「e-文藝館=湖(umi)」 書
き下ろし長編論攷 登校
みやした ゆずる 島崎藤村研究家 昭和九年(1934)神奈川県鎌倉市に生まれ、やがて東京都に転じて成人。ながく学研の編集者として活躍のかたわ
ら島崎藤村研究に志を傾け、定年後も。久しいお付き合いで、秦も数々お世話になった。 掲載作は、筆者が畢生渾身の大作で、論旨の深く遠くに及んでなおか
つ藤村研究のための基礎的作業として屈指の大業であることに感嘆する。心ある読者大勢の目にとまるよう編輯者も願っている。 (秦 恒平)
テーヌ管見
私の「英国文学史」
―藤村研究のためのノート―
宮下 襄
『英国文学史』については以下の訳書を参考にした。
○ 平岡昇訳『英国文学史』(三巻)
○ 手塚リリ子・手塚喬介訳『英国文学史 古典主義時代』
○ LOVELL’S LIBRARY TAINE’S ENGLISH LITERATURE
平岡・手塚訳書の未訳部分、第二篇「THE RENAISSANCE」の内―第五章The Christian Renaissance
第六章Milton、 第四篇「MODERN LIFE」の第一章 Ideas and Production 第二章Lord
Byron 第三章 The Past and the Presentは、LOVELL’S
LIBRARYに拠った(引用訳文は筆者訳)。 また、第五篇「MODERN AUTHORS」は、その内のDickens, Thackeray,
Tennysonの項を適宜参考にした。
○ ほかに「Notes on England, Holt & Williams, 1872」を参考にした。
○ 平岡訳の引用文など、旧仮名遣いの文献は旧漢字体を新漢字体にしてそのまま引用した。藤村作品の引用文も筑摩版全集に従い旧仮名遣いのままに、旧漢
字体は新漢字体にした。また、テーヌその人については、平岡昇氏『プロポT』の「X テーヌとその時代」から多くの示唆をいただいた。その他の参考文献
は、適宜、文中、文末にまとめた。
テーヌ管見 1
「テーヌ」とは何であったか―テーヌ受容について
イッポリト・テーヌ(Taine, Hippolyte Adolphe
1828-93)の『英国文学史』のことを考えるたびに、私はいつも、矢野峰人氏の『『文学界』と西洋文学』を思い浮かべていたものだった。それは当然、
藤村研究、明治文学研究というテーマに限ったことだが、西欧の詩歌の薫りが匂い立つようなこの書物から、泰西の文学に向かわんとする若者に『於母影』や
『英国文学史』が大きな役割を果したとする氏の文を読むたびに、「ミニヨンの歌」や「マンフレッド一節」などとともに、過ぎた時代のいくつもの映像が、幻
灯のように浮びあがったものである。そして、若い藤村が「人生に寄す」として訳したアヂィソンの「The Vision of
Mirza」にしても、「夏草」として翻案したシェイクスピアの「ヴィーナスとアドニス」にしても、ともに『英国文学史』に拠るものであるだろうこと、バ
イロンの「数奇なる生涯と暗愁熱罵に満ちた」詩風を紹介したのも『英国文学史』によるのではなかろうかと言うように、テーヌは私にとって、矢野氏の著書か
ら始まったといってもよい。氏にはほかに、「テーヌの『英文学史』と(一)日本」という短
い論や、テーヌの方法論の詳細な批判史である『文学史の(二)方法』があって、いずれも、
その後の私の座右の位置にあるのだが、長い間、私には、前記の著書一冊があれば事足りていたといってよい。その後、多少の資料を読み進むたびに、たとえば
笹渕友一氏が書かれるよ(三)うに、「詩人ミルトンの妻」も、『英国文人伝』中のマーク・
パティソン(Mark
Pattison)の「ミルトン伝」と、テーヌの『英国文学史』の事項を織り込んで綴りあわせたものだろうというような、あるいは、シェイクスピアやバイ
ロンばかりでなく、ゲーテについてもテーヌに負うているとされるような指摘が、いくつか蓄えられていくのだが、このゲーテについては、多分、テーヌのバイ
ロン論のなかで繰り広げられる、「ファウスト」と「マンフレッド」の、あの壮大な比較評価からきているのだろうと考えるようになるのも、『英国文学史』を
何度か読むようになってからのことである。そのほかにも、『英国文学史』に書かれるスペンサーについて、秋骨が禿木と熱心に話し合ったという禿木の(四)回
想をいくらかは想像できるようになるのも、やはりこの本を読み進んだ結果であったし、バイロン、シェリー、マーロウと、テーヌをパイロットにしながら読み
進んだという孤蝶の(五)回想も、当の『英国文学史』を読むほどになるほどと納得もするの
だった。
そのほかにも、これらの文学的な諸影響とは別に、「『一種の』精神史家としての藤村の形成」に、テーヌがかかわるのではないかという関良一氏の(六)指
摘も、忘れずに書いておきたいことである。多くの青年がそうであったように、この時代に「彼が直面しなければならなかったのは比較文明、比較文化の問題」
であり、彼が生きている「現代」と自己の基盤としての「歴史」であったと氏は書かれているが、後年の『夜明け前』『巡礼』『東方の門』、あるいは「いくつ
かのそうした問題に触れたエッセイ」の執筆者としての藤村には、「一種の文明批評家なり歴史論者なりが見え、また浪漫主義の一性格としての民族主義が見い
だされる」と書いた氏は、この「精神史家としての藤村の形成は、おそらく直接にはテエヌの方法の演繹にその多くを負っているのではないだろうか」とされる
のだった。
『英国文学史』とはそのような本でもあったのだろう。テーヌが没したときの各紙・誌の訃報の中でも、「国民之友」や「国民新聞」が、訃音を伝える短信とし
てだけではなく、比較的多く取り上げていたことを忘れることはでき(七)ない。同書の国民
精神史的、国民文学的な性格が、この国の現在や未来を気遣う人々に、多くの影響を及ぼしていたのではないか。そう考えれば、「一国を形成する原質」や、そ
の国の「人民の性情」をすら文学史の中に窺わんとした透谷も、その一人であったのだろう。(→「文学史の第一着は出たり」「女学雑誌」二一
一号 二三・五・三)
それにしても、テーヌの名はいつの頃からこの国に知られていたのだろう。
私などは、この「文学史の第一着は出たり」を思うにつけ、それは透谷に始まるなどと甚だしい錯覚の下にあったのだが、「テインのやうな名高い仏蘭西人によ
つて批評され、解剖され、叙述され」(『桜の実の熟する時』傍点筆者)という文があったように、また、秋骨の『丸善回顧』に『英国文学史』を「明治廿四年
七月読了」したという記述もあるように、テーヌの名はすでに広く知られていたのに違いない。現に「国民之友」においても、明治二十一年頃にもその名は誌上
に散見でき、『英国文学史』の著者としての名も、科学的な唯物論の提唱者としての名も伝わって(八)い
る。同誌五九号(二二・八・一二)にはゾラを紹介する無署名記事もあるが、そこには「モッセー、バルザアツク、フローベ
ル、テーン」の名があって、ゾラの「其の精細確緻なる解剖的の力は皆此等の中より得来たりし」、などとあるのもその一例になるだろう(註・文中「モッ
セー」は不詳)。そして、そのほかにも、透谷が「文学史の第一着は出たり」を『女学雑誌』に発表したその年には、植村正久が「けん畎ぽ畝の詩人 ロバー
ト・バーンズ」(「日本評論」十八号 二三・一一・二二)でテーヌを引用し、やはり同年に上田敏が、「日本文学史を読みて
今日英文学の教授法に及ぶ」(「無名会雑誌」第五集 二三・一一・二三)や「文学に就て」(「校友会雑誌」
二号 同・一二・二〇)でテーヌを挙げていることなども、見直しておく必要があるだろう。
『英国文学史』を云々する場合は、もちろん、逍遥の名を忘れることはできない。『文学界』同人のみならず逍遥とのかかわりは、矢野氏の前記「テーヌの
『英文学史』と日本」、『文学史の研究』にも精しいが、矢野氏のこの論を参考に、改めて当時の逍遥の文をたどると、この時代の逍遥の仕事に、テーヌが濃い
影を投じている事を納得できるだろう。しかし、今ここで逍遥に筆を割くことはひかえたい。基本的には矢野氏の右研究で相応の理解は成り立ち、諸家の紹介も
多く、そこから問題をさらに広げる事もできるだろうからである。それよりもここでは、右に記した植村正久、上田敏の明治二十三年の論文、及びそれ以降の資
料を中心に、テーヌとの関係を補足、紹介しておきたい。植村は当時の影響力から、テーヌの名を伝えた有力な一人であるかも知れず、上田は、テーヌへの共感
と同時に、最後には、テーヌへの幕を引く重大な役割を果たしたのではないかとすら思われるからである。そしてその間隙を他の若干の資料で補いながら、いく
らかでも一つの時代の全容に近づいてみたい。
植村正久がキリスト者の立場から、西欧文芸の紹介につとめた事は、私が繰りかえすまでもない。斉藤勇氏が言われるように(『植村正久全集』第三巻 解
説)、明治二十年代に果たした文学的貢献は大きく、「日本評論」に連載された《欧州の(九)文
学》をはじめ、彼が「近代西洋文学の紹介に先鞭をつけた一人」であることはよく知られていることであるが、その広範囲な読書のなかに、テーヌの名も現れて
くる。もっともそれはわずかな例であり、テーヌその人を特別に紹介するものではないが、まず「畎畝の詩人 ロバート・バーンズ」の中では、彼はバーンズの
エピソードにテーヌの文を援用している。それは、「テーヌ『英国の文学史』にバーンズの語を引いて曰く、余一日森林に分け入り……途間鳥の囀るを聴き、そ
の謳歌を妨げんことを恐れて、しばしば路を他に転じたりと。ああこの心あり、もつてその偉男子たるを見るべき」というものと、「テーヌ曰く、バーンズをも
つて主楽的の徒となすはあやまてりと言うべし。彼は深く宗教心を懐抱し居たるものなり。彼は父の死せしのち、一夜、声を発ちて神に祈れり。聞くものために
涙下るを覚えず云々。あにこれをしも無宗教の人と言わんや。ただその宗教は未だ十分発育せざりしのみ」という二つである。前者は「彼は博愛の詩人なり」と
いう見出しのなかに、後者は「彼は宗教の心ある詩人なり」の見出しのなかで書かれてい(一〇)る
が、逆境を生き、「貴高なる情思を蓄え、豪快なる精神を抱きつつ、碌々風塵のうちに栖々し」ながら、「彼は愛したり、しかれどもその愛情正しからず。また
その終りを全うすることを得ず。彼は人を教えたり。しかれどもその感情すこぶる猛烈なる天性は、これをして稀世の詩人たらしむると同時に、肉欲の奴隷とも
ならしむるに至れり」というように、バーンズの矛盾多い生涯をなぞりながら、この詩人の根底にある善良な宗教心をテーヌの文に求めたり、「猛烈なる天性」
のために道を誤る人の不幸を述べるのだが、今、私が植村の文を取上げるのは、植村も『英国文学史』を手にしたのだということの一例としてである。ただ、本
心を言えば、我々はもっと注意深くありたいと思う。植村の引用は確かにほとんどこの通りの事なのだが、前者の森林で小鳥の声を聞く挿話の前には、次のよう
なバーンズの文があることは知っておく必要があるだろう。
「この地上にあって、どんよりと雲の厚い冬の日に、森の樹の暗い蔭のなかや、丈高い樹林地帯の間を歩いている時に、木々の間を咆え、平原を荒れすさんで
わたる嵐のような風の音を聞くほど、私に多くのものを与えてくれるものはない。それは喜びと言ってよいものかどうか、私を高めてくれるもの、私を喜ばせて
くれるものと言ってよいものかどうか私はしらないの(一一)だが――
小鳥の挿話はこの後に続くのだが、私が思うのは、バーンズの小鳥への愛は、この暗い憂愁とどう結びつくのだろうか、ということである。後者の場合には、
テーヌが書いたという「主楽的の徒」の文は、次のような文になるだろう。
「彼は単なるエピキューリアンであったわけではない。逆に彼は厚い信仰の心を持っていた。彼の父親が死んだとき、一夜、彼は声をあげて祈りをあげていた。
それを聞くものは皆、涙を誘われるのだった。彼のCottar’s Saturday
Nightこそ、徳高い田園詩のなかでも最も感動的なものであり、私は、彼は本質的に宗教的であったことを信じて(一二)い
る」。
植村の文がこの文に拠っていることはたしかだが、「その宗教は未だ十分発育せざりしのみ」はテーヌのものではなく、植村の言葉である。テーヌの文では、
彼(バーンズ)が揶揄し批判するものはお仕着せの崇拝であり、信仰や魂の言葉については、彼はそれを愛していた、と続いて(一
三)いる。テーヌが彼を「エピキューリアン」としたのは、(植村はそれを「主楽的の徒」と訳したのだが)、バーンズが女
性への愛に溺れ易く、時には、好色ですらあるような手紙を残している、そういうことからも来ているが、要は彼が「まるでエピキューリアンのように本能と愉
悦のままに声をあげるからだ」、あるいは「彼は気難しいピューリタニズムと比べてみれば、人の喜びを愛し、幸福こそ最善のものであることを第一としたから
だ」と書くのである。
正確を期すために補ってみたのだが、わずかな文を添えてみるだけでも、テーヌの文は、もっと伸びやかであり、豊かで寛攔である。一方、バーンズの詩も、
無作法ではあっても、この上なく自由で、辛辣であり、快活に陽気である。『英国文学史』のなかでもこのバーンズの項は、バイロンなどと並んで、出色のもの
ではないかと私は思うのだが、「The Holly Fair(聖祭)」「The Folly
Beggare(愉快な乞食たち)」などの詩は、題材の深刻を越えて、民衆の生活は何と生き生きと猥雑で、風刺や反抗は何と壮烈で健康なことだろう。テー
ヌはたしかに書斎人であったに違いないが、チョーサーやバーンズ、このような作家、詩人を評するときほど解放されているときはないかのように、テーヌはそ
こに現れる人間の踊りの輪の中に加わり、共に喋り、共に歌うかのようである。重い鎧を取り去った人の自由は、何と快活なのだろうと、彼は言いたがっている
かにも思えるが、植村の文も、「愛恋の詩人」「下民の詩人」(「下民」は「つぶさに辛苦を嘗めたる」下々の民の意)「意を得ざる不平家の詩人」(「不平
家」とはこの世の不合理・不条理への批判者と解すべきだろう)、「国民主義の詩人」「博愛の詩人」「宗教の心ある詩人」と、ほぼ総括的に問題点を捉え、よ
くこの農民詩人の全体像を同情的に、むしろ情熱的に紹介しながら、我々の不幸は、植村の文が最後には道徳的完全さと天帝の膝下に跪くことの有無に限られて
いくことだが、これは植村にあっては自然な事で、我々が言葉を弄することではないだろう。なお、文中のCottar’s Saturday
Nightを 、植村も「農夫が土曜日の夕」の題で意訳しているが、植村の訳も美しく、スコットランドの貧しい農民一家の、一夜の感動をよく伝えている。
次いで植村の文にテーヌの名がでるのは、「厭世の詩人ロード・バイロン」で、これも比較的早い明治二十四年三月二十五日の「日本評論」である。「人生は
嘆
息なり」で始まるこの論は、決してバイロンの厭世主義や反抗の精神を否定してはいない。「生命の悲歌、その情限り無し。方寸のうちに、無量の思いを蔵し、
永くもあらぬ歳月に、悠久の意を寓す」るからであり、「鬱結せるこの懐い、これを吐露せずして止む能わず」と彼は書いている。そのうえ、「当時英国の社会
は、虚礼繁文の行なわるること甚だしく、鄙俗の風上下を吹き靡かし居たり。その宗教は小節に区々し、その道徳はパリサイ的の偽善に流れて、軽薄浮華至らざ
る所無きの状勢にてありき」と紹介した後、植村は『英国文学史』の以下の文を引いている。
「フランスのテーヌ、バイロンの代における英国を論じて曰く、儀文に熱心し、小事に拘わるの弊は、すでにその極点に達したり。英人は、ピットもしくは国
王
の名を聞くごとに頭をた低れざるべからず。教会にも、神にも、聖書にも、一様の敬礼を表せざるべからず。虚偽の道徳、軽薄の風俗は、不必要なる繁文縟礼の
結果なりと。」
バイロンが詩人の洞察力と好戦的な本能で攻撃したのは、このような「ピットや国王、教会や聖書の名前の前に徒に屈服し……因習的であり偽善的な英国の文明
なのだ」とする箇所なのだが(BookW「Modern Life」ChapterU「Lord
Byron」X)、植村は、バイロンは「大いにかかる弊風を憤り、その反動の勢いに乗じて、極端の過失に陥り、礼を紊り、名教を犯し、甚だしきは遂に共和
主義を唱えて、王政に反抗せんとするの萌しを現すに至」ったのだとしている。
この論のテーヌの文はこの引用だけであるが、もう少し、植村の文をたどってみよう。
「蓋しバイロンは厭世の詩人なり。彼は剛愎我慢にして、天上天下唯我を尊しとなし、唯我に頼みて、天地万物を睥睨せり。その状、あたかも鐘馗のごとく、
仁
王のごとくなれど、人生の悲哀深くその胸を刺し、これをして熱涙を咽ばしめたり。その憤慨の情激するときは、神を罵り、全世界を叱咤せり。彼は不徳の行い
少なからず。しかれどもその性や悲壮なり、任侠なり。その所感また痛快なり。……皆人生の失望を詠じ、悲声を発ちて、その不幸を嘆じ世を厭い、人を疎ん
じ、社会を怒罵したるものにあらざるはなし」
これが繰返される植村のバイロンへの共感の部分である。植村もまた世に激する慷慨の士であり、バーンズに対すると同じように、多血多涙の士を叙するに当
たって、言葉を惜しむことをしない。これも植村の文の一つの特徴と思われるが、しかし彼はその後で、「マンフレッド」の一節を引いた後、「バイロンは多情
多感の性を有し、覇気天を衝き、壮図胸中は鬱勃たりしといえども、万物を摂理する上帝を知らず、己を愛する天父を認めず、確乎たる理想を感得せず、人生の
主眼を看破せざるなり」云々と、いかにも植村らしい審判を下している。また、「汝は勇士なり、任侠なり、活力余りありとす。しかれども、理想無く、神無
く、望み無きの活力は、暴に流れ、狂に失して放漫無頼たらざるを保すること能わず」とその放埓を惜しみながら、その文を終えるので(一四)ある。道徳的で
あることは第一義であり、たとえば「美術と道徳」(「日本評論」第十一号 二三・八・九)という論で、アーノルドやラスキンを引きながら、「美術は道徳法
の治外に立つもの」ではないことを論じ、「識者はバイロンが第一等の詩人となり得ざりし理由をもつてその心の汚れたるに帰したり。ダンテ、ミルトン、ミケ
ランジェロ、ラファエロのごときはみな過失あるを免れず、時に汚行なきにあらざりしかど、人となり厳正にして道徳の君子と称すべき人々なり」と、バイロン
が「第一等の詩人」になり得なかった理由をあげているが、ちょうどこれは、バーンズを惜しむ気持ちとまったく同じことを指すだろう。
要は植村は世の教化薫陶を志す宗教家である。しかし、植村のような人にも、テーヌはいち早く取り上げられていたことは、この書が広く浸透していたことを
思
わせるのだが、植村の当時の影響力からいっても、そのバイロン論であれ、バーンズ論であれ、(あるいは彼が拠って立っていたマシュー・アーノ(一五)ルド
であれ)、多くの感化を若者に与えていたのではないかと思われる。それはやがて、「文学界」の拠って立つ根拠と、正面から対立する事になったとして
も……。批評家としてのテーヌその人については、植村は正面からは書いていないが、テーヌ没後の「仏国思想界の変遷」(「日本評論」第五十八号 二六・一
二・一六)という文の次のように部分に、植村の本心はあるだろう。
「日本評論はしばしば仏国における霊性的回復の模様を報道せり。……殊に形質上の開化と肉体の快楽にのみ酖り居りし仏人が、長夜の眠りさめたるもののご
と
く、近来俄然として霊魂道徳のことに注目するに至れるは、他山の石とこそ言うべけれ。近着の英米二雑誌にこれに関する記事あり。/米国のフォラムに見えた
るブウルヂ氏の言に拠れば、/仏国の精神界に非常なる動揺あるは著名なる事実とす。一千八百八十年頃の仏国小説は、全く霊性上の事を看過して、ただ形質
的、社交上の事にのみ注目せり。……しかしてその務むるところは、科学的分解にして愛も情もことごとくそのピンセットに懸れり。ルナンの宗教における、
テーヌの文学および歴史における比々皆然り。ゾラのごときは小説においてこの主義を発揮せり。その弊や、ド・モオパサンに至りて、極まれりと言うべ
し。……」
私は思うのだが、「ブウルヂ氏」とは、『現代心理論集』『弟子』の著者ポール・ブールジェではないのだろ(一六)うか。
本論からはなれるのだが、このバイロン論の中で植村は、バイロンとゲーテの比較をしている。植村は「世の批評家、バイロンに比するに、ゲーテをもつてす
る
もの多し」と書いているが、この比較の典拠が何なのか、私にははっきりはしない。ただ、植村は、ゲーテもバイロンと同じように、「己れを中心とし、孤立な
る一身のうちに、篭城せんと試みし人」だとしている。実に「仏人某氏」がいうように、(誰なのだろうか)、ゲーテは人生の険路に処して、その悲痛を味わい
知れる人だが、「務めて世の悲痛なる側面を蔽い隠せり。彼は美術的の眼をもって、世を観察するの一点に、その心意を注射せり」としている。そして、ゲーテ
が「風流の士」「美術の人」であるのに対し、バイロンは「事業の人」であり「人類の苦楽に同情を動かせる人」であると、その長短を論じている。高く座して
見るの人であるゲーテより、反逆し否定し憤怒しながら行動する人であるバイロンに心を寄せているので(一七)ある。「風流の士」といういかにも日本風な批
評は、後の「文学界」同人を評した「高踏派」、あるいは「楽天派」などの義と、多分同じであり、やがて「文学界」同人との対立点になるだろう。ただ、バイ
ロンとゲーテの比較の問題は、テーヌの影響のなかでも、「文学界」同人には重要と思われるので、ここで取り上げておきたい。透谷も、「マンフレッドとファ
オスト」という未定稿を残しており、勝本清一郎氏によれば、それもこの明治二十三〜四年のものと推定されている。この論が何に拠るのか、(私ははじめテー
ヌかと思っていたのだが)、これも私にははっきりしないが、複雑に入り組む論を何とかまとめるべく苦慮しているようなこの文より、私は、秋骨の残した仕事
のほうに、より直接的な、この時代の若々しさが感じとれるように思う。それは「城東識」として『女学雑誌』に連載された「バイロン卿の曼弗列度を論ず」
(三三二号乙 二五・一一・二六)と、「バイロンとゲーテ」(三三四号乙 二五・一二・二四)の二つの翻訳である。序の文に「仏蘭西の文豪テイン氏縦横の
筆を以て英国詞林の怪物バイロン卿を品騰す、今其の「マンフレッド」と独逸空前の詩仙ゲーテの作「ファウスト」とを対照するの一節をかい摘んで訳す」とあ
るように、この二人を対照比較しているものだが、「かい摘んで」訳したものである以上、原文との異同粗漏について指摘するのは止めておこう。「ファウス
ト」をとらえ、ゲーテをとらえて、秋骨はまず以下のように訳出している。
「神仙談と人生とを理解するは「フアウスト」の目的にして、又ゲーテ全作の目的なり。天下何物か詩ならざらん、人類も獣類も高きも低きも悉く天地間のパ
ワー力を顕す、美必ず其内に存す、マルタの雑談、蛙、犬、皆ゲーテの捕ふる所となる、生の在る処、美必ず在り。静粛なる森林を仰ぎ見よ、而して心を潜めて
一考せよ、葉はたへず呼吸し、汁液は常に其の幹より小枝に伝ひて流通し、再び其の呼吸は蒸発して空中に飛散す、斯くの如きのイメージ表象は直ちに心裡に浮
び来るに非ずや、天の高き地の厚き一つとして一大ウオルク行為の一片ならざるはなし。詩人は此の天地に宿りて万象の声を聞き、之を人に示すの天職を有す、
然り万象は又詩人の心に宿り、或は高く或は低く或は長く或は短く、千変万化の調子を以て歌へり、詩人は之を捕へ其の自然を変化せしめず歌ひ出づるものな
り、斯くて彼れが歌ふ所は宇宙の声となり、神も人も過去も現在も調子を整へて出で来らん。(「バイロン卿の曼弗列度を論ず」)
ゲーテを「宇宙の詩人」とした、簡潔でわかりやすい夢が、――美しい夢がここにはある。おそらく藤村らをとらえたゲーテの真髄の一つがここにあるのでは
な
いか。そして後段では、ゲーテの詩眼に映った「人と神と自然との千差(一八)万別」はバイロンではすっかり失せ去り、彼は「自己の内に捕はれ自己の外他を
見ること能はず」、終に「単調の詩人」になってしまったことを述べていくが、一転して、「ファウスト」にはない「マンフレッド」の「偉大」さを書き進めて
いくのである。それは「ファウスト」に対して、「彼れは実にマン丈夫(一九)なり」ということである。
「彼れ妖魔を見て恐れず、金なく名誉なく力なきを悲しまず、妄想に楽しまず、学士の如くならず侠骨ある武士の如く、善く他を圧服し又己を服せしむるを知
る、魔術を学ぶも錬金者の好奇心より為せしに非ず疾風の如き(二〇)精神より発し来りしなり。……其の愛せし妹の死は悲哀を以て彼れの精神を充満せしめ遂
に人生を以て満足する能はざらしめぬ、左らば其の一念は凝て遂に彼の女を霊界より呼び来れり、彼れ全身を震動し悲鳴してスピリット霊の前に出で言を発せん
ことを懇請す、霊の去らんとするや彼れか腕は痙攣す而れども直ちに回復す……見よ其の意志は確乎として立てり、魔王も之を挫く能はず、小魔が囂々として彼
れを裂き棄てんとするも彼れは静穏に厳粛に立てり、遂に彼れ死に至るまで襲ひ来る妖魔と戦ひて勝てり。(「バイロンとゲーテ」)
そして最後の文が、高く豊かにバイロンへの頌歌を奏でるのである。
「斯くの如きのアイ我、屈すべからざる我、鬼も人も撓まず能はざる、善も悪も自ら行ふ堕落したる神の如き我、此の我こそはバイロンの精神と其曲中の人物
と
にして又英人の思想たり。若しゲーテを以てユニバーサル・ポーエット宇宙の詩人とせば、バイロンはインヂビジュアル・ポーエット個人の詩人なり、若し前者
を以て独逸の思想を紹介せしものとせば、後者を以て英吉利の思想を紹介せしものと云ふべけん」(同)
この論のなかにある「宇宙の詩人」と「個人の詩人」という対比、「独逸の思想」と「英吉利の思想」という対比に関しても、彼等の知的好奇心を刺戟するに
十
分なものがあったと思うが、しかし、私はそれら以上に、彼こそは「丈夫」だとする考え、「斯くの如き我、屈すべからざる我……」という「丈夫」や「我」と
いう言葉が遥かに強く彼等の心を揺り動かしていたのではないかと思う。少なくともここには一個の人間が、巨大なものに対抗し、誰のものでもない自分の足で
屹立している一個の人間がいる。そしてこれは、規矩を超え、縄墨を超え、と言うこと以上に、人間存在の峻厳さを想像させて、今でも私の心に残るので(二
一)ある。神に悖るバイロンの評価など、ほとんど取り上げられることのない『女学雑誌』に、この訳文が見られたことは、激しく揺れ動き交錯する時代の、大
きな意味を物語っているのではないかと私は思う。その意味では、植村の論もその前駆をなしていたのであろう。
秋骨は「文学界」の人々のなかでも、比較的強くテーヌの影を想像させる人である。秋骨やその他の「文学界」連中との関連は、また項を改めて考えたいが、
秋
骨がテーヌの圧倒的影響を思わせるような「変調論」を書き、禿木が「草堂書影」を、敏が「希臘思潮を論ず」「美術の翫賞」「典雅沈静の美術」を書く頃に
は、「気焔何処にある」「文学復興期の事を想ふ」などを残しているが、いずれも、論旨の核にテーヌが強く透いて見えるのである。特に「変調論」では、「宇
宙万有に亙りて一の精気あり、彼を呼んで造化と云ひ神と云ひ、此を名けて精神と云ひ霊魂と云ふ、而して此の両者を併せて之を生命と云ひ精気と云ふ。……万
象之に依りて動き、天地之がために活く、……」、というような書き方をしている。そしてこの「精気」や「生命」は、人間が設ける縄墨や秩序に縛せられるも
のではなく、絶えず「彼の理想」に向かって進んでいく。世に「変調」と言われるもの、「不健全」といわれるものも、その「理想」に向かって生み出す自然の
「生命」であり、破壊と建設を繰り返す人間の歴史も、それを動かすものはこのような宇宙と人心とに溢れる生命であり自然なのだと……。そして「テイン其の
文学史の全篇を通じて這般の説をなし、此の精気の妄進するを以て狂となし人の狂なるを以てその自然なりとす」としている。私は随分、この論文の異様な熱気
や、「狂」という語にこだわって考えたが、テーヌは「霊気」「精気」というような形でも、「狂」という語でも説明をしていたのではなかった。(「人の狂な
るを以て」には別様の考えはあるが)、英訳書ではテーヌは、一例としてthe mechanism of human
historyというような言葉を使っているが、歴史を押し流し、創造、衰退を繰返す力――、極めて弁証法的に、相互に作用しあい、その強弱によって増幅
もし衰退もして突き進む物質的法則と等しいその力を、秋骨は壮大な天意のような「狂」という言葉で受け取ったのではないかと思う。しかし、そういう壮大な
潮流、因果の法則にのっとった人智を超える力、本源的原動力、永続的な推進力を、テーヌが極めて熱情込めて説いているのも事実である。それは科学的な法則
の叙述というより、天空を渦巻く壮大なイリュージョンといったものに近い。秋骨はテーヌのこういう面の影響をいちばん受けた人ではないのだろうか。前にも
一言触れたが、秋骨とテーヌのスペンサーを語り合ったと禿木は述べている。文学界同人とスペンサーの取り合わせに、私は驚きに似た気持ちを味わったが、そ
の項を一読すれば、我々は、古風な騎士道物語風のこの作家が、異教的な夢や愛の瞑想家として、純粋な夢を描くプラトニシャンとして、どんなに美しく語られ
ているかを知るだろう。そしてこれもテーヌが与えた影響の一つで(二二)ある。
植村の「畎畝の詩人 ロバート・バーンズ」に続いて、この年には上田敏が、「日本文学史を読みて今日英文学の教授法に及ぶ」(「無名会雑誌」第五集 二
三・一一・二三)という論でテーヌに言及している。彼はここで次のように書いている。
「「テーン」の英文学史にくはしう見ゆ、「文学史は近世の発明なり。百有余年前にはじめてあらはれ出にき」と。又曰く「文学といふものは熱したる頭脳の
思
をやり憂さをはらす為め、己がじゝ、書き出せるものにあらず。必らず其時代の人心をうつし、風俗をゑがくものぞかし」と。されば文学史は文学の為めのみな
らで一般歴史の参考ともなり要素ともなるものなり。如何んとなれば文学史は○○○○○○○○○○○○○○○○○人類の知識思想のうつりかはりを吾ら
○○○○○○○○に知らすればなり。「テーン」又曰く文学乃ち文学者の著書は宛も「岩石の層中にある動物の化石の如し。かゝるきれぐなるものをあつめてこ
そ全き動物の形、有様も知らるれ」と、実におもしろき比喩ならずや。これを思ひかれを考ふれば益々文学史の価値あらはる。」(傍点の○印は原文のママ)
前半の部分は、『英国文学史』「緒論」の、「歴史学は、ドイツでは百年この方、フランスでは六十年この方、一変した。しかも、それは、諸々の文学の研究に
よるものである」という文と、「文学作品といふものは、単なる想像の遊戯でも、熱し易い
頭脳から生れる世と孤立した気まぐれでもなく、周囲の環境の模写であり、ある精神状態の記号であることが発見された。そこから、文学上の記念碑的作品に依
拠して、数世紀以前の人間の感じ方や考へ方を再発見することができると結論された」という文に拠るものである。後半の、「岩石の層中の」云々の文は、直接
これに当てはまる文は見当たらないが、やはり「緒論」の、「かういふ書物は、(つまり「詩の本とか法典とか経典」とかの様々な歴史的記録は)、貝殻の化石
と同様に一つの型にすぎず、また嘗て生存し、亡滅した動物が石の中に遺した形態の一つと同様に、一つの痕跡に過ぎない。この貝殻の裏には、一個の動物がゐ
たのであり、記録の裏には、一人の人間がゐたのである」以下、「記録を研究するに当つて、単にそれだけ孤立したものとしてのみ見ることは誤りである」など
の文を短くまとめたものであろう。
このような考え方を、敏は翌月の「文学に就て」(「校友会雑誌」)においても、ほぼ同じように紹介をしている。二重の紹介は省略するが、「真正の内部」
が
まさに照らし出されようとしているとした透谷の文と並んで、文学は先験的にその性質が定められているものでなく、「必ず其の時代の人心学術の進歩如何に関
するもの」なのだと、(つまり、その時代の影響を著しく受けているものだと)、テーヌの言にその根拠を求めている。そのとき敏は弱冠十六歳であった。そし
て彼は、月影をうつす水面のように、文学作品をうつしだす文芸史家の役割を指摘して、「十九世紀の日本国人の自由自在縦横に議論し記叙するの文学」(「文
学に就て」)の出現に期待を寄せるのであるが、もちろん彼がそれだけにページを費やしていたのではなく、前者では、文学とは、そのように、その時代を生き
た人間精神に関るものであるにもかかわらず、「字句の解釈を事とし……毫も其文辞の美妙なるを示さず、精神のあるところに注目」しない「英文学の教授法」
への批判のために、後者では、(テーマは多岐にわたっているのだが)、欧化と国粋が激しくぶつかりあうような当時の文化的混沌のなかで、たとえば源氏の物
語こそ守るべきこの国の文章なのだとする和文家の論義に対して、文学が時代によって変遷するものであることを、テーヌを引きながら反論するのである。
彼は翌年の「『小説界の二主義』を読む」(二五・四)でも、サッカレイの『虚栄の市』を取り上げて「審美的価値ありて、なほいみじき美術品と云べけれ
ど、
冷罵教訓を矩とする弊は知らず知らず彼をして邪道に迷ひ入らしめぬ」といったあとに、テーヌが「嘲罵益々甚しくして、美術愈々損す」と言うのはこのことだ
ろうかと書いている。サッカレイの風刺の激しさが作品の美や完成度を毀しているといいたいのだろう。これは、『英国文学史』第五部「現代の作家
MODERN
AUTHORS」にある「サッカレイ」の項も敏は読んでいたことになる。この「『小説界の二主義』を読む」は、所謂小説の勧懲主義を論じていて、「小説を
以て訓教の器具」とする傾向と、その論者の論旨への駁論になるのだが、このサッカレイを述べる箇所の直前、敏はディケンズにも言及している。「近代の名
家」であるディケンズにしても「其小説勧懲の傾向」があるけれども、しかしたとえば「クリスマス・キャロル」を見よ、「ヂッケンズの霊活炎の如く、いなつ
るび(註・原文のママ。どういう意味だろうか。「つるぎ」か、「稲妻」か?)の如き想像力はよのつねの物に隠れたる美を認め、可笑を獲ば直にわれらが心臓
に逼りて、審美学に所謂可憐を生むればなり。……」、などの箇所を読むと、「サッカレイ論」と同様、敏は、「現代の作家」篇にある「ディケンズ論」も読ん
でいたのだ、と考えてよいだろう。なぜなら、テーヌの「ディケンズ論」も、事物に生命あらしめる作家の優れた「想像力」で始まっているからである。「ディ
ケンズの中に一人の画家が住んでいて、一枚の絵の各部、全色彩を、これほど正確なディテールや強い力で想像する人はいない」というように。
敏のこの頃の論考には、そのほかにも、テーヌの影響、反映かと思われる文はいくつかある。「熟らく泰西の文学史を考ふるに、天の一大詩人を生ずる必らず
人
心の一大変動を被る時に於てす。沙翁はRenaissanceの子「アヂソン」はClassic
Ageの子にして「バイロン」も近世貴族の文明やうやく平民風に徙らんとするに生れたりき。されば明治の維新は……」(「明治の文学」二四・一・三〇)と
いうような文、「人は単独にして立つ可らず、又立つ事能はず。吾等が知識の素地を為すものには、時代あり、遺伝あり、人種あり、又古来の文化あり」(「典
雅沈静の美術」二八・九・一〇)というような文は、そうではなかろ(二三)うか。前者の三人の詩人は、テーヌが各時代を代表させていた詩人であるし、後者
が、一見してテーヌの文に拠るものであることに、(「古来の文化」は別様にして)、疑念を挟む余地はない。影響を論じるには、いずれも断片的に過ぎるかも
しれないが、様々な文章がすでに、彼の文の血や肉になって溶け込んでいるようにも思われ、敏という早熟な才能が、誰よりもよく、この書物を読みこなしてい
たのではないかと思う。
上田敏がテーヌから受けた影響については、矢野峰人氏が『上田敏全集』(第六巻)解説のなかで、「テイヌに対する尊敬と謝恩とは、正にペイターに対する
彼
の態度に匹敵する」と書いている。そして、テーヌ没年の「文豪テイン逝く」文中の「噫吾人のテインに於ける実に師弟の情あり」(傍点筆者・以下同)の文
と、ペイターを論じた「近英の散文」(「帝国文学」三〇・九・一〇)中の、「此近英散文の大家は、斯て吾に於て殆ど師父の如き思あれば」の文を対応させて
いる。思うにテーヌとペイターは、この何年かの間に、相接するように敏の前に現れるのにちがいない。ペイターといえば、禿木が「草堂書影」を書いたのが明
治二十七年の四月(「文学界」十六号)である。管見によれば、ペイターが敏の文にその名を飾るのは、その逝去を「殊に悲し」とした「世紀末年の文壇」(二
八・一・一〇「帝国文学」)ではないだろうか。もちろん、その名はなくても、「希臘思想を論ず」(二八・三・一〇)にはすでにペイターの経験は多く深く取
り入れられている。そして、「これらの文の筆者が、いつ迄もテイヌに満足してゐたわけではない」(矢野)という文があるように、敏の関心がさらに深く、西
欧文芸の淵源から「今日」にまで向けられていくのであるが、その一人であるヴィンケルマンについても、先の「『小説界の二主義』を読む」(二五・四)で彼
はすでに、ヘラクレスの半身像に額づくヴィンケルマンの名を挙げている。また、「美術論」(二五・六)でも「近世のミケランジェロも、はだかみの男女をゑ
がき、かつほりたるものから、少しの耻づることだにあらず」と、「四肢の美をきぬに蔽ひし東洋のあやまり」を指弾し、清らかに白く照りわたるヴィーナスの
大理石像に感歎するヴィンケルマンを例示している。敏と他の文学界同人の大きな差異は、このヴィーナス像を仰ぎ見る例のように、彼が「肉体」を「臭骸」な
どと決して言わなかったきわめてエステティッシュな感応性にあるだろうと思うのだが、それはともかく、上田敏が、テーヌの文学史から、文学が人間精神を反
映するものであり、文学史がその発展の歴史を記録するものであることを、いち早く学んだ一人だと言えるだろう。そして我々は、敏の諸文を読んでいくにつれ
て、あの美しい『海潮音』の訳者が、この時代の激しいポレミークの一人であることに驚くことにもなるだろう。
植村や上田敏との関連を中心にまとめてみたが、テーヌの名は、眼にみえない部分にひろがっているのだろう。たまたま見た「読売新聞」紙上(二六・三・二
〇)の「小説談」で高田早苗が、「早稲田文学」(二六・七・一〇 43号)の「詩才論」で金子馬治が、共にテーヌの言葉を取り上げている。前者は、「則ち
スコットが歴史小説を編むや其中の人物の衣服又景色等総て外部の物は如何にも当時の有様を写出だすと雖も、挙動言論感情等に至ッては宛然開明的人物にし
て……」というテーヌの文が引かれ、後者は、「何をか詩才といふ……大なる詩的想像力是れなり」とした後に、「テーンも世界の最大詩人の技能を評するに完
全なる想像力の一語を以てせり」というよ(二四)うに。そのうえに鴎外が、「今の英吉利文学」(「国民新聞」二三・三・四「瀛西詩話」二)という文で当時
のイギリス文学を紹介しているが、そこに、「テエヌが曾て英吉利を以て写俗小説の祖国なりとしたるは、今のありさまに適ひ難く、……」などとした文に接す
ると、私などは驚きに包まれてしまう。さりげないその名の引用が、透谷などよりもさらに早いからで(二五)ある。
このような例はまだまだ多くあるにちがいない。宮西光雄氏の『明治百年にわたるミルトン研究』を読めば、諸家のミルトン論、ミルトン伝と並んで、『英国
文
学史』のテーヌのミルトン論も、明治のこの国のミルトン観にかなりの感化を及ぼしていることを見出すだ(二六)ろう。平岡昇氏は「テーヌと自然主義」のな
かで、『英国文学史』が日本に及ぼした影響として、「明治の文壇、とくに藤村、秋骨、禿木、孤蝶等の『文学界』時代から『小説真髄』『英文学史』の坪内逍
遥、山路愛山などの批評家、歴史家に読まれ、大きな啓蒙的役割をはたした」と述べておられるが、その中の山路愛山については、(私はそれほど多くを知って
はいないが)、『愛山文集』などを見ると、「近松の戯曲に現はれたる元禄時代」(二八〜二九年 「国民之友」二七一号〜二八五号)や「福地桜痴」(「国民
新聞」三九・一・六)、またそのほかにも、「唯物的歴史観」(「国民雑誌」四五・二)などに、テーヌの名が散見される。愛山と民友社との関連や国民史家と
しての性格を考えれば、蘇峰共々、テーヌへの関心は当然あったと思われる。そしてそれは、「文学界」同人たちの関心とは、おのずから異なる視座にあったと
思われる。早くは『荻生徂徠』(『十二文豪』第三巻 民友社 二六・九)において、「彼れに於て日本は始めて「実利派的」の大脳を見たり。彼れに於て日本
は始めてアングロ、サキソンの如く事実を尊び、想考を卑しみ、「常識」を重んじ「形而上学」を軽んずるの人を見たり」のような文があるが、英国の経験哲学
の諸影響のみならず、この国の功利的経験主義を重要視したテーヌの文も、相応の反映があるのかもしれない。また、「近松の戯曲に現はれたる元禄時代」で
は、近松とシェイクスピアを対照させながら「彼等は善く其時代を写したり。故に善く不朽なる人心に触るゝを得たり」と喝破しながら、「余はシエーキスピー
アは其戯曲の中に自己を現はさずてふ哲理を信ぜざるものなり。人をして語らしめよ、彼れは其語れる題目に於て自己を現はし、其語る方法に於て自己を現は
す。甞てテインはシエーキスピーアの戯曲に因りて彼れの人と為りを畫き出さんと試みたりき。予は是れ為し難きを為さんと試みしものにあらざるを信ずるな
り」等と、シェイクスピアを、神の目を持つ「詩聖」として尊崇した風潮を越えて、彼は、作品と作者という当時としてはユニークな理解の一端を述べている。
『英国文学史』以外にも、テーヌの『英国旅行記』(Notes on
England)がこの時代にはもう読まれていたことにも触れておこう。「文学界」六号(二六・六・三〇)の「彙報」欄に、(即ちすでにテーヌが没した後
のことだが)、ラスキンが桂冠詩人の栄を得るに到ったとして、「今は故人となりしテイン氏其の英国見聞記に氏(註・ラスキン)を指して、熱意なる多感なる
且つ精勤なる人望ある而して全く英国的智力を有する創作者と云ひ、其の画評に於ける矛楯を挙げ、最後に英人の思想にはバイロン、ウオールズウオルス、カー
ライルなる三種の調和すべからざる如き性質を備へたりとし、ラスキンを以て此の特質を備へたる英人とせり、以て氏の特質を察するに足らんか」云々とあるこ
とだが、これは同書の「MODERN PAINTERS AND RUSKIN’S
CRITICISMS」から得た印象の大雑把なまとめである。これは禿木の筆になるものではないだろうか。
敏の諸論をたどっていくと、我々はやがてテーヌの名を挙げながら、いわば世の風潮や、文学研究の陥りがちな傾向に、敏が苛立った批判を繰返すのを見るよ
う
になる。ちょうどそれは、「戦争後になつて、……北村君を失つてからの私達は、次第に当時のバイロン熱から醒めて、……頑執と盲排との弊を打破するやうな
声で充たされて居た私達の雑誌には、次第にダンテの紹介があらはれ、シェレエ、キイツ、ロセッチなどの紹介があらはれるやうになつて行つた」(『市井にあ
りて』―『文学界』のこと)と藤村が書いた時期に当る。「戦争後」とは無論日清戦役のことであるが、敏は次のように書いている。
「クレイク、シォオ、アアノルド等を誦したる時代は過去となりぬ。今やテエヌの英訳を飜して、漫然英詩を評騭し、沙翁バイロンを喋々する時代にもあらざ
る
べし」(「文学史の著述」二八・一〇・一〇「帝国文学」第一巻第十)。
「テーヌを飜して喋々する時代ではない」と敏は言っている。英詩の評価も、もはやテーヌの書によって「漫然」と「評騭」する時代ではないと。「沙翁バイ
ロ
ン」というからには、バイロンのみならず、シェイクスピアもまた同じだということになろう。
敏は翌年も「近英の三詩伯」(原題「英国近代の詩歌」二九・一一・二〇「江湖文学」第一号)で「邦人の英国詩歌を説くもの、何ぞ其言の単調にして、含蓄
的
批判の極めて寥々たるや。……批判註詁の書に拠りて沙翁戯曲の美をする者は多けれど、かれが「ソネット」の妙致を翫賞したるもの幾何ぞ。……英文学を学ば
んとするものゝ、とくに躓く所はテエヌ(一八二八―一八九三)の英文学史(一八六三)ならむ。この道の先達と世にゆるされたる人々が、僅に此書の英訳によ
りて粗大なる断案を流行せしめたるより、テエヌが暢達華麗なる叙述を追ふこと能はざる初学の徒は、いたづらに大言壮語の風を学びて、十八世紀の文学を貶
し、バイロンが破壊的壮観を過賞する余弊を受くるにいたりしなり」と書いている。
今はこれらを詳述する場ではないが、前者の「文学史の著述」という小論考は、「西欧の詩文を頑賞して其妙趣を味はむと欲する者は、先づ其文化の淵源を探
り、国民の特性を熟知し、併せて思想変遷の潮流を追はざる可からず」と書き起こし、いずれの国の文学も「皆希羅古典の伝統を承けたるものなれば、ホメエロ
ス、ヱルギリウスを知らざるものは、終に是等文学の真髄を了解すること能はざる也」とも、いずれの国の文学も各国相互の影響下に今日に至っていることを述
べ、「亦略其世界文学に於ける該文学の関係位置を知る」ことが必要であると述べている。要は「希臘思潮を論ず」以降の、幾多の論考を貫くものがここにもあ
る。そして、近時「コオトホオプ氏」の英国詩史A History of English
Poetryの初巻が発兌されたが、この書によって著者が、中世を通しても遂に滅ぶことのなかった古代文化の痕跡をたずね、文芸復興の萌芽をも逸早く看破
したその評眼は、故ペイターなどの唱道したところをよく敷衍していて、その「着眼見識大いに吾等の心」を得、「材料の精確評騭の穏当なる共に在来の著書を
圧倒」すると讃えている。そのような論点の後に、もはやテーヌを翻す時代ではないと、前記の引用文が続くのだが、結局敏は、「コオトホオプ氏」以外にもい
くつもの英文学史の好著を紹介しながら、「吾は世の英文学を研究する人士に大言壮語の評論を廃することを勧め、実着なる原文の講究に心を潜めて、堅固なる
智識の基礎を得る方に勉められむことを望む」のである。
おそらくこの文だけからも、当時の敏の主意を読み取ることはできる。後者の「近英の三詩伯」にしても同じである。「邦人の英国詩歌を説くものの其言の単
調
にして含蓄的批判の寥々たる」というその理由は、いまだ「学風の粗鹵にして精緻ならず、又、研究の方法も単に前人の口吻を摸びて、源泉に遡りたる独立の見
識なきことに基くもの」であり、そのうえ、「古典の智識なく、歴史の思想なく、又文学研究の基礎なる語学の素養頗る薄弱なるにより、進みて古来の名什に直
接の興味を掬するあたはず、また明快の文学史を通読するも、文学変遷の逕路を達観するあたはざるなり」と、遠き古代の叙事詩や「希羅古典」に遡ることな
く、原典にかえることもなく、いまだ研究の方針や方法の確立されない学問の有り方を危惧するのである。そして、「前人の口吻を摸びて」「独立の見識なき」
などの文のように、その後の敏の諸論文には、「大言壮語の風」「滔々たる弄学者流」「雷同の徒」などの強い語が、「皮相の談義」「皮相の観察」などの語と
並んでその論陣を彩っている。
「かれが「ソネット」の妙致を翫賞したるもの幾何ぞ」という文もそうである。シェイクスピアの「ソネット」にはテーヌも多くのページを割いていて、この
「ソネット」にこそ、彼の傷ついた愛や悩める魂の痕跡が記されていることを、テーヌは心を込めて書いているのだが、その割には我々は、「ソネット」につい
ての感銘を聞くことはほとんどない。島田謹二氏が、テーヌの「英文学史」の英訳本には、シェイクスピアの「詩」が深い同感を持って説かれていたから、戯曲
家シェイクスピアのほかに詩人シェイクスピアを熱愛するものがあらわれてきた、島崎春樹もその一人なのだ、と述べているが(「風雪」9号「藤村とシェイク
スピア」)、しかしその「詩」は、彼の「ソネット」そのものではなく、「詩人シェイクスピア」その人であり、「戯曲の中にばらまかれたシェイクスピアのめ
でたい歌謡のしらべ」等になるのだろう。「空騒ぎ」「シムベリン」の名句や詩句、「夏草」に投影した「ヴィーナスとアドニス」との関連などが、その後に続
く島田氏の主たる論旨だからである。そのほかにも、近時、平辰彦氏の「若き藤村とシェイクスピアの比較情詩考」(「島崎藤村研究」34号)で、『女学雑
誌』三〇四号の無署名の翻訳物「震災に於る日本人」に、シェイクスピアの「ソネット」(一一六番)の六行が原文で掲げられている事から、『英国文学史』の
影響から藤村は「ソネット」を愛読したと書かれてい(二七)るが、それが『英国文学史』の影響であったかどうかはともかく、たしかに、「ソネット」の「妙
致を翫賞」するよりも「沙翁戯曲の美」を振りかざすことが、当時のごく一般的な風潮であったかとも思われる。したがって、この「ソネット」の「妙致を翫
賞」すること薄く、という文には、敏が心にかけた想いも多々あったことだろう。西欧詩歌を喋々する人が、「徒らに思想を捉へむとするに汲々とし」(「美術
の翫賞」)、あるいは「徒に思想の深刻を説いて文辞外形の彫琢を卑む風」(「細心精緻の学風」)に染み、その声調の美、詩形声調の妙趣、鑿の跡の婉美に眼
を注ぐものが少ない事は、彼が一貫して歎くことで(二八)ある。そしてまた、「いたづらに大言壮語の風を学びて、十八世紀の文学を貶し」とは、これも、ル
ネッサンス時代の詩やロマン主義時代の詩を賞賛しながら、「古典主義時代」の詩歌に寄せる評価、特にポープに対する厳しい評価を想像してもらえればよい。
敏のこの考えは、「細心精緻の学風」(「帝国文学」二九・八・一〇)などにも詳しいが、彼はそこでも、「精確厳密なる研究」に欠け、「前提なく材料なき断
論」に走り、「皮相の観察に止まる」西欧文化紹介の弊害を説きながら、「邦人の英文学をいふもの甚しきはポウプを以て詩人ならずといふあり。声調を弁ぜ
ず、修辞を知らず、又思想の雄健簡勁なるを示すものにあらずして何ぞ」というような文によって、十八世紀を以て詩想は全く枯渇し、技巧に走ったというよう
な論に盲従する文学史家への飽き足らぬ思いを吐露して(二九)いる。明治三十年の「仏蘭西文学の研究」などにも、このような「擬古詩体」への軽視・偏見を
指摘する声は強いが、テーヌが彼の方法に従って、ポープへの批判が辛辣なのは、あるいはこの時代の詩精神の変質、涸渇を強調するのは、『英国文学史』の
「古典主義時代」にある通りで(三〇)ある。
冷静に振り返れば、逍遥も「英文学史綱領」(二六・五)の書き出しの文で、我国文運のなかにある外国文学の史的知識の欠乏を歎いている。そして広く知ら
れる英国文学ですら、その史的知識は「片々断々」であり、「間々引抄せらるゝ」テーヌの文学史の如くですら、「世人は彼の書をも咀嚼せざるに似たり」とし
ている。「粗大なる断案」の弊を排そうとする努力は、敏のみならず、すでにそこにもあるのだが、たしかにテーヌの著は、彼の一貫した思索・方法によって貫
かれ、全体を通してポレミックな断定や強調も多く、彼の理想にそぐわぬ場合の否定の言葉は強い。そこには逆に、読者を掻き立て魅了する、人間精神に対する
彼の情熱がうかがえるのはたしかなのだが、しかしバイロンについて言えば、この時代の異端児の、屈することなく生きた偉丈夫の短命を叙しながら、テーヌの
筆に「大言壮語の風」があったわけではない。繰返される詩の単調や詩の衰えをすら彼は率直に叙すので(三一)ある。「大言壮語」はバイロンを振りかざす人
々にあったのだろうが、敏自身でさえ、「詩人バイロン」(「中学世界」明治三四・一・一〇)において、この鬼才の風姿を、(たとえそれが「中学世界」の読
者を想定してのことだとしても)、「野分吹荒ぶ秋の大野が末、めぢの限り、高やかに靡きたるはたすゝき幡薄の、蘇枋にいと濃きなか、鎧の袖を飜したるも
のゝふ武夫の俤」と叙していた。それはまた見事なバイロンの絵姿であった。そして、敏の批判のあったちょうどその頃には、秋骨は「近年の文海に於ける暗
潮」(明治二九年一月「文学界」)を書くのだが、この文も改めて読んでみると、そもそもは敏の所論に啓発されたものがあるのか、あるいは共鳴するものが
あったのか、少なくともこの頃には過剰な青春を振り捨てているかに見える秋骨の筆も、その説こうとするところは敏の論調に近い。まるで『春』の後半に見ら
れる同人間の深い亀裂をたどるように、今はもう過去のものである「暗潮」の時流を脱し、「光明の新天地に入る」べく、彼はその論のおよそ半ばを、「暗潮」
の深刻に溺れて軽々しくそれをなぞる人々の、浮華のようなバイロン熱の告発に向けている。そして、敏の「精確厳密なる研究」「細心精緻なる学風」を思わせ
る「精細なる研究」の要を説き、さらには「英国の文界バイロンの外に更らに読むべき……典雅優麗なる詩文」が多くあることを強調して、「今の西欧文学を究
むるの人が力めて其の真実なる精麗なる思潮と詩文とをわが文界に伝へん事を望みて已まざるものなり」としている。「人の狂なるを以て其の自然なり」とし
「今は大に狂し大に狂ふべきの時なり」とした「変調論」の時代は過ぎている。
敏の指摘も秋骨の指摘も、史家・学究としてその通りのことにちがいない。当然のことながら人は、一歩一歩、新たな知や経験に踏み込んでいくのだが、バイ
