「e-文藝館=湖(umi)」 小説

もり せんぞう 近世史家・児童文学家 1895.9.11 - 1985.3.7 愛知県刈谷に生まれる。 讀賣文学賞。 江戸時代の人物伝記ないし文献資料の探索に空前の成果を上げた終生在野の碩学。昭和九年に伝記 学会を設立し、機関誌「伝記」は厖大な史料蒐集と論策・表現に埋められた。かかる地道な導きによりまた多く文藝作品の開花に結びついたのを忘れることが出 来ない。 掲載作は編輯者が親しく頂戴したもので、私版文庫本大の小冊子である。成るについては、著者の「後記」を以てしたい。「旧 い原稿類の一括の中から、小出昌洋君が見つけ出してくれたのが、この一文である。停戦後の二三年の間、することもなくて日を送ってゐた折に書いたものら しい。日本教育文庫の孝義篇の中の一篇を書直して見たまでのもので、今さら印刷に附したりするのは事々しいのであるが、今は問題にせられさうもない孝行譚 といふのが、旧人間の私などには、却つてなつかしく感ぜられもする。かやうな物語をも、少しは喜んで貰はれようかと、この小冊にして見た。孝行の文字には 捉へられず、昔の美しい性情を持つた人の、美しい行ひをした物語として読んで貰はれるならば満足である。(昭和五十八年一月)」。創作とは自ずと異なるノンフィクションの情味があり、あえて全容を迎え入れた。  (秦 恒平)





    新 島ものがたり    森 銑三




    一

 大和国十市郡の内に、同国芝村の領主織田丹後守預りの天領十八箇村があつたのであるが、宝暦四年の秋、この地方は不作で、村々は困窮したところから、そ の十八箇村全體が申合せて、訴訟に及んだ。それはよくよくのことだつたのである。しかし農民が団體行動を執ることなどは、堅く禁ぜられてゐた時代である。 その上に、取入れを済し、年貢をも納めた上で嘆願にも及ぶべきを、その仕方宜しからずとの廉で、願ひは聴届けられなかつた上に、翌年には村々の役目の者達 は関東に呼出されて、御勘定奉行一色周防守の吟味を受け、徒党の罪許すべからずとあつて、村役達は、遠島やら追放やらに処せられた。かやうにして十八箇村 の内の八条村の年寄だつた与十郎は、隣村の三郎助と共に、伊豆七島の内の新島へ流罪を申渡され、その跡式は田畑、家屋敷、諸道具とも欠所に附せらるゝ旨の 判決が、八月七日に下された。私の利慾を離れて、公衆のために図つたことが、さやうな結果を来たしたのである。
 与十郎は時に五十歳だつた。妻のきんは事件の起る前年に死去して居り、跡に残されたのは母妙専七十歳、長男庄右衛門二十二歳、次男清右衛門十七歳、三男 平兵衛十歳、それに末の娘つい六歳の五人であつた。なほその四人の同胞の上にさよといふ長女があつたが、これはもう二十四歳で、他へ縁附いてゐた。老いた 母も、まだ年の行かぬ幼子達をも残して、遠い離れ島に流される与十郎の悲しみは、いかばかりだつたらうか。しかも与十郎は江戸からすぐに島へ送られて、そ の前に一度帰国して家の者とも別れを惜しむことも許されなかつた。
 与十郎流罪の通知が、八条村の家に到つた時、その子の庄右衛門と清右衛門とは、せめて暇乞に江戸へ赴きたいといひ合つた。けれども老年の祖母と、幼少の 弟妹を残して、二人共には行かれない。致方なく庄右衛門が残り、清右衛門一人が江戸表へと急いだ。大和から江戸までの長の道中を、昼夜も分たず急ぎに急い で、僅か六日で著いて、便りを求めて聞きたゞしたら、船はもう一両日前に出たといふ。清右衛門は、地たゞらを踏んでくやしがつたが及ばない。この上は、ど うか私も配所へ渡らせていたゞきたい、と願ひ出たけれども、取上げられないばかりか、却つて御叱りを受けた。それ以上執るべき手段もない。重い足を引きず るやうにして帰つて来た清右衛門は、祖母や兄弟に始終を告げて、相共に涙に暮れたことだつた。

