「e-文藝館=湖(umi)」 小説 投稿


もり みさこ  愛知県名古屋市在住の主婦  昭和二十三年(一九四八)二月 鹿児島市に生まれる。同志社大学に文学を学んで中退。 掲載作は、同人雑誌に、「帝王 の偃息図(おそくず)絵巻」(筆名・西穂梓)として平成十五年に発表、今回大幅 に書き換えた。二年前、伊勢斎王のこ とを書いた『光源氏になった皇子たち』を上梓している。 10.09.09掲載


 


         帝 王の絵巻       森 未砂子



                            第一章   


 京都市中京区西洞院三条下ル柳水町。かつて西洞院川が流れ、水が豊富で染め物に適していたためか、この一帯は染め物屋などの職人さんが多い町だという。
 その地に、京の名水「柳の水」という井戸がある。
 この涌き水を千利休は茶の湯に用い、「寛永の三筆」の一人、松花堂昭乗はこの名水で墨をすり徳川将軍家光の御前で筆を執り、名声をいよいよ高めた。
 安土桃山時代は織田信長の次男信雄が屋敷を建て、江戸時代になると紀州藩京屋敷が建ったのも、名水が大きな条件の一つだったかもしれない。
 平安時代後期、この一帯は皇族や有力貴族の高級邸宅街で、清泉の湧く柳水町から猩々町を過ぎ、三条油小路東側に至る辺りは、崇徳上皇の仙洞御所、三条西 洞院第であった。
 雅仁親王は母・待賢門院藤原璋子の死後、弟思いの兄崇徳院の勧めでこの御所の一角に移り住んでいた。
 鬱蒼とした古木が深い陰をつくるこの御殿は、陽が落ちてくるとたちまち庭からひんやりとした夜気が漂ってきた。火照りが去った晩夏のさわやかな夜であっ た。
 夕立の雨露がまだ残っている木々の上には月が皎々と照り映え、庭はその月の光に包まれている。
 前栽には都忘れや河原撫子が咲き乱れ、池の畔の桔梗の濃い紫も儚げに美しい。しっとりと苔むした石。東の渡殿の柳の木の近くに湧く泉から庭に引いた遣り 水の微かな音。庭は白砂が敷かれて、月の光りに白砂はいっそう冴えていた。
 信西はいつものように我が物顔に雅仁の御殿に当てられた対屋に入った。
 しずしずと細殿を渡ってきた若い女がすれ違う度に信西に深く頭をさげる。
 この対屋の主である雅仁親王から全幅の信頼を寄せられた乳母、紀伊局の夫であり、雅仁親王の側近中の側近、藤原信西入道は横柄に顎をしゃくった。
 音楽のざわめきが聞こえてきた。さらに奥へすすむと、空薫物の冷ややかなよい香りが流れてくる。
 奥の一間は一段と明るく灯が点されていた。ざわめきが大きくなった。鼓の音もさらに大きく響く。
 御簾が四面とも上げられ、高麗べりの畳を敷き、その上に唐錦の茵を敷いた御座所に雅仁は、いつものようにしどけなく座っていた。
 部屋には燭が幾つも置かれ、昼間のように明るい。池のそばの篝火も、庭をあかあかと照らしている。
 これもいつもの事ながら、雅仁の傍らには侍女が侍り、例の今様のお相手、公家の次男三男たちが白拍子を相手に盃を交わしており、遊女や傀儡といった大道 芸人までが雅仁の御座所からほど遠くない庭先の篝火の近くにいて、中の数人は楽器を手にしていた。
 親王という立場では考えられないことだが、雅仁の身辺には日常的に怪しげな卑賤の者が始終出入りしている。そして厳格な信西までもが、またこれを見て見 ぬふり、黙殺していた。
 雅仁は蝙蝠扇を手に調子をとっていた。
 二藍の紗の直衣に藤散らし紋の指貫を着くずし、下には丁子染めの単が透けて見える涼しげな装いであった。
 雅仁は涼をとりたくなったのか、そのやや赤みの勝った藍色の直衣をつまみ上げると、立ち上がって簀子縁に出た。
 そして渡殿から池に浮かぶ釣殿を眺め、ゆるゆると今様を吟じた。部屋の中から気に入りの侍女、女郎花が心得たように鼓を取り上げ、ぽん、ぽん、と乾いた 高い音でこれに奏した。
   
     万のほとけの願より
       千手の誓ひぞ頼もしき

 少年の頃は澄み切った高音で、天性の美声であった雅仁の声が、加齢とともに低く太く艶を帯びてきた。
 その声が、焚きしめられたお香の薫りとともに、風に乗ってまさに廊下を進んでこの部屋に入ろうとする信西の耳に届いた。微笑んだ信西はすかさずこれに唱 和した。

     君がひたすら願ひたる
     一つ想ひと聞きたまふ
     千手はこれを成したまふ

「なんだ信西、遅かったではないか、もう酒宴を始めておるぞ。さぁ、早う参れ」
 雅仁は唄うのを止めて嬉しそうに信西を振り返って笑った。
 信西は庇の間に坐し、女郎花に「鼓を続けよ」と目配せし、渋みの勝った声でまた一節唄って、雅仁に続いて部屋へ入り、改めて一礼して席に着いた。
「さぁ、信西に盃を」
 雅仁の言葉に、侍女が盃になみなみと酒を注いだ。
「かたじけのうございます」
「うん、心地よく喉が渇く宵じゃ」
「先日の鳥羽法皇さまの五十の賀は盛大でございました。法皇さまも、高陽院様もご機嫌にご帰還遊ばれて」
「うん。父法皇さまは殊の外そなたの琵琶を誉めておられた。〈楊真操〉と申したか、あれは琵琶の秘曲だそうだな。麿は初めて聴いた」
「昔、遣唐使が唐から伝えた三秘曲の一つにございます。あの曲は、以前一度だけ・・・久安三年でしたか、法皇さまが天王寺で管弦の宴をなさった折り披露し たことがございます。難波の海に落ちる夕陽に包まれて琵琶を弾じましたが、法皇さまにおかれては殊の外、興にいられて、再びとのご所望がございました」
「ふん。あの席では麿の今様や笛ではどうにもならぬな」
「御意。今様もよろしいが、それはそれ。皇子ももう少し、琵琶など帝王の楽を熱心にして下されば、出番も多いのですぞ」
 信西は遊び女の打つ鼓や笛を聴きながら盃を重ね、池を改めて眺めた。
「信西、何を思うておるのじゃ」
「はっ、皇子の御父・鳥羽法皇さま、御母・待賢門院さまがまだお若かった頃は、白河殿や三条東殿ではよく趣向を凝らした宴を催したもで、その中心は御母 君・待賢門院さま。年寄り達がよく昔話に申しておりますので・・・」
 信西は、頬笑みながら頭を軽く下げた。
 池の中之島の築山の陰には小ぶりの龍頭鷁首、一対二艘の舟が繋いであったが、塗料が剥げ架かかっていた。
 先日、鳥羽法皇の五十の賀が行われた法皇の仙洞御所である三条東殿はここ崇徳院の仙洞御所よりはるかに敷地も広く、隅々まで豪華絢爛な造作の御所であっ た。
 遙か昔のことだが、白河法皇のお元気な頃はその三条東殿の池に浮かべた龍頭鷁首に雅楽を演奏する伶人を乗せ、楽を奏しつつ池中を巡る大がかりな宴が催さ れたと数多くの人々の語り草になっていた。
 源氏物語のあの雅を真似て、桜や藤の花の盛りには花の宴。初夏には青葉の歌会。白拍子の舞いを観賞し、寝殿の庭に蛍を放した幻想的な真夏夜。庭に置いた 角盥に牽牛織女の二星を映した七夕の会。深まり行く秋の虫の音と朗詠。十六夜の月、後の月。紅葉は、雪の会の趣向はと、折にふれ時にふれ、京の四季の移ろ いを楽しんだそうであった。
 だがあの御殿でもそのような雅な遊びはもう長く行われていない。
 あの頃は白河法皇、待賢門院、あるいは崇徳幼帝のご威光の前多くの者がご機嫌伺いに伺候していた。
 あれからどのような時が流れたのか。
「賀茂川の水、双六の賽、比叡山の山法師以外は全て思うまま」であった稀代の帝王白河法皇の崩御から二十七年。待賢門院璋子の逝去から十年が過ぎていた。
 二十九歳になった雅仁親王はこの仙洞御所の片隅で世に忘れられて暮らしている。といって、静かに世捨て人のように、というわけではない。
 仙洞御所の中で、雅仁の暮らすこの一角だけは王朝の雅とは無縁の、笛や鼓の音が騒々しく響き、今様や催馬楽、田楽を得意とするはぐれ貴族の子弟や、傀儡 子師、遊君などの遊芸人がたむろし、民衆の賑わいをそのままそっくり運び込んできた。 
 深い木立の向こうの主殿では、病弱な近衛帝の後継者問題を巡って、新院・崇徳上皇を中心に何やらきな臭くうごめいているが、遊芸狂いの廃れ皇子、雅仁に は声も掛からない。
 これでいいのだ。崇徳上皇方に期待されて、つまらぬ陰謀などに巻き込まれてはなんともならぬ。これからの対処が大事と信西は今夜も安堵した。
 野心というものは、当然軽々しく口にすべきものではない。
 特に陰謀渦巻く王朝政権の内側にあっては、たとえ隅っこで逼塞していても、秘すべき野望を共有する者はそれを口に出さずに互いに感じ合い認識するもの。 お互いの眸と眸が一瞬光を帯びて見交わすだけで事は通じねばならなかった。
 秘めて秘めて、密かに響き合うことによって、その裡なる野望は強く高く激しく噴き上がり、燃えあがる。
 主上の病状で朝廷が一喜一憂している今こそ、じっとして決して目立ってはならぬのに、新院崇徳上皇の取り巻き達の愚かなことよ、と信西は主殿へ冷たい一 瞥を投げた。
 雅仁の御殿では、今宵招かれた客達も今様を唄うだけ唄うと庭の遊女たちを連れ帰っていった。
 いつものように信西だけはまだ残っている。

