招待席

もり おうがい 小説家 1862.2.17(旧1.19) - 1922.7.9 現島根県津和野市に生まれる。本名森林太郎。  陸軍軍医総監・帝室博物館総長・従二位。 掲載作は、大正三年(1914)四月「太陽」初出。歴史小説より史伝への移行を予兆した平淡温厚の滋味掬すに足 る逸品。(作者雅号の一字「鴎」は正しくないが、現在の機械環境では正しく受信されない場合があり、遺憾ながら別字にしたがっている。かかる事情の速やか な是正が望まれる。同様の例が他に二三生じている。) (秦 恒平)





      安井夫人    
森 鴎外



 「仲平(ちゆうへい)さんはえらくなりなさるだらう」と云ふ評判と同時に、「仲平さんは不男(ぶをとこ)だ」と云ふ蔭言(かげこと)が、清武一郷(きよ たけいちがう)に伝へられてゐる。
 仲平の父は日向国(ひうがのくに)宮崎郡(みやざきごほり)清武村(きよたけむら)に二段(たん)八畝(せ)程の宅地があつて、そこに三棟(むね)の家 を建てゝ住んでゐる。財産としては、宅地を少し離れた所に田畑(たはた)を持つてゐて、年来家で漢学を人の子弟に教へる傍(かたはら)、耕作を輟(や)め ずにゐたのである。併(しか)し仲平の父は、三十八の時江戸へ修行(しゆぎやう)に出て、中一年置いて、四十の時帰国してから、段々飫肥(おび)藩で任用 せられるやうになつたので、今では田畑の大部分を小作人に作らせることにしてゐる。
 仲平は二男である。兄文治(ぶんぢ)が九つ、自分が六つの時、父は兄弟を残して江戸へ立つたのである。父が江戸から帰つた後、兄弟の背丈が伸びてから は、二人共毎朝書物を懐中して畑打(はたうち)に出た。そして外(よそ)の人が煙草休(たばこやすみ)をする間、二人は読書に耽(ふけ)つた。
 父が始て藩の教授にせられた頃の事である。十七八の文治と十四五の仲平とが、例の畑打に通ふと、道で行き逢ふ人が、皆言ひ合せたやうに二人を見較べて、 連(つれ)があれば連に何事をかさゝやいた。背の高い、色の白い、目鼻立の立派な兄文治と、背の低い、色の黒い、片目の弟仲平とが、いかにも不弔合(ふつ りあひ)な一対(いつつゐ)に見えたからである。兄弟同時にした疱瘡(はうさう)が、兄は軽く、弟は重く、弟は大痘痕(おほあばた)になつて、剰(あまつ さ)へ右の目が潰(つぶ)れた。父も小さい時疱瘡をして片目になつてゐるのに、又仲平が同じ片羽(かたは)になつたのを思へば、「偶然」と云ふものも残酷 なものだと云ふ外はない。
 仲平は兄と一しよに歩くのをつらく思つた。そこで朝は少し早目に食事を済ませて、一足先に出、晩は少し居残つて為事(しごと)をして、一足遅れて帰つて 見た。併し行き逢ふ人が自分の方を見て、連とさゝやくことは息(や)まなかつた。そればかりではない。兄と一しよに歩く時よりも、行き逢ふ人の態度は余程 不遠慮になつて、さゝやく声も常より高く、中には声を掛けるものさへある。
 「見い。けふは猿がひとりで行くぜ。」
 「猿が本を読むから妙だ。」
 「なに。猿の方が猿引(さるひき)よりは好(よ)く読むさうな。」
 「お猿さん。けふは猿引はどうしましたな。」
 交通の狭い土地で、行き逢ふ人は大抵識(し)り合つた中であつた。仲平はひとりで歩いて見て、二つの発明をした。一つは自分がこれまで兄の庇護の下(も と)に立つてゐながら、それを悟らなかつたと云ふことである。今一つは、驚くべし、兄と自分とに渾名(あだな)が附いてゐて、醜い自分が猿と云はれると同 時に、兄までが猿引と云はれてゐると云ふことである。仲平は此発明を胸に蔵(をさ)めて、誰にも話さなかつたが、その後は強(し)ひて兄と離れ離れに田畑 へ往反(わうへん)しようとはしなかつた。
 仲平に先だつて、体の弱い兄の文治は死んだ。仲平が大阪へ修行に出て篠崎小竹(しのざきせうちく)の塾に通つてゐた時に死んだのである。仲平は二十一の 春、金子(きんす)十両を父の手から受け取つて清武村を立つた。そして大阪土佐堀三丁目の蔵屋敷(くらやしき)に着いて、長屋の一間(ひとま)を借りて自 炊をしてゐた。倹約のために大豆を塩と醤油とで煮て置いて、それを飯の菜(さい)にしたのを、蔵屋敷では「仲平豆(ちゆうへいまめ)」と名づけた。同じ長 屋に住むものが、あれでは体が続くまいと気遣つて、酒を飲むことを勧めると、仲平は素直に聴き納(い)れて、毎日一合づつ酒を買つた。そして晩になると、 その一合入の徳利を紙撚(こより)で縛つて、行燈(あんどう)の火の上に弔(つ)るして置く。そして燈火に向つて、篠崎の塾から借りて来た本を読んでゐる うちに、半夜(はんや)人定(さだま)つた頃、燈火で尻をあぶられた徳利の口から、蓬々(ほうほう)として蒸気が立ち升(のぼ)つて来る。仲平は巻(ま き)を釈(お)いて、徳利の酒を旨(うま)さうに飲んで寝るのであつた。中一年置いて、二十三になつた時、故郷の兄文治が死んだ。学殖は弟に劣つてゐて も、才気の鋭い若者であつたのに、兎角(とかく)病気で、たうとう二十六歳で死んだのである。仲平は訃音(ふいん)を得て、すぐに大阪を立つて帰つた。
 其後仲平は二十六で江戸に出て、古賀とう(=人偏に、同)庵(こがとうあん)の門下に籍を置いて、昌平黌(しやうへいくわう)に入つた。後世の註疏(ち ゆうそ)に拠(よ)らずに、直ちに経義(けいぎ)を窮(きは)めようとする仲平がためには、古賀より松崎慊堂(まつざきかうだう)の方が懐(なつ)かしか つたが、昌平黌に入るには林か古賀かの門に入らなくてはならなかつたのである。痘痕(あばた)があつて、片目で、背の低い田舎(いなか)書生は、こゝでも 同窓に馬鹿にせられずには済まなかつた。それでも仲平は無頓着(むとんぢやく)に黙り込んで、独り読書に耽(ふけ)つてゐた。坐右の柱に半折(はんせつ) に何やら書いて貼(は)つてあるのを、からかひに来た友達が読んで見ると、「今は音(ね)を忍(しのぶ)が岡の時鳥(ほとゝぎす)いつか雲井のよそに名告 (なの)らむ」と書いてあつた。「や、えらい抱負ぢやぞ」と、友達は笑つて去つたが、腹の中では稍(やゝ)気味悪くも思つた。これは十九の時漢学に全力を 傾注するまで、国文をも少しばかり研究した名残(なごり)で、わざと流儀違(ちがひ)の和歌の真似をして、同窓の揶揄(やゆ)に酬(むく)いたのである。
 仲平はまだ江戸にゐるうちに、二十八で藩主の侍読(じどく)にせられた。そして翌年藩主が帰国せられる時、供をして帰つた。
 今年の正月から清武村字(あざ)中野に藩の学問所が立つことになつて、工事の最中である。それが落成すると、六十一になる父滄洲翁(さうしうをう)と、 今年江戸から藩主の供をして帰つた、二十九になる仲平さんとが、父子共に講壇に立つ筈である。其時滄洲翁が息子によめを取らうと云ひ出した。併しこれは決 して容易な問題ではない。
 江戸がへり、昌平黌じこみと聞いて、「仲平さんはえらくなりなさるだらう」と評判する郷里の人達も、痘痕(あばた)があつて、片目で、背の低い男振(を とこぶり)を見ては、「仲平さんは不男だ」と蔭言を言はずには置かぬからである。