    二

 与十郎の家は、欠所になつたのであるが、村人達の同情は期せずして集つた。家財は入札で払はれたのを、八条村で落して、それを庄右衛門に譲つてくれ、細 々ながらも跡目の立てられるやうに図つてくれた。なほそのことには、与十郎の弟で、出家して高野山に在つた沙門も来て、村方とカを合せて、何かと世話をし てくれたのだつた。
 庄右衛門兄弟は、叔父の御坊や村人達から励まされて、農事にいそしみ、一人の祖母に孝養を尽した。ところがその内に、祖母は中風を患つた。庄右衛門等 は、困窮の中からも力の限り看病したけれども、老年ではあるし、伜の大変に心を痛めたことでもあり、つひに養生が叶はなくて、宝暦七年になくなつた。庄右 衛門兄弟は、またしても新しい悲しみに遭つたのである。
 祖母の病死のことを、庄右衛門は手紙で島の父に報じた。島からもその死を悲しむ手紙が来た。島への通信は、すべて開き状といふ形式で、封をせずに願出 る。島からも同様の書状が来る。それらはすべて芝村の織田家の御役所で扱つて貰はれるのであつた。当時のことではあり、往復に日数はかゝつても、とにかく 通信の途だけは、開かれてゐたのである。
 庄右衛門の一家は、祖母の死後、一層寂しい日々を送つてゐた。庄右衛門は、とうに妻帯してもよい年齢になつてゐる。村の人々も叔父の御坊も、それを勧め たけれども、庄右衛門は、「少々存寄りがございますから。一人でゐたうございます」といつて、聴入れようとしない。しかしまた御坊は御坊で、「兄者にして も、遠い島にゐられて、お前の身が固まらなくては、決して安堵なさるまい。親を安心させるためにも、嫁を貰ふやうに」といふ。庄右衛門もつひに、その意に 従はねばならなくなつた。
 かくして庄右衛門は妻を迎へ、やがて子供の親ともなつた。妻は、名をわさといつた。人となりが貞淑で、よく庄右衛門に仕へ、弟妹達の世話をする。庄右衛 門は、よい内助者を得たのであつた。
 妻帯したのと前後して、弟の清右衛門はまた人々の世話で、江包村の或家へ養子に行つた。
 清右衛門はゐなくなつても、子供が生れて、庄右衛門の家は賑かになつた。しかし庄右衛門は、島にある父を片時も忘れはしなかつた。どうかして、親御様の 御無事に帰国して下さる日の来るやうにと、たゞそればかりを念じてゐた。

    三

 島の父からは、人々の世話で、酒を商ふことを始めたといふ便があつた。それはよい便であつたけれども、その後になつてまた、眼病に悩んでゐるよしの知ら せが来た。それを読んだ庄右衛門の心は定まつた。眼病の親父様を、そのまゝにしては置かれない。どうしても島へ行つて、介抱をしよう。──さう思立つたの である。
 庄右衛門は芝村の御役所へ足を運んで、歎願に及ぶことが再三だつた。けれども御許は出ないまゝに、月日が立つて行く。暑さにつけ寒さにつけても、父親の ことが気にかゝる。どのやうに不自由な暮しをしてお出だらうかと思ふと、居ても立つてもゐられない。その内に島の父からは、ばつたり便が来なくなつた。さ うして二三年の年月が過ぎた。眼病がお進みなのだらうと思ふと、庄右衛門は飛んでも行きたい思だつた。
 父の遠島後、早くも十年の歳月が過ぎて、明和二年となつた。この年は東照宮の百五十年の御忌に当る。それにつけて、大赦が行はれるらしい由を耳にして、 庄右衛門は何よりの機会と思つた。早速江戸に下つて、上野の寛永寺の宮様の御赦帳に附いた。けれどもそれに対しても、何等の御沙汰も得られずにしまつた。 庄右衛門は、また重い心を抱いて、帰らねばならなかつた。
 翌三年に、庄右衛門の家へ、西国巡礼の道者がおとづれた。遠江国豊田郡芝田村の権八といひ、昨年まで、同じく罪人として新島にゐたのが、大赦で御赦免に 逢うて帰つて来たので、さうした人が、わざわざ与十郎の消息を知らせに来てくれたのである。庄右衛門は喜んでその人を招じて、いろいろの話を聴いた。
 権八はいつた。島では与十郎殿とは、至つて御懇意に願つて居りました。ですから故郷のお話なども、毎日のやうに聴かされたものです。与十郎殿は御不自由 なお暮しながらも、堅固でお過ごしになつてゐます。心懸のよい御人だものですから、島の人々も立てゝ、隠居隠居と呼んでゐます。御器用なたちで、生花をな されて、野山の草花を上手に生けて、それを寺へ奉納なすつたりなどもなさいます。新島は島中が法華なのですが、先年御祖師様の御会式には、鶏頭を一杯にお 生けになつたのが、殊にお見事で、島人達も珍しがつて拝見したことでした。一緒に流されて来なすつた三郎助殿とは、同国でもあり、同罪でもあつたのですか ら、兄弟同様に親しくしてお出だつたのですが、その三郎助殿は、お気の毒にも賊のために横死をお遂げになつたのです。そのために与十郎殿も大きに力を落さ れて、その前から眼を患つてゐられましたのが、一層悪くなりました。さうして三年この方は盲人同様になつておしまひで、それだけが何ともお気の毒です。以 前酒を商つてお出だつたのですが、そのことも出来なくなつてしまつて、島人達の情で、細々とお暮しでございます。与十郎殿から御依頼を受けたのではござい ませんが、私は帰国の出来た御礼に、西国巡礼となつて、かやうに遍歴してゐますので、当国へも参りましたところから、ふつと存じ出して、お尋ねに及んだ次 第です。──
 権八は、かやうな話をしてくれた。庄右衛門は、一語も聞洩すまいと、耳を傾けたのだつた。親父様の御無事なのは喜ばしい。しかし盲人同様になつてお出な のだといふ。権八の話を聴いてから、寝ても覚めても、その一事が心に懸つた。
 庄右衛門は宿願を立てゝ、長谷の観音へ詣でて、眼病の平癒を祈つた。が、その門前に盲目の非人のゐるのを見て、親父様もあのやうな御様子なのだらうと思 ふと、またも居たたまらぬ思をした。