     嵯峨野の興宴は
     鵜舟筏師 流れ紅葉  
     山陰ひびかす箏の琴
      浄土の遊びに異ならず

「鵜舟を浮かべ紅葉を眺め、箏など掻き鳴らす。これこそまことに浄土の遊びだな・・・

     ほとけは常にいませども 
     うつつならぬぞあはれなる
     人のおとせぬあかつきに
     ほのかに夢にみえたまふ  ・・・・しみじみと、沁みる。

 以前に、そちが申した通り、遊びにつけ、祈りにつけ、今様の詞や調べは、まことに人の心をわしづかみにする。のう、信西」
 盃を置いた雅仁は所在なげに膝の横に投げ出してあった蝙蝠扇を取りこれで調子を取りながら、うっとりした眼差しで口ずさんだ。
「御意。ことに雅仁さまのように情感たっぷりに唄って下さるとしみじみとなりまする」
 信西が、盃を空けると、侍女がすぐに満たす。
「信西、父・法皇様の命で正史を編纂していると聞いたが」
「はッ、本朝世紀という宇多天皇からの歴史の編纂に取りかかっております」
「本朝の歴史か。なにか興味を引くような話はないか」
「歴史を辿りますとあれもこれもと面白い事件だらけでございますぞ」
 信西がそういうと、雅仁は肩をそびやかした。
「面白い事件だらけかな。麿には、退屈なものが多いような気がするが」
「面白いと言っては歴史上の事件の当事者には申し訳ございませぬが、時が経つとその時には見えなかった事件の全体像が見え、もつれていた糸がほぐれ、なる ほど、そういう経由でこの事件は起こされたのか、こういう結末になったのかと、判って参ります。これが政の要諦を学ぶ機会となるのですぞ」
「ふん。どのような面白い話じゃ」
 雅仁は具体的な話でなくては嫌いなのだ。話が説教めくとすぐに拒否反応を起こしてしまう性分だと、信西は雅仁を眺め話を続けた。 
「醍醐天皇の十三皇子に章明親王というお方がいらっしゃいました。章明親王の生母藤原桑子は醍醐天皇の後宮では楓御息所と呼ばれる更衣でございました。桑 子は堤中納言こと藤原兼輔の娘でございます」
「かねすけ、かねすけ、そんな名は知らぬな。聞くが初めてじゃ」
 またか、せっかく噛んで含むように教えたのに、もう忘れている、と信西は舌打ちをしたくなる気分を抑えて言った。
「つい十日ほど前に伺候した折、お話しいたしましたぞ。醍醐帝の寵臣で聖徳太子伝暦を著したあの頃の一流の学者であり歌人の藤原兼輔でございますぞ」
「そういえば、そんなことを聞いたな」
 雅仁は信西の話になかなか乗ってこない。
「兼輔は東京極の賀茂川の堤と中河との間に広大な土地を所有しており、ここに屋敷を建てて住まいしておりました。その堤第、一年中花の途切れることのない 美しい屋敷だったそうです。風流好みの貴族達に評判で、堤第と呼ばれ、兼輔も”堤中納言”とも呼ばれておったそうにございます。ここが醍醐帝の妃となった 桑子の里第。章明親王は当然ここで生まれ、ここで養育されたことでございましょう。この章明親王はわずか三歳で母の桑子を亡くし、七歳で父醍醐帝を、十歳 の時には後ろ盾であった祖父兼輔を亡くしているので、皇位継承には全く無縁の皇子でございました」
「皇位には無縁か。麿と同じじゃな」
「そういう点では似て無くもございませんぬな。ただこの皇子は、和歌や管弦にも優れ才華清英の君と言われ光源氏のような風流人でいらしたようです」
「麿は今様、催馬楽などの雑芸好み、そこが章明と違うな。ところで、源氏物語は醍醐帝の御世を想定して書いたと申しておったな。ということは、光源氏は章 明を念頭に作り上げたのか」
「さすが我が皇子! 洞察力が素晴らしい。もちろん源高明、源融などなど候補は数多おりますから章明親王お一人ではありませぬが、仰有るとおり章明親王も 対象の一人として光源氏という理想の男を生み出し、世に問うたのでしょう」
 雅仁は少し興味を持ったようであった。
「章明親王が光源氏の原型の一人であるという有力な理由は外にもございます。実は、章明親王と紫式部の父為時は従兄弟同士。共に兼輔の孫でございます」
「なるほど・・・」
 雅仁の蝙蝠扇を持つ手が止まった。
「紫式部一家は兼輔から伝領した東京極の堤第に暮らしていたとされております。ですが、親の土地屋敷・財産はほとんど息子ではなく、娘が伝領するはず。し かも兼輔の娘・桑子は入内して醍醐帝の妃。であれば娘の体面のために実家に里帰りした時のために立派な御殿が必要。源氏物語でも、光源氏の屋敷である二条 院は母の桐壺更衣の実家。兼輔の屋敷も娘の桑子つまり楓御息所が継いだ可能性は大でございます。しかし桑子は章明親王が三歳の時に亡くなっているとする と、それはそのまま章明親王が継ぐ。章明親王のお屋敷は諸本の記録によれば、東京極の賀茂川と中河の間にあったという。となると、親王邸と
紫式部邸、この二つの邸宅は同じではなかったか。或いは、広い堤第の中の主殿や土地は章明親王が伝領し、少し離れた一角に、紫式部一家や伯父の一家が暮ら していたのではないかという推理も成り立つのでございます」
「なるほど、信西の推理か・・・であるか。章明親王と紫式部の父藤原為時が従兄弟同士はわかったし、章明の一家と為時の一家が隣同士で暮らしていたのも 解った。だが、そんなこと、どこが面白いのじゃ」
 雅仁は再び扇をもて遊んでいる。
「雅仁さま、そう慌てずに。話には順序というものがございますぞ」
 信西はそう言うと、盃を取り上げ、ゆっくりと口元に運んだ。
「この章明親王には三人の娘があった由。一の姫、隆子斎王は円融帝の御代に伊勢の斎王に卜定され、残念なことに疱瘡に罹り、斎宮の地で薨去された。斎王の ご身分のまま薨去なさった唯一のお方でございます。そして二の姫がこれもまた花山天皇の御代に伊勢斎王に卜定された」
「姉妹で斎王に選ばれるとは、よくよく神に好まれる宮家だな」
「御意。先ほど、雅仁さまが唄っていた今様で思い出したのですが・・・その二の姫、寛和の斎宮と呼ばれた済子女王が、畏れ多くも、よりによって、嵯峨野の 野宮で潔斎中に密通したのでございます」
 信西は表情を全く変えずに言った。
「みっ、密通か!」
 密通と聞いて、雅仁は目を輝かせ、身を乗り出した。
「天皇の御代が替わる度に伊勢の斎宮も、賀茂の斎院も新しい斎王に替わる。斎王は神に仕える不犯の穢れ無き身。それが潔斎中に密通とは、面白い。信西、 もっと詳しく教えよ。相手は誰じゃ、麿のような廃れ皇子か、出来損ないの公卿か」
「斎王のお相手が皇子さまとか、公家であるならば騒ぎがまだ小さかったやも知れませぬが、その姫君の相手は滝口にございます」
「滝口とは、警護の侍か!」
「御意」
「滝口に・・・何故、宮家の姫ともあろう者が、顔も見せては穢れる侍風情に、身分卑しき男に・・・」
「男と女の中は当事者でなければ・・・この愚僧にも分からぬこと。野宮は無論、宮中も大混乱したことでしょう。神聖なる場所が穢され、神聖なる斎王が穢さ れ、一刻も早く、不浄を祓う、祭文を、禊をと大騒ぎであったことでございましょう」
「・・・・・」
「御位に即かれたばかりのお若い帝にとってご自分の御代の斎宮が密通などとは、とんでもないこと。大変な動揺が走ったことでございましょうよ」
「さもありなん。帝の名は」
「第六十五代の花山天皇さまにございます」
「花山天皇さまか・・・あまり覚えぬ名じゃが」
「それより、この斎王の密通が発覚して、四日後、その事件が発覚して大騒ぎの最中にそれこそ天地がひっくり返るようなとんでもない一大政変が起こったので ございます」
「なんじゃ」
「斎宮の密通事件発覚四日後に花山帝が突然出家なさった」
「なんと・・」
「斎王の密通のせいで出家なさったのか。いったい花山帝はお幾つだ」
「御年十九歳」
「麿より十歳も若いではないか」
「世を儚んでというより、謀略にかかったのでございます。この花山帝のご出家、ご譲位を影で操っていたのが、藤原兼家さま」
「兼家というと、あの九条流の兼家か」
「はい」
「望月の和歌を詠んだ道長の父じゃな」
「はい、左様でございます。その兼家卿が息子の道兼に命じて、ご寵愛の女御を亡くし嘆き悲しんでいた帝にご出家を勧めた。自分の孫である懐仁親王、後の一 条帝を位につけるためにですな」
「なるほど」
「兼家は斎宮の父章明親王が兵部卿の頃部下で、しかも親王の祖父の堤中納言兼輔が残した中川の屋敷の隣が兼家の妻の家で、章明親王と兼家夫妻はかなり親し く交際していたと、兼家の妻が書き残した『蜻蛉日記』に綴られております」
 信西の話はこうであった。
 冷泉帝の嫡子である花山帝は、叔父の円融帝の後を受け十七歳で即位した。
 母は摂政藤原伊尹の娘。しかし花山帝は即位前に、摂政であるこの祖父や母、更に伯父達までも無くし、若い叔父の藤原義懐がただ一人の後見人であった。
 孤独に育った花山帝であったが気位は高く、叔父の円融帝は傍流、自分こそ村上・冷泉の王統を受けた正統な天皇であるという意識が強かった。
 発足した花山王朝は側近で帝の叔父藤原義懐が指揮を執り、帝の乳兄弟である藤原惟茂がこれを補佐し、若いながらも卓越した政治力を発揮、荘園整理、平和 令、銭貨の流通、倹約令、物価統制といった改革意欲にあふれる政策を次々に実施した。
 後宮において花山帝は兼家の異母弟、藤原為光の娘忯子を片時も離さず「寵、後宮を傾く」というほどの寵愛していた。
 やがて忯子は懐妊。花山帝の寵愛は深まる一方で、忯子の里下がりをなかなか許さなかった。しかし忯子の悪阻はひどく、極端な衰弱から妊娠八ヶ月で世を 去った。
 その直後から、宮中では、女御忯子の死は花山帝の房事過多によるものと噂が流された。
 最愛の忯子を失った花山帝は茫然自失、他の后を寄せ付けず夜毎泣き明かしたという。
 もともと花山帝が即位し円融上皇の嫡子懐仁親王がその皇太子に立ったときから、花山帝の退位が一日も早いことを願っていた兼家。「好機到来」とばかりに その権勢欲が頭をもたげた。
 兼家は花山帝の幼なじみで仲の良かった次男の道兼に命じ、忯子の菩提を弔うため花山帝に自分もお供するからと出家を勧めさせた。
 度重なる道兼の勧めの上、自分の斎宮が卑しき身分の滝口とあろうことか野宮で密通。この衝撃で帝は出家し、結局退位に追い込まれた。
 替わって即位したのが、花山帝の従兄弟で、兼家の孫懐仁親王つまり一条天皇。
 一条天皇の外戚となった兼家の一家は摂関家として権力を一手に握り、それを息子の道隆、道兼、道長と受け継ぎ、御堂関白家の「この世をば」の栄華へとひ た走るのである。
 紫式部の父為時は花山帝の皇太子時代から仕え、花山帝の即位で式部丞として出仕し大丞の役職まで昇った。
 が、喜んだのもつかの間、花山帝はたった二年で退位。為時はあっけなく失職。伯父の為頼も、春宮権言大進として仕え、花山帝の即位で正五位下、従四位下 に昇進したが、その後は昇進の機会に恵まれなかった。後に紫式部の夫になる藤原宣孝も花山帝に仕えていて失職しているのであった。
「なるほど、人間関係が複雑に絡み合って何やらあまりに人物が揃いすぎている。花山帝の嘆きようはまるで、源氏物語の中で、桐壺帝が桐壺女御を亡くして嘆 き悲しんだように深く烈しいものであったのだな。花山帝と忯子はまるで、桐壺帝と桐壺更衣そのままだ。源氏物語はこの辺りの事情を踏まえて書いたのであろ うか」
「御意。そうそう、話はそれますが、それでひとつ思い出したことがございます。前々から思っておりましたが、雅仁さまもいつまでも新院さまの御所に曹司住 みというわけにも参りませぬ」
「麿は、兄君、新院さまがせっかく、一緒に棲もうと同殿をお誘い下さったから、別にこの仙洞御所にこのままでも構わぬが・・・」
「雅仁さまも来年は三十でございますぞ。拙僧が前々から、雅仁さまの御所に相応しい土地をと、物色しておったところ、さきほど話にでた花山帝の寵姫忯子の 菩提寺だった法住寺が都の南にあって百数十年前に焼失したまま再建されておりません。なかなかの大伽藍だったようで、敷地がたいそう広くいずれ雅仁さまが ご自分の御所をお建てになるとしたらあの地にと思っておりますぞ」
「美人薄命で、しかも花山王朝崩壊の原因ともなった妃の菩提寺跡とは、いかがなものか。そのような地、縁起が悪いではないか」
「いえいえ、あの地は易学上大変よろしゅうございますぞ。それに花山王朝で果たせなかった為政者たちの思いを受け継いでいけば、彼らの御霊がきっと守護霊 となって、雅仁さまをお守り下さることでしょうよ」
「そうか、まぁ、易に詳しい信西の事じゃ。間違いはあるまい。では麿の新しい御所の件は信西にまかす。楽しみにいたしておるぞ」
 雅仁はにっこり笑って信西を見た。
「先々のことですが、いずれ、素晴らしいものをお建ていたしましょう」
「それにしても妃を一人亡くしたぐらいで出家してしまうとは花山帝もしょうのないお方であるな」
「誠に。純情すぎたのでございましょう。帝王たる者、情が深すぎては適いませぬ」
「純情であったり優しすぎてはだめか」
「いかにも。女を可愛がるのはよろしい、が、溺れてはなりませぬ。妃はまず、その実家の権勢、これが第一。そして皇子を産む、これが第二。帝位を捨てるほ ど溺れてはなりませぬ。これは大切な事でござりまするぞ。天子に父母無し、というほどに肉親に対しても情を捨て、冷徹果敢な面も持たねばなりませぬ」
「麿にとって、信西と紀伊局だけは別じゃ。・・・だが、信西、麿に帝王学を説いても無駄じゃ」
 そう言って雅仁は笑った。
  信西も大きく頷き、にやりとこれを受け止めた。
「まことに。まぁ、ともかくも花山帝は、その他にもいろいろと帝王の規範からはかなり外れたお方でした。しかし円融朝に取って代わった花山朝、帝の叔父義 懐や、帝の乳兄弟の惟成など側近は若いながらも人物が揃っておりました。殊に惟成は身分は低いながらも稀に見る有能な官吏だったようでございます。だが、 若い彼らが意欲溢れた政治改革を断行しようとするのを円融上皇や兼家たちはさぞ苦々しい思いで眺めていたことかと思いまする」
「うん、信西は惟成贔屓だな。乳母の子と乳母の夫か、似たような立場だな。共に稀に見る俊才で、政治に対する情熱も並々ならず。但し、片や惟成が仕えるの は若き帝。片や信西が仕えるのは、皇位に無縁の今様狂いの廃れ皇子」
 雅仁はじゃれるように言った。
「愚僧が返答に詰まるような、頷き難い真実を、そうはっきりと仰いまするな」
 と笑って受ける信西。だが二人の視線は一瞬、ぶつかり合い、かちりと光った。
「惟成は身分は低いが、確かに政務に長けておったようで。しかし政治改革をやろうとすれば旧守派は目障りと思うのも常。ならばどうするか」
「策略を用いて潰す、に決まっておるではないか」
「御意。そうした抵抗勢力からすればこの王朝を一日も早く潰したかった。さらに潰した後も、自分たちの行為を正当化する。例えば、花山帝は女好きというよ り淫乱で、狂気の方。出家なさってよかったという世評まで作り上げる。まさに花山帝の場合は、そうした何者かの意思まで感じます」
「なるほどな。では史書もあまり信用できぬな」
「誠に。まぁ、歴史は勝者が書きとどめさせたものであれば、そこに当然何らかの意思がありますな。花山帝に関する記録というか逸話には首を傾げたくなるこ とが実に多うございます」
「逸話とは、どんな逸話じゃ」
「花山帝は即位式の高御座の中で、南面した帳を掲げる、役目、”褰帳の命婦”であった馬内侍という美貌の女官を犯されたという話も伝わっております」
 信西が淡々と語り、雅仁は身を乗り出す。
「玉座で、命婦を犯した! なんと剛毅な!」
 雅仁が大げさに反応するのをかまわず、信西は侍女が注いだ酒を飲み干すと、例の淡々とした口調で話を続けた。
「百官が待ち受けるあの厳粛な大極殿で、何枚もの装束を重ね着て、さらに冠や玉佩など頭から沓の先まで飾りたて、自分一人では身動きもままならぬ正装の帝 が、あの高御座の上で、ジャラジャラと音を立てて、女を抱くなど不可能。抱かれる女も正装で、身動き一つ介添えが無くては叶いませぬ。しかも美貌の女官の 馬内侍と申しても、当時の年齢は花山帝より二十を幾つも越えていたはず」
「そんな大年増か」
「えぇ、当時、馬内侍と呼ばれ、様々な公達と浮き名を流した女官は確かにおります。なれど、その女ならば花山天皇の母親か、祖母くらいの年の差。まさに狂 気の御振る舞いとしか思われませぬ」
「で、あるな。いかに美しかろうと、二十以上も上の女では・・・麿では食指は動かぬ。まして晴れの即位の式に臨んでおるときにでは、気がふれたとしか思え ぬ」
「そうでございましょう。それに、当時は褰帳の命婦の役はまず女王がすることになっております。褰帳の命婦記録に依りますと、その日の左褰帳は先ほどお話 しの出た章明親王の三の姫、慶子女王がやり、右褰帳は盛明親王の娘、明子女王が務めております。この明子女王というのは、盛明親王の養女で、実は、源高明 の末の娘、源明子でございます」
「源高明とは?」
「安和の変で失脚した醍醐天皇の皇子ですぞ。あの事件も臣籍降下した源氏の勢力を取り除くための藤原北家の捏造したものでございました。その高明の娘が、 後に藤原道長の妻となっております・・・雅仁さま、御父君、本院さまの現在の院の御所、高松殿はその昔、明子が父親の源高明から伝領して住んでいたところ でございます。ですから、源明子は高松殿とも呼ばれていたわけで・・・・道長は高明の怨霊が自分たち一家に祟らぬように、明子を妻に迎え大切に傅いた、そ んな思いもあったのでございましょう。・・・何れにしても花山帝が即位式の前に高御座で褰帳の命婦を犯したというこの逸話は、捏造された真っ赤な嘘でござ いましょう」
「よほど摂関家にとって目障りであったのだな」
「そうでありましょうな。花山帝は実に誤解、曲解で貶められ、傷つけられたお気の毒な帝。九条流にとって邪魔な帝だったからでございましょう・・・政は、 やはり、天皇の御親政か、上皇さまによる院政でなくてはなりませぬな。摂関家の思うままにさせておいてはなりませぬ・・・花山帝の御出家の経緯などもあれ これ胡散臭い話がございますが、今は皇位継承に関わる話はこのくらいで止めましょう」
「うん、いずれ麿に必要な時が来たら話してくれ。今夜は、まず斎王の密通を話せ。密通とは、また面白い話だ、麿好みだ」
「御意。聖女と言われながら、斎宮や斎院にまつわる不祥事は結構多く、古くは『伊勢物語』の狩りの使いと斎宮との情事。一条天皇の中宮、藤原道隆の娘定子 の母方の高階家の先祖はその斎宮と業平との間に生まれた子とか」
「麿も聞いたことがある。だから中宮定子はこぼれるような色香があり、男と女の情の駆け引きも見事で、一条帝の心も身体も虜にして離さなかったらしい。定 子の兄の伊周も評判の美男だったというし。昔男の業平、神に仕える聖女にまで手を出すとはさすが色好み。して、寛和の斎王は誰とちぎったのか、もっと詳し く話せ」
 雅仁はその白いぽってりとした指先で蝙蝠扇を弄びながら信西を促した。
 信西はそれをちらりと見て話を続けた。
「平致光と申す坂東武者で、家は代々九条流に出入りしていたようです。道隆卿の推挙で宮中警護から野宮に詰めるようになった由」
「坂東武者は粗野ではないのか。荒くれた獣のような男達ではないのか」
「坂東武者と言っても横笛の上手な美丈夫だったとか。潔斎中の斎王が見そめたのか、身分知らずの滝口武者が雲上人に恋い焦がれたか。まぁ、政変を狙う者が 深窓の姫に野性味たっぷりの滝口を近づけ誘惑させたのか」
「・・・・」
「道隆卿あたりが何を考えていたか。東夷の致光に高貴な姫に対する心構えまで指示したかもしれませぬぞ。鹿の肉など喰わず毎日湯浴みして着替え、獣臭さを 消すのじゃ。狩衣を下げ渡す故、装束には必ず香を焚きしめよ、非番の夕べは御殿の端近くで笛を吹いてお慰め申せ等と、こんな指示を出していたかも知れませ んな」
「九条流の面々は吝嗇な一族だと申しておったではないか。それが高価な練香や狩衣を武者風情にやるかな」
「いや、致光の父、平致頼は平安中期を代表する剛の者。今は尾張の野間の荘で勢力を張っている長田流平氏の祖にございます。その頃、致光の一家は坂東と伊 勢の国に根城を持っておりましたから、致光に高価な物を与えれば、致光の父致頼からその何十倍、何百倍もの値打ちの馬や獣の皮、米、海産物などが道隆の屋 敷に運び込まれるのを承知でやっていることでございましょうよ」
「侍とはそんなに豊かか?」
「身分卑しき侍、受領階級なれど直接地方を治める彼らの財力はあの当時も今と同様侮れなかったはずでございます。・・・道隆は妻の祖先の、業平と斎宮の密 通の故事を思い浮かべ平致光を嵯峨野まで派遣したのかもしれませぬ。当然、懐仁親王が即位したらすぐにも娘を入内させる腹づもり。兼家以上に道隆は花山帝 の失脚に熱心だったはずです」
「道隆は大らかな人物だと聞いていたが」
「一概には言えません。娘の定子を後宮にいれて権力を握ってからしたことは自分の息子たち、妻の実家の者達の出世栄達だけです。実の兄弟の道兼、道長には 非常に冷淡だったようで。お考え下さい。もし自分の弟たちを出世させ力がつけば、自分の死後、自分の子孫達を脅かす存在になるやもしれません。自分の父親 や祖父が兄弟から乗っ取ったように、摂関家を取られてしまう懸念もございます。摂関家は代々肉親、兄弟の間でもそうやって争ってきたのでございますから。 そこへいくと妻の実家の高階家は多少出世させても摂関家に取って代わることはあり得ないから安心というわけだったのでございましょう」
 兄弟間の権力抗争は皇室も同じだと雅仁思い、大きく頷いた。 
「歴代の権力抗争は、家族一丸となって必死になって奪った摂関家の権力を、父親が死ぬと次は兄弟で醜い争いを繰り返す。これが蔓で生い茂ってこの国の富を 絡み捕って栄えてきた摂関家の定めですな。道隆も妹の詮子が生んだ一条帝に娘の定子を入内させたあと、他の公家が一条帝に后を入れるのを極力邪魔していま す。道隆が元気な頃は一条帝の后は定子ひとり。その点、道長の方は大らかですな・・・」
「ふ〜ん、なるほどな。して、斎王と滝口はいかにして睦んだのじゃ」
「どう考えても、卑しき滝口が貴き斎王さまを犯すなど不可能でございましょう。斎王さまが滝口武者平致光の凛々しさをみそめたのか・・・・・私が思います に、案外、斎王は御殿の端近くで星月夜を愛でながら徒然に箏を弾き、庭の隅で致光がこれに合わせて笛を吹いただけで、何も無かったかも知れませぬ。だが二 人を見た侍女達が何故か騒ぎ出し、侍詰め所の長官はやって来るわ、神祇官までが右往左往して大騒ぎとなり、密通と決めつけられ、とうとう廃斎宮となり群行 は取りやめになった」
「・・・・・」
「何故かと申しますと、寛和の斎宮の場合、不思議なことに密通事件を伏せようとした気配は全く感じられません。秘めても大方は後で噂になって自然に世間に 漏れ聞こえるのは仕方がないとして、公的にはこの種の不祥事はその気になればいくらでもねじ伏せて抑え隠すものでございましょう。伊勢物語の業平と斎王恬 子との密会が描かれております。また兼家の父師輔は醍醐天皇の内親王雅子さまを妻としておりますが、雅子内親王が伊勢の斎王に決まり、伊勢へ下る前に通じ ていたという噂もありますぞ」
「確かに、業平と斎王のことは伊勢物語には、はっきりと書いてあるが問題にはならなかったのだな」
「はい、恬子内親王は斎宮を廃されておりませぬ。また師輔さまと斎王雅子さまとのことも、当時公の場所で口にする人は誰もいなかったはず。自分たちに都合 の悪いことは、たとえかなりの噂になったとしても、平然として無かったことにしてしまうのが、あの厚かましい九条流の面々のやり方・・・それが寛和の斎宮 の場合、噂があっという間に広がっている・・・そこに謀略を感じるのです。何も書かれていない歴史の行間に、斎宮の不祥事をわざと騒ぎ立てている気配が感 じられます。斎王と卑しい滝口との密通。この事実を作り上げたかったと思われます」
「怖いのう」
「まことに、これが政の裏面・・・・・最愛の女御を亡くされ悲しみの淵に沈んでいる、その上ご自分の御代の斎宮の密通という大不祥事に、すこぶる神経質 だったまだ十九歳の花山帝の心はいかに乱されたか、お労しい限りでございます」
「帝とはいえまだ十九だものな」
「そうでございます。そこへ遊び仲間の道兼に同情を装った言葉で出家を勧められた。帝の突然の御出家はこの斎王の密通発覚の四、五日後のことですから。こ の事件にもまだ若く身分の低かった道長は別として、道隆、道兼、異母兄弟の道綱も絡んでいる。そして後ろで糸を引いているのは父親の兼家。私は斎王の密通 と花山帝の御出家が偶然重なったとは到底思えませぬ。あの一家にとってあまりにも都合良く、二つの事件が起こっている・・・斎王の密通発覚が五日遅れて、 花山帝の出家退位の後だったら、歴史はどうなるか。斎王のことは何の騒ぎにもならず、お咎めもなかったでしょうし、済子斎王の密通などすぐに忘れられたで しょう・・・誰かが、この時間の操作をしていたのではないかと・・・あれこれ想像は働きます。が、しかし正史に根拠もないことを書くわけにまいらず、判っ ていることだけをなんの感情も交えずに記す所存でござりますが」
 冷静な信西にしては珍しく花山王朝にかなり肩入れしていると、これも自分に境遇の似た帝の乳兄弟惟成のせいであろうと雅仁は思った。
 もっとも延々と歴史の講釈ばかり聞かされては退屈だ。雅仁は気分を変えるように言った。
「伊勢の斎宮とか野宮とか、源氏物語の賢木の巻の場面を彷彿させる。入道の話を聞いていると、源氏物語は花山帝や斎宮の話も下敷きになっているような気が するな」
「御意。章明親王家は紫式部一家にとって誇り、自慢の種だったはず。済子斎宮の不祥事はあの親子にとってなんとも口惜しい事件だったに違いありませぬ。済 子姫の姉君、隆子女王が斎宮に在任中、斎宮で病死している。いわば、不吉の最たるものなのに、同じ家から再び斎王を選んだというのも、兼家当たりは始めか ら、斎王の不始末をでっち上げ”花山王朝不快”のご神託を言い出し、お若い花山帝に揺さぶりをかけるつもりだったかもしれませぬな」
「なんと・・・・」
「式部一家がそこまで気がついたかは別として、直後の花山帝の出家退位で紫式部の父の為時も、一家の面倒をよく見てくれた伯父の為頼まで失職。夫となる藤 原宣孝も花山帝に仕えていたので当然失職したでありましょう。また父や伯父、そして結婚してからは夫の宣孝からも斎宮の密通事件と花山帝の御出家の謀略に ついて、真相にふれた話を聞いていたでしょう」
「なぜ、兼家はそんなに花山王朝を潰したかったのか? 兼家が筆頭に実力者だったのであろうが」
「一応はそうですが、花山帝の御代においては兼家の地位は必ずしも安定してはいなかったのです」
「なぜじゃ」
「本来は義懐の父、兼家の兄伊尹が九条流を継ぎ、氏長者だったのが、伊尹の死で、次兄の兼通の後、ようやく三男の兼家がこれを握った。だが、花山帝はまだ 十八,九と若い。あのまま花山王朝が続けば、花山帝の叔父義懐が兼家より出世して、九条流本家を、摂関家の地位を取り戻されてしまう。ここはどうしても一 日も早く、花山帝を退け、自分の孫の一条帝を即位させねば、と兼家や道隆、道兼は焦ったに違いありませぬ。そんなとき、帝の神経をずたずたに引き裂くよう な伊勢斎王の野宮での密通事件という醜聞までが発覚して、動転した帝は兼家らの謀略に陥ってしまった」
「なるほど」
 雅仁は蝙蝠扇を動かすのを止めて聴き入った。
「紫式部はそこに摂関家の陰謀を嗅ぎつけ、何か書き留めておきたくなったかもしれませぬ。雅の世界を描く源氏物語の底流には皇家対藤家の確執が描かれてお りまするのはその辺りが理由かと。源氏執筆の動機はこの辺りにあったやも・・・紫式部が一条帝の中宮彰子に仕えたのは、道長は当時、まだ若輩者で一連の事 件に深く関わっていなかったからでしょうな」
「なるほど。ところで平の某というと、あのすがめの伊勢平家か」
 信西は雅仁の見当違いの質問に思わず苦笑した。いかにも廃れ皇子らしい、と。
 自分は当時の歴史をかみ砕いて話し、それを喜んで聞いてくれていると思ったが、雅仁の興味は皇位継承に絡む花山の出家経緯や、源氏物語執筆に隠された紫 式部の怨念などより、卑しい滝口の身分で天皇の孫、女王と密通した武者にあるらしかった。
「伊勢平氏は平忠盛の先祖の系統でございます。あちらの系統の顔では到底無理でございましょう。畏れ多くも高貴なる方がちぎられるほどのであれば、当時評 判の美男でなければ、まずあり得ますまい。長田流平致光さぞや業平卿ごとき、優男であったでしょうな。伊勢で勢力を張っていた長田流平氏は清盛の先祖の伊 勢平氏との勢力争いに敗れ、半島の向こうへ渡った。現在は尾張野間の辺りを根城にしている長田一族がその子孫でございます。今は、確か当主の長田忠致が源 義朝に名簿を奉呈して配下になっておる由」
「ではその尾張野間の長田忠致とやらも美形か?」
「今もそうなのか、そこまでは存じませぬ。ただ致光はよほど凛々しい武者であったのでしょう。昔から、滝口、北面、随身はまず見目麗しきが第一と申します からな」
「・・・それにしても不犯の聖女とちぎるはいかがな味かの。麿は滝口のように野宮に詰めることもできず、貴き聖女とちぎるもできず、まぁ、白拍子で我慢す るかな」
「まぁ、そういうところでございます」
「それにしても、信西の知識は底無しじゃ。寛和の斎宮の話、信西は物語を作り、語る才能までもありそうな。信西の話を聞いていたら、兼家親子が腹黒い顔を 寄せ合って花山帝を早く失脚させようと謀議している場面が浮かんできた。斎宮と致光の交情の場面もな。入道の物語る才能を今日まで知らなかったのはこの雅 仁の不覚、不覚・・・なにやら色っぽい、いい唄ができそうじゃ」
 雅仁親王はそう言って笑うと、蝙蝠扇を手にして口ずさみだした。
 もう頭は寛和の斎宮の密通事件を唄い込む今様のことしかない。

        滝口武者の好むもの
     良き弓 胡ぐひ 馬 鞍 太刀に
     野宮あたりに禊ぎする
     いとも貴なる斎宮よ・・・・・

「酔ってしまった。信西、明日伺候して、狩りの使いだったか、伊勢物語の斎宮と業平の密通の話を聞かせよ」
 雅仁はそう言い捨て、女郎花に目配せするとゆるりと立ち上がり部屋を出た雅仁は廊下を蝙蝠扇を手に口ずさみながら歩き出した。

     野宮の垣越しに
     見れども飽かぬ撫子を

 ゆらりゆらりと奥へ戻りながら雅仁は朗々と唄う。
 美声である。
 今様より和漢朗詠集を吟詠なされば、皇子の評価もあがるものを、と聞き惚れている信西に振り向きもせずに言った。
「どうじゃ、入道。そなたも一節考えてみよ。物語より易しいぞ」
 今宵もまた、寝所で白拍子でも相手に過ごすのか。最上の血筋に生まれながら、相変わらず下々好み。しょうがない皇子だ。まぁ、それでいいのだ。この愚か さが身を守り、幸運を呼び込むであろうよ。皇子は「遊芸の君」とか「即位の器に非ず」といった風聞を気にするどころか、自慢に思っているのではなかと思っ た。
 この遊芸癖、天性の遊び人が、陰謀渦巻く宮中で命を落とすこともなく皇位を手にできるやもしれぬ。
 昔、初お目見えして、妻の紀伊局に抱かれている幼い雅仁の人相を見たとき、信西は胸騒ぎにも似た感情の波だちを感じたことがあった。
 この皇子は数奇な運勢を持っていると。天命は四ノ宮であるこの皇子の上にありと。そしてそうなったら、今様だろうが田楽であろうが雅仁にはせっせと遊ん で頂く。その暁にはこの身がこの国の政を差配して理想の国家を形造っていくのだ。
 信西は我が手で育てた風狂の皇子・雅仁の後ろ姿に、明日の自分の覇権を見ていた。  