 滄洲翁は江戸までも修行に出た苦労人である。倅(せがれ)仲平が学問修行も一通(ひととほり)出来て、来年は三十にならうと云ふ年になつたので、是非よ めを取つて遣(や)りたいとは思ふが、其(その)選択のむづかしい事には十分気が付いてゐる。
 背こそ仲平程低くないが、自分も痘痕があり、片目であつた翁は、異性に対する苦い経験を嘗(な)めてゐる。識らぬ少女と見合をして縁談を取り極(き)め ようなどと云ふことは自分にも不可能であつたから、自分と同じ欠陥があつて、しかも背の低い仲平がために、それが不可能であることは知れてゐる。仲平のよ めは早くから気心を識り合つた娘の中から選び出す外(ほか)ない。翁は自分の経験からこんな事をも考へてゐる。それは若くて美しいと思はれた人も、暫く交 際してゐて、智慧の足らぬのが暴露して見ると、其美貌はいつか忘れられてしまふ。又三十になり、四十になると、智慧の不足が顔にあらはれて、昔美しかつた 人とは思はれぬやうになる。これとは反対に、顔貌(かほかたち)には疵(きず)があつても、才人だと、交際してゐるうちに、その醜さが忘れられる。又年を 取るに従つて、才気が眉目(みめ)をさへ美しくする。仲平なぞも只一つの黒い瞳をきらつかせて物を言ふ顔を見れば、立派な男に見える。これは親の贔屓目 (ひいきめ)ばかりではあるまい。どうぞあれが人物を識つた女をよめに貰つて遣りたい。翁はざつとかう考へた。
 翁は五節句や年忌に、互に顔を見合ふ親戚の中で、未婚の娘をあれかこれかと思ひ浮べて見た。一番華やかで人の目に附くのは、十九になる八重(やへ)と云 ふ娘で、これは父が定府(ぢやうふ)を勤めてゐて、江戸の女を妻に持つて生ませたのである。江戸風の化粧をして、江戸詞(えどことば)を遣(つか)つて、 母に踊をしこまれてゐる。これは貰はうとした所で来さうにもなく、又好ましくもない。形(なり)が地味で、心の気高(けだか)い、本も少しは読むと云ふ娘 はないかと思つて見ても、生憎(あいにく)さう云ふ向(むき)の女子(をなご)は一人もない。どれもどれも平凡極(きは)まつた女子ばかりである。
 あちこち迷つた末に、翁の選択はたうとう手近い川添(かはぞへ)の娘に落ちた。川添家は同じ清武村の大字(おほあざ)今泉、小字(こあざ)岡にある翁の 夫人の里方で、そこに仲平の従妹(いとこ)が二人ある。妹娘の佐代(さよ)は十六で、三十男の仲平がよめとしては若過ぎる。それに器量好しと云ふ評判の子 で、若者共の間では「岡の小町」と呼んでゐるさうである。どうも仲平とは不弔合(ふつりあひ)なやうに思はれる。姉娘の豊なら、もう二十(はたち)で、遅 く取るよめとしては、年齢の懸隔(けんかく)も太甚(はなはだ)しいと云ふ程ではない。豊の器量は十人並である。性質にはこれと云つて立ち優(まさ)つた 所はないが、女にめづらしく快活で、心に思ふ儘(まゝ)を口に出して言ふ。その思ふ儘がいかにも素直で、なんのわだかまりもない。母親は「臆面(おくめ ん)なしで困る」と云ふが、それが翁の気に入つてゐる。
 翁はかう思ひ定めたが、さて此話を持ち込む手続に窮した。いつも翁に何か言はれると、謹(つゝし)んで承(うけたまは)ると云ふ風になつてゐる少女等 に、直接に言ふことは勿論出来ない。外舅(しうと)外姑(しうとめ)が亡くなつてからは、川添の家には卑属(ひぞく)しかゐないから、翁がうかと言ひ出し ては、先方で当惑するかも知れない。他人同士では、かう云ふ話を持ち出して、それが不調に終つた跡は、少くも暫くの間交際がこれ迄通(どほり)に行かぬこ とが多い。親戚間であつて見れば、其辺に一層心を用ゐなくてはならない。
 こゝに仲平の姉で、長倉の御新造(ごしんぞ)と云はれてゐる人がある。翁はこれに意中を打ち明けた。「亡くなつた兄いさんのおよめになら、一も二もなく 来たのでございませうが」と云ひ掛けて、御新造は少しためらつた。御新造はさう云ふ方角からはお豊さんを見てゐなかつたのである。併しお父(と)う様(さ ま)に頼まれた上で考へて見れば、外(ほか)に弟のよめに相応した娘も思ひ当らず、又お豊さんが不承知を言ふに極まってゐるとも思はれぬので、御新造はた うとう使者の役目を引き受けた。

