遊戯幻想

                           松島修三


    一章  かくれんぼ
         
「もういいかい」
 聞こえていた返事がぷつりと絶えて、また置いていかれた‥、と文子は直感する。それでもルール通り両手に顔を伏せ、「もういいかい」を繰り返しながら、 聞こえる望みのない誰かの「もういいよ」を期待した。日が落ちて、空き地を吹き抜ける風は刺すように冷たい。我慢しきれなくなって文子は手を離し、辺りを 見回す。店舗を解体したあとの空き地は瓦礫の山で、隣のビルが壁面のレンガの汚れを曝け出している。立ち上がった文子は瓦礫の山の裏側や、折り曲げた看板 の中を覗いて姿を捜すが、無駄な行為であることは自分でも分かっていた。遊んでいた子供達の中で文子は最年少だった。お姉さん達は幼稚園児だった文子を遊 びに加えてくれたが、『鬼ごっこ』のように駈け足に差の出るものは捕まっても鬼にならないおミソだった。『かくれんぼ』は駈け足を必要としなかったが、や はりおミソ扱いで最初に見つけられても見逃してくれたが、たまに鬼にされることがあった。文子がしゃがんで目隠しをしている間に、「まあだだよ」と言って は一人ずつ消えて自宅へ帰ってしまう。その計略は、お姉さん達には痛快だったのだろう。置き去りにされた文子は、しかしルールを尽くしてさんざん探した挙 げ句、空き地をあとにする。都電通りからの向かい風に阻まれながら、通りの手前にある狭い店先へ駈け込むと、売り物の古本を手にしている父が鼻眼鏡の上か ら文子を見た。
 
 幼い頃の遊びの夢が、文子を眠りから覚ました。木枯らしの中に置き去りにされた冷たさが掛布団から出した右手に残っていた。夫の鼾が横向きに寝ている文 子の背後から聞こえる。ぷつりと絶えるその鼾は、文子の夢の中でも聞こえていた。むしろ、そのために目覚めたと言ってもいいような、文子には心配な鼾で あった。鼾がまるで喉に支えるみたいに呼吸が停止する。一、二、三‥、と文子は数える。長いときは文子の秒刻みで二十秒以上、喉が開くと同時に、欠乏した 酸素を取り戻そうとして激しい鼾となる。文子は寝返って身を起こした。照明の薄明かりの下で、夫は上へ向けた口を半開きにしている。夫の掛布団を捲ると、 文子は仰臥の体をこちら向きにさせようとした。夫が薄目を開けて、肩を起こそうとしている文子に気づくと、面倒臭そうに顔をゆがめながら自分で横向きに なった。すぐまた夫は寝息を立て始めたが、呼吸は順調で、文子は蒲団に戻った。この睡眠時無呼吸症候群が、夫の場合は仰臥を横臥にすることで凌げたが、な んの対策にもなっていなかった。原因の一つとされる肥満や酒好きに夫は該当しているが、アルコールを控える気持ちなど毛頭ない。高血圧症や心臓疾患をも招 きかねないと聞くから、文子は病院での受診を勧めるのだが、夫は一向に取り合わない。
 文子はまた寝返りを打って、夫の寝顔に背を向けた。体が冷えていた。掛布団にすっぽりと埋まって暖まる文子に、見た夢の寒さが甦る。『かくれんぼ』は寒 い季節に限った遊びではなかったが、文子には木枯らしの中に置き去りにされた思い出に繋がってしまう。目を閉じて眠ろうとしながら、この家での疎外感がこ んな夢を見せるとでも言うように、文子は小さく舌打ちした。
 小田原の警察署から電話が掛かってきたのが、今回の事態の始まりだ。生活安全課の警部補が「高木蓉さんのことで」と義母の名を出したので、電話を受けた 文子はすぐに夫と交代した。夕食の準備が整って、夫はビールを飲み始めたところだった。警察からの突然の電話は文子の胸を騒がせ、夫の受け答えを窺いなが ら、音を立てないように取り皿や箸を据えていた。そのときだった。
「おい、ちょっと外してくれないか」
 文子が顔を見ると、送話口を手で覆った夫がドアから出ていくように顎で指図した。
「あ‥、はい」
 ダイニングを出て廊下に佇んでいたが、ふらふらと階段を上がってくると、畳んで重ねておいた洗濯物を夫と息子の抽斗に納めにいきながら、文子の胸騒ぎは腹立たしさに変わっていた。 
 義母の蓉はこの三月三日で八十歳になったばかりだ。義父は夫が高校生のときに亡くなっていて、一人息子である夫が結婚と同時に都内へ転居してから、蓉は 南足柄市の古い家で一人住まいを続けてきた。通いの家政婦の手を借りながら、衣食住のどこにも不都合なく暮らしているが、夫は毎月一度は様子を見にいく。 文子が最後に会ったのは去年の正月、家族で大雄山の道了尊へ初詣に行ったついでだったので、不義理が気になってはいたのだが、パートで引き受けた催事の手 伝いをよく休日に頼まれるので、車で行く夫にいつも同行できない。蓉からの電話は夫の携帯に掛かってくるので、割り込んだ挨拶もためらわれて、気がつけば 一年以上も会話がなかった。だから警察からの電話に駈けつけてもいいほどの気持ちでいたのに、邪魔に扱われたことが理由のいかんを問わず許せない。
「お義母さまのことなのよ。交通事故にでも遭っていたらどうしようかと、それは心配したわよ」
 文子が息子の涼太に訴えたのは、その週の週末だった。夫だと遠慮がちになってしまうが、涼太には感情のままに喋れた。夫への不満を息子にぶつけて晴らし ている、そう言われても仕方ないほど、今年が成人式だった涼太は大人びて包容力を感じさせる。結婚生活も十年にさしかかって、もう諦めかけていたときにで きた子供だったから、すでに五十も半ばとなった母親が弱気に甘えたい気持ちもあった。
「でも、生活安全課だろう?交通事故はあり得ないよ」
 涼太は話に付き合いながら、テーブルに置いた楽譜を見ていた。誘われて入った大学のオーケストラでオーボエの首席奏者を任されると、父親に取り入って高価な楽器をせしめていた。夫にぎくしゃくしている自分よりよほど技巧派だ、と文子は見ている。
「それなのに、お父さんと来たら何も教えてくれないのよ」
 そうは言ったが、文子も電話の内容を尋ねはしなかった。昔から、蓉のこととなると尚更、口出しに気が引けた。音符を目で追いながら、かすかな口笛を聞かせていた涼太が文子の顔を見て笑った。
「お母さんがそんなに心配することないさ。多分、証券会社とのトラブルだから」
 舌を出して見せた涼太に、文子は目で訊き返した。
「警察が困って、家族になんとかして欲しい、と言ってきたんだよ」
「どうして分かるの?」
「前にもあったからね。おバアさまは株で大損すると、証券会社に説明を求めて、納得が行かなければ警察沙汰にしちゃう。長年、株に手を出しながら、株がどういうものか分かってないんだ。詐欺扱いされれば、証券会社にも迷惑な話だけど、巻き込まれる警察が一番迷惑、って訳」
「涼ちゃん。そんなこと、あなたがどうして?」
「オヤジさんから聞いたんだ」
 文子は呆気にとられた。事態の内容もそうだが、それを親が息子から聞かされるなんて思ってもみなかった。涼太が大人びた嬉しさも悔しさに変わっていたが、それ以上に、妻の自分は除け者にしておいて、息子には打ち明けていた夫の仕打ちに、裏切られたような憎悪を感じた。
「わたし一人が蚊帳の外、という訳か」
 横に向けた文子の顔を、涼太が手にした楽譜で扇いだ。
「拗ねないでよ。オヤジさんは男同士の話にしたかったんだろう」
「なるほど、男同士ね」
「僕には分かるな。自分の母親のトラブルなんて、しかもお金に絡むこととなれば、女房には知られたくないもんだよ」
「子供は身内だけど、夫婦はやっぱり他人なのかしら。そうよね、血の繋がりを言えば、おバアさまとお父さんとあなたは確実に繋がっているけど、わたしはそうじゃないもんね」
「何それ、僕に血を繋げるためにお母さんの存在は不可欠だったじゃないか。第一、血なんか、って言うか、家族ってもっと別の繋がりで成り立っているんじゃないの?だってこの家の日常は、お母さんを軸に正常に回転してるだろう」
 涼太は人差指を斜めに立てると、地球儀に見立てて別の手を一周させた。
「長い時間のうちに一定の軌道ができていて、いくらオヤジさんと血が濃いからっておバアさまが踏み込む余地はないんだ。でも、僕はそれでいいと思う。おバ アさまが何をしようと、おバアさまの身に何が起ころうと、そりぁ関係のない顔はできないけど、別の世界のことなんだよ。だからおバアさまの方がよっぽど蚊 帳の外、って訳」
 涼太はやはり大人になった、と文子は感じながら、だが夫に対しては蟠りがまた凝りになってしまいそうに思えた。
 
 文子はなかなか寝付けずに、枕元の時計を照明の薄明かりに照らして見た。四時になるところだった。起きてしまうには早すぎる。それに、三月の中旬といえ ども一番冷え込む時間帯だ。また寝返りを打って、夫の方へ向いた。夫はこちら向きのまま深く眠りこんでいる。鼾も静まっていた。角度のせいで半面が浮かび 上がっている夫の寝顔に、イーだ、と文子は投げかけた。眠ることは諦めても、目を閉じれば眠気が残っていて、どうしたいのか分からない頭に思いが錯綜し た。涼太が母を生活の中心に置いてくれても、家事をこなしているという次元でしかない。言われるまでもなく、文子はパートに出ていても家事は怠りなく勤め てきた。特に夫と涼太が食通であったから、料理の手はプライドにかけても抜くことはできず、時間を選べる仕事だから引き受けたのだ。夕食を夫と済ませて も、作り置きを食べさせないように、いつ帰るか分からない涼太をキッチンで待つ。夕食の料理にはそれだけこだわっていた。朝食はパン食だがら、卵料理とサ ラダの他にも必ずスープを添えて、支度が整ったところで夫を起こし、涼太は前の晩に聞いておいた時間に起こす。パートに出る日も出ない日も、晴れていれば 洗濯は毎日。掃除や片づけは家にいる日に集中させて、その他の用事は臨機応変にやりくりした。夫も涼太も庭の水撒きは疎か、自分の靴すら磨いたことはな い。確かに、自分がいなければこの家の日常は正常に回転しないだろう。だからこそ、その回転から置き去りにされているとすれば、ちょうどあの『かくれん ぼ』のときのように悔しいに決まっている。涼太はまた、蓉のすること身に起こることを別の世界の出来事だと言った。血の繋がりより家族の実生活に重きを置 いた涼太の主張は正しいのかも知れないが、文子はすんなりと納得できない。蓉がこの家に影響力を持ってきたのは、文子にとって明らかだからだ。滅多に来る ことはなく、干渉された覚えもないが、今度のように蓉のことで波乱が起きるたびに平穏な日常は混乱した。そのことに蓉は気づかないのか、いや、そ知らぬふ りをしているのか、或いは意図して仕向けているのか、蓉のことだからいずれにも考えられる。ともかく蓉という人は、夫の母ということの他は文子には分から ないことだらけなのだ。夫にも蓉に関しては疑問が多い。毎月の訪問は孝行のようでも、蓉が一月以上も入院したときには一度も見舞わなかった。携帯電話でや りとりしているかと思うと、急に蓉から速達の封書が届いたりする。自分が車で行きながら蓉への品を文子に郵送させたり、会ってきても蓉の足の捻挫に気づか なかったり、訪問自体を疑ってしまうこともある。涼太にしても祖母に対してはドライに割り切っていて、文子は自分も含めて、蓉のこととなると家族三人の気 持ちが分からなくなってしまう。
 文子は蒲団から右手を出すと、涼太がしたように人差指を斜めに立ててみた。さらに左手を出すと指に一周させながら呟いた。
「これで暮らしと言えるのかしら」
 その点、星野の実家は実に分かりやすかった。父が無口なため会話の多い家ではなかったが、文子には家族がよく見えていた。父がご機嫌なのか不機嫌なの か、文子のおねだりに母がどう出るのか、弟の学が何を企んでいるのか、誰もが自分に正直であったせいか、言葉より先に分かったものだ。すっかり温もった蒲 団の心地よさに、眼鏡を鼻先まで下げた夢の中の父が甦って、文子は夢の続きに遊ぶことにした。
 「懐風堂書店」と看板を掲げる父の店は、神田神保町の一角にあった。靖国通りを走る都電は駿河台下からカーブして神保町の停留場に向かう。カーブの内側 には軒並み書店と古書店が続くが、すずらん通り、と呼ばれる別の通りが駿河台下からまっすぐに伸び、折れ入った道筋に肉屋も八百屋もある一帯は商店街に なっていた。すずらん通りを横切る一番広い道の、都電通りへ出る左側の手前三軒目が、文子が駈け込む父の店だ。狭い店内の壁に寄せた棚と、一回りして見る 中央の棚には、背表紙を揃える父の手つきからも大事な本が並び、下に積まれるのはどうでもいい本なのだ、と文子は子供ながらに分かっていた。奥というほど でもない左奥の、一段高い板の間が父の居場所で、座布団に坐る父は小机に向かって本の奥付の裏に値段のシールを貼るか、売り物の本を読んでいる。息を切ら して駆け込んだ文子を、鼻眼鏡の上からじろっと見たところで夢は終わっていたが、その父の顔がアタシと知って急に綻ぶ。普通なら、客かと顔を上げて子供と 知れば、「こら、店から入ってくるな」と怒鳴るのが親だろうが、父は違っていた。客の立ち読みが長ければ、近くの本にハタキを掛けに行く典型的な古本屋の 親父なのだが、子供には、特にアタシには甘かった。父がいつものように上目遣いの目を細くして何か語りかけるが、無愛想に取り合わない。木枯らしの中に置 き去りにされて、アタシは怒っているのだ。運動靴の踵を交互に踏んで脱ぎ捨てると、父の背をすり抜けて四畳半の部屋へ入る。畳の向こうは台所で、母はガス 台の前に立っていた。向けている背には弟の学が負ぶさって、顔を横にしながら手足を動かしている。アタシと三つ違いの学は二歳。そう、アタシはこのとき五 歳だったから、夕食の準備に忙しい母が弟の世話をさせることも、丸い卓袱台に家族の食器を並べさせることも、まだなかった。割烹着の隙間から帯のお太鼓を 軽く叩いて、わざと膨れっ面を見せるが、母はうなずくだけで何も問わない。いや、問われても負けん気が強いアタシは告げ口などしなかったから、不機嫌なの が母に分かればそれでよかった。食事の支度が整うと、母は背中から学を下ろしながら父に声を掛ける。呼ばれた父が店の見える位置に坐って、母が台所を背に 学と並び、アタシは父と母との距離を等しくして家族が卓袱台を囲む。
「お母さん。このお魚なあに?」
「鰤ですよ」
「大根おろしも食べなきゃ、だめ?」
「ええ」
「皮がカサカサしてる、アタシ鮭の方が好きだな。お母さんは?」 
「どっちも好きよ」
「お父さんは?」
「冬は鰤だ」
「やだ学ちゃん。食べてるとこ、見ないでよ」
 無口な父に合わせて母の口数も少なかったから、幼いながらも考えて会話を引き出すのはアタシの役目だった。無言で箸を進める父が何度も店に目を配れば、 客が本をあさっているのだと知れた。母と十歳も歳が違う父が鼻眼鏡の上からじろっと睨むとき、友達のお父さんよりずっとお爺さんに見えてしまう。でもアタ シにはどの友達のお父さんより、このお父さんの方がお父さんらしい。母は学にお粥を食べさせながら、合間に自分の箸を取る。夏以外はほとんど着物で、食事 の支度をするときだけ上に割烹着を着た。黒い髪の毛がふっくらと多く、鼻の格好がよく、父を窺う目が涼しそうなこういう顔を綺麗というのか、と鼻がおへ ちゃなアタシは見ていた。食後のお茶を啜っていた父が、咳払い一つしてアタシの気を引く。母がむずかった学を抱いて二階へ上がったときだった。鰤を持て余 していたアタシが咳払いの方を見ると、父が卓袱台の下から水色の本を覗かせて、また隠した。
「あっ、ちいさいおうち」
 アタシは箸を置いて父に飛びつく。幼稚園に一冊だけあったその『ちいさいおうち』は、色が綺麗で女の児に人気の絵本だったが、読みもしない男の児に取り 上げられて貸して貰えなかった。アタシはそれを父に話したが、難しい本ばかり手にしている父が、まさか取り寄せてくれるとは夢にも思わなかった。表紙に艶 のある真四角な本を父の手から奪い取った。古本で商売をしていても、父が子供達に与える本はいつも新品だった。堅い表紙を開いて父を見ると、上目遣いの目 を細くしていた。でも記憶では、このとき父は前開きの縮のシャツを着ていたから、季節は夏で木枯らしの中に置き去りにされた初冬ではない。回想がつぎはぎ になっているのだ。でも、父におねだりした、旧約聖書の内容を子供向けの物語にした『ゆめのはしご』や、「レ・ミゼラブル」のダイジェスト版である『ああ 無情』を読む年齢ではなかったから、今もなくさずに持っているバージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』は、父が最初に買ってくれた本に間違いな い。
 父の顔が薄れて、一とき暗闇の中で正体をなくしていたが、けたたましい電話の音に呼び戻されると、神田の店を売り払って越してきた狭山市の家にいた。床 の間のある八畳間で横長の座卓を囲み、わたしの隣にはセーターに綿入れを重ねた母が、向かいには大学生の学がいる。鳴り続けている電話を誰も取ろうとしな いのは、電話の用件がなんであるか分かっているからだ。もしも母か弟が観念して電話に出ようとしたら、わたしは力ずくでも阻止するだろう。電話に出さえし なければ、あのことは知らずに済む。二度とあんな怖い思いはしたくない。あっ、電話の音が止んだ。と同時に、わたしは体を揺すられていた。

「おい」
 目を開けると、夫が顔を覗き込んでいた。
「目覚まし、鳴ってたんだぞ。どうした、疲れてんのか?」
「あっ、ごめんなさい。いえ、大丈夫」
 文子は慌てて起き上がると、隣の部屋で着替えを済ませ、両手で髪を整えながら階下へ下りてきた。洗面所では歯磨きだけで、洗顔は後回しにした。寝過ごし た訳ではなかったが、ぼんやりとした頭に気は急いていた。いつもなら五時半を回った頃に自然と目が覚めて、蒲団の温もりに浸ったあと、六時にセットしてお いたアラームを解除する。セットは念のためで、アラームに起こされたことは一度もない。それが、鳴っていても目が覚めなかったのだから、夫が怪訝な顔つき をしていたのも無理はなかった。
 ガスコンロの上の照明を点けると、昨夜のうちに下拵えしておいたスープを火に掛け、冷蔵庫からトマトピューレを取り出した。具に玉葱が多ければ、トマト 味が喜ばれる。デザート用のキウイフルーツを輪切りにしてヨーグルトを乗せると、卵料理に取りかかる。夫はハムエッグなのでテーブルに着いてからで間に合 うが、涼太はハーブを刻んで混ぜたオムレツに粗挽きのソーセージが好みだから、焼くだけにした材料を冷蔵庫にしまう。食パンは焼き加減がうるさいので、皿 に並べてトースターを寄せておけばよい。煮立てて火を止めたスープにトマトピューレを混ぜて味見しながら、文子の目には目覚ましの音で鳴っていた古い電話 機が消えずに浮かんでいた。
 昭和五十二年のあのとき、狭山市の実家の電話はまだ黒いダイヤル式だった。父の手術が無事に終わった報告を受けて、母と学と三人で夕食を済ませて帰宅す るなり、けたたましく鳴った電話で病院へ呼び戻された。処置室へ駈け込むと、医師がモニターを見ながら父の胸を押していた。手を止めると、モニターの波は 水平になる。続けますか?と問われて母は振り返り、文子と学は顔を見合った。どういう意味なのか、三人とも突然過ぎて分からなかった。手術は完璧だと聞か されていた。回復次第では二週間後に退院だとも言われた。それが、急な容態の変化、では納得できる訳がない。夜明けを待って霊安室から自宅へ帰ってきた父 は、友引が控えていたため翌日には荼毘に付されてしまった。両開きの窓から最後の顔を拝んで、棺が炉の中へ消えていくとき、震えている母の背中を文子が抱 き、母にしがみつかれた学が文子の肩に手を回して、三人で寄り添った。三人が身を寄せるなど一度限りのことだったが、文子はそのときの母と弟の体温をしっ かりと覚えている。 
 ドアの開く音に振り返ると、ガウンを纏った夫がダイニングへ入ってきた。
「早く起こしちゃって、すみません」
 夫は無言でテレビを点け、背を向けてソファーに凭れるといつもはすぐに新聞を広げるのだが、室内がまだ寒いのか、リモコンを持ち替えて暖房の温度を上げ た。スープを温め直すのは夫が歯磨きに立ってからでよく、文子はテーブルの椅子に腰掛けると、テレビの方へ目を向けた。離れているために聞き取りにくい音 声は、八月以降の実施が予想される衆議院総選挙の模様を伝えている。二年前の参議院選挙で与党は野党第一党に首位の座を奪われて、ねじれ国会となっている ために挽回の布石を打ちたいところだが、二人の首相が相次いで退陣する弱体ぶりや幹部の醜態や失言の連続に、参議院で第一党に躍り出た野党の優勢がささや かれ、その党にすればねじれ国会を解消して政権の交代を実現する絶好のチャンスとなっている。そう言えば、父は戦後の政権を握り続けてきた今の与党を好ま しく思っていなかった。文子が生まれた二年後の昭和三十一年に、「もはや戦後ではない」と経済成長が評価されたそうだが、父は四十年代の高度成長期を、人 々が戦争のための兵力にされたように今は経済のための労働力にされている‥、と批判していた。やがて庶民は戦争と同じに疲弊する‥、と聞かされても、当時 まだ中学生の、戦争もその爪痕も知らない文子は反応のしようもなかった。ただ、書籍に囲まれて暮らしている父の言うことだから間違いはない、と思ってい た。しかし女子高校に通っていた頃、父が頑固に人付き合いを嫌うのは、ひょっとして、戦時中のそうした考えによって世間から疎まれたためではないのか、と 疑ったこともあった。父の過去については、終戦後間もなく神田の焼け跡に猫の額ほどの土地を買って古本屋を開いた、と見れば分かることしか聞かされてな い。母についても、父の商売が軌道に乗った頃嫁いだ、と同じ程度にしか知らない。もっとも、両親の昔の話など友達も聞いてないようで、エピソードがあると しても聞かせたのは本人ではなく親類の誰かだという、そんなものだろう。その親類だが、結婚前までにどちらも両親を亡くしていて、母の方には美人だが独身 を通した妹が一人、今も川越に健在で行き来しているが、一人っ子だった父には遠縁に当たる人もなかったのか、いや、あっても父なら頑固に付き合いを避けて いたようにも考えられる。しかし、町内から煙たがられていた父も、逆に評判のよかった母も、文子には安心させてくれる両親以外の何者でもなかった。
 テレビの画面には選挙戦の動向が続いていたが、文子はぼんやりと目をずらしながら、父が亡くなる前に起こした一連の行動を思い出していた。昭和五十一年 の春、市街地再開発事業と銘打って建設業者が一帯に土地の売却を持ちかけたとき、近隣からは最後まで反対するであろうと思われていた父は、あっさりと話に 乗っていた。当時文子は二十二歳で、短大を出て就職二年目だった。並行して父は、不動産屋に新居の斡旋を頼み、探させた物件を吟味しては文句をつける、そ れにも古本の見立てしかできないと思っていた父だけに文子は驚いた。やがて埼玉県の狭山市に建て売りで出た新築の、価格も折り合う一軒に目をつけた。見に いった家は、神田の喧噪の中で暮らしてきた文子には、まるで絵本の『ちいさいおうち』だった。緑の丘に建っていたちいさいおうちは、開発で市街地と化す中 で孤立するが、とある人の思いから再び緑の丘へ運ばれてめでたしとなる。父が選んだ新居は丘の上にはなかったが、辺り一面の茶畑は折しも茶摘みのシーズン で、絵本に見るような緑を輝かせていた。大学生になり立ての学も、当初は都会でのマンション暮らしを主張していたが、見学の時点ですんなりと賛成した。母 は父のすることに異は唱えなかったから、購入の話が決まった。店の外に大売り出しの看板を立てて在庫の本を捌くと、自分で本棚を解体し、閉ざした雨戸に閉 店の挨拶を貼った。このときも父の手際はよかった。文子と学には初めての引っ越しだったが、思ったより手間もかからず、土地の売却を決めた年の秋には転居 していた。それまでの住まいと比較すれば、間数も間取りも贅沢なほどで、庭と別に駐車場もあり、二階の窓から望む秋空のかなたの秩父連山は特に文子のお気 に入りだったが、一つだけ難を言えば、丸の内の会社への通勤がきつかった。
 父が神田の土地の売却を思いきったのは、高額につられたからだと町内では噂されたが、そんな父だと思いたくない文子の気持ちがそうさせるのかも知れない が、父には何か大事な含みがあったように思える。母の談によると、嫁に行く文子にも嫁を貰う学にも体裁があるから‥、と言っていたそうだが、父が先を見越 していたかのように、お嬢さんと見られた文子に土地の旧家を介して縁談が舞い込んだ。相手は名のある会社の工場長を務めた人の子息、それがこの夫である。 父は娘の婚約を手放しで喜んだが、花嫁姿は見て貰えなかった。病院での急な死は婚約中の出来事だった。式を延ばすべきだと夫は言ったが、こちらの事情だか らと母は承知しなかった。父に早く報告したかったのかも知れない。それから六年後、学も良縁に恵まれて結婚した。母は今、娘を儲けた学夫婦と、庭を自由に 使って暮らしている。家族に安定した暮らしの地盤を残すことが欲を見せなかった父の望みだったとすれば、あの性急だった一連の行動に死を予期した父が見え てくる。五十七という、文子にはまだ惜しまれる年齢だった。
「今日の夕食は、いらないから」
 朝食を食べ終えた夫が、爪楊枝を使いながら言った。
「はい」
 例によって文子は了解しただけで、理由は問わなかった。夫がテーブルから離れると、壁の時計で時刻を確認した。涼太に頼まれていた七時半に、あと五分で なるところだった。今日は一時間目に試験があると聞いている。ダイニングのドアを開けると、壺に入れて暖房で咲かせた沈丁花が玄関の方からほのかに匂っ た。洋間でスーツに着替える夫を横目に、文子は浮かない気持ちで奥へ向かった。

















       
       
       
       
       
    