             第二章


 時間は戻る。
 大治四年(一一二九)白河法皇崩御。
 慟哭する最愛の待賢門院璋子を残して絶対権力者白河法皇はついにその長い生涯の幕を閉じた。
 当時にしては驚くほどの高齢であったにも拘わらず、白河法皇は死の前日まで頭脳にも、肉体にも死の陰は全く帯びず、突然の発病であり、あっけないほどの 死であった。
 御歳七十七歳。
 この時、幼帝崇徳はまだ十歳。その弟の雅仁親王二歳。鳥羽上皇は二十七歳の男盛り。待賢門院璋子はその美貌に微かなかげりの出始める二十九歳になってい た。
「本朝の帝王、七十余代を過ぐると雖も、つらつら思召に我ばかりの帝王は、以前には御坐さざるなり。後代には知らず」、「賀茂川の水、双六の賽、山法師、 この天下三不如意以外は全て我が心に叶う」と自ら豪語して何ら憚ることの無かったその生涯はまさに、威は四海に満ち、天下帰服し、政は叡慮(白河)より出 て、全て相門(摂政・関白)に依ることはなく、天皇在位中はもとより、「治天の君」として、堀河・鳥羽・崇徳の各天皇の四十三年間、絶大な専制君主として 院政をしいた帝王の生涯であった。
 ここに宮廷の権力構成は激変。祖父白河の死で誰憚ることもなくなった「治天の君」鳥羽上皇は白河の政策をことごとく撤廃し修正した。
 璋子一人だった後宮においてもまず前関白藤原忠実の娘泰子が四十歳という高齢で入内、間もなく皇后となった。摂関家の嫡女の入内は白河法皇を後ろ盾とし て鳥羽の後宮を支配してきた中宮璋子への抑圧に他ならなかった。
 さらに、鳥羽は傍に仕える女房たちに手を付け、召人とした女達が次々に皇子・皇女を生んだ。
 何より璋子を驚愕させたのは、召人・藤原得子への寵愛だった。璋子より十六歳下の得子は璋子ほどの美貌ではなかったが、心身ともに鳥羽にぴったり添った 女であった。
 しかも若さにあふれ、眸はほとばしる知性できらきら輝いていた。学問好きの鳥羽に仕えるのに、打てば響く学識もあった。
 親から伝領した財力があるとはいえ、たかが権中納言の娘。正式の入内もなく、鳥羽上皇に取り入るために邸宅を提供し、夜伽を勤めた女。それが召人の身で 堂々と鳥羽の後宮に入り込み、皇女を二人も産み、上皇の寵愛を一身に集め女御顔で振る舞っている。
  白河法皇の養女で崇徳天皇の国母、白河の崩御まで鳥羽上皇の唯一の后であった璋子の誇りは踏みにじられた。しかも摂関家の嫡女である泰子皇后の存在。璋子 の後宮での立場は次第に不安定なものとなっていった。
 これに母親思いの崇徳天皇は鳥羽上皇への不満をつのらせた。
  崇徳にしてみたら十歳までの満ち足りた幸福な日々が曾祖父白河法皇の死を境に一変、周囲の扱いも微妙に変化し、凋落へと歩を早め出した。
 こうした状況で崇徳のなかに鬱屈したものが熟成されていったのは間違いない。
 しかも崇徳は形勢が不利であっても、いや不利になればなるほど勇敢過激になり、ずたずたに切り裂かれても執念だけはいよいよ烈しく燃え上がる質であっ た。
 白河法皇の崩御後、あからさまに母璋子や天皇である自分を蔑ろにしている父鳥羽上皇。父鳥羽上皇の豹変ぶりに呆れている間に登場した鳥羽の寵妃得子。崇 徳は自分に仕える得子の一族の出仕を止めるなど、ことごとく冷遇した。
 この崇徳の態度が、鳥羽と得子を甚だ刺激したのはいうまでもない。
 鳥羽は自分が寵愛する得子の一族に対する崇徳のあからさまな迫害を不快に思ったが、得子は鳥羽に向かって露骨に崇徳の悪口を口にしなかった。
「帝は母后を何より大切に思っていらっしゃるのですね。上皇さまのご寵愛を頂いている私は帝にとても憎まれてしまったようでございます。私の存在が、女院 さまを苦しめていると思っていらっしゃる。帝は、お顔立ちだけでなくご気性も白河法皇さまにそっくりだと年老いた女房どもがよく申しておりまが、白河法皇 さまも愛憎の激しいお方だったと・・・。帝と同じ。私の一族への理不尽ななされよう、今度の件でよくわかりました」
 得子はただそう言って深い溜め息をついた。
 そして濃密な時間で鳥羽を堪能させた後、眸を潤ませながら鳥羽の耳朶を優しく愛撫しながら哀願するように囁いた。
「上皇さま、得子をお見捨てにならないで下さいませ。得子は心から上皇様をお慕い申し上げておりますから、帝の憎しみや酷い仕打ちも耐えます。でも、お慕 い申し上げている上皇さまに見捨てられたら、得子はこの世からかき消えてしまいます」
 絶え絶えに囁く得子の短い言葉は鳥羽の胸を締め付けた。
「見捨てる。そのようなことを朕がするものか。女というものは素直で可愛いものとだけ思っていたが、そなたは違う。初めて切ないほどに女を恋しいと思い、 心を許し、頼りにもしておる。そなたこそわが妃の内で最も皇后に相応しい。この世で一番慕わしい。必ずや璋子よりも高い身分をそなたに与え誰からも指一本 ささせぬようにいたす」
 得子は上半身をかすかに起こし鳥羽を見つめた。
「あぁ、もったいない、お優しいお言葉。うれしゅうございます。得子はなんという果報者でございましょう。上皇さまとして治天の君として、お誓い下さるの でございますね」「そうじゃ、朕は治天の君だ。もう、誰も憚ることはない。得子よ、皇子を生むのだ。さすれば、まずそなたを女御の身分に引き上げる」
「上皇様・・・」
「皇子を生め。そちを女御では終らせぬ。皇子を皇位に即け、必ずや国母として得子を皇后にする。穢れた血を承けた叔父子の崇徳を廃し、朕とそなたの血こそ がこの日の本の帝王の血筋となるのだ。穢れた叔父子の血筋は断たねばならぬ。得子、よいか、必ずや皇子を生め」
 得子は黙って頷き、ただ大粒の涙が鳥羽の顔にこぼれた。
 どのようなことがあっても、治天の君として自分は得子を護り、璋子よりも高い地位につけてやりたい、いづれ得子が皇子を生めば、いかなる手段をとっても その皇子を帝位につける、と鳥羽は気持ちを固めた。
 鳥羽もまた崇徳同様、感受性豊かな優しい純粋な男であった。崇徳の迫害をひっそりと耐えている得子が愛しい。
 亡き祖父白河法皇は孫の自分を愛してくれてはいた。しかし自分が手をつけた璋子を入内させ、あまつさえ白河の子である崇徳が生まれた。
 穢れた血を承けた叔父子である崇徳のことを思えば、白河の狂気じみた放縦な感情に振り回され、傷つけられた日々の屈折した感情が、必ず高波のように押し 寄せて来るのであった。
 鳥羽が十五歳の時、祖父白河の命で十七歳の藤原璋子は鳥羽の後宮に入内した。
 白河は璋子を養女として慈しんでおり、初めは関白忠実の嫡男忠通に嫁がせようとしたが、忠実はこれを固辞した。その結果、璋子は鳥羽の許へ入内したので ある。
 翌年璋子ははやくも中宮に冊立され、二年後、第一皇子を生んだ。
 璋子の初産に鳥羽が醒めているのに対し、璋子の里邸の産室近くに御幸した白河は、出産の一切を取り仕切り、四歳より掌中の玉のごとく慈しみ育てた養女璋 子の安産をひたすら祈り、皇子の誕生に狂喜した。
 生後二十日後には、新皇子顕仁は親王に宣下された。
 若く凛々しい天皇、美貌の中宮、二人の間に生まれた皇子、そしてこの三人を慈しみ、保護する絶対権力者の法皇。一見睦まじい天皇ご一家であった。
 だが、人々は知っていた。
 璋子が入内以降も度々、方違えや邪気を理由に里第に退下して養父の白河と同じ時を合わせて同時に滞在していたことを。
「人々秘して言はず。また問はず。何事も知らざるなり」と。
 独裁者白河法皇と鳥羽天皇の中宮璋子の不倫は、璋子の入内前から公然の秘密として、人々はことある毎に囁いていた。
 関白忠実が、絶対権力者白河の意向を無視してまで、頑なに璋子と嫡男忠実との縁談を断った原因は無論このことであった。
 公にされることはなくとも、洋の東西を問わず身分の上下を問わず、醜聞は口から口へと瞬く間に広まっていく。
 公家社会もそれは変わらない。白河や璋子の権勢に遠慮しつつ、貴族達は上品であるはずのその口元に卑猥な笑いを浮かべ、この高貴なる方々の噂を繰り返し 囁きあっていた。 二人の関係はいつしか青年天皇鳥羽の耳にも届いていた。
 純粋な若者の心はいかに傷つけられ、誇りは踏みにじられたことであろうか。男として鳥羽は祖父白河を恨み、名目上は我が子であって、事実は叔父になる顕 仁の誕生をいかに呪ったことであろうか。
 しかし、白河の庇護下にある璋子に対抗して鳥羽の後宮に入内する妃はいず、白河仕込みの洗練された技巧で鳥羽を虜にしていた璋子は憎むにはあまりにも魅 力的な女性であった。
 袴着を済ましたばかりの五歳の顕仁親王は、白河法皇の意向で皇太子となり、即日、二十一歳の鳥羽帝は譲位させられ、顕仁が即位し、幼帝崇徳が誕生した。
 鳥羽にとって、璋子を巡る祖父白河法皇との確執、ただ堪えるしか術のなかったその無念は白河の死後も鮮明で、到底忘れ去ることはできない。
 だがもう白河法皇はこの世に存在しないのだ。鳥羽は空が広くなり、宮中の空気が澄み渡ってきたと感じるようになった。
 祖父白河法皇の存命中は憚っていたが、その死後多くの女性を知ることとなり、得子という生涯の伴侶と思える女も得た。夫の自分より白河を愛していた璋子 への愛や執着は急激に薄れ、疎ましさすら感じるようになった。
  ましてや崇徳に対しては愛情を感じるどころか、生まれた時から穢れ呪わしき存在として、陰では叔父子と蔑んで呼んでいた。
 さらに白河法皇という後ろ盾を失った璋子への愛が冷めるに従い、璋子所生の我が子たちまで愛が薄らいでいった。
 
 鳥羽と崇徳の間にある避けようのない確執がいつ爆発するかわからない。
 皇室のこの葛藤を見聞するにつけ、待賢門院璋子の女房・藤原朝子と再婚した少納言藤原通憲には秘することがあった。
 朝子が璋子の四ノ宮雅仁親王の乳母となったのである。この時から、通憲は正真正銘鳥羽の子である雅仁に皇位が回ってくる可能性に賭けたのである。
 乳母の夫もまた乳父として養君から肉親と同様の絶対の信頼を受ける側近中の側近となる。万が一にも雅仁が皇位を踏むようなことになれば通憲は乳父として 雅仁王朝の全権を握れるといっても過言ではなかった。
 崇徳天皇の聡明さに比べて四ノ宮は暗愚との噂もあるが決してただの暗愚ではない。
 二ノ宮、三ノ宮が病弱なので、崇徳天皇に何かあれば雅仁親王に皇位は廻ってくる、いや、ぜひともそうしたい、と通憲は期待をこめてこの親王の成長を見 守っていた。
 それが白河法皇の崩御で治天の君となった鳥羽院の前に、思いもかけぬ寵姫藤原得子の出現。鳥羽院の思惑に危惧を感じながらも通憲は、雅仁の許へ伺候し て、皇族として素養や学問を少しづつかみ砕いて教えていた。
 保延五年(一一三九)五月、ついに得子は皇子躰仁を生んだ。そして躰仁の即位を計る鳥羽と得子は、躰仁を強引に跡継ぎの生まれていなかった崇徳天皇の養 子とした。
 これにより雅仁はまた皇位から遠ざけられた。
 さらに鳥羽は雅仁を差し置いて生後三ヶ月の躰仁親王を早くも東宮とし、十日後には東宮の生母得子は女御となり、鳥羽上皇の公に認める妃となった。
 十三歳になった雅仁は、もはや宮廷での皇位を巡る駆け引きでは全く埒外の皇子となった。しかしそれでも通憲は雅仁の教育に努めた。
 しかし雅仁は皇族としての教養である和歌や漢詩を作ったり、吟詠などいつも上の空であった。だが笛を吹いたり、琵琶を掻き鳴らすなど楽器には天分をきら めかせていた。
 母の待賢門院は箏の名手として聞こえていた。女院御所に「女房絵所」を設置して画技に優れた紀伊局や長門局が障子や扇面に絵を描き、また堀川局や兵衛局 など優れた歌人もあまた侍るなど、白河院の権力を背景に、王朝文化の最強の担い手であった。
 一方で白河法皇の感化を受け俗芸も愛し、田楽や今様の名手を下女に加えて徒然の慰みに唄わせたり、舞わせたりしていた。璋子のこうした上流貴族だからと いう概念や先入観に縛られぬ大らかな気質、才能を雅仁は受け継いでいた。
 しかも雅仁の教育係の通憲も学問だけでなく音楽の才があり、これまた無類の今様好きであった。
 雅仁が学問に飽いたときなど、気分転換に即興で今様を唄ったり、いま流行りの今様の一くさりを唄ってみることも度々であった。
 これが楽しみで雅仁は通憲の講義を嫌々ながらも細々と受けていた。こうした環境に育った雅仁が今様の虜になるのに時間はかからなかった。
 雅仁は、京で評判の女芸人を召し寄せては、今様を唄わせた。
 次には自ら唄の特訓を受け、これもまた熱心に精励し歌唱力を身につけ、暗記した今様の曲数の多さは誰にも負けないと自負するまでになった。
 今様が得意であれば身分に拘わらず、側近く召し出した。
 雅仁にとって、身分はどうあれ、今様や田楽・猿楽が得意な人々と一緒に唄い、調子を取り、手をたたき、舞っていれば幸せであった。
 厳父鳥羽の帝王観に沿った学芸、武芸の才が無いので父に愛されていないという自分の中に幼少より巣くっていた劣等感を忘れ、何も考えずに気楽に俗曲を口 ずさみ、笛を吹く、これは雅仁にとって無上の喜びであった。

 保延六年(一一四〇)三条高倉第にて雅仁元服。しかし雅仁の側近以外誰も注意を払う者などいなかった。ただ、元服の儀式において、その煩雑な進退作法を 雅仁が完璧にこなしたことは宮廷で大きな話題となった。
「あの四ノ宮があの複雑な手順を間違えずにやれるとはね。失敗ばかりではないかと思っていたが」
「四ノ宮さまはそれほど愚かでもないか」
「人間なにかは取り柄もあろうよ」
 宮廷人たちはこう話題にしたが、通憲は雅仁親王が興味のあることには抜群の記憶力や応用力を発揮することを知っていた。
 二ヶ月後、雅仁親王の元服を見届けた待賢門院璋子は出家した。
 多くの人々が伺候していた璋子の御所は白河法皇の崩御や、鳥羽上皇の寵姫得子の出現でうち捨てられたように寂しくなっていた。髪を下ろす決心をした璋子 の胸に去来するもの、それは何であったか。
 鳥羽の胸の中にはもう璋子は影も形もなかったのであろうか。璋子の出家から十日も経ずして、鳥羽は女御得子を皇后の身分に準ずる准三后とした。
 生母得子の身分を引き上げるのは得子所生の躰仁親王を即位させる布石であることは目に見えていた。
 得子の地位を確固たるものにした鳥羽上皇は鳥羽殿にて出家。当然の如く、皇后泰子も倣って出家。皇后の位が空き、得子の皇后への道が開けた。
 更に鳥羽は、生まれて一年四ヶ月も親王宣下のなかった崇徳の第一皇子重仁を親王にすることを条件に崇徳の一日も早い譲位を促した。
 重仁の親王宣下から五日後、永治元(一一四一)年十二月七日、ついに二十二歳の崇徳天皇は、自分の養子に押しつけられた三歳の異母弟躰仁へ譲位。かつて 鳥羽が祖父白河法皇によって二十一歳で強引に譲位させられ、五歳の崇徳が即位したのとよく似た状況が繰り返されたのである。
 鳥羽と崇徳は血筋的には父と息子ではなく、甥と叔父の関係であったが、皮肉なことに性格的には実の息子の雅仁より崇徳の方がはるかに鳥羽に似ていた。
 神経質で純粋で生真面目で一途。思い込んだら容易に考えを変えず、融通が利かない。似たもの同士故の息苦しさ、気まずさ。親子であって、親子でない、独 裁者の乱脈から生じた悲劇の関係の二人の宿命に、このよく似た気性がさらに輪を掛けて二人を隔て、より不穏な剣呑な空気となって黒く重く澱んでいった。
 それでも、崇徳はいづれ将来は鳥羽の後を受けて、躰仁の養父として「治天の君」の立場で院政を行い、躰仁の後は我が子重仁の即位をはかる、その日を待つ ということで譲位を決心したのであった。
 しかし、得子は崇徳への恨みを忘れていなかった。
 得子は関白藤原忠通と謀り、躰仁即位の宣命に、躰仁を崇徳の皇太子ではなく皇太弟と書かせるように、鳥羽に強く迫った。鳥羽は得子達の説得に折れ、崇徳 との暗黙の約束を反古にした。
 生まれたばかりの躰仁を皇太子につけるため無理矢理、崇徳の養子に押しつけておきながら、躰仁の即位にあたっては皇太弟に戻してしまったのである。
 皇太子から皇太弟へのすり替え。これは重大な意味を持つ。
 院政の主は「治天の君」、つまり在位の天皇の父でなければならないから、弟に譲位した崇徳上皇にはいくら待ってもその権利はない。
 「治天の君」はやはり唯一、鳥羽のみなのである。つまり崇徳は得子・藤原忠通方の謀略に陥れられたのであった。
 この謀略の事実を知ったときの崇徳の怒りと落胆はいかばかりであったろうか。
 三歳の異母弟躰仁が即位して近衛天皇となったとき、雅仁は十五歳。
 近衛の即位決定を知らされたときも、ひと言「そうで、あるか・・・」と言ったきりで、顔色一つ変えず今様を唄い続けた。万事におっとりとして、兄の崇徳 のような神経質な気難しさはなく、意志の強さもなく、もとよりきらめく学才もなかった。
  近衛の即位の二十日後、無能の人と嘲られていた権中納言藤原長実の娘得子はとうとう女御から皇后の位を極めた。

 近衛天皇の即位式や宮中の神事、諸行事がようやく一段落した頃、藤原通憲は関白藤原忠通の弟、左大臣藤原頼長に招かれた。
 摂関家の次男である頼長と少納言通憲のふたり、身分は遙かに隔たっていたが、学問上の交友があった。
 十七歳で内大臣、二十九歳で左大臣まで昇った頼長は「日本第一大学生、和漢ノ才ニ富テ」(『愚管抄』)と評されるほどの博識の人であった。が、その頼長 さえも通憲には度々指導を受けていた。
 通憲の家は代々の学者の家で、父は文章生出身の蔵人、母は信濃守の娘である。
 通憲は若い頃から故実に通じ、人相・天文・仏教・歌舞に詳しい当世無双の宏才博覧であった。にもかかわらず、官位は低く正五位下日向守、少納言どまりで ある。
 一方の頼長は関白忠実という最高貴族を父に持ちながら、母は土佐守の娘であった。
 頼長は母方の血筋が悪いために、幼い頃は父忠実にも周囲にも見向きもされずに育った。しかし頼長はへこたれなかった。摂関家の後嗣に相応しい学問を全て 身に着けると決心し、死ぬほどの思いで学問を修めた。
 生母の出自の卑しさ故、疎外されて育ったという憎しみが、父を呪うのではなく、それを越えようとして死に物狂いの勉学をしたおかげで、父親にようやく認 められ、ついには兄忠通よりも父に愛されるようになった。
 だがこうした一心不乱の努力は頼長を人間的に成長させるのでなく、生来の屈折した冷酷な性格をより強いものにした。
 つまり頼長、通憲のふたりは身分の隔たりはあっても、育ちから来る内面の共通性もあり、互いの学識を認めあう仲でもあった。
 この夜、頼長は廃れ皇子雅仁に仕える通憲が近衛幼帝の即位で出世の機会が奪われたことを嘆いているであろうと慰めるために招いたのであった。
 躰仁即位の衝撃は、切れ者頼長をも直撃していた。父の全関白忠実と自分は自他共に認める鳥羽法皇の寵臣である。
 しかし得子は、自分と仲の悪い兄の忠通をお気に入りで、事ごとに兄を重用していた。幼帝近衛の母后として得子はこれから強い発言力を持つ。そうなるとい ずれ自分はあの兄の脚下にひれ伏さねばならない。
 一方学問の友である通憲は雅仁に仕えており、このままでは通憲の官吏としての将来はない。いかに通憲に学才があろうとそれを生かすことはできないであろ うと、頼長は通憲の嘆きを思い、同情していた。
 実際、その夜通憲は頼長に告げた。
「もうこれ以上いくら学問を修めても、こんなに天運に見放されていてはもうどうしようもありません。いっそ出家して、世捨て人として余生を送ろうかと考え ております。私はもう学問は止めますが、殿下、貴方は高貴な摂関家の大切な宝、どうかこのまま私の分まで学問にお励み下さい」
 この通憲の言葉に頼長は涙ながらに信西の手を取り、ぎゅっと握った。頼長の手は生暖かく、じっとり汗ばんでいる。
  男に異常な関心を示すという頼長の性癖を聞き知っている通憲は頼長のこうした態度に嫌悪感がないでもなかったが、その手を強く握りかえした。
 通憲の容貌や雰囲気はどうやら頼長好みではなかったらしく、頼長はそれ以上、通憲の腕や躰に触れることはせず満足そうに頷いて言った。
「ようわかった。そなたとの約束を忘れずに余は生涯学問を続けよう」
 頼長は思う。
(通憲ほどの秀才でも出自が悪いと、どうあがいても少納言止まり。しかも通憲の仕える雅仁親王は近衛帝の即位で完全に未来を断たれた。俊才通憲はその才を 奮うことなく生涯を公卿に列することなく少納言でおわる。それを悲観しての出家、気の毒なことだ)と、頼長は通憲に深く同情していた。
 それに引き替え兄の忠通が懇ろにしているあの女はどういうことだと、頼長は皇后となり権勢を誇っている得子のことを苦々しく思った。
 理詰めで物事を考える頼長は正式の入内もなかった得子の全てが気に入らない。兄の忠通が得子方についているからである。
(自分は死に物狂いの勉学で摂関家の後継者に相応しい学問も身に着けた。自分こそ摂関家を嗣ぐに相応しいのに、忠通は母親の出自が良いというだけの凡庸 な、性悪男ではないか。・・・それにして何が母后だ、皇后だ。上皇ともあろうお方が野合同然で結ばれた女を後宮にいれ、それも皇后の位に即けるとは。あの 無能者として宮廷での笑われ者であった権中納言藤原長実の娘づれに大きな顔をされてはたまらない。得子の父の長実は富裕だというが、受領としてあちこちの 任地であくどいことをして貯めた財産に決まっておる。その卑しい諸大夫ふぜいの娘が、彗星の如く現れて、更衣から女御に上がったのでさえ仰天であるのに、 准后、皇后と鳥羽院の後宮を一気に頂点まで飛翔して天皇の母親、国母とはなんたることだ! 許せない! ・・・この頼長は歴とした前関白藤原忠実の息子で あるのに、ここまで来るのにどれほどの辛苦を舐めてきたことか。どうしたらあの成り上がりの得子を叩けるか!)
 まごうことなき男の嫉妬であった。

 通憲に同情して涙を流したこの嫉妬深く険呑な男は、だが、やはり摂関家の若君育ちの甘さがあった。真の苦労人の通憲からすれば頼長を扱うのになんの造作 もいらなかった。
 得子所生の躰仁の即位で確かに通憲は一時落ち込んだが、諦めてはそこで全てが終わると自分を鼓舞した。 
 冷静になって思ったことは、まず、得子方により接近することである。そしてここはひとまず
一歩でも二歩でも引いて、出家しかない。無論世捨て人になる気なんか更々無い。                
 │    │ 俺は、出家して西行などと名告って、歌と仏道修行に励んでいる、あの北面          │
の武者だった佐藤義清とは違う。この俺は、俗世を捨てて出家した方が身分に囚われず思う存分仕事が出来るのではないか、と判断で出家で世俗の縁を一度絶ち きるのだ。あのあからさまに得子を嫌い抜いている頼長とも距離をおこう。得子はなんといっても皇后だ。国母だ、あの女と争ってはなるまい。
 通憲はそう考え、頭を切り換えたのであった。
 通憲は自分の能力を信じていた。信西がこの国の政を動かさずば、誰がやれる。頼長は確かに優秀だが、頼長の知識は、理詰め過ぎる。現実を把握していな い。この信西こそ、と己を頼む思いが強かった。何としても権力の中枢に食い込んでおきたかったのである。
 そのためには主である雅仁を、鳥羽・得子の陣営に送り込まねばならなかった。
 天養元(一一四四)年、藤原通憲は出家し、信西と号し、人々は彼を信西入道と呼んだ。