 川添の家では雛祭(ひなまつり)の支度をしてゐた。奥の間(ま)へ色々な書附をした箱を一ぱい出し散らかして、其中からお豊さんが、内裏様(だいりさ ま)やら五人囃(ごにんばやし)やら、一つ一(びと)つ取り出して、綿や吉野紙を除(の)けて置き並べてゐると、妹のお佐代さんがちよいちよい手を出す。 「好(い)いからわたしに任せてお置(おき)」と、お豊さんは妹を叱つてゐた。
 そこの障子をあけて、長倉の御新造が顔を出した。手にはみやげに切らせて来た緋桃(ひもゝ)の枝を持つてゐる。「まあ、お忙しい最中でございますね。」
 お豊さんは尉姥(じよううば)の人形を出して、箒(はうき)と熊手とを人形の手に挿(さ)してゐたが、其手を停(と)めて桃の花を見た。「お内の桃はも うそんなに咲きましたか。こちらのはまだ莟(つぼみ)がずつと小さうございます。」「出掛(でかけ)に急いだもんですから、ほんの少しばかり切らせて来ま した。沢山お活(いけ)になるなら、いくらでも取りにおよこしなさいよ。」かう云つて御新造は桃の枝をわたした。
 お豊さんはそれを受け取つて、妹に「こゝは此儘(このまゝ)そつくりして置くのだよ」と云つて置いて、桃の枝を持つて勝手へ立つた。
 御新造は跡から附いて来た。
 お豊さんは台所の棚から手桶を卸(おろ)して、それを持つて側の井戸端に出て、水を一釣瓶(ひとつるべ)汲み込んで、それに桃の枝を投げ入れた。すべて の動作がいかにも甲斐々々(かひがひ)しい。使命を含んで来た御新造は、これならば弟のよめにしても早速役に立つだらうと思つて、微笑を禁じ得なかつた。 下駄を脱ぎ棄てゝ台所にあがつたお豊さんは、壁に弔(つ)つてある竿の手拭で手を揩(ふ)いてゐる。其側へ御新造が摩(す)り寄つた。
 「安井では仲平におよめを取ることになりました。」劈頭(へきとう)に御新造は主題を道破(だうは)した。
 「まあ。どこから。」
 「およめさんですか。」
 「えゝ。」
 「そのおよめさんは」と云ひさして、ぢつとお豊さんの顔を見つゝ、「あなた。」
 お豊さんは驚き呆(あき)れた顔をして黙つてゐたが、暫くすると、其顔に笑(ゑみ)が湛(たゝ)へられた。「嘘(うそ)でせう。」
 「本当です。わたしそのお話をしに来ました。これからお母あ様に申し上げようと思つてゐます。」
 お豊さんは手拭を放して、両手をだらりと垂れて、御新造と向き合つて立つた。顔からは笑が消え失せた。「わたし仲平さんはえらい方だと思つてゐますが、 御亭主にするのは厭(いや)でございます。」冷然として言ひ放つた。

