「e-文藝館=湖(umi)」 書
下ろし長編小説 投稿
まつお みえこ 作家・文藝批評家 平家物語「延慶本」を研究・批評したユ
ニークな著書をすでにもち、鎌倉時代初葉への関心深い、また別の面では西欧の象徴詩への視野と批評とをもった在野の文学者による、新生面の、書下し真っ向
「私小説」である。流暢に達者な筆で、感慨と情愛ひとしお死と、一つの死と、死ぬまでの時間を迎え取って見据える思いとが語られ、細部に至るまで渋滞ない
適確な叙述の美しさに一驚。紙の本での出版も十分見こまれる。 (秦 恒平)
死ぬまでの時間
松尾美恵子
1 海の見える団地
海へと続く台地を造成して建てられた団地に、叔母は住んでいた。団地のさまざまな場所から海が見えた。叔母の住んでいる二階の部屋のベランダからも、南
西の方向にわずかに見えた。切れ込んだ谷間の地形をそのままに残した公園の階段の上からも木々の葉越しに水平線が見渡せた。団地のまんなかに設けられた
ショッピングセンターへ渡って行く歩道橋からも、思いがけない方向に、海が光っていた。
海ぎわの鉄道の駅からバスが出ていた。けれども、加代は叔母の家に行くとき、一駅乗り過ごして市の中心部にある急行の停車駅からバスに乗る。バスは坂を
登ったり下ったりし、いくつもの住宅地を通り抜け、ぐるっと大回りをして団地のなかを通り、普通電車しか停まらない隣駅に向かった。図体の大きなバスが海
に向かって車体を弾ませて下っていくとき、加代はいつも、猪が体を揺すりながら坂を駆けくだるさまを思い浮かべた。
叔母は長い間、祖父と二人暮らしだったが、祖父を看取ってしばらくしてから、それまで住んでいた家を売って、この団地に引っ越した。「手伝いに行くよ」
という加代に、叔母は引越しの日取りも教えなかった。
その頃はまだ、加代は別れた夫の悠介と仲が良かった。加代は悠介に運転してもらって、車で手伝いに行くつもりだった。
「人手があったら、何かと便利やで。車で別に運んだほうがええものもあるやろし・・・」
加代は自分の引越しの経験からそう言ってみたが、叔母は断った。
「いや、今はおカネさえ出したら、荷造りから、何から何までやってもらえるところがあるねん。任してしもたら、そのほうがラクや」
叔母は自分の世話にはなりたくないのだろう、水臭いなと思ったけれど、それ以上、親切の押し売りもしなかったのは、その時期、加代も仕事が忙しかったか
らだ。
大阪の加代の住まいから叔母の家までは、地下鉄、電車、バスを乗り継いで二時間ほどかかった。訪ねていく回数は減っていたけれど、一週間か二週間に一度
くらいの割合で電話を架けていた。
若い頃、結核を患って婚家から返されたという叔母は、寝たり起きたりの生活が長かった。結核は治っていたはずだが、風邪が長引いたり、午後になると微熱
が出たり、頭痛がしたり、体の不調を訴えることが多かった。
「食欲が無うてなァ。なんや、食べられへんねん」
そんなことを言いだしたのは夏のかかりでもあったし、去年も同じ頃に同じようなことを言っていたなと加代は聞いた。六月中から極端に気温が上がって、夏
の長さが思いやられる年だった。
「暑いからなあ。しょうがないわ。冷たいものばかり食べてるのとちがうの」
加代は世間並みの挨拶のようなことを言った。
「ええで。食べへんかったら。おカネがちっとも減らへんわ」と叔母は笑った。電話での会話は噛みあっているのかいないのか、どこか心許なかった。
二、三ヵ月もそんな状態が続いて、加代はようやく心配になってきた。
「調子はどうなん。何かおいしいもの、買うて行こか」
「食欲がないのに、あほらしいわ。もったいないから、やめとき」
「お医者さんには診てもろたの」
「なんやウイルス性の症状かもしれへん、言うて、抗生物質くれたけど。おんなじような症状のひとが多いらしいわ」
「へーえ、流行ってるの。それで効いたの?」
「いや、ちっとも効かへん」
加代はやっぱり心配で、一度覗きに行ってみようと思う。「行く」と言えば、「来んでもいい」という返事が返ってくるのがわかっている。だから、加代はい
つも連絡せずに出かける。デパートの地下の料亭のお惣菜売り場で、目先の珍しいものや、見た目も美しく仕上げられたものを手当たり次第に買い込んで持って
いく。
この日も、ちまちまと小ぎれいに盛り込まれた懐石弁当やゼリー寄せやヴィシソワーズといった口当たりのよさそうなもの、レトルトパックに入ったお粥やスー
プなど日持ちのするものをとりまぜて買って行った。
叔母の部屋の下に立ち、窓が開けられてカーテンがそよいでいるのを見て、なんということなく安心する。コンクリートの階段の踊り場で、チャイムを鳴らした
が、用心深い叔母はそれだけでは出てこない。
「わたしや。開けてえな」と、ドアを叩きながら、大声を出す。
「ちょっと待って」と声がしてから、しばらくかかった。ネグリジェ姿の叔母は、体を斜めにしてドアを開けながら、そっぽを向いて、「来んでもええのに。起
きるのがしんどいわ」と言った。とんだ挨拶だと思ったが、いつものことなので、加代は気にもとめない。
叔母は北側の四畳半に布団を敷いて寝ていた。南側の六畳間には,両側に家具を並べて、空いたところに籐の敷物を敷き、真四角の小形のテーブルを置いてい
る。レースのカーテンは閉ざし、内側の分厚いカーテンも半分ほど閉じているのは、叔母が向かいの棟や前を通るひとの視線をひどく気にしていたからだ。それ
でも風は気持ちよく通り抜けていた。
「寝てたらいいよ。起きてこんでも」
「いや、起きようと思うてたから」
叔母はさっきとは違うことを言った。
「えらい長引いてるやんか。何か手伝うことないかと思うて」
それには答えず、加代が買ってきたものを冷蔵庫に詰め込んでいるのを横目で眺めて、
「また、ようけ買い込んできて。食べられへん言うてるのに」と口のなかで呟く。
これまでも、加代は訪れるたびに、いろんなものを買い込んできたが、持ってきたものを叔母はいらないとは言わなかった。「食欲がない」とはいつも言って
いたが、それでも、食の細い加代よりはたくさん食べていると思わされることがあった。
けれども、この日は、テーブルに置いた懐石弁当の蓋をとって眺めただけで、「これ、いらん。持って帰って」と言った。
「それなら、わたしが食べる」と加代は応じる。
常温で保存できるレトルトパックの食品などは、日の当たらない玄関の下駄箱の上の籐の籠に入れて、覆いの布を被せる。叔母は保存食品をそんなところに置
いていた。
叔母は猫を飼っている。台所の隅に、厚手の広告紙をガムテープで張り合わせて作った下敷きを敷いて、猫用の水入れや食器やトイレをまとめて置いている。
食器には、キャッツフードを入れっ放しにしていた。トイレのなかの固まった砂を隙間の空いたフライ返しで掬い上げて、トイレの始末をした。
食器やトイレのまわりに、ふわふわした猫の毛がつもっていた。気をつけてみると、部屋の隅やテーブルの下などにも猫の毛がふうわり溜まっている。
「猫の毛だらけや。掃除しようか」
「かまへん。わたしは見えへんから平気や」
「吸い込んだら、体に悪いわ。せっかく起きたんやから、掃除機かけよう」
加代はふとんを移動させようとして、シーツの裾にゴキブリの死骸が絡まっているのに気付いてぎょっとした。ティッシュペーパーでつまんで、黙って捨てた
が、きれい好きの叔母がここまで放っておくのはただごとでないと思われた。
大きな釜型の掃除機は、まだ掃除機が出回り始めた頃のものだ。加代が祖父母の家で一緒に住んでいた頃に使っていたものだ。祖父の趣味が機械いじりだった
ことと、叔母の物持ちのよさのおかげで、電気製品を一度買ったら、買い換える習慣がなかった。重い大きな掃除機を狭い部屋のなかで、ゴツゴツとぶち当てな
がら掃除した。2Kの間取りをいっそう狭くしている古い大きな家具はどれも、祖父母の家で見覚えのあるものだった。籐のカーペットや台所の板間の拭き掃除
もした。
ふとんを元通り敷き直すと、叔母はまた横になった。
「ほかに何か、することないの。せっかく来たんやから」
「そんなら、フロ桶、洗うてもらおか」
叔母は少し素直になって、寝たまま風呂場の洗い方を指図した。真四角の水色の浴槽に、水が黄色っぽく淀んでいた。加代はスポンジに洗剤をつけて湯垢を丁
寧にこすり落とした。
「買物は行かんでもいいの。何か足らんものはないの」
「何もない。昨日、買物してきたとこや」
それから、加代は叔母とよもやま話をし、猫をかまい、叔母が食べないと言った懐石弁当を食べて、薄暗くなる頃、叔母の家を出た。
来るときは、叔母にまた「来んでもええのに」と言われるだろうと思って落ち着かなかったが、帰りには、「やっぱり来てよかった」と気持ちが軽くなってい
た。いつものことだった。
茂りあった桜の葉陰で待ったバスは海に向かって走り、海沿いを走る電車の窓からは海面が見渡せた。夕方の通勤ラッシュと逆行する帰りの電車には乗客はま
ばらだった。加代はいつものように海側に座り、青黒く沈みこむ海を飽きず眺めた。海は絶え間なく揺れ動き、波止めに積み上げられたコンクリートのテトラ
ポットの脚を撫でるように這い登り、先端で弾けて白く泡を返していた。
海は見えなくなってもよかった。うすみどり色の海水の記憶は、加代の体に沁みこんでいた。
加代は高校生になったばかりの夏、家出をしたことがあった。半月ほどして居所をつきとめられ、連れ戻された加代の顔を見て、叔母は怒った。
「ほんまに、この子は。わたしらがどんなに心配したかわからんのか。おぼえときよ。あんたに子どもができたら、隠してしもたる。どんな気がするものか、味
おうてみたらええ」
加代はそのとき何も言い返さなかった。心のなかで心配してほしいわけではないのにと思っていた。窓の外の暗い海に向かって加代はつぶやく。
「わたしが行きとうて行ってるだけやから、あんたのために行ってるんやないから、勝手にさせといて」
2 子を産まぬ女
感情を素直に表すことのできない家族だった。
叔母は加代の父親の妹だった。加代が生まれてから数年は祖父母の古い家で、一緒に暮らしていた。その後、加代の一家は市営住宅に移ったが、母が看護婦とし
て働くようになって、また同居した。母親が不規則な勤務で家を空けているあいだ、子どもたちだけにしておくわけにはいかなかったからだろう。けれども、祖
母が亡くなってしばらくして、再び別居したのは、母と叔母の仲が、もう抜き差しならないほど悪くなっていたからだ。
貧しい農家に育ち、尋常小学校を出るとすぐ奉公に出て、働きながら看護婦になった母と、お嬢さん育ちで、女学校を出、お琴やお茶、お花の稽古事に明け暮れ
ていた叔母とは、価値観も違えば、生活感覚も違った。反りがあわないのも当然だったかもしれない。母も叔母も子どもたちの前で言い争うようなことはなかっ
たが、それだけに、長女である加代は、ふたりのあいだで得体の知れない居心地の悪い思いをしてきた。
加代の父母は、加代が高校を卒業してまもなく、郊外のニュータウンに分譲住宅を購入して移り住んだが、叔母はこの家に近付こうとはしなかった。叔母がこの
家に姿を見せたのは、加代の父の葬式の時、たった一度きりだった。そのあとは、四十九日にも、一周忌にも、あるいは祖父母の法事にも、一切顔を出そうとし
なかった。
「そんなに強情はらんでもええやないか。お父ちゃんの命日くらい、手を合わせに来てやってえな」
弟が車で迎えに行って頼んでも、頑として応じなかった。
「いや、わたしは行かへん。もう、つきあいはやめさせてもろた。これまでに言うに言えんことがあったんや。あんたのお母ちゃんにどんなことを言われたか、
そのうちに一辺、あんたらみんなに聞いてもらおうと思てる」
父が亡くなり母と妹が取り残されて広くなった家に、「叔母ちゃんも一緒に住んでくれたら、こっちは安心なんやけどな」と加代は弟に言って笑い合ったことが
あるが、それが冗談でしかないことは、二人ともよくわかっていた。
加代は叔母の子として、弟は母の子として振舞うことが、長いあいだに身に付いていた。祖父母に可愛がられ、叔母に懐いて育った加代は、母にとって意に染ま
ない子どもだった。
母は加代に「子どもを産まない女は一人前ではない」とよく言った。「子どもがなかったら、年いったら、どないするねん。寂しい人生になるで。叔母ちゃん
みたいになってしまうで」
加代は二十一歳で結婚して間もないとき、中絶したことがあったが、そのあと妊娠しなかった。特別な用心をしなくなってからも、妊娠する気配がなかった。
そんなことを知らない母は、加代に早く子どもを産めと急き立てた。
「できへんから、しょうがないやんか」
「医者に診てもらい」
「そうまでして、欲しいとも思わへん」
実際、加代は子どもを欲しいと思ったことはなかった。他人の子どもを見ても、可愛いとも感じなかった。自分には、女性としての本能が欠けているのかと思
うことがある。
結局、加代は子どものないまま、四十七歳で離婚した。若い女が夫の子どもを流産するという騒ぎがあった。
「子どもも産まんと、好き勝手なことばかりしてるさかいや。悠介さんの気持ちわからんでもない」と母は言い放ち、その声は加代の耳に快げにも響いた。
叔母が加代の世話にはなるまいと意地を張っていると思われることがしばしばあった。
叔母が団地に入居するとき、保証人が必要だったが、「わたしがなろか」と申し出た加代に、叔母は「ええわ。京子さんに頼んだから」と断った。京子さんは
叔母の、仲のよい従姉妹だったが、その頃はもう治るあてのない病気で入院していた。
部屋の鍵も渡そうとしなかった。叔母が外出しているときに訪れた加代が外で長時間待たねばならないことがあって、さんざん文句を言った末、ようやく合鍵を
もらうことができた。
加代は叔母の言葉を、「ふうん、ふうん」と聞き流す癖がついていた。
「もう、来んでもええで。寝とるだけやから。食べられへんのに、ようけ持って来てもろたら困るねん」
叔母は帰り際にも、そう念を押した。
3 いざというとき
それでも、一日、二日経つと、加代は不安になって電話した。
「あれから、ちょっと調子は良うなった。昨日、病院へ行ってきた。薬、効きませんわ、言うたら、そうですか、変えましょか、言うて、変えてくれた。若うて
やさしい、ええセンセや。患者の言うことには逆らわへん。ちょっと頼りないけどな」
叔母はかかりつけの医者の話をする。
「どこの病院や。バス停の前にある病院か」
「いや、あそこへは行かへん。一辺だけ行ったけど、やめたわ」
「なんでや、近うて便利やのに」
「いいや。あの病院、スリッパが汚いねん」
それが医者を選ぶ基準になるのかどうか首をひねったが、確かに看護師がだらしないとか、不潔さに鈍感だとかしたら、やはり好ましくない病院だろうと加代
は口を噤む。
叔母のかかりつけの、あえばクリニックは、公園の向こうの坂の下にある。以前から診てもらっていた大先生は隠退して、三男坊の若先生が跡を継いだ。長男は
最近、車で十分ほどのところに大病院を開院したばかりだ。
「なんやいうたら、検査しましょか、言うて、そっちの病院へまわしたがるわ」
「そりゃあ、設備投資したら、元とらなあかんのやろ。そやけど、原因がわからんのも困るやないの。入院して、ちゃんと検査してもろたほうがええかもしれん
なァ」
「大きなきれいな病院や。大先生に言うたら、いつでも入院させてもらえるけど」
むしろ、当てにしている口ぶりだった。それで加代は、叔母があえばクリニックを選んだ理由は、そのあたりにあるのだろうと察しをつけた。
「入院する気になったら、いつでも言うてよ。泊り込みで、ネコちゃんの世話に行ってあげるから」
入院の話はこれが初めてではなかった。叔母はもう何年も前から、目が見えなくなった、白内障が進んできたとこぼし、眼科では評判のいい病院で手術を勧め
られていた。手術は片目ずつ、一週間の入院が必要だった。その頃から、加代は同じように言い続けてきたのだが、叔母は「そのうちに頼むわ」と言うばかり
で、一向に決心がつかなかった。
「入院するんやったら、早よしてよ。わたしが就職したら、来られんようになるで」
「他人事やと思うて、気安う言わんといて。眼の手術なんか、誰かて、しとうないわ」
そんなやりとりを繰り返しているうちに五年も六年も経ってしまった。叔母は、眼が見えない、眼鏡が合わないから頭痛がする、とぼやきながら、ずるずると
先延ばしにしてきた。医者も匙を投げて、「眼鏡を替えても、ダメですよ」と作ってくれないと言う。
加代の仕事は時間の融通が利いた。以前勤めていた不動産関係の広告代理店から仕事をもらって、新築分譲マンションの周辺環境の調査をしている。広告物に
載せるために、学校、保育所、病院、スーパー、コンビニなど、住宅地図を片手に歩き回って、位置を確認する。難しい仕事ではないが、根気強さとある種の几
帳面さが必要だった。代理店では、学生アルバイトにやらせようとしたが、手抜きや勘違いによるミスが多いのに手を焼いて、挙句の果てに、仕事ぶりのよくわ
かっている加代に仕事を回してくるのだった。
加代はこの仕事が気にいっていた。自分ひとりだけで、自分のペースで、ただひたすら歩き回ればいいだけの仕事。車で回れば速いのだが、どうしても確認作
業が疎かになる。だから、加代はひたすら歩くことにしていた。
代理店に勤めていたときは不動産広告のコピーも書かされたが、ステイタスだのグレードだのを強調する愚にもつかない文句を考え出すのに頭を悩ますのは苦痛
でしかなかった。それよりも、路地を覗き込んで新しく開業した医院を発見したり、コンビニの入れ替わりの激しさに驚いたりしているほうがずっと性に合っ
た。
何時間も誰にも話しかけもせず、話しかけられもせず、知らない街を歩き回っていると、心がしんと寂しくなった。その寂しさも嫌いではなかった。そんなと
き、加代は夫に電話した。「疲れたわ」と言うと、「そんなら、早よ、帰っておいで」と柔らかな声がして、涙ぐみたい思いに誘われた。それも昔の話だ。
その仕事も景気の低迷が長引くにつれて、以前のようにコンスタントに注文が来なくなった。離婚後は、社会保険のある、どこかの会社に就職したほうがいい
と考えるようになったが、新卒者さえ思うように就職できない時代になっており、加代の年齢では、適当な就職口を見つけるのは難しかった。職安の求人情報
コーナーは、加代の若い頃とは比べ物にならないほど混みあっていたし、行ってみようかと思うような求人には、年齢制限で引っかかった。就職すると言いなが
ら、ずるずる引き延ばしているのは、加代も叔母と変わらないのだった。
「もう、来んでもいい。来てもらっても何もしてもらうことはないから」と叔母は言い張る。
「買物もあるやろ」
「食べなかったら、何にもいらへん」
それから、心配させてはいけないと思ったのか、付け加えた。
「真法さんの世話人さんが、スーパーのレジでアルバイトしているから、頼んだら帰りに持ってきてくれるねん。車やから、病院へ行くときも乗せて行ってくれ
る。そやから、心配せんでもええで」
真法さんというのは、戦後にできた新興宗教の一派だった。祖父母の家の隣に、でっぷり太った派手好みの後家さんが住んでいた。郵便局の外交員をしながら
一人娘を育て上げ、定年退職したひとで、外見も派手なら、人付き合いも派手だった。年中、体が悪いとこぼし、医者も健康療法も新興宗教も取っかえ引っかえ
していた。
「あのひと飽き性やねん。カーッと夢中になって一所懸命になるのやけど、すぐ飽きる」
叔母はひとまわりほど年上の隣人をそう評していた。そのカーッとなっているときには、隣近所に効験を言い立ててすすめてまわり、熱がさめると悪口を言って
水をかけてまわるというふうだったらしい。
「えーっと、光明教やろ、瞑想の家やろ、なんとかサイエンスやろ・・・」
叔母はすぐに指を折って、三つ、四つと数えあげた。
そのなかで、隣近所がまとまって入信したのが、真法さんだった。和歌山の山中に広大な敷地を占めて開かれた御本山に、バスで年何回かお参りするのが、隣近
所の親睦旅行を兼ねていた。叔母もそのバス旅行に参加していることを加代は知っていた。叔母は信仰の話などしなかったから、なぜそんな気になったのか加代
は不思議に思っていたが、信者同士の助け合い組織もあったのだ。叔母は高齢の一人暮らしの備えとして、真法さんの助け合い組織をあてにしたのではないかと
加代は思い付いた。
4 芋掘り
「来んでもいい」と言われながら、何かと理由をつけて訪れ、平静な叔母の顔を見て、一安心して帰ってきて、また、二、三日もすると加代の心のなかで不安が
大きくなってくる。電話で機嫌よく話してくれるときはともかく、不機嫌だったり、話すのも大儀そうな様子だったりすると、にわかに不安が高まって、顔を見
てこようという気になるのだった。だから、一週間か二週間置きくらいに、加代は海を眺め、海の底へ沈んでいくバスに乗った。
珍しく叔母から誘いがあった。
「そろそろ、さつまいもを掘らな、あかん。雨が降り続いたら、腐ってしまうわ」
「じゃあ、今度は芋掘りに行くわ」と、加代は即座に応じた。
古い団地は緑のスペースが広くとられ、棟と棟の間隔にゆとりがあった。叔母の住む棟の南側には家庭菜園が設けられていた。
叔母は調子が良かったらしく、起きてきてスコップや掘り出したイモを入れるバケツを揃え、日除け帽子を出してくれた。
ベランダから見下ろしたときには茂りあった葉におおわれて見えなかったが、地面には、畳一枚分くらいずつ、コンクリートの枠で区画割されていた。叔母は二
区画を借りて、そのうち一区画にサツマイモを植えていた。同じようにサツマイモの葉を茂らせた区画もあれば、抜き取った蔓を積み上げている、もう収穫を済
ませたらしい区画もあった。隣の区画は畝もつくらず、香菜を一面生い茂らせていた。叔母に教えられなければ、それが香菜だとは気がつかなかっただろう。レ
ストランで中華粥に添えられているような柔らかいものではなく、乾いた地面から強い茎でしっかりと立ち上がっていた。
絡まりあったサツマイモの蔓と葉をめくり上げるようにしながら、スコップで掘り起こしていく。土の表面はこのあたり特有の花崗岩が砕けた赤っぽい山土だっ
たが、なかはフカフカした黒い土に変わっていた。イモを傷付けないように、丁寧にスコップを入れる。
幼い頃、祖父母の家の庭で叔母と一緒に、よく庭いじりをした。初夏には、水仙やクロッカスの球根を掘り起こして乾燥させ、翌年に備えた。掘り起こすと
き、小さなスコップの縁があたって球根を傷付けると、真っ白な果肉が弾けるように現れ、じわっと乳白色の液体が滲み出した。幼い加代はほとんど肉体的な痛
みを感じながら、見詰めたものだった。
祖父母の家の庭には、成りの悪い果樹が何本か植えられていたが、畑はなかった。戦時中は、土地さえあれば、カボチャやイモを植えさせられたので、もう畑は
作りたくないと叔母は常々言っていた。叔母はいつ宗旨替えをしたのだろう。
土はさくさくとスコップを受けとめ、赤ん坊の頭くらいの大きな丸いイモが三個と、手ごろな大きさのが、ゴロゴロと現われた。加代は区画のなかに丹念にス
コップを入れて、取り残しがないか確かめた。蔓は巻き取って、生ゴミ用のビニール袋に詰めた。通路の雑草も目につくものは抜き取って、袋に入れた。
両手にスーパーの袋を提げた買物帰りらしい中国人男性が、畝をひょいひょいと乗り越えながら近付いてきて、「できましたか」と尋ねた。「これだけ」と、
加代は笑ってバケツを指差す。それが自慢できるほどの量なのかどうか、加代にはわからなかった。
叔母は、加代が持って帰ったバケツを覗き込んで「いくつ、あった」と尋ねる。
「小さいのも入れて、十五、六個」
「ふうん、去年よりちょっと少ない」
叔母は大審問官のような目付きで、バケツを傾かせて眺めながら、呟いた。
「玄関に置いといてくれたらいい。近所のひとにもらってもらうから」
叔母に言われるまま、小分けして、新聞紙にくるんで置いて帰った。
その日、叔母は起きて家事をするのに、別段差し障りもなさそうに見えた。だから、加代も軽い気持ちで帰った。もう秋の、いい気候になってきたのだから、
体調が戻ってくるのも自然なことに思われた。
5 白亜の大病院
それなのに、数日後、電話でまた調子が悪いと聞かされたときには、加代は舌打ちしたい気分になった。思い当たることはないかと聞いてみると、店で買った
唐揚を食べ過ぎたと言う。加代は怒った。
「せっかく、良うなりかけてるのに、そんな油のきついもの食べたら、あかんやないの。そんなもの、ようけ食べたら、わたしでも気分が悪なるわ」
訪れたときには、叔母は起き上がってこようとはしなかった。加代は叔母の異様な痩せ方に、にわかに気付いた。食べられないと言い出したのが、七月初めだ
から、もう三ヵ月以上経っていた。医者の出してくれた抗生物質が飲めなくなったと聞いて、急に心配になった。加代自身が医者嫌いだったから、叔母が入院に
気がすすまないのを不思議とも思わなかったが、それでは済ませられなくなった。
「入院させてもらおうよ。このまま食べなかったら、体力がもたへん。寝たきりになってしまうで」
「うん、それも考えとく」
加代の剣幕に押されたのか、叔母はいやに素直に頷いた。
「ほんまやで。入院する気になったら、すぐに言うて。いつでも来るから。すると決めたんやったら、早いほうがええで」
そう念押しして帰ってきた翌日、叔母から電話があり、「明日、入院するわ。早めに来てくれるか」とぶっきらぼうに言った。
加代は叔母の決心の意外な速さに驚きながら、安心もした。食べられないことが、そんなに大層な病気とも思えなかった。入院すれば、点滴で体力を維持しな
がら、徐々に胃腸を回復させていけるだろう。
次の日、加代は叔母の家に泊まりこむ用意をして朝早くから出かけ、公園の桜の樹の下をくぐり抜けて、あえばクリニックに向かった。
入院の希望を伝えると、色白の坊ちゃん坊ちゃんした若い医師は首を傾けながら、目を細める癖の、やさしげな表情でやさしげな声音で答えた。
「それはいけませんねェ。原因がわかりませんとねェ。入院して検査されたらと何度もおすすめしていたんですよ。深水さんがその気になられたんでしたら、入
院のほう、すぐ連絡しますよ」
そして、空きベッドがあると告げ、「午後から病院の車で送って行ってもらうようにしましょう」と伝えた。
行きあたりばったりのいい加減な治療をして、と加代は内心、腹立たしい思いもないではなかったが、叔母が検査を拒んでいたのでは仕方なかった。
叔母は加代にこまごまと指図して、入院の仕度を整えさせた。何番目の引き出しのどのあたりに何があるからと、実によく記憶していた。加代は叔母の言うま
ま、品物を揃えて、大きな紙バッグに入れた。持っていくものも、着ていくものも、前もって心積もりしていたらしく、何一つ迷わなかった。
そのあとで、箪笥の引き出しの一つに、袋物などを積み重ねた下に、紙袋に入った現金があるから、と告げた。紙袋のなかには、帯封をしたままの札束がいくつ
も入っていて、加代は驚かされた。
「こんな大金、家に置いといたら危ないやないの」
「国債の満期になった分を下ろしたんや。預けてても、利子もつかへん。あんたのええようにしたらええ」
「無用心やから、預けるで」
「わたしの口座には入れんといて。入れるんやったら、あんたのとこに入れておいて」
叔母はそんなふうに、費用の心配のないことを加代に伝えたらしかった。
饗庭記念病院は車で十分ほどの、ニュータウンとニュータウンの中間地域にあった。県道沿いに、スーパーや家電やドラッグストアなどの大型店や銀行の支店
までが集まったショッピングタウンができていて、病院はそこから少し入ったところにある。
加代が高校生の頃は、そのあたりは一面の田圃で、ほかには何もなかった。鉄道の駅もないところに忽然と出現したショッピングタウンは、車社会の象徴のよう
だった。パチンコ店もファミリーレストランも、どの店も広い駐車場を持ち、それぞれが人目を惹き付けようとする派手な店構えと大きな看板とで、乱雑で汚ら
しい風景をつくっていた。
饗庭記念病院はその上に堂々と聳え立つ白亜の大病院だった。車が県道から横にそれると、道路のつきあたりに白く塗った塀をアーチ型に刳りぬいた入り口が現
われた。蔦がほどよくまつわりついて瀟洒なホテルのアプローチのようだった。
車はその塀を回り込んで、正面玄関につけられた。入り口には大きなオブジェのように生け花が置かれていた。叔母は立ち止まって、じっとそれを見詰めた。
それから振り向いて、加代の腕をとらえるようにした。
「悠介さんと、もとに戻ってくれたらええと思とったけど、こうなってみると、あんたが独りでおってくれてよかったと思うわ」
少しはしゃいだ調子の粘り気のある声だった。叔母は人伝に、悠介が若い女と別れたと聞いて、「よりを戻すのなら今やで」と加代にすすめたことがあった。勝
手なことを言っていると加代は思う。
ロビーは広々として、低いソファが並べられていたが、薄暗く人けがなかった。午後は外来患者の診療をやっていないからだろう。運転をしてきたポロシャツの
男性が荷物を運んでくれ、看護師を呼んでくれた。叔母によれば、この無口な男性は、どうしても医者になれなかったために病院で事務長をしている、大先生の
二番目の息子だということだった。
案内された病室は片側に三床ずつベッドが並んだ六人部屋だった。窓際のベッドは先客で埋まっており、叔母は廊下側のベッドをあてがわれた。まんなかのベッ
ドがふたつとも空いているせいもあって、ゆったりとしていた。白い病室にクリーム色のカーテンを引いて、間仕切りができるようになっている。枕元には酸素
供給の装置がついていたが、どれも使われていなかった。向かいのベッドと空きベッドのあいだに、検査機械のようなものがカバーをかけたまま押し込まれてい
る。
ベッドサイドのロッカーやサイドテーブルに着替えや身の回り品を整理させて、叔母は落ち着き払って入院患者になった。
愛想のいい大柄な医師が病室に入ってきて、奥のベッドに声をかけ、叔母のベッドの傍らに来て、「わたしが主治医の藤代です」と告げた。「あとで診察します
から、看護師が呼びに来たら、下りてきてください」
白衣の裾を翻して、スリッパの音も立てずに、身軽くベッドとベッドの間を歩いてまわった。叔母のベッドの頭のところには、手まわしよく、叔母の名と「主
治医 藤代Dr.」とマジックで書いたカードが挿し込まれている。この医師はどうも大先生の係累ではなさそうだと加代は見当をつけた。
「私はテレビを見いへんから、ラジオを買うてきてほしいねん。イヤフォンで聴くのをな。小そうて簡単な、扱いやすいのがええで」
叔母はほかにも、リップクリームだとか、ウェットティッシュだとか、足りないと気付いたものを、近くのショッピングセンターで買ってくるよう注文した。
ショッピングセンターは週日の午後のせいか、閑散としていた。加代は空腹を思い出して、一階の軽食コーナーに立ち寄った。時間外れだからか、ここもガラン
として、商売が成り立っているのか危ぶまれるほどだった。広いけれども、社員食堂のように素っ気ないテーブルや椅子が並べられた軽食コーナーの一角に腰を
下ろして、高い棚に置かれたテレビを上目づかいで眺めながら、加代は甘辛い焼きそばを食べ、大きなプラスチックグラスに入った氷水をガブガブ飲んだ。
入院が一ヵ月になるか、二カ月になるかということさえ、加代は考えようとしなかった。猫の世話をするために、叔母の家に泊まりこむ日が多くなるだろう。
けれども、そんなことは、何でもなかった。子どもの頃、子猫や子犬を何度も拾ってきて叔母にさんざん面倒を見させた。猫の世話をすることは、加代には少し
も苦にならなかった。
病院に戻ると、叔母はもうすっかり病室に馴染んだふうで、ベッドを半分起こした姿勢でメモを書き付けていた。
夕方、加代がエレベータの前に立っているとき、ナースステーションのドアを半開きにして、中から藤代医師が「ちょっと」と呼びとめた。
「ご本人には説明したんですけれど、お家の方にも聞いておいていただこうと思いまして」
加代がなかに入ると、中腰になって、レントゲン写真を目の前の照明の入った白いボードにかけ、ボールペンの尻で写真の上をなぞるように示しながら、説明
を始めた。
「この胸のところが全体的に白っぽくなっているでしょう。肺気腫の疑いがありますね。肺の収縮力が全体的に落ちています」
予想もしなかった病名だった。
「肺気腫ですか。でも、食べられないのはなぜですか」
「おへその下のあたりに、しこりがあります。腸が腫れてますなぁ。ガスが溜まっているかもしれません」
加代は二、三、質問もしてみたが、それ以上のことは何もわからなかった。
「これから検査していきますから」と医師は言った。
暗くなるのが早い季節に入っていた。叔母はタクシーに乗って帰るようすすめたが、加代はバスの乗り継ぎを確かめておくため、本数の少ないバスを待って
帰った。
駅デパートで食事をしたので、帰り着いたのは九時をまわっていた。猫は座卓の上に置かれたダンボールハウスのなかで眠っていた。加代が蛍光灯をつけたと
き、ダンボールを切り取った入り口の縁にもたせかけていた頭をほんのちょっと持ち上げて加代を見たきりだった。そのなかは小さなマット状の電気こたつで温
められていた。「これを入れとかんと、ふとんに潜り込んできてしょうがないから」と叔母は言っていた。
