招待席
みやたけ がいこつ 出版編集者 1867.1.18 -
1955.7.28 讃岐(香川県)小野村に生まれる。明治十八年(1885)外骨と名乗り、生涯に「頓智協会雑誌」や「滑稽新聞」「スコブル」等を興し
また不敬罪で下獄するなど波瀾あって後、大正十三年(1924)東京帝大に入り明治新聞雑誌文庫を創設した。 掲載作は、大正四年(1915)四月二十三
日、大阪文藝同攻会の講演会にて「俗文学と猥褻」と題して口述した大意であると著者は云う。 (秦 恒平)
政教文藝の起原は悉く猥褻なり
宮武 外骨
進化説を骨子とせる新科学の上より見れば、道徳観念は原人が社会を組織する必要上発生せし思想の習性たること明かなり、而(しか)して其(その)道徳観念
の一たる羞恥の感の如きも、生存競争の一事象より起りしものたること論なき所とす、裸体にして恥(はぢ)ざりしは原始時代の常態にあらずや、後世の政治家
は其道徳観念を維持せんがため、普及せしめんがために法律を制定し、今は公然の猥褻行為を禁じ、猥褻物品の販売陳列を禁ずれども、享保七年十一月迄は春画
の出版を許し、明治五年十一月迄は猥褻行為を罰するの法律は無かりしなり
抑(そもそ)も猥褻と云ふこと果して醜陋(しうろう)なりや否やと云ふに、これ人類存続上の最大必要事物にして、毫も恥づべき事、恥づべき物に非ず、然る
に之を猥褻と目するに至りしは、原人時代に於ける生存競争上の習慣、即ち掠奪防禦の必要上より出でたる秘密行為の習慣が道徳観念に変化せしなり、故に猥褻
とは人道の大本を客観したる事にして、生殖の機関、性慾の遂行そのものは神聖と称すべきなり、夫婦の同衾(どうきん)は道徳法律の禁ずる所にあらず、只之
を客観的に露出し客観的に描きて公表すること初めて猥褻たるなり
茲(こゝ)に述べんと欲するは、俗文学と猥褻との関係なるが、啻(たゞ)に俗文学のみならず、社会百般の事物は概ね性慾事物即ち猥褻に起因するものなり、
人間の身体が所謂猥褻の行為によつて生出(せいしゆつ)せると同様、人間の精神は所謂色気によつて活動し、其精神の発作たる政治、宗教、文学、美術等、悉
く猥褻に起因するものと断言して憚らざるなり
政治
先づ政治の起原を説かん、抑(そもそ)も社会とは団結的生活を云ひ、其団結的生活は生存競争上の必要より生じたる事なり、語を換へて云へば、自然淘汰の結
果が社会を形成するに至りしなり、而して其社会の民衆を統御する政治は、超越せる剛勇者、即ち優勝者の圧制執行と云ふ点もあれど、要するに共益によつて成
立せしものなり、其政治は原始時代に於ける人々の衣食住を安全ならしむると云ふよりも、尚一層烈強の事由(じいう)たりしは、男女関係の問題なりとす、即
ち分業協力といふ夫婦関係を馴致(じゆんち)せし径路は、性慾上の暴挙たる掠奪婚を制止し、次は種族生存に不利なる雑婚を禁ずるに至りしものにて、政治の
本源は食物争奪の為めに起る挌闘(かくとう)よりも、其数の最も多かりし婦女掠奪の為めに起る挌闘を防止すること、即ち男女間の性慾を牽制せしにありと見
るべし
宗教
宗教の起原は生殖器崇拝にありしこと今や殆ど論なき所たるべし、陰陽和合、万物生々の原力は神なりと信じて男根(なんこん)の模形物を道路の分岐点(即ち
股間に似たる所)に祭りたること後の道祖神にて知るべし
道祖神を古代にては久奈止(クナド)の神と云へり、久奈は男根の義なり(女陰はアタ)鶺鴒をニハクナブリと云ふ、庭にて男根を振る鳥との意なり
個人主唱の宗教は、人文稍(やゝ)発達したる後世の事なり、生殖器崇拝は自然に起りし宗教の本源にして、又偶像崇拝の率先たり、道祖神の変体と目さるゝ後
世の大聖歓喜天(たいしやうくわんきてん)に二股大根を供ふるも亦女陰を供ふるの意なり、春宮(しゆんきう)と称し、子宮と称するが如きも皆生殖器崇拝の
余習と見ざるべからず
文学