 お豊さんの拒絶が余り簡明に発表せられたので、長倉の御新造は話の跡を継ぐ余地を見出すことが出来なかつた。併(しか)しこれ程の用事を帯びて来て、そ れを二人の娘の母親に話さずにも帰られぬと思つて、直談判(ぢきだんぱん)をして失敗した顛末(てんまつ)を、川添の御新造にざつと言つて置いて、ギヤマ ンのコップに注いで出された白酒を飲んで、暇乞(いとまごひ)をした。
 川添の御新造は仲平贔屓(びいき)だつたので、ひどく此縁談の不調を惜んで、お豊にしつかり言つて聞せて見たいから、安井家へは当人の軽率な返事を打ち 明けずに置いてくれと頼んだ。そこでお豊さんの返事を以て復命することだけは、一時見合せようと、長倉の御新造が受け合つたが、どうもお豊さんが意を飜 (ひるがへ)さうとは信ぜられないので、「どうぞ無理にお勧(すゝめ)にならぬやうに」と言ひ残して起(た)つて出た。
 長倉の御新造が川添の門を出て、道の二三丁も来たかと思ふ時、跡から川添に使はれてゐる下男(げなん)の音吉が駆けて来た。急に話したい事があるから、 御苦労ながら引き返して貰ひたいと云ふ口上を持つて来たのである。
 長倉の御新造は意外の思(おもひ)をした。どうもお豊さんがさう急に意を飜(ひるがへ)したとは信ぜられない。何の話であらうか。かう思ひながら音吉と 一しよに川添へ戻つて来た。
 「お帰掛(かへりがけ)をわざわざお呼戻(よびもどし)いたして済みません。実は存じ寄らぬ事が出来まして。」待ち構へてゐた川添の御新造が、戻つて来 た客の座に着かぬうちに云つた。
 「はい。」長倉の御新造は女主人の顔をまもつてゐる。
 「あの仲平さんの御縁談の事でございますね。わたくしは願うてもない好い先だと存じますので、お豊を呼んで話をいたして見ましたが、矢張まゐられぬと申 します。さういたすとお佐代が姉に其話を聞きまして、わたくしの所へまゐつて、何か申しさうにいたして申さずにをりますのでございます。なんだえと、わた くしが尋ねますと、安井さんへわたくしが参ることは出来ますまいかと申します。およめに往くと云ふことはどう云ふわけのものか、ろくに分からずに申すかと 存じまして、色々聞いて見ましたが、あちらで貰うてさへ下さるなら自分は往きたいと、きつぱり申すのでございます。いかにも差出がましい事でございまし て、あちらの思はくもいかゞとは存じますが、兎に角あなたに御相談申し上げたいと存じまして。」さも言ひにくさうな口吻(くちぶり)である。
 長倉の御新造は愈(いよいよ)意外の思をした。父は此話をする時、「お佐代は若過ぎる」と云つた。又「あまり別品(べつぴん)でなあ」とも云つた。併し お佐代さんを嫌つてゐるのでないことは、平生(へいぜい)から分かつてゐる。多分父は弔合(つりあひ)を考へて、年が行(い)つてゐて、器量の十人並なお 豊さんをと望んだのであらう。それに若くて美しいお佐代さんが来れば、不足はあるまい。それにしても控目(ひかへめ)で無口なお佐代さんが好(よ)くそん な事を母親に云つたものだ。これは兎に角父にも弟にも話して見て、出来る事なら、お佐代さんの望通(のぞみどほり)にしたいものだと、長倉の御新造は思案 してかう云つた。「まあ、さうでございますか。父はお豊さんをと申したのでございますが、わたくしがちよつと考へて見ますに、お佐代さんでは悪いとは申さ ぬだらうと存じます。早速あちらへまゐつて申して見ることにいたしませう。でもあの内気(うちき)なお佐代さんが、好くあなたに仰(おつし)やつたもので ございますね。」
 「それでございます。わたくしも本当にびつくりいたしました。子供の思つてゐる事は何から何まで分かつてゐるやうに存じてゐましても、大違(おほちが ひ)でございます。お父う様にお話下さいますなら、当人を呼びまして、こゝで一応聞いて見ることにいたしませう。」かう云つて母親は妹娘を呼んだ。
 お佐代はおそるおそる障子(しやうじ)をあけてはひつた。
 母親は云つた。「あの、さつきお前の云つた事だがね、仲平さんがお前のやうなものでも貰つて下さることになつたら、お前きつと往(ゆ)くのだね。」
 お佐代さんは耳まで赤くして、「はい」と云つて、下げてゐた頭を一層低く下げた。

 長倉の御新造が意外だと思つたやうに、滄洲翁も意外だと思つた。併(しか)し一番意外だと思つたのは壻殿(むこどの)の仲平であつた。それは皆怪訝(く わいが)すると共に喜んだ人達であるが、近所の若い男達は怪訝すると共に嫉(そね)んだ。そして口々に「岡の小町が猿の所へ往く」と噂(うはさ)した。そ のうち噂は清武一郷に伝播(でんぱ)して、誰一人怪訝せぬものはなかつた。これは喜(よろこび)や嫉(そねみ)の交(まじ)らぬ只の怪訝であつた。
 婚礼は長倉夫婦の媒妁(ばいしやく)で、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこれまで只美しいとばかり云はれて、人形同様に思はれてゐたお佐代さん は、繭(まゆ)を破つて出た蛾(が)のやうに、その控目(ひかへめ)な、内気な態度を脱却(だつきやく)して、多勢の若い書生達の出入(でいり)する家 で、天晴(あつぱれ)地歩を占めた夫人になりおほせた。
 十月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵(しゆくえん)に親戚故旧が寄り集まつた時には、美しくて、しかもきつぱりした若夫人の前に、客の頭が自 然に下がつた。人に揶揄(からか)はれる世間のよめさんとは全く趣を殊(こと)にしてゐたのである。

