歩踏み出すようにして私を真正面から凝視めてきた。私を記憶の中から取り出したとでもいうのか、何か思いつき、そして何かを決
断した顔だった。確かに口が開きかけていた。そのとき、
「お待たせ」
という声が聞こえ、私は後ろからそっと肩を叩かれた。振り向けば、にこにことした、いつもの柔和な和田先生だった。
「さ、まず、食事でも行きましょう」
私には抗すべきどんな手だてがあったのだろう。このときばかりは、心やさしい和田先生が何とも憎らしく思えてならなかった。はや私に背を向けて歩き出し
た先生の後を追いながら、気ぜわしく彼女に振り返ると、彼女の顔からはすでにこわばりは消え、静かに弛んで口元に微笑さえ浮かべていた。軽く手を挙げ、黙
礼すると、彼女はにゅっと微笑って応えてくれたが、いつから持っていたのか、そっと上げたその手の中に、小さな赤いハンカチが握られていた。
アカシヤの 花も散って
あの娘はどこか 俤 匂う
赤いハンカチよ
背広の胸に この俺の
こころに遺るよ 切ない影が
そのようなことはあろう筈もないのに、またの出会いがありはしないかと、その後しばらくの間、私は幾度も数寄屋橋公園に立ち寄った。別れ際に手を振る彼
女の姿が去りやらず目に浮かび、面影偲んで止み難くその界隈を巡ってみたこともあったが、再び相逢うことなど、遂になかった。「赤いハンカチ」が巷に流れ
るようになったのは、この出会いと別れの日から一、二ヶ月経った頃である。
注 菊田一夫の『君の名は』の主人公、春樹と真知子が出会い、再会したのが、今は埋め立てられた数寄屋橋。此処に記念碑的な公園と碑が残された。
第十七話 「無法松の一生」
七人のゼミ学生が全員、口を揃えて言うのである。卒業コンパぐらいは、赤い灯・青い灯、色とりどりに華やぐ街を歩いて、そんなところで食べて飲んで、歌
いたい−。
人口三万の田舎町の大学に四年間も“閉塞”していたのだから無理もない、と卒論発表会を終えてから、彼女たちの希望通りに、山梨は都留市から一時間半、
富士急・JRと乗り継いで人口七十万、東京・八王子の繁華街に出た。といっても、八王子は私の地元だから特別の感慨はない。何のことはない、私は体のいい
お守り役なのである。
お一人様二千五百円也の食べ放題・飲み放題に彼女たちがすっかり感激・堪能した後は、お定まりのカラオケへということになった。駅からの途中、「1時間
2千円」などといったカラオケ専門店がいくつも目に飛び込んで、それをきちんと記憶していたのか、彼女たちはあの店この店とそれぞれに推賞するのだが、ど
うも今一つ気が乗っていない。あ、そうか、と少し気づくのが遅れたが、要するに彼女たちは、私の行き付けのカラオケ・バーに行ってみたいのだ。八王子で飲
む機会でもあれば連れていってやるなどと、私は幾度となく空手形を切っていた。
それにしても人数が多すぎる。払いが大変なのはまだよいとして、女子学生ばかりぞろぞろ連れては鼻下長ヱ門と決めつけられ、店の諸嬢にその後さっぱりも
てなくなる。そんな懸念も一瞬起きたが、彼女ならこの学生諸嬢を盛り上げて必ず楽しませてくれる、との思いが勝って、たちまちラウンジ「上条」に行くこと
に決めた。年末・年始、多忙をきわめてとうとう一度も忘年会・新年会をやらず仕舞、そのためここ半年ばかり店にもずっとご無沙汰だったので、顔つなぎの意
味もなくはなかった。
「あぎゃんな歌、唄わんほうがよかと。先生にはこがん歌のが似合うと」
私が“九州男児”であることを知ると、九州・大牟田の出だというその女の子は突然九州弁でこう言った後、「無法松の一生」を唄いだした。三年前の、これが
みとせの初目見得だった。
小倉生まれで 玄海育ち
口も荒いが 気も荒い
無法一代 涙を捨てて
度胸千両で 生きる身の
男一代 無法松
バーやクラブで私の仕事が言い当てられたことはいまだかつて一度もない。まず半分以上の女の子たちが自信たっぷりに言うのが、“警察の防犯部長”か、
“土木・建築会社の部長さん”である。そんないかつい(?)顔の私が「赤と黒のブルース」を唄ったのでは、たしかに似つかわしくはないだろう。こちらの顔
をしっかりと見据えたまま朗々と歌い上げる彼女の高らかな歌いぶりは、その日少しばかり落ち込んでいた私をまるで諭すように元気づけ、一種不思議な感動を
覚えさせた。これは間違いなく、九州の女子だ、と私は思った。
もう十年は経っただろうか。九州・博多に出向いた折り、好物の蒲鉾を求めて、夕方、箱崎の魚市場に行った。蒲鉾は塩味の味付け・効き目が大事、だから誰
が何と言おうと、蒲鉾といえば下関、それもとりわけ仙崎のやきぬき蒲鉾である。だが、あいにくどの店にも隣県下関の蒲鉾は売り切れて何ひとつ残ってはいな
かった。残念そうに渋々と博多産の蒲鉾を注文する私を見て、店の若い女主人は、からからと高い笑い声を上げ、
「何しょんぼりしちょるねん。博多の蒲鉾だって味はよか。これみんな呉れるけん、よかったら次から買ってくれんね」
なんと、店に残っている蒲鉾を束ねて全部おまけに呉れたのである。
九州女は情厚くして剛毅。このイメージは、ささやかながら、最も多感な少年時代を過ごした九州での銘じて忘れがたい体験によってもたらされたものである
が、博多・魚市場でのエピソードは、それをいっそう強め、ほとんど神話のレベルにまで押し上げていた。
みとせは、そのときの女あるじを髣髴とさせる、きっぷのよい、背筋のきりっと伸びた、“女無法松”とも言うべきいなせな女性であった。
ホステスと言っても、昨今ではその半分はアルバイト学生、こちらが愛想を言わねば場がもたなかったり、何とも白けて仕様がない。そんなところに彼女が来
ると、たちまち賑々しくなって場が盛り上がる。私は行くたび彼女を指名し、彼女もまた指名がなくてもやってきて、来るたび「無法松の一生」を唄ってくれ
た。こうしていつしか、私は彼女と会話し、彼女の唄を聴くことを楽しみに「上条」に出向くようになっていた。だが、「無法松の一生」を聴くのは、彼女の朗
々たる唄いぶりに魅せられていたからだけではない。実はこの歌こそ、私の赤誠の友情ととんだ武勇伝に縁 をもつ思い出の一曲でもあるからであった。
「口惜しい。何とか懲らしめて、思い知らせてやりたい」
と、目の縁に真新しい青痣を作ったH君が、憤懣やるかたない風情で訴えてきたのは、大学を出てまだ間もない、梅雨明け直後の真夏真っ盛りの頃だった。場
末のバーでちんぴらにからまれ、眼鏡を払われて見えなくなった隙にパンチをかまされた。眼鏡も粉々、被害も甚大で、このまま泣き寝入りはできない、何とか
ならないかと言うのである。
友人はどうやら、家裁調査官を警察まがいのものと誤解しているらしい。私には、非行を犯した少年たちの身上調査こそすれ、権力的な力は全くなかった。だ
が、彼の気持ちにひとたび添えば、どうしてそんなことが言えようか。ましてH君は、学生時代からの一番の親友である。よしまかせとけ、と何の躊躇もなく早
速次の日そのバーに赴くことに即決して、日頃の友情に応えることにした。
H君は小柄で、一見柔和、しかし芯の確かな、なかなかの硬骨漢である。私が彼を友人と決めたのは、大学に入ってすぐの、新入生歓迎を兼ねた、学科恒例の春
の懇親スポーツ大会の時であった。当日、三年生との野球の試合で、H君が打席に入った時、ピッチャーの高めに入る山並みの球が突然失速して、それをかがん
でやり過ごそうとしたH君の頭に、ちょうどホームベースの真上で当たってしまった。もちろんボール球であったが、当たらなければストライクになったはずだ
と言って、ピッチャーがH君を非難した。それにH君が言い返したところ、態度が生意気だとばかりにその三年生のピッチャーが何やら激高し、マウンドを下り
てH君に詰め寄った。どう見ても理不尽なのは上級生の方であったが、野手達も、また観客の三年生も口々にH君に罵声を浴びせた。この時、よせばよいのに、
負けていられるかとばかりにH君が気合いを込めて一振りバットを大きく振ったから、たまらない。たちまち、H君をめがけて怒声が飛び、走る者が出て、騒然
となった。多勢に無勢、H君危うし! しかし、新入生の方は寂として声なく、ただ呆然と見守るばかりで、今日言うところの“傍観者”ばかりだった。だが、
助太刀・仲裁とはこういう時こそするものである。やおら侠気の血が騒ぎ、徒手空拳の押っ取り刀で、私はH君をかばう構えで躍り出た。
「大人げないぞ、やめろ、やめろ!」
時のはずみとは面白い。些細なことで騒ぎが始まり、それがたったこれだけのことで一瞬の間に治まった−。いつの時代も若者は血気盛んで未熟だが、それに
しても、危うい、あやうい。そして今、その時のピッチャー君が某有名私立大学の著名な心理学者、H君が超優良企業系列の会社社長とくれば、世の中もまた、
危うい、あやうい−。
と、それは置いて、私はそのとき以来、三つ年下のこの友人がすっかり気に入り、学生時代の四年間、さらに卒業後数年間、まさに親交を重ねた。そのH君の怒
りはまた、我が怒りでもあった。
西武池袋線椎名町駅から五分、表通りはまだ日が昇っていたが、その路地奥に入ると急に暮れて、明かりを灯したバー・食堂の看板がひしめき合っていた。薄
汚れた扉を開けると、縦長コの字の小さなカウンター・バーがあり、奥に一つ申し訳のように置かれたボックス席で、若い男が二人、うずくまるようにして飲ん
でいた。
「いらっしゃい」とカウンターの中から中年のバーテンが愛想の良い顔を向け、面長の気弱そうなその顔がまずは私を安心させた。しかし、彼は見かけによら
ずしたたかだった。暴行を働いた男の名をいくら問い質しても、「なにせ、一見のお客さんだったので」と、流しで水洗いする仕事の手を休めようともせず、白
を切り通す。
「本当に知らないんだね」
のらりくらりの対応に思わず苛立ち、つい声も口調も荒げたときだった。先刻から奥のボックス席でちらちらとこちらの様子を窺っていた男の一人が、もう我
慢ができないとばかりに立ち上がり、レコードのバックミュージックに合わせて歌いながら、肩を揺すってやってきた。
小倉生まれで 玄海育ち
口も荒いが 気も荒い
バーテンが私に悟られないように必死に目配せして制していたが、若い男はもう止まらない。
「**がどうしたって言うんだよ」
首をすくめ、声を低め、ドスも利かせて、脅してくる。要らざる面倒に巻き込まれるのではないかとの不安が、この所作を見て、一挙に消えた。むしろ扱いや
すいのが、この手の輩なのである。
「おう、あんた九州の出な。そんなら話が早か。おいは小倉の隣の若松ばい」
いつもは茫として鈍な頭が、こういう時は妙に回転が速くなる。私は、アゴ先がしゃくりあげたその若い男を少し見上げるような格好にはなったが、そのまま男
を見据え、節目をつけて唄いだした。
小倉生まれで 玄海育ちーっと
口も荒いが 気も荒いーィ、ィ、ィ…
勢いが止められ、男がたじろぐ。私はおもむろに背広の内ポケットから黒い手帳を取り出し、“東京家庭裁判所調査官”という肩書の入った名刺を抜き出し
て、顔は男に向けたまま、カウンター越しにバーテンの目の前に突き出した。
「仕事として来たわけではないんだけど、彼は友人なので、一応事情を聞きに来た」
「あっ、それはどうも」
バーテンがいっそう頭を低くした。すると、若い男がそれにつられるように、「あっ、すいません」と何やら頭に手をやって謝るではないか。
こうして私は、**の氏名と住所を聞き出し、その足で**の住む練馬に早速向かうことにした。
練馬駅から十数分、住宅地を抜けると急に開けて一面の畑、その道ぎわに一軒ぽつんと建った真新しい木造平屋のアパートだった。その西側、**の部屋から
は派手に音楽が流れ、男の声が唄っていた。それがなんと、バーで聴いてそして唄った「無法松の一生」である。どうやら村田英雄の唄に合わせて一緒に唄って
いるらしい。いかにもそれらしく、思い入れたっぷりに声を絞っている。とんとんと戸を叩いたが、全然応答がない。
今宵冷たい 片割れ月に
見せた涙は 嘘じゃない
女嫌いの 男の胸に
秘める面影 誰が知る
男松五郎 何を泣く
歌の切れ目のところで、今度は思いっきり戸を叩くと、
「うるせぇなぁ、誰なんだよぅ」
半開きの戸からぬっと出てきた顔は、先刻のバーでの仲間と見間違うほどよく似た、アゴのしゃくった色白の兄さんだった。
「**君? 先ほど、椎名町のバーに行ってきたんだけど」とここまで言うと、男はぱしゃっと戸を閉め、引きこもる。不意打ちだったに違いない。仲間がす
ぐ電話をしたとして小一時間、まさかこんなに素早くやってくるなんて−。
「失礼するよ」
戸を開けて中に入ると、そこは玄関兼台所。**はその奥の和室まで退がり、血走った目で私を睨みつけていた。ちょっと話が、と言って、上がって和室に入っ
