「e-文藝館=湖
(umi)」 詞華集
みつい たかこ 詩人 1941年 愛知県豊橋に生まれ、1970
年より石川県金沢市在住。 日本文藝家協会・日本現代詩人会・石川詩人会会員。 『イリプス』同人。個人誌『部分』発行。 詩集―『きのこ』・『日本海に向って風が吹くよ』・『蝶の祝祭』・
『Talking Drums』・『青の地図』・『魚卵』・『夕映えの犬』・『牛ノ川湿地帯』・『紅の小箱』
わたしは誰?
三井 喬子
眠り
わが子よ
あなたが会うたびに赤子であり
わたしが漸進的に生の階梯を下る母であるわけは
あなたの時間と わたしの時間が
おなじ方向には巡っていないからである
わが子よ
あなたの温みを抱いたままの手のひらに
遥かな意志が深い裂傷を刻んでいるが
この血液は
あなたを養うことなくして わたしを汚す
夜半 大きな魚卵のなかで丸くなって
わたしの老いを凝視している わが子よ
あなたは 目を閉じることなくして眠らねばなら
ず
口唇を震わせることなくして泣かねばならぬ
ちょうど わたしの
闇に向かっておうおうと哭く
獣の身体と照応して
ああ わたしもまた魚卵のなかで転がっているの
だ
なめらかな硬質な壁に爪をたてようとするのだが
発熱した指先が血なまぐさく磨耗して
時が行き
過ぎ行き
滑落するばかりの 朱い 星空
わが子よ
あなたの魚卵とわたしの魚卵は
毎夜 こうして擦りあって
ひゅるる るる るる と 音をたてているのに
あなたの声が聞こえない
視線をひたと据えた あなたの
瞳孔を開けたままの眠りの
その痛みが
魚卵のなかのわたしを老いさせる
(『魚卵』 1996−思潮社)
電車に揺られて
それがわたし一人のために吐く息でなく
群れてさざめく風によって捧げられた花束の中で
深く吸われ
いとおしむように吐かれた呼気であったとしても
その唇に触れたことで得られた華であれば
何という甘い嬉しさか
たとえばわたしが並木の欅なら
ダンボール箱の子兎を抱いて青年が
涙するような昂ぶりに揺れているのなら
千切られた新聞紙であれ チラシであれ
相応に有意義な死を迎えたことになる
逢えるということは 何という嬉しさか
たとえばわたしが
電車の長いシートの一隅に忘れられた
表紙のとれた雑誌の類いだとしても
鉄橋は細い絹糸のように耀いて流れているのに
過ぎては行かぬ夕陽である
逢いに行く嬉しさに身体中がふるえているのに
どうしてこのように焦げた臭いがするのだろうか
もしもそこが 煤煙に胸塞がれる窓辺だとしても
色を失くした並木道だとしても わたしは嬉しい
形もなく色もない 蝶の情として逢うのだと…
それでも震えてしまう 怖いわけもないのに
もしもわたしが
はてしなく殖える記憶の ただ一つの開口部だと
しても
もう閉じてしまったアルバムだから
水のふくらみは流れようがない
たとえばわたしが 轟音をあげる車輪なら
掴んだ台車の鉄の枠で 手のひらが朱に染まるこ
ともあろうし
軌道を抜けて 途轍もない方向に駆け出すことも
あろうが
わたしは囚われの ただ囚われの〈舌〉である
駅はそれぞれに去っていて
もろもろとほどけ始めるページの中の
風景画 ヌード写真 殺人の現場
もしもわたしが夢を見ているのなら
このように
遠い笛の音に 怯えることもあるまいに
(『魚卵』 1996−思潮社)
それがチューブのたしなみ
ことのほか 暑い一日だった
砂漠は懶く 暮れなずみ
まだ熱い砂 に腹ばいになっていると
宇宙は 平 べったい眠気になった
退屈な視界 を横切る地平線がとろりと凹み
真っ赤なタ ランチュラが這いでてきた
脇目も振ら ず 勤勉に
機関車のよ うにやってくる
のべつまく なしのお喋りは
できれば願 い下げたい大声だけれど
勝手にした らぁ寝てるから
(砂 は流れているのだよ。世が世なれば私はおまえの夫だ
が、なぜか身をやつしたるタランチュラ。せめてそれだ
け でもと報せにきた。砂は不断に流れているので、二度
と 遇うこともあるまいから、ちょいとおまえの中を潜っ
て 行こうか。)
それもそう ねと口を開けて
舌の先まる めて掬いあげる
タランチュ ラは少し照れて
おずおずと
物知り顔に 大胆に
口いっぱい に充ち満ちた
宿世の縁の 通過だから
美味しいご 馳走のように転がして
けれど思い のほかにざらついて
ソックス履 いてよタランチュラ
四足の白い ソックス柔らかな房飾り
後ろの足か ら履けばいい
いいえ前か ら履くほうが楽
あらあらあ らと
妻なる者の 謀りごと
ん?