                   第三章


 久安元年(一一四五)八月二十二日、三条高倉第にて待賢門院璋子逝去。四十五歳であった。四十九日の法要会が催された日に、崇徳上皇は、
「ここでは母宮の想い出が強すぎて辛いだろう」
と弟宮を心配して、雅仁に自分の住む三条西洞院第に渡るように勧めた。 
 雅仁は兄崇徳上皇の勧めを受け三条西洞院の仙洞御所へ移った。
 さすがの雅仁も崇徳の御所に移ってしばらくは今様を唄うのを遠慮していたが、半月も経つと以前のように、白拍子や傀儡子など河原者を集め、夜毎に今様三 昧に明け暮れた。 謹厳な崇徳は苦笑しながらも、雅仁が母を亡くした寂しさを忘れられるのならとこれを黙認していた。そこにあるのは、酷薄な父を持ち、慈 母を失って肩寄せ合う賢く優しい兄と十九歳になっても甘えん坊の不出来な弟という、微笑ましい、どこにでもありそうな兄弟愛であった。
 久安五年(一一四九)皇后得子に院号宣下、美福門院となった。
 幼帝近衛の帝位は盤石なものとなったが、生まれつき病弱なのが鳥羽法皇や得子皇后を悩ました。
 それでも幼帝近衛の成長につれて摂関家の家督争いが、後宮に持ち込まれる形となり、烈しい駆け引きが一日刻みで展開されるという異常事態となった。 
 久安六年(一一五〇)一月、元服したばかりの十二歳の近衛帝の許へ、藤原頼長の養女藤原多子十一歳が入内した。
 摂関家の次男、左大臣藤原頼長は妻の兄徳大寺(藤原)公能の三女を養女にし、后がねにと大切に育てた。多子は頼長の期待通り、書や絵、琵琶などに優れ、 心遣いの見事な奥ゆかしい性格と美貌の娘に育った。
 久安四年(一一四八)一月早々に従三位の宣旨を受けた多子は、一月十日、近衛天皇の後宮へ入内した。
 多子はすぐに女御の宣旨を受けた。あとは幼い二人の間に、一日も早く皇子を設けること、そして自分が外祖父になることで完結できる。
 夢に向かってまずは順調な滑り出しに頼長はほっとしていた。
 ところが、二月七日、頼長は鳥羽院の皇后であった美福門院得子の養女呈子が兄で政敵の摂政忠通の猶子として近衛天皇に入内するとの噂を聞いた。異母兄忠 通は美福門院に常々接近しており、頼長は美福門院と疎遠であった。
 二月十二日、摂政忠通は、「先例により摂政関白の娘でない女御多子は皇后とすることができない」と鳥羽院に奏上した。
 二月十三日、多子を一日も早く立后させねば政治的敗北となると焦った頼長は、父忠実も動員して、鳥羽院、美福門院に書状を奉り、女御多子を皇后にするよ うに奏請した。
 両院の返事は、何れも鳥羽院から摂政に申しつけて女御多子を皇后とするように取り計らうとのことであった。だが蔵人頭の報告によると、法皇は先例により 処理するように摂政に仰せられたが、立后については何事も仰せにならなかったという。
 二月十四日、頼長は午後から院に伺い、その後参内した。
 近衛天皇は女御の御殿で二人して遊んでいた。頼長が伺候すると、近衛帝は待っていたとばかりに声をかけた。
「左府、馬になれ! 麿が乗る」
 頼長は指貫の裾を絞って四つんばいになり、近衛帝を乗せて居間を走り回った。多子も侍女たちも声を立てて笑い悦んでいる。
 居間を数回回って、頼長はへたり込んだ。
「主上、少々休ませて下さいませ。ほらこの通り、左府の息は止まりそうでございます」「弱い馬じゃな。よし、わかった。今度は麿が馬になる。多子姫、麿の 背に乗りたまえ」
「はい!」と、多子も素直に近衛帝の小さな背中に馬乗りになっては滑り落ち、幼い二人は転げ回って笑っている。
「左府、明日も参って三人で遊ぼう。いいな。約束じゃ。必ず遊ぼう」
「御父上さま、多子もお待ちしております」
「わかりました。主上も、女御さまも乳母達の言うことをよく聞いて、明日は何か珍しい菓子も持って参りましょう」
 腺病質で暗かった近衛帝が多子の入内からすっかり明るくなり、伸び伸びとしてきた。「主上は美しく愛くるしい女御さまをいたく気に入られて、お二人は無 邪気に毎日このような遊びばかりでございます」
「殿下、主上は毎日女御さまの許へお遊びにいらっしゃいます。それはそれはお仲がよろしゅうございます。でも主上も女御様も幼すぎて、ご夫婦というより仲 の良いご兄妹でいらっしゃいます。添臥などまだまだ先のことでございましょう」
 近衛帝付きの女房はのんびりした口調で口々にこういうばかりであった。
 主上と多子、雛のような幼く愛くるしい二人をみれば、狷介といわれる頼長にも、愛おしさが溢れんばかりに充ちてきた。
 しかし、兄忠通の猶子呈子の入内の準備は着々と進んでいる様子に、頼長は焦った。
二月十六日、摂政の猶子呈子従三位に叙せられた。
 焦る頼長。
「父上から、もう一度院にお願いしていただけないでしょうか。主上はあれほど多子を気に入っておられます。そのこともどうぞ申し添えて下さい」
「美福門院さまからの書状に、本院が仰せには、立后の宣下するように手配せよと摂政太政大臣に申しつけてある、ということじゃ。まだ日程は聞いておらぬ が、ということであったから、あまりくどくど何度もお願いしては却って本院様、女院様のご機嫌を損じては畏れ多いぞ」
 忠実はこういって頼長を諫めた。だが、頼長の焦燥は募るばかり。
「父上、もし多子が女御のまま、後から入内する呈子が先に立后したら、頼長の面子は丸つぶれでございます。多子にも父親として申し訳がたちませぬ。そう なったら、私はもう世を捨て、出家するよりありません」
 可愛い息子頼長に泣き疲れ、忠実も不憫でもらい泣きしてしまい、
「そこまで思い詰めておるのか。そなたは大事なこの家の跡継ぎだ。忠通が何と言おうと、忠通の次はそなたが藤原の氏長者になるのだ。わかった。大切な氏長 者が出家しては話にならぬ。もう一度、本院様に奏上しよう。そなたは美福門院さまに奏請するがよい」 
 こうした駆け引きが繰り返され、忠実の度重なる奏上のすえ、鳥羽院は折れ、多子はまもなく皇后に冊立された。多子の立后三ヶ月後、頼長の兄、関白忠通の 養女呈子が後を追うように入内した。
 多子、呈子の姑美福門院は鳥羽上皇を巡って、多子の大叔母待賢門院と相剋の間柄であった。待賢門院亡き後も、多子の類い稀なる美貌を待賢門院に重ね、多 子を疎んじる気持ちは充分にあっただろう。
 そして更に、関白忠通と連携した美福門院にとって、多子の養父頼長は仇敵以外の何者でもなかった。
 美福門院と忠通の後押しで呈子は入内後すぐに中宮となった。
 摂関家の兄弟忠通、頼長の政権争いが、二后並立という異常事態を生んだのである。
 呈子は近衛天皇の母后美福門院の親戚の娘であり、一時女院の養女にもなっていた。だが、呈子は多子より九歳年長、しかも呈子が美貌であったという伝承は ない。
 絶世の美女で、管弦に優れ、絵筆にも長けている感性豊かな多子に対し、せめて呈子の身辺を飾ろうと考えたのか、美福門院と忠通は入内する呈子を飾り立て るのに奔走した。
 呈子に仕える雑仕女を撰ぶのも、千人もの娘たちの中から選りすぐりの美女を撰んだ。中でも第一の美女といわれた雑仕女常盤は御所出入りの源義朝ら武士達 の憧れの的となった。
 翌年仁平元(一一五一)年六月六日、里内裏であった四条洞院殿が関白忠通の直廬より出火して焼亡。
 近衛帝は母君美福門院の第である八条殿へ避難され、中宮呈子はいったん関白宿所(四条烏丸)に移られ、改めて八条殿に行啓され、天皇と同宿された。
 多子皇后は一人、実家の大炊御門殿に遷った。
 七月五日天皇と中宮呈子は小六条殿へ移られた。
 ところが十月十八日に小六条殿も再び放火ととみられる火災により炎上。結局、忠通の自邸近衛殿が天皇と中宮の御所となった。
 あれほどに兄妹のように仲睦まじかった近衛帝と皇后多子は引き離され、中宮呈子が天皇を独占することとなった。
 公家達は顔を合わすと声をひそめて囁きあった。
「忠通さまは、とうとう主上をご自分の御殿に取り込んでしまわれた。これは美福門院さまと関白忠通さまの陰謀よ。皇后宮多子さまは中宮呈子さまよりうんと お若く、しかも天下一の美女。主上と多子さまはとても睦まじいというのに。その多子さまから主上を引き離す魂胆であろう。ひょっとしたら、御所が続けて焼 けたのも・・・・」
「さもありなん。関白さまの直廬(宮中での控えの間)から出火したというが、出火でなく、放火であろうともっぱらの噂じゃ。あちこち移られて結局、忠通さ まの近衛殿が里内裏になってしまって、天皇さま、中宮さまの御所だ。皇后さまは弾かれてしまったわけじゃ。穏やかな物静かなご様子をしていらっしゃるが、 あれでなかなか忠通さまならやりかねない」
「そうございまするな。崇徳さま御譲位の折、宣命に躰仁さまを皇太子と書くところを皇太弟と書かせたのは、美福門院さまと忠通さまという話を父から聞きま した」
 崇徳天皇譲位の際の忠通や美福門院の謀略を心ある公家達は怒っていた。
「ところで、あの兄弟、どっちが勝であろうか。どちらも利がありそうな・・・」
 貴族達にとっても、忠通、頼長のどちらが、最終的に藤原氏の氏長者になるか、自分たちの出世栄達も掛かっている。
「先に皇子を生んだ方が勝ち決まっておる。呈子姫は二十もとっくに過ぎておられるからご寵愛はともかく、立派に一人前の女だ。身籠もるのは早いであろう よ」
「確かに多子姫はまだ幼い上に、主上から引き離されておるから逢うこともままならぬ。たいそうお仲がよかったというのにお気の毒なことじゃ。多子姫が入内 されてから、生き生きしていらしたと側近が喜んでいたのに、帝も元気をすっかり無くしていらっしゃるそうじゃ」
「これは左大臣頼長さまの負けだな。だいたいあの左大臣は当代一の博識ではあっても狷介過ぎて・・・頼長さまに近づいて宮廷を牛耳ろうとした徳大寺家の見 込み違いであったかも。親の権力欲から后がねとして左大臣家に養女に出された多子姫は美しいが故の徳大寺家の犠牲だな」
「まことに、徳大寺家は代々同じような手をつかって権勢を守ってきたからな。多子姫の大叔母、待賢門院さまも元はといえば、白河法皇さまの養女になったば かりに数奇な運命、崇徳上皇様の悲劇を生むことになった。あれほどの栄華をほこっても美福門院さまに権勢の全てを奪われ、崇徳さまは不本意な譲位をさせら れ、お寂しい晩年であられたな。多子姫のあの美貌は、待賢門院さまに生き写しとか、あまりにお綺麗すぎて不吉ではないか」
「たしかに陰のある寂しい美しさだな」
 宮中での噂が聞こえて来ないはずはなかったが、多子の祖父や父、徳大寺家は次第に頼長と距離を取るようになり、逆に美福門院や忠通へ近づいていった。

 皇室が皇后得子と崇徳の確執で揺れていたが、いまだ崇徳は心の片隅で治天の君としての父鳥羽法皇の判断を信じていた。
 鳥羽は得子に溺れ、躰仁を即位させたが、躰仁の後は自分の重祚か、我が子重仁親王の即位で皇位奪回の好機がやってくると希望を捨てずにいた。
 だが、この仙洞御所に同殿して十年、兄崇徳上皇の内面を傍らで見聞きするにつけ、雅仁はそんな崇徳を「皇位に拘るにしては、判断が甘すぎる」と突き放し て見るようになっていた。
 天皇となるべくして生まれ育ち即位した崇徳と異なり、同じ待賢門院の血を分ける兄弟ながら、雅仁はあくまで不測の事態の場合の予備の皇子であり、不測の 事態が生じなければ生涯無用の存在として育った。しかも雅仁が物心ついた時には待賢門院とその所生の皇子たちの庇護者であった白河法皇はいなかった。
 幼いときから父鳥羽と母待賢門院の間に流れる冷ややかな空気を肌で感じ、父と兄との間にも違和感を感じ、希望の見えない父と兄の関係への不安を予感して いた。
 だが雅仁は冷たい父も美しい母も優しい兄も、心から愛し、愛おしかった。
 あの三人は非常に崩れやすい、危険な均衡の上にあった。それがどれだけ幼い自分を不安にさせたか。
 母が亡くなった今、これから父と兄の関係がどうなるか・・・そこに希望は全くない・・・もう深く考えるのは止めよう。考えれば考えるだけ傷つく。
 いつの間にか、雅仁は自己防衛本能として肉親の情に囚われまいとする性癖もついた。(考えまい、拘るまい。川の流れに任せよう)雅仁は自分に強く言い聞 かせた。
 いつしか雅仁はおっとりした性格に見えながら、常に周囲の状況に気を配って誰にも心を許さないという異常な用心深さを身につけていた。
 もちろん生来の遊興好き、放蕩には違いはないが、風狂の君という評判すら皇位に対する野望の微塵もないことを生活態度で示す鳥羽と得子側への気配りでも あった。兄のように父や、殊に得子皇后を恨んでは身を滅ぼすと直感していた。
 雅仁も曾孫として白河法皇の血を受け継ぎ、胸の奥深くには兄の崇徳に負けぬ高い強い矜持を秘めていた。
 宮廷で廃れ皇子と人々が無視すればするほど、屈折した誇りは強くなっていった。しかも、宮廷の噂に依れば、兄崇徳は父の子ではなく曾祖父白河法皇の子だ という。ならば、自分こそは父鳥羽の後継者として第一の立場にあるという思いもあった。
 その反面宮廷の権力から疎外された情勢のもとで育った雅仁親王は、猜疑心も強く、周囲の気配を敏感に感じ取る性格であり、生まれたときから帝王として育 てられた崇徳のように不用意に自分の内面を出すことはなかった。
 雅仁が伝統的な詩歌管弦を最高の遊びとし学問に精進することを最高の美徳とする宮廷生活や公家社会の価値観に対して多分に拗ね、左道、物狂いなどと言わ れる遊興三昧の日々を送るようになったのは、雅仁を育んだ環境が素因にあったかもしれない。
 初めは疎外された境遇から来る反発であったのが、長じるほどに雅仁の芸能への情熱は尋常一様のものではなくなり、宮廷人の常識を全く逸脱した遊芸の皇子 は「今様狂い」との評判が立つほど、この庶民の芸能である今様や催馬楽・田楽・猿楽に傾斜していった。
 自分の中にある野心を覆い隠すための方便であったはずの物狂いが、天性の芸術愛好家雅仁にとって煩わしさや不安を断ち切ってくれる癒しとなり、勇気と気 力を与えてくれる根源であり、肉親よりも大切な無くてはならぬものになっていた。
 当時の伝統的な帝王観は、皇位継承の資格のある皇子はすべて、学問に優れ、また臣下を畏服させる毅然たる強さを持つことが理想であった。
 しかるに遊芸に明け暮れる雅仁の日常はまさしくその逆の「文にも非ず、武にも非ず」であった。
 それは理想主義者鳥羽が求める「即位の器量」からは遠く離れおり、遊び方が目に余る派手な道楽者、天皇の器ではないと切り捨てられ、皇位から全く遠い位 置におかれていた。
 
 その日も信西は崇徳上皇の御所の部屋住みである雅仁の許を訪れていた。
「新院さまのご機嫌はいかがでございますか」
「うん、兄君はご機嫌がよろしいな。それより帝のご病状はいかがだ」
 雅仁は何気なく、さらりと近衛帝の健康状態を尋ねた。
 ここは近衛帝に敵対する崇徳上皇の御所である。雅仁は崇徳の同母弟であるから当然近衛帝には反目しているはずであったが、雅仁の側近である信西は出家と いう立場で自由に行動し、鳥羽法皇への伺候も怠らず、また近衛帝の母得子皇后にも常から気脈を通じていた。
 雅仁も信西や紀伊局の助言で崇徳方の機嫌を損じないように気を使いつつ、得子のへの心配りは怠らなかった。
「このところご気分もよろしいらしく、母后美福門院さまも喜んでおいでです。さぁ、雅仁さま、きょうも本朝の歴史の中から少しお話いたしましょう」
 信西は、雅仁の気が散って学問の邪魔になるからと侍女達を下がらせ、紀伊局だけが近くに侍っていた。この日も信西の話は奈良朝末期の政権交代劇であっ た。
「我が一族は今は下級貴族に落ちぶれましたが、先祖を遡れば不比等の嫡男武智麿に行き着きます。我が先祖とは義理の兄弟にあの有名な藤原仲麻呂がおりま す。前にお話しいたしました、一度は天下を手中にした南家の・・・」
「ああ、聞いた。藤原仲麻呂の失脚の話はこの前聞いた」
「きょうはその続きをお話し申し上げます」  
 信西は、歴史嫌いの雅仁に噛んで含めるように奈良末期の政変劇を説明し、話をさらに続けた。信西の話は奈良朝末期の皇位継承に纏わる策謀であった。
 独身の孝謙女帝が即位した時から後継者をめぐって宮廷は疑心と暗躍が渦巻き、それと目された皇位継承権のある皇子は次々に抹殺され、追放されていった。
 この皇位継承資格者の中に、天智天皇の孫白壁王という人物がいた。天智系の白壁王は「深ク横禍ノ時ヲ顧ミテ、或ハ酒ヲ縦ニシテ跡ヲ晦マス」と、逼塞し、 酒に溺れる廃れ王で、若い頃から政治や宮廷内の諸々の権力争いに全く興味を示さなかった。このため白壁王はあらぬ嫌疑を受け抹殺されることも、追放される こともなく宮廷の片隅で息をしていた。
 重祚して称徳天皇となった女帝の晩年、あの有名な宇佐八幡の神託事件が起こり、女帝のお気に入りの道鏡の即位は藤原氏や和気清麻呂によって阻止され、女 帝は失意の中、後嗣を決めずに崩御した。
 いざ新帝を決める段になってこの廃れ王が突然浮上。意外な候補者に後継者指名会議に出席した面々は驚いたが、白壁王は即位し光仁天皇となった。
 退屈そうな雅仁を相手に信西は根気よく語った。
「正史を編纂しておりますと、書き残された歴史ではなく書かれなかった歴史を行間から感じます。道鏡は妖僧などと言われておりますが、私にはどうも得心が いきません」
「得心がいかぬとは」
「もともと称徳女帝も道鏡も清濁併せのむ政治家には向かなかった。二人はあまりに純粋で世間知らずであった。あの時代は道鏡を弓削皇子の庶子とか、道鏡が 八尾の出であることから志貴皇子の庶子ではないかとかいろいろ噂がまことしやかに囁かれておりましたようで・・・・道鏡を天皇に即けよ、という宇佐八幡御 神託事件は称徳女帝と道鏡を一挙に潰すための、藤原百川らの策謀ではなかったか、と思われます。そもそも後継者問題に悩んでおられた女帝の心には、宇佐八 幡の御神託が下ったことで、天にも昇る気分になったのでございましょう。そして道鏡を即位させることで仏教国としてのこの国の形を考えていたのではないか と思うのです」
「この国の形とな・・・・仏教国か」
 雅仁は退屈そうに相槌を打った。
「女帝は聖武天皇光明皇后の影響で、仏教に深く帰依していらっしゃった。女帝は歴史上、皇族でもない一介の僧、道鏡を皇位に即けようとしたとんでもない天 皇と言うことで、事ごとに女帝の時代を抹殺しようとしております。大仏開眼供養は女帝の在位中のことでああるし、東大寺に対して西大寺の建立も女帝時代。 万葉集の編纂も女帝の助力無しではありえなかったのではと思いますが、爪の垢ほども書かれてはおりません」
「万葉集は大伴家持が手がけ光仁帝か、桓武帝の頃に完成したのではなかったか」
「あれだけの国家事業。大伴家持一人では始められなかったと思います。やはり天皇の裁可や助力があったればこそ・・・藤原仲麻呂にしても身びいきで言うの ではありませぬが、有能な大政治家だったのに、唐にかぶれた傲慢な反逆者の烙印が押されてます。この烙印は仲麻呂の内乱を制した称徳女帝が押したものでご ざいますが・・・歴史は常に勝者が記録する、雅仁さま、これを忘れてはなりませぬぞ」
「歴史は、勝者が記録するとな」
「はい、・・・こんなことで、女帝の願望を潰すところまでは藤原氏は一丸となって事を運んだ、だが、その後誰を皇位につけ、傀儡にするかで内部紛争があっ た。ここに、誰からも見向きもされず、警戒もされていなかった白壁王が登場する。王の妻が聖武帝の娘で称徳女帝の異母妹井上内親王だという強い理由を掲げ てね。この政変劇の影の演出者は光明皇后の甥・藤原良継と百川です・・・早く父を亡くした彼らは他の従兄弟達と較べて不遇だったため、称徳崩御の日を待っ て早くから水面下で手を打っていたのです。百川は称徳女帝が崩御した途端、政権争いの表舞台に躍り出て、兄の良継や従兄弟の永手らと謀って、女帝の遺言を 偽造して、吉備真備らの反対派を抑えて鮮やかに事を運んだのでございます」
「そうか・・・」
「しかも白壁王が即位して光仁天皇となり三年後には、井上皇后とその子他戸皇太子を廃して、渡来系の血を引く山部皇子を皇太子とした。これが桓武帝です」
「桓武帝の即位も、生々しさがつきまとっておるな・・・・」
「御意。こうして歴史をなぞっていくと、彼らの権謀の水際だった冴えに衝撃をうけます。称徳の後継者選びにことよせて帝位を壬申の乱以来の天武系から天智 系にひっくり返してしまった・・・さらに自分たちの行為を正当化するために、称徳帝は淫乱な女帝で、道鏡は稀代の悪僧、と二人を徹底的に貶める世評を作り 出していく・・・政治とはこういうものかと、改めて心を揺すぶられますぞ。さらに、皇子様、皇位は万世一系とは申せ、意外なお方が継ぐのもこの世の習い。 白壁王しかり、桓武帝しかり、その後も嫡男の平城天皇はすぐに譲位し、弟の嵯峨天皇が薬子の乱で平城天皇の系統を潰し、ご自分の系統がお継ぎになってい る。現に今上も末っ子でございます」
「・・・・」
「雅仁さま、よろしいか。これだけは忘れてはなりませぬぞ。運命は常に変化するものでございます。ですから時勢を見極め、時代の流れを掴まねばなりませ ぬ。慎重であって、ここぞというときは、冷徹果敢でなければなりませぬ。・・・まぁ、時が時、これぐらいでややこしいお話は止めておきましょう」
「うん。あまり難しい政治向きの話より淫乱な話しの方が余の好みだ」
 信西の目は「全て皇子のいいように謀るからまかせて下さい」と言っている。 
 信西の話が一段落した頃を見計らって、紀伊局が侍女に白湯を運ばせてきた。
 信西は紀伊局に目配せしをした。皇子にじっくりお説教でもしたいのであろうと心得た紀伊局は信西にうなずき、雅仁に深々と頭を下げて言った。
「しばらく下がっております。ご用がございましたら、鈴を振ってお呼び下さいませ」
 白湯を口に含みながら、わかっておる、というように、信西とも紀伊局ともどちらともなくかすかに頷いた雅仁は、所在なげに、膝の横に投げ出してあった蝙 蝠扇を取った。
 そしてこれで調子をとりながら今様を口ずんだりするが、それでいて信西の話を聞いてはいる。
 歴史に通じた信西は、故事を紐解きながら雅仁に帝王教育ならぬ野望教育をしていた。 雅仁の目に、口元の微かな表情にその成果が少しずつ顕れてきた。
 自覚が出来たのだ。この廃れ皇子が、やっと帝位を狙いだした。大それた野望を持てるようになった、と信西は自分の教育の成果に満足げに頷く。
 雅仁は信西が毎日のように伺候して教育しようとしているものの実体を掴みはじめていた。それを信西は手応えとして感じる。そばに控える妻の紀伊局も気の つかぬ事だった。雅仁と信西は改めて急激に引き合った。
 白壁王と百川がそうであったように、雅仁と信西はこうして互いの野望を確認した。
 信西も近衛帝が即位してからは学問、帝王学などとうるさく言う回数が減った。ただしせめて正史だけは皇族として生まれたのだから修めねばならぬと説い た。
 信西がうるさく言うには訳がないでもない。ちょうど六国史に継ぐ国史として『本朝世紀』を編纂していたのだった。だからよけいに、折々につけその歴史を 雅仁親王にひもといていた。
 雅仁は紀伊局が運んできた菓子を摘んで、白湯を口に含んだ。 
「上手い。信西も食べよ。道鏡はよほど美僧であったか。それとも・・・僧もなかなかと、いつぞやの雨夜に、『源氏物語』の真似をして頼長と三人で女の品定 をやった折り、頼長が若い僧の中には、と妖しげな嫌らしい目つきで申しておったではないか」
「あれは、それ、なんでございまするな。左府さまの両刀使いの趣味も呆れたもので。あのお方を拝するに高い知性と人間の品性は一致するというものでもない という例のようなお方でございますな」
 信西の頼長評に、雅仁は大声をたてて笑った。
「頼長は知性と品性の不一致か。信西も頼長と親しくしている割には手厳しい。口が悪いぞ・・・麿など、頼長に陰で、無知無学の廃れ皇子、痴性と品性の見事 なる合致と言われておるぞ・・・それにしても僧はどんな味か知らないが僧は好まぬ。麿はやはり色っぽい白拍子がよい」
「まぁ、そういうところですな。せいぜい、世間の評判通り、お遊び召され」
「世を捨てたはずの出家。そう言えば、そちも白拍子とはかなり遊んだと、紀伊が申しておったぞ」
「これは参りましたな。皇子様が、朝子と組んでは困りまする」
信西はいつになく大きな声で笑った。
「白拍子の、水干・烏帽子、佩刀、あの男装は、そちの考えであったと聞いたが真か」
「恥ずかしながら、まことでございまする。若い頃の話で、贔屓の白拍子、黒と申す者に、なにか人目を惹きつける方法はないかと頼まれまして・・・」
「さすが、そちは左大臣の頼長とはまた違う意味の両刀遣いじゃ。聖と俗、軟と硬を使い分ける、本朝第一の博覧強記で諸芸通達、信西もまた両刀遣い ぞ・・・ぅふふ、これだから麿は信西が好きじゃ。良き乳父を持って余は果報者じゃ。・・・だが、紀伊ならば、白拍子を召したと知れば機嫌が悪くなるぞ。 『皇子様、この前あれほどご注意申し上げたのに、またもや白拍子ふぜいを新院さまのお住まいであるこの仙洞御所にまでお召しになったとは。御父本院さまの お耳に入ったら如何なされまするか』と、それこそ柳眉を逆立ててな」
 雅仁は今様で鍛えた声で器用に朝子の声色を真似る。
 信西は思わず吹き出した。
「いやはや、しようのない皇子さまじゃ。それにしても紀伊にそっくり。皇子に声色の才能があるとは、この入道今の今まで知らずにおりました。雅仁さまから は何が飛び出すやら、不覚、不覚」
 信西は珍しく大きく口を開いて笑った。
「で、言ってやった。どうせ、父上皇様は、天皇の器ではないと、麿を蔑んでいらっしゃる。今更、少し真面目に勉学しようが、白拍子を招こうがお気持ちは変 わるまい。もし麿が突然、麿も皇位継承者の資格がありますとばかりに文や武に励みだしたら、近衛帝の健康に一喜一憂されていらっしゃる皇后さまを刺激する だけだ、とね」
「で、紀伊めはなんと申しましたか」
「絶句しただけだ」
 雅仁と信西は互いに見合って頷きながら笑った。雅仁は夏木立を抜ける薫風のような笑い声をあげた。
「さて、遊君のご機嫌でも伺うことにするか。信西、明日も夕刻に伺候せよ。その時、こんどこそ業平の恋の遍歴をゆっくり聞こう」
  