    二章  ことしのぼたん
       
 わらべ歌を伴う遊戯がある。
 映画やテレビの時代劇で、子供が遊ぶシーンによく用いられる『かごめかごめ』がいい例だが、鞠つきにも手鞠歌は欠かせない。本来その多くは女の児の遊戯 だったらしいのだが、文子に歌で遊んだ記憶はあまりない。 歌いながら遊ぶという行為が都会のテンポに合わなかったのか、因みに、幼稚園での『ゴム跳び』は「アルプス一万尺」の歌に合わせて、並行に渡した二本のゴ ムに足を引っかけて捻ったり、上手な子は二重に巻き付けて素早く抜くのだが、ゴムの高さや技の速さを競ったから『かごめかごめ』などとはテンポが違うし、 そもそもゴム跳びは外に出られない雨の日に仕方なく代用した選びだった。それなのに文子は『かごめかごめ』を始め、他の遊びの歌もなぜか知っていて、今で も歌える。
  かごめかごめ   
  籠の中の鳥は いついつ出やる
  夜明けの晩に 鶴と亀がすべった
  うしろの正面だあれ
「その歌、歌っちゃいけないんだよ」
 ひよこの絵を書かされていたとき、自然と歌が出てしまった文子にリッちゃんこと律子が言った。文子と律子は一年生になっていたが、その日はお休みの日曜 日。場所はすずらん通りに続くさくら通りの入口にある救世軍の教室で、書かされていた絵は復活祭のカードに押すスタンプの下図だった。救世軍ではクリスマ スや復活祭などに子供向けの催しを開いていた。カードとビスケットが貰えるので、その日だけ来る子供達のために準備をするのは日曜学校に通う子供達だっ た。上級生と一緒のカード作りが楽しみで、実は文子も律子も行事が近づかなければ顔を出さなかったから、その日だけの子供達と余り変わらなかった。
「どうして歌っちゃいけないの?」
 上級生の誰かが律子に理由を尋ねた。
「昔の囚人さんが、首を切られる歌なんだって」
 その場にいた全員が作業の手を止めて律子に注目した。
「籠の中の鳥‥、の籠は牢屋でね、鳥が囚人さんなのよ」
 得意げに話す律子の説明に一同はうなずいたが、文子の目にはいつか時代劇で見た刑場を仕切る竹垣が恐ろしく浮かんだ。
「いついつ出やる‥、はいつ首を切られるの?で、夜明けの晩に、鶴と亀って長生きの動物が転ぶんだから、その日のことなんだって。うしろの正面‥、はうしろから刀でえいっと首を切るのはだあれ、って」
「やだ」
 思わず両手で耳を塞いだ文子を見て、可愛いと上級生達は笑った。映画館で父と見た「椿三十郎」の、黒い血が噴水のように吹き出るシーンで父にしがみついたのは、つい二月前のお正月のことだ。手を止めていた一同が作業に戻ると、
「分かったでしょう。アタシももうかごめはやらないから、フミちゃんも歌わないで」
 と律子は念を押したが、一緒の幼稚園のときから『かごめかごめ』で遊んだことなどなかったので、文子はきょとんとしていた。
「フミちゃんはカマトトだって、リッちゃんが言ってるわよ」
 数日後、学校でクラスメートの一人が文子に告げ口した。
「カマトトって、何?」
「知らないけど、どうせ悪口でしょう。リッちゃんて、フミちゃんと親友のようにしていても、陰じゃ悪口言ってるんだから」
 家へ帰って文子は母にカマトトを訊いたが、自分がそう言われたとは告げなかった。
「ねえお母さんたら、カマトトってどういうこと?」
「文子はそうじゃないんだから、意味なんて知らなくていいの」
 母が掃除の手も止めずに言うので、文子は大したことではないのだと吹っ切れていた。
 当時の文子は、父には申し訳ないが、ちょっとの差で母の方が好きだった。母とは忘れられない遊戯の思い出がある。それが不思議と、友達とは遊んだ記憶のない鞠つきなのだ。
    あんたがたどこさ 肥後さ
    肥後どこさ    熊本さ
    熊本どこさ    船場さ
    船場山には狸がおってさ
    それを猟師が鉄砲で撃ってさ
    煮てさ焼いてさ喰ってさ
    それを木の葉でちょいとお隠し
 六年生のときだったから、そんな年齢になってなぜ母の前で鞠つきなどしたのかも不思議だが、記憶に誤りはなく、場所は隣家との間の路地で、コンクリートの舗装に大きなゴムボールはよく弾んだ。
  それを木の葉でちょいとお隠し
 最後に、股の間から後ろへついたボールをスカートの中で受け止めると、目を丸くした母に、スカートが汚れる、と叱られた。文子は六年生という自覚があっ たので、子供じみたことを言われてむっとした。母は文子の手からボールを取って微笑んで見せると、着物の袂を左手で抑え、翻した右手で軽くボールをつきな がら歌い出した。
    一番はじめは一の宮  二は日光の東照宮
      三は佐倉の惣五郎   四はまた信濃の善光寺
  五つ出雲の大社    六つ村々鎮守さま
   七つは成田の不動さま 八つ八幡の八幡宮
  九つ高野の弘法さま  十は東京招魂社
     十一岩屋の行者さま  十二は二宮金次郎
 歌い終えた次の一つきを、母は頭より高く弾ませると、両手を上げて受け止めた。文子は手を叩いていた。初めて見る母の手鞠も優雅だったが、抒情的な歌のメロディー、それを母は裏声を交えて実に綺麗に歌った。
 文子が歌を覚えようとしたのは当然だった。夕食の支度をする横に立ったり、針仕事をする前に寝そべって、母に歌わせては復唱した。母とはお正月に双六を したり、学が大きくなるとよく三人でトランプもしたが、一度きりなだけに鞠つきの思い出は印象深い。それにしても、あのとき衣服の汚れを理由にしたのは母 らしいと、文子はつくづく思う。母には予感があったのか、文子に初めての生理が訪れたのは、その直後だった。

「今朝はご機嫌だね」
 流し台に立って食器を洗う文子に、涼太が言った。
「歌なんか歌ってさ」
 涼太は大学が春休みで、遅い朝食を食べているところだった。
「思い出しているんだけど、この先が出てこないの」
「それ、なんの歌?」
「鞠つきのときの数え歌。小学生のときに、星野のおバアちゃんから教わったんだけど、十は東京招魂社‥、じゃ終われないから、切りよく二十まであったのよ」
「東京招魂社って、どこにあるの?」
「九段の靖国神社のことよ。わたしも知らなくて、そのときおバアちゃんに訊いたわ」
「そうなんだ。だったら、電話でおバアちゃんにまた訊けばいいじゃない、二十まで」
「わざわざ?」
 会話の持てない夫と違って、涼太は話に乗ってくれるし、文子が黙っていれば何かしら話しかける。
「お母さん。レタスないの?ポテトサラダだけじゃ物足りないよ」
「あるわ。待って」
 スープに葉物を使っていたのでレタスは避けたのだが、涼太の口には不足だったようだ。
「あらっ」
 冷蔵庫の野菜室からレタスを取り出して、文子は目を戻した。昨夜見た蒲鉾がなかった。
「どうしたの?」
 涼太が顔を向けた。
「ううん。レタス、少しでいいの?」
 文子はすぐに涼太の注意をそらした。動揺を隠すときの癖だった。この家での生活がいつの間にかそうさせていた。
「一枚でいいよ。柔らかいとこだけにして」
 流しでレタスを洗いながら、文子は疑惑にとらわれていた。蒲鉾は野菜室の奥の底に入れてあり、メークインの袋を取り出そうとして見つけた。蓉がよくお土 産に持たせる品で、特定の顧客にしか応じない店から取り寄せる。警察から電話が来て、夫はすぐに出向くかと思ったのだが、お彼岸の連休にも行かずじまい だった。蒲鉾を見たときは文子なりに安心したが、ウイークデーに行くとは珍しかった。会社へは遅刻か早退したのか、それとも休んだのか、聞かされなくても 別にいいが、蒲鉾の件は言ってくれなければ蓉にお礼の電話もできないし、総菜にも使えない。賞味期限を見たいけど包装を解いていいものか、尋ねるつもり だったが忘れて送り出してしまった。レタスの皿をテーブルに置いて流し台へ戻ると、文子は皮肉っぽく鼻で笑った。夫はどこかへ持って行くために隠しておい たのだ。見つかったことを知れば困っただろうか。そうだ、逆転の発想。動揺なんかすることはないのよ、知らないふりをしてあげたんだから‥。文子は気持ち を少し軽くした。
「今日は仕事?」
 背後から涼太が訊いた。
「午後から出るわ」
「またちょっと寝るから、行くときに起こしてよ。三時から練習なんだ」
「今日もオーケストラ?」
「定演が六月だからね。チャイコフスキーの四番のソロは、プロに頼まないで僕が吹くことになったんだ。ねえ、今年は来られる?金曜日だからオヤジさんはだめだと思うけど」
「仕事の都合によるわ。それより、オーケストラばかりで勉強の方は大丈夫?」
「今は春休み」
「三月の試験、どうだったの?留年だけはやあよ、家、お金ないんだから」
「自分で言ってら」
「何が?」
「お金のことは下品だから口にしなさんな、って、よく言うじゃないか」                文子は一本取られて、負け惜しみに舌を出した。
 洗濯機から脱水を終えた衣類を取り出しながら、文子はまた数え歌を口ずさんでいたが、どうしても十二からあとが思い出せない。前の歌詞に誘い出されるこ ともあるので、一から歌い直してみるが、「十三‥」でやはりハミングになってしまう。二つ飛ばして、「十五、御殿の八重桜」は高貴な感じと、繰り返すメロ ディーの一番好きな部分が響き合って、そこを歌う母の裏声が更に素敵で忘れようもないが、次の十六がまた出てこない。洗濯物を畳んで重ねながら、諦めてハ ミングで歌っていると、遠くの方から別の歌が途切れ途切れに入ってきて、文子ははっと胸を突かれた。やだ、『ずいずいずっころばし』じゃない。そうだ わ‥、と文子はこれも歌を伴う遊戯であったことに気づいた。だが、律子から解釈を聞いた『かごめかごめ』と同じに、『ずいずいずっころばし』も嫌いにさせ られていた。文子にすれば、『かごめかごめ』はグロで、『ずいずいずっころばし』はエロだった。そして、遊戯にエロの幻想を与えたのが、他でもない蓉なの だ。

 文子が蓉に引き合わされたのは、夫と交際を始めて間もなくだった。その日、小田原から出る大雄山線の、終点に近い駅で彼は出迎えてくれた。流れは痩せて いるが澄みきった川を車が渡るとき、行く手に迫る山が十月の霧雨に煙っていた。かなたの竹林に神社の鳥居が見え隠れして、美しい所だと文子は思った。ハン ドルから片手を離した彼が左手に広がる建物を指差して、父が勤務していた工場だと教えた。工場長であった親が職場に近いからここに住居まで構えたのだろう が、息子はなぜ縁もゆかりもない会社に勤めたのか、と文子はいささか疑問だったが、問うことは控えた。彼は彼で、家電業界では一、二を争う会社に勤めてい て、文子より四歳上だから当時二十七だったが、すでに販売部門の課長となって多数の部下を抱えていた。部下をまとめながら個性を引き出す、が彼の言うポリ シーで、文子はその包容力に惹かれたのだった。
 車から降ろされたとき、家屋の大きさと地所の広さに文子は気後れがした。両側に開く大きな引戸から玄関へ入ると、奥の暗がりから和服姿の蓉が現れた。着 物も帯も一目見れば分かる、文子の母には到底身に付けられない代物だった。微笑んでいる唇には母親としては派手な色の紅が差されていたが、蓉はよく似合っ ていた。
「お綺麗なお母さまで、足が震えちゃいました」
 応接間へ通した彼に文子は耳打ちで告げた。お手伝いさんが丁寧に挨拶して玉露と和菓子をテーブルに据えていった。蓉が来て椅子に腰掛けても、彼は話の取 り持ちをしてくれる訳ではなく、まるで履歴書を確認するような蓉の問いかけに文子は短く答えていた。緊張はしていても、顔を見ると目を細めて言い聞かすよ うな構えになる蓉の癖に、文子は気がついていた。感じよくは見えなかったから、自分の態度に気をつけた。小さな古本屋の家庭は裕福とは言えず、下町で育っ た粗忽さも否めないが、下品にだけは見られたくなかった。
 蓉とはお茶の時間を共にしただけで、彼は早々に文子を連れ出すと大雄山の西乗寺へ案内した。雨空を杉が閉ざして人影もまばらな道を歩きながら、文子は蓉 の年齢が四十八と母より一つ上であることを知った。見当がつかなかったから文子の方から尋ねたのだが、蓉に関して自分でも分からない何かにこだわってい た。蓉は彼の母に違いないが、母親と見るには違和感があった。それが美しさのためではなく、一種のなまめかしさのせいであると文子が知るのは後のことで、 例の『ずいずいずっころばし』が絡んでいる。寺を去るとき、結婚と同時に母とは別居して東京に住む、と彼が打ち明けた。
 翌年六月に親同士が初めて顔を合わせ、式と披露宴を二月に予約すると、結納を正月明けに決めた。顔合わせにはいてくれた父が、結納のときは亡き人となっ ていた。僅か半年で実家の環境が大きく変わったせいか、気になる蓉の行動をまた見るにつけても、嫁ぐ先に何の変化もないことが不思議に思えた。どちらの席 でも、蓉はいきなりハンドバッグから手帳を出して開いた。談笑中のことで、大事な用件を忘れていたような切迫感があったから文子は彼の顔を見たが、いつも そうなのか彼は気にならない様子だった。顔合わせの会にも結納にも手筈はあったが、席は彼が料亭やホテルに用意したから、文子が南足柄の家に行く機会はな く、三月三日の蓉の誕生日を待って夫となった彼と新婚旅行のお土産を届けに行ったのが、二度目の訪問だった。新妻の文子は嫁入り道具として父と母から贈ら れた付下げを着ていた。家へ上がっても蓉の出迎えはなく、夫も呼びにはいかなかった。自分の家のようにと自由な出入りが許されても、どの部屋も高い天井が 文子を威圧した。
「まあ」
 手洗いを借りに行こうとして、文子は足袋の足を止めた。奥の座敷に雛人形が飾ってあった。引き込まれるように畳を踏んでいた。五段飾りで、くすんだ衣装 の色から察すると年代物だが、最上段の内裏雛から目を移して三人のお供に至るまで、上品な顔は生きているようで思わず笑みがこぼれた。
「わたくしが実家から持ってきたんですよ」
 振り返ると、蓉が立っていた。着物の襟を直しながら近づいてきた蓉は、文子の肩から足下へ目を這わせた。着物ではなく体を見ているような蓉の目つきに、文子は視線を逃れて正座になった。
「お義母さまには色々とお世話になりましたが、お式から旅行まで無事に済ませました。今日はその報告とお義母さまのお祝いを兼ねてお邪魔させていただきました」
 文子が畳に手をつくと、蓉は裾を一撫でしながら腰を落とし、間を置いてから慇懃に頭を下げた。
 夫が披露宴の司会を頼んだ友人と会うために出ていくと、文子はお茶を淹れ直して蓉の部屋へ向かった。
「失礼します」
 返事を待って障子を開けると、座卓に向かっていた蓉が鉛筆書きのメモをまとめて新聞の上に乗せた。ポータブルラジオにイヤホンが差し込んであるところを見ると、ラジオを聞いてメモを取っていたようだ。広げてある新聞は金融情報の紙面だった。
「わあ、懐かしい」
 蓉の脇に置かれた火鉢を見て文子は言った。中には赤々と炭が燃え、灰には火箸が刺してあって、五徳が炭を囲っているのも懐かしかった。
「父がお店番をしながら手を暖めていたのを思い出します。こんな立派な火鉢ではなかったですけど」
 蓉が両手で押しながら火鉢を文子に近づけた。
「どうぞ、あたって下さい」
 文子は盆の湯呑みを蓉の前に据えると、着物の袖から手を伸ばして火にかざした。
「白くて綺麗な手ですこと」
 正座の膝を回して真向かいになった蓉が手を伸ばしてきたので、文子は譲って少し手を引いた。
「こうしていると、『ずいずいずっころばし』を思い出すわね。文子さんも遊んだでしょう?こうやって」 
 蓉は両手を向かい合わせると、指を渦巻きにして握った。
「小さい頃から石油ストーブで、火鉢にあたっていたのは父だけでしたから、歌は知っていても遊んだ覚えはないですね」
「では、教えてあげるわ。手をこうして」
 蓉は文子の両手を取って握らせると、自分の左手も加えて、歌に乗せながら右手の人差指を三つの渦巻きに抜き差しした。
  ずいずいずっころばし   
   胡麻味噌ずい
    茶壺に追われて
    とっぴんしゃん
    抜けたらどんどこしょ
    俵の鼠が米喰ってちゅう
    ちゅうちゅうちゅう
    おっ父さんが呼んでも
    おっ母さんが呼んでも
    行きっこなしよ
    井戸のまわりで
    お茶碗欠いたの
    だあれ
 蓉の人差指が文子の左手の渦の中で止まり、文子が照れ臭く笑うと、指を差し込んだままで蓉が言った。
「文子さん。茶壺って、なんのことだかご存じ?」
「はい。お茶壺道中でしょう?将軍の飲む新茶を宇治から江戸まで運んだという」 
 蓉が喉の奥でころころと笑った。
「お家が本屋さんをしていただけあって、文子さんは学者だこと。でも、ご本には書いてない本当のことを知らなきゃね」
「はあ?」
「茶壺とはね、女の賢所のことよ」」
 文子の手の中で蓉の指が動いた。咄嗟に文子が手を離すと、蓉は人差指を曲げて見せた。
「だからこうして、抜けたらどんどこしょ‥、でどうしようもないでしょう?」
 反応に困って顔を見ると、目を細める蓉のあの癖が出た。
「俵の鼠のように、ちゅうちゅうちゅう‥、とやってたら、おっ父さんやおっ母さんが呼んでも出ていける訳ないものね」
 顔を熱くする文子を見て、蓉はおもしろがるように続けた。
「井戸、って釣瓶井戸のあの井戸のことではなくてね。このおイド」
 蓉は自分の着物の腰に手をあてがった。
「そのそばで欠けるお茶碗というのは‥」
「お義母さま。もう結構ですわ」
 文子はかぶりを振りながら蓉の話を止めた。
「あらまあ、文子さんて純情ねえ」
 恥ずかしさのあまりうつむいてしまった文子を見て、蓉はまたころころと笑った。
  初体面でそれとなく感じていた蓉のなまめかしさが鮮明になり、母親に見えない訳を確かめてしまったようで、文子には後味の悪い訪問となった。

 文子がいまだに歌を伴う遊戯の、歌でさえ敬遠しているのは、まつわる記憶に嫌悪感があるからだろう。律子や蓉が語った内容が、歌の意図するところかどう かは分からないが、『かごめかごめ』を聞けば血なまぐささが、『ずいずいずっころばし』を聞けば恥ずかしさが反射的に襲うのだから、文子にとってはトラウ マに類するかも知れない。
 文子にはもう一つ、同じように歌う遊びで蓉を連想させるものがある。幼稚園児のときから嫌いで決して遊ばなかった『ことしのぼたん』だ。お姉さん達が遊 びに加えてくれても、『ことしのぼたん』と聞けば尻込みして、見ている側に回っていた。鬼にされれば最後に蛇を背負うからだ。
    ことしのぼたんはよいぼたん
    お耳をからげてすっぽんぽん
    も一つおまけにすっぽんぽん
 最後は鬼ごっこになる『ことしのぼたん』は、この歌で始まる。お姉さん達は輪になって、両隣りの人と交互に手を叩き合いながら歌っていた。歌が終わると鬼役のお姉さんがやってきて仲間に入りたがるが、子役達から断られる。
「海に連れていってあげるから、入れて」
「海坊主が出るから、いやだ」
「山に連れていってあげるから、入れて」
「山姥が出るから、いやだ」
「川に連れていってあげるから、入れて」
「河童が出るから、いやだ」
「じゃあ、お家の前通ったら、棒でぶつよ」
「大きいの小さいの?」
「大きいの」
「じゃあ、入れてあげる」
 鬼を交えて歌が繰り返されるが、歌い終わると今度は鬼が家へ帰ると言う。
「どうして?」
「ごはんの時間だから」
「おかずはなあに?」
「蛇」
「生きてるの死んでるの」
「生きてるの」
「じゃあばいばい」
 鬼がスキップで行きかけると、子の集団がうしろから浴びせる。
「誰かさんのうしろに蛇がいる」
「あたし?」
「違う」
「誰かさんのうしろに蛇がいる」
「あたし?」
「そう!」
 と一斉に叫んで子は散り散りに逃げ、鬼が追いかけて誰かをつかまえる。見ていて文子は、つかまれば蛇を背負わされるような錯覚を起こしたものだ。
 生まれつき蛇を嫌う人は多いらしいが、文子も子供の頃から蛇を怖がっていた。写真や映像でしか見ていなくても、這う姿や、噛むとか毒を持つという豆知識が恐怖感を与えていたのだろう。
 蓉が巳歳であることを知ったのは、結婚して初めての正月が未の年で、未歳の学から家族の干支の話に及んだときだった。夫の口から聞かされた途端、みかん の皮を剥く手がわなないたのを覚えている。巳歳というだけなら、姪にあたる学の娘の梓がそうで、生まれてから今まで何の抵抗もなく可愛がっているが、巳歳 と知ったときの蓉は蛇の怖さと直接結びついて、なまめいていた口紅の色や、物を言いながら細める目、握った手の中で動いていた人差指の感触が、相乗作用と なって文子を怯えさせた。そして、祟られでもするかのように、二月後の蓉の誕生日、文子は怯えどころではない驚きを体験することになる。
 三月三日の誕生日に蓉を招待してこの家で祝おう、と提案したのは文子だった。結婚生活を始めて一年、母と学はスイートホームを訪れたが、蓉は先延ばしに していた。南足柄のお屋敷に比べれば、それこそちいさいおうちだが、息子が主である城を見て欲しいのと、購入にあたっては半額を頭金にして三十年のローン を組んだのだが、頭金のいくらかが蓉からの調達であることを、夫は言わないが文子は察知していたので、恩義も感じていた。夫からは蓉が出不精なことも、訪 ねたり訪ねられたりが嫌いなことも聞いていたが、文子の達ての誘いに蓉はようやく腰を上げてくれた。当日は平日だったので、文子が南足柄まで出向いて、小 田原から新幹線を使い、東京駅でタクシーに乗せて家まで連れてきた。そのために料理に手が掛けられず、手料理は前日に仕込んでおいて、刺身と寿司を寿司屋 に届けさせた。燗酒が好みと聞いていたが、蓉の酒の強さには驚かされた。夫は蓉の盃に注ぎ足しながら、学生時代からこうして晩酌を共にしていたと告げた。 酔いの回った蓉が入浴を断ったので、文子は食事中だったが蒲団を敷きに立った。蓉が客間へ退くと、夫は浴室へ向かった。食器を洗いながら文子は、夫が酔い 醒めによく水を飲みにいくのを思い出し、片づけを終えると戸棚の奥から切子ガラスの水瓶を取り出した。使わずじまいになっていたので洗剤で洗い、瓶の方に は何度も水を出し入れした。客間へ向かいながら浴室の方を見ると、脱衣場のドアが開け放してあり、夫は二階へ上がった様子だった。廊下で声を掛けたが客間 からの返事はなく、そっと襖を開けると、蓉は照明に照らされたまま蒲団に埋まっていた。忍び足で枕元へ水瓶を置きに行こうとした文子は、次の瞬間、盆に乗 せた水瓶を落としそうになった。人の気配を感じて蒲団から起き上がったのは、夫だった。慌てて後ろへ下がった文子は、その場に水瓶を置くと、襖を閉めて立 ち去った。見たものがなんであったのか、動転のあまり理解力をなくして階段の下で立ち竦んだ。鼓動が耳に届くほど高鳴っていた。
「何考えてんだ」
 振り返ると、夫が立っていた。
「おフクロは冷え性だから、蒲団を暖めてやってたんだ。足柄の家にいたときも、していたことだ」
 文子はうなずいたが、鼓動の響きはなかなか治まらなかった。入浴をすませても二階へは行き渋っていた。夫が別人のようで怖かった。せめて眠っていて欲しいと思ったのだが、文子が部屋へ入ると目を開けた。
「おいでよ」
 蒲団の端に寄った夫が掛布団を持ち上げながら言った。枕元の照明を薄明かりに替えても、背を向けたままで坐っている文子の腕を掴むと、夫は強引に抱き寄せた。
「バカだな、焼き餅なんか焼いて」
 夫が耳元でささやき、文子は嫌々をしながらも夫の胸に顔を埋めていた。

 東京の桜が見頃だとテレビは伝えていたが、テラスを吹き抜ける風は冷たい。文子は竿竹の間から空の色を確認すると、竿に洗濯物を通していった。大半は涼 太の衣類である。夫のスーツやワイシャツはクリーニングに出すから、洗濯物は下着とたまに部屋着ぐらいだが、神経質な涼太は上に着るスポーツシャツまで一 日身に付ければ洗濯機に放り込む。豹柄のトランクスを竿に伸ばしながら、文子は涼太を授かるまでの間の蟠りが凝りとなっていた期間の長さを思った。それに つけても、蓉のあの置き土産さえなければ、添い寝を目撃した自分の驚きだけに終わって、夫との関係もぎくしゃくしなかったのではないか、と今さらに悔やま れる。
 蓉は始めから一泊だけの予定で来ていた。翌朝、東京駅まで蓉を車で送るため、夫はいつもより早い出勤となった。玄関で二人を見送って、文子がダイニング へ戻ると、テーブルの上に「文子さんへ」と書かれた封筒が置いてあった。夫と蓉が去ったダイニングに忘れ物はないか確認したとき、テーブルに封筒は見かけ なかったから、蓉が置いたのは文子が下駄箱から草履を出している一瞬の隙で、奇術師のような芸当にも驚いたが、封筒の中を見てさらに驚いた。入れてあった 紙幣は理解できない金額だった。手土産なら蓉が携えた蒲鉾と梅干しの他に、文子も桐箱に入れたメロンを持たされてきた。招待の出費を心配してくれたにして も額が違う。バカにされたようで文子は不愉快になる、と同時に、或いは、と閃いた。もしかして、口封じ?だとすれば‥、と疑いながら、夫に抱かれて気持ち を取り直すつもりでいたのに、文子はまた分からなくなってしまった。
「貰っておけばいいさ、金があるんだから」
 夕食後、渡された封筒の口を覗いて夫は言った。
「お義母さまがお金持ちなのは知っていますが、それとこれとは違います」
「おフクロにしたって、出したものは引っ込められないよ」
「ですから、あなたからわたしの気持ちを伝えてください。いらして戴けただけでどんなに嬉しかったか」
「向こうの気持ちは、どうするんだ」
「だって、お受けするにしても行き過ぎじゃありませんか」
「君は、昨夜のことにこだわっているんだな」
「違います」
「意地があるから受け取れないんだ」
「そう考えるんですか」
「好意を無にしても意地を通したいということか」
 文子は溜息をついた。 
「分かったよ。君がつっ返したと、そう伝えればいいんだな」
 夫は封筒を握ると、椅子から立って出ていった。一人になると、文子の目から涙が溢れた。両手で顔を覆って、泣くまい、と思っても涙が止まらない。椅子に 腰掛けると、エプロンの裾を上げて目にあてがった。テーブルの上で桐箱の中のメロンが匂っていた。デザートに切ろうとして今しがた箱を開けたところだっ た。やがて嗚咽が治まると、思い立って腰を上げた。電話台へ歩いて抽斗から便箋と万年筆を取り、テーブルへ戻って表紙をめくった。紙面の罫線を見ながら書 き出しを考えていたが、万年筆のキャップを外すと、時候の挨拶から来訪のお礼へとペンを進めていった。どうしてもお金は受け取れないのだから、夫との不和 を避け、蓉とも円満に接していくためには、手紙の力に頼るしかない、とそれが若妻である文子の判断だった。
 洗濯物を吊し終えて、テラスから屋内へ戻ると、桜の時期でも暖気が心地よかった。
「飼い慣らされてしまったのかしら」
 アルミサッシに鍵を掛けながら、文子は呟いた。当時と現在の自分を比較している客観的な自分がいた。何とかしなければ、と焦燥感に駆られていた一途な自 分は、変えようがないから、と疎外感も遣り過ごしている今の自分にはない。それは年齢や分別によるものではなく、やはり飼い慣らされてしまった結果だろ う。そう思うと文子は、この家での暮らしが自分を変えたのだ、決して言い掛かりや逃げではないのだ‥、と客観的な自分に叫びたかった。  
 二階の廊下の外れに、文子の洋服箪笥と鏡台を置く小部屋がある。もとは物置のあった場所を三畳の洋間にした。結婚生活のために買った家は五年前にリニューアルしていた。
二階は夫婦で使った。一階に蓉の泊まったような和室はなくなり、洋間の隣を涼太の部屋にした。家のローンは一昨年で終わったが、改装費を金融業者から借り入れたため、結局ローンは引き続いた。
 文子は小部屋ながら鏡台の椅子に腰掛けると落ち着いた。しばらくぼんやりとしていたが、腕時計で時間を見ると、鏡に掛けた布を翻して抽斗を開けた。化粧 道具を並べながら、まだ鏡は見ていなかった。このところ、鏡の中の自分と対面するのが億劫だった。何も手を入れない五十五歳の女の顔がそこにある。このま までは外出できないと思うと、手を入れなければならない必要性が負担だった。
 身支度を終えて文子は涼太の部屋へ向かった。急いでいたのでコートとハンドバッグを手に持っていた。明日から開催されるクラフト展のインフォメーション を頼まれていて、十三時からの打ち合わせに会場となる現場へ行くように指示されていた。ドアをノックして待ったが、返事がないのでノブを回して少し開け た。ドアの隙間から覗くと、縦に置かれたベッドの裾が見える。部屋には青年期特有の男臭さが立ちこめていた。文子が名を呼ぶと、掛蒲団が捻れて鼻にかかっ た涼太の返事が聞こえた。
「わたしこのまま出ちゃうから、寝坊しないようにすぐ起きなさい」
 文子は言い置いてドアを閉めた。
 