ついうっか りと 赤いお尻を押してしまった
ずいぶんと 後ろめたい言い訳だが
慌てふため くタランチュラ
じっとして てよタランチュラ
どうして好 んで暗闇で遊ぶの
す とん
ことん
ぼたん
・・・・・
笑いが震えて
駆け上 がり
びっくりが 反復する体腔の現在
足、だ (蹴飛ばさないで
頭、だ (どこへ行くの
(壁をそんなに引っ掻かないで
揺れ靡いて 悩む絨毛の
小突起は天 国の方位を知らないから
きっと溺れ ちゃったのねタランチュラ
地獄の鬼は どんな顔
自分って何 なの 今って何時よ
そんなこと どうでもいいじゃんか
ぶぁっ!
……小さ な、八匹の、白いタランチュラ
(世が 世なれば私達はおまえの子供だが、何故か身をやつし
たる タランチュラ。過ぎ行くばかりのていたらく。消化作
用と いうものは、とかくこのようにお節介なもので、三半
規管も八分 割、わずかな揺らぎにも耐えられない。二日酔
いかな、三 日酔いかな、宇宙酔いかな。へんてこりんな砂
漠だが、今 日の日の出はどちらだろう。)
どちらがど ちらでもいいじゃんか
野放図な白 い曲線を描いて
世が世なれ ばの子供達
もう遇うこ ともあるまいが気をつけてお行き 気をつけてね
夜の砂漠は 不意に冷えて
月すら露を 宿してしまう
一輪の
深紅の薔薇 が明かりを燈すこともあるが
砂が流れて いるので首を傾げて埋もれてしまう
砂丘の裾の 暗がりは そんな芥が溜りがちで
まま足裏を 切ってしまうことがある
それでも 黙って舐めておくほうがいい
それが チューブのたしなみだと
色あせた紙 片に書いてあった
いかんせん 甘かったので 今はもう ない
真偽のほど は闇夜のくるぶしに聞くしかない
(『夕映えの犬』 2001−思潮社)
わたしは誰?
もしもあなたが希むならば
このリズムの意味するところを教えよう
ナヴァティゲタム アララゲヤ
太古の羊歯の教えるところ
ナヴァティゲタム ラフイラフイ アララゲヤ
太陽には テテモツテテモツ アララゲヤ
(太陽には忘れられない声があったのだ
テテモツテテモツ アララゲヤ
(忘れてはならない罪があったのだ
ナヴァティゲタム アララゲヤ
もしもあなたが希むならば
あなたの形がそのようだとか
このように年経ているとか あの係累だとか
ナヴァティゲタム ラフイラフイ アララゲヤ
(知って何かが変わるだろうか
ラフイラフイ アララゲヤ その先の
名もない 名など要りようもない何かなのだ
テテモツテテモツ アララゲヤ
わたしは誰であるのかと
空の鏡に映してみる 行く川の水に聞いてみる
ナヴァティゲタム アララゲヤ (わたしは七つ
の女の子)
ラフイラフイ テテモツテテモツ アララゲヤ
月には裏面があるのだが
わたしの背にも うさぎが棲んでいるだろうか
(わたしにだけは分からない わたしは七つ
の女の子
涼しい風の吹く頃だ
ナヴァティゲタム ラフイラフイアララゲヤ
遺跡の…
硬質性は軟質性に侵食さ
れる。
うそでしょ う?