 翌年仲平が三十、お佐代さんが十七で、長女須磨子(すまこ)が生れた。中一年置いた年の七月には、藩の学校が飫肥(おび)に遷(うつ)されることになつ た。其次の年に、六十五になる滄洲翁は飫肥の振徳堂の総裁にせられて、三十三になる仲平が其下で助教を勤めた。清武の家は隣にゐた弓削(ゆげ)と云ふ人が 住まふことになつて、安井家は飫肥の加茂に代地(だいち)を貰つた。
 仲平は三十五の時、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年帰つた。これがお佐代さんが稍長い留守に空閨(くうけい)を守つた始である。
 滄洲翁は中風(ちゆうぶう)で、六十九の時亡くなつた。仲平が二度目に江戸から帰つた翌年である。
 仲平は三十八の時三たび江戸に出で、二十五のお佐代さんが二度目の留守をした。翌年仲平は昌平黌(しやうへいくわう)の斎長(さいちやう)になつた。次 いで外桜田(そとさくらだ)の藩邸の方でも、仲平に大番所番頭(おほばんしよばんがしら)と云ふ役を命じた。其次の年に、仲平は一旦帰国して、間もなく江 戸へ移住することになつた。今度はいづれ江戸に居所(ゐどころ)が極(き)まつたら、お佐代さんをも呼び迎へると云ふ約束をした。藩の役を罷(や)めて、 塾を開いて人に教へる決心をしてゐたのである。
 此頃仲平の学殖は漸(やうや)く世間に認められて、親友にも塩谷宕陰(しほのやたういん)のやうな立派な人が出来た。二人一しよに散歩をすると、男振は どちらも悪くても、兎に角背の高い塩谷が立派なので、「塩谷一丈雲横腰(しほのやいちぢやう・くもこしによこたはる)、安井三尺草埋頭(やすいさんじや く・くさかしらをうづむ)」などと冷(ひや)かされた。
 江戸に出てゐても、質素な仲平は極端な簡易生活をしてゐた。帰新参(かへりしんざん)で、昌平黌の塾に入る前には、千駄谷(せんだがや)にある藩の下邸 (しもやしき)にゐて、其後外桜田の上邸(かみやしき)にゐたり、増上寺境内の金地院(こんぢゐん)にゐたりしたが、いつも自炊(じすゐ)である。さてい よいよ移住と決心して出てからも、一時は千駄谷にゐたが、下邸に火事があつてから、始て五番町の売居(うりすゑ)を二十九枚で買つた。
 お佐代さんを呼び迎へたのは、五番町から上(かみ)二番町の借家に引き越してゐた時である。所謂(いはゆる)三計塾で、階下に三畳やら四畳半やらの間が 二つ三つあつて、階上が斑竹山房(はんちくさんばう)のへん(=医ノ字ノ矢ノ位置に、扁)額(へんがく)を掛けた書斎である。斑竹山房とは江戸へ移住する 時、本国田野村字仮屋(かりや)の虎斑竹(こはんちく)を根こじにして来たからの名である。仲平は今年四十一、お佐代さんは二十八である。長女須磨子に次 いで、二女美保子、三女登梅子(とめこ)と、女の子ばかり三人出来たが、仮初(かりそめ)の病(やまひ)のために、美保子が早く亡くなつたので、お佐代さ んは十一になる須磨子と、五つになる登梅子とを連れて、三計塾に遣つて来た。
 仲平夫婦は当時女中一人も使つてゐない。お佐代さんが飯炊(まゝたき)をして、須磨子が買物に出る。須磨子の日向訛(ひうがなまり)が商人に通ぜぬの で、用が弁ぜずにすごすご帰ることが多い。
 お佐代さんは形振(なりふり)に構はず働いてゐる。それでも「岡の小町」と云はれた昔の俤(おもかげ)はどこやらにある。此頃黒木孫右衛門と云ふものが 仲平に逢ひに来た。素(も)と飫肥外浦(おびそとうら)の漁師であつたが、物産学に精(くは)しいため、わざわざ召し出されて徒士(かち)になつた男であ る。お佐代さんが茶を酌(く)んで出して置いて、勝手へ下がつたのを見て狡獪(かうくわい)なやうな、滑稽(こつけい)なやうな顔をして、孫右衛門が仲平 に尋ねた。
 「先生。只今のは御新造様でござりますか。」
 「さやう。妻で。」恬然(てんぜん)として仲平は答へた。
 「はあ。御新造様は学問をなさりましたか。」
 「いゝや。学問と云ふ程の事はしてをりませぬ。」
 「して見ますと、御新造様の方が先生の学問以上の御見識でござりますな。」
 「なぜ。」
 「でもあれ程の美人でお出(いで)になつて、先生の夫人におなりなされた所を見ますと。」
 仲平は覚えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なやうな世辞を面白がつて、得意の笊棋(ざるご)の相手をさせて帰した。

