「e-文藝館=湖(umi)」 評論 投稿
まおか
てつお 1962年長野県に生まれる。 農学系独法研究職員 植物病理学者 大学客員教授、小説・エッセイ・紀行等の創作と文筆に親しみ、多年執心出精の茶の湯人でもある。また「湖の本」の読者でも。 掲載
作は、09.08.15に脱稿されて
いる。
『朗読者』
−読まぬ者の見る力聴く力−
真岡哲夫
1.映画『愛を読む人』
このところよく映画を観ている。昨年から抱え込んでいた論文原稿二つが今ちょうど手元を離れている。一つはネイティブによる英文校正のため米国に出し、
戻った原稿を昨日米国の雑誌に投稿した。もう一つは、原稿の内容や表現に齟齬がないか、同業者に見てもらっている。実験も来週から建物に耐震工事が入り、
冬までプレハブの仮設小屋に引っ越すため、全て中断し段ボール詰めの毎日。そんなことでしばらくは時間が空いたというわけだ。
映画は、いつもレイトショーの一番遅いものを観ているので、SFからアニメまで、内容を選ぶことはない。今月数本観たうちで、最も心に残ったのは『愛を
読む人』(監督:スティーヴン・ダルドリー、出演:ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ他)だった。何の予備知識もなく観て、観終わった後いくつ
かよくわからない部分があったので、結局原作の『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク著、松永美穂訳、新潮文庫)を読んだ。一度読んでさらにもう一度読ん
でみた。今度は原作との相違を確認するため、出張帰りに函館で再度『愛を読む人』を観た。これほどこの作品にこだわったのも思えば不思議な気がするが、そ
の理由の一つは、映画冒頭の数分間の主人公Michael(映画では英語読みのマイケルになっているがここでは原作和訳に従いミヒャエルと呼ぶ)の体験
が、自分自身の記憶として生々しくよみがえってしまったことだった。
主人公の少年ミヒャエルは市電に乗っていて気分が悪くなり、ついに街角の路地裏で吐瀉する。車中の不安げな表情から、吐きそうになりながら石畳の街を歩
く数分間の映像は、去年の夏に訪れたイタリア・ドイツでの体験を私に思い起こさせた。私が、胸に石の塊を飲んだような気分で石畳の街をさまよい市電に乗っ
たのはドイツではなくイタリアのトリノで、ドイツに移ったときにはかなり体調は回復していたのだが、それでもフランクフルトからクエドリンブルグまでの長
い鉄道の旅では、気を強く保っていないと映画と同じ事になりそうなほど体調が悪く、とにかく早く目的地に着いてほしいと祈りながら汽車に揺られていた。ド
イツでの国際学会期間中も食欲がなく、気分はすぐれなかった。そのあたりのことは、病的に詳細な日記を書き残している。
映画を見始めたとたん、去年の苦しい体験が鮮やかによみがえってきて、少年に同化して吐きたい気分で街を歩いているような錯覚に陥った。こういう風な、
思ってもいなかったやり方で、映画に引き込まれたのは初めてだった。吐いた後の少年の人生は、私とは全く違ったものになっていったが、結局冒頭の同化体験
が最後まで効いていて、珍しく人ごとではない気持ちで映画に観入っていた。
『朗読者』を読んでみて、物語の舞台は、私が行ったドイツ北西部のクエドリンブルグよりももっと南寄りの、ドイツ南西部のハイデルベルグ近辺であること
がわかった。しかし著者が述べているように、東西ドイツ統一後訪れた旧東ドイツ側の首都、ベルリンの灰色の街並みが、一九五〇年代のハイデルベルグに似て
いて、通りを歩き家々を眺めながら著者は小説の着想を得たのだという。私の歩いたクエドリンブルグやゴスラーという旧東ドイツに属す古い街、特に夕方の路
地裏の家並みには、そういった灰色の雰囲気がまだ色濃く残っていた。この小説を読みながら、私は頭の中で、何度も灰色の街並を思い浮かべていた。その風景
に囚われて、この小説を再読してしまったのかもしれない。
小説では描ききれないことを、映画はいとも簡単に表現してしまうことがある。『愛を読む人』にもそんな場面があった。十五歳のミヒャエルは二十一歳年上
の女性ハンナと大げんかをし、「もう二度とはここにはこないだろう」と彼女の部屋を去る。しかし三十分後にまた部屋に戻ったミヒャエルは、ハンナに許しを