た時だった。矢庭に**が私に飛びつき、肩に手をかけ猛然と押してきた。
「警察でもないのに、何しに来た。威張るなよ。俺が何をしたと言うんだ!」
馬鹿強い力に押され、不覚にも私は敷居に足を取られて後ろに転んだ。が、私の反射神経は咄嗟に**の胸ぐらを掴んで引き寄せ、倒れ際、右足で相手の左足
を払っていた。ものの美事に**は飛び、板の間を響かせた。その彼が立ち上がりざま、ひえーっと驚愕の声を上げた。
台所(玄関)入り口をふさぎ、まるで彼の退路を断つように、屈強な制服の警察官が立っていた。私もつい忘れていたが、それは、道を尋ねた交番でたまたま
身分を名乗ったところ、新開地だから分かりにくいということで、親切にもここまで案内してくれた若い巡査であった。
驚かずにはいられようか。投げつけられて気がつけば眼前に警官の仁王立ち。**は一瞬腰が崩れかかったが、今度は私の方に振り返り、再び猛然と飛びか
かってきた。と思ったのは錯覚だった。彼は、私の横を素早く擦り抜けると、和室西側の空いた窓から射し込む夕日の中に飛び出し、あっという間に消えていっ
た−。
あれもこれも、まさに瞬く間の出来事だったが、逃げる後ろ姿を見るまで、**が粋なピンクの背広を着ていたことに私は全く気がつかなかった。
「すいません、みとせさんは正月明けに辞めて九州に帰りました」
とアルバイトらしきホステスが言う。たちまち、ソファーに沈めた腰の芯から力が抜け、入れ替わって二つの思いが立ちのぼる。もっと早く来ればよかった、
否、この女の子たちをどうやったら楽しませることができるのだろうか−。
しかし、彼女たちは案ずるに及ばず、儀礼的な遠慮をちょっぴり交換した後は、あっと言う間にマイクをとって唄いだした。一曲、二曲、三曲、四曲・・・
と、たちまち私の番である。何にしようかと一瞬惑うと、
「赤と黒のブルース!」
と皆で異口同音にはやし立てる。
赤と黒との ドレスの渦に
ナイトクラブの 夜は更ける……
第一章が終わる間もなく、やんややんやの拍手と喝采。他のボックス席からも冷やかし半分の掛け声が入る。頑張って、とこれは左のアルバイト嬢。だが、声
がかかるほどに私の興は冷めていく。「そぎゃんな歌、先生には似合わんと」。あのみとせの声がどこからとなく聞こえるのである。
しかし、二章の途中、風邪のため早く酔いが回ったとかで右横でまどろんでいたA・K嬢のいつか醒めての囁きに、思わず胸が高鳴った。
「先生、すてきよ」
いつもは堅苦しいほど師弟の礼節にこだわる彼女の予期せぬ仕草。瞬時の間をおいて振り向くと、彼女ははや頭
を垂れて目をつむり、ひたすら私の唄に聞き入っている。うっすら上気した頬がいとも何とも心憎い。その横顔をじっと見るうち、その彼方向こうに、こちらを
覗き眺ているみとせの姿が浮かんできた。
“温泉に行きたいわ、連れてって”
“いいよ。ふたりっきりでなら”
“もち、そうよ。でも、きっとよ、ね”
かりそめの場所なら、どこでもこんな会話がよく交わされる。互いに嘘とも真ともつかぬ空約束だが、私にとってはいつしかそれがこだわりとなり、さらにもう
一つのこだわりを生んでいた。しばらく無沙汰をしたのも、もしかすると、その所為であったのかもしれない……。
再びまみえることがないと思えば、俄かに懐かしさがこみ上げる。その夜、彼女の豪快な、しかしどこか忍んだ歌声が、絶えることなく私の胸裡に響いてい
た。
泣くな嘆くな 男じゃないか
どうせ実らぬ 恋じゃもの
愚痴や未練は 玄海灘に
捨てて太鼓の 乱れ打ち
夢も通えよ 女男波
第十八話 「夜のプラットホーム」
妻が単身赴任となり、やむなく別居の仕儀となって三年経った。この間、私たちはそそくさと都心で落ち合い、軽く食事をしては東京駅で別れるという、せせ
こましいデートを幾度か重ねた。これがしかし、遠い恋人時代のそれに劣らず、楽しくもまた、なかなか切ないひと時なのである。
逢った瞬間はよい。少しやつれたように見えようと、何か元気がないように見えようと、ともかく無事の再会に安堵し、ひと時なりともまた伴侶ともがらとし
て温もりを交わせる歓びに心が躍る。が、五分も経てば、はや別れの時を思ってやるせなくなり、仕事の悩みがありはしないか、病でも得てはいないかなどと気
懸かりばかりが頭をもたげ、それを確かめる間もないまま、一、二時間の後には、ひたすら逢瀬の短さを恨みながら、東京駅京浜東北線のホーム上で車中の妻に
別れの手を振ることになる。そのとき私は、このまま永の別れになったらどうしようと、毎たびのこと、あろう筈もない出来事におびえ、家に帰って妻から無事
帰着の電話を受けるまでその不安をひきずるのである。
いつかある人が朝日新聞の『余白』というコラム欄に書いていた。いってらっしゃい、と元気に見送ってくれた留守居の妻が旅行中に急逝し、その後ずっと、
その突然の喪失感と悲しみから抜け出すことができない。余生こそ、そのまま人生の余白である……。何の面識もない人の話が、何故か痛烈に記銘され、爾来ど
ういう場面であれ、妻と別れるときは必ずと言ってよいほど、如何ともしがたく永劫別離の不安に囚われるようになった。
とは言え、同じ別れであっても、駅ホームでの送別は、とりわけ切なく、そして悲しい。明るいうちはまだよいが、暗い夜空に星でも浮かべば、それはまた殊
更である。妻が宇宙行きの列車に乗ってそのまま遠い星空の彼方に消え去ってしまうのではないかと、そんな思いさえ生まれてくる。そのようなとき、私はき
まって、周囲の視線を集めずにはおかない大げさな身ぶりで妻を恥じ入らせてしまう。右手を上げ、親指を立て、Vサインに変え、電車が動き出すと今度は両手
を上げて左右に揺らす。こうして私は、よぎる不安を振り払いながら妻を見送り、切ない別れを終えるのである。
どうしてプラットホームでの別れがつらいのか−。私には分かりすぎるほどよく分かっている。間違いなくそれは、胸底深く刻み込まれた、あの切々たるタンゴ
風歌謡曲とそれに纏わるまぼろしの所為である。それが証拠に、私は妻と別れた後、さえぎるものとてなく忍び寄ってくるその歌『夜のプラットホーム』を口ず
さんでは、時にうつつともつかずまぼろしを浮かべ、瞼を熱くしている。
星はまたたき 夜ふかく
なりわたる なりわたる
プラットホームの 別れのベルよ
さよなら さよなら
君いつ帰る
戦前、歌手・淡谷のり子のために作られたこの歌は、時勢に悖るということで、軍部によって発売禁止の憂き目にあった。戦後、二葉あき子によって歌われ、
彼女の持ち歌として広く知られているが、先年、作曲者・服部良一の追悼テレビ番組の中で、望外にも、淡谷のり子の歌うビデオが流された。清冽なソプラノ風
の裏声−。かく歌ってこそ、と思わせる絶唱であった。
この歌を初めて聴いたのは、そして心に深く刷り込まれたのは、東京から九州に渡った直後の昭和二三年、私がようやく思春期にさしかかった中学一年時の、
秋たけなわの頃だった。
ある夜、ふっと目覚めると、すだく虫の音の間を縫って歌声が聞こえてくる。歌好きの長兄のものとすぐ分かったが、それまで聴いたことのない、もの悲しい
韻きをもつ歌だった。耳を澄ますと、同じその歌ばかりが何度も繰り返されている。誘われるように起きて小窓から覗くと、外は耿々たる星月夜。その先の丘の
上に、銀色に映え、夜目にもくっきりと浮き立って、兄が歌っていた。
星はまたたき 夜ふかく
なりわたる なりわたる……
緩やかな南斜面の鉱山の住宅街(炭住)が行き着く小高い丘の一角にたった一軒だけで建っている小さな平屋住宅、それが当時私たちが住んでいたヤマの社宅
だった。西側はそのまま山に連なる雑木林、東側は次第に下って連綿たる田と畑、そして裏の北側はその先に大きな山並みをひかえる丘陵地帯。昨今では求め得
べくもない風光明媚のただ中にある特等席ではあった。
その特等席の一段小高いところで、東に向いて、兄はどこか遠方を望むように立っていた。何か神々しくさえ見える。窓を開けると、朗々として、なおかつ甘く
切ない歌声が伝ってくる。いつしか私も、うら悲しい気分に誘われていた。
ここでひとつ断ると、長兄の声楽的才能は並のものではなかった。高音はとりわけ声量があり、張りがあって、艶があって、伸びがある。テノール歌手になっ
ていたら、きっと成功していたにちがいない。楽器と言えばハーモニカぐらいしかない時代だったから、器楽の才は定かでないが、ことハーモニカに限っては、
そのバイブレーションやトレモロの技術など、当時の宮田バンドの人たちに較べてもけっして遜色なかった、否、むしろ優れていたようにさえ思う。この兄の
“音楽的資質”を示すエピソードを、昭和四九年十月十一日づけの日本経済新聞『交遊抄』から借りてこよう。
“5円の借金” 佐藤文男
私のいた高等学校は、春と秋にそれぞれ一曲ずつ寮歌を作って残してゆくならわしになっていた。つまり、一年に二曲だから、十年経つと二十曲になる。しか
し、例えば一高の「嗚呼玉杯に花うけて」の名曲のように、たくさんある寮歌の中でも殊に寮生に好まれ、ひいては下宿のおばさんまでも洗濯しながら歌ってく
れる寮歌は十数曲しかない。そのかなりのものは、諸井三郎氏の作曲になるものだ。しかも、それらは大正の末から昭和にかけて諸井氏が在学していたころの手
になるものが多い。
寮歌は、原則として在学生から作詞、作曲を募
集することになっていた。だから、全くの素人がこれに応じ、寮生の投票によって入選作が決められた。
昭和十七年の秋、私は作曲に応募した。高等学校一年生だった。楽器がないので、寮の押入の中でハーモニカを吹きながら五線紙にオタマジャクシを書いて
いった。武蔵野とくぬぎ林がやたら出てくる作詞だったので、自然、哀感を基調とした作曲になってしまった。生まれて初めて親元を離れた生活をする楽しさ
と、何となく寂しさを感ずる寮の起居であるだけに、そんな気分が作曲のトーンを作ったともいえる。もう少し明るい調子にしなければと思いながら、つい武蔵
野の夕日を見たりしていると哀調が出てしまった。
さて、この曲を出して忘れてしまった頃、寮歌の選定委員会から呼び出しを受けた。「一応入選したが、甲乙つけがたい曲がもう一つあるので、抽選にする」
というご託宣である。そして、その抽選の日がやってきた。寮の食堂の真ん中にしつらえた壇上で、私は自分の作曲した寮歌を歌った。たくさんの寮生が聞いて
いるので、自室で練習していた時のようにはうまく歌えなかったが、歌い終わると責任を果たしたような思いで疲れが一度に出た。次の作曲者がドナッて歌って
いるのを聞く元気もなかった。
やがて投票が終わり、その結果が発表された。驚くなかれ、全くの同数だった。委員会は、やむなく作詞者に託した。翌日、作詞者が私を講堂の裏に連れ出
し、“佐藤のを取るよ。哀感が気に入った”といって、ニコッとした
賞金は金五円也だった。あれから三十年も過ぎた今、友人とたまに会って寮歌でも歌うと、必ず本にのっていない寮歌を歌うヤツがいる。作詞者に指名されな
かった“作曲家”である。私は今、この友宗内尭君と一番親しくしている。たまに飲み屋で歓談したり、ヘタくそなゴルフを楽しんだりしている。建設会社の社
長をしているこの友に、五円の借金があるような気がして−。(東京都教育長)
寮歌ならば、怒鳴りもしよう。が、別れがさだめの哀歌なれば、思いのたけを抑えにおさえて、切々と謳うのである。歌から来るのか、兄の心情から来るの
か、遥けき彼方へつづられゆく慕情がひしと伝わり、何か見てはならない、聴いてはならない気持ちに襲われ、窓を閉めて布団に戻ると、いつ覚めていたのか、
横からすぐ上の兄が、低めた声で言い出した。
「別れてきたんだよ、東京駅で、兄貴は」
少しばかり嘲弄的な言い方が気になったが、三兄が何を言っているのか、すぐに分かった。作り話とは思えず、それは全くリアルに聞こえ、と、たまらなく長
兄が可哀想に思えた。東京からこの九州はとてつもなく遠い、だから兄は二度と恋人に会うことができない……。
ひと月ほど前、私は東京から九州までひとり旅でやってきた。汽車が発つとき、“着いたらすぐ手紙を呉れるんだよ”と母が念押すように何度も言った。何故
そんなにくどく言うのだろうと思ったが、その意味が分かるまでそれほど長くはかからなかった。一昼夜をかけて、くたくたになって、筑豊線に乗り換えるため
朝霧に煙る折尾駅に降り立ったとき、母の居る東京からの長さと遠さをしみじみ思い、悲しくなった。しかし、さらなる実感が湧いてきたのは、言われた通り手
紙を書き、そして一週間後にようやく、消印が三日前の母からの返事を受け取ったときである。この九州の片田舎からは、もはや東京はかりそめに出向くことな
どけっしてできない、遠い憧憬の地なのだと、つくづく思った。