 お佐代さんが国から出た年、仲平は小川町(をがはまち)に移り、翌年又牛込見附外(うしごめみつけそと)の家を買つた。値段は僅(わづか)十両である。 八畳の間に床の間と廻縁(まはりえん)とが付いてゐて、外に四畳半が一間、二畳が一間、それから板の間が少々ある。仲平は八畳の間に机を据ゑて、周囲に書 物を山のやうに積んで読んでゐる。此頃は霊岸島(れいがんじま)の鹿島屋清兵衛(かしまやせいべゑ)が蔵書を借り出して来るのである。一体仲平は博渉家 (はくせふか)でありながら、蔵書癖はない。質素で濫費(らんぴ)をせぬから、生計に困るやうな事はないが、十分に書物を買ふだけの金はない。書物は借り て覧(み)て、書き抜いては返してしまふ。大阪で篠崎の塾に通つたのも、篠崎に物を学ぶためではなくて、書物を借るためであつた。芝の金地院に下宿したの も、書庫をあさるためであつた。此年に三女登梅子が急病で死んで、四女歌子が生れた。
 其次の年に藩主が奏者になられて、仲平に押合方(おしあひかた)と云ふ役を命ぜられたが、目が悪いと云つてことわつた。薄暗い明りで本ばかり読んでゐた ので実際目が好くなかつたのである。
 其又次の年に、仲平は麻布(あざぶ)長坂裏通に移つた。牛込から古家を持つて来て建てさせたのである。それへ引き越すとすぐに仲平は松島まで観風旅行を した。浅葱織色木綿(あさぎおりいろもめん)の打裂羽織(ぶつさきばおり)に裁附袴(たつつけはかま)で、腰に銀拵(ぎんごしらへ)の大小を挿(さ)し、 菅笠(すげがさ)を被(かぶ)り草鞋(わらぢ)を穿(は)くと云ふ支度(したく)である。旅から帰ると、三十一になるお佐代さんが始て男子を生んだ。後に 「岡の小町」そつくりの美男になつて、今文尚書(きんぶんしやうしよ)二十九篇で天下を治めようと云つた才子の棟蔵(とうざう)である。惜いことには、二 十二になつた年の夏、暴瀉(ばうしや)で亡くなつた。
 中一年置いて、仲平夫婦は一時上邸の長屋に入つてゐて、番町袖振坂に転居した。その冬お佐代さんが三十三で二人目の男子謙助を生んだ。併(しか)し乳が 少いので、それを雑司谷(ざふしがや)の名主方(なぬし)へ里子に遣つた。謙助は成長してから父に似た異相の男になつたが、後日安東益斎(あんどうえきさ い)と名告つて、東金(とうがね)、千葉の二箇所で医業をして、旁(かたはら)漢学を教へてゐるうちに、持前の肝積(かんしやく)のために、千葉で自殺し た。年は二十八であつた。墓は千葉町大日寺(だいにちじ)にある。

 浦賀へ米艦が来て、天下多事の秋となつたのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五の時である。大儒(たいじゆ)息軒(そくけん)先生として天下に名を知 られた仲平は、ともすれば時勢の旋渦中に巻き込まれようとして纔(わづか)に免(まぬか)れてゐた。
 飫肥藩(おびはん)では仲平を相談中(さうだんちゆう)と云ふ役にした。仲平は海防策を献じた。これは四十九の時である。五十四の時藤田東湖と交(まじ は)つて、水戸景山公(みとけいざんこう)に知られた。五十五の時ペルリが浦賀に来たために、攘夷封港論(じやういほうかうろん)をした。此年藩政が気に 入らぬので辞職した。併し相談中を罷(や)められて、用人格と云ふものになつただけで、勤向(つとめむき)は前の通であつた。五十七の時蝦夷(えぞ)開拓 論をした。六十三の時藩主に願つて隠居した。井伊閣老が桜田見附で遭難せられ、景山公が亡くなられた年である。
 家は五十一の時隼町(はやぶさちやう)に移り、翌年火災に遭(あ)つて、焼残(やけのこり)の土蔵や建具を売り払つて番町に移り、五十九の時麹町(かう ぢまち)善国寺谷(ぜんこくじだに)に移つた。辺務を談ぜないと云ふ事を書いて二階に張り出したのは、番町にゐた時である。

 お佐代さんは四十五の時に稍(やゝ)重い病気をして直つたが、五十の歳暮(せいぼ)から又床に就いて、五十一になつた年の正月四日に亡くなつた。夫仲平 が六十四になつた年である。跡には男子に、短い運命を持つた棟蔵と謙助との二人、女子に、秋元家の用人の倅(せがれ)田中鉄之助に嫁(か)して不縁にな り、次いで塩谷(しほのや)の媒介で、肥前国(ひぜんのくに)島原産の志士中村貞太郎、仮名(けみやう)北有馬太郎に嫁(か)した須磨子と、病身な四女歌 子との二人が残つた。須磨子は後の夫に獄中で死なれてから、お糸、小太郎の二人の子を連れて安井家に帰つた。歌子は母が亡くなつてから七箇月目に、二十三 歳で跡を追つて亡くなつた。
 お佐代さんはどう云ふ女であつたか。美しい肌(はだ)に粗服を纏(まと)つて、質素な仲平に仕へつゝ一生を終つた。飫肥吾田村(おびあがたむら)字星倉 から二里許(ばかり)の小布瀬(こふせ)に、同宗(どうそう)の安井林平と云ふ人があつて、其妻のお品さんが、お佐代さんの記念だと云つて、木綿縞(もめ んじま)の袷(あはせ)を一枚持つてゐる。恐らくはお佐代さんはめつたに絹物などは着なかつたのだらう。
 お佐代さんは夫に仕へて労苦を辞せなかつた。そして其報酬には何物をも要求しなかつた。啻(たゞ)に服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な第宅(て いたく)に居りたいとも云はず、結構な調度を使ひたいとも云はず、旨(うま)い物を食べたがりも、面白い物を見たがりもしなかつた。
 お佐代さんが奢侈(しやし)を解せぬ程おろかであつたとは、誰も信ずることが出来ない。又物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬ程恬澹(てんたん) であつたとは、誰も信ずることが出来ない。お佐代さんには慥(たし)かに尋常でない望があつて、其望の前には一切の物が塵芥(ちりあくた)の如く卑しくな つてゐたのであらう。
 お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと云つてしまふだらう。これを書くわたくしもそれを否定することは出来ない。併し若 (も)し商人が資本を卸(おろ)し財利を謀(はか)るやうに、お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなつたのだと云ふなら、 わたくしは不敏にしてそれに同意することが出来ない。
 お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでゐただらう。そして瞑目(めいもく)するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれてゐて、或は自分の死を不 幸だと感ずる余裕をも有せなかつたのではあるまいか。其望の対象をば、或は何物ともしかと弁識してゐなかつたのではあるまいか。