    
    三章  ダルマさんがころんだ

 「はじめの一歩」で始まる遊びを、文子達は当時『写真屋さんごっこ』と呼んでいたが、同じ遊びが『ダルマさんがころんだ』として続けられていたのを、神田から狭山へ越してきて知った。
 鬼が学校の塀に腕を置いて顔を伏せると、子の集団は「はじめの一歩」と言いながら一歩飛び出る。鬼が十まで数えて振り向くとき、移動していた子は動きを 止めなければいけない。だから『写真屋さんごっこ』だったのだ。止まった反動でよろけたりしても、鬼に見つかれば指切りの鎖で繋がれる。子は見つかった順 に連なっていくが、残りの誰かが鬼に近づいて「切った」と最初の鎖を手で切ると、全員が鬼から離れ、鬼の「全体止まれ」の掛け声で立ち止まる。鬼は散り散 りになっている子の誰かを三歩でつかまえて次の鬼にする。
 所変わって文子が『ダルマさんがころんだ』を見たのは、神社の境内だった。駅から家までの間に樹木に覆われた神社があり、社殿の脇から正面へよく通り抜 けしていた。確か、土曜日の勤め帰りだった。敷石を踏んでいくと、「ダルマさんがころんだ、をやろう」と言いながら四、五人の子供が文子を追い抜いていっ た。女の児ばかりだった。鳥居の下まで行くと、子供達はジャンケンで鬼を決め、走っていった鬼は欅の幹に顔を伏せた。「はじめの一歩」で始まると、鬼が 「ダルマさんがころんだ」と唱える間に、鳥居や木の陰に隠れる子もいた。小学校の運動場の何もない片隅で遊んでいた文子の目には、障害物の多い神社での同 じ遊びが変化に富んでおもしろかった。そう言えば、数える代わりに十の語音から成る「ダルマさんがころんだ」は文子達のルールでも使ってよかった。ただ 違っていたのは、神社の鬼は「ダルマさんがころんだ」と声に出して唱えたが、文子達の鬼は無言が武器で、「一、二、三‥」とゆっくり数えて惑わすのか、 「ダルマさんがころんだ」で隙を与えず振り向くのか、鬼の手腕がかかっていた。

 一通の封書を手に、文子はコンクリートで舗装した運動場の片隅を目に浮かべていた。目に浮かべながら迷っていた。封書は小学校のクラス会の案内だった。 五十歳の節目をきっかけにしたのか、五年前から毎年届くがまだ一度も顔を出してない。最初の案内状は狭山の実家に届いた。母がわざわざ転送してくれても文 子の気は進まず、丁重に書状で欠席を告げた。翌年は都合が悪く、やはり書状で事情を伝えたのだが、それ以後は行きにくくなって欠席の返信を続けていた。今 年の会は六月の第四日曜日で、今のところ予定はなかった。女性の幹事は例年と変わらず、岡部光代、になっている。薬屋さんのミッちゃんの姓はそのままだっ た。すずらん通りの反対側に文子が母と行く銭湯があり、その向かいがミツちゃん家の薬屋さんで、文子も何度かお使いに行かされた。ミッちゃんとは特に親し くしていた訳ではないが、毎年欠かさずにくれる案内に断り通しでいいものか、文子の思案はそこにあったのと、神田神保町‥、と書かれた懐かしい住所に、直 接電話をしてみたい衝動が起きていた。電話番号は案内状に付記してあった。何年も会っていないことで抵抗もあり、電話をすれば欠席とは言いにくくなるが、 文子は意を決して受話器を取った。
「わたし、光代さんとは小学校で同級だった‥」
「どなた?」
 言葉を遮っての問い掛けとハスキーな声に、光代本人だと分かった。
「古本屋の文子です」
「星野さん?、あっいけない、高、高‥」
 文子は思わず笑った。
「高木ですけど、星野で結構よ」
「じゃあフミちゃんでいい?しばらくね」
「わたしもミッちゃんでいい?いつもご案内を戴くのに、欠席ばかりでごめんなさい」
「忙しいんでしょう?お孫さんの世話とかで」
「えっ?ああ、いいえ。うちの息子はまだ大学生なの。子供、なかなかできなかったから」
「そうなんだ」
「お店、続けてるの?」
「とっくに閉めたわよ。神保町じゃ最後の一軒だったけど、救世軍の前にも量販店ができてね、閉店して建て直して、下は貸して三階に住んでるの。あたし兄弟いなかったでしょう、家を継がされたのはいいけど親の面倒見じゃねえ」
 豪快に笑う光代の声に、ボーイッシュだった髪型が目に浮かんだ。
「あの、ミッちゃん‥、ずっとお一人?」
「結婚したけど、二年で別れたの。だから出戻り」
「跡継ぎなんだから、出戻りじゃないでしょう」
「町会の仕事なんかも継いじゃってさあ。来月はお祭でしょう、今年は本祭なのよ」
「忘れてたわ、神田祭もうすぐね」
 光代の言う町会では五月の第二か第三の土日を祭に当てていて、文子も幼稚園の頃に浴衣を着せられて山車を引いた。神田明神の祭礼である神田祭は日枝神社 の祭礼である山王祭と相対して、一方が本祭であれば一方は陰に回る。光代が大変そうに言ったのは、本祭にはそれなりの気構えや準備があるからなのだろう。
「フミちゃん、クラス会には今年も来られないの?」
「いいえ、伺おうかと思って」
「わあっ嬉しい、みんなも喜ぶわ。律子さん覚えてるでしょう?」
「えっ‥」
「フミちゃんと親友だったリッちゃんよ。あの人、思い出せないことがあると言うのよ、フミちゃんがいればなあ、って。ほら、あなたって、記憶力抜群だったでしょう」
「わたしが?」                                                                
「そうよ。なん年生の遠足はどこへ行ったとか、学芸会で何を歌ったとか。いつか話題にのぼってね、クラス会にはそういう人が必要だってみんなで言ってたのよ」
「そうだわミッちゃん、引っ越すときに、女の人達で会ってくれたのよね。リッちゃんは来なかったけど」
「女ばかりなのに、ビヤホールでね」
「古めかしいお店だったけど、まだやってるの?」
「何度も改装しながらやってるわ、神田日活があった並びで」
「わあっ、神田日活なんて懐かしい。後ろの方に坐ると、遙か下にスクリーンであってね」
「学校の映画教室で行ったよね。ヘレンケラーかなんかの映画」
「そう、『奇跡の人』。東京オリンピックの年だったから、四年生のときよ」
「フミちゃんて、やっぱり凄いよね」
「ねえミッちゃん、お店の前のお風呂屋さん、もうないんでしょう?」
「うちよりずっと早くに閉めたわ。今はコンビニになってる」
 神田界隈の過去と現在を行き来しながら、気がつくと二十分以上も話していたので、文子は六月の再会を約束して電話を切った。 
 光代の気さくな口調は三十三年のブランクを忘れさせて、文子は快く出席の返事ができたが、会話から意識が逸れてしまったことが二度あった。一度は孫とい う言葉が出たときで、もう一度は律子の名が出たときだった。おかしな受け答えをしてしまったのは、遅かった妊娠の辛い記憶に及んだのと、会いたくない律子 の顔が浮かんだからだったが、関連を持たない双方に似たように働く特殊な感情もあった。孫がいると誤解していた光代を文子は笑えなかった。涼太が結婚後す ぐに生まれていれば、孫があってもおかしくない。「子供、なかなかできなかったから」と光代には軽く言ったが、その間の十年は文子にとって一生分の苦悩を 背負い込んだような重いものだった。
 蓉の置き土産の一件があのような事態を招いてから、夫は南足柄の家へ文子を誘わなくなった。仕方なく文子が別行動に走ったのは、蓉と疎遠になれば夫婦仲 にも影響すると考えたからだ。盆暮れの挨拶の他にも蓉の誕生日や、狭山の新茶が母から届けば蓉の喉越しを優先にして義理堅く訪問した。実のところ文子には 思惑もあって、夫を抜きに女同士で分かり合えるものを期待したのだが、訪ねるにつれ蓉が分からなくなるばかりだった。前もって電話で承諾を得ていても、お 手伝いさんから不在を知らされたことは一度ならず、かと思うと文子を待ち構えて、座敷いっぱいに広げた着物の中から欲しいだけ選ばせたりした。小田原の出 身らしいがはっきりとは言わず、工場長であった義父の話題に触れても愛想なく、それよりもあなた‥、とばかりに居ずまいを正して尋ねるのは、まだできない 子供のことだった。文子の姿態に細くした目を這わせて、返答を聞くなり怒ったように目を背ける。同様の問答が訪問で繰り返され、「子供も授かれないのか」 と目で言われるたびに文子は居た堪れなかった。夫に断っての訪問であったから、夕食のときに蓉の様子を報告するが、夫はいつも上の空で箸を動かしていた。 子供のことでは、夫が一番期待しているのは分かっていたが、文子が三十を過ぎると夫はどうでもいいという態度をとるようになった。外で飲む癖がつき、連絡 もくれずに帰宅が深夜に及ぶことも多かった。パジャマ姿で出迎えた文子が、泥酔の口からたびたび聞かされたのが、同僚の子供の話だった。そして介添えしよ うとする文子の手を払いのけて、夫はふらふらと階段を上がっていった。蓉との電話の最中に、「コウノトリに頼んでくれよ」と聞こえよがしに言ったこともあ る。そうした間接的な責め立ては、次第に文子を追いつめていった。夫に黙って婦人科医に相談したり、性生活に関する本も隠れて読んだ。不妊治療に評判の病 院と聞けば足を運んで、最後に訪れた大学病院では神経科へも回され、治療を必要とする神経症と診断された。一番追いつめていたのは自分自身だったと知った とき、文子は初めて死にたいと思った。狭山の実家で倒れたのは、学の妻に高齢で妊娠した有名人の手記を借りにいったときだった。急なめまいに襲われて嘔吐 が止まらず、気がつくと母の部屋で寝かされていた。往診に来た医師が病院へ移すほどでもないと診断したので、母は夫に連絡してしばらく実家に置く許しを得 た。文子は歩き疲れた迷子のようによく眠り、懐かしい母の看病に甘えた。事情を打ち明けると、母は幼かった文子にしてくれたように、寝ている額の生際を撫 でた。そして、涼しげな目を瞬かせて言った。
「責任を背負い込んだら自分が可哀想よ。ここだけの話ですけど、原因が旦那さまにある場合も多いらしいから、お相子だと思って気持ちを楽にしなさい」
 撫でられながら文子はまた眠りについていた。その母の手がまさに手当となったのか、文子は翌年涼太を身ごもった。
 こうして回想が無事に出産へと辿り着くと、文子は今でも胸を撫で下ろす。あのまま子供に恵まれなかったとしたら、本当に死んでいたか、或いは、極度の神 経症から自分を苦しめた蓉や夫に復讐の矛先を向けていたかも知れなかった。自分の内に潜むそうした特殊な感情が文子の場合は表面化しないとは限らなかっ た。本当に実行していた過去があったからだ。電話で律子の名を聞いておかしな受け答えをしてしまったのは、そのせいだった。そして、そこにもまた幼い頃の 遊びが絡んでいた。
 文子の通う小学校は隣町の猿楽町に位置していたが、家の近くから靖国通りを渡れば子供の足でも十分とかからなかった。近くの横断歩道には信号がなかった ので、毎朝同じおじさんが通りへ出て町内の子供達を誘導してくれた。学校の休み時間はおもに運動場で遊んでいたが、敷地が鉤型に建つ校舎とその内側だけで あったから、別棟の講堂とプールにも場所を取られてかなり狭かった。そのため放課後に運動場で遊ぶ子供は少なく、ランドセルを置きに帰ったあと文子達もよ く隣接する公園に集合した。公園は駿河台へ向かう傾斜を利用したもので、木立のまばらな崖を残して平地にはブランコなどの遊具もあった。文子が四年生のと きだった。名前は確か『すいらいこっぱ』という男子達の遊びに影響されて、女子達の間でも類似した『お助け遊び』がはやった。二手に分かれて、樹木や滑り 台の下などに陣地を決める。合図とともに双方入り乱れて捕まえ合い、囚われた子は陣地に連れて行かれる。力が拮抗する相手であれば引き合いになるが、不利 だったり相手に加勢が入れば観念して囚われの身となった。敵陣に拘束された子は「お助け」と叫んで味方の救済を求める。手薄になるのを見計らって敵陣へ乗 り込んだ子が手にタッチすると、囚われの子は解放されて敵陣から逃げていく。遊びには女の児でも走力と腕力が要求され、すばしっこい文子が捕まることは稀 だったが、運動の苦手な律子はいつも囚われの身となった。二手に分かれるとき、律子はいつも文子と味方同士になりたがった。「親友だから」と譲らないの で、みんなも仕方なく認めた。だが、文子は律子が陰口をきいていることを、他から聞いて知っていた。東京オリンピックの感想を書いた作文が学校の代表に選 ばれて、千代田区から表彰されたときもそうだった。
「フミちゃんは清書しただけで、全部お父さんが書いたことになっているのよ」
 その作文に文子は選手の健闘を讃えるより、涙が止まらなかった閉会式のことを書いた。日本に来てくれた世界中の人々が去っていく。テレビが映し出す電光 掲示板の「SAYONARA」の文字に夢の終わりを見ているようだったから、素直にその寂しさを書いたのだ。父には見せたが、父は子供の作文に手を入れる ようなことはしない。噂を蒔いた張本人が、案の定、律子だと知ったとき、文子は自分ならず父まで中傷したことが許せなかった。それなのに相変わらず親友面 する律子に、文子も親友を装いながら、密かに復讐していたのが『お助け遊び』だった。「フミちゃんお助け」と律子はしきりに手を伸ばす。文子はわざと拘束 されている別の子の方へ近づく。敵の番人を躱してその子の手には触れるが、律子には届かないふりをして逃げた。三人が囚われて敵が留守のときでも、文子は 別の二人を助けたところで振り返り、敵の一団が向かってくるのを見ると、間に合わないふりで律子を置き去りにした。陣地に引き上げながら文子は溜飲を下げ ていた。
 光代と電話で話しながら、律子の名を聞いて起きた感情は、意地悪をした済まなさより欺かれていた恨みの方が今も強い。律子に気づかれずに実行していた復 讐を思い出すと、いつ表面化するか知れない特殊な感情を休火山のように秘めている自分が、今もここにいることを実感する。

 浴槽をスポンジでこすっていた文子は、涼太に呼ばれて振り返った。
「お父さんが病院へ運ばれたって」
 涼太は走り書きのメモを手にしていた。四月の飛び石連休に挟まれた平日で、夫は通常の出勤だった。
「屈み込んだまま動けなくなって、みんなでソファーに寝かせたんだって。本人は大丈夫だと言ったけど、大事を取って救急車を呼んだらしい。病院からはまだ 何も言われてないけど、意識もまともで話もできるから慌てないで下さいって。電話をくれたのは部下の山田さんという人で、病院からだった。これが病院の場 所と電話番号」
 文子は廊下でメモを受け取ると、震えた声で訊いた。
「ここ‥、どこ?」
 動転して、涼太が報告している間は声も出なかった。
「御成門て、会社の近くだよ。病院は地下鉄の駅のそばだって。大丈夫?」
 心配そうに訊いた涼太にうなずくと、文子はダイニングへ向かった。テーブルには楽譜が開いて置かれてあった。文子はその脇に濡れたメモ用紙を置くと、流し台に歩いて洗剤にまみれた手を洗った。
「すぐに行く?僕はコンサートのパンフレットの件で、印刷屋と会う時間が決まっているから、その後になっちゃうけど、深刻な状態ではないみたいだから、いいよね?」
 心配に加えて心細さもあったので、文子は涼太に同行して欲しかったが、何も言わずにうなずいた。文子にも会社へ行く予定があった。催事が集中する五月の 連休に向けて、担当の割り振りと打ち合わせのため召集をかけられていた。電話で事情を話して担当の件は保留にして貰うと、支度に急いだ。
 御成門へはJRの巣鴨で地下鉄に乗り換えてまっすぐ、と涼太に言われてきた。揺れる体を吊革に支えながら、暗い窓に映る隣の男性を見て、夫もこのルート を使っているのだろうか、と考えた。本社勤務になってから車での通勤を中止していたが、交通手段までは知らなかった。夫は話題にしなかったし、文子が気に 留めることもなかった。どの家の日常もそうなのかと思いながら、今は済まない気持ちだった。夫が本社で販売実績の分析を担当するようになったのは四年前 だった。五十五歳になれば退職を控えた業務に回される、と夫は当然のことのように言った。定年まであと一年だが、嘱託で残ることを望まれて夫もその気でい る。文子にしても家の改装費の返済がまだ二年続くので、会社が残してくれればありがたいと思っていたのだが、夫が健康でいればの話だった。今はただ、大変 な病気でないことだけを願う文子に、他のことはどうでもよかった。
 地下鉄を降りて、駅の表示に従って屋外へ出ると、高層の病院が聳えていた。ロビーで案内の人が問い合わせてくれて、四階へ行くように言われた。夫は救急 治療室から病室へ移されていた。ナースステーションで夫の氏名を言うと、看護婦が廊下へ出てきて病室を手で示し、一番手前のベッドだと教えた。長い廊下を 病室に向かいながら、待ち受ける夫がどんな状態なのかと思うと、文子の鼓動は速くなった。手摺の付いた引戸が開け放ってあり、腰を屈めて恐る恐る覗いた。 上体を起こした夫と目を合わせるより先に、傍らに立つ女性の姿を見て思わず後ずさりした。
「おい」
 中から夫の声が聞こえて、短い会話のあと女性が現れた。
「奥さまですね?こちらです」
 動揺を隠す意識が先行して、文子は深々と頭を下げていた。
「同じ課のサッちゃんだ。故あって、俺だけがそう呼ぶことを許されてる」
 悪戯っぽい顔つきで夫が言うと、女性は口元を手で隠した。涼太は電話をくれた人物を、部下の山田さん‥、としか言わなかったので、文子は男性だとばかり思っていた。
「山田です。課長には、いつもお世話になっています」
 改めて挨拶されて、文子はまた頭を下げた。ブランド物のポーチを開けて渡された名刺には、山田祥子、とあった。年の頃は二十五、六、というところか。背 丈は自分と変わらないが痩身で、モスグリーンのセーターとベージュのスラックスというカジュアルな装いだ。髪を後ろにまとめていて、額の可愛さがよく分か る。顔の色は浅黒いが、黒目がちな瞳が同性の自分にも魅力的だった。
「大丈夫なんですか?」
 祥子から椅子を勧められて、腰掛けながら文子が訊くと、夫は祥子に目で指図した。医師から説明を受けた祥子が告げるには、担ぎ込まれたとき心房細動を起 こしていて血圧が異常に高かった。血圧は舌の下に含ませる降圧剤で収まっているが、心房細動の原因と併せて精密検査で調べる必要がある。検査の予定は明日 の午前としておくが、
「外来の予約が多くて、延びることもあるそうです。午後までかかると、結果の説明は翌日でそれまで病院にいることになりますが、課長は承知なさいました」
 と祥子はつけ足した。病院の寝巻が着にくいのか、襟や裾を気にしている夫からの言葉はなく、文子は病室の奥に目を向けた。ベッドが三床の部屋で、隣には 白いンーテンが引かれてあったが、その向こうに五十がらみの男性が起こしたベッドに凭れて週刊誌を読んでいるのが見える。
「そうだ。金を渡してくれないか」
 夫が身じろいで文子に言った。
「サッちゃんが売店で洗面用具を買ってきたんだが、鞄は会社に置いてあるから」
「あ‥、はい」
 文子がハンドバッグから財布を出しかけるそばで二人は揉めていたが、夫に言われて祥子は文子にレシートを渡した。金額を見て財布から五百円硬貨を出しかけた文子に、
「バカだな」
 と夫が浴びせた。
「サッちゃんは三時間も付きっきりでいてくれたんだぞ。帰りがけに食事をして貰いなさい」
 夫の口調には、気の利かないやつだ、という含みがあった。二枚の紙幣を渡そうとする文子の手を祥子は押し返していたが、
「主人に怒られますので」
 の一言に折れて受け取った。祥子の憐れむような目が、夫にバカにされた自分を見下しているみたいで、文子は癪に障った。
「では課長、私はこれで。鞄は会社の帰りにお届けします」
 文子が椅子から立って祥子に歩み寄った。
「わたしが一緒に行って、持ってきますわ」
「いいえ。奥さまは課長のそばにいてあげて下さい」
 二人の会話に夫が割って入った。
「君が会社に顔を出せば、大げさになるだろう。サッちゃんに任せればいいから」
 うなずく祥子に、文子はまた頭を下げた。
「ご迷惑を掛けますね。何時間も潰させて、お仕事も中途だったんでしょう?」
「いえ、課長がいらっしゃらなければ、私の仕事はありませんから」
 二人は笑い合ったが、文子には意味が分からなかった。送ろうとする文子を祥子は手で止めたが、文子は躱して廊下へ出た。
「山田さん」
 離れていく後ろ姿を呼び止めて、振り返った祥子に文子は迫っていた。
「小田原の蒲鉾、いかがでした?」
 文子は言おうとして、言葉を呑んだ。本当に訊くつもりでいた。目で訊き返す祥子に文子は姿勢を正した。
「主人のこと、これからもよろしくお願いします」
 祥子は少し驚いた顔をしたが、言葉もなく頭を下げると、文子に見つめられながら去っていった。
 病室へ戻ると、夫は起こしてあったベッドを戻して寝ていた。椅子に腰掛けた文子に夫が言った。
「もう帰っていいよ。今日は何もないし、少し眠りたいから」
 欠伸を見せる夫に、涼太が夕方に来ることを告げて、文子は立ち上がった。ハンドバッグを手に廊下を行きかけて、振り返るともうカーテンが引いてあった。 文子は腕時計で時間を見ると、歩き出しながら、ふん、と鼻を鳴らした。随分じゃない、あの人は三時間でわたしはたったの二十分‥。自分の靴音が空しく聞こ えると、胸の呟きは強くなった。いい歳してサッちゃんサッちゃんて、何が故あってよ‥。普段と変わらない夫に安堵はしたが、二人の仲を見せつけられるため に駈けつけた訳ではない。地下鉄の中で、大変な病気でなければ他のことはどうでもいい、と祈るような気持ちでいたのは一体なんだったのだろう。エレベー ターを待ちながら、そうだわ‥、と文子は合点した。毎月欠かすことのない訪問だが、一昨年の蓉の捻挫に気づかなかったり、今年は誕生日に行きながら翌日も 荷を送ったり、このところの南足柄がらみの疑惑が行っていなかったとすればすべて解決する。理由はもう分かった。周到に口裏も合わせていた筈だ。仮に文子 が電話を入れたとしても、蓉はうまく取り繕っただろう。夫と蓉の親子関係なら、し兼ねない。エレベーターのドアが開いたが誰の姿もなく、乗ったのも文子一 人だった。一階のボタンを押してドアが閉まると、文子は声に出して歌っていた。
「誰かさんのうしろに蛇がいる」

 
















