「e-文藝館=湖(umi)」 随
筆
もちだ はるみ 1936 大阪府に生まれる。 主婦。 2008年11月12日
阿波丸と
消えたゴム長靴
持田 晴美
歴史を訊ねる会の方たちと、増上寺や近くの丸山古墳を訊ねて歩いた。
案内を見たときに増上寺内の徳川家の歴代将軍や和宮の霊廟見学などのほかに「阿波丸遭難慰霊碑」があり、驚いた。
阿波丸事件はもう歴史なのだ。
増上寺の大きな山門をくぐり少し歩いたところに殉難者合同慰霊碑がある。阿波丸に乗船して、殉難した2000人に余る人たちの名が一人ひとり刻まれてい
る。
ありました。
私の叔父の名が。「 頼政」と。手でなぞってみた。カメラに納めた。慰霊祭に参列したときとは異なる気持ち。
1945年終戦の年。3月には私たちの下谷の家は戦火に遭い焼け出された。打ちひしがれていたであろう家族に朗報が。
逓信省の役人としてシンガーポールに赴いていた叔父が帰国してくると。
絶対安全な緑十字の船に乗るのでと。逓信省や外務省などの上官たちと一緒だから安全だと。
本土決戦が近くなってきたので、大事な人は帰してもらえるのだと聞かされ、私は信じていた。
「ほしがりません 勝つまでは」と言っていた国民学校2年生だった私はその頃もう内地では手に入りにくいゴム長靴をお土産にと慰問文にねだって、首を長
くして待っていた。
生まれたばかりの娘と新妻を置いて、叔父はアメリカの潜水艦の魚雷を受けて海の藻屑となり去ったのだ。
その叔母は気持ちは今も新婚のままだ。80歳を過ぎてもまだ夫のことを「頼政さんがね‥‥」と話す。
従妹は全く父親のことを知らないので、話をした事のある私を羨む。
従妹のアルバムには新妻と軍刀を持った勇ましい父親の姿だけ。
阿波丸事件は戦後も、いろいろ日米間で問題になったが、事件の真相ははっきりされないまま、今ではもう歴史の一つなのだろうか。