    四

 父上が島で盲人となつて、不自由をしてお出になる。御遠忌の大赦も過ぎた。当分は御赦免の折などはないのかも知れない。次第にお年も寄ることだのに、ど うして飢寒をお凌ぎなさらうかと思ふと、庄右衛門はもう、ぢつとしてゐられなかつた。芝村の御役所で埒が明かなければ、在所を欠落の形で江戸へ下り、ぢか に織田様に御願ひ申上げて、島へ遣らしていたゞかう。そのことの許されぬ間は、乞食をしてなりとも、御門前を立去るまい。──庄右衛門は、さう決意した。
 けれども田地を棄てゝ出ては、御叱を受けるばかりか、願ひの妨げとなるかも知れない。田畑は村中で預つて貰つて、その上で出ることにしようと、庄屋年寄 に頼入つてその承諾を得た。
 それに力を得た庄右衛門は、末弟の平兵衛に所存を打明けた。すると平兵衛が、「兄さん、島へなら私を遣つて下さい。兄さんは家を治めて行かなくちやなら ない。その上に嫂さんもあるし、子供もある。私の行くのには、何の障もない」といふ。父と別れた時には、まだ十歳の頑是なさだつた平兵衛が、もう二十三歳 の若者になつてゐる。その平兵衛がさういふのである。
 庄右衛門はその志を喜んだけれども、「お前はまだ年が行かない。お前を遣つたら、なほのこと心配の種を増すだらう。島へはどうでもわしが行かう。お前は 跡に残つてくれ」と、平兵衛をつひに説得した。
 平兵衛ばかりでなく、親類や縁者にも、止めようとする者が多かつた。けれども庄右衛門は跡へ引かなかつた。幸ひにも叔父の御坊には、同意が得られた。最 後に庄右衛門は、妻のわさに向つて申渡した。
 「島の親父様の御様子は、お前も聞いてゐる通りだ。心許ないとも何ともいひやうがないことだ。この上は、わしは命に懸けても御願ひ申上げて、島へ渡つ て、御介抱しようと思ふ。都合に依つては、再会も出来ないかも知れない。ひよつとしたら、これが今生の別れともならう。万一のことがあつたら、伜どものこ とを宜しく頼まう。まづは末の子を連れて里へ帰つて、親御のお心に任せて、ともかくもして貰ひたい。」
 夫にさうした決意を聞かされる日を、わさはもう前から覚悟してゐた。わさの心は既に定まつてゐた。
 「子供達のことなら御心配下さいますな。いかやうにもして成人させませう。どうかこの上は、お父様もお連れになつて、めでたく御帰国なさる日を、今から お待ち申します。」 わさは、言葉少にさういつた。
 庄右衛門は、この時もう、三人の子持になつてゐた。総領の太吉は八歳である。これは姉のさよが預つてくれる。次の豊三郎は五歳である。これは弟の清右衛 門が預つてくれる。妻のわさは、二歳の三男藤吉を連れて、親里へ身を寄せる。かやうにして、それぞれに振り方が附いた。
 庄右衛門の弟平兵衛は、兄に代つて自分が島へ行きたいと申出て、許されなかつたのであるが、兄さんが島へ渡るのに、自分が安閑としてはゐられないと、大 坂へ奉公に出て、給金を前借して、それを兄の路用に当てゝくれた。妹のついも、もう年頃になつて、縁談などもあるのだつたが、父や兄の難渋をよそに、嫁に は行かれませぬと、同じく奉公に出て、給銀を申請けて兄の助けにした。庄右衛門の兄妹には、さうした健気な志の者達が揃つてゐたのだつた。