加代は叔母の布団を敷き直して、もぐりこんで眠った。この家に泊まるのは、初めてだった。叔母はこれまで一度も、加代に泊まっていけとすすめたことはな
かった。
眠ろうとすると、ひゅうひゅう鳴る風の音が耳についた。バス停から歩いてきたときは、そんなに強い風があるとは気付かなかったのに、台風の風のようだと加
代は思い、風が台地の上を、黒いコンクリートの塊りとなって立つ団地の棟と棟のあいだを吹き抜けていくさまを思い浮かべながら眠った。
6 入院生活
翌朝はよく晴れていた。朝食用のパンがなかったので、加代はショッピングセンターの喫茶店へモーニングサービスを食べに行った。ガラス張りの二階の座席か
らは、櫨の並木の、きつい緑を残しながらも色が変わりかけた葉叢が朝日にきらきら光っているのが見えた。叔母は具合が悪かったため、毎年しなければならな
い家賃の減免手続きや、年金の受給継続の手続きといったものを、放っていたらしい。櫨の葉叢が両側にざわめく歩道橋を通って、県営住宅の事務所や郵便局を
まわり、加代は用事を片付けていった。
それから、頼まれた連絡先に電話を架けた。真法さんの世話人の岡さんと、隣の棟の住民の浦田さんの電話番号を書きとらせながら、叔母は言った。
「土曜日に浦田さんとこでビデオ会するんやけど、入院したから行かれへん、言うといて」
「ビデオ会いうて、何のビデオ会?」
叔母とビデオ会の取り合わせが意外で、加代は問い直した。
「Q学会の会長さんが南米やらアジアやら、あっちこっち行って、握手して来はるねん。そのビデオを浦田さんとこで上映するんや。しつこう誘われるから、
しょうことなしに行ってるねん」
そういえば、入居したばかりの頃、「この団地、学会員ばっかりや。選挙になると、あっちからもこっちからも電話が架かってきて、うるそうてしょうがない」
とこぼしていたことがあった。
Q学会は組織的な勧誘活動で有名な巨大な宗教団体で、Q学会を支持母体にもつ政党は与党第二党を占めていた。
浦田さんに電話をして、叔母が入院したことを告げると、
「はァ、わたしも、早よ入院して調べてもろたらええと、前々から言うてましたんよ。あのひと病院嫌いやさかい、なかなか、うんと言うてやない。ゆっくりし
て、あんばい診てもらいはったらええ。わたしも去年は胆石を患うて、入院して、とってもらいましたんや」とながながと、その病気の話が続くのだった。
「お見舞いに行きたいんやけど、足も腰も悪うて、よう行かしてもらわんさかい、よろしう言うといてくださいな」
叔母に伝えると、「あんな体の悪い人に来てもらわんでもええ。わたしもあの人が入院したとき、見舞いに行ってない」と素っ気なかった。浦田さんはパーキ
ンソン病とやらで、手足に麻痺もあって、1リットル入りの牛乳パック以上の重いものが持てないらしい。
「毎日いっしょに買物に行って、わたしが荷物を持ってあげてたんや」
その代わりに、叔母は、生協の購入グループに入っている浦田さんに頼んで、生協でなければ買えない商品を買ってもらっていた。
「今度の水曜に叔母さんが頼んではったネコのトイレの砂が二袋、届きますよってに、三時頃、うちの前に出てきてくださいな」
古びた団地には、雑多な宗教が隣近所の助け合いの形を借りて、強靭な蔓を伸ばしていた。叔母はその蔓を身の回りに引き寄せて、老後の一人暮らしの安心を編
み上げようとしていたように加代には思われた。
団地と大阪と病院を往ったり来たりする生活が始まった。毎日通勤していたこともある距離だから、さして苦にはならなかった。
往きにも帰りにも海を眺めた。明石海峡大橋が淡路島に連なっていた。コンクリートの巨大な支柱のあいだから、紫味を帯びた灰色の海水が溢れ出し、うごめ
いていた。
淡路島は架橋工事が始まる前から、急速に姿を変えてしまった。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」と柿本人麻呂が詠んだ島のやさしい丸
みはなくなり、斜面をえぐりとったあとに住宅地が開発された。夕方になると、対岸の灯火が賑わしく見えた。橋も七色にイルミネートされ、その色を変えて
いった。
それでも、海を見ることは加代には何よりもうれしかった。大阪のゴミゴミした街並みを見慣れた目には、その広さだけでもたいそう贅沢に思われた。
団地に一泊か二泊かし、大阪には一泊する。猫に餌をやらなければならないから、大阪には続けて泊まれない。その往き返りに病院に立ち寄った。
叔母は病院に慣れて、入院生活を快適にするこまごまとしたことに専念していた。家から持ってきたパジャマの生地は暖房の効いた病室内では厚過ぎた。パイ
ル地のソックスも厚過ぎた。スリッパも家にあるもののほうが良かった。加代が病院に行くたび、叔母は持ってきてほしい物、買ってきてほしい物のリストを渡
した。
「トイレの横の戸棚の三段目に、このくらいの大きさの箱が入っていて、そのなかの手前のほうに、プラスチックのケースに入ったピンがあるから、そのケース
のまま持ってきて」とか、「○×スーパーの二階の、階段を上がったところの右手の棚に並んでいる××化粧水を買ってきて」とか、叔母の頼み方はいつも詳細
をきわめていた。そして、目指す物はたいていその場所に見つかった。
叔母には何でも良い、どれでも良いということがなかった。家で叔母が愛用していたマグカップは愛らしい子猫のキャラクターの絵柄がついたものだった。さ
すがに病院に持ってくるのは気が引けたらしく、別な絵柄のものを持って来させたが、容量が大きすぎたり、持ち勝手が悪かったり、洗いにくかったりして、ど
れも気に入らなかった。何度も取り替えさせた挙句、「やっぱり、あのキティちゃんの、持ってきて」ということになるのだった。
「箸箱も持ってこな、あかんな」と加代が言うと、叔母は「いらん。わたしは食べへんから」といやにきっぱり断った。自慢らしげにも聞こえる口調だった。
加代が買ってきたチャイナ服のような立て襟の薄手のパジャマは、薄いグリーンと薄いブルーの二着で、小さな野の花の模様が散らばり、叔母によく似合った。
着替えた直後、回診に来た藤代医師が「おっ」と言って立ち止まり、「深水さん、見違えましたよ」と声をかけてくれた。
加代は仕事を引き受けた。大阪に帰ったとき留守電が入っていた。調査地は大震災で一面焼け野原になった駅前に道路整備と同時に再開発が進められ、高層ビル
が次々と建設されている地域だった。被害が小さかった商店街は修復して営業しているところもあったし、仮設で開業している店舗や医院も多かった。新しい再
開発ビルが建つたび、周辺一帯はがらりと入れ替わった。もう震災から数年も経つが、初期に建設された商業ビルに入居していたショッピング施設が、新建設の
ビルにそっくり移転しているところもあって、以前のビルは空き店舗ばかりになってしまっていたりするのだった。
加代は若い頃、両眼とも1.5の視力が自慢だったが、この二、三年、看板の字がはっきり見えなくなったことに気付いている。昼間はすれ違う人の顔も眩しく
て、よく見えない。白内障が進んできているのだろうと思っている。うっかりしていると看板を見過ごすこともあったし、読み違えることもあった。だから、加
代はゆっくり時間をかけて、念入りに確認して行った。
四十代のなかば、芥川龍之介の小説に描かれていたような光る歯車がぎりぎりと回りながら現れたときには驚いて眼科に行った。だが、「神経が疲れています」
という診断だけで、目薬も何も処方してもらえなかった。「目が良かった人は、これからしんどくなりますよォ」と、担当した女医さんから真に迫った口調で言
われ、そんなものかと妙に納得してから、医者に行こうという気もなくしていた。
提出する資料をまとめる作業は大阪に帰ってした。マンションのエントランスと各施設とのあいだの距離を測るのには、パソコン画面の地図上の道路をたどって
いけば、自動的に測れるソフトがあった。そのソフトを取り入れてから、まとめる作業自体はラクになったが、その分、目に負担がかかっているのかもしれな
い。
叔母は検査日程を順調にこなしていたが、胃の造影写真を撮ったあと、吐いたと言った。バリウムを飲むのなど真っ平と思っている加代は、胃の当然の反応だろ
うと思った。
7 見込み違い
病棟のエレベータを降りて病室に向かおうとしたとき、「ちょっと」と、ナースステーションから声がかかった。藤代医師が半分開いたドアから身を乗り出し
て、呼んでいた。
「深水さんのお家の方に話しておかないといけないことがありますので」
急いで病室に荷物を置きに行って、
「先生が話があるんやて。先に聞いてくるわ」と叔母に告げると、
「ヘンな先生やな。わたしに言うてくれたらええのに」とむくれた。
ナースステーションの白い照明ボードには、何枚も写真が吊るしてあった。
「これが深水さんの胃の写真です。きれいでしょ」
肉色のぬめぬめ光る粘膜が写っている写真を、どうみればきれいなのか、とまどいながら、加代は頷いた。十二指腸につながる入り口もくっきりと写ってい
た。
「胃はきれいなんですけれどね、すい臓に1センチか2センチ、黒い部分が出てるんですよ。精密検査したほうがいいでしょう。この病院には、その設備があり
ません。専門の設備のある病院に行かれたほうがいいと思います」
医師は一息に言ってのけた。
十日近く入院させて、さんざん検査した挙句、専門病院で検査し直したほうがいいという結論なのかと、加代はムカッとした。
「専門の設備のある病院って、どこの病院ですか。紹介していただけるんですね」
つっけんどんな口調になった。
「紹介はしますが…。このあたりの病院ですと、総合医療センターか、市民病院でしょうかねェ」
医者はほかにも、いくつか病院名を挙げたが、聞き慣れない名前だったり、通うのに便利の悪い病院だったりした。
「本人や身内とも相談しますので、明日お返事させてもらっていいですか」
「もちろん、いいですよ」
「こちらで検査してもらった写真なんかは、次の病院にまわしていただけるんですか」
「さあ、向こうの先生がどうされるか・・・」
医者は言葉を濁した。
「そのすい臓の黒い部分って、何なんですか」
「CA19‐9というマーカーが非常に高い数値を示していましてね。正常だと37以下なんです」
「それ、何のマーカーなんですか」
医者は愛想のいい顔に気の毒そうな表情を浮かべながら、一呼吸置いて答えた。
「がんのマーカーです」
「あ、それ、叔母には言えません。言われへんわ」
加代は慌てた。医者は肺気腫のことなど、もう一言も言わなかった。加代も忘れ去っていた。叔母ががんにかかるなどとは一度も考えたことがなかった。祖母
も父も心臓病で死んだ。心臓病で死ぬ家系なのだと思い込んでいた。だから、がんと告げられて、びっくりして慌てふためく以外になかった。
なんと叔母に説明しよう。医者がしゃべっていたあいだに書き取ったメモをながめながら、加代は迷った。叔母から頼まれていた買物をひとつ忘れていたこと
を思い出し、病院を抜け出して、買物をすませ、喫茶店で座り込んだ。メモをながめ、とりあえず、叔母に見られてもいいように書き直し、「すい臓がんの疑
い」と書いたのは細かく破り捨てた。
加代が病室に戻ったとき、叔母は新しく入った患者とおしゃべりの最中だった。四十代くらいの丸ぽちゃの主婦で、丸い眼鏡をかけていた。明らかに肥り過ぎ
だった。眼鏡を押し上げながら、甲高い声でひとしきり、クチャクチャと話した後、短い両腕をペンギンのように体の両脇に揺らしながら、自分のベッドにも
どって行った。
「なんか、すい臓に黒い影が出てるんやて。すい臓から出ている、何やらいう物質の数値がすごう高なっているんやて」
「すい臓て、どこにあるんや」
「胃の下の奥のほうや。消化器の器官やから、それで食べられへんのやろ。それで、この病院では機械がないから、これ以上調べられヘん、言うねん。もう、こ
の病院におってもしょうがないわ。原因がわからなかったら、治療もでけへん。機械がありません、やなんて」
加代はわざと不機嫌に、当り散らすように言った。
「専門の機械のある病院に紹介してくれるって。大きな病院ばっかりや。どこにする?」と、医者が名前を挙げた病院名を記したメモを見せた。
「ふうん」
叔母は気乗りしない声を出し、ベッドに座り直して、メモを眺めた。
「まあ、通いやすい、いうたら、市民病院やなァ。総合医療センターは、いっぺん誰かの見舞いに行ったことがあるけど」
それから、新入りの入院患者が部屋の外に出て行ったのを見送りながら、
「あのひと、若いのに糖尿病なんやて。しょっちゅう、この病院に出たり入ったりしてるそうや。家に帰ったら、なんぼ用心しても、すぐ血糖値が上がってしま
うんやて。あの向こうのベッドの人も糖尿病や、言うてたで」
ああ、そうだったのか、この病院はそんなふうに利用される病院だったのかと加代は思い当たった。そういえば、ピンクの看護衣を着た看護師たちはみんな若
くて親切そうではあるが、テキパキとした頼りになりそうなところはなかった。隣の病室は老人患者ばかりだった。食事時間に居合わせると、家族やヘルパーが
患者の口元にスプーンを運んで、「ほらほら、もう一口。あーんと開けて」などとやっているのが、開け放ったドアから見えた。時々、意味不明の叫び声が聞え
てくることもあった。
霧が晴れるように見通しがよくなり、さまざまなことが結びついた。真っ白な堂々とした外観を誇る大病院の内実は、経営のために雑多な患者を預かる療養施設
にすぎなかった。いざというときの備えとして、叔母があてにしていた大病院は、見込み違いにすぎなかった。
その夜、加代は病院の評判を聞くために心当たりに電話をかけた。
「総合医療センターは、長いこと入院させてくれへんよ。友達のご主人、骨髄ガンが転移して手の施しようがない、余命一年って言われて、足の手術しただけで
一ヵ月で退院させられたのよ」
市民病院のほうが、ある程度融通がきくという話だった。
「総合医療センターは治療が終わったら、すぐ退院させるそうやから、市民病院のほうがええんとちがうか」
叔母に伝えると異存はないようで、「ほな、そうするわ」と気軽く答えた。
加代は二週間近くを無駄に過ごした気がした。血液検査でガンマーカーが増えているのがわかっていたら、もっと早く転院をすすめてくれてもよかったではな
いか。一通り検査を済ませたあとで、告げるのはフェアではないような気がした。
しかし、市民病院に移っても、急性期が過ぎれば、もう一度この病院に戻ってこなければならないかもしれない。入院患者の医療費は三ヵ月経てば、保険の点数
が大きく下がる仕組みになっていた。そのため、どこの病院も三ヵ月以上入院させたがらない。長期に入院が必要な場合は、三ヵ月ごとに転院を繰り返すか、あ
るいは、いったん退院して自宅で何日間か過ごしたあと、再度入院させるのだった。
「こちらで調べきれない病気の疑いがあるのなら、もっと早く知らせていただきたかったです」と、医者に苦情のひとつも言いたかったのを、加代はこらえた。
希望を伝えると、医師はすぐ連絡をとってくれ、週明けに転院が決まった。紹介状を渡してくれるとき、医師は気弱げな笑みを浮かべて、
「マーカーの数値が八千を超えています」と囁くように告げた。
8 転院
転院の話が出てから、加代はできるだけ、荷物を持ち帰るようにしていたが、まだ、大きい紙袋二つに入りきらないほどあった。紙袋は加代が持ち、叔母は貴
重品を入れたポシェットを肩に掛け、杖をついて歩いた。
そろそろ、風が冷たい季節になっていた。病院の玄関口までタクシーを呼んだ。外気にあたる時間は少なかったが、叔母はウールの半コートにウールの帽子を被
り、マフラーを首のまわりにしっかりと巻き付けていた。
タクシーは以前に叔母と祖父とが住んでいた家の近くを通り抜けた。
「あの路地の奥が伊部さんとこや」と叔母は指さす。加代は伊部さんの顔は知らないが、大家族の奥さんで、花梨酒やラフティを上手につくる気のいいひとだと
は知っていた。叔母は、伊部さんからもらったきれいな色のテッセンを咲かせることができなかったと悔しがっていたこともあった。
新しく造成された初めて通る道路だったが、ところどころ、見覚えがある場所を横切った。タクシーは川沿いを走った。
「この川やわ。小学校のとき、みゆきちゃんと一緒に川原に降りたんや。川原の石の上にぞろっと大きな蛇が寝そべってて、びっくりして力が抜けて、動けんよ
うになってしもた。日向ぼっこしてたんやろか。みゆきちゃんが石投げて、追っ払うてくれたんよ」
大きな石を下に敷いて膨れ、鈍く光っていた蛇の腹がぞろりと動き出し、それから徐々にスピードを速めて叢のなかに消えていくのを、息もしないで見詰めて
いた感覚が蘇ってくる。
市民病院は、加代が見知っていた灰色の低層の建物ではなく、ガラス張りの新しい高層ビルに変わっていた。市バスも発着する広い正面玄関で、タクシーを降り
た。
「へえ、すごくキレイな病院になったもんやね」
叔母は黙って肯く。
正面玄関を入ったところに、病院内の案内図が掲示されていた。ソファが幾列も並んだ待合ロビーから、中央廊下が長く伸びていた。右側には各科の受付とその
奥の診療棟が櫛の歯状に並び、左手方向には検査室や食堂や売店などの表示がされていた。遠い廊下の突き当たりのガラス張りの向こうには日本庭園ふうの庭木
が見えていた。
自動ドアは二重になっていたけれど、内側のドアが開くたび、ロビーに冷たい風が入り込んできた。叔母を風の当たらない場所に座らせ、荷物の番をしてもらっ
て、加代は受付をすませた。
消化器内科の診察室だけで五、六室あった。この廊下のまんなかにもソファが並べられ、待合室を兼ねていた。予約していた時間よりも20分早く着いたので、
まだ、午前中の外来患者が診察を待っていた。向かいには、産科の診察室が並んでいる。
大きなお腹の妊婦が、幼児の手を引いて、そっくり返って歩いていく。こちらも、廊下の突き当たりはガラス張りで、紅葉しはじめた桜の樹が見える。天井近い
棚に置かれたテレビでは、大写しになったアナウンサーが生真面目な表情で、株価がバブル景気崩壊後の最安値を更新したと告げていた。
消化器内科の受付で渡された問診表に記入し、看護師に指示されるまま、加代は二つの紙バックと叔母の厚手の上着を抱えて、叔母について検査室やレントゲン
室を行ったり来たりした。叔母はあたりに目を留めながらゆっくりと歩き、「光庭」の傍らに佇んで眺めたりもした。「光庭」と掲示されていたから、そういう
ものかと思っただけで、四面をガラスで囲んだせせこましい吹き抜け空間にすぎなかった。覗き込んで見れば、底に黒い玉砂利が敷かれ石庭ふうに石が置かれて
いたが、庭らしい潤いはどこにもなかった。
外来で診て、医師が入院と判断するまで、一般の外来患者と同じ扱いらしかった。加代が付いているからいいようなものの、付き添いのいないひとはどうするの
だろうか、軽い病気でもないのに、と加代は不満だった。消化器内科の受付のカウンターのなかにも若い女性は何人かいたが、患者に手を貸してくれそうにも見
えなかった。
入院してからは点滴で栄養を摂っていたはずだが、叔母はいかにも痩せていた。大柄なのに背筋をシャンと伸ばす習慣をもっていた。骨組みもしっかりしていた
のに、肩幅が狭まったようで、背に手をあてがうと、貝殻骨が薄く突き出ているのにあたった。処置室の隅に体重計があった。
「ちょっと、計ってみ」
叔母に体重計に上らせてみると、服を着けたままで38キロしかなかった。
「浅丘ルリ子と同じやで」
不意に口から出てきた女優の名前が古色蒼然としていることに加代は愕然とした。痩せているので有名な女優だったが、加代が週刊誌でその女優の体重を知った
のは、中学生か高校生くらいのときだっただろう。
主治医は、少年のような初々しい頬をした若い医師だった。軽くめくれ上がった上唇から白い歯が覗いた。白衣の袖をまくり上げ、筋肉質の腕を机の上に突い
て、覆いかぶさるようにして紹介状を読み、同封されていた検査データを眺めて、腹立たしげに舌打ちした。
「検査の日付も書いていない」
「あのう、向こうの病院でCTとか腹部エコーとかいろんな検査したんですが、写真をもらってきたほうがいいでしょうか」
加代が恐る恐る尋ねると、
「そうですね。そうしてください」とあっさり答えた。叔母を病室に落ち着かせたあとで、加代はタクシーでもう一度、病院間を往復した。
帰ろうとすると、叔母が「テレフォンカードを買いに行く」と言って、自動販売機のある一階の出入口近くまで、加代を送ってきた。人けのなくなった廊下を
歩きながら、加代の腕をとらえて引き留めるようにした。
「わたしは、あんたがおるからええけど、あんたはどうするの。わたし、あんたを残して死なれへん」
抑えた低い声だったが、叫ぶような切羽詰った調子が籠っていた。叔母が長い間耐えてきたのであろうその怖れを、加代はまだ、自分のものとして感じたことは
なかった。
「わたしを残していくのはええけど、ネコちゃんを置いていかんといて」
加代は危うく、そう答えるところだった。
翌日から、転院のためにいったん家に持ち帰っていた荷物をまた少しずつ運びこんだ。
「看護師さんが髪を洗ってくれた」と叔母はさっぱりした表情をしていた。
9 マーゲンチューブ
叔母にすい臓がんの疑いがあると聞いた日から、加代は帰りに何度か、駅の本屋に立ち寄った。健康に関する本のコーナーには、『ガンに打ち勝つ!』だと
か、『わたしはこうしてガンを克服した』といった仰々しいタイトルの本が本棚を二段、三段と占領し、平積みにもされていた。そんなにも本人かあるいは家族
か、ガンに脅える人びとが多いのだろうと加代は改めて思った。
アガリクス、プロポリス、メシマコフ、サメのなにやら、驚異の、究極の、奇跡の、・・・そうした本には、必ず、医師に余命何ヵ月と宣告された患者がその療
法を実践したおかげでガンから生還したとか、ガン細胞がいつのまにか消えていたとかいう体験談が載せられていた。たとえ誇張はあるにせよ、すべてが丸々嘘
だというわけでもあるまい。加代はあちこちを拾い読みし、奇跡は起こり得るのだから、ガンが絶対に治らないというわけではないのだからと、漠然とした希望
を積み上げた。
しかし、叔母は食べも飲みもできない状態が続いていた。
入院の翌々日の午後、病室に入った加代はぎょっとして立ち竦んだ。叔母のベッドだと名札を確かめて覗き込んだ。叔母の、日本人には珍しい縦長の鼻腔を黄
緑色のチューブが押し上げていた。パジャマをはだけた胸のところからも透明な点滴のチューブが伸びていた。これまでの腕への点滴ではなく、胸の中心静脈へ
の点滴に変わっていた。
叔母は目を閉じていた。「チューブ症候群」という不吉な言葉が加代の頭を横切った。叔母は痩せこけ、死に近いひとのように見えた。黄緑色のチューブの先
は、ベッドの脇に吊るしたビニール袋に行き着き、青黒い液体が袋をわずかに膨らませていた。
加代がベッドの傍らで、持って来た着替えなどの入れ替えを始めると、叔母は目を開けた。
「昨日、IVHを入れる手術をしたんや。あの先生、自信家やなァ。百発百中や言うて、自慢しとったで。他の先生にも頼まれるんやって」
胸の中心静脈への点滴のための器具の装着手術をしたことを、叔母はたいしたことではないことのように言った。
「腸が詰まっとるらしいわ。腸のとこまで管を入れて、溜まっとるものを出して、腸の圧力を下げるんやて。イレウスとか言うとった」
鼻からチューブを入れて、喉の奥を通し、胃から腸まで入れているのだから、苦しくないはずはないと思うのだが、叔母はそのことを少しも口にしなかった。
「イレウスいうたら、腸閉塞のこととちがうの。ふつう、腸閉塞になったら、ものすごう痛い、いうけどな」
「痛いことはないわ」
そんな老人性の緩慢な腸閉塞もあるのだろうかと加代は思った。
叔母は点滴台を押して、トイレにも行き来した。点滴のチューブと腸液を排出するマーゲンチューブとがもつれて、苛立っていたことはあったが、すぐ慣れた
ようだった。加代が受けた異様な印象もすぐ薄れていった。
叔母は病気の話をせずに、若い医師の話をした。
「あの先生、ものすごう熱心やわ。夜でも遅うまでおってやしな。休みの日もよう出てきてはる。朝と昼からと、一日二回ずつ見に来てくれはるで。点滴でも看
護師任せにしてやないわ」
「それはいい先生にあたったやないの」
それほど仕事熱心なのは、まだきっと結婚もしてないのであろう、恋人もいないのだろうかと噂しながら、加代は叔母が医師への信頼を深めていくらしいこと
を喜んだ。
10 冬支度
24時間点滴のチューブをつけてから、叔母は前開きの下着を着るようになった。整理ダンスの引き出しひとつがいっぱいになるほどシャツを買い溜めていた
が、すべて頭から被って着るものだったから、新たに買いそろえなければならなかった。着替えの翌日は、汚れ物をそっくり持って帰り、洗濯したのと入れ替え
る。
病院は変わったものの、病院と叔母の家と大阪の自宅を行ったり来たりする加代の生活は変わらなかった。電車での往復には、加代はいつも海の見える席に
座った。海は不機嫌そうな紫味を帯びた灰色をして、くすんだ深緑の冬の色をした松林を浮き上がらせていた。
叔母の家の扉を開けると、ダンボールハウスの中に居た猫が顔を上げて、こちらをうかがい、跳びだしてきて伸びをしながら、ニャアアと啼いた。
北側の窓を開けると、雪見障子に風が当たって、破れ目をはたはたと鳴らした。障子紙は黄ばんでいた。叔母は障子を二、三年、張り替えていないのを、病院
に居ながら苦にしていた。師走がすぐ目の前に来ていた。
「わたしがやっといたげようか」と加代が申し出ると、「そうしてくれるか」と叔母は喜んだ。障子の張替えをしたことがない加代に、叔母はベッドに寝たま
ま、手順や要領を説明し、加代は傍らでメモをとった。
障子紙は買い置きしてあったし、刷毛や糊も、使う道具はひとまとめにして叔母の教えた場所にしまわれていた。
風呂場に障子を運び込んで、水で濡らしてしばらく置くと、障子紙は浮き上がって容易に剥がれた。団地の狭い風呂場で桟を洗うのは骨が折れた。桟をぐるぐ
るまわしながら、タワシで汚れをこすり流した。洗った桟を、台所の板の間に広げた新聞紙の上に横たえて乾かす。水で溶いた糊を桟に塗りつけ、その上に障子
紙を伸ばし、文鎮で浮き上がらないよう押さえていく。そんな用途に適した細長い文鎮が何本も用意されていた。叔母はひとりで手際よく障子の張替えができる
よう工夫を凝らしていた。
不慣れな加代は一ヵ所、紙が弛んだ場所をつくってしまったが、それも霧吹きで湿らせ、乾かしたあとはどうやらごまかしが利いた。張り替えた障子は真っ白
で、晴れやかな気持ちにさせてくれた。
「お正月の用意ができたわ。いつ帰って来てもええで」と加代は叔母に報告した。
オイルヒーターを押入れから引きずり出して、テーブルの下に押し込んだ。重い西ドイツ製のオイルヒーターは加代がプレゼントしたものだ。寒がりの叔母は
シャツや下着は温めてからでなければ、身につけない。石油ストーブにかざして温め、焼け焦げをつくっていたのがあまり危なっかしく見えたので、「いらな
い。危なくないから」と言うのを、無理やり送りつけたものだった。それから十年以上は経っている。オイルヒーターは年季が入って黒ずんでいた。
加代はそれを大阪に泊まるとき以外はつけっ放しにしていた。オイルヒーターがついていると、家に入ったとき空気がほんのりとやわらかだった。寒い戸外か
ら入ってきたとき、体の緊張がふわっとほどけた。猫がその上をすぐに居場所に決めてしまった。すると、今度は、猫が空気の取り入れ口の上にのしかかって塞
いでしまわないよう、気を使わなければならなかった。
高台の団地には、風が強く吹いた。うららかな陽射しがあり、木々がざわめいていると見えないときにも、ヒュウーウーと風の唸りが聞こえることがあった。
真っ赤な櫨紅葉も落ちつくして、あとに白い骨のようなカサカサした実が残された街路樹を、歩道橋の下に見ながら買物に行く。
団地のショッピングセンターでは、高齢者ばかりが目についた。子どもを連れた若い母親の姿などはほとんど見なかった。厚手の冬着に着膨れた老女たちが、
おぼつかない足取りで、あるいは杖を突き、連れ立って買物に来ていた。叔母も浦田さんと連れ立って、そんなふうに買物に行っていたのだろう。高齢男性がお
惣菜コーナーに佇み、少量パックをあれこれ選んでいる姿もよく見かけた。
大阪の加代の部屋は、仕事をしに帰るだけの場所となり、食事も外でとることが多くなって、余計に荒量とした様子を呈してきた。加代はこの部屋にしばらく
住みふっと出て行った、十余りも年下の男のことを思った。荷物も何も持たずに来た男だったが、三年近く暮らすうちに、本だの衣類だの身の回りのものが増え
て、出て行くときは、段ボール箱何箱かになっていた。近所のスーパーでもらってきた段ボール箱に、部屋の隅で、ひとりで荷物を詰めていた。その後姿を、加
代は布団に入ったままで時々薄目を開けて眺めていた。寂しいとは思ったが、引き留める気にはならなかった。目に焼き付けておこうとしたわけでもないのに、
なぜか、その部屋の隅に座っていた男の後姿が浮かんできてならない。
そしてまた、加代よりたいてい遅く帰ってくる男は、ドアを開けたとき、パソコンに向かっている加代と目を合わせて、いつでも、はっと驚いたような真剣な
顔をするのだった。1DKのアパートでは、ドアを開ければ、仕事机のあるところが見通しだった。
男が出て行ったのは、夏になる前だった。叔母が入院するまで半年ほど独り暮らしをしていたのに、そのあいだはさして寂しいとも感じなかった。部屋にたま
にしか帰ってこなくなってから却って男のことが思い出されてならなかった。仕事に追われているときはよかった。手を止めたときなどに、つむじ風のような寂
しさに巻き込まれることがあった。
11 ガラスの箱舟
病院から大阪へ戻った夜、荷物を置くや置かずに電話が鳴った。病院からの電話で、看護師らしい女性の声が加代の名前を確認し、主治医に代わった。
「すい臓に2センチから4センチの黒い影が出ています。がんの可能性が高いです。肝臓転移もあります。あれだけ大きくなると手術は難しいですね、すい臓が
んには手術がいちばん有効な方法なんですが。それと、もうひとつは今、鼻からチューブを入れてますが、腸が詰まっているんです。これはすい臓の腫瘍とは関
係なさそうですが、これを解除しないことには食べられません。吐いたりするのが止まらない。だいたい小腸の1メートル60センチくらいのところで詰まって
いるので、手術でそこのところで切って、人工肛門で外に出すようにします。これが改善しないと、検査も進みません。まず、腸の治療をして、食事を摂れるよ
うになってもらう。それから、すい臓のほうの検査を考えましょう。まず、人工肛門の手術ですね。手術は外科の森嶋先生に執刀してもらいます。早急に手術日
程を組まないと・・・」
「はあ、年末になってしまいますね」
「いえ、そんなに待てません。それで、ご本人に説明したいので、ご一緒に聞いていただきたいのですが」
「明日、病院へ行く予定、しています」
「六時以降にならないと、時間はとれませんが、よろしいですか」
「はい、四時頃にはそちらへ行きますので」
「ご本人から連絡してもらうようにします。ご本人にはまだ何もお話しておりませんので、よろしくお願いします」
あの真新しい病院の、照明を落とした廊下のまんなかに、そこだけ明るく浮かび上がっているナースステーションを、加代は思い浮かべた。どこも白っぽいガ
ラスの箱舟のようなナースステーション。夜八時にもなれば、看護師はほとんど残っていない。あの初々しい頬をした医師が肘掛付きの椅子の向きを時折ぐるり
と回転させながら、電話をかけている。それは、病室への行き帰りに加代が見かけた光景だった。医師と看護師と、二、三人しかいないガランとしたガラス張り
のナースステーション。
病院に入ったら、病気は病人のものではなくなってしまう。医師よりももっと抽象的な、病院に属するものになり、病人の苦しみや不安や痛みも、何か透明な箱
に入れられたように宙に吊り下げられた非現実なものとなってしまう。医師は検査をし、病気を突き止め、治療の方針を出した。その方針に従うしかないのだろ
うと加代は思う。
「すい臓がんは痛みが激しいんですが、いまのところ、幸い痛みがないようなので助かっています」
「ひどく痛むものなんですか」
加代は驚愕し、恐怖する。
「はい、のたうちまわるほど痛む場合があります」
医者の言葉は石のように胸に詰まって、どうしよう、どうしよう、そんなことになったらどうしよう、と加代はうろたえるばかりだった。日数を数えてみれば、
転院してからちょうど、二週間になっていた。
12 手術
新しい病院には、テーブルや椅子をゆったりと配置した明るい喫茶室のような談話室があった。その並びのカンファレンスルームに案内されて、コの字型に並
べられた会議机を前に、叔母と加代は並んで座って、講義を受けるように説明を聴いた。
ホワイトボードに医師は、人の胴体のかたちと腸の絵を手早く粗っぽく描いた。病名は言わずに、マジックですい臓の位置におぼろに影をつけながら、「この
あたりに悪いところがあります。けれども、まず腸の詰まりを解除して腸の治療をしないことには、検査も治療もできません」と言った。