    四章  ハンカチおとし

 実家の母から狭山の新茶が届いた。毎年、母は五月の連休中に顔を見せてくれるのだが、四月に痛めた五十肩で外出が大儀なため、今年は宅急便で送ると電話 で知らせてきた。文子はそのとき、川越の甘藷納豆もついでに頼んだ。蓉の好物だった。川越の母の実家には叔母が住んでいて、姉妹は頻繁に行き来しているの で、なんとかしてくれるだろう、と文子には二人への甘えがあった。
 新茶と甘藷納豆の包装をテーブルに置くと、文子は時計を見上げた。南足柄へは涼太が行ってくれることになっているが、部屋からはまだオーボエの音が聞こ えている。部屋を閉めきっていてもダイニングにいる文子の耳に物悲しげなメロディーは届いていた。文子には綺麗に流れて聞こえるのだが、何が気に入らない のか、急に止まると少し前へ戻って吹き直す。先に進んで同じことを繰り返していたが、やがてメロディーは止んでドアの開く音がした。
「オヤジさんはもう出掛けたの?」
 ダイニングへ入ってきながら涼太が訊いた。
「ええ。今お迎えがきたところ」
 涼太は椅子に腰掛けた。パーカーとショルダーバッグを別の椅子に置いて、外出の支度はできている。
「ゴルフに行くときは、起こされる前に起きるんだから、よっぽどなのね」
「楽しみで早く目が覚めちゃうんだよ、遠足のときの子供みたいに」
「病院から帰ってくるときも、ゴルフを止められなくてよかった、って、そればっかりだったのよ」
 救急車で運ばれた翌日に夫は退院していた。診察室での説明には文子も同席した。検査で出た異常の数々は健康診断でも指摘されていた筈だ、と医師は二人の 顔を見比べて言った。結果を知らせるような夫ではないと告げる訳にもいかず、異常があっても夫婦揃って平気でいたみたいで文子は体裁悪かった。心房細動に ついては通院での経過観察の範囲にとどまったが、降圧剤が欠かせなくなった。説明の途中で、文子は目で止める夫を無視して、睡眠時に呼吸が停止することを 告げた。医師は発作が起きたときの状態を夫に確かめながら、納得のいく表情をした。医師の紹介でCPAPという装置を借りることになった。鼻に固定したマ スクに空気を送り込み、舌の奥を広げて吸気の流通を助けるもので、睡眠時に装着するだけで扱いは簡単だった。だが夫は面倒がって医師に告げた文子を逆恨み し、装着の状態を見られたくないと寝室を別にしてしまった。無呼吸の睡眠妨害から起きる日中の自制できない眠気は夫も認めたので、医師は熟睡が得られるま で車の運転を控えるように指示した。そのため、今日のゴルフも仲間の車が迎えにきて、南足柄へは涼太が行くということになった。文子にすれば、倒れてから すぐのゴルフは心配だったが、夫がご機嫌になるのと、疑いを持たないだけ蓉の家へ行かれるよりよかった。
「今から行けば夕方には帰ってこられるから、僕の夕食は早めにしてよ」
「やだっ、どうして?」
 涼太を送り出したあと、文子には会社へ行く予定があったので慌てた。
「聴きに行くコンサートが、七時からなんだ」
「だったら、早く帰ってこなくちゃ」
「外で食べてもいいんだけど、財政が逼迫してましてね」
 涼太の言い方は調達を期待していた。
「だめですよ。今日あげられるのは往復の交通費だけ」
 涼太は両手の掌を上へ向けて、仕方なさそうなジェスチャーをした。
「ねえ、そういうことは、昨日のうちに言ってね。だいたいあなたは言葉が足りないのよ。この前だってそうよ。病院から電話をくれた山田さんのこと、女の人だなんて知らなかったわ」
「あれっ、言わなかったっけ?」
「言わないから慌てたのよ。女の人だっら、それなりの気構えがあったんだから」
「へえっ。そんなもんですか」
「会わなかった?」
 涼太が目で訊き返した。
「山田さんよ。涼ちゃんが病院へ行ったの、夕方だったんでしょう。あの人、会社の帰りにまた寄る、と言ってたから」
「会わなかったけど、なんかあったの?」
 今度は文子が目で訊き返した。
「だって、変な言い方だから」
「別に何もないわ」
「どんな人なの?」
「魅力的な人よ。涼ちゃんより少し上で、わたしよりずっと若いの。部下だって言うけど、なんなのかしら」
「疑ってるんだ」
「違いますよ。お父さんが会社にいなければ自分の仕事はない、なんて秘書みたいなこと言うから、会社ではどんな扱いなのかと思うじゃない。ちょっと、そんなことより、早く行きなさいよ」
 文子は時計を見上げて、涼太を急かした。財布から紙幣を出して渡すと、受け取った涼太がもじもじとした。
「財布が出たついでに、頼みがあるんだけどな」
 今度は哀願の口調だった。
「だめだめ。お小遣の値上げには応じられません」
「それは諦めたよ」
「前借りもだめ。先月は末に思わぬ出費だったでしょう、CPAPのレンタル代だってバカにならないんだから」
「苦しいんだよな。アルバイトも禁止されてるし」
「当たり前でしょう。オーケストラの練習に加えてアルバイトじゃ、いつ勉強するのよ」
「あーあ、もっと機嫌がいいときに頼めばよかったよ、山田さんの話なんか出ないうちに」
 おどけて笑う涼太につられて、文子も苦笑した。
「それから、救急車で病院に運ばれたこと、知らせないように言われてるから、お願ね」
 スニーカーに足を押し込む涼太の横から、サンダル履きでドアに向かいながら文子は言った。重いドアを押し開けると、晴天の外気が玄関に漂う。薫風と言うが、五月の風には生気が漲っていて、嗅ぐたびに文子は躍動していた子供の頃を思い出す。
「おバアさまが首を長くして待ってるわ。涼ちゃんには違うんだから」
 文子の言葉に涼太は微笑みを見せ、門から出たところで肩を跳ね上げてバッグのベルトを首に寄せると、駅の方向へ歩いて行った。遠ざかっていく足音を聞き ながら、文子は夫と蓉対自分の関係を涼太が取り持ってくれていた一時期を思い、再燃した確執も涼太を巡って起きていたことを思って、結局のところ円満には やっていけない関係であるのかと考えていた。
 涼太の誕生が実家の母に嬉しさ以上の安堵を与えた一方で、蓉の手放しの喜びようは対照的だった。金に飽かして買うベビー服や玩具、そして初節句には高価 な兜と刀を贈られて、文子は次第に不安になっていく。一つ違いで生まれた学の娘の世話に母が追われると、蓉は涼太を独占するようになり、誕生日のプレゼン トなどの豪華さはエスカレートした。黙っていた文子がさすがに拒んだのが、小学校へ上がった涼太への初めてのお年玉だった。送ってよこしたのは、文子にす れば子供に見せていい額ではなかった。それまでも、贅沢に慣れてしまう涼太が気が気でなく、さらに金銭感覚が狂えば間違いを起こし兼ねないので、お金には 頓着しないように躾けたかった。だが、夫には蓉への反発と取られ、あの置き土産のときと同じ展開になった。
「多過ぎると思うんなら、おフクロの気持が通じるようにいくらか渡して、あとは涼太名義で貯金しておく方法だってあるのに、君は昔のようにつっ返すことしか考えないのか」
 以後また、夫は南足柄の家へ涼太を連れていっても文子は誘わなくなった。その涼太も中学生になると、ブラスバンド部の練習や友達との遊びにかまけて、休 日でも行かなくなってしまった。文子は蓉が淋しがるだろうと思いながら、内心ほっとしていた。文子と蓉の連絡も自然と絶え、パートの仕事に出るようになる と、ますます足は遠退いた。だから昨年の正月に、涼太の提案で大雄山の道了尊へ初詣に行きがてら立ち寄ったのが、文子には何年ぶりかの訪問だった。蓉に 会って一回り小さくなったと感じたとき、文子はふと先々のことが気に掛かった。髪は白一色だが口紅の色は変わらず、それがなお似合っていた。夫が夜の運転 を嫌うのでお茶を共にしただけの時間だったが、夫はなぜか蓉と距離を置き、蓉は涼太にだけご機嫌で、相変わらずしっくりと行かない雰囲気に文子はまた後味 悪く帰ってきた。

 文子が向かう会社は、表参道のビルの一室にオフィスを構えて、展示会や祝賀会のセッティングを業務としているが、注文に応じて受付や会場に人材も派遣し ていたので、文子のような女性が数名パートで雇われていた。家から会社までは徒歩を含めても三十分少々だから行くにも楽で、新宿を通るので帰りには食材を 選びにデパートへも寄れて好都合だった。
 JRの駅を出て、よく知られた並木道を歩いていくと、名のあるファッションの店が点在しているが、文子が立ち止まってショーウインドーを眺めることはま ずなかった。デパートを歩いていてもそうだが、買うという前提がなければ見るだけ無駄という気がするのだが、そんな自分に文子は、夢がない女ね‥、いや合 理主義なのよ‥、と自問自答しながらいまだに正解が出せない。
 六階へ上がってオフィスのドアを開けると、三人いる社員の姿はなく、社長が背を向けながら携帯電話で通話の最中だった。ドアを閉める音に社長は振り返 り、文子が頭を下げると、片手を上げた。四十八だが歳より若く見え、長身で、髪は常に短め、目は少年のようにぱっちりで鼻筋も通っていて、顎のしゃくれが 気になるが文子はイケメンの部類に入ると思っている。電話を切った社長がこちら向きに椅子を回しながら、文子に夫の具合を尋ねた。文子は簡単に状態を告げ て、打ち合わせに来られなかったことを詫びた。
「高木さんちょうどよかったよ。今の電話なんだけど、六月十二日に大学教授の出版祝を請けていてね、公共の施設で部屋だけ借りるから仕出し料理もうちで手配するんだが、会場に手伝いの人が欲しいと言ってきたんだ。夜の六時半からなんだけど、あなたどうかな?」
 社長に訊かれて、文子は壁のカレンダーを見た。クロード・モネの「日傘をさす婦人」の右下が六月で、十二日は金曜日になっている。この連休中は何も手伝 えなかったので引き受けたいのだが、涼太の定期演奏会が確か六月の金曜日と聞いていたので返答ができなかった。ハンドバッグから手帳を出して開いたが、六 月のページは二十八日の日曜日に小学校のクラス会が入っているだけで、金曜日はどの欄にも記入がない、言葉の足りない涼太がどうせ日にちまで言わなかった のだろう、と思いながら文子は社長の顔に目を戻した。
「少し待って下さい。大丈夫だと思うんですが、確認してみます」
 文子は手帳と入れ替えに携帯電話を取り出すと、電話帳の画面から涼太の携帯を抽出して発信を押した。時刻は十二時半を回ったところだったから、十時前に 家を出た涼太はもう蓉の家へ到着している筈だ。呼び出しの音を聞きながら待ったが、やがて切れて留守録の案内に変わった。文子は画面を戻すと、もう一度掛 け直したが、呼び出しのあとでまた切り替わる。社長を待たせているので、また電話帳の画面にすると、今度は蓉の家の電話を選んだ。何かのときのために登録 しておいた。長いご無沙汰なので気後れがあったが、発信のボタンを押した。繋がったが、いつまで待っても出ない。大きな家なので電話は子機を二機備えてい るし、涼太が訪ねているのに蓉が外出する筈もない。呼び出し音はいつまでも鳴り続けている。涼太が代わりに出てあげてもいいのにどうして気が利かないんだ ろう‥、と文子は苛立って、諦めた。もう一度涼太の携帯に掛けてみたが、反応は同じだった。
「社長。今の件、承知しました」
 見切り発車だったが、六月の金曜日はあと三日あるので、ぶつかる確率の低さに期待を繋いだ。
「会場のアシストなら、服装はスーツですね?」
 文子は手帳に記入しながら確認した。
「あの、社長。悪いんですが、わたし今日、四時までしかいられなくなってしまって」
 ロッカーの扉を開けて、内側の鏡に映しながら黒いネクタイを結んでいる社長に文子は言った。
「いいですよ。三時には鈴木君がイベントの現場から戻る予定だけど、念のために合鍵を渡しておこう。それから高木さん、交通費の請求が三月から出てないけど、書いといてね」
 社長は乗車区間を書き込むノートの上に鍵を乗せて渡すと、文子の肩を一つ叩いて出ていった。向かう先は目黒で、大僧正の法要の会場作りを担当したと前 もって聞かされていた。今日は社員が出払ってオフィスが留守になるので、文子は電話番を頼まれて来ていた。オフィスが休むことは、正月の三が日の他は基本 的にない。特に休日は請け負った催事の当日となることが多いので、社員が現場へ出向いているところへ別の現場からトラブルの電話が掛かったりする。オフィ スを空ける訳にはいかないので、こうして文子達パートが留守を頼まれることもあった。
 接客用のソファーでノートに記入した文子は、紙袋からサンドイッチと缶の紅茶を取り出した。昼食用に途中で買ってきた。サンドイッチの包装を解き、缶の 紅茶を飲もうとすると、電話が鳴った。社長の机の電話だった。受話器を取った文子は会社名と自分の名を告げた。電話は看板を頼む一社からで、物産展に吊す 看板の件で鈴木と相談したいと言う。
「鈴木は現場へ出向いておりまして、三時には戻りますが、お急ぎなら電話を差し上げるように連絡を取りますが」
 相手は三時過ぎに掛け直すと言って電話を切った。受話器を置いた文子は窓の外に気を取られた。窓は一方にだけあって、社長の席の背後なので外を眺める機 会もなかったが、こうして見ると見晴らしがよかった。オフィスの位置は大通りの反対側なので、眼下の景色には目抜き通りの街並みにはない落ち着きがある。 マンションより普通の住宅が多く、片隅に緑を見せる公園もあった。文子はサンドイッチと紅茶を取りにいくと、社長の椅子に移動した。一口飲んだ紅茶の缶を 机に置き、サンドイッチを膝に乗せると、椅子を回転させた。食べながら下を見下ろしていると楽しい気分になった。休日の昼時でも道路に人の動きはまばら で、表通りとは大違いだ。住宅のテラスに吊された洗濯物を見ながら、指折りの繁華街と背中合わせに普通の暮らしがあるのだと思うと、不思議な感じがする。
 公園に子供の姿はなかった。自宅から買い物に行く道にも児童公園があるが、遊んでいる子供を見かけなくなった。遊具がまるで撤去するのも面倒そうに置か れてあるのを見ると、文子は子供達が遊びを忘れてしまったような錯覚を起こす。外で遊ばなくなった理由が遊びの変遷にも影響されていることは、文子も涼太 を育ててきたから分かる。涼太が生まれた翌年に、夫の会社のゲーム部門では、アメリカのゲーム会社に対抗した家庭用ゲーム機を発売していた。小学校の低学 年の頃から涼太が高価なゲーム機を持っていたのには、夫の会社と蓉の出費が関係している。家には子供達が集まって、一室に籠もって遊んでいた。中学生に なってブラスバンドに興味が移るまで、涼太はまさにゲーム時代に育った子供だったのだ。だが文子は、あの懐かしい遊びを子供達が忘れていったことには、 ゲーム機のような道具の出現より先に、時代の要求が子供達から遊びそのものを奪ってしまったように思うときがある。文子が五年生になった頃、学習塾や習い 事に通わされて、遊び仲間は一人減り二人減りしていった。文子もまた落伍を恐れて学習塾へ通うようになり、中学に上がると友達と遊ぶということはなくなっ た。遊戯の数々は、小学生の思い出の中に押し込んで封印したのだ。
 電話の鳴る音に、文子は椅子を回転させた。受話器を取ると珍しく女性からで、町会で計画しているという縁日についての問い合わせだった。
「屋台や露店の設備は用意できますが、火をご使用になる場合は消防署からの許可をそちらで取って戴きます。只今係の者が留守にしておりまして、詳しく説明できず申し訳ありません。戻りましたら電話を差し上げますので、連絡先をお聞かせ願えますでしょうか」
 相手の氏名と電話番号に日時と用件を書き加えて、メモを社長の机に貼り付けると、缶に残っていた紅茶を飲み干した。
「縁日か、いいなあ」
 呟きながら椅子に戻ると、回転させてまた窓に向かった。
 縁日、と聞いて文子が思い出すのは、靖国神社の「みたままつり」だ。七月のお盆中といえば、文子や学にとって夏休み前の一番嬉しい時期だった。あの長い 参道の両側に夜店の屋台が並ぶのだから、子供にとっては堪らない。闇の中の人いきれも、踏んだ玉砂利の感触も、しっかりと覚えている。文子と学がねだれる 買い物は二つまでだった。学はポップコーンや氷に乗せたあんず飴など、食べ物ばかりだったが、文子はヨーヨー釣りや息を吹き込むと渦巻きが伸びてピンと張 る紙細工、と持って帰れるものを選んだ。梅雨明けの蒸し暑さに、大鳥居まで戻ってくると父と母は顔の汗を拭っていた。
「そうだわ、ミヨちゃんどうしているかしら」
 文子はふと大鳥居の前で出会った美代子のことを思い出した。
「今度のクラス会で、会えるかしら」
 母親同士が挨拶しているのに、美代子は背後に隠れていた。 学校の友達と外では会いたくない訳が、文子には分かった。美代子は泣き虫で、上級生になってもよくべそをかいた。文房具がないと言っては泣きそうになるの で、男子達は隠しておもしろがっていた。遊んでいてもべそをかくことがあり、文子が困ったのは『ハンカチおとし』をしているときだった。五年生の梅雨時 だったのを覚えている。連日の雨で体育の授業は講堂を使っていたが、その日は先生がお遊びの時間にしてくれた。馬跳びを始めた男子達を女子達は見ていた。 意識し始めて男女が距離を置く年頃で、一緒に遊ぶことはなかった。そのとき、「ハンカチおとしする者この指とまれ」とハスキーな声で懐かしい節が聞こえ た。ボーイッシュな薬屋さんのミッちゃんだった。女子達は下級生に戻ったかのように歓声を上げてミッちゃんの指に走った。体育坐りで輪を作ると、ミッちゃ んが率先して鬼になった。輪の縁を駈け回りながら誰かの背後にハンカチを落とす。振り向いてはいけないルールだから、輪になっている子は後ろ手に探って、 ハンカチを置かれた者が拾って鬼を追いかける。鬼が捕まれば鬼役が続くが、空いた席にうまく坐ればハンカチを持った者が鬼となってまた誰かの背後に落と す。下級生と違って五年生の動きは機敏で、拾った者がすぐ隣に落として持っているふりで走るなど策略にも富んでいた。落とされた者が気づかないまま鬼に一 周されれば、罰則として輪の中に入れられる。恥ずかしい場所なので「お便所」と呼ばれていた。五年生では出てこないだろうと思っていたが、美代子が一周し た鬼に叩かれてしまい、お便所に入ることになった。遊びは続行したが、一周するまで気がつかない者は美代子の他にはいなかった。文子は輪の中の美代子が気 になっていた。いつまでも出して貰えずに泣き出しそうだった。急にうつむいた美代子の顔を慌てて覗き込んだそのとき、文子は肩を強く叩かれた。「わあっ、 星野さんがお便所だ」とたちまち歓声が上がり、美代子に変わって文子が輪の中へ入れられた。講堂から教室へ戻る廊下で、文子は三、四人に取り巻かれた。 「星野さんは優しい」と口々に誉めそやしたが、文子は泣きそうな美代子に注意を奪われてハンカチに気づかなかったまでで、身代わりになる気持ちなどなかっ た。だが、いくら否定しても逆に謙遜と取られた。取り違えは賞賛にしても迷惑であると子供心に思ったものだ。
 学校でのべそっかきを母親には知られたくなくて美代子は背後に隠れていたのだろう、と輪の中で泣きそうだった顔を目に浮かべながら、文子は遊びにはいじ めの要素があったことに気づいた。『鬼ごっこ』の鬼は忌み嫌われるような役回りであったから鬼と呼ばれたのだろう。『かくれんぼ』の鬼は捜しおおせるまで 鬼でいなければならず、『かごめかごめ』や『ハンカチおとし』では囲いの中に閉じ込められた。『ことしのぼたん』に至っては鬼にされる前にさんざん弄ばれ る。このところ問題になっているいじめや差別を、子供達は遊びの中に取り入れていたとも言えそうだ。だが、あくまでも遊びの中であって、遊びが終われば男 の児達は肩を組み、女の児達は手をつないで帰っていった。いじめを遊びにしているのとは訳が違う。友達を死に追いやるいじめなどなかったのは、遊び方を 知っていたからではないだろうか。恐らく、子供達は遊びの変遷につれて遊び方を忘れてしまったのだ。そう考えると文子は、遊戯に躍動していた時代が宝物の ように思えた。

 帰宅したのは文子の方が先だった。キッチンで調理を急いでいるところへ涼太が帰ってきた。
「時間がなかったから、冷しゃぶのサラダと買ってきたお刺身で食べておいて」
 テーブルに着いた涼太は箸を持ちかけて、思い出したように鞄から蒲鉾を取り出した。「一つは、狭山のおバアちゃんにだってさ」
 文子は一方を冷蔵庫に納めてから包装を解いた。二本並んでいて、賞味期限は六日先だった。
「定期演奏会だけど、いつなのか聞いてないわよ」
 椅子に腰掛けながら文子が言った。冷しゃぶの豚肉とご飯を含んで口を動かしていた涼太が、湯呑みを傾けてお茶と一緒に飲み込んだ。
「六月十二日の金曜日だよ」
 文子から溜息が漏れた。
「うまく行かないわね。その日の仕事、引き受けてきちゃったわ」
 涼太は顔を見たが、無言で目を戻すと、箸で取った刺身の一切れを醤油に浸した。
「ごめんなさい。金曜日とは聞いていたけど、日にちまで教えてくれなかったから手帳に付けてなかったのよ」
「いいよ。どうせ期待してなかったから」
「そんな言い方しないでよ。行くつもりでいたんだから」
 涼太が笑った。
「お母さんの困った顔、久しぶりに見たよ。いや、初めてかな」
「何よそれ」
「だって、いつもポーカーフェイスだろう」
 ごもっとも、この家ではそうしていくしかないじゃない。着たくもない縫いぐるみを着ているのと同じよ‥、と文子は言いたかった。
「でも、オヤジさんの入院を知らされたときは、さすがに違っていたよ」
 あのときの自分を客観視すると、そう見られても仕方なかった。
「死ぬほど心配そうだった。夫婦なんだな、とつくづく思った」
「何生意気言ってんのよ」
 息子が両親を夫婦と見るのは当然だが、言葉に出されると照れ臭かった。
「ねえ、会社から携帯に電話したのよ」
 話題を変えるように文子は言った。
「演奏会の日にちを訊きたくて。そのときならまだ断れたんだけど、出ないんだもん」
 涼太は箸を止めてズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、ボタンを押して着信記録を見た。
「ごめん、気がつかなかったよ。このあと、あいつから掛かってきたからだ」
「おバアさまのお家の電話にも掛けたんだけど、いつまで待っても出なかったわ」
「この時間ならお風呂に入っていたよ」
 電話機を閉じる涼太の顔を、文子は怪訝な目で見た。
「十二時半よ。そんな時間に?」
「背中が痒いって言うもんだから、僕がお風呂を沸かしてあげたんだ」
 涼太は味噌汁を飲み干して箸を置いた。文子は話の先が気に掛かった。
「涼ちゃんはどこにいたの?携帯はポケットじゃなかったの?お家の電話もずいぶん鳴らしたのよ」
「聞こえなかったんだよ。お風呂場にいたから」
「まさか、おバアさまと?」
「そう。始めは脱衣場から手を伸ばして背中を洗っていたんだけど‥」
「ちょっと、おバアさまは裸だったんでしょう?」
「当たり前じゃないか。ドアが開いているから寒がってね、僕は洗い場に移動したけど、洋服に泡が跳ね返るし、お湯を掛けるときにズボンを濡らすのも嫌だったから、思いきって脱いで入っちゃった」
 文子は呆気にとられて言葉をなくした。胸の鼓動が高鳴っていた。動揺が顔に出るのを恐れて、急須を手に取ると涼太の湯呑みにお茶を注ぎ足した。普通の顔でいる涼太と目が合うと、文子は抑えきれない皮肉を口にしていた。
「おバアさまは色白だから、お綺麗だったでしょう?」
 涼太が目を丸くした。
「何考えてんだ、祖母と孫なんだよ、そんなふうに見れるかって。お母さん大丈夫かよ」
 涼太の笑い声を躱すように、文子は腰を上げると、洗う食器を流しに移した。コックを捻って洗い桶にお湯を張りながら、文子の頭は混乱していた。鼓動の響 きも、何考えてんだ‥、と浴びせられた言葉も、添い寝を目撃したときと同じだった。あのときの夫と今日の息子の行為を、奇異だと感じる自分の方がおかしい のだろうか?男と女をつい意識してしまう自分は、下卑ているのだろうか?
「お母さん」
 呼ばれて文子は振り返った。涼太はダイニングのドアを開けて出ていくところだった。「オヤジさんが帰ってきたみたいだよ」
 文子はお湯を止めた。玄関の方からエンジンの音が聞こえている。車で送ってくれた夫の仲間に挨拶をして、お茶ぐらい勧めなければいけないだろう、と文子はエプロンで手を拭きながら玄関へ向かった。












        五章  ちょんぱ

 五十肩を起こした母を見舞うつもりでいた文子に、蓉からの蒲鉾が機会を早めた。母が弟の家族と暮らす狭山市の家へは、事あるごとに足を運ぶ。父が購入し て優に三十年、その間に改築の話も出たが、学は屋根裏と床下に耐震の補強を頼み、壁面を塗装させただけにとどめた。それでも改築に近い経費だったと聞かせ た学が、内部を当時のまま残したのは、母の気持ちを考えたからだと文子には分かっていた。時には頑固だが身内を気遣う、父に似たものが学にはあった。 
 狭山茶の農協が昔と変わりなく茶の香りを漂わせている。降りた駅の一帯には、引っ越してきた当時、茶畑が広がっていたが、今は商店と住宅で見る影もな い。県道へ出て足を進める文子の前方に電話会社の鉄塔が迫っている。鉄塔の形は何度か変わったが、この道でいつも目を引いた。通勤していた頃は、茶畑の中 に聳える鉄塔を見ると、勤務先の丸の内との距離を感じたものだ。県道から県道に曲がって川を渡ると、橋の際に寺があり、その前の道に折れ入った方が家まで は近いのだが、遠回りして神社へ行ってみたくなった。社殿の脇から入って正面に抜ける参道は子供達の遊び場で、境内にこだましていた歓声や悲鳴が文子には 懐かしい。まっすぐな細い道はやがて神社に通じる。鬱蒼と繁る葉を午後の日陰が黒々と見せて、記憶の時間を巻き戻していく。
「同じだわ」
 境内へ踏み込んで、文子は呟いた。社殿の佇まいも、欅や杉の立ち姿も、空気の匂いまで変わりようがないみたいに文子を取り囲んでいる。参道に人影はなく、日差しが作り出す明暗がまるで当時をモノクロ写真に納めたようだ。
「あら」
 鳥居へ向かいながら敷石に目が留まった。鳥居の足下に珍しく落書きがしてあった。目が大きくて頭にツノのようなものがある、アニメーションのキャラク ターらしかった。文子は立ち止まってしゃがむと、指でツノをこすってみた。チョークではなく蝋石で書かれてあった。文子の口から溜息が漏れた。遠い日の勤 め帰りに見た『ダルマさんがころんだ』と言い、この蝋石の落書きと言い、ここへ来ると懐かしいものに出会えた。
 今ではすっかり見かけなくなった蝋石だが、文子と同年代の子供達には利用価値のある遊び道具の一つだった。コンクリートで舗装された広場や路上が遊び場 となっていた都会の環境が影響しているのかも知れないが、蝋石を使うような、土の上では決してできない遊びが結構あった。落書きにしても、土に棒切れで描 くよりは舗装に蝋石の方が滑らかで、男の児は飛行機や怪獣を、女の児はお花や自分に似た女の児の絵を精巧に描いていた。
 文子が好きだった『ちょんぱ』も舗装の上でしかできない遊びだった。蝋石で書いた円の中へネックレスに似たチェーンを投げ入れるので、この『ちょんぱ』 が流行したときは駄菓子屋や文房具店でもチェーンを売っていた。円を書くのがうまかった文子はみんなの円も書いた。運動靴の爪先に手で蝋石を固定すると、 踵を軸に一周する。片足跳びで四歩進んだ先に同じ円を書いて、一対の円が一人分になる。文子が書き終えると、全員が手前の円に並んで遊びの始まりだ。まず は向こうの円の近くまでチェーンを投げて、片足で三歩跳んでチェーンを踏むと、拾って円の中に入れ、自分も一歩で円に入ればセーフで、チェーンを手に片足 四歩で元の円に戻ってくる。チェーンが円から外れたり、投げた距離が遠過ぎて三歩で踏めなかった者は、アウトでやり直しになるが、次に進む者は今度は二歩 で踏んで投げ入れた円へ二歩で入る。クリアするごとに歩数が減るから、円に入れる難度が高くなる訳だ。だが文子はいつも誰よりも早く一歩までクリアした。 そして最後が「おたま」だった。手前の円に立って向こうの円に一度で入れなければならない。大きく息を吸う文子を全員が見つめる。勝ち負けだから、誰もが 文子の失敗を望んでいる。アンダーハンドに構えた文子が反動をつけてチェーンを投げる。手を離れて舗装に落ちたチェーンは、適度な力を得てのたうちながら 円に納まる。
「わあっ、上がりだ」
 躍り上がる文子に見事に納まったときの快感がいつまでも残った。
 『ちょんぱ』と呼ばれたのも、『けんけんぱ』は石だがチェーンを使うので言い得ていると文子は思うが、『けんけんぱ』を都会風にアレンジした子供達の創造力は、この歳になった自分を感心させる。
 文子は目とツノの落書きに別れを告げて腰を上げた。