     野宮の 垣越しに
     見れども飽かぬ撫子を
     恋しくは 疾う疾うおはせ
     我が宿は 嵯峨野なる野宮 神垣の内・・・・

 例のごとく雅仁はゆらりゆらりと謡いながら寝所へと去っていく。今宵の夜伽は白拍子か・・・傀儡の女か・・・相変わらず下々好みの皇子である。だが、そ の本性の中に隠されているものは・・・・
「皇子よ、もうちょっとでござるよ。皇子が白壁王になり、この身が藤原百川や良継になる・・・・いや、皇子が花山帝となり、この身は惟成となり、・・・わ が皇子ならば、花山帝のように順ではないから、長期に在位なさることであろうよ・・・・・
・・・野宮の 垣越しに 見れども飽かぬ斎王を・・・」
 帰途、牛車に揺られながら信西もまた今様を口ずさんでいた。



            第四章              


 久寿二年(一一五五)初夏、雅仁の異母弟にあたる近衛天皇が危篤との激震が走った時も、雅仁は遊芸人を集めて酒食を振る舞い、今様を唄っていた。
 信西は雅仁のもとへ伺候して報告した。
「先ほどのあれは誤報で、帝のご病状いまは小康を保たれていらっしゃるそうです」
 「それはよかった、 なによりである」
 と頷いた雅仁は三日三晩続けての宴で、声が嗄れている。
「小康を保たれているとはいえ帝のご病状悪化の今、皇子様、お遊びが過ぎますぞ」
 雅仁に苦言を呈する信西の目は一瞬笑った。その眸をしっかり雅仁の目も捉えている。そして信西のその眸は言っている。
「これでよいのです。このような時であるからこそ、今は下々の者たちを集めて今様でも謡って、力を抜いておくべき。今こそ好機と帝位を手に入れようとあれ これ、策をめぐらしても、帝位は遠のくばかり。気持を剥きだしにしてはなりませぬ。こちらが退けば、帝位は向こうから倒れ込んでまいりましょう」
「わかっておる」と言うように、雅仁はゆっくり頷く。
 暗愚な遊び人の雅仁がいつしか政治の妙諦を心得ていた。戦いは押すばかりでなく、時にはふっと力を抜いて、突っ張っている相手をこちらに倒れ込ませるこ との必要性をわかっているようだ。
 信西は初めは自分の教育の成果と思っていたが、これは雅仁の天性のものかもしれないと思い、一瞬背筋が寒くなった。
 そう思って思わず雅仁を視ると、おっとりと構え、今様のことでも考えているのか、上の空の目つきをしている。
 いや、やはりこれは我が教育の成果。あの廃れ皇子がここまで成長できたのは、この信西の教育の成果だ。だが、皇子は誰かに似ている。誰か。同じく璋子を 母に持つ、崇徳上皇か。否。信西は首を大きく振った。
 新院崇徳ではない。崇徳は今頃、いよいよ帝位が戻ってくると新しい政権の為に側近と相談していることであろう。
 生まれたその瞬間から皇位を約束されて育った高い矜持の持ち主である崇徳。
 生真面目で清冽、高貴なるものばかりを好み、物事を真っ直ぐに見、周囲へ目配りしたり妥協が出来ない。
 あまりに純粋で、世間知らずで無防備。しかも崇徳は形勢が不利であっても、いや、不利になればなるほど、勇敢過激になり、ずたずたに切り裂かれても執念 だけはいよいよ烈しく燃え上がる質だ。
 同じ待賢門院から生まれた兄弟ながら、雅仁は何の確執も無いように今様や田楽を好み、下々の者達も自由に出入りさせている。崇徳には考えられない下々と のつき合いであった。
 雅仁の住まいする御所には 遊び人の公卿は無論、端者や遊女や傀儡子といった雑多な人々が身分の上下無く集まり、遊芸を仲立ちとして入り交ざり、付き 合っていた。
 この中で雅仁は人の心の建前、本音を知った。その必要を雅仁に教えたのは信西であった。
「貴族も下々の者も裸にすれば何も変わらぬもの。貴族は良い着物を着て、美味い物を食べ丁寧な言葉遣いをする。下々は襤褸をまとい粗食に耐え、言葉も行動 も気取りがなく、全てが露骨。だが、貴族も端者も生きるために悪事もやればそれに加担もいたします。どちらも女に恋し人の情には泣くでしょう。それだけの 差に過ぎないのです。皇子さま、しっかりと眼を見開いて視、耳の穴を大きく明けて人々の声をお聞きになり、人間の飾らぬ本性をその手でしっかり掴むので す」
「遊芸、雑芸というものは人の心の臓まで、ぐぐっとわしづかみにする興奮を人々に与えます。これは帝王の楽である琵琶などでは適わぬこと。民草が憧れ、狂 うもの何か。何が人々を興奮させるか、惹きつけて止まないか、人心掌握の妙諦がそこにありますぞ」
 繰り返し諭した信西。
 いつしか雅仁は陰謀渦巻く宮中の人脈のなかを、時には指導者である信西が舌を巻くほど上手く泳いでいく術を身につけつつあった。
 信西は雅仁の前を下がる時、その耳元で囁いた。
「先日の本朝世紀の寛和の斎宮の話。あれを絵巻物に出来ないかと仰せでしたね」
「うん。源氏物語異説絵巻とでも題して、源氏物語が生まれる前の、紫式部に影響を与えた皇位争いの話などを絵巻にしたら面白いであろうかと」
「それはなりません。こんな時期に皇位継承の争いが絡んだ話などを絵巻にしていると美福門院様に知られたら、それこそとんでもない誤解を受けかねません」
「そうだな。わかった、絵巻作りなど止めよう」
「絵巻をお作りになるのはよろしいのです。ただし、政治は絡まないほうがよろしい。ここはいっそ、偃息図の絵巻を作ればよろしい」
「おそくず? なんだそれは」
「偃息図をご存じないのか。これは信西の教育が足りませんでしたな。偃息図とは枕絵のことでございます。入内の折りなど持参される后もいるとか。寝所での 指南役代わりのものですな。」
「枕絵か、だが、そのような、枕絵の絵巻を創れと申すか、それで出家か、信西は」
 信西の囁きに雅仁は思わず周囲を見まわした。
 遊君や傀儡子たちは雅仁と信西の話に注意を払うゆとりもなく、せいぜい信西が皇子に苦言を呈しているのであろうと、自分たちは日頃口にできない美酒を飲 み、馳走をむさぼるのに夢中であった。
「近衛天皇の病状が悪化している今、不謹慎ではないかな。危篤の誤報まで走るような時に、信西ともあろうものが、そんな事を余に勧めるとは」
「本当に危篤ならば無論、御本復のために寺社に詣ったり御平癒の為の勤行や写経などしなければなりませんが、いまは御小康を保って皇后様もほっとなさって いる。今こそ危ないのです。以前にも申し上げた奈良時代末期の皇位継承に纏わる宮廷の駆け引き、今こそあの故事を見習う時でございます。白壁王が酒乱のふ りをして難を逃れたのと同じでございます」
 信西は声を低めてあの話をもう一度噛んで含めるように話した。
「よろしいか、皇后さまが皇位継承権利者に対して疑心暗鬼になっている今こそ、皇子さまは偃息図の絵巻などを描くことに夢中になっているとよろしい」
「えっ! ほんとうによいのか」
「はい、新院さまと同じ御所に住んでいるからには慎重の上にも慎重に振る舞わねばなりません。今、新院さまのように側近を集めて談合などしていたら、近衛 帝の崩御を待って、政権を得ようとしているなどと皇后さまの神経を逆なですることになりかねません。また新院様の集まりに招かれても困ります。風狂の愚 弟、到底相談相手にならぬと新院様の側近たちに馬鹿にされているのが御身の為です。皇子がこういう物に夢中になっていると知れれば、皇后さまは安心であろ うよ。そして新院派からも暗愚な皇子様を仲間に入れようとの誘いはありますまい。皇子さま、絵の構図も詞書きも、ご自分で考えになるとよろしい。早速取り かかられるとよろしい。我が妻、朝子に相談なされ」
「紀伊にか? そんな枕絵の絵巻などを作ると言ったら怒られるに決まっておるではないか」
「皇子、お忘れか。紀伊は絵の名手でございますぞ。白河法皇や待賢門院さまの許で、源氏物語絵巻の制作にも参加したほどの、名手でございます。絵のことは 紀伊に相談なされ」
「そうじゃ、そうじゃ。だが、源氏絵巻のような品の良いものならば紀伊に助けてもらえるが・・・いくらなんでも枕絵のことは、のう、紀伊がまた怒るぞ」
「大丈夫でございます。拙僧から紀伊には話しておきます。それに出入りの河原者の中に偃息図に長けた者がかならずおりますよ」
「信西、ようわかった。喜んで愚かな皇子を演ずるぞ。地でやればいいのだからな」
 雅仁は双眸を輝かせた。
 この瞬間、雅仁は皇位などどうでもよかった。この時期に皇后に疑われ変な難癖をつけられ命を奪われてはどうにもならない。それを避けるために、信西は偃 息図の絵巻を作れという。なんという楽しい宿題であろうか。
「ただし秘かになさること。ひそかにやっても、皇子様が愚かな遊びに飽いて今度は偃息図の絵巻の詞書に夢中というよからぬ噂はすぐに広まります。そこが狙 いですぞ」
 そう言って信西は下がって行った。

 この日から雅仁は絵巻づくりに夢中になった。
 そこには野望を隠そうとか、美福門院に媚びるとか、崇徳側と思われるのを避けようという信西の目的など吹き飛んで、ただひたすら偃息図絵巻の創作にのめ り込んだのである。
 雅仁という人間は、ひとたび自分が興味を持ったことには、一種の天才的な異様な集中力を出した。
 このところ少々世渡りの術を身につけ、狡ささえも具えてきたこの皇子が、何かに夢中になると計算尽くで始めたことも忘れ、俗も欲得もない。今様ならばひ たすら今様の神髄を究めようとし、偃息図ならばより完成度の高い偃息図を創りあげようとする。
 今様好きの雅仁にとって、偃息図の詞書を考え、絵の構成を考えるのは楽しい作業であった。
 端者や遊女傀儡子などそちらにかけては海千山千の連中が雅仁の周りにはいくらでもいた。
 雅仁は済子を源氏物語の夕顔のように描こうと思った。
 亡き母待賢門院璋子の姿が浮かぶ。母は女院という身分高い方であり亡き白河法皇の養女にして、父鳥羽の中宮であった方。その美貌のように華やかで賑やか なことがお好きだった。何よりそこにいらっしゃるだけでふわっとした気配を運んでくれ、こちらの気がくつろげるお方だった。
 お若い頃はずいぶんと浮き名も流されたという。曾祖父の白河法皇との噂は由々しきことだが、なんとなくそれは事実であろうと確信できる、底知れぬやわや わとした雰囲気が母宮にはあった。
 あれはなんと表現したらいいのだろうか。実態のない色香、あわい、とでもいうのか、つかもうとするとするりと抜けて、だがまたふわりとこちらを包んでい る。
  男はあの実態のない母宮に身も心も捕まれてしまったのか。
 尊大な白河法皇が璋子には甘く、幼児の頃はいつも法皇の懐に抱き、少女になると何処にでも連れ歩き、奔放にお育てしたという。
 周囲に璋子に言い寄る若い公家がいても法皇は平気でいらした、というより崇拝者に囲まれて一段と艶やかになる璋子の姿を見て楽しんでいらしたというべき か。
 法皇は璋子の居間に面した庭に、不釣り合いな下々の屋敷にあるような夕顔の花の垣根を拵えさせた事があったそうな。
 夕顔の花が咲くと、わざわざその垣根から璋子を訪れたり、璋子も、香を焚き込めた扇に今様など洒落た詞や歌を書き付け、これに夕顔の花を一輪手折って法 皇の許へ届けて楽しんでいたとか。母宮は夕顔を演じ、法皇は若き日の源氏になぞらえていたのか。
 ある夏には、篝火を焚いて璋子の弾く箏を賞した後、箏を枕に法皇と璋子は臥したこともあったという。まるで法皇が中年の光源氏で、母宮は源氏が養女とし て引き取った玉鬘か。
 ある夜は、璋子の賛美者達を招き管弦の会を催し、日が落ちて来ると遣り水の庭に面した部屋に席を移した。灯りを消した部屋に突然何百という蛍が放たれ た。するとその光りの中に几帳の影にいた璋子が浮かび上がり、それはそれは幻想的だったとか。
 法皇は若い公達の璋子への恋心をかき立て楽しんでいらしたのだろう。
 そしてまた法皇はご自分を光源氏になぞらえて、母宮を様々な女君になぞらえて遊んでいらしたのだ。
 そんなふたりに何もなかったとはとうてい信じられない。やはり世間の噂は真実をついている、と雅仁は思うのだった。
 済子姫は母宮のように描かせよう。
 雅仁の中で、母待賢門院璋子と源氏物語の中の夕顔の君と、斎宮済子女王が重なっていった。
 絵巻を一巻巻き上げようと思うと、もう朝から晩までそのことしかなかった。
 朝目覚めると雅仁は、もうあの絵巻のことである。
 侍女達が角盥を運び込み顔洗をする間も、顔から水を滴らせながら、侍女に顔を拭かせながら、平致光と斎宮済子の初めての出逢いの場面を考える。
「滝口の武者、侍というものは王侯貴族の庭先に侍る番犬だ。斎宮という聖なる身でその番犬に身を任すような姫は、出来るだけ淫猥で堕落した女に描こう」
 朝餉をとる間も、箸を運ぶのを忘れる。物を噛み下すことを忘れる。もはや息をすることも忘れるのではないかと侍女達が呆れるほどであった。
 そして雅仁は珍しく、二十日ばかり白拍子や傀儡子も遊女も召さず、居間に閉じこもって、文台の前に座っていた。何やら憑かれたように書き留めている。筆 を持ちながら、時折独り言を言っている。
                                                                                         
 │    │  ふ〜ん。もともと万事に趣き深い済子女王さまは、潔斎の場である野宮も          │
華やかに趣向を凝らしてお住まいになり、風流な殿上人たちは、我がちに嵯峨野詣でをして・・・という書き出しにいたそうか・・・秋の嵯峨野の情趣。ある非 番の夕刻、致光は
咲き乱れる秋草を掻き分け、踏み分け現れる。すだく虫の音。松風。御殿の奥から絶え絶えに聞こえる箏の音。月の光に照らされる小柴垣で囲った野宮。黒木の 鳥居・・・そうだ、致光は笛の上手にしよう。小柴垣の横を通って姫の寝所近くの庭先に行き、ここれ一管取り出して、吹く・・・・・・
  雅仁は筆に墨をたっぷりと含ませて書き始めた。 

・・・花山天皇様が、御即位なさって間もない、永観二年の頃のことでございました。   畏れ多くも御代が替われば、天皇家の守り神、伊勢の大神様にお仕 えする斎宮、賀   茂の神様にお仕えする斎院のそれぞれの斎王さまも替わらねばならないのでござい   ます。
   代々斎王さまになられるのは未婚の内親王さまか、女王さまという至高のご身分の  方、そして当然男の肌を知らぬ無垢の清いお体でなくてはなりませ ん。
   伊勢の斎王に卜定されますと、自邸での潔斎、宮中での諸行事を終え嵯峨野の野々  宮に籠もり祈りと潔斎の日々を過ごします。
   足かけ三年の後、参内し、帝にご挨拶申し上げ、帝御自ら斎王の額髪に「別れの御  櫛」を挿され、「京の方へ赴き給ふな」といふ別れの御言葉を頂 き、伊勢へ群行され  るのが決まりでございます。
   これは、花山天皇の御代に寛和の斎宮と呼ばれた方の物語でございます。斎宮様の  お名前は済子さま。醍醐天皇の皇子、章明親王さまのお姫様でござ います。
  章明親王さまといえば風流の皇子として名高く、あの紫式部の父藤原為時の従兄弟で  いらっしゃいました。
   この嵯峨野の野宮へ、警護のため滝口武者が詰めることになりました。
   坂東武者といえば無骨者、さりながらこの致光、見目麗しい男達の多い滝口武者の  中でも一番という評判の美男で、しかも笛の名手。致光を見た女は 一目で迷い、今様  光源氏か業平かと、身分高きも低き者も、女達は皆、恋ひ焦がれぬ者はないほどの噂  の絶えぬ色好みで聞こえた男でございまし た・・・

  ここまで一気に書いて筆を置いた雅仁は庭を眺めて呟く。                                  
 │    │  待てよ、この時代にはまだ源氏物語は書かれていなかったと、信西が申し          │
 ておった。「今様光源氏」では駄目か、削らねば不味いか、絵巻といっても考証を考えると厄介なものだな・・・さて、出逢いの場面は、どうするか。晩秋の 嵯峨野。絶え絶えに聞こえる箏の音。黒木の鳥居。非番の夕刻致光は咲き乱れる秋草を踏み分け現れる。そうだ、致光は笛の上手にするのだった。小柴垣の横を 通り姫の居間お側近くへ行き、一管の横笛を取り出して静かに吹く・・・
 独り言を繰り返しながら、庭の虫の音、月の光に誘われたように、雅仁の筆は動いた。

 ・・・・・眠られぬまま箏を爪弾いている斎王さまの耳元に、虫の音に響き合うように  微かに笛の音が聞こえて参ります。誰の吹く笛の音か。私の爪弾く 箏に合わしている  のか。
   斎王さまは縁近くまで出て几帳の蔭からそっと庭を眺めました。すると桔梗     や撫子の乱れ咲く小柴の垣のもと、月の光が雫のように降りそそぐ 中、庭石に腰掛け  美しい男が横笛を吹いております。
   一方、男はひんやりと顔をなでた秋風にのって漂ってきた芳香、斎王様のお袖に焚  き込まれたお香のかおりに、思わず御殿を見やりました。
   薄闇の中、几帳の蔭に動く白い顔。致光は笛を吹くのを止め、思わず御殿に駆け寄  り、縁側の高欄の下に跪きました。すると部屋の奥から甘い香りが 先触れのように流  れ、驚いたことに斎王さまが几帳の蔭よりお出ましになったのでございます。
   二人は御殿の端近くの縁の上と下から互いを見つめ合い、月の光の雫に濡れた斎王  さまの美しい黒髪が高欄の下に控えた致光の顔にさらさらとこぼれ かかり、甘く馥郁  とした香りが匂い立ち、色好みの致光はどうにも自分を抑えることができず、畏れ多  くも斎王さまも・・・・・・ふたりの秘戯を知っ ているのは咲き乱れた秋草とすだく  虫の音ばかりでした・・・ 
                                                                                         
 │    │  なにやら源氏物語の野宮の場面のようだな。ここは伊勢物語調でいくか。          │
  恋し恋しと思い続けたあげく、
   君や来しわれや行きけむおもほえず 夢か現か寝てか覚めてか
 二人は几帳の奥深く隠れるのももどかしく、濡れ縁にて・・・これはあまりに露骨過ぎて斎宮に失礼かな。うっ、ふふふ。絵の構成を考えながら筋を考えるの も大変だ。粗筋にしておいて、詳しくは絵が出来上がってからだ。絵は情交の場面を出来る限り露わに描かそう。露わ、露わか。偃息図絵巻を仕上げるとは、こ んなに楽しく、精根尽き果てるものか・・・

  こうして部屋に籠もって半月あまり。
 粗筋を書き上げた雅仁は絵師と共に河原者や侍女の中から官能的な雰囲気を持つ見目良い若い男女を選んだ。
 済子と致光の役を振り当て装束を身につけさせその姿態を描かせよういう凝りようである。
 裸体に近い男女の姿をあれこれ描いている絵師の横に座って雅仁はこれまた絵師以上に真剣な顔で凝視し、細かく指示を出した。
「よいか、斎王は呆れるほど素直でおっとりした感じに描け。卑しい滝口に身を任す斎王だ。思慮深さやしっかりしたところなどは全くなく頼りなげで世間知ら ず、なれど男を知らぬ生娘でもない、柔らかな女の色香と可憐さを具えさせろ。なれど高貴な姫でなくてはならぬ、よいな。あくまでも気品あふるる女ぞ」
 女は傀儡子から侍女に取り立てたお気に入りの女郎花であった。
 女郎花には時折自分の夜伽をさせているが、絵巻をより良い物に仕立てあげるためには致光役に選んだ河原者に抱かせるのも、雅仁は厭わない。
「秘戯じゃ。男と女が獣の如く抱き合うのではない。女郎花、そなたは高貴な姫の役じゃ。もっと優雅に、恥じらいを含んだ色気がでないものか。艶麗で華やか な中に、くずれた色香が出ないものかな・・・やはり、生まれ育ちはどうにもならんのか。雅仁の夜伽に侍っておる者がもう少しなんとかならぬか。今宵もう一 度、雅仁が手を取って教えてやる。今宵の夜伽を命ずる。そこなる致光役の冠者、名は何と申した、ハヤテか。疾風、そなたも今宵は吾の寝所に侍って、麿が女 郎花を抱いているところを子細に学べ」
 致光と済子の役の疾風と女郎花にそう言いつけると、絵師に向かって云った。
「この場面の絵は明日にいたせ。そなたもともに麿の寝所に侍るのじゃ」
 何のことか雅仁の真意を測りかねている絵師を後目に雅仁は立ち上がり部屋をでた。
 常日頃、万事お側任せのゆったりした雅仁が、時に豹変して俊敏な行動力を発揮する。ぐうたらの廃れ皇子が、ここぞ自分の力量の発揮所とばかりに絵巻の場 面場面の構成や詞書きに執心する。
 こんな事が漏れれば、常軌を逸した風狂の君と人々はまた眉をしかめるであろう。
 だが絵巻の完成に向けて雅仁は文字通り寝食を忘れて取り組んでいた。常には夜毎、祭のように賑やかな雅仁の周辺から音曲が流れてこなくなり、御殿の様子 を不審に思った人々が侍女たちに雅仁の様子を訊ね、瞬く間に絵巻制作のことは人々の口の端に乗って広まっていった。
 人々はそんな雅仁の様子を呆れながら噂し、噂されていると知らぬのは当の雅仁ばかりであったのはいうまでもない。