請う。『朗読者』ではこうだ。
「許してくれる?」
彼女はうなずいた。
「僕のこと好き?」
彼女はまたうなずいた
原作には彼女がどう頷いたのかが書かれていない。しかし『愛を読む人』でハンナを演じたケイト・ウィンスレット(彼女は『タイタニック』で獲れなかった
オスカーをこの映画で受賞している)は、湯船に漬かりながら最初の問いに困ったように小さく頷く。次の問いに彼女は、悲しそうな顔でまず小さく首を横に
振った。そしてその後今度は首を縦に二度降ってうなずくのだ。その間のハンナの目は困惑しながらも、厳しく、そして鋭くミヒャエルを見つめている。ケイ
ト・ウィンスレットの演技は、原作の「うなずく」の行間に込められた微妙なニュアンスをみごとに表現している。
『愛を読む人』では、原作にない部分がいくつか挿入され、また原作の重要な部分が割愛されている。ラストシーンも原作にない部分がつけ加えられて終わ
る。結果として映画の解釈は、ハリウッド映画らしい希望をつけ加えることで、原作とは異なってしまっているが、それを措いても、原作を映像化してくれた
『愛を読む人』は、優れた作品になっていると思った。
2.読まぬ者の見る力と聴く力
映画を観てもう一つ気付かされた点は、ハンナの「見る」ことと「聴く」ことに対する異様な集中である。これは彼女が文盲であったことによるのだが、映画
によってはじめて、原作の中に「見る」場面と「聴く」場面が何度も、そして印象的に出てくることに気付かされた。
まず、ミヒャエルとハンナが最初に出会う場面。これは帰宅したハンナがミヒャエルの吐瀉物を「見る」、見て避ける場面で始まっている。冒頭からハンナ
は、一瞥して汚物を見極め、一瞬にして迷惑そうな感情を体中に漂わせる。しかしその「目」は、同時に吐きながら泣いているミヒャエルも認め、「ほとんど乱
暴といってもいい態度で」面倒を見、家まで送ってゆくのだ。いろいろなものを瞬時に見極め、迷わず行動に移す。ハンナの「見る力」の強さ確かさによる性格
が、ここに良く映像化されている。
数ヶ月後、病の癒えたミヒャエルは、花束を持ってハンナの家を訪れる。外出の準備をするため着替えているハンナは、ドアの外で待たされながらついついハ
ンナを盗み見るミヒャエルの視線を感じ取る。
彼女はぼくの視線を感じとった。ストッキングを手にしたところで動きをとめ、ドアの方にむき直ってぼくの目を見つめた。
ミヒャエルの目を正視するハンナの目は、この場面でも鋭く強い力に満ちていた。
翌日再訪したミヒャエルは、コークスの煤にまみれてしまい、ハンナの部屋で風呂をつかう。セーターとシャツだけを脱いでもじもじしているミヒャエルに、
ハンナは
「靴とズボンをはいたままお風呂に入るつもり?坊や、あたしは見たりなんかしないわよ」
といっておきながら、下着を脱いでしまったぼくを「平然と眺め」るのだ。
見る「目」の強さばかりではない。今度は、あえて「見ない」ことで物をいう例。復活祭の休暇に、車掌をしているハンナを驚かせるつもりで、ミヒャエルは
始発の市電に乗り込む。しかし彼が二両目に乗ったことで、ハンナは傷つく。
彼女は背中にぼくの視線を感じたに違いない。しばらくして振り返ると、ぼくをじっと見つめた。
この後ハンナは、ミヒャエルが電車を降りるまで、振り返ろうともしなかった。ハンナの「じっと見つめる」視線と、その後の徹底した無視の視線は、後々ま
で悪夢のようにミヒャエルを苦しめることになる。
このようにハンナの「目」にミヒャエルは翻弄されてゆくのであるが、その「目」が虚空にさまようこともあった。ミヒャエルがハンナを動物にたとえるなら
馬といったとき、
彼女は仰向けに寝て、頭の後で腕を組んでいた。今度はぼくが体を起こして彼女を見つめた。彼女の目は虚空を見ていた。しばらくして彼女はぼくの方に顔
を向けた。その表情には独特の切実さがあふれていた。
虚空を見ていたハンナの目には、何が見えていたのだろうか?そのヒントは数年後にもたらされることになる。
十五歳から十六歳になったミヒャエルは、その年の夏休みが終わるころ、午後のプールで彼女を見かける。
彼女は二十メートルか三十メートル先に立っていた。短パンをはき、胸の開いた、ウエストで紐を結ぶタイプのブラウスを着て、ぼくの方を眺めていた。