「腸が詰まっている手前で腸を切って、外へ出します。おへそのちょっと下のこのあたりに、人工肛門をつくることになりますが、いいですね」
「いいですね」と言われても、いいも悪いも何の判断もできなかった。人工肛門がどういうものなのか見たこともなく、どういうふうに排泄するかも見当がつか
ないまま、叔母も加代もあいまいにうなずいた。
「手術をするのはわたしではありません。外科の医師ですから。近々、外科の医師の診察を受けてもらいます」と医師は手術までの順序を説明した。
「とにかく、食べられるようにしてもらわんことには。ずうっと管を通したままでおるわけにもいかへんやろ」
廊下を並んで病室へ戻りながら、加代は叔母に話しかけた。食べられるようになれば、奇跡を起こす可能性のあるアガリクスやプロポリスも飲めるようになるだ
ろう。食べも飲みもできない状態では奇跡に期待することもできないのだった。
外科医の森嶋医師も若かったが、主治医よりは四、五歳年長のように見えた。堅実で生真面目な機械技師のような風貌をしていた。
寒波が来て冷え込んだ朝、加代は通勤時間帯のバスに乗って、病院に向かった。叔母はすでに同じフロアにある消化器外科の病室に移っていた。執刀医と麻酔医
の説明を聴き、同意書を書かされた。署名するのには怖れを感じたが、署名しなければ手術を受けることはできないのだった。よくできた仕組みだと加代は思
う。
病室に戻って午後からの手術を待っているときに、看護師が来て、「急性悪化の患者があり、緊急手術が必要ですので、深水さんの手術は延期になりました」と
告げた。
「しょうがないわねェ」
加代は叔母と顔を見合わせた。加代は時間の自由がきく仕事だから、いつに延びてもかまわないのだが、休みにくい仕事を持っているひとは困るだろう。あるい
は、加代の時間の自由がきくことも病院側の計算のうちに入っているのかもしれなかった。
手術は改めて翌日の午後三時からと決められた。当日、加代は、病室から移動用ベッドに載せられて手術室に向かう叔母を見送り、手術室と同じフロアにある
待合室で手術が終わるのを待った。光庭に面した白っぽい部屋で、壁に沿って低い椅子が並べられているだけで、ほかに何もなかった。加代は椅子に座って、
持ってきた本を読もうとしたが、頭に入ってこなかった。親兄弟や親類まで来ている家族もあり、交代で出たり入ったりしていたが、加代はひとりきりだった。
母は以前から見舞いに来ると言っていたが、叔母が拒絶していた。東京に住んでいる弟は休みがとれたら行くと言ったが、間に合わなかった。妹は子育てに手が
離せなかった。
喉が渇いた。売店に飲み物を買いに行こうとして、たまたま入ってきた看護師に、「ちょっと出てきていいですか」と尋ねた。
「容態が急変することがありますので、できるだけ居てください」
「急変って、どんな・・・」
「血圧が下がったり、輸血が必要になる場合があります」
待っているのは、ただ手術が終わるのを待っているのではない。そういう緊急事態に備えて待たされているのだと加代は思い知らされた。その部屋には、ス
ピーカーで患者の家族を呼び出す連絡が入った。
手術時間は一時間半と聞かされていたが、すでに過ぎ去っていた。ずいぶん長い時間だった。腸の手術で危険なことはあるまいと加代は思おうとした。
賑やかな家族が出て行って、初老の女性と取り残された。三時間半もたって、スピーカーの声で呼び出されたときには、最後に残されたひとの思いを気にかけ
る余裕もなかった。
手術室の前の廊下で、薄緑色の手術衣のまま帽子もとらず、森嶋医師は立ったまま説明した。
「外科でできることはすべて終わりました。すい臓の手術はしていません。かなり大きくなっているので、手術はできません。がんが腸のあちこちに飛び散って
いました。それで腸が塞がっていたわけです。あちこちくっついて塞がっていたので、できるだけ腸を長く残すようにしたのですが。がんは取り切れないのを、
そのまま塞ぎました」
「食べられるようになりますか」
「ええ。一、二週間もしたら、少しずつ食べてもらっていいです。ただし、腸が短いので、吸収できません。人工栄養は必要ですね。ただ、しばらくは食べられ
ますが、また塞がってくる可能性はあります。そうなれば、もう一度手術するのは、難しいですね」
「治療は・・・」
「すい臓がんの治療は、手術以外にほとんど有効な方法はありません」
「レントゲン照射はできないのですか」
「あまり効果は期待できません」
医師は堅苦しい表情を崩さず説明した。気休めになる言葉さえ、一言も聞けなかった。
「塞がってくるとしたら、どのくらいで・・・」
「半年くらいか、二、三ヵ月ということもあります」
「なんとか、方法はありませんか」
「あとは内科の先生とよく相談してください。外科でできることはすべてしました」と、医師はもう一度、几帳面に念を押した。
重い塊で胸が詰まったまま、加代は叔母のストレッチャーについて、病室に戻った。手術当日、一晩だけ借りることができた個室だった。以前から個室を申し
込んでいたが、いつも、もっと症状の重い患者でふさがっていたのだった。個室のソファはベッドにも組み替えられ、付き添いが泊まれるようになっていた。
点滴をつけられ、鼻からチューブを通され、尿管をつけられて叔母は目を閉ざして眠っているらしい。加代は自分の寝支度を整えてから、夕食をとりに、病院
の前のレストランに行った。クリスマスの飾り付けがキラキラとし、ポインセチアの寄せ植えが並べられた店内の、照明を落とした片隅のテーブルに座って、ロ
ウソクをかたどったライトに光が走るのを眺めながら、腹立たしさが募ってくる。あれだけ、いろいろな検査をしてみても、結局、開腹するまでは、腸にがんが
進行していることすらわからないものなのか。現代医学といっても、その程度のものなのか・・・。
遅くまで開いている店だったが、客は、背広を着たサラリーマン風の男がひとり、窓際のカウンターで週刊誌を読みふけっているだけだった。家庭的な雰囲気
の居心地のいい店の片隅で、加代は胸に重く詰まったものを解きほぐし、飲み下そうとした。
13 赤ん坊
東京で会社勤めしている弟が「やっと休みがとれた」と言って見舞いに来たのは、手術から三日後だった。弟はいわば、深水の家の跡取りということになるの
だが、東京暮らしが長くなり、もう関西に戻ってくる気はなさそうだった。義妹は十数年来、神経症を患っていて、乗り物に乗るとパニックになる症状があり、
東京を離れられなかった。
加代は弟に、叔母の病状を電話で伝えてはいたが、なんだか思いの通い合わないうそ寒さを感じていた。
すい臓がんだが切除手術はできないらしいと伝えたとき、弟はすぐさま、「叔母ちゃん、いくつやった」と尋ねた。
「七十八歳か。まあ、しょうがないなァ」
祖父が死に、父が死に、叔母が死ぬ。当然の順番だと考えているらしかった。弟の意識のなかには、順に死に行く者としてしか、叔母は位置付けられていない
のだろう。たぶん、加代の内にもあるそんな思いを弟の声音のなかに聞き取って加代は不快に感じたのかもしれなかった。
弟は長めの休暇をとって帰ってきていた。実家に泊まっていた五日間、弟は妹の運転する車で、毎日、見舞いに来た。弟は加代の三歳下だったが、妹と加代は
十八歳離れていた。
妹は、生まれて半年を過ぎたばかりの子どもを連れてきた。男の子のようにがっしりした体格のいい赤ん坊は、叔母のベッドの布団の裾に転がされ、大きな口を
開けて笑った。叔母が指を差し出すと、握って振る仕草をして笑った。鼻から緑色のチューブが出ている叔母の様子も赤ん坊を恐がらせはしなかった。
「ええ子や。ええ子や。どこに出しても恥ずかしない赤ん坊や」
叔母は、まるで赤ん坊の品評会にでも出品させるかのような褒め方をした。病院のベッドの上に転がされ、笑い声を立てている赤ん坊は、希望そのもののように
病室を明るくした。看護師たちも通りすがりに、赤ん坊の頬を突付いたり、抱き上げたりして、あやして行った。
「赤ん坊を病院へなんか連れてくるもんやないで。病院はばい菌だらけで汚いからな。はよ、連れて帰り」
叔母はひとしきり赤ん坊の相手をしたあとで、妹に言う。けれども、妹は気にも留めずに、次の日も、その見るからに重そうな赤ん坊を、ひょいと片手で抱きか
かえて現れた。
「お兄ちゃんは、お正月はもう帰って来られへん、言うから、お姉ちゃんも泊まりに来たらどうなん?」
妹は母の言葉を伝えるらしかった。妹夫婦は実家で母と同居している。母は高齢になってから産まれたこの末娘に愛情を注ぎ、入り婿のような形で夫を迎え入れ
た。妹が流産を繰り返したあとで、ようやく待望の孫が生まれ、母は嬉しくてならないようであった。小柄な母が大きな赤ん坊を抱えてまわり、「おばあちゃ
ん、腰が痛いよ」とこぼしながらも、両腕をまっすぐ差し出してだっこをせがまれると、目尻を下げ抱き上げずにはいられないのだった。
義弟は体の大きな、よく食べ、活力に溢れ、よく響く声で話し、持て余した体力をスポーツジムやスイミングクラブで費消せずにはいられないといったタイプの
人間で、加代の別れた夫の悠介とよく似ていた。いかにも、両親の愛を一身に受けてのびのび育ったという感じがした。病弱だった父や、神経質で食が細く、い
つも胃の痛みや下痢を訴えている弟とは、まったく別人種のようだった。
妹が結婚したのは、加代が悠介と別れる一年ほど前だった。妹より四歳年下の、まだ、就職も決まっていない男との結婚に母は反対したが、加代と弟とで母を説
得した。
「人柄が信頼できたら、お互いに助け合っていけばいいんやから、仕事なんかにこだわらんでもええやないの」と加代は母に言ったが、悠介と別れた後だった
ら、賛成しなかったかもしれないと思う。
義弟は特殊なスポーツ用品を扱う店を開く計画を着々と進めていた。ターゲットとなる学生の多い街の中心地に、適当な土地を見つけ、すでに購入していた。
両方の親からの出資だった。夕食後のひととき、建物の設計図や外観図を持ち出してきて、機嫌よく説明してくれた。一階が店舗部分で、二、三階が住居、四〜
六階は学生向けのワンルームマンションになっていた。二、三階には、義弟の両親が入居するらしい。バブル景気の崩壊後、賃貸物件は供給過剰が長く続いてい
た。入居者が集まるだろうかと心配する加代に義弟は闊達に答えた。
「どの部屋も光がいっぱい入るように設計されているんですよ。それと、一室あたり、かなり広くとってますからね」
「この頃は学生でも、家具やなんか多いからね。広い部屋は人気があるのよ。大丈夫よ」と妹も口を揃える。妹は楽天的だったが、この妹は、学生のとき悪質な
詐欺商法にひっかかったり、友達の借金の連帯保証人になったりして、加代が大騒ぎして弁護士に相談に行き、なんとか被害を食い止めたことがあった。
義弟は建築費がいくらかかるとも言わず、資金をどう工面するとも言わなかった。加代も弟も問わなかった。
翌朝、加代と弟は犬を連れ、散歩に出た。住宅地の外れにある大きな溜め池のまわりを一周するのが、いつものコースだった。犬は通いなれた道を、ぐいぐい
と人間を引っ張っていく。
周囲には雑木林が残り、枯れ草の土手に囲まれた水面に、水鳥が音もなく滑り、後ろに幾重にも波紋を拡げていく。そんな初冬の風景は、これまでなら染み入
るように美しく見えたはずなのに、ぼやけて、汚れた車のフロントガラスを通して見たように濁っている。白内障が進行してきたせいだと思いながら、加代は悲
しくて何度も目をしばたたいた。
「どう思う?うまいこと行くやろか?」
昨夜、義弟の前では持ち出せなかった疑問を加代は口にした。
「さぁな、むずかしいのと違うかな」
「バブルのときならともかく、あんな店、流行るんやろか。うちの家族はスポーツには縁がないから、わからへん」
「わからんものに反対もできんやろ。やらしとかな、しょうがない」
「親の金を当てにして、虫のええ話やとは思うけど。お母ちゃん、嬉しそうやしなァ。あの子、あやしてるときは、とろけそうな顔してるで」
「そやなァ」
「借金して建てるいうのがコワイな。若いからできるんやろけど。下手したら、何も残らへん。あんたも覚悟しといたほうがええで」
「覚悟はしてるよ」
日頃煮え切らない返事ばかりしている弟、歳とともに優柔不断で事なかれ主義だった父親そっくりになってきた弟だが、これだけはきっぱりと言った。加代は
母の生きているうちさえ破綻しなければいいと思っていたが、そのことは口にしなかった。
14 菊乃さん
叔母は急に、菊乃さんの長女の陽子ちゃんに会いたい、会ってどうしても聞いておきたいことがあると言い出した。
菊乃さんは叔母の従姉妹の京子さんの養女だった。叔母は京子さんとは姉妹のように育って、仲が良かった。京子さんは羽振りのいい工場経営者と結婚したが、
子どもができず、芸者の子を貰い子にした。離婚したあとも子どもは手放さず、地元の会社の社員食堂の賄いをしながら、一人で菊乃さんを育て上げた。
加代の祖父母は面倒見のいい人だったので、京子さんは里帰りをするように、祖父母の家を訪れた。菊乃さんも子どもを連れて来た。祖父母が亡くなってから
も、叔母とは親しい付き合いが続いていた。
菊乃さんは色白で、娘の頃は、竹久夢二の描いた少女雑誌の挿絵の女学生みたいだったが、年齢を重ねるに連れ肉付きがよくなって、たっぷりした体つきになっ
た。菊乃さんの結婚相手はヤクザだったという。暴力を振るわれるようになって逃げ出し、子どもたちを施設に預けて、しばらく姿をくらましていた。何年かし
て夫が諦めたと見極めがついてから、菊乃さんは戻ってきて、京子さんと一緒に、子どもたちを引き取って暮らすようになった。
京子さんは色が黒くて、背が高く、痩せていた。勝気で、他人の何倍も働くということが自慢だった。
「今まで三人でしてた仕事を、他人のやり方が気に食わんからいうて辞めさせて、一人でやってるんやて。そりゃ、雇う側にしたら、少々給料上げても、そのほ
うがトクやわ。おばさん、おばさん、いうておだて上げられて、馬車馬みたいに働いて・・・、アホやわ」と叔母は言い言いしていた。
京子さんは心臓がよくないのにヘビースモーカーで、一日に何箱も吸った。足の静脈の詰まる病気になって、足を二回切断したあと、亡くなった。叔母は、会
社勤めで忙しい菊乃さんに代わって病院に頻繁に通い、病人の面倒をみていた。
「足を少しずつ切っていかなアカンやてなァ。そんなむごい病気があるんやなァ」と叔母は痛ましがった。京子さんが亡くなってから十年ほど経つ。
一年余り前、菊乃さんは自殺した。より正確に言えば、心中だ。菊乃さんは六十歳をいくつか超えていたはずだが、年上の男性と付き合っていた。家庭を持っ
た人だったらしい。旅先で亡くなったので、陽子ちゃん夫婦が遺骨を引き取りに行った。
叔母が陽子ちゃんから、菊乃さんの死を知らされたのは、それから二、三ヵ月後だった。
「叔母さん、すみません。おかあちゃんが、葬式もしてくれるな、どこにも報せてくれるなと遺書に書いてましてん」と、陽子ちゃんは電話口で泣いたという。
「なんで死んだのやろなァ。死なんでもええのになァ」と叔母はやるせなげに嘆息した。「疲れてたんやろなァ。疲れてしもて、もうどうでもようなってしもた
んやろか・・・」
「あの子、わたしに世話になったのは、一生忘れへん、叔母さんが病気になったら、絶対、面倒見させてもらうから、と言うてたのに」
菊乃さんの二人の子どものうち、長女の陽子ちゃんは公務員と結婚して安定した生活を送っているようだったが、弟の健太は仕事もせず、家に籠りっきりに
なっていた。
「菊乃、仕事がきつい、言うてたからなァ。もっと楽なところに変わったらええのに、言うたら、あの児を食べさせていかなアカンから、言うてた。健太のこと
苦にしとったからなァ」
加代が覚えているのは、小学校二、三年生頃の健太でしかない。軽い知的障害があり、どもる癖があった。姉にからかわれて、どもりながらもむきになって言い
返していた邪気のない愛らしい顔しか思い浮かばなかった。
色白のぽっちゃりした仔豚のような男の子だった。高校を出た直後は運送会社に就職した。親方が可愛がって使ってくれると京子さんが嬉しそうに話していた時
期もあったが、二年ほどでそこを辞めたあとは、どこにも働き口が見つからず、家に引き籠って、テレビやビデオばかり見て過ごしていたようだった。
それでも京子さんが足の切断手術をして退院してきたときは、京子さんを背負って団地の階段を上り下りしてくれたそうで、「やさしいとこあるわ。見直した
わ」と、京子さんは手放しで喜んでいた。
京子さんは元気なときから、健太のことを叔母によくこぼしていた。
「この頃、横幅も出てきて、父親そっくりや。あの大きいのがずうっと家におってみ、暑苦しいてしゃあないわ」
「さっさと家から出て行かしたら、ええのに。家を出たら、働かなしようがないやろに」
「そんなもん、出て行きますかいな。お金もないのに。それに、菊乃がな、何にもよう言わへんねん。一辺、子どもを手放したいう弱みがあるんやろな」
傍で二人の会話を聞いていた加代は、昔の弱みだけではないのだろうと思った。菊乃さんには男付き合いが絶えなかった。京子さんは気丈で色気も男っけも感
じさせないタイプだったが、菊乃さんの男付き合いには不思議なほど寛容だった。
菊乃さんは亡くなった後、陽子ちゃんと健太に八百万円ずつの保険金を残していたらしい。ところが、健太はその保険金を半年余りで使い果たし、親戚のだれ
かれに借金を申し入れるようになった。叔母が陽子ちゃんから聞いた話だ。陽子ちゃん一家はその頃、それまで住んでいた公団住宅から郊外の一戸建て住宅に転
居したから、おそらく保険金は住宅購入の頭金になったのだろう。
「菊乃は言わなんだけど、菊乃の居るうちからやってたんやろな。健太のパチンコ狂いは急に始まったことやないわ。陽子ちゃんに聞いたら、親にお金をせびっ
とったらしい。悪い友達もできとったみたいや。暴力を振るうときもあったらしい。そやけど、半年くらいで八百万円を使い果たすやなんて・・・。パチンコ
て、そんなに使うもんやろか」
叔母には、どうにも腑に落ちないらしい。
「近ごろのパチンコは、玉を入れるのも弾くのも自動やから、早いらしいで。損しかけたら、あっという間に五万や十万は消えてしまうって」
加代が言うのも、どこかからの受け売りにすぎない。
「健太はうちにもお金を貸してくれ、いうてきた。電話かけてきたときから、何や、おかしかったわ。仕事が決まって、もう行ってるんやけど、生活費がない、
言うんや。こっちは喜ぶわなァ。この不景気によう仕事が見つかったもんやと思うて。最初、十万円貸してくれ、言うたけど、叔母さんも貧乏やから、ようけは
よう貸さん、言うたら、いやにあっさり、五万円でええわ、と金額を下げてきた。五万でも十万でも、どっちでもええみたいやった。借り慣れしてる感じやった
なァ」
そのあとも一、二度、借金の電話があったが、叔母は「貧乏やから」と断ったという。
「陽子ちゃんも可哀相に。健太があてにならんから。つらい思いをしたやろう」と叔母の話はまた菊乃さんの死に舞い戻る。
叔母は陽子ちゃんから何を聞きたがっているのだろう。死んだ菊乃さんの心の内をこそ、叔母は知りたいのだろうが、陽子ちゃんに聞いてわかるものでもない
だろうに。
電話で見舞ってくれるように頼むと、陽子ちゃんは明るい賑やかな声で応じた。
「いやァ、叔母さん、入院してやったの。知らんかって、悪かったわ。行く。行く。二、三日中に行かしてもらいますわ。知らせてもろて、ありがとう」
その言葉通り、陽子ちゃんは見舞いに来てくれ、加代が病室に入っていったとき、ジャンパー姿のまま、ベッドサイドの椅子に腰掛け、上体をベッドの上に傾
けるようにしながら、話し込んでいた。加代を見て、
「いやァ、叔母さんがあんまり痩せてはるから、わたし、わからんかったのよ。何べんも名札、見直して、確かめたんよ。叔母さんもわたしが太ってるから、わ
からんかったって」
陽子ちゃんは笑い話のように言うが、ほんとうにほっそりして可憐だったウェディング姿に比べて、びっくりするくらい太っていた。健太の話が出ると、
「あの子は今、刑務所に入ってます」と、また叔母と加代をびっくりさせた。「うちにも、金貸してくれとうるそうに言うてきて、うちの人が、ええかげんにせ
え、いうて怒鳴ったら、怒って玄関先にガソリンを撒いて、火ィ点けたんです」
「へえっ」と、叔母も加代も声を上げた。
「火事にはならんかったの?」
「ええ、玄関先のガレージのとこでしたから。消防車呼んで、すぐ消えたんですけど」
「誰もケガ、せえへんかったの?」
「ええ、あの子も本気で火ィ点ける気はなかったんですよ。コンクリの上でしたから。はよ、警察へ突き出してくれ、刑務所に入りたいんや、殺される、とか言
うてました。どこやコワイところから借金してて、返さへんかったら、殺される、いうて。初めてやないですねん。その前も刃物持って乗り込んできて、110
番したこと、あったんです」
刑期は二年半だが、入っているうちはいいが、出てきたら心配だと、陽子ちゃんは顔をくもらせた。
「あの子も気が弱いから、他所へは、よう行きませんねん。それで、うちへばかり来るんですわ」
姉らしい口振りはしながらも、弟が人並みの生活に戻る期待は少しも持っていず、出所後の心配ばかりしていた。
「想像がつかへんわ。わたしは健太君の小学校のときしか知らんから。素直なかわいい子やったけどなァ」
加代が言うと、陽子ちゃんは「いや、あんなときの面影、どこにもありません」と、いやに力をこめて断言した。加代が加わってから、菊乃さんの話は出な
かった。
「わたし、買物して帰らなアカンから、そろそろ失礼させてもらいます」
陽子ちゃんが立ち去ったあと、
「なんや、聞きたかったこというて、聞いたん?」と尋ねると、叔母は「うん、もう、ええねん」と短く答えて、目を閉ざした。
15 励まし
ベランダから見下ろすと、家庭菜園の向こうに、児童公園が見えた。お決まりのブランコや滑り台や砂場があったけれども、遊んでいる子どもの姿を見かけた
ことはなかった。
砂場のなかにも、ベンチのまわりにも、ひょろひょろしたヨモギやカヤツリグサが生えていた。大きな灰色の猫が陽に温もったコンクリートの上でどたりと昼寝
をしていたり、児童公園をのしのしと横切って、加代が見ているのに気付かず、砂場の土を掻いて、気取った様子で用を足していたりした。そして、向かいの棟
の外れには、葉を落とした桜並木の向こうに、その季節には青っぽい沈んだ緑色をした、こんもりした鉢伏山が見えた。
そんな午前中、時折、電話が架かってきた.
「叔母さん、どんな具合? 布団、干したあるから、居てはると思うて」
「ええ、人工肛門の手術は終わりましてんけど、まだチューブつけたままです。二週間ほどしたら、少しずつ食べられるようになるらしいんですけど」
「隣の棟にも、人工肛門つけたおじさんが居てはるけどな。もう、手術して四、五年になるけど、元気やで。バイクで走り回ってはる」
「はあ、そんなふうになれたら、いいんですけれど」
「大丈夫やわ。難しい手術やないし、お正月には帰ってこれるわ」
加代は叔母の知り合いに、病名を告げなかった。叔母に言っていないことを話すのは裏切りのような気がするからだ。
「お見舞いに行ってあげたいんやけどな。わたし、足が悪うて、よう行かしてもらわんさかい・・・」
ながながと弁解が続いた。浦田さんは生協の注文チラシを階下の郵便受けに入れておいたと言った。
「叔母さんがいつも注文してはった紅茶が注文書に載ってるさかい、注文しときましょうか。これ、めったに出てないから」
叔母しか飲まない紅茶は、叔母が入院して以来、減っていないし、戸棚には予備の缶もあった。加代は、浦田さんの親切が却って煩わしく思われないでもない。
「あんたも大阪のお家があってやよってに、たいへんやな。お家のほうは大丈夫?」
「ええ、まあ、なんとか」
「旦那さん、ええひとやねェ」
加代は会話を続けるのが、だんだん苦痛になってきて、電話の切りどきをうかがう。
「今日も、これから大阪へ帰ろうと思うてるんですけど」
そこまで言えば、さすがに相手も「そりゃ、長話してたらあかんなァ」とようやく引き下がるのだった。
加代は叔母に、浦田さんの長電話につきあうのがしんどいとこぼす。
「あのひと、詮索好きやねん。なんにでも、首つっこむの、好きやからな。こっちのこと、知りとうてしょうがないねん。気にせんでもええで」
「わたしが離婚した、言うてないの?」
「まぁ、ええやんか。適当に話を合わしといたらええ」
「ほんまのこと、言うといてくれたらええのに。余計なことに気を遣わなあかん」
加代は叔母がいつか、浦田さんのことを話して、「あそこの娘さんの婿さんはNHKに勤めてて、それがご自慢やねん」と言っていたことを思い出す。ご近所
への叔母のささやかな見栄なのかとも思われた。
真法さんの世話人の岡さんは、いつも二、三人の信者さんたちと一緒に来た。車に乗せて来るのだろう。叔母のベッドを取り囲んで話し込んでいたが、加代が病
室に入っていくと、それをしおに引き上げる態勢になった。
叔母はベッドを少し起こした姿勢で、皆から「お母さん」と呼ばれている高齢の女性に握手を求めた。背は少し屈まっているが、大股で歩き、がらっぱちな感じ
がするほど威勢のいい口調で話す人だった。叔母よりもいくつか年長のこの女性は、肝臓がんの手術を繰り返したのち回復し、今は元気に出歩いているという。
奇跡の人として病人を見舞って元気付けることを自分の使命と心得ているらしかった。叔母は差し出された手を両手で包むように握って、上下に振った。
「温かい手ですわ。元気が伝わってきましたわ。ありがとう、ありがとうね」
信者さんたちは叔母のベッドの上に、本山の護摩壇で燻べた護摩木とかタオルとかお守りとか、万病に効くという聖水の入ったペットボトルとかを置いていっ
た。
けれども、信者さんたちが帰ったあと、叔母はその訪問について一言も話さなかった。信者さんたちが置いていったものも、加代が気付かないうちに、どこか目
に触れないところに片付けてしまうらしかった。
16 魔法の薬
手術から一週間ほどで抜糸し、チューブが抜けたら、重湯のようなものから、少しずつ慣らしていきますと告げられていた。加代はインターネットで探しだした
養蜂園から、プロポリスの小瓶を送ってもらい、待ち構えていた。プロポリスはミツバチの唾液に含まれている、蜂の巣を塗り固める成分で、物を腐らせない作
用とか、人間の免疫力を高める作用があるという。加代がこれを選んだのは、買ってきた本のなかで、大勢の医者が名前と病院名入りで推薦の言葉を載せていた
からだった。アガリクスはガンに効くと余りにも喧伝され過ぎていて、叔母に病名を知られてしまいそうな気がした。
加代は前もって、主治医から承諾を得ておいた。液体状のものにしたのは、喉や食道や胃や腸の粘膜から吸収されやすいと思ったからだ。ガラス製のスポイドで
吸い上げたその液体は、黒緑色のどろりとしたタール状で、魔法使いの秘薬のようにも見え、頼りになりそうな気にさせられた。
或る午後、病院に行くと、叔母はチューブが外れ、つるんとした顔をしていた。午前中に、人工肛門の抜糸を半分すませたという。
「へぇ、半分て、なんでや?」
「さぁなぁ」
叔母の鼻腔は少し歪んだままで、チューブでこすれた擦り傷の赤い跡が痛々しかった。
翌日には残りの半分の抜糸もすみ、それから水を飲めるようになり、徐々に重湯やプリンを食べられるようになった。
「今朝は味噌汁が出た、おいしかったわ」という日があった。
叔母が食べられるようになるとすぐに、加代はプロポリスを勧め、「腸の傷を早く治して、腸の消化吸収を活発にする薬や」などと説明した。
叔母は胡散臭そうに液体をながめ、スポイドで舌の奥に滴らせ、なんともいえない渋い顔をした。
「えげつない味や。口の中が痺れるわ。飲みにくうてかなわんわ」
加代は魔法の薬に期待するあまり、飲みにくさのことなど少しも考えていなかったので、慌てて薬局でカプセルを買ってきて、液体を詰めて飲むように勧めた。
カプセルに入れると、効果が薄れるようで残念だったが、どんな形であれ飲ませたかった。
外科医は「いつまた詰まるかわかりません。今度詰まったら、もう手術はできませんから」と言ったではないか。がんのグリグリが発達してきて、腸を詰まらせ
ると、主治医はその様子を、両手で拳固をつくって回しながら近付けてみせ説明したではないか。この青黒いタール状の液体が腸壁に沁み込んで、ガンを食い止
める力を持っていると加代は信じたかった。
加代が期待を持ったほどには、叔母は食べられるようになったことを喜んでいるようではなかった。
「食べられるようになって、よかったやないの」と言うと、「別にわたしは食べたいことあらへん」と愛想のない返事が返ってきた。それでも少しずつ食欲が出
てくるらしく、「スプーンとスプーン入れを持ってきて」と頼んだ。
加代は冬瓜をすりおろし、カニ身をほぐし、葛でとろみをつけたスープを作って持っていった。「どう、味は」と聞くと、「全然、わからへんわ」と答えた。
病院食が付きはじめ、お浸しや鶏肉の焼いたのや和え物などが出た。「おいしい」とは言わず、「よう考えてあるわ」と叔母は感心しながら食べていた。
そうして少しずつ食べ始めた頃から、二日と空けずに、人工肛門に取り付けた袋が外れ、パジャマや下着を汚してしまう事態になった。加代は着替えを買い足
し、毎日のように病院に通って、汚れ物を持ち帰り、取り替えた。着替えの予備は二組置いておかなければ安心できなかった。
「明日は来んでええから」と加代の帰り際に叔母は言うのだが、翌朝には「また、汚れ物ができたから、取りに来て」と電話してくる。
そんな繰り返しで、叔母は苛立っていた。
「外科の先生、腸を短うに切りすぎたんやないか。もういっぺん手術して、つなぎ直してもらわれへんのか」、「人工肛門の位置が悪いから、すぐ外れるのとち
がうか」、「先生、もっと奥に悪いとこがあるから、もういっぺん手術せなあかん、言うてたやろ。わたしは早うしてもろても、かまへんねんで」などと叔母の
不満はエスカレートしていった。
加代としては気安く相槌を打つわけにはいかない。
「そんなに続けて二回も、手術できるものやないで。検査するのも難しいのに。食べられるようになって、体力つけて、それからの話や。先生はそう言うてやっ
たやろ」
加代は叔母が腸の手術を、まるでホースを切ってつなぐように、余りにも簡単に考えているらしいのに呆れる。叔母のなかで、病気がどのように捉えられてい
るのか見当もつかない。
17 バスストップ
大阪からの帰りに病院に寄ると、病院を出るのは夜の八時、九時になった。駅前のロータリーの噴水が止められ、その上に大きなクリスマスツリーのイルミ
ネーションが飾られていた。噴水池のなかにもトナカイや星の形のイルミネーションが点灯され、水面に影が映って、賑わしさが倍加された。
歩道橋を歩きながら眺めると、見る角度が変わるにつれて星がトナカイを追い越したり、サンタを追い越したりした。イルミネーション自体は動かないのに、
動いて見えるのが不思議で、加代はその前を通り過ぎるたび、目が離せなかった。
寒波が来ていた。加代は何年も前に買った毛糸の帽子を引っ張り出してきてすっぽりと被り、毛糸の長いマフラーを首に二重に巻きつけて完全装備していたが、
バス待ちの時間には寒さを耐えている体に力が入ってこわばった。長い待ち時間のあとにようやくバスが来て、暖気が足もとから吹き上がってくる座席に座る
と、体がほんわりほぐれていく。快く揺すられ、いつまでもバスに乗っていたい気持ちになる。
バスの運転手の座席の背面に、病院の広告ポスターが掲げられている。オレンジ赤の角ばった大きな字で、「終末期在宅医療」、「中心静脈栄養」、「在宅酸
素療法」、「人工呼吸器」などと書かれている。斉藤クリニックとあるその広告を、加代は叔母が膵臓がんの宣告を受けて以来、なんらかの怖れの入り混じった
気持ちで眺めざるをえない。
バスが停まる。今年流行の短いコートとブーツのあいだに伸びやかな脚を覗かせた若い女性二人が続いて降り、肩を寄せ合い頭を傾け合ってお喋りしながら、遠
ざかっていく。
まだ、加代が降りるバス停までは、いくつもの停留所がある。暗い窓の向こうに浮かび上がるガラス張りのスーパーには、客の姿はほとんど見当たらない。バ
スは、その先の信号を曲がり、川の土手に沿ってさかのぼり、小学校の前で停まり、坂を登っていく。何度も往復した道筋はすっかりわかっている。やがて必
ず、降りるべきバス停に着く。加代はバスを降り、団地の入り口に向かって、汚れ物の入った大きな紙袋の手提げ紐を手首に食い込ませながら、横断歩道を渡る
自分の姿も見える気がする。
暖かいバスの座席にうずくまって、窓に映る自分の顔をちらちら窺っている今このときがどれほど確かなものに思われようと、やがて過ぎ去って影のようなもの
になってしまう。そして、加代の手帳に書きとめた年末年始のスケジュールもそんなふうに確実に過ぎ去っていく。
18 終の棲家
正月が近付いていた。大掃除というほどではなくても、台所やトイレまわりなどの汚れの溜まっているところを少しずつ念入りに掃除していく。カーテンも洗っ
て掛け替えた。
室内の壁はまだ塗り直して間がなかった。