                         第五章     


 近衛天皇は、いよいよ不調が続き、患われていた眼病の悪化が伝えられた。この頃から皇位継承の問題が半ば公然と公卿朝臣の間でも囁かれるようになった。
 鳥羽法皇と美福門院の心痛はいかばかりであったか。鳥羽法皇は崇徳に愛情がないといっても、この国の政を考える立場であった。自分の感情のみという訳に はいかない。
 「近衛に万が一の場合は、いかにしたものか。雅仁は目に余る道楽者で二十九歳になってもまるで自覚が無く、天皇の器ではない。いかに気に入らぬとは申せ 国の政、崇徳の重祚か、重仁を皇位につけるしかないかな」
 そう、得子に洩らした。得子は、その美しい眉に薄い影を浮かばせた。鳥羽がそれに気付かぬはずはなかった。しかし、一瞬の沈黙ののち得子はまっすぐに鳥 羽の顔を視て、「御心のままに」と低い声で応え、俯いた。
 鳥羽は頷いた。
 璋子ならば、たぶん鳥羽の言葉に消え入らんばかりに泣いて訴えたであろう。我が子の命の火が消えそうな時に後継者問題をなぜ仰有るのかと。しかも後継者 に自分を憎む者をお即けになるのかと、お上は冷たいお方と、さめざめと泣くであろう。得子とてそうしたいはず。しかし、得子はしない。先の先を考える冷静 さを失っていない。
 鳥羽は得子のこういう冷静さを好み、また自分の后という以上に、鳥羽院政の最も頼もしい側近として見ていた。
 美福門院得子は鳥羽の言葉に静かに頷いた。
 しかし決して納得していたのではない。
 崇徳の子の重仁が帝位につけば、鳥羽の死後は崇徳が治天の君となり自分の将来が暗転するのは目に見えていた。自分を敵視していた崇徳が勢力を持つような 継嗣だけはなんとしても避けねばならない。自分の意向が通る方に皇位についてもらわねばならぬと思った。
 得子は、密かに信西入道を呼んだ。
 この学識豊かな入道は、雅仁の乳母紀伊局の夫であり、雅仁は美福門院とは仇敵の待賢門院璋子所生の皇子、崇徳上皇の同母弟である。
 世間では信西も崇徳方と見ている節もあったが、知る人ぞ知る、表沙汰にはなっていないが、美福門院と信西は古くから気脈を通じていた。
 雅仁親王の長男守仁親王が生まれてすぐに母親を亡くした時、美福門院は、
「生みの母親の顔も知らないなんて、なんと不憫な皇子。私がお預かりして大切にお育ていたします」と自分の養子にした。
 この時美福門院と雅仁親王の間に入って事をまとめたのが信西であった。
 雅仁の子を手元に置くことで、自分の立場の安泰をはかり場合によっては人質にもなる、という得子の事情と、得子との関係をより深くしておきたいという雅 仁側の意向が一致してのことであった。
 実は遙か昔、将来娘を入内させたいという願望を持っていた権中納言藤原長実に頼まれて、信西はその娘の得子に漢籍の手ほどきをしたこともあった。
 その折、長実の娘とは思えない、得子の利発さ、学識の広さや才女ぶりに感心していた。
 得子が鳥羽の後宮に上がりその寵愛を受けるようになると、鳥羽の近臣だった信西とは逢う機会も増え、また信西は二人娘の婿に美福門院得子の縁につながる 者を迎え、閨閥の網を張り巡らしていた。雅仁が、兄崇徳とは異なり、生母の仇敵である美福門院に反発することなく礼を尽くしていたのは信西の配慮の一つで あった。
 信西は雅仁に、美福門院は先の読める聡明な女性、政治家であるから、我が子近衛帝の重態の時も悲しんでばかりいず近衛帝崩御のあることを考え必ず先の手 を打ってくるはずだと言っていた。
 また常日頃から美福門院に対しても雅仁のことを折に触れて話していた。
「雅仁さまは女院様を大切な母君と思っていらっしゃるし、我が子守仁親王を育ててくれた大事な恩人とも思い感謝いたしております。そしてなんなりと女院さ まのお役にたちたいと思っていらっしゃいます」
 こうした事情で美福門院は信西を喚んだのであった。
 早速に駆けつけた信西に、女院は相談するともなく漏らした。
「本院さまの御心が新院の方に傾きつつある」と言い、言葉を続けた。
「本院さまと新院さまの長年の確執をみても、新院さまの重祚はまずありますまい。ただ入道殿もご存じのように、本院さまは新院さまが帝に譲位された時の経 緯を負い目に思っていらっしゃるのです」
 譲位の経緯というのは、崇徳天皇が躰仁親王に譲位したときのことであった。
 鳥羽は、まだ子供のいなかった崇徳に対して、得子所生の躰仁を崇徳の養子とさせ、皇太子とした。そして崇徳の子重仁が生まれると重仁に親王宣下するのを 条件に躰仁皇太子に譲位するように強要した。
 鳥羽は言外に先々躰仁の次に重仁を即位させることを匂わせてたので崇徳は渋々譲位に同意した。
 しかし、譲位の宣命を書く直前、鳥羽は得子と関白忠通の進言を容れて、躰仁を皇太子とは書かず、皇太弟と書かせたのである。これでは弟に譲位した崇徳に は院政の資格がない。躰仁が即位して近衛天皇になっても、父は崇徳の場合と同じく鳥羽であるから、鳥羽の院政が続くことになった。
 それ以来、鳥羽と崇徳の間には大きな遺恨が残っていた。
 美福門院はそのきりりとした双眸でまっすぐに信西を見つめて言った。
「さりながら、【綸言汗の如し】と申します。本院さまが一旦皇太弟とお決めになったことを今更気になさってどうこうというのは、国の政が揺れる原因になり かねません。主上に万が一の場合、本院さまは重仁親王の即位しかあるまいと考えていらっしゃいます。今までの経由から、もし重仁親王さまが即位して、本院 さまが崩御され新院さまの院政が始まればこの身は立ち行くまい。忠通どのも関白の位を追われ、吾を嫌う忠実、頼長が力を持つでしょう」
「なるほど、して女院さまのお心は」
 信西も美福門院の眸から眼を離さずに尋ねた。
「四ノ宮雅仁親王殿下の御子の守仁親王。私が養い親になっているあの守仁さまに近衛帝の身代わりとして即位して頂きたい。我が手でお育て申した皇子さまで すから、私には愛おしい皇子。とても賢い素直な性格の皇子で、先々は帝の器と、本院さまも成長に眼を細めていらっしゃいます。父親に似ぬ学問好きのお子だ とも」
「それが一番穏当でしょうな。そして法王様と女院様の姫君、姝子内親王さまを守仁様へ入内させれば、鳥羽法皇さまと女院さまの正しい血脈は続きますな」
「さすがに、信西入道どのは、眼から鼻に抜けるお方」
「私どもにとっても守仁親王さまが即位されることは願ってもない幸せ。・・・されど・・・されど、先例がありませぬ。いかに廃れ皇子と呼ばれようと、雅仁 親王は御歳二十九歳の働き盛り。その雅仁親王を置きながら、つまり見存(現存)の父をおきながら、その子の即位の例なし・・・先例の無いことゆえ、これは もめますぞ」
 信西はあくまで慎重に、言葉を選びながら眼はまだ美福門院から離さなかった。
「・・・信西、そなたの言いたいことはわかっておる。いかに廃れ皇子であられても・・・雅仁さまのお立場は無視できぬ・・・雅仁さまは・・・当今さまのお 命が危ないというこんな政局であれば、次の帝について兄の新院さまと相談でもするのが、皇位継承権のある四ノ宮として当然なのに、雅仁さまは絵巻作りにご 執心とか。それも、枕絵をお作りになるのに夢中とか。守仁さまのお父上さまはあまりの浮き世離れでいらっしゃる無欲なお方。政に興味は無いご様子。だから 兄君の崇徳さまからもなにも期待されていないのであろう。崇徳方のいろいろなお集まりにも全く声が掛かっていないとか」
 やはり、信西の思った通り、雅仁の日常、崇徳の行動は美福門院にすべて筒抜けであった。
 美福門院は艶麗に笑ったが、その言葉遣いは突然女院と臣下のそれに変わった。
「申し訳ございません。決して悪気があるのではなく、あれも一種の病でございます。帝のご病気平癒を朝晩の勤行では必ず御仏にお願いしていらっしゃいま す」
 信西は頭を深々と下げた。
「気にせずともよい。雅仁さまは常日頃、気配りをしてくれている。朝夕の勤行も帝のことを心から案じてくれていることも聞き知っておる・・・雅仁さまの行 状はともかく、先例が最優先のことは私もよく心得ている。遊び好きの帝が即位されても、優れた側近が侍っておれば、政はうまく運ぶもの。なまじ中途半端な 政への関心など無い方がよろしい。私も側に付いてご助言はできる。そちのような優れた側近政治が一番。そなたの欲しているのも同じはず」
 これ以上は言わすなという態度であった。
「わかりました。すべて女院さまのご意向のままに。臣にお任せあれ」
 信西は深々と頭を下げた。

 ほどなくして「何者かが帝を呪詛している」という風説が誰言うともなく宮中に流れた。それも噂好きな女房たちの間だけでなく、大納言経宗や中納言家成と いった人々までそんな畏れおおい噂を耳にしたと言い出した。
 七月はじめ、検非違使よりも「近衛帝は呪詛されている」との噂はどうやら真実らしいと報告があって間もなく近衛帝が危篤になった。
  近衛につきっきりの得子は鳥羽に「崇徳上皇と藤原頼長の呪詛らしい」と訴えた。
 まさかそこまではすまいと、鳥羽は否定したが、近衛の病状は悪化の一途をたどるばかりであった。
 そんな動きが宮中を駆けめぐっていたある夜、信西が秘かに雅仁の許へ伺候して言った。
「近衛帝の病篤く、今度こそ万が一になるやも知れませぬ。絵巻づくりは中断なさるように。近衛帝の御病気平癒祈願の使いを寺社に雅仁さまのお名で出してお きましょう」
「今一息だ。もうすぐにも完成する。もうちょっとやらしてくれ。信西、頼む」
「なりませぬ。ここは、もうひたすら神妙にして、帝の病気平癒をお祈りなされ。雅仁さま、いよいお正念場ですぞ。葬られるか、一気に上昇するか、今です ぞ」
 信西の厳しい一言に、雅仁は仕方なく画室にしていた部屋から絵師や疾風、女郎花を下がらせた。雅仁は仏間に籠もり帝の病気平癒を祈らせられることにな り、傀儡子や遊君たちの出入りは禁じられ、仏間の外には紀伊局の言い付けで侍女達が交替で見張った。
 久寿二(一一五五)年七月二十三日、美福門院の必死の看病の甲斐もなく近衛帝崩御。 十七歳の近衛帝には皇后藤原多子と、中宮藤原呈子の二人の后が遺さ れただけで、皇子も皇女もなかった。
 美福門院は鳥羽の厚い胸に顔を埋めて繰り返し嗚咽した。
「無垢な帝の命を奪われるまま何の手も打てなかった・・・あの子はまだ十七歳ですよ・・・帝のお命が助かるものならば代わって死にたかった。皇后の御位も 何もいらない。近衛が生きていてこその私の命。呪詛されてあの子は死んだのです。誰が呪詛しているのか、皇位にさえつかなければお命を縮められるような呪 詛を受けずにすんだのに。可哀想な躰仁・・・・」
 美福門院得子の慟哭は続いた。
「その昔、崇徳さまは法皇さまのご寵愛を頂いた私を母宮の敵と、一族に数々の理不尽をなさいました。でも勿体なくも法皇さまが私を、治天の君として守る、 とお誓い下さって、類い希な”躰仁という宝”を私にお与え下さった。法皇さまは治天の君として、躰仁と私をずっとお守り下さった。なのに誰が躰仁を呪詛し 奉ったのか。あの何の罪もない心清らかな帝を誰が奪ったのか。私の命を奪って欲しかった」
 一瞬得子の慟哭は止んだ。
 そしてまっすぐに鳥羽の眼に見入る得子のくっきりと切れ長の双眸は妖艶な光りを帯び、そして大粒の涙を拭おうともせずに得子は言った。
「法皇さまは、その昔、もったいなくも、すべてをかけてこの得子を守る。決して見捨てぬ、と天子のお誓いを遊ばしました・・・今、得子は皇后でも、女院で もありません。たった十七歳の息子を亡くした、哀れな女でございます。これからどうしたらいいのか、あの子のために何がしてやれるのか、法皇さま、どうか お教え下さいませ」
 得子は再び鳥羽の腕の中で泣き続けた。
 鳥羽の胸は最愛の息子躰仁を亡くした悲しみと、得子への情愛で、息苦しいほどに激しく鼓動した。
 そして鳥羽の悲しみは次第に怒りと変わっていった。顔は蒼白に引きつりこめかみを痙攣させ、鳥羽は叫んだ。
 常日頃冷静な王者鳥羽のついぞ見せたことのない怒りの暴発であった。
「だれが近衛を、あのうら若い、優しい子を呪い殺したのか、糾明せよ」
 美福門院の訴えを聞いて検非違使の藤原惟方に内々に調べさせた。しかし風聞に過ぎないのである。
 帝の呪詛という大事件とはいってもなんの証拠もないし、証人もいない。ならばと口寄せの巫女が呼ばれた。霊が巫女に降りた。巫女に憑いた若い男は苦しみ もがき言った。
「クッ、苦シイィ・・・誰カ・・・朕ヲ・・・呪ッテイル・・・」
「誰カガ、・・・愛宕山ノ天狗像ノ目ニ釘ヲ打ッタ・・・朕ヲ呪詛シテイル・・・」と。
 呪詛したのは誰か。若い男の苦しげな声は続いた。
「前ノ関白親子ニ・・ソシテ・・」
 悶え苦しむその声は聞き取れぬほどに小さく掠れ、巫女は気絶した。
 薬師が呼ばれ、手当を施し、意識が戻ったかにみえたが、巫女は帝の霊が降りたままだったのか、薬湯を吐き、悶絶し、泡を吹き、間もなく息絶えた。
 居合わせた人々は、これは帝への呪詛の強さ、激しさの巻き添えでやられたのかと驚き狼狽えた。
 鳥羽法皇の命令で愛宕山へ検分の使者が走らされた。
 はたして巫女の口寄せ通り天狗の像の左目に釘が深く打ち込まれていた。しかしいくら調べてもこれ以上の証拠は出なかった。
 前関白忠実、左大臣頼長の親子が怪しい、その後ろに崇徳院の影が、と真偽のほどは分からないまま疑惑は膨らみ、人々の口から口へと囁かれた。
 聞く者の心を冷え冷えとさせるこの噂は数刻の間に、近衛帝の死を嘆く人々のあちこちで囁かれた。
 巫女の降霊に立ち会ったのは検非違使の惟方と経宗や家成など数名。これ以外には表沙汰にする証拠も証人もなく、霊の降りた巫女も悶死したため公で追求す ることはできにくかった。
 だが得子は忠実・頼長親子の呪詛とかたく信じ、関白忠通までが、
「今の弟ならやりかねない。畏れ多くも、父や弟はさる方のご意向を承けて動いています。帝の御崩御という此の国の悲劇で誰が得をするのか、お考え下さい」 と言上した。
 これが平常の場合ならば英明君主鳥羽は一笑に附したであろう。頼長は近衛帝の皇后多子の養父であったし、あの実直な忠実に限ってあり得ないと。
 だが愛しい末っ子の死の直後であった。さすがの鳥羽法皇も逆上、忠実・頼長の親子を疑い、今まで得子がどれだけ嫌っても忠実、頼長の父子に眼をかけ庇っ ていた分さらに疑念は急激に膨らんでいった。
 そして忠実・頼長親子を操っているという崇徳をますます疎んだ。
 崇徳を思えば、鳥羽はどうしても崇徳の後ろに亡き白河法皇の大きな姿が浮かぶ。
独裁者として君臨し「意のままにならぬは、加茂川の水と比叡の山法師と双六の賽の目のみ」と豪語していた白河。
 祖父は絶対であり、至上であった。その祖父と我が妻の醜聞を自分だけが長く知らなかった。祖父白河と妻璋子の穢れた関係。不義の子崇徳は生き、重仁とい う後嗣まである。なのに最愛の得子が生んだ最愛の近衛は後嗣も残さずわずか十七歳で死んでしまった。
 呪詛の根元は祖父白河か。鳥羽はあの白河の巨大な胸に挑むように闇を睨み、闇に向かって宣誓するように叫んだ。
「呪詛の犯人を操っている真の犯人を糾明せよ」
 不義の子に生まれたのは崇徳の罪ではない。だが、崇徳・重仁親子は、もうどこにも逃げ場のない場所に追い込まれて行ったのである。
 二人にとってさらに悲劇であったのは自分達が袋小路に追いつめられていることを、事の成り行きをまだ何も知らなかった。
 近衛が危篤に陥った七月の初めから、崇徳と重仁は、自分達の長い冬の時代が終わり漸く花咲く春が巡ってくるという期待で胸を膨らませていたのである。我 が子重仁が即位すれば、鳥羽の死後は自分が治天の君と、崇徳はこの十四年の不遇を耐えた自分に褒美をやりたい気持であったろう。
 だが政情は崇徳の願う方向とは全く別な方位を指して動き出していた。
 夕刻過ぎて漸く、近衛帝崩御の報が崇徳の許へもたらされた。
 異母弟の近衛天皇には気の毒だが、天意に叶わなかったために、天皇は夭折されたのだ。嫡々正統の立場にあるのは我が子重仁。これで誰がみても、順序から いっても重仁の即位は間違いないと、崇徳は浮き足だった。
 しかし、権勢を嗅ぎつけて群がって来るはずの公家達の姿は一向に現れない。
 何かおかしい、とは感じ始めていた。だが、近衛天皇の崩御直後のことだ、さすがに利に聡い公家達も鳥羽法皇と美福門院への遠慮もあろう、と崇徳はあくま でも楽観的であった。それほど崇徳は宮廷で孤立し、情報が入らなかったのであった。
 
 一方、悲しみに打ちひしがれているはずの美福門院の打つ手は早かった。
 崩御のはや翌日、厳重な警護の武士に守られて崇徳上皇の御所に向かった践祚の使者は本殿ではなく御所の片隅、東の対に「部屋住み」として逼塞していた四 ノ宮雅仁親王の許へ使わされたのであった。
 遊芸好きの廃れ皇子としてしか誰も思わず、皇位の噂に誰もその名をだしたことのなかった雅仁親王がただちに高松殿に迎えられ、突如践祚した。
 さらに九月二十三日、雅仁の皇子守仁親王が皇太子に立った。
 久寿二(一一五五)十月二十六日、雅仁親王は即位して後白河天皇が誕生した。
 後白河天皇は院政時代の天皇としては異例の高齢、御歳二十九歳であった。このようにして御継嗣問題は美福門院の希望通り、信西の画策通りになった。 
 崇徳と重仁の親子にとって信じられない、悪夢としか言いようのない展開であった。ここにこの父子の未来は完全に封じられた。
 雅仁が生母待賢門院の仇敵美福門院側に立って即位するとは、崇徳にとって青天の霹靂であった。
 崇徳は「上皇の尊号に連なるべくは、重仁こそ人数に入るべき所に、文にも非ず、武にも非ぬ四の宮(雅仁)に、位を越えられ、父子ともに愁に沈む」と嘆 き、憤った。
 冷酷な父鳥羽、同母弟として庇い可愛がっていた不肖の弟雅仁の裏切り。肉親故の血の濃さ故の崇徳の後白河に対する憎悪激怒はいかばかりのものであった か。
 自分の譲位の時には鳥羽の罠にはめられ、今また、実弟雅仁の即位によって我が子重仁の未来を抹殺された崇徳上皇の怒りが青い炎となって燃えていた。
 雅仁の即位は、鳥羽の諮問に関白忠通が雅仁を推し、法皇がそれを容れて決まった。これは無論、形式、表向きのことであった。
 このように運ぶために得子と信西は陰でどれだけの話し合い、打ち合わせをしたことか。そして美福門院の意向を受けた信西の指示でどれだけの人が動いたこ とであろうか。
 だが、この即位の経緯の全てを知っているのは美福門院得子ではない、まして雅仁ではない。得子に説得された鳥羽もまた詳しい経緯は知らなかった。
 得子はただ鳥羽法皇にさめざめと泣きながら訴えただけであった。
「近衛を呪詛した崇徳さまの重祚や重仁親王の即位など地獄よりも酷うございます。近衛の魂が救われますまい。そんなことになればいっそ私も死んだ方がまし でございます」
 そして気持ちが収まると、鳥羽を説得するように言った。        
「こうなりましたら、私がお育てした守仁親王を近衛の身代わりとして即位させ、そして私たちの愛しい娘姝子内親王を入内させれば、畏れ多くも法皇様の正し い血脈は受け継がれてゆきます・・・ただ存命の父を置いてその子が即位という前例はございません。守仁親王即位の前に雅仁親王さまに二、三年皇位について 頂かないわけにはまいりませぬが」
 そして得子はあとの事を信西に委ねた。
 得子に泣きつかれた鳥羽は信西を召し、数刻が流れ、さらにその後関白忠通に改めて諮問した。忠通は無論美福門院の意向を前もって確かめており、その意向 通りに答えた。
 法皇も女院も関白も各々の立場で、自分の意向を実現させるべくその役割を演じただけであった。
 この即位劇の脚本の全編を書き、すべてを脚本通りに運んだのはこれより黒衣の宰相と呼ばれるようになった信西入道であり、その手足となって策謀を巡らし 活躍したのは雅仁の寵臣たちであった。
 後白河の即位で、鳥羽の寵臣であった忠実、頼長親子は鳥羽から完全に遠ざけられ、二人の政治的権勢は悉くそぎ落とされていった。そして美福門院に親しい 忠通に対抗するようにこの親子はずるずると崇徳の側に近づいていった。
 世間の噂はともかく、それまで、忠実と頼長の親子はあくまで鳥羽の寵臣であって、崇徳とは親しくなかったのにもかかわらず、何かの意思で此の二つの勢力 は共に抹殺されるべく結びつかされていったのである。
 そして、近衛の死から後白河の即位のために奔走した東宮守仁親王の乳兄弟で検非違使藤原惟方や東宮守仁の伯父大納言藤原経宗、美福門院の従兄の中納言家 成など策士達が宮廷を闊歩し始めた。
 彼らは今こそ我らが出番とばかりに、信西の指示の許で雅仁の即位に画策した人々であった。何時の間にか、信西はそうした切れ者や策士を集め、新帝後白河 の周りを取り囲んでいたのだった。
 そして「内裏は市井無頼の徒に依って占められ、新帝はこれまで通り、いやそれ以上に今様に精進遊ばし、やがて多くの妃が迎えられ、成り上がりの近臣達は いずれも外戚になって、ひたすら荘園を増やす」とある公家が日記に書き付けたほど、いわゆる策士達が宮廷を牛耳り始めたのである。 
 鳥羽法皇・美福門院・関白忠通の提携による後白河の即位は、崇徳の子、重仁親王即位の悲願を封殺し、後白河天皇の子、守仁親王を即位させるのが最終の目 的であった。
 後白河は中継ぎの天皇に過ぎず、これを承知していた後白河は全てを美福門院と信西に委ねた。
 父に疎まれた兄弟として、ともに母待賢門院の死を悲しんで十年。心を寄せ合った兄弟の崇徳と後白河はこの即位によって、一変、互いに憎悪する敵味方と別 れた。
 名誉や権力にさらさら気がないように、皇位への野望を微塵も見せず、遊蕩三昧の皇位から一番遠い場所にいた後白河にとって降って湧いたような皇位であっ た。
 運命の、幸運への激変である。しかし心の奥深くを覗いてみれば、男として生まれ、まして中宮待賢門院璋子所生の皇子として生後二ヶ月で親王宣下された雅 仁である。崇徳の跡を受けて皇位を夢見なかったはずはない。
 そしていったん帝位についた雅仁は、幼い頃から廃れ皇子として宮廷で影の薄かった自分をいつも庇ってくれた兄の崇徳に対する個人的な愛情をすべて滅却 し、崇徳に対峙することとなった。「天子に父母なし」の諺通り、今までの関わりをきっぱりと捨て、崇徳の仇敵として政治の桧舞台に登場したのであった。
 即位した後白河天皇の許へ、近衛天皇の皇后多子の姉忻子が入内。翌年には中宮、さらに皇后に冊立された。
 保元元(一一五六)年三月、守仁皇太子と姝子内親王の婚儀を見届けた美福門院得子は出家した。

