招待席
もり おうがい 小説家 1862.1.19 -
1922.7.9 島根県に生まれる。東京帝大医学部卒業後陸軍軍医となり、ドイツ留学。軍医総監を経て帝室博物館長兼図書頭として生涯を終えた。公務の
傍ら訳詩集『於母影』以降、詩、戯曲、小説、評論および翻訳、さらに晩年には『渋江抽斎』等前人未踏の史伝物への道も開いた。 掲載作は、ゲーテの詩劇
『フアウスト』のほぼ冒頭、いわば上演前の内幕の話題かのように創りなされており、経営者・藝術家・俳優の三者で論議された「創作ないし藝術」論として興
味深い。しかも鴎外訳の用いる日本語の新鮮さ、明治期の仕事と思えぬ現代語の魅力に溢れている。(いまなお安定した環境で漢字が再現できず、遺憾であるが
「鴎外」としておく。) (秦 恒平)
ゲーテ『ファウスト』より
森 鴎外・訳
劇場にての前戯 座長。座附詩人。道化方。
座 長
これまで度々難儀に逢つた時も、
わたくしの手助(てだすけ)になつてくれられた君方(きみがた)二人だ。
こん度の企(くはだて)がこの独逸国でどの位成功するだらうか、
一つ君方の見込が聞きたいのだがね。
殊に見物は自分達が楽(たのし)んで、人にも楽ませようとしてゐるのだから、
わたくしもなるたけ見物の気に入るやうにしたいのです。
もう小屋も掛かり、舞台も出来てゐて、
みんながさあ、これからがお慰(なぐさみ)だと待つてゐる。
誰も彼もゆつたりと腰を落ち着けて、眉毛を吊るし上げて、
さあ、どうぞびつくりするやうな目に逢はせて貰ひたいと思つてゐる。
わたくしだつて、どうすれば大勢の気に入ると云ふことは知つてゐる。
しかしこん度程どうして好いか分からないことはないのです。
何も見物が最善のものに慣れてゐると云ふのではない。
ですが、兎に角いろんな物を恐ろしく沢山読んでゐるのですな。
何もかも新らしく見えて、そして意義があつて
人の気に入るやうにするには、どうしたら好いでせう。
なぜさう云ふかと云ふと、わたくしは一番大当りがさせて見たい。
見物が人波を打つてこの小屋へ寄せて来て、
狭い恵(めぐみ)の門口(かどぐち)を通ろうとして、何度押し戻されても
また力一ぱいに押し押しして、
まだ明るいうちに、四時にもならないうちに、
腕づくで札売場の口に漕ぎ附けて、
丁度饑饉の年に麭包(パン)屋の戸口に来るやうに、
一枚の入場券を首に賭けても取ろうとする、
さう云ふ奇蹟を、一人々々趣味の違ふ見物の群に起させるのは
詩人だけですね。どうぞ、君、こん度はそんな按排に願ひたいですな。
詩 人
いや。どうぞあの見物と云ふ、色変りの寄合勢(よりあいぜい)の事を
言はないで下さい。あれを見ると、詩人の霊(れい)は逃げるのです。
あの、厭がるわたくし共を、無理に渦巻に巻き込もうとする
人の波を、わたくし共の目に見せないやうに隠して下さい。
それと違つて、詩人だけに清い歓喜の花を咲かせて見せる、
静かな天上の隠家(かくれが)へ、わたくしを遣(や)つて下さい。
あそこでは愛と友情とが、神々の手で、
わたくし共の胸の祝福を造つて、育ててくれるのです。
あそこで胸の底から流れ出るのを、
口が片言のやうにはにかみながら囁いて見て、
どうかすると出来損ね、ひよいとまた旨く出来る。
それをあらあらしい刹那の力が呑み込んでしまふのです。
どうかすると、何年も立つて見てから、
やつと完璧になることもあります。
ちよいと光つて目立つものは一時のために生れたので、
真(しん)なるものが後の世までも滅びずにゐるのですね。
道化方
後の世がどうのかうのと云ふことだけはわたくしは聞きたくありませんな。
わたくしなんぞが後の世に構つてゐた日には、
誰が今の人を笑はせるでせう。
みんなが笑ひたがつてゐるし、また笑はせなくてはならないのです。
役者にちやんとした野郎が一匹ゐると云ふのは、
兎に角一廉(ひとかど)の利方(りかた)だと、わたくしには思はれます。
まあ、気持の好い調子に遣る男でさへあれば、
人の機嫌を気に掛けるやうな事はありますまい。
さう云ふ男は、見物の頭数を多くした方が、
却て感動させ易いから、その方を望むのです。
まあ、あなたは平気で、しつかりした態度を示して、
空想に、あるだけの取巻を附けて聞せて下さるですな。
取巻は理性に悟性に感覚に熱情、なんでも結構でさあ。
だが、おどけと云ふ奴を忘れてはいけませんぜ。
座 長