「ここは、ええわ。壁の塗り直しも県がみんな、やってくれる」
白っぽい壁を眺めながら、加代は叔母が電話の向こうで言った声を思い出す。老朽化した一戸建て住宅から県営住宅に移り住んだ叔母にとって、住宅のメンテナ
ンスに気を遣わずにすむことは、何よりありがたいことのようであった。
朝の目覚めのときに、夜寝入る前に、白い壁を眺めて、ここは叔母が終の棲家と定めた住まいだと加代は繰り返し思った。
加代は叔母の暮らし方を少しも変えようとはしなかった。
叔母は戸棚の上に、戒名を書いた紙を入れた木箱を置き、お茶やご飯を供えていた。祖父が亡くなってから、祖父が守ってきた仏壇は父母の家に引き取られたの
で、その代わりであるらしかった。加代も叔母がしていたように、ご飯を炊いたときには、ままごとのような小さな茶碗にご飯をほんの少し入れ、お茶と一緒に
供え、手を合わせた。
小さな茶碗は猪口だったし、戒名と死亡年月日を記した紙は、マンションの分譲広告の裏面が使われていた。そのうちにちゃんとした過去帳に書き直そうという
つもりなのかもしれないが、今のところはまだ、単なるメモにすぎず、それは仏壇が引き取られて以来のものであったろうから、メモのまま、もう十数年は経っ
ていると思われた。
祖父はいわゆる信心深い人だった。毎朝、お日さまに向かって拍手を打ち、座敷や台所に祀られた神棚を拝んでまわった。幼いとき加代は祖父の後ろについてま
わって、その所作を真似た。毎月ついたちの神社参拝も欠かさず、お寺さんとの付き合いにも熱心だった。縁側に新聞紙を広げ、戸の粉を布につけて、仏壇の真
鍮の金具をピカピカに磨き上げていた祖父の姿を加代はよく覚えている。
「不思議な人や。ああいうことには熱心やのに、信仰心の全くない人や。あれだけ子どもに死なれてて、もうちょっと信心深うなってもええのになァ」
叔母がそう言っていたのは、まだ祖父の生きていた時分のことだったが、加代の目には、叔母の信仰も似たようなものに映っていた。叔母が真法さんの信者に
なったというのも、単に信仰心からだけではなかっただろうという気がする。
そんな叔母の信仰を形ばかり踏襲した加代の信仰は、信仰とすら呼べないようなものであったが、それでも、お供えをしたあとには、木箱に向かって手を合わ
せ、祖父母や父や亡くなった伯父たちや、名前も入っていない京子さんや菊乃さんの名前まで並べ立て、「叔母ちゃんをお守りください」と真剣に祈った。
そして、時々、その古ぼけた木箱をベランダに持ち出して、戒名を書いた紙をパタパタと振るい、木箱の隅に溜まった猫の毛と埃を払い落とした。うっかりし
ていると、猫が木箱のなかにお尻を落ち着けて居眠りをしていることがあった。加代は慌てて追い払うのだが、冬日が部屋の中まで差し込んで木箱を居心地よく
温めるらしく、ともすれば木箱は猫にのしかかられていた。
木箱に並べて小さな鏡餅を飾った。叔母の言うとおりの店で言うとおりの丸餅を買い、白木の三法に半紙を敷いて餅を二段重ねにし、葉付きの小さな蜜柑を載
せた。玄関扉に簡素な注連飾りも付けた。
そういえば、十二月に入ってから、仕事の注文は来ていなかった。何でもないときなら、もう仕事が来なくなってしまったのではないかと不安になったのだろ
うが、今は仕事が来ないことが有難かった。
19 正月
正月には病院の食事も少し正月らしくなった。
「茶碗蒸しやろ、鯛の子の炊き合わせ、百合根のウニ和えに大根おろしがのってて、その上にイクラが四粒のってたわ」
「へえ、珍しいものが食べられていいやん」
叔母は食欲がないと言いながらも、食べられるものは食べているようであった。
「何か食べたいもん、ないか。持ってくるで」と尋ねても、「味が全然わからへん。食欲が全然ないねん」と言うばかりだった。
胡瓜の塩もみが食べたいと言い出した。病院食で出てくる甘酸っぱい胡瓜もみの味が気に入らないらしかった。「胡瓜を薄切りして、薄塩をかけてしばらくお
いて、さっと水で洗ったものを搾って持ってきて」と注文した。言うとおりにして持って行っても、味がないとか、塩辛すぎるとか、文句を言った。あんまり毎
回胡瓜ばかりでも飽きるだろうと、青ジソやモヤシを混ぜたものを持っていくと、「わたしは胡瓜だけがええねん。あんたは気を遣うてくれてるつもりか知らん
けど、わたしはいらん。ほかのものは入れんといて」とたいそうな剣幕で怒った。加代も腹を立て、叔母の言うもののほかはもう一切持っていくまいと思う。
朝食はパンに、りんごやオレンジの紙パックのジュースがついていた。果汁100%と表示されているものの、刺すような酸っぱさがあって、生の味とは程遠
かった。加代はみかんを手搾りしたジュースを持って行った。
陶器のカップに入れ、タッパウェアの蓋を被せて持って行った生ジュースを、叔母はカーテンの向こう側のガラス窓の枠の上に置いといてと言う。室内はむっ
とするほど暖かくても、大きなガラス窓に沿って、冷たい空気が湧き上がっていた。叔母はそれを冷蔵庫代わりにしていた。
正月明けに大寒波が来た。加代は年末に風邪を引いた。用心はしていたから、早めに風邪薬を飲み、熱は抑えられたが、咳と痰がしつこく残った。一週間も経
つのに、粘っこい痰が胸の奥に絡まって、激しく咳き込む。咳き込み続けるので、力が入って、腸まで痛む。叔母から「病院には来んでもええで。寒いから」と
電話がかかってきて、加代もそのつもりでいたが、とつぜん弟の妻の久美子さんから「見舞いに行きたい」という電話がかかってきて、駅で待ち合わせることに
なった。
もう何年も、乗り物に乗るとパニックに襲われるといって外出しなかったひとだった。ちょっとした買物や病院通いさえ、弟が車で連れて行かねばならないと
聞いていたが、ひとりで関西に戻ってきたと言う。医者を変えて病状が改善し、医者の許可を得てきたと告げる声は、むやみに明るくはしゃいでいた。
久美子さんの母親はパーキンソン病で長年入院していた。関西にひとりで戻ってきて、誰も住んでいない実家にしばらく滞在しているらしい。
襟に毛皮がついた美しいビロードの、足首まであるロングコートを着て、カサブランカにバラを取り混ぜた大きな花束を抱えて現われた。
「まあ、いいコートね。高かったんやない?」
「二十五万円もしたのよ。憂さ晴らしでパーッと買っちゃった」
足もとはウォーキングシューズだった。若い頃から膝が悪いと言っていたから、踵のある靴は履けないのだろう。以前から太り気味だったが、いちだんと太っ
て、顔も丸々とし、相撲取りのような体型になっていた。うつ病の薬のせいで太ったと言い、これからはせいぜい出歩くのだと意気軒昂だった。
長女にボーイフレンドができたが、頼りない男であることや、次女が演劇志望で大学に行かないと言っていることなど、喋り散らして帰って行った。
叔母はその大きな花束を窓際にしばらく置いていた。加代が詰め所から花瓶を借りてくると言うのを、「わたしがいいようにするから」と止めた。
翌日、その花は、ナースステーションのカウンターの上に花瓶に入れて飾られていた。叔母は点滴台を押してトイレに行き返りするついでに立ち止まって、花
瓶を正面から眺めて手直しした。叔母は、生花は未生流の師範の免状を持っていた。
久美子さんはほかにも、自分でつくったという華やかな新春の飾り物をプレゼントしてくれた。布地に綿を入れた押絵ふうの輪飾りに、やはり押絵ふうの松竹
梅や鏡餅や羽子板や宝船などが付いていた。ベッドの枕元にかけるとたちまちお正月らしい雰囲気が漂った。のり付けが悪いらしく、飾り物がポロリと外れた。
久美子さんが帰るとすぐ、叔母はそれを取り除けさせ、家にもって帰るように言った。
「せっかく、持ってきてくれたんやから、飾っといたらええのに」
「いや、わたしが家に帰ってから、いいようにするから、持って帰っといて」
この正月が終わったら、この次の正月があるだろうか。加代はそんな考えが浮かぶのを止めようがない。
20 告知
24時間持続点滴が外されて、叔母は見るも無残に痩せていった。「胸がむかつく」とか「立ちくらみがする」とか不調を訴えた。お腹の袋は頻繁に外れて、そ
のたびに汚れ物が出た。体重が30キロを切って、加代は医師がなぜ点滴を再開してくれないのかと不審に思う。栄養があるとがん細胞も元気付くからなのか、
腸を刺激して吸収能力を高めようとしているのか、そんなに痩せて、体が耐えられるのか。
加代が訪れるとき、叔母はたいていベッドに横たわり、目を閉じてラジオを聴いていた。げっそりと頬がこけ、肌の色も黒ずんでいた。鼻腔はマーゲンチュー
ブで押し上げられたときの傷が残り、まだ少し歪んでいる。アニメの悪魔がぐーんと大きくなって、闇夜に哄笑を響かせるときのように、病勢が一段と力を増し
たように感じる。
カプセル入りのプロポリスの十錠パックを、加代は叔母のベッドサイドの戸棚の引き出しに入れておいた。「ちゃんと飲んでよ」と念を押す。切らさないよう
に足していったが、予想通りには減らなかった。
「ちゃんと飲んでくれんと、あかんやんか」と咎めると、「わたし、そんなもの信用してないねん」という答えが返ってきて、加代はぎくりとする。
そんなとき、大阪に帰っていた加代に、主治医から電話がかかってきた。
「抗がん剤を使うとしたら、今しかありません。病院でだらだら過ごしていても、意味がない。ご本人も治療にかからないのを不審に思っておられます。腫瘍
マーカーは高い数値を示していますが、膵がんと確定されたわけではありません。十二指腸カメラを入れて検査するか、検査せずに抗がん剤を投与する
か・・・。検査は苦しい。体力も要ります。ご本人のお考えで決めていただくのがいいと思います。ご本人は一人で生きてこられた方で、気性もしっかりされて
いる。少しの間でも退院して、お家でしたいこともあるでしょう。猶予の時間はないのです」
医師は告知を勧めていた。一方的に話されて加代は慌てた。「少し食べられるようになって、少し体力も回復して」、すべてはそれからのことと叔母にも言
い、加代もそれしか考えなくなっていた。そういえば、婦長が退院をほのめかすようなことを言っていたことがあったが、まだ退院できるような状態ではないの
にという思いが先に立って、加代は気にもとめなかったのだ。
「告知って、とても、そんなこと言えません。どう言ったらいいのか、わかりません」
「お話するのは、きちんとわたしからします」
「でも、わたしひとりでは決められません。兄弟がいますので、兄弟とも相談してみます。もう少し待ってください」
「かまいませんよ。明日でも明後日でも。六時を過ぎたら、時間をとれますので、話に来てください」
考えずにすむならいつまでも考えずにいたいことを突きつけられて、加代はうろたえた。弟が帰宅する時間を待ちかねて、東京へ電話した。弟は告知に反対
だった。
「僕は自分のときでも知らされたないな。知らされたからいうて、何もでけへん」
母にも電話した。看護婦をしていた母はもっと冷静だった。
「何も治療せえへんのやったら退院してくれ、いうことやろ。退院したら、あんたがえらい目を見んならんのやで。あんたも大阪に家があるんやから、面倒みら
れへんいうことは、ちゃんと言うとかな、あかんで」
「お姉ちゃん、ひとりで言いにくいのやったら、わたしが一緒に行って言うてあげるわ」
妹が母の横から口添えした。加代は、実際家の妹がついて来てくれるなら、そのほうが好都合だと思った。
加代自身はかねがね自分がそういう状態になったなら、告知してほしいと考えていた。死に不意打ちされたくはながった。けれども、叔母自身が知りたがるか
どうかはわからない。叔母とそんな話をしたことはなかった。
だが、弟や母と話しているうちに、加代の思いは、叔母自身のことなのに、本人に知らせず、抗がん治療を受けるか受けないかを決めるわけにはいかないとい
うことにぶつかった。それに、退院が関わっていた。叔母は今の状態で退院することなど、少しも考えていなかった。弟は「わざわざ苦しい治療を受けることは
ないんとちがうか」と言ったが、そんなことは加代やはたの者が決められることではなかった。
加代は病院で妹と顔を合わせると、すぐそのことを言った。
「やっぱり、本人に決めてもらうしかないわ。本人はもう一辺手術する気でおるのに、退院やなんて説明できへん」
「退院にオーケーしたらあかんで」
「そない言うたかて、叔母ちゃんが退院したい言うんやったら、わたしはいやとはよう言わん」
医師は、加代と妹をカウンセリングルームに案内しながら、「治療方針が決まりましたよ」と明るく告げた。医師は電話で話したことを、主に妹に向かって、
率直に丁寧に説明した。加代は若い医師の白い歯が、めくれ上がった唇の下で、清潔そうに光るのをぼんやり眺めていた。
「それで、抗がん剤の効果はどうなんですか」
「あまり、期待は持てません。骨髄などへの転移を抑制する、進行を遅らせる・・・」
医師の話の途中に婦長が入って来て、黙って会釈し、隅の椅子を引いて腰をおろした。一、二年前から「看護婦」という呼び方が「看護師」に変わったが、こ
のひとは、病院のなかで相変わらず「婦長さん、婦長さん」と呼ばれていた。牛のような厳つい体つきの、小さな目がリスのようにこすからくよく動くひとだっ
た。
「いい薬が出ています。昨年認可されたスウェーデンの薬です。膵がんの末期は非常に痛むんですが、この抗がん剤を使った場合、あまり痛まないようです。副
作用は感染症に感染しやすくなるとか、出血、貧血、吐き気、食欲不振、便秘、肝機能や腎機能に障害が出てくることがあります。抗がん治療は週一回、点滴で
しますので、いったん退院して、通院していただくことになりますが」
「今の状態では、一人暮らしは無理です。わたしも大阪に家があるので、ずっとこちらに居るわけにもいきません」
「長期療養型の施設とか、ホスピスもあるんですが、空きが無くて、今から申し込んでも間に合わないです。在宅で訪問診療してくれる病院がありますから、そ
ちらを紹介します。ただし、告知するという条件でないと、引き受けてもらえません。在宅診療を受けながら、週一回、こちらに通院していただくことになりま
す」
「通院だって、一人ではできないでしょう?」
「点滴の器具を埋め直して、点滴を止めて、外出できるようになります」
「一人で生活できないでしょう?」
「できます。できるように持っていきます。今すぐに、と言うんじゃありませんよ。抗がん治療の効果も見ながら、介護のほうも準備していきます」
医者と婦長が「一人暮らしもできる」と口を揃えるのであれば、退院に抵抗する理由にならなかった。
「ご本人もお家へ帰りたいと思われるのじゃないですか。いろいろと整理しておきたいこともおありでしょうし」
医者も婦長も、叔母が家に帰ってしたいことがあるに違いないと、確信した口振りで言う。「しっかりした気性の方ですから」と強調した。
「末期がんの患者さんで、在宅治療を受けながら講演に行ったり、本を書いたりして、活躍している方もおられます。旅行にも行かれてます。叔母さんもそんな
ふうに、お家でしたいことをされるのがいいんじゃないですか」
叔母はそんな活動的な気質の人間ではないのにと加代は可笑しかった。若い頃から療養生活を送ってきて、病人の多い家族の世話をしてきた。人生を積極的に
生きようとしたことのないひとだった。加代がどんなに誘っても、旅行になど出かけようとはしなかった。
だが、妹はその説明を案外すんなりと受け容れたようだった。
「それでは、告知させてもらうということでよろしいですね。早いほうがいいでしょう。明日の夕方にでも。ご本人から連絡していただきますから」
突然強い感情が加代のうちで渦巻いた。
「はい、でも、全然希望がないようなことは言わないでください。希望は持ってないと」
たかだか医者の診断ではないか。人間は誰でも死ぬのだ。奇跡だって起こらないものではない。元気な人間が交通事故で先に死なないものでもないのだ。強い感
情は怒りに似ていた。
「ええ、それはわかっています」と医師は真っ正直に答えた。
その同じ部屋で翌日は、叔母と加代が医師と向かい合っていた。加代は横に座って、叔母の反応ばかりが気にかかった。
叔母は毛糸の前開きのベストのポケットから、小さく畳んだハンカチを取り出して、静かに涙を拭った。叔母の愛用している本物のローンのハンカチだった。
そのハンカチはドロンワークの縁が擦り切れかかっていたけれど、「これ、すっと水が沁み込むねん。ほかのと全然ちがうねん」と言って、叔母は手放そうとは
しないのだった。
叔母は黙って頷き、検査をせずに抗がん治療を受けることを承諾した。
21 食欲旺盛
翌日には点滴が再開された。二、三日経つと、叔母は急に「新香巻が食べたい。あのバリバリするのが食べたいねん」と言い出して加代を驚かせた。「夜、お
腹が空くから」と売店でおかきを買ってこさせた。
翌朝、「シーツがチクチクする」と言う。起き上がらせて調べると、シーツのくぼみにおかきの粉が散らばっている。
「どうしたん? おかきの粉だらけや」
「夜中に食べたら、大きな音がするから、ふとんのなかにもぐって食べた」
加代はこの話を、見舞いに来た妹にして、いっしょに笑った。
「叔母ちゃん、急にすごい食欲やねん」
「ふん、食欲が出てきてよかったやない」
それは何かしら回復に似ていた。久しぶりのほっとする話題だった。新香巻を続けて三度食べたあとは、サンドウィッチを欲しがった。小豆アイスを欲しがった
り、餃子を食べたがったりした。「叔母ちゃんのすごい食欲」「ヘンな食欲」は、ひとしきり加代と妹の明るい話題になった。ぎりぎりまで点滴を止めていたの
は、食欲を回復させるためだったのかと思えてきたりした。
22 建て替え工事
「あんた、忘れっぽいから、忘れたらあかんで。ちゃんと聞いてきてな」
叔母が早くから気にしていた団地の建て替えについての説明会が一月の半ばを過ぎて団地の一角の集会場で開かれた。県営団地は築四十年近い。阪神大震災のと
きにはこの団地も被害を受け、叔母の住んでいた棟も壊れはしなかったものの、かなり傾いた。そのあとしばらくして、住民は住んだままで建物の周囲を掘り下
げ、土台の下にジャッキを入れて持ち上げ、傾きを直す大改修が行なわれた。それから何年も経たないのに、今度は建て替え工事かと叔母は歓迎してはいなかっ
た。
加代はみぞれまじりの雨が降るなかを、傘をさし、ぬかるみをよけながら、午後七時の開始時間前に、集会場に向かった。集会場では住民たちが集まり、そここ
こで挨拶を交わしたり、立ち話をしていたりした。建て替えの計画があるという噂は早くから流れていたが、具体的な説明会はまだなかったようで、住民の関心
は高く、集会場に用意された椅子はすぐにふさがり、予備の椅子が持ち出された。
「この団地もご多分にもれず高齢化が進んでいまして、ひとりでも多くの方がお元気なうちに新しい建物に移ってもらい、安心して生活していただくことが、わ
たしの念願でして、早く建て替えていただくようにと県と交渉してまいりましたが、やっと工事が始まる運びとなりました」
頭の禿げた町内会長が自分の手柄であるかのように述べ立てたあとを引き継いで、黒い背広を着た県職員が工事計画の説明を始めた。
建て替えは、県営住宅を六区画に分けた工区ごとに行われる。現在エレベータのない五階建ての建物を、八〜十階建てのエレベータ付きの中層建造物に建て替
えていく。
この説明会は六区画のうちの最後の工区の説明会にあたる。工事期間中は、住民は他の地域の県営住宅に移るか、他の工区の空住戸に転居することになる。建て
替えられた住棟に入居が始まったら、戻ってくることもできるし、転居先に住み続けてもいい。最初の工区では、すでに転居が始まっており、まもなく取り壊し
が始まる。
ただし、予算が獲れているのは第一工区分だけで、それが二年で完成すれば、次の工区に移るということだったから、実際に叔母の住んでいる棟の立ち退きが
始まるのは、まだ十年以上も先の話だった。
加代は風邪気が抜けず、時おり激しく咳き込むので、大きな紙マスクをつけ、片隅の椅子に座っていた。息でマスクの内側が湿っぽくなり、頬が火照って、目
まで潤んでくる。大きな封筒に入れて渡されたパンフレットと説明資料を熱心に読んでいたが、十年以上も先の話とわかったとたん、興味を失ってしまって、自
分の体温にくるまってぼんやりと聞いていた。
叔母は、建て替えの話が出始めた頃から、「いややなァ、考えるだけでも、うっとうしいわ」と気に病んでいた。それでも、準備のいい叔母のことだから、荷
物を片付ける算段などをあれこれと立てていた。
「まだまだ、何年先になるかわからへん話やったわ。全然、心配せんでもええわ」
加代がベッド際で、もらったパンフレットや計画図を見せながら報告すると、叔母は「ふーん」と頷いて目を閉じた。
ある夜、バスを降り、信号を渡ろうとすると空がスカッと広かった。坂道の片側の桜並木がものの見事に伐り払われていた。直径が40〜50センチもある切
り株が夜目にも痛々しく切り口をさらしていた。建て替えの最初の工区の工事が始まったらしかった。
これだけの大樹になるのに、何十年も、団地の古さを超える年数を経てきたというのに、なんと惜しげもなく伐り払ってしまうことか。建て替え工事で桜の樹
の並んでいるところまで掘り返す必要はないだろうに、工事車両の出入りに邪魔になるというのだろうか。
星空が広々と見渡せた。カシオペアのW字型が棟の上に白い光を放ち、上ろうとしていた。加代が学校に通っていた頃、暗くなってから帰る道でいつも見慣れた
星だった。
星が光の傘を被っていた。目を凝らしてみても、どの星もが小さい傘を被っている。ひょっとして、と思って見回すと、三日月がタマネギの串刺しように積み
重なって見えた。原因が目のほうにあることは明らかだった。白内障の影響なのか、乱視がひどくなってきたのか、もう二度とくっきりとした星空も月も見られ
ないのかと加代は心細くなる。
23 回復に似た何か
朝・夕の点滴が再開された一週間あとには、再びIVHが叔母の胸に埋め込まれ、24時間点滴に切り替えられた。それからまもなく、婦長に言い渡された。
「食事と点滴は同時にできない決まりなんです。ですから、食事は止まりますから、好きなものを持ってきてもらうなりして・・・、ねっ」とこすっからそうに
よく動く目に力を籠め、加代と叔母を代わる代わる見た。
「食べたいものはなんでも食べていいですよ」
抗がん剤の点滴治療も始まったが、叔母の食欲の旺盛さは呆れるばかりだった。
加代は叔母に食べ物を届けるのに追われた。毎回、オレンジジュースを搾って持っていく。駅デパートのお惣菜売り場で叔母の注文したものや気に入りそうな
ものを選んで持っていく。家庭的な味が気に入ったレストランのランチセットのできたてをパックしてもらって運ぶ。温かい蕪のスープも蓋つきカップに入れて
運んだ。
中華レストランで八宝菜や白菜のクリーム煮などをテイクアウトして持っていくこともあった。
「この店の味、気に入った、言うとったやろ」
「そうやったかな」
「まえに、よう、買うて行ったやないの」
「ふーん」
「覚えてないの」
「覚えてへん」
しかし、叔母は旺盛な食欲をみせ、よく食べた。春巻きを三本買って行ったのを、あまり多過ぎると思って、一本を加代が食べた。
「あれ、おいしかったわ。あんたに一本あげるんやなかったわ」
叔母は病院の一階にある食堂へ行きたがった。隣の患者の家族が「ここの食堂はなかなかおいしいよ」と勧めたそうで、加代にも「食べに行ったらいい」とし
きりに勧めた。食堂の通路に面したショーケースには、トンカツだのエビフライだの、揚げ物中心のメニュのサンプルが並べられていて、加代は行き返りに胡散
臭く眺めていた。うどんのつゆの色は病院の食堂にはあるまじき濃さに思えた。
叔母は加代を食堂に付き添わせた。点滴台を押しながら、食堂の隅のテーブルに座った。痛々しく痩せこけ縮んだ叔母と加代は向かい合って座り、叔母はラー
メンと炒飯を注文し、加代はコーヒーを頼んだ。
「あんたもラーメンを頼んだらいいのに」
叔母は少しはしゃいでいた。ラーメンを平然と平らげ、黒ずんだ汁まで飲み干そうとしたのを加代が止めた。炒飯は、夜、空腹になったときに備えて、持って帰
るためだった。
「いっぺん一緒に来てもろたら、今度からは一人でも来れるから」
叔母は満足そうだった。炒飯のパックを包んでもらったあとも、叔母はショーケースに顔を近づけて、メニュのサンプルを端から端まで、注意深く眺めていた。
食欲の回復は本物の回復とは違っていたかもしれないが、それに似た何かだった。叔母の体のなかで起こっていることは窺い知れなかった。
24 春の訪れ
もうずっと長く冬が続いているような気がする。この冬は寒波が来るのが早かったせいかもしれない。まだ、これからも強い寒波が来て、寒さはまだまだ続く
のだと加代はうんざりする。
けれども、バスの車窓から見上げる台地の斜面や団地の登り道の傍らには、水仙の青っぽいへらのような葉がかたまって、しゃくしゃくと伸び出していた。花
茎の先には白い包を割って、つぼみが覗きかかっていた。
加代は思いついて妹に電話をかける。
「あんたのとこの庭に水仙、あったやろ。咲いてたら、今度来るとき持ってきて」
「うん、ようけ咲いてるよ。持っていくわ」
妹はその言葉通り、ぎっしりと詰まった水仙の一束を包んで、病院に持ってきた。
加代が叔母と一緒に住んでいた祖父母の家の庭に、水仙畑があった。毎年、早春の頃、叔母は、唐三彩まがいの釉薬のかかったどっしりした甕に水仙をふんだ
んに入れて玄関先の小部屋に置いた。薄暗いその部屋から、水仙の香が甘く冷たく、目に見えるように清冽に流れた。
妹が持ってきた紙包みをベッドの上で解く。水仙の束が崩れて、甘い香が漂った。
「あんまり匂いのきつい花は、病院にはあかんで」
叔母は花を見ようともせずに、大儀そうにそう言った。加代は黙って紙に包み直し、持ち帰った。
人工肛門の袋は相変わらずよく外れて、汚れ物が出た。
「明日は来んでもええよ、食堂へ行くから。売店にもお弁当やお寿司を売ってるし、心配せんでもええよ」。そう聞いて帰った後から、「やっぱり来てもらわ
な、あかんわ」と電話がかかってくる。
医師や婦長から、叔母は退院をほのめかされることもあるらしい。
「そんなん無理やわ。毎日、袋が溢れるのに」と、強く反発していて、まだ、袋の取り替えも看護師まかせだった。
二月のなかばを過ぎると、春を感じさせる陽気の日が交じる。夕方の六時近くなっても、まだ空が明るかった。バスを降りると、煙がたちこめているのかと
疑ったほど、白っぽくあたりが霞んでいた。春の夕べの生温かさ。街路樹の切り払われたあとが広々として、大きな切り株がなかば掘り起こされ、傾いたまま根
をさらしている。
猫が玄関に走って出迎え、伸びをしながら、ニャアアと鳴いた。薄暗い室内に、テーブルに置いた水仙が甘く香っていた。その匂いを吸い込みながら、こんな
春の宵を若い頃はどんなふうに過ごしてきたのだろうと加代は不思議に思う。五十代なかばに近付けば、もう未来よりも過ぎてきた時の方が長い。しかし、その
過ぎ去った時は、夕闇のように白っぽく、何もない。
テレビをつけると、韓国のテグ市で地下鉄炎上の映像が映し出される。爆発があったらしい。ニュースを伝えるアナウンサーの胸に「死者百二十人以上」との
テロップが流れ、加代は慄然とする。
25 同居の話
「髪の毛を洗いたいから、あんた、手伝うて」
叔母は気分がいいらしい。これまで看護師まかせにしていた洗髪を自分からしたいと言い出した。シャワー室が空いているのを確かめて、加代は叔母を連れて
行く。水色のビニールケープを首のところでピシッと止めて、叔母は大きな洗面台に屈み込む。
シャンプーを泡立てて洗い流し、リンスをつけて洗い流す。白髪交じりの髪の毛がごっそり抜けて排水口に溜まったが、もともと髪の毛の多いほうなので、気
にするほどでもない。
「どこか、痒いところはありませんか」
加代は美容師の口振りを真似て言ってみる。
加代が遅れて病院に行ったとき、叔母はベッドにいなかった。しばらく待っていたが、ふと気付いて食堂を覗きに行くと、食堂の片隅に点滴台を引き寄せて、ち
んまりと座って、注文の品が運ばれてくるのを待っていた。そういうことが何度かあった。
そんな叔母の食欲の旺盛さは加代と妹の笑い話の種になり、そして、正直なもので、叔母をナースステーションの傍らに引っ張っていって測る体重も少しずつ増
加していった。目眩や足のふらつきもなくなってきたと叔母は言う。温かい日が増えてくるにつれ、遠い先のことだと思われた退院の話も、現実味を帯びて感じ
られるようになってきた。
整理ダンスの、大事な書類を入れた引き出しに、県営住宅の「入居のしおり」が取り除けてあった。入居世帯に同居するときには届出が必要だということになっ
ている。
叔母が退院してくれば、いつまでも大阪と往ったり来たりの生活は続けてはいられない。家賃を二重に払っているのも無駄なことだ。二人で住むのなら、もう少
し広い住宅に移れるのではないかという期待もあって、団地のなかにある県営住宅の事務所に相談に行ったが、年輩の男性職員はけんもほろろだった。
「二人じゃ、転居の話にはなりませんな」
「じゃ、何人くらい?」
「六、七人ですな」
「階段の上り下りが不自由なので、一階に移れませんか」
「四階でも五階でも寝たきりの人はいますよ。同居するには、同居が必要だと証明する書類が必要ですから、叔母さんが一人暮らしはできないという証明をお医
者さんからもらってきてください。しばらく看病するあいだのことなら、届けは出さなくていいですよ。それに、叔母さんがどこかに出て行かれるときには、一
緒に出て行ってもらうことになります」
どこかに出て行くときとは、どういうときのことを言っているのであろう。「入居のしおり」には同居者が引き続いて借りられる承継制度について書いてあった
が、それについては一言も触れなかった。
「お風呂が狭くて危ないので、改修したいんですが」
「工事計画が決まったら、届けを出してください。出て行かれるときには元に戻してもらいますよ」
まるで、不足があるならさっさと出て行ってくれと言わんばかりだった。広い事務所には、向こうのほうに四、五人の職員がいて、資料を引っ張り出す手を止
めて、のんびりと雑談している。加代は何を言う気もなくし、腹を立てて帰ってきた。
「なんの相談にもならへんかったわ」と叔母に訴える。
「ああ、それは一番悪いのに、あたってん。若い女の子のほうが親切に説明してくれるわ」
だが、叔母は同居には反対だった。
「あんたも近くに借りたらええ。わたしは、同居はいややで。空き家は仰山あるんやから、あんたも申し込んだら、入れるやろ」
叔母から拒絶されるとは思っていなかったので、加代は鼻白んだ。
「わたしには、申し込み資格がないわ」
資格があるのは、県内に住んでいるか、勤務先があるか、どちらかの場合だが、加代はそのどちらでもない。両親の介護なら近居の申し込みが認められるのだ
ろうが、叔母では可能性は低い。
「大阪とこっちと行ったり来たりするの、たいへんやのに、わかってもくれへん」
加代はむくれたが、叔母は素知らぬ顔をしていた。
近くの実家が空き家になったまま、処分しかねて持ち続けている友人がいて、いつでも使ってくれていいと言ってくれる。けれども、二つの家を往ったり来たり
する煩わしさが同じなら、まだしも大阪の部屋のほうが仕事に便利なだけ分がある。わざわざ手間のかかる手続きや引越しをするまでもないと加代は早々に見切
りをつけた。
26 退院準備
「退院するとなったら、ベッドがいるなァ。起きたり、立ったりするのがラクやろ」
「そやな、ベッドのほうが慣れたな」
「おんなじ買うのやったら、電動で上げたり下げたりできるのんがええやろ」
加代は狭い四畳半の部屋にベッドを入れた様子を思い浮かべる。箪笥の上に積み上げられたものや、押入れから溢れて部屋の隅を占拠しているもののことを考
える。叔母が退院してきたら、身の回りのものを置いておくスペースも必要だろう。
「要らんものは処分してしまわなあかんな」
使わない石油ストーブや電動ミシン、いろいろな大きさのバッグの入ったダンボールの箱もある。叔母も気にはなっていたらしく、あれは誰々さんがもらって
くれる、それは誰々さんが欲しいと言っていたなどと言う。昔のご近所さんに叔母が連絡して、息子さんの車で引取りに来てくれることになった。小形の薄茶色
の皮製のリュックに叔母は愛着があるようだ。
「あんた、あれ使うたらええのに」
「わたし、リュックは使わへん」
「ええ値段したのに」
叔母のことだから、さぞかし時間をかけて探し回った挙句に決めたのだろう。たかが、小さなリュックである。
「置いといたら、ええやんか。元気になったら、散歩に行くときにいるやろ」
そう言ってやることは容易なのに、加代は言おうとしなかった。
医師から介護の申請をしておくように言われたと叔母が伝える。斉藤クリニックという病院が在宅ケアを引き受けてくれると婦長が教えてくれ、「とりあえず
相談に行ってください」と急き立てた。
何かしら怖れるような気持ちで、バスのなかの広告をいつも見詰めていた病院だった。終末期在宅診療、中心静脈栄養、在宅酸素療法・・・、オレンジ赤の大
きな角張った文字がすぐ目に浮かぶ。
「在宅診療の斉藤クリニックへは、こちらで降りてください」