ロ
ニズムという一過性の言葉とは異なり、生涯に投影された詩人の影は、(「若気の至り」などという発想は論外として)、本来、消えさるものではないだろう。
藤村の中にも、神の嘉納したまわぬようなバイロンの像のほかに、旅立ちゆく詩人の面影やハロルドの奏でる海の歌はいつまでも残り、フランスからの帰国の途
次でも、イギリスの海港に翔び交う海鴎の群からハロルドの『巡礼』に思いを馳せるように、内部に宿った詩は、絶えることない豊潤な醗酵を続けることだろ
う。
時代はいつも、いくつもの流れが平行し、入り乱れて、推移していくにちがいない。テーヌにしても同じであろう。テーヌの、決定論にもとづく理論や法則
は、
意外に早く乗りこえられたと言われている。しかしそれは、『英国文学史』に限っていえば、彼の理論や法則ということからだけではなく、(ヴィクトリア時代
の多少の観察はあるとはいえ)、沙翁の文学を中心に据え、バイロンの悲痛でほぼ全体を終える文学史は、いずれは乗りこえられる運命にあったといってよいの
だろう。「上は沙翁、スペンサアを出でず、下はバイロン、シェリイに止めたる狭隘皮相の通読果して何の効かあらむ」とは「近英の散文」(「帝国文学」三
〇・九・一〇)にある敏の言葉である。まさにその言葉の通りに、バイロンの死後すでに七十年を経た文学思潮の現実が、バイロンの暗愁をはるかに背後のもの
にしている。テニソンやブラウニングを経、ロセッティ、モリス、スインバーンを主要な位置に据えた「近英の三詩伯」は、その推移をよく物語って(三二)い
る。しかしその時代に刻した影響を論ずるなら、我々は、秋骨の訳したテーヌのバイロン観の感銘を忘れることはないし、その後も、迸るような「変調論」が、
ペイターの影響の濃い禿木の「草堂書影」に前後して並び、「変調論」以後でも、テーヌからの引用を想像できる「気焔何処にある」「文学復興期の事を想ふ」
は、遠くギリシャに思いを馳せる敏の「希臘思潮を論ず」や、「美術の翫賞」「典雅沈静の美術」などと重なり、並行していることを何度でも主張できると思
う。秋骨や孤蝶がその根拠をテーヌに置いて自己を形成していたことも、やがてたどることができるだろう。藤村はどうなのだろうか。巷間言われるような様々
な感化、影響のほかにも、「ヴィーナスとアドニス」を引き、テーヌばりに、シェイクスピア論の核をなすような「容儀、礼節」と「蛮野なる性情」を対置させ
た「村居謾筆」も、その中に位置してはいないだろうか。「ことしの秋」(「秋詞」)はどうだろうか。「草堂書影」にしてもペイターの影響だけを論じていれ
ば間違うことになるだろう。テーヌもまた彼等の中から一挙に消えたわけではなかった、と言ってよいのであろう。
テーヌ管見 2
藤村は「英文学史」をどう読んだか―
あるいは『英文学史』とはいかなる本か
藤村のテーヌとの関係もこういう状況のなかにある。知られていることばかりだが、ここで概括的にまとめておこう。まず、藤村が最初にこの本を手にしたの
は
明治学院の院生の頃であり、そして、『桜の実の熟する時』にあるように、横浜の恩人の店の手伝いにいくとき、この本を風呂敷にひそませていく。知らぬもの
のない有名な個所をもう一度取り上げておこう。
「しばらく好きな書籍の顔も見ずに暮して居た捨吉の饑ゑた心は、まるで水を吸ふ乾いた瓶のやうにその書籍の中へ滲みて行つた。何といふ美しい知識が、何
と
いふ豊富な観察が、何といふ驚くべき『生の批評』がそこにあつたらう。捨吉はマアシュウ・アーノルドの『生の批評』と題した本を読んだことを思出して、そ
の言葉を特にテインの文章に当嵌めて見たか(一)つた。その英訳の文学史は前にも一度ざつと眼を通して、その時の感心した心持は菅にも話して聞かせたこと
があつた。捨吉は日頃心を引かれる英吉利の詩人等がテインのやうな名高い仏蘭西人によつて批評され、解剖され、叙述されることに殊の外の興味を覚えた。
『人』といふものに、それから環境といふものに重きを置いた文学史を読むことは彼に取つては初めてと言つて可い位だ。ある時代を、ある詩人によつて代表さ
せるやうな批評の方法にも酷く感心した。例へば、詩人バイロンに可成な行数を費して、それによつて十九世紀の中のある時代を代表させてあるごとき。
何時の間にか捨吉は小父さんの店へ手伝ひに来た心を忘れた。一度読み出すと、なかなか途中で止められなかつた。英訳ではあるが、バイロンの章の終のとこ
ろで、捨吉は会心の文字に遭遇つた。
『彼は詩を捨てた。詩も亦彼を捨てた。彼は以太利の方へ出掛けて行つた、そして死んだ。』」
ここには次のようなことが一つになって書かれている。
一、 美しい知識、豊富な観察、驚くべき『生の批評』
二、 『人』というものに、環境というものに重きを置いた文学史
三、 ある時代をある詩人によって代表させるような批評の方法
四、 バイロンの終章の会心の文字との出会い
このうちの二と三は、テーヌの方法や理論にかかわることだが、特に二は、文明を成立させるかの有名な「種族」・「環境」・「時代」の三大要素を指してい
る
だろう。しかし「『人』というものに……重きを置いた文学史」とは別途の考察も必要になるだろう。また四のバイロンの終章の文字は何度も指摘されるよう
に、正確には、「彼が詩を捨てたとき、詩も彼を捨てた。彼は行動を求めてギリシャに行った。そして死んだ」となるだろう。最後の詩「ドン・ジュアン」を解
剖し批評しながら、テーヌはバイロンの詩の危機的な状況を次のように書いている。「ドン・ジュアンのスタイルには、スウィフトのような心と精神の病気があ
る。人は涙の中で冗談をいうとき、毒にそまった想像力をもつからである。この種の笑いは一時的な発作である。そして我々は一人の男の中に冷酷になった心
臓、あるいは狂気を見る。もうひとつは焦燥や嫌悪である。バイロンは憔悴しきっていた。少なくとも詩は彼の中に使い果たされていた。ドン・ジュアンの最後
の節はだらだらと足を引きずって歩くようだ。快活さは無理やりに作り出されていた。……読者は退屈になり始めていた。彼が試みた新しい詩の種類は彼の手の
中で崩壊した。ただ力強い雄弁に達したにすぎないドラマのなかで、彼の作中人物は何の生活ももてなかった。」(筆者訳)
そして最後の言葉につながるが、藤村が旧套をすてて、新しい解放の予感にふるえた言葉は、本来、痛ましい詩の崩壊と、(「詩人」などバイロンの全目的では
なかったのだろうが)、生の回復を行動に求める言葉だったということは、覚えておいてよいだろう。少なくともテーヌはそう解釈したのだと、知っておくこと
もよいだろう。ちなみにバイロンといえば、私達は藤村の主人公が、ハロルドの「海の歌」を誦しながら、相模の海岸を行く場面を知っている。消尽する青木の
危機の予感と、深い自然がもたらす慰謝や蘇生と、――洋々たる海は我々を呑み込み、一片の墳墓も残さないが、我々を超える大いなる存在は、我々を覚醒さ
せ、我々の眼を遠くに向ける力を持っている。バイロンについて多くを語るつもりはないが、彼の詩もそういう力を持っていたのだと言えないだろうか。……
テーヌについて次に言われるものは、平田禿木が残したものであり、藤村と禿木の初対面の折に両者が交わした会話がある(「島崎藤村氏との初対面」)。ここ
で話が『英国文学史』のことになり、藤村がこれを絶賛していたことを禿木が伝えている。『英国文学史』のどこが、何が、……それは伝えられていないが、察
するところ、これは藤村が明治女学校の教師の時代で、禿木が市谷の藤村の寄宿先を訪ねたときのことだと思われるから、明治二十五年の秋の頃になるだろう。
そしてその次の折には、「ハムレットの「狂」」への感動が述べられているのだが(「浜町の吉村家」)、この頃の劇詩への傾倒を考えると、彼はエリザベス朝
期の演劇やシェイクスピア劇に、相当の関心をはらったと考えてもよいだろう。このありのままの、仮借ない人間への感動、「ハムレットの狂」への感動はその
まま彼の三つの劇詩につらなっていた、というように――。この『英国文学史』を明治女学校の教材に使っていたらしいことも禿木が伝えているが、次いで翌二
十六年にテーヌが没したとき、藤村は旅先の吉野山中からの手紙(四月四日付き)でその死を惜しみ、六月二十一日の星野天知宛の手紙では文学界編集企画の一
助としてだろう、「テイン、レッシング、ギョエテなどの評論文翻訳」などもよろしかるべく、と書いている。以上、いずれもよく知られていることを繰返して
いるだけだが、「テイン……などの評論文翻訳」が藤村案のようになされなかったことを私は残念に思っている。前述したように、秋骨が前年の『女学雑誌』に
訳出した「バイロン卿の曼弗列度を論ず」「バイロンとゲーテ」の内容が、いずれも、明治という文化に、新しい時代を告げる十分な意味があったように思うか
らである。
そのほか、夙に指摘されるアディソンや「ヴィーナスとアドニス」の訳出などを除いて、藤村がその後、『英国文学史』そのものに直接に言及することはあまり
ないが、「ヴィーナスとアドニス」の、牡馬の野性に託した有名な場面に、「wildnessな性情」をしのぶのは周知のことである。その上、この「ヴィー
ナスとアドニス」は、青春や情熱や、人間の自然性の象徴のように、後々の文学的回想や作品に再三にわたり使われていることも記憶しておいてよいだ(二)ろ
う。その後は、ブランデスの『露国印象記』の感想やフランス滞在中の印象に、『英国旅行記』などに言及することはあるが(第三章で叙述)、ほかには、後年
に、「私などは若い時テインの英文学史を開いて見まして、大分英国の文学が分つたやうな気がしました。之などは最もよいパイロ(三)ットであつたのかも知
れません」(『「国語と国文学」昭和9年8月』)という談話がある程度になる。これはごく簡単に通り過ぎていて物足りない思いもするが、この文は続けて、
小諸時代にブランデスの文学史を読んだことに触れていて、これが「形式的な文学史ではなく、創造的なものであつた為、私にとつてはよいパイロットでありま
した」とされている。ブランデスとテーヌの関連を考えても、テーヌのそれもまた、「創造的なものであつた」と置き換えてもよいのだろう、と私は思う。
直接テーヌを回顧したものではないが、大正七年一月の「早稲田文学」には、「フランス人のディレッタンチスム」(「各国国民性の文学的観察」への回答)と
いう談話記録がある。ここで藤村は、生活を享楽するという一点での日本人とフランス人の差異を述べながら、「この差別、この懸隔の依つて来たる条件には種
々なものがある事は言ふ迄もない。土地、土地の持つ気候風景、人種、人種の持つ政治的もしくは社会的の歴史、文化、文化の持つ浅深や方向の差違――」とい
う考えを残している。ここでは「さういふ科学的な考察は茲ではまづ措くとして」と、話を進めているが、この言葉が『英国文学史』を念頭に置いたものかどう
かということではなく、藤村の比較文化の基本姿勢に、そのような「科学的な考察」が、その位置を占めていたとしても不自然なことでは(四)ない。
歴史及び人間への視座
さて私は、一国の精神文化の発生と発展を基礎付ける風土・環境等の問題について、これ以上立ち入ろうとは思わない。我々は基本的に、そういう「科学的な考
察」に基づいて異文化というものを理解しようとしているのだし、テーヌの方法について語られるさまざまな批判に、私が言葉を重ね、弄する立場でもない。
『英国文学史』発表当時からすでに言われ、逍遥も若干の不満を述べるこの問題を含めて、「とくに、『イギリス文学史』の序論で述べられた文学論、その中心
をなす、人種、環境、時代の三大原動力や、主要機能、相互依存の法則など、むしろ人口に膾炙している。当時でさえ論議の対象になっていたのであるから、今
日、これらの理論は殆どみな検討しつくされている」とは平岡昇氏の言で(五)ある(「テーヌと自然主義」)。
「当時でさえ」とは『英国文学史』刊行当時のことである。テーヌ批判のおおよそは、文学史や文学辞典でわかるが、ほかに我々の眼にふれる文献の中で、この
文学史の方法論が、「個性」という要素を無視したものという批判は、「既にその出版直後なる一八六四年サント=ブーブの指摘してよりこのかた、……幾多の
同国人や外国人によって繰返された所」だと、矢野氏が「テーヌの『英文学史』と日本」で指摘している。その批判の詳細は、やはり同氏が後の『文学史の研
究』で委曲を尽くして説かれているが、同時代の「幾多の同国人」の中には、フローベルもいて、彼もまたその方法論への疑念を書簡のなかに残しているし、直
接、テーヌに宛てて書いたものも(六)ある。後年のことだが、プルーストがレーナルド・アーン宛の手紙で(一八九五・一一・一五)ドーデ家での晩餐の模様
を伝え、ドーデらの唯物的文学観を批判していることもよく取り上げられている。そこでプルーストは、これら「才気ある人々」の「恐るべき唯物主義」を批判
して、「性格や天才が肉体的習慣や民族によって説明される。ミュッセ、ボードレール、ヴェルレーヌの相違が彼らが飲んだアルコールの質によって説明され、
ある人間の性格が彼の民族によって説明される」と、その不当さを、そういう人々の「反ユダヤ主義」をも指摘しながら書いているのは、テーヌの名こそ見えな
いが、彼に代表される環境と遺伝の決定論的方法を指すのだとも言われて(七)いる。しかし異国の事情や一八九五年を取り上げるまでもなく、わが国でも、
テーヌ没後の「早稲田文学」の追悼号で、逍遥が一度ならず、かなり踏み込んだテーヌの褒貶を紹介している。そのことが充分なテーヌ理解となっていたのかど
うかはともかく、そこから我々は、文藝史家としての逍遥が、ドウデン等の批評を取り入れながら、テーヌをかなり正しく、客観的に紹介しようと努めていた跡
を知ることができるだ(八)ろう。『英文学史綱領』でもテーヌの方法への疑問を指摘しているように、(これらも矢野氏によって紹介されている)、わが国で
のテーヌ受容を跡付けるなら、逍遥の努力を避けては通れないが、それは今は別の問題にしよう。
私が書いておきたいことは、こういう遺伝・環境などの基本法則とは別の、(あるいは客観的なテーヌ評価とは別の)、歴史や人間を考察する視座についてであ
る。それは、透谷が「須らく内部をみる(九)べし」と書き、上田敏が「必らず其時代の人心をうつし、風俗をゑがくものぞかし」と読み取ったことに関連する
が、記録や資料から生きた真実の人間を識ることであり、その時代を生きた人間を通して、歴史を、生きた歴史にまで到達させることである。その上に、目に見
える人間の外形のみならず、「目に見えぬ人間の内部の研究、無限に多種多様な魂の発見」を通して、歴史学のみならず、文学にも哲学にも、近代批評の道を切
り開いているということでもあるだろう。このことは、「生の批評」と書き、「人というものに重きを置いた」ことへの一つの解答にもなるだろう。
テーヌは繰り返し書いている。例えば「完全な、生きた人間」(the entire and living
existence)「生きて動いている人間」(the living man)「明白で完全な人間」(distinct and complete
as he)を識別すること、「食べたり、歩いたり、戦つたり、働いたりする、眼に見える有形の人間を知る」(The complete thing
is the man who acts, the man corporeal and visible, who eats, walks,
fights, labors.)こと、目に見える外形から内部の真実を知ること、内部が外部をつくっているということ、そのためには「観察」(try
to see men , seeing men)こそが「人間を認識せしめる唯一の道」(the only means of knowledge
men)であり、「真の歴史」(genuine
history)に達する道であること、あるいはまたスタンダールを範として、「眼を開けて観ること」(how to open our eyes
and
see)の大切さ……。これは『英国文学史』の「緒論」ばかりでなく、全編にわたって語りつづけられることである。この本の中に「人間」という言葉(英訳
本のなかでは、man, men, human, existenceなどの言葉)が、客観的な対象物を示す「事物」という言葉(thing,
objectなどの言葉)が、「在りのまま」「生きたもの」「真の」を示すtruthとかrealとかgenuineとか、livingとかlife-
likeと同じように、(natureとかnaturalとかも含めて)何と多く使われることだ(一〇)ろう。「人間」や「事物」を「眼を開けて観るこ
と」――私たちが学ぶものは、まずは、こういうことではなかったのだろうか。これは方法や法則というより、正しく観るという精神の視座といえるものにちが
いない。そしてそのことは、決してむずかしい判断を迫られることではなく、何度も繰返される言葉によって、比較的容易にくみ取れるものではなかっただろう
か。ある場所で彼はこうも言っている。「人間の成しうるただ一つの価値ある仕事は、それは真実を生み出すことだ」と。「我々はそのために尽くすのであり、
それをこそ信じるのである」。
このような「観る」という視座のほかにも、ふと開いたチョーサーの項で繰り返される、次のような感嘆文をどう読み取るべきだろうか。「この告白の中には、
何といふ楽しい魅力がこもつてゐることだらう」「何人も、チョーサー以後、これほど深い真実味と情味のこもつた言葉を見出したものはない」「その言葉の何
と機智縦横で、しかも慎ましやかに繊巧なことであらう」「すべてが何と溌剌としてゐて、しかも、何と自由自在な調子だらう」、……また、チョーサー以外に
も、何度も眼にするそれに類する数々の言葉、「生命が横溢して、これを眺めると、あたかもすべて生ける作品に対するのと同様我を忘れ」てしまうような言
葉、「生ける明白な人間を躍動させようと試み」ることへの感歎。そして「極めて快適で自然な」、「溌剌とした詩興が豊富を極めた」、「率直で生き生きとし
てゐる」ものへの共感……。こういう「人間」や「事物」を正確に「観察」する科学的な実証精神と、「観ること」をこえて自然な「生」を直観し、余すところ
なく享受する姿勢と、そういう「人間」への感動と共感が、この書物の基本にあって、我々の心を刺激して止まない大きな要素になるのではないだろうか。そ
う、彼の本はこのように、多くの生への共感から成りたっている。科学は、――人間の真実を求める科学精神は、この生の共感と、何ら矛盾することはないだろ
う。なぜなら生の共感は、人間の真への共感になるだろうから。「一人の人間がこのやうに……自己を忘れ、他の人間の中に没入することを読者は理解できるで
あらうか」「私は劇に於いてこれほど清純な、これほど胸を打つものを一つも知らない」「かくも優しい、かくも悲しいほほえみに誰がさからひ得やう」等々、
(これは英国文学が生み出す女性像への共感であるが)、彼は随所で同じような、生一本ともいえる、率直な言葉を惜しむことはない。これらの言葉を総合する
だけでも、一人の思想家が何を人間の美しさと見、何を感銘の基盤に据えていたかを察することができるだろう。遠ざかるアスターティを呼び戻そうとするマン
フレッドの激情もそうである。「何という叫びであったことか、何と悲しい深い苦悩の叫びであったことか。どんなに彼は愛していることか。何という恋慕と努
力で、彼の踏みにじられ押し潰されていた優しさが、最後に見る最愛の者の眼を見て思わずもほとばしり漏れ出ることか。痙攣する彼の手は、何という狂おしさ
で、墓へと引き返す女のはかない姿に震えながら差し伸べられていることか」と、原著者の激情を越えてテーヌは書き記している。――そしてシェリーの「雲」
に寄せるオマージュもまたそうである。「シェイクスピアとスペンサー以来、誰が、こんなに優しく、こんなに壮大な恍惚に火を点しただろう。誰が、こんなに
も壮麗に雲を描いたことがあろ(一一)うか」。
テーヌの文に従えば、文学作品はたしかに歴史学の資料であった。サント=ブーヴも言うように「作品は文学としてではなく、歴史的記録として取扱はれて居
る」(矢野『文学史の方法』)のは確かであった。しかし彼は、「文学的記録から引き出し得るあらゆる利益」について、「この記録が豊富な内容を持ち、而も
人がそれを解釈することを心得てゐる時には、人は、その記録の中に、一つの魂の心理を、屡々一つの時代の心理を、時には一つの種族の心理を見出すことがで
きる」と、「時代」や「種族」の心理と同等に(あるいはそれらに優先して)、「一つの魂の心理」を忘れてはいない。そうして、「偉大なる詩篇、美しい小
説、卓越した人物の懺悔録」のなかに描き出される「感情」(sentiment)こそが文学本来の役目であることも忘れてはいない。内容を先取りすること
になるが、我々はやがて、「詩的であるのは自らの感情(my feelings)である。美の最も高貴な花(the most precious
flower of beauty)として尊重しなければならないのは、自分の感情なのである」と書くテーヌに出会うことになるだろう。
「我々は韻を踏んだ計ったような朗読法から脱して人間の声を聞くようになる。さらによいことに我々は、感情の声調などを忘れて、感情そのものを大切にする
ようになる。我々はこの感情が我々自身に反映されるのを感じ、そして魂との交感の中にはいる(一二)のだ」。
「我々はもう詩的対象を求めてギリシャへもローマへも、宮殿へも古風な英雄へも、また学士院会員の下へも行く必要はない。それらはまったく、我々の近くに
あるのである。もし我々がそれらを見つけることができなければ、それは我々がそれらの探し方を知らないからである。欠陥は我々の眼のなかにあり事物のなか
にはない。望むならば、我々は我々の炉のそばに、野菜畑の中に、詩を見つけることが出来る」。
これは、詩が「私」の感情のなかに生まれるようになったことを指すテーヌの言葉である。前者はバーンズの中に、後者はクーパーのなかに述べられている。前
記の「美の最も高貴な花」云々の言葉もクーパーのなかで使われている。そして、「病者の微笑」をたたえたようなクーパーの詩の誕生も感動的である。彼は名
声のために書くことはない。人に聞かれ読まれることなど夢想もせず、ひたすら自分に向かって話している。普段の暮らしのなかで絵を画くのと同じように、忙
しくベンチで働くのと同じように、詩をつづっている。テーマを探しにどこかに出かける必要もなく、ただOuse河の川辺を無言でさまよい、じっと見つめる
のである。心が癒えるために詩は生まれている。詩は形式や拘束をこえ、修辞的因習やサロンの儀礼的な慣習などと関係なく、その人の感情の世界に降りてく
る。詩は再び在りのままのもの、生きているものになった。我々はもう技巧的な言葉を聴かないで感情を感ずるとテーヌは述べている。わが国の近代詩の誕生
に、これらの言葉はheartやsoulなどの言葉とともにどんな影響を与えたのだろうか。
いわばこれは、私の「緒論」である。
『英国文学史』とは何だったのか、と思うことがある。再度述べてみれば、それは、この書物の客観的評価や史的な位置づけということではなく、もっと簡単な
ことで、あの時代の若者に、この書物が何を与えたのだろうということである。バイロンの名は何度も挙がり、「ヴィーナスとアドニス」も、アディソンの「ミ
ルザの夢」も、この著書との関連はつとに指摘されている。このことだけからでも、我々は、「我」を生きる人の雄々しさや、ティッチアーノの絵のように燦爛
と輝く青春の「産声」や、「wildnessなる性情」という自然の欲情を学ぶのである。「ミルザの夢」からは、白昼の幻想夢のなかに、人間の運命の浮沈
や、これを支配する大いなるものの存在を見て、若者に与えるひそかな感銘を知るだ(一三)ろう。シェイクスピアもゲーテも、およそ取り上げられる作家は、
それを首肯するかどうかはともかく、克明な筆でその肖像の一つ一つが書き上げられている。そして関氏が「比較文化」の問題といったように、文化の土壌をな
す一国の歴史や風土の発見も、近代英語の確立に至る次のような問題も、そのうちの一つになるだろう。
私は、「聊か思ひを述べて今日の批評家に望む」(二八・五・三〇)において、藤村が、「英人の詩に適し、仏人の文に適するが如くに吾国の文学は文に優にし
て詩に乏しきものなりや」と問いかけていることを思い出す。そして、これは『英国文学史』に拠るのではないかと思ったことがある。「英人の詩に適し、仏人
の文(註・散文)に適する」は、文中に多い英仏比較の一つのテーマだからである。藤村の文は続けて、今日のようなわが国の不完全な言語であっても、それを
駆使するチョーサーのような詩人を得て初めて詩は花開くのか、と問いかけているが、これらの発想も、一国の文学的土壌の貧しさのなかから、「新しい国語の
誕生」の大半をチョーサーに費やしているこの書の影響ではなかったかと私は思う。異文化の支配下にあって、自国の民衆語が廃れることなく、やがて近代英語
として定着していくプロセスには、国民精神、国民文化の誕生・発展の土壌は、その民族に宿った宿命の根の深さに拠るのだ、と言われているように思える。フ
ランスから持ち込まれた宮廷サロンの瀟洒な文学が、この国でほとんど定着しなかった経過を述べて、(そう彼は考えているのだが)、彼はこんなことも書いて
いる。「茎から断たれ、異なった土壌に移植されたその文学は、独創性のない不活発なものになった」(第四編「現代」第三章「現代及び過去」一―二)。ある
いは、王政復古の時代にあって、フランス風の文化が、圧倒的に流入して見せかけの花を開いたその時でも、「それは(註・国民の本性は)地下鉱脈のように残
る。なぜならフランス文化は、英国では成熟することはなかった。あまりにも異国的なこの土壌で、それは不健康で粗悪な、不完全な果実を生み出すばかりだっ
た」(同一―一)というように……。ポウプやドライデンのような「古典主義」時代の詩人に寄せるテーヌの評価も、この点に属することになるだろう。畢竟、
「いかなる時代でも、あらゆる文明の下に於いて、一つの民族は常にその民族そのものである」(第二編「ルネッサンス」第一章「異教復興」第二章「劇」三)
という言葉を、我々はこの著作の底からいつも見出すことになる。思えばこの文学史を貫くテーマは、たえず、真に英国的なものは……という問いかけだったと
考えてよい。このような国民文学観とでも言うようなものは、レッシングに「国民文学の礎」を築いた人を見出し、「日本想」という民族の土壌を考えずにはい
られなかった藤村に疎遠なはずはなかっただろう。まことに、「吾人と共にある新しき自然は、他邦の花を移し草を植ゑざるべからざる程に乾燥なるものなる
か」という問いを、私は切実な共感とともに改めて想起するのである。
「決定論」などと、やっかいなことにちがいない。逍遥はこれを「定命説」とか「定命の説」と訳している。逍遥の文によれば、(これはドウデンやトレイルの
説を紹介しているものだが)、テーヌは、「みづからは称して毎に帰納論法を用ひたりといへれども実は始終演繹の法を用ひ先づ一の定則を立てゝ此の定則より
結論を抽出せり彼の諸書を研究するやおのれの学説に証拠を加へんが為に研究したるが如き傾あり」(「仏の文豪テーン逝く」)とか、「(ママ)絶待の定命説
を唱へて事実と事実との間に確定明瞭なる因縁果の関係あることを断了せりかるが故に吾人若し彼れを信じて而して彼れの諸著を読まば、宇宙間の事物一として
彰々乎と解釈徹底せられざるものなきが如くに感ずべし」(同)等の説明をほどこしている。この点についての解説では、平岡昇氏が、「法則のメカニズムに
よって成立する世界、決定論の世界」と、次のように述べている。
「(テーヌは、)哲学の任務は一見混沌とした複雑な現実を、分析と抽象によって、単純明瞭な要素の世界に還元することであり、いかに複雑多様な文化的、歴
史的現実でも、人間精神の機構〔心理〕と運動〔歴史〕を支配する少数の根本法則、幾何学の定理のような公式によって説明できると考えた。かくして有名な歴
史の発展法則として人種、環境、時代の三大原動力や、精神的能力の根本形式としての主要機能や一つの時代的環境内の諸事実の一般的特質を規定する相互依存
の法則などの観念に到達して、この理論を個人の作品から進んで民族の文化に見事に適用した」(「ルナン、テーヌ素描」)
通史を求めるなら、ほかにもすぐれたものは多くあるのだろう。私は、秋骨の『文学復興期を懐ふ』にも出てくるグリーンの『大英国民史』を読んでみたが、
(これは明治学院の教科書の一つであ(一四)った)、この国の歴史の経緯が、複雑かつ細かな経過を通して、まことによく、読み取れるような気がする。抽象
的な観念や思弁とは極力無縁な、入り組んだ史実を腑分けするようにたどる面白さは、決して生易しいものではないが、その物語のような面白さもあって、長い
冬の夜の何週間を読みふけるのにふさわしい感じもする。それとは異なって、『英国文学史』の、少なくとも難解な形而上的用語で解説されるこの法則や観念
が、どういう具合に具体的に本書に表れているのかなど、私などには今でもそれほど明確にわかるわけではないが、ただ、繰り返し読むうちに漠然と理解できる
ものの一つは、やはり「人種、環境、時代」の「三大原動力」に関ることであり、くどいほどに繰り返される英仏の比較、――生活意識や文化の対照性に関連
し、文芸上では作家や作品の思想やその本質的特性を、必ず風土や環境によって形成された種族の本性に結びつけるということである。テーヌにはそういう前提
があって、いかなる作家でも、特にすぐれた作家・詩人の本源を、その仮説・前提の定理に求めるのである。ワーズワースでもシェリーでも、ディケンズでも
サッカレーでもテニソンでも、結局は二国の対照に論が及ぶようになると、さすがに鼻白む思いもするのだが、比較文化というべきか、比較人類学というべきな
のか、この対照は、十九世紀人テーヌにとって、政治的にも芸術的にもどうしても乗りこえなければならないものだったのだろうか。それは彼が後に書く『英国
旅行記』でも同じである。もっとも私には、たとえそれがくどい繰り返しであるとしても、民族の本源的な気質という基本的な要素に(人種優越論などは論外と
して、また、あまりに単純化された諸文明の比較などは別にして)、それほど疑問をはさむ気持ちにはなれないでいる。それはそれで、十分に力強く、時には説
得的な力ももっている。
「法則のメカニズム」と言えば、次のようなことも、その一つになる。
種族・環境・時代という三つの本源的な力を述べたあとに、有名な「悪徳や美徳も、硫酸や砂糖のやうに生成物である」(Vice and virture
are products, like vitriol and
sugar;)という断定と同じように、彼は、「文学・音楽・美術・哲学・科学・国家・産業・その他」のいかなる「人類の生産物」(every
kind of human
production)にも、物理現象とその条件との関係、露と外気の冷却、膨張と熱との関係と同様な関係が存在していると書いている。その「生産物」
は、それらを発生させる諸原因が、「どの程度に正しく且つ根強く、鞏固に結合してゐるかに従つて、発生し、衰微し、再興され、変化する」というような、原
因の強弱によって変化が起こるのだが、テーヌは、物事というものはすべて、かくの如くにして起こったのであり、またかくの如くにして将来も起こるであろう
と書いている。このような事物の相関的な関係は、我々もいくらかは学んだ物理学の諸運動や、社会科学による社会発展の諸現象と等しく、我々の観念にも今で
は若干は定着していて、我々にも十分に理解はできるのだが、テーヌはつづけて、「このやうな広大な現象の一つに対する必要にして充分なる条件の何たるかを
知りさへすれば、我々の精神は、過去のみならず未来をも正しく把握することができる。我々は、そのやうな現象がいかなる事情の下に再生すべきかを確信を以
て述べ、その現象の近き将来の歴史の大体を無理なく予見し、且つその後の発展の若干の特徴をも周到に略示することができるのである」と言い切っている。本
当にこのようなことが言えるのか。――このようなことを言い切れる時代があったのだろう。
私は「ラプラスの魔」というものを読んだことがある。十八世紀後半から十九世紀初めにかけてのフランスの科学者ラプラス(P. S. Laplace
1749-1827)が、「確率論」や「解析学」のなかで述べていると紹介される言葉、――「ある瞬間に宇宙のすべての原子の位置と速さとを知ることがで
きるならば、未来永遠にわたって宇宙がどうなるかは、解析学の力によって知ることができるであろう」(弥永昌吉
平凡社『世界大百科事典』29「ラプラス」)という文や、あるいは、「ある与えられた瞬間におけるすべての力とすべての物質の力学的状態を知り、かつこれ
らのデータを解析しうるだけの能力を持つ知性が存在するとすれば、『この知性にとっては、不確実な事柄はなにもなく、その目には未来も過去とまったく同じ
ように現前するであろう』」(横山雅彦『岩波・哲学思想事典』・「ラプラスの魔」)など、よく、機械的な決定論の極致として紹介されるこれらの文が、何と
テーヌの文に近いことだろう。テーヌの「一種の機械的な操作に還元された分析は、これまで自然科学に用いられた手法を、精神の事象にまで拡げた」とエミー
ル・ゾラが書いているというように(平岡「テーヌと自然主義」)、宇宙の諸運動を分析する手法が、(神学的な決定論などと同じように)、広く精神世界や歴
史の法則に当て嵌められていくのだろう。《魔》とは、そのような決定的な法則を認識し得る、ある超越的な英知・知性を指すことになるが、実際にラプラスの
言葉をたどっていくと、詳しくは次のような言葉になる。「ある知性が、与えられた時点において、自然を動かしているすべての力と自然を構成しているすべて
の存在物の各々の状況を知っているとし、さらにこれらの与えられた情報を分析する能力をもっているとしたならば、この知性は、同一の方程式のもとに宇宙の
なかの最も大きな物体の運動も、また最も軽い原子の運動をも包摂せしめるであろう。この知性にとって不確かなものは何一つないであろうし、その目には未来
も過去も同様に現在することであろう」(『確率の哲学的試論』内井惣七訳 岩波文庫)。
このような事を念頭に置きつつ、なお彼の「緒論」を読むとする。彼の言葉に従いながら、一種族の、目に見えない内部をたどりながらその発展の歴史を読むと
する。テーヌ氏が「近き将来の歴史の大体を無理なく予見し、その後の発展の若干の特徴をも周到に略示することが」できたかどうかは、この書物を最後まで読
んでみる必要もある。そして私には、『英国文学史』も最後には、希望とも絶望ともつかない叙述でその終末を迎えているかのように思える。人間の回復を祈り
ながら、人間の将来を案ずる文章のなかに、知り得ることのない不可知なものへの嘆きの声も伝わるかのように思えてくる。ラプラスが前記の文に続けて述べて
いる次のような言葉を、私たちもテーヌの文に付け加えるべきなのだろう。「真理の探究における人間精神のすべての努力は、われわれがいま述べたばかりのこ
の知性に人間精神を絶えず近づけようとする傾向をもつが、人間精神はこの知性からはいつも無限に遠く隔たっている」(同)。――「確率」とは「この知性に
人間精神を絶えず近づけようとする……努力」を指したのだ(一五)ろう。
「科学」は、人間を「事物」として捉えることは、この時代にどう受け止められたのかと、思う事がある。植村正久は前述のように、「科学的分解にして愛も情
もことごとくそのピンセットに繋れり」と言う文を引き、『国民之友』の執筆者は、「人類が其自由を有し、且つ其霊魂を有するとの信仰」を排除せんとする
「迷信」――即ち、「生理学的」な「唯物論、宿命論」としての欧米の論を紹介していた(第一章
注八参照)。いわば、「科学」はいつも人間の自由意志を否定するものとして、「霊性」や「霊魂」との素朴な二元論のなかで紹介されていた。そして、「科
学」の立場に立っていたテーヌは、その概念としての限りにおいて、わが国にもいち早く登録されていたのだ、といえるだろう。しかし、「悪徳も美徳も、硫酸
や砂糖のやうに生成物」であるというような、当時としての驚くべき唯物論に、人々が訳もなく従ったのかどうか、あるいは、それへの抵抗があったのかどうか
は、それほど明らかではない。「国民之友」や「国民新聞」の追悼号では事もなげにこの言葉を紹介し、一代を先導した偉材のよすがとしている。平岡昇氏は、
「すべて身をむなしくして外来のものを受け入れようとしていた彼ら(注・『文学界』)同人や逍遥、愛山らの批評家や歴史家」)が、テーヌの理論そのものへ
の大きな抵抗を感じなかったのは当然である」(「テーヌと自然主義」)と、その当時の概観を書いておられるが、「抵抗を感じなかった」かどうかはともか
く、無抵抗に心酔したかどうかはともかく、むしろ暁闇の地平にいて、新しい学問の美しい曙光を望むに似た驚きであったのだろうと思われる。その上、(と、
私は思うのだが)、当時の日本語が、どこまで概念の理解に達していたのかは、これも、おぼつかないことではなかったかと思われる。抽象概念の紹介はどんな
に困難なものだったのか、今でも私などは、鴎外の審美論などを前にして、その難解さに大きな溜息をつくのだが、『文学史の研究』においても矢野氏は、「邦
英文学史の回顧」という項で、逍遥の『英文学史』においては「当時まだ『象徴』といふ文字が通用して居なかつたため、今日ならば当然『象徴的表現』(註・
the symbolic
expression)と言ふべき所を、……『一種の符号を以て表現せるもの』と訳してある」等の事情も紹介している。矢野氏はそのほかにも、『『文学
界』と西洋文学』の中で、ペイターの大意に拠って書かれた禿木の「人心の幻境を論ず」では、「インプレッション」に対する「印象」の訳語がまだできていな
かったこと、「エキスピリエンス」に対する「経験」の訳語は、大正期に入ってからのものであろうと指摘しているほどである。このような訳語と言えば、よく
も悪くもテーヌを華々しく象徴する「悪徳も美徳も……」の言葉も、わが国では、「酢と道徳は気候風土によつて味を変ず」(「国民新聞」二六・三・一五)と
か、「善と悪とは恰も砂糖と酢の如く気候風土の物産なり」あるいは、「徳と不徳は砂糖と酢の如く共に所ろぐの産物也」(「国民之友」一八五号
二六・三・二三)などと紹介される如き、テーヌの環境説は「個人は周囲の奴なりといふ説」(「早稲田文学」三六号
二六・三・二五)と紹介される如き、「科学」は、明確な細部において、輪郭の整わない粗雑な理解を伴っていた、といえるだろう。前者はテーヌの環境説をも
混同しているのだろう、後者も、おおまかにいえばその通りのことではあるが、人間は「周囲の奴」でしかないというこの上なく狭隘な解釈では、逍遥その人が
憂慮したように、大きな誤解を周辺に撒く事になるだろう。今から思えば、「生成物」(products)という言葉すら、訳もなく「物質的」と考えること
もできないように思える。この言葉はまた別のところで、「人」は、「ほかのすべての事物のように、一つの生成物(a
product)である。そして、そういうものとして、人は、その在るべきところにある(一六)のだ」(「Lord
Byron」6)というようにも使われている。ここでは、植物に異種や変種があるように、そしてそれは決して異物ではなく一つの存在なのだということと同
じように、人はそれぞれが独自の存在として在るのだと、彼は人間の自然性を主張しているに違いないのだ。そして、正統と言われるものの独断や他者への非寛
容、既成の教義・社会概念で人を裁くことへの批判としているに違いないのだ。
幻想家あるいはプラトニズム
それにしても、『英国文学史』とは何だったのだろう。
「緒論」の方法論を読み終えた後、我々は、印象的な描写から、この書物をたどり直すことになる。まるで遠い根源を慕うように、テーヌは、サクソンの起源を
述べている。その土地は「沼沢地や曠野や低地」が多く、「水嵩の大きい物うげな河が、幅広の黝ずんだ波を立てゝ、苦しげにのた打つて」いる。空は「永久に
湧き出る蒸気に養われて、重苦しい雲が」ただよい、その雲は、たちまち驟雨となって降り注ぎ、植物は水を含んで繁茂する。北海の波のうねりは「帯のやうに
狭い平坦な海岸に向つて、どつとばかりに押し寄せ」、「風は吼え唸り、鴎は鳴き叫ぶ」。――「かうした霧の深い大気の中に、かうした霧と暴風雨の中に、か
うした沼沢と森林の中に、漁をしたり狩をしたり、とくに人間を狩猟する、ほとんど猛獣のやうな、半裸体の野蛮人を想像して見給へ」、とテーヌは書くが、タ
キトウスの『ゲルマニヤ』のように、文明から遠くへだたる本源的野性に、彼は強く惹かれていたようにも思える。ベルギー国境に近いアルデンヌのヴジエ
(Vouziers)で生まれたこの思想家は、北欧の陰鬱な大地を第二の故郷とする血が流れていたのだろうか。少なくともこの荒涼とした大地は、「遺伝と
風土」の思想家に、多くの想像の根拠を与えている。そこからすべてが始まっている。血まみれな古伝説や英雄譚を話すことはひかえるにしても、「あたかも雨
が薄暗い窓ガラスを叩き、ちぎれ雲がうら悲しく空を渡」(第一篇「起源」第一章「サクソン人」―六)るそのような時、「森林や泥土や雪の只中にあり、厳し
くて陰気な空の下に在つた、長い未開時代」(「同」―八)、というように、どこまでも憂鬱な風土の想像は、常に厳しい自然を生きた種族の本性を象徴し、彼
岸や死や葬送への親しみや、土に化して腐蝕していく肉体とか、死者を貪る蛆虫の群というような、このうえなく陰鬱で魅力的な、重々しい荘重さを掻きたてて
いる。「たとえ嵐が怒り、雪が降り、風が黒い松の森に荒れ狂い、カモメの泣き狂う青白い波濤に吹き荒れても、たとえ人々は寒さに身を縮め青ざめて、小屋の
中に閉じこもり、煙っぽい光や泥炭の火の横で、一皿のsourkroutや一切れの塩漬けの肉しかなくても」(第二篇「ルネッサンス」第五章「宗教改革」
―二)、この人々は魂の喜びや道徳的な世界や彼岸での救済を渇望するのだ、と言う如く。――あの憂鬱なハムレットもまた、このような風土・種族の嫡子であ
ることになるだろう。
いくつもの評にもあるように、『英国文学史』の魅力を支えるものは、このような独特のイメージの多様さにもあるように思える。かつて渡辺一夫氏が「幻想家
テーヌ」と呼んだよ(一七)うに、「彼の文章に接する人々は、読み行くうちに、冷酷な理論家の締木に挟まれる感銘は抱かずに、むしろ、四周に絢爛たるイ
マージュの湧きあがるのを、幻想の世界に捕えられるのを」感じることにもなる。そのことを証明するように、彼もまた、「実証的な観察の彼方にその透徹した
洞察を投影し、感知し得る仮象の背後に、何とも知れぬ幽暗で荘厳な世界を瞥見」すると(これはトマス・ブラウンについての項でだが)書いたり(一八)す
る。あるいはまた、スペンサーを論じながら、スペンサーを「ヴォワイヤン幻想家」(seerer)と呼び、「スペンサーの本質は絵画的な想像の巨大さと氾
濫である。ルーベンスのように……」と書いているところがあるが、これなども、図らずも自分自身を語っているようにもみえる。テーヌという人の文章も、負
けず劣らず、「絵画的な想像」をその背景に置き、事物の背後に事物を蔽うイメージを見、生きた自然を想像して、文章を抽象から具体へと変換していくように
思える。「絵画的」といえば、作家や作品の印象を論ずる場合でも、彼は随所で著名な絵画の印象や、画家の特性を当てはめて、彼のいう「生きた人間」「生き
た存在」のイメージを映像視する。それはルーベンスが、デューラーが、ティチィアーノが、ラファエロが、というように、(同じ聖母像を描くにしろ、ラファ
エロとデューラーがどう違(一九)うか)、場合によってはゲインズバラというように、それによって我々は、難解な観念や理論、解析や思弁に、生きた輪郭が
加えられ、重い肩の荷から解放されることもある。藤村研究にたずさわる者は『ヴィーナスとアドニス』のあの悦楽、陶酔と耽溺の世界が、ティチィアーノの絵
に譬えられていることを思い出すだろう。ティチィアーノの名は何度となく、この文学史に添えられて、官能の悦楽や陶酔、豊饒の譬えになるので(二〇)あ
る。それはデューラーが語るような、深刻で生真面目な北方の宗教性と真正面から対立している。そして、「幻想」といえば、スペンサーの「仙女王」も読んで
もらうとよい。先にも触れたところだが、この古風な騎士道譚は、逍遥の『英文学史綱領』で読むと、どことなくきわめて常識的な解釈の、道義的な寓喩劇にみ
えるのだが、テーヌは英訳文一三ページに及ぶスペンサーの項に、徹頭徹尾、まばゆいほどの想像世界を描き出し、瞑想的なプラトニシャンを見、高貴な騎士的
な理想主義者を見、夢みる人の美しさを見るなど、「真に神々しい詩篇」をしか見ないのである。
『ピレネー紀行』の作者にふさわしく、風土はこの書物の大きな要素を占めている。英国
旅行に赴いた時にも、彼は、重苦しく陰鬱なこの国の風土を目にして、この種族の起原を
説きおこす時と同じように、人間を支配する暗く荒々しい世界が、この国の人々の勤勉や
行動力を生み出し、労苦に耐える性質を生み出した源にしている。そして一方では、この
国の「水に恵まれた国土の魅力的な、感動的な美」に目を瞠っている。いかなる時代でも、
「冷えびえとする雨、泥深い土」は、「日光と温かい風の帰来をこの上もなく楽しく思はせ
るのだ」(第一篇「起源」第二章「ノルマン人」―五)というように……。そして『ピレネ
ー紀行』でも、柔かい日光や美しい谷に囲まれながら、「北国の曇った空のもとに住んでい
るわれわれは、どんなにこうした願望をいだいてきたことだろう」と書く如く……。
『英国文学史』でもこの種の願望は後を絶たない。
いくらか晴れたある日、田舎までドライブに行った高台の上で、彼はそれまで知らなか
った喜びを味わったと書いている。はるかな地平線の彼方まで、野や丘を緑が埋め、生垣で囲まれた牧場には、大きな牛が平和に反芻している。霧が叢林の間を
ゆっくりと立ち昇り、遠く陽炎がゆらめく中で、彼はいつまでもここに居たいとも思う。
「我々の馬車の両脇を、次々と牧草地がすぎる。それぞれが、今見たものよりもはるかに素晴らしく、我々の心を奪う。金鳳花やミドウスイート、イースターデ
イジーと、花の色は互いに溶け合い、どこまでも絶えることなく、群がり咲いている。それは甘美というより、悲痛なほどの魅力であった。この不思議な魅力
が、かりそめの無尽蔵の植物から吐き出されてくるのだ。それはあまりにも新鮮で、永続するはずのものではなかった。……すべては移ろい、生じ、死に絶えて
いく。涙と喜びの間をさまよっている。」(第四篇「現代」第三章「過去及び現在」二―一 )
「水滴は真珠のように葉の上に輝く。円く広がった木々の梢で、木の葉はやわらかな微風にささやく。昨夜の雨が残した滴の、したたる涙の音は、止むときがな
い。……そして空と大地は、どんなにこの草木の組織を保護し、美しい色をよみがえらせることか。ほんのわずかな日の光がそそぐだけでも、彼等は快い魅力で
微笑む。それらは、ベールを持ち上げてこちらを見ようとしている優美ではにかみがちの乙女のようだと我々は思った。」(同)
このような文を読んでいると、我々は北欧の文学で読んだあの「死と愛」というような
懐かしい言葉を思い出すことになる。そして、このような文のまわりに、「異教的」といわれる生命のあふれる心からの愛や、風や水と戯れる官能的なニンフの
姿を、純潔な美しい乙女や恋する男を、サリーの「ペトラルカの愛のやうな、無限で清純な愛」の世界を置いてみよう。あるいは夭折した人への哀惜や疲れた魂
の喪心、たのしき日々への追想と深い悲しみなどを……
スペンサーばかりでなく、テーヌが紹介するルネッサンス期の詩の中には、美しく、魅
力に富んだものが多い。テーヌの文章の中から、我々は、「国民的にもなつている田園情緒」
(第一篇第二章一五)とか、「田園の漠とした幸福に浸つて我を忘れ」(「同」第三章五)、
というような文を読むけれども、我々はその中に、我々の生に訴えてくる官能的な自然の
おののきを、いくつもいくつも見出すことになるだろう。陰気な霧が晴れて、太陽の下に
草原や樹々が輝き、花々が咲き誇る。小鳥はさえずり、泉の水は日を受けてきらめく瑞々
しい春や初夏の輝きのなかに、生命の輝きに寄せる憧憬や、はかない生の幻想を、どんな
に多くの人が歌っていることか。たとえばテーヌが見たとまったく同じようなこんな光景
――。
「あたかも夏の日に丘の坂の上で、蜜蜂の群がまばゆい光の流の中に飛び交ひ、花の周りに渦巻いてゐるやうに、おのが愛するまぼろしが浮び出たり、交り合つ
たり、現れたり、消え失せたりする……」
これは第一篇「起源」の第三章「新しい国語の誕生」(五)に出てくる「The Flowewr and
the leaf」という文に寄せられている感想だが、このような自然や生の官能の輝きなどが、
泉の傍らのニンフの戯れのような愛の世界と一つになって、チョーサーやサリーや、シド
ニー、スペンサー、ドレイトン、シェイクスピア、グリーンといった人々のなかに表れて
くる。万象と交じり合う愛や歓喜の世界は、『ヴィーナスとアドニス』を待つまでもなく、
それに先立って、この書物にはいくらもあったのである。そして、このような詩の誕生の
ごく初期のころ、ふとエピソードのように取り上げられている中世の詩の一つに、(それは
イギリスの詩がそのようになる前の、ごくフランス風の、修道士に対する嘲弄や揶揄を表
すような、どこか淫猥な寓喩詩であるようだが)、夏の日に、尼僧たちが小舟に掉さして、
灰色の衣をまとう修道士の僧院のもとに「祈祷を習ひに」通っていく情景を読んだとき(第
一篇「起源」第二章「ノルマン」―五)、そのような詩にすら、思わずも私は、どこか駘蕩
とした藤村の「蓮花舟」の情景を思い浮かべるほどであ(二一)った。
書き添えておくと、この国の詩が美しかったように、テーヌの中で、ひたむきに恋する女ほど美しく書かれているものもない。彼は、英国文学に現れる「最も貞
節な心の最も優しくて従順な女」の肖像を何度も書くのである。それはチョーサーのクリセイドであり、シドニーのステラであり、やがてはオフェリアやデスデ
モーナになるような、「恋するときは、彼女等は禁断の木の実を味はうのでなくて、自分の全生命を賭ける」ような女性たちである。「彼女等の求めるものは、
献身であつて、快楽ではない」というような女性を、この『文学史』ほども感深く書いているものが、ほかにあったのだろうか。それはちょうど、「恋愛は彼等
が摘み取つて、味ひ、それから捨てる美しい果実なのであつた。それでも彼等にとつて、最上の果実とは禁断の実たることであつた」というフランス女の巧戯と
は対極のように書かれていて、テーヌはその肖像に触れるたびに、前述したような感歎の声をあげている。彼女たちは前後を見回すこともなく、一途に愛し、捧
げ、そのための死も恐れない。女の可憐と情愛を描いて、この崇拝に近いプラトニズムは、恋愛を至上の高みに置いた明治の青年たちに、どのような幻想を抱か
せたことか。少なくともそのようなことを予想させるものもこの本は持っている。
まことに我々は、テーヌその人がSeererであり、プラトニシアンであったと考えてもよいのだろう。なぜなら彼はよく、天上や自然の崇高を、彼方の空は
るかに幻視するからである。秋骨が「天下何物か詩ならざらん」と訳したように、『ファウスト』を読みながらも彼は、「すべてのものは超自然の一属性」であ
り、「生があるところはどこでも、獣の世界であれ狂気の世界であれ」、そこに「美」があることを書き、「我々が自然に目を注げば注ぐほど、我々はそこに神
性を見出す。岩にさえ樹木にすら……」と書き添えている。そして私たちはまた、異様なほどに美しいシェリーの「雲」や、「The Sensitive
Plant」の文をたどりながら、まったく同じような「美」をそこに見出すだろう。「まことにすべての事物に魂がある。宇宙に一つの魂がある」と、シェ
リーの「魂の物語」を、彼は感銘深く書くのである。目に見え、意識される形を越えて、「ひそかな本質や神性なあるもの」に、彼はいつも目を注ぐかのようで
ある。そして「すべての現代詩を支えるものは、この予感であり、この思慕である」とも言い切っている。一方では、「悪徳や美徳も……」のように、人間精神
を物理学や生化学に還元する冷厳なこの人は、人間精神の構造やその発露、あるいは生態を、動物学、植物学、鉱物学、あるいは生理学、遺伝学、解剖学などの
現象にたとえて解説することも多いが、特に、人間の発展の経路を植物の系統樹にたとえ、突然の変異・異種を自然の正当な一個体とし、導管を流れる樹液を生
命素にたとえ、またあるときは、動物の変体・脱皮の現象やグロテスクな古生物のイメージに人間を託し、遠く群がる群衆を蜜蜂の乱舞にたとえ、あるときは滴
る水が土を穿ち、やがて細流が次第に河川へと広がってゆくような、多分、ゲーテがそうであったように、自然のなかの人間を、地質学者や博物学者の目で見る
のである。自然の営みのなかに人間を置き換えている。当時の一般的知性が、このような「科学」をどのような目で見たかは問わず、人間的現象を博物学の一環