 玄関で出迎えたのは学だった。
「あら、会社は?」
「今日は休みを貰った。ここのところ、ずっと遅かったから」
 学は製薬会社で医薬品の開発に携わっていて、研究が深夜に及べば会社に寝泊まりすることもある。五十を過ぎて髪は薄くなったが、大学の水泳部で得たスマートな体型と愛嬌のある笑顔は変わらない。
「これ、高木の義母からなの。冷蔵庫に入れて」
 玄関のすぐ先がキッチンなので、居間に向かう前に蒲鉾を渡した。
「時間が分かれば、車で迎えにいったのに」
 戻ってきて学が言った。
「いいのよ、歩いてみたかったから。駅の周辺はどんどん変わるわね。来る途中もマンションが多くなって。この辺はどう?二階へ上がれば少しは茶畑見えるかな」
 母が廊下に出て待っていた。スカートは薄地だが、襟の丸いブラウスはまだ長袖だった。八畳間の横長の座卓にはお茶を淹れる用意がしてあった。母に勧められて文子は客用の座布団に坐った。
「お母さんの好きな和菓子、持ってきたわ。こっちは梓ちゃんの好きなお店の、リーフパイ」
 母は頭を下げて受け取ると、廊下に坐っている学に箱を上げて見せた。煙草を吸っていた学が外に向けて煙を吐いた。
「いつも悪いね。今日は女房とデパートへ行ってるよ」
「振袖を見にいったの」
 母が言葉を挟んだ。
「そうか、来年は成人式だったわね。あらお母さん、わたしがやるわよ」
 急須の蓋を取る母の手を止めると、文子はポットの前に膝を運んだ。
「肩の具合、少しはいいの?」
 お茶が出るのを待ちながら、文子は訊いた。
「まだ、こっちの手が上がらなくてね。背中も洗えないの。昔のように、帯を結ぶ訳じゃないからいいけど」
 文子は三つの湯呑みを寄せると、お茶を注いでいきながら廊下の学に声を掛けた。
「学さん。たまには一緒にお風呂へ入って、流してあげたら」
 母と学の動きが止まった。二人の強い視線を感じて文子は傾けていた急須を戻した。顔を見ると母は頬を赤らめ、学は口を半開きにしている。
「あっ‥」
 文子も自分の出した言葉に慌てて、頬をほてらせた。
「何言うんだお姉さんは、気味悪いよ」
 学が笑い出し、母はうつむいて湯呑みを三方に据えた。
「気味悪い‥。そうよね」
 和菓子の箱を開けながら小声で言う文子を、母がそっと見た。やはりそう思うのが普通なのよ‥、と文子は胸の中へ吐き捨てた。それなのに、添い寝にしろ入 浴にしろ、相手に平気でさせてしまう蓉とは一体なんなのか、と改めて得体が知れなくなる。目に浮かべる顔や姿態に、言い知れぬ魔性のようなものが漂った。
 竹のフォークを菓子に入れた母が、手を添えながら口に運んだ。消し炭に似た色の髪を上手にまとめている。髪にも顔にも最小限にしか手を入れてないが、文子にはいつも母が綺麗に見える。特に涼しげな目で語りかけるとき、ほっとして自分の母であることが嬉しくなる。
「お義兄さんどうなの?お母さんから聞いたけど、大変だったね」
 学が訊いて、母も顔を見た。
「とにかく、検査で悪い病気が見つからなくてよかったわ。血圧の薬は飲んでるけど、無呼吸を改善する装置は借りていても使わなくなっちゃった。それでもゴルフには行くんだから、大丈夫なんじゃない」
 学がうなずいて、母も遅れてうなずいた。
「そちらはいかが?あなた、まだ煙草やめられないのね」
 学は掛け声と一緒に腰を上げると、居間へ入ってきた。
「研究室に籠りっきりのときは、何日も飲めないんだぞ。煙草ぐらい吸わせて下さいよ」 坐った学が湯呑みを手に取ると、母は菓子の皿を前に寄せた。   
「梓ちゃん、やっぱり沖縄へ行くって?」
 口を動かしていた学が飲み込みながらうなずいた。
「今のところ、その気らしい」
 梓は幼稚園の先生の資格を取るために短大へ通っている。その短大で、沖縄の危険な基地の近くでは幼稚園に先生が居着かないと聞きつけて以来、県内移設の反対運動も兼ねて沖縄へ赴任すると言い出していた。
「卒業は来年だから、すぐ先の話じゃない」
 母を見ると、複雑な表情で湯呑みを手にしている。
「でも、政権が交代すれば、危険度は減るんでしょう?」
 文子が目を戻して訊くと、学は首をかしげた。
「さあ、どうかな」
「だって党の代表は、県外移設を主張してるじゃない」
 手を近づけた母から急須を奪ってポットのお湯を注ぎ足した。
「お父さんは、今の与党を好く思ってなかったのよ」
「へえっ、そうなんだ」
「ねえお母さん」
 学の湯呑みにお茶を注ぎながら文子は顔を見たが、母は湯呑みが立てる音に返答を紛らわした。
「わたしが中学のときに言ってたわ。戦時中に国民は兵力にされたけど今は労働力にされてる、って。お父さんはきっと、人の暮らしを脅かしたり壊したりするものが許せなかったのよ。この場にいて、沖縄のことを訊けば言うかも知れないわね、戦時中も今も犠牲にされてる、って」
 溜息を聞かせた学が湯呑みを持って腰を上げ、廊下へ行きながら呟いた。
「そうだな。沖縄のことでは、今の与党や同盟国にやりにくい時代が来てもいいのかも知れないな」
 学は火のついた煙草を指に挟むと、また外に向けて煙を吐いた。煙はすぐに消えて文子は目を庭に据えた。すでに日が傾いていた。この時期には青々と葉を繁 らせる胡瓜や茄子の鉢が今年はまばらで、庭いじりも容易でない母の体調が知れる。それでも胡瓜は葉陰に生気ある黄色の花を咲かせていた。
「でも、梓ちゃんは偉いわ、そこまで考えていて。うちの涼太と来たらオーケストラに夢中で、楽器じゃ就職できないのにね」
 母と学が笑った。
 応接セットが置いてある洋間に、かつて店に掲げられていた額が掛けてある。懐風堂書店、と右から毛筆書きされたもので、開店のときに父が恩師から贈られたと聞いていた。文子が見上げていると、学が入ってきた。
「あなたは親孝行ね」
「なんだよ急に」
 文子が腰掛けると、学も右隣の椅子に落ち着いた。
「この額、お父さんは捨てるつもりでお店の外に出したんだわ。だけど引っ越しのとき、学さんは膝に乗せて持ってきてここへ掛けた。お父さんもお母さんも嬉しかったでしょうね。わたしだって泣きそうになったもん」
 学は照れ臭そうに聞いている。
「このお部屋も居間も、お父さんが買ってくれたときのままに残したし、お母さんは感謝していると思うわ。残したこと以上に、そうしてくれたあなたの孝行を。わたし、お母さんの気持ちがよく分かるな」
「引っ越しのとき、僕は大学の一年生だった。買ってもお父さんは一年ほどしか住めなかったね」
「わたしだって、それから二月後に出て行ったのよ。僅か一年と少しの間に、引っ越ししてお父さんを亡くして結婚して、人生の曲がり角を三度曲がったんだわ」
「小説にでもしますか?」
「いいかもね。お父さんはわたし達のどちらかを、作家か文学者にしたかったんですって」「昔聞いたよ」
「本気だったのかしら」
「どうだろう。名前だけは文学の、文子と学、にして貰ったけどね」
「悪かったかしら‥」
「何が?」
「そうならなくて」
 学が失笑した。
「なれたと思ってんのかよ」
「そうよね。短大の卒業論文でさえ、四苦八苦してたんだものね」
「でも一応、国文学科だったじゃないか。僕なんか理系の大学へ進んで、結局、薬屋になっちゃったよ」
「学さん。わたし近頃、なぜだか神田にいた頃のことばかり思い出すのよ。それも、小学生の頃の」
「あの小学校、統合されて名前が変わったんだよ」
「と言うことは、校歌もなくなっちゃったの?淋しいわね」
「少子化だから、どこも同じだろう」
「ほら、六年生のときにわたしの担任で、そのあと四年生のあなたの担任になった男の先生がいたでしょう」
「ああ、なんとか言う、言いにくい名前」
「井入先生よ。あの先生、あなたの担任の途中で学校辞めたのよね」
「辞めさせられた、という噂もあったよ。かなり偏屈だったじゃないか。あの頃四十に近かったけど、ずっと独身で」
「でも、わたしは好きだったわ。えこ贔屓は絶対しなかったし」
「教師は大抵やるからね」
「ねえ。わたし、あの先生とは忘れられない、いいえ、忘れてはいけない思い出があるんだな」
「今日はなんか、エキセントリックだね」  
「何よそれ」
「風変わり、という意味だよ」
 二人で笑って、文子はそこまでの話にしようと思ったが、学が聞く姿勢でいるので、一呼吸置いてから口を開いた。

「卒業式の日のことだったのよ‥」
 と語り始める文子に、式の開始を待つ教室のざわめきが甦る。数人の男子を除いてみんな一張羅を着ていた。気持ちの昂ぶりと緊張から誰もが落ち着かない顔をしている。自分の席に坐っていた文子に背後から声が掛かった。
「それ、だめじゃない」
 寄ってきたのは女子の学級委員で、目で指摘したのは髪のパッチン留めだった。女子生徒の一人が割って入った。
「星野さんは予行練習の日にお休みしていて、知らないのよ」
 二日前に式の予行があったが、文子は熱を出して欠席していた。この日もまだ風邪気味
だった。
「そうか。予行のあとに女の先生から注意があってね、お式だから服装を華美にしないように、女子はおリボンやパッチン留めなどの髪飾りも控えましょう、と言われたのよ」
「そうだったの、ありがとう」
 文子は注意した学級委員にお礼を言って、机の木の蓋を開けると、髪から外したパッチン留めを入れた。実はお気に入りで、卒業式のために汚さないようにしまっておいたので、かなり残念だった。
「さあ、廊下に整列だ」
 井入先生が入ってきて、眼鏡の顔を少し強張らせながら言った。先生は上着もネクタイも普段と同じだ。講堂の、ステージの横の入口に向かって列が続いてい た。文子は三組なのでまだ後ろ。式場のスピーカーから音楽が聞こえている。サンサーンスの『動物の謝肉祭』の「白鳥」だった。父母の席から上がっている拍 手に迎えられて講堂へ入った。式には母がいい着物を着て列席していたが、横目で見ても見つけられなかった。横並びになると、正面に一礼して、着席。見守る 五年生も、さすがに今日はお行儀がいい。
 壇上に列が進んで、校長先生から一人一人に卒業証書が渡された。各賞の授与では文子に千代田区長賞。母が見ていると思うと、壇上に上がる足が震えた。校 長式辞のあと在校生代表の送辞と卒業生代表の答辞。父母代表の謝辞は、薬屋さんのミッちゃんのお父さん。そして、「仰げば尊し」の合唱で式は終わった。
 教室に戻って、卒業証書を入れる筒と、卒業アルバムと、紅白の干菓子が各自に渡された。担任の井入先生からのお話は、あったのかなかったのか覚えてな い。解散となってリッちゃんに呼ばれた。リッちゃんのお父さんが校門の前で写真を撮ってくれると言う。リッちゃんが他の数名も誘って女子ばかりで並んだ。 私立の中学へ進むリッちゃんとは、幸いなことにこの日でお別れだった。いつものおじさんが都電通りに立ってくれるのは朝だけなので、遠回りして駿河台下の 信号まで来たとき、文子はパッチン留めを置き忘れてきたことに気づいた。リッちやん達とはそこで別れて学校へ引き返した。廊下にも校庭にも人影はもうまば らだった。みしみしと音が響く階段を踏んで、教室は三階の奥から二番目だ。近づいて行くと、静まり返った廊下に井入先生の声が響いた。文子は思わず壁に体 を寄せた。そっと覗くと、先生は教卓の前に立ち、見上げる生徒の一人に話しかけている。いつもと変わらない服装に文子は野津君だと分かって、また壁に隠れ た。
「お祖母ちゃんに感謝しなければいけないよ」
「はい」
「苦労を乗り越えて、君のお祖母ちゃんは立派な方だ」
「はい」
 先生の声はよく通って言葉もはっきりと聞こえるが、野津君は小声で「はい」としか言わない。お祖母ちゃんと二人暮らしで、市場の跡地に共同で住んでいる らしいが、文子達女子にはどこなのか、なぜ両親がいないのかも知らなかった。無口でいつも下を向いている子で、男子の数人とは遊んでいたが、女子達にとっ ては関心外で、穴から親指が出ていた運動靴が新品に変わったとき噂になったくらいだ。だが、文子には暮らしぶりを知られていることを、野津君は分かってい た。父が店を閉める夜の九時頃、お祖母ちゃんは古新聞を積んだリヤカーを引いてよく通った。野津君は後ろを押していても、店の前を通り過ぎるときは決まっ てお祖母ちゃんの陰に隠れた。見ていても文子は、野津君がリヤカーを押していることも、お祖母ちやんが穴の開いたお下がりの運動靴を履いていたことも、誰 にも言わなかった。野津君の皆勤が今朝告げられたとき、女子達もさすがに神妙な顔つきで聞いた。だが、転校してきた三年生以降のことなので、皆勤賞は貰え ないのだと先生は残念そうに言った。今、欠席も遅刻もさせなかったお祖母ちゃんを褒める先生の言葉に、文子は感動した。
「だけど、野津」
 先生の声が一段と高く響いた。
「先生に言わせれば、君はもっと偉い、もっと立派だ」
 野津君がやはり、「はい」と答えた。
「人はなあ、自分が可哀想だと決めつけて、それを理由に悪くもだらしなくもなれるものなんだ。でも、君はそれをしなかった」
 込み上げてくるものに、文子は口を抑えた。
「だから先生はどうしても、君に皆勤賞をあげたかったんだ。これは先生の手作りだけど、心を込めて渡したいんだ」
 文子の口から泣き声が漏れた。
「誰だ」
 そのとき、先生が廊下に向けて言った。
「そこに、誰かいるのか」
 手で口を覆ったまま顔をうつむけて、文子は入口へ歩いた。
「なんだ、星野じゃないか。どうした、こっちへ来なさい」
 先生にも、見ている野津君にも、文子が立ち聞きをしてそれで泣いていたことは分かった筈だ。
「野津は、星野のお父さんを知っているか?」
 文子を野津君の隣に誘いながら先生が訊いた。野津君はまた「はい」と答えた。
「こういう人」
 先生が眼鏡を鼻の先まで下げて見せると、野津君は笑った。
「本を見にお店へ入ると、じろっと見られちやうんだ。先生は泥棒じゃないのにな」
 野津君がまた笑って、文子もつられて笑った。
「でも、先生だと分かると、途端に変わるんだ。まさに、ヘンシン、だ」
 先生がウルトラマンの格好をした。昨年からテレビで放映していて、学が見ているので文子も知っていた。
「下駄を履いて下りてきてな、先生どうも文子がいつもお世話になりまして、って、何度も頭を下げるんだ。そして先生の欲しい本があると、お持ちになって下さい、って。でもやだよな、最初からその気で行ってたら、やっぱり俺は泥棒かって」
 文子は野津君と一緒に笑った。
「だからお金は取って貰うんだけど、大負けに負けてくれてね」
 先生が文子の顔を見た。
「分かるだろう、星野」
 今度は文子が「はい」と答えた。
「それだけ君が可愛いんだ。野津もそうだ、お祖母ちゃんだって君が可愛いんだ。二人とも大事な子と孫なんだ。だから、愛されていることに責任を持つんだ。 自分を粗末にしてはいけないんだ。やさしく言えば、体に気をつけて、命を大切にして、間違ったことをしてはいけないんだ‥」
「はい」
 言葉の途中だったが、文子と野津君は強くうなずいていた。
「ちょうどよかった、星野。今から野津に皆勤賞を渡すから、一緒に祝ってあげてくれ」
 先生がお手製の賞状を手に取った。 
「皆勤賞、野津明夫君」
 賞状を両手で受けた野津君が、下げた頭の上にうやうやしく掲げる。文子は思いっきり手を叩いていた。先生も手を叩いた。先生の音に負けないように、文子は手が痛くなるほど叩きながら、また泣き出していた。
「そろそろ帰りなさい。野津は遠くに越してしまうけど、星野はまた遊びにおいで」
 同じ中学へ進むとばかり思っていたので、文子は驚いた。階段まで来たところで、野津君がズボンのポケットから丸まったハンカチを出して渡そうとした。
「どうもありがとう。でも、あたし、持ってるから」
 文子が断ると、野津君は淋しそうにうなずいて、
「じゃあな」と一言残して階段を駈け下りていった。

  文子の言葉が途切れると、黙って聞いていた学が身じろいだ。
「いやあ、いい話だ。お姉さん、いい話だね」
「そう、じゃあ話してよかったわ。だけどわたし、またパッチン留めを忘れてきちゃったの」
「そうなると思ったよ」
 学が大笑いした。
「いいえ、覚えていたけど、もうどうでもいいと思ったのかも知れないわね」
「それっきり?」
「ううん、やっぱり取りに行ったわよ。翌朝、早く起きてね。用務員さんに鍵を借りて、誰もいない教室へ入ったわ。先生のいた場所に立って、言われたことを忘れないようにと決心したの」
 だが、学には言えないが、文子はずっと忘れていて、死にたいと思っていた時期があった。結婚して十年近くも子供に恵まれず、神経症を病んでいたときだ。 この家で倒れて、思い出させたのは看病してくれた母のあの手だった。自分は母に愛されているのだ、父に愛されていたのだ、それに責任を持たなければいけな かったのに‥、と母の手の冷たさを額に感じていたあのときを境に、自分はそれまでの結婚生活から脱皮したのだと文子は思っている。だから涼太が産めたのだ と思っている。
「変わり者だったけど、あの先生らしい話だな」
 学が呟いて、文子は顔を上げた。
「どうして学校を辞めなければならなかったの?」
「よくは知らないけど、学校の方針に従わなかったとか、先生の組合に入らなかったからだとか、生徒は噂してたよ」
「あなたが四年生までは担任だったのよね?」
「そう、五年生の途中で、急に辞めていった。最後に僕達に言ったこと、覚えているよ。教壇の上で泣きそうになりながら、先生が労働者になってはいけないんだ‥、って」
 文子は父と井入先生は考え方の点で似通っていたのだろうか?と学に訊こうとして、廊下に佇んでいた母に気づいた。両手に携えた丸盆に、苺を入れたガラス皿が二つ乗せてある。二人に顔を向けられて、母は微笑みながら入ってきた。
「ごめんなさい。肩が痛いんだから、言ってくれればわたしがやったのに」
 文子は母の手から丸盆を取ってテーブルに置くと、、ガラス皿を学と自分の前に据えた。
「お母さんのは?」
「わたしは向こうで戴くから、二人でお話をしながらお上がりなさい」
 出て行く母の丸まった後ろ姿が、文子にはかえって可愛く見えた。目を戻すと、学はもう口を動かしていた。苺の一つをスプーンの背で潰しながら文子は言った。
「小さい頃、お母さんがこうして食べさせてくれたの、覚えてる?」
 水気の多い紅がガラスに染まるのを見ながら学はうなずいた。
「梓に食べさせていたときに、思い出したよ」
 学の言葉から、文子も学に食べさせていた光景が自分の体験のように記憶に焼き付いているのかと思った。学は食べ終えて、煙草がないことに手持ち無沙汰な様子だった。
「学さん。お母さんのこと、これからもよろしくね」
 ハンカチで口を拭った文子が、そう言いながら頭を下げた。
「また急に、どうしたんだよ」
 組んでいた足を戻して、学が慌てた。
「だってわたし、お母さんが好きなのに、何もできないんだもん」
 文子は立ち上がると、店にあった額を見上げるふりで学に背を向けた。姉として、泣きそうな顔を見られたくなかった。涙をこらえる文子に、背後の学も無言だった。
「そろそろ帰るわ」
 しばらくして、文子が言った。
「今日は二人とも早く帰れそうなこと言ってたから、ご飯の支度急がなきゃ」
「駅まで車で送るよ」
 学が立ち上がる気配に、文子は振り返った。
「そう?じゃあ、お願い」
 断ろうと思ったが、学の笑顔に誘われて甘えることにした。







        六章  なわ跳び

 クラス会当日の日曜日、文子は朝から調理に追われていた。何年ぶりかでクラスメートに会うので、念入りに身支度をする時間が欲しかったが、こうした日に 限って夫にも涼太にも予定がない。昼食を食べさせて、夕食の用意もしていかなければならなかった。クラス会は午後三時からなので、二時には家を出たい。夕 食用のビーフシチューは起き抜けに煮込んでおいた。魚料理は鯛を昆布締めにして、つま用に切った胡瓜をクッキングペーパーで包んだので、食べるときに冷蔵 庫から取り出すように言えばよい。時間を置けば水気の失せるサラダも、こんなときは缶詰の活用だ。洗ったサラダ菜をラップして、盛りつけのときにホワイト アスパラとコーン・ホールの缶詰を開けて貰えば、ドレッシングを作るだけなので助かる。炊飯器にはタイマーをセットして、鰹出しの味噌汁は豆腐を入れても うできている。夕食の用意はこれでよし。鰹出しの残り半分に、日本酒と醤油とミリンを加えて昼食用の蕎麦つゆを作った。当然、もり蕎麦だけでは文句が出る ので、ワカメと茗荷と、これにもまた缶詰の蟹を使って酢の物を作る。自分が出掛けるときでも食事の不満は絶対に言わせないのが、主婦としての文子の意地 だった。
 沸騰した鍋に乾麺を散らすと、階下の部屋にいる涼太に声を掛け、オヤジさんも呼ぶように頼んだ。やってきた二人が、ガス台に向かっている文子の背後で、 某会社について会話している。定期演奏会を終えた涼太は、少しは勉強に落ち着くと同時に、就職のことも考え始めていた。涼太の疑問に夫がアドバイスしてい るが、文子には分からない内容だった。茹でて水に晒した蕎麦をそれぞれのざるに盛って、冷蔵庫から出した酢の物の小鉢を添えると、文子もテーブルに着い た。蕎麦を啜りながら壁の時計を何度か見上げたが、食べ終わる頃になると気は急いていた。後片づけや化粧の時間だってあるのに、二人は食べるより話に夢中 だ。まったく、自分達が出掛けるときは大騒ぎするくせに、わたしの外出には無頓着なんだから‥、と文子はやきもきする。Tシャツの涼太は近頃しゃれっ気が 出て、ほのかに柑橘系の匂いをさせている。それに引き換え、向かいの夫はまさに爺むさい。休日は決まって無精髭。白髪混じりの揉み上げから顎に目を移すた び、昔の夫からは考えられない肥満度を感じる。車の運転を控えているから、まる二月、南足柄へは行っていない。蓉からも連絡は来てない様子だ。警察から電 話が掛かった例の一件が落ち着いたからだと思う一方、この静けさがまた何か起きそうな兆しかと不安になる。そのうえ夫は、このところ外で夕食をする機会が 多くなったが、山田祥子と休日に会えなくなったせいかと疑うのも癪なので、どれもこれもあまり深く考えないことにした。

 駿河台下で変わる信号を待ちながら、文子は傘を開いた。朝から曇天の蒸し暑い日で、我慢の末に降りだしたという感じだった。ブルー地に濃いグリーンで草 模様をあしらったツーピースが濡れないうちに会場へ行けそうだ。文子は傘を傾けながら右手のカーブから左へと靖国通りを目で辿った。女子高校へ進んだ頃ま でここを都電が走っていた。小学校の卒業式の日に、学校へ忘れてきたパッチン留めに気づいた同じ場所に立っているのだが、視界に入る高いビルと人の多さの せいか、しっくりと来ない。信号が青に変わり、通りを渡りながら振り返って見た。都電の線路が複線で敷かれていたにしては道幅が狭いように感じるが、歩道 を広げる筈はなく、子供の頃に見ていた目の高さの違いなのかと考えた。すずらん通りを進みながら、横切る広い道に近づくと、やはり胸がときめいた。小学生 だった涼太を連れて立ち寄ったとき、父の店があった一帯は一つのビルになっていて、母と鞠つきをした路地もなくなり、店がどこに位置していたのか分からな かった。胸が痛んで二度と来たくない場所だったのだが、諦めてもなお懐かしがる気持ちが胸のときめきになっているのかと思うと、自分にそんな可愛さが残っ ていることが一人よがりに嬉しくなる。クラス会の会場は目と鼻の先なので、文子は横に折れてビルの前まで来た。周辺は様変わりして、当時を偲ぶ因は何もな い。店の見当をつけた一角はコーヒー専門の喫茶店になっていた。
 すずらん通りを抜ける手前に建つ、昔からある中華料理店が会場だった。店の外観は当然変わったが、京劇の面をデザインした看板が文子には懐かしい。店員 に言われてエレベーターで三階へ上がり、会場へ入りかけて立ち竦んでしまった。丸テーブルが三つ星に置かれてあり、ほとんどの席が埋まっているが、どの顔 にも見覚えがない。急に気遅れがして、近くの椅子の派手なワンピースの一人に幹事の岡部光代の居場所を尋ねようとしたとき、奥のテーブルから旧姓で呼ばれ た。ハスキーな光代の声だった。うなずきで応える文子に視線が集まり、それを遮るように派手なワンピースが立ち上がった。無言で、懐かしがるように顔を見 ていたが、やがて手を取って強く握った。
「フミちゃん‥」
 文子を見つめる目が潤んで、泣き顔になった。
「リッちゃんね?」
 文子の問いに片手で口を隠してうなずいたが、律子とは分からないほどに肥満していた。
「会いたかったわ。どうして今まで来なかったの」
 手を揺すられながら文子はうつむいていた。
「皆さん。クラス会のニューフェイス、星野さんのフミちゃんです」
 寄ってきた光代の紹介に拍手が起こり、文子は照れながら頭を下げた。光代に手を取られて奥のテーブルに案内された。隣に腰掛けて横顔を見ると、ミッちゃんはミッちゃんだった。肩を触られて反対側へ顔を向けた。
「星野さん。前田悦子です」
「まあ、前田さんなの?」
 手を差し出されて握手した。小学生の頃の印象は無口で、女の児にしてはぶっきらぼうだったが、スマートで小綺麗な中年になっていた。出席者が揃って、幹 事の大川君が乾杯の発声をする。すずらん通りの横丁に大きく店を構えるお米屋さんで、飲食店相手に大川君が家業を再興したことは光代に聞いている。グラス を手に顔を見ていると、大川という名があの頃の顔を誘い出す。文子は会の雰囲気に溶け込んでいく自分が分かった。料理が運ばれて、歓談が始まった。三つの テーブルに総勢二十二人。クラスの半数近くがこうしてまとまるのも、神田を離れない人達のお蔭だろうと文子は思う。乾杯のときに注がれたウーロン茶を口に していると、ドアに近いテーブルから声が上がった。各自の近況報告や校歌の合唱を提案している。会を分散させないようにまとめ役を買って出る、それも神 田っ子の心意気なのだと文子は思う。
「あのでしゃばり、誰だか分かる?」
 左隣の光代が文子の膝を叩いて訊いた。
「ター坊よ」
「ター坊って、田島君?」
 言われればそうだった。冬でも半ズボンに長靴下で、坊ちゃん刈りのよく似合っていた顔が重なった。
「その手前が牛乳屋だった麗子で、隣がね‥」
 光代はドア近くのテーブルの顔ぶれから始まって、真ん中のテーブルに移り、奥のこのテーブルでは声を落として誰であるのかを教えてくれた。
「不思議だわ、さっきは誰の顔も思い出せなかったのに、ミッちゃんから名前を聞くと顔のどこかに昔の表情が見つかるの。子供なりに小学生の時代は長くて深いお付き合いをしていたのね」
「こいつは、どう?」
 光代が自分の鼻頭を指差して言った。
「ミッちゃんは一番変わらないわよ。羨ましいほど若いし」
「やっぱり、離婚がよかったのかね」
「そんな」
 文子が腕を揺すると、光代は大笑いして、グラスのビールをおいしそうに呷った。昔と同じに髪は短く、鉢巻きで法被を着せればお祭にはいて欲しい粋な姐御だろう。小学生のときはあまり接触のなかった光代に、文子は身内に寄せるような親しみを感じた。
「フミちゃん、食べてる?」
 声に顔を向けると、右隣の席に律子が来ていた。前田悦子は離れた場所に立って真ん中のテーブルの一人と話している。
「会費は男女均一なんだから、男が飲む分食べなきゃだめよ」
 律子が大皿に手を伸ばしたとき、棚が回転して大皿が離れた。
「ちょっと、あんたは飲んでるんでしょう。フミちゃんなんにも食べてないんだから、先を譲りなさいよ」
 大皿が戻ってくると、律子は文子の取り皿に料理を取って、箸まで持たせてくれた。文子が一口含んで顔を見ると、律子は満足そうに微笑んだ。
「リッちゃん、元気そうね。お孫さん、いるんでしょう?わたしは遅くにできた息子がまだ大学生なの」
「それが元気じゃないのよ。この体型で分かるでしょう、糖尿病の予備軍て言われてるの、血圧も高くてね。子供は上が娘で下が息子。娘の方に小学生の孫がいて、実は今日ピアノの発表会に出てるんで、もうじき行かなきゃいけないのよ」
 文子が伏せてあったグラスを律子の前に置き、棚を回してウーロン茶の瓶を取ろうとすると、律子が立ち上がった。
「自分でやるから、フミちゃんは食べてて。今日は賓客扱いよ。来年も来て貰えるようにサービスしなくっちゃ、ねえミッちゃん」
「そういうこと。では、誓いの乾杯と行きましょう」
 光代が上げたグラスに、文子と律子は自分のグラスを触れ合わせた。ウーロン茶を喉に落としながら、文子は複雑な気持ちだった。陰口をきかれていたことが、今の律子からは考えられない。律子のこの屈託のなさに比べれば、自分の方がよほど屈折していた。
「じゃあミッちゃん、あたしこれで失礼するから」
 律子が財布から紙幣を出して光代に渡した。慌ただしさにつられて文子も腰を浮かせた。
「みんなに悪いから、そっと消えるわ。ミッちゃんありがとうね、フミちゃんも。来年は用事なんかダブらせないから、ゆっくり話そうね」
 文子はうなずくだけで、急いでいる律子に何も言えなかった。そろそろ酔いが回ってきたのか、男性の数名は立ち話をしている。律子はその間をすり抜けてドアから出ていった。後ろ姿を追いながら、文子は声に出さずに言っていた。
「リッちゃん、ごめんね。今度お助け遊びをしたら、きっと助けるからね」
 