その遥か彼方の東京で別れてきたのだから、兄がその恋人と会うことなどは二度とはない。子供心にそう確信したとき、歌の歌詞そのままに、突然兄たちの別れ
のシーンがぼーっと瞼に浮かんできた。
満天の星、喧噪のプラットホーム、別れのベルが鳴っている。それでも二人は、車窓を挟んで凝視め合ったまま黙っている。汽車が始動し、止みがたいように
恋人が一歩躰を動かした。しかし別れの言葉は、小さく手を上げ、“さようなら”だけのたったひとこと。兄は黙ってうなずくだけだった。汽車が去って、人が
去って、ひとりホームの柱に凭れ、彼女は呆然と佇んでいる……。
ひとは散りはて ただひとり
いつまでも いつまでも
柱に寄りそい たたずむわたし
さよなら さよなら
君いつ帰る
まぼろしのようなこの情景が、歌とともにそのまま胸底深く刻み込まれた。爾来、それが現実のものであれ仮想のものであれ、駅ホームでの別れのシーンに出
会うとき、私は一瞬なりともこの歌、このまぼろしを呼び起こさずにはいなかった。それは、戦後の混乱期、大学卒業直後から(父が復職するまで)六年間もの
長きにわたって、浮いた話ひとつ無く、物心ともにひたすら家族のために青春を費やした長兄に対する贖罪意識のなせる業だったかもしれないが、まして私自身
の雪の小城駅での別れを経てから、二つのまぼろしが融け合って、私を捉えてけっして離さぬ心象風景が醸し出された。
大学を卒業したその年の、秋が終わって風の冷たくなる頃だった。誰に紹介されたのか、デザイナー志望の闊達な女性と交際していた。互いに気も合い、親密
度は次第に増していったが、ある夜かなり遅い時間になり、帰路の長い私が新宿駅中央線ホーム上で見送られることになった時である。電車の乗り際に、彼女が
背中越しに弾んだ声を飛ばしてきた。“じゃ、今度は明後日、いつもの所で、いつもの時間で、ねっ”。そして、振り向く私に一振り手を振ると、さっときびす
を返して立ち去った。
発車前の電車、開いたままのドア、彼女の影も形も全く見えないプラットホーム−。乾いた冷たい風が車内に吹き込み、それが胸から背中を透かして通る。何
かが違う、いや、全然違う、と心のどこかが呟いた。電車が動き、吊革に縋って、揺られるままに暗い天空を見上げていると、私はいつしかモノクロ幻灯の世界
に誘われ、雪降る夜のプラットホームで一人の見知らぬ女性に見送られていた。雪間がくれにかすかに手を振るその人は、どこか懐かしい面影をもってはいた
が、しかし全く見知らぬ人だった。それが誰だか確かめる間もなくホームは遠のき、やがて彼女は降りしきる雪の中に吸い込まれ、私はひたすら涙していた。
夢の中でしばしば出会うシーンだった。私はこれを何度も瞼の裏に再現しながら、やがてこのまぼろしの世界に没入してゆき、その陶酔の中で、私を置いて味
気なく急ぎ足で去っていった人との先行きの短さを予感していた。
心交わし合う者同士の別れならば、それはいかにかりそめのものであろうとも、いつ訪れるやもしれぬ未来永劫の別離と等価な悲しみをもって臨むものでなけ
ればならない。ひとつの歌とそのまぼろしが、私をいつしかそう思いこませるようになっていた−。
妻を見送り、私が手を振る。この定番の別れの図式が、先日たまたま逆になった。いつもより少し時間が遅くなったので、その日は京浜東北線ホーム階段下の
地下道で別れ、中央線ホームに急ぎ、発車間際の高尾行き特別快速電車に乗ろうとしたときである。“あなた”と呼ぶ差し迫った声が聞こえて振り向くと、私の
手許を指さしながら慌ただしく妻が走ってくる。そして来るなり私の手から荷物を奪って私を電車に押し込んだ。彼女の重い仕事鞄を持ってやったまではよかっ
たが、戻すのをすっかり忘れていたのだ。
ドアが閉り、振り返ると、妻がガラス一枚挟んで寄り添うように立っていた。走ってきたせいだろう、息を弾ませ、上気して少しばかりあえいでもいる。それ
が何とも新鮮で、つい今し方まで一緒にいたとは思えないほど懐かしかった。私は一瞬、気持ちが昂ぶり、ドアが開いてくれないものかとさえ願ったが、束の間
に電車は動き出し、胸元で小さく手を振る妻をたちまち視野から振り切った。
派手なアクション、それが私の別れの出し物だったが、ゆとりをなくして忘れたばかりに、その夜の名残は一入だった。
窓に残した あの言葉
泣かないで 泣かないで
瞼にやきつく さみしい笑顔
さよなら さよなら
君いつ帰る
やがて、妻とまぼろしのかの人とが重なり合って一体となり、遠く私に手を振っていた。
いつかは必ずやってくる永劫の別れ−。私はその夜、浮かびくるままに『夜のプラットホーム』を歌い、限りなく妻を恋うた。
第十九話 「有楽町で逢いましょう」
大学に入学した直後のことである。母を誘ってどこぞの映画館に入った。映画の題名も同じだったように思うが、映画の冒頭に歌手のフランク永井が粋な背広
姿で登場し、甘く切なく唄い出す。これが『有楽町で逢いましょう』だった。
あなたを待てば 雨が降る
濡れて来ぬかと 気にかかる
ああ ビルのほとりのティ−・ルーム
雨もいとしや 唄ってる
甘いブルース
あなたと私の合い言葉
「有楽町で逢いましょう」
残念ながら二人とも夭折して今はないが、主演は当時の青春スター、川口浩と野添ひとみ。その愛くるしい都会生活の華やぎに陶酔した。ふと隣を見ると、母
は椅子席に正座して居眠っていたが、そんなことには構わず、私は食い入るように映画の流れに酔い、いつかはあんな風に恋人同士で銀座・有楽町界隈を歩いて
みたい、と心を躍らせたものだった。
戦後の復興も本格化し、銀座・池袋・新宿・渋谷など、盛り場に点在して残っていたビルの焼け跡が次々に埋まって高層ビルが立ち並び、東京が華やかに変貌
して若者たちの憧れの地になっていった時代である。
「僕の恋人東京へ行っちっち、僕の気持ちを知りながら、なんで なんで なんで、どうして どうして どうして、東京がそんなにいいんだろ、僕は泣いちっ
ち、横向いて泣いちっち、淋しい夜はいやだよ、僕も行こうあの娘の住んでる東京へ」(浜口庫之助作詞・作曲『僕は泣いちっち』昭和三五年)と、全国の若者
が歌っていた。
私の就職先の選定も、もしかすると、東京から二度と離れたくないという思い(本音)で決められたのかもしれない。数年毎に全国各地に転勤するのが当たり
前の労働省や法務省に対し、(現在では多くの行政官庁と全く同様になっているが)当時の家庭裁判所では、初任採用された庁を転勤することがないという建て
前と実態を調査官採用時の切り札とし、(特に東京・大阪などの大庁では)それをことさら強調して採用に当たっていた。『有楽町で逢いましょう』にどこまで
引きずり込まれたかは分からないが、とにかく私は、東京家庭裁判所に入り、大学に移るまでの十一年間、朝と夕べに日比谷公園を通り抜けて有楽町駅と霞ヶ関
官庁街を往来し、夜は憩いを求めてしばしば、有楽町・銀座界隈の華やぎを楽しんだ。
こうした年月のなかでも、喜怒哀楽にまみれてとりわけ思い出深いのは、霞ヶ関の本庁を離れ、築地と勝どき・晴海を結んで隅田川に架かる勝鬨橋の袂にあっ
た少年交通部に通っていた二年間である。
結婚前の、ちょうど三十代にさしかかる昭和四十年の四月、私は築地の交通部に配属された。当時、車社会の進行で少年交通事件が激増し、交通部は日比谷公
園内にあった少年部庁舎からはみ出し、築地魚市場に隣接する旧海軍経理学校の敷地建物内に移転していた。その交通部庁舎(勝鬨橋袂)と有楽町駅とは、銀
座・築地を一直線に貫通する晴海通りを歩いてほぼ二キロ近く隔てていたが、私は毎日、朝の通勤時はともかく、夕べは必ず歩いて戻った。何故、バス・都電な
どを利用しなかったのか。答は簡単である。声には出さず、気づきもせねど、銀座・有楽町を歩きながら、私の心はどこかでいつも『有楽町で逢いましょう』と
『銀座の恋の物語』(昭和三六年)を唄っていた。日本一の繁華な街並にすっかり魅せられ、酔って、因みに私は、まっすぐ有楽町駅まで行って電車に乗った覚
えがさらさらないのである。
同僚の、ほぼ同年齢のT・I・Kの三氏らと連み、しきりに界隈を歩き巡った。まずは晴海通りと銀座中央通りが交差する銀座四丁目角のビアホール『ライオ
ン』で二、三杯ジョッキを干して、さてとばかりに出立する。といっても、しゃれた遊びができたわけでは全然ない。雀荘に入ったり、ロードショーを観たり、
今なら何ということもないが、せいぜい有楽町駅前の日劇ミュージックホール(現阪急デパート)で日劇ダンシングチームの乱舞やカルーセル麻紀の妖しげな踊
りに打ち興じた程度で、何が何だと言うこともなく、大都会の繁華なざわめきに共鳴し、胸たぎらせていただけである。ご多分に漏れず、売り子嬢や窓口嬢の品
定めを兼ねてデパート・銀行を覗き回り、屯する場所を求めてはあちこち喫茶店を巡ることはあっても、かの令名高き銀座のバー街には遂に一度とて足を向ける
ことはできなかった。
そうこうするうち、私たちは有楽町駅南側に横たわる通称“すし屋横丁”で仕上げの酒杯を酌み交わすことが多くなった。今では整然と、そのあたり一帯は交
通会館周辺道路となって跡形もないが、当時は東西に長く、ちょうど上野・御徒町間に横たわる“アメヤ横丁”をタテ・ヨコともに何分の一かに縮小したよう
な、戦後の闇市バラックを彷彿させる飲食街があった。どの店も安く、旨く(と当時は思っていたが)、夕刻からは仕事帰りのサラリーマンで立て込み、雑踏す
る賑わい横丁だった。すし屋横丁というくらいだから、多分、寿司屋がたくさんあったのではないかと思うが、私の記憶には、道路との間に仕切のない、そのま
ま店内が見通しになる薄汚れた焼鳥屋や赤提灯の類しか残っていない。二人、三人、あるいは四人で、あそこの親父は愛想がいい、あそこの店には可愛い娘が
入ったなどと理由をつけては店を選び、終電近くまで、ここで安酒をよく飲んだ。
このすし屋横丁のほぼ中央部に、急な階段をきしませながらとんとんと二階に上がると、どれも古びて薄汚れた感じの辺りの店構えとは少し違って、磨き抜か
れた重々しいドアを構える『律』という名のバーがあった。場所が場所だから大したことはないだろう、とふと入ったところ、ようやく七、八人が並べる程のカ
ウンターと、それと背中合わせに四人掛けのボックス席が四つ並んでいるだけの小さなバーだったが、女優の八千草薫によく似た、小柄で細面のなかなか美形の
ママさんがいた。ホステスも五、六人はいて、みなほどほどに若く、美貌だった。私とT君はたちまち虜となって、それから一年程も、毎月安月給の大半をここ
に入れあげることとはなった。
初めは月に一、二回だった。そのうち、良いお客さんだから付けにして欲しいと店から言われ、そうなると月に数回、やがて毎週一、二回は行くようになり、
月給袋を持って支払いにいくと、あとはもう毎日の昼食代ぐらいしか残らなかった。それでも私はせっせと通い、“あたし、茶水(お茶の水女子大)よ”という
言葉も信じて、三月も経った頃には、美形のママにすっかり夢中になっていた。
ある日、役所で執務中、彼女から突然、電話が入った。
「ムーさん、あたし風邪引いて今、ベットに寝ているの。見舞いに来てよ」
私は欣喜雀躍、早々に退庁して、言われるまま大田区・大森まで飛んでいった。
当時としては恵まれた、バス・トイレ付きのアパートだった。女性の部屋に入るのが初めてなら、ネグリジェ姿の女性を見るのももちろん初めてで、おどおど
するばかりの私に彼女は茶を入れ、私の手みやげのカステラを切って、やさしく接待してくれた。しかし結局、何するでもなく時間が経ち、帰るほかには方策が
なくなった。その帰り際のことだった。
「ムーさん、あたし宝石たくさんもってるの。一緒に見てくれる?」
そう言って彼女は、朱塗りの小箱を大切そうに運んできた。中には指輪・ネックレスの類がびっしりと詰め込まれていたが、彼女はそれをいとおしそうに一つ
ずつ取り出し、ルビーだ、プラチナだ、何カラットのダイヤだのと、いちいち解説してみせた。そして全部見終わると、しみじみとつぶやいた。
「あたしのような女に一番頼りになるのは、やっぱり宝石。これしかないのよね」
彼女は一瞬、ぽーっとした目で、空を見るような仕草をした。
当日、一、二時間は居たと思うが、私はほかに、何をし、何を語ったのだろうか。何か孤独に感じられた彼女がただただ愛しく、弥増す思いを抱いて帰路につ
いたことだけしか覚えていない。
前にも増して通い詰めるようになっていった。師走も近い頃だった。誰ぞの結婚式に出るとかで、妹が九州から上京してきた。その妹を『律』に伴い、さりげ
なく彼女を見せて、帰り道、彼女と結婚したい旨を打ち明けた。妹は、あきれ顔の中に、それ以上はない程の真顔を重ね、即座に反対を表明した。