ととらえることは、優れた博物誌がそうであるように、それは、我々の存在を地球上の一個体にし、あわせて普遍的なものにする。我々が自然の一員であること
を深く知る時ほど、我々を謙虚にするものは(二二)ない。
ルネッサンス精神、及びシェイクスピア像
その『緒論』をたどり、『起源』をたどっていくと、私は、テーヌの方法、『英国文学史』を貫いている基本的なテーマが、そこにすべて網羅され、提出されて
いるのを感じる。それは、この陰鬱な大地に生きた北方の種族と、温暖な地中海に生きて、盛んな交易によった南方の種族の対照のなかで考えられ、やがて前者
は、重苦しく内省的な人間を生み、厳格な服従や義務の観念に従順である一方、独立と自由と、干渉を排する不屈の本性を失うことはない人間となる。テーヌ自
身が「やがてバイロンやシェイクスピアに見られるところ」と書くようなものである。内省と精神的な美を求める心、厳粛と崇高を尊ぶ心は、純潔や献身という
美徳や、悲劇的な愛や、彼岸への激しい渇望を生み出して、死の世界への想像に駆り立てるいくつもの文献から、我々は、(前述したように)、ハムレットです
らこの種族が産み落とした当然の嫡子であったことも知ることになる。フランスの古典主義的な「散文的な明澄な精神」に対するに、「突然に湧き起る熱烈で輝
かしい半幻想」とは、やがてシェイクスピアの主題になるだろう。サロン的な礼節・典雅な秩序より、「憤怒や狂熱の激発と奔溢」が、テーヌの一貫した主題に
なるだろう。独立と自由の精神は、やがて、実際的な適応の能力の発達によって、この民族の議会制度の下地をつくりだすだろう。そして、民衆に残ったサクソ
ン語が近代英語を形成していく過程は、一国の文化の土壌は決して冒されることはないことを物語るだろう。『文学史』と名づけながら、これはやはり、本来、
この民族の精神史であるのだろう。そしてその後は、各論的に作家や作品に沿いながら、各主題が輪唱のように繰り返されていくが、この国の若者たちに、眼に
見えない影響を与えていたのは、そのようないくつものテーマを越えて、この書の中核をなすルネッサンスではないのか、と私は思う。ルネッサンスの精神は宗
教改革と一つになって、この本の最も重要な位置を占めている。
第一篇の『起原』から、この書は、そのような絶頂へ向けて進んでいる。同篇・第二章の「ノルマン人」という項では、ウイクリフが現れ、『農夫ピアーズ』が
世に出ても、庶民階級の生活がまだ白日の下に姿を現さないそのころのことを、テーヌは、「彼等の信仰も、彼等の詩も、共にまだその完成に達するにも、成果
を生ずるにも至つてゐなかつたのだ。二つの国民的爆発であつた文芸復興と宗教改革は、まだ遥か隔たつたところにあつた」と留保してその項を終え、第三章の
「新しい国語の誕生」では、民衆的な本能や憤懣が、粗野ながら生き生きした生命を表現し始めたことを、「それはやがてそれが顕示しようとしてゐる二大特徴
を具へた生命なのだ」として、「その二大特徴とは、宗教改革といふ聖職者の階級制に対する憎悪と、ルネッサンスといふ五官と自然的生活とへの復帰である」
と結んでいる。そしてこの本は、その後に第二篇の『ルネッサンス』を据えている。このルネッサンスの、「五官と自然的生活とへの復帰」と書かれるような、
人間のあるがままの蘇生の時期を、彼は、「ヨーロッパの最も偉大な時代」と書き、「人類の成長を通じて最も見事な時期」と謳いあげ、「あの自発的な創造の
時代」とするのである。そして、自らの生きる十九世紀末の時代を、「ひややかな憂鬱な我々の時代」と評し、「我々は今日でも尚この時代の生気(註・ルネッ
サンスの生気)を糧としてゐるし、この時代の圧力と努力を継続してゐるにすぎない」とすら書いている。その上、いつも繰返される言葉が、そこでは何度も私
達の目に焼きつくのである。「溌剌とした精神」(intellects as manly as their own)、「健全な精神」(great
and healthy mind)、「生ける精神」(living ideas)、「生ける思想」(living
souls)、「深い生命」(with a life)、「力と天才への崇拝」(worship of force and
genius)、「快楽と逸楽への崇拝」(worship of pleasure and
voluptuous)……これらあるいはこれに類似した言葉が、人間精神に蔽いかぶさっていた重苦しい中世の衣裳を取り払っている。「人間は無力であ
り、世界は堕落してゐるといふ思想」から、「個人的行為をおし殺し、創意発明のかはりに唯服従をうながす」習俗から、「死せる規則が生ける信仰に取つて代
る」そのような時代から、「あたかも人々は突然眼をひらいて見たかのやうだつた」とテーヌは(二三)書き、また、人々は、「自分の思想を書物からでなく事
物から引き出した」と、スコラ学的な立論や応答、権威の援用や教義の踏襲、衒学的な小理屈や趣味や技巧、形式にはまった論議、強要される戒律からの解放を
謳いあげ、自分の目を見開いて、事物や現実を見る精神を賞賛する。この書物のなかで、この「思想を書物からでなく事物から」という言葉は、多少趣を変えな
がら、何度繰返されることだろう。おそらくテーヌの愛する言葉に違いなく、チョーサーでは、チョーサーの教養は「書物による教養とは全く別種の教養」とい
うように書(二四)かれ、後に、宗教改革の先駆者ラチマーについても、「この人は道徳を書物からではなく、事実からくみ取ることを知っている」というよう
に書くのである。だから、もし我々の関心が、歴史学の科学的法則の決定論者、などということでテーヌを緊縛しなければ、この書物を貫いているものが、疑い
もなく、思想とは借り物ではなく、「事物」を通し、自らの目で生み出すものであること、絶えず真に向かう精神であること、生きた人間の探求に向かうもので
あることを学ぶだろう。あるいは、(後の宗教改革やピューリタン批判でもいっそうはっきりするように)、あるがままの生命の肯定であり、頑迷な道徳的厳格
主義の否定であり、自然的理性の尊重にあったことも学ぶだろう。裸身のマドンナを評しながら、裸体であることは何と心楽しいことだろうという文もあるが、
このような文に接すると、「はだかみ」の美しさを嘆じた若い上田敏の文や、「思想は、はだかの自由を知らなかった」と中世を難じたホイジンガーの一節も思
い浮ぶのである(『中世の秋』]]「絵と言葉」)。
ルネッサンスの光と影、あるいは栄光と悲惨と言われる通りに、ここで書かれるものは、多分、「光」だけになるだろう。それもおそろしく煌びやかな「光」の
世界になるだろう。今では我々も多少は知っているルネッサンスという時代の基部にある中世的暗黒や残酷・迷妄は、ここにはほとんど見ることはない。中世と
いう時代も、ルネッサンスの光明に不具の世界のように切り捨てられてしまうかのようである。中世のなかにルネッサンスの芽を見、あるいは、ルネッサンスを
中世の一部、その自然の発展と見て、人間精神や歴史・文化の継続性を見るのは、後代に生きるものに恵まれた特権にちがいない。それはたしかに、人間の知の
公平な見方になるだろうが、我々がルネッサンス精神やルネッサンス・ヒューマニズムと呼んだものが、それによって損なわれることはないだろう。
ルネッサンスと言われるものについて、テーヌのこの本が「文学界」同人に与えた影響は、シェイクスピアやバイロンに劣らず、決して小さいものではなかった
だろう。シェイクスピアその人ですらルネッサンス人であることを考えれば、この立論も論理矛盾になるだろうが、それはとにかく、多分、西洋新文化に接する
ことそのものが、そのまま、新たな精神への契機になるだろう。そうして、ルネッサンスへの関心が、一体いつから始まったのかなどと、一概には言えないよう
に私は思うが、ペイターの研究を通して禿木があちこちに火を点けて歩いたと藤村の文にあるように、同人間の気運が盛り上がる時期は、ペイターの『文芸復興
期』に拠るものであったのだろう。しかし、上田敏などを例にとれば、「文学に就て」(二三・一二)に、「今日の反動の大勢の滔々として
Renaissanceの気盛なり」とあるように、Renaissanceというこの言葉の登場は早い。「反動の大勢」とは、我々が使う意味とは違って、
「旧い時代を突き動かす新たな機運」と、考えてよいだろう。そして、「文学界」創刊号の「吉田兼好」でも、禿木がミケランジェロに言及して、それに合わせ
るように藤村もその名を繰返しているような(二五)例も、この時期への関心の一例に挙げられるだろう。このように、テーヌの本からと限られたことではない
にしても、我々は、彼らの書いたものの中に、孤蝶の「想海漫渉」であれ、秋骨の「気焔何処にある」「文学復興期の事を想ふ」であれ、彼等の引例の一つ一つ
に、エリザベス朝と英国ルネッサンスを中心にしたテーヌの『英国文学史』の跡を色濃くたどることができるだろう。この件は別に詳述したいと思うが、ごく簡
単に述べてみても、「想海漫渉」で孤蝶が引くマーロウも、その内容は、テーヌの書いたマーロウの要点そのままで(二六)ある。孤蝶が、マーロウやシェイク
スピアで代表させているこの時代の澎湃とした精神も、やはり同じように、テーヌの文の反映になるだろう。秋骨のそれもまた、孤蝶と同じく、昂揚するエリザ
ベス期を中心とする『英国文学史』の痕跡を十二分にとどめているばかりでなく、逍遥の「英文学史綱領」での、やはりエリザベス朝期の解説や劇詩人の紹介な
どに、テーヌが全的に姿を現すことは私が言うまでもないことである。その上、禿木の「草堂書影」ですら、ペイターの圧倒的影響が語られるこのエッセイにし
ても、ペイターの文に添うように、禿木はテーヌの印象的な一節を、この文章の主題を象徴するように挿入して(二七)いる。
秋骨がバイロンの一節を訳して『女学雑誌』に掲載したのは明治二十五年(十一〜十二月)であった。そして、「文学復興期の事を想ふ」のなかでグリーンの
『大英国民史』とともにテーヌの名を挙げているのは二十八年九月である。孤蝶の「想海漫渉」は明治二十六年の暮(十二月)であり、「草堂書影」は明治二十
七年の四月である。そのことだけを考えても、テーヌは、息長く、彼らの座右にあったのだと考えられる。透谷が病臥した頃、明治二十六年末頃から始まったと
いう「ルネッサンス研究」「ルネッサンス熱」と言われるものに限らず、そこに到る前に、意識するとしないとにかかわらず、ルネッサンスという新たな覚醒を
生み出す力は、彼らの身辺にあったということは繰返して述べておきたいと思うが、テーヌの熱烈な文章が、第一歩を踏み出す彼らの周辺にあったことも、考え
ておいてよいことだろう。マーロウのような狂気を孕んだ劇的内容は、若々しいこの時代の、「青春の最初の爆発」(the first outbreak
of the youth)であり、その「憤怒、欲望、渇望等」の狂態は、「それは心の叫びであり、そして……内的告白」(they are a
cry from the heart, the profound confession of
Marlow,)であった。この時代にはまた多くの愛の詩が生れた。愛を美しいと感じる「この感情は、心の最初の衝動であり、本性の最初の言葉」(It
is the first motion of heart, and the first word of
nature.)であった。英国は自由に花開き、旅回りの小さな一座の舞台でさえも、無垢な「子供の言葉」(the children’ s
tongue)のように、「真の最初の言葉」(the true and original
language,)や、「歓喜と発明から生れた言葉」(the speech of invention and of
joy)が、大胆に感情を吐露し、欲望や本能を解き放って己の心と眼を満足させていた(傍点筆者)。……この国を押し上げていく強い力の中で、少なくとも
このような、小児の初々しい感銘に託された言葉や、青年期の激越な「内的告白」が、縦横な論を通して我々の心に残るのである。それはおそらく、束縛を解き
放った自由な発明、生き生きとした自由な発見に人々を促すだろう。そういえば、「スペンサーは、聖体節の日の子供のやうに」(as a child
on Corpus Christi day)とか、「休みの日の小学生みたいに」(Like a school boy during a
holiday, he has insatiable
eye,)などの形容も、テーヌはほかでも使って(二八)いる。「小児の喜戯」という言葉や「the
youth」という言葉が藤村にもあったように、率直な感動に真実を見出すのは、この文学史を貫くものの一つであった。藤村の青春を代表するような
「ヴィーナスとアドニス」ですら、それは、「あふれるほどの青春」(the fullness of youth
平岡訳「過剰な青春」)の生み出す「最初の叫び」(a first cry 平岡訳「産声」)であった。
禿木が言う『英国文学史』を絶賛し「ハムレットの狂」を説く藤村を思いながら、私は、ある時期、藤村の描くシェイクスピア像やハムレット像は、『英国文学
史』に拠るのでは
ないかと思ったことがある。まことに藤村がシェイクスピアについて書くいくつかの文章
は、そのままこの『文学史』にあって、逍遥が没理想を語り、秋骨がコールリッジの言葉
のように「ミリオン・マインド万能の詩人」などと語るよ(二九)うに、藤村が書いた「彼が見るところ物として月に
あらず花にあらずといふことなし。この故に尋ねずして心すでに月となり花となり、身は
天地と一にして万物ことぐく幽玄のドラマに入る」とか、「さればすゞしきもの濁れるも
のを問はず、……之を月花の袋に入れ」などという文を読めば、「彼は共感の天才を享けて
ゐた」とか、「異常な本能によつて、彼等は一足飛に様々な存在に身を置き換へるのである。
それは、人間でも、動物でも、花でも、風景でも、生物だらうと、無生物だらうと、なん
でもかまはない。彼等は、眼に見える外部を生み出す諸々の力や傾向を、まるで感染する
やうに感受する」(第二篇第四章「シェイクスピア」の項)などの文を思い出し、「すゞし
きもの濁れるものを問はず」という文脈からは、「全能で、極端で、崇高を描いても卑劣を
描いても」(「同」)とか、「彼等は事件を、どんなものであらうとも、在るがままに見る。
それは、彼等が事件を、美しくも醜くも、平板であり、グロテスクであつてさへも」(同第
二章「劇」の項)や「何一つささやかすぎるものもなく、高尚すぎるものもない。それら
は人生の中に存在してゐる」(「同」)などの、繰返される文に思いあたるので(三〇)ある。「ハム
レットの狂」について言えば、復讐のために狂気を装っていたという美談めいた苦心譚よ
りも、あるいは「狂」にまで高まる人間の真実の声、ということよりも、「ハムレットは半
ば狂つていた」という言葉そのままに、ハムレットの内面から、それを伝える文体から、「風
に鳴る戸板のようにきしむ」その神経質からなど、この主人公の狂的な振る舞いを、テー
ヌはよく伝えているからである。
後から思えば、すべてはテーヌに拠ると言えるものではなかった。シェイクスピアを「万
能の詩人」や「詩聖」とすることも、「美しいものも醜いものも」、「見るものすべて」を
自然のままに捉える「自然の子」として思い描くことも、古典的なシェイクスピア観以来
言われていることであり、ことさらに新らしいものでもない。逆に、「ハムレットの狂」に
しても、ハムレットの狂気を、当時の精神医学の神経症病理を取り入れて説くテーヌの手
法が、どこまで理解されたかは、これも、相当疑問とされるのではないかと思う。ハムレ
ットに「半偏執狂」(a kind of monomaniacs)を見、「精神的毒死」(moral poisoning)や
「神経病」(nerveous disease)を見るのと同じように、マクベスに「偏執狂」(the history
of a monomaniac)の症状を見、リア王に「理性の病気」(a disease of reason)を見るよう
な論理が、藤村の時代に理解され得たかどうか。私には、こういうシェイクスピアが(シ
ェイクスピアばかりでなく、ミルトンでもバーンズでもいいのだが)、どのように読まれた
のか大変興味がある。それらは当然のことであるが、対象として物神化されることなく、
客観化され、分析され、解剖され、等身大に書かれている。シェイクスピアのソネットで
も、ハムレットでも、『お気に召すまま』の憂鬱なジェークィーズでも、それがとりもなお
さずシェイクスピア自身なのだとテーヌは随所で力をこめるが、シェイクスピアを神秘的
な詩神ととらえた藤村達が、この生きた人物をどのように読み取ったのかはほとんどたど
ることはできない。――シェイクスピアのソネットなどが、後の沈鬱な人物たちを創造す
る長い嫌悪の痕跡だったと思うのだろうか。偶像的な聖なる劇詩人が、多くの欺瞞と薄汚
れた汚泥にまみれて生きていたのだ、などと信じただろ(三一)うか。あの高潔で哀しいハムレッ
トが精神的な自家中毒の悪循環に冒され、絶望もここまで来れば、破滅以外に生きる術は
なかったなどと信じたろうか。……しかしそのようなことはいずれも、私の後智恵に違い
ない。どんな言葉で書かれていたとしても、狂皇子の「狂」が、人間の「まこと」を語る
言葉として理解されていたと考えることが、当時を考える上で理にかなっているだろう。
平岡昇氏は、シェイクスピアは若いテーヌが最も傾倒した作家で、『シェイクスピア論』は、
彼のひたむきな批評的情熱が見事に結晶されている論文だと述べている(第三巻「例言」)。
それはシェイクスピアばかりでなく、マーロウやベン・ジョンソン等、多くの劇作家の批
評にもあてはまるものだろう。今でもこの書物を読めば、「自然」であり「在りのまま」で
あるものを、テーヌは我々に語っている。そこにテーヌという人の根幹があって、私達は
どのページからも、我々の内部に巣食う「純粋な本性」や「在りのまま」なるものが、生々
しくさらけ出されてくるのを知るだろう。『ヘンリー六世』などの解説の中でも、「暗殺し
たり、毒を盛つたり、暴行したり、放火したりして、舞台はもつぱら冒涜に満ち渡る。本
性がかくも醜悪に見えた例はない。而もこの醜悪さが真実なのである」というような文を
読むと、文明といわれるものの自制に到達する以前の、史実の血なまぐさい凄惨さばかり
でなく、我々自身の「本性」の「醜悪さ」にたじろぐ気にもなるだろう。そして同じよう
に、我々はまた、「人間は本来、肉体が病気であるように、狂人である」とか、「時折は理
性に紛ふことがあつても」、これが「シェイクスピアの抱懐してゐた人間の姿である」など
の文章を、現代の世界に照応しながら、このうえなく正しいものとして読むようになるだ
ろう。
逍遥が「テーヌ嘗てシエークスピアを評して彼は人間の根底性を狂と黙識せるものの如
し」(「烏有先生に答ふ」其三)と書くのは、おそらくこういうことを言ったのだろう。人間の裡に「明白な自由の力」などは存在しない、「理性」は我々人間
にあっては「美しい偶然」に過ぎない、我々が生きている文明は、かつて我々のなかにあった粗野で乱暴な「本性」を去勢し、緩和したが、それらをまったく破
壊し去りはしていない。それらは我々の理性とか礼節とか、我々が文明のなかで獲得した「後天的な平静さ」に隠れている。しかし、ひとたび大きな危険が出現
したり、革命が勃発したりすれば、それらの盲目的な原始力は、原始時代に於けるとほとんど同様に、凶暴に噴出し爆発するだろう。――私たちは後にフランス
革命を裁断するテーヌの文の中に、まったく同じ発想を見出すことになる。「我々はもう今日、自然(本性)といふものがどんなものだか知らない。我々はまだ
それについて十八世紀の温情に富んだ偏見をとどめている」とすら書いているが、この世紀に住む我々に対して、この十九世紀の思想家は何という魅力的な挑発
をすることだろう。永遠に私達は、この言葉を越えることはない。
この英国ルネッサンスの劇の時代の、いかなる時代、いかなる国に於いても見出せない際だった特徴は、このような、「自然(本性)の自由で完全な発露であ
る」とテーヌは書いている。「人間がいまだかつて、これほど全的に表はれたことはない」。文化や文明が作り上げた礼節や理性に隠蔽されることもなく、あら
ゆる束縛から解放されて、この劇作家たちは、「あるがままの人間」を舞台に載せることになる。「彼等は牧場の真中に放たれた見事な逞しい馬に似てゐる。彼
等の生来の本能は馴らされもしなかつたし、口輪をかけられもしなかつたし、又力を削がれもしなかつた」とテーヌは、あの『ヴィーナスとアドニス』の場面を
思い出す譬えを書いている。牝馬を慕って疾走するアドニスの馬は、野性や情熱や本能や、自然や生命を象徴するばかりでなく、この時代の劇作家全体を象徴し
ている。それは単なる比喩をこえた賞賛であり、彼は何度もこのような譬えを使うの(三二)だが、この、決して飼いならされることのない生来の本性(自
然)、――時には粗野で、放埓で、狂気に満ち、激越になる、自然で在るがままの半幻想や想像は、たえずフランス風の高雅な風俗や、折目正しい礼節や節度、
理性的な明晰さや社交的な善き趣味と比較されるのである。それがおそらく、シェイクスピア論に溢れる主題である。
「理性」や「節度」とそれに対する「純粋な本性」、「礼儀」や「道徳」やそれに対する「在りのまま」なるもの、「礼節」に対する「粗野」なるもの……、
『英国文学史』を読んでゆくと、このようなことがこの著作全体を貫いていることを、何度も我々は認めるのである。文化や文明が獲得して装う「品位」や「節
度」や「礼節」は、人間のなかの「あるがまま」のものを隠蔽し抑制し、時には束縛していることになるだろう。それは決して、消えることのない人間の蛮性を
覆い隠している衣裳にすぎないだろう。そういう「本能的な熱烈な動物」としての人間というような、赤裸々な文に接していくと、我々は、牝馬を慕って疾走す
る牡馬の「Wildnessなる性情」に比べれば、「容儀礼節の美なること花の如きは僅かに皮相の観」でしかないと書いた藤村の「村居謾筆」を思い出さな
くてはならない。
その文はこういうものであった。
「容儀、礼節、これらのものは吾人に与へられたる高尚なる利器なり。以て身を修むるに足る。これらのもの皆優美なり、以て蛮野なる性情を包むに足れり。然
れども非常なる苦悶を験し、悲惨なる境遇に陥り、沈鬱憂愁、昼は昼の哀みを嘗め、夜は夜の苦みを飲み、彷徨踟躊して泪多く零つるに至らば、容儀も修るの暇
あらず、礼節も守るの余地あらず、枕をたゝいて終夜眠むる能はざるに及んで池水活動し心猿悲鳴す」(「村居謾筆」二八・三・三〇)
そして、この文から私達は、透谷の「桂川(吊歌)を評して情死に及ぶ」に思い当たるだろう。
「……文化は人に被らすに数葉の皮を以てす、之を着ざれば即ち曰く、破徳なりと。むしろ蛮野の真朴にして、情を包むに色を以てせざるに如かんや。/人の中
に相背反せる性あり、一は研磨したるもの、一は蛮野なるもの、「徳」と云ひ、「善」と云ひ、「潔」と云ひ、「聖」と云ふ、是等のものは研磨の後に来る、而
して別に「情」の如き、「欲」の如き、是等のものは常に裸体ならんことを慕ひて、ほしいまま縦に繋禁を脱せんことを願ふ。この二性は人間の心の野にありて
常に相戦ふなり。」(「桂川」(吊歌)を評して情死に及ぶ 明治二六年七月)。
素朴な二元論は、透谷にも藤村にも古くから馴染みあるもので(三三)ある。しかし、「文化」「研磨したるもの」と「蛮野なるもの」という対比、高尚・優美
な「容儀、礼節」と「蛮野なる性情」という社会文化、内面に関るきわめて具体的な対比はめずらしい。その対比は、従来の素朴な対比の延長上にあっても、言
葉の質は格段に深いと思ってもよい。そして言葉の類似から言っても、残花の「桂川」を評した透谷の文が藤村の拠り所としてあったのだろうが、もう一歩進め
てみれば、それはテーヌの文の中に常に溢れていた。「人間機械の原質と原動力とを形成する野蛮な諸力」に対するに「人間機械が身に被ふてゐる良識と論理の
皮相」(「劇」六)とか、バイロンの『ドン・ジュアン』のなかで、「文明・教育・理性・良識」と、「その底に横たわる野蛮(the
brute)」と書くのもまったく同じである。テーヌはこういうところにも影を投じていたのではないだろうか。
「村居謾筆」には、逍遥の「底知らずの湖」という語が用いられているのを思い出す人もあるだろう。もともとはエドワード・ダウデンから出たというこの言葉
は、秋骨も使い、透谷もよく似た言葉を使って(三四)いる。同時代の印象的な言葉や思想、ときにはイメージは、その世代の人々が共有する精神世界として、
消えがたい刻印を残すのではないだろうか。それはいつか、自分のなかで成熟して、自分の言葉として甦えるのではないだろうか。「心猿」にしてもそうであ
る。「昼は昼の哀みを嘗め、夜は夜の苦しみを飲み……」と、ゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』の反映をここに見るとしても、それより先に、「こゝろ意
の駒の狂ひいで、/心のましら猿おろかにも、」と「桂川」に記した残花の意や、それに狂した同人たちの心を、この時代の物苦おしい感情として再考する必要
があるだろう。
「村居謾筆」のほかにも、私は、『一葉舟』に再録されている藤村の「秋詞」(原題「ことしの秋」)を読むたびに、テーヌのシェイクスピア論(九)を思い出
している。このシェイクスピア論の最終章で、テーヌは、『ヴェニスの商人』を引き合いに出しながら、シェイクスピアの喜劇や幻想劇について論じているのだ
が、そこで彼が述べているのは、舞台という演劇空間を、心底から楽しむことである。そこでは、あのシャイロックも、哀れなヴェニスの商人も、恋人同士の一
夜の静かな夢想や語らいも、共に一つの舞台を作っていて、美しい素早い夢のように観る人の眼前を通過していくのだと言っている。我々が陥りがちな主題主義
というようなものはそこにはなく、観客は、束の間の舞台を流れていく色々な人生を楽しむのだ。そして最後には、『お気にめすまま』のジェークイーズの述懐
に話は及んで、「人間世界は悉く舞台」であって、人はそこを出たり入ったりして、俳優のように幾役を勤めるのだと、孤独な老年の思いで結ぶのである。「秋
詞」はこの「シェイクスピア」論にそって書かれているのではないだろうか。一見、何の共通性のない二つの論は、題意としては遠くへだたりながら、イメージ
はきわめて近く、私には、喜劇を論じながら、通過していく舞台の幻を楽しもうとするいわばテーヌの演劇論を、(それは、結局は「人生を観る」ことになるだ
ろう)、若い藤村は人生そのものとして受け取り、自分の青春に当て嵌めているように思えるのである。「嗚呼シャイロック、彼れ一の悪形のみ。嗚呼バッサニ
オ、彼れ一の儲け役のみ。沙翁幸に読者を弄ぶことなくば、彼等は皆来りて一曲を演じ去るなり。一夢を演じ去るなり。」――藤村はこう書いているけれども、
すべていずれをも「造化の悴」と解する事は、青年にとっては重苦しい人生の発見でもあるだろう。
「宗教改革」に見える精神、及びミルトン考
「シェイクスピア」論のすぐ後に「宗教改革」(Christian
Renaissance)の項が続いている。このような宗教的な文化史に、藤村たちがどう眼を注いだのか、あるいはどう読もうとしたのか、探るすべは何も
ないのだが、この項には続いて「ミルトン」の論があり、テーヌを理解すべく心に残る問題も多いので、いくつかの感想だけは書いておきたい。もちろん宗教改
革史についての感想を述べるわけではない。「宗教改革期の壮大な時代描写」と訳者が記すその時代の、錯綜する史実関係や、馴染み薄い人名を読み取るだけで
も、私などは、別の精確な英国宗教史を傍らに置くしかない。そのような観点なら、前記のグリーン『大英国民史』ですら、この時代の宗教、学問、政治の細か
な推移が平易に述べられていて、入門者にははるかにわかりやすいと言えるだろう。ルターよりも百五十年も早くとテーヌが書いていたウィクリフも、ロラード
派の運動とか、トマス・モアやエラスムスも含めた英国人文主義の系譜をたどるだけでも、そのように感じられるが、そのような書を参考にしながら何度か読ん
でみれば、眼に見えない細部をつなぐ糸が、私にもいくらかは見えるようになる。ルターとラファエルロ、この相隔たった宗教家と画家が同年の生まれであった
ことなどを発見して、今更のように驚くことにもなるだろう。ルネッサンスと北方ルネッサンスといわれるものの対照が、これほどくっきりと理解できたことも
ない。
それにしても、ヨブ記や黙示録のように、魂や道徳、良心の問題はいつも重苦しく、この項でも、魂の内部で演じられる罪や救済や恩寵などの劇は、異文化に住
む私などには、息詰るようで近寄り難いものがある。ティッチアーノやラファエルロをイタリア・ルネッサンスの象徴のように取上げていたテーヌは、ここで
は、この時期を象徴するものとしてデューラーの銅版画をいくつも取上げているが、その銅版画も、テーヌが語る北欧の風土、習俗、道徳性のように謹直で重々
しく、イタリアの巨匠たちのような、華やかで官能的な、幸せそうな美などはそこにはない。その上、この種族の起源がそうであったように、人々の背後に時折
姿を見せる「風土」も、いつも「冬」である。民衆はこの「冬」の孤独な空の下で祈り続けている。「畑の寂しい場所や長い冬の夜、……」というように、
「泥、雨、雪、おびただしい不快と陰鬱な光景、生々とした繊細な感覚の欠乏……」とか、「たとえ嵐が怒り、雪が降り、風が黒い松の森やカモメの鳴き狂う青
白い波濤に吹き荒れても、人々は寒さに身を縮め小屋のなかに青ざめて閉じこもっていても……」とか、「長いぬかるみの冬の間中、建て付けの悪い垂木の間を
溜息をつく風の唸り声や、絶えず雨で溢れ、雲で覆われた憂鬱な空」の下の「悲しげな夢の陰鬱さ」など、魂の苦悩や喜びや、夢や道徳的な渇望が、いつも悲し
気な「冬」を背にしている。そういえば、「この地上で、どんよりと雲の重い冬の日に、一本の樹の陰の部分、丈高い植林地帯の暗い影を歩きながら、木々の間
に咆え、平原を荒れ狂う嵐のような風を聴くことほど、私に多くのものを与えてくれるものはない」というバーンズもそうなのかもしれない。テーヌは、こうい
う「風土」をここでも繰り返している。
「宗教改革」は皮肉な項目でもある。ルネッサンスの解放された精神にあれほどの筆を尽くしたあとに、テーヌはここでは、ローマのあの時代を、「あの壮大で
邪悪な文明」と書いている。そしてまた、「イタリアルネッサンスの恥知らずな異教崇拝」など、ルターの言う「ありとあらゆる悪行、破廉恥、特に盲目的な異
様な犯罪――貪欲、神の侮辱、偽証、男色……」のはびこるこの時代の、「人間のあらゆる能力、欲望の完全な発達」と「人間のあらゆる抑制力・恥辱心の完全
な破壊」が、この壮大で邪悪な文明の顕著な特色だったと述べている。「宗教改革」は、表面にはあまり出てこなかった、ルネッサンス社会の隠蔽された負の部
分を受け持っていたことになるだろう。彼は、「一つの社会は快楽と権力の追求にのみ基礎を置けるはずがない。一つの社会は自由と正義の尊重の上に築かれる
べきである」と、当を得た文章も残しているが、ローマに限らず、たしかに彼は、エリザベス時代の絶頂を描いていたその時にも、「幾人かの信徒たち、とりわ
け幾人かの町人と下層民はかなしげに聖書を読みふけつてゐた」(第二篇「ルネッサンス」第一章「異教復興」第一節「習俗」―四)と、悦楽の果ての頽廃に恐
れ戦く人々や、やがてこの国を巻き込んでいく改革の嵐の予兆を述べている。
私は、島田謹二氏の文の中で、テーヌが、「ブロード・チャーチ広教会」の自由主義的なプロテスタンティズムを重くみすぎて、有力な潜流となっていたカトリ
シズムの意義をさぐる触手ののび方が、十分であったとはいえない」(「カザミヤンの「近代英国」をよむとき」)という意見を読んだことがある。プロテスタ
ンティズムといっても、事実、英国国教会が厳密なルター主義でもカルビニズムでもあったわけではない。要は、「近代英国」を見るテーヌの眼は、きわめて部
分的なのだということだが、この「宗教改革」の項もその言葉のとおりに、この国を貫くものはプロテスタントの精神である。それが、「法冠をかぶった盗賊
共」に抗してこの国をつくったのだと、彼は言っているのだろう。英語訳聖書や祈祷書の公認は、この国に「言語そのものの革命」をもたらし、「宗教改革の全
精神」が息づいているという祈祷書の深く鼓動する祈りの一つ一つは、「国民的な詩」になっていくのだというように。そして、この宗教――、内的で個人的な
この宗教、すべての人がひとりの人間として、調停者を介在させることもなく、良心の覚醒によって始め、各人が自分の心に従って自分の行為に責任をとり、神
への義務を守るというこの精神は、ラチマー(Hugh
Latimer)を筆頭に、テーヌが多くの例を引いているように、この国の道徳を推し進めた精神のように読み取れる。それは、迫害に耐え、肉の苦痛に耐え
た人々の精神にもなっている。死を前に彼らの一人が語っている。「誰も王冠を授けられるなどと望まない。……しかし、人間らしく戦う人、最後まで戦う人が
救われるだろう」。ラチマーも火刑台上の僚友に向かって叫んでいる。「安らかにあれ、Ridley師よ、人間らしくあれ」。彼は、残酷な処刑や虐殺の始終
を、息をこらして見守っている民衆の視線も述べている。そして、人々の胸に宿り、記憶の底に焼きつく光景をなぞりながら、それが、いつかは爆発する反逆や
革命の正当な根拠であることもそこに見ている。そのようなことを読んでいると、この書の著者が、精神や道徳の偉大な鼓吹者であったばかりでなく、不条理へ
の反逆を当然のものと見ていたのだと、私たちは思ってもよいのである。ただ、そういう歴史の流れとは別に、改革者ラチマーについてあれほどの親しみ、共感
をこめて書いていたように、この項の根底を流れるものは、やはり、「事物」を見る精神の尊重であったのにちがいない。島田氏の言う「広教会の自由主義的な
プロテスタンティズム」にしても、この「事物」を見る精神を指すことになるだろう。
「清教徒の厳格主義に反対して、チリングワース(Chllingworth)、ヘイルズ(Hales)、フーカー(Hooker)などのアングリカン・
チャーチ英国国教会の最大の神学者たちが、自然的理性に対して大きな場所を与へてゐて、それは今日に至るまで自然的理性がこれほどの飛躍を見出せなかつた
ほどに広いのである」。
これは、『ルネッサンス』の「散文」(第一章第三節)の項にすでに書かれていた文である。『ルネッサンス』の中でも、本当は大きな位置を占める「散文」の
項を、私はほとんど見ることなくここまで来てしまったが、バートンやトマス・ブラウン、フランシス・ベーコンといったルネッサンス人の系譜のなかに、テー
ヌはこの人たちを含め、フーカーなどには、英国散文の創始者の一人の栄をも与えているのである。そしてこの『宗教改革』の第四節のすべてを、この穏健な英
国国教会派の人々に当て、さらにはフーカー以下、この派の人々の思想の紹介に努めるのである。それはたとえば次のように述べられている。
「この宗教は狭量な厳格主義で人々を脅かすことはない。人々の心の自由な羽ばたきを束縛することはない。空想を駆り立てる情熱を消滅させようとはしない。
それは美を追放することはない。それはどんな革新的な教会よりも古い信仰の高貴な威容を大切にする。そして、その寺院のドームの下では、オルガンの奏でる
音楽が、豊かな転調を、荘重で威厳に満ちたハーモニーを響かせている」。
これまでの古い伝統や制度の中にも人間の自然性や理性の根拠を求め、対立するものとの相互理解を呼びかけ、どこまでも調和的、融和的たらんとする。彼ら
は、「堅実で合理的な弁明、論争における正確さ」を身につけ、それは「科学精神」によっていっそう強固にされていると同時に、彼らは「人間的判断の独立
性」を権威あるものとした、――そうテーヌは述べている。そのなかの一人であるヘイルズの言葉を取上げてみよう。おおまかだが彼は次のように述べている。
「宗教的な事柄においては、ただ、自分だけを信ぜよ。権威や古い習慣、多数者に何事もゆだねず、人は自らの足で歩くように、信仰においても、自分自身の理
性を用いること。心のままに振る舞い、心のある人たれ(その他のことも同じように)。借り物の教理を身につけ、思考を怠ることは臆病であり、敬虔とはいえ
ない」。
これらの文章に接すると、理性や自然性を尊重するルネッサンス・ヒューマニズムのボン・サンスは、いかにも私達の心を寛闊にさせてくれる。その上にも、あ
の宗教改革を支えたさまざまな精神、従容として火刑台に赴く人々や、監督制度や教権主義との争闘を生き抜いて、「幸福な奴隷的屈服よりも苦難の独立を選
ぶ」誇り高いサタンを創造したミルトン、(宗教的な事柄に限らずに言えば)、「一個の男」として生き、「何者も支配し得ない我」を生きたバイロンのマンフ
レッドを思い浮かべることもできるだろう。サタンを述べながら、「これこそ英国の国民性、英国の文学に固有の特色である。そして諸君は後になってバイロン
のLaraやConradに同じものを見出すだろう」とテーヌも書いているが、それはテーヌが取上げる他の詩人たち、サリーもシドニーも同じである。誇り
高い彼等は、「絶えず剣とか匕首のつかにかかる」手を持っている。
ヘイルズのほかにも、彼は、チリングワースとか ジェレミー・テイラー(Jeremy
Taylor)という人たちを、多くのページをとって紹介している。そして、これらの英国国教派の神学者、聖職者の肖像から、テーヌが重んじた人間の姿勢
が読み取れるように思える。先にも述べたが、その改革の実践について彼が言葉を惜しまずに書いていたように、事物を見据え、決して安易な出来合いの文言を
用いることはなかったというラチマーには、テーヌは前記のあの懐かしい言葉を捧げている。「この人は道徳を書物からではなく事実からくみ取ることを知って
いる」――。そしてチリングワースは「宗教改革の偉大な原理は良心の自由であること」を主張した人と(三五)して、なかでも、彼がシェイクスピアと並び称
しているジェレミー・テイラーの、シェイクスピアそのものである魅力ある説教や演説を、これこそが詩なのであると紹介したあと、「このように力強い言葉
が、オルガンの無伴奏合奏のように崇高にほとばしり出る。……魂のすべての力、すべての優しさが揺れ動いている。語っているのは冷たい厳格主義者ではな
く、人間であり、感覚と心で感動している人間である」と書いている。
「書物からではなく事実から」という言葉、「良心の自由」という言葉、また、「感覚と心で感動している人間」とは、ヘイルズの「自らの足で歩く」ことと共
に、この著者をそのまま物語っているだろう。テイラーはそのうえ、「見る人」である。彼は対象をイメージする。曖昧で大雑把な概念によってぼんやりととら
えるのではなく、正確に、完全に、それらがあるがままの如くにイメージする。目に見える色彩と固有の形態で、多くの真実と固有の細部によってイメージす
る。「彼はそれらを見ている。なおよいことに、「今」それを見ている。そして同時に、(聴者が)見ることができるように語るのである」(傍点筆者)。彼は
テイラーのなかに芸術家を見ていたのに違いないのだが、ミルトンやテニソンをルネッサンス精神の継承者のなかに位置づけていたテーヌは、テイラーにも、ル
ネッサンス精神を受け継ぐ人の豊かな想像力、古典的な学識、自由な精神を見出している。そして「オルガンの無伴奏合奏のように」という比喩は、(この比喩
も何と多く使われることだろう。そして実際に、あの暗く寂とした会堂に響くオルガンの何と崇高なことだろう)、やがて、ワーズワースの詩にも同じように献
げられるのを見るだろう。そこにプロテスタントの精神を見るだけではなく、著者にとっても宗教とは、この荘重なオルガンの音に喩えられるものにちがいな
い。どこかそれは、無限なものに向けられた憂愁であり、拝跪である。言葉を変えれば、人間存在の内奥に向けられる祈りであり、また、人間存在の内奥から発
せられる祈りに似ている。この人はそういう感情を――宗教そのものに近いそういう感情を、きっと信じていたのだろう。少し下って我々は、バーンズについて
読むことにもなるが、バーンズが当時の聖職者を痛快に揶揄し嘲笑したのも、彼が無信仰者だったからではなかった。「彼が嘲笑し、揶揄したのは、お仕着せの
崇拝だった。しかし、宗教心に関しては、あるいは、魂の言葉については、彼はそれに愛情をもっていた」、とテーヌは書いている。「彼は、……自分自身を理
神論者とみなし、救世主のなかに、ただ霊感を受けた人を見、宗教を内なる詩的感情に帰した」とも。そして「冷ややかに金を受け、聖職の免許を得ている人」
よりは、「私はむしろ純粋な無神論者でありたい。/福音の旗の下に隠されているよりも」と、バーンズも歌うのである。
「新しい道徳が立ち上がる。古く狭い道徳は、現代人の広い共感に場を譲ろうとしている。新しい現代人とは、どこで遭遇しても、美を愛し、人間の自然性を切
り捨てることを拒否し、異教を信奉すると同時に、キリスト者でもあるのだ」と彼はバーンズ論で書いている。「異教を信奉すると同時に、キリスト者でもあ
る」と、我々にその言葉を取上げる十分な資格はないが、この文を読むと、スペンサー論にあった「ひとはこゝでは、精神の世界と感官の世界とがふれ合ひ、同
時に人間が両の手で二つの斜面の最も美しい花々を摘んで、異教徒でもあり、基督教徒でもあるといふ崇高でけわしい高峯に接するのである」という、美しい文
を思い出さずにいられない。「異教徒」と「キリスト者」がたえず彼のなかに鳴り響いている。一つは、ありのままの生命や官能であり、一つは良心であり、内
なるものを律する道義であるにちがいない。この本の中でも、「ルネッサンス」とはこの二つの再生である。一つを彼はPagan
Renaissanceと呼び、もう一つをChristian
Renaissanceと呼んでいる。少なくとも我国の若者は、人間の自然性の肯定であるこのPagan
Renaissanceに多くの意味を見出していたといえるだろう。後に藤村が書くような、「宗教と芸術との間の種々な問題」、「ヘブライと希臘より遠く
流れて来た西欧二大思想の相違を捉える」(『早春』)のに急だったという回顧にもかかわらず、私たちはほとんど、この若者たちからChristian
Renaissanceについての感想などを見出すことはない。キリスト教にも異教に近い芳香を嗅ぎとっていたのではなかったか。
古いことだが、矢野峰人氏が、次のような疑問を書いているのも、同じようなことなのかもしれない。それは、今ではほとんど乗りこえられている問題であろう
が、「文学界」の人々が、「いずれもキリスト教的雰囲気に成長した青年」であるにもかかわらず、「意外の感無きを得ないのは、彼等が宗教詩人としてのミル
トンに対しては深い関心を示さず、逆にシェイクスピアをはじめ十九世紀のロマンティック詩人に傾倒している事である」という文である。この文には、「禿木
は、藤村がミルトンを『文学界』に訳出したと書いているが、これは記憶の誤りではあるまいか」という文が続くが、ミルトンの訳出とは、『草枕』のことだろ
う。この創世紀に基づいた初期作品は、『失楽園』に拠ったものなのか、それとも笹渕友一氏が書くような『ファウスト』の人物構成を模したものなのか、それ
ともアダムとイブの周縁に出没して愛の花を撒く女神は、これは『真夏の夜の夢』などが影を添えているものなのか(→註二一参照)。それはとにかく、我々は
ミルトンについても考えておかなければならない。
藤村たちの文が、当然のことだが、この西欧の偉大な詩聖をないがしろにしたことはない。それは、「天才といわれるすべての詩人や作家にたいして、無条件に
切実な憧れをもった」(宮西光雄)この時代に、当然のことであったとしても、藤村の、「英国に絶大の風雅を残したる詩人」とか、「亡明の志士ミルトンは、
独り往時を追懐し、詩神を抱いて天地を窺ふに、その寂寥孤独なる観念は……」とか、「日々三四時間は庭園に徘徊して、花の香に天地の美をあはれむの風流を
尽せしとなむ」(「詩人ミルトン(三六)の妻」)とか、秋骨の、「ミルトンが"The heart that suffers most, may
sing,- all beauty seems of sorrow born;
"と叫びしが如き」(「俳人の性行を想ふ」)など、いずれの人も、ゲーテやシェイクスピア、スペンサー等の詩人たちと並べで、「盲目の詩仙」「瀛西の詩
仙」「亡明の志士」を、その日常些事に至るまで、西欧風雅の道から外したことはない。ミルトンの「青春の作」を「道を歩きながら低唱してゐられた」(禿木
『文学界前後』)上田敏までを数えれば、「誰かはこれを見て其崇高に感ぜざるべき」(「文学に就て」)と『失楽園』の感銘を書き残すごく初期のころから、
「忍岡演奏会」や「希臘思潮を論す」「典雅沈静の美術」と、文学界の人々との交流の頃に至るまで、ミルトンの詩が彼の引例に上らない事はない。『若菜集』
後の藤村にしても、「ミルトンの詩歌は、其の音域の豊かなること、吾がみやびたる言葉の能く写し尽すところならんや」(「雅言と詩歌」)というような感想
も残され、偉大な西欧の詩神への尊敬に尽きることはないのだが、少なくとも彼の詩に、ハムレットやオフェリアが語りかけるようなものはなく、マンフレッド
やハロルドの遍歴が想像をかき立てるようなこともなかったのに違いない。そして「宗教詩人」としてのミルトンについてはどうだったのだろう。上田敏などは
別にしても、彼らに顕著になっていた西教思想への反抗は、やがて『失楽園』の著者への当惑の一つの動機にもなるのではないか。
宮西光雄氏の大著『明治百年にわたるミルトン研究』の中にも、そのことをうかがわせるものがある。明治四十年代のミルトン評の一つとして、この本には孤蝶
の「失楽園に就て」、秋骨の「ミルトンの詩に就て」、禿木の「青春のミルトン」も紹介されている(いずれも談話筆記)。これは明治四十一年十二月に出され
た「英語青年」の「ミルトン誕辰三百年紀念号」以下三号(第五号〜第七号)に、当時の研究者や、漱石、島村抱月などと名をつらねているものだが、いずれに
も、旧文学界時代のミルトン体験と重なるものがあるのではないか。宮西氏は、この明治四十年代にあった一つの傾向への感想として、ミルトンの初期の詩には
多くの魅力を感じていたにもかかわらず、後期の大作である『失楽園』には、全体としてなじむことのできない反発を感じていた様子を写し取っている。そして
その理由に、「ミルトンの宗教思想とピューリタン的な性格とが障害になっていったと考えられる」と、さらには、「テーヌの『英文学史』の感化によるミルト
ン観の影響も重視しなければならない」とされているのだが、その内容をたどっていくと、特に孤蝶、秋骨の『失楽園』評価は、明らかに、テーヌの論が強く下
敷きとなっている。孤蝶を例にとれば、(宮西氏の文からごく大雑把にまとめてみると)、彼は、「荘重な調子の好い事は感服」するけれども、「純粋の芸術品
と見る事が出来ぬ」と述べ、「ピューリタン的な精神が真つ直に出てゐる点は偉い」のだが、「詩としては余り有難くない……ミルトンの説教をした詩」であ
り、ここには「一詩人ミルトン」しか見えない、「アダムやイーヴや『天の神々』」は見えないなど、テーヌの名こそ見えないが、その論を拳拳服膺する感想が
述べられている。「我々が近代のものに対する眼から見て考へると、フローベルの歴史小説に見るやうな作者の態度などに比して、ミルトンは十分に芸術的でな
かつた。古いものと云ふ印象が…ミルトン自身には相当の苦心があつたらうが…割合に薄い。何うも十分に客観相を具備してゐない。従つてミルトン其の人は強
く印象されるけれども、Paradise
Lostに表はるべき創造時代の空気は割合に欠けてゐると思ふ」という文も引用されるが、これなどを例にとれば、「純粋の芸術品」とは、古い衣裳を借りて
自分を述べるなどということではなく、「古いもの」は古いままに、「創造時代」をそのままに、壮大な歴史をそのままに、ということになるだろう。そして、
その人の道徳的な説教に背景を借りることなく、その時代の人物や思想が生けるがごとく躍動する詩的な創造、即ち「客観相を具備」したもの、ということにな
るだろう。フローベルなどとの比較は論外だと思うのだが、この「客観相」という考えには、もともと聖書の黙示やオリンパスの山で開花した、「壮大な詩」で
あるべき「諸民族の宇宙生成論」が、たとえば、形だけをそれに借りた「習慣的な規則に化し」、また「通俗的な崇拝の統制化に凋落し」て、そのキャラクター
も、今の人間の傀儡でしかない「王や人間のレベルに落ち込んでいる」ことへの、(すなわち歴史が歴史そのままに描かれないことへの)、当時のテーヌの苛立
ちが、そのまま投影されているといえるだろう。そして秋骨も、禿木が青春時代の詩のすべてを「美術上の完全な作物」「名人の彫んだ彫刻に接するが如き感」
を抱いたように、ミルトンの初期の「詩」には「英文学中でも比類稀れなる逸品」等の賛辞を捧げて詳細に論じながら、『失楽園』には、(「不朽の大作」であ
り「人間のeternal
tragedy」であることを留保しながらも)、「芸術的方面は全々破壊されて、……ピューリタン的な考ばかりが残つた」と、これも、その根拠にテーヌの
論を紹介しながら自論の根拠にしている。かつての、西洋文豪のすべてを無条件に受け入れてきた時代から、「主体的な好悪の断層を明確にすることによって、
日本人の趣味好尚が反映したミルトン観もありうることを自覚してきたと考えられる」と、宮西論はこの時代を好意的にまとめてはいるが、文学界同人の人々
の、偶像や権威に屈服することを拒む、一見正当な、客観的な批評であるように見えながら、しかし案外に軽々しい正直な感想は、私などには青年期の彼等の当
惑を逆に想像させるものがある。そうして、テーヌのミルトン論や『失楽園』評価を読んでみれば、右のような批判をたしかにそのまま含みながら、(当然、何
層倍も説得的に含みながら)、しかし、この天才への賛嘆を決して失ってはいないことが、我々の先輩たちとの大きな相違になるだろう。その道徳性はいかにも
堅固で、その論調は激しく、それはまるで、先行するシェイクスピアやマーロウに比べてもはるかに中世人のように重々しく、(あるいは清廉な僧侶のように重
々しく)、頑固な学問や神学の大系の中に居るようなミルトンなのだが、テーヌがミルトン論で描くミルトン像は、小さな拒否をこばむ巨大な天才の彫像のよう
に思われる。この作品の偉大な「詩的創造」を言うなら、「彼の壮大な想像力の輝き」が、「ピューリタニズムの情熱と結び付」いてつくり出した「いくつもの
荘厳な賛美の歌、だれも凌駕できない背景」がいくつも挙げられていることにも、一言でも触れられて然るべきであったろうが、しかし今の私に印象的に残るこ
とは、彼等が、このようなところにもテーヌをひきずり続けていたことである。
この「宗教改革」においても、テーヌの清教徒主義への批判は、(前述の国教会派の人々の思想から予想できるように、また、それらの批判は、清教徒主義がや
がて社会と融和し、社会もまたそれと融和していく経過の前提として述べられるのだが)、はっきり言って辛辣である。日本の若者たちは、異教的精神に惹かれ
たとまったく反対に、ピューリタニズムに代表される「良心」「義務」「道徳」を第一義とする禁欲主義の厳格さに、「本物の文学が迸る生き生きした考え方が
ない。美の観念がない。…内なる感情のありのままの表現が排除されている」とか、「ピューリタンは芸術家を破壊し、人間を硬直させ、作家に足かせをかけ
る。そして芸術家、人間、著述家を単なる抽象的人間たらしめ、スローガンの奴隷に置き去りにする」などの感想に、共感することになるだろう。ちょうどそれ
は、「日本評論」に寄せる「文学界」の批判と、全く同じであったからである。しかし、ミルトンについていえば、「詩的な時代を受け継ぎ」ながら、「禁欲的
な時代の先駆をなし、非利己的な夢と実際的な行動のエポックの間に自分の場所を占めた」彼が、そのような諸状況の中でも傑出する理由は、それは、「彼の偉
大な好奇心、度重なる旅の見聞、広範囲の教養の結果であり、なかんずく、先行する時代の壮大な詩の洗礼を受けた彼の青春時代に拠るものである。また、派閥
的な党派性から誇らかに身を守った精神の独立性によるのである」とテーヌは言葉を残している。その対極に立つ極端な道徳的厳格主義に、彼はかなり大げさで
意地悪だが、次のような卓抜な比喩も残している。
Like a beautiful insect which has become transformed and has lost its
wings, so we see the poetic generation of Elizabeth disappear, leaving
in its place but a sluggish caterpillar, a stubborn and useful spinner,
armed with industrious feet and formidable jaws, spending its existence
in eating into old leaves and devouring its enemies.