 宴もたけなわになって、テーブルの顔ぶれは入り乱れている。男の声で玩具についての会話が聞こえてきた。
「フラフープでは遊んでないよ。幼稚園の俺達には無理だったから、見ていただけだ」
「ダッコちゃんは、そのあとになるな」
「だけど、小学生じゃなかったのは確かだよ。女の児と同じに欲しがったもん」
 女の声では靖国通りの話題だった。
「都電は、高校生になるまで走っていたわよ」
「学園紛争が起きたのは?」
「その前、中学のときだったじゃない。都電通りで学生と機動隊の対決よ。学生がツルハシを使って歩道の石を剥がして砕いて、みんなで投げるの。怖かったわね」
「あれじゃ都電も走れなかったけど、どこにいたのかしらね」
 幹事の大川君の呼び掛けで、話し声が静まった。
「皆さん、こいつがまた先に帰るので、挨拶させます。聞いてやって下さい」
 一歩前へ出る怖ず怖ずとした姿が、文子の目に引っ込み思案な男の児だった昔を彷彿とさせる。
「今日もまた、家庭の事情ですいません。皆さん、お元気で」
「それだけかよ」
 大川君がからかって、どっと上がる笑いから逃れるように出ていった。目で追う後ろ姿には、律子のときもそうだったが、歳相応の翳りがあった。顔や髪のように見て装うことはできないので、自分にも年齢が現れているのだろうと文子は思った。
「家庭の事情って、なんなの?」
 赤いラベルの瓶を傾けている光代に文子は訊いた。
「あの人、お母さんの介護があるから、長い時間いられないのよ」
「錦町で製本屋さんをしていたのよね。家族は?」
「なん年か前に離婚して、奥さんは子供と出ていった」
「じゃあ、お母さんの介護を一人で?」
「そう。一人っ子だったからね」
 黙ってしまった文子の顔を光代が見た。
「どうかした?」
「あっ‥、ちょっと考えちゃったの。家の主人も一人息子だから」
「お姑さん、具合悪いの?」
「いいえ、そうじゃないんだけど‥」
 文子は琥珀色の酒を飲んでいる光代の口元から、人影の動くバルコニーに目を向けた。ドアが開いて屋外へ出られるようになっている。
「あそこで煙草吸っている人、ガキ大将だったわよね」
 光代がバルコニーを見た。
「低学年まではね。五、六年のときはガキ大将も形無しさ、勉強できなかったから」
「悪いわ」
 いたずらっぽく笑う光代が、ふと文子の頭の上に目を移した。
「文子ちゃん」
 光代の視線の先から男の声で呼ばれて、文子は振り返った。日焼けした黒い顔が微笑んでいた。
「俺、この近くで昔‥」
「分かるわよ。周ちゃんでしょう?」
 言葉の途中で文子は先手を打った。光代から顔ぶれの名前を聞かされていたとき、聞く前に名前が出た一人で、やはり周介だったと知ってから席の様子がずっと気になっていた。顔の日焼けは果樹園を営んでいるためだと光代は教えた。
「山梨から来たんですって、さっき岡部さんから聞いたわ」
「高速バスの発着が新宿だから、便利なんだ」
「周ちゃん、坐ったら」
 前田悦子が真ん中のテーブルに落ち着いているのを見て、文子は椅子を勧めた。周介が遠慮がちに腰掛けると、文子はグラスを前に置いた。
「ビールでいい?」
 光代から渡されたビール瓶を周介に向けた。光代は煙草を手にバルコニーへ立って行った。
「山梨のどこ?」
 周介の手の中のグラスにビールを注ぎながら訊いた。
「一宮だよ」
「あ、知ってる。たくさんの桃の木が花を咲かせている写真を見たわ」
「四月の風景だね。桃は今出荷のピークで、これからは葡萄で忙しくなる」
「周ちゃん、夢を叶えたのね。親父は果物を売ってるけど、僕は果物を作る人になるんだ、って、言ってたもんね」
 周介はすずらん通りにあった果物屋の次男だった。
「周ちゃんのご両親には可愛がって戴いたわ。小さい頃は前を通ると手招きされてね、お店の奥でよく果物を食べさせて貰ったの。桃も食べたわよ」
「店に出しておいた桃なんて、暑さで生暖かかったろ?」
「甘くておいしかったことしか覚えてない」
 周介にビール瓶を向けられたが、文子は手で断った。
「そう言えばわたし、果樹園の中って入ったことないの」
「いつか遊びにくるといいよ。高速バスの、一宮のバス停の近くだから」
「季節はいつ頃がいいの?」
「桃狩りか葡萄刈りに来るかい?いや、文子ちゃんなら桃の花が似合いそうだから、やっぱり四月の中頃かな」
「周ちゃん、携帯持ってる?」
 文子がテーブルの下からハンドバッグを取り出すと、周介も立ち上がってズポンの後ろを探った。
「わたしのに登録してくれない。やり方がわからないから、いつも息子に頼むの」
「息子さんがいるんだ」
 文子の電話機を開きながら周介が訊いた。
「ええ、子供は一人。周ちゃんは?」
「俺は娘が一人、名古屋にいるよ」
 周介は二つの電話機を向かい合わせた。
「俺の携帯にも文子ちゃんの番号入れといて、いいかい?」
「ええ、そうして」
 電話機が返されたとき、文子は一緒に写真を撮っておこうかと考えたが、言い出せずにハンドバッグへ戻した。
「文子ちゃん、急に引っ越しちゃうんだもんな。挨拶もなしに」
 周介が呟くように言った。
「そのことなんだけど、わたし二十二にもなっていて、何を考えていたのかしらね。ご両親にもきちんと挨拶しなきゃと思いながら、今日行こうと決めても、いざとなるときまり悪くてね。ついに行かずじまいで越してしまった。今謝っても仕方ないんだけど、ごめんなさい」
「俺もそれからすぐに家を出た。一浪して入った大学を中退するときは、親とさんざん揉めたけど、栽培の仕事がどうしてもしたくなったんだ」
「わたしのせい?」
 と文子は訊きたかった。そうだったら周介に済まないと思う一方で、いや、一方ではなく嬉しさの方が先行するだろうと文子は思った。
「農家に住み込みで雇われたけど、想像以上にきつくてね、夢なんかすっ飛んじゃったよ。でもおめおめと東京に引き返す訳にはいかないから、俺には返る場所はないんだと、その気持ちが頑張りの種だったな」
「今は自分の畑を持ってるんでしょう?」
「ああ。徐々に手を広げて、人も使うようになった」
「凄いじゃない」
 会話が途切れて、二人ともざわめきのあちこちに目を向けていた。
「周ちゃん‥」
 と文子が口を開いたそのとき、ドア近くのテーーブルに移っていた光代に大声で呼ばれた。
「小学校で『なわ跳び』がはやったの、覚えてる?長い縄の端っこを二人が持ってさ、大きく回す中へ次々に入っていくの」
「ええ。二つ跳んで、出てくるんでしょう?男の児も混ざって、大勢でやったわね」
 テーブルを囲む頭越しで、光代の顔がよく見えないので立ち上がると、周介も椅子から立って離れていった。
「はやったのは、三年生のときよ」
「ええっ。そんな低学年の頃?」
 光代はグラスを手に真ん中のテーブルへ移動すると、手招きで文子を誘った。
「わたし、風邪をひいていて、外では遊ばないように母から言われたので、窓から校庭を見ていたのよ。あっちでもこっちでも『なわ跳び』だらけだった。二階の角の教室だったのを覚えているから、あれは三年生」
「ほら。フミちゃんて記憶力抜群でしょう」
 光代が回りの顔ぶれに言って、その中の一人から席を譲られた文子が椅子に坐ると、みんなが集合して真ん中のテーブルを囲む形になった。
「今、揉めてたんだけどさ、縄を回すときの歌っていうか、掛け声っていうか、あったでしょう?青山の‥、とかなんとかいうの。あれの出だしどうだったっけ」
「ほらほら‥、でしょう?」
 麗子に横から言われて、文子はうなずいた。
「そう。ほらほら‥、よ」
「やっばりね。誰だ、そらそら‥、なんて言ったやつは」
 光代は酔いが回って威勢がよくなっていた。
「次が、青山の‥で、豌豆まめの、白うさぎ」
 文子の語調がリズミカルになると、光代が顔を振り始めた。
「そん次」
 と男の声。
「どんつくどん、お姫さま‥。だけどここは、尚子さま、に変えて歌ったじゃない」   男連中から懐かしがる声が上がった。
「尚子さん、いたっけな」
「猿楽町の、女坂の上に住んでいてな。俺、跡をつけてお屋敷を見にいったことあったよ」
「上品で、あたし達とは階級が違うっていう感じだったもんね」
「ブァイオリンが弾けてさあ」
「学芸会で演奏したわね、お父さんのピアノ伴奏で。星野さん、あれなん年生のとき?」
「五年生。素敵だったわね。わたし、あの曲大好きになったの、ベートーヴェンの『ロマンス』」
「どんなな曲だったっけ。星野さん、歌ってくれよ」
 拍手されて、仕方なく文子がハミングで歌いだすと、女の数人は曲に乗って肩を揺らし、酔っ払いの一人は箸をタクトに指揮者の真似をした。
「俺達の憧れだったもんな。ナンバーワンが尚子さんで、ナンバーツーが文子さん、おい、そうだよな」
「よしてよ、尚子さんは本当にお姫様だったんだから。会いたかったな、どうしているかしら」
「亡くなったのよね?」
 前田悦子の言葉に、その場は静まり、訊かれた光代にみんなの目が注がれた。
「そう。今年の一月に」
 場がどよめく。
「自殺、だったんでしょう?」
 悦子が訊いて、また光代に視線が集まった。
「分からないの。薬を間違えた、とも言われているから」
「一体、なんでだよ」
 赤ら顔の一人が席から叫んだ。
「結婚して、三番町に住んでいたんだけどさ、同居してるお姑さんとの折り合いが悪かったのよ。旦那は官僚のエリートでも、家庭のことには理解がなかったよ うだし‥。子供でもいればまた違っていたと思うけど、できなかった。っていうか、彼女自身は欲しくなかったから、そこからも問題が起きていたらしい」
 悦子が持ち出したので仕方なく話したが、尚子の死を光代は秘めていたかったように文子には思えた。それだけ、実情を知っているのだろう。
「ねえ、『なわ跳び』の話に戻ろうよ。お姫さま‥、のあと、なんなのさ」
 光代の意見を文子が継いだ。
「そうよね。そのあとは、一はっさん二はっさん‥、と縄の中で止まって跳び続けるから人がどんどん増えていくの。いっぱいになったら、一抜けろ二抜けろ‥、と出ていって、誰もいなくなると最初に戻って、ほらほら‥」
「よし。では最初から、皆さんご一緒に」
 両手を上げた光代が手拍子をとると、全員が合わせて、光代の掛け声で一斉に歌いだした。
  ほらほら
  青山の
  豌豆まめの
  白うさぎ
  どんつくどん
  お姫さま
  一はっさん 二はっさん
  三はっさん 四はっさん
 文子は歌いながら周介を見た。周介も手を叩いて歌っていた。目が合って、二人で笑った。
「そう言えば、美代子さんて、いたでしょう?悪いけど、ちょっと不器用で」
 切り出したのは文子だった。
「泣き虫だろう」
 大川君が目の前で言った。
「すぐ泣くから、俺達おもしろがって、筆箱を隠したりしてな」
「運動神経が可哀想なほど鈍くてね、そうだわ、この『なわ跳び』のときなんか、足に引っ掛けて、いつも回す役だったわよ」
「うまく入れたと思っても、出るときにスカートで触っちゃうのよね」
 文子の頭の上で二人が会話している。
「でも、結婚は一番早かったのよ。しかも、国際結婚」
 誰もがその話を知っているようで、言葉は文子に向けられていた。
「へえっ、そうだったの、ミヨちゃんがね」
「英会話の教室に通っているときに、教師に見初められちゃってさ。でも、結婚したことは隠してたのよ、ほら、あの人っていつもモジモジだったじゃない?金 髪の子が生まれてから、あたしも知ったの。もう一人生まれたあと、帰国するダーリンとイギリスへ渡ってさ、今はバーミンガムに住んでる。このクラス会に向 けて家のパソコンにメールが届いてた。今年また孫が増えたって、やっばり金髪だって」
 詳しい説明はやはり光代からだった。
「尚子さまとミヨちゃんじゃ、どう考えてもミヨちゃんの方が苦悩の人生を送りそうだったけど、分からないもんね」
「泣いてばっかりで、大人になれるのか心配だったわよ」
 女友達としては美代子の現在が意外らしかったが、文子には靖国神社の大鳥居の下で母親の背後に隠れていたミヨちゃんが、お祖母ちゃんになって金髪の孫を抱いている姿がなんとなく想像できた。
 デザートが運ばれてきて、それぞれ元の席に戻った。
「驚いたわ、さっきの尚子さんの話」
 隣に坐った光代に文子は小声で言った。
「本当は、かなりおかしかったのよ。去年の暮に九段下でばったり会ったとき、目つきが異常でさ、お姑さんのこと、殺してやりたい殺してやりたい‥、って、そう言ってたんだ」
 デザートのゼリーが文子の喉に冷たく落ちていった。
「皆さん、席に落ちついたところで、質問で遊ぶなんてどうでしょうか?」
 田島君が立ち上がって言った。
「また、あのでしゃばりが」
 手酌でビールを注ぎながら光代が舌打ちした。
「我々も齢五十五となって、人生の折り返し点は完全に通過した訳です。そこで、生まれ変わって人生を取り替えられたら‥、というテーマでいくつか質問しますが、口は必要ありません、挙手だけで答えて下さい。個人の意見ではなく、数の調査が目的だという意味です」
「つまらないんだよ、お前は」
 光代が小声で言って、文子は笑いを手で抑えた。
「まずは、その一。生まれ変わってきたら、性別が逆でありたいと思う方は?」
 文子は見回したが、どのテーブルにも一人もいなかった。予想外の声と納得の声が入り混じって聞こえた。
「岡部光代さん、来世も女性でいいんですか?」
「悪いかよ」
 田島君と光代の応酬に笑いが上がる。
「ではその二は、生まれ変わってきても今の配偶者と一緒になりたいかどうか、お尋ねします」
「あいつ、あたしへの当て付けだな」
 光代の言葉に、思わず漏らした文子の失笑が全員に聞こえて、爆笑を招いてしまった。笑いが納まると、田島君は続けた。
「遊び感覚で答えればいい訳ですが、この件はついリアルになって、またそのために皆さんも興味をそそられると思いますので、男性と女性と分けて調査してみたいと思います。では先に女性から」
 女性達から不服の声が漏れたが、田島君は構わずに進めた。
「生まれ変わってきても、今のご主人と一緒になりたい方は?」
 しんとする中を、文子の右隣の悦子が遠慮気味に手を上げた。
「ええっ」
 男連中から上がった声は、悦子に対してではなく、一人しかいないことへの驚きと取れた。
「では、別の人と一緒になれりたい方は?」
 三つのテーブルから一斉に手が上がった。
「本当かよ」
 大川君が立ち上がって数えた。女性の出席者は九名、光代は棄権して六人の手が上がっていた。
「だって、生まれ変わってきたら、別の人生を味わいたいもんね」
 高々と手を上げて麗子が言った。
「ずるいぞ星野さん。どっちにも上げなかったじゃないか」
 言われて文子は首を縮めた。
「ごめんなさい。わたし、よく考えないと分からないわ」
「追及はするなよ、次行け、男の番だ」
 光代の言葉に田島君はうなずいた。
「では、生まれ変わってきても、今の奥さんと一緒になりたい方は?」
「うそ」
 今度は女性側から驚きの声が上がった。十三人のうち、二人を除いた十一人の手が上がっていた。進行係の田島君も上げている一人だった。
「周介、お前はヤモメだろう」
「いいだろう。いたら、ということにしてくれよ」
 文子はいきなり光代に顔を向けていた。
「周ちゃんの奥さん、どうしたの?」
「病気で亡くなったわ。娘さんが生まれて、すぐだったらしい。あの人、結婚も早かったけど、ヤモメになるのも早かったね。でも感心じゃない、忘れもしないで、また一緒になりたいってことでしょう?」
「周ちゃんらしい‥」
 文子は込み上げてくるものに言葉が詰まった。
「男は九割に近いけど、女は一割ちょい。この違いはなんなのだ」
 男連中には穏やかではない挙手の結果だった。
「いやあ、なるほどと思ったよ」
 道化を演じながら進行の音頭を取っていた田島君が声を変えて言った。
「さっき誰かが、別の人生を味わいたい、と言ってたけど、他の女性達も同じ理由で手を上げていたとすれば、女には求める力が強いということになる。そこへ 行くと男は、生まれ変わってきても自分の人生は知れたものだから、だとすれば今の女房でまあいいだろう、という気持ちが数に示されたんじゃないかな。要す るに、諦められるか諦められないかの差なんだな」
「ター坊が運命論者になってたなんて、みんな知ってたか?」
 野次が飛んで、田島君は含み笑いの表情を戻した。
「では、その三」
「まだやる気かよ」
 口を尖らせた光代はデザートもそっち除けでまだ飲んでいた。
「生まれ変わってくる時代を選べるとしたら、現代、過去、未来、のいつを生きたいですか?」
 そのあとも質問は続いて、光代はそのつどケチをつけていたが、文子には、生まれ変わってきたら、という想定はおもしろかった。
 幹事の大川君が締めくくって、お開きとなった。右隣の悦子が帰り支度を始めると、文子の方から先に握手の手を出した。
「さっき一人だけ手を上げたとき、とても素敵だったわ。いつまでもお幸せにね」
「どうもありがとう。星野さんもね」
 椅子から立って光代に頭を下げた。
「ミッちゃん、色々とお世話さま。楽しかったわ、来てよかった」
 光代は潤んだような目でうなずくと、立ち上がって文子を抱きしめた。大分酔っている様子だった。頬に口を寄せられ、文子はくすぐったがって腕の中でもが いた。挨拶がしたくて周介を目で追ったが、二次会にでも誘われているのか、無理に連れ込まれる姿をエレベーターのドアが遮断した。



    七章  目かくし鬼

「成人の日にはピンと来なかったけど、今日は大人が実感できたよ」
 初めての投票から帰ってきて、涼太が言った。
「ついでに、都民だという自覚もね」
 選挙は東京都議会の議員選挙だった。日曜日なので涼太は遅くに起きて、朝と昼兼用の食事を済ませると、日盛りの中を出ていって汗まみれで戻っていた。ダイニングの床を拭き終えた文子は、冷蔵庫から出した麦茶をグラスに注いで涼太に渡した。
「秋の衆議院選の前哨戦になるから、どっちにも譲れない一戦だけど、結果は目に見えているからなあ」
 初めての選挙で政治にも関心を持ったようで、インターネットを使って情報を得ていたことは文子も知っている。
「大学のお友達はどう?投票に行かない人も多いのかしら」
 自分が選挙権を得たときは社会人になっていたので、学生の立場での考えが知りたくて文子は訊いた。
「それぞれだよ。自分のイデオロギーから、わざと棄権する者もいるし」
「どういうこと?」
「自分には任せられる政党もなければ候補者もいない、という意思表示だろうね」
「涼ちゃんにはあったの?」
「特になかった。感覚的な判断で投票したから」
「感覚的?」
「そう。同じ権力が長く続くことはよくないと思ってね」
「長いから、というだけで?」
「長いからこそ問題が起きるんだよ。宗教でさえ長く支配力を持って腐敗したから、宗教改革が起きたんだから」
「じゃあ、涼ちゃんには党の政策とか候補者の意見は関係なかったの?」
「そうだね。ちょうど古い上着を着替える感覚で投票した」
 文子は乱暴のような気もするが、涼太の意見が分からない訳でもない。
「オヤジさんなんか、どうなんだろう?政策を分析して会社の利益になる党を選ぶのかな」
 「さあ」
 文子は首をかしげた。ゴルフで朝早く出ていった夫は期日前に投票を済ませていた。その夫と選挙について話したことなど一度もない。
「企業によっては、癒着だって計算の内だろうからね」
 文子は涼太の横顔を窺うように見た。インターネットのことはさっぱり分からないが、そんな情報まで得られるとすれば、涼太が見ているあの画面に恐ろしさを感じた。
「お母さんはどうなの?」
 涼太が立っている文子を見上げて訊いた。
「誰に入れたかなんて野暮なことは訊かないけど、何を望んで投票したの?」
 文子も午前中に投票を済ませていたが、改まって問われると考えてしまう。
「望み、だったらやっぱり、暮らしの安定かしらね」
 だが、記名した候補者に信頼や期待が持てるかと追及されれば、返答に困る。
「お母さんは感心だよ、選挙に必ず行くからね。オヤジさんは時々すっぽかすけど」
 涼太の言う通り、文子はあらゆる選挙に投票は欠かさなかった。
「行かなければならない、と思っているからよ」
「義務を果たさなければ権利は主張できない、と言うこと?」
「そんな堅苦しい話じゃなくて、行くとほっとするの。税金を納めたときの気持ちに似てるんだけど、こうしておけばここに居ていいんだ、自分は間違いなくこの国の人なんだ‥、って」
「その考え方の方が、堅苦しくない?」
 涼太に笑われると、文子もおかしくなった。
「そうだ、堅苦しい話を済ませなければ。昨日言ったバイトの件だけど、いいんでしょう?」
 涼太が語調を変えて、文子も真顔になった。
「夏休み中だけの話だよ。ドラッグストアだから風紀の面での心配もいらないし、深夜まではやらないから」
 言いながら、涼太はシャワーを浴びるつもりなのか、立ち上がってTシャツを脱いだ。臍までの半裸に文子は思わず目をそらした。返答を待つように涼太は平 気で顔を見ているが、文子は目の遣り場に困った。いくら息子でももう成人であれば男と見ない訳にはいかない。そう思うにつけ、この涼太に背中を流させた蓉 の心理がまた分からなくなる。
「店には今日中に返事を出すと、言ってあるんだ」
「お父さんは、なんて?」
「お母さんが承知すれば、いいって」
「わたしに振ったの」
「この家での決定権は、お母さんにあるんだってさ」
「そんなときばかり、何よ」
「夏休み中はオケの練習も少ないんだから、承知してよ」
「いつからなの?」
「七月二十五日まで大学の講習があるんで、翌日の日曜日から」
「二週間先ね。いつまで?」
「九月の第一週まで、これでも勉強のことを考えて最後の一週間は用事を作らないように決めてんだよ」
「毎日?」
「土曜日は練習があるから行かない」
「時間は?」
「午後三時から八時まで。五時間だけにしとくよ」
「それから帰ってくるの?お夕飯が遅くなるじゃない」
「ストアは隣の池袋だから、自転車で十五分と掛からないよ」
「そのお店、薬の知識もないのに使ってくれるの?」
「僕の仕事はレジと、商品を倉庫から棚に補充するだけ」
「お客さんに薬のことを訊かれたら、どうするのよ」
「ベルを押して、常駐している薬剤師を呼ぶっていう訳」
「自転車は、どこに置くの?」
「店の裏口の通路に置かせてくれる」
 涼太が裸の肩を後ろに二度回して、文子はまた目をそむけた。
「他に質問は?」
 文子が黙っていると、涼太が腰を上げながら言った。
「これで決まりだね」
「何よ。一人で決めてんじゃない」
 笑い声を聞かせて、涼太は浴室に向かった。