    五

 明和五年十一月に、庄右衛門は村の庄屋年寄附添ひの上で、芝村御役所へ出頭して、改めて願書を差出した。
 「先年新島へ遠島致候与十郎儀、次第に老衰の上、此三四年眼病にて盲目と相成、渇命に及び申すべき様子相聞え、何程か欺かはしく存じ奉候。是れに依つて 伜庄右衛門、新島へ罷下り介抱仕りたく、御願申上候。何とぞ御免下され候はゞ、有難く存じ奉るべく候。」 願書はさういふ文面だつた。
 庄右衛門と村役人達とは、「田畑や妻子等は、いかゞ致したか」との御尋ねを受けて、ありのまゝに御答申上げた。島へ渡つてから、父を養育する貯へはと問 はれて「困窮の百姓にござりますれば、金銀の貯へなどはござりませぬ。しかしながら、どのやうな荒れ島にもせよ、土さへござりまするならば、親子が食べる くらゐの食物は作立てまする。」庄右衛門はかう、きつぱり答へた。
 この一言は、役人達を動かした。「願ひの趣は関東へ申上ぐる。重ねて御沙汰があらうから、帰つて待つやうに」とのことだつた。庄右衛門達は、それをたよ りに帰村した。
 その後に島からは代筆の手紙が久々にして来た。引続き眼のよくならないことが述べてある。その上に、外宮の御師の松村長太夫といふからも、与十郎の近況 に就いての知らせがあつた。長太夫は新島へ御祓を納めに下つて、島の神主の前田左近に逢ひ、与十郎の難渋の様子をも聞いたところから、帰国後にその由を報 じてくれたのだつた。
 庄右衛門は、一刻も早く島へ赴きたい。それだのに御役所からは何の御沙汰もない。とかうする内に年が改まつて、明和六年となつた。正月は来たけれども、 庄右衛門の気持はそれどころではなかつた。ひたすら御通知を待つ内に、二月に入つてから、待ちに待つてゐた御沙汰を受けた。村役附添ひ罷出づるやうに、と いふのである。
 すぐに出頭に及んだら、御役人から喜ばしい知らせがあつた。「願ひの通り関東へ御伺ひ申上げたところ、御聞済があつて、江戸へ向ひ、村役附添ひ罷下るや うにとの御下知が参つた。さやう図らふやうに」とのことだつたのである。