「変態して翼を失った美しい昆虫のように、我々はエリザベス朝の詩的精神が消え去るのを見るに至る。その場所には、ただのろのろと動くのろまな芋虫、手に
負えぬ頑固さと実用一本やりの紡績工、勤勉な脚とおそろしい顎をもって古い葉を食いつくし、敵を貪ることに存在の意味を見出している芋虫が残っているのを
見るのだ。」
もっともこの比喩は、後に産業革命を担って世界に先駆けた英国の勤勉な国民、――当時の世界最大の生産者であり最大の消費者だった英国を喩える比喩に似て
いる。彼はここでも無意識の内にこんな昆虫の群れを思い描く。
; and we involuntarily think of those insects which, after their
metamorphosis, are suddenly provided with teeth, feelers, unwearying
claws, admirable and terrible instruments, fitted to dig, saw, build,
do every thing, but furnished also with incessant hunger and four
stomachs, (第四編『現代』三章「過去と現在」―二)
「変態の後に、突然に歯を、触覚を、疲れを知らぬ爪を、――即ち、掘ったり、噛み切ったり、築いたり、どんなことをするにも適合した驚嘆すべき道具を付与
された昆虫、しかしまた、たえまない空腹の欲望と四つの胃袋を備えているあれらの昆虫、――」
補遺的に――多くの文学的肖像
「古い人間観と審美観に支えられたテーヌの(三七)著作」という文を読んだことがあるが、そうはいうものの、生き生きと描かれた肖像画は、今でも多くのも
のを教えてくれる。あの内乱期に生まれた国教会の文人たちも、バニヤンの『天路歴程』なども、私はこの書によって教わってきた。そして、『失楽園』の退屈
さや壮大さも、テーヌの著書から教わった。アダムとイヴの神聖な退屈さも、天上の神や大天使のそれの意味もテーヌに学び、サターンの魅力もこの書物で教え
られた。正直に読むならば、我々は、西洋文学のこの上ない古典が、崇拝の対象ではなく対等の対象となっていることを知るだろう。宮西光雄氏が、「テーヌの
ミルトン批評が終始、フランス人の見地にたっていた」とされているが、おそらくそのためなのだろう、私はそれに教えられて、アダムたちの「理屈っぽい金
言」、「有益ですばらしいピューリタン的な勧告」、数々の「建前の奇弁家」を、つまり、テーヌが言うその時代のハッチンソン大佐とルーシー夫人のようで
あった創世記の男女を、逆に楽しみ鑑賞することができ、最後にやっと、我々の貧しい経験を通して、謹厳なこの著者のいくらかを理解できるようになる。天界
の神や大天使への当惑も、やがて、異国の聖堂を飾る崇高な聖画のいくつかを見、思い出すうちに、これらの国が生きてきた伝統の端々を、少しばかりつかむこ
とにもなるだろう。「早稲田文学」の「文豪テーン逝く」(二六・三・二五)に、トレイルの言として、「彼れは(註・テーヌは)ミルトン、ドライデン、ポー
プを誤解すること甚し」という文が紹介されていたが、英本国では、このミルトン論はどう評値されていたのだろう。
どこにも我々の理解を超えるものがある。「テーンの文学史であの巧妙な批評を見て感服した」と「ミルトンの思ひ出」(→第一章註二六参照)で書く島村抱月
に次のような感想もある。「オクスフオードに居る頃、イギリス古劇を演じて国内を廻るマーメード、ソサイエチーの一組がやつて来て、ウースター、カレツヂ
の有名な大庭で、夜、煹火を焚いて、ミルトンの仮面劇『コーマス』を演じた事である。其の初の場面たる深山の光景など、大木の生ひ茂つた奥深い庭が如何に
もよく適応して、其の中から十六世紀の装をした男女が炬火を振り照らしなどして出入りする、ミルトン一流の流麗高雅な声楽が夜陰の空気に響きわたる、……
其の全景の夢のやうな趣だけは今でも頭に残つてゐて……」。「コーマス」一つを取ってみても、このような想像をする力は我々にはまったくのように欠落して
いて、ミルトンという古典詩人への関心は、いつも余りに狭いのだが、しかしバイロンの一章が「雄渾な」(→第一章註二一参照
ブールジェ『弟子』)一章であったように、ミルトンの章も、無際限な地獄に転落していくサターンの文と共に、劇的に「雄渾」であった。ミルトンのサターン
に市民戦争の老英雄を見るのはいつごろからのことなのだろう。私は徳冨蘇峰(猪一郎)がこのサターンを取り上げている文を読んだことがある。明治二十年二
月の「近来流行の政治小説を評す」という文で、蘇峰はそこで「何ぞそれ堂々たるや」と、この反逆の英雄に賞賛の言葉を惜しむことはなか(三八)った。ミル
トンは『イングランド宗教改革論』や『言論の自由』の著者であった。サルメシウスとの論戦もまた、この上なく辛辣であり雄渾であった。
同じようなフランス人の批評の目は、ワーズワースの論にもあるのかもしれない。「風でとばされるどんな賎しい花」の中にも、「深く横たわる神の意思」を見
出すこの詩人に、彼は必ずしもあたたかい共感だけをしめすわけではない。時には、次のような皮肉な感想ももらしている。
「Peter
Bellのような自己本位の冷酷な職人が、忠実無私の一頭のロバの美しい行為で改宗されるかもしれない。しかしこのセンチメンタルな清らかさというもの
は、まったくあっという間に引き起こされてくるのである。その上そのスタイルは、わざとらしい簡素さでさらに一層それをかき立てるのである。我々は看護婦
の言葉を真剣に真似している真面目な人を見て、大げさに喜ぼうとは思わない」(and a selfish and brutal artisan
like Peter Bell may be converted by the beautiful conduct of an ass
full of fidelity and unselfishness; but this sentimental prettiness
quickly grows inspired, and the style, by its factitious simplicity,
renders it still more inspired. We are not overpleased to see a grave
man seriously imitate the language of nurses, )等――
自然や人生に敬虔に処した詩人について、こういう皮肉や否定を投げかけることもできたのかと、我々は時には、ワーズワースという分別くさい神話から解放さ
れ、この詩人を読むときに感ずる重い肩の荷を下す思いもしないだろうか。これに比べれば、バーンズやクーパー、シェリーという詩人が、どんなにか素直な自
然さで書かれていることか。クーパーの「内なる声」がどんな作為をも超え、シェリーが「魂のような無限なるもの」に「夢みる子供のように遊び戯れる」とい
うことに比べれば、確かに私は、ワーズワースの心やさしい神父のような滋味や説諭に、あやうく身構えて、警戒する自分がいることを知るのである。この峻厳
なレアリストの思想家は、ワーズワースの世界にいつも、粗い現実の波風にさらされると、もろく切れてしまう蜘蛛の糸のような、もろいあやうさを感じている
ようであった。その詩風の中に、退屈をさえ、あるいは、面白みのない説教の連続のような感じすら懐いたようであ(三九)った。バーンズ、クーパーと続け
て、この年代の詩人たちが果たした大きな革新、例えばワーズワーズでも書かれる次のような詩の革新、「我々自身から因習的な言葉と詩的な用語法を取り去ろ
う。上品な言葉、学者ぶった宮廷風の形容詞は無視しよう。古典派の作家たちが当然なことと正当化してきた人為的な絢爛たる壮麗さなどはすべて無視しよう。
詩における重要さは、他の分野でもそうだが、装飾ではなく、真実である。見せ掛け・外観は自然のあるがままにして効果を求めよう。ありのままのスタイルで
話そう。散文でできると同じように、当たり前の会話で、素朴な会話でできるように話そう。そしてわれわれのテーマを身近に選ぼう。」――これらのことに
も、彼はバーンズやクーパーには決してしなかった皮肉な観察をしたりする。
彼はいつものように微細に、道徳や魂の事柄に没頭する詩人を分析する。孤独な道徳的生涯や霊的な瞑想を細やかに述べていく。それは説得的で見事な論及であ
るが、この内省的な詩人の「この上ない真剣さと飾り気のない美」に、彼が尊敬を抱かなかったわけではない。「The
Excursion」などに寄せるテーヌの筆には、多少の懸念などを払拭した、真摯な共感がこもっている。彼がよく用いた比喩を使って、「プロテスタント
の礼拝堂のように厳粛で」あり、「無伴奏の合唱が瞑想や祈りを伴うように、厳粛なハーモニーによって真面目な思想を支えている。それらは夕べの勤行の終わ
りに、アーチや柱の間の薄明のなかに、ゆっくりと低く流れる、荘重な単音調のオルガンの音に似ている」と評している。これはテイラーの『Holly
Dying』に寄せる感想と同じである。この美しく魅力ある比喩は、それだけでも我々をいざなう力を持っているが、そればかりでなく、「すべての事物に魂
がある」とシェリーの詩について述べたように、彼はワーズワースのこの詩の中にも、我々をとりまくすべてのものに偏在する「活動的な原理」を、「輪から輪
へと循環する全世界の魂」を見出すのである。それはワーズワースにふさわしく「善」であり「道徳」の「輪」であったにしても、存在のすべてのものに呼びか
けているそれらは、やはり、崇高という以外に言うべき言葉もない。「それらが彼の宗教、種族、風土の詩である」と言う文を読みながらも、我々はここでも、
ゲーテの『ファウスト』から循環し、ワーズワース、シェリーへと続く「テーヌの歌」を聞いているのではないか。
テーヌの文からよきパイロットを見出した孤蝶たちのように、私も彼の文に添いながら、何人もの詩人を見る眼を教えられている。それはバイロンでも同じで
あって、私もテーヌの「雄渾な」文に誘われて、「チャイルド・ハロルド」を読み、「シオンの囚人」や「コリント攻防」を読むことになる。「Lara」や
「The
Darkness」「Mazeppa」を読み、最後には懐疑家の冷笑で終わる「ドン・ジュアン」を読んでいる。その中からは、今になっても心を打ついくつ
もの歌が聞こえてくる。「さはれたゞちに自らを人間の中ことさらに、/他と交はるに適せずと」(土井晩翠訳「チャイルド・ハロルド」)、「淋しく荒めど傲
然と/他の人間を外にして生命おのれの中に見る」、「翼たゝれし……若鷹」、……どこを向いてもハロルドがいてマンフレッドが立っている。「轡も感じぬ荒
れ馬のように」(この言葉も何度出てきたことか)……「常に最悪の苦悩と戦う男」たちがいる。「全世界の破滅や滅亡の夢」すら、黙示の世界のように、闇の
底から立ち上がってくる。荒ぶる反逆ばかりでなく、時には、「輝かしく調和した南欧の美があらゆるものの上にひろがる。明るい空に、穏やかな風景の、赤裸
々な肉体、純真な心の上に」(「ドン・ジュアン」)……。そして植村の言う「繁文縟礼」の世を告発するように、テーヌもバイロンと一つになって、「親愛な
る道徳主義者達よ」(my dear moralists,)とか「尊敬する道徳家諸君」(O admirable
moralists,)と名指ししながら、世の道徳の偽善や欺瞞を、取り澄ました貴族主義を告発する。――こうして我々は何人もの詩人を知る事になり、す
でに遠く古臭いこれらの名前が、(たとえそれがウオルター・スコットのような人であっても、その愛すべき中世への思慕であれ、あるいはテーヌの歴史文学観
であれ、英国の全体小説へ受け継がれる写実の細やかさであれ)、今でも時間の闇の向こうから、生き生きとよみがえるのを知るのである。
行き届いた肖像といえばバーンズもそうであろう。この解説を読んで行くと、そこには「青い麦の香を嗅ぐやうな」バーンズはわずかしか登場しない。騒々しく
活気に満ちた、猥雑なほどの諷刺や反逆、権威の否定を自分に課したバーンズがいて、彼は、あの小動物や小さな花を愛した詩人でもなく、労働を愛した農民詩
人と言われるものでもない。彼が野鼠をうたうのは、土にしがみついて生きる自分のように、野鼠もまたそうして生きなければならないからである。
藤村はテーヌを、どこまで読んだのかを考えてみる。彼は何を理解し、何を理解しなかったのか、そして、時の推移と共に、何がよみがえり、新しい感銘を誘う
のかなどと考えてみる。そのようなことに確かな解答が出るわけではないが、後年藤村が一茶を評して、「一個の多感な野蛮人」(「一茶の生涯」「一茶のこ
と」)と書いていたことなどを思い出す。テーヌによれば、バーンズもまさに荒々しい調べを持っていて、それはしばしばルーソーの文そのものであり、彼も
(多分、ルーソーその人のような)「活力に溢れた野蛮人」(vigorous
savage)たらんことを望んでいた。このようなバーンズと一茶の類似は、これは偶然の一致だろうか。それとも記憶に残り続けていた言葉だろうか。過ぐ
る日に彼は手紙で、「生はゆくくバーンズの株をこなたへゆづりうけてと心得居候」(星野天知宛)などと書くこともあったが、それはバーンズの何を「ゆづり
うけ」たいと思ったのだろうか。三つの劇詩を書いていたころの藤村を思うと、私にはそれが、諷刺家としてのバーンズであり、「活力に溢れた野蛮人」である
バーンズではなかったかとすら思えるので(四〇)ある。
『ローマ散策』のなかでスタンダールが、「パリの上層階級がつよく物を感じる力を失いつつある今、情熱は……小市民階級の青年たちのあいだで、おそるべき
エネルギーを発揮しつつある」と書いて(四一)いた。テーヌもまた、「近代」(Book4 「Modern
Life」)の概観を述べながら、十九世紀的近代に目覚め、欲望を生きて、それを遂げようとする青年を(スタンダールの青年達も)その典型のように取上げ
ていた。『赤と黒』の主人公のように、バーンズも「近代」と言われる開かれて行く転換期の先頭に配置され、貧窮の中で刻苦し、誰よりも世に出ることを望
み、野心を燃やした。過去の教義や作法を受け継ぐことなく、「まるでエピキューリアンのように、本能と愉悦の赴くままに」、世の偽善的言辞を嫌悪し、特権
階級や聖職者を攻撃し、居酒屋で泥酔する民衆のはばかることない饒舌をきざんだ。彼の詩の節々に、抑圧された者、反逆する民衆の激しい抵抗が見出されるの
を誰が不思議に思うだろうかと、テーヌはそうも書いている。彼の詩は、ハイネやミュッセが作り始めたような「本物の詩句」であり、彼の新しい方法は「一つ
の革新」であったと書いてもいるが、最後は自らを使い尽くし、荒廃のうちに果てた。バーンズの「聖祭」「愉快な乞食」等々の詩から、クーパーの「The
Task」、ワーズワーズの「The Excursion」を経、シェリーの「雲」「Sensitive
Plant」、バイロンと続く一連の詩の紹介と鑑賞は、それぞれが魂の在りようを異にしながら、(その底を流れる「感情の真実」を共有して)、上質の、選
び抜かれた詞華集のように魅力がある。それらがテーヌの「詩の原理」になるだろう。そして、それを支えるものはよくも悪くも、何よりも書き手自身の熱情に
ちがいない。テイラーについて彼自身が述べていたように、また、ルネッサンスやシェイクスピアについて熱情を注いだように、テーヌもまた、「感覚と心で感
動している人間」だったのだろう。
補遺的に―近代の病理
『英国文学史』を通して、私も「近代」に至る意味を考えている。それは当然、十九世紀後半における「近代」の意味だが、それが著者自身の意図でもあった。
英国をモデルとしながら、人類文化の変化生成の原動力が、「いかにして遂に政治・宗教・文学の偉大な所産を生み出すに至つたか」を説明することが、この書
の目的であった。終章が「近代」(Modern
Life)という項であるように、バーンズからバイロンを経て、著者は私達をそこに誘なっている。その一つの結論のように、彼は、民主制へ開かれていく英
国の社会や制度の変化と共に、シドニー・スミスやアーノルド、マコーレー、サッカレー、ディケンズ、それにカーラ・ベルやブラウニング夫人、スチュアー
ド・ミルなどの文人の名を挙げながら、英国が英国の道を通り、自ら切り開いてきた道筋と、未来へ開かれるだろう展望を、ごく簡単ながら述べている。シド
ニー・スミスは聖職者の麻痺した無神経さや、カソリック抑圧に抗する風刺で、アーノルドは聖職者の宗教的独占、英国国教会の教会独占への抗議によって、マ
コーレーは自由主義的な改革の歴史と称賛の文で、サッカレーは中産階級の立場に立って貴族階級を攻撃することで、ディケンズは下層階級の人々の立場で高位
の者、富裕の者を攻撃することで、カーラ・ベルやブラウニング夫人は婦人の主体性と独立を擁護することでと、それぞれがそれぞれの力と条件で、ある人は
いっそうの熱意で、ある人はいっそうの懐疑で、民主制と哲学の上り来る潮を歓迎し門戸を開き続けた、というよ(四二)うに。それらについてはその項を読ん
でもらえればよい。また、英国旅行を通して、著者の観察の眼が、当時の英国の諸相をどう捉えていたかについても、やはりその項を読んでもらえればよい。そ
れよりも、この書を通じて彼が追い続けてきたと思えるものは、次のような文に表わされていることではないか。
「彼らは教義を越えた宗教的感情を得ようと努めた。法則性を越えた詩の美、神話を越えた批評的真実を求めた。彼らは又、先輩たちがとってつけた架空の立証
とは別の、あるがままの自然と道徳の力を摑もうと思った」(第四篇「近代」第一章「思想と作品」―一)。
「彼ら」とはそれまで述べてきた文人たち、思想家たち、宗教家たち全般を指すだろう。そして次の文も同じことを指している。
「我々はワーズワースとバイロンから、深遠なプロテスタンティズムと強固な懐疑主義によって、次のようなことを学ぶ。即ち、この神聖な決まり文句(註・偽
善的な言辞か)で守られた社会の中に、改善や改革を要する問題があること、(that in this sacred cant-defended
establishment there is matter for reform or for
revolt;)、法律がレッテルをはり、世論が従属するものとは別の道徳的価値が見出されるということ、伝統的に自認されていること以上の真実があると
いうこと、一般に尊重される社会的条件以上の偉大があるということ、ありふれた立場を超えた美徳があること、偉大さとは心の中にあり精神(genius)
の中にあること、等である。そして残余のものはいかなる行動も信仰も、それ以下のものに過ぎない」(「同」―五)
それぞれに感動的な二つの文は、前者はこの章の冒頭の導入部の項に、後者は、バーンズからシェリーまでの詩人たちを述べた後の、結語の位置に置かれてい
る。そして冒頭と結語にこれらの文を配置しながら、テーヌは「近代」の「思想と作品」が果たしてきた役割を書いている。前者はやや概念的に、後者は、より
緻密に、市民社会を含めた世の一般常識をも、痛切にそこに含めているかのように思われる。我々は「ありのままに」という言葉や人間の感情に真実を見、因習
や形式や教義を超えた「批評的真実」を求めてきた。「あるがままの自然と道徳の力」を見出そうとしてきた。「美徳」も「偉大」もそのようなものの中に見出
してきた。しかし、それらの一つ一つは、眼には見えず、はっきりと意識されるわけではない。時には、汚泥の底に埋まり、反逆や反俗のなかで消尽し、「良
俗」という名の闇に嘲られ葬られることも多い。我々は往々に、人間社会の狭隘な規則や規律の外に、それらを見出すことが多いのだ。バイロンは「この過度に
規律化された世界で……自分の天職を見出すことができなかった」、バーンズをとらえるのに「時は……四十年の歳月を費やした」、シェリーなどの果たしてき
た詩が「今や千々に破れ」、「軍旗のように翻った」バイロンの詩も今は道端に捨てられている、というように。ワーズワースですらその一方の極に立っていた
のかもしれない。
歴史が常にそうであるように、この『文学史』にも痛ましい死者たちは多い。あるいはそれに近い生を生きた人が多い。サリー伯やシドニーやスペンサーです
ら、その生の周辺に不幸や悲哀が予感される。グリーンやマーロウ、ベン・ジョンソンの最期などは凄みすら感じさせる。古典派の詩人たちの中にもいるし、ロ
マン派の詩人たちもそうである。チリングワースもヘイルズも我々の知らないベールで覆われ、平穏な生を終えたシェイクスピアですら、ソネットをたどるテー
ヌの筆は、その詩が、シェイクスピアの人生の、辛酸や屈辱から生まれたものだと書くことを少しもはばからない。シェイクスピア論の最後でも、テーヌは、
「私が貴方を愛するのは、貴方が多くのものを感じ、苦しんで来られたからです」と、デズデモーナがオセローに言った言葉でこのオマージュを終えている。こ
こで描かれる人々の肖像の多くは、この人生を、血をしたたらせながら生きている。『英国文学史』の最後を、彼はテニソンと較べながら自国のミュッセに当て
ているが(第五部『現代の作家』 Modern Authors ChapterY Poetry Tennyson
Y)、不夜城のようなパリに生き、そこに揺れ動く黒い影のように、人生を蕩尽し滅びていくようなミュッセに寄せる彼の愛着は、この書の結末にふさわしく、
この人がいかにも時代の子であったことをよく物語っている。
「暗潮」という言葉を「文学界」の人たちがよく使う時期がある。直接には「近年の文海に於ける暗潮」(秋骨「文学界」三七号 二九・一・三〇)というよう
な論で、また、「作家某に与ふるの書」(禿木「同」三〇号 二八・六・三〇)でも多用されるが、藤村は禿木に先立つ「聊か想ひを述べて……」(「同」二九
号 二八・五・三〇)の中で、「十九世紀の新思想を呼吸するものは皆一種不健全な暗潮に浴せざるものなし」とか、「静逸なるシェレイをすら捕へたりといふ
この新潮」、「この暗潮に勝つべき程の慰藉」などという言葉を残し、後には「ヱルテルのわづらひを通して人心を震動せし暗黒なる近代の思潮」(「芙蓉峯を
読みて」二九・一二・二〇)とか、ラスキンの言を通して、「近代の詩歌に顕はるゝかの恐るべき暗潮」(「告別の辞」三〇・六・二〇)というように用いてい
る。「河北新報を祝す」(三〇・一・二一)の中でも、東北という地方にある「無尽蔵なる自然」に比して、東京という「帝都の弊」の一つを、「感情的神(四
三)経症」の名で呼んでいたことも記憶しておくべきことであろう。そして藤村が、この暗潮下の詩人にゲーテ、バイロン、シェリー、ハイネ等を挙げるよう
に、テーヌも、その詩人等にミュッセの名やハイネやポーを加えて、「近代」というものの不安や焦燥や、ともすれば己を超える野心や願望のもたらす不幸を書
いている。テーヌの文には、「息詰るやうに濃厚なデモクラシーの社会」(緒論)とか、あのルネッサンスを述べながら、「ひややかな憂鬱な我々の時代」(第
二篇『ルネッサンス』第一章「異教復興」第一節「習俗」二)という言葉もあるのだが、ルネッサンスこそ「ヨーロッパの最も偉大な時代」であり、「人類の成
長を通じて最も見事な時期」、「我々は今日でも尚この時代の生気を糧としてゐるし、この時代の圧力と努力を継続してゐるにすぎない」(「同」一)と述べて
いた彼は、ルネッサンス精神にこそ、人間が人間の力を存分に沸き立たせる青春性の象徴を見たのであろう。そしてその栄光に較べれば、「現代」はすでに閉塞
した時代であることが、念頭にあったのにちがいない。『英国文学史』もここまで来ると、我々は、「鋭く、痛々しい神経にかき立てられて」、避け難い「時代
の病弊」のなかにいる「近代」の人間を見ることになる。藤村が出逢った会心の文字、「彼は詩を捨てた。詩も亦彼を捨てた……」に続くバイロンの終章にも、
こんな文章が置かれている。
「時代の病弊はもう犠牲を区別することはなかった。彼の(註・バイロンの)周囲には、古代ギリシャの生贄のように、ほかの者たちが横たわっている。彼等の
偉大な資質、彼等の中庸を欠いた願望によって傷つけられて、あるものは痴呆状態で、あるものはアルコールの害毒でその生涯を終え、あるものは快楽や過剰な
神経の酷使(by pleasure or
work 註・workは「過剰な神経の酷使」とも訳すべきか)で疲れ果てて……。ある人は狂気や自殺に追い込まれ、ある人は無力に打ち据えられたり病の
床に横たわって果てた……。」(「Lord byron」6)
ルネッサンスの詩人たちの項にも、同じようにこう書かれている。
「幾度も、この時代の(註・ルネッサンス期の)詩人たちを読んだ後に、私は同時代の版画に暫く眺め入りながら、この頃の人間は心身ともに今日我々の見るや
うな人間ではないと心に思つたことであつた。我々も亦情熱を持つてゐるが、もはやそれを持ち続けるほどには強くない。情熱は我々の調子を狂はせる。もう無
傷には詩人になれないのだ。アルフレッド・ド・ミュッセ、ハインリッヒ・ハイネ、エドガー・ポウ、バーンズ、バイロン、シェリー、クウパー、算へあげれば
きりがなからう。厭世と痴呆化と病気、無能力と狂気と自殺、善くても絶えざる熱狂か熱に浮かされた怒号、これが、今日、詩的気質の普通に見られる極端な現
れなのだ。脳髄の逆上は内臓をついばみ、血を涸らし、骨髄をおそひ、嵐の如く人間を揺り動かす。そして、人間の骨組は、文明によつて変化させられて我々に
与へられた有様では、もはやこれらに抵抗できるほどには堅固ではない。」(第二篇『ルネッサンス』第一章「異教復興」第二節「詩」七)
どこか荒々しい、野獣のようなうめき声を、大げさと言ってはいけない。感情の頂上に駆け上ったときの、内なる声にちがいない。そして、そのような悲歎の声
の満ち満ちた世紀の唯中にいて、「我々も彼らのように悲しかった。彼らのように反逆したいと思(四四)った」(「Lord
Byron」6)と、この冷徹な思想家は、めったにない「告白」をもらしている。
彼は、ゲーテやシェイクスピアのような古典人間の強靭さはもう今はない、と言っているのだが、この不条理な時代に対処するために、決して事新しい言葉では
ないがと断りながら、「我々自身を理解するよう試みよ。そしてあるがままの事物(ごくありふれた事柄)を理解することを」(Try to
understand yourself, and things in
general.)というゲーテの言葉を引いて(四五)いる。この中に「時代の成果と経験のすべて」がこめられるのだと――。ゲーテの名は幾度も現れてく
るが、多分テーヌのこの文では、次のようなことが言われている。これらの経験をのりこえるべく、先人たちが残したように、「あなたの小さな庭園を耕せ」
(これはヴォルテールの『カンディード』の言葉であろう)とか、「もう一度神のもとにもどれ」などと言われるのだが、いずれも、我々の自己満足を誘うだけ
であり、我々を愚鈍にし、方向をそらし、忘却に誘う以外のなにものでもない。我々を取り巻く苦悩を癒すためには、我々を取り巻いているあるがままの「自
己」、あるがままの「事物」を知るべきであろう。我々が癒すことが出来るのは「精神」(「知性」)だけなのだ(All what we can
heal is intellect:)――。こうして人々が、(「自分自身」と「事物」を知るという)「健全な空気」(a more
wholesome air)のなかに導かれていけば、人々の心も「より健全」になる(a wholesomer
heart)はずである。なぜなら、「思想」の変革は残余のものの変革を生み出すからだ。そして「精神の光」が「心の晴朗さ」を生み出すのだ(the
light of the mind produces serenity of heart.)……。
最後には「科学」が来る(Science at last approaches, and approaches
man)と彼は続けている。この『英国文学史』で、彼は何度も「科学」への期待を語っている。ティボーデが言う「理性と科学の(四六)刻印」を押す人の証
しのように、「科学」こそ「理性」(「思想」)の根源になるからだろう。そしてその「理性」が「精神の光」を引出す大きな力になるからだろう。別のところ
でも、人間が「人間についての科学」(the science of
man)を新たなものにしていけば、最後には「科学」は、「全人間精神を包含することになる」(will at last comprise the
whole human mind.
)だろうと、そう彼は言って(四七)いる。遠い過去の時代には、人々は、神託を告げる神官や詩人たちを自分の師として、想像の気高い夢や差し迫った心の助
言を受けてきた。それらはしばしば、宗教的予言の偏向や不正確な詩人的直観に縛されていたとしても、それが人々を癒す教義や平穏を作ってきたのだ。しかし
今では「科学」が、星や石や植物といった物質界を越えて、人間の「心」をもその対象とするようになっている。「思想」も、「科学」の対象として立証される
ようになっている。物質界が変革されてきたように、我々の「思想」も、やがて我々の目の前で変革されるようになるだろう。そういう「光明」を我々は我々の
背後に忘れている。しかし、バイロンもフランスの詩人も、そういう「光明」の中で自らの仕事を果たしてきたのだ。
そうして彼は彼の結論に向かって次のように力をこめて書いている。
彼らは早産児でも怪物でもないのだ。詩の仕事は人間を嫌悪する事でも中傷することでもないのだ。いかなる人も、いかなるものも、彼は彼の場所にいて、他の
すべての事物と同じように、一つの生産物として、在るべきところに在るのだ。植物の異種や早生種が決して異物ではなく、必然から生れた生産物であるよう
に、生得の不完全さもその変則性も、我々が奇形とするものも、規則にかなった一つの形であり、我々に法則の破壊と見えるものは法則の成果である。存在の諸
要素は、自然の力そのものによって、ある確実な「種」や構造の序列にそれ自身を位置づけ帰着させる不変の法則を受けている……。彼は、我々の常識や経験か
ら外れた異種や早生種を、正当な自然の秩序に置き換えようとしている。これは彼が述べてきた詩人たち――社会が忌避し排除しようとしてきた詩や思想を、正
当な位置に回復させることも指すだろう。そして、如何なるものも、如何なる人も、彼は彼の場所にいて、人間の鎖の輪を完結させるべく存在しているのだ。そ
れらは「事物」の心臓部に位置して、年老いた世界の四肢に間断なく新鮮な血液を注ぎ続け、その全表面に若さと美の永遠の花を広めているのだ……。そうして
彼はこんな言葉でこの項を終えている。
「最後に、人が次のようなことを発見したとき、――例えば積み重ねられた法則のこの山は結果として形態の規則的な系列なのだということを、例えば事物はそ
の結末のために思考しているのだということを、自然は理にかなった結果に終わるのだということを、そして多くの誤謬の中にあっても人間のすべての熱望が執
着する理想は、多くの障害のなかにあって宇宙のあらゆる力がめざす目的なのだということを、これらのことを人が発見したとき、荘厳な気持ちに打たれない人
がいようか。科学のこの採用のなかに、そして、事物のこの概念のなかに、新しい芸術があり、新しい道徳があり、新しい政治形態が、新しい宗教がある。そし
て我々がそれらを試み、それらを発見していくのは、今、この現代においてなのである。」
(Who, finally, will not feel himself ennobled, when he finds that this
pile of laws results in a regular series of forms, that matter has
thought for its goal, that nature ends in reason, and that this ideal
to which, amidst so many errors, all the aspirations of men cling, is
also the end to which aim, amidst so many obstacles, all the forces of
the universe? In this employment of science, and in this
conception of things, there is a new art, a new morality, a new polity,
a new religion, and it is in the present time our task to try and
discover them. )
一八六〇年代のこの時代に、この一連の考えがどう迎えられたのか、私の答えられることではないが、「事物のこの概念」や「科学のこの採用」には、保守的
な思想を越えた新しい訪れがあったことだろう。それにしても、事物の必然とか、法則とか、宇宙のあらゆる力とか、彼は我々の存在を遠い漆黒の闇や、茫漠と
した星雲の彼方に誘うかのようである。そして、我々の「存在」の一つ一つが広大な宇宙の法則に適うことは、どこか人を恍惚とさせるものがある。我々の「熱
望」や「理想」も、「宇宙のあらゆる力がめざす目的」なのだと確信すれば、我々もまた、荘厳な気持に打たれるだろう。ピレネーの山中でも、同じような思い
が彼にあったにちがいない。しかし、病み疲れた世の、病み疲れた精神の中で考えていると、これらの言葉にもどこか癒しがたい虚無がある。「美しい死」(ア
(四八)ラン)の匂いもする。さまざまな不条理に、「今日我々の見るやうな人間」は「もはやそれを持ち続けるほどには強くない」のなら、「人間の骨組
は、……もはやこれらに抵抗できるほどには堅固ではない」のなら、これもまた大きな負担になるにちがいない。後の世代で、『弟子』の青年は、「精神の光が
朗らかな心を生み出さんがために」というテーヌやゲーテの言葉にならって、「宇宙の大きな生命」というスピノザの永遠を自らに課そうとして(四九)いる。
そして永遠と実在の乖離に苦しんでいる。『現代心理論集』では、「科学」はもう人の心に光をもたらすことはなく、その「知性の富」の過剰が、(あるいは
「知性の不完全な陶冶」が)、人々の精神に強いる病いの基にあることを示唆している。「われわれによって知識の荷を過重に背負わされている人間機械の能力
を、われわれはきちんと測ったことがあったろうか」、「思想のあまりに熾烈な修練のためにほとんど必然的に生み出される恐れのある生理的摩滅や感情と意志
との摩滅を防ぐ手段を、科学はかつて発見したであろうか、またはやがて発見するだろうか」と……。テーヌのこの書物でも、我々を宇宙の法則下に誘い、鼓舞
し励まそうとするかのような文の周囲に、かすかに聞こえてくる言葉がある。私は、いろいろな彼の言葉のなかでも、そのように、ふと漏れてくる言葉が好きで
ある。
「我々の年代は、前の年代のように、時代の病理によって染められている。我々はその半ばすら取り除くことはできないだろう。我々は真実に到達するだろう
が、平穏にはなれないだろう。……」
(Our generation, like the preceding, has been tainted by the malady of
the age, and will never more than half get rid of it. We shall arrive
at truth, not at tranquillity.)
このようなひそかな諦念を私は忘れることはないだろう。そして次のような優しさも忘れないだろう。
「……しかし私たちは、自分自身に対してはもう何の期待もしていない希望を、他の人に思いやる権利を持っている。自分たちは楽しむことはない幸福を、子孫
のために準備する権利も持っている。……」
(But we have a right to conceive for others the hopes which we no
longer entertain for ourselves, and to prepare for our descendants the
happiness which we shall never enjoy.)
※ ※ ※
「……かくも若くありながら、すでにかくも消尽しているとは。かくも素晴らしい精神、繊細な触感、豊饒で多彩な想像、早熟な栄光、……その上、苦悩の、嫌
悪の、涙の、そして絶叫の……。」
これは彼が愛したミュッセへの献辞の一部だが、このような文を読むと、私はいつも、遠く及ばない熾烈な精神への、畏怖や羨望を隠すことができない。我々は
もっと凡庸なものだからだ。まるで殉教者に捧げるような次のような文もそうである。
「疑惑と絶望の高所から彼は無限を見た。我々が嵐に襲われている岬から海を見ている如く……。宗教――それらの栄光と崩壊、人類――その苦悶と運命……」
(Tennyson Y)
ルネッサンスを称賛し、マーロウに青春の「内的告白」を見、シェイクスピアに放埓なまでの人間の「本性」を読み取った人は、典雅なテニソンと見比べなが
ら、過激な熱狂や苦悶を駆け抜けて行く人々への、愛や共感を告白しているかのようであった。
「彼は単なるジレッタントではなかった。彼は趣味に耽ることや、楽しむことに満足しなかった。彼は人間の思想に彼の痕跡を残した。彼は世界に人間とは何
か、愛とは、真実とは、幸福とは何かを語った。彼は病んでいた。しかし彼は想像した。彼は衰弱していた。しかし創造した。彼は絶望と共に彼の内臓から彼が
抱いていた思想を引きさき、すべての人に、血まみれだが生き生きしているそれを指し示した」。
そうして彼は、「世界には、人間の成した唯一つの価値ある仕事がある。真実を生み出すこと、我々はそのために尽くすのであり、それをこそ信じるのである」
と、彼の『英国文学史』を終えている。
この書物は、ルネッサンスと言われる時代、――再び帰ることのない青春の象徴のような時代と、ロマン主義復活といわれる詩人たちの時代、――あるがままの
感情に身を委ねて、自己を存在化しようとしていた詩の時代が、二つの大きな柱になっているようであった。「科学」も、――ここで見られたような「科学」へ
の信奉も、「科学」がまだ人間理性に及ぼす若々しい期待の中にあったことを物語っているかのようであった。「科学」が照らす新しい光が、人間を無惨に解剖
することではなく、「科学」が解剖する真実が、人間精神に新たな力を付与する発条となる、そのような期待や信頼があるかのようであった。少なくとも、その
ように生きよと、呼びかけているようであった。
このレポートは、「私の『英国文学史』」と副題を付したように、私の受けた印象のままに「私のテーヌ」を書いたものである。私は外国文学の専門家でも比較
文学者でもなく、一介の読者として、自分の感じたままを書いてみたのだが、その結果は、実像とは遠いものになったのかもしれない。当初の目的は、日本文学
や藤村文学研究の立場から、二十年代の明治の時代や、藤村及び文学界の人々とテーヌとの関連を主眼としたものだった。その目的は、上田敏や植村正久の文を
通して、また、ルネッサンスやシェイクスピア論との比較考証をした前半の部分や、『女学雑誌』誌上での秋骨の翻訳の紹介などを通して、ほぼ達したと思うの
だが、心に残ることがあって、「宗教改革」以下のことにも筆を進めてみた。それは藤村たちの(あるいは我々自身の)ワーズワース体験やバーンズ体験と言わ
れているものと異なる見方がいくらもあるからであった。ミルトンへの近づき難さも思い当たることがあるからだった。しかし本文でも書いてきたように、およ
そ一世紀半も遡るこの書をひもときながら、私も、見たことがない風景に眼を開かれてきた。何度か「共感」という語を使ったが、結局、私がこの古い書物から
学んだものも、人生への「共感」にちがいない。そして、人生への「共感」とは、読者の心を人生へと促す力をもっている、ということになるだろう。後に藤村
が、「批評」(『新片町より』)という文のなかで、「人は真の批評に導かれて、はじめて自己を発見し、幾多の性格と、精神を知り、偏見を捨てゝ正しく進む
ことが出来る。そこに生の発展とも言ふ可きものがあると思ふ」と書いていたことを思い出すが、この文に付け加えることは何もない。
矢野先生の『文学史の方法』からも、同じようなことを学んだ。このテーヌの方法の詳細で手厳しい批判史を超えるものを、私はもちろん持ってはいないが、そ
こにあった一文は紹介しておくべき価値があるだろう。それは、この本の中であまり気づかれることなく読み過されているのではないかと思うのだが、逍遥が英
文学史を編むときに、テーヌの不足を補って参考にしたというアルフレッド・ウエルシュ(Alfred Welsh,
)の言葉である。矢野氏は、ウエルシュの『英語英文学発達史』の序(Prologue)の部を取り上げて、その文芸史の方法・方針を丁寧に解説された最後
に、ウエルシュの次のような言葉を取り上げている。
「英文学史は自由広濶な精神を以て書かれなくてはならない。若しそれが学徒の感情を煽つて高貴なる真剣なものとしたり、理想を高めたり、生死の支柱となる
べき真理を与へたりすることが出来なかつたとしたならば、その文学史は浩嘆すべき程不完全なものである。而も、その過失は、題材其物にあるのではなく、こ
れをそのやうにしか取扱ふ事の出来なかつた文学史家にあるのである」。
「学徒の感情」と断っているのは、「文学史」を、「学徒」を対象とする「教育の用具であることを志す」という前提からであろうが、矢野氏は、そのようなウ
エルシュの言葉には、「テーヌ以外の文学史家の何人も未だ口にしなかつた多くの重要なる点に触れて居るのみならず、発言以来七十余年を経た今日の文芸史家
にたいしても示唆する所が多い」と書かれている。「美しい智識が、……豊かな批評が、……豊富な観察が……『生の批評』が……」と藤村は書いていたが、お
そらく『英国文学史』が果してきた「生の批評」も、日本の若者の「感情」に訴えて、「高貴なる真剣なものとしたり、理想を高めたり、生死の支柱となるべき
真理を与へ」ることができたのではないか、そのように私は思っている。
『文学史の方法』といえば、そこで紹介されていたエミール・エンヌカン(Émile Hennequin,
1859-1888)という人の、次のような考えも書きとめておこう。
「……『英文学史』は、十八世紀の模倣時代を除くと、民族精神が長期に亘り万全(intact)であつた一国民の芸術を追究したものである。若しも著者が
彼と同時代の英文学にまで筆を進めたならば、彼はおそらく抜差ならぬ破目に陥らざるを得なかつただろう。」
テーヌの方法論が執拗に追究されているなかで、エンヌカンも「作家と民族乃至環境との間に」は「不動の関係」などは存在しないことを言うのだが、「民族精
神が長期に亘り万全であつた一国民の芸術」とは、その内容について触れた数少ない理解の一つとして記憶に残った。これが正解であるのかどうかは私の判断で
きる問題ではないが、「民族精神」という主題が、一つの方法論で貫かれていたことは確かであった。それは、テーヌと同世代のディケンズ、サッカレイ、テニ
ソンの論でも同じように続くのだが(BookX The Modern
Authors)、しかしテーヌの筆致は、決して「抜差しならぬ破目」に陥っているわけではないが、同じ「民族精神」に言及しつつも、我々を昂ぶらせた詩
や演劇の論とは異なる、抑制された実証精神に貫かれているようであった。『英国文学史』が世に出るのは、テーヌが普仏戦争の敗北やパリ・コミューンの悲惨
に遭遇する前でもあった。その上テーヌは、ドレフュース事件の紛糾も第一次世界大戦の悲惨も経験することなく逝った。テーヌは確かに二月革命後の反動期も
生きたが、この書にはどこか、それらの破滅的な経験を前にした、青春の香気がこめられているようであった。
なお、この書物の『古典主義時代』(『英国文学史』第三篇)については、ほとんど触れることはなかった。それは主に、矢野論文にもあるように、「文学界」
同人たちが多く「シェイクスピアをはじめ十九世紀のロマンティック詩人に傾倒」していた、藤村たちの関心が主にそこにあるように思われた、という単純な理
由によるものなのだが、この書物でも、心うつ時代は、ルネッサンスとロマン派の時代のような、詩精神に溢れた時代であった。事実私などには、「古典主義時
代」と銘打った一六六〇年以降の凡そ一世紀ほどの「模倣時代」を、最初は、一種索漠とした砂を噛む気持で読んでいたことも確かである。この時代の、アディ
ソンやポープ、ドライデンやスウィフト、またジョンソン博士などの名前だけを知ってはいても、それらの一人一人について、ほとんど無智であることも大きな
理由に違いない。私などは手塚リリ子・手塚喬介両氏訳の同書によって、初めてその人達を知ったことになるのだが、加えて言えば、この時代はもう、ある時代
をシェイクスピアで代表させ、ある時代をバイロンで代表させるような、ある特定の人がヒロイックにその栄光を担う時代ではなくなっているようでもあった。
多くの人のそれぞれが、一つの時代のいくつもの分流の中にいて、ひとしなみに時代の表層や底に浮き沈み、時代のいくつもの破片や部位を担っていて、という
ように、テーヌの他の章と比べて、つかみ所なく分散され、幾層ものエネルギーを統一なく放散しているように見えるのだが、しかし、やがて私などが思ったこ
とは、それこそが栄光の時代などにはない、ごく自然なありふれた時代を語るものだろうということであった。だから、そこには決して、時代の典型などと一つ
では語りきれない諸表徴があり、人間は多様に、様々な内的動機や表情をもってそこに存在しているのではないかと思えるのであった。奇妙な譬えだが、その混
沌とした表情や価値観は、テーヌがよく取上げていたホガースの風俗画の、――シェイクスピアの劇にすらおさまりきれないような、あの風俗画の一人一人が浮
かべている、いくつもの表情のようにも思えるのだった。テーヌはそれを力強く描いていたと言えるのだろう。だから今となっては、心に残る場面はいくつも
あって、厳格なピューリタニズムから解放された「王政復古」の時代は、えもいわれぬスキャンダラスな放蕩や、神経をさかなでるような挑発、汚辱に満ち満ち
ていて、ウイッチャリーなどという人の項を読んでいると、(それはマーロウの放縦などと比べてどう違うのだろうか)、我々はぼろぼろになるまで、人間のい
かがわしさや軽薄さに、下水槽の底の汚泥の臭いをかぐような思いもしたのだが、それもいつか、忘れ難い時代の典型と思えるのであった。そういう「惨めな社
会」の風俗や作家を描いた後に、ミルトンの『失楽園』から、破廉恥と酒に膨れあがる「淫乱の大都市」の一節を取り上げているのも忘れがたいものとなった。
ミルトンもその時代を生きたからである。だから、シェイクスピアの時代にしろ、ロマン主義の時代にしろ、横溢する時代の主潮を謳いあげることなく多くの風
俗を描くのなら、我々はさらに多くの「生きた人間」の貌を知る事にもなるだろう。言葉を換えれば、前者は、青年の好尚に存分に訴える力を持ち、後者は、老
熟した文化や精神に初めて理解され得るというように。スモーレットやスターンやゴールドスミスという人たちも彼の筆に登ってきて、それは幾多の解説にある
ように、王政復古の反動期の頃にしても、庶民や中産階級が確実に力を養っていた時代でもあったのだろう。数多い家庭小説というものにも、この時代の健全な
発展を読み取る事ができようが、このような作家の中でも、彼が、フィールディングのような天衣無縫な豪放さを愛していることも確かなようであった。「放埓
な諸本能」が「生き生きと」「健康的な色彩で」「大胆に」描かれているという言い方――「溢れるばかりの肉体の生気に身を任せ」「馬銜を外した自然を田野
に放ってみせた者」という言い方、すでにふんだんに読んできたこのような言葉に、私はこの書物のなかで何度も見た懐かしい風景を思い浮かべたからである。
ポウプについてはどうなのだろう。上田敏が書いたように、「ポウプを認めない批評なぞ」に、この『英国文学史』は含まれるだろう。不公平なことになるが、
このあまりにも早熟であった天才児については、「生き生きとした観念と率直な情念の溢れるばかりの源泉」が「真の詩人」の条件なら、「彼の場合には、その
人格に至るまで、すべてが窮屈または不自然なのである」という文章、そして、「彼は思考したから書いたのではない。書くために思考した」という文章、「真
実以外、不足しているものは何一つない」という皮肉たっぷりの文章を引いておこう。これはこれで、テーヌという人の視点から、ポウプの作家像が見事に描か
れている証しであろうが、それはちょうど、「下劣や事物の裏面しか見ない残酷な実証精神」――「崇高さも快さにも出会うこと」のないスウィフトに眉をひそ
める次の瞬間に、「すべてを発見し何ものも模倣しない卓越した人間」を賞賛するのとちょうど逆であった。古典主義時代と銘をうって、そういうものの中から
テーヌが見ようとするものは結局、フランス古典主義の優雅、繊細、理性的な明晰さから隔たるイギリス的なものではなかっただろうか。シェリダンの価値をみ
とめ、「卓越した精神」の人ドライデンにあれほどのページを費やして、見せかけの模倣やけばけばしい装飾の無惨を論じながら、「真の詩人」としてのドライ
デンを見出すのは、不幸にも、最晩年の「最大の悲嘆」の中からであった。それこそまさに「イギリス的な別の特性」に支えられ「イギリス的な源泉」から湧き
溢れてくる「真面目なイギリス魂の詩」なのだというくだりになると、私などもほっと安堵の息をつくのである。それはアディソンに対しても同じに思える。優
雅で洗練されたモラリストであり、誰よりもフランス的な古典主義者に近い教養人アディソンを論じながら、「配列と良き秩序」よりは「素朴な真実と強烈な創
意」の必要を、「控え目で理性的」であり、かつ「釣合いを持ち、整理すること」に専念するより、「自然な霊感の激しさと明晰さ」の必要をより強く求めるよ
うでもあった。かの「ミルザの夢」ですら、やがてそれが我々を魅了する詩情に、「イギリスの古典主義時代をフランスのそれと区別している、イギリス的陰
影」を彼は見出すのであった。
そのほか、第四部の「Modern Life」の最終章「The Past and the
Present」以下で取り上げている一八六〇年代の英国の事情や政治制度の現状、ディケンズ、サッカレイ、カーライルなどに及ぶ第五部の「Modern
Authors」についても、ここでは省いた。ディケンズ、サッカレィ、テニソンには一通り眼を注いだが、マコーレィ、ミル、カーライルを考える余力は私
にはなかった。「The Past and the
Present」で述べられている英国の風土の印象の一例は本文でも取上げたが、社会や政治的事情については触れることはなかった。それ自身は興味あるこ
とであり、十九世紀末英国の政治制度に多くの学ぶべき点を認めながらも、そこには時折、急速に発展する産業社会から脱落する人々や、(「Notes
on
England」では「英国社会の真の病める場所」として紹介されている)、効率に追われ、足早に歩くビジネスマンの不健康な姿も、忘れることなく書かれ
ていた。そして、「まことに人生の戦いは、ここではどこよりも厳しく頑迷であり、屈する人は誰でも脱落する」とも書かれるのだが、それらが「現代政治」の
大きな主題になることはなく、総じてよき英国の部分の位置に、ぼんやりと影のように留まっていたといえるだろう。島田謹二氏の文の中に、「ヴィクトーリア
朝英国の社会と政治と風俗について」のテーヌの知識は、「とかくするとある一面をだけ強調する癖」があって、「例えば、テーヌが英国をみて歩いた時案内し
た連中は、いわゆる「青年イギリス党」の仲間が多かった。それにひきずられて、テーヌの見方は、貴族階級に有利なかたむきを持つようになったといわれる」
とあるが、一八四九年にすでにマルクスがロンドンに亡命していたような時代に、彼は、英国の一つの理想のように、伝統的な地方ジェントリーをリーダーとし
た政治組織や、彼等の果たす公共的な役割に、フランスにはみられない優れた英国の特徴を見ようとして多くのページを割いているのも、その一つとして印象的
であった。このような観察の視点も、我々の国の問題として考えてみれば、徳冨蘇峰が平民思想の基調の一つに挙げていた「田舎紳士」論などに、どのように結
びつくのか、というような問題もあって、いずれにしても、私の英国を見る目に一つの視点を与えてくれている。
テーヌ管見 3
テーヌ・その後―
及び『現代心理論集』の周辺
矢野峰人氏は「テーヌの『英文学史』と日本」で次のように書いている。
「テーヌの『英文学史』は、このやうに、明治二十年代にあつては、わが文学界ならびに英文学界に、間接直接に、深い影響を与へたのである。それにもかかは
らずわが学界からは一篇のテーヌ論も文学史方法論も現れなかつた」。
その理由として氏は、「理論に対する邦人の無関心と不得手も然る事ながら、それよりもむしろ、「テーヌは古い」などといふジャーナリスティックな風潮に、
無批判に押し流されて行つたのではないか」と書かれている。平岡昇氏の文にも次のようなものがある。氏の文は、この書物が、「ヨーロッパ文学への有力な最
新の入門書」であり「大きな啓蒙的役割」を果たしたにもかかわらず、「大まかな解しやすい法則、極端な単純化をめざす理論の性格から、彼の理論ほど早く普
及しまた早く時代に乗りこえられたものは少ない」(「テーヌと自然主義」)というものである。後者の場合はテーヌの「理論」「法則」が早々と「時代に乗り
こえられた」ということであるが、いずれにしろ「テーヌさえも、明治三十年以後は殆ど顧みられなかつたのではないか」(矢野「『文学界』と西洋文学」)
と、はやり廃りのなかで打ち捨てられていくことを嘆いている。
新思潮の流行や理解の粗密は、それは多分、ある意味では当初からの問題であり、逍遥ですら「テーンの文学史の如きは間々引抄せらるゝを見つれども其の論脈
によりて察すれば世人は彼の書をも咀嚼せざるに似たり」(「英文学史綱領を講述するにつきて」)と書き、上田敏も同様なことは先にも述べたが、昭和の初年
においても渡辺一夫氏が、西洋におけるこの批評家の高い業績が、「孫引きの、そのまた孫引き程度」でしか紹介されないことを、先に紹介した文、「幻想家
テーヌ」(一九三六年)の中で述べている。
しかし、「テーヌ論」とか「文学史方法論」とは異なるものの、学界の風潮とは別に、明治四十五年でも藤村は、中沢臨川の訳した『露西亜印(一)象記』を紹
介する中で、ブランデスの著書への印象を述べながら次のようにテーヌに触れている。
「斯書の原著者ブランデスが私淑したといふテーヌのことを思ふと、『ノーツ・オン・イングランド』として英訳されたものの有ることを想ひ起す。『根本に於
いて、一国の主要なるものは人である』とは、テーヌがあの英国印象記とも言ふべき書籍の中に述べた言葉だ。テーヌは斯の見地に堅く立脚して、それには芸術
家の眼を以て見、又科学者の眼を以て見ようと思ふと言つて居る。斯くして彼は英国人の中に種々なタイプを見出し、広い複雑な観察を極く簡素な言葉で言ひ表
した。ブランデスの『露国印象記』は全体に於てテーヌの遣り方によく似て居る。唯テーヌが事々物々仏蘭西を引合に出して居るところは、比較の様式を離れな
いやうな気がして煩しいが、ブランデスにはそれがない。一層鮮明で、一層進歩的な方法に拠つたもののやうに思はれる。それは兎に角、『露国印象記』の原著
者があの仏蘭西の批評家の跡を追うて、観察の根柢を『人間』に置いたことは争はれない」。
「主要なるものは人間である」とのテーヌの言葉は『ノーツ・オン・イングランド』の次
の文章である。(※なお『ノーツ・オン・イングランド』の訳題は、文中の「英国印象記」
のほかに「英国雑記」や「英国旅行記」「英国見聞録」などがある。島田謹二氏は『英国
雑記』としている。藤村も『英国旅行記』としているところもある。以後、「英国旅行記」
に統一する)
At bottom the essential thing in a country is man. Since my arrival I
have made a collection of types, and I class them with those which I
had collected last year. As the result of experience, the best method
in my eyes is always that of artists and of naturalists; (『Notes on
England』Chapter X.Typical English Men and Women)
ここでlast yearとは、テーヌの一八七一年の英国訪問のことと思うが、
『露国印象記』の原著者も、テーヌの後を追って「観察の根柢を『人間』に置いた」と書かれるこの「人間」ということ、「観察」ということは、すでに『英国
文学史』で「生きた人間」「生きた歴史」などとともに、著述の中心に置かれたものであることを思い出さなくてはならない。それらは日本の読者や作家のなか
には生きているのだ。(先に述べた旧文学界同人のミルトン観なども思い出しておこう。)
『英国旅行記』には次のような文もある。
Words upon paper are no substitutes for the sensation of the
eyes.(Chapter U. Sunday in London. The Streets and Parks)
「紙に書かれた言葉は眼で見た感覚には及ばない」という意味だろうが、テーヌが「観察」に徹したように、藤村のフランス滞在記もひたすら足で歩き、肌で感
じ、眼で見た感覚が中心を占めているといえるだろう。
藤村は、「テーヌが事々物々仏蘭西を引合に出して居るところは、比較の様式を離れないやうな気がして煩しい」とも書いている。藤村がテーヌの方法を批判す
ることはないが、さすがにこの時期には彼の繰り返す英仏対比の方法に煩わしさを感じたのだろう。あるいは英仏の比較に限定されてしまうことへの物足りなさ
を言っているのかもしれないが、もちろん、この「比較の様式」の煩わしさは、『英国文学史』以来のものである。面倒な批判がそれより以上出ないのは、藤村
の主だった関心が、それほどはなかったということか。私も何度か自分の拙い訳で読むうちに、この執拗な「比較」や、場合によっては悪趣味とさえ思えるほど
に続く人種的な「観察」に辟易することもあるのだが、今日で言うフィールドワークとしての「観察」は、この大陸の、相対した主要な民族の発展や性格の在り
様を、観念としてではなく、具体的に掘り起こすのに十分な意味はあったのだろう。藤村が後にパリ滞在中の紀行文に、「巴里にあるものを羅甸民族の教養とい
ふやうな開化した方面からのみ」見ることをせず、ゴシック建築の寺院からゴール人の野性を見ようとし、「ゴオルと言つた時代からの仏蘭西の野趣」を見よう
としたり、「ゴオルの気魄」を見ようとするのを思うとき、私はいつも、この民族の本源や歴史に向けられた藤村の「観察」の眼を思うのである。そしてこの点
だけでも藤村の行き届いた目を感じ取っていいのではないかと思ったりする。藤村はまた、テーヌの著書より十数年後の『露国印象記』が、「一層進歩的な方法
に拠つたもの」とも書いている。「その国に浮沈する人達の知識生活の批評は一ツとして吾儕のライフを反映する明徹な鏡面でないものは無い」と書いている
が、十九世紀ロシアの諸問題が、そのまま、急速に欧米化した近代日本の宿命に近かったことは、我々も多くの近代日本の知識人批評の中に体験している。この
ことは後述するブールジェでも同じようにいえるだろう。戦争とコンミューンを経た青年の内部に宿るペシミズムやデカダンスの追求は、テーヌの科学主義によ
る概論的な解剖から遠くに来ている。藤村は「進歩的な方法」と書いているが、それはブランデスにしろブールジェにしろ、近代の不安をよりいっそう、身近な
経験として内部に所有したということではないだろうか。藤村がブランデスのような批評家に批評して欲しいと思ったものも、「斯の吾儕の智識生活の状態」で
あり「吾儕のライフ」であった。
「ブランデスが私淑したといふテーヌ」についても、訳者の臨川が『露西亜印象記』巻頭の解説でブランデスの「回想記」をたどりながら記している。
「一八六六年にブランデスは海外漫遊を思い立つて先づ巴里を訪つた。滞在一年間ほどの間に彼は色々の新知識を齎して帰つた。その時彼は平生崇拝するテーヌ
にも逢ふことが能きた。後年彼がテーヌに関する論文を書いてコーペンハーゲン大学から哲学博士の学位を得たのも、其旅行中の賜であつた。彼がこの仏蘭西の
独創的批評家、新興文芸の鼓吹者から受けた影響は尋常一様ではない。『あらゆる仏国現代の著作者のうちで私の一番好きなのはテーヌである』、恁う彼は自白
してゐる。『テーヌは私にとつては、独逸哲学の抽象とペダントリー衒学の消毒剤であつた。丁抹―独逸流の教育で閉鎖されてゐた私の真才能の途を開けてくれ
たのは彼である』と。/一八六八年には彼は伯林を尋ねた。それから一年置いて一八七〇年から翌年にかけて再びストツクホルム、巴里、倫敦、羅馬と長い旅に
上つた。その間に彼は自分の崇拝するテーヌ、ルナン、ミルなどと親しく交際することが能きた。」
「丁抹―独逸流の教育で閉鎖されてゐた私の真才能を開けてくれた」とは、「抽象と衒学」を排してただ「人間」を観る、ということだろうか。「哲学は神学の
婢僕として、美学は道徳の手段として教えられた」と、古い保守主義に支えられた当時の「丁抹の教育界」を臨川は解説しているが、海外に触れた後の「パガニ
ズムに近いやうな彼の学説は、……殆んど国民の敵と見做される迄に至つた」とも書かれている。テーヌに触れた話はほかにもあるが、いわばテーヌは、後に出
るポール・ブールジェなども含めた次なる世代への、貴重な資産の橋渡しを担った一人であったということだろう。こうして『露西亜印象記』の本文は、露西亜
帝国の広大な範土から始まる。滔々たる大河はさながら「偉大な遅鈍」(中沢訳)という状態で流れる。「山なく、谷なく、森と沼と高地の大きな平原」、「北
海の寒風は障る物なく全範土を吹き通す」等々、「宏漠」「単調」さらには荒涼たる風土の特色から説く『露西亜印象記』は、北海の陰鬱なゲルマニアの原風土
を説き起こしたテーヌに似ている。『英国文学史』や『英国旅行記』と同じように、一つの民族が生い育つ大地への暗い感銘から始まっている。
唐突なのだが、ここで考えてみたいことがある。『桜の実の熟する時』の新稿が、フランス滞在中に始まり、帰国後を通して書かれることである。主人公の青年
が感じた「何といふ美しい知識が、何といふ豊富な観察が、何といふ驚くべき『生の批評』が」というテーヌへの回想は、小説の上では明治初年の青年の感想で
あるが、フランス体験を介して書かれたこの言葉は、作品の書かれた大正期の成熟した作家の回想なのだということである。この青春回顧の書は、フランス渡航
前に旧稿(『桜の実』)が起こされて、一部は「文章世界」に発表されているが、筑摩版全集にある旧稿を読むと、その構想・文体は、当初、『家』の方法その
ままに古風な写実の方法に徹している。いかにも古い下町の人間関係のなかに主人公は沈み込み、(それはちょうど、初期作品の「なりひさご」のように)、新
しい時代を生きる青年の香気は抑えられている。あたかもそれは、この主家に世話になり遠慮がちに生きた彼の青春そのままのように思える。そして中途から改
稿された作品の構想・文体の清新さ、主人公の寡黙な内面に中心をすえたその視座と方法は、フランス滞在が藤村に蘇生させたものを充分に感じさせる。そして
テーヌへの回想も、その視座と文体の中に、新たな言葉でよみがえったのではないか、とすら思える。
『露西亜印象記』の感想以降でも、フランス滞在中の紀行文に、この『ノーツ・オン・イングランド』の引用が見える。それはごく簡単なもので、「テエンが英
国旅行記の中には倫敦と巴里の公園を比較して、吾儕の公園はまるで室内も同じことだとしてあります。青々とした柔かい草地の展けたリュキサンブウルの一隅
へ出て見ると、……それを見ると、いかにも共同的な屋外生活が――テエンの言つたまるで室内も同じことのやうに――そこに営まれて居るかといふことを知り
ます。」(『戦争と巴里』戦争の空気に包まれたる巴里 十九)というような文である。このことはロンドンとパリの住宅を比較した後に続く次のような文を指
している。
The impression is the same when visiting the parks; the taste, the area
are quite different from what is the case among us. St. James’s Park is
a genuine piece of country, and of English country; huge old trees,
real meadows, a large pond peopled with ducks and waterfowl; cows and
sheep, in an enclosed space, feed on the grass, which is always fresh.