そんな筈な いわよね 逃げたいなんて。
わたしの脚 を持ち上げられる そんな力があったら
わたしがこ んなに大きくなるまで
そう 二千 年も眠っている筈はない。
(締めてあ げる。
あなたの硬 さにわたしの脚が絡みつき
我慢ばかり の共同生活かも知れないけれど
逃げたとこ ろで 事の本質が変わるわけでもない。
でも
それでも 逃げるのなら
祖先も子孫 も知らない これっきりの命だから
死んでちょ うだい 早く死んで!
(ぎりぎり と締めてあげる。
あなたの暗 い内奥に びっしりと棲みつき
すべすべの 脚の下で崩れる「あなた」という岩塊
押し潰され る「わたし」の生。
海綿体の微 細な隙間から湧き出す苦痛の声が
密林の夜を 華やがせ
蒼い夜空と 鮮烈な星々に捧げられ
たとえば 息
たとえば 歓び
満月の蝶
ああ あな たとわたしが「骨・肉」だなんて
誰も知らな い。
緩慢な消滅 の過程においても 激しく連帯していることを
誰も 知ら ない。
(『牛ノ川湿地帯』 2005−思潮社)
長姉 長い髪を肩先で揺らせている
次女 むっ ちり太った気の強そうな
末娘 瞳の 潤んだ…
と書いて、 筆をおかねばならなかった。語るに足る一生なんて、そん
なにあるだ ろうか。
――そし て、深夜の飽食は続く。段落をつけて再燃する物語のために
ディランを 聞く。哀しい目をしたローランドの貴婦人、倉庫。囁かれ
るスキャン ダル。
若い女は いまわの際にわたしの手をとり
涙ながらに 頼んだ
どうぞ こ の娘達を
山を越え川 を渡り 地の果ての
色の無い岩 屋に住む祖父母のもとに届けてください
亡くなった わたし自身の娘に似ている若い母親は、腰にすがり、あな
ただけが頼 りという目をし、そして閉じた。何の成算もないままに、
いいわ分 かったわと言うと、見る間にどろどろになって地面に吸われ
てしまっ た。ああ、いくつだったのだろう、あまりに若くして溶けて
しまった女 のために、末の幼女を負ぶい、上の二人の手を引いて、
山、 河、 山、 河、 彷徨い続け…
所番地すら 聞けなかった岩屋を捜して
名前も知ら ない姉妹の祖父母を求めて
昼、 夜、 昼、 夜、 つかの間のまどろみの他は歩き続け…
亡くなった わたし自身の娘に似ている若い母親のために、祖父母はど
こにと訪ね たが、蛇もさそりも我が孫とは言わず、みっともない涎を
たらした。
星がカラカ ラ落ちてくる
そう
太陽は 真 上に
亡くなった わたし自身の娘に似ている若い母親の、わたしに託された
三人の姉妹 のために、砂嵐、静まれ!
わたし自身 の娘に似ている若い母親のために、星よ空にとどまれ!
と、言う。 ああ砂嵐だ、いつまでも激しい風だ。一つの体のように寄
り添って、 わたしたちは歩く。寒いね。あついね。あちゅいね。サム
イネサムイ ネ。
時には、空 も地も真っ赤に燃えることがある。時には青く発光するこ
ともある。 わたしたち四つの体は光のもとに在り、光のもとに無い。
闇の中に在 り、闇の中に無い。ただ流離う名前なき身体である。
地の果ての 岩屋に住むという祖父母、それはあなたですか。
上の娘がせ きこんで言うには
わたしは何 のために生まれたのかしら
中の娘が昂 然と言い放ったのは
死ぬためよ
下の娘は身 を震わせて
ただ 泣き じゃくった
亡くなった わたし自身の娘に似ている若い母親は、この娘たちも育つ、
とは言わな かった。わたしが老いるとも言わなかった。わたしは何の
ためにこの 娘たちを託されたのかと途方にくれた。
上の娘は病 気である
中の娘はあ らゆるものが嫌いである
下の娘はす べてが自分のためにあると思っている
地の果ての 岩屋にすむ祖父母を求めて、上の娘は重い病に罹ったので、
砂の上に置 き去りにした。中の娘は、いつのまにかいなくなった。も
う自立した い年ごろかも知れないと、嫌いだったその娘を、忘れた。
末の娘が、 末の娘が…、
わたしは咳 き込む 長女のように
わたしは忘 れられる 次女のように
わたしは
わたしは乾 いて砕けてしまう
末の娘の手 のなかで 砂になる
今成りの髑 髏の食いしばった歯列の間から、白い砂がこぼれている。
地の果て だ。人は大きく目を開けて、見よ!