「ずい分年上に見えるし、それにお茶の水を出てるなんて、嘘もいいとこ。茶水がお茶の水にあるだなんて言ってるわよ」
バーなどに行く妙な成り行きから、妹は咄嗟に察知して、ひそかに彼女を観察・吟味していたのだろう。だが、それ位のことで治まる熱ではけっしてなかっ
た。それどころか私はかえって、いつ結婚を申し込もうかと、その時期を熱心に窺うようにさえなっていった。
ところが、年明けしてから、私の気持ちとは裏腹に彼女の態度が急によそよそしいものとなった。私(たち)の席にはほとんど付かず、アパートに電話しても、
忙しいからまた後で、というように、手の平を返したとしか言い様のない応対である。急転直下、私はたちまち、陰鬱・悶々の日々を送るようになってしまっ
た。
当時住んでいた三鷹の家の近くの商店街に、『良』という馴染みのバーがあった。四つ、五つ年上の良子ママは、江戸っ子気質の気っぷの良い人だった。いつ
の間にかそこを終着に飲むようになっていたが、ある日、早い時間に独りでそこを訪れたとき、まだ客はなく、すると彼女が親身な顔で問いかけてきた。
「ムネちゃん、元気ないね。女のことじゃないの? 分かるよ。聞かせてよ」
大学の卒業直後からずっと、H君らとよく通い、気心の知れた間柄でもあった。私にとって、胸の内を明かすにはもってこいの人物だった。話を聞き終えると、
彼女はぽんと胸を叩いた。
「わたしに委せて、ムネちゃん。同業の好誼ってものがあるから、わたしが訊けば、そのひと、ムネちゃんをどう思ってるのか、話してくれるよ。電話教えて」
藁にも縋る気持ちで電話番号を教えると、彼女は出勤していた女の子を買い物に出し、目の前でダイヤルを回して早速『律』に電話を入れた。
確かに最初は穏やかに話し合っていた。そして、彼女は“ムネちゃん”がどんなに純情で好人物であるかを懸命に説いていた。が、次第に激して、最後には、
「お節介だって? あ、そう。いいわよ、分かりました。なら、二度とそちらには行かせません。いえ、あなたなんかにムネちゃんを絶対に渡せません!」
と、がちゃりと激しく電話を切った。酔ってのぼせてもいたから、私には細かいやりとりは聞き取れなかったが、相手から何を聞き、また何をやり合ったの
か、彼女は目をつり上げたまま私を見据え、“あんな女、忘れてしまえ。ムネちゃんなんかにけっして見合う女じゃない”と、吐き出すように言ったかと思う
と、私の飲みかけのビールを一気にあおり、
「飲もう、飲もう。 今夜はわたしがおごりだ。あんな女に負けてたまるか!」
そして今度は、にっこり笑って、包み込むような眼差しで私をしっかり凝視め直した。
男女の仲は、互いの思いが綾なす中で、ささいなことで燃えもし、冷めもし、移ろいもする。何に糸口を掴んだのか、一夜明けると、悶々の思いはさっぱりと消
え、彼女に対する未練はかけらも生じてこなかった。それどころか、今から思えば呆れてものも言えぬが、そのほとぼりも冷めぬ中に、私はすぐに次なる“恋
人”を作り出していたのである。
今度は、全く好対照に、アルバイトとしてかりそめに『良』に入ってきたみっちゃんという、ふっくら下膨れのおぼこ娘だった。『律』で遊んだ経験は、乙女
の初々しさをすぐに察知し、感応して、たちまち見染めて熱を上げた。それも、誘い出した何度目かの食事の時に早くも“みっちゃんみたいな人と結婚したい”
と言い出す始末だった。しかし、彼女は窮して顔を歪めこそしたが、格別に私を拒もうとはしなかった。知り合って三ヶ月目、私は遂に、彼女と銀座四丁目角・
服部時計店(現「和光」)の大時計下で落ち合う約束をとりつけた。
あなたを待てば 雨が降る
濡れて来ぬかと 気にかかる
ああ ビルのほとりのティ−・ルーム
雨もいとしや 唄ってる
甘いブルース
あなたと私の合い言葉
「有楽町で逢いましょう」
銀座・有楽町でデートする。念願かなうその当日は、朝から五月雨が降りやまず、まさに歌詞そのままの、格好の舞台が整った。約束の時間は午後一時、役所
で待つ身の胸元からは絶えずこのブルースがこみ上げて、仕事中も思わず知らず、口ずさんでいた。
心にしみる 雨の唄
駅のホームも 濡れたろう
ああ 小窓にけむる デパートよ
今日の映画は ロードショウ
かわす囁き
あなたと私の合い言葉
「有楽町で逢いましょう」
*注 お茶の水女子大 通称、茶水。所在地は文京区大塚。地下鉄茗荷谷駅下車。
第二十話 「バラが咲いた」
先に行って待ってなくては……。逸る気持ちに押し立てられて、私は約束の時刻(一時)より三十分も早く行き、雨の中でもなお雑踏する銀座・晴海通りの歩
道上で、大時計を見上げては胸ときめかせ、今か今かとみっちゃんを待った。しかし、どうしたことか、三十分たっても四十分たっても、それどころか、一時間
たっても、また一時間半が過ぎても、彼女はいっこうに現れない。二時間たってようやく諦めたときには、いつの間にか大時計を見上げることができないほどの
土砂降りになり、ズボンは腿のあたりまでびしょ濡れだった。
年休を取ってはいたが、そのまま帰るには辛すぎて、タクシーを拾って役所に戻った。事件呼出しのない日だったので、皆どこぞに出かけ、七人の室員の中、
部屋には私より年少の、隣席の若い女性調査官ひとりしか居なかった。彼女は一瞬“あらっ”という表情をしたが、私の風情から何を読みとったのか、頬元に微
笑を浮かべ、声はかけずに軽い会釈で迎えてくれた。
実は、つい有頂天になりすぎて、彼女には今日のデートのことを、洗いざらい打ち明けていた。どこで落ち合い、どこに行って……。その上、まるで出征兵士
のように、出掛けには大きく手を振って御出立という、おまけつきだった。
面目なくて、帰って来られた義理ではなかったはずだが、何故か彼女の隣りが居心地よかった。そして聞いて欲しくて、仕事も始めず彼女の手が空くのを待ち
続けたが、その手は一向に休まる風なく、私は遂に辛抱できなくなった。
「けしからん、来なかった。二時間も待ち惚けを喰っちゃった」
独りごつように語りかけると、彼女はすぐに手を休めてこちらを向き、微笑みながら応じてくれた。
「あら、場所を間違えたのじゃないかしら」
こともなげな、屈託のない声−。努めてそう振舞ってくれたのは判ったが、愚かにも、私はここで、思わず反発してしまう。
「そんなはずないよ。あの服部時計店の大時計は、間違えようたって間違えようがない」
「それじゃ、時間の方を違えたのかしら」
と、今度は取りなすような言い方だった。どう応じようかと一瞬詰まったとき、目の前の電話が鳴って、それが待望のみっちゃんからのものだった。が、それ
も束の間の喜びにすぎなかった。なんと、彼女はまだ三鷹の自宅を出てもいないし、その出られない理由がまた、雨靴が無いからというのである。
私はすっかり、心のゆとりを失くしてしまった。どんな靴だって、気持ちさえあれば雨の中を歩けないことはないはずだ。なんだ、この程度にしか思われてい
なかったのか−。そう受け止めると、怒りと悲しみばかりが先に立ち、言い訳を聞くのも匆々に“分かった。もういいよ”と、突き放すように電話を切った。
「雨靴がないから来れないんだって。そんな馬鹿な話があるもんか」
やりとりを聞いていた彼女に、憤懣やるかたなく同意を求めると、彼女はここでもなかなか冷静だった。
「でも、こんな雨なら、私でも雨靴なしには出られないわ」
「相手がどんな人でも?」
「その時は靴を買いに出るかしら」
「そうだろう。やっぱり雨靴がないなんて、言い訳だよね」
「でも、お金が無かったらどうしましょ。そういう人もきっといると思うけど」
言い負けて、思わず立って、部屋の片隅にある三角出窓の窓際まで辿っていった。私は、貧しく育ってきたはずの自分の方が貧しさに対して洞察がなかったこと
を、少しばかり、恥じていた。
小窓を押し開けると、横殴りの雨がさっと飛び込み、たちまちカウンターがびしょ濡れた。慌てて窓を閉めたが、一瞬、隅田川上の勝鬨橋が横縞を描きながら
走る茫々たる雨足の中に見え隠れする様が見え、思わず心の中で呟いた。
「靴がないと、やっぱり無理なのかなぁ」
しかし、私はそれでも、飛んで雨中をやってきてくれなかったみっちゃんに失望し、これもまた一方通行の片情けだった、と抗いようもなく痛感していた。
その年、昭和四一年、たくさんの若者達の共感を得て、広くソフトに流行した歌がある。当時は、経済成長が軌道に乗り出し、世の中全体が急速に豊かになっ
ていった時代である。高校・大学への進学率は年々急上昇し、数少なくなった中卒者は“金の卵”と称されてそれへの求人率は五倍(労働省、昭和・年)に達す
るなど、若者に対する環境も一変して、太陽族・六本木族など一握りの恵まれた家庭の子弟ならずとも、たくさんの若者達がそれなりに青春を楽しみ、未来に向
けて夢が持てるようにもなった。その夢と現実を素朴に投影して生まれたのが、この歌『バラが咲いた』である。
バラが咲いた バラが咲いた
真っ赤なバラが
淋しかった僕の庭に バラが咲いた
たった一つ 咲いたバラ
小さなバラで
淋しかった僕の庭が 明るくなった
バラよ バラよ 小さなバラ
いつまでも そこに咲いてておくれ
バラが咲いた バラが咲いた
真っ赤なバラで
淋しかった僕の庭が 明るくなった
こうした中で、私もまた、誰彼と同じように、赤いバラの花を咲かせようと、懸命に青春をさまよっていた。けれども、“恋”に憧れ、人恋しさで迫るだけで
は、あまりにも幼すぎて、いつもどこかが行き違い、花を咲かせるまでには至らない。『律』がそうで、みっちゃんがそうで、他にも一、二そのようなことがな
かったとは言い切れない。
「靴がないと、出られないのかなぁ。そんなものなのかなぁ」
小窓から外を仰ぎ、激しい雨音を聴きながら、問わず語りに背なの彼女に問うてみたが、返事がなかった。振り返ると、吹き出したいのを必死に殺して、彼女
は無理矢理書類に目を通していた。それがしかし、何とも惹かれる横顔だった−。
そのうら若き女性は、前の月の五月の初め、空席だった私の隣に、横浜家庭裁判所から転勤・配属されてきたばかりだった。どうしてあれほど騒がれたのか、
欠員充足が決まって赴任してくるまでの半月あまり、彼女は井戸端会議の格好の材料となり、庁内で噂話が飛び交った。曰く、東大出身、名家の出、父親は高名
な小児科医。うそかまことか、元〜妃候補、後盾は旧華族の**高裁長官。気立ては明るく、控えめで、気位もけっして高くはない……。わざわざそうした情報
をもって、(隣同士になる)私の反応を窺いに来る物見高い野次馬が幾人もいた。しかし、当時の東京家裁には東大出の女性や美形の独身女性が結構居たので、
それほど大きな関心を引き起こされることもなかった。それが赴任前日、彼女が赴任挨拶のため来庁し、一見してあの時の“少女”だと分かったときには、思わ
ず胸が高鳴った。
四年前の夏の盛り、家裁の調査官試験は神田駿河台にある明治大学の大教室で行われた。最後の試験科目が時間半ばになった頃である。前の方で物音がし、顔
を上げると、一人の女子受験生が立ち上がり、席を離れるところだった。その耐える表情から生理的痛苦による退室ということはすぐ分かったが、それより私
は、高校生とも紛う彼女の幼気な面立ちにすっかり気を取られていた。目元涼しく、鼻筋通り、頬まろやかに、小さな口元……。小麦色に日焼けた肌に純白のブ
ラウスがきりりと締まって心地よい。見惚れるほどに、彼女は細目に開いた前方のドアから身を回すように出ていったが、そのとき、白いスカートの裾がふわり
と舞って、彼女を追うかのようにゆらりと弧を描きながら狭い戸口をすり抜けた。それを目で追う一瞬、私の胸裡に甘い香りがほのかに生まれ、それがたちまち
胸一杯に広がったから妙である。私はその感動の赴くまま、もう一度彼女を見たいと切に願った。けれども、彼女が再び入室してくることはなく、試験終了後、
もしやの思いで辺りを見回してもみたが、やはりどこにも見出すことはできなかった。その深い落胆の中で、どういう訳か、私はふとわが身を振り返り、彼女の
若さと、自分の年齢とを思い較べた。あるいは自嘲こそ、当時の私に最もふさわしい感慨であったのかもしれない。その日その時、私はひさびさ、遅れた人生を
慨嘆することとはなった。
感動と慨嘆、それが奇妙にミックスした感慨が、いつまでも“少女”を懐かしいものとしていた。彼女が同職の身になっていたなど夢にも知らず、私は折にふ
れては思い起こし、しみじみ彼女を偲びもした。その彼女に“再会”し、しかも隣り同士になる。よもやのことに私は震え、何やらそこに運命的なものさえ感じ
ていた。
彼女が着任して数日後、庁舎の近くの食堂に気の合った若者達が集い、歓迎と懇親を兼ねて昼食会を開いた時である。私たちのいつもの常で、面倒でないから