 お佐代さんが亡くなつてから六箇月目に、仲平は六十四で江戸城に召された。又二箇月目に徳川将軍に謁見(えつけん)して、用人席にせられ、翌年両番上席 にせられた。仲平が直参(じきさん)になつたので、藩では謙助を召し出した。次いで謙助も昌平黌出役になつたので、藩の名跡(めいせき)は安政四年に中村 が須磨子に生ませた長女糸に、高橋圭三郎といふ壻(むこ)を取つて立てた。併し此夫婦は早く亡くなつた。後に須磨子の生んだ小太郎が継いだのは此家であ る。仲平は六十六で陸奥塙(むつはなは)六万三千九百石の代官にせられたが、病気を申し立てゝ赴任(ふにん)せずに、小普請入(こぶしんいり)をした。
 住ひは六十五の時下谷徒士町(したやかちまち)に移り、六十七の時一時藩の上邸(かみやしき)に入つてゐて、麹町一丁目半蔵門外の壕端(ほりばた)の家 を買つて移つた。策士雲井龍雄と月見をした海嶽楼(かいがくろう)は、此家の二階である。

 幕府滅亡の余波で、江戸の騒がしかつた年に、仲平は七十で表向(おもてむき)隠居した。間もなく海嶽楼は類焼したので、暫く藩の上邸や下邸に入つてゐ て、市中の騒がしい最中に、王子在領家村(りやうけむら)の農高橋善兵衛が弟政吉の家に潜(ひそ)んだ。須磨子は三年前に飫肥(おび)へ往つたので、仲平 の隠家(かくれが)へは天野家から来た謙助の妻淑子(よしこ)と、前年八月に淑子の生んだ千菊(せんぎく)とが附いて来た。産後体の悪かつた淑子は、隠家 に来てから六箇月目に、十九で亡くなった。下総(しもふさ)にゐた夫には逢はずに死んだのである。
 仲平は隠家に冬までゐて、彦根藩の代々木邸に移つた。これは左伝輯釈(さでんしふしやく)を彦根藩で出版してくれた縁故からである。翌年七十一で旧藩の 桜田邸に移り、七十三の時又土手三番町に移つた。
 仲平の亡くなつたのは、七十八の年の九月二十三日である。謙助と淑子との間に出来た、十歳の孫千菊が家を継いだ。千菊の夭折(えうせつ)した跡は小太郎 の二男三郎が立てた。