文学の起源も亦猥褻にあり、歴史は「みとのまぐはひ」「交接教鳥(せきれい)」に初まり、『古事記』『日本書紀』の所載は今日訳して公表し難き所多々ある
にあらずや、和歌は素盞烏尊(すさのをのみこと)の「八雲たつ出雲八重垣妻ごめに」を濫觴(はじめ)として恋歌(こひか)を和歌の生命とせり、『萬葉集』
所載の恋歌を今日の俗語に訳すれば其淫靡(そのいんび)聞くに堪へざるものあり、国文亦然り、小説の祖たる『竹取物語』は娘一人(いちにん)に婿八人の醜
態を描けるもの、古草子『伊勢物語』は「昔男ありけり」の助倍談(すけべいだん)、『源氏物語』は好色の媒書なりと古人既に評せり、随筆本たる『徒然草』
は「色好まざらん男は玉の巵(さかづき)底なきが如し」と云へる艶法師(つやばふし)の作なり、此外(このほか)『風葉集』に引ける古物語本百数十種は、
只その外題(げだい)のみを見るも春画目録に均しきものならずや
われ恥かしき物語 ちゞに砕くる物語 ゆるさぬなかの物語 忍ぶもぢずり物語 妻恋(こひ)かぬる物語 夢の通ひ路物語 二世の友物語
美術
絵画は生殖器の図としてのしこし山或(あるひ)は草鞋蟲の如きものを描きしに初まることは、古今東西の絵心なき児童が白壁又は便所の壁に怪しきものを描け
るにても知るべし、彫刻も亦木材或は石材にて道祖の神体を刻せしに初まるなり、後世の考古学者が雷槌(らいつゐ)と称して珍重する石棒の如き物も、原人の
包茎時代に於ける石神(じやくしん)本体なるべし、舞踊の起原も男女のドチ狂ひに初まること、今日尚行はるる盆踊り又は西洋ダンスを見て推知すべし
斯くの如く、政治、宗教、文学、美術、等の起原は猥褻にありとすれば、其軟派文学、俗文学の起源も亦猥褻ならざるを得ざるべし、俗文学とは何ぞや、曰く、
戯曲、小説、滑稽、雑俳等これなり
浄瑠璃
浄瑠璃の祖と云へるは、小野お通の作『浄瑠璃十二段草子』なり、此物語は源義経が舎那王丸と云ひし十五の春、奥州に下る途次(みちすがら)、三州矢矧(や
はぎ)の長者の家に宿り、其家の一人娘浄瑠璃姫に通じたる色事(いろごと)、所謂濡れに濡れたる言の葉を十二段に書き綴りたるものなり、当時のお国歌舞妓
亦淫靡の節(ふし)多し、元和偃武(げんなえんぶ)の後も尚戦乱の余習として、剛壮を主とせる岡清兵衛の金平本(きんぴらぼん)の如きもの一時盛んに行は
れたれども、これに代わりしは東洋のセキスピーヤ浄瑠璃中興の祖たる巣林子(そうりんし)近松門左衛門なり、文学者某は「巣林子の作は絢爛高潔なれども後
輩たる竹田出雲、並木宗輔、近松半二、西澤一風等は淫靡猥褻の作のみ」と云ひたれども、其巣林子の作『堀川波の鼓』には下女の部屋に夜這する醜状を描き
『冥途の飛脚』には「そんなら私(わし)はお湯わかいて腰湯して待ちます」と云ひ『関八州繋駒』には御殿女中の裸相撲を描き「脇へずつと外(そ)れては手
負烏(ておひからす)見るやうで凄(すさま)しかろと吹き出す」など猥褻至極のものも数多し
仮名草子
仮名草子の最も古き版本たる元和版の『秋の夜長物語』『鳥部山物語』、寛永版の『若道(にやくたう)物語』、承応版の『犬つれづれ』等は悉く男色(なんし
よく)の淫猥本にして、後の好色本(浮世草紙)は皆これに倣(なら)へるなり
落語本
落語本の祖は安楽庵策伝の『醒睡笑』よりも古き『昨日は今日の物語』なり、此落語本全篇の過半は猥褻談にして、今日若(も)し其一節にても抜載(ばつさ
い)する者あらば、直ちに発売禁止の処分を受くべきものなり、其後の『鹿の巻筆(まきふで)』より『噺の尻馬』に至る凡そ数百種の落語本は悉く皆淫靡の極
を尽せるものなり
浮世草紙
浮世草紙は一名好色本と云ふ、其開祖は井原西鶴にして、天和二年の『好色一代男』を筆頭とす、「消した所が恋の初まり」、世之助は五十四歳迄に三千七百四
十二人の女を犯し、其六十歳の時には床の責め道具を船に満載して女護島(によごがしま)に渡りしと云ふなど、全篇色気に酔はされてウンザリする物語なり、