    六

 ありがたく御請に及んで帰つた庄右衛門は、すぐに支度を調へた。さて村中に暇を乞ひ、二月二十一日といふに八条村を立出でた。いつ帰るとも知れない旅路 である。見送る人々は、何れも涙をたゝへてゐる。庄右衛門一人は天へも昇る心地で、足取も軽い。村役人二人がこれに附添うた上に、芝村の御屋敷からも、役 人が一人同行した。
 途中には、格別のこともなかつたけれども、あひにく川止めが多くて、思ひの外に日を費して、三月十一日に江戸の丹波守様の御屋敷に著到した。
 すぐに御屋敷から、御勘定奉行所へ御届けがあり、その十六日に御勘定奉行安藤弾正少弼から御呼出しがあつた。庄右衛門はまた村役人に附添はれて出た。弾 正少弼からぢかの御吟味に、「其方こと新島へ参り、父親の介抱を致したき段、奇特に思召され、この度御召下し仰せつけられたが、親の介抱は、いかやうに致 す所存か」と問はれた。庄右衛門は芝村で述べた通りをこゝでも繰り返した。「金銀の貯へはあるか」と、こゝでもまた問はれて、弟や妹の給銀を借受け、村方 からの餞別なども貰つて参りましたけれども、道中で川止めに遭つたり致しまして、残り少に相成りました」と、ありのまゝに答へた。「金銀の貯へが乏しくて は、介抱は覚つかなからうぞ」といはれて、庄右衛門は平然として答へた。「土さへござりますなら、親子二人の食分くらゐは作り出しまする。」
 弾正少弼も、この一言に感動の體だつた。なほも懇ろな御意があり、「願ひの通り御聞届け下さる。島へ参つて大切に介抱致すやうに」と仰せられた。
 その上にも、村役達に、「庄右衛門の留守中、預け置の田畑を麁略にせぬやうに」との注意があつた。
 島への渡航の願の叶へられた庄右衛門は、江戸でも方々から餞別に預つた。安藤弾正少弼から白銀一枚、同じく用人中から金二百疋、織田丹後守から金一両、 同じく御預り地掛りの役人中から金三百疋、それに織田家へ出入する町人達のそのことを洩れ聞いて、餞別をくれる者が多かつた。金子に懐中薬をも添へてくれ た者などもあつた。伊豆国韮山の江川太郎左衛門からも青銅百疋を贈られた。江川は新島の代官だからである。

    七

 三月二十一日に、庄右衛門は織田の御屋敷から江川の御屋敷へ引渡され、その日すぐに江戸を出帆する。途中浦賀に立寄り、二十七日の朝無事に新島に着い た。すぐに島役所へ出る。そこで神主で島役人を兼ねてゐる前田左近、名主青沼元右衛門、年寄中四人などの人々が立会で、御添文を披見することがあり、それ からきた多少の諮問があつて、島人の案内で、庄右衛門は父与十郎の住ひに到つた。
 住ひといつても、九尺に四間の見る目もいぶせき藁屋である。その中に、別れてからの十五年間に、老いさらばうた与十郎がうづくまつてゐる。「親父様だ」 と思つた瞬間に、万感が迫つて、庄右衛門は物もいはれない。
 「おとうさん、私です。庄右衛門が御介抱に上りました。」
 辛うじて、それだけをいつたけれども、あまりの唐突に、与十郎は夢に夢見る心地で、判断も附きかねてゐる様子だつた。
 「おとうさん、私ですよ。庄右衛門です」と、進み寄つてその手を取り、顔を父親の目の見えない顔に磨りつけるやうにして繰返した。
 その声をぢつと考へてゐる様子だつた与十郎は、前にあるのがわが子の庄右衛門と気が附いた。「庄右衛門か」といふ。うるんだその眼から、涙が滝のやうに 流出た。
 庄右衛門も、嬉し涙に泣き続けた。

    八

 新島での庄右衛門の新しい生活が始まつた。実際に来て見た新島は、聞きしに増る荒れ島だつた。戸数は三百軒あまりあるけれども、土地が悪いために米は出 来ない。山が多いので、常には柴を刈り、漁りに出て魚を捕へ、それらを船に積んで外へ出して、得た銭で米を買ふ。漁りのない折や、船便りのない時には、忽 ち食料に影響する。山に入つて野老を取り、葛の根を掘つたりして食料に当てるのであるが、勢ひ人々は営養不良に陥り、春季には顔が蒼ざめて、色艶を失ふ人 々が多くなる。四五月になつて、魚を捕つて盛んに食べるやうになつて、人々の顔も始めて平常に復することになる。島の人々は、そのやうな生活を続けてゐる のだつた。
 流人はすべてで百人ばかりゐる。一人に一軒づつ、小屋同前の藁屋があてがはれてゐる。その家の辺は取分け土地が悪いので、畑も出来ない。それで山を一つ 越えたところの畑まで行つて、物を作る。その頃は薩摩芋を専ら作つて食料に当てゝゐた。けれどもその薩摩芋も、与十郎の来る三四年前に種が渡つて来たのに 過ぎなかつた上に、作り方も下手で、芋らしい芋は出来ないのだつた。それを与十郎と三郎助とが見て、いろいろ島の人々に教へるところなどもあつたので、お ひおひに、それらしい芋が取れるやうになつた。
 さうした荒れ島だつたけれども、年頃の願ひが叶へられて、島の住民となつた庄右衛門の心は楽しかつた。山を越えた畑へ出かけて行つては、農事に励む。国 からいろいろの種なども持つて来たので、それを作り、島人達にもそれを頒つて、作り方を教へた。その中でも綿種と煙草種とは、これまで島にはなかつたもの で、庄右衛門が来てから、島にも綿や煙草が出来るやうになつて、島人達も喜んだ。農業の暇には、庄右衛門は以前父のしてゐた酒の商売をも始めた。庄右衛門 は何かにつけて骨身を惜まずにはたらいた。