これまで街で出くわしたことなど一度もなかったハンナがなぜかプールまでやって来た。そしてミヒャエルが視線をそらしたほんのちょっとしたあいだに、彼
女はミヒャエルの前から失踪した。最後ももの言わず、遠くから「眺める」という視線を残して。
一方聴く方はといえば、全編に登場する朗読を聴く彼女の様子は、
彼女は注意深い聴き手だった。
と描かれているとおり、ミヒャエルの朗読に対し、緊張して筋を追う真剣な聴き手であった。ハンナにとって聴くこととは、地図を見たり、メニューやメモを
読んだりすることができない替わりの、いわば代償機能の一つであり、彼女は見ることと聴くことに並々ならぬ神経を使っていたことがわかる。聴く力の研ぎ澄
まされていたことが、「朗読者」と「聴き手」という他に例を見ない恋愛関係を成立させた原因でもあろう。
十五歳ではじめてハンナに会ったミヒャエルは、この後数年を隔ててさらに二度彼女と出会うことになる。十五歳の最初の出会いは病人と看護者としてだった
が、二度目は法学部の学生のとき法廷で、傍聴人と被告としてだった。一度目の出会いと、二度目の出会いの間には八年の歳月が流れていた。
3.戦争文学としての『朗読者』
八年後にミヒャエルは、法科のゼミでナチ親衛隊の戦争責任を問う裁判の傍聴にでかけ、法廷で、ハンナに再開する。そして彼女が戦時中強制収容所の看守で
あり、囚人の中から若い女の子を選んで毎晩本を朗読させていたことを知り、愕然とする。
『朗読者』では、戦争犯罪について、直接犯罪行為を犯した者ばかりではなく、犯罪と知りながら見て見ぬふりをした者、戦争犯罪があった事実について口を
つぐんでいた者も、また罪を負うべきでははないかが問われている。直接手を下さなくても、「何もしなかった」、「沈黙した」という行為までも罪になる、と
いう厳しい考え方だ。
第二次世界大戦についてドイツ国民がどのような態度で過去の過ちを自ら裁こうとしているのかがうかがわれると同時に、一九六〇年代に行われた裁判で、そ
れがはたしてちゃんと行われたのか、大多数の人間の沈黙という形で拒絶され、欺瞞に満ち、少数のスケープゴートを血祭りに上げただけの単なるショーではな
かったのか、という疑問、あるいは反省が、強く提議されている。『朗読者』を戦争文学としてみるとき、同じ第二次世界大戦時の犯罪行為を、曖昧に水に流そ
うとし、否、水に流してしまい、さらには戦争を美化して、沖縄やアジア諸国で実際に被害を被った人々から顰蹙を買っているわが国の実情を、何とも情けなく
感じる。しかしこの相違こそ、その根に負うている歴史や文化の相違であり、民族の体臭のようなものを良く表しているともいえる。わかりやすく言えば、ドイ
ツ人はねちっこく、日本人は移り気なのだ。そんな国民性の違いはあっても、ただ一つ違わないことがある。それは、どの国でもどの時代でも、罪を被った者、
被害者はその事実を決して忘れない、ということだ。ユダヤ人であれ、中国人であれ、沖縄人であれ、彼らが決して忘れていないという事実は、どんなに日本人
が水に流したくても、流すことのできない事実だ。どんなに日本の教科書を書き換えても、歴史は書き換えられないという事実に日本人は加害者として早く気付
くべきだと思う。
話を法廷のハンナに戻そう。ここでも彼女の態度にブレはない。収容所で彼女が囚人に朗読をさせていたことが法廷で明らかにされると、ハンナは傍聴席のミ
ヒャエルを振り返る。
ハンナは振り返ってぼくを見た。彼女のまなざしはすぐにぼくの姿を見つけ出した。それでぼくには、彼女がずっとぼくの存在に気づいていたことがわかっ
た。彼女はぼくをただ見つめていた。
ここでももの言わぬ彼女の視線が多くを物語っている。
法廷でのやり取りを傍聴するうちに、ミヒャエルはハンナが文盲であることに気づく。彼女は文盲であることをカミングアウトするよりも、してもいない罪を
同僚から押しつけられることを選び、判決の日に、無期懲役が言い渡される。
彼女はまっすぐ前を向き、何もかも突き抜けるような目をしていた。高慢な、傷ついた、敗北し、限りなく疲れたまなざし。それは、誰も何も見ようとしな
い目だった。
誰も何も見ようとしない彼女の目に映っていたのは何だったのだろう?