ランチで統一しよう、と誰かが言い出した。が、私は咄嗟に彼女の顔色を見て、“いや、今日は各自で注文しよう”と遮ると、間髪入れず、彼女が応えた。
「あら、私に気を使ってくれたのね。じゃ、私はムネウチさんと同じにするわ」
これを境に、私たちは日ならず打ち解け、親しくなった。冗談を言い、打ち明け話を交わし、昼食を共にし……、そしてその横顔をそっと覗き見しながら、私は
日増しに彼女に傾いていく。が、その一方で、私は深まる気持ちをいじましいほどに抑えることも忘れなかった。どう考え直しても、彼女は高嶺の花だったので
ある。
もしかすると、みっちゃんへの思いも、彼女に対する気持ちを抑える自己防御の方便だったのかもしれない。だからこそ、敢えて彼女にデートを打ち明け、は
しゃいでもみせた。
それが、みっちゃんが来なかったこの只今、彼女の横顔を眺ている中に、私はふいと、遠慮なく彼女に惹かれていっても許されるような気持ちになった。
「ねぇ、靴がないと、やっぱり無理なのかなぁ」
もう一度、今度ははっきり彼女に向いて問いかけてみたが、やはり下を向いたきり、返事がこない。その代わり、“うふっ”と小さな声を洩らして、目元が微笑
い、小さな口元が微笑っていた。いつもはそっと覗き見するばかりの彼女の横顔−。それをまじまじと凝視めるほどに、抑えていた気持ちが一気に溢れ、思いも
かけぬ言葉が咄嗟に口をついて出た。
「ねぇ、銀座あたりで、夕食、つきあってくれませんか」
彼女は一瞬、弾かれたように顔を上げ……、が、やはりこちらは向かず、しかし、一息つくほどの間をおいてから、胸奮わせる返事をくれた。
「あら、それはとっても楽しいわ」
青春に浮かれ、恋猫よろしくうろつき回ってばかりいた、というわけではけっしてない。仕事はきちんとこなし、家裁調査官職を研究職とも心得、『精神病質人
格』を生涯のテーマと決めて、内外の文献を読み漁っていた。そしてこの時期、少々苦くはあったが、人を知り、世の中を知る貴重な体験もいくつかもった。と
りわけ、二つの事件が印象深い。
交通部に行って二年目、組合の交通ブロック長に推された。といっても大した役割があるわけではなく、組合本部から伝達されてくるものを会議や文書で組合
員に下ろすだけの仕事である。だが、これがどうも肌に合わない。当時建設会社の社長をしていた長兄によれば、私はとんでもない“赤分子”になるのだが、左
寄りの人たちからは随分と右寄りの人間ということになる。要するに私は、左右どちらの側ともなじめない体質だった。
私と同年のA・Kさんは、信念のある、まっすぐな人物で、退庁時間後も毎日のように居残り仕事をしていた。これがしかし、“組合”の中で問題になった。
曰く、出世主義だ、(上に)残業が当たり前のように思われてしまう、組合の連帯意識を壊すものだ……。そこで(組合上層部から)K氏をどう糾弾するかを
テーマに臨時のブロック会議が企画され、私にその招集・運営の指令がきた。理不尽すぎると拒み続けていたところ、ある日、私の知らぬ間にその会議が開か
れ、しかも私はブロック長を解任されていた。
この出来事と前後して、K氏との間には心温もるエピソードが一つある。私が交通違反少年に対する交通講習の主任を承った時である。講習が終わって後始末
をしているとき、事務局の誰かが誤操作をして、外部の交通専門機関から借用していたテープレコーダーの講習用テープを消してしまった。一瞬、皆青ざめた。
と、一人が“俺、知らね、俺知らね”と外れると、後始末もそこそこに、次々とKさん一人を除いて美事にみんな居なくなった。そのときのKさんの言葉は、今
でも私の耳に残っている。
「大丈夫ですよ。安心してください。ぼくも一緒に謝りにいきますよ」
私たちを置き去りにし、冷たく立ち去った面々こそ、陰に陽に、Kさんを非難し、誹謗していた人たちだった。
真夏真っ盛りの暑い日だった。私は警視庁少年二課に汗をふきふき出頭していた。あろうことか、飲み仲間・勉強仲間のY調査官が、事件担当する鑑別所収容
少年への強制わいせつ行為で逮捕され、参考人として呼ばれたものである。
警察は、司法手続き上の重要な関連機関で、いわば仲間である。それがまさか、あのような態度に出るとは思わなかった。確かに、初めこそ“先生、お忙しい
ところをどうも”と慇懃だったが、五分と経たない中に豹変し、無礼千万極まった。
家裁上層部から聞かされていた出頭理由は、Y氏の性格・行状についての参考資料を得るための協力、ということだった。が、話はすぐに、Y氏が“研究資
料”として撮ったと称する少年達の局所写真の所在追及に転じていった。
「親しい仲間に預けたとYが言ってるけど、もしかしてあんたじゃないのかなぁ」
完全に、共犯容疑者としての扱いだった。私は関係性の急変に戸惑い、生来の汗かき体質とこみ上げる怒りとで、どっと汗を噴き出した。それをどう受け取っ
たのか、目つき・声色まで一変させ、二人の刑事が嵩に懸かって攻めてきた。
「あんた、持ってんじゃないの。隠さないでよ」
と、中年の刑事。
「あんたに渡したと、Yが言ってたよ。正直に言ったら、どう」
と、若い刑事。
“警察は〈公的〉やくざだ、だから怖くて嘘の自白や供述をしてしまう、一度調べられてみたらよく分かる”、とは少年たちの戯れ言と聞き流していたが、こ
こで激しく実感できた。こんな連中に遠慮は無用、速戦即決にこしたことはない。私はついと立って、両手でテーブルを思いっきり叩くや、一喝した。
「ふざけるな!」
こうなると、私の常で、もう止まらない。本気と芝居気が入り交じり、形相を変えて怒鳴り出した。“あんたらが言うのが本当ならY君に会わせろ、裁判所の
トップの前でもう一度同じ態度や質問をして見せろ”云々、一挙にまくしたてると、急転直下、事は終わった。
手の平返して恐縮してみせる相手から参考人旅費を徴収して意気揚々と引き揚げたが、拭いきれない警察不信をも植えつけられた不快極まる体験だった。
人間社会の醜さ、弱さ、いじましさ。時には自分の中にさえ見出して愕然とする。悲しくもなり、淋しくもなって、私はことさら、純なる花を追い求めてい
た。
彼女に対する私の気持ちは、梅雨明け後の炎熱の夏、一気に燃えて高まった。しかし、音楽会に行き、展覧会に行き、幾度デートを重ねても、どうにも御せな
いコンプレックスが今一歩の勇気を奪った。人並み以上の好意の程は重々分かっていても、彼女がそれを越えて昂ぶるはずはけっしてない、と私は心に壁を作っ
ていた。それを知ってか知らずか、彼女の方は、まったく天真爛漫だった。
「夏休み取って一緒に沖縄に行かない?」
と彼女が言った。
私は雀躍りしたが、約束の日が近づくにつれ、不安になって、怖くなって、逃げ出した。“都合が悪くて行けなくなった”と言ったとき、彼女は肩を落として
呟いた。
「なんだか、世の中つまらなくなっちゃったわ」
沖縄を一週間ほど島巡りして、彼女は元気溌剌帰ってきた。海辺で拾ったという桜貝を私に手渡しながら、こんがり日焼けた顔を一瞬曇らせ、ぽつりと言っ
た。
「楽しかったけど、一人だから、ちょっぴりつまんなかった」
彼女の言葉は、いつでも簡明、率直だった。それがやがて、私の壁を打ち崩すことに繋がった。
清秋の一日、H君の結婚披露宴が新宿の厚生年金ホールで行われた。その時、友の花嫁は、まさしく光り輝く華だった。いつの間にあんな可憐な花嫁を……。
嬉しくもあり、羨ましくもあって、たまらなくなった。披露宴が終わると、私は一直線に電話に飛びつき、彼女に電話を入れていた。どんなに美美しい花嫁だっ
たか、それを報告しただけのつもりだったが、彼女はとっくにお見通しだった。
「あらあら、羨ましくなって、淋しくなって……、それで、私の処に電話したのね」
寄せる好意と暖かさが、電話の向こうからひびくように伝ってきた。次々話題を変えて話し続ける中に、身も心も委ねるような気持ちになって、突然、私の心
のまん真ん中に、ふわっと何か開くものを感じた……。赤い一輪のバラの花だった。
バラが咲いた バラが咲いた
真っ赤なバラが
淋しかった僕の庭に バラが咲いた……
第二十一話 「恋心」
私の心のまん真ん中に真っ赤なバラの花が咲いたその年、『バラが咲いた』のほかに、もうひとつ、巷のどこを歩いていても聞こえてくる大きなヒット曲が
あった。うっすら苦みをまじえた岸洋子の甘い唄声に乗った、しゃれたシャンソン風歌謡曲、『恋心』である。
恋は不思議ね 消えたはずの
灰の中から 何故に燃える
ときめく心 せつない胸
別れを告げた 二人なのに
恋なんて むなしいものね
恋なんて 何になるの
この恋歌が、表通りの商店街から裏通りや路地奥の飲食街まで、人が通り人が入る場所ならどんな処でも、レコードや有線で日夜分かたず流れていた。そし
て、愛を求めて夢追う若者たちをいつか仮想の恋の世界に引き入れていた。銀座・有楽町界隈を恋猫よろしくうろつき回っていた私もまた、並木通りの店先や飲
み屋の赤提灯の下で、岸洋子の唄に合わせて口ずさみながら、えも言われぬ甘哀しい恋心にしばしば胸疼かせたものである。
しかし、よくよく思えば、この歌『恋心』は、所詮は叶わぬ悲しい恋心を描いたもので、甘甘しい恋の物語ではけっしてない。
恋がめざめる 夜になると
あなたのことを 夢に見るの
けれど私が めざめる時
夜明けと共に 消えてしまう
恋なんて はかないものね
恋なんて 何になるの
不思議な歌ではある。恋のむなしさと絶望を詠い上げているはずなのに、ひとたびこれを唄いまた聴き入ると、恋の最中にあればもちろん、それどころか、恋
人もなくまだ恋に憧れているだけの者でさえ、甘く切ない恋心に酔わされる。が、ひとたび恋を失い、あるいは恋を失いつつあれば、この歌がどういう歌だった
のか、無惨なほどに思い知る。哀しくて、切なくて、唄い口ずさむことは無論、それを聴くことさえ忍べなくなる。
思い返せば、赤く咲き初めてから、私はこの歌とつれづれに恋を深め、諦め、また掻き立てられた。まさに翻弄されたとでも言ったら、よいだろうか。
この歌『恋心』が私にとってただの恋物語ではなく、心を揺り動かす痛切な恋歌となったのは、彼女と共立講堂にギターのナルシソ・イエペスを聴きに行った
時のことである。なんとしたこと、私は確かにS(特別)席を購入したのだったが、そこはステージから随分と離れた左端で、奏者の指遣いなども全く見えない
場所だった。彼女は、席に着くより先に、いたずらっぽく私をからかった。
「あら、D席なのね」
そして、その後のレストランの中でも、“ねぇ、どうしてD席なんかにしちゃったの?”と、じっと睨んで見せるのである。私は、S席ともA席とも座席ラン
クの記入されていないシート番号だけのチケットを恨めしげに差し出すしか手がなかった。
「本当に、これS席なんだよ」
「そう? 分かったわ。じゃ、この次からも、きっとS席にしてね。お願い」
私をからかい、ちょっぴり困らせてみるのも、彼女には大層楽しいことのようだった。ちょうどその時、タイミングよく、BGMとして岸洋子の唄声が流れ始
めていた。
恋は不思議ね 消えたはずの
灰の中から 何故に燃える……
恋がめざめる 夜になると
あなたのことを 夢に見るの……
楽しげに絡んでくる彼女を前に、こみ上げる恋情をどう抑えたらよいのか、私はやたらビールを飲み干すばかりだったが、唄の甘さが胸に韻いて、歌はそのま
ま、私の恋心となっていた。
こうして甘く切なく『恋心』を唄うようになった私の気持ちはあっという間に昇り詰め、“結婚したい”と言い出したのは、それから一週間も経ってはいな
かった。ダスターコートを着ていたから、多分深秋十一月の末頃ではなかっただろうか。彼女が乗る地下鉄西銀座駅まで、繁華街から少し離れた暗い静かなビル
街を別れ難く歩いていた。いつものように彼女は半歩後ろを従いてくる。ふっと話が途切れたのをよいことに、話の間でも取るかのように、私は振り向きざまに
切り出したのだった。
けれども、彼女は、斜め下を向いて立ち止まり、そのままじっと黙りこくった。街灯の薄明かりに照らされたその横顔は、予想に反して、明らかに困惑してい
た。たまらなくなって
「ねぇ、返事してよ」
と催促しても、そのままだった。
「ぼくが嫌いなの?」
言うより前に、その馬鹿さ加減に嫌気が差して、しかし畳み込むように言ったとき、彼女はようやく顔を上げ、私に向いた。困った顔はそのままに、首を横に
少し振って、ぽつんと言った。
「でも、いつか、(結婚)言い出されるのじゃないかと、怖かった」
そして泣き出しそうに顔を歪め、視線を逸らして下を向いた。
どう見ても、それは婉曲な断りと謝罪だった。すると私は、この二ヶ月ほど、とんでもない誤解をしていたことになる。そう思い至ると、何故か瞬時に、いつ