 玄関の軒に取り付けてある照明が、点けると点滅する。門灯の明かりだけでも用は足りるので、文子は消した状態にしてあるが、照明がありながら消えている のも変なものだった。数年前になるが、表通りの電気屋に来て貰ったところ、蛍光灯と点灯管を取り替えてその倍の出張費を取られた。電気屋には何かのついで にしか頼めないとそのとき思ったが、今のところ他に買うものも修理するものもなく、自分で取り替えるしかなさそうなので消したままにしてある。夫も涼太 も、夜帰ってきて照明の下でドアを開けるのに、気づいていないのか何も言わない。
 三時前に出て行く涼太の腹ごしらえに、文子はスパゲッティーを茹でていた。和風に味付けしたベーコンと茄子の具はフライパンにできているので、タイマー のブザーを待ちながら朝刊を手に取った。七月の都議会選挙に与党は大敗を喫し、衆議院は解散していた。次の総選挙は八月三十日で、公示は来週に迫ってい る。追い風に乗る野党第一党の優勢を新聞は伝えていた。涼太がテーブルに着くと、フランパンの中で具と混ぜたスパゲッティーを涼太の皿に盛り、自分にも三 口ほど取り分けて刻み海苔を振りかけた。
「お夕飯、お父さんまた遅くなるから二人だけなんだけど、暑いから鯵のたたきと生姜焼きでどう?」
 文子がフォークを回しながら訊くと、頬張って口のきけない涼太が指をリングにして見せた。
「昨夜もよ、心配だわ」
 愚痴っぽい口調になって、涼太に顔を見られた。
「だって、外食すると、どうしても塩分や油分が多くなるでしょう」
「宴会はつい食べ過ぎるって言ってたけど、昨夜は酔ってなかったよ」
「宴会でも接待でもないからよ。誰かと一緒なら飲み過ぎる訳ないもん」
 残り僅かを口に入れようとして、涼太がまた顔を見た。
「あまり悪く考えない方がいいよ」
「別に、何も考えてないけど」
「オヤジさんは意外と気が小さいから、冒険なんてできないよ。お母さんには関白だけど、外での裏返しなのが僕には分かるな」
「男同士、ですものね」
 涼太は腰を上げると、機嫌を取るように文子の肩を叩いて、浴室へ向かった。暑さの中を出掛ければどうせ汗まみれになるのに、シャワーを浴びて出ていくの はアルバイトのときも同じだった。文子が椅子から離れて食器を流しに移していると、発信音が鳴った。テーブルに置いた涼太の携帯電話に、ランプのラインが 流れては消えている。その上の横長の枠の表示に文子の目は留まった。高木蓉、だった。文子は涼太を呼びに行こうとして浴室へ向かいかけたが、ふと胸が騒い で足を戻していた。電話は鳴り続けている。文子は自分が出ようかと思案した。一年半もご無沙汰を通していて、電話する機会がないので蒲鉾のお礼も言えな かった。携帯を手に取ったとき、発信音が止んで枠内に録音中の表示が出て消えた。蓉の声で何か言っているが聞き取れない。数秒が経過して着信を知らせるラ ンプが点滅しても、まだ電話は文子の手の中にあった。浴室の方へ目を向けて、ドアが閉まっていることを確認すると、文子は恐る恐る電話機を開いた。胸の鼓 動が高鳴っていた。涼太に電話をよこした相手が蓉であることや、留守録を聞かなければ納まらない気持ち、そして、盗み聞きしてしまう罪の意識が胸の鼓動に 集められていた。画面には不在着信と簡易留守録が記録されている。文子は下の簡易留守録を選ぶと、ボタンを押して耳にあてがった。
「ええと‥、涼太ちゃん、足柄のおバアさんですよ。お約束のもの、いつ取りにくるの?夏休みになってから、ずっと待っているのよ。早くおいでなさい。じゃあね‥」
 録音が切れると同時に、浴室のドアが開いた。文子は閉じた電話機を手に持ったままで出て来た涼太に歩み寄っていた。
「今、おバアさまから電話があったわ」
 文子の攻撃的な物言いに、涼太は目を丸くした。
「長いことご無沙汰しているので代わりに出ようとしたら、切れて留守録になったの。だから留守録を聞いたんだけど、約束のものいつ取りにくるのかって。ねえ、それなんなの?」 
 涼太の表情がみるみる強ばった。
「お母さんて、そんな真似するんだ」
 涼太は呆れた目で文子を見ていたが、やがて目をそらすと向き直って部屋へ行こうとした。
「待ちなさい」
 文子は追い抜いて涼太の前に立ちはだかった。
「約束のもの、って何?親に話してよ」
「無断で留守録を聞くなんて、親でもしていいことと悪いことがある」
 文子は涼太の腕を掴んで揺すり、手を解こうとする涼太と押し合いになった。
「そうよね、勝手に留守録を聞くなんて卑劣な行為だったわね。それは謝ります、この通りです。だから教えて、約束のものってなんなの?」
 涼太は手の力を抜いたが、顔をそむけて無言でいる。柑橘系の匂いがTシャツの内側に漂っていた。
「お願い涼ちゃん、あなたまで隠し事しないでよ。お母さん心配なのよ」
 文子の顔をちらっと見た涼太が、堅く結んでいた唇を開いた。
「お金だよ」
 文子は涼太の腕から手を離すと、かぶりを振りながら後ずさりした。
「ねだった、っていうこと?あなた、成人にもなってそんなことして、恥ずかしくないの?あなただけの問題じゃないわ、家でどんな躾をしているのかと思われるじゃない。親に黙って、そんなこと‥」
「だったら、言えば都合してくれたの?お小遣の値上げはダメ、前借りもダメ、お金のこととなると理由も聞かずに、いつもダメダメダメじゃないか」
「だって、お小遣とは別にお昼食のお金だって渡してますよ。足りない筈ないじゃない」
「お母さんはそうして、いつも自分の考えだけで決めつけるんだよ」
「なんですって」
「大学生なんだから付き合いでコーヒーも飲むし、たまにはコンパにも行くよ。楽器のこともあって、あれじゃ足りないんだよ」
「どうしてよ?レンタルだったけど、あんな高いの買って貰ったでしょう」
「ほら、聞いてくれないから何も分かってないじゃないか。オーボエは維持にお金が掛かってね、リードは削り方が悪ければすぐに交換しなければならないし、 デリケートな作りだからちょっとしたことでも不具合が生じて、その修理代だって他の楽器より高いんだ。でも、オケは僕が好きで始めたことだし、お母さんは あまり好く思ってないようだから、他を節約してやりくりしてた訳。おバアさまはね、そういう話に耳を傾けてくれたよ。定演を聴きにきたとき」
 文子は驚いて涼太の顔を見た。
「オヤジさんが足柄から車に乗せて、連れてきてくれたんだ。コンサートのあとで三人でお茶したときに、おバアさまは褒めてくれたよ、僕のソロを聴いていて 涙が出たって。それから楽器の話になったんだけど、お金が掛かることがおバアさまの印象に残ったらしくて、二、三日して携帯に電話が掛かった。間違ったこ とに使うんじゃないから、援助したいって。だから、ねだったんじゃなくて、話の成り行きでこうなったことなんだ」
 黙って聞いていた文子が溜息をついた。
「お父さんとおバアさまが演奏会に行っていたなんて、誰も教えてくれないから知らなかったわ。また、わたしだけが除け者ね」
 涼太が強い視線を向けた。
「どうして、そんなふうに取るんだよ。仕事で来れなかったのは仕方ないことだよ。でも、みんなが来たことを知れば、やっぱり気に病むだろうからって、オヤジさんと黙っていることにしたんだよ」
「それが、わたしのためだなんて思ったの?勘違いも甚だしいわよ」
 涼太はむっとした様子だったが、何も言わなかった。向き合っていた二人は、いつの間にか横に並んで、玄関のドアを正面に壁に凭れていた。
「おバアさまから、いくら都合して貰うの?」
 ぼんやりと目を落としながら文子が訊いた。
「心配しないでよ、バイトの収入で返せる額だから」
「おバアさまでなければ、いけないの?」
「だって、今さら断るのも、かえって悪いよ。おバアさまは頼られるのが嬉しいんだ。僕に言ってたよ、あんたのお父さんなんて毎月せびりに来る‥、って」
 文子は思わず声を上げて、また涼太に体を向けていた。涼太は口を滑らせたことに気まずい表情をしたが、開き直ったように口を開いた。
「会社で上の立場にいれば自腹を切ることだって多いのに、お母さんには分からないから、貯金することしか頭にない‥、って、おバアさまに言ったそうだよ」
 文子は唇を震わせて涼太に詰め寄っていた。
「何子供みたいなこと言ってるのよ。リフォームのローンがまだ残っていて、あなたの大学だってあと二年あるのよ。その間に何か起きないとも限らないじゃな い。四月の入院のときだって、備えがあったから助かったんだわ。あなたの結婚のことや、わたし達の老後のこともあるのに、貯金がなくてどうするのよ。わた しだって、しなければならない貯金のために、どれだけ倹約していると思う?食費のことにしてもそうよ、おいしいものは食べさせたいし、かと言って無駄にお 金は使えないから、いい材料をなるべく安く買うために、広告を見れば遠くのスーパーまで歩いていくのよ。何も分かってないのは、あなた達じゃない。家事の やりくりがどんなに大変かも知らないで、勝手なこと言ってなさいよ」
 言い放った文子が荒い息を静めると、涼太が手首を上げて時計を見た。
「もう行かなきゃ。とにかく、お金は借りるけど、きちんと返すから」
 涼太が自分の部屋に向かっても、文子はその場に佇んでいた。ショルダーバッグを下げて出てきた涼太が、後ろ向きでスニーカーを履きながら言った。
「山田祥子さんのことで心配してるなら、オヤジさんに聞いておいたよ」
 目を見開いた文子が言葉を出すより先に、
「だって、疑ってたんでしょう」
 と涼太は言って振り返った。
「あの人、オヤジさんの大学時代の友人の子なんだって。婚約者が研究のために海外へ行かされて、結婚が二年も延びてしまったので、その間だけ派遣で使って やってくれと友人から頼まれたという訳。小さい頃からよく知っているから、会社でもサッちゃんで通しているんだって。僕はオヤジさんに言ったんだ、訊かな いであれこれ考えてるお母さんも悪いけど、どうして話してあげないんだ、って。そうしたらオヤジさん言ってたよ。訊かれもしないのに自分の方から言い出す なんて、疚しいから弁解しているように思われないか、って。さっきも言ったけど、オヤジさんはそれだけ気が小さいんだよ。お母さんだって、本当はオヤジさ んを信じたかったんだろう?だったら、なんで知ろうとしなかったんだ。お母さんはあまり言わない人だけど、言ってくれなきゃ分からないこともあるじゃない か。家の中のことだってそうだよ、お母さんはなんでも自分でやらなければ気が済まないで、それでいて大変がってない?生意気なこと言っちゃって悪いけど、 もっと言ってもっと知ろうとしてくれた方が、僕はいいな」
 文子の顔を窺うように見て、涼太は背を向けた。
「涼ちゃん」
 ドアを開けようとする涼太を文子は呼び止めた。
「今日、帰ってくるわよね?」
 文子が細い声で訊いた。二年前、進路のことで言い争って夫が手を上げたとき、涼太は帰らずに一晩中外を歩いていた。バッグを腰に回して振り向いた涼太が白い歯を見せた。
「ああ、帰ってくるよ。だって、お母さんと喧嘩した訳じゃないもん」
 文子がうなずくのを見て、涼太は玄関から出ていった。ドアの向こうで自転車の音が遠ざかっていくと、文子は顔を覆ってしゃがみ込んだ。やりきれない気持 ちだったが、泣きはしなかった。両手に顔を伏せながら、ふと、同じ姿でいたあの『かくれんぼ』を思い出した。冷房の届かない玄関の湿気の中で、木枯らしの 冷たさが甦った。置き去りにされたと気づいても、幼かった自分はいつまでもこうしていた。そのままの姿勢で文子は声に出してみた。
「もういいかい」 

 街頭演説の声は沖縄の基地負担の軽減を唱えている。新宿駅西口のロータリーに駐車した小型バスの前はかなりの人だかりで、屋根の上から発している男のく ぐもった声が遠目で見ている文子の耳にも響いていた。八月の選挙は一○七年ぶりということで、立候補者にとっては猛暑の中での選挙戦になる。日傘も帽子も 持たないで出てきた文子は日照りから逃れるように近くのビルの中へ入った。通り抜けた先に家電の量販店があって、蛍光灯と点灯管をついでに買うつもりで新 宿まで来ていた。急に屋内へ踏み込んだ目の錯覚から、一瞬闇に迷い込んだようなビルの通路を進みながら、文子の気持ちの中で選挙の成り行きはもうどうでも よかった。今は、望みを持つこと自体がバカげていることのように思えた。ビルの裏口から通りへ出たとき、文子の目の前にバスが迫ってきた。家電の店との境 の道が狭いため、バスは二階建てほどの背丈に見える。ドアの横の行先表示が甲府となっているのを見て、文子はクラス会の席で周介が言っていた新宿の発着場 所がここであることに気づいた。文子が通り抜けてきたビルの一角が案内所になっていて、バスを待つ人が出入りしている。頭上の路線図に周介の住まう一宮を 探していると、声を掛けられた。知らないうちに当日売りの窓口の前に立っていて、迷っているように見えたのか、チケツト売り場の女性が用件を訊いてきた。
「あの、一宮へは、どう行くのかと思って‥」
「甲府行きのバスです。石和経由なら次は十二時ちょうどで、あと五分で発車しますが、お乗りになりますか?」
「えっ?いえ‥」
 勿論、乗るつもりはないので文子はかぶりを振ったが、どうしたことか、行けば先に何かがありそうな期待が湧き上がって、ハンドバッグから財布を出していた。
「一枚、お願します」
 一宮までどれほどの時間が掛かるのか、往復すれば帰りは何時頃になるのか、夕食の支度に間に合うのか、行ったところで周介に会えるのか、考える暇もない決断だった。
「そこを出てターミナルを左へ行った二番乗り場です。急いで下さい」
 チケットを手に文子は走りながら、家事の心配など問題ではない、自分にはまたとない冒険に胸をときめかせていた。
 バスが高速道路に上がって順調に走り出すと、文子はハンドバッグから携帯電話を取り出した。車内は空席が多く、後部座席に坐った文子の周りには誰もいな かった。画面の電話帳から周介の名前を選んで発信のボタンを押した。すぐに繋がって周介の声が聞こえると、文子は口元に手をかざした。
「周ちゃんですか?」
「文子ちゃんだね」
「先日はどうも」
「挨拶もしないで帰っちゃって、悪かった」
「そんなこといいの。電話してもよかった?畑にいるんでしょう?」
「家だよ、農協の会合が早く終わって、今戻ったところなんだ」
「まあよかった。ねえ周ちゃん、実はわたし、新宿を発車したバスの中にいて、そちらに向かっているの」
「ええっ」
「桃の花の時期じゃないけど、葡萄の実でもいいから行きたくなっちゃって」
 周介の笑い声が聞こえた。
「周ちゃん、ちょっとだけでいいから、お顔見られるかしら」
「ちょっとだけなんて言うなよ。今日は畑には出られないと思って、人を頼んであったから大丈夫。十二時発のバスだね?高速を出て勝沼バイパスを十分ほど走った交差点が一宮のバス停だから、そこで待ってるよ」
 時間がたつにつれて、半袖のブラウスで乗り込んだ文子に車内の冷房が寒くなっていた。バスは両側に山が接近する直線道路をかなりのスピードで走行してい る。運転席の広い窓に目を向けると、山を分けて進む光景が左右に移動する。文子は前方かなたを見ながら、向かう先の一宮が母から教わった数え歌の「一番は じめ‥」であることも嬉しかった。
  一番はじめは一の宮  二は日光の東照宮
   三は佐倉の惣五郎   四はまた信濃の善光寺
 この歌が日本全国の神社仏閣を中心に、合掌に因んだ人や場所を歌っていることを知ったのは、父が辞書の引き方を教えてくれたからだった。母と路地で鞠つ きをした六年生の同じ時期だから、中学で国語辞典を持たされる前になる。きっかけは、一の宮とはなんであるのかを知りたかったからだ。父は、辞書を引くに はまず読み仮名が正確に振れなければいけないと言った。大男は「おおおとこ」であり、王様は「おうさま」である、通りは「とおり」で、横町は「よこちょ う」だと。そして、目的の単語を素早く探し当てるには、五十音の序列がすぐに閃くように引く癖をつけることだと教えた。店の売り物であった大きな辞書は文 子には重たかったが、店番をする父の隣で、歌に登場する神社仏閣の所在地や人物が歌われている訳をそれからそれへと調べた。だから、母が歌った「一番はじ め‥」が向かう先の一宮ではなく、愛知県の真清田神社であることは知識にあった。
 バスに揺られながら、文子は数え歌を胸で歌ってみたが、涼太に聞かせたときのように十二までで、十三から先が思い出せない。それでも繰り返し口ずさむう ちに、歌に乗って小学生の頃の遊戯の数々が蘇り、当時の自分が甦った。「みんなが唸って食べるような果物を作る人になるんだ」と言った周介を畏敬の目で見 ていた自分。「だから田舎へ行くんだけど、文子ちゃんも来るかい?」と言った周介に素直にうなずいていた自分。東京オリンピックの閉会式を、テレビの前の 家族からそっと離れて、涙を流しながら見ていた自分。先生お手製の野津君の皆勤賞に、惜しみなく手を叩いていた自分。そんな自分はどこへ行ってしまったの だろう、と思うと、文子はもう一度あの頃の遊戯に思いっきり興じてみたくなる。『かくれんぼ』だったら、鬼にされるのはもうごめんだから、最初に見つから ないように誰かの後ろに隠れてやる。『ダルマさんがころんだ』で鬼になったら、勘を働かせてみんなが動く瞬間を狙ってやる。『お助け遊び』は勿論、一番先 にリッちゃんを助ける。『ちょんぱ』なら今だって、誰よりも先に上がる自信はある。そうよ、みんなとまた遊べるのなら、あの嫌いだった『ことしのぼたん』 だってやっちゃうわ‥。そんな話をこれから会う周介と話せたら、それだけでもまたとない冒険になるだろうと文子は思っていた。
 
 高速道路を下りたバスが勝沼バイパスを進んでいくと、車窓からの視界が急に広がった。道の両側はどこまでも平地で、山並みは裾が霞むほど遙かである。同 じ木が群がって続くのを見ると、これが桃畑なのだろう。背の低い木が上に枝を張る姿が、まるで校庭に広がって体操する小学生のようで、そう見えてしまう自 分に笑いを漏らしていると、目の下で手が上がり、同時にバスが止まった。周介が、それこそ葡萄色のTシャツを着て、笑いながら見上げていた。文子はうなず いて腰を上げると、通路を急ぎ足で前方へ進み、段差によろけながら降りて周介に支えられそうになった。
「急に来ちゃって、ごめんなさい」
「ううん。ようこそだよ」
 バスが去って行った通りを渡って、周介は停めてあった軽トラックのドアを開けた。
「こんな車で悪いけど」
「とんでもない。車まで出させて、ごめんなさい」
 文子は熱気で熱くなっているシートに腰を据えた。車内には干し草のような匂いが漂っている。ドアを閉めて運転席に回った周介は、エンジンが掛かるとレバーを寄せて文子に風を送った。
「涼しくなる前に着いちゃうけど」
 言いながらバックして向きを変えると、バスの行った方向に走り出した。
「珍しい景色かい?」
 過ぎていく畑やビニールハウスや直売所の看板を目で追っていると、周介が訊いた。
「ええ」
 周介が左にハンドルを切ると、桃畑を貫いてまっすぐな道が伸びている。路面のでこぼこにシートが振動した。葉の緑が急に低くなって、金網に視界を遮られ た。目を凝らすと、区画の仕切りを見せて葡萄棚が一面に広がっている。無数の白い袋が垂れ下がって、中には上の端から房の一部を覗かせている袋もある。そ の葡萄が赤みを帯びた珍しい色に文子には見えた。迫っては過ぎて行く光景に目移りして、言葉も出ない文子に周介も無言だった。軽トラックは左に折れて、三 河園、と書かれてある立看板の前で止まった。
「中に入ってみるかい?」
 周介が覗き込んでいる葡萄棚に文子も目を向けた。クラス会のときに、果樹園に入ったことがない、と言ったので周介が誘ってくれたのだと察したが、畑の中には数人の人の動きがあった。
「いいの?」
「俺の畑だもん」
「じゃあ、ちょっとそこまて」
 周介と一緒に車から降りて、先に入っていく周介に続いた。
「葡萄の棚って、思ったより低いのね」
 上背のある周介が背中を丸めて歩くのを追いながら文子は言った。
「東京の人らしい言葉だね」
 周介が笑いながら白い袋の一つに手を伸ばした。
「あっ、この葡萄、来る途中で見たのと同じだわ」
 袋が除かれて、鈴なりに実を寄せる房を見て、文子は言った。袋の端からだと鮮やかに見えたが、同じ色だった。よく見ると、実の粒は丸くなく細長い。
「甲斐路、っていう品種なんだ。採ったのを冷やしてあるから、あとで食べてよ」
 作業の人影がこちらに近づいてきたので、文子は先に出入口へ向かった。麦藁帽子の青年と言葉を交わしていた周介は、出てきて立看板を見ている文子と並んだ。
「周ちゃんも親孝行ね」
 周介の父の店が三河屋だったので、文子は看板を見たときすぐに周介の畑だと分かった。「兄貴が店を閉めちゃったから、名前だけでも継いでおこうと思ってね」
 周介がしみじみと、だが、気づいていた文子の言葉に嬉しくもある表情で言った。
「わたしの弟もそうなんだけど、男の人は残して貰ったものを忘れないのよね。クラス会のときの、田島君の質問のお遊びで、女性は求める力が強いという結論になったけど、男性は先を求めない分、過去を大事にするのかしらね」
 周介の横顔を見た文子が思い出して体を向けた。
「そう言えば周ちゃん。わたしあのときに、奥さんを亡くされていたこと初めて知ったの。ごめんなさいね」
 周介が笑った。
「文子ちゃんが謝ることじゃないだろう。さっき会ったときからずっとそうなんだけど、文子ちゃんて、昔からこんなに謝ってばかりいたっけ?」
「まあ、やだ」
 文子が顔を睨むと、周介はまた笑った。
 案内された住居は平屋で、入口の土間の広さから建てられたときのままの建築に思えた。奥に通された文子は廊下にしゃがんで外を眺めていた。庭の垣根越し に歩いて来た一本道が見える。畦道のように、畑の跡らしい両側の土地より一段高く盛り上げてあって、立看板のある場所からまっすぐに住居へ続いていた。立 看板は垣根に隠されていたが、見えている棚が案内された葡萄畑であることは分かる。
「そこ暑いだろう?座敷に冷房入れたよ」
 背後から周介が声を掛けた。
「ここじゃいけない?せっかく来たんだから、縁側から見たいの」
 周介が座敷から座布団を持ってくるのを見て、文子は立っていくと座卓の上のトレーを手にした。氷を入れたグラスと、お茶のペットボトルと、葡萄を盛った皿を乗せたまま廊下へ運んで、周介が据えてくれた座布団に落ち着くと、周介も向かいに胡座をかいた。
「まあおいしい」
 周介に勧められて、葡萄を口にした文子が言った。房から取った一粒の、隠れていた部分に色がないのは意外だったが、堅い果肉には濃密な味と甘さが詰まっていた。
「少しだけど箱に入れてあるから、持っていってよ」
「あら、わたしは何も持ってこなかったのに」
「そんなこと言うなよ」
 文子は困った顔のまま頭を下げた。氷の音をさせながらお茶を呷った周介が、グラスを置いても何も言わないので、文子は気詰まりになった。洗い晒したT シャツの丸首から、動きによって覗ける周介の肌は、白かった昔の面影を残している。小学生の頃の周介は、色が白くて痩せぎすな男の児で、色白の周ちゃん、 と呼ばれていた。農作業で鍛えた今の体格は、当時の文子には想像もできなかった。神田を去って果樹園の日に焼かれて、色白の周ちゃんにはもう二度と会えな いのかと思と、文子は淋しい気持ちがした。
「お玄関に、可愛い色のお靴があったけど‥」
 口を開いた文子に、周介がうなずいた。
「孫のだよ。女の子で、一緒にいるんだ」
「お嬢さんは、名古屋にいらっしゃるんでしょう?」
「そうなんだけど。実は、子供が生まれてすぐ離婚しちゃってね。仕事に出たいと言うから、引き取ったんだ。こっちにいれば周りも農家だから、世話してくれる女手もあるし」
 文子は眉を顰めていた自分に気づいて、笑顔を作った。
「おジイちゃんと暮らしているんだ。お孫さん、小学生?ああそうか、周ちゃんは結婚が早かったから、中学生?今は夏休みだから、部活に行ってるの?」
「帰ってくれば、分かるよ」
「そうね」
 せっかちな問いかけに、自分でもおかしくなった。
「ねえ周ちゃん」
 遠慮がちに声を掛けると、文子は遠くの葡萄棚に目を移した。
「果物を作る人になるんだ、と言ったとき、文子ちゃんも一緒に来るかい?と訊いて、わたしが、うん、と言ったの、覚えてる?」
 周介が照れ隠しに笑った。
「そんなこと、あったっけな」
 顔を見た文子がまた外に目を移した。
「ねえ、もう一度あの頃に戻りたいと思わない?」
 周介の返事はなかった。
「わたしね、変なこと言うようだけど、いつも、これでいいのかな、と思いながら行動していた気がするの。結婚を決めたときも、そうだったのかも知れないわ」  
 周介は逸らした目を庭先に向けて、黙って聞いている。
「結婚してからだって、家族に合わせて暮らしてきたようなもので、自分はずっと、これでいいのか、って、思っていたんじゃないかしら。だから、幸せだったのかどうなのか分からない。今だって、幸せとはほど遠い気がする」
「不幸ぶるなよ、文子ちゃん」
 厳しい口調で言われて、顔を見ると、周介は取り繕うように微笑んだ。
「どう見たって、幸せそうな奥さまだよ」
 文子は横を向いて周介の視線から逃れた。
「分かって貰えないことなのかも知れないわね」
「分かって貰ったからって、どうなるものじゃないだろう?」
 周介の言い方が文子の癇にさわった。
「それは大人の理屈でしょう?大人になると、理屈で済ませようとするのよね。さっき、もう一度子供の頃に戻りたいと言ったけど、子供のときは何も考えないで無心に遊んでいたじゃない。遊びに理屈はなかったし、子供も理屈を知らなかったから、あんなに楽しく遊べたんだわ」
「大人の気持ちは複雑だから、無邪気な子供の昔に帰りたいということかい?」
「それもそうだけど、子供には未来があるでしょう?」
「女にも、常に未来はあるんじゃないの?求める力が強いんだから」
「今あるのは、もう限定された未来なのよ。子供の未来は無限の可能性を持っているわ」
「なるほど、そうなれば未来は未知なだけに、夢が持てるもんな。それで文子ちゃんはあの頃に帰りたい訳か」
 自分の言いたかった未来を周介が分かってくれて、文子は嬉しくなったが、また一方で、密かに別の未来のことも考えていた。現実を踏まえた未来で、蓉との関わりを持たないためなら、夫は勿論、涼太まで諦める覚悟があるだろうか、とこの疑問抜きには考えられない未来だった。
「周ちゃんはどう?今度はわたしが訊くけど、あの時代に一緒に来るかい?」
 周介が笑った。
「だって、文子ちゃんの説によると、男は過去の足跡を大事にするんだろう?」
「だからって、夢を見ちゃいけない訳じゃないわ」
「あっ、帰ってきたな」
 周介が道の向こうに目を向けて、議論になりそうな会話が止んだ。立ち上がる周介の視線の先を、文子も見た。一台のマイクロバスが立看板のある場所へ向かっている。
「お孫さんね」
「ちょっと待ってて、迎えにいってくるから」
 縁側でサンダルを履いて周介が離れていくと、文子はハンドバッグからコンバクトを出した。膝の上で開き、鏡で顔を見て、すぐに閉じた。中学生でも小学生 でも、女の子の目に触れるとなれば見栄えが気になる。一本道を行く周介の背に午後の日が差し、その先でマイクロバスが後部のランプを点灯させながら向きを 変えようとしている。車体を横にしてバスが止まると、周介が近づいてスライドのドアを開けた。人影が周介に抱かれながら降ろされた。周介がドアを戻し、走 り出したバスを追うように足を進める向こうで、女の子の姿が見え隠れする。一本道にさしかかって二人が向きを変えたとき、女の子が周介に手を引かれている のが分かったが、その歩行を見た瞬間、まっすぐな道も葡萄棚も午後の日の直射も、文子の視界から霞んだ。文子は二人を直視できなかった。直視してはいけな いと思った。一本道をこちらへ近づいてくる時間が、コマ送りの映像を見るほどに長いと感じた。
「おジイちゃんの、お友達だよ」
 周介の言葉に顔を上げると、女の子は顔だけをこちらに向けて顎を突き出す格好で文子を見ていた。
「こんにちは。おジイちゃんと幼なじみの、高木文子です」
 文子が頭を下げるなり、甲高い声が響いて、聞き取れない言葉を発した。
「わたしはノゾミです、美しさを望むと書きます‥、と言ったんだよな」
 周介が言いながら女の子の頭を撫でた。体格はかなり大きい。だが、学校へ行けていたら小学生なのか中学生なのか、文子には見当がつかなかった。望美が廊 下に腹這いになって上がろうとするのを、周介が抱き上げる。縁側に坐らせて靴を脱がせると、脇の下に手を入れて立たせ、望美は頭を押されながら文子の前に 腰を下ろした。ズボンの足をWの形にして、太い腿の間に埋めたお尻はすでに女性のものだった。顔が向けられないで目だけで皿の葡萄を見る望実に、文子は顔 を寄せた。
「食べますか?おジイちゃんが作った葡萄、おいしいのね」
 文子が皿を近づけると、望実は一粒を皮のまま口に入れた。飲み込まないうちに次々と口に入れるので口から果汁が滴り落ちるが、縁側に腰掛けた周介は勝手 にさせている。文子はハンドバッグを取りに座敷へ入ると、障子の陰で財布から紙幣を抜き出し、ティッシュペーパーで包みながら廊下へ戻った。
「オバちゃんね、急いでバスに乗ったから、お土産が何もないの。だから、おジイちゃんとお買い物に行ったときに、お洋服でも買って下さい」
「いけないよ、文子ちゃん」
 望美に手渡そうとする文子を周介が止めた。
「そんなにたくさん」
 急いで包んだので、紙幣が見えていた。抑えている周介の手を文子が振るった。
「お願い、周ちゃん。そうさせて」
 周介の手が離れると、文子は丁寧に包み直し、望美の手を取って握らせた。望美が声を張り上げて、また聞き取れない言葉を口にすると、廊下に額を押し付けた。
「オバちゃん、ありがとうございます‥、と言ったんだ」
 周介の言葉に、文子も居ずまいを正してスカートの膝に両手置いた。
「いいえ。どういたしまして」
 まだひれ伏している望美の前に、文子も頭を下げたまま動かなかった。そうでもしていなければ、泣いてしまいそうだった。
「もういいから、裏のお姉ちゃんに着替えさせて貰いな」
 周介が起こして立たせると、望美は振り返る格好で歩いていった。文子は手を振って見送った。
「恥ずかしいわ。わたし、何も分かってなくて、自分のことばかり言ってた」
 姿勢を正したままで文子が言った。
「ごめんなさいね、周ちゃん」
「ほら、また謝って」
 周介は大声で笑ったが、文子はとても笑えなかった。
「そろそろ帰らなくちゃ」
 腕時計を見ながら文子が言うと、周介も反り返って座敷の柱時計を見た。
「今からだと四時のバスだ。新宿へ着くのは六時近くになるけど、帰りが遅くならなきゃいいね」
「どうもありがとう。大丈夫よ」
「バス停まで送るよ」
 八月の日は夕方になってもじりじりと照りつける。バス停にはベンチが置かれてあったが、西日を浴びているので二人とも立っていた。他には誰もいなかっ た。前方遠くに高速道路が伸び、背後には見通しがきくかなたに鳥居が立っている。土産の紙袋は周介が提げてくれていた。葡萄は三房一緒に化粧箱に入れて あった。
「急に来て、お土産まで戴いちゃって‥」
 文子は頭を下げた。
「でも、今のはお礼で、謝ったんじゃないからね」
 周介が笑った。
「来てくれて嬉しかったよ。今度は家族で桃狩りにでも来るといい」
 文子は小さくうなずいた。
「あっ、来たよ」
 周介が遠目に見る先で、バスが迫っていた。周介に渡されて紙袋を受け取った。
「ねえ、周ちゃん」
 文子が周介に体を向けた。近づいてくるバスに目を据えていた周介が顔を見た。
「わたし、本当に幸せそうに見える?」
 文子の潤んだ声に周介は目を見開いたが、すぐに口元を綻ばせた。
「ああ、見えるよ」
 バスが西日を遮って止まり、乗り込んだ文子がチケットを買うともう走り出していた。通路を後方へ移動しながら、窓の外で遠ざかっていく周介に文子は手を振った。