4.貧困と無知と戦争
著者は、ナチのホロコーストがドイツの戦後に与えた影響を描くことで、『朗読者』に、単なるラブストーリーでは終わらない奥行き、重さを与えた。しかし
その重さに匹敵するもう一つの仕掛けも彼は用意していた。それは、ミヒャエルが思春期に出会い、彼の人生に決定的な影響を与えてしまった年上の女性ハンナ
が、文盲だったという設定だ。
思春期のミヒャエルにとって、ハンナとの関係は、親子ほど歳の離れた女であるという点だけがインモラルだったはずだ。しかし物語が進むにつれ、初恋の人
が戦争犯罪者であることがわかり、さらには彼女が文盲であることがわかる。文盲に象徴される無知が、貧困に原因していることは明らかだ。ハンナは文盲であ
り、無知であったが故に、戦争が介在することで大きな犯罪を犯してしまう。この物語では貧困と無知が戦争と結びついた際の恐ろしさを、経済恐慌からナチス
が台頭していく様子とは違った角度で現代の我々に示してくれている。
一方裁判では、ハンナは文盲と無知故に、どんどん不利な状況に追いやられる。その姿は、こう描かれている。
裁判のあいだも、文盲の露顕と犯罪者としての自白とを秤にかけていたわけじゃない。彼女には計算や策略はなかった。自分が裁きを受けることには同意し
ていたが、ただそのうえ文盲のことまで露顕するのは望んでいなかったのだ。彼女は自分の利益を追求したのではなく、自分にとっての真実と正義のために闘っ
たのだ。
それはみすぼらしい真実であり、みすぼらしい正義ではあるのだが、それでも彼女自身の真実と正義であり、その闘いは彼女の闘いだった。
彼女のみすぼらしい真実とみすぼらしい正義。これらは貧困と無知から来ている。法廷で繰り広げられる彼女の闘いは悲しい。しかしもっと悲しいのは、その
事実をもってしても、ミヒャエルの思春期の美しい記憶が色あせなかったことだ。美しい記憶が、戦争犯罪者や文盲という事実を知ることで、色あせてくれたら
どんなに楽だったろう。彼もまた自分で自分の想い出を書き換えられないで苦悶しているのである。結局彼は法律家となるが、現実社会を裁く裁判の世界から逃
避し、法史学者として大学の研究施設で過ごす道を選ぶ。著者は貧困と無知と戦争の残酷さを歴史に語らせるよりも、むしろミヒャエルという一人の作中人物
が、ハンナ、すなわち貧困と無知と戦争が生んだ女性に翻弄された人生を描くことで、より印象深くこれらの残酷さを表現することに成功している。
5.ハンナの死
無期懲役となり服役しているハンナに、ミヒャエルは朗読したテープを送りはじめる。それは、服役十八年目にハンナの恩赦が決まるまで続けられた。
この十八年で、ハンナは二度変貌する。はじめは、ミヒャエルの朗読テープを手がかりに、文字の読み書きを独習し、やがてミヒャエル宛に手紙を寄こすよう
になったこと。しかし、ミヒャエルはこの変貌を喜びと困惑の、両方の感情を持って迎える。彼女は変わったが、彼は変われなかったのだ。変われないミヒャエ
ルは、ハンナの手紙に返事を書くことなく、ただただ朗読テープを送り続けた。
やがて、ハンナは再び変貌する。後に刑務所長はこう語っている。
「長いあいだ、修道院にいるような生活をしていましたね。まるで自発的にここに来たかのように。ここの規則にも自分から進んで従っているようでした
し、いささか単調な仕事も彼女にとっては瞑想の一部のようでした。・・・それまでの彼女はいつもきちんとしていて、骨太ではありましたがスマートで、徹底
した清潔好きでした。ところが彼女はその後たくさん食べ始め、めったに身体を洗わなくなり、肥満して匂うようになりました。・・・たぶん、修道院にいるだ
けでは足りなくて、修道院の中でさえ仲間ができたりおしゃべりになったりするので、もっと孤独な庵へ、もう誰からも見られず、外見や服装や体臭などが意味
を持たない世界へ引きこもらなくてはならない、ということだったのでしょう。・・・彼女は自分の居場所を新しく定義したのです。自分にとって正しいやり方
で。」
この二度目の変貌の原因は何だったのかについて、作品の中では一言も触れられていない。それを考えるのが、この物語のテーマになっている。