もはどこかに押し込めてあるコンプレックスが甦り、それが馬鹿を重ねる言葉となって、咄嗟に口から飛び出した。
「東大出でなければ、だめなのかなぁ」
「……」
悲しげな眼で私を見上げ、彼女は一瞬、何か訴えるような眼差しを見せたが、そのまま、何も言わずに歩き出した。情けないほどの自己嫌悪と惨めさとで、私
は彼女を追うことができなかった。
甘く切ない『恋心』。これがしかし辛く悲しいものだということを先に書いたが、私がそれを悟ったのは、めげずに日ならず彼女を誘った時だった。
週末が来て、怖々ながら誘ってみると、彼女は拒む気配などさらさら見せずに応じてくれた。有楽座で映画を観て、近くの小さなパブに入り、以前のように
すっかり打ちとけ、食事も終わりに近い頃だった。あの恋唄が流れ出した。
恋は不思議ね 消えたはずの
灰の中から 何故に燃える
ときめく心 せつない胸
別れを告げた 二人なのに……
それは、切ないまでに、私の念いに棹さしてきた。ナイフもつ手が思わず止まり、ふっと彼女を見ると、彼女もまた手を止めて私を凝視め返した。
「ねぇ、この前の話……」
彼女の顔が見る間にこわばり、うつむいた。
しかし、言ってしまったからには、もう遅い。か細い声で、私は続けた。
「だめかなぁ……」
そして、やり場なく視線を伏せたその横顔に追い打ちをかけた。
「やっぱり、だめかなぁ……」
彼女が今日もなお私と親密だったという現実に賭けたのだった。が、彼女は下を向いたまま、小さくうなずき、ほとんど聞こえないほどに呟いた。
「やっぱり、(結婚)できないの」
脳天を打ち砕くほどの衝撃だった。愛こそすべて、と思っていた簡明な若者にとって、“結婚できない”の一言はすべてを否定されたに等しかった。結婚に辿り
着くには、人には言えない越えるべき諸々の問題があることなど、当時の私には気付きようもないことだった。私はその時、ただただ、愛そのものを否定された
と思いこみ、たちまち、奈落の底に沈んでしまった。
唄は最終の歌唱に入っていた。
恋をするのは つらいものね
恋はおろかな 望みなのね
あなたのために 生命さえも
捨ててもいいと 思うけれど……
相手が目の前に居るだけに、残酷この上ない唄だった。歌詞がそのまま胸に突き刺さってくる。
恋なんて 悲しいものね
恋なんて 何になるの
恋なんて 恋なんて
後は底が抜けたような悲しみだけだった。この唄ともどもに恋心に酔っていたなどまるで夢の中の絵空言のようでさえある。
この日から、この歌『恋心』は、私にとって、聴くだに辛い唄となった。
人生の行き着く先が未だ漠として分からぬ程に若いときには、およそ恋ほど、苦しいものはない。若くしてすでに透徹慧眼の、かの夏目漱石が述べている。
「世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思
うている。−喜びの深きとき憂愈
深く、楽しみの大いなる程苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。……恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ」
(『草枕』)。
まこと、恋の最中は、喜怒哀楽の葛藤るつぼの中にある。若き日それは、果てなく切なく、そして苦しい。愛したいがために、愛されたいがために、愛の欲動
が底知れず深いがために、やがては相手の所作言動を取り違え、よからぬ方へと妄想し、その苦しさに耐えかねて、時に恋人たちは強迫的な衝動に駆られ、その
めくるめく世界から逃れ出ようとさえする。よく聞くところではあるが、私の周囲にも、“結婚”のひと言が言い出せない苦しさ故に最愛の人から逃れ去った
り、せっかく斉
ったというのに、明日が挙式というまさにその前日、結婚を取りやめたりした者がいる。それどころか、まだ恋を失ったわけでもなく、傍から見ればそれこそ恋
の絶頂さなかだというのに、死をもってその葛藤と逃避を完結させた者さえいる。
その道中の悶情とやるせなさ。これを一体何にたとえたらよいのか−。と、たくさんの若者たちが身を灼く前のかつての平穏を懐かしみ、退避の道を探りもす
る。私もまた、その例外ではけっしてなかった。
数日間放心するうち、私はいつか、妹の友だちのひとり、Kさんを思い起こしていた。
その年の初め頃だったか、すでに絶版の洋書を一冊、丸善に勤めるKさんに依頼して求めたことがあった。妹が結婚して以来、その時を除いて彼女と会ったこ
とはなく、ほかに特別の用件もなかったが、Kさんは私の電話を快く受けて、暮れも迫って忙しい最中だというのに、夕べ有楽町まで出向いてくれた。
「どんな風の吹き回し? 私なんかとデートするなんて」
相も変わらず、大らかで屈託のないKさんだった。こちらの心の裏側を格別に覗き込もうとするわけでもなく、雑踏する駅の改札口で、まずは再会を弾んだも
のにしてくれた。私はKさんの明るいその声を聞いただけで、もう救われた気持ちになっていた。
すし屋横丁の裏通りに、職場の仲間たちと時々立ち寄るパブがあった。そこにKさんを案内し、つもる話やよもやま話をするうち、気持ちが急速にKさんに傾
いた。ふっと気付くと・時を回って、“この人となら結婚してもいい”とまで昂ぶっていた。
しかし、私の異様な気分を察知したとでもいうのか、Kさんはつられたように時計を覗いて、“あっ、もう・時。帰らなくっちゃ”と腰を浮かした。とっさの
こととて、私にはそれを遮る手だてが浮かばなかった。私はKさんをタクシー乗り場まで送る途中、“送っていきたい”という言葉を喉元で必死に押さえなが
ら、万一のことながら“家まで来ない?”というKさんの言葉を期待したが、それはあり得ようはずもないことだった。“今日は楽しかったわ”と言いながら車
に乗り込むKさんの表情は、何のためらいもなく、さっぱりとさえしていた。
勝手なこととはいえ、何かを求めて、すがるような思いで誘ったKさんだった。そのKさんと何事もなく終わり、その夜の悲しさたるやなかった。世の中すべ
ての女性に背を向けられたようなはかなさに、それ以上はない悲劇の主人公になったが如き思いだった。しかし、思えば恥ずかし、あな可笑し。とめどない悲哀
が次第に熱情を呼び起こし、当夜徹夜で一気に、生涯を賭けたが如き悲恋の恋唄を作りあげたのだから、何をかいわんや。
それはともかく、彼女と一緒の職場は辛すぎて、数日後には、私は辞めて大学に戻る(大学院に入る)つもりになっていた。苦しいときに頼る相手は他にはい
ない。大学に戻りたい、と電話をすると、理由など訊くことなしに、“すぐにでも相談に来い”、と原野広太郎先生は常にも増して優しかった。
街はクリスマスをひかえて浮き立っていたが、そこはいつでも静かな処だった。私は翌年三月の退職を心に秘めて、最後の逢瀬とすべく、Kさんを連れた同じ
パブに彼女を伴い、店内で一番ほの暗いカウンターの端に席を取った。けれども、何をどのように話したらよいのか、彼女が慎ましくカクテルを飲む傍らで、ひ
たすらハイボールを飲むばかりだった。
互いに無言で、顔見合わせることもなく、二十分経ち三十分経って、それにしても夢見るように不思議だった。結婚できないというなら、何故こうして誘いに
応じるのだろう……。そっと隣を窺うと、彼女は左手で頬づえをつき、グラスに軽く唇を触れたまま眼を閉じていた。
瞑っていても涼しい目元、小さな口元……。耐え難いおもいが、胸底からこみ上げてくる。そのとき、嗚呼、またしてもあの歌が流れ出した。
恋は不思議ね 消えたはずの
灰の中から 何故に燃える……
彼女が目を開け、潤んだ眸で私に気付いた。たちまち、躰中の血が沸き立つ。
何もかも押さえ込まねばならなかった。だからこそ、言わなければならなかった。
「仕事辞めて、大学に戻ろうと思う」
「……」
私を凝視めたまま、彼女は何も言わなかった。
「裁判所では結局、先行きもないし……」
「……」
互いに交わす言葉もなく、後は顔を見合わせたまま、歌の進むに委せるだけだった。
恋がめざめる 夜になると
あなたのことを 夢に見るの……
恋をするのは つらいものね
恋はおろかな 望みなのね
:
恋なんて 何になるの
恋なんて 恋なんて
別れのけじめを、きちんとつけるつもりだった。が、あまりに唄が辛かった。涙が溢れ、彼女の顔が見えなくなって、他にどのように処することができたのだろ
う。私はいきなり“帰る……、さよなら”と言うなり、彼女を置いてそのまま外に飛び出していった。
行く当てとてなく、気付いたときには、晴海通りを勝鬨橋まで歩き、誰も居ない役所の仕事部屋の中で、ポロポロと泣きながら、意味もなく書籍類の整理をして
いた。そして、幾度も幾度も、これでいいんだ、と心の中で呟いていた。
一段落して気持ちも鎮まり、庁舎の外に出ると、構内は凍てつく寒さと暗闇だった。五十メートルほど先の出口の門柱にたった一つ小さな防犯灯が灯ってい
る。頼りなげなその明かりに、つと引き寄せられ、私は小走りに駆けていったが、門から外通りに一歩踏み出したとき、驚愕した。淡い灯火の袂に、懐かしい人
影が、私を見つめて立っていた。
一体どうして、ここに彼女が−。
たとえ一縷の望みだとしても、彼女がこうしてやってくることを心のどこかで祈るように願う気持ちもなくはなかった。歓喜と戸惑いが交錯し、しばし彼女を
凝視めて立ちつくした。しかし、私はすぐに、理由はどうあれ、別れを告げたばかりの彼女と再び出会ったという事実に粛然とした。と、どこがどう繋がったの
か、不思議なほどに心が和み、素直な気持ちが戻ってきた。
小雪が小さく舞い降りてきた。彼女が私に微笑んだ。ポケットから右手を抜いてそのまま伸べると、彼女も応えて、手袋を脱ぎ、そっと私に重ねてきた。
第二十二話 「船頭小唄」
おれは河原の 枯れすすき
同じお前も 枯れすすき
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れすすき
野口雨情作詞・中山晋平作曲による『船頭小唄』は遠く大正時代に生まれたものである。昨今ではナツメロとしてもめったに聴かれなくなったが、哀調溢れる
その詞とメロディは、よく映画のBGMにも用いられていた。
死ぬも生きるも ねぇおまえ
水の流れに なに変わる
俺もお前も 利根川の
船の船頭で 暮らそうよ
未だ愛も恋もなんたるか分からない幼い中学生の頃から、私は利根川に櫓を漕ぐ船頭夫婦の清貧と純愛の絆に思いを馳せつつ、この歌を唄っては愛に憧憬した
ものである。いわば『船頭小唄』は、私の夢の純愛物語なのであった。
この美しの『船頭小唄』が、よもや歌の内実そのままに、切なくも私を投影し、慰めの哀歌になろうとは−。しかし、耐えて必死に櫓漕ぎ舟漕ぎすればこそ、
まこと美しい贈り物を手にすることができたのである。
当人にとっては往時そのままときめき胸迫る馴れ初めの記も、傍にはくどくど長々しい痴話話。前話・前々話と二話にわたってまことに申し訳ない仕儀では
あったが、とにもかくにもかくして結ばれ、知り合ってちょうど一年後に私は目出度く新婚蜜月の生活に入った。が、それも束の間、「好事魔多し」は世の習
い、急転直下に大変な職場不適応に陥った。
結婚後一年経った頃、ちょうど長男も生まれて気持ちが充実し、調査官研修所での半年実務研究に応募した。幸運にも研修所から許可が下りたが、庁内の一部に
未だ早過ぎるとの猛烈なブーイングが出て断念、これが障りの始まりだった。
交通部から本庁に戻って新しい部署に行くと、何をしたわけでもないのに、何やら悪評が立っている。挨拶をしても返礼がない等はよい方で、「君は金を貰わ
ないと手伝いごとをしないんだって?」とあらぬ事を言って、あからさまに侮蔑的な態度を取る人もいるほどだった。
多少のことは仕方ないと思っていた。当時、家裁調査官職は公務員上級乙種だったが、人事院の上級甲種試験にも合格していた私は、その甲種待遇で同年入所
者より一号俸上で採用され、二年後には飛び昇格で前年入所者を一号俸追い抜くという妙なことになっていた。また、妻も同じ甲種合格者だった。前年入所者の
中にも同条件の女性調査官がいたが、彼女は私に「あなたは男だから頑張ってね」という言葉を残して三年で去っていった。
しかし、私の場合は、障りはむしろ上の方からやってきた。どういうわけか職種のトップに嫌われ、ことあるたびに嫌味や叱責を受け、誰もが嫌がる交通部へ
の再配置、そして埼玉県越谷に公社の土地が当たっていざ新築の矢先に、これは妻に対してだが、通勤不可能な八王子支部への突然の転属命令。今で言ういじめ
としか考えようのない仕打ちが続いた。私にも問題がないわけではなかった。語るも恥ずかしいことではあるが、交通部への再配置の頃、私は職種のトップに対
してキレてしまい、仕事上を除けばひたすら相手を敬遠・無視、いわばシカトするようになっていた。