There are even sheep in the narrow green border that surrounds
Westminster Abbey; these people love the country in their hearts. It is
sufficient to read their literature from Chaucer to Shakespeare, from
Thomson to Wordsworth and Shelley, to find proofs of this. What a
contrast to the Tuileries, the Champs Elysée, the Luxembourg! As a
rule, the French garden, that of Louis ]W., is a room or gallery in the
open air, wherein to walk and converse in company; in the English
garden, such as they have invented and the propagated, one is better
alone; the eyes and the mind converse with natural things.……(The
Streets and Parks)
フランスの公園に比してイギリスの公園は、その自然さにおいてイギリスの田園そのものであり、人々の眼も心も、深く自然に注がれるのだということだが、藤
村は、このことを印象深く受け取ったのか、パリの公園に触れる『戦争と巴里』書中の「街上」十にも、『エトランゼエ』十九にもこのテーヌの言葉を引用して
いる。藤村はそこから、「屋外の生活を共に楽しむ」(『エトランゼエ』)共同享楽の姿勢や、「希臘、羅馬の昔から流れて来た」(「街上」)共同生活を重ん
じる文明を見ているのだが……。
『英国旅行記』が文学界時代にすでに読まれていたことは前章で述べたことだが、フランスへは彼はこの書を持っていったのだろうか。「曾て読んで見たテエヌ
が英国旅行記の中には」という文から、藤村はただその部分を思い出しているのであるが、『英国旅行記』を手にしながら、かつて読んだ『文学史』を思い起こ
すことはあったのだろうか。私はこの『旅行記』を読みながら、『英国文学史』のことを何度も思い出していた。特に、バイロン卿の項に続いて英国の「歴史と
現代生活」を総括した「The Past and the
Present」の項を思い出さずにいられない。そこに書かれる「現代英国」の感想は、そのまま、『旅行記』の記録といくつも重なり合うからである。サク
ソンの侵略、ノルマンの征服、ルネッサンス、宗教改革等と「過去」を改めてたどりながら「現代」に及び、いかなる力が現在の文明を作り上げ、未来の文明に
及ぶかと、英国旅行の経験や観察を取り入れながら述べているこの項は、いわば『英国文学史』の「結論」というべき部分で、「緒論」で提起されていたような
人類文化の原動力が「いかにして遂に政治・宗教・文学の偉大な所産を生み出すに至つたか」というテーマの一通りの結論であった。「現代英国」を紹介して、
この本が本来、文学史を通した思想史であり精神史であったことを改めて感じさせるが、厳粛な道徳的宗教的本能で自分を律し、政治的かつ実利的性格を形成し
てきたというこの国民が、現実政治において改革的であると同時に良き保守主義者であり、弁論と討論というコミュニケーションを機能させながら、「過去」を
破壊するのではなく改良する、「過去」を否認することなく未来に向かっていくという姿勢をもち続けているという何度も繰返される考え(二)方は、今では、
ごく常識的なように見えながら、理性の名で始まりながら破壊を繰り返す母国の悲痛を内包するように思われる。「現在とは過去を完成しつつあるものであり、
過去とは現在を述べるものに思われた」ともテーヌは書いている。「継続」にこだわるこのような感想は、特に、フランス滞在以降の藤村の文明批評の問題と重
なってくるだろう。
テーヌとの関係は、表向きはここで終わっている。我々はこれ以後、テーヌの名を(重要な意味で)見ることはないが、間接的な接点はいくつも推測できるよう
に思う。『藤村全集』別巻の「蔵書目録」にテーヌの次の本の名が見られる。
H. Taine: Les Origines de la France Contemporaine, Plon. Nourrit &
Co., 1912
(ちなみに前記Notes on England, Holt & Willams, 1872. の名も見える)
『近代フランスの起原』と訳される未完の大著を、藤村はどのような気持ちで読んだのだろうか。あるいは、どのように読もうとしたのだろ(三)うか。本文十
一巻、索引一巻の計十二巻というこの膨大な書を、私は読んではいない。私はわずかに岡田信吉氏の同題の訳本(十二巻の内、第一巻の「旧制時代」(二巻分)
を訳したもの。角川文庫・上下)を読んだに過ぎず、そこから、一口に「大革命を断罪した保守主義擁護の書」(平岡(四)昇氏)とも、「バレスの伝統主義や
モーラスの国家主義への影響となって現れる」(細田直(五)孝氏)と言われるその全貌をつかみとれるわけではないが、我々がそこから学ぶことは今でも多い
ように私は思う。何よりも我々は王室や大貴族や聖職者という特権階級の、無為、無能、愚昧、頽廃の、積み上げられた数多の記録を読むだろう。それは一八七
五年原著序文で著者が、「正確に描写」すること以外何の目的ももたないと宣言し、「博物学者」の眼で観察記述したと述べる通りのことだろうが、ここには、
この国の政治をまとめ、指導し、創造するものは何一つなく、ほとんどの人の眼が優雅な宮廷や社交に注がれ、無策に時を過すのである。一方では強権化した徴
税組織など、数々の既成の制度・組織のこの上ない徹底と残酷と不条理、解体し流民化する農民層や都市下層民の惨憺たる状況等々、やがて来る最後の崩壊を前
に、すでに潜在的に崩壊し、瓦解している絶対王朝の末期の症状が詳細に書かれている。そしてすべてのものが戯れのような巨大なジレッタンティズムと言える
上流階級のサロンの光景、(ルーソーの新しい思想すら、時の王侯のサロンに我勝ちに迎えられたこともテーヌの著は伝えている。時には思想はファッションと
して迎えられ意味を深めていくようである)、そしてまた、優雅なフランス語とその欠陥、経験的諸事実を排して抽象と純化に注がれる思考や精神の傾向とそれ
への批判、あの難解な、「理性」といわれるものへの批判、ルーソーの民約論や社会契約論への徹底的な否定、(あるいは逆にルーソーの「自然」が与えた驚く
べき覚醒)、飛び交う正義や理性、その名を借りた狂信と狂気、無秩序な扇動、野放図に解放された人間の蛮性、無力な理性と憎悪や怨恨の増幅等々、――そし
てそれらのなかにある、『英国文学史』でも経験したいくつかのなつかしい発想と論点――。『近代フランスの起原』は『英国文学史』の著者によって当然書か
れるべき書物であったのだろう。細かな問題は割愛して、次のような観点だけを指摘しておきたい。
一八七五年の同じ序文でテーヌは次のように書いている。
「われわれフランス人は、過去において決してわれわれの政治形式に満足したことはなかった。八十年の間に十三回、われわれはそれをつくり直すために破壊し
た。しかもつくり直してもむだ徒だった。われわれに適合している政治形式をわれわれはまだ見出していないのである。もし他の国民がわれわれよりも巧くやっ
たとすれば、即ち外国において、多くの政治的住居が堅固であり、無限に永続しているとすれば、それは、特別なやり方で建設されていたからである。即ち、そ
れは、素朴で充実した核を中心として、何度も修正されてはいるが、常にそのまま保存され、次々と拡大されて、摸索と補足によって住人の要求に適応せられた
ある古い中心的建築物を基礎としてつくり上げられているからである。その中のどれ一つとっても、新しい設計図に基づき、理性を唯一の尺度として、一気につ
くり上げたものではなかった。」(岡田信吉訳 以下同)
彼は言っている。その「形式」は「その国民の性格および過去によって決定せられるべきものである」。そして「もしわれわれがわれわれの形式を発見し得ると
すれば、それはわれわれ自身を研究することによってのみ得られる」のだと――。「過去」への否定の繰り返しを徒労とするような考え方から、この本の目指す
ところのおおよそは理解できるだろう。「古い中心的建築物を基礎として」とは、本文中、「伝統」とか「世襲的偏見」(ほかに「世襲的慣習」「慣習」という
訳語もあった)とかの訳語で表されるものである。「世襲的偏見」とは、誤解を招きやすい言葉ではあるが、それらは「生き、永続し、歴史によって徐々に形成
された人間」が自然に生み出すものであり、「長い経験の堆積を起原として……多くの摸索と試練の後に……自分たちの状態に唯一の適応した方法」なのだと
言っているように思う。そして突然の否定によってそれらの「偏見」が消滅してしまったならば、「数世紀の知性が人間に移し伝えた貴重な遺産を失った人間
は、たちまちにふたたび野蛮な状態に陥り、ふたたびその原始的な姿、すなわち、不安で、飢え、放浪し、追い廻される狼の姿になるであろう」と……。どこで
もテーヌは、このことだけを、今でいうよき保守主義の信条を、繰り返し繰り返し書いているような気がする。それは伝統ということであり、慣習ということで
あり、継続ということであり、それを無視し破壊する「理性」のみによる改革は必ず破綻するということである。それが「理性」といえるものだったのかどうか
はともかく、過去の性急な破壊・変革が、どんなにフランス人の心に多くの傷を残しているかということは容易に考えられることだろう。藤村もやがて同様の文
を、「過度な分析と解剖」の傾向に(「胸を開け」)、時には伝統を押し流す濁流を、ごく暗示的な「一つの譬話」に托して残すことになるだろうが(『巡
礼』)、テーヌのいう、その模索と補足と適応をフランスより巧くやっている国とは、『英国文学史』でも『英国旅行記』でもそうであるように、英国を指して
いるのだろう。伝統をふまえ、経験を積み上げていく英国社会は、(その実態はいかにあれ)、テーヌにとっては一つの願望であったかのように思(六)える。
『近代フランスの起原』は、(私が読んだ「旧制時代」に限ってのことだが)、こういう英国との比較が要所々々になされている。それはちょうど、『英国文学
史』『英国旅行記』が常にフランスとの対比でなされるのと反対である。我々は藤村の言うその「煩しい」比較が、結局、自国の政治や文化との段差を埋め合わ
すためであることを知るだろう。そして、『英国文学史』や『英国旅行記』で半ば謎であったいくつかの問題が、鏡の裏と表のように明瞭になることも知るだろ
う。問題から外れるが、その中から、『英国文学史』にも関連する一つの例を挙げておきたい。
「……自然と人生のあらゆる面を反映するに一番適当な動く鏡の一種たる小説……一連の英国小説家、デフォー、リチャードソン、フィールディング、スモレッ
ト、スターン、ゴールドスミスをはじめとして、バーネー嬢やオーステン嬢などをもあわせ読んだとき、私は十八世紀のイギリスを知ることになる。牧師、田舎
紳士、小作人、旅館主人、水夫、および上下あらゆる階級の人々のことがわかった。富と職業についての詳細を、人が何を儲けているか、何を費やすか、いかに
して旅行するか、何を飲食するかを知ることができる。詳細正確な一連の伝記を、多くの場面をもった社会全体の完全な一覧表を、あの消失した世界の歴史をつ
くりたいと私が思うとき自分の参考になる最も十分な資料の堆積を、手に入れることができる。……」(第二章「古典的精神」)
それに反して、それに対応する一連のフランスの小説家は、……さらに自国の古典的精神というものの先天的な欠陥は、……「そこには何物も欠けていない。た
だ人間がいないだけである」というような、この思想家の言葉は拡がっている。
「テーヌとの関係は表向きは終わっている」と私は書いたが、テーヌの名は、藤村の読書の範囲内からでもいくつも拾い出せる。藤村が紹介しているブールジェ
の『現代心理論集』にも、その名はいくらでも出てくるし、この書にはもともと、テーヌ論の一章もある。私も当然この章を読みたいと思っていたが、我国の訳
書には、テーヌの章は、私が読みたいと思っていたルナンの章とともに、割愛されている。それはどういう内容であったろうか。藤村はそれを読まなかったろ
(七)うか。同書「一八八五年のはしがき」では、この評論集は「今日の青年のペシミズムを培った二、三の原因に関する一連の覚書を含んでいる」と書いてい
る。それは、ブールジェ自身を含めた「青年」の精神世界に、前世代の作家の思想や夢想が、どのような感化を与えたのかということになるが、「例えば、ルナ
ン氏とゴンクール兄弟の場合には、憂愁の萌芽がディレッタンティズムに内包されているのを指摘した。スタンダール、ツルゲーネフ、アミエルの場合には、コ
スモポリタン的生活の生むいくつかの宿命的結果を示そうと努めた。ボードレールの詩とデュマの劇は、私にとっては、近代的恋愛のいくつかのニュアンスを分
析するためや、その恋愛が分析精神の重圧によって、頽廃したり無力になったりする点を指摘するためのきっかけとなった。ギュスターヴ・フロベール、ルコン
ト・ド・リール氏およびテーヌ氏は、私にとって、科学がさまざまな想像力や感性に及ぼした結果の二、三の見本を示すよすがとなった。――なおルナン氏、ゴ
ンクール兄弟、テーヌ氏、フロベールの場合には、デモクラシーと高度の教養との間のいくつかの葛藤の例を究めることができた。そうしたものこそ、依然とし
て現在の青年の頭上にも重くのしかかっている影響であることは誰でも認めるだろう」(傍点筆者。以下同)と、この書の問題点及びそのなかのテーヌ氏の課題
のいくつかが示されている。それはおぼろげではあるが、「科学がさまざまな想像力や感性に及ぼした結果」ということであり、「デモクラシーと高度の教養と
の間のいくつかの葛藤」ということであった。ここにはそのほか「ディレッタンティズム」の問題が、「コスモポリタン的生活」とその「宿命的結果」の問題
が、「分析精神の重圧と頽廃化・無力化」の問題が提示されているが、そのことは今は止めておこう。
この「はしがき」のほかにも、文中には折々にテーヌ氏にふれるところがあるが、そこでは「魂の育成者」の一人として「厳正で適切な教訓を垂れる人」
(「「シャルル・ボードレール」)の名が与えられていることもある。自分のテーヌ論は「論理的ながら諦観を抱いたものとなった」(「スタンダール」)と書
かれている部分もある。そこにはテーヌ氏の二つの側面、モラリストとしての一面と深い虚無を抱いている一面とが暗示されているかにみえる。ボードレール、
ルナン、フローベール、スタンダール共々、ブールジェは、「すべては虚無であるという味気ない哲学」の一つをテーヌ氏に見出している。
『現代心理論集』以外でも、テーヌの名をさぐってみると、テーヌの科学主義や、決定論的原理への訣別を告げたという『弟子』にしても、ブールジェは、青年
に「愛と意志」への回帰を訴えたあの切実な序文――、焦燥に満ち、ある意味では危機的な扇動の書でもある「或る青年に寄する書」のなかで、民族精神を背
負っている人の一人として、デュマやルコント・ド・リールと共に、テーヌの名に尊敬を欠かすことはない。バイロン論を評して、「バイロンに関する雄渾な一
文」という語をこの作品に残していることも、前述したとおりである(→第一章)。さらに『現代心理論集』一八九九年の「序文」では、従来依拠し批判もされ
た「教理をもたない分析者」「結論を下さない観察者」という態度を投げ捨てるように、バルザックやル・プレーやテーヌなどが「高唱した真実」、即ち、「社
会にとってのみならず個人にとっても、キリスト教が現在において健康と快癒との唯一必須な条件であることを認めざるをえなかった」と書いて(八)いる。そ
して、バルザックやル・プレーの文と並べて、「キリスト教を人間の魂に必要欠くべからざる大きな一対の翼」としたテーヌの言葉も次のように紹介している。
「いついかなる場所でも、一八〇〇年来、この翼が抜け落ちるか傷つけられるやいなや、公私の風俗が堕落した。イタリアではルネサンス期に、英国では王政復
古時代に、フランスでは国民公会および総裁政府時代に、人々は第一世紀におけるがごとく異教徒に成り変ったものである。同時に人々は再びアウグストゥスや
ティベリウスの時代の人間のように、つまり淫蕩になり冷酷になったのだ。彼らは他人も自分も酷使した。残忍なあるいは打算的な利己主義が勢威を揮った。蛮
行や淫蕩が瀰漫した。社会は危地となり悪所となった。……」
藤村も旅行記で、カトリシズムに心を寄せるフランスの作家のことを何度も書いている。
「鬱蒼とした老樹の蔭を頼む長途の旅人」(『戦争と巴里』春を待ちつゝ 十一)というような美しい譬えも、かりそめにつけられたものではないだろう。ブー
ルジェの回心がそうであったように、藤村はこの、ユイスマンなどの回心も、バレスやモーラスの政治主義と
表裏をなす自己回復への努力とみなしていたのだろう。この国にいて、何ともいえず古め
かしく、暗く静かな旧教の僧院に何度もたたずむ藤村に、この伝統の重さをかみ締める機
会は多かったことだろう。没薬や乳香が薫り、風琴や合唱の声が心に響く一方、十字架を
彫り刻んだ辻堂、数珠や蝋燭を売る老婆なども見、おびんずるさまに似た迷信を信じる我
国の民衆と同じに、淫祠のような澱み沈んだ耐え難い空気をも経験する。荘厳な伝統と暗
い中世そのものの継続や融合……。そのようにして人々は生きることはフランスも日本も
等しく同じことである。ブールジェの中にテーヌの言葉を読んだとして、時には藤村に、
その言葉がよみがえることはなかっただろうか。
ブールジェの『現代心理論集』については、瓜生清氏の「藤村・渡欧時代の内面経路」(『島崎藤村研究』第七号)にフローベールの書簡(一八七〇・一〇・三
〇 ジョルジュ・サンド宛)とともに論じられているが、このブールジェの著書に対して、『エトランゼエ』に次のような読後感があるのを我々も知っている。
「……私はブウルジェの『現代心理論集』を開けて見た。ユウゴオからフロオベエルにいたる時代の多くの仏蘭西人が自国に失望した心は、実に仏蘭西革命の悲
惨な結果に胚胎するといふ。より好き社会を実現しようとして企てられた旧い社会の破壊は、意外な影響を人の心に及ぼした。多くの仏蘭西人は自国に失望し
て、遠い国外へと憧憬の心を馳せた。独逸へ、英吉利へ、西班牙へ、亜米利加へ、印度へ。斯うして仏蘭西国境を越えて行く人の心が時代の文芸に反響せずには
居なかつた。これが仏蘭西のエキゾオチズムであつて、遠い支那に関する著述なぞが未だ曾て東洋を見たこともないやうな仏蘭西人によつて書かれたのもその時
代であるといふ。あの『現代心理論集』にはその辺の消息がいろくに伝へてある」(九十七)。
この文は後に、「トルストイの『モウパッサン論』を読む」(『飯倉だより』)でも、モーパッサンの「濃い厭世観」の背後にあるものとして引用され(九)る
が、ここで藤村が続けて書くことは、そういうフランス人の心が、今や「もう一度自国へ帰つて来た」ということである。「曾て失望した政治にも、教育にも、
旧いく宗教にも、新しい情熱を見つけた」と、すべてのなかにフランスの再生への努力を見、甦る意志を見るのである。それはともかく、藤村は、いつものよう
に慎重に言葉を選び、「自国への失望」は遠い「仏蘭西革命の悲惨な結果に胚胎」し、その結果、「遠い国外へと憧憬の心を馳せ」、その結果として「仏蘭西の
エキゾオチズム」が生まれたと書いている。私も長い間、この文脈の意味を疑ったことはなかったが、しかし『現代心理論集』をたどってみると、それだけでよ
かったのかどうか。「我々は大革命の後産である虚偽の泥濘のなかを這いまわっている」(一八七一・九・八 ジョルジュ・サンド宛)というようなフローベー
ルの言葉もあり、一八三〇年の幻滅の世代を、「現世紀のすべての病いは二つの原因から来ている。九三年と一八一四年を通った人々は心に二つの傷を負ってい
る」と書くミュッセの言葉もあるよ(一〇)うに、革命が生み落とした混乱や荒廃は、いつまでも人々の心に潰瘍のように残るのだと思われる。『現代心理論
集』でも、「一七八九年の誤謬以来哀れにもわが国が冒されている力の散逸が、その最後の解体の恐るべき結果を……」(「フロベール」補遺V「芸術理論」)
なる切実な文も見られるのだが、藤村の判断の根拠は、やはり「フロベール」論にある「ロマン主義について」の、次のような文にあったのではないか。
「ロマン派の「理想」の第一の性質は、より適切な言葉が見あたらないのでひとまず異国趣味と私が名づけておくものである。ヴィクトル・ユゴーは『※東方詩
集』を書き、アルフレッド・ド・ミュッセは『※スペイン・イタリア物語』を著わし、テオフィル・ゴーチエはそのアルベルテュスを、
※テニールスに描かれたようなフランドルの一古都に
移した。近代と現代の世界からの逃避とそれへの嫌悪感が、ひどく奇妙な考古学風の幻想によって明らかになる。この『※アルベルテュス』と同じ作者が『※青
年フランス』という題で集めた嘲弄的な小説集は、この遠国の背景にたいする偏愛を非常に精密に描いている。そして、この語り手の巧妙な皮肉はその肖像の輪
郭を一層よく際立たせている。というのは、事実、今世紀に入るやいなや、あるヨーロッパ的擾乱のためにフランス人は国境を越えて、広大な世界のさまざまな
光景を通覧することを余儀なくされたからである。大革命と帝政時代の戦乱は、本来倹約家でも出不精でもあるわが国民をやたらに旅行させたものだ。一八二〇
年代の好奇心の強い一青年がサロンで会ったり、談話を聞いたりした壮年者たちのうちには、かつて戦争に出て、オーストリアを、ドイツを、ロシアを、スペイ
ンを、時にはエジプトをも見た者が大勢いた。また、なかには英国で、あるいはライン河畔で、中世の豪族の壊れおちた城址のほとりで、たとえば夏の夕べのコ
ブレンツのように、菩提樹の香りの匂う町々で、亡命の長い年月を送った者も(一一)いた。多くの人々は諸国語を学ばなければならなかった。数人の者はいく
つかの文学を発見した。彼らは新しさのもつ魅力のおかげで、われわれの伝統的想像とは非常に違った奇怪なゲルマン的想像をひとしお熱烈に嘆賞した。この雑
多で無限に変化に富んだ経験から、やがてわれわれの篤学で複雑な十九世紀に特有の批評的精神が生れることになる。つまり、一つの真理が、まだ朦朧として覆
いをかぶったままだが、すでにそれと認められるほどに現れてきた。……」(傍点筆者。以下同)
おそらく、「エキゾオチズム」と言われるもののすべてを、自国への失望に結びつけることはできないにちがいない。この文は、それに続けて、フローベールへ
の末期ロマン主義の感化や、現実との凄惨なほどの葛藤を述べながらも、「大革命及び帝政時代の戦乱後」の、フランスの青年たちに芽生えた「人生に関するき
わめて恣意的でしかも熱狂的な、とりわけ崇高な、特殊な夢想」を、「遠い世の習俗や遠い国々の魂」への憧憬を、「熾烈な感覚への限りない欲求」や「偉大な
ものへの郷愁」という感情の誕生を物語っている。国境を押し流して世界化していったこの時期の、そのような精神や感情の現象は、それまであった一つの感性
や一つの社会の終末を告げて、かつてのフランスの、「手堅い分析や小奇麗な弱々しいサロン文学や古典時代の端正な創意といったものは、この英雄的な時代の
実在のドラマや真の悲劇や血生臭い小説などの思い出が火のように燃えている頭を、もう満足させることができなくなっていた」とも書かれたりする。白馬にま
たがって大陸を疾駆したナポレオンやネー将軍の英姿すら彼らの願望をかき立てる――。ナポレオンやネー将軍にあこがれるファブリスのような青年は、ミラノ
に居るだけではなかったのだろう。そして『赤と黒』の青年の野望も同じである。少なくとも大革命以降のフランスは、その諸々の紛糾や悲惨にかかわらず、火
のように燃えた感情の創造にかかわって、近代の社会原理や人間心理の形成を推し進め、個々人の願望や野心、栄光や成功への感覚を限りなく育ててきたといえ
るのだろう。それはおそらくフランスだけの問題ではなく、全欧州をかけめぐった夢想や欲求にちがいない。大革命の影響については、テーヌもこういう書き方
をしている。「孤立していた国家、フランス、イギリス、イタリア、ドイツは、第一次フランス革命と帝国の戦争の押し上げを通して、お互いに近づき、お互い
をよく知るようになった。それは以前にアレクサンダーの征服やローマの支配によってギリシャ、シリア、エジプト、ガリアと、民族が相互に分割されたり融合
されたことと同じであった。その結果、それ以来、近隣の諸文明との衝突で発展した各文明は、国家的な限界を超えて進む事ができ、諸々の他の理念を混合する
事で自らの理念を拡大する事ができる」(Book 4 Modern Life Chapter 1 Ideas and
Production)。文明拡大の概念などが、今ここでふさわしいかどうかは措いてみても、文明の衝突や融合が、閉鎖された障壁を越えた、新たな発展の
要素であったことは、テーヌに限らず、誰しもが認めることであろう。
『現代心理論集』を読み進んで、スタンダールやツルゲネフの汎ヨーロッパ的ともいえる精神の快活さや寛濶さ、ナポレオンの兵士として大陸をかけめぐったス
タンダールや、「(常に)大きく目を見開いている」旅人であったツルゲネフ、このような人に及ぶ論を読むだけでもそのように感じられる。青年の「自国に失
望する心」を思うなら、私などはむしろ、冷静聡明な分析・観察の対象であったこの書物よりも、『弟子』の「或る青年に寄する書」の、普仏戦争とコンミュー
ン後の屈辱や失望、焦燥に、ブールジェの深刻を読み取るだろう。「近代及び現代の世界からの逃避とそれへの嫌悪感」とは、「頑固なロマン派」たる高踏派の
詩人を物語るには、この上なくふさわしい形容でもあるだろう。『東方詩集』『スペイン・イタリア物語』『アルベルテュス』などと、ブールジェの書物と共
に、ユゴー、ミュッセ、ゴーチェの名を呟いていると、フランス十九世紀文学が花開いた最も自由な時期がここにあるのだと私などは想像する。その上、近代や
現代からの逃避とそれへの嫌悪とは、いつの時代にでも、すぐれた詩精神が遭遇して止まない真実でもあるだ(一二)ろう。
ブールジェとの関連は『エトランゼエ』の次のような文にもある。詩人ペギイの戦死に触れながら、藤村は何度も書いてきたフローベールの書簡(前出)を思い
出さずにいられない。なぜなら、目の前を通り過ぎる人々の姿を眺めながら、「曾てそこを通り過ぎた『時』の歩みを」思わずにはいられないからである。
「あの世紀末の頽廃した空気、文明と進歩とを欲して遂に意の如くならざる人の暗い心、さういふ世紀末葉の濃い深い霧が曾て通り過ぎた後の仏蘭西だといふ感
じを抱かずにはゐられなかつたからである。まつたく、ある人の言つたやうに、ペテログラアドやモスコオの方に起つた虚無思想、独逸の方にあつた厭世哲学、
それらのものと基調を同じくする寂寞感が一時この巴里の都の空を閉じ籠めたことを想像せずにはゐられなかつたからである」(「百一」)。
この「ある人の……」とは、「ボードレール」論の中で、ボードレールの人生嫌悪やアンニュイに触れながら書くブールジェの文である。このこともすでに知ら
れていることだろうが、ブールジェは、全ヨーロッパにわたって現れているこういう徴候に触れながら次のように書いている。
「この物足りない不満な世界を前にして、普遍的な嘔吐感が、スラヴ人やゲルマン人やラテン人の胸をむかつかせている。それは、スラヴ人にあってはニヒリズ
ムとなって現れ、ゲルマン人にあってはペシミズムとなって現れ、われわれ自身にあっては、孤独で奇怪な神経症となって現れている。セントペテルブルグの謀
反人たちの殺伐たる狂熱、ショーペンハウアーの著作、コミューンの凶暴な動乱、自然主義小説家の執拗な厭人観――私はわざと最も関連性のない例を選んでみ
た――などは、日ごとに西洋文明をますます暗くしてゆく、人生否定の同じ精神を告げてはいないだろうか」。
巴里の一角にたたずんで、通り過ぎた破壊の日々を思い浮かべる事は、今でも我々をペシミストにする。
青年の魂に巣食ったペシミズムやデカダンスを追求した、『現代心理論集』というこのただならぬ本は、いくつかの藤村的課題ともいえる問題を突きつけてく
る。「あの世紀末の頽廃した空気、文明と進歩とを欲して遂に意の如くならざる人の暗い心」というような深刻な問題も、ここを一貫して流れている。無力感と
倦怠感に包まれたような病めるフランスの認識は、「萎靡した無能力」とか「精神の萎靡」とか、「内的原動力の漸進的低下」「感動の涸渇」「意志の病い」等
々の訳語を伴って重苦しく流れている。ユイスマンやコンスタンの作品を紹介しながら、彼は、「いづこに於いても等しく生きることの底ひなき倦怠」があり、
「あらゆる努力の空しさの沈鬱な悟り」とも書くのである。そして、それに伴うように、藤村が一度ならず取り上げるこの国のディレッタティスムの問題も、同
じように、この書物の底を、角度を変え、言葉を変え、ニュアンスを変えて流れている。
藤村はこんな言葉を書き付けている。
「それにしても現代生活の倦怠といふものを奈何御考へでせう。又仏蘭西のあらゆる社会に表れているやうな大きなディレッタンチズムを奈何御覧でせう」
(『戦争と巴里』「戦争の空気に包まれたる巴里」八 大正三・十・十七)
彼はまたバレスやモオラスについて触れる中で次のように書いている。
「私は今日の仏蘭西の学者、乃至は文学者の多くが政治を説く煩はしさに堪へません。そのディレッタンチズムには往々辟易します。ある茶の会へでも呼ばれて
行つて、そこに一篇の戯曲を草すれば政治も談ずるといふやうな紳士を見うけることは、巴里の町を歩いて銅像を見つけるほど造作も無いことです。左様いふ中
にあつて、モオリス・バレスやシャルル・モオラスのことを想ふと、さすがに趣を異にして居るやうです」(『同』―「ある友に」二 大正・四・二・二十五)
藤村の文から判断すると、「現代生活の倦怠」と「ディレッタンチズム」の由ってくる理由は、無関係ではなく同根のように思われるが、帰国後の談話「フラン
ス人のディレッタンチスム」(「早稲田文学」大正七・一月)では、フランスにあって我々に欠けている生活形式に「社交界」がある、そこには礼儀もあり、理
解もあり、同時に安易な、自由な、温和な気分もあると書いているが、続けて次のようにも言っている。
「特にフランス人に就いてだけ言つて見ても、社交場裡(必ずしも舞踏とか宴会とかいふ際だつた会合でなくても、一朝、一夕のお茶の会でもいゝ)の彼らは、
われく程度の本国人をでも外国人をでも、快く受けて相応に趣味上なり文学上なりの談話を交換する能力を持つてゐる。これは極端に賛美して言ふならば、それ
ほどに一般の文化が進歩してゐるのだと言へよう。……/……あれがフランス人の誇である古いラテンの文明のお蔭といふものであらうが、社交上に現れた彼等
の一特性はディレッタンティスムといふ事である。/日本の言葉に翻訳すると、彼等は誰でも大抵所謂「趣味の人」なのである。「物好き」なのである。だから
世間普通の彼等と話してみても、政治上の事も解る、美術上の事も解る、文学上の巨細は解らなくても片端位は解る。……「ディレッタンティスム」といふ言葉
を繰返して用ゐるならば、彼等には「色の濃いディレッタンティスム」があるのである。彼等の日常生活の大方がそこから来てゐるやうに感ぜられる。……そし
て、この事が彼等の生活享楽と自然の連絡を保つてゐるのは勿論である」。
最後の談話記録は、それまでの徹底的な否定に多少の修正が施されているが、「趣味の人」か「物好き」かは問わず、(「政治を説く煩はしさ」がどのような
「煩はしさ」であったのかは別に)、我々にはないラテン民族の生活享楽の特性として、彼等をとらえようとしていることもたしかである。それは、この国の人
の根にある自由の感覚なのではないかと思いながらも、それにしても、フランス滞在中のこのような藤村の苛立ちは、「ルナン風のディレッタンティスム」から
出発したというバ(一三)レスや、ブールジェの文に表れてくるいくつかのこの言葉と、無関係であったのかどうか。
ブールジェがいうディレッタンティズムは、多岐にわたっているが、その中のフローベル論中の一例を挙げてみよう。
「情熱は人間を駆り立てて自らの存在を完全に発展させることを不可能にしてしまうような不思議で危険な過激行為に向わせる。また時には、それはわれわれの
心のなかで無意識が行うひそかな働きを妨げ、感性をまるでその源から涸渇させてしまう執拗な分析の習慣である場合もある。――……まだ類別されていない病
気が恐ろしい勢いで蔓延する。観点の豊富さ、この知性の富が、意志の崩壊なのであるというのは、それはあまりに理解の広い人々のディレッタンティズムと萎
靡した無能力とを生み出すからだ」
ここには「情熱」が駆り立てる二つの極端な行為がある。前者は過激な熱狂を想像してよいのだろうか。そして後者は、我々の「感性をまるでその源から涸渇さ
せてしまう執拗な分析の習慣」が、「あまりに理解の広い人々のディレッタンティズムと萎靡した無能力」を生み出すとしている。
あるいはほかに、前記の「一八八五年のはしがき」の中の一文も付け加えてみよう。それは、自分はこの書によって、「ルナン氏、ゴンクール兄弟、テーヌ氏、
フローベルの場合には、デモクラシーと高度の教養との間のいくつかの葛藤の例を究めることができた」というような文である。そして、「そうしたものこそ、
依然として現在の青年の頭上にも重くのしかかっている影響であることを誰でも認めるだろう」とブールジェは続けて、「旅行が容易になったためにコスモポリ
タンが増えているように、批評的理解の仕方の濫用によってかつてないほど、われわれの周囲にディレッタントが増えている。かつてないほど、パリの生活は青
年たちにとってその感情的経験を複雑にさせ、かつてないほど、デモクラシーと科学とは近代社会に君臨している。そして近代社会はその精神生活の源泉を汲み
涸らしながらそれを再び培うべき手段を今日まで見出さないでいる……」。
「あまりに理解の広い人々のディレッタンティズム」と「批評的理解の仕方の濫用によって」増加してくる「ディレッタント」と、「感性をまるでその源から涸
渇させてしまう執拗な分析の習慣」と「精神生活の源泉を汲み涸らしながら」進んでいく「近代社会」と……。
これらの言葉を理解することは難しい。その内容もさることながら、実直な東洋の異邦人が辟易した「ディレッタンチスム」は、この国の作家にとっては、自分
たちの感性や精神生活、時代の閉塞を内部から照らし出す言葉である。いわばブールジェには「内なる問題」であって、決して第三者的な他者への批判ではない
からである。
ブールジェが書いていたように、普通にはこうも言えるだろう。「温和な中庸を得た文明」が生み出す「多くの巧緻な理屈屋」の集まり……。その方がどんなに
か気楽なことか。それにしても「無意識が行うひそかな働き」が妨げられることも、中毒に似た「執拗な分析の習慣」も、我々はもう、健康な子供時代のよう
な、豊かな感性の自然によって行動することはないことを指すだろう。「デモクラシーと科学」によって、思想は、我々の批評的理解の領域に見境なく濫入し
て、いくらでも人々のなかに根を下ろすことができるだろう。そしてまた、それはたちどころに消え去ってもいくのだろう。文明が開化すればするほど、「知」
は遊戯化し、社交上の言葉にもなるだろう。諧謔を生み快楽に似た懐疑精神も生むだろう。「観点の豊富さ」は、あまりに豊富すぎる理解(多すぎる知識という
べきか)のために、寛容な許容を生み出したり、いかなる行為にも合理性を見出したりしながら、人間社会を単純な一元化を不可能とする社会へと、追い詰めて
いくことになるだろう。そして我々はもう、粗野ではあるが健康に行為した自然な子供の時代から遠くに来ていることになるだろう。その上、ルナンもテーヌも
フローベールも、この十九世紀の賢人たちは、その「高度の教養」によって、当時のデモクラシーというものに含まれる病根や、民衆の「平等」という普遍的価
値への不信を隠す事もなかった。おそらく「普通選挙といへば、最も言語道断な最も不公平な虐政」と書き、「数の力こそ暴力の尤なるもの」(『弟子』「或る
青年に寄する書」)と書くブールジェもその一人だったのにちがいない。このようなデモクラシー観に藤村はどう反応するのだろう。ミシュレーの『民衆論』を
たびたび引用し感動する藤村(一四)には、(あるいは、プーシキンが当時のバイロン熱から脱却していったのは、「民衆」の発見にあったのだとするドストエ
フスキーの日記に心惹かれるような藤村には(「ドストイエフスキイのこと」))、おそらく、知識人の高雅な貴族主義や、見事な分析の華麗な氾濫には、相容
れない別種の世界を感じるのではないだろうか。日本の自然主義作家ほど、知的階層などというところから遠いものはない。
ところで、『現代心理論集』というこの本でブールジェが果たした、「精神の萎靡」や「内的原動力の漸進的な低下」、疲弊した文明の所産である「意志の病」
というようなフランス社会の病理の観察は、夙に語られるように、藤村という人の内的な問題とも見事に符合していた、とはいえないだろうか。私は、フロベー
ル論中で、愛する妹の死を伝えるフローベルの手紙の、「私の眼は大理石のように乾いているのです。……私は墓石のように乾ききっていながら、恐ろしくいら
だっていたのです」という「憂鬱な告白」を読んだ(一五)とき、火葬場や墓地で妻子の骨や焼け残った脳髄を見ながら、涙一滴流せずに見つめる自身を、「憐
むべき観察者」「ハート真心の何物をも持たぬ」観察者と断じざるを得なかった「日光」や『海へ』の(一六)作者、あるいは、その発端に「倦怠と懶惰」や
「本能的な生の衝動」の衰えを書く『新生』の作者を思わずにいられない。ブールジェがツルゲネフ論などで書く「観察家」のデカダンスも、我々は思い起こす
ことになるだろう。そこでは、分析精神の過剰とそれがもたらす感動の涸渇のこと、また、アミエル論中で書かれるような、「自分の生命力にたいする実感が減
退している人間」のこと、さらには「最も愛する能力のない人間」のこと等々、「物の精髄」(『海へ』)にふれるために、観察という行為にすべてをかけた作
家が、やがて生命の実感との背離に陥り、無為と倦怠に疲弊し衰弱を感じるその道筋が、我がことのように感じられたのではないかと思う。そのような可能性
を、この本は我々に想像させるものをもっている。もう一歩ほど進めて言えば、ニヒリズムの克服ということは、この何年かの、藤村自身の課題でもあったと思
われるからである。もっともそのような内なる問題と、「物の精髄」から目をそむけることなく進むことは、別の問題である。彼はその後も「レアリテエ」を求
めて「一写実家として進んで行く」ことをためらうわけではないが(「昨日、一昨日」)、この書物にしても、何の治療法も示すことなく解剖に徹するその姿勢
に、「エゴイズムや傍若無人を正当化する……道義的責任」を問われたにし(一七)ても、一つの時代の精神世界を描こうとするその姿勢は、本質において極め
て健全であることは書き添えておかねばならない。それは、あのアミエル論の補遺に《ある対照》としてフランソワ・ギゾーを、《ある快癒》としてマクシム・
デュ・カンを述べているからではなく、この国の選ばれた人々の根にある(あるいは我々自身の根にある)デカダンスやニヒリズムの、神経線維の先端にまで及
ぶほどの、時には全く理解し得ぬほどの精密な、(ティボーデは「鈍重な文体」と言っているけれ(一八)ども)、臆することない分析精神を健全と思うからで
はあるが、わずかではあるが時には、その底に人の「矛盾に耐え忍ぶ力」を見出し、「不幸な、しかも高貴な作家」の「意志の作品」を、暗黒の深淵に立ち向か
う「人間の雄々しきエネルギー」を見出す力を、我々も感ずるからである。そして何よりも、「誠実な懐疑」のなかに「信仰の根元」が潜むのを見、「人間の魂
という、測り知れなくて悩ましい、慕わしくて名状できない現実にたいする」深い信仰や思慕の告白、「精神生活の諸活動の無限の重要性を信じていると強く主
張する」そのこと――これらはやはり、人間の真実に向けた何よりも誠実な戦いであるだろうからである。「近代の大作家たちのいわばかげに生きた弟子の世代
が、はなはだしく有益とも有害ともなるより偉大な前世紀の影響によって、いかに自我を覚醒させ、豊かにしていったかを、この自伝的記録は如実に物語ってい
る」――平岡昇氏は、その解説に、このように語っている。
フランスからの通信などで、藤村が普仏戦争当時のフローベールの手紙を紹介するのは、初めは、『仏蘭西だより』(後の『平和の巴里』)の「再び巴里の旅窓
にて 一」(掲載日
大正二・一一・七)においてである。その後、フローベールの手紙は、『戦争と巴里』(「戦争の空気に包まれたる巴里」七 大正三・一〇・一六 掲載日
同・一一・二六)、『エトランゼエ』(百一)とくりかえされているが、藤村はパリの「眼に見えない過去の背景」(「再び巴里の旅窓にて 二」掲載日・大正
二・一一・一七)を、それらを通しながら見ようとしている。それでも当初、『平和の巴里』のころでは、まだ、オペラ座で観たグノオのオペラが、「あまりに
熟し過ぎたあまりに格式の尊ばれ過ぎた」……「生気と力」の感じられないものだったと述べながら(「露西亜舞踏劇とダヌンチオの『ピサネル』一 同・大正
二・九・七」)、中世の残る「古めかしい物寂びた」町や、パリ人のつましい暮し方に共感しながら、片方では、新旧のありあまるほどの不調和・矛盾を抱擁し
ながら静かに成熟する街を(「再び巴里の旅窓にて」二、三、四)、彼はまだ、この空の下に初めての身を置く者の、物柔らかな眼で眺めているように見える。
パリを思い描くこのような気持は、生涯の中でも変わることはなかったと思うが、その後、この「眼に見えない過去の背景」は、『戦争と巴里』を通して、「爛
熟し沈滞し倦怠した空気」「現代生活の倦怠」(「戦争の空気に包まれたる巴里」八 大正三・一〇・一七 掲載日
同・一一・二七)、「人心の衰弱」「行き詰つたもの」(「春を待ちつゝ」十一 大正四・三・三〇 掲載日
同・五・二一)、というような、抜き差しならないものになってくるように思える。『現代心理論集』を開くのも、『エトランゼエ』(九十七)や藤村年譜によ
れば、ちょうどこの頃の、リモージュからパリに戻った後の春を待つ頃、大正三年十二月以降、翌年の二、三月になるだろう。そして「あの世紀末の頽廃した空
気、文明と進歩とを欲して遂に意の如くならざる人の暗い心、さういふ世紀末葉の濃い深い霧が曾て通り過ぎた後の仏蘭西」(『エトランゼエ』百一)に、バレ
スやモーラスなどの行動主義、「懐疑と無気力に打ち勝つ……確信の力」(「同」)を見、その「めざましい精神上の戦ひ」(「ある友に」一 大正三・一二・
二二 掲載日
大正四・二・二四)へ、今まで「誰からも聞いたことの無い声」であり「仏蘭西を憂ひ、慨き、励まさうとして」(「ある友に」二 大正三・一二・二四 掲載
日
大正四・二・二五)いるあの世界へ、深く傾斜していくことになるのだろう。藤村の文にバレスの名がはじめて挙がるのは『戦争と巴里』の「戦争の空気に包ま
れたる巴里 (一九)八」、バレスとモーラスの名は「同 (二〇)十七」である。大正三年の十月十七日(掲載日 十一月二十七日)、十一月五日(掲載日
十二月二十七日)の記事で、前者は、「大きなディレッタンチズム」を「可成恐いものだ」と思ったときであり、後者は貧民救助の事業の賛助員にその名を見つ
けるときである。そして「ある友に」(大正三・一二・二二〜一二・二八 掲載日
大正四・二・二四〜二・二七)の頃には、二人の文学者への関心は絶頂に達しているといえるだろう。石川三四郎の「巴里で藤村と語る」では、石川と藤村がパ
リで二度ほど会ったときに、いずれのときも藤村は、モーラスを話題にあげたと書かれているが、これもちょうどその頃である。藤村が石川に最初に会うのは、
石川の年譜によれば、ドイツ軍のブリュッセル占領後、石川が「白耳義から巴里に到着した時」、一九一五年(大正四年)の春ごろ、石川の右の回想では二月初
めとなっているが、いずれにしても、容易ならぬ戦時の空気を肌身に感じながら、彼は、心を満たしてくれるものを、「モーラスの政事論の中に見つける」ので
ある。
フローベールの経験した普仏戦争とコンミューン、『近代フランスの起原』を書くに至るテーヌの絶望や虚無、その頃青年であったブールジェ、その後に続くバ
レス、モーラス、ペギー、いくつもの世代を藤村も我々もたどるのだが、本来ならここで「モーラスの政事論」をも考えるべきなのだろう。しかしこの問題も私
にはむずかしい。藤村蔵書にはフランスで読んだバレスやモオラス、ペギーの原書やラクション・フランセーズが残されているが、バレスの何が、モオラスのど
ういう言葉が、藤村の心を動かしたのかは、彼の著作を通してほとんどこれを私は知らない。談話記録ではあるが、「モーリス・バレスが拉典民族の為に、若い
仏蘭西の為に、筆を執つて仏蘭西国民を鼓舞しつゝある彼の美しい文章」(「仏蘭西の新聞紙」)とあったにしても、彼等の位置を我々は、百科事典や文学史の
概観的な知識でぼんやりと知っているにすぎない。一つだけ彼は、新聞に連載されているというバレスの『悲観主義の死』(『戦争と巴里』の「河上、河田二君
の帰朝を送る 二」 大正四・五・三〇 掲載日大正四・七・二五)を挙げているが、それにしてもかつてそれらが、藤村研究の課題としてどう検証されたか
は、寡聞にして私は知らない。我々は、バレスやモーラスについて、何一つ知らないとしか言えないのであり、あるいはバレスとモオラスがどう違うのかも言え
ないでいる。そして私は、かつて宗左近氏の、「モオリス・バレスとシャルル・ペギイの政治参加に感歎はしても、しかし、かれらの愛国思想がどんな内容をも
ち、どんな方向にフランスを導いてゆこうとするのか、その理念の現実と未来に関する省察は、少しもこれを行おうとしない」(『藤村全集』月報8「藤村のフ
ランス」)という文を読んで以来、そのことを気にしながら、何一つこの人たちを読む機会もなく、今日まで来ている。無論私は、宗氏が『炎える母』の作者で
あることを知っている。愚昧な愛国思想がどこに国家を導いたかについて、宗氏の戦中体験を忘れた事もない。だからここには、ファナティックな全体主義へ
の、宗氏の嫌悪や警戒がひそんでいると思うのだが、しかしそのことと、藤村の心を動かした「理念」の「省察」とは別のことになるだろう。確かにそれは言い
得ていることであった。その名を語る時の強い昂ぶりの割には、その実質は我々の目には希薄であった。藤村が使った「ディレッタンティズム」という言葉自
体、その言葉の使われたタイミングを考えれば、バレスやモオラスにかかわるのではないかと思うのだが、国家や文明の無為や危機、あるいはよどんだ倦怠と無
気力を感じたときに、どんな言葉が美しく思われ、どんな言葉が人々を鼓舞していたのか、あるいはそれらが何を否定し、何を攻撃しようとしたのか、我々もそ
れらを、自らの眼で検証してみる時期に来ているのではないだろうか。唐突な感想だが、それはちょうど、あの『弟子』という小説で最も私の心に残るのは、自
殺したシャルロットの復讐を果たす兄であることに似ている。主人公ロベール・グレルーが嫉妬し反感をもつこの「男らしい悠然たる青年」、「顔の全体に打ち
勝ちがたい意志の力が」溢れているどこか尊大なこの青年、出身や血統の威が自然と備わり、おそらくは守るべき名誉のためには、ためらうことなく命を賭ける
青年、腐蝕した科学の時代への反「現代」ともいえる青年……。その上、(ニヒリズムの克服という言葉を前に述べたが)、バレスやモオラスの影響は、藤村の
民族意識や国家の伝統・保守の心を刺激するばかりではなかったのだろう。後々の柳沢健の回想にあるような、「氏は詩人なりポレミストとしてこの人の(註・
モーラスの)思想や行動に同感されたものらしいが、それでも、小説『新生』を書くことになったのは、モーラスの影響であることを、氏はぼくに語られた」
(「島崎藤村のこと」)というような文を読むと、藤村の打ち沈んだ心を再生へと鼓舞する力が、そのなかにはあったのだろう。『戦争と巴里』で藤村は、ウロ
ンスキーの出発を例にとりながら、嬉々として戦場に赴くソルボンヌの学生のことを思いながら、「死の中から持来す回生の力」という強く印象に残る言葉を残
している。この言葉の美しい粧いにかかわらず、いや、その言葉の美しい粧いそのものにこそ、その底に消えることない濃い虚無があるのではないかと思うのだ
が、いずれにしても我々は、バレスやモオラスを自由に読める日を俟たねばならない。
「師といふものは、それによつて人が築きあげられるところの作用であると等しく、それに反抗して人が自分を築きあげるところの影響なのだ」と、「一八五〇
年の世代」でティボーデが述べている。「二人の先導者、テーヌとルナン」の死の後に、この「先導者」が後の世代に果した役割や、後の世代にどう評されてい
るのかは、私などにも興味あることなのだが、やはりティボーデが、「一八八五年の世代」の文で次のように述べて(二一)いる。
「ルナンとテーヌが発表し、受け容れさせた諸価値は、理性と科学との刻印を押されてゐる。ところで、たとへこれらの価値が絶対的に不安定なものでないとし
ても、(といふのは、それらの認められる時期が必ず戻つてくるものだから)、それらの価値は相対的には不安定なものといへる。なぜなら、それらは人類の永
遠の対話の中に自分の席を占めるものだからである。その対話の中では懐疑主義と非合理なものと直観的なものが理性に答へ、宗教と哲学、この内面的経験が、
外面的経験の大系である科学に答へてゐるのだ。普通、どの世代も、全体的にみれば、この対話を構成する声々の一つを多少とも代表してゐることになる」。
(傍点筆者)
そして、「父親たちと子供たちとの間で交はされた……この対話の歴史」と。
要は我々は、「相対的には不安定」であるテーヌやルナンの過ぎ去った「諸価値」は、「永遠の対話」の中にあるものだと、肯定的に考えてよいのだろう。ティ
ボーデの『フランス文学史』を読むと、私の予想などははるかに越えて、テーヌは(あるいはルナンは)、フランス文学の思想の流れに重要な位置を占めてい
る。テーヌと共に、ティボーデの文学史が今、どう評価されるのか、それは私には分らないが、日本にいて、日本の概観的な論を読みながら私たちがいつも、
テーヌの時代は終ったという評価に見慣れていたこととはまったく別に、その出現が「一つの文学的事件」であったとするブールジェの『弟子』にしても、ティ
ボーデの言う「永遠の対話」の中に位置するだろう。ギイ・ド・ラ・ブロッス通りのアパルトに、隣人たちの好奇の目にさらされながらひっそりと住む老哲学者
と、彼を唯一の師とする青年の不幸な話は、一つの思想の終末を予言するように見えながら、それは、テーヌの時代が終ったという証明に簡単に導かれるような
ものではないのであろう。一つの思想から一つの思想へという推移は、それは「各世代の必然的にして正常な営み」であるにしても、「時代の推移はおそく、そ
れは反発や筆論や交代によるよりも、連続性をもつて進行する」ものであり、また、過去の(テーヌやルナンの)「偉大な新発見」は、「その結果は必ずしも永
続的なものとは見えないまでも、思想および方法においてはまさに永続的なものを有する」ことは、ティボーデの時代に限ることなく、きっと正しい答えである
だろう。そして、『弟子』について言えば、「『弟子』がテーヌの面前に疑問符を持ち出しても、『レタープ宿駅』は十三年後、テーヌに同意符を呈するだら
う」とも書かれて(二二)いる。『宿駅』とはどういう作か、また、「同意符」はどういう符号か、それは私には未知の分野に属しているが、思想がいつも「永
遠の対話」の中に位置することは、我々をも力づけ勇気づけてくれることになるだろう。老哲学者の狷介な「現代の唯物論」も「学問上の虚無主義(二三)」
も、今でも我々のなかにあるだろう。そして時には、我々の「同意符」とともによみがえり、流れ出すことになるだろう。
このような「対話の歴史」や「連続性」といえば、『弟子』(一八八九年)を待つまでもなく、「科学こそは……」とテーヌに言わしめた、人間に光を与えると
いう「科学」への懐疑にしても、『現代心理論集』(一八八三年)にはすでに書かれていたといえるだろう。前章でもいくらか触れたことだが、その文は、「思
想はもう有益ではなくて有害なある力」と見なされるようになっていると、人間能力や思想の限界と「科学」の限界を指摘するのである。その文は次のようなも
のである。
「(思想はもう有益ではなく有害なある力だとするそのような考え方は)思想に進歩の最終の帰結を認めているわれわれの全近代文明の逆を行くことになる。人
間の頭脳の力を強度に刺激し、倍加させるとか、人間の頭脳にますます複雑な、ますます精巧な知的労働を与えるとか、強いるとかいうようなことが、中世末期
以来、西ヨーロッパの不断の関心事だった。われわれは昔の民衆と現代の開化した民衆とを比べて、あのドイツの詩人[ゲーテのこと]の言う「もっと光を」を
確めると、誇らかな気持になる。われわれの最高の営為が科学に、すなわち検証されうる事実の総体を整理してあらゆる頭脳に理解されるように表現したものに
凝集されるのは、まさにそのためである。しかし、われわれによって知識の荷を過重に背負わされているこの人間機械の能力を、われわれはきちんと測ったこと
があったろうか。われわれが下には教育を、上には分析精神を気前よく惜しみなく授けるにあたって、また数多くの書籍や新聞によってあらゆる種類の思想を精
神に注ぎ込むにあたって、日毎にすさまじくなる、意識生活のこうした拡大によって、人々の心のうちに生ずる動揺を果して正しく計算したであろうか。……あ
るいは、こう抗言する人があるかもしれない。科学はそういう誤謬とそれから生ずる苦痛を日毎に次第に減少させてゆくことを任務とすると。しかし、思想のあ
まりに熾烈な修練のためにほとんど必然的に生み出される恐れのある生理的摩滅や感情と意志との摩滅を防ぐ手段を、科学はかつて発見したであろうか。または
やがて発見するだろうか」(「フロベール」の項)
ここでは「思想」は、様々なことを含むだろう。開化していく時代の、「人間の頭脳にますます複雑な、ますます精巧な」刺激を強いる様々なもの、拡大する
「意識生活」から「感情の動揺」から、時代が生み出すすべてのものを含むだろう。そして、「検証されうる事実の総体を整理してあらゆる頭脳に理解されるよ
うに」する「科学」は、それは我々「人間機械」に新たな光を注ぐどころか、重い荷を背負わせる以外の何物でもなくなるだろう。「知識の荷を過重に背負わさ
れているこの人間機械の能力」とは、二十一世紀にもなって、そのことを我々も今、メディア社会という最も通俗的で圧倒的な力の下で痛切に感じている。それ
と似たような文、――「過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった状態」を「象徴的貧困」と言うという文
を読んだことがある(「朝日新聞」―思想の言葉で読む21 世紀論―2006, 2, 14
夕)。我々の多くが「増え続ける大量の情報に追いつくためには、情報の選択や判断までを自分以外の誰かの手にゆだねざるをえなくなっている」という二十一
世紀のメディア社会よりさらに早く、十九世紀末の社会は、テーヌのような賢人には知的な「光」であった「思想」や「科学」の重荷にあえいでいると、予告し
ていたことになるだろう。ブールジェは、パリの青年たちの中からも、彼等の「生理的摩滅」の表情を読み、「感情と意志との摩滅」を読み取ろうとする。ブー
ルジェばかりでなく、彼の師の立場にいたテーヌにしても、テニソンに対するにミュッセを対照的に取り上げていた文のなかで、パリという都会の「あわただし
く騒がしい群衆」の、神経質な容貌を写しとっていたではないか。過剰な刺激や、見せかけの豊潤や、性急に、次から次へと湧き上がる刺激を追い、多くを求め
すぎるような人々のことを――。
ブールジェのこのような懐疑のほかにも、その後私たちはいくつかの資料文献を読むことで、一つの時代の後に続く人達が、どのような「対話」をくりかえし続
けたかを、いくらかは想像できるところに立っている。平岡昇氏は、この時代の「憂鬱な決定論」が、若いアランにいかに嫌悪を催させたか、ということを紹介
しているが、アランの「嫌悪」の向うには、「サント・ブーヴやルナンやテーヌ」という「時代の神々」に多くの魅力を感じていたたくさんの学生が(二四)い
る。『弟子』のグレルーの少年期の回想、――パリから来た若い教師たちが皆、懐疑論者であり、無神論者であったという回想、――その人たちをまぶしげに見
ているグレルーの回(二五)想も、時代の主要な風潮を我々に語るだろう。そしてまた、この時代を「味気ない、脂っこい唯物論的実証主義が養魚池に腐った古
油をまきちらした」(「青年時代の思い出」)と書いていたロマン・ロランも、同じように、決して「つまらない人々ではない」若い教師たちの中にそれらを見
出すので(二六)ある。
少年期の思い出のほかにも、ロランは、「回想と思い出」の副題に、「テーヌとルナンの最後の時代の文学的パリ」と書いて(二七)いる。そして一八八〇―一
八九〇年の十年間に「文明の危機」は頂点に達したというクリスチャン・セネシャルの『現代フランス文学主潮』の言葉を引きながら、「当時の巨匠テーヌやル
ナンはそれから脱却する少しの希望(少しの欲望といってもよいが)もなしに、その危機を告白していた」とすら書いている。ロランはブールジェにも触れてい
て、「私がリセの哲学級にいたころに出た『現代心理論』のなかで、ブールジェは、「生きることへの致命的な疲労、いっさいの努力がむなしいという暗い知
覚」をフランスのエリートたちのなかにみとめている」と、この時代の空気を述べながら、それに続けて、「バレスは、『インキの汚点』のなかで、「疲弊した
民族のもっともひどい意気粗喪」をヴェルレーヌにおいて示している」とも書き、ルナンについても、「「フランスは死につつある」とルナンは書いた、「その
末期を妨げる(二八)な!」」――と、ディレッタントとしてのルナンの諧謔の姿勢をそれとなく伝えている。『イエスの生涯』の著者が、この時代のフランス
思想史にどう位置づけられていたのか、我々はそう多くは知らないことにも気づくだろう。そして、さらには、ロランの長大な回想の著『ペギー』も読んでもら
うとよい。この中にも、この世代の人々のルナンやテーヌへの愛憎が、あるいは時代の風潮への愛憎が、いかにも深く濃く語られている。
ロランのこれらの本は、藤村が訪れる少し前の、フランスの政治・思想界の状況をよく語っている。特に『ペギー』の、「新世紀の歌」(CARMEN
SAECULARE)という副題を添えているその序論は、それまでの「固苦しい決定論」「機械論的唯物主義」(「科学的決定論」「幾何学的不変性」などの
用語も使われている)から、フランスがどのように抜け出していくかをよく伝えている。そして一見読みやすく易しそうに見えるこれらの本も、当時のフランス
の政治的事情や文化・思想の情況にうとい我々には、逆に、極めて難解なものにもなってくる。それは余りにも多様であって、私などには整理しつくす事ができ
ないほどだが、しかし、ベルグソンの影響などにしても、「ベルグソンは、彼の流派中でずばぬけて、科学的理性とのこのうえなく確固たるつながりを、そのご
も失うことなく持ちつづけてきた」というような文を読めば、また、「科学をけなしつけるどころか、長いあいだ、ゆっくりと、しばしば血のにじむ思いで、深
遠な境地まで科学的思索をこらした」等の文を読めば、我々はまた幸にも、「科学的理性」と「実在」との「対話」のなかに戻る事もできるだろう。ドレフュー
ス事件をめぐる紛糾にしても、他の書では見られない多くのことを学ぶだろう。盟友であったジョレスやペギーの離反と対立などを読み進めば、我々は新たな眼
と困惑でその渦中に立ち尽くすことになるだろう。ペギーについても、少なくとも、藤村の書物から我々の感じ取るペギーはここにはいないことも知るだろう。
行動がそのまま芸術であるのに違いなかったペギーのような作家・詩人、この複雑で激情的なパトスの人、永遠の否定者、永遠の革命家であるようなその人を理
解することはむずかしいが、「科学」と呼ばれ「決定論」といわれた認識の方法、あるいはペギーが「知性主義」や「知性党」という名で嫌悪したといわれるも
のが、「精神の至上の自由」の名の下にどのように拒否の対象になっていくか、いくらかを知ることになるだろう。そして戦争の予感や民族の自負が、いかにし
て自らの「大地や血」や「伝統」という過去の栄光を求めていくかも、漠然とながら眼にすることになるだろう。ブールジェもそのような本能を心に刻むことに
なるだろう。『弟子』の序文を見るだけでなく、『現代心理論集』のような書をたどるだけでも、日増しに複雑になっていく開化の必然の結果として、安直なコ
スモポリタニズムや、ディレッタンティズムといわれるような精神の有り様が、やがて自らが生まれ育った郷土や大地、我々を養い育ててきた国家や風土を失い
かねない危惧を述べていることを、書き添えておいてもよいだ(二九)ろう。
このようなことをたどりながら、私は、この稿の初めに記したような、明治二十一年(一八八八年)に小崎弘道が「ブルゲー当時の小説家を批評して曰く、彼等
は人間を以て其境遇に因て制御せられ……」(「国民之友」)と書き、植村正久が「ブウルヂ氏の言に拠れば、一千八百八十年頃の仏国小説は、全く霊性上の事
を看過して……」(「日本評論」)としていた頃のことを思い起こしている。「ブルゲー」や「ブウルヂ氏」が「ブールジェ」であるかどうかはとにかく、自然
主義や唯物論が批判され始めた一八八〇―九〇年頃のこの時代こそ、今ここでたどっていた時代であり、わが国の先輩が始めてのように直面したフランスの文学
的時代であった。そして同時に、ちょうどその同じころに、わが国の青年はシェイクスピアやバイロンやテーヌを読んで事新しい西洋の文学に親しみ、そのおよ
そ三十年後にはまた、壮年に達した日本の小説家がその前後の時代の深刻を追想しながら、その国の過去に遡って、自己回復の道をさぐっている。フランス滞在
がこの作家に与えた感化は容易には語れないが、今漸くに自分らはあの『父と子』を書いた時代に到着したのではないかとは、「胸を開け」や「ルウヂンとバザ
ロフ」の中にあった藤村の述懐であった。フランスの文化に接し、その時代の作家を読むこともまったく同じことであり、二十一世紀にもなって私も、古い過ぎ
去ったこととも思えぬままに、その時代を追っている。歴史はいつも遠ざかる事ない記憶を我々に強いてくる。
『テーヌ管見』注解
《第一章》
一 「テーヌの『英文学史』と日本」(昭和二八・九「東大比較文学新聞報」→『比較文学 考察と資
料〔増補改訂版〕』所収 南雲堂)
二 『文学史の方法』(昭和三三・一一・二五 松柏社)
三 「『文学界』とその時代」第七章第一節「藤村の文学的教養 その一―西欧文学との交渉―」(昭和三四、三五 明治書院)
四 「絶筆 文学界前後」のうち「戸川秋骨」(『禿木遺響 文学界前後』四方木書房)
五 「贖書の追想」(『近代文芸の解剖』広文堂)
六 「『女学雑誌』時代の藤村」のうち「業績の考察」(昭和一九年発表 同二八年改稿 →『考証と試論 島崎藤村』所収 教育出版センター)
七 「国民新聞」(明治二六・三・一五 第九六〇号)外電欄(倫敦発三月六日)に「仏国有名の文学
者逝く」として「仏国の歴史家ヒツポルト、アドルフ、テーヌ氏は逝けり」と三行の訃報が載っている。同号には別欄に「仏国有名の文学者逝く と題し外電欄
に掲げたるテーヌは仏国に於て別に戈を抜き隊を立てたる文学者にして其尤も得意とする処は評論也歴史的評論也哲学者的眼光の評論也」以下、「死後に其名を
伝ふ可き」業績を十三行にわたり伝えている。また、第九六二号(三・一七)に「仏国有名の文学者 故テーヌ氏の逸事」が肖像スケッチ入りで、「国民之友」
(二六・三・二三 一八五号)「雑録」欄に三ページ強の「テーンの死去(仏国文学界復一明星を失ふ)」がある。その中の『英国文学史』に関する部分を挙げ
ておく。
「斯りし間に(註・「ラ・フォンテーヌの寓話論」(一八五三年)や「ティトウス・リヴィウス論」(一八五五年)の後、当時のクーザン一派の官界哲学に闘い
を挑んだといわれる「十九世紀のフランス哲学者」(一八五八年)、あるいは「ピレネー紀行」(一八五八年)などと書き進められているその間にも)テーンは
其畢生の大作たる「英文学史」を成就しつゝあり。是れ六ヶ年間の精考精読の結果にして、正に以て英文学者其ものを瞠若たらしむ可き大著也。千八百六十一年
及其後、テーンは英国博物館に於て読考窮査する所あらんが為め、且つは其論述せんと欲する国と民とを面のあたり見んが為めに英国に遊ぶ。斯くて千八百六十
三年に及んで其著世に公にせられたり。一部の大篇、英文学の発生期より十九世紀の今日に到るまで、論述叙記し来つて条理明晰、意匠分明に糸の如く全篇を貫
通し、或は精疎抑揚の点に於て未だ全く人意に満たざる処なきにあらずと雖とも、其の英文学の大勢を記するや確且明、其の英文学の代表者たる人々を論ずるや
簡にして該当し、英人をして自ら手を下さしむるも如斯く鋭利允当なるを望む可からざるものあり。真にテーン一生の大手筆たるを失はず。此篇一たび公にせら
るゝや、著者の名声は幾層の高きを加へ、仏国学士会院の委員は特に此篇を撰抜して百六十磅の賞賜を与へんと発議せり。然るに賛者多ければ、之を詬る者も亦
少なからず。賞与の儀学士会院に上るや、オルレアン監督の如きは本書を以て不敬虔且不道徳なりと評し、著者は「徳と不徳は砂糖と酢の如く共に所ろぐの産物
也」と云へりと攻撃し、著者は意思の自由を拒めリ著者は純乎たる運命主義を主張せり著者は中世時代の僧侶を悪口せり著者は清教徒を賞賛せり哲学に於ては懐
疑派たり宗教に於ては異端なるを自ら表せりとて烈しく攻撃し、曩きにテーンの為めに罵られたるクーザンの如き此を好機会として盛に復讐をなせり。然れども
著者の大名は著書の売れ高と共に愈々之れが為めに高まり行けるのみ。……」(註・傍点部の古い「二の字点」は「ゝ」に置き換えた)
「東京日日新聞」は十五日の「内外電報欄」にテーヌの訃を報じ、よく十六日に二十六行の「仏国大家テインの小伝」を掲げ、「其の議論多くは宗教家の迷想を
排撃するの傾向あり随て其の名声唯物論者の間に嘖々たり」……「其の著書の中に就き吾曹の如き英学者の最とも珍重するは英国文学史にして上下二巻数千頁の
大著にして其論評記述の精確にして興味あること実に英国文学者の與に歎称して止まざる所なり」など、「読売新聞」十五日は「其文章の霊活なる且其批評の玄
妙なるハ欧州の文学界を蠢かすに足るものあり……今や此人なし豈欧州文学界の為に吊せざるを得んや」などと十数行の紹介がある。
八 「国民之友」二九号(明治二一・九・七)に小崎弘道「国民の理想」が、「英国の学士フレドリック、マイエルス」という人の論「仏国迷信の払除」を紹介
している。そこにテーヌの名が挙げられている。「迷信」とはこの場合、諸々の「理想」を指しているらしい。たとえば「仏人は千八百八十八年に於ては、迷信
の外凡ての物を有せりと雖も、千七百八十八年に於ては、迷信の外何物をも有せざりしと云ふべし、道理の治世、天然に復帰する事、民約法、自由、平等、同胞
の迷信は、天主堂、忠君、廉恥の古風と與に、当時の空気に充満したり、今や此等の迷信即ち理想は、春霧と與に消散して跡なく、仏人は全く其迷を払ひ去り、
其感を解き去りたるに傲り誇れり」(傍点筆者)としている。いわば「仏国は物質上、智識上、強大の外形あるにも係らず」、「同国社会の変遷、学術の進歩に
因りて、宗教上、政治上、情交上及び一己人の上に於て、理想を失」った。以下、項目に分けて縷々説明されていくが、「終りに仏人の排除せんとする其所謂る
迷信は、人類が其自由の意を有し、且つ其霊魂を有するとの信仰」であるとして、この傾向を主張する学士、「テーン、リボー、カルコー、リチエール」という
名を挙げている。「仏国の心理学は所謂る生理学にして、其傾向は唯物論、宿命論にあるなり」と書かれている。
同誌五八号(二二・八・二)には「西学東漸以来、日本文学界の新趣味将に生せむとす」(在米国 天民生)という題で、「独逸の文学はコレリツチの輩により
て、英国人の理想に入り、英文学は又たテインの輩によりて、仏国人のテーストに入り、」というような『英国文学史』を挙げる文がある。ゲーテの「世界文
学」の理想が国境を越えて次第に現実のものになりつつあるとするもの。
本文で取上げた五九号の文は、同号「仏国現今実際派文学者の巨擘ヱミール、ゾラの履歴性向一斑(上)」に拠る。そのほか、「英人の頭脳と仏人の頭脳―仏国
現今批評の大家テーヌ氏の文に拠る」上・下(一二六〜七号「雑録」欄 二四・八・三 同・八・一三)にテーヌの名がある。これは、テーヌが頻繁に書く英仏
国民性の相違を社会活動や生活文化の実際面に即しつつ指摘している。同種のものに「英仏の体育」上・下(八二〜八三号 二三・五・一三 同・五・二三)が
ある。この出典は不明だが、テーヌも、英国人のスポーツのあり方、特に乗馬や徒歩の習慣を有する英国婦人の強靭さ、闊達さを何度も指摘していることは事
実。
九 植村の「欧州の文学」は「ヴィクトル・ユゴー」(その一)以下、「トルストイ伯」(その二)、「トマス・カーライル」(その三―四)、「ゲーテを論
ず」(その五―六)、「厭世の詩人ロード・バイロン」(その七)と「日本評論」に発表。ユゴーからゲーテまでを二十三年六月二十八日第八号から九月十三日
第十三号まで連続して掲載、バイロンは翌年三月二十五日第二十六号に発表。極めて早い時期の西欧文学論で、この時代のキリスト者の批評的態度がうかがえ
る。植村の指導的位置からいっても強い影響力があっただろうと想像できる。
一〇
植村はこの論で、「ロバート・バーンズは何を、またいかに、歌いたりや」と問いかけた後、以下のような見出しを立てて論じている。「彼は愛恋の詩人なり」
「彼は下民の詩人なり」「彼は意を得ざる不平家の詩人なり」「彼は国民主義の詩人なり」「彼は博愛の詩人なり」「彼は宗教の心ある詩人なり」。「下民」は
「つぶさに耕農の苦楽甘辛を甞め」つくした下層民の意。「意を得ざる不平家」は、恵まれない境遇から生れた反逆、鬱血の人の意か。なお「羅馬字会と仮名の
会」(「六合雑誌」第六八号 明治一九・八・三一)という論文で、長く世に伝わる「国ぶり」について考えながら、「ロバート・バーンズが蘇国の方言を用う
るの新趣向を立てしより、その詩善く蘇人の心情を発露し、言詞流暢温雅にして人々これを誦し、戸々これを唱うるに至れり」と、すでにバーンズの名を挙げて
いる。
一一 原文は、Modern Life Chapter 1. Ideas and
Production の以下のような文。
Once, having cast his eyes on an engraving representing a dead soldier,
and his wife beside him, his child and dog lying in the snow, suddenly
involuntarily, his burst into tears. He writes: “ There is scarcely any
earthly object gives me more―I do not know if I should call it
pleasure―but something which exalts me, something which enraptures
me―than to walk in the sheltered side of a wood, or a high plantation,
in a clouding winter day, and hear the stormy wind howling among the
trees and raving over the plain. ……I listened to the birds and
frequently turned out of my path, lest I should disturb their little
songs or frighten them to another station.
