「e-文藝館=湖(umi)」 論
説
まおか
てつお 植物病理学者 国立研究所勤務 特任大学教授 久しい「湖の本」の読者。 創作、随筆作品等もある。掲載作は、08.12.24の「日記」よ
り。
平成二十年を振り返る:
毒入りギョーザで悪いのは?
真岡 哲夫
そろそろ今年(平成二十年・2008)を振り返る時期になってしまった。
昨年から今年にかけて、食品に関する偽装、毒物・異物混入事件が相次いだ。農産物に関わる仕事をしているので、一連の報道で説明してもらえなかったこと
について述べておきたい。
11月のある会議で、日本の農薬登録を担当する法人の役員が挨拶した。
「毒入りギョーザ事件以来食品に混入する殺虫剤がマスコミに取り上げられているが、気になるのはあたかも殺虫剤が悪者として取り扱われる傾向があること。
悪いのは殺虫剤自体ではなくその使い方(ギョーザの場合は食品に混ぜ込む、残留農薬の場合はしてはいけない使い方をしている)にある。」
この挨拶には共感するところが多かった。
農薬といえば、マスコミでは悪役として取り扱われることがほとんどだ。たぶんこの傾向は、高度経済成長が終わり、公害など負の部分がクローズアップされ
て来た頃から始まったのだろう。できるだけクスリを使わず「安全性の高い」「ナチュラル」な状態で育ってきたものを口にしたい。そういう願いは、私も一消
費者として持っている。しかし同時に、一億三千万人分の食糧を生産し供給し続けることが、いかに難しく、大変なことか、農業・農政に身を寄せている立場と
しては、その苦労も理解しているつもりだ。
食糧は、われわれが想像するよりいとも簡単に足りなくなる。団塊の世代以上の方は思い出してほしい。ついこの間まで、三食ちゃんと食べる、銀シャリをお
腹一杯食べる、ということがいかに難しく、有り難いことであったか。また、それ以降の世代の方だって、冷害の1993年に国産米(日本の主食!)が払拭し
て、タイ米を緊急輸入したことを憶えているだろう。もっと若い方には、一時期バターがスーパーの陳列棚から消えてしまったり、小麦製品が軒並み値上がりし
ている今年のことならば知っていることだろう。
小麦の話は、オーストラリアの干ばつや、バイオエタノール用作物との土地の競合など、主に海外での小麦生産の事情により起きたものだが、食糧輸入や自給
率の話はまた別の機会に述べるとして、今回は国内の農業事情に話を絞って話を進めていきたい。
化学肥料、農薬、大規模化、機械化、農産物の規格化、周年栽培、近年は担い手の集約化。これらが一億三千万人の胃袋を維持している日本農業の根幹だ。そ
して、基本的にはこれら根幹を構成する要素は変わらないと私は思う。しかし、農産物の評価が量から質へと変わり、食の安全に対する意識が高まって「安全性
の高い」「ナチュラルな=減農薬、無農薬、有機栽培の」農産物に対する需要が多いのも確かで、これからそういう農産物がますます増えてくることも間違いな
いだろう。
食べ物を作る生業=農業には、より良い食料を食べたいという消費者の欲求に答える使命と、国民に安定的に食糧を供給し続けるという使命の、両方がある。
農薬に例をとっていえば、前者と後者では、役割や重要性が全く異なる。それぞれの役割を理解した上で、減農薬や無農薬栽培に対する考え方を持ち、食品混入
などの事件にもこの役割を理解した上で冷静に対処してほしいものだ。
では順を追ってみてみよう。
「減農薬、無農薬、有機栽培」などの農産物に消費者の需要が高まれば、そのような農産物を作る、作りたい農家も増えてくる。しかし、化学肥料・農薬を使
わない農業は、気候の変動などに収量や品質が左右されやすく、場合によっては生産皆無の年もありうる。そういう時に、売り上げゼロになってしまった農家が
潰れてしまっては、何年経っても化学肥料・農薬を使わない農業は定着しない。そういうリスクを認識した上で、農家を潰さない仕組みを作ることが必要なの
だ。また、不作の年には、品質の悪い農産物しか出来ないことも想定される。
さらに、当然のことだが、化学肥料・農薬に頼らない栽培は大変な手間がかかり、相当なコスト高になる。フランスなどで流通している有機栽培農産物と同じ