なんでも出来事の多いが好いのですよ。
みんなは見に来るのです。見ることが大好きなのです。
見物が驚いて、口を開(あ)いて見てゐるやうに、
目の前でいろんな事が発展して行くやうにすれば、
多数が身方になつてくれることは受合です。
さうなればあなたは人気作者だ。
なんでも大勢を手に入れるには、嵩(かさ)でこなすに限る。
さうすれば、その中から手ん手(で)に何かしら捜し出します。
沢山物を出して見せれば何かしら見附ける人の数が殖える。
そこで誰も彼も満足して帰つて行くのですね。
纏(まとま)つた筋の狂言でも、なるたけ砕いて見せて下さい。
かう骨董羹(ごつちやに)と云ふ按排に、お手際で出来そうなものだ。
骨の折れない工夫で、骨の折れないお膳立をするのです。
縦(よ)しやあなたの方で纏つた物を出したところで、
どうせ見物はこはして見るのですからな。
詩 人
いや。そんな細工がどの位悪いか、あなた方には分からないのです。
真の藝術家にどの位不似合だか、分からないのです。
その様子では、いかがはしい先生方の白人為事(しろうとしごと)が、
あなた方の所では、金科玉条になつてゐると見えますね。
座 長
そんな悪口を言つたつて、わたくしはおこらない。
なんでも男が為事(しごと)を成功させようと云ふには、
一番好い道具を使ふと云ふところに目を附けるのです。
思つて御覧なさい。あなた方は軟い木を割る役だ。
誰を相手に書くのだか、目を開(あ)いて見て下さい。
退屈まぎれに来る客もあれば、
えらい馳走に逢つた跡で、腹ごなしに来る客もある。
それから一番の困りものは
新聞雑誌を読み厭(あ)きてから遣(や)つて来る。
仮装舞踏へでも行くやうに、うつかりして駆け附ける。
その足を早めるのは、物見高い心持ばかりです。
女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、
給金なしで一しよに藝をしてくれる。
一体あなた方は詩人の高みでなんの夢を見てゐるのです。
大入(おほいり)がなんであなた方は嬉しいのです。
まあ、その愛顧のお客様を近く寄つて御覧なさい。
半分は冷澹で半分は野蛮です。
芝居がはねたら、トランプをしようと云ふのもあれば、
娼妓の胸に食つ附いて、一夜を暴れ明かそうと云ふのもある。
さうした目的であつて見れば、優しい詩の女神(めがみ)達に
ひどく苦労をさせるのは、馬鹿正直ではないでせうか。
まあ、わたくしの意見では、たつぷり馳走をするですな。
どこまでもたつぷり遣(や)るですな。それならはづれつこなしだ。
どうせ人間を満足させるわけには行かないから、
ただ烟(けむ)に巻いて遣るやうにすれば好い。
おや。どうしたのです。感心したのですか。せつないのですか。
詩 人
いや、さう云ふわけならあなたの奴隷を外から連れておいでなさい。
天が詩人には最上の権を、
人権を与えている。
それをあなたのために擲(なげう)たなくてはならないのですか。
一体詩人はなんでみんなの胸を波立たせるのです。
なんで地水火風に打ち勝つのです。
その胸から迫(せ)り出て、全世界をその胸に
畳み込ませる諧調でないでせうか。
自然は無際限なる長さの糸に、
意味もなく縒(より)を掛けて紡錘(つむ)に巻くに過ぎない。
万物の雑然たる群は
不精々々に互に響を合せてゐるに過ぎない。
そのいつも一様に流れて行く列を、
節奏が附いて動くやうに、賑やかに句切るのは誰ですか。
一つ一つに離れたものを総ての秩序に呼び入れて、
調子が美しく合ふやうにするのは誰ですか。
誰が怒罵号泣の暴風(あらし)を吹き荒(すさ)ませるのです。
夕映(ゆふばえ)を意味深い色に染め出すのです。
誰が恋中(こひなか)の二人が歩む道のゆく手に
美しい春の花を蒔(ま)くのです。
誰が種々の功(いさを)を立てた人のために
見栄(みばえ)のしない青葉を誉(ほまれ)の輪飾(わかざり)に編むのです。
誰がオリンポスの山を崩さずに置いて、神々を集(つど)はせるのです。
人間の力が詩人によつて啓示せられるのではありませんか。
道化方
そんならあなたその美しい力を使つて、
詩人商売をお遣(や)りなさるが好いでせう。
まあ、ちよいと色事(いろごと)をするやうなものでせうね。
ふいと落ち合つて、なんとか思つて足が留まる。
それから段々縺(もつ)れ合つて来る。