読み書きを覚えた彼女は、刑務所の中で強制収容所についての本を読んでいる。裁判で彼女が闘ったのは、「彼女自身の真実と正義」だったが、無期懲役と
なっても、彼女はその闘いに敗北してはいなかった。しかし、服役中に身につけた識字により彼女は、文盲と無知からは解放されたが、強制収容所の本を読むこ
とによって、裁判で裁かれた自分の罪が何だったのかを知ることになる。それはこのように表現されている。
「わたしはずっと、どっちみち誰にも理解してもらえないし、わたしが何者で、どうしてこうなってしまったかということも、誰も知らないんだという気が
していたの。誰にも理解されないなら、誰に弁明を求められることもないのよ。裁判所だって、わたしに弁明を求める権利はない。ただ、死者にはそれができる
のよ。死者は理解してくれる。刑務所では死者たちがたくさんわたしのところにいたのよ。私が望もうと望むまいと、毎晩のようにやってきたわ。裁判の前に
は、彼らが来ようとしても追い払うことができたのに」
文盲から解放されたハンナは自分の犯した罪を理解した。しかしその彼女を理解し、彼女に弁明を求めることができるのは、彼女によってアウシュビッツのガ
ス室に送られたり、移動中の教会で焼け死んだ、死者たちだけだった。そして、知識を得てしまったハンナには、かつて死者たちを退けていた強い力は、もう
残ってはいないのだった。ここには、無知がある意味において持っている純粋な強さと、知識は同時に苦悩をもたらすのだというメッセージが著者によって込め
られている。
ハンナが死者との対話をする「新しい自分の居場所」を定義し、孤独な庵に籠もったとき、ハンナを救うべきだったのは、彼女の文盲を開いてしまったミヒャ
エルである。彼女を無知から解放した替わりに、罪の十字架を背負わせたのは彼だからである。しかしミヒャエルは、その役割を担わなかった。そればかりか、
恩赦で出所が近いハンナに、職や住居をさがしてほしいとの刑務所長の手紙を読んで「彼女の手紙はぼくの気に入った。しかし、ぼくに課せられた役割は気に入
らなかった」のだ。
ミヒャエルとハンナの三度目の、そして最後の出会いは、刑務所で、出所後の身元引受人と服役者としてである。恩赦の前の週にミヒャエルは刑務所をはじめ
て訪れる。しかし、刑務所で再会したハンナは、既に孤独な庵に入り、ベンチの上の老人になっていた。ミヒャエルがこれまで一本の手紙も、朗読以外の私的な
話も送って寄こさず、刑務所にも訪れてこなかったことから、もうわかっていたことだが、それでもハンナはかすかな期待を抱いてミヒャエルに再会する。
ぼくは彼女の顔に浮かんだ期待と、ぼくを認めたときにその期待が喜びに変わって輝くのを見た。近づいていくと彼女はぼくの顔を撫でるように見つめた。
彼女の目は、求め、尋ね、落ちつかないまま傷ついたようにこちらを見、顔からは生気が消えていった。ぼくがそばに立つと、彼女は親しげな、どこか疲れたよ
うなほほえみを浮かべた。
ミヒャエルに会った瞬間に、ハンナはかすかな期待もすでに自分には残されていないことを悟った。孤独な庵を出て出所してももう彼女の居場所はこの世には
ないのだ。彼女は自分の居場所をまた新しく定義する。彼女にとって正しいやり方で。出所するその夜明けに、首を吊って自殺するのである。
6.ミヒャエルの生
では、ハンナに死なれてしまったミヒャエルの生涯とはどのようなものであったのか。時をもう一度二人が最初に出会った二十二年前に戻して見ていきたい。
ハンナの家に通い、朗読と交情を続ける少年ミヒャエルは、学校の同級生との間に友情が芽生えつつあった。しかし、その友情は、ハンナのことを誰にも明か
さないことで、本当の友情にはなりえなかった。ハンナについて沈黙することは、友達に対する裏切りであったと同時に、ハンナ自身に対する裏切りでもあっ
た。ミヒャエルはハンナの失踪の理由をここに見いだし、自らを責め続ける。
ハンナの失踪によってミヒャエルの心に開いた大きな穴はどのように埋められたのか。彼は、「高慢で優越的な態度を身につけ、自分が何者にも動かされず、
揺るがされず、混乱させられない人間であるかのように振る舞」い、何事にも関心を示さないという自己演出をする。また、思いやりや愛情にアレルギー反応を
示すようになる。