    九

 どうしたら父を喜ばすことが出来ようか。──庄右衛門の思ふところは、たゞそれだけだつた。しかし食物の不自由な島では、特別に父の好みの物などを作つ て、勧めることも出来ない。或時庄右衛門がそのことを欺いたら、父は頭から打消していつた。
 「何をいふぞ。命のある内にお前に逢はれて、こんなに介抱して貰つてゐるのが、何よりの馳走ぢやわ。この上に何の願ひがあらう。このやうにお前に逢はれ たのも、御上の御慈悲ぢやと思へば、わしはありがたい気持で一杯ぢや。」
 与十郎の気持は、事実その通りであつた。しかしさうした与十郎にしても、このまゝ島の土になるのかと思ふと悲しい。しかしそのことも、もうあきらめてゐ た。
 「もはや余命も幾らもあるまいが、島で死んでも魂はお前の背中に負ぶさつて帰国しようぞ。」
 与十郎は半ば冗談らしく、そんなこともいつてゐた。
 しかし父親のさうした言葉を聞く時、庄右衛門の胸は痛んだ。父がこのまゝこの島で死んで、自分だけが島から引上げる。そんな日が来てはたまらない。命の ある内に、どうかして父を郷里へ連れて帰つて、肉身や、その外の人々にも逢はせたい。それで折に触れては、そのことを島の役人達に訴へもしたのだけれど も、「流人の身として、赦免を願ひ出でたりするは、甚だ恐れあること」とあつて取合はぬ。庄右衛門はそれに対して、「流人の身として申しては憚りもござり ませうが、私は流人ではござりませぬ。余命もない父を、どうかして命のある内に故郷へ返して、肉身の者達にも逢はせたう存じまする」といふ。さういふ面持 にも、一語一語にも真心があふれてゐる。役人達も、すげなく庄右衛門のいふところを跳ねつけても、その至情には動かされずにゐられなかつた。新島は一體に 人気の荒いところで、島人達には親を敬ふ気持などは欠いてゐる者はかりだつたが、庄右衛門の行ひを見るにつけて、自ら恥づる心を生じて、庄右衛門を見習ふ 者達も、次第に出来た。庄右衛門は島の農業の改善にもカを尽して、その方面にも功が多かつた。島役人も、折に触れてはさうしたことどもを、御代官所に告げ る。自然にまたそれが幕府の当路へ伝へられて行くことにもなるのだつた。