バスのアナウンスが告げるバス停で降りると、目の前に大きな看板がかかっていた。雑居ビルの一階を占め、仰々しい広告のわりには、街医者然とした親しみや
すい雰囲気があった。広くもない待合室には三、四人の先客が順番を待っており、カウンターの向こうでは、白衣の女性たちがせわしく立ち働いている。カウン
ターの隅にも、壁に沿った造り付けの椅子席の上にも、ガーゼや医療用品の入った箱が積み上げてあって、雑然としているせいかもしれなかった。
五十代なかばくらいに見える斉藤医師は、穏やかで親切な口調を崩さなかった。市民病院の医者から聞いてきたと言うと、
「あちらからはよくご紹介いただいています」と答えた。加代は一通り病状を説明した。
「お引受けするには、一つ、条件があります。ご家族の方に一緒に住んでいただくということです。夜だけでいいんですよ。昼は出かけられてもかまいません」
市民病院の原田医師の「一人暮らしできます」という太鼓判とは違っていたけれど、加代はもうそれにこだわる気持ちは失くしていた。どっちみち、叔母を一
人で放っておくことはできないと思う。介護の申請用の書類をもらって帰ってきた。
婦長はあくまで愛想良く、機嫌良かった。加代が素早く動いたことに満足しているようだった。抜け目のない目をクルクル動かしながら、
「よかったですね。もう帰宅は難しいかと思っていましたのに、ここまで回復できたのは、すごい気力です。お世話させてもらった甲斐があります」と言葉に力
をこめた。そして、「ケア・マネさんに書類作ってもらったら、介護制度はいつでも使えますからね」と付け加えた。
いつでも退院できるということなのかと加代は少し慌てた。介護ベッドは退院前に借りられると教えてもらったが、風呂場の改修もしておかねばならないし、
電子レンジなども買っておきたい。それに、昨年の収入は少なかったとはいえ、確定申告もすませておかなければならなかった。叔母が退院してきたら、加代自
身がどのくらい忙しくなるのか、見当がつかなかった。
抗がん剤治療は週1回点滴で行う。4回で1クール。1週あけて次のクールに入り、4クールでいったん終わる。医師は「2クールが終わって、様子を見て退
院にしましょう」と告げた。
「昨日の夕刊、見ましたか? 向井さんというプロ野球の解説者・・・。膵臓がんで叔母さんと同じ治療を受けておられます。私の患者です」
医者にも自慢の患者があるらしい。
「ちょっと、気が付きませんでしたけれど」
「旅行に行ったり、講演に行ったり、精一杯、活動を続けておられますよ。叔母さんもそういうふうになっていただければ」
「はあ」
医師が退院をすすめたとき言っていたのは、その患者のことだなと加代は思い当たる。だが、叔母はそんな人の真似などしたいとは思わないだろう。
看護センターのケアマネージャーが、介護認定のための聞き取りに来た。色白の、たっぷりした肉付きの愛想のよいケアマネージャーと、スポーツウエアを着た
バスケットボールかバレーボールの選手のような大柄な看護師との二人連れだった。
「片足で立てるか」とか、「ひとりでトイレに行けるか」とか質問し、聞き取り票に記入していく。叔母は質問項目のほとんどのことがひとりでできた。加代が
傍らで聞いている限り、叔母の介護度は高くなさそうだった。
ケアマネは「退院の日が決まれば、介護ベッドは二、三日前に届くよう手配します」と言い、「お腹の袋がよく外れて困る」という叔母の愚痴には、大様な笑
顔で応えた。加代が「介護の経験がないので」と不安を洩らすと、「こちらでちゃんとお教えしますから、大丈夫です」と頼もしげに請け合った。
ケアマネと看護師は行きも帰りもナースステーションに立ち寄って、病院の看護師と親しげに話し込んでいた。患者よりも病院が大事なのかもしれないが、病
院とのコミュニケーションがうまくとれていることは患者にとってもありがたいことだと加代は思うことにする。
その夜は春一番が吹いた。台地の上の団地は風の音が激しかった。ド、ド、ド、ド、ドーンと風のぶつかる音、カタカタカタカタと窓を鳴らす音、ヒュウウー
ウーと風の唸る声がした。その音を聴きながら、加代は広げた新聞紙の上で蕗の皮をむき、茹でた。昆布と鰹節で出汁をとる。だが、加代の味付けに、叔母はい
つも満足していないようだ。
27 赤い傷口
抗がん剤の副作用も心配したほどのことはなく、叔母は体重を増やし、点滴台を押しながら、食堂や売店に出入りしていた。叔母が、食欲がないとか、胸がむ
かつくと言い出すと、また腸が詰まったのではないかとひやりとする。だが、食堂でうどんを食べたあとだと聞いて、「当たり前やわ」と笑い出さずにはいられ
なかった。
けれども、手術のあとが痛み出したらしい。
「傷口が痛んで眠れなかった」と回診に来た主治医に訴えていた。
「2クール終わったあとの検査では、腫瘍は小さくなっていますよ」と医師は喜ばしいニュースを伝えてくれ、「鎮痛剤を出しておきます」と付け加えた。
痛みはずっと続いているのではないらしい。痛まない日もあれば、ひどく痛むときもあるようだ。
腸のあたりがひどく痛み、鎮痛剤をもらって飲んだが、30分経ってもまだ効かないと苛立っている。看護師に鎮痛剤を注射してもらったときには、すぐ効い
たが、目まいがして起きられなくなって困ったので、飲み薬にしていると言う。
「我慢できない痛みか、転げまわるほど痛いか、と先生が聞いてやけど、そんな、転げまわるような痛み、てなあ」
叔母は不満げに加代の相槌をもとめる。
「先生は、機能的なものや、言うてやったけど、機能的な痛みて、なんやろ」
膵臓がんの痛みではないと医師は判断しているのだろうと加代は思う。
「腸が動いて、引き攣れたりするときの痛み、いうことやないか」
「あの先生、真面目なんかしらんけど、二コリともしてやない。ちょっとコワイわ。この部屋はあの先生の患者、わたし一人やけど、ほかの先生はもっと優しい
で。冗談も言うてや」
そうやって患者は痛みにも慣れさせられていくのだろうか。手術前に女性の麻酔医が微笑みかけながら優しげな口振りで説明した言葉が蘇ってくる。
「痛むときは我慢しなくていいのですよ。すぐに言ってくださったら処方します。麻酔と同じ成分ですから、ちょっと幸せな感じ・・・。中毒にはならないか
ら、大丈夫です」
まだ、普通の鎮痛剤で対処できているあいだはよしとしなければならない。がんの痛みが始まったらと思うと、加代はうろたえるだけで何も思案がつかない。
退院予定日は十日前に告げられた。あまりにも頻繁に外れ、パジャマを汚してしまう人工肛門の袋の取替えを、叔母は自分でできるようになっておく必要が
あった。加代はハサミと絶縁テープを持って処置室へついて行き、看護師に教えてもらいながら、その取替えに付き合った。
加代は初めて人工肛門を目にした。
叔母のつるんとしたおなかの、おへその右斜め下あたりに、赤い腸粘膜がクチビルバナ科の植物の花弁のように、少しめくれて覗いていた。そこから黄色っぽ
い腸液が滲み出してくる。
人工肛門という大げさな名前には似合わない自然な肉体の部分だった。その開口部を囲む丸いビニールの枠をおなかの皮膚に貼り付け、ビニールテープで留め
る。フランジと呼ばれるその枠に、腸液を溜める透明なビニール袋をかっちりと留めつける。ビニール袋は漏斗状に先が細くなっていて、袋を外さなくても、中
に溜まったものを捨てられる仕組みになっている。開いた先端を上向きに幾重にも折り畳んで、クリップで留め、ガーゼのハンカチで包んで、叔母はショーツの
ゴムで支えていた。
黄色い腸液は赤い傷口から盛り上がるようにあふれ出し、ビニール袋に溜まった。腸液が水のようで、どろりともしていないのは、おそらく水分も何も吸収さ
れていないからだろう。赤い粘膜がむき出しになっているのは痛々しかったが、傷口のように目を外向けずにいられないほどでもなかった。おなかに開いた穴か
ら漏れ出してくるものを受け止めるにはそれしかない、至極単純な方法でもあった。
どうやら、叔母の場合は、貼り付けたフランジの接着面に腸液が滲み出し、すぐ外れてしまうらしかった。叔母は人工肛門の位置が悪いせいだと信じ込んでいて
不満を洩らす。
これまでは看護師任せですませてきたことも、退院すれば、叔母と加代とふたりで何とかしなければならない。慣れれば、もう少しうまくいくのかもしれない。
人工肛門で難なく日常生活を営めるひとも多いらしいのに、厄介なことになってしまったものだと加代は心が重い。
28 遠い国で
担当の看護師が退院の打ち合わせに来るというので、加代は大阪から急いで病院に戻るところだった。両手に春物の衣類を詰めた紙袋と、中華料理店でテイク
アウトしてきた料理のパックの入ったビニール袋を提げてホームに立っていた。
向かいのホームに、穴開きジーンズに、襟元にピンクのフェイクファーをあしらった上着を羽織った若い女性が歩いていく。高いヒールのついた底の厚い重そう
な靴を履き、歩きにくさがそのまま表れたような、膝を曲げ前屈みになった歩き方で通り過ぎていった。「イラク攻撃開始」と手に持った夕刊紙に、特大のカラ
フルな文字が躍っていた。
アメリカはイラク攻撃に国連の決議を取り付ける工作に奔走していたが、決議は得られないまま、数日前にはブッシュ大統領が胸に手を当て気取ったポーズで
開戦を布告する演説をしていた。
とうとう、と思いはしたが、そのニュース自体に驚きはなかった。むしろ、日頃は新聞など読みそうにもないようなファッションをした若い女性が、夕刊紙を持
ち運んでいることに加代は驚いたのだった。
衝撃力のあるニュースであることには間違いなかった。世界各地で大規模な反戦デモが捲き起こっていると報道されていた。フランスもドイツも反対してい
た。反戦運動の盛り上がりが戦争を食い止めることができるかもしれないと加代は期待していたのだが、そんなことは起こらなかった。
看護センターから来た担当の看護師は、中山看護師といった。これから試合に出かけるスポーツ選手のようなラフな格好をし、活発によく動くひとだった。叔
母のベッド脇にしゃがみ込んで話をし、「ちょっと婦長さんと話をしてきます」と、つむじ風を捲き起こす勢いで身体を翻し、病室を出て行った。
「まだ、ストマの袋の取替えもうまくできなくて」
加代の最大の不安はそのことだったが、看護師は「心配いりませんよ。徐々に教えます」と笑顔で引き受け、退院日の訪問時間を確認して帰った。やはり、病院
側との打ち合わせが大切なようだった。ぶっきらぼうだが、感じのいい人だと加代は思った。
「あのひと、案外、年とってるで」
叔母は冷静に観察していたようだった。加代は、そうは言っても自分よりいくつか若いだろうと思う。
電動ベッドが届けられた。配送に来た中年男性は、軽トラックをひとりで運転して来、いくつかに分けて梱包されているベッドのパーツをひとりで運び上げ、
ひとりで黙々と組み立てた。加代が「手伝いましょうか」と申し出ても、「いや、大丈夫です」と断った。
「ちょっと、説明しますから」と呼ばれて、見に行くと、組み立て終わったベッドはがっしりと頑丈で、加代の力では動かせないほど重かった。男性は電源をつ
ないで、ベッドの操作方法を教えた。ベッドを高い位置に上げると、動かさなくても掃除はできると加代は安心した。
ベッドを置いたのは北側の四畳半だった。叔母が寝室に使っていた部屋で、今は加代が寝起きしている。叔母が帰ってくれば、加代はもう一つの六畳間で、
テーブルを片寄せて布団を敷かねばならないだろう。
配送の男性が帰ったあと、加代は服を着たまま、ベッドに横たわってみる。マットレスは固くて、上向きに寝ると、背筋が伸びるようで気持ちがいい。横た
わって見る整理ダンスの上に、木枠の時計が掛かっている。秒針が動く音が、カシャッ、カシャッ、カシャッと、カメラのシャッター音のように大きく響く。秒
針を目で追うが、盤から浮き上がっているので、斜め下から見上げると、ずれて見え、どの位置でぴったりゼロに重なるのか見定めることができない。
風の音がゴーゴー響き、障子がハタハタ鳴る。やがて、秒針のまわる音のなかに盆踊りの緩やかな音頭が聞こえ始め、三味線の音に混じって、哀調を帯びた女
性の歌声が聞こえる。急に眠気が襲ってきて、加代は押入れから引きずり出した掛け布団を頭から被って、眠り込んでしまう。
中途半端に眠ったあとのもの侘しい気持ちのなかで、テレビを点けると、砂漠を砂煙を立てて疾走していくアメリカ軍の戦車の隊列が映し出された。
風呂工事も終わった。電子レンジも買った。ダイアル式の黒電話を、ベッドに入ったまま使えるよう、子機の付いたものに取り替えた。二人分に足りなかった
布団も、妹に車で運んできてもらった。
退院の前日、加代はテーブルのうえに花を飾った。フリージアとカスミ草とオレンジピンクのミニバラを筒型のガラスの花瓶に活けた。二、三年前から匂いに
鈍くなった鼻を摺り寄せてわずかに甘い香を嗅いだ。だが、部屋のなかにはフリージアの香りがたちこめているだろう。年末、入院したときは予想もつかない遠
い先のことだった退院の日がもう、いま、目の前に来ているということに加代は新鮮な驚きを感じる。
妹に持ってきてもらった料理の本を根気よく捲る。作ってみようかと思う料理の載っているページにしおりを挟みこむ。叔母はどんなものを食べたがるだろう
か。
29 春の花びら膳
退院の日、加代が病院に着くと、叔母は点滴を早めに終わらせたらしく、もう着替えをすませ、ベッドに腰掛けて待っていた。鼻のチューブがとれ、点滴の管も
外された叔母は本当に回復したかのようだった。
「普通に生活できますよ。出歩くのもいいですよ」と医師はしきりに激励した。こすっからそうな目をした婦長は、「退院できてよかったですね。退院はムリか
と思っていましたからね。ほんとうによかったです。わたしたちもお世話させてもらった甲斐があります」とにこやかに繰り返した。抗がん治療のための通院は
一週間あけた次の週から始まる予定だった。
妹が子連れで、車で迎えに来てくれた。母はこの二、三日旅行に行って留守にしているらしい。見舞いにも来てほしくないという叔母の意思表示に対する母の
意思表示なのだろうと加代は思った。
退院手続きをすませ、会計をすませたり、ナースステーションに挨拶に行ったりしているうちに昼前になっていた。普通の生活の手始めに、近くのホテルで食
事をしていこうと加代は誘った。子育てで外出を制限されている妹は喜んだ。叔母はもともと外食を好むほうではなかったが、反対しなかった。
ホテルの駐車場から玄関までの距離を歩くあいだ冷たい強い風にさらされた。叔母はホテルの分厚い絨毯の上をしっかりした足取りで歩いた。そして、エント
ランスや日本料理店の入り口に飾られた生花に立ち止まって見入った。
春の花びら膳と名付けられた昼の懐石コースは何もかも少しずつ盛り付けられ、華やかで美しかった。
「ふーん、これ、白魚か」
叔母は箸先で目元までつまみ上げて眺め、材料を確かめて食べた。おいしいとも言わなかったが、病院の食堂よりはましなはずだった。幼児は幼児用の椅子に
座らせて、妹が茶碗蒸しや軟らかそうなものを時おり口にふくませてやればおとなしくしていた。手に握らせたハンカチを振り回し、にやっと、食べ物でいっぱ
いの口を開いて笑った。
目の前の窓からは公園のお堀が見えた。まだ木々は芽吹いていなかった。お堀に覆い被さる常緑樹の葉がくすんで灰色になっているのは、大挙飛来して巣作り
に励んでいる鷺の群れの糞害らしい。そのままにしておくと木が枯れてしまうので、公園管理の職員がホースで水をかけ、洗い流しているという記事が新聞の地
方欄に出ていた。
三月の下旬だった。一斉に花が開き、一斉に芽吹くのもまもなくだった。木々はそれぞれ、細い枝先にその爆発の準備をしているのであろうが、遠目には何の
兆候も見て取れぬ冬のままの姿をしていた。
「どっか、ドライブして帰ろうか」
加代は誘ったが、叔母は早く帰宅したがった。市民病院が返却してくれた写真フィルムを、遠回りして饗庭記念病院に返しに行くことには同意した。
「あっ、洩れてきた」
叔母が叫んだのと、白亜の殿堂のような病院の玄関アーチに車が着いたのがほぼ同時だった。
「えっ、たいへん」
加代は大慌てで紙袋からタオルを引っ張り出して叔母に押し付け、「これだけ返してくるから、ちょっとだけ待って」と言い置いて、フィルムの入った大きな紙
袋を抱えて、病院に走りこんだ。預り証を返してもらって急いで戻ろうとすると、藤代医師に出会った。
「市民病院を退院することになりました」
そう報告しただけで、挨拶らしい挨拶もしなかった。藤代医師は愛想笑いを浮かべたが、叔母と加代のことをどれだけ覚えているのかわからなかった。何の治
療も受けられず、叔母が二週間を無駄に過ごした病院だと思うと、文句の一言も言いたかったが、そんなひまもなかった。
叔母はタオルをあてがったおなかを押さえながら、四ヵ月ぶりの自宅にもどった。ベッドは病院でしていたように、防水パッドの上にバスタオルを敷いて準備
してあった。叔母はそのまま横になって、上体を起こした形になるようにベッドを少し持ち上げて、フランジの貼り替えにとりかかった。
湿らせたタオルで開口部のまわりを拭い、湿り気をとって、フランジの接着部分を注意深く貼り付け、まわりをビニールテープで固定した。フランジのまるい口
に専用のビニール袋の口をパチパチと音をさせてはめ込む。どうにか、うまくいったろうか。外したフランジや袋は新聞紙に包み込んで捨てる。汚れた下着は着
替えさせ、バケツに入れる。
そのすぐあとから、叔母の声が上がる。
「あ、またや、あかん」
叔母と加代が無我夢中で奮闘している最中、妹は子どものおしめを替えたり、乳を飲ませたりしていたが、「遅くなったから」と言い置いて、そそくさと引き上
げて行った。
奮闘しているさなかに、斉藤医師が来た。約束の時間になっていたのだろう。しかし、まず袋をどうにかしなければと焦っているうちに、医師はしばらくベッ
ド脇に立って見守っていたが、「では、またにしましょう」とあっさり言って、帰ってしまった。
フランジの接着面はいったんはがれると、もとの粘着力はなくなる。病院から持ち帰ったフランジをすべて使い果たして、加代はやむなく電話をかけ、看護師
に助けを求めた。
中山看護師は病院のストックを持ってかけつけてくれた。一度失敗したあと、お湯で搾ったタオルを持ってこさせて、おなかをしっかりと拭い、ティッシュで丁
寧に水分を吸い取らせ、慌てず焦らず、丹念にフランジを貼り付けた。その確信に満ちた忍耐強い手の働きで、ようやく収拾がついた。
山のような洗濯物の後始末をし、予定通りのメニュで夕食を済ませたのは午後九時をまわっていた。けれども、叔母はよく食べた。加代に引けはとらない量を
食べた。それで、叔母にムリをさせて可哀相なことをしたという加代の心の痛みは少し和らいだ。
叔母は食後すぐにベッドに入り、久しぶりに点滴のチューブから解放された夜をぐっすりと眠ったようであった。
猫は叔母の帰宅に特別な反応を示すこともなかった。擦り寄る仕草も見せなかった。けれども、余所者が帰ったあと、ダンボールハウスから出てきて、叔母が
眠っているベッドの足もとに背を丸めてじっと蹲っていた。
30 24時間持続点滴
翌朝、中川看護師が製薬会社の担当者とともに訪ねてきた。24時間人工栄養点滴をつなぐためだった。点滴用の輸液のパックや点滴ルートのパック、フラン
ジのストックなどの荷物をどっさり運び込んだ。
点滴は病院でのように高いところから落下させるのではなく、ポンプで血管に送り込む方式だった。病人が入院中よりも動き回ることが想定されているからか
もしれない。
輸液パックを逆さに吊るし、ゴム製の口に針を刺し、細い透明なチューブを伝わって流れ出る、ビタミン剤の黄色い色の着いた輸液をシリンダーに受け、チュー
ブの中ほどをポンプに挟み込んで脈動をつくりだす。
「そのうち、やってもらいますから、見といてください」
看護師はにこやかに行って、点滴ルートをつなぎ、叔母の胸元に埋め込まれたIVHに針を刺した。そして、円錐形のシリンダーに落ちる点滴の速度を真剣な
目つきで調節し、専用のラックにまとまりよく取り付けた。ポンプはサックに入っていて持ち運びできるが、輸液パックと別々では移動に不自由だった。小さな
ラックに二つを固定すれば、一まとめにしてベッドの柵に吊るしたり、床に置いたりできた。
だが、便利というには程遠い。洗面するときもトイレに行くときもラックを運んでいかなければならないし、かなり持ち重りがする。一本の細いチューブでつな
がれた生活は思いやるだけでも忍耐が要るようだった。
加代にとって忙しいようで暇な、暇なようで慌しい毎日が始まった。
朝は六時過ぎに目が覚める。胸苦しさを意識しながらうつらうつら過ごし、七時には起きる。コーヒーをいれ、パンを焼き、クリームチーズとジャムをつけたパ
ンを食べる。朝日の射し入る食卓で新聞を読む。
「そろそろ起きるわ」と叔母が言う。叔母は昔から紅茶党だった。濃いセイロン紅茶にミルクを入れて飲むのを好んでいたが、いつ頃からか、ダージリンしか飲
まなくなった。入院前は紅茶も飲まなくなっていたが、退院してからはもとの習慣を取り戻していた。葉を蒸らし、茶漉しでいれる。叔母はきれいな赤い色と香
りを好むらしい。
パンはガスを遠火にして、網で焼いた。叔母はトースターを使っていたが、加代はフランスパンやライ麦パンを買ってくるので、使い勝手が悪いのと、置き場
所がないのとでしまい込んでしまった。最初は叔母の起き出す時刻に合わせて一緒に食べていたが、叔母にいれたての紅茶と焼きたてのパンを食べさせるために
は、加代が先にすませておくほうが都合がよかった。別々に朝食をとるようになって、加代自身はコーヒーに変えた。
洗濯物を干し、掃除機をかける。叔母を寝かせたまま、ベッドをいちばん高い位置まで上げて、掃除できるのは便利だった。畳の上には、コンセントと幾筋も
のコードが這っていた。
陽当たりのいいベランダで猫がプランターに寝そべって毛繕いをしている。「これっ」と大声を出して追い払う。叔母が植えておいたフリージアが密生した葉
を伸ばしていた。その上に居座っていたので、葉はべったり押し潰されてしまった。みずみずしく伸びた葉のひんやりした感触が猫にも気持ちよく感じられる季
節になったのだろう。
午前中には看護師が点滴パックを取り替えに来た。最初のうちは毎日来ていたが、加代がルートのつなぎ方を覚えてからは、二日に一度になった。
薬局からは週一回、輸液パックなどの医療材料を届けに来た。叔母は大きな冷蔵庫を持っていたが、一週間分の人工栄養パックは冷蔵庫の棚の二段分を占領し
た。
薬局の若い男性の担当者も、看護師も、よく忘れ物をした。そのたびに取りに戻ったり、改めて届けに来たりした。看護師はバイクで病院に走ったり、他の看護
師と連絡をとって、同じ材料を使っている他の患者のところから融通してもらってきたりするのだった。加代は自分の物忘れが年齢のせいか、ひどくなっている
ことを気にしていたから、自分よりも若い連中がひっきりなしに忘れ物をするのを、なかば面白がって眺めた。
医者は二、三日して来た。病院のパンフレットに地方の大学の医学部長を退職したという経歴が載っていた。五十代なかばくらいに見えたが、髪を染めている
ため若く見えるのかもしれない。温和な風貌の、口数の少ない人だった。
問診というのも形ばかりのもので、たいていのことは市民病院から送られてくるデータと看護師が採血して帰った血液検査とで判断するらしかった。抗がん治
療は週一回、市民病院に通うことになっているので、在宅でするのは、点滴の管理が主だ。
「市民病院の先生から、点滴を外して外出できると聞いていましたけれど、点滴の時間を短くできないんですか」と加代が尋ねると、「そうですね」と言葉を濁
したまま、答えなかった。
「病状が急変するようなことがあったら、ここに電話してください。午後八時を過ぎたら、私が出ますから」
緊急連絡先の電話番号を教えてもらいながら、加代は市バスのなかに貼られていたポスターを思い出す。末期ケアの在宅患者を多数抱えているのはさぞかし大
変なことだろう。医師が直接、電話を受けるのでなければ、判断のつかないことも多いに違いない。夜中にたたき起こされ、患者の許に駆けつけなければならな
いこともあるだろう。そんな激務に耐えさせるものはいったい何だろうかと加代は考える、末期ケアに携わる医師としての使命感なのか、それとも、病院の経営
を成功させ、拡大したいという事業欲なのか・・・。
「市民病院では教えていただけなかったのですが、余命はどのくらいなのでしょうか」
加代は医師を階段下まで送って出たときに、尋ねてみた。
「長くて、一年と思ってください」
医師は淡々と答える。そうして、聞いてしまうと、加代は、聞いて何になるのかという気持ちになるのだった。
昼の食事は手のかからない軽い惣菜を作った。叔母は「おなかが空いていないから、いらない」と言うこともあった。そんなとき、加代は前夜の残り物で済ま
せた。
昼食の片付けを終わったテーブルで、加代は妹から借りた料理本を捲る。叔母は眠っている。夕食の献立の見当をつけて、買物に出る。
ショッピングセンターへ向かう歩道の脇の斜面には、柔らかな下草が緑青のぼかしのように美しく萌え出していた。まだ木々は芽吹いていなかった。
加代はスーパーの袋を両腕に提げて帰る途中に、桜がほころびかけているのに気付いて、樹の下に近寄って眺めた。白内障のせいだろうが、至近距離に近付か
ないと、はっきりとは見えない。下に立って枝を見上げると、やっと焦点が合って、咲き初めたばかりの桜の花びらが薄く、白く、思いのほか大きく、清らかに
見えた。
そんなふうに眺めている加代に、見覚えのない年輩の女性が微笑みながら、「咲きはじめましたねぇ」と声をかけて通り過ぎた。
31 イカナゴの釘煮
「鮮魚コーナーにイカナゴが出てたよ。まだ小さいけど、キラキラしてきれいなイカナゴやったわ」
「ふーん、どのくらいの大きさや」
「このあいだは、まだほんまに小さかったけど、今日のは1センチ5ミリくらいあったかなァ」
「ああ、あんまり大きなったら、あかんねん。そのくらいが丁度いいわ」
瀬戸内海に面したこの地方では、春先になるとあちこちの家で、イカナゴの釘煮をつくった。新鮮なイカナゴを10キロ、20キロと買い込んで釘煮をつく
り、親戚知人一同に配るのを年中行事にしている家庭も少なくない。イカナゴが上がり始めると、魚屋の店先にのぼりが立つ。イカナゴ御殿を建てたという魚屋
のうわさも聞いた。
「わたしらの子どもの頃は、こんなに、釘煮、釘煮、言わへんかったように思うけど。いつ頃からこんなに、どこの家でも作るようになったんやろ?」
加代は祖父母の家に住んでいたとき、釘煮を煮ていたのを思い出さない。バブル景気の頃なのか、まだ、もっと前のことなのか。そういえば、離婚前には、母
も叔母も義母もつくるようになっていて、お手製がよく送られてきていた。
母は甘いのを嫌って砂糖をほとんど加えないので、イカナゴは釘のようにピンと固くならず、ゆるい佃煮ふうだった。乱雑な千切りの生姜がたくさん入ってい
た。義母のは山椒が効いていて、やたら甘かった。叔母のは、オーソドックスで食べやすかったが、「今度のはちょっと失敗したから、もう一回つくるわ」と口
上がついていたりした。加代は貰ったものを食べるいっぽうで、作ったことはない。
「わたしがつくろうか」と叔母が言い出す。
「へえっ、ほんと?」と加代は飛びついた。医師の激励が効いたのかと、加代は喜ぶ。
たいていの道具や調味料は流しの下の戸棚にしまい込まれていた。叔母に言われるまま、材料を取り出す。ザラメ砂糖にお酒、大きな鍋やかき混ぜるためのヘ
ラ、大きなパットと網の受け皿。
「これ、何に使うの」
「炊き上がったのをこの上に開けて、広げて、冷ますのよ」
いかにも手馴れたふうだった。加代は叔母の言うとおりの買物をしてきただけで、あとは叔母に任せた。叔母はパジャマの上に割烹着を着、点滴スタンドを足
もとに置いて台所に立った。台所は二人並べる広さはなかった。香ばしい醤油の匂いがした。叔母に呼ばれて手伝ったのは、熱い大鍋を持ち上げて、パットに開
けるときだけだった。
「あとは頼んだわ」と叔母は言い、ベッドに戻った。「ちょっと、焦がしてしもた」
確かに飴色を通り越して、焦げ色に近い部分がある。湯気が抜けるとイカナゴは固まった。パッケージに小分けすると、四箱になった。
加代は筍ご飯と若竹煮をつくった。どれも二人で食べるには、量がたくさんになりすぎた。ちょうど見舞いに来た陽子ちゃんが、喜んで持って帰ってくれた。
真法さんの世話人の岡さんが引き連れた一団が見舞いに来た。皆から「先生」と呼ばれている女性は和服を着ている。加代より幾つか年上のようだが、どっし
りした体型に似つかわしく、落ち着き払った物腰で、落ち着き払った話し振りをする人だった。叔母はよそゆきの声で話している。
「家に帰ってきましたらね、トイレに行くのも、そこからそこでしょう。動きませんでしょう。運動不足になるのを心配してますの。病院だと、電話をかけに
行ったり、売店に飲み物を買いに行ったり、ずいぶん歩きましたもの。そりゃあ、全然、歩く距離が違います」
加代は紅茶にクッキーを添えて出し、お見舞いのお礼を言っただけで、会話には加わらず、台所の片付けをする。しなければならないことがあるわけではない
が、狭い2DKでは、ほかに居場所がない。下手に話に加わって、信仰をすすめられるのは困る。
叔母の取り澄ました甲高い声が言っている。
「ええ、ええ、よくしてくれますのよ。病院でも評判でしたのよ。実の娘でも、ああはしてくれないって」
電子レンジの油汚れを拭き取りながら、加代は叔母がほんとうにそう思っているのかしらと少し皮肉な気分になる。
32 普通の生活
叔母は風呂に入りたいと言う。
「あんた、先に入って、風呂場を温めておいて」
それで、加代は明るい午後、水色のバスタブに湯を張る。
風呂場は南側のベランダに突き出して設けられていた。突き出した部分に、せいぜい70センチか80センチ四方の正方形のバスタブが置かれている。洗い場
はコンクリートの地肌のままで、すのこを敷いてある。壁は白く塗られていた。団地ができたとき風呂場はなかったようだが、その後の生活の変化で、あとから
付けたものらしい。違和感のある造りだったが、窓があり明るかった。叔母の退院前に、風呂はお湯のシャワーが出るようにボイラーを付け替えただけで、改造
は看護センターの人の意見を聞いてからすることになっていた。だが、看護師もなかを覗いてみて、「これでしばらくやってみて、考えましょう」と言っただけ
だった。手すりを取り付けるにも狭すぎた。
お湯につかったまま手足を伸ばすこともできない狭い空間だが、明るい日中、お湯に浸かって、水色のバスタブにゆらゆら揺れる透明な水や、白く塗った天井
に水の反射が描く影を眺めていると、贅沢な気持ちになれた。
湯気で浴室を暖め、ストーブで着替えする場所を暖めさせて、叔母はこちらに背を向けて裸になった。
背骨は浮き上がり、太腿の皮膚は象の皮膚のように何重にも垂れ下がっていた。叔母の裸体の無残さに加代は息を呑んだ。一度も太ったことのないひとなの
に、なぜ腿の皮膚がドレープのように垂れ下がってしまったのか、痛ましいばかりだった。叔母は点滴スタンドをドアの外に置いて、シャワーを浴び、体を洗っ
た。加代が呼ばれて背中を流したのも最初だけで、すぐ自分でするようになった。だが、叔母はゆっくりと湯に浸かることもできない。
叔母はイチゴを食べる。「豊の香」とか「幸の香」とか名付けられた大粒のきれいなイチゴはクリスマス前から出回っていたが、叔母は「あんなんは甘いだけ
や。イチゴの味がせえへん。わたしは食べへんで」と嫌う。通りすがりの果物屋で「女蜂」が店先に並べられているのを見つけて買ってきた。
真っ黒な釉薬に銀色の小さな梅の花形が飛び散った油滴天目の茶碗に真っ赤なイチゴを入れて出す。イチゴが滑らないように小さな突起がついたスプーンで押
しつぶし、ミルクと砂糖をかけ、スプーンで掬って食べる。
「女蜂やいうたかて、この頃はいろんな種類の花粉が混じっとるのとちがうか。昔の味やないわ」
叔母は「女蜂」の味にも満足しないらしい。
叔母が食べ終わった後の食卓に、加代はプロポリスのカプセルの入ったパックを置く。
「忘れんと飲んでよ」
「だいたいわたしはこういうものを信用してないねん。わたしが飲んでも勿体無いだけやから、あんたが飲んどき」
「わたしは別に悪いところ、あらへんもの。腸にいいんやって。粘膜で吸収されて、腸を治してくれるらしいよ。腸の状態がようならんと、なんぼ食べても、体
力がつかへんよ」
「あんたが飲んだらええのに」
加代が口にしているのは、そうあってほしいという希望にすぎなかった。押し問答しながら、叔母はいったい病気のことをどんなふうに考えているのかと加代
は困惑する。
33 揺れる枝
四月に入って、一斉に桜が開き始めた。その咲き初めに、冷たい雨が降り、強い風が吹いた。ほころびかけた薄紅のツボミが房のまま吹きちぎられて、点々と
散らばっていた。買物帰りに加代は芝生に散らばった小房を拾って持って帰った。縁が大きく波打った透明なガラスの菓子器に水を入れ、ツボミを浮かべて、食