愛に満ちた思いやりを示すちょっとしたしぐさを目の当たりにするたびに、それがぼくに対するものであろうと他の人に向けられたものであろうと、喉に魂
がつかえるような気分になったことを思い出す。
思春期に打ち明けられない秘密を持つことで、友達との間に友情を築けなかったミヒャエルは、大学でも繊細さを隠すために高慢を装い、ますます人が近づき
がたい雰囲気をまとってゆく。ところが彼の高慢で優越ぶった態度は、ハンナと法廷で再会することによって完全に混乱し、ついには麻痺に至る。この麻痺は、
ハンナに対してでもあり、法廷で行われていた強制収容所に対して、さらには学生運動など社会に対してでもあった。ミヒャエルは、この麻痺状態から抜け出る
ことをせず、麻痺状態を感情と思考の中で落ち着かせてしまう。そして、結局何もしないまま法廷でハンナの無期懲役判決を聴く。
ミヒャエルは弁護士にも検察官にもならず、社会から逃避し大学の研究施設で法史学に埋没することで充足感をえる。しかし実生活では結婚、離婚を経ても充
足することはなかった。ミヒャエルはそこで、かつての美しい想い出にすがり、朗読をしてテープを服役中のハンナに送ることで、自らの心のバランスをとろう
とする。ミヒャエルにとってハンナは、近くて遠い都合の良い存在に思えた。この都合の良さは、ハンナからの手紙に一度も返信しなかったことに良く表れてい
る。しかしハンナが出所することが決まり、ミヒャエルはうろたえる。
挨拶とカセットだけからできている小さくて軽くて安全な世界はあまりにも人工的でもろいものなので、実際の近さには耐えられないのではないかと不安
だった。
裁判の時と同じように、ミヒャエルは結局自ら進んでは何もしない。ハンナを「カセットテープの向こう側」に追い払い、都合良い隙間に追いやることで安心
しようとしている。その隙間が壊れることを知っても、隙間から出たハンナの新しい置き所を決めることができない。ついに出所の前の週が来て、ミヒャエルは
ハンナと三度目の再会をする。その結果は、既に述べたとおりだ。
ミヒャエルは、十五歳の時の体験を、想い出の中から出したり入れたりしてその後の人生を送っている。小説の最後の場面は、ミヒャエルがハンナのささやか
な遺言を履行し、ハンナの墓へ、はじめて、そしてただ一度参るところで終わっている。墓参が終わっても、おそらくミヒャエルの中でハンナの存在は解決され
ないだろう。こうみてくると、彼の人生は幸福とはいいがたいものに見える。そう思えるのだが、そしてミヒャエルは実際幸福ではないのであろうが、ミヒャエ
ルの十五歳の想い出は、文学的には美しいものである。ミヒャエルのその後の人生は、十五歳の美しい輝きの前に灰色の影となった。彼は過去の輝きを再び取り
戻せなかったが、それは十五歳の数ヶ月間が、その後の彼の人生すべてを天秤にかけても釣り合うほどのものであったということである。美は時として残酷な人
生、不幸な人生をもたらす。しかしそれでも人は美に魅入られてしまうから、ミヒャエルの不幸な人生を綴った小説が、多くの国で次々と翻訳されて読み継がれ
ているのだろう。
7.おわりに
著者はハンナとミヒャエルに二十一年の歳の差を設けることで、戦争を体験した世代と戦後世代のギャップを物語の中に持ち込んでいる。ハンナはまた、戦争
体験世代の象徴、ひいては戦争を体験したドイツの象徴としても読める。そのようなとらえ方についても若干言及してみたかったが、ここでは措いた。
最後に再び映画『愛を読む人』について述べ、この稿を終わりたい。十六歳のミヒャエルが最後にアンナを見かけるシーン。午後のプールで、「彼女は二十
メートルか三十メートル先に立っていた。短パンをはき、胸の開いた、ウエストで紐を結ぶタイプのブラウスを着て、ぼくの方を眺めていた。」というシーン
だ。失踪する前のハンナが、ミヒャエルに会いに来る原作では重要な場面なのだが、残念ながら映画では省略されてしまっている。この印象的なシーンをケイ
ト・ウィンスレットがどう演技するか観てみたい気がして残念だった。もし、このシーンが撮られていて、編集でカットされたのなら、DVDを販売する際に、
是非ディレクターズカットや未公開カットとして公開して欲しいと願っている。
(2009.8.15記す)