人とはかくなるものか、と思い知らされた。トップとの関係がこじれるにつれ、周囲の態度が変ってくる。仲間内からも私に対して軽侮な態度をとる者が出始
め、同期だが年下で、それまでずっと私を立てていた者から「ムネやん、あんたこの頃仕事に気が入ってないんと違うか」と、いかにもぞんざいな物言いもされ
た。そして妻にはたくさんのとばっちりがくる。私に対する悪口・雑言を聞かせるのは序の口で、公用外の雑用が強要されるようになり、果ては突然の転属命令
だった。妻はすっかりやつれ、街中で久しぶりに出会った知人から「病気でもなさったのですか」と問われる程だった。
転職ができたらと思わぬ日がないほどの毎日だった。しかし、三十代半ばの私が今さらどこに転職できるというのか。見通しのない暗澹たる日々の中で、私は
いつか、『船頭小唄』の替え歌を唄って、自嘲・自虐に自分を慰めるようになっていた。“河原”を家裁に、“枯れすすき”を調査官に置き換えるのであるが、
今でも唄うと当時が偲ばれ、たちまち瞼が熱くなる。
おれは**の *****
同じお前も *****
どうせ二人は この世では
花の咲かない *****
転退職する以外に道がないほどに追いつめられていった。私たちはやりきれぬ毎日から脱出するために、あれやこれやの揚げ句、妻の医者への転身を考えた。
どんなに辛くても私が辛抱一筋仕事を続けて生活を支え、妻が一人前の医者になったときに二人で小児心身クリニックを開く。と言えば格好よいが、私が今さら
新しい道を切り開くことは難しいし、妻の退職・医学部進学は私たちが将来に望みを繋ぐぎりぎりの選択だったのである。
しかし、二人目の子どもを宿しながらの奮戦も、合格しながら入学不許可になるという理不尽に泣くことになった。
受験先は、東京都下のK医大だった。当時住んでいた三鷹の都営アパートから近いことと、K大の学長が義父の大学の後輩・知己でもあったことが、選択の理
由だった。試験は何なく突破し、寄付金の話し合いをする保護者面談には、私に代わって義父が行った。そして義父は、「有るところから出して貰う。小田先生
のような金の無いところからは一銭も寄付金は頂かないということになった」と上々の首尾を持ち帰ってきた。
マイホーム購入のために蓄えてきた貯蓄のすべてを注ぐつもりでいた。それだけに私たちは歓喜した。ところが、最終発表の日、妻の名前がどこにも見当たらな
いのである。
K大に問い合わせても何の説明ももらえない。義父は学長宅に何度も電話を入れたが一度とてつながることがない。すでに現役を退いて久しい老齢の義父の落ち
込みようは私たち以上で、見るに忍びないものだった。失意の中、庁内では妻がK大医学部に合格したとの噂が立った。ある職員が知己のK大教授から教授会決
定事項として聞いたのだという。さすれば、よもやの結果は経営・理事者側が最終決定したものと思われたが、皮肉にもK大の英語入試和訳問題は妻と全く同じ
三十路になって医学を志す女性を取り上げ、賛美するものだった。
こうして、はからずもまた、世の不実と非情を知ることになったが、その後私たちはますます職場で肩身が狭く、身の置きどころがなくなった。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。この安逸な表現を私はけっして好まないが、これもまた人の世の真理なのか、まさにそうとしか言い様のない恩寵が下っ
てきた。
私を慰め力づけようとの配慮だったに違いない。原野広太郎先生(第一二・二一話)が文部省科研費による共同研究に誘ってくれた。後で知ったことだが、先
生は当時、人事にかかずらうどころではないご自身の苦境にあった。当時、東京教育大学は筑波移転問題で大揺れに揺れ、あろうことか、先生は移転反対を策動
する不埒な人物と(故意に)目され、後輩が次々昇格する中、未だ講師のまま留め置かれるなど、それこそまさにいじめの渦中にあった。それにも拘わらず、先
生はいつ訪ねても平らかで、私を慰め、激励してくれていた。
職場の所属長の許可が必要だった。私は早速、先生から送られてきた「社会調査における多変量解析の適用についての……」という当時の私にはわけの分から
ぬ研究テーマの申請書を職種のトップに持っていった。ところが、即座に拒否された。そんな難しいテーマの研究会に出るにはたとえ日中ではなく夜間の出席と
しても日夜相当な準備が要るから職務専念義務違反になる、と言うのである。それでも私が引き下がらなかったため、一応所長のところまで回そう、ということ
になった。しかし、半月ほどして文書が戻ってきた時、驚いた。研究を許可する旨の所長印が押されてはいたが、普通の回覧決済文書と同じように上部に直接押
印欄が設けられ、そこにべたべたといくつも決済印が押されていたのである。
じめじめ秋雨の降る夕べ、私は泣くに泣けない思いで先生のお宅に行った。先生は、どこにも提出できようはずもない汚れた文書をつくづく眺め、これはひど
い、君の状況がよく分かったよ、と言った後、いつものようにせわしく碁盤を用意しながら、ふっと訊くのであった。
「君、この前、どうして研究会に来なかったの?」
一瞬信じ難い話だった。M氏は大学の数年先輩で、同じ職場の同じ職種である。先生によれば、そのM氏と私との間がぎくしゃくしているとの噂が伝わってき
た。そこで私たちの仲を取り持つために、学内研究会での二人の共同研究発表を企画し、それをM氏に提案した。ところがM氏は、私が研究を拒否したのでやむ
なく方針を変えたと言って、他の後輩調査官との共同発表をしにやってきたという。
一体、不仲の噂はどこから出たのか。私は日頃、上層部の受けもよいM氏を頼りにして、職場で一番の相談相手とし、誰よりも親しくしているつもりであった。
そのM氏から研究会の件など全く聞かされてはいない。信頼していた先輩からも実は疎んじられていたのかと思うと、目の前が真っ暗になった。
そんな私を知らぬげに、先生は例の如くにいつもの歌を唄いだした。
やると思えば どこまでやるさ
それが男の 魂じゃないか
義理がすたれば この世はやみだ……
普段より少し声調が高かった。私を元気づけようとする気持ちは嬉しかったが、この日ばかりはいつものように唱和することができなかった。先生は何度繰り
返して唄っただろうか、ふと呟いた。
「今日は攻撃的だねぇ」
私の碁に対する先生の評価は、性格の割にはきれいな碁を打つ、であった。それがその日、切った張ったの勝負をかけては大負けした。私は盤上に目を落とし
たまま、いつか唄い出していた。
おれは**の *****
同じお前も *****
どうせ二人は この世では
花の咲かない *****
死ぬも生きるも ねぇおまえ
水の流れに なに変わる……
じっと凝視められているのが分かった。先生は私が唄い終わるのを待ちかねたように、急き込むように言い出した。望外なことだった。
「ムネさん、あんたもう家裁は辞めよう。駄目だ、駄目だ。大学へ移ろう、大学へ」
大学に職を得るには、研究上の業績のほか、教育上の経験も重要である。研究業績はともかく、教育歴については皆無だった。そこで私は、原野先生の紹介
で、どこぞに非常勤講師職を推薦して貰うべく、原野先生にとっても師筋に当たる桂広介先生を東大泉のご自宅に訪ねた。
原野先生によると、桂先生は私のことをよく知っているとのこと。しかし、私には信じられなかった。在学中は青年心理学概論を受講しただけで何の関係もな
く、他に先生と言葉を交わしたことがたったの三度あるだけだったからである。
一度目は東京教育大学に入学したばかりの頃、先生が学科新入生を集めて行った茶話会の時である。私は、新入生全員・名が一堂に会した時の一員にすぎな
かった。二度目はそれから四年後、家裁に就職した直後、大学に原野先生を訪ねた際に偶然階段の途中ですれ違った時である。私が何者だかよく分かっているか
のように、先生は大変親しげに「君、どこに就職したかね」と問われた。東京家裁ですと答えると、先生は大きな声で「それは素晴らしい、東京海上はいい」。
東京海上火災と間違われたのである。三度目はそれからまた四年後、同級の小川捷之君の結婚披露宴の時である。先生ご夫妻が仲人だった。たしか『禁じられた
遊び』だったか、祝いのギターを弾き終わって仲人席の横を席に戻ろうとした時である。お辞儀をする私に、微笑みながらのお声がかかった。「今度は、君の番
だね」。
たったこれだけの縁だったが、先生は両手を開いて私を迎え入れ、勤務先での状況をおさらいをするように細々と訊き、聞いては頷いて私を慰め、旬日もしな
いで非常勤講師先を探して下さった。
だが、転身の道は険しかった。一年経ち二年経ち、公募に二度失敗し、職場ではますます居場所がなくなってくる。こうした時に、桂先生が直系の弟子でもな
い私のために学科教授会で頭を下げてこう言われた、と洩れ伝わってきた。
「裁判所で大変な苦境にある宗内君をどこか(大学へ)推薦してやって欲しい」
思わず涙した先生の恩情。これがどれほど崩れる心の支えになったか。もしこの言葉を聞くことなければ、やがての転身まで私は耐えることができなかったか
もしれない。
昭和四八年四月、転身を図ってから四年目、原野・桂両先生の限りない恩愛の賜物として、大学研究職に移ることができた。それから瞬く間に二十年余の時が
流れ、数年前には両先生が相次いで逝去されている。桂先生が亡くなられた時、私は不覚にも旅行中で、二カ月もの間訃音に接しないという不始末を犯した。急
遽東大泉に赴き、奥様にお詫び申し上げたが、その折私は、先生との最初の出会いを語らずにはいられなかった。
青年心理学の権威、桂広介教授が学科の新入生を集めて茶話会を開いてくれた時のことである。先生は一人ひとり順番に出身地の由緒や風物・風景を質ねるの
であるが、私は小京都と呼ばれる小城の明媚を語ったあと、小城名産の羊羹を自慢した。九州に移る前、千葉県・市川に住んでいた幼少年時代、成田山の土産物
羊羹の他に羊羹を知らず、その羊羹を絶品だと思っていた。虎屋を知らず、米屋を知らず、まして藤村の羊羹なぞ知る由もなかった私にとって、羊羹と言えば、
それは成田山の羊羹だった。私は、得意満面に言ったものである。
「成田山の羊羹だって、小城の羊羹には敵いません」
先生は、くくっと微笑って、
「君ィ−、成田山の羊羹はここいらでもけっしておいしいほうではないよ」
(第十二話「人生劇場」より)
たくさんの新入生を相手にしていたときの一齣である。先生が覚えているはずもなく、ましてや奥様が知る由もないと思っていた。ところが奥様は、私が語り
始めるや早、お可笑しくてたまらない風に、涙のにじんだ眸をゆるめられた。
「知っています、その話。羊羹を贈って頂くたび、何度も主人から聞かされました。宗内君がねぇーって」
驚愕した。それは私だけの秘め事だと思っていた。だからこそ私は、それを時々そっと取り出しては小城の羊羹に変え、師恩を謝して甘味もの好きな先生に
贈っていたのである。それがまさか、先生にとってもたび毎に思い出される忘れがたい一つ事になっていようとは−。
人が人と出会うということの何たる有り難さ、素晴らしさ。爾来私は、どのような出会い・際会にも、かりそめの気持ちで向き合うようなことなど、けっしてし
なくなった。
第二十三話
「月の沙漠」
心穏やかに安らぎを得ているとき、また安らぎを得たいと思うとき、私には、不思議にどこからか浮かび、ふと口ずさむ静かな歌と韻きがある。
月の沙漠を はるばると
旅の駱駝が 行きました
金と銀との 鞍置いて
二つ並んで 行きました
金の鞍には 銀の甕
銀の鞍には 金の甕
二つの甕は それぞれに
紐で結んで ありました
先の鞍には 王子さま
後の鞍には お姫さま
乗った二人は おそろいの
白い上着を 着てました……
終戦直後、混迷する政治・経済状況の中でいち早く立ち上がって打ちひしがれた国民を力づけたのは歌の世界であった。「リンゴの歌」に始まる一連の歌謡曲
がどれほど人々を慰め力づけたか、当時を知る人はすぐに思い起こすことが出来るが、そうした中で一つ忘れてならないのが、童謡歌手の川田正子・孝子姉妹で
ある。それは、荒廃した国家・国民、とりわけ子ども世界に活気と情性を取り戻そうとの国策の一環でもあったのだろうが、当時川田姉妹の歌声はラジオの電波
に乗って全国津々浦々に流れ、また各地でめまぐるしいほど二人の公演が催されていた。終戦直後の小学五年生の頃、姉妹の公演が通学校の講堂で行われ、私は
そこで初めてこの歌『月の沙漠』を聴いた。
身を揺すられて感動したのを覚えている。純白のドレスに身を纏った川田姉妹。舞台の奥には、金銀の鞍に王子様とお姫さまを乗せた二つの駱駝が月下の沙漠を