亡くなった わたし自身の娘のために、三人の託された娘たちを助けた
かった。こ ろころ転がって遊ぶ明るい日々を作りたかった。ある朝目
覚めて、そ んな情景が目前に繰り広げられることを想って、さまざま
な人や獣や 物に手を合わせ、戦い、耐えたのだが、三人の姉妹は戻ら
ず、自分の 体すら無くなった。
役立たず… と誰かが 言った。どうして助けてくれなかったのよとも
言うから、 あの若い母親なのかも知れない。
亡くなった わたし自身の娘も泣いているだろう。
わたしも泣 いてしまう。どうして助けてくれなかったのよと声がする
のだ。
山、 河、 山、 河、
昼、 夜、
昼、 夜、
落としたも のが響きやまない。
(『牛ノ川湿地帯』 2005−思潮社)
違い棚に紅 い小箱がありました。
うっすらと 寒い秋の夕暮れ
箱がしずか にありました。
取ろうとす ると ふと消えて
振り返ると またあるのでした
紅い箱が。
紅い骨箱な んて あるはずもなく
蛇を隠して あるはずもなく
それでもた だ
細長い紅い 小箱は あるのでした。
記憶の襞を 拡げてみても
それは わ たしの箱ではない。
嘆きの淵か ら拾われたのか
板をじんわ り濡らしていて
開けたらい けないような風情です。
借りたまま 返せなくなった本が
ひっそり 入っているやも知れず
経文の筒が 入っているやも知れず。
だって
それ位の大 きさなんですもの。
だれが置い たの
と 小さい 声で聞きました。
だれが置い たのかしら
応えは何も ありませんでした。
だれが
だれが置い たの。
そのとき ふと思い出したのです
実家の奥の 間の違い棚に
そんな紅い 小箱があったような。
母も妹もす でになく 叔母さえいない家ですから
訊ねる人も おりませんが
あの箱の中 には笛が入っているのだと わたしは思う。
凛々しい姿 の竜笛が
いえ もし かしたら
小さな篠笛 かとも思います
何せ 紅い 小さな箱ですもの。
それとも
単なるかん ざしの類でしょうか
母が青磁の 香炉にかけていた
小ぶりの毛 ばたきなのでしょうか。
遠くで雷が なっています。
日暮れが早 すぎる気もしますけれど
空一面に
雲がかかっ てきたのかも知れませんね。
ああ 雷が 近づいてくる。
唐草模様の お布団ごと 長い刀に突き立てられて
ばっさり。
骨が潰れる 音がして
唐草に真っ 赤な花が咲きました。
好きよ
と わたし は声をあげ
布団がどん どん重くなる。
好きよ 好 きよと 小声で言った。
お逃げなさ いと 障子が開き
ばらばらば らと 花に風。
(『紅の小箱』 2007
裏門を
ひっそりあ
けると
牡丹の花が
満開で。
満開で
花びらの浪
に乗って 白髪の爺が迎えにくる。
おちょぼの
口に紅をさし
袂を重ねて
お出かけで。
お重を抱え
て徳利下げて
お出かけ
で。
葦の葉のよ
うな舟に乗り
は 行方は
知らぬ。
知らぬ存ぜ
ぬ
うっとりと
する酔い心地。
瓜をたべた
い 蜜のしたたる白い瓜。
背中もたべ
たい
耳もたべた
い
喉の奥の
魂なんぞも
たべてみたい。
ふ
ふ ふ
ふ
くちびるを
湿らせて
無明の指が
紅をさす。
ほうっ
と 頬に
刀傷。
(『紅の小箱』 2007−思潮社)