[拙訳]一度、彼は雪の上に倒れている兵士の絵を見ていた。兵士の横には彼の妻と子と、雪の上に横になっている犬がいたが、その絵を見て、突然に彼は、思
わず知らず涙を流したことがあった。彼は書いている。「この地上のもので、どんよりと雲の多い冬の日に、一本の木や広い植林地帯の暗い蔭の部分を歩き、木
々の間を咆え、平原を荒れ狂う嵐のような風を聴くことほど、私に多くのものを与えてくれるものはない。それは喜びといってよいものかどうか、あるいは、私
を高めてくれるもの、私に喜びをくれるものかどうか私は知らないが。……私は小鳥のさえずりを聴いたときでも、彼等のささやかな歌を乱さないように、彼等
を恐れさせて彼等を別の場所へ追いやらないように、しばしば小道を逆戻りしたのだった。
一二 原文は以下の通り。(→ Ideas and Production )
In short, in contrast with morose Puritanism, he approved joy and spoke
well of happiness. Not that he was a mere epicurean, on the contrary,
he could be religious. When, after the death of his father, he prayed
aloud in the evening, he drew tears from those present; and his
Cottar’s Saturday Night in the most heartfelt of virtuous idyles. I
even believe he was fundamentally religious.
[拙訳]要は、気難しいピューリタニズムと比べて、彼は喜びをよしとし、幸福である事をこの上ないものとするのである。彼が単なるエピキューリアンであっ
たわけではない。逆に彼は宗教的であったのだ。彼の父が死んだときのことだが、彼は声を出して夕方の祈りを上げながら、涙にかきくれるのだった。そして彼
のCottar’s Saturday
Nightこそは、徳高い田園詩のなかでも最も感動的なものである。私は彼が本質的に信仰の心厚いひとであったことを信じている。
一三
そのほかに、バーンズは「自分自身を理神論者とみなし、救世主のなかにただ霊感を受けた人を見、宗教を内なる詩的感情に帰した。そして、冷ややかに金銭を
受領し免許を得る聖職者を攻撃した」というような文もある。そういう人たちより、「私は寧ろ純粋な無神論者でありたい。福音の旗の下に隠されているより
も」と述べているとある。……
一四
以下のような文になる。「ああバイロン、汝は哀しみたれど、これがために聖潔に進むこと能わざりき。汝の歌は嘆きたれど、真正の安慰を与うること能わざり
き、世には愛すべきもの、身を犠牲にして奉事すべきもの無きにあらず。汝の歌は、何故に、失望の声のみを発したるか。汝は勇士なり、任侠なり、活力余りあ
りとす。しかれども、理想無く、神無く、望み無きの活力は、暴に流れ、狂に失して放漫無頼たらざるを保すること能わず。」
一五 マシュウー・アーノルドは植村の文学の支柱の一つではないかと思われる。早くは「政治主義に関する管見 二、国民主義を論じあわせて国粋主義に及
ぶ」(「日本評論」第四号 二三・四・二六)で、「マシュー・アーノルドかつて英国文学の短所を論じて曰く、これを補充するは吾人の急務なり。吾人は英国
文学の特質、長所のみに着目せず、深くその弱点に注意すべきなりと」と、最も完全なる国家は人類(humanity)の全性をもってその基礎としなければ
ならないが、国粋主義はそれを看過している、というような論に援用している。
彼にはアーノルドの詩「埋もれたるいのち生命」の訳が「実際と理想」(「日本評論」第十四〜十五号 二三・九・二七〜十・十一)という論に出てくるが、斉
藤勇氏の解説では、この詩は「植村愛誦の一篇」であったらしい。そして有名な「生の批評」については、「詩人論」(「同」第五号 二三・五・一〇)で、
「マシュー・アーノルド曰く、詩は生命の批評なり。その目的は高尚なる思想を人生に適用せしむるに在りと。今の詩に高尚なる思想ありや。その生命の批評た
るものいずこに在りや」とある。「美術と道徳」(「同」十一号 二三・八・九)にも「……マシュー・アーノルドは言えり、詩はその底を叩けば生命〔人生〕
の批評たるに過ぎざるなりと。美術〔芸術〕の最も秀霊なる詩と道徳との間に親密なる関係ありて存するは、蓋しアーノルドの持論たりしがごとし。独り詩歌の
みならず、およそ美術なる名称の下に属するものは、みな道徳に対して、深き縁故を有するものなりと思わる」とある。同文中にはラスキンの「高貴なる美術は
ただ高貴なる人より出づるのみと」という文も引用されている。そのほか、「厭世の詩人ロード・バイロン」では、「情感火のごとく、心腸常に激動せるバイロ
ン、その感ずることは巨人のごとく、その思慮は小児のごとしと」というアーノルドの文が引かれているし、「自然界の預言者ワーヅワス」にも諸家の論と並ん
でアーノルドの評も挙げられている。
藤村では、『桜の実の熟する時』の「マアシュウ・アーノルドの『生の批評』……」云々は我々に馴染みあるものだが、「郭公詞」(「女学雑誌」甲三二二号
二五・七・二)でも、「アーノルドをして『命之評』の嘆を出さしめしもの今更の如くいはんも烏滸なり」と、アーノルドの『命之評』を紹介している。『早
春』の、「文学界」第一期の概況を述べる個所では、「一方には、カアライル、エマアソン、マアシュウ・アーノルド、バイロン、ゲエテなどの残した文学上の
仕事が自分等年若いものの胸をよく往来した」とアーノルドの名が挙がっている。藤村の諸作の中で、アーノルドの名はそう多くはないように思われるが、この
時期のアーノルドとの関連には、植村の影響なども強く残るのではないだろうか。
一六
なお、注八で紹介した小崎弘道「国民の理想」中に、「ブルゲー」の名がある。「フラウベルト、ゾォーラ、マウパザン等」の小説には「高尚なる思想」が欠け
ているとした後の文に、「ブルゲー当時の小説家を批評して曰く、彼等は人間を以て其境遇に因て制御せられ、機に臨み変に応じて動くの力なき、一種の動物と
なす、故に其結果たるや、失望落胆の宿命教に陥るなり、是れ当時流行の哲学なりとす」とあるものだが、この「ブルゲー」とはPaul
Bourgetだろうか。「国民の理想」が発表された明治二一年(一八八八年)は、『弟子』が発表される前年になる。
一七
ゲーテについては以下、次のように書かれている。「かつて己れの主義を宣べて曰く、『宗教と政治は、美術を紊乱するの分子なり。我常になるべく、これを避
けたり』と。当時ケールナーの軍歌、ドイツを震動せり。哲学者フィフテは講義を終わるや、直ちに銃を執りて、祖国の戦いに赴きたり。しかれどもゲーテは毫
も困難の起これるをも知らざるもののごとくなり。フランスの革命も、ナポレオンの盛衰も、邦国興亡も、彼の心を動かすこと能わざりき。彼は人を貴ぶを知ら
ず、これを助くるを思わず。況や人類とともに苦しまんと欲するがごときことは、その夢にも思わざりしところなり。ゲーテは、四囲の山上に捲き乱れたる黒
雲、一として、これに映ぜざるは無けれど、自らは微波をも起こさず、泰然自若たる、美わしき湖水のごときのみ……」(厭世の詩人ロード・バイロン)
植村には別に「ゲーテを論ず」がある。「日本評論」第十二号―第十三号(明治二三・八・二三―九・一三)の「欧州の文学 その五―六」。植村のゲーテ観へ
の「文学界」の批判は「文学界」第十号(二六・一〇・三〇)の《時文》欄・「日本評論のゴエテ論」(風潭)が典型的か。ここで「風潭」氏は植村文の何例か
を挙げて、それが「西教徒が純文学に対するの思想」の代表であるとして、「ゲーテが精神と評論と何れが固陋狭小なるを知らず、我等は此の如きの断案を下す
の勇気に驚くと共に、其見の浅薄卑劣なるを悲しまざるを得ず」としている。同欄「基督教文学」でも「見よ某の大家が西欧の文学を論じてギヨーテ、バイロン
に至るも、極る処は彼は真の神を見ざりき基督を信ぜざりきといふに過ぎず」(無署名)とある。「バイロン」論にある「自らは微波をも起こさず、泰然自若た
る」というような批評基準は、植村のみならず、当時、巖本善治などにもよく見られた言葉である。後出の「バイロンとゲーテ」で秋骨が「学士の如くならず侠
骨ある武士の如く」と訳している文があるが、これもその一つであろう。He has lived like a fendal chief, not
like a scholar who has taken his degree;。
「国民之友」創刊号(二十・二・十五)巻頭社説「嗟呼国民之友生れたり」にも「眼鏡を掛け、顔色蒼白の学者先生達には……」と知識のみ高く行動の乏しい
「学士」を諷する言葉がある。
一八 「千差万別」は、英訳原文のMen, gods, nature, all the changing and multiplex world
of Goethe, has vanished.のall the changing and multiplex world of
Goethe。――「人間、神、自然、変遷しつづける多種多様なゲーテの全世界」と訳すか。
一九 英訳本原文はBy his side, what a man is Manfred! He is a man;
there is no fitter word, or one which could depict him better.
のHe is a manに相当する。a manに秋骨は「丈夫」を当てた。「一人の人間」が普通だが、「一個の男」ではどうか。a
manは「チャイルド・ハロルド」評にも使われる。「チャイルド・ハロルドは、かくの如くして世に出た。最初の一撃で、それを読んだすべての読者は衝撃を
受けた。それは、著者が語ろうとしたこと以上のものであった。それは一個の男(a man)であった」。
二〇 「疾風の如き精神」は英文のa spirit of
revoltで、「反逆の精神」、「革命的精神」。「霊」はマンフレッドが異界から呼び戻したアスターティを指すだろう。
二一 ブールジェの『弟子』の「一現代青年の告白」中で、青年グレルーがテーヌのバイロン論の一節を引用している。「テーヌ氏もやはり、バイロンに関する
雄渾な一文の中で、我々は「我々を理解」すべきである、といふのは、「精神の光が朗かな心を生み出さんが」ためであると言つてゐます。」(内藤濯訳 岩波
文庫)――「バイロンに関する雄渾な一文」とはテーヌのバイロン論をよく言い当てている。
二二 ほかに秋骨の文とされているものに「沙翁曲中の恋人」(『女学雑誌』乙三二七号、三二八号)、「沙翁曲中の淑女」(同三三一号 筆名・城東生)があ
る。勝本清一郎氏が『透谷全集』第二巻解説でこれらもテーヌの抄訳としているが、両者を照応してみると、テーヌの抄訳かどうか、断定できないように思え
る。もっと別に「沙翁曲中の女性」というような参考になる論がなかったかどうか。
二三 「緒論」のなかで、三つの原動力のうち「環境(le
milieu)」を重要なものとする理由として、「人間はこの世に唯独りで存在するのではないからである。人間は自然に包まれ、他の人々に囲繞されてゐ
る」としている。この考え方がやや形を変えて全篇に出てくる。一例として、ベイコンのような天才を論じながら、その雄大で正しい観念が生まれるのは「周囲
の力」に拠ることが大きいのだとしている。「人間は自分の個人的な思想の力で万事を行ふものと信じてゐるが、実は周囲の思想の協力によつてしか何事も行ひ
はしないのだ」とか、「一つの思想が発展するには、それがその周囲の文明と調和しなければならない」の如く。さもなければ「その声は外部から来てその声を
蔽ひかくした反対の声の蔭に消え去」るからである。(第二篇「ルネッサンス」のうち、第一章「異教復興」第三節「散文」)。
二四 高田早苗の文は、 テーヌの以下の文に拠る。
「ウオルター・スコットから我々は歴史を学んだ。しかしこれが歴史なのか。遠い時代のこれらの絵は、いずれも虚構である。コスチュームや背景、外観だけが
正確であり、行動・会話・意識、残余のものはすべて、今日の見せかけに洗練され、潤色され、調整されている。」(←BookW Modern Life
Ch.1 Ideas and Production)
要は、スコットの「歴史」は、過去に寄せる夢想や懐古がもたらしたもので、その「歴史」を生き た人間そのもの
ではないことを語っている。作中の諸人物も、いずれも彼の周辺に生きていた農夫、見栄っ張りの地主、手袋をはめた裕福な階層の人達などの「隣人」たちで、
「王政復古時代の、官能に溺れた愚かな人達とか、中世の、ヒロイックな残忍な人達、獰猛な人達とははるかに隔たっていた」等々。高田の東京専門学校での講
義記録を掲載したもの。Shakespeare in
proseと言われた大方の賞賛のなかにもいくつかの貶評があるとして、カーライルとテーヌの評を紹介している部分。「歴史」をどう描くかについて、テー
ヌの考えがよく示されている。第二章の「ミルトン考」にある馬場孤蝶、戸川秋骨の『失楽園』観も参照されたい。
金子馬治の言う「詩的想像力」については、シェイクスピアについてテーヌが、「人間機械の原質と原動力とを形成する野蛮な諸力を洞察するために、人間機械
が身に被ふてゐる良識と論理の皮相を、かくも遥に越えて鑿入したものはなかつた」として、その根源を「彼は『完全な想像力』を持つてゐたのだ。彼の天才の
すべてはこの一語に尽きる」としている文がある。(第二篇『ルネッサンス』)第三章「ベン・ジョンソン」六)
二五
鴎外のこの文は「今の英吉利文学は何ぞ其れ生気なきや。試にテエヌ、モンテギュウ、ブルュウンチエエ等の如き批評家を其間に求むるに、隻影だに見ることな
し」で始まっている。「今の英吉利文学」のほかにも、「外山正一氏の画論を駁す」中の「美術論場の争闘は未だ其勝敗を決せざる乎」(縁外生 二三・六・五
東京新報)という論に、「抑も博士は果してラスキン、テエンの旧説と大和錦の記事とを剽竊して、併せて其真を謬りし乎」などと、またJohannes
VolkeltのAesthetische
Zeitfragen(審美上時事問題)の梗概をまとめたという『審美新説』(森林太郎篇 春陽堂 三三・二・二三)の「審美学の現況」に、「仏蘭西の
Taineは早く法則を建立する審美学に代ふるに事実を講明する審美学を以てせんことを期したり。Taineは謂へらく。芸術家及芸術品はこれを囲繞する
思想界気温の醸し出す所にして、審美学は只々応にこれが解釈を試みるべきのみと。l馬人Georg
Brandesの文学批評は其法全くこれと同じ」とある。→フォルケルト『美学上の時事問題』。(註・傍点部の古い「二の字点」は「々」に置き換えた)。
また、『鷸翮掻』(明治二九・一〜六に六回にわたって「帰休庵(菴)」の署名で「めさまし草」に連載されたものという)の中の「自然主義と「ロマンチッ
ク」と」に、ロマン主義(ロマンチック)の後に「実相主義乃至自然主義」が起って、「ゴンクウル、フロオベル、テエンこのかたの風潮の一世に盛なりしを
ば、何人も認めざること能はざるならむ」などとある。
二六
文学界同人との関連で言えば、後年のものだが、明治四〇年代の四一年一二月に「ミルトン誕辰三百年紀年号」として編集されている『英語青年』第二〇巻第五
号以下、第六号、第七号に、馬場孤蝶「失楽園に就て」(六号)、戸川秋骨「ミルトンの詩に就て」(六号)、平田禿木「青春のミルトン」(七号 いずれも
「談話筆記」のようである)が紹介されている。次章の「ミルトン考」を参照されたいが、たとえば『ラレグロ』や、『イルペンセローソー』や、『コウマス』
や、『リシダス』などの詩については、この年代の感覚に訴える魅力をもった傑作として賞賛の言葉を惜しんでいないが、後期の大作『失楽園』に対しては、な
じむことのできない反発を感じていたようである。諸研究家と並んで、漱石(五号)や片上天弦(六号)の名も見え、ミルトン解釈のさまざまな立場がうかがえ
て楽しい。島村抱月の名も出てくる(五号)。それは「ミルトンの想ひ出」という文だが、そこに、ミルトンの「最初の知識」は、「パラダイス、ロストやコー
マスや、其他一二の小詩」を教科書で読んだこと、「テーンの文学史であの巧妙な批評を見て感服した事」などと書かれているという。抱月は、明治二四年秋か
ら二七年の東京専門学校文学科在籍中、逍遥主宰の教室でテーヌを学んだのであろう。また、透谷とミルトンなどのほかに藤村の「詩人ミルトンの妻」もこの本
には紹介されている。笹渕友一氏が、これは『英国文人伝』の「ミルトン伝」(マイク・パティソン)と『英国文学史』を織り込んだものだろうとしていること
と異なり、「原文は不明」だが書き出しの語句はワーズワスのThe divine Milton(The
Excursion)によるものだろう、としている。『失楽園』に関連した「草枕」の解説もある。→第二章 註二一参照。
二七 「ソネット」一一六番は『英国文学史』に引用されているわけではないが、シェイクスピアのソネットについては前記「藤村の文学的教養 その一」で笹
渕氏は次のように述べている。「禿木は、藤村は沙翁のソネットは読んでゐなかつたと述べてゐるが、これも読んでゐたらしく、第二詩集「夏草」の中の「二つ
の泉」は沙翁のソネットの第一五三・一五四篇が典拠になつてゐると思はれる。劇詩の場合は「茶のけぶり」等は別としてどちらかといへば構想、辞句等の模倣
が目立つてゐたが、「二つの泉」の場合は、「ヴィーナスとアドーニス」と同様に、情熱、自然性の肯定といふ面において沙翁のソネットの感化を受けたことが
認められる。」
二八 「芸術家の任務」(掲載誌不明 春陽堂『文芸論集』明治三四・一二所載 その目次に三二年二月とある)にも以下のようにある。
「偶々詩文の妙は、東西軌を一にし、彼に音韻の妙を賞するもの、此に声調の美を称ふるに等しなど思ふことある時、往て世の所謂学者たちの説を質すに、彼等
は人生観をいひ、審美説をいひ、詩人の思想、主義をいへど、終に六脚律の荘重と対聯の醇和とを説くをきかず。而して此声律が顕せる無限の感慨、熾烈の情
熱、幽婉の思慕、敬虔の道念等に至ては彼等の皮相なる文学的趣味或は没趣味の夢みる所にあらざる如し。詩文にして然り、況んや学声戯曲をや。」
二九
「英文学の細心なる研究を為さずして、漫に沙翁の評論をよみ、バイロン(一七八八―一八二四)の詩歌を論ずるものは、十八世紀を以て詩想全く涸れ、繊巧細
技の横行したる時代といふもの多し。奚ぞ知らむ、今日西欧の評壇には十八世紀研究の声漸く高く、この時代の文物作品を評隲する者日に多きを加ふるを。而し
て邦人の英文学をいふもの甚しきはポウプを以て詩人ならずといふあり。声調を弁ぜず、修辞を知らず、又思想の雄健簡勁なるに盲なるを示すものにあらずして
何ぞ。一意文学史家の口吻を摸ねて其一般論に黙従する弊一にこゝに至るか。」(「細心精緻の学風」)
この文に先立って、ホメロスを訳したチャップマンとポープの両者の訳を比較して論じているが、「文学の史家が唱ふる所をそのまゝ熟考取捨せずして摸倣する
論者は、やゝもすれば評家の口吻をまねびてチァップマンを揚げポウプを抑ふ。吾等は亦こゝに於て細心精緻の研究いづこにも欠けたるを見る也」とし、決して
そうではない、ポープの技量は優にチャップマンと相拮抗するのだとして、先の文に続けている。
三〇 『古典主義時代』のドライデンを論じた中に「詩的時代の終焉」(Close of the poetic age
目次部分の記載)、「一つの文学的時代の終焉」というような文のもとに次のように書かれたりする。
「奔放で創意に溢れるルネサンスはすべての精神を、想像力の激昂と気紛れに、情熱の特異さと好奇心と放縦に委ねていた。そしてその情熱は自己満足のみを望
み、奇矯さに走り、新奇さを求め、そしてちょうど理性が的確さと真実を愛するように、大胆さと法外さを好んだのである。だが天才が涸渇すると、愚かしさだ
けが残った。霊感が取り去られると、もはや不条理しかなかった。……もはや創意も自発性もなく模倣され伝承されただけのフオルム形態が、その形態を作った
過去の精神より生きながらえ、その形態を破壊しようとする現代精神と対立することになる。……」
その前にも、サリー伯、シドニー、スペンサーと、英国の詩の成長と完成への展望を述べた後に、「詩の終末」(Limit of the
poetry)を述べる部分もある。「詩の生気は詩の満開によつて用ひつくされ、……開花は衰微へと導いてゆく」と。「文学を偉大ならしめた力強い息吹
は、ゆるやかになり、減少していつた」……。「……力強さは去り、面白みが始まつた。依然、美と逸楽に対する崇拝は失はれてゐない。しかし、既に人々はそ
れらのものと戯れるのだ。それらを飾り立てたり、自分の趣味に同化させる。それらは人間を支配したり屈服させたりしなくなつた。人間はそれらに興じ、たの
しむやうになつた。沈みゆく太陽の最後の光であつた。……それに王政恢復期の詩作者たちと共に、真の詩的感情が消え失せた。彼等は韻文で散文を書くにすぎ
ぬ。彼らの心は、彼等の文体より高くない。そして、正確な言語と共に新しい時代と新しい芸術が始まるのが見られる。」それは散文の時代への移行と思われ
る。(『ルネッサンス』第一章「異教復興」第三節「散文」)
三一
ポープとの関連で言えば、「聖書に次いで彼が愛したのはポープである。あのたいへん礼儀にかない、堅苦しいポープである」とテーヌが書いている。当時の詩
壇のポープ批判に対して、バイロンがむしろ積極的に擁護したことを伝えているが、同時に、半ば古典的技法や修辞で書かれたThe
Corsair(海賊)などには、「もったいぶった詩の用語法は古臭い気取りと月並みな装飾を組み立てる」などというような評がみられる。そして、「私は
これらの光彩を放つ詩が四十年の内にだんだんと退屈なものになってきたのを知っている」とも書いている(第四部「MODERN
LIFE」第二章LORD
BYRONV)。次章で取上げたが、「ドン・ジュアン」に寄せる感想にも詩の単調と衰弱が述べられている。「ポープのやうに、人間の情熱よりは書物の方に
詳しく、事物よりは言葉に専心した」(第二部「ルネッサンス」のうち、第一章「異教復興」第三節「散文」の項)のようなポープ観の詳細は、第三部「古典主
義時代」の第七章「詩人たち」のなかにある。
三二
「近英の三詩伯」に次のような文もある。「今世紀の初に当りて、仏国革命の大狂爛は破壊的気魄を当年の詩人に与へ、バイロンに其大発揮を現じたるより、独
逸を動し、仏蘭西に伝り、伊太利亜に流れ、終に露西亜の詩歌にまで余波を及したりといふ。然るに暴雨の後、幽静の来る如く、自然の静興に慰藉を求めて精力
を恢復したる詩人あり、純理の沈想に高逸の熱意をひたせし詩人あり、純美の翫賞に幽麗の孤思を投じて希臘の神説に隠れたる詩人ありき」云々。「仏国革命の
大狂爛」という「暴雨の後」に、「バイロンの破壊的壮観」を越えて、詩も新たな世界に入ったはずだと述べていることになる。「英国の文界バイロンの外に更
らに読むべき……典雅優麗なる詩文」があるとした秋骨の文も合わせ読むべきだろう。
《第二章》
一 『生の批評』について小池健男氏は以下のように記している。捨吉はテーヌの「英文学史」を再読して、この「『人』といふものに、それから環境といふも
のに重きを置いた文学史」に、要するに「生の批評」に感銘を受けるのだが、「だが「生の批評」についての詳しい説明はない。以前に読んだとされている「マ
アシュウ・アーノルドの『生の批評』」も、この題では実在しない。しかし「文学は人生の批評である」とはアーノルドのよく知られた主張であり、結局「生の
批評」とは、アーノルドにテーヌの理論を加味した自分なりの結論――文学は人間の生き方を描くもので、それには人間の置かれた環境や時代が深く関わる――
という意味だと考えられる」(「藤村とフランス思想」・『論集
島崎藤村』おうふう)。――私は植村によって敷衍されたアーノルドの影響を重く見ている。→一章・註一五参照。
二 よく知られているような「村居謾筆」「与作の馬」「藁草履」などのほかに、「二本榎」(二八・六・三〇)にも、「嫉妬の火の如く」になった辨次の心が
「青草野花のうちに飛び狂ふ春の駒の如く」という譬えで書かれている。「ヴィーナスとアドニス」は、「ウエルテル」と共に「Youthの溢るゝが如く、若
きジニヤスの作にも似つかはしく」と「硯友社」(二六・一一・三〇)の文を飾るが、「桜の実の熟する時」初稿(「文章世界」発表当時)では、「『ビイナス
とアドニス』の情熱を通し、『エルテル』の悲哀を通して」と、まだ知らなかった大きな世界があることを想像しはじめる。同様に「文学に志した頃」(『飯倉
だより』)に、「私は『テンペスト』を閉ぢてもう一度『ビイナス・エンド・アドニス』を開かうと思ひ立つやうに成つた」とあり、「初学者のために」
(『同』)でも「私は同じく沙翁の書いたものでも、老成な『テンペスト』を蔵つて置いて、先づ『ビイナス・エンド・アドニス』を読み直す気になつた。私は
ギョエテの『ファウスト』を閉ぢて、あの若葉の香を嗅ぐやうなロセッチの『生命の家』を開けた」とある。この一連の譬えは、一番最後に「早春」で「青年は
宜しく青年の書を読むべきである。……わたしは同じシェクスピアの戯曲でも老成な『テンペスト』を閉ぢて、もう一度若葉の香をかぐやうな『ロメオとジュリ
エット』を開いて見る気になつた」と、「ロメオとジュリエット」になっているが、「ヴィーナスとアドニス」が、青春や情熱の象徴のように、彼の心を占めて
いたことはたしかだろう。なお「桜の実の熟する時」初稿の文は、春陽堂からの刊行時に「彼はまた詩人ギョエテの書いたものを通して」と修正されている。←
『藤村全集』校異。
三 パイロットの役割といえば、馬場孤蝶「贖書の追想」(『近代文芸の解剖』広文堂書店)に、テーヌの英文学史を読んで、見たい本の見当が付き出したとあ
る。「バイロンだの、シエレエだの、マアロオなどは、テーヌから見当を付けて読み始めた」。明治二十六、七年頃と書いてある。「バビントン・サイモンヅの
シエレエ伝(モオレエの文人伝中の分)……スコツト・ライブラリイの大文人伝中のシエレエ・バイロン・キイツ……同じ文人伝中のヴオルテエヤ伝……マクミ
ランの沙翁註解本……コングレエヴの伝……キヤンタアベリイ・ポオエツツ中のマアロオ……マアメエド・シリイスのなかの分……戸川君の話にある
Chandos
Classicsは、……シエレエ・キイツ・バイロンなどである。バイロンでは『コリンスの囲』が面白くつて堪まら無かつたので、ララ、コゼエア、サアダ
ナパラスと殆ど一息に読み続けて、二十七年の夏には、ドン・ジユアンに取つてかゝつたが、話の所は、可成に解かつて面白かつたが、何だか議論見たやうな所
になると、少も解らんで閉口した。チヤイルド・ハアロオルドは未だに読ま無い」。
文中、「マアメエド・シリイスのなかの分」とはマアメエド叢書版の「マアロウ詩集」か(孤蝶『明治文壇回顧』にある)。
四 「科学的な考察」という点で考えれば、『飯倉だより』の「二三の事実」に「文芸上の研究にミリュウ(環境)を重んずる悦ばしい現象が最近の文壇にあら
はれて来た」ともある。
「その一例は中村星湖氏や吉江喬松氏がフロオベエルの研究(フロオベエル誕生百年祈念会講演)に見られる。どういふ時代にあの『ボヷリイ夫人』が書かれ、
どういふ社会の空気の中で『聖アントワンヌの誘惑』が書かれたかといふやうなことは、今迄とても説かれないではなかつた。しかし中村星湖氏や吉江喬松氏が
最近に発表したやうに、作者の時代意識にまで侵入して行つたミリュウの尊重は、今日まであまり文壇にあらはれなかつたことだ。この現象は何を語るものだら
う。……もつと今日の文芸に注意するものは、我国文学者の時代意識が痛切を加へつゝあることを想ひ見ねばなるまい」。
五 平岡氏には同様な、次のような文もある。
「今日、彼の理論の欠陥を示すことは、ほとんど無用なほどである。彼の批評の圧倒的成功に比例して、彼の理論への批判はきびしく、少なくとも理論としての
興味は酌みつくされてしまった。自然的、社会的環境を同列においた、彼のいわゆる環境説くらい論議の的になったものはあるまい。しかし、彼の作品は、発表
当時でも、理論だけで生きていたのではない。彼の批評が完成した大作家の肖像は、彼の理論を肉づけした多くのものによって、理論より遥かにすぐれていた。
抽象的推理に長けた論理家である半面、いなそれ以上に、彼は経験的事実の無限の複雑さに対する鋭敏な感覚に恵まれた偉大な観察家、偉大な洞察家であった。
そして同時に、色彩に豊かな想像力にめぐまれていた。」(「ルナン、テーヌ素描」→『プロポT』白水社)
六 フローベルの書簡集に『英国文学史』を取上げているものが意外に多いので、それらをここに記しておきたい。最初は『英国文学史』が刊行された一八六四
年〔十月〕のロジェ・デ・ジュネット夫人宛のもの。(以下『フローベル全集』10 書簡V 筑摩書房)
「テーヌの『イギリス文学』に興味をひかれたとのこと、大変結構に存じます。彼の著作は高尚にしてしっかりしたものです。もっともその起点には問題がある
と思っています。芸術にはそれが生れて来る環境、労働者の生理学的予兆といったもの以外の何かがあります。ああいった体系をもってしては、系列や集団は説
明できても、決して個性とか、それを形成している特殊なものを明らかには出来ぬものです。この方法ではどうしても才能を重視するようにはならないのです。
傑作も歴史的資料としてしか意味をもたなくなります。結局、ラ・アルプの古くさい批評の極端な裏返しです。かつて文学は極めて個人的なものであり、作品は
隕石のように天から降ってくるものと思われていました。いまでは意志を、絶対を否認しています。真理は両者の中間にこそあると存じます。」
※ラ・アルプ La
Harpe(一七三九―一八〇三)。劇作家、批評家。「メルキュール・ド・フランス」誌の文芸批評を担当した。のちパリで学校を開き十八世紀哲学思想を講
じた。『文学講義』(十六巻)はこれをもとにしたもので初めて文学を歴史発展の観点から考察したものである。(←全集・訳注より)
次はテーヌその人への書簡である。〔一八六七年〕六月十四日のもので、テーヌの『グランドルジュ』『理想』を「驚嘆の思い」で読んだと言う読後感の後に、
「かつてあなたのお言葉に焦立ちを感じたこともありました。一作品を歴史的文献としてしか評価されないことにであります。しかしここでは反対に芸術それ自
身に高い価値を認めておられると見受けられよろこんでおります。実際、作品はその永遠性の故に始めて重要性をもちうるのです。作品がどの時代についても人
間を示しているなら作品は常に美しいと言えるのです」とある。(筆者註・テーヌの「緒論」にある文にも「文学作品が教へるところ大なのは、それが美しいか
らである」とある。)
テーヌの方法についての批判はその後もある。一八六九年二月二日のジョルジュ・サンド宛の中に、
「私は……、批評は今やっと黎明期にあるのだと信じています。ただ前時代と反対の立場にたっているだけなのです。ラ・アルプの時代には批評家は文法学者で
した。サント=ブーヴとテーヌの時代には歴史家です。/批評家が芸術家に、芸術家以外のものでなく、しかも本当に芸術家になるのはいつの時代でしょう?
作品自体に強い関心を示した批評が一体どこにあります?/作品の生れた環境、それを造った原因については巧妙な解析が行われています。/しかしその結果を
生んだ無意識の詩術、その構成、その文体、作者の視点等については? 何も語られていません!/こうした批評は博大な想像力と偉大なる善意を必要とするで
しょう。……」
※この手紙は、『市井にありて』の「批評について」〔喜多村進君著『青磁色の春』の序〕で引用されている。
同日付けのツルゲーネフ宛の手紙にも同じように「友人のサント=ブーヴやテーヌに不満を感じることがあるのは二人が、芸術、作品自体、構成、文体、要する
に美を作り出しているものについて十分な配慮が欠けていることです。ラ・アルプの時代には誰もが文法家、いまは歴史家という違いだけです」とあり、一八七
一年〔十月十八日以前〕のサンド宛手紙には、「近代批評は「歴史」のために「芸術」を捨てなかったでしょうか? ある作品の内的価値は、サント=ブーヴや
テーヌの流派にとっては何物でもないのです。彼等は才能のほかすべてを考慮に入れるのです」とある。
テーヌとの交遊は一八六三年に始まったようである。この書簡集の六三年の梗概に、「前年より引続き、三月初めまでパリに滞在する間に、サント=ブーヴ主宰
のマニー夕食会に出席、ツルゲーネフを識る一方、マチルド公爵夫人のサロンに出入りする。テーヌやサンドを識ったのもこの頃であろう」とあり、年末にもパ
リに滞在して、「マニー夕食会、マチルド公爵夫人のサロンに赴くほか、ルナン、テーヌとも会食し、ミシュレと会い」云々とある。
※『定本上田敏全集』第六巻解説に矢野峰人氏が「テイヌの『英文学史』が本格的な文学史である事に対しては、何人も異議を挟まないであらうが、同時に亦、
彼が、文学に於ける最も重要な個性を無視してゐる一大欠点に不満を感じない者も無い」と書いている。「此点は、早くから多くの批評家の指摘する所で、上田
学生も明治三十年八月の『帝国文学』所載「仏蘭西文学の研究」に於て其事を紹介、十年後の大正二年、京都大学教授として論じた「英文学概論」の序論に於て
も述べられてある。此講義は、本全集には収めてないので、それを補ふ意味で改造社版第七巻収録の物を左に引用しておく――。」とした引用文がある。
「も一つ本論に入る前に注意して置きたいのは、新聞雑誌にも論じられ誰も知つて居ることであるが、最も明瞭に説明したのは仏蘭西のTaineの学説であ
る。文学は、la race, le milieu, le momentの三因子から成立するものであるとの論である。この三因子論 は Taine
の “Philosophie de l’art” に見え、 “Histoire de la Littérature
anglaise”の序論に精密に述べられて居る。人種、境遇、時代の三つの因子が、宛もchemistryのelementの如き関係で、文学が出来上
つて居る。だから、文学を説明するには、この三方面からすればよいとの議論で、これは古今東西にある説である。成程、文学に人種の特性があるものなればこ
そ、それは現れるに相違ない。だが、どの位の程度にあらはれるか、よく分らない。又、境遇即ち物質上の境遇でもよい。又、歴史的の境遇でもよい。これも亦
文学に現れる。又、時代といふものは、或時代の気風で、前時代とも後の時代とも異つたものである。今現に在るものが、在らんとするものを圧迫する。これを
指したものである。で、文学家、批評家等、皆、この説を用ゐて居る。が、これは便利な説明ではあるが、実際とは背馳して居る。成程此systemですれ
ば、文学の変遷の模様、一時代の文学を説明し得るが、如何にしても説明し得ないものが残る。即ちindividualityである。例へば、Taineの
説明では、Shakespeareのdramaと他のdramatistsのdramaとの関係は明になるが、Shakespeareの
individuality,
personalityの説明は出来ない。ところが、文学には、このpersonalityが重要である。このpersonalityは
generalizationでは説明は出来ない。これは、批評家が、penetrationの力を以て天才に触れて直感するより外に道はない。尤も、自
分はTaineの説を否定するのではない。たゞ制限したいのだ。FraubertのGeorge
Sandに与へた手紙にこの間の消息がよく論じてある。Taineはdeterministだからこんな風に説明したものであるが、決定論者の説は現時余
り権威がない。」
文中のGeorge
Sand宛書簡とは前記一八六九年二月二日のものになるだろう。その他にも、フローベルの書簡から、テーヌをはじめ、ツルゲネフ、ミシュレ、ルナンほか、
ゴンクール兄弟、ボードレールなどが、何れも同時代を同時に生きていたことに深い感銘を受ける。また、敏の右の文、及びその雛形のような「仏蘭西文学の研
究」でのテーヌ観以前に、明治の英文学界や批評界のテーヌ一辺倒の風潮への自戒が敏の胸中にあったことは本文の第一章で紹介した通りである。
七 前記(註一)小池健男「藤村とフランス思想」参照。なお、小池文は『フランス文学講座』6『批評』(大修館書店)の「プルーストと批評」に拠ってい
る。プルーストの手紙は次のように続いている。「ドーデの場合、彼はその神経と闇と波浪を貫いて、なおも輝く純粋な精神であり、海上にきらめく小さな星な
のだから、なおさら驚くべきことだ。すべてこういうことはほとんど知的とは言いがたい。精神がまだ十分に自己を意識せず、自分は肉体から派生したと思って
いるそんなコンセプション考え方は精神が抱く最も偏狭な考え方だ(なぜならいっさいは精神のコンセプション産物なのだから)。」(『プルースト全集』16
書簡1 筑摩書房)
八 「早稲田文学」36号に「仏の文豪テーン逝く」(見出しに「テーンの略伝」「其の著書」「批評家としてのテーン」「其の長短」 明治二六・三・二五)
が載り、「同」42号、43号に「故ヒッポリト、テーン」(「テーンが功績」「故テーンの性行」「其の技倆」 明治二六・六・二五〜七・一〇)の連載があ
る。(「テーンが功績」が42号、「故テーンの性行」「其の技倆」が43号)。いずれも「海外」欄。36号「仏の文豪テーン逝く」の文末に「尚テーンに関
する評論は海外の諸雑誌に出づるをまちて其の大概を報ずることあるべし」とあり、43号「故ヒッポリト、テーン」の文末に(以上『当代評論』四月号
G.Monodに拠る)と、その典拠が記されている。G.Monodは西洋人名辞典などによれば、フランスの歴史家Gabriel
Monod(1844~1912)か。著書に「歴史の巨匠ルナン、テーヌ、ミシュレ」(1894)などがある。以上の中から『英国文学史』にかかわる評言
のいくつかを抜粋、かいつまんで記す。
《仏の文豪テーン逝く》より。
「エドワード、ドゥデン……又曰はくテーンの英国文学史の出でしや人々其の搆思の雄大にして論理の精厳にして千万錯綜の事実を調理して一々其の宜しきを得
しめたるに驚嘆せり……みづからは称して毎に帰納論法を用ひたりといへれど実は始終演繹の法を用ひ先づ一の定則を立てゝ此の定則より結論を抽出せり彼れの
諸書を研究するやおのれの学説に証拠を加へんが為に研究したるが如き傾ありと」
「トレイルもまた彼れを評して曰はく……彼れの理論はたしかに濫用せらるべき虞あるものなれども其の応用の獘を見ずしてひとり其の論を理として見れば歴
史、文学、美術の上に耀々たる光明を投ずるものにして学生の為に一新世界を闢くものなり蓋し個人は周囲の奴なりといふ説は真偽相半するの説なれども其の斬
新なることは争ふべからず……さりながら未だ妥当とすべからざるもの尠からず彼れはミルトン、ドライデン、ポープを誤解すること甚し」
「彼れの批評家としての功績は(第一)歴代の文学と同代の他の事業上にあらはれたる人心との間に密着の関係あることを明に世人に知らしめしことゝ(第二)
時好に適へる偏狭なる美術論によりてほしいまゝに古今の作物を軒輊する守旧と頑昧とを矯正せんと力めしことゝなり」
「而して其の短所を挙ぐれば已にドゥデンもいひし如く人間に普通の心性ありて万国民に具通することを忘れ一国民の知識上并びに道念上の特質は遺伝によりて
其の後裔までも変りがたきものゝやうに断定し、ありとある美術家文人詩人をもて一方に於ては件の遺伝的特質に支配せられ一方に於ては時勢、周囲の奴たるべ
きものとし毫も彼等の特得の能力を認めざりしこと等其の重立たるものなり即ち彼れは美術家詩文人に自由意思あることを拒み且彼等に時勢に反影響を与ふる力
あることを否みたり」
《故ヒッポリト、テーン》より。
「ヒッポリット、テーンは所謂中古派(Romantic
School)の運動に継ぎて起こりし科学派の一勇将として錚々たる者なり……彼等(注・科学派)は中古派と共に古文学派の陳腐なる規律を排斥し美術の自
由なるべきを唱道し生気と生色と変化との豊富自在ならんことを渇望せりしかれども彼等はまた個人をしてほしいまゝに其の一個の情感と想像との指定する所に
よりて漠然たる主観的理想を設定せしめ而して偏に其の方角にのみ逸走せしむることを許さず否彼等は人生及び美術に通じて唯一の原理あることを認めたりき所
謂唯一の原理とは真理の探窮是れなり而して彼らの所謂真理は彼の想像より生まるゝ漠然たる抽象の空想にもあらず又主観的若しくは専断的の観念にもあらずし
て頗る確実に証明することを得べき客観的即ち科学的真理なりき……」
「之れを要するに科学的主実旨義の方向に二道あり一に曰はく外に見れたる真理の研究、二に曰はく内に存したる真理の探索/前者は生活の有形可触的現象を忠
実にありのまゝに表現することを以て目的とし後者は此等諸現象を決定する勢力の作用と天然の諸原因の相互の作用とを思索推定することを目的とせり是れ実に
近年に於ける仏国文芸の目的にして詩人も画工も彫像家も小説家も哲学者もはた科学者も多少之れを以て其の旨とせざるものなし……/テーンは此の壮観中の壮
観なり彼れは件の時勢と当代の精神とを最も鋭く最も豊に且最も精密に代表したるものなり……彼れの説固より悉く善美なるにはあらねども其の真理を愛するの
念の無我誠実なりしことゝ其の美術と科学とを兼ね修めて二者を併合することの頗る有益なると同時に敢て行ひがたからざるものなることを当世に証したりし功
績とは称して更に称せざる可からず」
「彼れはまた深く其の周囲の印銘を受けたりしものなり……其の科学家、生理学家、医学家との交際は形而下の因に万現象を帰し竟にデタルミニズム定命の説を
確信するに至らしめ其の美術家を尚崇するの気稟は……彼れの着眼をして悉く美術家的、画工的たらしめき……」
「然り彼れは詩人たるの技倆に甚だ富めり文章家としては事物を活かして画き、史家としては現に動き現に行為し現に談論する人物を画き、批評家としては毎に
眼中にルーベンズを見、チシヤンを見、シエークスピヤを見るの人なり」
「彼れは何事をも詮ずる所は数学的問題なりと思へりき有形なる宇宙、人間のイゴー自我、歴史的事件、美術の作物等、物として彼れが其の源をいと単純なる定
理に帰せざるはなし彼れは此等複雑神秘なる問題をば数学家が定式を説明するが如く論理家が三段法を応用するが如くに穿細明瞭に取扱へり彼れの作家を評し美
術家を論ずるや総て彼等の由来をひとしく血統と時勢と周囲との三者に帰す」
「夫れ実験派は諸の事実を剖拆分解して其の相等しき所以又は其の相継続する所以に着目すれども敢て必しも彼等の間に因果の或確定せる関係あることを仮定せ
ざるなり然るにテーンに至りては絶待の定命説を唱へて事実と事実との間に確定明瞭なる因縁果の関係あることを断了せりかるが故に吾人若し彼れを信じて而し
て彼れの諸著を読まば宇宙間の事物一として彰々乎と解釈徹底せられざるものなきが如くに感ずべし」
「彼れは論理的才能と画図的才能とを兼有し審美の法と科学研究の法とを混同し複雑霊妙なる造化人生の諸現象を一種の厳格なる定規によりて悉く一様に律し去
らんとしたるなり而して此の杓子定規的攻究こそ回護すべからざるテーンの欠典にして其の書の徃々読者をして人生の甚だ陋劣なるが如きを感ぜしめ個人の心性
の大に頼むに足らざるが如きを感ぜしむる所以なり」
「テーンは形而上の実体を度外視して只管に形而下の事実を重じたりかるが故に彼れの文学を論じ美を論ずるや其の之れを攷究するの手続他の歴史上の問題を攷
究するの方法に異なることなし随うて彼れの著述は……悉く歴史的著述ともいふべきものなり……さればこそ彼れのラ、フオンテーヌを論ずるや其の実は十七世
紀の社会とルイ十四世の朝廷とを評論するに外ならざる者となる又其の英国文学の史を叙するや其の実は古代より最近代に至るまでの英国の文化の変遷と英国民
心の進化とを叙するに外ならざるものとなる……」
「さればまた其の伊太利紀行と『美術の哲理』に於ては十五世紀及び十六世紀の伊太利社会を評論して十七世紀なる和蘭の生活并にペリクレス及びアレキサンダ
ルの時代に於ける希臘民族の風俗に及びたり之れを要するにテーンは文学史并びに美術史をもて人間の自然史の一部分なりとし而して人間の自然史をもて宇宙史
の一断片なりとしたり即ち彼れの人間を考査するや植物家又は動物家が植物又は動物を考査するに似たる者あり」
「テーンは最も誠実に最も著大に近世の科学的精神を代表したりしものなり」
九 透谷という人から漫然と考えると、この「須らく内部を見るべし」という捉え方は、どこか内部生命論の「心宮」というような、唯心的・神秘的な世界を想
像してしまうが、実際にはそうではないことは言うまでもない。「緒論」で提起されているように、「眼に見える有形の人間は、単に一つの徴候にすぎず、我々
はそれによつて眼に見えぬ内的人間を研究しなければならぬ」「眼に見える人間を観察する時、諸君はそこに何を探し求めるだらうか。眼に見えぬ人間であ
る。……外的人間の奥には、内的人間が隠れて存在してゐる」など。そして、「目に見えぬ様々な傾向が、いついかなるところでも目に見える作物の原因をなし
てゐて、内部が外部をつくるのだ」(第二章「劇」)、あるいは「眼に見えぬ動作は、何れも、その背後に、遠い過去又は近い過去の人々の経験した推理・情
緒・感覚の無限の連鎖を従へてゐる」(「緒論」)など、人間の本源的要素に敷衍されていく。
一〇 ほかにman such as he wasとか ~see it as it isとか、 truth as it is・ living
natureというように。また、as in nature・ living figure・ living men・
beings(生ける存在)・the whole man(人間そのもの、全体としての人間)など。
一一 逆説的な言い方としては、ウイッチャリーの劇に寄せる「何という心優しい論旨であろうか! 自分が不幸の極みに陥れた女性に対する、これ以上けっこ
うな慰めがありえようか? しかもこのすぐあとの暗示は、何と感動的な論理であることか!」などもある。あるいは雄弁でシニカルな「スウィフトを除けば、
憎悪の毒をこれほど意欲的に心の中に濃縮させ辛辣にした人間はいるであろうか?」などの文は後を絶たない。
一二 we escape from measured declamation, we hear a man’ s voice! we
forget the voice in the emotion which it expresses, we feel the emotion
reflected in ourselves, we enter into relation with a soul.
一三
矢野『『文学界』と西洋文学』では「藤村が特にこの一篇を選んで訳したのは、テーヌがその豪華な東邦的色彩に富める事を称揚して居るのに心を引かれたため
であろう」とある。「……東洋の豊かなフアンテジ幻想が、ヴォルテール流の輝かしい才気のきらめきを伴ってではなく、真紅と黄金色の整然たる襞を揺らめか
せる、穏やかな燦々たる光の下に、繰り広げられていく」(『古典主義時代』第四章「アディスン」―\「ミルザの夢」)以下、テーヌの解説は読むものを陶然
とさせる。そして最後に「この豪華な装いの教訓のなかに、かくも非の打ちどころなくかくも雄弁な論理のなかに、かくも妙を得て高貴な想像力のなかに、……
イギリスの古典主義時代をフランスのそれと区別している、イギリス的陰影」を彼は見出している。
一四 John Richard Green (1837〜83).『イギリス国民小史』(1874 A short
history of the English
people)。孤蝶『明治文壇回顧』の「英語を学び始めてから」に、明治学院の歴史教科書として、モントゴメリイの英国史、フリイマンの欧洲史略、フイ
ツシヤアの万国史とならんで、グリインの英国民史が挙げられている。後年、秋骨は国民図書から『大英国民史』(上・中・下「泰西名著歴史叢書六〜八巻」)
として翻訳出版している。他に中村祐吉訳『イギリス国民史』(1968 鹿島研究所出版会)がある。
一五 テーヌには次のような文もある。
「世紀の流れが我々を導いてゆく未知の創造が、どこまでもこの三つの本源的な力によつて、惹き起され、規定されるであらうといふこと、もしこれらの力が測
定され、計算され得るとしたら、一つの公式から演繹されるやうに、人は将来の文明の諸特質をこれらの力から演繹し得るであらうといふこと、及び、我々の記
載が著しく粗雑で、我々の測定が根本的に不正確であるにもかゝはらず、今日、我々が人間の一般的運命について何らかの観念を得ようと望むならば、これらの
力の検討の上にこそ、我々の予見の基礎を置かねばならぬといふことである」
「これらの力が測定され、計算され得るとしたら」とか、「何らかの観念を得ようと望むならば」とは、これも一つの仮説の条件を意味するだろう。ただ、渡辺
一夫氏の「幻想家テーヌ」(一九三六『渡辺一夫著作集』)にテーヌの言葉を取上げた次のような文がある。
「『余は懐疑派の逆を行く者だ。余は独断派で有る。余は、人智にとって一切が可能であると信じている。十分な資料さえ与えられていれば、即ち、完璧な器具
と念入りな観察とから供給され得る資料が与えられていれば、人間及び生命についてすべて知り得ると信ずる。決定的な神秘なるものは存在しない』とテーヌは
言った。これは、自負の豪語の形をとった感激の叫びであり、これほどテーヌを熱狂的な幻想家に見せる言葉はなかろうと思っている。」
「自負と豪語の形をとった」この文は、本文引用の文とは格段の差があるが、何の論文に書かれたものだろうか。
一六 He, like everything else, is a product, and as such it is a right he
should be what he is..