    十

 安永七年閏七月に、八条村へ芝村の御役所から、与十郎と庄右衛門とのこれまでのことに就いて、なほ二人の行状に就いても、御問合せがあつた。庄屋年寄は 早速書附で委細を言上した。
 さうしたことがあつてから、三月を経た十月二十一日に、江戸表に於て与十郎遠島御赦免の義が仰出された。安藤弾正少弼から織田丹後守へ御達があつて、御 赦免状が発せられたのである。
 それから数日を経た同月二十八日に、赦免船は早くも新島に到つた。さうした船の来たことが、口から口へと拡まつて、与十郎の小屋へも伝へられて来た。折 から与十郎は綿を繰り、庄右衛門は煙草を刻んでゐたが、「赦免船」の一語が庄右衛門の胸に強く響いた。 「おとうさん、御赦免船だといひます。外へ出て問 合せて来ませうか。」
 しかし与十郎は、取上げようとしなかつた。
 「よせよせ、誰のことやら知れもせぬに、ばたばた騒ぎ立てたら見つともない。」
 庄右衛門はさういはれて、またもや仕事にかゝつたが、何やら心が落ちつかぬ。
 その時、小屋の入口に姿を現したのは、島役人だつた。
 「与十郎、ゐるか。庄右衛門附添の上で、すぐに罷出るやうにといふ御達しぢや。」
 役人の様子も、いつもとはどこか変つてゐる。
 庄右衛門は取るものも取り敢へず、父を促し立てゝ出る。途々役人が、「与十郎喜べ、赦免の御達しがあつたのだぞ」と、こつそり教へてくれる。庄右衛門は もう自分の體が自分なのかどうか、半ば分らなくなつてゐた。
 御役所にはもう役人中の顔が揃つてゐた。
 「与十郎儀、遠島御赦免の趣、今日御下知が参つた。赦免状を承るやうに。」
 さやうに申渡される。その状の文面は次の如くであつた。
 「其島に預け置候大和国十市郡八条村年寄与十郎、今度帰島仰付けさせられ侯。并に介抱人伜庄右衛門同道にて、仕立船を以て差出すべく候。尤も御雇船の義 に候間、便船を相待たず、早速出帆致さすべく侯。赦免状仍つて件の如し。
   安永七年戌十月廿一日        御 老 中(御判)
                     御勘定奉行(御判)
    代官江川太郎左衛門
      新島役人神主名主へ               」
 聴き入る内にも、親子共に涙が溢れ出て止まぬ。それだけにまた庄右衛門は、父が喜悦の余に、腰でも抜かしはせぬか、取り上せはせぬかなど、そんな心遣ひ もしなければならなかつた。
 役人は更にいひ添へた。「この上は早速支度に取りかゝるやうに。用意が調うたらば申出でよ。」
 帰国の支度といつても何ほどのこともない。たゞ庄右衛門はこの度の喜びに、名残振舞といふことをして、島役人六人、寺僧方五人、その外これまで世話にな つた人々二十人ほどを招いた。それが済むと、今度は懇ろの人々から招いてくれる。予定した十一日の間に五十余軒から招かれたが、かやうな場合に辞退しては 相済まぬと、何方へも父子揃つて廻つた。

    十一

 十一月九日の正午といふに、与十郎、庄右衛門父子は、島の人々から名残を惜まれながら、新島を出帆した。十四日には浦賀に立寄り、十八日に至つて江戸鉄 砲洲に無事に著いた。そこで船頭から御代官へ届出て、御下知を待つことになる。
 翌十九日の一日はなほ船にあり、二十日に与十郎、庄右衛門は江川太郎左衛門の屋敷へ出、すぐにまた御勘定奉行安藤弾正少弼に引渡され、即日奉行所の御白 洲に召出された。 「今般日光御社参の恐悦に就きて、与十郎遠島御赦免なし下さる。并びに伜庄右衛門、介抱行届きたる致方、神妙に思召され、両人共帰国仰 せつけられたる上は、ありがたく存じ奉れ。」
 なほそれについで、「八条村村役の者共へも、以後両人の者に目を懸け遣すやう、芝村役人中より申達すべきに依つて、さやう相心得よ」とのことだつた。
 そこで請書を差出す。それが済んで両人は料理を賜つた。
 「与十郎伜孝心の段、御感心の上、御料理を下さる。麁菜ではあるが、ありがたく頂戴致せ」とのことで、その上にも白銀一枚を腸つた。その跡へ、家中の人 々がつぎつぎと出て挨拶がある。父子は晴がましいことばかりだつた。
 二十一日に御暇を下されて、「随意に帰国するやうに」とのことだつたが、二人はなほ十日ほど織田家の屋敷に留つてゐた。その間に与十郎は、島からはるば る携へた松を、丹後守の子息栄三郎に上つた。それは枝ぶりが殊に見事なところから、もしも帰国の暁には、殿様へ差上げたいものと、大事にしてゐた木であつ た。御屋敷にゐる間にも、家老を始めとして、多くの人々から盃を賜つたりして、冥加に余ることばかりだつた。その上にも、かずかずの拝領物をした。庄右衛 門の島へ立つ時に、餞別をくれた出入の町人の、この度はまた無事の帰国を祝つてくれる者が多かつた。
 十二月二日に、父子は江戸を立つた。織田家から役人が一人附添つて、和州まで通し駕籠で送られたのであるが、その途中でも、庄右衛門の篤行を聴き伝へ て、祝ひの歌やら句やらを寄せる者が多かつた。
 十三日に芝村の御役所に著し、役人が立会つて、すぐに御暇が出、即日故郷の八条村に帰つた。与十郎は実に二十四年ぶり、庄右衛門は十年ぶりの帰郷であ る。二人を迎へる姻戚故旧の内には、十年間の成人に、たゞ見ただけでは分らぬほど大きくなつた三人の子供がゐる。妻のわさもゐる。顔に手巾を押しあてゝ、 たゞ嬉し泣に泣いてゐる。清右衛門、平兵衛の二人の弟、さよとついとの姉妹もゐる。家族達とゆつくり話す間もなく、村方から祝儀を受ける。ついで振舞に招 かれる。与十郎も庄右衛門も、忙しい日々を送つた。
 すぐに安永八年の正月となつた。親子兄弟姉妹が打ちつどうて、ひとしほめでたい春を迎へて、重ね重ね御上の御恩を感謝したことだつた。この年与十郎は七 十四歳、庄右衛門は四十六歳、妻のわさは三十八歳、長男大吉十九歳、次男豊三郎十六歳、三男藤吉十三歳、庄右衛門の弟清右衛門は四十一歳、末弟平兵衛は三 十四歳、姉のさよは四十八歳、妹のついは三十歳だつた。たゞその中で一つだけ遺憾なのは、与十郎の実弟で、その遠島の後に、何かと力になつてくれた高野の 御坊が、既に病死して、この喜びを共にすることの出来ぬ一事だつた。人々は自分等の喜びを思ふにつけて、御坊にこの喜びを頒つことを得ぬのを遺憾とした。