行く大きな背景画−。ただそれだけで、戦中戦後の殺伐として絵本一つ満足に見ることのできなかった私のモノクロの精
神世界に突如、夢とロマンの色彩世界が目眩むように現れ出た。そして、この歌と絵が渾然たる様で心に溶け込み、私はいつか駱駝に乗って夜の沙漠を果てない
幻想の世界に誘 われていった。
曠い沙漠を ひとすじに
二人はどこへ 行くのでしょう
朧にけぶる 月の夜を
対の駱駝は とぼとぼと
沙丘を越えて 行きました
黙って越えて 行きました
驚きであった。戦中戦後の食糧難の時代、ときには農家の芋畑に盗み入って飢えをしのぐなど、刹那の快楽原理しかなかった私にとって、このゆったりとした
悠久の世界は、まさに異次元の世界であった。二つの駱駝は、どこから来て、どこへ行くのか−。沙漠の果てには一体どのような世界があるのだろう……。
“今”を超えて、前にも後にも“とき”があり、“ところ”がある。大げさに言えば、私が生まれて初めて、過去−現在−未来と流れ移ろう時空の存在に覚醒
した一瞬でもあった。
当時、私はよく母に連れられ、山の薪
拾いや農家への買い出しに行った。思うほど薪を拾えず米や野菜が買えないこともしばしばあり、子ども心にもひどく落胆した。それが、時の流れ移ろうことを
知ってからは、たやすく失望することがなくなった。母と二人いつもしっかり手を繋ぎ、暗い山道を祈るが如く小声を合わせて歌って抜けた。
「月の沙漠を はるばると 旅の駱駝が 行きました……」
飢えも疲れも、闇の恐さも、どこかへ飛んでいった。明日をも分からぬ時代だったが、明日の先に明日があり、そのまた先の明日に包み込まれていくような思
いであった。この至福の時を重ねるうちに、やがて『月の沙漠』は、どこからかふと浮かんでは、私をして悠久の都に誘う安らぎの歌となっていった。
歌つれづれの思い出話を綴るうちに、不思議なことに気がついた。たしかに遠いむかしの出来事ではあってもまるで昨日のことのように思い出し、さらには改
まってより鮮明になっていったあのことかのことが、ひとたび書き終えてしばらく経つと、今度はいかさま思い起こしたとて手の届きようもない、まさしくその
隔てた年月にふさわしいむかしむかしの物語へと斥いている。思い出すたび躍り出て過去を今ある如く再現させたあの感動も感懐も、もはやどこからも生まれな
い。歌つれづれに紡ぎつむいで再体験したことの妙、喜びも悲しみも、そして恨みもつらみも、まるで憑き物が落ちたかのように、おぼろな思い出の世界に納
まっている。
そうして今、私は不思議な安らぎの中にいる。それはちょうど、精神分析療法における自由連想によって過去が克明に再現され、不安や葛藤・コンプレックス
の源が明かされて得られる安らぎにも似ている。もしかすると私は、この歌つれづれの思い出行脚で赴くままに自分を精神分析していたのかも知れないが、確か
にこの安らぎは、船が彼岸の港へ辿り着こうとしていることを示している。
それかあらぬか、私は近頃、『月の沙漠』をよく口ずさみ、また、夢の中でさえ唄うのである。
* * *
先日、私の一人娘と同年の、恐らく眼の中に入れてもけっして痛くはないだろう教え子のY・K嬢(九州在住)から、久方ぶりの葉書が届いた。
「先生、お元気におすごしですか? 先日はお電話をありがとうございました。あいにく私はルスをしておりまして、とても、とても残念に思いました。月・木
と二時〜九時まで、働いております。帰宅は十時三十分頃になります。……専門学校へ行かせてもらったことが今になって役に立ってよかったです。教育実習も
十分役に立っております。それから、フランス語をひょんなことから習い始めました。いずれ先生の耳元で“メルシー”とささやいてさしあげましょうか? ウ
フフ…」
昨年、春休みを利用して、娘と二人で一週間のパリ滞在旅行を楽しんだ。ルーブル、オルセーを中心にたくさんの美術館めぐりをしたのだが、そしてこの全く
絵画音痴の私でも、写実−印象−象徴各派の歴史的関連が手に取るように理解できて新たな感動に包まれもしたが、実はしかし、私が最も感動して戻ってきたの
は、フランス女性が発する“メルシー”という言葉であった。
フランスに行った人なら必ず分かってもらえるに違いない。それがたとえ老婦人のものであっても、かの地の女性達が“メルシー”と言うとき、それはきっと
尻上がりにトーンが上がって、そのまま心地よいソプラノの歌なのである。何がどうしてそう感じるようになったか全く定かでないが、これは“ありがとう”や
“thank you”ではけっして奏でられようはずのない、甘いふくよかなメロディ
である。言葉が文化を象徴するとすれば、まさしくフランス国こそ芸術の国であり、かの女性
たちは愛と美の結晶・うつしみ(現身)である。と、“メルシー”の色香と品格に惑って、帰国してこれを言い募った。耳をふさがんばかりに聞きづらくしてい
た向きも少なくなかったが、今さら彼女が、さらなる思いを込めて私に逆襲、揶揄ってきたのである。
負けじと早速返事を書いた。大学に通いながら五年もの長きに渡って単身赴任の妻の代わりに私の面倒を見ていた娘が手許を離れたさみしさも手伝い、腹いせ
半分、“長年の夢かなう浮気チャンスの到来”などと書き送ったら、たちまちしっぺ返しがやってきた。
「……お嬢さんが来年までイギリスに留学とのこと、お淋しいですね。浮気などと妙なことをおっしゃらずに、かわいいおくさまを大切になさいませ。いずれ結
婚しましたら、わたしもおくさまのように、ご主人様をその掌の上でのびのびとさせてあげたいものです。(などと書きますと、いやいや、これでもいじめられ
てばかりで…なんてボヤかれそうですが)……」
かつて作家・高樹のぶ子さんの一文に心うたれたことがある。「……言いわけではないが、だから多情多感は恋愛小説を書く作家の条件のようなものだと思っ
ている。人間の美質を発見する能力が無くては恋愛など出来ないし、恋愛小説は人間の美質を書くことだ、と極言することも出来る。人間の美質に敏感な人間、
つまりほれやすい資質がなくては、恋愛など描けないと言ってもいいだろう」(平成三年十月十三日付日本経済新聞「花弁を光に透かして・『恋愛小説』」)
ひょっとすると、私はこの歌つれづれのエッセイで、思いを寄せたひとたちに再び恋をし、その美質を抽き出して、懸命にそれを描こうとしてきたのかも知れ
ぬ。そして今、加齢とともに美質が見えるようになり(即ち、惚れやすくなり)、妻の他にもときには胸ときめかせながらひとときの憩いを共にする女性がいく
たりか、なくもない。しかし、これも他人のセリフだが、「悲しい歌だからこそ、かえってさっぱりと唄う。これが男(私)の美学です」(歌手・藤山一郎)に
因んで、思いがあればこそさっぱりした交わりを心がけ、一歩でも踏みはずさぬよう、心している。とはいえ、よくよく思えば、これも所詮は、万が一手のひら
返す冷たい仕打ちを虞れての、また妻有ればこその見栄と防衛の“美学”かも知れぬ。
結局、あれやこれやで、私は毎週のこと、赴任先から週末に帰ってくる妻を、星空でも見上げながら、今さらのように恋いつづける他に手はないのである。
妻二タ夜あらず二タ夜の天の川 草田男
そのようなことは百も承知のY・K嬢の文言、勝負ははなから決まっていた。
* * *
夕べ、気持ちが浮いて落ち着かず、近くの街中で催されている秋の夜祭りを見に行った。といっても、取り立ててどうというものではない。格別の見せ物や催し
物があるわけでもなく、目抜通りや商店街を車進入禁止にして店先や路地影に屋台が連なり、何やらピーヒョロと気分の浮つく音曲が流れるばかり。結局、地元
商店街の振興を図るだけが狙いの祭りで、二つ三つ小さな御輿がやってきたが、それがかえってそぞろに空しい。
これに比べて、祭りといえば思い出す。金襴緞子で飾られた大きな山車がいくつも街中を練り歩き、山車の上では揃いの法被の若い衆が撥を揃えて太鼓を叩
き、山車の下では浴衣姿の老若男女が八重に囲んで踊りに踊る。それもたった二つの音曲を幾度も幾度もくり返し、月が彼方の山陰に消えるまで続くのだ。
小倉生まれで 玄海育ち
口も荒いが 気も荒い……
誰もが皆、踊って、唄って、踊っていた。遠いむかしの、たしか九州・小倉あたりの祭りであったか、何やら懐かしめば、たちまち御輿に替わって大きな山車
が瞼いっぱい浮かんでくる。つれて太鼓の音さえ聞こえ、思わず知らず口ずさむ。
無法一代 涙を捨てて
度胸千両で 生きる身の
男一代 無法松
夢かうつつか、いつしか私は、踊りの輪の中で唄っていた。
月が出た出た 月が出た よいよい
天道炭坑の上に出た
あんまり煙突が高いので
さぞやお月さん 煙たかろ さのよいよい
どれほど踊ったことだろう。ふと気がつくと、いつやってきたのか、私の横を妻が浴衣姿で踊っていた。
月明に映え、ものみな銀色に染まるなか、撥と太鼓に煽られて、祭りは高潮していった。私はいっそう大きな身振り手振りで踊るうち、あろうことか、いつか
周囲を忘れ、走馬燈のように、あのことかのこと、来し方を回想していた。
梨を取ってくれと泣いたよう子、私を組み敷いて頬を張ったカズ子、ふるさとの鉱山、肌身近くで温もりを通い合わせたかの人、浪人時代、学生時代、赤いハ
ンカチの乙女、銀座・有楽町徘遊、妻との邂逅、苛まれた日々……。
突然、ド・ド・ド・ドーンと祭り太鼓が轟き渡り、踊りの中で、我に返った。どよめき、歓声、見上げる顔々……。天空突いて花火が上がり、七色五色が絢爛
豪華に花や曼陀羅、枝垂れを描いて、空いっぱいに展がった。
それが終わりを告げる合図であった。花火が舞い散り、夜空が戻ると、一挙に人の輪が崩れ、糸引くように次々と、人が消え、ものが消え、明かりが消えて、
祭りはあっという間に、跡形もなく消え去った。一瞬、妻を呼ぼうと思ったが、私の他には人っ子一人いないのだ。
茫然として空を仰ぐと、まさに只今、月が遠い山陰にもぐり込むところだった。が、すべてが闇に陥る寸前、瞬時に月が山から還って明かりが戻り、すると私
は一足飛びに万里を越えて、どこと分からぬ朧月夜の直中に、ひとりぽつねんと立っていた。目を凝らすと、あれは天山山脈か、そこは右手遥かに山が山追う広
漠たる沙漠の真っ直中だった。
夢とも思い、まぼろしとも思う。
どこからか、粛々と歌が聞こえてきた。
月の沙漠を はるばると
旅の駱駝が 行きました……
と、彼方東の果てから、駱駝が一頭、静かに近づき、朧の中で、誰かがこちらに手を差し伸べている。妻かと思えば、それはとうに別れた亡母だった。それも
私が子どもの頃の母だった。私はたちまち小さな子どもになって、軽々と駱駝の背なに引き上げられ、母の後ろに抱きついた。いつか声を合わせて、唄ってい
た。
「月の沙漠を はるばると……」
しかし、温かい母の背中の至福の時は刹那だった。私が力をこめて抱きつくほどに母の躰は小さくなって、やがて冷たくなってきた。胸を突かれて覗いてみれ
ば、母はいつの間に亡くなる前の病み疲れた顔になっていた。「母さん」と呼んでいっそう強く抱き抱えると、母は一瞬微笑って、あとは小さな氷塊となり、そ
のまま私の腕の中で崩れ落ちていった。
涙が止めどなく流れていた。どこぞに帰りたいと思ったが、駱駝を操る術など知らず、私は母が溶け消えた冷たい胸を抱いたまま、やむなく前に進んでいっ
た。
ふと気配を感じ、振り向くと、少し遅れて駱駝が一頭、従いていた。白い衣を纏って女性が一人乗っていたが、しかし、私の妻ではなかった。嗚呼、夢幻泡
影、一炊の夢。私は思わず瞼を閉じた。が、目を開けて再び見やると、近づくほどに顔が変わって、次第に妻に似通ってくる。夢かと思い、いったん前に向き直
り、また振り返って後を見ると、駱駝は至近の距離に近づいて、それはまごうかたなく妻だった。妻は、問うでもなく、応えるでもなく、私をじっと見つめてい
た。
どこからかまた、聞こえてきた。
月の沙漠を はるばると
旅の駱駝が 行きました
金と銀との 鞍置いて
二つ並んで 行きました
金の鞍には 銀の甕
銀の鞍には 金の甕
二つの甕は それぞれに
紐で結んで ありました
先の鞍には 王子さま
後の鞍には お姫さま……
−もはや、惑うことなど、一つもなかった。駱駝の背なにたゆたいながら、私はひたすら西へ向かって進んでいった。
曠い沙漠を ひとすじに
二人はどこへ 行くのでしょう
朧にけぶる 月の夜を
対の駱駝は とぼとぼと
沙丘を越えて 行きました
黙って越えて 行きました……
−完−
【注】
(1) 第三話
(2) 第五・七話
(3) 第六話
(4) 第八話
(5) 第九・十・十一話
(6) 第十二・十三・十五話
(7) 第十六話
(8) 第十九話
(9) 第二十・二十一話
(・) 第二十二話