一七 例えば「幻想家テーヌ」の次のような文。「僕が読んだ範囲内におけるテーヌから受けた印象は、異常な幻想家である。第一に感ぜられることは、自己の
理論体系に彼くらい熱狂し、その建築的構成作業の各々に、彼くらい陶酔する理論家はまれ罕であるということである。第二に想うことは、テーヌをかくも熱狂
陶酔せしめる理論体系そのものは、現実観察に際して彼が感得した大幻想曲の所産だろうということである。近代的な叙事詩人の一形態がテーヌに顕現してい
る。従って、彼の文章に接する人々は、読み行くうちに、冷酷な理論家の締木に挟まれる感銘は抱かずに、むしろ、四周に絢爛たるイマージュの沸きあがるの
を、幻想の世界に捕えられるのを感ずるであろう。バルザックを論じつつテーヌが描き出したパリの沸騰するイマージュの群団は、そのまま彼の理論の適用に際
して我々の受ける感銘となるであろう」。(←註一五参照)
一八
『英国文学史』中、「ルネッサンス」の第三章「散文」の項で、トマス・ブラウンを叙したところの文。「厖大な学識を生動させて無味乾燥な目録に止ることを
拒み、一つ一つの事実、一つ一つの対象を解説して、夫々に一つの神秘な魂を識別し、推察し、そして人間の内と外とにうごめいている世界を雄大な謎のやうに
表はして人間の全身全霊を惑乱させる詩的な感情……」、また、ここで取上げている「実証的な観察の彼方にその透徹した洞察を投影し、感知し得る仮象の背後
に、何とも知れぬ幽暗で荘厳な世界を瞥見し、我々の小さな宇宙がその表面にゆらめく茫漠としてゐて而も生物の棲息する広大な暗黒の前に一種の畏敬の念を以
て戦慄する……」などの文。フランシスコ・ベーコンを評している文にも「彼はその主題を非常に表現的で正確で透明な比喩の中に具現する」とある。そのた
め、「その形象を通して読者には、美しい水晶の瓶の中のリキュール酒のやうに、その思想の細部が残らず認められる」と書いている。「彼は思索する。分析に
よつてではなく、象徴によつてである。自分の思想を説明する代りに、彼はそれを置き換へて、翻訳する」という文もあって、これは『英国文学史』の一つの基
調だろう。この絶頂はシェイクスピアほかの幻想家たちにつながるのにちがいない。バートンやトマス・ブラウン、このベイコンとつながる英国散文の始祖たち
を評して「かうした博識家と夢想家と探求家」とあるが、自らの系譜を語っているようで興味深い。
一九 たとえばデューラーは次のように紹介される。
「この時代の偉大な芸術家を見てみよう。勤勉で誠実な職人、ルターの信奉者であり、真実の北方の人であるアルベルト・デューラー。彼はまた、ラファエロや
ティッチアーノのように、人間的な理想を持っている。無尽蔵な理想で、そこから無数の生き生きとした人物、風俗の典型を描き出す。しかもそれらはいかに種
族固有のもの、本源的なものであったことか。彼は大げさな幸福そうな美などに注目しようとはしない。彼にとって裸体の肉体はただ洋服を着ていない肉体であ
る。瘠せた肩、突き出た腹部、細い脚、足は靴の重さで圧迫されてしまっている。彼の隣人は、大工の隣人であり、彼のおしゃべりはソーセージ売りのおしゃべ
りである。……この世に慎みというものがあるとすると、それはデューラーの筆の下から繰り返し現実の生に現れる聖母マリアである。彼はラファエロのよう
に、それらを裸体で始めなかった。最も放埓な筆ですら彼女たちのローブの一つのきちんとした折り目をかき乱すような冒険をしようとはしなかった。腕のなか
に幼な児を抱いて、彼女等は幼な児だけを考えている。そして幼な児以外の何ものも考えようとはしていなかったろう。彼女等は無垢であるのみならず高潔であ
る。……デューラーはそれ以上のことをなしている。この平和な徳とともに、彼は闘争的な徳を描いた。そこには最後に真正の(見せ掛けでない)キリストがい
る。今まさに十字架に架けられている男であり、やせて、苦悶に満ち、もはや死の色を浮かべた男である。……我々はここに、イタリアの巨匠たちにおけるよう
な、目を楽しませる光景を見る事はない。あの優美な着衣の襞のながれすらも、あの雄渾な群集の処理すらも、見出す事はない。心が(心すらも)、この光景に
よって傷つけられる。これは、この世界が正義や公正を嫌ったがために死につつある虐げられた男そのものである。(ChapterX The
Christian Renaissance U)
イギリスの暗い風土の特性を述べながら、「このような風土が行動を指示し、怠惰である事を禁じ、活力を発達させ、忍耐を教える」(「過去と現在」第二章
T)と、トマス・ゲインズボロの冬の海の荒涼とした風景画から説き起こしている場面もあるし、テームズ河畔の巨大な倉庫群で働く人々の群れをレンブラント
の絵にたとえる場面もある。。
二〇 テーヌが『ヴィーナスとアドニス』の豊饒な官能の饗宴をティッチアーノですら及ばないとたとえている事は、矢野氏の著作などを通しよく知られている
が、ティッチアーノは実に何度も使われる。仙境のバラの寝床に横たわるスペンサーのアクレイジアは「ティッチアーノの描く女神や娼婦のやうな姿勢をしてい
る。」 ベン・ジョンソンの『ヴォルボウシ』という作品評には「これは当代の習俗の最も溌剌とした絵画であり、そこにはもろもろの邪な貪欲の美しさがくま
なく展示され、淫楽が、惨忍性が、黄金欲が、悪徳の破廉恥が、ティッチアーノのバカナール饗宴にもふさはしい不吉で絢爛な詩を撒き拡げてゐる」というよう
に。あるいはまた、同じくベン・ジョンソンが終世にわたって物した「豪華の氾濫」は「ティティアーノの行列にも比すべき文字通り眼の饗宴」であり、「彼が
どんなに年老いても、彼の想像力は依然ティティアーノの想像力のやうに豊饒で新鮮であつた」というように。ほかに「かうした豪奢な遊蕩に、……ティント
レットやヴェロネーゼの祖国であつたヴェネチヤの姿が髣髴と浮ぶ」など。
二一 このような連想を言えば、藤村の初期小品『草枕』も興味深い。私は今まで、『草枕』をただ『失楽園』の場面に拠ったものと思っていたが、ここで、ア
ダムとイヴが誘惑に陥るその周辺を、花を持って出没する女神がいたことを思い出す方もいるだろう。初め私は、あの女神の意味があまり理解できなかったが、
これもやはり、『英国文学史』のこの周辺で紹介される作者不詳の作品に出てくるキューピッドと同じ役割を受け持っていたのだろう。キューピッドは神的世界
の森の片隅で恋の悪戯を仕掛ける愛の女神役になっている。あるいはまた、これも『英国文学史』に出てくるが、「魔法の花」で若者の目に触れて、若者の心を
変える『真夏の夜の夢』の妖精のような存在でもあるだろう。いずれにしろ我々は、無垢な悪戯に似た官能の物語を存分に浴びながら読み進んでいる。なお前記
の『明治百年にわたるミルトン研究』で宮西氏は、この「草枕」は『失楽園』の「大胆な翻案」とみられていて「概していえば、似て非なるもの」であり、アダ
ムとイブをとりまく「この悪魔と女神は、盲目のキューピッドとヴィーナスのとりあわせにすぎなかった」としているが、この文を「この悪魔と女神は、盲目の
キューピッドとヴィーナスの役を負っていたのだ」と置き換えてみれば、藤村作品への過不足ない同情になるだろう。通常、アダムとイブを取り巻き追い立てる
のは、剣や槍を持った神の兵士だが、ここではキューピッドや妖精が二人を取り巻くのである。笹渕友一氏によれば、「草枕」は「ファウスト」の構想に学んだ
と思われる点を含んでいるとされて、「この作品は創世記の神話が素材になつてゐるが、アダム、イーブ、悪魔の関係はファウスト、グレェチヘン、メフィスト
フィレスの関係によつて構想されてゐることが明らかである」としている。→第一章の註二六及び、第二章の註三六も参照されたい。
二二 「比喩」などについては「彼のやや概念的な、ときには乾燥した比喩」などの評もある。「彼のやや概念的な、ときには乾燥した比喩や、あまりにも雄弁
調の羅列などに会うと、自然で柔軟で繊細なルナンの文体の美しさが際立って映ずるけれども、テーヌの文章に見られる、現実のなかにゆるぎなく人物像を据え
つけて力強くたたみあげてゆく壮快さは、独特のものである」(平岡「ルナン、テーヌ素描」)
二三
前記グリーン『大英国民史』も、文芸復興期を寿ぐように、テーヌのこの言葉を引用している。「テエヌ氏の美しい辞句を引用して言へば「人々は初めてその眼
を開きものを見た」のであつた。人間の心はその前に開かれた広大なる原野を望見して新らたな力を得たやうであつた。……」(戸川訳 第六章「新君主政」第
四節「新学」 ←註 一四参照)
二四 「彼の生涯は、終始、社交界人及び行動家の生涯」であり、彼の「教養」は、彼の属した社会に極
めて深く関連し、「様々な事件、旅行、戦争、宮廷など」、「その天才・教養・生涯によつて、一つの世界を隅々まで識り、画くことができ」たとある。それに
対して詩人カウリー(A.Cowley,
1618~67)を評して、彼は「ポープのやうに大読書家で詩作家であり、ポープのやうに人間の情熱よりも書物の方に詳しく、事物よりも言葉に専心した」
というような評がある。
二五 平田禿木年譜(明治文学全集『女学雑誌・文学界集』筑摩書房)に、明治二四年、第一高等中学校に入学した当時の読書歴のなかに「とくに兼好の人生観
やペイターの『文芸復興』に深く感動した」とある。「吉田兼好」にある文は、「システィンの寺に丹青を凝らせしミカエル、アンゼロは、……」云々。→藤村
書簡(二六・二・七)、「かたつむり」(同三・三〇)「茶丈記」(同七・三〇)など参照。
二六 孤蝶「想海漫渉」(明治二六年「文学界」一二号)の以下のような文。
「……請ふ見よ、大盗バーバラよりも剛悪なりとキリストを叱し、モーゼを魔術者なりと罵るマーローが大胆や驚く可く、
Base Fortune, now I see, that in thy wheel
There is a point, to which when men aspire,
They tumble headlong down: that point I touched,
And seeing there was no place to mount up higher,
Why should I grieve at my declining fall? ―
Farewell, fair queen; weep not for Mortimer,
That scorns the world, and, as a traveler,
Goes to discover countries yet unknown.
と叫ぶ彼が意気や壮なりと云ふ可し。
……此の如くにして、英国国民の基礎定まり、此の如くにして剛健のアングロサクソン民族の素養はなりぬ。……」
「大盗バーバラ……」以下の文は、テーヌの「マーロウはグリーンやケット(Kett)と同じく、不信者であつて、神とキリストを否認し、三位一体をののし
つた。そしてモーゼはいかさま師であり、キリストは実際バラバよりも死刑を受けるのが当然であり、『もし自分が、マーロウが新しい宗教を書かうと企てた
ら、もつとよい宗教を作るだらう』し、どの集りに行つても、自分は無神論を説教すると断言した。」の文に相当するだろう。(Marlowe, like
Greene, like Kett, is a skeptic, denies God and Christ, blasphemes the
Trinity, declares Moses “ a juggler,” Christ more worthy of death
than Barabbas, says that “ yf he wer to write a new religion, he
wolde undertake both a more excellent and more admirable werbode,” and
“almost in every company he commeth, perswadeth men to Athiesme.”
)テーヌの文はその後、「これこそ、思想の自由が、あの幾世紀の後に始めて手かせ足かせをはづして敢て歩き出したかうした新しい精神に投げ入れた怒りや、
不敵さや過激さであつた」と続く。(註・英文中wervodeは印刷不鮮明のため筆者の推量で挿入した)
Base
Fortune……以下の英文は、テーヌが文中に引用する『エドワードU世』からのものであろう。三行目のtouchedがテーヌ英訳本では
touch’dになっている以外、(カンマの有無などは別に)、そのままのものである。登場人物のモーティマーが、「すべてが崩壊し、終滅する退引ならぬ
必然と避けがたい滅亡といふ感情」をもって首切り台に連れていかれる。そのときモーティマーが微笑を浮かべながら言う科白がこれである。テーヌは「この壮
語の重みをよく測つて頂きたい。それは心の叫びであり、そしてマーロウの内的告白であり、同時にバイロンやヴァイキング古き海の王たちのそれでもある」と
解説している。なお「大盗バーバラ」は英文でBarabas(Barabbasとも)となっているから、孤蝶の「バーバラ」は誤りか。「The Jew
of
Malta」の主人公でもあり、キリストと同時に架刑される「バラバ」の名を托しているのではないか。朱牟田夏雄他著『イギリス文学史』(東京大学出版
会)では「The Jew of Malta」の主人公を「バラバス」としている。
ほかに、孤蝶の文中に、「思ひ見よ、彼の才華の灼爛たる恰も朝暾の桜花に映ずるが如く、壮烈なる彼の海洋の狂涛の如く、人皆己を忘れて只美を是れ追ひ,想
是れ発せむとするの気運は、彼の西欧十五世紀の智力興隆に非ずや」とある。この「智力興隆」とは「ルネッサンス」をさすだろう。しかも内容は主に英国ル
ネッサンスを指している、「爰に於てか此新思想は、電光の如き剛侠の詩人マーロー、万想を容れて余りある大海の澎湃たるが如きセキスピアー等の奔蕩豪快の
筆に由りて此新世界に迅雷の如く轟きぬ」などと、これらの文からテーヌの文の面影を見出すのはむずかしいことではない。世にはびこる「縄墨の徒の偏見」を
罵り、「無味なる腐旧の形骸」「朽腐の材」「腐屑の準縄」「西欧頑迷の教徒」を罵倒する孤蝶のこの論に対しては、「明治二十六年当時のものだけに、透谷、
禿木らの論調に共通する破壊的・革命的情熱が横溢している」と笹渕友一氏の解説にあるが(←『明治文学全集32『女学雑誌・文学界集』筑摩書房)、その情
熱の背後にテーヌの影を見てもよいのであろう。
二七 「草堂書影」の以下のような文。
「……ラフハエル、サンチオ年はじめて二十、行きてシエンナの堂に聖者の像をうつすや、壁上の佳人しきりに其心をひきて、燃ゆるばかりの手は却てこの蒼骨
をゑがくに足らず。早く彼のスリー、グレーセスの図をなしぬ。さればマドンナをゑがきしとて、何ぞそれフオルナリアの姿をうつせしにあらずとせむ。キリス
トはこれ十字架を負ふのジユピターにあらずや。ラスト、ジヤツジメントはこれオリンパスの日にあらずや。」
これと『英国文学史』の以下のような文。
「中世の瘠せこけたキリストの像……鉛色したみにくい聖母……これらすべての感動的な又は痛ましい中世の幻影は消え去つた。繰り拡げられたる神聖な肖像の
群は、もはやはなやかな肉体や恰好のいゝ上品な肖像や美しいゆつたりした身振をしか呈示しなくなつた。……このイエスは『十字架にかけられたジュピター』
にすぎない。ラファエルが衣裳を着せる前に裸かのさまを素描したあの聖母たちは、その愛人フォルナリーナ(Fornarina)の縁者であるまつたく地上
的な美しい娘にすぎない。ミケル・アンジェロによつて、天界の最後の審判の場に立たせられ、身をくねらせてゐるあの聖徒たちは、大いに闘い、大いに断行す
るところのできる運動家のあつまりである。」
二八
ほかに「彼等は子供であり、しかも逞しい子供なのである」など。それは一途で無垢であるばかりでなく、大人の世界に伍するほどに逞しい……。
二九 城東生訳『沙翁曲中の淑女』(『女学雑誌』三三一号乙 二五・一一・一二)のエピグラフに「シエクスピア翁はミリオン、マイント万能の詩人なり、或
は云ふ底しらずの湖なりと、」とある。ミリオン・マイントはmillion mindか。コールリッジがシェイクスピアを称えたというmyriad
–minded Shakespeare という語があるが、このmillion mindは誰の語に拠るものだろう。
ついでに述べると「底知らずの湖」については、透谷「「歌念仏」を読みて」に「底なき湖」という語が、藤村も「村居謾筆」で「春の舎が好んで逍遥し給ふと
聞く底知らずの湖のことは知らず」などと使っている。この語は、そもそもは逍遥の「文界名所・底知らずの湖」(明治24)などに拠るのだろうが、森谷佐三
郎『日本におけるシェイクスピア』(八潮出版社)に次のようにある。
「逍遥の「底知らずの湖」はそのモチーフをダウデン(Dowden)のfathomlessに得たのではないか、という興味ある指摘がある。(松本伸子
「没理想とエドワード・ダウデン」昭55)。ダウデンの‘fathomless’が出てくる箇所は次の通り。
It is by virtue of his very knowledge that he comes face to face with
the mystery of the unknown. Because he had sent down his plummet
farther into the depths than other men, he knew better than others how
fathomless for human thought those depths remain. (Shakespeare, a
Critical Study of His Mind and Art)
シェイクスピアは、彼だけが知っている独特の方法で未知の神秘に出逢うのである。彼は自分の錘を他の人達よりも遥かに深く、海の底の方へ向って下ろして置
くのだ。だから彼は、人間の思考にとってこの深みが、如何に底知れぬものであるかを、他の人達よりも良く知ることを得たのである。(松本訳)」
三〇 ほかに「あらゆる資質とあらゆる本能が一斉に立ちあがつた。低俗なものも崇高なものも、……」(Under this appeal all
aptitudes and instincts at once started up; the low and the lofty,
……)(「劇」三)とか、「その高きところをも低きところをも愛し」(love its ups and
downs)(「習俗」二)など。参考→「美しくも醜くも、平板であり、グロテスクであつてさへも」=(beautiful and ugly,
even dull and grotesque)、「全能で、極端で、崇高を描いても卑劣を描いても共に比類がなく」=(all powerful,
excessive, master of the sublime as well as of the base)。
三一 もっとも、禿木の「欝孤洞漫言」(其四)には、「シエキスピアーの一無頼漢たりしを知らば」というような一文はある。
「天下最も済度し難きもの、彼の徒らに区々の小見地を立てゝ自ら高しとするの徒、笑ふべく厭ふべし、今の西教徒の如き即ち是なり、/巖頭に立て人生を観
る、汚濁の大河滔々として流れ、塵埃の塊飄々として漂ふ、人間は畢竟是にあらずや、唯濁流万尋の底、別に清透たる活泉の湧くあり、塵埃千丈能く玲瓏たる玉
を蔵む、腐腸霊声を吐き、濁胸美音を発す、彼の方寸の心魂裡に宇宙万象を没し去りしの詩聖、シエキスピアーの一無頼漢たりしを知らば、又何ぞ屑々として我
詩人酒癖を之れ患ふるの事を為さむ、活火胸底の塵を焼き尽さば、形骸汚毒の海に沈むも可ならむ、」
三二 ほかに「はみ馬銜を外した自然を田野に放ってみせた者」というような文。「これほどあらゆる規則を無視し、これほど溢るるばかりの肉体の生気に身を
任せて」の譬え。『古典主義時代』第六章「小説家たち」の中でフィールディング(H.Fielding, 1707~54)を叙する文。
三三 たとえば透谷の「此世は情と欲とによりて水の如くに流れ渡るものにしあれば」(石坂ミナ宛書簡 二〇・一二・一四)、「人間と呼べる一塊物……善あ
り、悪あり、始めて其本性を識得するを得るなり、……/神の如き性、人の中にあり、人の如き性、人の中に在り、此二者は常久の戦士なり」)(「心機妙変を
論ず」 二五・九)とか「罪、悪、過失等の形を呈せざる内部の人生に於て、欲と正義と相戦ひつゝある事」(「明治文学管見」 二六・五)という記述、藤村
の「天地の間二個の怪物あり、これを名けて塵といひ精といふ」(「人生の風流を懐ふ」)のような考え方。
三四 「底知らずの湖」については「註二九
」参照。なお、「『ウイルヘルム・マイスター』の反映」と書いたのは、『ウイルヘルム・マイスターの修業時代』第二巻第十三章で老人が朗誦する「涙ながら
にパンを食べ、/悲しみに満てる夜を、寝もやらで、/泣き明かしたことなき者は、……」(山崎章甫訳
岩波文庫)などのこと。たとえば「村居謾筆」の「……非常なる苦悶を験し、悲惨なる境遇に陥り、沈鬱憂愁、昼は昼の哀みを嘗め、夜は夜の苦みを飲み、彷徨
踟躊して泪多く零つるに至らば、……」などへの関連。笹淵友一氏には「葡萄の樹の蔭」の中の「枕を叩いて長き夜を泣き明したる者にあらざれば、涙を呑みて
「パン」を食ひしものにあらざれば、音楽の深味を知る能はずといへり」という一節が「ヴィルヘルム・マイスター徒弟時代」の当該の詩と関連をもつことは確
かである、との文がある。
三五
テーヌの文中では、チリングワースは「聖書に立脚する理性のみが人を説得するはずだ」と主張している。「権力は何の主張も持ちえぬ」とも、「宗教に反抗す
る事も宗教を強要する事も何の意味もない」こと、「宗教改革の偉大な原理は良心の自由であること、そして、異なるプロテスタント派の教義がたとえ絶対的に
真でないにしても、少なくとも彼等は、どんな不敬からもどんな誤謬からも免れている」と主張したと紹介されている。
『古典主義時代』訳注では訳者は、「Taineも『英国文学史』第二篇第五章W(Taine, Vol , pp.
323-24)において解説しているように、「プロテスタントからカトリックへ、そして最終的にプロテスタントへ」という信仰遍歴を踏まえた
Chillingworthの著書は、単なるカトリック攻撃・国教会擁護ではなく、自由な検索の正統性と個人の納得の必要性を説き、「聖書に適用された理
性のみが人間を説得すべきであり、信仰の強制ほど反宗教的な行為はない」と主張している」としている。同訳注でヘイルズに関しても、テーヌが「「信仰に関
して既成の権威に頼らず、多数に迎合せず、個の理性にのみ導かれること」を奨励したHalesの姿勢とその寛容主義について解説している」としている。こ
の自然的理性の尊重を説いた二人の聖職者は、チリングワースは内戦期の一六三四年、ヘイルズは共和制下の一六五六年、前者は幽閉された中で、後者は執拗な
王党派狩りの下にそれぞれ不遇の生涯を終えている。
三六 余計なことだが「詩人ミルトンの妻」の典拠については笹渕友一氏に次の文がある。
「藤村の読んだ「英国文人伝」の中の一冊はマーク・パティソン(Mark
Pattison)の「ミルトン伝」であつた。「女学雑誌」三〇五号(二五・二)の「詩人ミルトンの妻」(署名島の春)は主として同書の五一―六三頁、一
三六、一四五頁の叙述を抄訳し、更にテーヌの「英文学史」中のミルトンに関する事項をも織り込んで綴り合せたものである。尤もキャザリンに与へた所謂「与
妻辞」は両書になく、「ミルトン詩集」のソネット二十三章のOn his Deceased Wife
を援用したのである」。また、「ミルトン詩集」は「若菜集」の「深林の逍遥」について一つの示唆を与えるともしている。
笹渕氏はまた、藤村の「天馬」はミルトンのIl
PenserosoやArcadesと交渉があるのではないか、としている。→ミルトンについては註二一、第一章註二六も参照。
三七 『19世紀フランス文学事典』第一部の十五「近代批評の展開」の内「テーヌと科学主義」(古屋健三/小潟昭夫編著 慶応義塾大学出版会)
三八
「近来流行の政治小説を評す」は年譜によれば明治二十年二月の発表になる。蘇峰が何によって触発されたかは分からないが、鴎外が「英吉利を以て写俗小説の
祖国」としたテーヌに触れるのが明治二十三年の早い時期であったことも想起されたい(第一章)。矢野峰人『『文学界』と西洋文学』には、『英国文学史』の
「英訳が出たのは一八七一年(明治四年)の事であるが、その訂正新版は七十三年(明治(ママ)八年)に出た。従って、明治二十年前後にこれが輸入された可
能性は十分にある」と書かれている。蘇峰とミルトンについては、宮西光雄著『明治百年にわたる日本のミルトン研究』(風間書房)に蘇峰の『杜甫と弥耳敦
(註・ミルトン)』(大正六・九)という本が紹介され、「著者の述懐」として以下の文を引用している。
「若夫れ弥耳敦は、明治十三年、マコレーの弥耳敦論によりて紹介せられたるに過ぎず。但た其の紹
介者の雄文、快筆に愛著したるの余、更らに其の主題者たる彼に対する、欽慕の情を熾ならしめ、遂に彼の詩集と相見るに到らしめたり。予が当時に於る英語の
知識にては、彼の詩を欣賞するには、余りに不充分なりしは勿論なりし(マもマ)。然も人心に共通する神智霊覚は、其の半地半解の裡にも、尚ほ若干の愉快
を、我に齎らし来れり。例せば『パラダイス、ロスト失楽園』の第二巻に於けるサタン大魔王が、其の失墜したる天国を、恢復せんとする大評定の如き、当時の
未熟なる予をして、天地間斯の如き雄奇の文字あるかと、驚嘆せしめたりし也。例せば、彼か二十三歳自述のソンネツト短歌を誦して、自個の年齢が作者に近き
を自覚し、作者の感慨を、恰も我が感慨に同化せしめたりし也。
当時記者著者蘇峰は、熊本城の東郊に村塾大江義塾を設け、授徒自修に余念なく、偶ま業畢り神疲るれば、単り弥耳敦詩集を携へ、白川枝流に沿うたる小丘、老
楓渓を掩ふ村祠の畔に遊(マびマ)。時に巻を披き、時に冥想に耽り、暮色蒼然、詫摩の平原に満ち、阿蘇山の烟影、復た弁ず可らざるに到り、始めて己に反り
て、帰路に就きたる、幾回なるを知らざりし也。」
このように、蘇峰は、明治十三年にはマコーレイの『ミルトン論』を読んでいて、間もなくミルトン詩を愛読するようになって、大魔王の場面等に驚嘆してい
る。
この反逆の天使については、『明治百年にわたる……』中に滋野政璃(天来)博士の『ミルトン失楽園研究』(昭和七・一一)も紹介されているが、その書の
「小序」に「ミルトンが描いた世界的偉物セータンの雄姿に対して自分が最初に驚異の眼を開いたのは、今から三十六・七年前、早稲田学園に於て逍遥先生の
「失楽園」の講義を聞いた折であつた。それは前世紀末、……」等の紹介もある。滋野博士は「明治二十六年に第三高等学校に入学したが、病気のため退学、翌
年早稲田大学の前身だった東京専門学校に改めて入学、しかし明治三十年に家事の都合で卒業前に退学した」という記もあるので、「今から三十六・七年前」と
は明治二十八・九年頃になるか。『失楽園』の宗教性とは別に「セータンの雄姿」に鼓舞される気風はこの頃にあったのだろう。漱石の『文学論』にも感情の積
極性の一例に「彼の意気は孔雀が尾を広げし様の虚栄にあらず、失敗に陥り困難に遭遇して益々其度を高むる底のもの也。……批評家の言によればMilton
の魔王は其人格あまりに雄大なるを以て読者の同感を引き易く、却て危険の虞ありと。然り其雄壮なる性格に対し誰か幾分の歎賞の感を禁じ得るものぞ。而して
其賞するところは彼の意気死に至りて尚磨せざるあり」などの紹介もある。(第一篇第二章「文学的内容の基本成分」)
三九 こんな辛辣な批判も書き止めておこう。
「彼の作品の半ばは子供っぽく、ほとんど馬鹿げている。さえない事件が退屈な方法で述べられている。陳腐な言葉が繰返され、しかもそれを主義にしている。
世界の詩人たちの誰一人も、そんな退屈さで我々と一つになろうなどと思いもしないだろう。たしかに三枚の枯れ葉とたわむれている猫は哲学的な瞑想を与える
かもしれない。そして人生の落ち葉とたわむれる賢人を描くことになるだろう。しかしそんなテーマの80行は我々にあくびを催させる――さらに悪い事には笑
わせるばかりだ。この分でいけば我々はまだ使用中の古い歯ブラシからですら教訓を発見できるだろう。」
Half of his pieces are children, almost foolish; dull events described
in a dull style; one platitude after another, and that on principle.
All the poets in the world would not reconcile us to so much tedium.
Certainly a cat playing with three dry leaves may furnish a
philosophical reflection, and figure forth a wise man sporting with the
fallen leaves of life; but eighty lines on such a subject make us
yawn――much worse, smile. At this rate we will find a lesson in an
old tooth-brush, which still continues in use.
四〇
関良一氏は「彼がバアンズを愛したのも、彼の農村の出自であることもかかわりがあろうが、それよりも、彼の性向・思想が、単に風物のみならず、その素朴
な、日常的な、本能的な田園の生態にたいして共感をおぼえたためであろう」(「藤村詩と先行詩歌」)と書いている。農村詩人、自然詩人とバーンズを捉える
のが普通だが、「素朴な、日常的な、本能的な」とは含みが大きすぎよう。スコットランド農村社会の「大らかで、気ままで、本能的な男女関係」(木村正俊
氏)とか、小動物への視線だけを指すのか、それとも、cries out in favor of instinct and enjoyment,
so as to seem epicurean
というようなバーンズから学ぶとしたら、世のいかなる評価にも惑わされない、諷刺家の一人になろうとしていたのかもしれない。少なくとも、どこか諧謔・諷
刺に富んだ「キルマーノック版のバーンズの自序」(角川『バーンズ全訳詩集』)を読むと、反俗的な三つの劇詩を書いていた当時の藤村は、透谷のいう「諷刺
家」の一人と言うほうが似つかわしいようにも思う。もっとも天知宛の彼の手紙は、この地に「うめき臥」して、「むさくるしき田舎家」で自炊などを始め、
「さてこそ田舎詩人」などと「ざれ歌」などを物しながらいるわけで、単に自分を「田舎詩人」と自嘲的にいっているだけかもしれない。なお、笹渕友一氏の
『『文学界』とその時代』では、バーンズの世界を「官能、感覚の充足によつて生の充実を、人間の解放を味ひうる世界であつた」「完全な生の充実が実現され
てゐる」とされていて、「バーンズの健康な野性が懐疑と苦悶の近代の救ひとして藤村に示唆を与へた」と、「生の充実」「人間の解放」「健康な野性」と意味
づけされている。
四一
スタンダール『ローマ散策』→桑原武夫・生島遼一訳『赤と黒』(上)「はしがき」(岩波文庫)より。→臼田紘訳『ローマ散策U』(新評論)の「♦十一月二
十三日」には「パリ社交界の上流階級は、激しく絶え間なく、感じる能力を失っているように思える一方で、プチ・ブルジョワ階級のなか、あの青年たちのあい
だで情熱は恐るべきエネルギーを発揮している」。
四二 このような個所でもテーヌは次のように書いている。 without doing damage, and gradually,
so as to destroy nothing, and to make every thing bear fruit.
(何ものも損なうことなく、徐々に、何ものも破壊しないように、すべてのものが実りを生み出すように)。←第四編「Modern
Life」第一章「思想と作品」四
四三
藤村の文の中ではこの言葉は極めて新鮮な印象を与える。この言葉から、「もつと自分を新鮮に、そして簡素にすることは無いか」と、「見せかけの生活」や
「甲斐も無い反抗と心労」をすてて「都会」から遁れようとした『岩石の間』の主人公の気持を考えよう。
四四 ; all agitated by their too acute or aching nerves; the strongest
carrying their bleeding wound to old age, the happiest having suffered
as much as the rest, and preserving their scars, though healed. The
concert of their lamentations has filled their century, and we stood
around them, hearing in our hearts the low echo of their cries. We were
sad like them, and like them inclined to revolt.(Lord Byron Y)
四五 Try to understand yourself, and things in
general. ゲーテの言葉というこの文は未見。私は「あなた自身を理解するようにせよ、そしてありふれた事柄を理解せんとせよ」(自らを知れ、そし
て当たり前のことを)と訳してみたが、things in generalを当初、「普遍的事物」「事物の普遍」と訳してみた。the general
に普遍性という意味もあったからだが、「ありふれた」にしたのは、藤村の『海へ』に「私は唯ありふれたことを観察した」とあったからだ。『旧主人』『藁草
履』『爺』を回想する場面で述べられているが、「普遍」というようなむずかしい形而上的印象よりも、「ありふれたごく一般的な事柄」のほうがふさわしい。
なお、「普遍」を想像させるような言葉には、a word of universal mind とか、 always speaks the
words of the universal manなど、主にuniversalが使用されている。
なお、ブールジェが『現代心理論集』「イワン・ツルゲーネフ」の「補遺Y 観察の美学――『蛮族の目の下で』」において、これに類似したゲーテの言葉を取
上げている。これは、モーリス・バレスの『蛮族の目の下で』の主人公の内面的苦痛や、コンスタンの『アドルフ』の例を取上げながら、「自己放棄も自己充足
もともにできないこの「自我」に対する盲目的崇拝」者たちは、「ひとたびその害毒、つまり何かを真に愛する力のないことに気づいても、それを治癒すること
より、この卓越と洗練の害毒のほうを好むのだ」として、彼らを、「己れの分析が鏡に映し出す自分の苦悶から常に目を離さずにいる、いわば彼ら自身の悲惨な
ナルシストたち」なのだと断じている箇所なのだが、このような苦悩に満ちたモノグラフィーを閉じてみると、これとはまったく対照的な「ゲーテの回想録や青
年プレッシングとの対談」の場面が浮んでくるとしている。ゲーテが取上げているプレッシングの事例が、バレスの主人公と驚くほど類似している、というので
ある。以下にその文を掲げておく。(なお同書訳注には「ゲーテの回想録」は『わが生涯より、詩と真実』を指す、とある。またこれを補うものに『イタリア紀
行』その他があるとしている。ブレッシング(U. L.
Plessing 一七四九―一八〇六)はゲーテと同年の自虐的憂鬱症に悩むヴェルテル的青年。後に古代語学と哲学を修め、ライン地方のデュースブルグで
教授となった。プレッシングとの対談とは、ゲーテが彼から再三手紙を受け取った後、一七七七年に彼を訪問した折の対談で、『フランス出征』に詳しく書かれ
ている、とされている)
「彼は(註・プレッシングは)外界にはまったく注意を払わなかった。読書によって人格形成を行った彼は、自分の力と愛情をすべて自分自身に向けてしまって
いた。そのため、自分の存在の深みにいかなる生産的な喜びも見出しえず、己れにいわば致命的な打撃をもたらしていた」。ゲーテ自身はこれに似た苦境から脱
していたので、かつての『ヴェルテル』に酷似したこの青年に心の健康法を伝えようと試みた。「私は、苦しい精神状態、暗い憂鬱症から癒えるには、自然を静
観すること、外界に真摯な関心を寄せること以外にはないと彼に断言した。自然とのごく普通の関係、庭師や農夫の、猟師や坑夫の仕事はそれだけでも人間を己
れから引き離してくれるものであることを彼に指摘した。実際の現象に精神を傾注させることで、われわれは少しずつ満足と光明と教訓とを獲得してゆくのだ。
こうして内面の成長に懸命な努力を傾けつつも、忠実に己れを自然に結びつける芸術家は救済の道を歩んでいるのである……」。
いわば「自然を静観すること」「外界に真摯な関心を寄せること」「自然とのごく普通の関係」が、 ゲーテの言う「心の健康法」であった。しかし、このよう
な忠告は、それが含んでいる優れた深い内容が理解されず、「それは自分の人格を矯小にすることだ」と受け止められたために、ゲーテは自分の言辞がこの病人
には何の効き目もなかったことを認めざるを得なかったとブールジェは書いている。この文は、次の「アンリ=フレデリック=アミエル」の項にも深く関わるの
で、ブールジェの文をもう少し挙げておこう。
「ゲーテは、自分の話を聴いているこの病人には(註・プレッシング)自分の言辞が何の効目もなかったことを認めざるをえない。彼はこの単純な忠告が含んで
いる優れた深い内容を理解せず、それは自分の人格を矯小にすることだと受け取ったのだった。それは、この世にはありふれた生活以外には精神の治療法などな
いからであり、われわれの内面の完成へ向けての仕事は各人にとっての個人的事柄だからだ。そういう理由から、私は『蛮族の目の下で』の作者が、作品の最後
で救済がありうることを示さなかったからといって非難するつもりはない。通常は、置かれている境遇が、この種の病人に行動を強いることで、彼らに救済を得
させる役割を引き受けている。行動は人間を現実へと導く。そして現実は、最後には人間が否応なく真にものを感じるようにさせる。その暁に、干からびた憂愁
が姿を消し、強靭で若々しい心が意志と同様にわれわれのうちに甦るのだ。しかしこういう進化をどうしても遂げられない魂――われわれはその苦悩に満ちた実
例をアミエルのなかに見ることになる――が存在する。われわれはこの小説により脚光を浴びて登場した早熟な分析家がそういう人間ではないことを、そして再
度『ファウスト』の偉大な作者を思い起すならば、ゲーテの定言が彼においても実現されるように願おうではないか。「詩とは解放である」。」
「ありふれた生活」の発見、「人間を現実へと導く」行動については、「補遺[ 意志の病い――ある快癒 マクシム・デュ・カン」を読むとよい。マクシム・
デュ・カンの「病気から健康への、病的な反逆から受容への、内的混乱から均衡への」成長、自己からの脱却を、彼は「ある快癒」としてこの著作の最後に掲げ
ている(←第三章
註一二参照)。最初の「シャルル・ボードレール」が一八八一年に成り、この「ある快癒」は一八九五年の執筆年が記されている。何回かの改訂の最後に付され
たものであろう。
四六
A・ティボーデ『フランス文学史―1789年から現代まで』(下巻)(辰野隆/鈴木信太郎監修 角川文庫)の第四編「一八八五年の世代 一」(平岡昇
訳)。→第三章参照。
四七 A vast revolution has taken place during the last three
centuries in human intelligence, -―like those regular and vast
uprisings which, displacing a continent, displace all the prospects. We
know that positive discoveries go on increasing day by day, that they
will increase daily more and more, that from object to object they
reach the most lofty, that they begin by renewing the science of man,
that their useful application and their philosophical consequences are
ceaselessly unfolded; in short, that their universal encroachment will
at last comprise the whole human mind. From this body of invading truth
springs in addition an original conception of the good and the useful,
and, more over, a new idea of church and state, art and industry,
philosophy and religion. This has its power, as the old idea had; it is
scientific, if the other was national; it is supupported on proved
facts, if the other was upon established things. Already their
opposition is being manifested; already their labors begin; and
we may affirm beforehand, that the proximatic condition of English
civilization will depend upon their divergence or their
agreement. (第四編「Modern Life」第三章「過去及び現在」の結句)
〔拙訳〕この三世紀の間に大きな変革が人間知性に生じている。一つの大陸を改変するごとく、すべての展望を改変させるところの、あれらの整然とした巨大
な反乱のごとく。今や我々は、疑いのない発見が日に日に高まりつつあることを知っている。それらは、日々、次から次へと高まっていくだろう。事物から事物
へと最高の高みにまで到達し、人間についての科学を
再び新たにし始め、それらの有益な適応、哲学的な重要性が、止むことなく拡大されていくのである。要するにそれらの全体への浸透が、最後には全人間精神を
包含することになる、ということである。真実を充満したこの人間の体躯から、さらに、善と有益なるものの創意に富む理念が生じ、さらにその上に、教会や国
家の、芸術や産業、哲学や宗教の、新たな理念が湧出してくる。このものは、旧い時代の理念が持っていたように、自らの力を持っている。しかしこのものは、
旧きものがnationalであるならば、scientificである。旧きものが既成のものの上に造られているとすれば、このものは、立証された事実に
支えられている。すでに、それらの二つの対照する概念がそれぞれの存在を明示しつつある。すでにその働きは始まっている。そして我々は前もって断言する。
英国文明の最も近い明日の状況は、それらの相違の認識の上に、あるいは、それらの一致の認識の上に根拠をみいだすだろう。
四八 「美しい死」→『アラン著作集』10
「わが思索のあと」(田島節夫訳 白水社) 「……スピノザはまたも私を呑みこんだが、このとき私はみちあふれる真理のため口もきけぬほどであった。これ
はいわば美しい死のようなものである。しかし、ひとはどのようにかわからないが身を全うする。これも他の世界と同様に危険な世界であり、同じ世界である。
私の見解では、客観としての精神にかんするあらゆる省察が、ここに完結するのである。考える人はこの巨大な現実存在のなかに呑みこまれてしまう。……」
(「パリ」)
四九 ブールジェは『弟子』の青年ロベール・グレルーに次のように語らせている。
「……テーヌ氏もやはり、バイロンに関する雄渾な一文の中で、我々は「我々を理解」すべきである、といふのは、「精神の光が朗かな心を生み出さんが」ため
であると言つてゐます。」
「……私にとつて間違ひのない方法はゲーテが説いてゐるやうに、おのれの思想を、おのれの解放されたいと思つてゐる苦痛そのものに当てはめるところにあつ
たのではないでせうか。スピノザの第五巻に述べられてゐる学説といへば、我々個々の生活に於いて発生する出来事の背後から、それらの出来事を宇宙の大きな
生命に結びつける法則を引き出すところに成り立つのですが、いかに生くべきかを知つてゐるあの偉大なゲーテは、あの学説をそのまま実際の生活に生かした人
だつたのです。」
《第三章》
一 ブランデス/中沢臨川訳『露西亜印象記』(中興館書店 明治四五年二月二四日) 藤村の感想は同年五月の「文章世界」に掲載されている。『露西亜印象
記』については、そのほか、後の『平和の巴里』の「音楽会の夜、其他 三」に、「ブランデスの『露国印象記』を読み、又クロポトキンの『露西亜文学に於け
る現実と理想』を読んだものは、欧羅巴の文明に対する露西亜人と吾儕の位置の間に、容易く多くの似よりを見出すでせう。実際、幾多の欧化主義者と国粋論者
とを有せし点に於いて、吾儕は露西亜の青年に似て居ると思ひます。殊に髪の色を異にし皮膚の色を異にする欧羅巴人の間へ来て同胞に接して見ると、斯の二派
の相違のあることが今でも際立つて見えます。……」など、その感銘を繰返している。また、「寝物語」(拾遺 昭八・一・二〜三)にも、「あのブランデスの
眼に映つたロシア気質」、「温和とじゆんぼくとの楽みのうちに結びつけられた(マ疎マ)野とろ鈍との悲しみ……深い無智と迷信……堅忍不抜の性」などと懐
かしげに繰返す文もある。
二 たとえば次のような文章もある。
But they are patriots as well as innovators, conservative as well as
revolutionary; if they touch religion and constitution, manners and
doctrines, it is to widen, not to destroy them: England is made; she
knows it, and they know it. Such as this country is, based on the whole
national history and on all the national instincts, it is more capable
than any other people in Europe of transforming itself without
recasting, and of devoting itself to its future without renouncing its
past.
〔拙訳〕……しかし彼等は革新者であると同時に愛国者である。革命的であると同時に保守主義者である。たとえ宗教や政治制度、風習や教義に手を加えようと
しても、それを広く開こうとするのであり破壊しようとはしない。英国は日々作られていく。英国はそれを知っている。民衆もそれを知っている。この国はその
ような国であり、全民族的な歴史に基礎を置き、民族の本能に根を置くのである。作り直すのではなく改良する、過去を否認するのではなく未来に向かって専念
していくこと、それはヨーロッパのいかなる国の人より英国において可能とされることなのである。
テーヌの言う、イギリスが政治的経験主義という現実的な理想を積み重ねてきたということについては、次のような批判もある。
「この保守的な伝統は、市民精神、道徳上の美徳、実践感覚からできていて、これがテーヌの見るところではイギリス人が革命をはじめることのできない理由を
明確に説明するものだった。しかし彼らは二度、革命を行なった。『タイムズ』の編集長は、イギリスがその一つである「クロムウェルの小さな革命」から立ち
直るに味わった苦労に注意するようにテーヌに促すことになる。テーヌ自身、ギゾーがイギリスの革命の残忍さや運動を復元することができなかったと非難して
いる」(フランソワ・フュレ/モナ・オズーフ編 河野健二他監訳『フランス革命事典』七「歴史家」のうち「テーヌ」より みすず書房)
またカザミアンの『近代英国』には次のような文が見られる。
「テエヌは一八六〇年に英国を訪れて、多くの人々と同じく、英国の経験主義といふ強い特質を述べ、更に又、英国民が仏蘭西国民と相異する所の特質をも述べ
てゐる。テエヌの判断はその天才的名声に強調され、爾来、彼が指導者となつてゐた保守派に依て支持されたが、又それが如何に鋭いものではあるにせよ、近代
進化の歴史に就ては多少不十分な知識であつたことは免れない」(同書・第一編「民主主義と合理主義」 第三章「法律と風習」三 小桧山政英訳 創元社 昭
和二六・六・一五)
なお『フランス革命事典』にはテーヌの『英国文学史』について次の記述がある。
「『イギリス文学史』は一八六〇年代、すでに唯一の説明原理の発見にとりつかれ、イギリス精神の特徴を明示することに躍起になっていた当時の彼(註・テー
ヌ)が専心していた記念碑的作品だが、そのなかで彼は、イギリス精神の特徴が自由の感覚のなかに見出されると考えていた。イギリス人の重要な観念、「それ
は人間がなによりもまず自己の良心において、また神を前にして独力で自己の行動の規範を理解する、道徳的で自由な人格だという確信である」。」
この引用は『英国文学史』第四編第三章「過去及び現在」(U)にある次の文にあてはまるだろう。
Thus is it implanted, the great English idea ―I mean the conviction
that man is before all a free and moral personage, and that, having
conceived alone in his conscience and before God the rule of his
conduct, he must employ himself entirely in applying it within himself,
beyond himself, obstinately, inflexibly, by offering a perpetual
resistance to others, and imposing a perpetual restraint upon himself.