    附録

     一、事実

 明和四年丁亥(ひのとゐ)九月三日安井完(やすゐくわん)生(うまる)。日下部(くさかべ)姓。字(あざな)子全。号滄洲(がうさうしう)。家在日向国 宮崎郡清武村中野。
 寛政八年朝淳(あさあつ)生。字子樸(しぼく)。又士礼。通称文治。号清渓(せいけい)。
 十一年己未(つちのとひつじ)正月元旦衡(かう)生於清武村今泉岡川添氏之家。字仲平。以字称(あざなをもつてしようす)。初号清滝(せいらう)。中 (なかごろ)足軒。後息軒。又号半九陳人(はんくちんじん)。葵心子(きしんし)。
 文化元年甲子(きのえね)完至江戸。師事古屋昔陽(せきやう)。訪皆川淇園(きえん)于京都。
 三年丙寅(ひのえとら)四月完帰郷。
 四年丁卯(ひのとう)完為藩治水使(くわん、はんのちすゐしとなる)。
 九年壬申(みづのえさる)川添氏佐代生。
 十年癸酉(みづのととり)完為教授。
 文政元年戊寅(つちのえとら)槇(まき)生。槇非安井氏血族(まきはやすゐうぢのけつぞくにあらず)。後千菊夭折。槇権為戸主(まき、かりにこしゆとな る)。
 二年己卯(つちのとう)衡至大阪。入篠崎小竹門。
 四年辛巳(かのとみ)朝淳歿。葬于清武村文栄寺。衡帰郷。
 七年甲申(きのえさる)完兼料兵使(くわん、れうへいしをかぬ)。衡往江戸。入古賀とう(=人偏ニ、同)庵(とうあん)門。次(ついで)入昌平黌。
 九年丙戌(ひのえいぬ)衡為侍読。
 十年丁亥(ひのとゐ)衡帰郷。中野明教堂成(なる)。
 十一年戊子(つちのえね)須磨生。
 天保二年辛卯(かのとう)飫肥(おび)振徳堂成。完為総裁兼教授。衡助教。安井氏徒(うつる)飫肥加茂。
 三年壬辰(みづのえたつ)飫肥安国寺安井氏祖先墓成(なる)。
 四年癸巳(みづのとみ)衡至江戸。居外桜田邸(そとさくらだのやしきにをる)。
 五年甲午(きのえうま)衡帰郷。
 六年乙未(きのとひつじ)七月二十一日完卒(くわん、そつす)。年六十九。葬于飫肥太平山。是年登梅(とめ)生。
 七年丙申(ひのえさる)衡至江戸。居千駄谷邸。
 八年丁酉(ひのととり)衡入昌平黌。為斎長(さいちやうとなる)。為藩大番所番頭。後移外桜田邸。又しう(=人偏ニ、就)居芝金地院(しばこんぢゐんに しうきよす)。
 九年戊戌(つちのえいぬ)衡帰郷。次徒江戸(ついでえどにうつる)。居千駄谷邸。冬移五番町。
 十年己亥(つちのとゐ)居上二番町。次移小川町。
 十一年庚子(かのえね)五月八日登梅夭(えうす)。僅(わづかに)六歳。葬于高輪東禅寺。衡移牛籠(うしごめ)門外。是年歌生。
 十二年辛丑(かのとうし)衡任押合方(かう、をしあひかたににんず)。以病辞(やまひをもつてじす)。
 十三年壬寅(みづのえとら)移麻布長坂裏通。夏北遊。八月十九日朝隆生(あさたかうまる)。字棟卿(あざなはとうけい)。通称棟蔵。
 弘化元年甲辰(きのえたつ)衡居外桜田邸。次移番町袖振坂。十一月十日敏雄生。後名(のちのな)利雄。又益(ます)。通称謙吉。又謙助。号黙斎(もくさ い)。
 四年丁未(ひのとひつじ)衡為相談中。
 嘉永二年己酉(つちのととり)移隼町。
 三年庚戌(かのえいぬ)移番町。
 五年壬子(みづのえね)須磨嫁田中氏。後再嫁中村氏。
 六年癸丑(みづのとうし)衡罷相談中。為用人格。
 安政四年丁巳(ひのとみ)糸生。是年移善国寺谷。
 五年戊午(つちのえうま)小太郎生。名朝康。号樸堂(ぼくだう)。
 万延元年庚申(かのえさる)請藩致仕(はんにちしをこふ)。
 文久元年辛酉(かのととり)罷用人格。
 二年壬戌(みづのえいぬ)正月四日佐代卒。年五十一。葬于東禅寺。七月二十日衡被幕府召(ばくふにめさる)。八月四日歌歿。年二十三。九月十五日衡謁将 軍。二十六日列用人席。
 三年癸亥(みづのとゐ)二月一日衡為両番上席。移下谷徒士町(かちまち)。六月十九日朝隆歿。年二十二。葬于駒籠龍光寺。
 元治元年甲子(きのえね)二月十日衡任陸奥塙(むつはなは)代官。八月以病辞。
 慶応元年乙丑(きのとうし)居外桜田邸。次移半蔵門外。九月須磨赴飫肥。居清武村大久保平山。
 三年丁卯(ひのとう)七月飫肥太平山碑成。八月千菊生。
 明治元年戊辰(つちのえたつ)二月十七日衡請幕府致仕。居外桜田邸。次移千駄谷邸。三月十三日徒足立郡領家村。四月謙助寓比企郡(ひきごほり)番匠村医 小室元長家。七月至下総国東金(しもふさのくにとうがね)。九月二十二日天野氏淑(よし)歿。年十九。葬于龍光寺。十一月徒代々木彦根藩邸。
 二年己巳(つちのとみ)八月居外桜田邸。
 四年辛未(かのとひつじ)七月二日謙助自殺于下総。九月衡移土手三番町。
 九年丙子(ひのえね)九月二十三日衡卒。年七十八。葬于駒籠養源寺。

  右参取若山甲蔵君息軒伝。現存金石文(現存の金石文)。安井小太郎君並依知川敦(いちかはあつし)君書信。


     二、東京並其附近遺蹟

 駒籠養源寺。有安井息軒先生碑。明治十一年九月川田剛撰文。日下部東作書。
 有安井須磨子墓。明治十二年五月十九日享年五十一歳。
 有安井千菊墓。明治十六年一月一日享年十八歳。
 有安井槇子墓。明治二十一年十月六日享年七十一歳。
 有安井健一郎墓。明治二十四年九月二日。
 駒籠龍光寺。有安井朝淳之墓。文久三年六月十九日歿。享年二十有一。昌平黌教授安井衡誌。三浦汝しふ(=難漢字で再現不能)(みうらじょしふ)書。
 有安井孺人天野(じゆじんあまの)墓。明治戊辰九月二十二日残。享年十九歳。安井謙助妻。
  右大正三年三月一日往訪(ゆきとぶらふ)。
 高輪東禅寺。有雪峰妙観大姉墓。飫肥安井仲平妻川添氏佐代。享年五十一。文久二年壬戌(みづのえいぬ)正月四日。
 有桂月妙輝信女墓。飫肥安井仲平第四女歌。享年二十三。文久二壬戌(みづのえいぬ)年八月四日。
 有玉影善童女墓。日州飫肥安井仲平第三女。俗名登梅(とめ)。享年六歳。天保十一庚子(かのえね)年五月八日。
  右大正三年三月七日往訪。
 下総国千葉町大日寺。有安井敏雄墓。明治四年辛未(かのとひつじ)七月三日歿于下総千葉僑居(けうきよ)。息軒安井衡誌。
  右大正三年四月二十八日。依知川敦君往訪。


           ──大正三年四月──