初手(しよて)は嬉しい中になる。それから傍(はた)が水をさす。
浮(うか)れて遊ぶ隙(ひま)もなく、いつか苦労が出来て来る。
なんの気なしでゐるうちに、つい小説になつてゐる。
狂言もこんな風に為組(しく)んで見せようぢやありませんか。
充実してゐる人生の真ん中に手を下(くだ)すですね。
誰でも遣つてゐる事で、そこに誰でもは気が附かぬ。
あなたが攫(つか)み出して来れば、そこが面白くなるのですね。
誰彼となく旨(うま)がつて、為めになると思ふやうな、
極上の酒を醸(かも)すには、
交つた色を賑やかに、澄んだ処を少くして、
間違だらけの間(あひだ)から、真理の光をちよいと見せる。
さうすればあなたの狂言を、青年男女の選抜(えりぬき)が
見物しに寄つて来て、あなたの啓示に耳を欹(そばだ)てるのです。
さうすれば心の優しい限(かぎり)の人があなたの作から
メランコリアの露を吸ひ取るのです。
さうすれば人の心のそこここをそそつて、
誰の胸にも応へるのです。
さう云ふ若い連中なら、まだ笑ひでも泣きでもする。
はずんだ事がまだ好(すき)で、見えや形を面白がる。
出来上がつた人間には、どんなにしても気には入らない。
難有(ありがた)く思ふのは、出来掛かつてゐる人間です。
詩 人
なるほどさうかも知れないが、そんならこのわたくしが
やはり出来掛かつた人間であつた時を返して下さい。
内から迫り出るやうな詩の泉が
絶間なく涌いてゐた、あの時です。
霧に世界は包まれてゐて、
含(ふふ)める莟(つぼみ)に咲いての後の奇蹟を待たせられた時です。
谷々に咲き満ちてゐる
千万の草の花をわたくしが摘んだ時です。
その頃わたくしは何も持つてゐずに満足していた。
真理を求めると同時に、幻を愛してゐたからです。
どうぞわたくしにあの時の欲望、
あの時の深い、そして多くの苦痛を伴つてゐる幸福、
あの時の憎(にくしみ)の力や愛の力を、耗(へ)らさずに返して下さい。
わたくしの青春をわたくしに返して下さい。
道化方
いや。その青春のなくてならない場合は少し違ひます。
戦場で敵にあなたが襲はれた時、
愛くるしい娘(をんな)の子が両の腕(かひな)に力を籠(こ)めて、
あなたの頸に抱き附いた時、
先を争ふ駆足に、遥か向うの決勝点から
名誉の輪飾(わかざり)があなたをさしまねいた時、
旋風にも譬(たと)へつべき、烈しい舞踏をした跡で、
宴(うたげ)に幾夜をも飲み明そうとする時などがそれです。
それとは違つて、大胆に、しかも優しく
馴れた音(ね)じめに演奏の手を下(くだ)して、
自分で極(き)めた大詰(おほづめ)へみやびやかな迷(まよひ)の路を
さまよひながら運ばせる、
それはあなた方、老錬な方々のお務(つとめ)です。
そしてわたくしどもはそのあなた方にも劣らぬ敬意を表します。
老いては子供に返るとは、世の人のさかしらで、
真の子供のままでゐるのが、老人方の美点です。
座 長
いや。議論はいろいろ伺つたが
この上は実行が拝見したいものですね。
あなた方のやうに、お世辞を言ひ合つてゐる程なら、
その隙(ひま)に何か役に立つ事が出来さうなものです。
気乗のした時遣りたいなどと、云つてゐるのは駄目でせう。
気兼をして遅疑する人には、調子が乗つては来ますまい。
詩人と名告つて出られた以上は、
兵を使ふと同じやうに、号令で詩を使つて下さい。
わたくしどもの希望は御承知の通(とほり)だ。
なんでも強い酒が飲ませてお貰(もらひ)申したい。
どうぞ早速醸造に掛かつて下さい。
けふ出来ないやうなら、あすも駄目です。
一日だつて無駄に過してはいけません。
髻(たぶさ)を攫んで放さぬやうに、出来さうな事件を
決心がしつかり押へなくてはいけない。
またその決心がある以上は、押へたものを放しはなさるまい。
そこで厭でも事件は運んで行くですね。
御承知の通(とほり)この独逸の舞台では
誰でも好(すき)な事を遣つて見るのです。
ですからこん度の為事(しごと)では
計画や道具に御遠慮はいらない。
上明(うはあかり)も大小ともにお使ひ下さい。
星も沢山お光らせなすつて宜しい。
水為掛(みづじかけ)も好い。火焔も好い。岩組なども結構です。
鳥もお飛ばせなさい。獣もお駈けらせなさい。
造化万物何から何まで
狭い舞台にお並べ下さい。
さて落ち着きはらつて、すばしこく、天からこの世へ、
この世から地獄へと事件を運ばせてお貰ひ申しませう。