〔拙訳〕かくの如くしてそれは植え付けられるのだ。あの偉大な英国の理想が――。私は次のような信念を語っているのだ。即ち、彼等は人間は何よりも自由か
つ道徳的存在であり、しかもただ自分の良心と神の前で行動のルールを考え、そして、頑迷なほどに不屈に、他者には永久の抵抗を勧め、自らにはたえまない抑
制を課することによって、彼自身の内部で、彼自身をこえてその完全な応用に従事しなければならないと考えている、と。
英仏比較の問題やフランス革命については、第三編『古典主義時代』で、当時の十八〜十九世紀という「現代」を反映させながらいっそう詳細にまとめられてい
るように思える。特に、第三章「名誉革命」の項の「フランスとイギリスにおける対立的な主義と傾向」「革命主義者たちと保守主義者たち」「フランス革命に
対するバークとイギリス国民の審判」など。「バーク」とはエドマンド・バーク。彼の言葉を借りながら革命は痛罵されている。
三 「蔵書目録」にある同書を、馬篭の藤村記念館文庫で閲覧する機会を得たが、これは同書の第一巻(TOME
PREMIER)で、全巻ではない。このTOME PREMIERには、第一巻の『旧制時代』(L’ANCIEN
RÉGIME)の第三部「精神と主義」の第一章「科学的知識」、第二章「古典的精神」ま でが収められている。なお岡田訳書は、同第三部の第三章「両
要素の結合」、第四章「未来の社会の建設」以下、第四部「教義の伝播」、第五部「人民」までが訳されている。河盛好蔵氏「藤村の勉強」(『回想の本棚』所
収)には、藤村全集に収録されている「蔵書目録」――そのうち洋書の七割を占める約三百冊のフランス語の書物に興味を持った筆者が、フランス滞在中の藤村
の仏書の勉強について書いているが、そこにはこの本のことは記されていない。後に述べるブールジェ『現代心理論集』も入っていない。
四『新潮世界文学辞典 一九九〇年増補改定版』
五『世界文学大事典』3 集英社 一九九七年
六 →註二参照。
七 藤村蔵書のESSAIS DE PSYCHOLOGIE CONTEMPORAINE のTOME PREMIERと TOME
SECOND。TOME PREMIERには、日本語にはまだ訳出されてないルナンとテーヌの項があり、TOME
SECONDには、小デュマ、ルコント・ド・リール、ゴンクール兄弟の項がある。参考までにルナンとテーヌの見出し項目を引用しておく。
M. ERNEST RENAN
T.De la sensibilité de M.Renan
U.Du Dilettantisme
V.Du sentiment religieux chez M.Renan
W.Le rêve aristocratique de M.Renan
APPENDICE B. A propos du Prétre de Némi
APPENDICE C. La correspondance de M. Renan et Berthelot
M. TAINE
T. La sensibilite philosophique
U. Le milieu
V. L´âme humaine et la science
W. Théories politiques
APPENDICE F. Théories politiques:-M.Taine historien
APPENDICE G. Théories politiques:-Un élève de M.Taine
八 キリスト教が健康と快癒のために必須の条件であることについては、「ボードレール」論にも書かれている。「ボードレールがある種のメランコリーを、文
明人としてのわれわれの欲求と外的原因である現実との背馳から生ずる避くべからざる産物とみなした」ように、「全ヨーロッパにわたって……こういうメラン
コリーやこういう背馳と同じ徴候が現れているのだ」と、藤村も『エトランゼエ』百一で引用する文に続けて、こういうニヒリズム、ペシミズムの結果、われわ
れの中に、「徐々に確実に自然が破滅するという信念が育まれていないだろうか」という疑問を投げかけて、「その信念は、ある復興――それは宗教的再生の熱
望に他ならないであろうが――が自己の思想の疲弊について考えあぐんでいる人類を救わないかぎりは、二十世紀の不吉な信仰にならないともかぎらない」と書
いている。(「シャルル・ボードレール」二――ボードレールのニヒリズム)この「ボードレール」論は、文末に一八八一年の記入があるから、宗教的再生の考
えは、一八九九年の序文を待つまでもなく、ブールジェの中に早くから芽生えていたものだろう。
九 「ユウゴウからフロオベエルにいたる時代の多くの仏蘭西人が自国に失望した心は、実に仏蘭西革命の悲惨な結果に胚胎するといふ。ブウルジェの『現代心
理論集』にはその辺の消息が伝へてある。より好き社会を実現しようとして企てられた旧い社会の破壊は、反つて意外な結果を人の心に齎した。多くの仏蘭西人
は自国に失望して、遠い国外の空へと憧憬の心を馳せた。彼等の心は英吉利から独逸へ、独逸から西班牙へ、その他遠く印度や支那の東洋の空までもさまよつ
た。彼等は精神の飄泊者であつた。これが仏蘭西のエキゾオチズムであつて、その影響するところはひとり文学の上にのみ止まらなかつた。さう思つて見て来る
と、政治にも、教育にも、宗教にも、何一つ心を満たすに足りるもののなかつたらしいフロオベエルのやうな作家の生れた当時の社会の空気と、その空気の暗さ
も想ひやられる。フロオベエルの創めた文学は実に彼の苦悩と反抗的な精神とから出発したかの趣がある。そしてモウパッサンはこのフロオベエルを師とも友と
もした人だ。トルストイがその『モウパッサン論』に、作者の人生に対する道徳的関係の欠乏のみを言つて、さういふ関係を無視するほど反抗的であつた作者の
内部に触れるところの少いのは物足りない。」
一〇 野内良三著『ミュッセ』(「人と思想」170 清水書院)
一一
『19世紀フランス文学事典』(←第二章註三七)の「ロマン主義と亡命文学」(第一部「概論」第二章「思想」)に、一七八九年から世紀末にかけて十五万人
にのぼる亡命者の数が記録されているとある。「異国に暮らす同胞の手を通して発信されてくるさまざまな地域からの魅力的で価値の高い情報が、いわば逆輸入
のかたちで本国フランスにどっと襲来し、とまどい、未消化、試行錯誤を繰り返しつつも、フランスはここに、知的大変革の進展をともなう未曾有の時代へと突
入していった」。また、フローベル論の「補遺U 芸術理論――『野を越え磯を越えて』」に、「批評精神と近代的魂との最初の邂逅によって生み出されたロマ
ン主義」とある。
引用文中の※印について。これは、本文理解のために、『現代心理論集』中にある訳者伊藤なお氏の訳注を左に転載させていただいた。
※『東方詩集』(一八二九) ギリシア独立戦争への共感と当時流行した異国趣味の影響とによって著わされたユゴーの抒情詩集。芸術至上主義的傾向が強い。
※『スペイン・イタリア物語』(一八三〇) ミュッセの処女作。詩、劇などあらゆる形式を用いて書かれた十五篇から成る作品で、若き作者の熱烈で挑戦的
な、アイロニカルでしかも繊細な情熱が漲っている。その大胆な手法は発表当時文壇にセンセーションを巻き起こした。
※テニールス(David Teniers 一六一〇―九〇) フランドルの風景、肖像画家。農村生活の風物画を多く残した。
※アルベルテュス 魔術師、錬金術師と言われたスコラ哲学者アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus
一二〇六―八〇)のこと。ゴーチエは、ここで述べられているように、彼を主人公にして怪奇的中世趣味の横溢する長詩『アルベルテュス、あるいは魂と罪』
(一八三二)を著わした。
※『青年フランス』(一八三三) 「青年フランス派」というのは、一八三〇年頃のロマン派の青年闘士たちに与えられた名称であるが、ゴーチエは同名のこの
短篇集を書いて彼らの行き過ぎを揶揄した。なお「青年フランス派」には、ゴーチエのほかに中世趣味に溺れ込んだナントゥイユをはじめ、多くの熱烈で風変り
な個性をもつ画家や詩人などが加わっていた。ユゴーを師と仰ぎ、後述されるように赤いチョッキに水色のズボンという出で立ちのゴーチエを先頭に、『エルナ
ニ』の初演で活躍した。彼らは七月王政下のブルジョワ社会を嫌悪し、芸術を唯一の旗頭に「プチ・セナークル」を形成していた。
一二 藤村が読み取ったように、「多くの仏蘭西人が自国に失望した心は、実に仏蘭西革命の悲惨な結果に胚胎する」、また、「多くの仏蘭西人は自国に失望し
て、遠い国外の空へと憧憬の心を馳せた」とは一概には言えないだろうという考えからこのような文をつらねてみたが、革命後の近代の精神や感性の評価は、
きっと複雑な様相を示すのだろう。註一一の文のような、「批評精神と近代的魂との最初の邂逅によって生み出されたロマン主義」にしても、その「ロマン主
義」というものは、「結局、昂揚した、まったく頭脳的な情熱のために、複雑で多様な背景を空想によって案出するようになるのではあるまいか。われわれが自
分の生活する環境からくる愛情や憎悪、嗜好や嫌悪を誤りなく抱いている場合は心の正常な発展が遂げられる。ところが、異国の文学と国土が初めて発見された
ことから、ナポレオンの兵士たちの子孫である若いフランス人たちが、時間的にも空間的にもはなはだしく遠のいている不自然な環境に則って作られた愛情や憎
悪、嗜好や嫌悪を想像するという結果が生れてしまった。」という感想もブールジェは洩らしている。こういう文を読むだけでも想像はいろいろと広がってく
る。エキゾオチズムもまた祖国の喪失、民族の喪失であるという考えも生れるだろう。ロマン主義という近代の感情も、「正常な発展」から逸れた病的な「愛情
や憎悪、嗜好や嫌悪」といわれるものなら、フランスの近代そのものの多くの苦痛も、それらが「革命の悲惨な結果に胚胎する」と言われることもあり得るだろ
う。ただ、それらのことは別にしても、フロベールの友人、マクシム・デュ・カンについて論じた《補遺[ 意志の病い――ある快癒 マクシム・デュ・カン》
の中には、ロマン派の「理想」の第一の性質として挙げられていたエキゾオチズムの代表例、『東方詩集』『スペイン・イタリア物語』、そしてゴーチェなどの
感化を説明した次のような文もある。
「彼(注・マクシム・デュ・カン)は『スペイン・イタリア物語』、『東方詩集』、『ジョスラン』、バルザックやジョルジュ・サンドの初期作品、ゴーチエの
初期詩篇等を読んだのでした。そしてこういう読書経験によって彼の心にはロマン派の「理想」ともいうべきあの複雑で危険な「理想」が浸透し、横溢していま
した。複雑な「理想」であります。と申しますのも、そこにはついこの間のナポレオン伝説の驚異から借用した自尊の英雄的な息吹きと、バイロンや『ヴェルテ
ル』のゲーテ、あるいはまたにわかに発見されたドイツやイギリスの大詩人から受け継いだ失意に沈んだ絶望的な悲哀とがないまぜになっていたからです。そこ
にまた革命期の著しい激動の余波による熱気と不安とが加えられます。危険な「理想」であります。と申しますのも、この「理想」は一つの抒情的な人生観に要
約されるものであり、人生に絶えざる心の昂揚を求めることはわれわれの運命の掟そのものを軽んずることだからであります」
ブールジェは、こういう「理想」――「漠とした憧れ、いわれのない悲哀、あてのない感動といったもののために、もう少しで憂鬱症に罹りそうだった」デュ・
カンの姿、「教室や勉学から遠く離れてその想いをはるか彼方に馳せている彼の姿」、ロマン主義という病いに冒される青年の姿を描き出している。その上、こ
のような「空想的で何の役にも立たない異国趣味への偏執」に蝕まれていく青年たちは、その一方で、当時の、「わが国の歴史上、最も分別のある、しかし最も
情熱を欠いた社会」、「最も慎重だが最も想像力が欠如してもいる社会」、「産業・議会主義ブルジョアジーが、ラマルチーヌにかの有名な『フランスは倦んで
いる』という叫びを上げさせたほどに、実利主義的性格が濃厚な体制をわが国に打ち建てた時代」から、何よりも、「習俗のブルジョワ的凡庸さ」「利権政治の
低劣さ」「日々の事象の貧弱さ」をしか見ようとせず、「猛烈な侮蔑感の虜」になっていたのだとしている。この《補遺[》は、こういった「空しい情熱、無益
な憂愁、ロマン的な冒険に倦んだ世紀児」が、いかにして、「逞しい、そして健気な文筆家に変貌」していくかを、「ある快癒」という副題の下に書いている。
「真実による薫陶」によって「快癒した世紀児」――「病気から健康への、病的な反逆から受容への、内的混乱から均衡へのこの成長」というようにブールジェ
は書いている。
一三
『フランス文学史』(河盛好蔵・平岡昇・佐藤朔編 新潮社)。あのバレスについて、バレスが、「ルナン風のディレッタンティスムから出発して最後に国家主
義に到達し」ていったという文。
一四 『飯倉だより』の「二三の事実」で「『さうだ、人が土をつくるのだ』と仏蘭西の歴史家ミシュレエは言つた。慈眼と愛腸とをもつてこの世を親切に見て
行つた人の言葉は違ふ。あのミシュレエの短い言葉には言ひ知れぬ懐しみと温味とを覚えさせる」とある。このような感想は、ドストエフスキーに「憐れみに終
始した人」を見出し、その憐れみの心が『民衆の良心』への道に繋がるのだろうとしている「ドストイエフスキイのこと」とも重なるのだが、これらは「胸を開
け(大正九年を迎へる時)」にあるような「我国の社会思想の傾向が、人間生活乃至は社会生活の過度の分析と解剖とである」ことにあって「真に私達の心を動
かして呉れるやうな強い綜合の力に遭遇しない」とあることとも呼応するものか。
一五
フローベルのこの手紙は、妹の死をマクシム・デュ・カンに宛てた一八四六年のもの。『フローベル全集』(筑摩書房)の『書簡T』(8巻)の一八四六年(二
十五歳)の項に「一月二十一日、姪のカロリーヌ・アマール誕生。生来病弱な母親は、しかし産後の症状思わしからず。三月二十三日、妹カロリーヌ・アマー
ル、産褥熱のため死ぬ」とある。ブールジェはこのフローベルの手紙を、文中に次のように記している。「それで私はどうかというと、私の眼は大理石のように
乾いているのです。奇妙なことです。自分が仮想の苦痛のなかに満ち広がり、漂い流れ、漲りわたり、溢れ出るのを感じるのにひきかえ、本当の苦痛は鋭く耐え
難く心のなかに残ります。そうした苦痛は心に現れるにつれて、そこで結晶してしまいます。私は墓石のように乾ききっていながら、恐ろしくいらだっていたの
です」(傍点筆者)。そして、この手紙にこめられている「なんとなくありそうなことと、実際にあることとの不均衡にたいする悲痛な意識を読者は認めるだろ
うか」としている。
この手紙の前に、ブールジェは次のような文を置いている。
「フロベールは環境と時代とに背反したばかりでなく、また自分自身とも相容れなかった。早くから彼は、不治の病いに罹って、われわれが微々たる存在である
ことを考えたり、自分の力の限界を感じたりすることができた。無限に達しようとするかのように、心を高く飛ばした彼ではあったのだが。分析力――鉱夫のカ
ンテラのようにわれわれの額の上に輝き、われわれの降りてゆく深淵をくまなく見せてくれるこの灯火は、彼の心を残酷なほど照らし出してその不充分さを教え
ていた。作家の身に生じうる最大の不幸は、確かにこの分析の力と詩の力を合わせもつことである。彼の想像力は、起るべきある事柄に関して、極端な幸福かま
たは極端な苦痛を彼に描き出させるのだが、やがて、その事柄がひとたび出現するやいなや、観察者は自分を凝視して、先に感情に関して待ち望んでいたものと
現実に味わうものとの不均衡を実感する。しかも、その対照は同時にそれから心情の涸渇を生み出すほどのもので、あるいは少なくとも、すでに見たとおり、
ボードレールをどん底の経験に陥れたあの感情的無能への確信から生れる陰鬱な絶望を導き出すのである。フロベールはそういう経験は避けられたのであるが、
この絶望は避けられなかった。彼が非常に愛していた一人の妹が死んだときに書いたものとして読まれる手紙には、観念のほうが前もってすべてを汲み尽してし
まっているために、もはや感じているということを感じられなくなった魂の次のような痛ましい涸渇に関する奇妙で憂鬱な告白がこめられている。」
ブールジェは、「観念のほうが前もってすべてを汲み尽してしまっているために、もはや感じていることを感じられなくなった魂の……痛ましい涸渇」としてい
るのだが、この手紙は、正しくは病床の妹を囲む一家の悲痛な情景と、埋葬の日の光景を告げる二つの手紙からなっていて、ブールジェの引用はその二つの要約
である。マクシム・デュ・カンに宛てたその手紙を読むと、私などはむしろ、最愛のものを失う喪心がこんなにも美しく書かれることに心をゆさぶられる。ブー
ルジェは怜悧な理論の証明に熱心なあまり、その悲痛のほとんどをむしりとっていないだろうか。
「何という家だ。何という地獄だろう。そしてぼくはと言えば、目が大理石のようにひからびてしまった。奇妙だ。自分が架空の悲しみにあっては開けっぱなし
で、流れるようなたちで、能弁で、溢れんばかりだと感ずれば感ずるほど、真実の悲しみはそれだけに心の中にひりひりと荒々しくとどまってしまう。そこに入
りこんでくるにつれて、悲しみは結晶化してゆく。不幸がぼくらの頭上にいて、ぼくらを腹いっぱいにつめこんでしまわない限り去っては行かないようだ。また
してもぼくは黒い衣を目にしようとしている。そして階段を降りてゆく葬儀人夫の釘を打った靴の音を耳にするだろう。むしろ希望などはいだかずに、逆に頭の
中でやって来ようとしている悲しみの中に入って行きたい。」(一八四六・三・〔二十日〕)
「あの子を埋葬したのは、昨日の十一時だ。結婚の衣裳を着せてやった。薔薇と麦藁菊とすみれの花たばと一緒にして。ひと晩じゅうあの子を眺めてすごし
た。……きみがあの子が音楽を弾いているのを聞いたあの部屋で。……あそこの、壁の向うがわで同学年の連中とよく散歩に行ったあの墓地につくと、アマール
は墓穴のふちにひざまずいて泣きながら接吻を送った。穴は小さすぎた。棺は入らなかった。ゆさぶり、引っぱり、あらゆる方法でまわした。……そしてとうと
う墓掘り人夫がその上を歩いた――顔の場所だった――そして穴の中に棺を入れた。ぼくは、帽子を手にして脇に立っていた。叫び声をあげてそれを投げた。残
りは逢ってからきみに話そう。ぼくは一部始終をあんまり下手くそに書くだろうから。ぼくは墓石のようにひからびていた。だがおそろしいほどいらだってい
た。」(同・〔二十三または二十四日〕
一六 「真心の何物をも持たぬ……」は『柳橋スケッチ』の「日光」に引用されている次のようなフロベールの手紙のもの。(多少の字句の違いや省略はある
が、『海へ』にも、ほぼ同様な引用がある。)
「我等芸術の憐むべき労働者よ。普通の人々にはしかく簡単に自由を与えられるものも、我等には何故に容易に許されぬであらう。それもことわり理である。普
通の人々はハート真心を持つ。我等は遂に真心の何物をも持たぬ。我等は到底理解されざる人間である……」。
これは、もともとは田山花袋『花袋文話』(明治四四・一二・二八 博文館)の「フロオベルとゴンクール」(「文章世界」四二・五・一 新緑号)で花袋が引
用しているもの。藤村は『花袋文話』でこの手紙を読み、「日光」にその感想を書いたと思われるが(←瓜生清「藤村・渡欧時代の内面経路」)、フローベール
が「ある婦人」(Madame
Brainne)に宛てたというこの手紙については、山川篤『花袋・フロベール・モーパッサン』(駿河台出版社)の第七章「花袋筆「フロオベルとゴンクー
ル」について」に詳しい考証がある。私は市川浩昭氏(田山花袋研究会)から詳しくご教示いただいたが、この手紙は筑摩版『フローベル全集』には収録されて
いないので、是非、山川氏の右著書を参照していただきたい。なお花袋の引用の最後は、「我等は到底理解されざる人間……Gsisetteで、そしてT’’
koubadlourの昔のなかま夥伴の最後の生存者……」となっているが、Gsisetteはgrisette、T’
koubadlourはtroubadourの誤植ということである。
一七 『現代心理論集』解説 伊藤なお「ポール・ブールジェと『現代心理論集』」
一八
「鈍重な文体」という文は、「一八八五年の世代」の「四 批評」にある。文体論としては同じ「一八八五年の世代」の「二 小説」の項に、「ブゥルジェの文
体は、しばしば重苦しく衒学的であるが、常にその重量のある継続的な動きや、論理的な連鎖や、説得力のある言葉との連帯で救はれてゐる。これは証明的な文
体である」などもある。
一九 「壮丁といふ壮丁は毎日のやうに巴里を出発しました。……モウリス・バレスのやうな文学者まで親子で国難に赴くことを出願したとの話を聞きます」と
ある。
二〇 貧民救助事業の賛助員にバレスとモオラスのような文学者の名を見出して「床しく」思うのだが、つづけて、(この人達はいづれも政治に関係し、時事を
論評し、社会的活動の同盟に加はり、若い仏蘭西のために働いて居ます。)としている。
二一 A・ティボーデ『フランス文学史―1789年から現代まで―』(辰野隆/鈴木信太郎監修「角川文庫」)の内、「一八五〇年の世代」(佐藤正彰訳)、
「一八八五年の世代」(平岡昇訳)
二二 『宿駅』(L’ Etape
1903)は『道程』とも。 この文の前には、「ルナンとテーヌへの反動は、一八五〇年の世代の全戦線にわたつて、ロマン主義への反動が行つたやうな、あ
の全体的運動の性格を持たなかつた……伝道之書の哲学、ルナン哲学の最後の形態だつた反対者の均衡といふ皮肉な悟り切つた親切な老人の哲学は、いかなる時
代にも、青年を誘惑することはできなかつた。だが、消極的と見なされたルナンが、一八九三年以後は、行動と現在の義務と精力的な諸価値とを尊重する「積極
的な」青年たちによつて、善意の共和国の国境へ連れ戻されたとなつても解せないことはない。テーヌの方は、久しくその作品の威光を保つてゐる」という文が
ある。(「一八八五年の世代」)。
二三 たとえば、「人間の感性の動物的起原」とか、「われくの最も上品な感覚も、また最も微妙な精神上の敏感さも、われくの最も恥づべき人格の失墜と同じ
に、頗る単純な本能の最後の帰結でなければ最後の変態であり……」とか、「哲学者にとつては、犯罪といふものも徳行といふものも存在しません。われくの意
志によつて生ずる行為なるものは、若干の法則によつて支配される或る種の出来事に過ぎません」など、また、「若しわれくが今の宇宙を構成する一切の現象の
相対的な位置を知つてゐるのだつたら、われくは今日に於いてすでに、天文学者に敢へて譲らない精神をもつて」、未来に起りうる諸々の現象の、起りうる日や
時や刹那を計算することも出来得るだろう等々。
二四 平岡昇『プロポT』の「テーヌとその時代」にある「三人の悪い教師」。→『アラン著作集』10(白水社)
「わが思索のあと」の「学校」参照。
二五 『弟子』の「一現代青年の告白」に次のようにある。「私は高等師範学校卒業といふ箔を身に光らせて、パリから私どもを教へに来た若い先生たちが皆、
懐疑論者であり無神論者であることを知つてゐました。そしてマルテル師は、……怒気を押しかくしながらさうした恐ろしい人の名を口にしてゐたものでありま
した」。そして、グレルーは、教会の朝のミサで「つぶやくやうに祈りの文句を唱へる女たちの頭の貧弱さを知らず識らず考へ」る一方、「何かを語り合ひなが
ら、軽快な足取りで中学校から出てくる若い先生たちの姿を、眼の前に浮べるともなく浮べてゐた」と告白している。「先生たちの間に交はされた話は、父が昔
私に聞かせてくれましたのと同じ話で、どんな文句にも学問の香りが浸み込んでゐるところから、私の心の中では、加特力信仰の学問的価値に対する疑念が、次
第に大きくなつて行くのでした。世の中で一番賢い人と同じに賢くなりたい、第二流の人たちの間にあつて、無為にして生くるやうなことはしたくない
と、……」
二六
「一八八〇年の十月に移り住んだパリは、もっともっとわるかった。中学の不健康な雰囲気、発情期の青年の兵営、ラテン区の醗酵、ねばねばした町々の熱、幻
覚にかかった都会は私の胸を悪くした。田舎のまどろみ、夢にふけるような静穏さを、外界に対抗させるすべをもはや私はもたなかった。仮借のない生の闘いが
はじまり、十四歳の小童のか弱い肩にのしかかった。凭れるべき支柱は何もなかった。田舎でのわずかな信仰は崩れ去った。そのころの腕白小僧どもは、それに
は唾をひっかけるのだった。われわれの教師(相当な人々で、いちばんつまらない人々ではない)たちさえも、信仰を笑いものにするのだった。味気ない、脂っ
こい唯物論的実証主義が養魚池に腐った古油をまきちらした」(全集17
宮本正清訳『回想記』「T 青年時代の思い出」)。同『回想記』の「V 回想と思い出」のUにも、「一八八一年と一八八三年との間、田舎からパリへ来た十
五歳のころから、すでに私は当時の物質主義の臭いの発散に毒されていた」と書かれている。
二七 前記『回想記』の「V 回想と思い出」のU。このU章の副題に「テーヌやルナンの、最後の時代の文学的パリ――西洋の没落という思想とそのつきまと
い」とある。ロランは続けて、物質主義といっても、頑強で粗野だが健全で快活な物質主義もあるが、「八〇年代の物質主義というのは肝臓を病み、胃は疲れて
いて、心底から、ペシミストで癒しがたい幻滅をもっていた」と、クリスチャン・セネシャルの『現代フランス文学主調』以下の文を続けている。また『ペ
ギー』(全集16 山崎庸一郎・村上光彦訳)の第一部「V 惑いの数年間と大いなる混乱(知性党にたいする戦い)――一九〇九年の暗い夜」という項には、
ペギーが「墓に憩う死者たち」(テーヌとルナン)に「攻撃の矛先」を向けようとしている、と書かれるところがある。そこでは「彼自身がこのふたりの影響を
受けていなかったら、彼はそれほど彼らを憎むことはなかっただろう」とある。「私もまたその影響を受けたのだ。私自身の思い出によって、私の時代の知的青
年たちの思想のなかで、テーヌとルナンとが占めていた卓絶した地位を証明することができる。われわれエコール・ノルマルの同期入学者たちは、テーヌ派とル
ナン派とに分裂していた。」
二八 「その末期を妨げるな」に続いて、「私はそうした絶望的な言葉を決して読まなかったが、私のまわりの空気のなかにそれを呼吸していた。その放棄の気
持は大家たちの魂から一般人の魂にうつり、いうまでもなく、道徳のゆるみと厚顔無恥という堕落的な形をとった。――純潔で、孤独で、無防備な少年がそうし
た虚無的な精神を顔にうけたときの恐怖と戦慄を想像されたい!」
なお「回想と思い出」の「補遺 註一 クローデル」に次のような文もある。
「……パリの広場の市と取っ組みあっていた私の青年時代のクローデルに戻るが、彼は私以上にひどい嫌悪と怒りの軽蔑をもって広場の市を批判していたことを
私は知らなかった。ジャック・リヴィエール(1886-1925,
作家・評論家)との文通は、その後、「放縦とディレッタンティスムのために死にかかっていた、そのころのフランス文学」を彼が断乎として非難していたこと
を示した。――「テーヌや、ルナンや、十九世紀のその他のモロック(子供を生贄にささげて祭ったセム族の神)ども、あの監獄、曲げることのできない法則で
完全に支配された、怖ろしい機械の醜悪な世界」を打っている。……彼は芸術において、決して「遊び」をゆるさなかった。彼は名人を軽蔑し、「冷笑する人
々」、懐疑論者たちを、「ヴォルテールからアナトール・フランスにいたるまで」憎んだ」
二九 「……民族は特に自分の成長した土地の一角を棄てることによって、得るところよりは失うところがはるかに多い。言葉の古い美しい意味でわれわれが本
来家族と呼ぶことのできるものは、少なくともわが西欧においては、同一の地点で長い間継承されてきた生活によって常に形成されたものである。人間植物が丈
夫に成長し、一層丈夫な新芽をつけることができるためには、人間植物は自分の体内に、日毎の見えざる力強い働きによって、ただ一つの場所から出てくる物質
的精神的精気を吸収しなければならない。風土というものは、甘美なものであれ野蛮なものであれその詩情も含めて、また同一量の同じ困難と闘う絶えざる努力
によって生み出され培われるところのもろもろの力も含めて、われわれの血液のなかに浸透しなければならない。この真実はますますその場しのぎで一時的なも
のとなってゆくわれわれの近代社会ではあまり歓迎されていない。しかしこの真実の射程を認めるために芸術作品の誕生の条件については考察していただきた
い。ほとんど常に偉大な作家や偉大な画家は、郷土的雰囲気のなかで成長した。そして常に、自分の理想に深い生活の味わいを与えようとするときにそこに帰っ
てゆく。この土壌を欠いた人々の作品には、この味わいやこの深みが欠けている。……」等。スタンダール論の中で述べている。
〔補註一〕ディレッタンティズム覚書
ディレッタンティズムとは何かということは、藤村やブールジェの本を読みながら、絶えずつきまとっていた疑問であった。本来、ディレッタンティズムという
言葉そのものが、我々に馴染みあるものではないのであろう。いくつかの書物に当ってみたが、ディレッタンティスムなどを解説する文献に出会ったこともな
かった。広辞苑などの解説は「好事」「道楽」であり、藤村が「趣味の人」「物好き」としたように、「ディレッタント」は「好事家。一般に何事も慰み半分、
趣味本位でやる人」と解説される程度が、我々の常識であったのだろう。あるいは、例えばメリメのような作家の作品を挙げながら、我々日本文学の読者に馴染
みある「人生派」というような文学者の姿勢に比べて、外交官の地位にあって、該博な知識や教養を生かした、豊かな趣味人であるそのような人を、我々はディ
レッタントと呼んでいたのであろう。それは「人生派」に対して、知的な戯れの余技に近く、人生に真向かうことのない愛好家の名称に近いのであろうと。
この書物の中で使われる言葉にしても、「移り気なディレッタンティズム」とか「ディレッタントの軽薄な戯れ事」など、この語につきまとうある種の胡散臭さ
が匂ってくる。そういえばテーヌの中にも「彼は単なるディレッタントではなかった」と、ミュッセをかばう言葉があった。いずれもどこかに、知的な享楽の気
分や、感性や知識を弄ぶような気ままな雰囲気がただよっているようにも感じられる。
しかし、ブールジェにしても、ディレッタンティズムという言葉を、決して否定的に使っているわけではないのだ。むしろ何度も繰返しているように、文明の開
化に伴って必ずのように訪れてくる知的な精神の現象をそこに見出すのであろう。あるいは、彼はまた歴史の中にそれを探りつつ、「衰退しつゝある文明」の中
にそれを見ようとしている。その一つを彼は、「デカダンスの理論」(「シャルル・ボードレール」三)という項の中で印象的に語っている。それは、強大を
誇ったローマの末期に触れながら、一社会が健康に力強く存続するためには、そこにはいつも、「いっさいの個人的および公民的美徳が包含されているのが認め
られ」るのだが、「解体する社会、例えばローマ帝国のような」社会においては、市民たちの多くには、そのような質実な美徳がもはや存在しなくなっているこ
とが指摘されている。そして、滅んでいく社会の多くの市民に生まれてくる「快楽に関する該博な理解、繊細な懐疑思想、萎靡した感覚、移り気なディレッタン
ティズムなどが、ローマ帝国の社会的創傷であった」と、総括的な観点から社会を観察する批評家なら述べるだろうとしている。「それはまた他のいかなる場合
にも、集団全体を必ず破壊することになる社会的創傷になるものだ」と。
ただし彼は、このような批評家の考え方とは別に、純粋な心理分析家であればまったく異なった観点からの思考を働かすのではないかと、そういう市民の内部に
目を向けて書いている。
「デカダンス頽廃期の市民たちは自国の偉大さの制作者としては劣っているとしても、彼らは自己の魂の内部の芸術家としては非常に卓越しているのではなかろ
うか。彼らが公私の行動において不器用なのは、孤独な思考にあまりにも長けているからではなかろうか。また、彼らが未来の世代を生み出す能力に欠けるの
は、ありあまるほどの繊細な感覚と高雅で稀有な感情とが、彼らを無力な、しかし洗練された、逸楽と苦悩の名人に作りあげたからではなかろうか。彼らが深い
信仰に献身することができないのは、あまりに教養を積んだ彼らの知性が彼らから偏見を取り払ってしまったことと、さまざまな思想を渉猟した結果、彼らがあ
らゆる狂信を排していっさいの主義学説を容認するあの最高の公平に到達したことによるのではなかろうか。……」
このような最高の賛辞がすべてのディレッタンティズムに捧げられるかどうかは別にして、これらは、「頽廃期」の市民に限られることのない、開化した社会に
訪れる人間の「知」のあり方になるにちがいない。「まさにこうした個人の独立」という言葉すらもブールジェは使っている。……
私は、堀越孝一氏の『中世の秋』の解説を読んでいて驚いたことがある。堀越氏はそこで、著者ホイジンガーの「もともとわたしは真正の歴史研究者にはついに
なれなかった」という言葉を引きながら、「この言をどう読むか。誇り高い近代の歴史主義に対して一歩しりぞいて構える真正のディレッタントの言と読みた
い。歴史にあそぶ精神の表白とききたい」と述べている。
これに似た文を読んだ事がある。『十九世紀フランス文学事典』(古屋健三/小潟昭夫編著 慶応義塾大学出版会)の中の、十九世紀後半の「印象批評」を考察
している文で、そこでは、「十九世紀後半に限っても、たんなる散漫で主観的な批評に止まらない優れた『印象批評家』の例として、ゴンクール兄弟や、象徴主
義を擁護したレミ・ド・グールモンの名を挙げてもよいだろう」としているが、さらに十九世紀も末になって、科学批評家との激しい論争によって自覚的に理論
武装するようになったというジュール・ルメートルやアナトール・フランスの名を挙げながら、「印象批評とは、どんな教条にもとらわれないディレッタントと
して、出会った作品への思いや洞察を筆の赴くままに書き綴るエッセイである」と書かれている。そしてアナトール・フランスは、「自分の趣味の世界に閉じこ
もった感があるものの、温和な懐疑主義を湛えた、いかにも上質なディレッタントらしい批評文は今も魅力を失ってはいない」と書かれている。
ディレッタンティズムあるいはディレッタントという用語が、懐疑主義という語を温和に伴いながら、ごく普通に使われていることは、この国の文化の特質を物
語ることになるのだろう。そして、右のような文から、ディレッタントとは、どんな教条にもとらわれず、中庸の態度を保ちつつ、対象から一歩しりぞいて悠々
と遊ぶ自由な精神ということになるだろう。ただし、この書物の中でもブールジェは、「憂愁の萌芽がディレッタンティズムに内包されている」と、ルナンやゴ
ンクール兄弟に対して述べているが、この言葉は言い換えてみれば、「ディレッタンティズムの中に時代の憂愁がすでに内包されている」ということになるのだ
ろう。「どんな教条にもとらわれない」自由な精神といわれるものにしても、時代を覆う暗雲から自由であるはずはなく、その言葉の端々に、深い憂愁の翳が帯
びるようになっている、と。ブールジェは『弟子』の「一現代青年の告白」の中にも、このように書いている。「学問的な生活に足を踏み入れたばかり」の自分
が、母にも背を向け、また、「どんな人とも異ふ」自分を見出していこうとする場面があるが、そこに、「私はあれ以来、たとへばルナン氏のやうな新しい哲学
者の著書を読んで、よしそれが意気揚々たる眼中に全く人なき軽侮の情となり変つてゐましても、やはり例の魂の孤独に対する感情の動きを見出しました」――
また、「美しい蠱惑力をもつた彼の文体、この上もなく優雅な彼の享楽気分、無信仰を虔ましく守りとほしてゐる彼の寠々しい詩味、私はそれらに深く心を動か
したものでありました。しかし、幾何学者の子でありましたことは無駄でなくて、私はあの無類の芸術家の不確かな物の言ひ方、陰影を重んじてすべてに言ひ及
ばない癖には常々物足りなさを感じてゐたものでありました」。傍点を付したような個所には、対象を複眼的に見て断定を避ける精神の有り方や、諧謔や、それ
に伴う孤独が見えてくるのではないだろうか。
ルナンについては、私は、「ルナン風のディレッタンチスム」という言葉を文学史の中で読んだこともある(新潮社『フランス文学史』河盛好蔵・平岡昇・佐藤
朔編)。あのバレスについて、バレスが、「ルナン風のディレッタンティスムから出発して最後に国家主義に到達し」ていったという文である。こうして我々
は、このディレッタンティズムという言葉が、フランス文学の中で随分と定冠詞のように使われていることを知るのである。そのほかでも例えば、「ベルグソン
の詩的ディレッタンチスムの精神」とか、ペギーはアンドレ・ジードと喧嘩したが、それは「自分が(ペギーが)彼の(ジードの)ジレッタンティスムを毛嫌い
していたからである」というように(いずれもロマン・ロラン『ペギー』全集第十六巻)――。前者には詩人の濃密な知的省察への賞賛があるかに思えるが、後
者はどのような場面が予想されるのだろうか。ペギーはジードの何を嫌悪したのだろうか。このロランの『ペギー』には、ほかに、アカデミーで講演するルナン
の姿を写している部分があるが、そこには、老獪な「ディレッタント」とはかくやと思わせるものがある。深く、辛辣に、しかしそれとは思わせず、逸らし、安
堵させ、批判し、笑わせるというようなルナンの講演の姿勢を、ロランは半ば感歎しながら書いているのであった。軽妙な距離をとりつつ、陰影に富んだ優雅な
物腰――ただ、これらはいずれも、最高の文筆家に捧げられた最も高位な衣冠になるだろう。
ブールジェの中には「放浪のディレッタンティズム」なる言葉もあった。もう多言を弄することは控えるが、「旅行が簡単になり、同時に民族的偏見の量が」少
なくなってきた当時のヨーロッパが形成し始めた一つの社会、新たに生まれてきた国際人的なサロン社会を、彼は「特殊な貴族階級」と称しているのだが、それ
は例えば次のような社会である。「それを構成する女たちは、ロンドンでシーズンを過し、ドイツで湯治をし、イタリアやエジプトの河畔で避寒をし、春になる
とともにパリに帰り、四ヵ国語を話し、数種の芸術や文学を鑑賞する類いの女性である。またその社会に現れる男たちは、各国の重要な人物たちと、その国で食
事を共にしたり談話したりしたことがあり、互いに数百里も離れたサロンや城で歓待されたことがあり、英国の詩人やイタリアの詩人を原書で読み、時には二、
三ヵ国語で書き、文字通り数種の生活を営む男性である」――そして、このような「現代の上流階級――それは高雅な教養の最も洗練された代表者たちから選ば
れた階級のことであるが――は、ディレッタンティズムが行動に取って替わる明日なきこの時代に到達しているのである」と。これはスタンダールの中で説かれ
ていることだが、言葉の奇妙さに関わらず、当時のある特殊な傾向をくみ取ることもできる。当時のごく少数の、国際化した上流サロンの人々の祖国離れ、自国
の喪失というようなことになるだろうか。そのような傾向を安直に継ぐ人々の中から、自らが生まれた国家や民族、大地や血の栄光の誇りが次第に喪失されてい
く恐れも、ブールジェは指摘している。
「移り気なディレッタンティズム」と同じように、書物の中には「ディレッタンティズムの軽薄な戯れ事」というような、ごく一般的な形容の用例も見られる。
これはツルゲネフを叙した部分に使われている。この優れたツルゲネフ論で、ブールジェは、ツルゲネフや彼の小説に現れる青年のコスモポリタニズムに触れて
いて、(それも一つの国際人的なサロン社会になるだろうが)、このスラブから来た青年たちのコスモポリタニズムは、異国の成熟した風俗に快楽や逸楽的な感
覚を求めるような「ディレッタンティズムの軽薄な戯れ事とはほとんど似るところがない」と書いている。遅れている辺境の国から花のように開化した文化の唯
中にやってきて、その快楽の解放に酔うことなく、彼の求めるものは快楽ではなく教育であり、感覚ではなく思想であり、彼は「生きる術について至高の啓示を
仰ごうとするかのように高名な老人に近づき、大きく目を見開いている青年」であった。彼等は背に、いつも遠い祖国を担っているが、その対称に「ディレッタ
ンティズムの軽薄な戯れ事」を見出すからには、我々は、快楽や逸楽に溺れ、開かれた世の解放に酔いながら時を費す風俗もまたそこに見出すことになるだろ
う。
「批評的理解の仕方の濫用」や「あまりに理解の広い人々のディレッタンティズム」とは、いくつもの自由な理解の分散に、曖昧に立ち尽くす我々自身の生活を
さえうかがうことができる。「かつてないほど、パリ生活は青年たちにとつて感情生活を複雑にし、かつてないほど、デモクラシーと科学は近代生活に君臨して
いる」と彼は書く。パリ生活に限らず、このようなことの意味するところも深いだろう。感情生活の複雑化と同じように、思想もまた複雑に多様化し、陶冶され
ないままの手軽な消費の世界になるだろう。その上に、論ずること多く、行うことは少なく、社交場裡の遊戯や挨拶のような知識や言葉の戯れも増加していくこ
とになるだろう。「どんな教条にもとらわれない」「一歩しりぞいて悠々と遊ぶ」精神と賞賛されるものも含めて、国家や民族の行動が論じられようとするその
時には、ごく客観的な知性主義や、過度な個人主義的傾向への批判が必ずや生まれてくることは想像するに難くない。だから我々にとって必用な当時への理解
も、ブールジェの分析とは別の、バレスやモオラス、ペギーという人達のディレッタント批判になってくるだろう。
ただし「移り気」であり「軽薄な」ということであれば、次のような文も取り上げておきたいと思う。やはりブールジェが、マクシム・デュ・カンを評した「意
志の病い――ある快癒」という文の中で、「街の鐘楼の風見よりも移り気で無節操」なパリ人、「懐疑的な人間」で「その時の気分次第で愚弄しなかったもの
が」ないパリの市民について語っていることである。
――「『政府』について雄弁に語ったり、代議士をこの上なく辛辣な皮肉をこめて茶化したり、彼らの行為を優れて明晰に批判したりすることにかけては、パリ
人は秀でています。しかし自分から行動したり、団結したり、企図したり、国家の暴政にたいしアングロ・サクソン流に個人の権利という観点に立って抵抗する
というようなことを彼らに求めてはなりません」――。
さまざまな幾多の理由があって、しかしながらまた、「突如としてこの度し難い嘲笑家の心にたちまち純真と熱狂と、さらに野次馬根性が泉のように湧き出てく
る」ような市民の感情を、ブールジェは見逃すことなく書いているのだが、おそらく常に自らが主人であり、主人持ちであることを嫌うこういう市民感覚が、
「戯れ」のように政治を揶揄し、政治家を誹謗し、嘲笑的な時を快活に過ごすことがあっても不思議ではないように、我々もこういう情景をいくつものフランス
映画で何度見たことだろう。おそらく彼らの中には、我々には不思議なほどの自由の感覚があるのではないだろうか。ロマン・ロランの『ペギー』に書かれてい
ることだが、ペギーが《反=フランス》と決め付け、「心情と知性との精神的堕落、民族そのものの堕落」を準備していると攻撃したというソルボンヌなどの
「知性党」といわれる人々が、最後にはどんなに国難に殉じて戦いに赴いたかということをロランが書いている。
「祖国を失っていると非難されたこのソルボンヌではあるが、その彼らが、これより三年のち、世界大戦に際して、フランス防衛のために熱狂と信念と犠牲との
いっさいを投じることになるのであって(そのためにあまたの彼らの仲間、あまたのこれら知識人、ないしは彼らの息子たちは、ペギーとおなじようにその血を
捧げたのだ)」。
多方面の関心や、純粋な客観性を保つがために、実践や行動と一線を画す精神を、ディレッタンティスムと呼ぶならば、そういう名で呼ばれる精神の底に「熱狂
と信念と犠牲」も常に潜むように、成熟した個人主義が国家や民族とむすびつくことはいくらでも有り得るだろう。それは、この国の文化や自由を生みだしてい
く根幹なのではないだろうか。その中から、突然に革命家が生まれ命を賭した愛国者が生れるように。藤村が、バレスやモオラスはさすがに違うと一線を画して
いたのは、どのような文章の、どのような言葉であったのか知りたいと思うのは、以上の様な理由である。藤村がディレッタティズムというような語彙を使うの
は、フランス紀行中の二つの場面であり、いずれにも彼らの名がその近辺にあるからである。彼らが自国の現況をどう評価していたのかも我々は学ばなければな
らない。藤村も一度ならず言っている。「私は自分の周囲を見廻して、つくぐ一つの国の知り難さを思つた」(『エトランゼエ』八十八)。
〔補注二》 石川三四郎と藤村
パリにおける石川と藤村の交流を語るものが、石川の残した二つの資料にある。いずれも『藤村全集』の「参考文献目録」にも『島崎藤村事典』の「参考文献」
にも記載されているので、人の目には多く触れていることだろうが、今まであまり語られているとも思えないまま以下に記しておく。まず、藤村と初めて会った
ときのことを石川は「巴里で藤村と語る」(「新潮」大正四年十月「文壇新潮」欄)に記している。
「私は今、巴里から廿里ばかり北方に当つた片田舎に住居してる。そして大抵毎月一回、休息やら所用やらで巴里に行く。去る土曜日にも誘はれて巴里に行き、
三日半を同市に費して昨夜帰宅した。そして巴里の私の宿舎は島崎藤村君の宿所と直き近所なので、此三日間に二度会合する機会を得た。今此処に書きたいと思
ふのは、即ち其時の感想である。
二月初めに、白耳義から巴里に到着した時、私は藤村君に始めて会つた。其時、四方(ママ)八山の談話偶々思想(ママ)会の趨勢如何と言ふ問題になり、私は
一般の思想が人格的統一若くは哲人主義といふ様な方向に進んで行きはせぬかと思ふと語るや、藤村君はシヤルル・モラスの一著を示して、近頃非常な興味を以
て此書を読んで居ると言はれた。私はブルセルス市在住中カトリック労働組合の機関雑誌か何かで、モラスの論文を読んだことがあるが、モラスが保守主義者で
ある為めであらう、少しも私の感興を惹起さなかつた。そして彼が如何なることを言ひ居りしかさへ今は私の記憶に残つて居ない、と言ふ様なことを私は藤村君
に答へた。
二三日前、巴里で会つた時、再びモラスの話が出た。私がオウギュト・エルベが『ラ、ゲエル・ソシ(一)アル』紙上で毎日才気縦横の筆を奮つて国民を鼓舞し
てることを語ると、藤村君はモラスが『ラクション・フランセエズ』紙上で矢張り毎日一生懸命で書いてゐることを称賛して居た。ラクシヨン・フランセエズと
いへば王政復古を主張する改革的保守主義者、排他的民族主義者の機関紙である。猶太人を悪魔の如く思ふ人々が未だに此一味の中に存在するといふことを聞い
た丈でも、是等の人々の立場が了解されるであらう。私は藤村君が如何なる点に於てモラスを喜ぶのか、余り突き込んで聞きもせなんだ。が、多分彼が宗教、芸
術、政治等を統一する救世的生活に憧憬する点にあるのだらうと思ふ。」
パリ近郊のリアンクールという町(Rue de l’ Ecole des Arts et Métiers, Liancourt, Oise,
F..)に石川は
身を寄せていたのだが、文面から察しても、二人が会った回数は少なくはなかったのだと考えてもよいだろう。そして話題の中心たるモオラスについて言えば、
この対話は、あまり実り多い結果をもたらすものではなく、いつまでもすれ違う結果であっただろうことも、想像に難いものではない。当然のことではあるが、
石川は自ら書いているように、ブリュッセルで開かれた前年の第二インターナショナル主催の非戦大会で、ジャン・ジョレスの雄弁に熱心に耳を傾け、(七月三
十一日。ジョレスはその翌々日に暗殺された)、翌年のジョレス横死の一周年には「ジャン・ジョレスを想う」の熱烈な一文を草している。そして、ジョレスを
国賊とも反逆の徒とまで非難しつづけたレオン・ドーデやシャルル・モオラスを批判の対象としていたことも容易に想像されることであ(二)ろう。(『石川三
四郎著作集』第八巻)
ただそのようなことは別にして、藤村と石川の縁は浅くはない。藤村が何度も書くベルギーの修道院
にいた宮代青年と石川が深い縁で結ばれるからである。石川年譜(『同』第七巻)を読んでいると、その一九一五年の項に、「一月二十三日、漸く旅券が交付さ
れる。翌二十四日、最後まで残った日本人宮代某、田中某とともにブリュッセルを出立、……」、アントワープを経、二月三日ロンドンを離れてパリに移る、と
ある。「春頃、パリで島崎藤村に会う」とも記されていて、これが文中の「二月初め」になるのだろう。この年譜の詳細は、石川の残している「篭城日記」
(『同』第二巻)を合わせ読むとよい。「篭城日記」は、独軍のベルギー占領から石川等のブリュッセル脱出までの、一九一四年八月一日から翌年一月六日まで
の日付のあるブリュッセル篭城の記であるが、その十月二十一日の記に、情報を求めてたまたま日本公使館を訪ねた折に始めて宮代に会ったことが記されてい
る。「当夜は宮代といふ青年に公使館にて会ふ。シヤルロアの近郊のカトリツク加特力教の修道院に居たのだという。」。そして翌二十二日、「朝より宮代青年
来訪して談興尽きず。久しぶりにて近代青年の談を聞きて喜憂交々至る。是に比すると官吏や大学教授などゝ言ふ連中が気の毒な程青年の思想と離れ居ることに
驚かされる。……昼食を共にし、薄暮まで話し続く」以下、十月、十一月、十二月、一月と、宮代の名は頻繁に出て、年譜にある「田中某」氏や、公使館書記官
の木村氏共々、ブリュッセル脱出までの半年の労苦を共にしている。文面から察しても、彼がこの初対面の青年に、充分な好感を抱いていたことを察することが
できる。
『エトランゼエ』九十三に、「開戦以来全く消息の絶えて居た宮代君が白耳義の修道院を逃れて英吉利の方へ渡り、もう一度巴里へ」帰ってきたと藤村が書く宮
代の周囲に、(他に『エトランゼエ』百)、いつも石川の姿があり、また、この宮代君の話として「白耳義から英吉利に逃れ更に此巴里へ来る迄の旅の途中で君
が遭遇したといふ同胞の噂を聞くのもうれしかつた」とあるその「同胞」の重要な一人に、石川はなるだろう。ただ、宮代についていくつもの文を残している藤
村が、石川に触れたことはない。
(一)『日本大百科全集』(小学館)に、La Guerre sociale の創刊者Gustave Hervé(1871-1944)
の項がある。社会党最左派として一九〇六年に自派の機関紙La Guerre
sosialeを創刊。第二インターナショナルの諸大会で反愛国主義、ゼネスト戦術を唱えて問題視されたが、第一次世界大戦に際して一転、非妥協的愛国主
義者として機関紙もLa
Victorieと改名、クレマンソーの強硬論を支持、大戦後は更に右傾化し……云々とある。「オウギュト、エルベ」はまた別人であるのか。石川の『自叙
伝』(『石川三四郎著作集』第八巻)の「ジャン・ジョレスを想う」には、ジョレスの盟友であり、ジョレスを国賊、反逆者と罵る王党の人々を「国内の敵」と
批判する「ギュスタヴ・エルベ」の名がある。また、ジョレスの横死一周年にジョレスを追悼する「エルベ」の名もある。
(二)石川と藤村のモオラス観を云々する場ではないが、新潮社版『定本版藤村文庫』第七篇『道遠し』
下巻の『「欧州戦争」付記』に次のような文がある。
「わたしの仏蘭西だよりがこの程度にとゞまるのは、一つは仏蘭西語を修得しはじめてからまだ日が浅かつたのによる。もつと自分が自由に読むことも書くこと
も話すことも、又聞くことも出来たなら、あの絶対非戦論者であつたジョオレスのやうな人が巴里モン・マルトルの料理店で撃たれたのも仏蘭西国論統一のため
の犠牲であつたらしい深い消息を伝へ得たであらう。また、この欧州戦争が長期に亙る間には、戦争そのものも次第に変質しつゝあつたそれらの消息をも伝へ得
たであらう。あるひはまた、何程の仏蘭西国論の沸騰がペギイのやうな詩人をして身を挺して戦線に向はしめたほどの必死な覚悟を抱かしめるに至つたかの深い
消息をも伝へ得たであらう。」
藤村の「深い消息」を読める機会があったとしたら、それは貴重な資料になったことだろう。しかし、この中のジョレスについてのことだが、「仏蘭西国論統一
のための犠牲であつたらしい深い消息」とは、特に、「国論統一のための犠牲」とはどのような立場に立つことなのか、いつまでも私には澱りのように残ってい
る。
石川が藤村について書いたものには、右の「巴里で藤村と語る」の他に、著作集第八巻の「自叙伝」に
「島崎藤村」の項がある(第二部「一自由人の旅」の八。前記した「ジャン・ジョレスを想う」の次の項に位置している)。ここには、石川が藤村を伴って、何
度かモーリス・ポットシェーという詩人の家を訪ねることや、その帰りのリュクサンブール公園で、そこにかかっているギニヨールの芝居を、藤村が見物の子供
達と一緒に興味深く見入っている情景や、その後、藤村とパリのオデオン座でゾラの『居酒屋』を観たことなどが書かれている。全文を掲げておこう。
「一九一五年の春であったか、私は偶然パリのポール・ロワイヤル付近にいた一日本人の宿所で、島崎藤村に出会った。そこでは山本鼎、森田恒友というような
画家達とも出会ったが、どういう話をしたか今記憶に残っていない。島崎藤村には、パリに行く度に幾度か会った。それは例のルクリュ家と縁戚のモーリス・
ポットシェーという文学者のところに藤村を伴って行った関係から交際するようになったのである。ポットシェーは詩人で、ドラマも書き、ロマン・ロランなど
とも親交があって、ポットシェーの著書『平民劇場』にはロマン・ロランの序文が載っていたように記憶する。ポットシェーの一人の兄弟がヴォジというフラン
ス東方の国境に近いところで、金物製造工場を経営していたので、ポットシェーはその工場の隣地に小さい劇場を建てて、毎年夏休みとか冬休みに、そこの労働
者とパリから行く同志とが協力して興行をすることになっていた。詩人ポットシェーの夫人はもともと女優であり、その子供達も舞台に立って両親に協力してい
た。私がリアンクールで留守番をしていた家の主人もポットシェーの友人で、大学教授でありながら役者としての立派な技倆を持った人で、夏休みや冬休みには
このヴォジの劇場で舞台に立っていた。
私はかねてからポットシェー夫妻に、藤村を日本の文壇の第一人者として話しておいたので、藤村を伴っての訪問を、夫妻とも大変喜んで迎えてくれた。ところ
がある日、訪問すると主人のポットシェーは留守で、夫人が娘のマリアンヌと共に応接してくれた。談たまたま藤村夫人のことに及び、ポットシェー夫人が「奥
様はどうしておられますか」と藤村にたずねた。その時藤村は「私の妻は亡くなりました」と軽く微笑みながら答えたが、その藤村の言葉を聞きながら、夫人の
顔色は急に変った。妻の死を語りながら微笑んだ藤村の態度が、無邪気な夫人にショックを与えたのである。われわれ日本人から見れば、これは日常のことで何
も感情をかきたてるような態度ではなかったのであるが、フランス人、殊に言葉や感情にアクセントを表わす女優あがりの夫人には非常に強い刺激を与えたらし
かった。夫人は奥に引きさがって、後は娘のマリアンヌが談話を引きついでその日は無事に過ぎた。その翌日、私がポットシェー家を訪問すると、夫人が出て来
て、「昨日貴方と見えた日本人は、日本一の文豪だと貴方はおっしゃったが、あんな人に文学の味が分るか、自分の最愛の妻の死を語るのに、笑いながら話すと
は何事だ」と言って私をなじるのであった。私が、日本では、自分の心の本当の悲しみを人様の前にさらけ出さぬように遠慮するのが人間のたしなみとしてあ
る、という説明をしたけれども、もとより分ろうはずがない。あれほどの文学者藤村も、フランスの女優さんにとっては全くのエトランジェーであった。
ポットシェー家からの帰りに、藤村とルクサンブール公園を通ると、そこにはギニヨールの小屋があった。その前には小さな腰掛が置いてあって、子供達が群
がっていた。藤村はそのギニヨールに大変興味を感じていたらしく、子供と一緒にそれを立見しているのであった。「僕はこれがとても好きで、この公園にくる
たびにこれを見るのが楽しみなんですよ」と言っていた。グロテスクな幾つかの人形を一人の男があつかっているので、それは本当に子供の遊びに相違ないが、
子供はただその見物人というのではなく、一緒になって声をかけたり、どなったり、芝居そのものにまきこまれて行くのであった。これに藤村は興味深く見入る
のであった。幾たりかの子供を故郷に残して、一人異郷に淋しく生活していた藤村には、こよなきなぐさめであったのであろう。その後、藤村とパリのオデオン
座でゾラの『居酒屋』を観たこともあるが、いつも藤村は、深く煩悶懊悩することがあったと見えて、「この床に頭をたたきつけて死にたいと思うこともしばし
ばです」というはげしい悲痛の言葉を吐きだすこともあった。「やはり藤村は詩人だな」と私のような凡人にもその心情が察せられるように思われた。(数年の
後、日本に帰って藤村の書いたものなどを読んで、なるほど、そうであったのか!と合点される節が多かったのであった)。
また私は、吉江喬松をもポットシェーの家に案内したことがある。喬松は坪内逍遥作『役行者』を仏訳してポットシェーの娘に見せて、能うことなら修正しても
らう積りであったらしい。その結果が如何なったか、その後私はスペイン近くのルクリュ家に居住することになったので知らないが、ポットシェー嬢から、後に
聞いたところでは、余り興味を感じなかったらしい。いささかでも東洋の哲学的の深味をもった文学は、容易に会得できないのが、フランス人の常態らしい。そ
れは言葉の構成、心の持方が、異なるので、翻訳が不可能に近いほどむずかしいことを物語るもので(三)ある。」
時には煩悩懊悩もさらけだすほどのこの文を読むと、石川と藤村の関係は疎遠なものではなかったと思
うが、藤村の文にはやはりその姿は見えてはこない。その他にも、石川の年譜に、フランスに移る直後、「フランスに派遣された日本赤十社に通訳として就職し
ようとしたが、ことわられる」とあることを読むと、『戦争と巴里』で藤村の書いている「人形芝居」の項や「篤志看護婦」の頃とも無縁ではないことが分るだ
ろう。また、藤村蔵書には石川訳の『クロポトキン全集』(春陽堂)の記載が見える。馬籠の「藤村記念館文庫目録」には、昭和三・五・二八から同五・五・八
の全十二巻の全集が見えるが、その内の第一巻(昭和四・五・一五)が石川の訳になっているから、その本のことになるだろう。ただ、昭和四年といえばだいぶ
後々のことであって、当時の藤村とは時間的な隔たりは大きいが、クロポトキンについては、藤村の随筆にはもっと前から、「ルウソオの『懺悔』中に見出した
る自己」(明治四二・三)や「クロポトキンの自伝」(同四二・七)、「清少納言の「枕の草紙」」(同四三・一一)にその名や『露西亜文学の現実性と理想
性』の記述があることを考えれば、(大正期でも『平和の巴里』の「音楽会の夜、其他 三」や、フランスから帰国後の「北村透谷二十七回忌に」(大正一〇・
七)、「ドストイエフスキイのこと」(同一四・四)にその名は見える)、無政府主義者の石川と藤村に、共通の話題がなかったと考えるわけにはいかないだろ
う。もっとも同じクロポトキンでも、両者の関心のあり方は大いに隔たっていたことだろう。そして、藤村が新たな関心をはらっていたモオラスへの、石川のや
や当惑した冷ややかな応答や(と推定するのだが)、石川の政治上の立場が、藤村の筆を逸らしていたのか、などとは、あまりに詮索好きな話になるだろうか。
なお前記石川訳の全集第一巻には「一反逆者の言葉」「新しき時代」「待望の一世紀」「監獄論」「リオン控訴院に於ける被告無政府主義者等の宣言」「リオン
控訴院に於けるクロポトキンの弁論」「無政府主義と個人主義とサンヂカリズム」「即時媾和論に対する宣言」などが収録されている。伏字のあるこの書物から
おぞましい検閲の時代を感じ取ることもできるだろう。(『著作集』七巻の「石川三四郎著作目録」にはこの全集第一巻の月報として「入露後のクロポトキン」
「「待望の一世紀」について」が記録されている)。
ところで「宮代君」については伊東一夫氏が「求道家として渡欧した宮代なる熱烈な旧教の信者は、積極的に藤村を旧教の門に誘なった重要な人物である」と、
「中期から後半生において、藤村の生活に深くかかわったキリスト者」の一人としている。「宮代君」のことは前記のほか『エトランゼエ』五十七、八十七に書
かれている。「若い求道者の宮代は、藤村の手を引き、彼を旧教の入口まで導いていった人物であった。僧院と寄宿舎へ案内したり、フランソアーザヴィエー寺
院のすぐれた宗教音楽や旧教の寺院に掲げてある「十字架の道」について語り、おそらく旧教への入信を強くいざなったことであろうと推測される」という伊東
文は(『島崎藤村研究』第四編「宗教と文学の交渉研究における問題」第一章「藤村とキリスト教」)、これは『エトランゼエ』八十七の要約になるだろう。宮
代のその後は、パリで再会した後にリオンに発ったと『エトランゼエ』百にあるが、その後の消息についての記述はない。しかし『海へ』第五章「故国に帰り
て」八には、帰国後、神戸花隈町の葛城旅館に泊してから大阪へ出る三の宮の停車場で、そこまで送って来てくれた人と別れる場面があるが、「その一人は羅馬
旧教の寺院へ行かうとしたことのある、また実際ベルジウム白耳義の修道院に居たこともある、めづらしい経歴をもつた若い帰朝者の一人だ」とある。この人に
ついては藤村の書く「宮代君」を想像するのが最も自然であろう。ただ、後の石川年譜大正七年(一九一八)一月二日には、「ともにブリュッセルを脱走した宮
代某に会い、パリ在留日本人の新年宴会で、久しぶりの日本料理に舌鼓を打つ。吉江孤雁に会う」ともある。藤村の帰朝は大正五年の七月である。その事を考え
ると、宮代は藤村帰朝前に、「あの青年も僧籍へは入らずに……」(百)と藤村が杞憂したようにいったん帰国し、再度渡欧したのだろうか。孤雁がフランス留
学に赴くのは「年譜」によれば大正五年の九月で、帰国は大正九年九月である。宮代もその時期のある期間をパリで過ごしたのだろう。
(三)「吉江喬松年譜」(『吉江喬松全集』第六巻)に、「一九一九年(大正八年)、戦後のフランスに起きて来た東洋文芸への要求に応ずるために、坪内逍遥
作『役の行者』、『新曲浦島』の仏訳を試み、シルヴァン・レヴィ、ミシェル・ルボン両教授の配慮のもとに翻訳を完了、両作ともパリで出版した(前者は一九
二〇年、後者は一九二二年)。『浦島』は作曲も出来、ベルギイ、スウィスでオペラとして上演されたが、『役の行者』は脚光を浴びるまでには至らなかった」
とある。モーオリス・ポトシェについても吉江の『仏蘭西印象記』や『仏蘭西文芸印象記』(全集第三巻)に詳しい記述がある。前者には、戦時下のパリからリ
ヨンに逃れるために「ロマン・ロオラン氏の友人モオリス・ポトシェ氏に別れの挨拶に立ち寄」る時の記もある。そこに、ポトシェの事業たる『民衆劇場』に触
れる場面があるが、「氏の名前は、ロマン・ロオランがその著『民衆劇』をデディエしてあるので大方の人には知られて居ることと思ふ。仏蘭西に於ける民衆劇
の創設者としてロオラン氏がこの人にその著を呈した次第である」とある。これは、ロランの『民衆劇論』(全集第11巻
)の扉に「フランスにおける民衆劇場の最初の創立者 モーリス・ポトシェにささぐ」とあることを指すだろう。また後者の『仏蘭西文芸印象記』に「民衆劇運
動」の項があり、ポトシェについて、また、アルザス国境に近いヴォジュの谷あいにある民衆劇場について、精しく印象的な叙述・描写がある。
〔後記〕
その後、『石川三四郎選集』第七巻(黒色戦線社 昭和五二年九月)で、昭和四年八月刊の『一自由人の放浪記』(平凡社)を読む機会を得た。滞仏中に出され
た『砲声を聞きつゝ』(大正四年十二月 東雲堂書店)や、『放浪八年記』(大正十一年三月 三徳社)、その他の幾種かの思い出を集めたものと書かれている
が、当時の切迫した情況が、さすがに後の整理された『自叙伝』に比べて、はるかに生々しくかつ粗々しく伝わってくる。その中から多分前記の中の誤記と思わ
れるものの訂正(註一のGustave Eervéについて)、及び新たな貴重な証言を記録しておきたい。
(一)文中にドイツ社会党の「オーグスト・ベエベル」という人の名がある。「巴里で藤村と語る」に出
てくる「オウギュト・エルベ」は、このベエベルの「オーグスト」と「ギュスタヴ・エルベ」の「ギュスタヴ」とを混同したものではないかと思われる。前記
「ジャン・ジョレスを想ふ」の「ベーベルとの対抗」という項の中にも「ベーベル」の名はある。「君(註・ジョレス)は万国社会党大会においては、ドイツの
ベーベルと対抗して何時も譲歩派のために大気焔を吐いて、大会に火花を散らした。そして君はベーベルと共に世界社会党の双璧と称せられた」。「譲歩派」と
は、ジョレスが「何時もベーベルに反対して現実的改良、政権主義、譲歩主義を説いた」事をベーベル一派の「革命的社会党」「非譲歩派」に対して称されたも
ののようである。なお『ラ・ゲール・ソシアル』の主筆エルベの名は『一自由人の放浪記』に多く残されている。ジョレス横死一年祭では、「自叙伝」では「君
の友人にして平和主義、非軍備主義のチャンピオンたるエルベ」とされているエルベが、ここでは、「其生前常に彼(註・ジョレス)に攻撃の矢を放つて居た
ギュスタヴ・エルベは……」となっている。その後中欧諸国側から提唱されたという平和会議に、『ラ・ビクトアル』に拠って講和主義に反対し、激しい戦闘論
を主張するエルベのことも紹介されている。これはフランス社会党が講和論と戦闘論に二分化したことを指していて、それがモオラスなどの王党派の思想と一体
化したことではあるまい。エルベが「『ラ・ゲエル・ソシャル』紙上に『国内の敵』と題して、今日の国難に際して徒らに国民に不安の念を懐かしむる彼ら
(註・王党派及びカトリック党)の運動を卑しみ、『ボン・ネルウジ』紙は『独探よりも憎むべき奴』と題する長大な論文を掲げてシャルル・モラスやレオン・
ドオデヱの一派の運動を攻撃して居る」等々の文は生きているのであろう。
(二)「自叙伝」にある「島崎藤村」の項は『一自由人の放浪記』には見られない。晩年に構想された「自
叙伝」の整理・口述に際して何らかの資料を基に補われたものか。この『一自由人の放浪記』では、「巴里の旅」(「友来る!」「異国の邦人」「純乎日本味」
などの見出しがある)という項に、大正七年の一月に長らく会わずにいた友(この友が宮代と思われる)に会い、その後出席した在留日本人の新年宴会の模様が
生き生きと書かれているが、そこに次のような文がある。「私は此席で測らずも早稲田の吉江孤雁君と識合になつた。巴里滞在中三四回も会談して、同君が真面
目に熱心に、仏蘭西文学の研究に没頭されるのを見て嬉しかつた。曩に島崎藤村君の滞在中も二三回往訪したが、孤雁、藤村両君ともに真面目にして少しも浮い
た考へを持つて居ないのを見て、私は日本の文壇の為めに衷心慶賀を禁じ得なかつた」。藤村についての記述はこれだけである。この「巴里の旅」は、日本を出
て三ヶ月余も世界をめぐりパリに到着したという旧友の知らせを受け、その友に会い久闊を叙すべく南仏ドムの町を発つのだが、この友人が宮代ではなかろうか
と思うのは、次のような文があり、青年のイニシアルがMであることにもよる。「巴里の中央停車場タルケイ・ドルセに、数百の乗客と共に私を吐き出して呉れ
たのは既に夜の八時であつた。改札口から出て来る人々を待つ群衆の中にちらりと懐しい顔を閃かした者がある。即ち新来のM君である。M君は同時に手を挙げ
て私に合図した。私は之に応じて黙頭いた。やがて友の熱い手は固く私の手を握つて居た。二年前共に険を冒して旅行した友は、その後日本に帰つて悶々幾月、
再び渡欧したのである」。そして友は言うのである。『今夜某処に日本人の民主的新年宴会があるから出席しろ、多くの人が君の来会を待つぞ』。これが、石川
年譜の「一月二日、パリに行く。ともにブリュッセルを脱走した宮代某に会い、パリ在留日本人の新年宴会で、……吉江孤雁に会う」のすべてであろう。
宮代のその後は詳らかにしないと前記したが、右の項に先立つ「篭城日記」(「五、開戦」の中にある項)の「結語」に以下のような付記がある。
「此日記に表はるゝ日本人木村、田中、宮代の三名は当時ブルツセル市に在留した日本人の総てゞある。其内公使館書記官の木村氏は捕虜となり、残る田中、宮
代両氏と余は白国脱走まで行動を共にした人々である。田中氏は鉄道院の留学生、宮代氏は加特力教の学生である。宮代君は白国退去後、日本に帰つたが、再び
渡欧して貿易業に従事した。不幸病を得て帰国、今は此世の人に非ず。」(一九二一年六月二十四日記)
私は『日本キリスト教歴史大事典』などでその人の名を探していたが、遂にたどり得たその人の消息に、深い哀悼の念が湧きあがるのを禁じ得ないでいる。石川
がパリで会ってから三年の短い間のことであり、藤村が『エトランゼエ』を執筆している前後のことであった。