卓に置いた。ピチャピチャという幽かな音に振り向くと、猫が水を飲んでいた。表面張力のみなぎる水面を少しくぼませて、まもなく花は開いた。
台地を削って造成した団地には、多くの斜面が残されていた。その斜面にソメイヨシノが植えられ、歳月とともに大木に育って、枝を大きく広げていた。雨風
に痛めつけられたかに見えたのに、桜は週末にかけてしたたかに開いた。
桜樹は太い枝を横へ横へと伸ばし、そこからまた左右に枝を伸ばす。枝は徐々に細くなり、空間の空いた部分を埋めていく。マッチ棒くらいに細くなった枝か
ら球状に花柄を伸ばし、その先端に花を開く。毎年、桜の花びらの大きさに加代は打たれる。その花びらの薄さ、薄紅の色の清らかさに驚く。
細枝はこぶこぶと連なって長く伸び、もつれ合うように枝垂れる。ふんだんに花をつけ、花の重みで垂れ下がる。いくつもの大枝が重なり合って、畳何畳分も
の広さを、白い、軽い、ひんやりとした花で埋め尽くす。
それは生命をもつものの冷たさだ。幽かに香るひんやりとした花をたわわにつけて、ほの白く、ゆらりゆらりと枝は揺すれた。
桜谷公園には、台地に鋭く切り込んだ谷の地形がそのまま残されていた。谷の窪みには階段がつけられ、両側から枝と枝を差し交わした向こうに海が見えた。
ゆらりゆらりと揺すれる花の枝は、海の底へと誘うようであった。
加代は毎日の買物の行き帰りに、遠回りして桜谷公園を通り抜けていく。バス道の向こうの松風台公園では土日、大勢の家族連れや、誘い合って花の下にビ
ニールシートを広げて飲み食いするグループで混み合い、屋台なども出て騒がしかったが、団地の内側に入った桜谷公園はひっそりしたものだった。ジョギング
姿の男性が長い階段の上り下りを根気よく繰り返していた。散策するひとが、時々佇んで花の枝を見上げながら、ゆっくりと歩いて公園を横切り、向こうの住宅
地に消えて行った。
叔母が退院してから、加代は一度も大阪の自分の部屋には帰っていなかった。暗くて寒い穴ぐらのような部屋。離婚を決意したとき、住めさえすればどんなと
ころでもいいと間に合わせで借りた部屋に、もう七年も住んでしまった。廃墟のような空洞のような部屋が無性になつかしかった。
曇り空の夕暮れには、花びらの一枚一枚までがはっきりと見え、加代は目が悪くなったことを忘れている。谷から吹き起こす生ぬるい風に桜の大枝が大きく揺す
れる。加代は携帯をまさぐり、年下の男に電話をかける。「会いたいの」と告げよう。けれども、男は携帯を切っているらしく、「お客様のおかけになった電話
番号には電源が入っておりません」という機械的なアナウンスが聞こえてくるばかりだ。
食事のあと、「タバコを買ってくる」と叔母にことわって、もう一度電話をかけに外に出た。だが、やはり電話はつながらない。電話がつながったにしても、口
数の少ない無愛想な男だから、優しい言葉が聞けるわけでもない。ただ加代は男の声を聞きたい。遠くてもつながった電話の先の、そこに居ると感じたい。
コンビニの店先で電話をかける。桜谷公園のベンチに腰を下ろしてタバコを吸いながら、電話をかける。階段の上から見下ろすと、外灯に大きな桜の木が浮かび
上がっている。海の底に向けて差し交わした枝がほの白く揺すれ、遠いところへ、遠い時代へ、遠くへ遠くへと誘うようだった。電話はつながらない。体も冷え
てきた。あと一度だけ、もう一度だけと加代は電話をかけ続け、あまり遅くなれば叔母が心配するだろうと思い直し、諦める。
34 通院日
市民病院への通院は水曜日の12時半と決められていた。看護師はいつもより早めに来て、点滴を止め、ヘパリンという血液の凝固を止める薬剤を注入する。
手もとを見詰めている加代に、「これもそのうちやってもらいます」とにっこりしてみせた。
「整理ダンスの三番目の引き出しに小花模様のブラウスが入っているから」
叔母の言うとおり、加代は叔母の着ていく物を揃える。春物だが裏地のしっかりとしたジャンパーを着、布製の日よけ帽を被る。背筋をしゃんと伸ばしステッ
キをついた叔母は、痩せてはいるものの毅然とした老婦人に見えた。
団地の下り坂を、舗装した通路を通らず、草の生えたところを近道しようとするのを、「危ないよ」と横から加代が止める。
「平気、平気。いっつも通ってるんやから、こっちのほうが安全や」
細い溝を跨いで渡る。加代は叔母を待たせてタクシーを迎えに来させようと、走って呼びに行くが、タクシーが来るまでに叔母はタクシー乗り場にたどりつい
た。
受付をすませ、外来患者用の処置室で血液検査を受け、「大丈夫です。今日から抗がん剤点滴に入ります」とお墨付きをもらった。血液検査の結果待ちに一時
間、抗がん剤点滴に一時間半と、待ち時間ばかりが長かった。加代は喫煙コーナーに行ったり、コーヒーを飲みに行ったりした。点滴が終わる時間を見計らって
帰ってくると、叔母がドクターと話しているところだった。
叔母は点滴スタンドを持ち運んでは動きづらい、運動不足になるとこぼしている。
「それは慣れてもらわないと仕方ありませんね。自分の体のことやから、自分でやってもらわんと」医師はしきりに激励する。
叔母にとっては点滴のチューブから解放されるめったにない日だ。
「どっかで食べていこうよ」と加代は誘う。
「蛸焼が食べたい」と叔母が言い出す。
蛸焼はこの地方の名物だった。ソースを塗って食べる大阪の蛸焼とはちがって、焼き立てのアツアツを、貝でとった出汁に浸して食べる。焼き立ての蛸焼は小
さな俎板が傾いたような木の台に載って出てきた。とっくりに入った出汁が刻み三つ葉を入れた小鉢とともについてくる。蛸焼は大きくて、台に載って出てきた
ときには、空気が抜けて少しひしゃげている。ふうわりとした卵生地にしこしこと噛み応えのある蛸のカケラが入っている。
観光名物としてもてはやされるようになって、元祖とか本家とか名乗る店が競い合っていた。昔、叔母と買物帰りに立ち寄る店があった。元祖争いには関係が
ないようだったが、いつでもよく流行っていた。
「あの店、まだあるかなァ」
「さあなァ」
駅前までタクシーで出て、店のあったあたりを通ってみた。最後に行ってから、もう二十年近くたっているかもしれない。駅前は再開発ですっかり様変わりし
ていた。蛸焼屋のあった狭苦しい路地が残っているのは奇跡的だったが、蛸焼屋はなくなっていた。
「よう流行ってた店やから、潰れたんやないやろ。どっかへ移ったんやろか。しょうがないなァ。どこの店でもかまへんか」
加代は新しく拡張された駅デパートの地下に「明石蛸焼」の看板を掲げた店があったことを思い出した。そこなら叔母を歩かせずにすむ。
円形競技場の座席のように扇形にデザインされた階段を通って地下の食堂街に下りていく。片側に花屋が店を広げている。ガラスのドアの外までシクラメンの
鉢や観葉植物の寄せ植えの鉢を溢れさせている。色とりどりのバラ、チューリップ、桜草の類。見慣れないベゴニアの変種の数々、薄緑色のカーネーション、花
びらの縁が波打った二色のチューリップ、牡丹のように花びらが豪奢なさつき。花屋の店先は、消費者の珍しいもの好きの嗜好に合わせて、目も彩な進化を遂げ
ていた。向かいのケーキショップも負けず劣らず、綺麗で手の込んだ商品をショーウィンドーに並べていた。
叔母は杖を突きながら、ゆっくりした足取りで、時々立ち止まってまわりを見回しながら歩く。加代も叔母に寄り添って歩きながら、重病で何ヵ月も入院して
いた叔母の目で店先の華やかさを眩しく眺める。
花盛りは少し過ぎたけれども、まだ桜は豊かに咲いていた。タクシーは桜並木の下を通って走った。タクシーに乗ったところも、降りたところも花の下だっ
た。叔母の目に桜はどんなふうに映っただろうか。加代よりも白内障がずっと進んでいる叔母の目では、ぼんやり白い花影がとらえられるのが関の山かもしれな
い。
「松風台公園のところで降りて、花見していかへんか」
「いや、もう疲れたわ。はよ、帰ろ」
叔母のベッドがある部屋の北側の窓の正面に、桜の木が植わっている。棟の北側にあって日当たりが悪いせいか開花は遅れて、これからが盛りだ。叔母は毎
朝、北側の窓を開けて、髪の毛を梳く。桜の花を見ながら、髪の毛を梳かすのだろうか。
抜け毛を手にとって、一軒家に住んでいたときと同じように、窓から捨てる。加代はそれが気になって、屑籠を窓際に置く。
35 若葉雨
文枝が近くまで出て来るという。大阪の南の端に住む文枝にとって、ちょっとした小旅行であるにちがいなかった。
うっすら曇った空から時おり小雨が降って肌寒かった。駅前に広がる城山公園をぐるりとひと巡りし、降りはじめると、東屋で休憩して話した。雨の日の公園
はさすがに人けがなかった。きれいな黄緑色をした木々の葉はまだ幼く柔らかく、内堀の崩れたあたりに広がる繁みのなかまで明るかった。湿った朽ち葉の堆積
を踏みながら、内堀から流れ出す小川の水が清らかで水嵩も多いことに加代は驚いた。
「こんなとこまで来るの、わたしも始めてよ」
そう言ったあとで、小学生のとき級友達と絵を描きにきて迷い込み、怖い思いをしたのはここだったかもしれないという遠い記憶が掠める。
文枝はレモンイエローのヤッケを着ていた。大きすぎるヤッケのなかで文枝の小柄な身体はあるかなきかに見えた。雨除けのフードを被っているところは、と
んがり帽子を被った森の妖精のようだった。
「きれいな色ね」と加代がほめると、
「千円だったの」と笑った。
「この頃、何でも安いわね。このジーンズも千円よ。おかげで最近は千円以上のものは買う気がせえへんわ」
文枝も着る物にお金をかけないほうだったが、いつもこざっぱりした文枝らしい身なりをしていた。加代が文枝らしいと感じるのは、昔の女学生のような良質
の飾り気のなさだ。
文枝は東屋のベンチに腰を下ろし、輪切りにした大木の断面のように年輪を浮き出させたコンクリート製のテーブルに両肘をついて手のひらで頬を挟み、上目
使いになりながら言う。
「わたし、毎年この季節がいちばんしんどいの」
しんどいというのは体ではなくて心のことだということを加代は知っていた。フードを脱いだ文枝の前髪に白髪が目立った。
「五月病やね」
「そうかもしれないわ」
「仕事が忙しいの?」
「忙しいのは構わないの。まともな仕事ならね」
「まともな仕事じゃないの?」
「上司のでたらめな仕事の尻拭いばかり。やらされるほうはたまらないわ。いい加減にしてくださいって、突き返してやりたい」
「そうできたら、すっとするわね」
「会社を辞めなきゃならないかもしれないわ。無能なくせに底意地の悪い奴だから。社長にはうまく取り入っているのよ」
「だいたい、無能なのに限って取り入るのはうまいんじゃない?」
「でも、いつか我慢できなくなりそう」
文枝はタバコを吸う。金属細工を施された小さな携帯用灰皿を取り出して吸殻を入れ、「はい、どうぞ」と加代にも差し出した。
「今、辞められへんわねェ」と加代は文枝の表情をうかがう。
文枝の夫は失業中だった。それももう四年になる。勤めていた教材出版の会社が倒産し、雇用保険をもらっていたあいだは、しばらく休養するというぐらいの
つもりでのんびり構えていたようだが、長期間の不景気と重なって、受給期間を過ぎても再就職先は見つからなかった。その間にとった資格も就職には結びつか
なかった。50歳に近い男性の再就職はそれほどにも難しいらしかった。そして、失業期間が長引くと今度はそのことが雇用先の疑念を招き、最近では就職活動
もほとんどしなくなっていると聞いていた。夫婦に子どもはなかった。
「わたしは仕事が好きだから。働きたいほうが働けばいいのよ」
文枝は夫が働かないことを咎めようとはしなかった。夫がパチンコに凝っていると聞いた。二人とも働いていたときは相当あった蓄えが、ほとんどなくなって
しまったらしい。それでも家計の管理は夫に任せているという。
「勇気があるわねェ。わたしなら、不安で、不安で、いてられへんわ」
加代は呆れた声を上げたが、文枝は何とも答えなかった。
小川はところどころ石を配してコンクリートで固められていたが、古びて苔がつき自然らしく見えた。小川に沿って下ると、大きな池に出る。向こう岸の桜並
木も柔らかな緑に包まれていた。中ノ島には葦が密生して伸び、もっと青っぽい緑に染まっている。雨の日だから、景色が以前のようにくっきりと見えているの
だと加代は気がつく。池には、舳先を白鳥の長い首にかたどったボートが、雨のなかを乗るひともなく、船着場の傍に片寄せてつながれていた。
池を半周して、池に乗り出すように建てられた喫茶店に入った。喫茶店にも人けはなく、コテージ風の板張りの床に靴音が響いた。ガラス窓の向こうの灰色の
水面に、黄色いペンキで塗られた浮き小屋が浮かんでいたが、そこに水鳥の姿も見えなかった。
加代は文枝がかつて話した学生時代のラブストーリーを思い出す。
「デモに行ったとき、知り合ったの。わたしは、関西の大学でしょ。彼は東京の大学だから、よく東京に行ったわ。キセルしてね」
優等生タイプの文枝には大冒険だったのにちがいない。
「わたしの結婚する相手はこの人しかいないと思ったの。この人となら、一緒に屋台を引いてもかまわないと思ったの。本当にそう思ったの」
「わァ、わたし、そんなインスピレーション、働かなかったわ。だから、ダメやったのね」と加代は混ぜ返した。
加代は文枝の内側には夢見る少女が棲んでいると思う。文枝の内なる夢見る少女は、夫のすべてを受け容れることによって生き続けようとしていた。けれど
も、二人の生活の経済的な基盤が一方的に文枝の我慢によって支えられているというのは、やはり不自然なことのように加代には思われる。文枝にとってもそれ
が負担になってきたのではないか。
「いつか爆発しそうよ。我慢できなくなりそう」と文枝が言うのは会社勤めのことだが。
「近ごろのパチンコはすごいのよ。負けかけたら、五万、十万はあっという間に無くなってしまうって」
「負けるばかりだと、イヤになるんでしょうけど。若い頃、わたしも誘われてやったことはあるけど、面白くもなんともなかったわ」
「わたしもそうなのよ」
パチンコの面白さがわからない者同士が顔をつき合わせて、パチンコに熱中する人の心理をいくら話し合ってみても、埒は明かないのだった。
「うちの近くにも大きな公園があってね。野宿の人たちがテントを張ってるの。夫婦連れもいるのよ。ときどき見に行くの。ああいうふうにしても生きて行ける
んだなァって」
冗談とも本気ともつかない口振りで、口をとがらせて文枝は言う。
「そんなに人を信じられて幸せね」
思うよりも先に言葉が加代の口をついて出た。
しばらくして文枝は、小形のリュックのポケットにシガレットケースをしまいこみながら、「信じているふりをしているだけかもしれないわ」と小さな声で
言った。
36 ホトトギス
携帯に仕事先から電話が入った。調査を頼みたい物件があると言う。急ぎの仕事ではないが、二、三日中に打ち合わせに来てほしいとのことだ。幸いにも調査の
場所は遠いところではなく、同じ沿線の三つ四つ先の駅が最寄り駅だ。こんなときに仕事かと、とっさに迷惑に思ったが、加代はすぐその気持ちを抑えた。
「はい、できると思います。打ち合わせの時間は、後から連絡させてもらっていいですか」
なるだけ元気よく聞こえる声で答えた。何ヵ月かぶりに来た仕事を断ってしまってはもう二度と声がかからなくなるかもしれない。
「どうしよう、仕事が来た。こんなとき、来んでもええねんけど。行ってもええか。ヘルパーさんに来てもらうように頼んでみるから」
だが、叔母に伝える加代の声は、自ずと弾んでいた。
「わたしはかまへんで。行ってきたらええわ。留守番くらい、ひとりでできるわ」
「けど、お昼もつくってもらわんとあかんし。好きなもの、つくってもろたらええ。いっぺん試しに、ヘルパーさん頼んでみようよ。かまへんやろ」
「ええけど」
不承不承ながら叔母に承諾させて、加代は看護センターに電話する。
「急なお願いで申し訳ありませんが、明日、ヘルパーさんに来ていただけないでしょうか。仕事が入って、大阪へ出て行かねばなりませんので」
「仕事」と口に出したとき、加代は少し誇らしい気がした。
そうだ、自分は何もすることのない人間ではないのだ。大阪に出たついでに自宅に戻って、ノートパソコンを持ってこよう。調べごとをしたり、報告書をまとめ
たりするのに必要だ。目が悪くなっているから、看板を見落としたり、文字を読み違えたりしないように、ゆっくり、丁寧に、注意深く確かめてこよう。二、三
時間ずつでいい、何回でも現地に足を運ぶことをいとわないでおこう。以前は仕事を早く仕上げることばかり考えていたけれど、効率なんかにはこだわるまい
と、加代の心は自ずと仕事に向かっていく。
「帽子をかぶって行きなさいよ」
ベッドのなかから、叔母が叫ぶ。
「はーい、かぶってるよ。行ってくるわ」
住宅地図の入った大きなバッグを肩にかけ、庇の大きい日よけ帽をかぶった加代の姿が見えない位置で寝ている叔母に向かって、叫び返して玄関を出る。
マンション建設地の最寄り駅は海の間際のローカルな駅だ。普通電車しか停車しない。駅のまわりには戦前からの住宅街が残っており、古めかしい市場や昔な
がらの商店街が店を開いていた。
道路は狭苦しい。駅の傍を千鳥川が曲がりくねって流れ、川に沿って道路が奥へ伸びる。この川沿いの道路から、葉脈のように両側の高台の住宅地へ枝分かれし
ていく。
商店はどこも、気味が悪いほど愛想がよく親切だ。加代が立ち止まって、店先で地図を確認していると、客と商店主との会話が聞こえてくる。
「あのひと、ほら、フクハラさん。この頃見いへんけど、どうしてはるんやろ」
「家のなかでこけて、骨折して入院してはったらしいですよ」
「へえ、年とると、骨が脆なるからねェ。それで、退院しはったん?」
「杖突いて歩いたはりますわ。リハビリに通うてはる、いうて」
「まあ、よかった。寝たきりにならんで」
「ちょっと痩せはりましたな」
「痩せたほうがいいのよ。あんなに太ってたら関節に負担がかかって、しょうがないもの」
マンション建設地は千鳥川をずっとさかのぼった奥の新興住宅地にあった。内陸部を通る高速道路に近かった。その周辺には広大な駐車場をもつ生協の大店舗
や、ドラッグストア、電気店、ホームセンターなどが軒を連ねていた。マンションは全戸駐車場付きだ。
建設地から駅まで、大人の足で十七、八分の距離がある。新興住宅地を通るバスルートは、道路事情のいい隣駅へ向かっていた。マンション住民がわざわざ千
鳥浜駅周辺にまで買物に出てくることはあまりなさそうだったが、それでも念入りに調べておかなければならないのは、このあたりが戦前には名の通った別荘地
で、マンションはその地名を冠して売り出される予定だったからだ。
加代はこの日は、千鳥川沿いを歩いた。駅との中間あたりにある古い市場はさびれて、なかを覗くと薄暗く、開いている店は数えるほどもなかった。道路に面
したコンビニも外装を残したまま、内部は空っぽになっていた。
千鳥川沿いには、幼稚園や学校があった。高台に古くから開けた住宅地へ上っていく途中には保育園があった。加代は近道がないか探しながら、校門を確かめ
ながら歩く。
千鳥川はたぶん戦前から、コンクリートで固めた溝川にすぎなかっただろう。だが、川の両岸やまわりの住宅地には木々が多かった。新緑が深まり、木々の陰
にコデマリやヤブデマリが小さな貝ガラのような反った花びらを散らしていた。
加代は歩き疲れて、坂の中腹の小公園で木陰になった石組みに腰を下ろす。さわさわと快い風が吹いて、千鳥川を見下ろしながら、疲れてぼうと火照った体を
休めていると、キョキョキョキョキョキョーッと鋭い声が渡っていった。
その声はたった一度しか聞こえなかった。しばらくして、ホトトギスだったかもしれないと思い当たる。以前、山間の宿に泊まったとき聞いたことのある声だ
が、誰かに確かめることもしなかった。加代が子どもの頃住んでいた祖父母の家とこの谷はどれほども離れていないのだが、子どもの頃にその声を聞いた覚えは
なかった。
ホトトギスを聞いたよ、あれはきっとホトトギスだったよ、と叔母に話そうと加代は思う。それから、ホトトギスが黄泉の国からの使者と言い伝えられてきた
ことを思い出す。
37 しみったれ
「ふつうに生活できますよ。じっと寝ているばかりじゃダメですよ。適度に体も動かしてください」
そんなふうに主治医から励まされた当座は、叔母も散歩に行こうかという気になっていたようだが、生憎その頃、冷たい雨が降り続いた。それから後は、加代
が誘っても、「やっぱり点滴をぶら下げて出て行くのは大儀やなァ」とか、「近所の人に顔を合わしたら、挨拶せなあかんし、病気の説明をするの面倒やから」
とか、何かと理由をつけて出渋った。
「胸がムカムカする」と言って、叔母は少ししか食べないこともある。
冷蔵庫に作り置きのおかずが溜まってしまう。叔母には何かしら目新しいものを用意して、加代はせっせと残り物を片付ける。
「残り物はみんな捨ててしまいなさいよ。ぼーいッと捨ててしもたらいい」
叔母は「ぼーいッと」というところに、やたら力を込めた。
「いやよ」と加代は猛反発する。「わたしが一所懸命つくったのに。食べるわよ。絶対、食べる。叔母ちゃん、買うてきたおかず、二、三回に分けて食べてるく
せに。叔母ちゃんはわたしが作ったもの、気にいらんのよ。だから、そんなこと言うのよ」
加代は自分がなぜそんなに激昂するのかわからない。叔母は黙り込んだが、横を向いた表情が、わずかににやりとしたように見えた。
その笑みは「やっとわかったの」と言っているようだった。
加代はまだ叔母が元気だったころ、献立を考えるのを煩わしがる叔母に鍋物をすすめたことがある。
「一人用のかわいい土鍋があるやろ。あれ、買うてきてあげようか。お鍋にしたら、簡単で便利でええよ。野菜もいっぱい食べられるし、魚すきにしたり、しゃ
ぶしゃぶにしたり、週三回はいけるわ」
すると、叔母は面映そうな微笑を浮かべて答えたものだ。
「わたし、ここで一人暮らしを始めるときに誓うたことがあるねん」
「え、何を?」
「お鍋からものを食べるのは、絶対せんとこうって」
そのときのように叔母は退院してくるとき、ひとつの誓いをしたのかもしれない。加代の家事のやり方に文句をつけるまいと。その日頃の自制心が叔母の口元
ににやりとした笑みを浮かべさせたのではないかと加代は勘繰った。
叔母は痩せこけて大きくなった目をさらに大きく見開いて、重大な打ち明け話をするかのように、「わたし、ほんまはしみったれやねん」と言った。
38 うつらうつら
点滴ルートの中間に小さな円錐形のシリンダーがあって、点滴パックから流れ出た輸液はいったんそのシリンダーに滴下し、溜まった液がポンプの作り出す脈
動で細いチューブを伝わって、叔母の体に送りこまれる。ベッドの脇に置いた点滴スタンドにセットされたシリンダーの液面の位置を確かめようと、加代は畳に
頬を擦り付けるようにして何度も覗きこんだ。液面の位置がいつもより少し低い気がする。この日は看護師の来ない日で、加代がひとりで点滴パックを付け替え
た。ポンプのスイッチを入れるタイミングが悪かったせいではないかと加代は気に病む。何度も何度も確かめた末、液面が徐々に下がっていることが疑えなく
なって、やっと決心して、看護センターに電話した。看護師が詰めている時間に来てもらわないと、夜間に異常事態になれば尚更、面倒なことになる。
中山看護師はすぐ駆けつけてくれ、加代と一緒になってシリンダーの液面を覗き込む。
「そうですねえ、確かに低いですね。なぜでしょうね」
看護師にも原因はわからないらしい。だが、看護師は原因究明になどこだわっていない。「取り替えましょう」と言うなり、さっさと点滴の流れを止める。加
代も慌てて、冷蔵庫から新しい輸液パックを取り出してビタミン剤を注入する準備にかかる。
「今度は大丈夫ですね」
「ええ、こんなものですね」
加代は心配が解けてほっとする。もっと早く連絡すればよかった、液面をためつすがめつ、悩んでいることなどなかったと思う。
叔母は点滴の具合などには無関心なふうで一言も差し挟まない。一人暮らしならば、叔母が自分で気をつけなければならないことなのにと、加代は少し不満
だ。
加代が点滴ルートのつなぎ方を教えてもらったのは、輸液パックを交換するときの、叔母の体からは遠い部分でのつなぎ方だけだ。叔母の右胸の鎖骨の下に埋
め込まれたIVHに差し込まれたルートの取り替えを、1ヵ月たっても2ヵ月たっても、看護師は教えようとはしなかった。
点滴を止める前には、ヘパリンという血液の凝固を妨げる薬剤を点滴ルートから注入する。それからIVHのゴム部分に差し込まれたルート先端の針を抜く。
難しいことでもなさそうだ。加代がそれをできるようになれば、叔母の気の向いたときに、点滴を外して外出できるだろう。帰宅して点滴を再開する時間に合わ
せて看護師に来てもらうようにすれば、あの重い点滴スタンドを持ち運ばなくても散歩もできる。叔母は食事もしているのだし、たとえ栄養分がわずかしか吸収
されていなくても、何も24時間、毎日、毎日点滴をし続けてなくてもいいはずだ。
加代はそのことを医師に言ってみたのだが、医師は「そうですね」と言ったきりで、ほかに何とも答えなかった。「そうですね」というのは、軽い相槌のよう
なもので、同意ではないらしかった。看護師にも言ってみたが、似たり寄ったりの反応だった。それで、加代は、点滴を止めたり再開したりするのは、患者の体
に負担がかかるのかもしれないと思うようになった。
退院してきた直後、叔母は起き出して、タンスの引き出しを整理しているようなこともあったが、一区切りついたらしく、もうそんな姿を見ることもなくなっ
た。加代は「何を整理していたの」とも、「もう整理はついたの」とも聞かなかった。
叔母はほとんどの時間を、ベッドの枕元に置いたラジオをイアフォンで聴きながら、うつらうつらしている。叔母は落語が好きで、毎朝、新聞で番組欄を調べ
る。音楽番組やニュース番組も聴いている。加代は、以前はよく叔母と政治について話した。学校での国旗掲揚や国歌斉唱の指導強化や自衛隊の軍備拡張につい
て、叔母はいつも批判的だった。
「いつか来た道やなあ」と叔母は言った。
だが、いつの頃からか話が合わなくなった。
ニューヨークのWTCに飛行機が突っ込んだ事件のあとで、叔母はブッシュ大統領が強硬姿勢をとるのを支持した。
「あれは、頭に来るのはムリないなァ。面目まるつぶれやからなァ」
イラクの荒地を戦車が猛スピードで進んでいく。フセインの中空の銅像に綱をつけて引き摺り倒す。そんな映像がテレビで流れていても、何も言わない。時た
ま加代が独り言のように感想を言う。
「自分の国でテロリストの教育しとって、よう捕まえんと、よその国に攻めていくやなんて、どこか間違えてるで」
叔母はなんとも答えない。
猫はダンボールハウスのなかで眠っている。
「猫と叔母ちゃんはよく眠る」と加代はそっと呟く。
39 サウザンクロス
叔母に電子レンジで温めて食べるように、簡単な昼食を準備し、加代は雅之と待ち合わせた駅に駆けつける。海岸沿いの松林のなかにある小さな駅だ。直行の
バスの時間を調べていなかったために乗りはぐれて、加代が遅れて改札口に着くと、雅之は駅の外からゆっくりと戻ってくるところだった。白いシャツに、肩に
は仕事に行くときもいつも持っている黒いリュックを掛けていた。加代を見つけるとちょっと驚いたような表情で笑みを浮かべた。
「早く着いたから、外を見てた」
「ねェ、いいところでしょ」
「うん、まあ、そうやな」
言葉数の少ない雅之からは、それ以上の答えを期待しても無駄だ。
海岸線に沿って松林が残っている。砂浜はずっと以前に、速い潮流に侵食されてえぐりとられてしまっていたが、そのあとを埋め立てたり、人工砂浜を設けた
りして、遊歩道がつくられていた。
「もう少し向こうに行くと、マリンリゾートがあるわ。そこまで行ってみようよ」
そんなふうに誘いかけるのは、いつも加代のほうだった。
「あそこにマグドがあるよ。あそこに入ろうか」
雅之は加代がファーストフードを嫌うのを知っていて言う。
松林を抜けて遊歩道を東へ歩く。海岸はいたるところ埋め立てが進んでいる。
戦前、海岸沿いには外国人の別荘が並んでいた。海風が強いせいか、別荘の庭には樹木はほとんど植えられてはいず、芝生を張り、ボートやヨットが船底を上
にして引き上げられていたりした。かつては庭先からすぐ浜へ続いていた。
バブル時代には別荘の多くが買い取られて、フランス料理や地中海料理などの洒落たレストランに改装され、海の眺めと個性的なメニュを競い合っていた。い
つか食事したいと加代が思っていたそんな店は、いつのまにか姿を消していた。営業しているのは、ファーストフード店やラーメン店、回転寿司屋など、全国で
チェーン展開しているような店ばかりになっていた。
そして、浜が埋め立てられ海を失った別荘は、リゾートの輝きを失って、扉に板が打ち付けてあったりして、白っぽく埃っぽい、少し風変わりなだけの、ただ
の古家になってしまった。
加代は雅之に、昔はこんなふうだったよ、あんなふうだったのよと思いつく限り話すのだが、返事らしい返事も返ってこない。加代はそれに慣れていた。
ときどき手をつないでみた。雅之の手は分厚く、もっちりとした肉付きをしていた。指先がヘラのように広がっている手を弄びながら、「こんな手でよくデザ
インできるのね」とからかう。
「ねェ、わたしたち、なに? わたしたち、恋人?」
すると雅之は「腐れ縁」と面倒くさそうに答える。
マリンリゾートはアウトレット店を集めたショッピングセンターとレストラン街を併設していた。家族連れやカップルがちらほら行き交う。休日にこの程度の
人出では、ここも地方自治体が経営に参画している施設の例にもれず、やはり赤字経営なのだろう。
どのレストランも海に向ったデッキにテーブルを出していた。地中海風を装った白っぽい店造りと涼しげな観葉植物の鉢。あれこれとメニュを見比べて入った
店だったけれど、そこここのファミリーレストランと大差ない味だった。
歩き回って疲れたら、眺めのいい場所に座って休憩した。一緒に暮らす前や暮らし始めた頃には、そんなふうによく近郊の観光地へ出かけたものだった。
ゆっくりと歩いて行く親たちのまわりで、子どもらが追いかけっこをしたり、じゃれあったりしながら、親たちから離れたり、駆け戻ってきたりする。その様
子を見ると、加代は、雅之の別れた妻が引きとった子どもたちのことを思い、胸がチリチリとした。
「体験漁業ができるところがあるらしいわ。イルカのショーもやってるって。今度は子どもさんたちを連れてきてあげてはどう?」と口に出してみる。そんなこ
とを言うのは無責任なアリバイづくりにすぎないという気もどこかでするのだった
松林の外れにサウザンクロスという名のラブホテルがあった。青く塗られた壁に緑濃い椰子の木が大きく描かれていた。そのホテルがそこにあることを、加代
は電車の窓から見て知っていた。だから、自分が雅之を連れてきたのかと疚しくもあった。
雅之は加代を抱き締め、ブラウスを脱がせながら、加代の首筋に顔を伏せ、「好きだ。この匂いが好きだ」と呟く。
そして、シーツのあいだに潜り込んだ加代の肌に触れ、
「この肌の感じが好きだ」と言う。
セックスが終わると、うとうととまどろんだようだった。真っ白なシーツをかけた広い大きなベッドに並んで横たわり、加代は雅之の腕を抱え込む。片手を額
に当てて目を閉じている雅之の横顔を眺める。
その次に加代が目覚めたときには、雅之はベッドの向こうの応接セットに腰をかけてタバコを吸っていた。遠くまで埋め立てられた浜の向こうに海が光って流
れていた。黒いタンカーがいくつも、動くとも見えず浮かんでいた。
「もう、時間なの?」
加代は熱っぽくだるい体を引きずってシャワーを浴びに行く。ゆるゆると身ごしらえをしながら、雅之と過ごす時間が過ぎていくのをただ感じている。雅之が
加代の部屋を出て行く前の日、持ち出すものを選り分けている雅之を、ふとんのなかからじっと眺めていたその「時」が過ぎ去ったのと同じように、この「時」
も過ぎていく。
「来てくれてうれしかったわ。また、来てくれる?」
「うん」
「今度はいつ?」
「わからない。また、連絡する」
いつかは、もう二度と会わない「時」が来るに違いない。だが、それは今ではない。今ここにある「時」を確かめたくて、加代は雅之を抱き締める。雅之の身
体の分厚い手応えと体温だけが、過ぎ去っていくもののわずかな手がかりと思える。
40 痛み止め
水曜日、市民病院に通院する日が、叔母の唯一の外出日だった。普段はストマの貼り替えを叔母は自分でするが、通院日の前日には、看護師に頼んで、外出中
に外れないように気を使っていた。当日は朝食も摂らなかった。
11時半頃には、病院に着いて、消化器外来の処置室で看護師の問診と血液検査を受ける。血液検査の結果が出るのに1時間ほどかかった。異常がないと確か
めたうえで、抗がん剤の点滴を約1時間かけて行なう。
廊下の待合室では待っている間に疲れるので、叔母は点滴を受ける処置室のベッドに横になって待つようになった。加代はそのあいだ、バスで駅前に出て、食
事をしたり、買物や用事をすませたりした。
帰りには、加代は何も食べていない叔母に、
「おなか空いたやろ。どこか、食べに行こうよ」と誘う。