『好色二代男』『好色三代男』亦これに劣らず、『好色一代女』『好色五人女』は世之助に負けざる淫乱婦人、外(ほか)に『男色大鑑(なんしよくおほかゞ
み)』等のケッ作あり、これに続いて吉田半兵衛、石川流宣、都の錦、西沢よし、北條団水等、元禄の未までに二百余種の好色本を著はし、錦文流、奥村政信、
八文字屋自笑、江島其碩(きせき)等の亜流者亦安永までに三百余種の好色本を著(あら)はして世に公刊せり、明治の小説大家尾崎紅葉は西鶴崇拝の巨擘(き
よはく)たり、小杉天外亦其(またその)尻甜(ねぶ)りなり
享保七年十一月、徳川幕府は好色本禁止の令を下(くだ)したれども、社会の要求は其禁令を無視せしめて止まず、宝暦の平賀源内は『痿陰(なゆまら)隠逸
伝』『長枕褥合戦(ひとねかつせん)』等の著を公刊せり
洒落本
一名蒟蒻本(こんにやくぼん)と称す、遊里に於ける売女蕩児の淫猥物語、享保の『両巴巵言(りやうはしげん)』宝暦の『異素六帖』明和の『遊子方言』天明
の『吉原楊子』寛政の『仕懸文庫』『辰巳婦言』等、享和までに三四百種の公刊あり、主たる著者は山東(さんとう)京伝、十返舎一九の徒なり、是れ皆誨淫
(くわいいん)の書なりしが、当時著者及び版元の罰せらるゝ者続出せしがため終(つひ)に閉塞し、これに代りしは人情本なり
人情本
人情本は文政二年の一九作『峯の初花』を初めとして傾城明烏(けいせいあけがらす)の艶物(つやもの)数種出で、続いて為永春水の『春色梅暦』『春色辰巳
の園』『春色恵の花』等二百余種あり、いづれも春画を去ること遠からざる淫書なり
川柳本
これも亦猥褻が其主要を占むるなり、安永五年の公刊本『滑稽末摘花(こつけいすゑつむはな)』四冊全篇数百千句、悉く皆猥褻の句ならざるなし、川柳子の取
材も亦色気、即ち末番にありしこと之を見て知らる
吉原本
吉原本と云へるもの寛文後に百四五十種あり、遊里研究家の重宝(ちようほう)なれども、是亦悉く淫書の部類なり
此外(このほか)、俗謡の起原も猥褻なり、俚諺(りげん)の起原も猥褻なり、地口(ぢぐち)、物は付(づけ)、冠付(かんむりづけ)と云へる事も亦其起原
は猥褻にありしこと古刊本にて知り得たり、只其例證を茲(こゝ)に挙ぐることを憚るのみなり
荷田春満(かだのあづまゝろ)は元禄の頃に於て、中世以降の歌道が専ら淫靡に流るゝを慨し、之を矯正せんと欲して生涯恋歌(こひか)を作らざりしと云ふ、
又曲亭馬琴は寛政の頃に於て、蒟蒻本の如き誨淫の書は我ものするを好まずとて終身其著なかりしと云ふこれ超世的の見識として感賞すべき逸事なり、両者その
和歌の本源、戯作の本源、共に色気猥褻にありし事を知らざるに非ざるべし、世の進歩と云ひ、文明と云ふ径路の上より云へば、右の如き見識の人々ありて、社
会の道徳観念を発達せしめ、趣味性を向上せしめ、其道徳観念終(つひ)に法律制裁と成り、法律制裁あるがために又道徳観念を一層強からしめたる結果、今日
の純潔高雅なる醇化の美域に達し得たるなり、起原猥褻なるが故に永久其猥褻を主とすべしと云ふは、文化の何たるを解せざる蛮的思想にして、人間の身体は所
謂猥褻の行為によつて生出せしものなるが故に、人間は日夜公然猥褻の行為をなすべしと云ふに均しき愚論なり、予は只其起原の概路を述べて、学者の研究、政
治、宗教、美術家等の参考に資せんと欲するのみ
要は原始時代に於ける百事の起原は悉く自然の発作として天真爛漫、毫も虚偽なきものたりしが故に、後の政治家たり宗教家たり文学家たり美術家たる人々は、
其本源に顧みて、現今の如く表面の虚飾にのみ苦心して、其内実は猥褻以上の醜陋事態(しうろうじたい)あることなく、正直に露骨に、虚偽を避け形式を避け
て、俯仰(ふぎやう)天地に恥(はぢ)ざる、所謂ザツクバランの態度に出でられん事を望むにあり
本篇は予が大正四年(1915)四月二十三日、大阪文藝同攻会の講演会にて「俗文学と猥褻」と題して口述したる事の大意なり