 保元元年(一一五六)七月二日、鳥羽法皇崩御。
 鳥羽の危篤を知って見舞いに駆けつけた崇徳は得子と忠通の妨害にあって死に目にも会わせてもらえなかった。
 七月十日、崇徳上皇方が白河殿と占拠し、「このままでは済むまいぞ」という貴族達の予想通り、鳥羽法皇の崩御で保元の乱と呼ばれる内乱が勃発した。
 皇室が、崇徳上皇対後白河天皇。摂関家は忠実・頼長親子対忠通。配下の武家は、崇徳方に源為義・為朝親子、平忠正、これに対して後白河方に平清盛、源義 朝と、天皇家から摂関家、そして武家まで親子兄弟、叔父甥が分かれて戦うことになった。
 得子、忠通、そして信西の準備は周到であった。
 七月十一日、源義朝、平清盛の軍勢が白河殿に夜襲をかけ、四時間後には崇徳方は敗退、崇徳上皇も頼長も逃亡を図った。
 崇徳方の中心の頼長は流れ矢に中たって死に、崇徳上皇が仁和寺で捕らえられ、上皇方の武士の多くが降参。後白河天皇方は平清盛・源義朝らの武力で勝利を おさめた。
 七月二十三日、崇徳上皇は遠く讃岐へ配流となった。天皇あるいは上皇の流罪は奈良時代に藤原仲麻呂こと恵美押勝の乱に連座して淡路にながされた淳仁廃帝 以来の厳しい処分であった。
 優しかった兄崇徳の流罪を、弟後白河はどんな思いで受け止めたのだろうか。いかに今様狂いの愚帝で発言権が無いといっても後白河は時の天皇である。崇徳 に対する思いやりを口にすれば、何らかの影響はあるはずであった。だがその痕跡はない。

 流罪になった崇徳はその後配流の地讃岐で怨念と呪いだけに生きた。崇徳は毎日自分の人生を
反芻した。                                                                                
 │      │  五歳で皇太子となり、天皇となったこの身。曾祖父白河法皇の死後、            │
父鳥羽上皇の自分に対する仕打ちは次第にひどくなっていった。得子が入内し、躰仁が生まれてからはさらにあからさま。母待賢門院璋子に対しても鳥羽は冷た い夫となった。
 崇徳も自分が鳥羽の子でなく、実父は白河法皇であるといつしか知った。だが、白河法皇は偉大な帝王であり、自分を殊の外慈しみ愛してくれた。
 『源氏物語』の冷泉天皇が、自分の実父は桐壺帝ではなく光源氏であると知って、源氏に対して反発するのではなく、愛情が増したのと同じである。母待賢門 院を責める気もない。崇徳にしてみれば、白河法皇の生前とは掌を返すような父鳥羽の態度が許せなかった。卑劣であるとさえ思う。
 しかし「叔父子」と蔑まれ、嫌われても、崇徳は鳥羽を父として立ててきた。堪えるだけ堪え、忍ぶだけ忍ぶ隠忍自重の日々であった。同じ母を持つ雅仁もま た自分と同様父に愛されぬ弟であった。出来の悪い弟であったが、崇徳からみればやはり不憫な皇子であった。ことある毎に雅仁をかばい甘やかしたのも、とも に父性愛に恵まれぬ兄弟だったからである。
 それがである。いつの間にか、雅仁は母待賢門院の不倶戴天の敵、美福門院方に走り、あろうことか、我が子重仁を差し置いて即位したではないか。
 父鳥羽は得子と関白忠通に言われるまま、約束を反古にしてこの身が治天の君になれぬように細工し、院政を行う機会を取り上げた。ようやく我が子重仁の御 代になると思ったら、帝王教育を全く受けていない、今様狂いの雅仁が重仁を踏みつけて即位した。・・・これはいったいどういうことなのだ。この身や重仁が 雅仁に何をしたというのだ・・・
あの女は父鳥羽の臨終にもこの身を会わさなかった。・・・全てに裏切られせっぱ詰まって蜂起した保元の乱もあっけなく破れてしまった。そしてあろうこと か、この身を遠国に流罪にするとは・・・得子と雅仁であろう・・・
 京から遠く離れた讃岐の配所で、崇徳は美福門院と後白河を呪い続けた。

 信西が采配を振るった戦後処理は頗る峻厳を極め、人情、温情の欠片もなかった。崇徳方の武力の中心たちとその子弟一族七十余人が斬首された。それまで我 が国において約三百五十年間無かった死刑が大量に行われたのである。
 後白河の反対勢力を完全に一掃するために保元の乱を起こさせるように画策したのではないかと思われるほど、信西は乱後の混乱を完璧なまでに鮮やかに収拾 した。
 そしてまた信西は政策立案・遂行の全般の主導権も全て握った。この信西政権を支えたのが平清盛、源義朝たち武家の武力であった。
 天皇家、摂関家、武家を二分した保元の乱は武力対武力の戦いでもあった。これは「もはや政争解決の手段は武力しかない」、まさに「武者の世」の到来を貴 族も武士も認識したのである。
 乱後、武士の棟梁の宮廷における地位が高まり、内裏に武士の出入りが目立つようになり、貴族たちも今では一目置くようになった。
 信西はこうした武士達をも顎で使う。宮廷で信西はもっとも怖れられる人物となった。
 肝心の後白河は乱後どうしていたのか。
 後白河は即して一年後、鳥羽の死去、保元の乱の勃発で貴族達はおどろおどろしい「むさ(武者)の世になりにける」と嘆き、天皇である後白河ひとり、「鳥 羽院崩(かく)れさせ給ひて、物騒がしき事ありて、あさましき事出で来て、今様沙汰も無かりしに」と、鳥羽院が亡くなって戦が起こり今様どころではなかっ たと嘆いている。
 今様とは、後白河にとって「声技の悲しきことは、我が身崩れぬる後、留まる事無きなり」と執心するに相応しい純粋芸術であり、神仏との一体化を感得する 何より大切なよすがであった。かつて曾祖父白河院が田楽に狂ったよりもさらに烈しく、後白河は今様に狂い続けた。



                           第六章  


 僧衣を纏った信西は黒衣の宰相と呼ばれ、後白河天皇にぴったりと寄り添って、自分の命令を勅命という形で出した。後白河を傀儡にして、信西の新政策は画 期的、見事であった。
 信西は、天皇または上皇による親政を考え、摂関家の力を弱めるのも目的の一つにいれた。内裏や院に近侍していた平家を厚遇し、摂関家に仕えていた源氏を 冷遇したのもその一環であった。また大寺社を抑圧し、全国の荘園を整理し、朝廷の経済基盤を建て直し、また大内裏の造営を行い、摂関家の弱体化にも成功し た。
 保元三(一一五八)後白河は予定通り在位わずか三年で譲位。守仁親王が即位し二条天皇となった。後白河はいよいよ「治天の君」として院政を行うことに なったが、実際は全て信西が取り仕切っていた。
 だが権力の頂点に立った後白河は、遊び仲間というだけで、なんの政治理念も持たず、自分の利益のために謀議を巡らすしか能のない、つまらない取り巻きの 臣である藤原信頼たちを寵愛重用しはじめた。
 院政が信西派と信頼ら取り巻き派に分かれたのである。
 信西はこんな後白河が本物の愚帝に思えてきた。
 絵巻物の好きな後白河に長恨歌になぞらえた絵を描いて諫めてもみたが、後白河の信頼への寵愛は変わらない。
「和漢の間、比類少なき暗王なり。謀反の臣傍らに一切の覚悟の御心なし・・・かくの如き愚昧は古今未だ見ず、未だ聞かざるものなり」つまり「お側に謀反人 がいてもいっこうに気付かない、暗愚なお方だ・・・」と信西が嘆いたのもこの頃であろうか。
 新帝後白河に対し不満はあったものの、信西は己の信ずることを、次々に宣旨、院宣の形で打ち出していった。彼は天下の政はかくあらねばならぬという信 念、理想を持っていた。それを実行に移す実力も、気力も才覚も充分にあった。ただあまりに急ぎすぎた。またあまりに権勢欲が強く、自分に反対する者には容 赦がなかった。
 信西は平家を後白河院政の軍事的基盤とし清盛と強く結びついていた。一方で、保元の乱で一番の働きをしたにもかかわらず、摂関家に臣従していたため親政 をめざす信西からあからさまな冷遇を受けた源義朝は、反信西派の信頼らと結びついた。こうした状況を後白河はじっと視ていた。
 信西は知らなかった。後白河が信頼を寵愛したのは信西を抑えるためであったことを。
信西が後白河から目を離した時、後白河は信西を視ていた。信西を視ているその後白河の目はぞっとするほどの冷たかった。
 乳父として後白河を愛し育んできたという自負、また己の権力に酔いしれていた信西入道は、後白河のその愛情の欠片もない酷薄な視線に気がつかなかった。 信西が頸の辺りに冷たい視線を感じて振り返れば、後白河はいつもの全てを信西に委ねた甘えた笑顔を見せた。
 信西は自分が育て上げた後白河が自分よりさらに一段上の酷薄な策士に育ったということを生涯気付かなかった。いや気付きたくなかったのかもしれない。
  平治元年(一一五九)十二月九日夜半、平清盛が一門を引き連れて熊野詣でに出かけた留守を狙って平治の乱勃発。
 後白河上皇の寵臣の藤原信頼と源義朝の軍勢は院の御所三条烏丸殿を襲撃した。狙いは信西。後白河上皇と二条天皇は幽閉され、信西は奈良に逃亡。だが、信 西は逃げ切れないと覚悟したのかなんら粘りも見せずあっさり自害した。
 信西ほどの者が何故か。
 信西は死に臨んで知ったのではないだろうか。清盛は平治の乱の動きを察知していながら一門を引き連れ、熊野詣でと、乱を誘うようにわざと京を留守にした のではなかったか。その背後に後白河の意思があったのではないかと。
 あまりにも呆気ない信西の自害。土壇場になって信西は後白河の本心を悟ったからとしか思えない。
 乳母の夫、乳父として信西は心底、後白河を愛した。後白河の美点も資質も欠点も、そして悪意さえ愛し、その悪意のあまりの深さに気が付いたとき、信西は 全ての意欲を失ったのではないだろうか。
 
 乱は京に戻った清盛の働きで、すぐに平定された。
 首謀者藤原信頼が斬首され、源義朝も落ちのびた尾張野間荘で長田忠致によって謀殺された。
 そして平治の乱を鎮圧した清盛は僅か数十日の間に中央政界における唯一の武家の棟梁としてその力が絶大になっていった。
 世間から見れば、乱の直後の政情の中で、後白河は最も頼りにしていた有能な側近信西を失い、多くの院政派の人々が失脚するのを黙って見ているより仕方が なかった。
 平治の乱の背景には、政の実権をめぐって院と朝廷つまり、後白河と二条の親子の確執もあり、それは乱後も続いていた。そこへ降って湧いたように藤原多子 の入内問題までが加わった。     
 戦乱の後始末半ばの平治二年一月、二条天皇は周囲の反対を無視して、保元の乱の首謀者藤原頼長の養女で、亡き近衛天皇の皇后、現在太皇太后である藤原多 子に入内を命ずる宣命を出した。
 その頃太皇太后多子は、京の東端にある近衛河原の慎ましい大宮御所で、近衛帝の菩提を弔う経を読み、箏を爪弾き、絵筆を取り歌を詠むという幽居同然の暮 らしをしていた。
 侘びしい暮らしながら近衛帝を追慕するこの日々に多子には内心はほっとするところがあった。
 それは多子が近衛帝の許へ入内して以来、多子の焼死を願うかのように、近衛帝から引き裂かれてからも皇后宮御所への執拗な放火が続いていた。
 近衛帝の崩御、養父頼長の戦死で、多子はもう全ての栄耀栄華とは無縁の世捨て人となった。こんな自分を目障りと思う人はもういないだろう。寂しくはあっ ても心静かに余生を送ろうと、多子は日々を過ごしていた。
 そんな多子の許へ、二条天皇から入内を強要されたのである。多子は近衛帝の崩御の時、出家していなかったことを悔やみ嘆いた。
 「悪左府」などと呼ばれた気性の激しさや世評はともかく、近衛帝や自分には優しかった養父頼長は国を二分した戦いで敗者側の首謀者として死に、養父に敵 対関係にあった美福門院や関白忠通は健在である。
 しかも二条天皇の中宮姝子内親王は美福門院の実の娘。近衛天皇の皇后時代に経験した執拗な迫害、中宮呈子との確執等々、多子にすれば到底忍びがたい再度 の入内であった。
 入内の宣命を拒む多子へ業を煮やした二条帝は多子の実家徳大寺家へ多子を入内させるように宣下した。これに対し、徳大寺家では父や兄が、
「宣旨に逆らうことは許されぬ。すみやかにお受けして、そなたが皇子を生めば、そなたは国母と崇められ、おのれも外祖父や伯父として仰がれる」と我が娘、 我が妹をかき口説いた。
 とうとう多子は折れざるを得なくなり二条天皇の後宮へ入内した。
 世に言う二代の后である。先々帝の未亡人の入内に呆れ悲しんだ二条帝の中宮姝子内親王は間もなく宮中を出た。
 我が子二条帝が多子のに入内を求めていることを知った時、さすがの後白河も驚き呆れ、反対した。
「二代の后など、唐土はともかく、本朝では開闢以来聞いたことがない」と熱り立った。 これに対して二条帝は「天子に父母なし。朕は十善の功徳で万乗の宝 位を保っている」と言い放って、太后入内を敢行した。
 後白河は我が耳を疑った。
 自分が、兄の崇徳を裏切るように即位したとき「天子に父母無し」と言い放った同じ言葉を、我が子から浴びせられるとは。
 信西亡き後の、後白河の院と二条帝の朝廷が微妙に綱引きをする関係、そしてそこに覇王となった清盛の平家までもが絡んできたのである。
 こうした移り変わりを後白河は一見成り行き任せにしているような顔をしながら、息を詰めて観察していたのであった。
 保元、平治と内乱が続き、畏れ多くも兄の崇徳上皇が讃岐という遠国に配流され、大量の死罪が決行される末世である。
 地獄と隣り合わせの世の中となり、信西が申したように、これからは金と武力が全てを支配するようになるのであろう。乱後一切の武力を握ったのが平清盛で あり、清盛は父忠盛譲りの莫大な財力も有している。これからは清盛抜きの政事はありえないだろう。後白河はじっと観察して、そう見極めた。こう判断すると 後白河はその権力の回復のため、清盛を利用することに決めた。
 後白河の同母姉の上西門院統子に仕えていた平滋子に手をつけたのも勿論、滋子が清盛の妻時子の妹だからであった。
 平治の乱で姉の城西門院とともに幽閉された時も、後白河は滋子を傍らに侍らせ離さなかった。乱の後、清盛の力が強くなるにつれ後白河の滋子への寵愛は深 まっていき、滋子を通じて、後白河と清盛は次第に結びつきを深めていった。
 翌年美福門院死去。
 後白河は生母の仇敵ともいうべきこの女院に生涯孝養を怠らず、礼をつくした。だが、ほっとしたのも真実である。これで、後白河にとって頭の上がらぬ者が 又ひとり減った。先に信西、そして美福門院。これであとは清盛さえうまく使いこなせばすべては意のままと、後白河は笑っていたかもしれない。
 さらに翌年寵姫平滋子が憲仁親王を生んだ。後白河は清盛にとっても甥にあたる皇子の誕生を喜んだ。
 十二月、清盛が後白河の機嫌を取り結ぶために造進した蓮華王院が完成した。帝王後白河はこの宝蔵に自分の最も大切な所蔵の品々を集めた。
 長寛二年(一一六四)八月二十六日、崇徳法皇崩御。
 だが後白河はこの悲運の兄のために京では何の法要も行わなかった。崇徳の遺骸は讃岐の白峰山の山頂に葬られただけである。
 四年後、後白河が今様の師と仰ぎ深く敬愛した乙前が八十四歳で死んだとき、後白河は自らわざわざその病の床へ見舞いに訪れ、最期を悟った乙前の為に「法 花経一巻」誦み聞かせて後、今様までも唄ってやっている。兄に経の一つも誦まなかった後白河が、である。
 後白河ら中央政府が崇徳のために鎮魂の行を施したのは十年も後のこと、安元元年(一一七五)白峰の御陵が雷の如く鳴動するとの報告で、朝廷は祟りを怖れ て慌てて、讃岐院と呼んでいたのを崇徳院の院号を改めて奉った次第であった。
 寿永三年(一一八四)、保元の乱の古戦場である春日原に粟田宮を建て崇徳と頼長の霊を祀り、建久二年(一一九二)、病に倒れた後白河は崇徳の祟りを怖れ て、白峰御陵の傍らに頓証寺を建て崇徳祀った。
 余談になるが、これ以降、天変地異、政変と世の中が騒がしくなり、人心が動揺すると必ずや崇徳の名前が取り沙汰されるようになった。いつしか魔界の闇の 帝王に祀り上げられていった崇徳の怨念をこの国の支配階級はいかに怖れ続けていたことか。
 驚くべき史実がある。
 明治になる直前、慶応四年(一八六八)八月二十五日、明治天皇の勅使が讃岐に下向、二十六日つまり崇徳の命日にその御陵の前で御霊を京都に還御願ったの である。こうして崇徳法皇の御霊は死後七百五年目に、京都の新しい神廟に祀られた。これは明治天皇の父孝明天皇のご遺志でもあったという。
  崇徳法皇の死から七百年余経ても、明治の為政者たちにとって、平安末期の荒ぶる御霊の動向は気になり、鎮めるのに必死であったのだろうか。

 時間を平安末期に戻す。
 長寛三年(一一六五)七月、二条上皇崩御。
 身体の不調を訴えられた二条天皇はひと月前我が子の六条に譲位していた。だが六条帝はすぐにも廃され、皇位は後白河と滋子との間に生まれた憲仁が嗣ぐの は誰の目にも晢かであった。
 憲仁が生まれたことで、後白河からすれば二条天皇の皇統は不要になっていた。二条のあっけない死を不審に思う公家も少なからずいたが声を上げるものはい なかった。
 皇室の長い歴史の中で、これほどの横紙破りは無いと言われながらも迎えた多子を二条は愛し、大切に遇した。
 二条の細やかな愛情の中で、日一日とわだかまりが消え、多子はこの若き帝王と共に歳月を重ねる決心が出来ていたのだろう。だが運命はまだ多子に過酷で あった。たった六年の暮らしでまたも夫と死別した多子は今度はすぐに出家した。
 多子の長い余生は若くして崩御した二人の天皇の菩提を祈り続けた日々であったろう。



                              第七章

 
 仁安元年(一一六八)、この年平滋子が生んだ憲仁親王が遂に即位して高倉天皇となった。滋子は皇太后となり、さらに翌年には女院の院号を贈られ建春門院 となった。
 そして後白河は出家して法皇となった。清盛の専横が目立つようになったこの頃、後白河は久しく忘れていた兄崇徳上皇や信西入道のこと、そして我が子二条 帝のことを思い出すようになっ
た。                                                                                      
 │    │ 平治の乱からもう十年が経ったのか。朕も四十二歳になった。                      │
 兄崇徳は四年前に崩御。都から遠く離れた讃岐の粗末な配所で、兄崇徳は怨念と呪いにだけ生きたと聞かされている。
 兄は、美福門院と朕のことを呪い続けたそうだ。
 髪も切らず、髭も剃らず、爪も剪らず、生きながら天狗さながらの姿になって、吾が指を食いちぎって、その血で経文を書き、その経文の最後に「三悪道に投 げ込み、其の力を以て、日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」と舌を喰いきって血書したそうである。
 兄はまさに自分の魂を食い破っていく怨念の鬼となって配所で死んだのだ。なぜそんなに醜いおぞましい姿を晒されたのか。帝王ともあろう方は美しく死なね ばならぬのに。
 この身が肉親の兄に冷たいと言う者も多いらしいが、天子に父母無し、まして兄無しである。それに朕は遙か幼い頃にとっくに肉親の情とやらは捨てている。
 兄と朕に冷たかった父鳥羽。いつも変わらず優しかった母待賢門院。事あるごとに朕を庇ってくれた兄の崇徳。冷淡な父を恨めしいとも思ったが、兄が白河法 皇の子であると知ってからは父の苦悩も理解できた。美しく優しい艶やかな母待賢門院にそんな魔性が潜んでいるのかと、不信感も持った。栄光に包まれて生ま れ、幼くして帝位に即いた兄崇徳だが、どう考えてもその未来は悲劇しか待ち受けていないと信西は考え、朕も同感した。不義密通の果ての子として生まれたの は兄の、前世の定めか。どうすることも出来ない。朕はそれに巻き込まれぬようにするだけだった。
 あの時決心した。肉親の情やには心を煩わされまい。動かされまい。父、母、兄のあの三人の関係に未来はなかった。
 我が血縁に、肉親の情に拘れば、傷つくのは朕自身。それどころか朕も滅びしかなかったであろう。
 父の愛は美福門院所生の皇子や皇女にしかなかった。朕はどうせ皇位は継げない不要者、廃れ皇子と言われているのだ、今様や絵や笛など、美しいもの、楽し いものだけにしよう。美に心を動かすのならば朕が振り回されることはない。
 権力に振り回されるのも嫌だ。父母の秘密を知った十一歳の時、朕はそう固く決心した。権力には近づくまい、だが権力に関わらずにおられないのならば、こ の身が権力そのものでなければなるまい。
 思えば保元の乱の原因は全て絶対君主・白河法皇の気まぐれからでたものである。白河法皇が死んで、母は後宮での力を全て失い、人間関係や肉親の情や愛に 拘った兄は天皇の座を追われ、最後は流人となり怨念の鬼となって果てた。これも仕方のない運命だったのだ・・・・
 追憶の中で後白河は兄のために初めて一筋涙を流した。しかしそれは讃岐の配所で死んだ兄への鎮魂の涙ではなく、少年の日に父に愛されなかった寂しい兄 弟、小さな手と手を握り合った幼い兄と自分への哀惜の涙だった。それにしても、と後白河は涙を拭くこともせず思う。
                                                                                         