叔母は二、三度は誘いにのって駅デパートのレストラン街で食事したが、やがて「もうええわ。はよ、帰ろう」と言うようになり、いくら誘っても、応じなく
なった。病院への行き返りにはタクシーを利用するので、歩くこともあまりない。せめては、タクシーのなかからでも海を見ないかと、遠回りして海沿いの道路
を走ってもらったりしたが、叔母はそれも気乗りしない様子だった。
海沿いの道路は、埋め立てた海岸線に新しく付けたものだった。
「あれっ、あそこ、佃煮会社の工場があったところとちがう?」「へえ、全然変わってしもたやない」びっくりしたり、面白がったりしているのは、加代ひとり
だった。
叔母は胸がムカムカすると言って、食事を抜くことも多くなった。お昼はプリンやムースですませていることもある。
叔母が看護師に訴えている。
「なんぼ食べても、栄養にならへんのやし、点滴外されへん、いうんやから、励みになりませんのよ。この手術、失敗とちがうかしら。腸を上のほうで、短うに
切りすぎてますねん。わたし、もう一回、手術してもええ、思うてますのよ。もう一辺、つなぎ直してもらうわけにはいきませんのやろか」
加代にはもう言わなくなったその疑問を、叔母はいつまでも持ち続けているらしい。看護師は笑みを浮かべて頷きながら聞いているが、何とも答えない。
「家に帰ってから痛みが出ないので、助かってますの」
医師にそう話していたこともあったが、退院から一ヵ月もしてまた「胸がムカムカする」と言い始めた頃には、おなかの痛みをしばしば訴えるようにもなっ
た。入院中もらっていた小さな白いロケット型をしたボルタレンという座薬を薬莢のように連ねたものをもらい、痛むときにはそれを使っていた。
「一日四個までにしてください」と医師から制限されていた。
まったく痛まない日もあれば、ひどく痛むらしく、立て続けに使っていることもあった。
「どうも効かへんねん。入れ方が悪いのかもしれへん。あんた、入れてみてくれへんか」
「いややわ。看護師やないねんから、要領わからへん。自分でするほうが、ようわかるんちがうの?」
痛いと言われても、叔母の身体の痛みは加代には直接響かない。そこまで言うのは、叔母はよほど耐えかねたのだろうと、加代は即座に拒否した自分の思いや
りのなさを後悔する。
翌日、叔母が看護師に尋ねている。
「便がちょびっと出ますねん。したい気持ちになりますねん。腸を切ってるのに、そんなことって、ありますやろか」
「さあねェ、上からは流れていかんでも、宿便が残ってるかもしれんから、そういうこともあるかもしれませんねェ」
横から加代が口を挟む。
「便って、あの白いの? 便器に浮いてた油の混じったみたいな」
「そうやけど」
「あれ、鎮痛剤やないの? 吸収されてへんのとちがうの?」
叔母は黙り込む。看護師は何も言わない。叔母には切り離された腸が律儀に活動していることがなにがしかの希望だったかもしれないのに、と加代は言い終わ
るまえに悔やみ始めている。
仕事は来はじめると、二つ、三つと続けて来た。これまで、どこか別のところに回されていたものが、戻ってきたのかもしれなかった。加代は断りたくなかっ
た。
午前中には輸液パックの取替えをしなければならないし、一日おきには看護師が、加代がまだ教えてもらっていない部分の点滴ルートの取替えに来る。午前中
に家事や買物をすませて、昼ごはんをすませてから出かけるようにしていたが、仕事が重なると、点滴の取替えをすませてすぐ出かけることもある。看護師の来
る日は、点滴の取替え用の材料をテーブルの上にまとめて置いたまま、看護師まかせにして出かけることもあった。
叔母の枕元には、電話の子器とラジオを置いて出る。整理ダンスの引き出しの叔母の目に見えやすい位置に、看護ステーションの電話番号を大きな字で書いて
貼り付けておいた。
「何かあったら、気兼ねせんと電話するんやで」と念を押しておく。
市民病院の主治医は叔母が「一人で生活できますよ」と言ったではないか。加代が一緒に暮らしているのは、夜、不測の事態が起こったときの用心のためなの
だから、夜さえ一人にしなければ、昼間は出かけてもいいと、斉藤医師も言ったではないか。叔母も、加代が介護にかかりっきりになっているよりは、仕事を続
けているほうが気は楽にちがいない。
遅くなる日は、ヘルパーさんを頼んで、何でも食べたいものをつくってもらうように言って出る。帰ってきて「何、食べたの」と尋ねると、「お好み焼きを買
うて来てもろた。胸にもたれて、気分悪いわ」というようなこともあった。
「ムカムカする」「気分が悪い」と言いながら、叔母の食べる量は加代と比べて少なくはなかった。高カロリーの点滴で、栄養は摂れているのだから、食欲がな
ければ食べなくてもいいと、加代は考えるようになっていた。歩き疲れて帰ってきて、「今日は晩ごはんいらん」と言われると、助かったという気がしないでも
ない。「そう」と気軽く受け流して、自分だけありあわせのもので済ませた。叔母の訴えが、病院に入院する以前に電話を通して聞いていた訴えと同じであるこ
とに、加代は思い至ろうともしなかった。
「お腹が痛むねん」と眉を顰めて叔母が言う。その言葉から加代は叔母の痛みを感じることはできない。感じることを遮断しているようでもある。叔母の身体の
なかで起こっていることは窺い知れない。
叔母が看護師に激しく痛むと訴えた日の午後、医師から電話がかかってきた。
「鎮痛剤が効かなければ、モルヒネ系の麻薬を使いますか? 副作用としては、便秘。幸福感があります。依存性のない種類のものです。もっと、強力な鎮痛剤
もありますが・・・」
市民病院の麻酔医が言ったのと同じだった。麻薬と聞くと、加代はトンと突っかい棒を外されたように感じる。痛みは今のところおさまって叔母は眠ってい
る。
「ええ、今のところ、なんとかボルタレンでおさまっているようですので。また、ひどく痛み出したらお願いします」
41 有閑マダム
「もうイヤ。生きていたっていいことなんかひとつもない」
パーマの伸びかけたボリュームのある髪の毛を揺すって、手のひらに顔を埋め、房子は抑えた声で叫んだ。
「ひとっつも」
手のひらから上げた顔は泣き笑いじみた表情を浮かべていた。細いしなやかな髪の毛は赤っぽく染められていたけれど、若い頃ふっくらと優しい曲線を描いて
いた頬は弛み、目元にも口元にも細かい皺が目立っていた。
夫が昨年肝臓がんで急死してから、自分も乳がんにかかっていたことがわかり、入院して手術を受け、放射線治療が終わったばかりだという。房子が急に老け
込んだのも無理はなかった。
大阪に帰ったとき、留守電に房子からの電話が入っていた。叔母の介護をしていると告げると、車で見舞いに来た。房子は加代の小学生時代からの親友だ。加代
が祖父母の家に住んでいた頃によく行き来していたから、叔母とも知り合いだった。叔母のベッド脇にしばらく椅子を寄せて、子どもの頃の思い出話をしてい
た。
「叔母さん、よう覚えとってやねェ。わたしらが初めて鳥取に一泊旅行したときのこと。わたしは忘れてしもてたのに」
加代は房子を送って出て、喫茶店で話した。叔母がいるところでは話せない話題だった。
「お父さん、夏前の健康診断では、何ともなかったのよ。それなのに、急にものが食べられなくなって、十一月に病院に行ったら、もう手遅れだって。入院して
から一月も持たなかったわ」
「毎年、健康診断を受けてても、あかんのかなァ」
叔母の場合は、なかなか検査を受けようとしなかったことが手遅れになった原因だと加代は思っていたが、検査を受けていても発見できないことがあるらし
い。
「お父さんが定年退職したら、二人でいろんなとこ、旅行しよう、言うてたのに。お父さんがおらんようになったら、そんな気にもなれへん」
「それもそうやろなァ」
毎日、パチンコ屋に入り浸っていると房子は、ぎこちない笑いを浮かべながら打ち明けた。
「月に40万円ほど、三月続けて儲けたことがある。それで病み付きになって・・・」
「へェ、すごい。パチプロやない。で、ずっと勝ってるの?」
「そうはいかへん。とんとん・・・、ここのところ、ちょびっと負けが込んでるかなぁ」
「この頃のパチンコ、負け出したら、五万、十万はあっという間や、いうやん。大丈夫なん?」
「うん、パチンコのお財布は別にしてるから」
房子は小学生の頃から、トランプや花札などのゲームが好きで、強くもあった。自分の勝ちを主張するときの房子の、大きな目を飛び出さんばかりに見開いて
まくしたてた表情が、加代の脳裏に浮かんだ。
「房子は勝負師やもんなァ。でも、まあ、ほどほどにしとかんと」
「うん。もうやめようと思てるのやけどね。朝、ちょっと手が空くときがあるでしょ。そしたら、あ、行こう、思うねん」
そう、朝食を終え、新聞を読み終わって、テーブルに両手を突いて立ち上がるとき、ベランダから差し込む日差しが、テーブルの上にパン屑の影を濃く浮かび
上がらせるとき、広がってくる空白感。加代はパチンコの面白さはわからないにしても、パチンコ屋へ行きたくなる気持ちはわかるような気がした。
房子は子どもたちが結婚して出て行った家で一人暮らしをしている。若い頃から資産形成に熱心で、家を買い替え、郊外に庭付きの一戸建て住宅を構えてい
た。家庭菜園をつくったり、子どもたちにせっせと手づくりの物を食べさせたり、持たせたりしていた時期もあった。その頃は生協の役員などもして、活発に動
き回っていた。
「わたしって、何もすることがないのがイヤなのよ」
「パチンコのほかに、することはないの?」
「なんにもない」
「家庭菜園とか、昔よくしてたやない?」
「食べてくれるひとがおらへんもん」
「子どもさんたちのお家に送ってあげたら、喜ばれるんやない?」
房子は口を真一文字に結んで首を振った。子どもたちの世代には、そんなことすら干渉がましいと煩がられるのかもしれない。
「趣味のサークルに入るとか」
「考えてるんやけど」
「パチンコも大損せえへんのやったら、ええんやろけどねェ」
毎日毎日を生きていかねばならない。死ぬまでの日々を何かして埋めていかねばならない。パチンコであっても、そのほかのもっと有意義そうなことであって
も、大差ないような気が加代にはした。
房子には夫の遺族年金が入ってくる。それ以外にも、自分の母親から譲り受けた株券や貸家などがあって、生活には困らない。
「有閑マダムやないの」
加代は房子をおだてるように軽く言ってみて、その言葉が死語に等しい古めかしさを帯びているのに気付く。
「うん」
房子はこくんと肯いて、しばらく黙っていた。それから、低い抑えた声で打ち明ける。
「再発が不安やねん」
加代は答える言葉がなかった。だが、なにか言ってやらねばならない。
「乳がんは手術でとってしもたら、治る率は高いいうて、何かで読んだけど」
「お医者さんもそう言うてはった。でも・・・」
そんなことは房子が何百辺も何千辺も自分の胸の中で繰り返したことに違いない。けれども、再発率が何パーセントであろうと、房子本人にとっては、再発す
るか、しないかのどちらかしかない。再発率が低いといっても、不安を取り除くことにはならなかった。
そんなふうに生きて行こうとしている房子を強いと加代は思う。自分ならとても耐えられないだろう。かといって、四六時中泣き喚いているわけにもいかない
だろうから、泣き喚いていないだけで、外から見れば、しっかりしていると映るのかもしれなかった。
42 木陰の散歩
抗がん剤点滴の4クールが順調に終了した。幸い、抗がん剤によって体に大きなダメージを蒙ることもなく、血液検査でストップがかかることもなかった。だ
から、次の水曜日は病院通いをしなくともよかったのだが、看護師は点滴を外しに来てくれると言った。抗がん剤点滴を無事に終えたご褒美のようだった。
「散歩に行こうよ。ね、運動もせんことには。寝てばかりいたら、かえって体が弱ってしまうよ」
叔母をなんとか引っ張り出したいと加代は熱心にすすめた。
「そうやなァ。そうしようか」
叔母はいつになく素直だった。
五月も末の天気のいい日だった。緑が輝くように美しかった。団地の下り口で近所の人に出会ったが、「ちょっと出かけてきます」と挨拶しただけで、話しか
けられずにすんだ。叔母がただならず痩せこけてしまったことに驚いて、言葉のかけようもなかったのかもしれない。
叔母は日除け帽を被り、杖をつき、背筋をしゃんと伸ばして、ゆっくりゆっくり歩いた。梅雨を通り越して、夏と言ってもいい陽射しだった。叔母は松風台公
園の入り口にいつも出ている屋台のたこ焼が食べたいと言った。
木陰のベンチに叔母を座らせて、加代はたこ焼を買いに行った。叔母は元気だったときも、この店のたこ焼を買ってきて、と加代に頼むことがあったが、一回
買うと、その前を素通りできなくなるからという理由だった。
木陰はさわさわと涼しい風が吹いて快かった。叔母は黙って一皿分を全部食べた。小学生くらいの伸びやかな体つきをした女の子たちが、きゃっきゃっと甲高
い笑い声を上げながら追いかけっこをしている。女の子たちは平戸つつじの繁みに隠れ、鬼に追いかけられ捕らえられそうになると、美しく身を反らせて、鬼の
手から逃れようとした。その様子を叔母は木陰に座って、しばらく眺めていた。
それからまた木陰伝いに、ゆっくりゆっくり歩き始めたが、公園の端まで来ると、ぴたりと立ち止まった。
「もう、帰るわ」
散歩というにも物足りない距離だった。
「あっちの道、通って帰らへん?」
「いや、止めとく」
加代は遠回りの道に誘おうとしたけれど、叔母は加代が言葉を続ける余地がないほど断定的に断った。叔母の体力の限界なのかもしれなかった。それでも、加代
は嬉しかった。
「なァ、次のときは、あっちの桜谷公園へ行こう。紫陽花の花がきれいな色になってきてるで」
次、またその次はもっと、と考えてしまうのは、生の側に立っている者の思いだった。
43 鯵寿司
台風接近とTVのニュースが告げていた。まだ五月末だというのに、いくらなんでも台風は早過ぎる。地球温暖化のせいで異常気象というのが、このところ頻
繁に繰り返される解説だ。けれども、陽射しは明るくて、台風の接近を感じさせない。叔母が看護師に訴えている。
「いくら食べても、点滴を外せるあてはありませんでしょう。励みにはなりませんわ」
看護師は微笑むだけで答えない。叔母は看護師に否定してもらいたいのだろうか。叔母がたいそう贅沢なことを言っているように加代は感じる。
買物に出ると、鮮魚店では銀色の小鯵がザルに盛られて売られており、その傍らには、もっと大きめのたっぷりした鯵の片身を載せた握りを並べている。加代
はネギと針ショウガを盛って食べるその握りが好物だ。
加代が買ってきた新鮮な鯵の握りをいくつか食べたあと、叔母は気分が悪いと言っていたが、二時間ほどして吐いた。なま物が悪かったのかと、加代は軽く考え
ていた。医者にはやはり報告しておいたほうがいいだろうと思い、電話を入れた。叔母が吐いたと告げると、斉藤医師はすぐさま答えた。
「口からウンコの臭いのするものが出ますか? 出るのだとすると、腸が詰まっている可能性があります。減圧処置をとらなければいけないので、看護師を行か
せます。絶食してください」
加代は体が冷たくなった。
「吐いたとき、ウンコの臭いがした?」
叔母に確かめると、「うん、そやな」と言う。
ストマにつけた袋には何も溜まっていなかった。
加代は「ムカムカする」「食べられない」という叔母の言葉に慣れっこになって聞き流していたことを激しく悔やんだ。「また詰まることもある」という執刀医
の言葉をすっかり忘れていた。なぜ、そんな大事なことを忘れていることができたのか。看護師を待っているあいだ、加代は自分を責め続けた。
看護師は手際良く、叔母の鼻に緑色のマーゲンチューブを入れ、胃から腸まで届かせることができたようだった。黄褐色の腸液がすぐにチューブの先の袋に溜ま
りはじめた。袋には目盛りがついているが、たちまち丸く膨れて、水平状態を保って目盛りを読み取るのが難しいほどになる。
500tまでを計れる計量カップ、200tまで計れる太い注射器、100tまでを計る細い注射器などを看護師が薬の空き箱に入れて持ち込んで来た。排出し
た液量を計っておくように指示された。
チューブの先の腸液を溜めておく袋には、排出用の管もついている。弾力性のある管の端を折り曲げてクリップで止め、斜めに切られたその先端を、袋の下につ
いたポケットに差し込んでおく。
軽量カップに管の先端をあてがいクリップを外すと、黄褐色の液は溜まっていた袋から勢いよく流れ出す。500tを捨てても、まだ少しずつ溜まってくる。
午後には、斉藤医師が往診に来た。
「すぐ、チューブは抜けるようになりますよ」と医師は言ったが、また詰まってしまったのなら、そんなに簡単にはいかないだろうと加代の不安は鎮まらない。
叔母はチューブを入れるのに苦しがらなかったが、「体がだるい」「しんどい」と言う。筋肉痛があるらしい。しきりに溜息をついていたが、トイレに行った
あと、眠っている。
叔母はまたチューブ付きになってしまった。
無力感にとりつかれて、加代も体がだるくて何をする気も起こらない。
44 夜中の計量
翌々日になって、少しストマのほうの袋に溜まりはじめた。加代は少し希望をもつ。
「血液検査でみると、電解質のバランスがくずれて脱水症状になっています。電解質を改善する点滴を追加しておきましょう」
医師はそう説明し、その日から尿量も計っておくよう指示した。
叔母は尿を目盛りのついたビーカーにとって、トイレの窓枠に置く。加代は量を計ってノートにつけて、トイレに流す。一回60〜70tだ。
とりあえず、引き受けていた仕事は済ませてしまわなければならない。看護師とヘルパーに交替で入ってもらうよう、看護センターに連絡を入れた。
「ひとりでおったって大丈夫や。来てもらわんでもええ」と叔母は言い張るが、「わたしが気になるから、頼むから来てもらって」と加代も負けずに声を険しく
する。
加代が出かける朝、叔母は洗面所でうがいをした拍子にむせて、チューブが抜けてしまった。加代は看護センターに電話を入れ、状況を説明し、看護師が来る
のを待たずに家を出てしまう。
「夜さえ一緒にいてもらえたら、あとはこちらでちゃんとやります。大丈夫です」と医師も看護師も言ったではないか。その言葉を加代は胸のなかで反芻する。
叔母がヘルパーと話すのが煩わしいと言ったので、話をしないでもいいように、加代はメモを書き置いて行った。帰ってくると、「本人さんとお話しました
が、よく話されていました」というヘルパーからのメモが残されていた。
加代が記録し続けているチューブからの排出量と尿量のノートには細かい几帳面な字で記録が書き加えてあった。看護師からは、「明日の市民病院の通院は行か
なくてもよくなりました。ご本人にもお伝えしてあります」とのメッセージが残されていた。「当たり前だ、行けるものか」と加代は思う。
朝方は晴れ間もあったのに、昼前からどんより曇ってきて、バリバリバリと激しく鳴った。叔母の部屋の窓ガラスが一面うす赤くなった。
「えっ、カミナリ? まだ、梅雨も来てないのに」
加代は素っ頓狂な声を上げる。叔母は何も答えない。
水を飲んでもよいと医師から許可が出てから、叔母は冷たい水ばかりほしがる。
チューブからの排出量、尿量に加えて、摂取した水分の量もつけておかなければならない。
叔母の枕元に置いた吸い飲みには、氷を浮かべておく。それでも、叔母はトイレに立つたびに冷蔵庫まで来て、氷を口に含んだ。
叔母から「ちょっと」と声がかかると、加代は急いでベッドの傍に行き、点滴のスタンドとマーゲンチューブの袋とを持って、点滴ルートとチューブを引っ掛
けないように気を付けながらトイレについていく。叔母がトイレの始末を終わって立ち上がったら、点滴スタンドとチューブを運んで台所についていく。叔母が
冷蔵庫から氷を取り出し、口に入れるのを眺める。
「なァ、先生はあんまり氷を食べたらあかん、言うてたやろ?」
叔母は頑なな目をしたまま、ガリリと氷を噛み砕き、製氷室からもう一つ取り出して口に入れる。
「知らんで、わたし。あんたの身体のことやから、あんたが気をつけんと」
加代は市民病院の若い主治医が言ったのと同じことを言う。叔母がベッドに戻ると、ベッドサイドの手すりに、チューブと点滴スタンドをかけ直し、トイレの
軽量カップに残された尿量と、叔母が食べた氷の水量と、マーゲンチューブの先の袋に溜まった液量とを計って、ノートにつける。
叔母がトイレに立つ回数は増えていった。
二時間置き、一時間置き、一時間半置き、夜も昼もなくなってからは、加代はいつも眠くてぼんやりしている。一回の尿量は30〜40t程度に減った。
医師は「付けるのを忘れないでくださいね」とやわらかく念を押した。だから、加代は生真面目に付けているのだが、何のために付けているのかわからなくな
る。
おおかたは、点滴の量も含めて、体に入っていく水量と出ていく水量のバランスをみているのだろう。そのくせ、わずかとはいえ、ストマの袋に溜まった液量を
計れとは言わない。
計ることにどんな意味があるのか、加代にはわからない。わからないまま、半睡半醒の目を見開いて、チューブの袋を目の位置にまで持ち上げて、パックの目盛
りを見て記録をつける。叔母の病状がそれで少しでもよくなるということはないのだが、それでも、それは加代に与えられた何か「するべきこと」だ。叔母がい
なくなったら、「するべきこと」がなくなったら、どうして生きていったらいいのだろうという困惑が加代の胸をかすめる。
何かしら物音に気付いて目を覚ますと、叔母がベッドから立ち上がったところだ。
「トイレか?危ないやんか。起こしてくれたらいいのに」加代は立って行きながら、文句を言う。「一辺でもつまずいてこけたら、何にもならへんやんか。気兼
ねせんでもええから、起こしてよ」
呼んでも加代が起きなかったのかもしれないとふと思う。
「青梅が出てたよ。大きなええ梅やったわ」
買物から帰ってきた加代は冷蔵庫に品物をしまいこみながら、叔母に話しかける。
「買うておいでよ。梅干を漬けたらいい」
梅干を漬けるなんて、この厄介なときに、何を言い出すのかと加代は不機嫌になる。
「いややわ。そんなヒマないわ」
「上手に漬けたらおいしいで。わたしは毎年漬けてる。漬け方、教えたるで」
「梅干は買うたのでも、けっこう、おいしいのあるわ。漬けるんやったら、ラッキョを漬ける。ラッキョは、買うたのは甘ったるうて」
「それもそうやな」
叔母はすっと引き下がる。
叔母は梅干の漬け方を加代に教えたいのかもしれない。加代はそう思いながらも、やっぱり強情に、漬けるのなら梅干よりもラッキョを漬けると考えている。
45 血の臭い
鼻から喉を通り、胃を通り、腸のどのあたりかまで達しているはずのマーゲンチューブから、薄黄色い液体がチュルチュルと流れた。しばらく流れて止まる。針
をつけない太いシリンダーの注射器でチューブから直接、液体を抜き取ることを看護師は「引っ張る」と言った。注射器の吸引力に引っ張られるように、液体は
しばらく流れる。
ストマにつけた袋にも、黄褐色のどろりとした液体が溜まるが、はかばかしい量ではない。袋の中身がなかなか溜まらないので、三分の一とか四分の一とかで
捨ててしまう。
「すぐ、チューブが抜けるようになりますよ」と医者は言ったが、ほんとうにそうなるのか、単に気休めのために言ったのではないか。
「ちょっと圧をかけてみましょうか」
看護師はそう言いながら、マーゲンチューブを折り曲げクリップで止める。
「ストマのほうに流れるように、ときどきやってみてください」
看護師の言ったように、翌日もチューブをストップさせてみたが、二時間ほどで叔母が「気分が悪い」と言い出したので、流れを再開させた。
叔母が体を拭きたいと言う。着替えのシャツとパジャマは、重ねて、すぐ袖を通せるように用意しておく。タオルを二、三枚、熱めのお湯で絞ってベッドに
持っていく。
ベッドの上に座った叔母の背に浮き上がった背骨に黄色い皮膚が張り付いている。叔母は大柄なひとだと思っていたのに、背幅も狭い。熱いタオルで何度も拭
う。
「熱いことないか」
「いや、大丈夫や」
拭ったあとから、湯気が上がる。
「もうええ。ちょっと貸して」
叔母はタオルをとって、自分で手足を拭う。
「これ、もう一辺、絞ってきて」
叔母は加代にタオルを渡す。体が冷めないうちに、シャツとパジャマを着せ掛けなければならない。手際が悪く、もたつく加代のやりかたは、いつも叔母の気
に入らない。
夜、マーゲンチューブの液体を注射器で抜いていたとき、赤黒いタール状のかたまりが混じってきた。血の臭いが鋭くする。慌てて医師に電話する。どろりと
したかたまりがチューブの先の袋のなかに沈んでいる。加代はそれを眺めながら携帯で説明する。
「どのくらいの量が出ていますか?」
「たくさんじゃありません。親指の先くらいのがちょろっと」
「胃から出血しているのかもしれません。いずれにしても、入院しないと。家庭で対応するのは難しいですね。まだ、出ていますか」
「今は出ていません。今は透明な液体が流れています」
「明日、看護師と一緒に行きますから。入院のこと、相談しておいてください」
加代は叔母に言う。
「先生が、入院したほうがええって。家でやったら、看きれへんて。な、入院しよう。入院して、原田先生にもういっぺん食べられるようにしてもらおう。いつ
までも、チューブがとれへんかったら、どうしようもないわ」
加代は自分が信じていないことを言っていることを知っている。けれども、もしかしたら、ほんとうに、原田先生がもう一度、食べられるようにしてくれるか
もしれないと、どこかで思い始めている。
「入院するのはええけど、わたしは個室やないといややで。それと、あそこ、窓のない個室が一つあるんや。あそこだけはいややからな」
「空きがあったら、ええけどな。手術の後でも、個室には一晩しか入れてくれへんかったんやから。明日、先生が病院に連絡してくれるそうやから、頼んでみ」
叔母が言う「窓のない個室」というのは、ナースステーションのすぐ横の部屋ではないかと加代は思い当たる。ナースステーションからよく目の届く場所だか
ら、重篤な患者が入れられることが多いのだろう。そこで亡くなった患者もいたのかもしれない。
翌朝、斉藤医院に電話して入院希望を伝えると、折り返し、医師から電話があった。
「市民病院に連絡しましたら、原田先生はお休みをとって北海道に帰省されていて、来週にならないと帰って来られないそうです。代わりに、杉野部長にお願い
しておきました。個室が空いたら、連絡してもらうように言っておきました」
タイミングが悪い。その電話を置くとまもなく、今度は仕事先からの電話だ。何日か前に提出した調査報告に、駅裏の施設が抜けているので、追加調査してほ
しいと言う。
そういえば、駅の裏手はさびれた気配が漂っていたが、信用金庫とか個人病院などもあったようだ。いつもなら、調べなくても問題のない場所だったが、スポン
サーからの要望でもあったのだろうか。もう一度、現地に行ってこなければならないと加代は思う。
「わかりました。すぐ調べてきます」と答える。叔母の入院が決まれば、行けなくなる。今日、行ってこようと、とっさに心を決める。
看護センターに電話して、ヘルパーに来てもらうよう頼む。
「えっ。今日、出かけられるんですか?」
中山看護師は咎めるような声を出した。
「ちょっと、仕事の関係で、どうしても出ていかなければならない用事ができましたので、なんとかお願いします」
その日に来てくれと言われても、困るだろうと思いながら、加代は無理やり頼み込む。仕事は一日で片付けてしまわねばならない。仕事道具を大きなショル
ダーバッグに入れ、加代は看護師の来るのを待ち兼ねて、出かけてしまう。
「入院のこと、先生にちゃんと言うといて」と、叔母に言って出る。加代の頭のなかは、どこをどうまわって、どう作業を進めるかでいっぱいになる。
現地調査したあと、友人の事務所を借りて作業を済ませ、その足で仕事先へ届け、帰ってきたら、五時半だった。
叔母は眠っている。チューブの液体は透明になっていた。
テーブルの上には、中山看護師の書いたメモが残されていた。「今日はレントゲンを撮っていません」と加代へ。「氷を含みますので、言われたらヨロシクお
願いします」と山本ヘルパーへ。
そういえば、レントゲンを撮る予定もあったのだった。レントゲンで何を撮る予定だったのだろうか。
二、三日前から歯茎がずきずきする。鏡を覗いてみると、左あごが腫れて、顔が歪んでいた。加代は、叔母が飲めなくなったプロポリスのカプセルを飲んで
眠った。
朝から雨が降り続いている。午前中は看護師が点滴ルートを取換えに来るのを待ち、午後は医師の往診を待つ。退院してきたときは妹の車だったが、入院する
ときはどうするか。区役所に教えてもらった介護タクシーの会社に連絡し、必要なときは来てもらえることを確認する。
「救急車を呼んだらええ」と叔母は平然としている。病院から、入院日の連絡はない。
叔母から人間らしい表情が失われていく。冷たい水を飲むこと、氷を食べることに執念をもやしている。大きな氷を口いっぱい頬張ってベッドに戻る叔母を見
て、口がよく痺れてしまわないものだと加代は呆れる。
関西に梅雨入り宣言が出たとテレビのキャスターが言っている。夜になって雨はあがったようだが、ひんやりする風がある。「雨気を含んだ夜風の爽やかなり
しかな」という文句が加代の脳裏にちらちらする。昔、読んだ詩の一節のようだ。
ストマにつけた袋に少々、液が溜まる。ストマに流れるように、マーゲンチューブをクリップで止める。
ストマのほうに溜まり始めて、これなら入院せずにすむかもしれないと加代はにわかに楽観的になる。チューブから出る液量は減ったが、尿量も減っている。
尿は濃褐色だ。お腹が膨れ、足もむくんでいる。
午前中に来た看護師は、腹膜に水が溜まっているのかもしれないと言い、午後から来た医師は、腸のなかで溜まっているかもしれないと言う。
腸に溜まった水が、がん細胞に侵食されて脆くなった腸の壁を破って、腹腔内に溢れだす・・・そんな光景が浮かんで来て、加代は愕然となる。
マーゲンチューブを止めて圧をかけるなんて、とんでもないことだったのではないか。だが、腹膜に水が溜まっているのかもしれないと言った中山看護師は、
チューブを止めるように言ったことなど、すっかり忘れ去った顔をしていた。
46 衰弱
買物に出ると陽射しが強い。梅雨入り宣言が出たばかりというのに、汗ばむほどの陽射しだ。だが、木陰に入ると、風がひんやり快い。
叔母が食べなくなってから、加代は何を作る気もしない。食欲もない。鯵寿司を買ってきて食べる。叔母が鯵寿司を食べたあと吐いた、そう思いながら、ショ
ウガとネギのたっぷり乗った鯵寿司を頬張る。
入院の希望を伝えてから三日になるが、市民病院からは何の音沙汰もない。
「きっと個室が空いてないんやで」と叔母に言う。
夜明け方心臓が苦しくなったと、叔母が医師に告げている。加代には言わなかった。
「お腹に溜まった水が圧迫しているからですよ」と医師は説明する。
1700〜1800tあったチューブからの排出量が、700〜800tにまで下がっている。トイレに立ったとき、叔母はよく、うがいをしているが、うがい
の最中に吐いた。
初夏の陽射しがベランダからまぶしく差し込むので、ふとんを干しておいたが、取り入れるのを忘れ、夕立のようなにわか雨に濡らしてしまった。雨の音が激
しく聞こえる。
夕方から熱が出ているという。看護師が午前中計ったときには7度5分あった。
血液検査のデータを見ながら医師が説明する。
「白血球は減ってきています。腎機能はまずまずですね。すい臓の関係で、糖尿が出てきています。肝臓のビリルビン値が高くなっています」
医者が帰ってしばらくして、入院日が月曜に決まったという連絡が市民病院から入った。
「救急車で来られるということでしたら、こちらから連絡しておきますが」
「そうしてください。本人が動ける状態ではありませんので」
叔母に「救急車が来てくれるって」と伝えて、加代はなにがなし、ほっとする。やっと入院の目処がついた。だが、月曜までは、まだ三日ある。
土曜、日曜は曇って薄暗く、雨が降ったり止んだりした。叔母のトイレについて行くことと、尿量を計ってノートにつけることに追われ、夜も昼もなく加代は
ぼうっとして過ごす。時折り、叔母がいなくなったらどうすればいいのかと不安が横切る。
叔母は一人で起き上がるのがつらくなったらしく、手をさし伸ばして、「起こして」と言う。ベッドから引っ張り起こし、支えて立たせる加代の左腕に鈍い痛
みが出ている。
買物に出たついでに、ドラッグストアで女性用の尿瓶を探して買ってきた。使い勝手はわからないが、ベッドに腰をかけた姿勢で使えばいいのだろう。ドラッ
グストアの商品棚を見上げながら、叔母にそれを使えというのは、寝たきりになれことではないかと、加代の心に躊躇いがあった。
「いちいちトイレまで行くの、しんどいことないか。尿瓶を買うてきたから、使うんやったら、言うて。ここに置いとくから」
「大丈夫やわ」
加代がベッドの下に尿瓶の箱を入れるのをちらりと見ながら、叔母は素っ気なく言う。
夜、ドロリとした赤黒い血がチューブに流れて、しばらくすると、また透明になる。
47 窓のない個室
月曜も朝から雨が降っている。入院準備は大型の紙袋に、着替え、タオル類、コップ・・・。しばらくは食べられないから、箸やスプーンはいらない。吸飲