 車窓遙かに新宿の高層ビル群が見えている。都心に近づいても高速道路に渋滞はなく、文子はほっとした。定刻に到着すれば、デパートの地下へ寄って総菜を選んだとしても、夫や涼太が帰宅するまでになんとか間に合いそうだ。
 窓の外を眺める文子の耳に、手を叩く音がうるさく入ってきた。途中から乗ってきた男三人が、文子の座席より後方に坐っていた。祝事に出た服装でつながっ て横を通り抜けるとき、酒の臭いを漂わせていた。酔って眠って起きたところなのだろう、歓談が始まっていて、その中の一人が癖なのか手を叩いては笑い声を 上げる。離れていても文子には耳障りで、とくに手を叩く音には余計な注意を引かれたが、同時に、その注意を利用して鬼を誘導する遊戯があったことを思い出 した。『目かくし鬼』だった。「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」と布で目隠しさせた鬼を誘い出し、つかまえた人が誰であるのかを当てさせる遊びだが、歌舞伎 の「忠臣蔵」や子供が遊ぶシーンで見たことはあっても、『かごめかごめ』と同様で実際に遊んだ記憶が文子にはない。だが、目の見えない鬼を自在に動かせる のだから、遊ぶにはおもしろかったかも知れない、と思いながら手を叩いて鬼を誘導する自分を想像した。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
 文子の手の音に導かれながら、恐る恐る地を踏んできたのは、白い足袋だった。上へと目を移すと、乱れている着物の裾と、帯と、その上の胸の膨らみが見え て、目を隠していてもそれが蓉であることが文子には分かった。裾が乱れているのは、吹き曝す風のためで、足袋跣で岩場を踏む蓉は断崖の上を歩いている。手 を叩きながら文子が誘導しているのは、その絶壁だった。絶壁の下が海なのか崖なのかは分からない。後ろ向きに進んできた文子は、崖っぷちぎりぎりで体を躱 すと、伸ばした手を前方へと叩く。足袋が絶壁にさしかかる。もう一歩、と文子は懸命に手を伸ばして叩き続ける。背後から一押しすれば済むことだが、それは 嫌だ。自分で踏み外して欲しい。だからもう一歩前へ、お願いもう一歩‥、と足元を睨んでいる。
 男の笑い声に、ふと、文子は我に返った。途端に戦慄が襲った。今のは一体なんだったのだ。眠った覚えはないから、夢ではない。とすると、現実の時間の中での遊戯の幻想であり、実際の想像なのだ。文子の血の気は失せて、半袖から出ている腕には鳥肌が立っていた。




        八章  はじめの一歩

 家事から離れていても文子はほとんどをダイニングで過ごす。流し台とガス台を背にする文子の独占席は、大型のテーブルの横に長い中央なので、新聞を読む にも家計簿をつけるにも広く使えて、リモコンのボタンを押せばソファーの前のテレビも見られる。傍らのポットには常時お湯が沸いているし、冷たいものが欲 しければ立って冷蔵庫を開ければいい、といかにも便利な居場所のようだが、ダイニングの冷房だけで済ませようとする文子の倹約が働いているのも確かだっ た。
 読んでいた小説から目を離して時計を見上げると、八時になるところだった。涼太は宣言した通り、決まって八時十五分にアルバイトから帰ってくる。椅子か ら立った文子はテーブルを布巾で拭くと、涼太と自分の食器を据えた。夫はまた外で済ませると言って出ていた。煮汁を含ませておいた豚の角煮を鍋から陶器に 移し、別の鍋から野菜の煮付けを大皿に移すと、並べて真ん中に置いた。煮物は実家の母から受け継いだ煮方を夫も涼太も好んだ。金串に刺した鮎を冷蔵庫から 出して頭と尾に食塩を振る。鮎のときは物足りない顔をするので涼太には二尾奮発だ。夏といえども焼き魚は焼き立てに限るから、涼太が帰るまで待つとして、 先に味噌汁を温めておこうとコンロのボタンを押したとき、電話が鳴った。電話台はソファーの傍らにあるので、文子は一時火を止めた。
「あっ、お母さん」
 受話器を取ると。、涼太からだった。
「ご飯の支度、しちゃったよね?」
 顔色を窺う様子が受話器に伝わる。
「実は、高校のときの友達が偶然買いにきてね、近くの居酒屋でこれから飲み会なんだって。それでね、知ってるヤツばかりだからって僕も誘われてさあ、だけど支度できちゃってる時間だろう、だから‥」
「いいわ」
 言葉の途中で文子は言っていた。
「気にしないで、行ってらっしゃい」
「だけど、オヤジさんもいないし、お母さん一人で食べることになるだろう?」
 行くつもりがあるから電話をよこしたくせに、と計算は目に見えているが、そう言われるとやはり嬉しい。
「大丈夫よ。たまには楽しんできて」
「ありがとう。だからお母さん好きだよ」
「何言ってんの」
「なるべく早く帰るから」
「羽目外しちゃだめよ。あっ、涼ちゃん、お酒飲むんだから、自転車は置いてきてね」
 涼太はちょっと戸惑っていたが、了解して電話を切った。
 テーブルに戻った文子は鮎を皿ごと冷蔵庫に入れ、煮物も鍋に戻した。相変わらず食欲がなく、自分一人なら時間を遅らせて海苔か佃煮でさっぱり食べた方が 箸も進みそうな気がした。冷蔵庫から出した麦茶をグラスに注ぐと、椅子に腰掛けた。読みかけの本を開いたが、気が進まずにまた閉じた。これで涼太の帰りは 遅くなるが、それ以上に夫は遅いのかも知れない。一人を感じると、文子はまた怖くなった。一人になると恐ろしい形相の自分が見えてくる幻覚とも言えそうな 状態は、あの『目かくし鬼』の幻想に襲われてからずっとだった。自分の内に潜む、いつ表面化するか知れない特殊な感情は、あんなに恐ろしいものだったの か‥。なのに、家族には普通に接している自分を思うと、背筋が寒くなるほどだった。一週間、文子は不眠と拒食に陥り、やがて治まると、どうしたことか、今 度は蓉が堪らなく可哀想になった。そして、原因が自分にあるような罪の意識に苛まれた。これまでの蓉の行動の数々が頭に巡ったが、気に食わなかった行動の どこにも悪意が見いだせない自分に気がついた。さらにそれは、蓉が一体わたしに何をしたというのだ‥、という疑問となって自分を責め立てる。
 時計のチャイムが九時を知らせたが、空腹は感じても口が受けつけそうにない。文子はまた麦茶を注ぎ足した。目の前にはそのままにしておいた涼太の茶碗と箸がある。
「だからお母さん好きだよ‥、か」
 涼太の言葉を口に出してくすっと笑うと、文子は同じ言葉を母に言ってみたくなった。実家の母とは五月に訪ねたとき以来会っていない。五十肩の件で何度か 遣り取りした電話も、好くなったと聞いてからは途絶えていた。電話台に寄ると、受話器を取って番号をプツシュしながら、文子は母に膨れっ面を向けていた幼 稚園のときの自分が乗り移っているような気がした。母がその顔を見てくれただけで気持ちがなごんだ覚えがあるからだ。
「もしもし、星野でございますが‥」
 居間には誰もいなかったらしく、長い呼び出しのあとで電話に出たのは母だった。
「お母さん、わたし」
「まあ、こんな時間にどうしたの?」
「今日は二人とも遅くてね、わたしもご飯まだなの。一人でいたら、なんだか無性にお母さんの声が聞きたくなって‥」
 母が黙ってしまったので、文子は言葉を急いだ。
「あの、それとね、お母さんに訊きたかったんだけど、昔教わった数え歌、覚えてるでしょう?」
「数え歌‥?」
 文子の目に、涼しげな目を瞬かせている母の顔が浮かんだ。
「ほら、鞠つきのときに歌ってくれたあれ。一の宮から始まる歌」
 母が思い出して声を高くした。
「それの十三から先がどうしても出てこないの。お母さんなら歌えると思って」
「わたしだって、覚えてませんよ」
「一番から歌えば思い出すわよ。ねえ、歌ってみて」
「今、ここで?」
 母が笑いながら訊いた。
「お願い」
 ためらう母を誘導するように、文子は歌い出した。
「一番はじめは一の宮、二は日光の東照宮」
 つられて母が歌い始めた。文子が好きな「三は‥」のところのメロディーを、やはり母は裏声を使って美しく歌った。耳をそばだてて、受話器の声に聞き入る文子に母の数え歌は十二まで続いた。
「その次」
「十三、三十三間堂」
「ああ、そうだったわ」
「十四は四国の金毘羅さん」
「そうそう」
 すかさず文子が大好きな一節を唱和する。
「十五、御殿の八重桜」
「十六、ロシアの大戦争」
 歌い続ける母の声を聞きながら、文子の頬に涙が滴った。
「十七、七士の墓参り、十八、浜辺の白兎」
 文子が鼻を啜り上げた。
「十九、楠木正成で、二十はにっぽん万々歳」
 歌が終わっても、言葉が出せない文子に母もしばらくは無言だったが、やがて受話器にささやきが聞こえた。
「あらあら、小さいときは転んで縫うような怪我をしても、『かくれんぼ』でお姉さん達に意地悪されても泣かなかったフミちゃんが、そんなに大人になって泣くなんて」
「ごめんなさい」
 母が敢えて理由を問わないことは分かっているので、文子は手で頬を拭いながら気持ちを変えた。
「お母さん、やっぱり偉かったわよね」
「まあ、急になあに」
「お父さんは気難しい人だったのに、喧嘩は勿論、お母さんの嫌そうな顔、見た覚えがないわ。わたしや学にも声を荒げたこと、お母さん一度もなかったじゃない。それなのに、ちゃんと家庭をまとめてた」
 母は黙って聞いている。
「結局は、お父さんを知り尽くしていたお母さんだからできたことだと思うの。二人とも、昔の人でシャイだから表面には出さなかったけど、お母さんがお父さ んを頼って、お父さんがお母さんを慕っているのが、子供心にもよく分かったわ。だからわたしも学も安心していられた。暮らし、ってそういうものなのよね」
 母は恥じらいから、どっち付かずの声を聞かせた。
「でもお母さん。たまには家事を投げ出したくなったり、家庭から逃げ出したくなったときだって、あったでしょう?」
「ええっ‥?あったかしらねえ」
「あら、考えるくらいなんだ。自分のことには構わないで、お父さんやわたし達にあれだけ忙しくても?」
「でも、仕方なくやっていた訳でも、誰かのためにしていた訳でも、ないのよ」
「どういうこと?」
「わたしがそうしたいから、していたのよ」
 文子は声を詰まらせた。いかにも母らしく、そのさわやかさに言葉をなくしていた。
「ねえ、お母さん」
 母の小さい返事が今の自分の感情には物足りなかった。
「ねえ、お母さんたら」
「はあい」
「わたし、子供じみたこと言っちゃうけど、生まれ変わって人生を取り替えられても、お父さんとお母さんの子供でいたいな」
 母が笑った。
「バカね、人生は取り替えられないのよ」
「そこが問題なのよね」
「いいえ。だから、いいんじゃない」
「ええっ?」
「簡単に取り替えられるものに、いいものなんてないわ」
 黙っている文子に母の身じろいだ様子が分かった。
「フミちゃん。ご飯まだなんでしょう?早くお上がりなさい」
「はい。そうする」
「じゃあね」
「ねえ、お母さん」
「はあい」
「だからお母さんすきだよ、って、本当はそう言いたくて、掛けた電話なの。さっき涼太に言われたから」
「まあ涼ちゃんが?可愛いわねえ」
「お母さん、どうもありがとう」
「何が?」
「いろいろ‥」
 おやすみなさい、の挨拶をして、文子は電話が切れるまで受話器を離さなかった。

 踏み台代わりの椅子を抱えてドアを開けると、大通りを行く選挙カーからの声が聞こえてきた。政党と候補者名と、明日が投票日なので「最後のお願い」を連 呼している。文子は軒を見上げて、取り付けてある照明の下に椅子を据えた。紙袋には袋のまま放置してあった蛍光灯と点灯管がドライバーと一緒に入ってい る。サンダルを脱いだ文子がドライバーを手に椅子の上に立つと、玄関の中から声が上がった。
「おい、何してんだ」
 出て来た夫が口を尖らせて文子を見上げた。
「蛍光灯の調子が悪くて」
「危ないじゃないか。俺がやるから、下りなさい」
 手を伸ばされて、文子がつかまりながら下りると、夫は離した手をさし出した。
「じゃあ、お願します」
 ドライバーを渡した文子と入れ替わって、椅子に片足を乗せた夫が言った。
「椅子をしっかり抑えていてくれ」
「はい」
 脚のパイプを掴んでいた文子は、夫が乗ると足を置いたビニールのへりに片手を移した。夫がドライバーで二つのネジ除いてプラスチックの覆いを外すと、蛍光灯がむき出しになった。
「下に置いてくれ。なくさないようにネジには気をつけて」
 先に覆いを渡しながら夫が指図する。覆いは見た目より重く、片手で受け取りながら自分には無理な作業だったかと文子は思った。外した蛍光灯と点灯管を受け取りながら、椅子を抑えている一方の手にも気を配っていた。
「先にグローランプだ、そっちの小さいやつ」
 椅子から片手が離せないので、点灯管を紙のケースのまま渡すと、夫が除いたケースを片手に握って取り付ける。同じようにして蛍光灯も紙のケースを片手に持ってはめ込む夫の器用さには驚いた。
「点けてみてくれないか」
 両足でバランスを取る夫に言われて、玄関の中へ入った文子がスイッチを入れる。
「よし、オーケー。消していいよ」
 外へ引き返して、指図の順序で覆いを手渡し、ズボンのポケットからドライバーを取り出した夫にネジの一つを渡すと、また両手で椅子を支える。顔に夫のズ ボンの片足が触れたが、文子は足場の安全を考えてそのままでいた。体温を頬に感じながら、夫の体を意識することなどここ何年もなかった気がした。見上げる と、膨らんでいる腹部の先にドライバーを見つめる眼差しがある。ふと目が合って、夫が顔で問いかけた。
「いえ、またお腹が出たんじゃないかと思って」
「気にしてること言うなよ」
「外食が多いから、油分の取り過ぎじゃないかしら」
「確かだな。まあ、来週で終わるけど」
「そうなんですか」
「あと一年だから引き継ぎの意味で、若い連中を得意先へ連れていったり、顧客と引き合わせたりして、一席設ける機会が多かった」
 文子はうなずいて、口に出してねぎらうべきだったかと考えた。
「もう一本のネジ、くれよ」
 手を伸ばす夫に下から拾ったネジを渡しながら、文子が言った。
「お金、大丈夫なんですか?」
「ああ。昔ほど威勢がよくないから、会社に請求できる範囲でしかできないよ」 
 陰になったので顔を向けると、開けた門の間に涼太が立っていた。土曜日なので、午前中からオーケストラの練習に出ていた。
「何やってんの?」
 夫は振り向いて、すぐに顔を戻した。
「見れば分かるだろう」
 夫の一言に、文子も涼太と一緒に笑った。
「そりゃ分かるけどさ、遠くから見たら仲睦まじくやってるから、つい訊きたくなったんだよ」
「からかわないでよ」
 作業が無事完了して、文子はお返しのつもりで手を差し出したが、涼太の手前もあってのことか、夫は若さを見せてサンダルへ飛び下りた。
 翌日、鏡台のある小部屋に籠っていた文子を涼太が呼んだ。
「オヤジさんと投票に行くけど、お母さんどうする?」
 朝食の片づけを終えたところで、まだ化粧もしていなかったが、文子は一緒に行くことにした。台風の接近で午後から大雨になる予報が出ているので、今行く のだろうが、相変わらず言葉の足りない涼太はそこまで言わない。いい人でもできれば変わるかしら‥、と鏡の中で笑っている顔に文子は口紅だけ引いた。 
 投票所は坂道を下って私鉄の駅に向かう途中の図書館に設けられていた。雨はまだ小降りだったが、台風を控えた特有の蒸し暑さに、館内へ踏み込んだときの冷房が心地よかった。
「そこでは住所のチェックだけよ。中に入ってまたこれを見せると、投票用紙をくれるから‥」
「やめてよ、まるで子供じゃないか」
 世話を焼く文子は涼太に叱られ、夫にも鼻で笑われた。
 投票を済ませて、来たときとは違う道を行く二人に歩みを合わせていた。傘が触れないように距離を置きながら、夫の後ろに続いていた文子が公園の脇を行きかけて立ち止まった。涼太が気づいて振り返ると、夫も振り返って足を止めた。
「お滑り台やブランコを撤去したのね」
 文子の言葉に夫と涼太が公園の中を見回した。雨なので誰もいない。砂場は元のままで、空き地となった中央に不自然にベンチが置かれてある。
「花壇でもできるんだろう、レンガが積んであるよ」
 夫が傘を上げながら言った。
「お砂場の横に、カンガルーと豹の置物があったのよ。結構大きいの」
「そうだったっけ?この辺あまり通らないからな」
 涼太は言いながら出入口に近づいた。
「いつかね、お砂場で遊んでいる子が自分のベストを豹に着せてるのよ。雨晒しでしょう、カラスの糞なんかも落ちているのに、お母さんが見たらびっくりするだろうと思ったわ」
 夫と涼太が声を上げて笑った。
「最近は遊んでいる子供も見かけなくなって、使われない遊具がぽつんとあるのも淋しかったけど、なくなってみるともっと淋しいのね」
「行くぞ」
 夫が歩き出し、ついて行く文子を涼太が追ってきた。自分が真ん中で同じように歩いていた過去が文子に甦った。道草を食う涼太を文子は何度も呼び寄せた が、文子に任せて夫が振り向くことはなかった。わたしだけの子じゃないのに、と少し腹が立ったが、わたしがいるから安心していたのだ、と今ならそう思え る。

  オフィスの古びたクーラーが音を立てていた。
 社長は腕を組んで渋い顔をしている。その前で文子はうつむいて立っていた。背後にいる三人の社員も黙ったままだった。
「急に言われても、困るんだよな」
「本当に、すみません」
「あなたは押し出しがいいし、使えるからな」
 女性社員と目が合ったらしく、社長はそちらに言葉を向けた。
「分かってるよ。押し出しはセクハラで、使える使えないはパワハラだって言うんだろう?」
 オフィスに笑いが上がる。
「考え直せないかな。この人達だって淋しがるし、なあ?」
 背後の三人から同意の声が聞こえた。
「申し訳ありませんが、社長、決めてきたことなので‥」
 社長は肘をついた手の上へしゃくれた顎を乗せた。
「家庭の事情、ということなんだね?」
 社長が諦めの口調で訊いた。 
「ええ。わたし、これまでを振り返って、勝手なことばかりしていたような気になったんです。いえ、このお仕事のことではないんですよ。それで、やり直してみたくなって」
「そうか。では潔く諦めるか」
 立ち上がって握手の手を求められ、文子が手を差し出すと、社長は両手に握って振るった。手を離して向き直ると、三人が立ち上がった。
「皆さん。四年の間、お世話になりました」
 女性社員は目を潤ませていた。
「高木さん、頑張ってね」
「また寄って下さい」
「どうぞ元気で」
 文子は頭を下げた。
「急だから、花束の用意もないけど、せめて拍手で送ろうや」
 社長が言うと、大きな拍手が湧いた。
「ありがとうございます。わたし、こんなに惜しまれてやめられるなんて、思わなかった」 文子はもう一度深々と頭を下げた。

 天気には恵まれた。
 懐かしい道を歩くのに傘は邪魔だったし、ただでも険悪になりそうな頼みを雨の日に持ち出したくなかった。
 大雄山へ向かう電車が行ってしまうと、文子はホームの階段を下りて鉄柵だけで仕切られた待合室へ入った。昔はこの通路に改札口があったが、今は無人駅と なって駅員の姿はない。車で連れて来られるときは高速道路から県道へ入るので、駅を含めたこの経路は結婚一年目に往復したあの時以来だ。一緒に電車を降り た人影はいつの間にか消えて、一人待合室に佇んでいた。自動販売機が我が物顔に照明を光らせる傍らで、ベンチだけがひっそりと昔の面影をとどめている。初 めて訪れたとき、夫が車を停めて待っていた場所には工務店のラントバンが置かれてあった。道の下を小さな川が横切り、橋の向こうの沿道に一軒だけ看板を見 せる店舗があって、外壁には候補者のポスターがまだ貼られている。文子は名前も知らない候補者の顔から目を離して歩きだした。衆議院総選挙は野党第一党の 圧勝に終わり、政権は交代することになった。涼太の言葉を借りるならば、新しい上着に着替える訳だ。だが、着心地はどうなのか、素材の表示に誤りはないの か、いつまで着られるのかさえまさに未知数で、それは今に限ってのことではない。だからこそ、期待と諦めに振り回されつつ、常に未知数の中で暮らしていく 庶民が一番逞しいと文子は思う。
 県道を横断すると、川の対岸に工場の建物が見えてきた。建て替えられて、夫の父親が工場長を勤めていた頃の因はなかった。九月でも汗を着る日差しだった が、遙かな山並みには秋の気配があった。文子は橋の中央に立って下を眺めた。両岸から迫った雑草に川幅は二メートルとなかったが、流れは変わらずに澄んで いた。この先、一週間に一度はこの橋を渡る。そう思いながら文子はかなたの竹林と鳥居を見やった。あの幻想の恐怖が遠退いてから、文子はここに暮らす蓉の 八十という年齢ばかりを考えていた。老境の心細さは、蓉の身にも例外ではなかった筈だ。唯一の身内である一人息子は東京で妻子と暮らしている。その距離感 は想像以上に遠いものだったのかも知れない。自分が頻繁に訪ねることが蓉の安心となり、先々にも支える手があると思ってくれるのなら、文子は何度足を運ん でもいいと、その覚悟でパートの仕事からも手を引いた。結婚一年目に夫によって断絶が生じたとき、文子はなんとか溝を埋めようと通い詰めたが、結局は挫折 した。しかし今はあのときとは違い、自分も五十五という年齢になっている。思い遣る尊さも知った。勿論、それを蓉が歓迎するかどうかは分からない。だが、 文子は、そうしたいからするのだ、と決めて来ていた。母の言葉に殉じたかった。そしてもう一つ、意を決してやって来たのは、東京では夫と息子との三人の暮 らしをさせて欲しい、と頭を下げて頼むためだった。やがて知れれば、また夫の怒りをかうかも知れないが、そうなったら話し合えばいいのだと考えていた。も う、ぎくしゃくしてはいけないのだと思っていた。あの添い寝を見てしまった夜、抱かれた胸に顔を埋めたときの恋しさは、まだ自分の中に残っている。倒れた 突然の知らせを聞いたときの、死ぬほどの心配、も涼太の見た通りだ。自分の気持ちがそうある限りいくらでもやり直せる、とこれまでとは違う自分に賭けた。
「さあ、はじめの一歩だ」
 声に出すと、文子は橋の上を先へ向かっていった。これでいいのか‥、と思うことのない初めての一歩であるような気がした。


                                                      遊戯幻想  了