 │    │ 信西が死んで十年、世の中はなんという変わり方をしたのであろうか。我が子        │
二条天皇が亡くなり、清盛がとうとう太政大臣となってしまった。
 平治の乱では信西を失った。自分を帝位に就けた最大の功労者は信西であったが、あれで信西政権が続いていたらこれはまた朕にとって、鬱陶しいことだ。権 力は朕のみ。他は全て自分の手足だ。朕を帝位に即けた信西も例外ではない。朕に替わる立場の者の存在は許さない。だが、信西よ、そなたが、信頼たちのよう な佞臣を弾劾し、暗君である朕を戒めた『長恨歌絵』も、今でも大事に持っておるぞ。そなたの形見だと思うてな。
 そして我が息子二条天皇守仁・・・あぁ、朕の即位はあれを帝位に即ける中継ぎだった。あの行儀良く賢く可愛かった守仁が保元の乱後天皇親政をやりたが り、朕に悉く反発しだした。あれが朕に反発しなければ平治の乱は起こらなかったかも知れぬのに。頼長の養女で近衛天皇の中宮だった多子を自分の後宮に強引 に再入内させたのはあれはなんだったのか。
 世間では「二代の后」は例がないと批判されたが・・・朕ももちろん猛反対したが守仁は聞かなかった。朕に向かって「天子に父母無し」故に多子の入内は思 うようにやると、言い放った。大恩人の美福門院の諫めさえ聞かなかった。美福門院も多子の入内は嫌であったろう。多子は美福門院の生涯の仇敵我が母、待賢 門院の縁戚の姫。世間では多子は待賢門院に似ていると言われていたからな。
 それなのに守仁は自分を押し通して、前の帝のお古を妃とした。
 守仁も自分が天皇である、至聖である、だから何でも思うとおりにやらねばならぬと自分をあんな形で鼓舞したのだろうか。だがもっと大人しくしておればあ んなに早く、突然崩御することもなかったのに。
 守仁も天皇とはいっても、朕と信西が院政を執り、清盛の武門が周りを囲み、息苦しく、反発して殻を破りたかったのかも知れぬ。思うようになることなど自 分の後宮しかなかったからな。
 朕も清盛が煩わしい。武士が鬱陶しい。 
 そうなのだ。この頃とみに我慢がならぬのは、卑しき下級貴族や、皇室の番犬に過ぎなかった平相国ずれ・・・清盛ふぜいと妥協するために朕は死んだ二条天 皇の子六条天皇を譲位させ、滋子が生んだ憲仁皇太子を即位させ、高倉天皇とした。今の平家の奢りをみたら清盛を配下のごとく使っていた黒衣の宰相信西はな んというであろう。
 なんにしても清盛の専横はなんだ。位人臣を極めた上に、この頃は娘の徳子を高倉の妃として入内させる意向が露わだ。いづれ皇子が生まれれば外戚として摂 関政治をやるつもりなのだ。
 滋子は平氏といっても堂上公家であるから朕の妃としてまだいい。
 そこへいくと清盛は全くの成り上がり者ではないか。それが娘を入内させ、いづれ女御から中宮とさせるつもりであろう。成り上がり者め! なんの伊勢平氏 ふぜいが!・・・
「三悪道に投げ込み、其の力を以て、日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん云々」といって死んだ兄の崇徳の呪いが効いてきたのか。
 かといって今、清盛と争っては朕の負けだ。武力の前には法皇とてもどうにもならぬ。・・・解っているが、むかむかする。なんとかして平家を潰さねばなら ぬ。どうにかならぬのか。だが、今は、清盛と対決しては朕がやられてしまう。朕には武力がない。ここは時がくるまでの我慢だ。実に腹立たしい。
 なにか憂さ晴らしはないか。何とかこの気分を抑えねばならぬ。清盛に悟られてはならぬ。癪だが、いつの間にか、卑しき武者の世になってしまった。ムシャ ムシャするが、武者、武者か、・・・

        武者を好まば小胡ぐひ
      狩を好まば綾藺笠 捲り上げて・・・・・

 そういえば、・・・昔、作りかけた・・・そうだ! あれだ! あの信西が父帝の命で編纂した『本朝世紀』の中の一行に目を留めて、寛和の斎宮の不義密通 を絵巻物に仕立てあげることをやりかけたことがあったな。そうそう、近衛帝が即位した頃だったか、近衛帝の様態が悪化した頃だったかな。寛和の斎宮が滝口 の武者と密通したのを題材にして偃息図の絵巻を作ろうとしたのは、美福門院に警戒心をもたれないようにという、信西の深慮遠謀だった。
「今様は歌舞音曲、帝の病が篤いときにいくらなんでも畏れ多いことでございます。それよりここは大人しく部屋に籠もって、絵巻の詞書きでも考えていらした らよろしい」
 そう言った、信西の言葉を容れて、近衛帝の病状の悪化している間、ほとんど部屋に籠もって、詞を考えたものだった。
 絵も下絵を自分なりに描いてみたりした。卑しい町の絵師に描かせてみたこともあったが、完成間近で近衛帝の危篤。ここはほんとに神妙に近衛帝の病気平癒 でも祈っていろという信西の指示で勿体ないことに止めてしまった。あの時は実に残念であった。
 あれから、間もなく近衛帝崩御。
 そして信西の思惑どおり、朕の即位。父鳥羽法皇の崩御。そして保元の乱、平治の乱、信西の死と立て続けにいろいろあって、今様どころでもなかった。
 絵巻のことはすっかり忘れていた。結局今日まですっかり忘れていたということはやはり今様ほどに朕の心を掴まなかったのか。
 しかし、そうだ、あれからだ。朕は絵巻物を蒐集する癖がついたのは。偃息図の詞書きを自ら書いたことで、絵巻物を見るとすぐに欲しくなったんだ。蒐集し た絵巻などを収める宝蔵まで清盛に命じて建てさせた。・・・そうだ思い出した。あの偃息図の絵巻を作りかけたのが絵巻好きのきっかけだ。あの作りかけはど こへいったのか。あれを捜してみよう。文庫の隅にあるに違いない。もし出来が悪ければ詞書きは朕がもう一度文案を考えてみよう。今の朕の身で有れば当代一 の画工にさせる。・・・・確かあの事件、平致光とか申したな。卑しい番犬の滝口の身で斎宮を犯すとは。
 平、か。平家であれば清盛の先祖だったかな。
 いづれにしても、侍。滝口ふぜいだ。それが帝の孫姫とちぎるとは・・・平相国などと申しておるが、もともとは受領や北面の武士の類だ。滝口と同じ。卑し い武士の出である清盛の娘が、入内して帝のもとに侍るとは。ちょうど男と女の立場が逆だが、あの平致光と斎宮の話と似ておる。
 あの絵巻は皇位などに未練がないことを示すために、我が身を護るために作り始めたものであったが。運命というものはわからない、と愚かな者は言うが、運 命は自分で掴み取るものだ。兄崇徳のように生まれだけを誇って、天を見上げて口を開いていても何も入ってこない。朕は我が知恵で、運を掴み取った。これも 今様や偃息図の絵巻の持つ霊力かも知れぬな・・・

 そう思うと後白河は突然大きな笑い声を上げた。
 しかしそれは信西がよく言った、「雅仁さまの夏木立を渡る薫風のような美声」ではなかった。どこか湿り気を帯びた、生臭さでも漂うような不気味な生き物 を思わせる声であった・・・
 後白河はいつも時代の風に敏感で、時宜になるまで我慢強く待てる男であった。
 その昔、信西が黒衣の宰相として国政を握ったときもそうであった。
 すべてを信西に委ねそれで満足した顔をしながら、心の奥深くでは自分を楯にして権勢を振るう信西が次第に目障りになり、信西を抹殺する方便はないかと考 えた。
 信西の敵が必要だ、そう思って藤原信頼を寵愛した。信西は後白河が男妾として藤原信頼を寵愛していると思い込んだまま死んだようであったが、単なる男妾 ではなかった。信西の力を削ぐために信西の敵を作るのが目的だった。
 清盛が太政大臣になったその時から、後白河は平家一門の滅亡を願い始めた。政権を維持するためには清盛の富と軍事力のが不可欠であることを認めざるを得 ない。そのためには常に注意深く行動し清盛の心を迎えるべく振る舞わざるを得ない。決して表立って清盛と対立してはならなかった。
 治天の君たる自分が臣下の清盛に気を使う。
 これは後白河の清盛に対する警戒と憎悪を掻き立てた。後白河の裡深く熾のような重苦しさがふつふつと静かに燃えて始めていた。
 宮中や権門家の警護のために侍っていた武士が、山野を駆けめぐっていた者が、急に公卿の列にのし上がり、清盛は太政大臣である。
 清盛の武力や財力を必要としそのためここまで重用し、引き上げたのは他の誰でもない、後白河自身であった。それは充分承知で清盛の専横ぶりが許せなかっ た。
 清盛が位人臣を極めたその時から、後白河は早く、一日も早く平家を倒さねばならぬという考えを持った。
 国家に二人の権力者は要らない。この国の実力者は「治天の君」ひとり。武家はいつまでも侍、番犬でなければならぬ。
 だが、今は耐えねばならなかった。待たねばならなかった。今、清盛には時の勢いがある。天命といってもよいような勢い、力を持っている。だから自分は嫌 であろうと何であろうと入道相国を引き上げざるを得ないから引き上げたのだ。今しばらく、清盛の時の勢いが衰えるのを待とう。
  古代王権への固執、摂関家の真似をする成り上がり者の清盛一族への反感。
 後白河は再び偃息図の絵巻の完成に情熱と時間を注ぐことで平家に対する憎悪を発散し、政争に巻き込まれて抹殺される危険から身を避けた。年老いても斎王 の密通という天皇家の醜聞を主題にした偃息図の絵巻作りに熱中する法皇後白河。殿上人たちは今様狂いの後白河らしいと噂した。
 後白河は偃息図絵巻の制作に没頭することで、しばし平家に対する憎悪を紛らわし、自らが政争に巻き込まれるのを避ける気分の余裕が出来た。
 絵巻は完成した。この偃息図のために当代一の絵師常磐光長に指示して改めて描かせ、詞書きにも手を入れた。即位直前に作りかけたものより、今回の詞書き がより露骨でくどくなったのは勿論である。
 文末には「本来無一物のうてな虚無の戯れ、真実の道知らぬ山の端にこれ潅頂巻たやすく許されるべくもなん。その思ひ慎まざるにや」と仏教者らしき説教の 一文まで書き加えた。 
                                                                                         
 │    │  人間は本来無一物の存在である。女相手であろうが、男色であろうが、             │
所詮愛欲は戯れ。愛欲の契りに込められた深い真実の道は俗物には簡単に許されるものではない。真の色好みの道を知る者にのみ許す。しかも斎宮は天地開闢の 秘儀を体現するもったいなきお躰。これこそ陰陽の神のなせる秘戯。まさしく仏法の悟りじゃ。まぁ、いわば潅頂に通ずる・・・そうじゃ、この絵巻『潅頂巻』 と呼ぶことにいたそう。
 後白河はこの命名に満足の表情を浮かべた。
絵巻は後白河の指示通りの場面に描かれた。後白河は見事な出来に、寵姫・建春門院平滋子とともに過ごす夜にこの巻物を広げ、自慢した。
 建春門院平滋子。
 建春門院はいまでこそ、女院さまと崇め奉られているが、元を糺せば、後白河の姉、上西門院統子内親王に小弁の局と呼ばれる取るに足らない身分の女だっ た。それが、後白河の目に留まりお手が付き、皇子を生み、皇子が即位して国母となり、後白河という横紙破りの帝王の狂気じみた寵愛によって、皇太后とな り、ついには建春門院という院号まで賜ってしまった、前代未聞の成り上がり、と世間はそう思っていた。
  確かに滋子は上西門院の女房達の中では抜きん出て美しく、後白河は一目で気に入った。しかしそれがお手つきの一番の理由ではない。滋子への寵愛の最も大き な理由は、保元、平治と続いた戦乱で一気に政界の頂点へと上り詰める勢いの平家の武力と財力への協調と追従であった。後白河はあくまで深慮遠謀なのであっ た。
 新年ともなれば、百官を従えた高倉天皇自ら、朝覲行幸、つまりご両親である後白河と滋子の御所を訪れ拝謁する。
 この場面に出くわした昔の宮仕えの朋輩が、嫉妬の交ざった阿諛迎合で、
「城西門院さまのお許にいらした時から、女院さまは私どもとは違って光り輝いて、並みの女房とは違っていらしたけれど、御国母となられて、この御めでたさ をいかがおぼしめされますか。なんとお幸せのこと」と言った。
 すると建春門院滋子はさらりと言った。
「帝をお生みするということは我が身の前世から定め。有り難いことではあるけれどそんなに懼れ畏まることでもない。国母であろうとただの母であろうと、子 が親に敬愛の情をしめすのも自然の理じゃ」
 このやり取りを耳にした後白河は、あっぱれ、堂堂たる女院ぶりと、滋子を褒めた。
 滋子は、成り上がりだという世間の評判は歯牙にもかけなかった。自分の出自を恥じて無理にも立派に、高貴に、威儀を正して振る舞おうとするでもなかっ た。
 蒸し暑い夏の日など、「暑いわね」と袷の胸元を拡げ、その白い肌をぱたぱたと扇いだ。全く下々の女がするようなことを侍女たちの前でもした。そこに無理 に取り繕ろおうとする下品さは微塵もなく、いつも伸びやかで自然であった。
 後白河が、今様を聞きに白拍子を訪れるといえば、「私もお供をしたい」と女房姿に身をやつして忍び歩きをするなど、後白河に素直に添った。
「女の幸せは自分の心構えが第一よ。親の思いだとか、人の待遇だとか、あの人は運が良いなどと羨むよりも、自分の身や心を謹んで、磨いていれば自ずと、身 に余る幸せも来るもの」
 そう言って屈託のない滋子が文句なし、打算抜きに愛おしかった。
 こんな滋子であったから、他の妃たちと違って、偃息図絵巻をたいそう気に入った。
 無邪気な滋子はこの絵巻物が平家を皮肉っているとは夢にも思わず、これを高倉天皇に入内する姪の徳子姫に引き出物の一つとして持たせたいと言い出した。
「帝はまだお若いから、閨のことなど心配しておりました。今、これを眺めて良いことを思いつきました。徳子姫にこれを与え、我が子高倉天皇に入内の折、引 き出物に持たせたらどうでありましょうか。世間知らずの二人の、夜々のために。しかもこの絵巻物の絵の構成をお考えになり、詞書を考え、自ら御筆を執って お書きになったのが、帝の御父君の法皇さまとなればこれほどよい入内の引き出物はありますまい」
 自分の思いつきに滋子は膝をたたきこれを後白河にねだった。
 後白河は笑ってこれを許した。
「主上と添臥の姫のために、朕が枕絵を作らせ、しかも自らそこに詞書を書き添えた偃息図の絵巻を贈れと申すか」
「さようでございます」
「これでは,また本朝第一の暗愚なる治天の君、という評判が立とうぞ」
「御意。上皇様にお似合いな贈り物だこと。徳子から聞いて、あの真面目な主上がどんなお顔をなさることやら・・・」
 滋子は、艶然と笑った。
「なるほど、これは面白い。ならば早速、常磐光長か藤原隆信に申しつけて一巻模写するようにさせよう。徳子姫が入内の時、それを持たすがよい。そして新枕 の夜にまずこの絵巻を眺めてから床につくように命婦に申しつけよ」
 滋子は自分の思いつきに単純に悦んでいる。その滋子を引き寄せながら、後白河はまた別な思
いに笑う。                                                                               
 │    │ 卑しい侍の身分から這いあがって、成り上がり、ついには太政大臣にまで            │
登り詰めた平清盛。その卑しき滝口や北面ふぜいの平氏の血をひく娘が朕の子高倉帝と睦むのか。
 これで、いよいよ清盛とは縁戚関係が強まり、名実ともに親密な関係になるわけだ。確かにあの男のが握っている平氏の武力は魅力だ。きゃつらの富も。それ にしても身分卑しき滝口と聖なる斎王の密通を赤裸々に描いた偃息図を持って入内とはなんたる皮肉。
 貴族面をしている平氏はもともと卑しい侍に過ぎないことをしっかり描いた絵巻なのに。 滋子も徳子も自分たちは高貴な斎宮の側の人間だと思っている。あ の奢る平家が、宮中警護の卑しき滝口平致光の側という自覚はあるまい。
 なんという愚かさ。天皇家は天皇家。貴族は貴族。武士は所詮武士、貴族に仕えその番犬代わりに侍ふ者じゃ。用が済めば、何れあの卑しき者どもは滅ぼす。 あの卑しき者どもの武力など畏れるに足らず。強き者には敵を作り上げ互いに戦わせて潰せばよい。
 後白河はふっ、ふっ、ふ、ふ・・・と低く笑った。
 この絵巻物の本歌の一巻は宝蔵院に収納された。
 承安元年(一一七一)十二月清盛の女徳子は入内。このとき徳子は数々の贅を凝らした調度とともに偃息図の絵巻の写しも持参した。
 若い二人はこの偃息図を寝所でどのような顔をして見たのであろうか。それを伝える記録や資料は何も残っていない。
 建春門院滋子が細やかに世話を焼き、様々に気配りをした高倉帝と徳子の仲はいかがであったのか。
 高倉帝はその後徳子に仕えていた桜町中納言の娘小督局を寵愛する。『平家物語』の名場面「小督」の主人公である。清盛・徳子の父娘を悩まし、憎まれ、嵯 峨野の山奥に身を隠した美貌の琴の名手小督は、清盛を引き立てながら清盛と後白河に見捨てられて志半ばで非業の死を遂げた信西入道の孫娘であった。

 しかし、まさに「平家に非ずんば人に非ず」と、思うまま権力を振り回した平家の専横も長くは続かなかった。
 周知の如く、建春門院平滋子没後、後白河と清盛の不仲は次第にはっきりした形を顕し、鹿ヶ谷の謀議、鳥羽殿幽閉、以仁王の令旨、木曽義仲入洛と歴史はめ まぐるしく移ろい、清盛の死後、文治元年(一一八五)後白河法皇五十九歳の歳には、平家一門が壇ノ浦にて滅亡した。
 その後も、後白河が寵愛した源義経は兄の頼朝に亡ぼされ、ついに頼朝が天下の覇権を握った。
 この内乱に明け暮れた激動の半世紀は、後白河天皇即位後間もない保元の乱に始まった。後白河は中世への転換という歴史の大きなうねりの中で、風狂の君、 廃れ皇子として人生の前半を生き、思いがけなく天皇の地位を得、さらに上皇の地位に在り、いわゆる「治天の君」としてその独特な政治的手腕で王権の運命を 担い、権謀術数の生涯を全うした。
 幼い日から逆境の中にあっても後白河は、絶望を知らなかった。
 父鳥羽上皇に目をかけてもらえず、風狂の君、廃れ皇子として少年時代を過ごし長く日の当たらぬ場にあって信西の教育で培われた、待つべき時は待ち、耐え るべき時は耐えることのできる誰よりも粘り強い帝王であった。
 庶民の芸能、田楽や今様に熱中したことで民衆を知り、また時代が変わりつつあるという情報をも人一倍早く詳しく知り得た。
 そしていかなる強敵が現れようと自分の置かれた状況をしっかりと見据え、忍耐の後、好機が訪れると時を逃すことなく反撃にで、自分を脅かす存在に対して は、その敵対者を育て上げ、捜しだし、これを戦わせた。こうして幾たびか間一髪のところで自らの王者の位置を守った。
 平家転覆計画が発覚すれば幽閉に耐え、平家を滅ぼすために木曽義仲を都に迎え入れ、義仲が覇権を握りそうになると鎌倉の源頼朝に通じて範頼・義経の入洛 を促した。
 義仲に強いられれば頼朝追討の宣旨を出し、義経に頼まれれば頼朝追討の院宣を書き、頼朝に脅されると義経追討の院宣も出した。
 不節操とも無定見とも言いたい者には言わせよう。下々の思惑など帝王にとって些細なこと。
 こうして法皇は義仲を倒し、平氏を滅ぼし、義経を生け贄にして自らは生き残った。後白河にとって、自分が生き残るのがこの国の正義であり節操であった。
 信西はその類い希な知識と才覚で後白河を育て即位に尽力した末、後白河に疎まれ見捨てられ、仕組まれた反乱での無念の死。
 崇徳上皇は配流地で自分を裏切った弟の後白河のみならずこの国を呪い、冥土の帝王となることを念じ憤死。
 後白河との協調・確執の末、位人臣を極めた平清盛は頼朝の蜂起で平家一門の未来に不安を覚えながら熱病で悶死。
 源頼朝は北条一族の専横に後継者の未来に不安を感じつつ落馬が原因の病死。その後、鎌倉将軍源氏は三代で絶えた。
 様々な人物群像が後白河の時代を彩った。そして、彼らはいずれも乱世という時代の狂気とうねり、そこに生きねばならぬ葛藤にとらわれ煩悶したのであっ た。
 天寿を全うしたといえるのは「日本国第一の大天狗」後白河のみであった。その最期は大音声で念仏を七十遍も唱え、畳の上での大往生であったという。
 しかも後白河は権謀術数の日々に明け暮れるその閑を盗むように、生涯雑芸とくに今様に熱中し、熊野詣でを繰り返した。
 長寛二年(一一六四)、平清盛が造進した蓮華王院の宝蔵に後白河は、漢詩、和歌集等の典籍類、「年中行事絵巻」や「病草紙」等の夥しい絵画類。琵琶、 箏、笛、笙、琴譜、催馬楽譜等の楽器類と多くの宝物を蒐集した。
 後白河の諸芸への興味、こだわり。後白河は本能的に文化や芸術の持つその底知れぬ力や怖さを知っていた。これを手にした者が持つカリスマ性をもわかって いた。
 美や芸術・芸能がこの人間社会に於いて、政治に於いてもいかに重要か、抜き差しならぬ影響を及ぼし、情報を発信し、かつそれを収集できるのかを、本能的 に熟知していた比類なき遊芸の帝王であり、演出家でもあった。
 武家政権との確執の中で古代王朝政権に固執し、その維持に生涯を賭けた後白河法皇はその幼少期、青年期において皇位継承から最も遠い立場にいた。
 それが突然皇位についた。まるで棚からぼた餅のごとく、皇位が転がり込んできたのであった。だが、後白河はきっと言うであろう。
「境遇などというものはまことに些細なもの。人生はいかに、この手で運命を切り開くか、奪い取るか。それが全てだ」と。
 さらに言うであろう。
「信西も散り、平家も摂関家としての地位を得ることができなかった。朕は朕の命ある限り、頼朝にも征夷大将軍の身分は許さなかった・・・幼い日から父帝と 母宮の間に冷え冷えとしたものが流れているのを感じ取っていた朕は誰にも心を開かなかった。ただ朕にとって美しきもの、楽しきもの・・・帝王の規範たる芸 術や美ではなく、民草が狂乱する楽や今様や田楽や笛の音、絵画や絵巻物には芯から心を預けた。だからこそ、朕は天位を授けられ、最後まで権力を手放すこと はなかった・・・
 今様や偃息図の絵巻制作に熱中することで、得子皇后を安心させ皇位も継いだ。清盛との対立からも逃れた。民衆を突き動かす雑芸と信仰と美こそが、また朕 の力であり、信じられるものであり、確かなものであった」と。
 高倉帝の崩御後、不必要となった偃息図の絵巻は何処へ行ったのか、その所在は不明である。
 宝蔵に収められた一巻は源平の戦の混乱の折り、法師が寺から持ち出したとも言われ、いつしかその偃息図の絵巻は『小柴垣草子』あるいは『潅頂巻』 と呼ばれるようになり、後に絵師・藤原隆信の手に渡り、これを息子の信実が模写したといわれる。
 信実には逸品の『佐竹本・三十六歌仙図』というものが残っている。
 この中にも済子と同じく醍醐天皇の孫で斎宮となった女王の絵がその御製の和歌とともに描かれている。有名な「斎宮の女御徽子」の図である。これは八百余 年後の現代にまで伝わり、至宝として名高い。
 徽子は娘の規子も斎宮に卜定され娘について再び伊勢に下向した。このため徽子は『源氏物語』の六条御息所のモデルではないかとも言われている。
 徽子の娘規子内親王は病死した済子の姉隆子の身代わりの斎宮であり、済子はその規子の次の斎宮に卜定されたのであった。
 徽子がヒロインのひとりとなった『源氏物語』は日本を代表する名作の一つとして千年の時を経ても世界中で読み継がれている。
 一方、後白河が廃れ皇子と謗られた若き日に描かせた『小柴垣草子』。
 『源氏物語』の作者紫式部の又従姉妹である済子女王の密通事件を取り上げて描いた偃息図の絵巻は宮中の確執の中に制作され、源平の戦いをもくぐり抜け て、鎌倉から江戸、そして現代へと密かに模写され続け、旧家の蔵の奥深く秘蔵されてきた。
 この絵巻が公に展観されることはない。
 同じ天皇を祖父とし、絵巻に描きとどめられた姫君ふたり。後世に雲泥の扱いをうけた二人の斎宮、徽子と済子の運命の数奇を思わずにはいられない。
 そもそも藤原兼家あたりが台頭してきた寛和の御代、斎宮となり偃息図の絵巻のヒロインとなった廃斎宮済子姫の密通事件の真実はいかなるものであったの か。
 それは歴史の闇に呑み込まれ、人々は現代にまで伝えられた偃息図の絵巻の中の淫靡な恋としてしか知らない。                                                           
(了)