み、洗面器、歯ブラシ、歯磨き、櫛、石鹸、ストマ貼り替え用のビニールテープとハサミ、体を楽な位置に安定させるための小さなクッション二つ・・・。入院
は午後からだ。
中山看護師が昼前に来て、叔母の体を拭いたり、フランジを貼り替えたり、新しいパジャマに着替えさせたりしてくれる。加代は看護師に言われる通り、お湯で
絞ったタオルを差し出したりするだけですむので助かる。
市民病院と救急センターに電話し、迷惑駐車避けの車止めを自治会から借りてきた鍵で外し、迎えを待つ。救急車はけたたましい音を団地の入り口で止めて入っ
てきた。加代は雨のぱらつくなかを走って、出迎えに行く。
団地の狭い階段ではストレッチャーは使えない。救急隊員は叔母を背負って階下まで降ろしてくれる。叔母を乗せた救急車に車止めの外に出て待ってもらって、
加代は車止めを元通りに直し、鍵をかけなければならない。鍵がうまくかからず、加代は焦って汗をかく。その鍵は自治会の役員の家に返しに行かなければなら
ない。
自宅の戸締りを中山看護師に頼んで、救急車に同乗して病院に向かう。救急車の座席のシートは薄くて、振動が響き、車がハンドルを切るとき振り回されるよ
うに感じる。
「あんまり、乗り心地、ええことないなァ」
加代は叔母に小声で話しかける。
市民病院の救急入り口では、看護師が三人、病院のストレッチャーを用意して待ち受けていた。検査室に回され、レントゲンを撮ったあと、運んで行かれたの
は、叔母の嫌がっていた窓のない個室だった。
「この部屋、窓のないお部屋でしょう。ここではない個室にしてくださいとお願いしたんですが」
「窓はありますよ」
案内して来た若い看護師はうっすら微笑む。確かに、窓はあったが、四方を病棟に囲まれた狭苦しい吹き抜け空間に面しているだけで、殺風景このうえない。個
室にしては広いが、白い四角い何もない部屋だ。部屋も殺風景このうえなかった。片隅に長椅子と腰掛けが並べてある。ベッドのまわりの広すぎるスペースは、
大掛かりな医療機器を持ち込むためにあけてあるのではないか。叔母はこの部屋を、窓のない個室と思い込んでいたのだ。
看護師が苦情を伝えたのか、闘牛のようないかつい体つきの婦長が部屋に入ってきて言う。
「別のお部屋が空き次第、移ってもらうようにしますからね。今日はここで我慢してください」
婦長が出て行くと、入れ替わりに若いそばかすのある気の良さそうな看護師が勢いよく入ってくる。
「導尿管をつけさせてもらっていいですかね。おしっこに行くの、えらいでしょう」
遠慮がちに叔母に尋ねる。叔母は表情のない目を見開いていたが、わずかに肯く。
「じゃ、準備しますね」
看護師は確認をとると、さっさと出て行った。
そうなのだ。自宅でなら、叔母は立ち上がって自分でトイレへ行くことができた。叔母は自分の身体の主人でいられた。だが、ここではそうではない。病気が
主人であり、病気を管理する病院の都合で事が運ぶ。看護師はとても手が回らない。一時間置き、二時間置きにトイレ介助をすることはできない。加代は叔母を
入院させたことを後悔しそうになるが、入院しないと、どんな手も打てない情況であることはわかっていた。
「原田先生からお話があるそうですから、ちょっと来ていただけませんか」
看護師が加代を呼びに来た。カンファレンスルームで向かい合うと、医師は早口で説明した。
「がんマーカーの数値がきわめて高くなっています。抗がん剤も対症療法的なものですから限界があります。播種の腸がんで腫瘍が大きくなってきて、腸が狭く
なっているのかもしれません」
医師は拳を握った両手首を胸のあたりでぐりぐりまわして近づける仕草をしてみせた。
「ときどき、チューブにどろっとした血が混じるんですけれど。そんなに沢山の量じゃないですけれど」
「出血は胃潰瘍かもしれません。だけど、胃カメラを入れて検査するのは可哀相ですからね。がんから出血しているということも考えられます」
「もう一度、食べられるようにはなりませんか。チューブを外せるようにはならないんですか」
「腸を短いところで切っていますからね。もう一度手術するのは無理です。全体的に数値が悪い。いつ急変してもおかしくない状態です」
期待のもてるような言葉は一切なかった。順調に抗がん剤点滴を受け続けてきたことで、なんとなく治療が行われているように錯覚していたが、気休めにすぎ
なかった。もともと、がんの進行を食い止める効果があるとは聞いていなかったと加代は改めて思い起こす。がんの激痛を緩和させる効果があると医師は言った
が、その効果はあったのかもしれない。「急変」という言葉の意味を加代は考えてみようとはしなかった。
がらんとした白い病室に、頭のほうを壁につけてぼつんと置かれたベッドは、引越しのあとそれだけが置き去りにされたように孤独に見えた。叔母はそのベッ
ドの上で、表情のない目を見開いていた。導尿管をつけたので、またひとつベッドの柵に吊り下げられた袋が増えた。
入院をして何時間も経っていないのに、急に重篤になったと感じる。
上掛けからはみ出した足先が浮腫み、紫色になっている。マーゲンチューブを流れる液体に、少しだがまた血が混じった。
嫌がっていた部屋に、叔母を一人残して帰ることは加代には残酷な気がした。泊まっていこうかと心が動く。けれども、一晩ゆっくりと眠りたいという思いに
は勝てなかった。やっと叔母を病院に預けることができたのだ。それに、家に戻って、持って来なければならないものもあった。
「今夜は帰るけど、かまへんか。あしたは朝から来るから」
叔母はやはり表情のない目を見開いたまま、肯いた。
48 しんどいですね
翌朝、洗濯物を干して、出かけようとした矢先に電話がかかってきた。市民病院の看護師からだった。
「容体が急変したというのではないのですが、ご本人が心細がっていますので、早く来てあげてください」
心細がっているとは、どういうことだろう。腑に落ちない思いをしながら、加代は急いでタクシーに乗った。
病室に入ると、叔母は枕の上で首を揺り動かし、ぜいぜいと荒い息の音をさせて苦しがっていた。鼻にあてがった酸素吸入の管が外れていた。その位置を直し
てやると、苦しがるのはおさまったが、しんどい、しんどいと言って、身体の向きを変えてほしがる。ほとんど、ひっきりなしに、右を向かせたり、左を向かせ
たり、足を折り曲げたり、伸ばしたりした。身の置き所がないという比喩があるが、まったくそんな様子だった。
尿もわずかというほども出ていないし、マーゲンチューブには血の流れたあとがこびりついたまま、液は流れてはいなかった。
「朝は800tくらい、出てたんですよ」と看護師は弁解するように言った。
「今日、お部屋が一つ空きますから、移ってもらいますね」と婦長が言いに来た。看護師は入れ代わり立ち代わり部屋に入ってきて、「しんどいね」、「苦しい
ね」と言ってはくれるが、何もしてくれない。
加代は砂の入ったクッションを借りてきて、叔母の身体の向きを変える支えにする。夜、吐きでもしたのか、パジャマの前開きの端がほんの少し汚れて乾いて
いる。だが、着替えをしなければならないほどでもない。身体を横向きに固定させておいて、背中や浮腫んだ足を両手でさすってやる。加代にできることはそれ
くらいのことでしかない。
ベッドの頭の側の壁に酸素供給の器具が取り付けられていて、水を溜めた透明な容器のなかを酸素の泡が勢いよくブクブクと上がってくる。叔母の鼻に透明なビ
ニールチューブで酸素を送り込んでいるのだが、体を動かすので、ともすれば外れそうになり、テープで頬に止め直す。枕元に吸飲みが置いてあるが、もう水を
飲みたがりもしない。
「ああ、もういちど、あんたが絞ってくれたジュース、飲みたいなぁ」
搾り出すような声で言う。
「原田先生、原田先生は?」と何度も尋ねる。
「看護師さんに言うてあるから、手が空いたら、来てくれてやわ」
ようやくやってきた主治医は、ベッドから1メートルも離れた位置で立ち止まったまま、「ああ、しんどいですね。つらいですね」と言うばかり。ベッドに近
付いて、お腹の脹れや足の浮腫んでいる状態を診ようともしない。もう叔母は治療の対象にはなっていないらしかった。
「ジュースを飲みたいと言ってるんですが」
加代が口を挟む。
「少しくらいなら、かまいませんよ」
Tシャツの上に半袖の白衣を羽織った医師は、袖口から筋肉質の腕がはみ出している。医師は腕を組み合わせたりほどいたりし、白い健康そうな歯をちらりと
見せた。そして、何をすることもなく、治療の指示を与えることもなく、ほんの少し顔を見せに来たというだけの呆気なさで立ち去った。
「ジュース、飲む?」
叔母がわずかに肯いたのを確かめて、加代は売店に急いだ。売店にはハウス蜜柑がパック入りで売られているが、蜜柑を絞ったり濾したりする道具がない。加
代はあれこれ考えずに紙パック入りの果汁100%ジュースを買ってくる。
「こんなのしかないけど、飲んでみるか」
ストローで飲ませてやるが、叔母はほんの少し啜っただけで顔をそむける。加代は残りを飲むが、手絞りのジュースとは似ても似つかぬ味だということは飲ん
でみるまでもなかった。叔母が入院中、毎日、蜜柑やオレンジを絞って病院に運んだジュースを、退院してきてからは、わざわざ絞って飲ませることはしなく
なっていた。「飲みたければ自分で絞ればいいんだから」あるいは、「蜜柑をそのまま食べてもいいんだから」と加代は思っていた。叔母が手絞りのジュースを
それほど気に入っていたとは気付かなかった。叔母は退院してからは一度も「ジュースを搾ってほしい」とは言わなかった。
医師が立ち去ってから、叔母はもう何とも訴えなくなった。加代は枕元の壁にとりつけた透明な容器に、泡がぶくぶく上がってくるのを眺めながら、父を看
取ったときのことを思い出す。父が亡くなる前には、酸素テントを被らされていた。父はそれから、急にベッドの上に起き上がり、わけもなく陽気になって、意
味の通じぬことをしゃべった。
乾いた導尿チューブを見ながら、「おしっこが出ますように」と繰り返し祈ったが、祈りがどこかに通じそうな気はしなかった。
叔母が眠っているらしいので、加代はタバコを吸いに出る。空腹に気付いて、喫茶室でサンドイッチを食べて病室に戻る。
婦長が部屋に来て、狡猾そうな小さな目に笑みを浮かべて告げる。
「お部屋、空きましたから、そちらへ移ってもらいましょうか。叔母さん、このお部屋、嫌がっておられましたからね」
「個室が空いたって。移らせてもらおうか?」
加代は叔母に呼びかけるが、返事はない。「遅すぎる」と心のなかで呟きながら、加代は叔母の代わりに答える。
「ええ、そうしてください。移らせてください」
「じゃ、すぐ用意します」
病院にできることはもうそれ以外にないということだろうかと加代は皮肉な気持ちになる。雨が降り続いたため生乾きのまま持ってきたパジャマやタオルを、
ベッドの手すりや使っていない点滴台にかけておいた。かけておいたものを大急ぎでとりまとめ、荷物をベッドの上に置いたり、紙袋に入れてぶら下げたりしな
がら、看護師とヘルパーが驚くべき手際のよさで移動の準備をし、ガチャガチャと音を立てて押していく叔母のベッドに、後れまいと小走りでついていく。
移った個室はこじんまりして、窓からは近くの公園の木々の連なりも見渡せた。クリーム色の地に鴬色の唐草模様の壁紙が貼られ、落ちついた雰囲気があっ
た。最初の部屋は、やっぱり、個室というよりは処置室だったのだと加代は改めて思った。
しかし、叔母はもうまわりを見る気力もなくなったようだった。看護師が呼吸をしやすくするためと言って、氷枕をはずして行った。苦しげなぜいぜいという
呼吸音をさせることもなくなった。身体の向きを変えてほしいとも言わない。
49 運を逃す
化粧の濃いおちょぼ口の若い看護師が点滴の様子を見に来て、「おしっこが出なくなってから、二、三時間で亡くなる人もいます」と淡々と告げる。
なんということを言うのか、叔母が聞いているかもしれないのに、と加代はぎょっとして、看護師の顔を見守る。
「本人は意識がなくなって、案外ラクかもしれません」
しごく当たり前のことを告げるように言い、叔母の見開いたままの目のまつげに、濃い赤色のマニキュアをした爪先で、二、三度軽く触れてみて、
「もう、意識ありません。反応ありません」と教えた。
看護師が出て行ってから、「叔母ちゃん」、「叔母ちゃん」と何度も呼びかけたけれど、確かにもう何の反応もなかった。
妹が病室に入ってきたので、加代は先に喫茶室から電話したことを思い出す。まだ、危篤と言われたわけではなかった。今もまだ、危篤とは言われていない。
妹に状態を説明し、入れ替わって、タバコを吸いに出る。
昨日、入院したところなのに、早過ぎるではないか。入院したのが遅過ぎたのか。何の治療もしてもらえない。同じことなら、入院なんかしないほうがよかっ
たのか。加代の思いは事態の進行に付いていけず、ぐるぐる空回りする。
喫煙室には、入れ替わり立ち替わり、人が出入りする。製薬会社のプロパーのように見える黒っぽいスーツを着た男性、ブランドファッションに身を固めた水
商売風の中年女性。隅っこでは、車椅子に乗った、だらしないTシャツ姿の太った若い男が、赤黒いペディキュアが光る爪先にミュールをつっかけてぶらぶらさ
せている若い女と話し込んでいて、急に声を上げる。
「そんなん言われたら、ボク、可哀相やんか」
一本吸い終わって病室に戻ると、妹がベッドの傍らの椅子に座っていた。小さな経を取り出して読み上げていたようだ。それは母親の信仰する新興宗教のもの
だった。叔母はその宗教を嫌っているのにと、加代は眉を顰めた。
「いま、息を引き取ったところ」と妹は経から顔を上げて言う。
とっさに思い出したのは、朝のTV番組の星占いで、加代の今日の運勢が「こだわりすぎて運を逃す」と出ていたこと。タバコを吸いに出て、叔母の死に目に
会えなかったことが、「運を逃す」ということだったのかな、いや、やっぱり違う・・・。
まもなく、看護師がキャスターのついた計器を力いっぱい押しながら、病室に運び込んできた。少し脈動が残っているらしい。医者が呼ばれ、腕時計を見なが
ら「臨終」を告げたのは午後4時9分だった。
叔母は目を開けたまま、呼吸を楽にするために枕をずらせて頭を仰向き加減にしたまま、口も開けたまま、死の兆候を示すこともなく死んでいた。
50 たった一日で
しばらくして、加代は妹とともに、カンファレンスルームに呼ばれ、医師から病理解剖の申し出を受けた。
「解剖してみないと、死因がはっきりさせられないのです。膵臓がんの疑いがあるだけで、膵臓がんと断定できないのです」
膵臓がんと断定できたからといって、死んでしまった者に何かいいことがあるわけではない。医師はがんの拡がり具合や抗がん剤の効果などを確かめたいのだ
ろう。
しかし、そんなことを考える以前に、加代は答えていた。
「ええ、解剖してもらっていいです。かまいません。叔母は西洋医学の信奉者でしたから」
その答えがどこから来たのか、加代はわからなかった。そうだ、叔母はもう一度手術をして治してもらうつもりだったのだから。そして、涙がどっとやって来
た。加代は答えた後、しゃくり上げ、声を放って泣いた。その体を揺るがすような大量の涙もどこからやってきたのかしれなかった。
加代は差し出された同意書にサインしながら、叔母がそれ以上に個人主義者だったことを思い出した。
「叔母ちゃん、そんなん、いやや、言うかもしれんなァ。なんで私が解剖されなあかんの、言うかもしれんなァ」
加代は、その場に医者がいることも忘れて、妹と顔を見合わせて笑った。
入院してたった一日で、たった一日しか経たないのに、という思いが加代の胸に渦巻いていた。長くは持たないことはわかっていたはずだった。だが、いつ、
どんなふうにとも、思い及ぶことはなかった。思いがけない死であることに変わりはなかった。
ストレッチャーに載せられて、解剖室に運ばれて行くとき、叔母はまだ、目も口も開いたままだった。呼吸を楽にするため、少し頭を反らせるようにしたその
姿勢を、枕の位置を動かせて口を閉じさせ、目蓋を指で撫でて閉ざしてやった。看護師が「新しい寝巻き、ありませんか」と聞く。
叔母のタンスの引き出しのなかに、新しいガーゼの浴衣が、ビニール包装のまま入っていたことを加代は思い出す。いつ準備しておいたのかしらないが、入院
中はパジャマばかりを着ていたから用のなかったものだ。
加代がその浴衣を取りに行って戻ってきたときには、叔母は病理解剖も終わり、病院の予備の浴衣を着せられて、うっすら化粧を施されていた。叔母の薄い唇
にパールピンクの口紅が塗られ、安っぽい色に見えたが、文句をつけるようなことではなかった。母が入会している互助会の葬儀屋に妹が連絡をとり、ひとまず
自宅に連れ戻す手はずを整えていた。
叔母の遺骸はもはや病室に帰ることはできなかった。慌しく病室のなかの荷物をまとめ、医師や看護師に挨拶をして、病院を出なければならなかった。
「病理解剖のお礼です。これは病院からお出しすることになってますので」
婦長は五千円の入った封筒と死亡診断書を加代に押し付けた。死因の項目には「膵臓癌」と引きつったような癖のある文字で書き入れてあった。
婦長の眼にも口振りにも力が籠もっていたのは、断られることを予想していたからかもしれない。加代は押し問答するのも煩わしく、あっさり受け取った。加
代が叔母のタンスから持ってきた浴衣は、病院の予備に置いていくことにした。叔母の着せられた濃紺の柄の入った浴衣は男物らしかった。
妹が連絡した葬儀屋が、思いがけないほどの速さで現れた。黒いスーツの男二人がストレッチャーを引いてきて、手馴れた様子で叔母の体を移しかえ、引いて
いった。
「お姉ちゃん、早く」と妹が呼ぶ。急いで荷物を積み、乗り込んだ妹の車が、遺骸の載った車を先導しなければならない。なにもかもが慌しく、加代はおろおろ
と事態に従うだけだ。
51 紫陽花の道
昨日行って、今日帰って来た。狭い階段を二人の男が担架で遺骸を運び上げる。踊り場で向きを変えるとき、担架がつかえて傾く。叔母の体が滑り落ちそうにな
るのを、葬儀屋が抱き止めるように支えた。叔母は傾きながら、目を閉じ、静かで平穏な表情をしていた。
見ず知らずの人の死後硬直した身体を抱き止めるなんて、葬儀屋もあだやおろそかにできる商売ではないと、加代はドアを開けて、遺骸を通すのを待ちなが
ら、妙に感動していた。
叔母の部屋には、介護ベッドがそのまま置いてある。昨夜は加代がその布団にもぐり込んで眠った。久しぶりにゆっくり眠れると、手も足も思いっきり伸ばし
て、深々と眠った。そのあいだ、叔母は体も心もどんなに苦しい時を過ごさねばならなかっただろう。叔母が嫌がっていたあの病室で、たった一人、死と向かい
合って。
返却しなければならない介護ベッドに死者を寝かせることにためらいがあったが、ほかに場所がなかった。
葬儀屋は死者の褥を整え、ベッドの横に線香を立てる小さな祭壇を飾り付け、それから、座布団を脇に押しやって、黒いスーツのズボンの膝を折って座り、葬
式のだんどりについて話した。通夜と葬式をする会場を、葬儀屋の会館にするか、団地の集会所にするか、それともほかにもっと人の来てもらいやすい場所を借
りるか、決めなければならなかった。葬儀屋の会館は、馴染みのない遠い場所にしかなかった。ほかの会館にしても、叔母と付き合いのあった人たちが足を運び
やすい場所ではなかった。
ご近所が連絡してくれたらしく、自治会長がお悔やみに来、集会所の利用をすすめた。翌日は詩吟の会が使うことになっているが、午後から後は空いているそ
うだ。加代は、東京から帰ってくるはずの弟と相談してから、決めることにする。
近所の人たちが、ちらほらお悔やみに来た。弟は夜遅く着いた。部屋に入ってくるなり、ビニールケースに入れた礼服を取り出して、壁の洋服掛けに掛けた。
職場からいったん自宅に帰って、葬式の身支度を準備して来たらしい。それにしては、早く着いたものだ。大きな組織の管理職を務める弟にとって冠婚葬祭の準
備は手慣れたものなのだろう。妹は、弟と入れ替わりに帰った。
遺影として祭壇に飾るための写真を、翌朝までに選んでおかねばならなかった。あまり若い頃の写真は似つかわしくないだろう。叔母は写真嫌いだったので、
適当なのがあるかと加代は心配していたが、古いアルバムを入れた戸棚に未整理の写真を入れた手箱があって、そのなかにはここ数年のうちに撮られたらしい写
真が思いのほか、枚数多く入っていた。
中高齢の女性のグループで、旅行や食事会をしたときのものらしかった。介護していた祖父が亡くなってから、叔母は視覚障害者のための朗読ボランティアグ
ループに参加していた。「風の音文庫」とそのグループの名前を記した記念撮影写真もあった。
そのグループでハイキングをしたときのものだろうか、赤土の山肌の露出した山頂付近で、ごろごろと転がった岩に腰を下ろしたり、寄りかかったりして、二、
三人、または四、五人ずつ写っている写真がある。
「あっ、これがいいわ。これにしよう」
加代はそのうちの一枚に目を止めて、声を上げた。叔母がごく自然な表情でにこやかに笑っている。
「へェ、叔母ちゃんのこんな楽しそうな笑顔、見たことがなかったなァ」
加代はしばらく眺めて、弟に差し出した。加代の記憶のなかの叔母は気難しくて、いつも人付き合いを煩わしがっていた。自分からは決して出て行こうとはせ
ず、いつも、自分は望まないけれど不義理はしたくないから仕方なしに付き合っているのだと言っていた。だから、加代は付き合い嫌いなひとだとばかり思って
いた。その叔母が女友達と寄り添うようにして屈託なく笑っていた。加代はそんな叔母の一面を知らなかった。というより、叔母は加代たちには自分のほんのわ
ずかな部分しか見せていなかったのかもしれない。
加代はしばらく、叔母のアルバムに見入った。おかっぱの少女時代の叔母。女学生時代の叔母。振袖姿で琴の演奏会やお茶の会に出ている叔母。国鉄に勤めて
いた若き職業婦人時代の叔母。アルバムに写真を剥がした跡がある。叔母は一度結婚したが、結核に罹って婚家から戻されたと聞いた。だが、結婚の経歴をしの
ばせる写真は一枚も残っていなかった。叔母の青春時代は戦時下だったが、窮乏や不幸を感じさせるものはどこにもなかった。
「苦労したひとやないなァ」
加代は弟とアルバムを見ながら、そんな感想を洩らした。そのことが何かしら慰めになるような気がした。
叔母はたくさんな着物を持っていたはずだった。祖父母の家に居た頃、毎年、その着物を座敷いっぱいに広げて、虫干しをした。叔母が大事にしていた着物を
着せて送ってやりたいと思って探したが、どこにしまいこんだのか、押し入れのなかにも、どこにも見あたらなかった。
線香が燃え尽きていないかと、時々立って行って、見る。座布団を並べて横になったりしているうちに朝方になった。
翌朝、団地の集会所を使いたいと弟が自治会長に連絡した。自治会長と葬儀屋がやってきて、集会所を使うための打ち合わせをしていった。弟が喪主になるの
だった。加代に異存はなかった。
叔母がいつも枕元に置いていた手帳には、電話番号のメモが挿まれていた。加代が外出しているときなどに、叔母がよく電話しておしゃべりしていた相手だろ
う。そんな付き合いのあった人に電話して、叔母の死を報せた。
家族が電話に出て、「具合が悪くて外出できませんので」とことわりを言う人もいた。「尼崎」と地名を記したらしい電話番号がある。加代は入院中の叔母に届
けた賀状のなかに、尼崎の住所の男性の差出人のものがあったことを覚えている。親族でもなく心あたりのない名前だったから、「おや」と思って記憶に止まっ
ていたものだ。どういう付き合いの人であったのか。加代は弟にも言わず、連絡もしなかった。来年も年賀状は来るかもしれない。
連絡したのはほんの限られた人数だけで、遠方の親戚にも連絡しなかった。祖父の死後、付き合いはほとんど途絶えていたし、生きている人たちもたいてい八
十歳を超えた高齢だった。
「もう、ええやろ」
加代は弟と顔を見合わせて、簡略に、簡略にと事を済ませた。しきたりにうるさい人間はいなかった。
「お花はたくさんにしてあげて・・・」
加代が口を挟んだのはそれだけだった。それも、献花を一対、余分に頼めば事足りた。
叔母がどんな葬式をしてもらいたがっていたのか、聞いていなかった。叔母は事々しいことが嫌いだと加代は思い込んでいたから、簡略に済ませることに反対
はしないと思っていたが、あるいは、それも加代の勝手な思い込みにすぎないのかもしれなかった。
夕方、小雨のぱらつき出したなかを、叔母は葬儀屋の男たちに傘を差し掛けられ、集会所に運ばれていった。集会所へ向かう小道には、紫陽花の花の白っぽい
色が、空色や鮮やかな濃い紫に変わり始めていた。
52 痩女
通夜の夜、叔母はきれいに見えた。誇らしいくらいきれいだった。安っぽく見えたピンク色の口紅も落ち着いた臙脂色に変わっていた。眼は薄く閉ざし、細く高
い鼻梁、口元にはうっすらと笑みを浮かべているようだった。
加代は叔母を美しい人だと思ったことはなかった。端正な顔立ちではあったが、何か決定的に欠けているものがあった。華やかさとか匂いやかさといったよう
なもの。叔母はめったに化粧もしなかった。外出するときも、薄く粉をはたきつけ、薄色のリップクリームを塗るだけだった。叔母は死をまとって、加代が見た
こともなかったほど、きれいだった。
けれども、顔は徐々に変わってきた。口の開きが少し大きくなり、眉根を寄せたような悩ましそうな表情になった。能面の写真集で見たことのある「痩女」
そっくりになった。
加代は弔問客が誰もそれに気付かなければよいと思う。それとも、加代だけにそんなふうに見えるのかもしれない。
何年か前、恩師が亡くなったとき、地方の名士であったその人の葬儀では多くの人が弔辞を述べたが、なかに「ほんとうにきれいなお顔で眠っていらっしゃ
る」と話した人がいて、加代はびっくりさせられた。がんと告知されずに受けた大手術の経過が悪く亡くなったその人の死に顔は、苦しそうで口惜しそうで正視
するにしのびないと加代の目には見えていたからだ。亡くなるわずか三日前、加代ら三、四人の元学生が見舞ったとき、恩師は「早く退院して仕事にとりかかり
たい」とやり残した仕事への執着を語ったばかりだった。そんなことがあったから、見る人間によって違って見えるのかもしれないと加代は思うのだった。
叔母は白木の棺に入れられ、広いフローリングの集会室にしつらえられた祭壇に祀られていた。棺の顔のところに両開きの扉が開けられていた。供えられた線
香は長持ちのする渦巻き型のものに替えられていた。家族はとなりあった畳敷きの間で通夜をしていたから、加代は線香を見に行ったときには、叔母の表情が気
になって覗き込んで見ずにはいられなかった。
母は妹の子どもの守をしているということで、義弟の運転する車に乗って、通夜の儀式に子連れで顔を見せただけだった。加代は万事に指図がましい母がいる
よりも、車を使ってビールを買いに行ってくれたり、こまめに動いてくれる妹が傍にいてくれるほうが、ずっと心強かった。
弟は、葬式のあと見送ってくれた参列者にする挨拶文をつくっていた。子どもの頃は話し下手で、すぐに詰まってどもる癖をよくからかわれていた弟が、気の
利いたそつのない挨拶ができるようになったことを加代が知ったのも、父の葬式のときだった。
葬式には、同じ棟の世話役が受付なども手伝ってくれた。そんな人たちへの気配りも喪主である弟がすればいいことだった。
数少ない参列者のなかに、四十代前後の女性たちが寄り集まって座っていた。看護センターの女性たちだろうと加代は思った。軽く会釈を送ったが、誰が誰とも
見分けがついたわけではなかった。三人はくっつきあうようにして座り、くっつきあうようにして焼香した。背丈はまちまちだったが、みんな肉付きが豊かで、
化粧が濃く、喪服を着ているのに、ぱっと華やかに見えた。病院に来てくれたケアマネージャーか、訪問介護に来てくれたヘルパーさんたちか、そのうちの誰か
だろうと思うだけで、はっきりと見覚えのあるひとはいなかった。
中山看護師は、お通夜にも葬式にも、一度も顔を見せなかった。入院するとき、救急車に乗って出て行くのを見送ってくれたあと、何の連絡もなかった。加代
は他の誰とよりも、中山看護師と話をしたかった。
ストマの貼り替えがうまくいかないと言って、点滴の流れ方がおかしいと言って、いつも電話して、駆けつけてもらった。器材や薬剤をよく忘れてくるひと
だったが、あちらこちらと連絡をとって、なんとか都合をつけてくれた。加代が出かけるときには、ヘルパーさんを手配して、まめにフォローしてくれた。
中山看護師が助けてくれたからこそ、加代は介護を続けられたのだとお礼を言いたい。やっと病院に入院しても、たった一日しかもたなかったこと、入院して
も何もしてもらえなかったことを訴えたい。ほんとうにどんな治療法もなかったのか、なかったとしたら、入院しないほうがよかったのか、聞いてみたい。
そして、聞いてみたい。マーゲンチューブの腸液の流れを時々ストップさせてストマのほうに流れるように圧をかけてみてと、あなたは言ったけれど、そし
て、加代が自分の手でそうしたのだけれど、そのせいで、叔母の脆くなっていた腸壁が破れ、腹腔へ液体がもれ出したのではないかと。
中山看護師を責めるつもりはなかった。けれども、なぜそんなことを言ったのか、聞いてみたかった。答えてもらえるとも思えなかったけれども。
中山看護師はいっこうに姿をあらわさなかった。残った医療材料の引き取りを申し出る電話をかけてきたときは、「そのうち、ゆっくりお参りさせてもらいま
す」と言ったが、加代が妹の車で斉藤医院に届けてからは、それっきりで、何の音沙汰もなかった。
毎月、中山看護師が持ってきていた請求書は、「お留守でしたので」というメモ書きとともに、郵便受けに投入されていた。まだ生きている患者のために忙し
く走り回っているのであろう、死んでしまった患者にかかわりあっている暇はないのだろうと、加代は徐々に思うようになった。
53 秋水
暑い夏だった。残暑が長引いたが、九月もなかばを過ぎたある朝、加代が顔を洗おうと蛇口をひねると、迸る水が手に当たって、ひやりと冷たかった。
「秋水」という言葉が心に浮かんだ。そんな言葉があったのかしら。叔母に電話して聞いてみよう。
「やっぱり秋やねェ。今朝、水道の水が冷とうて、気持ちよかったよ。昨日までは生温かったのに。秋水、言うんかな、そんな言葉、あったかなァ・・・」
そんなとき、加代はいつも叔母に電話をかけた。季節の変わり目に気付いたとき、台風や地震のあったとき、暮らしのなかで心にとまる出来事があったと
き・・・。
けれども、叔母はいない。加代の心に生じた電話をかけたいという衝動は消えて、途方にくれたような寄る辺ない感じが残った。
風が強く吹いたと言って、電車のなかでそっくりの顔をした母娘に出会ったと言って、電話をかける相手はもういない。
畳の上に座り込んだ加代の膝に猫がよじ登ってくる。
「なあ、ネコちゃん。あんた、叔母ちゃんのネコやろ。叔母ちゃんのこと、覚えてるか」
加代は猫に話しかけて、いっそう哀しくなる。叔母の家財の整理を済ませ県営住宅を引き払って移ってきた今、加代がしなければならないことは、もう何もな
い。
加代の目の前に広がっているのは、加代自身の死ぬまでの時間だ。今はまだ、茫漠としているが、やがて死は確実に来る。遠い先の話と思われた叔母の退院の
日が確かに来たように、寒い夜バスの座席にうずくまっている快い時間は過ぎ去り、バスが必ず降りるべき停留所に着いたように。
猫は膝に登るのを邪魔されて、ベランダの網戸の間近まで行って外を眺め、日の当たっている畳の上で、ごろりと横になる。
加代は加代自身の死ぬまでの時間が流れるのを、ただ感じている。
以上
【死ぬまでの時間】 目次
T 1.海の見える団地 1
2.子を産まぬ女 4
3.いざというとき 6
4.芋掘り 9
5.白亜の大病院 10
6.検査入院 11
7.見込み違い 17
U 8.転院 20
9.マーゲンチューブ 22
10.冬仕度 23
11.ガラスの箱舟 25
12.手術 26
13.赤ん坊 29
14.菊乃さん 31
V15.励まし 36
16.魔法の薬 37
17.バスストップ 39
18.終の棲家 40
19.正月 41
20.告知 43
21.食欲旺盛 46
22.建て替え工事 47
23.回復に似て 49
24.春の訪れ 50
W25.同居の話 52
26.退院準備 53
27.赤い傷口 56
28.遠い国で 57
29.春の花びら膳 59
30.在宅看護 62
31.イカナゴの釘煮 64
32.ふつうの生活 66
33.揺れる枝 67
34.通院日 70
X35.若葉雨 72
36.ホトトギス 74
37.しみったれ 77
38.うつらうつら 78
39.サウザンクロス 80
40.痛み止め 82
41.有閑マダム 85
42.木陰の散歩 87
Y43.鯵寿司 90
44.夜中の計量 90
45.血の臭い 93
46.衰弱 96
47.窓のない個室 97
48.しんどいですね 100
49.運を逃す 102
50.たった一日で 103
51.紫陽花の道 105
52.痩女 108
53.秋水 110