    十二

 庄右衛門は、帰国後人に語つていつた。「この度はありがたくも、親を貰つて帰りました。返す返すもありがたいことでございます。」
 親を貰つて来たとの一語が、いかにも庄右衛門らしい。人々は何でもないこの言葉に動かされた。
 庄右衛門に向つて、「公儀様からは何の御褒美も出なかつたのか」と聞いた人があつた。庄右衛門は、答へていつた。「公儀様の御褒美は親どもの科を御許し 下すつて、願ひの通り私に下さりました。この上もない結構な御褒美を頂戴しました。これ以上の何がありませうか。」
 庄右衛門の篤行が、つぎつぎと世に広まつた。それに対して庄右衛門は述懐していつた。 「私どもの身分はきつうむつかしくなつたものでござります。かや うに世間の人様に知られて、褒めそやされたりしますと、それにつれて大きな顔をする心が出はすまいかと、それが心配でございます。弟や伜どもにも申し聞け て、あれは孝行な人ぢやの、手がらな人ぢやのと、必ず必ず思ふまいぞ。これは皆御上の御慈悲ゆゑぢや。お互に慎まなくては、冥加のほども恐ろしい。夢にも 慢心めいた気持を起すまいぞと、申聞かせてゐることでございます。」
 かやうな言葉からも、庄右衛門の人がらのよかつたことが知られよう。
 「島にゐる間は、毎晩のやうに家の夢を見たのでございます。ところが帰国しましてからは、島の夢をとんと見ません。不思議なものでございます。」
 庄右衛門はかやうなこともいつたさうである。
 与十郎の家は代々真宗の信者であつた。庄右衛門のことが興正寺の門主まで聞えて行つた時、「さやうな孝子を出したのは、宗旨の誉ぢや」と仰せられて、浄 土和讃の一首を特に揮毫して賜つた。与十郎はそれを、仏壇の脇懸にして、朝夕礼拝した。ついで門主の和州下向のことがあり、与十郎は召出されて、御剃刀を 下され、宗祐といふ称名を賜はり、更に金百疋を頂戴した。人々はそれを、ありがたきこと、ためしもないことと褒めそやした。
 庄右衛門の所行に感ずるあまりに、筆蹟を請ふ者も多かつた。庄右衛門はさやうな場合には、たゞ「孝弟」の二字を書いて与へたさうである。



     後 記

 旧い原稿類の一括の中から、小出昌洋君が見つけ出してくれたのが、この一文である。停戦後の二三年の間、することもなくて日を送ってゐた折に書いたもの らしい。日本教育文庫の孝義篇の中の一篇を書直して見たまでのもので、今さら印刷に附したりするのは事々しいのであるが、今は問題にせられさうもない孝行 譚といふのが、旧人間の私などには、却つてなつかしく感ぜられもする。かやうな物語をも、少しは喜んで貰はれようかと、この小冊にして見た。孝行の文字に は捉へられず、昔の美しい性情を持つた人の、美しい行ひをした物語として読んで貰はれるならば満足である。(昭和五十八年一月)