ものを日本で安定的に食べたいと思うならば、消費者は、腹をくくってほしい。より良いものを食べるにはそれなりの負担が必要。天候不順で生産が無かった農
家への補償、不作の年には品質の悪い生産物でも買って消費してくれること、そして手間に見合った価格で生産物を買ってくれること。
こう書いてみて、化学肥料・農薬を使わない農業の買い手は、こういう農家のパトロンになるということなのだと気付いた。お金を払って、こういう農家を育
てるという表現が一番ぴったりするし、さてそう書いてみて、改めて、これは今の農政や大型スーパーを核とした物流組織とはしっくりいかないなぁという感じ
が、鮮明になる。
一方、食糧安全保障は、外交、防衛、教育、福祉といった国が責任をもって行うべき基本的な施策で、消費者の欲求とは別の観点から考える必要がある。冒頭
出てきた毒入りギョーザ事件以来、すっかり悪者になっている化学農薬だが、一億三千万人を飢えさせないためには、化学農薬はなくてはならないもの。といっ
てもあまりピンとこないかもしれないが、食糧生産に危機的な状況が訪れた際には、化学肥料、殺菌剤、殺虫剤の有り難さを、われわれは再認識することになる
だろう。また、そうならないまでも、農業生産現場においては、これらの肥料農薬を日々適正に使用することではじめて、スーパーの食料品棚を一杯にすること
が出来るということを忘れないでほしい。
「ナチュラルな」食べ物を食卓に届けるために、もう一つ大切なことがある。減農薬、無農薬、有機栽培の定義をはっきりして、その認証制度を設けると共
に、偽装をさせない仕組みを作ることだ。例えば、農薬を何%減らせば、減農薬というシールを貼っても良いのか、今は統一的な規格が定められていない。無農
薬と一口に言っても、薬の代わりに酢を撒いたらどうか?酢の代わりに活性炭では?その代わりに鉄を水に溶かしたら?さらにその代わりに銅を水に溶かしたも
のを撒いたら?など、無農薬と農薬のボーダーがはっきりしていない(正確には多くのものがボーダーライン上にあってどちらになるかまだはっきり決められて
いない)。「有機栽培」というシールを農産物に貼るためには、どのような土作りを何年前からしていて、実際に有機栽培が適性に行われ、他の農産物が混入し
ていないことを証明し、常に検査していなければならない。これはけっこう大変な手間だが、厳しい制度を設けない限り、またぞろ不正、偽装が頻発し、かえっ
て有機栽培農産物の信頼を失うことになる。先に挙げたフランスの有機栽培認証制度はまさにこのようなことを細かく調べて運用しているので良い例になると思
うが、フランスは欧州では指折りの農業保護政策をとっている国であることも知っていてほしい。
「安全性の高い」農産物を食べるためにも、今まで以上にチェック体制を強化する必要がある。一口に、また簡単に「安全性」というが、例えば農薬の安全で
なかった使用例の中には、 @ 生産者のミスなどで本来その作物に使ってはいけない農薬を使ってしまった、 A 正しい農薬を使ったのだが撒く時期を間違
え、成分が生産物に残留してしまった B 生産者に過失はないが、隣の畑からドリフトして(漂って)きた農薬が混入してしまった C 生産者の悪意により
使ってはいけない農薬を使った、 などいくつものパターンが考えられる。また事故米のように、生産者の手を離れた後、流通過程に原因がある場合もあるし、
ギョーザ事件のように農業とは関係ない場面で故意に混入される場合もある。どのケースについても、農薬の正しい使い方を守っていれば、問題は発生しないの
で、今の制度をより厳格に守ってもらうことが重要だ。
すっかりはやりとなってしまった食品への農薬混入事件では、「こんなアブナイものをなぜ使っているのだ」というような、直情的短絡的な思考から、農家が
農薬を正しく使えなくなることを危惧する。
さらに、危惧していたことがまさに現実になってしまったが、事故米不正流通事件では、大阪農政事務所の一課長の不正が、いつのまにやら「国の出先機関の
農政事務所は必要ない」という話にすり替えられている。
事故米事件の遠景には、1993年のガット・ウルグアイ・ラウンド農業合意の結果、日本は1995年から買い手のない外米を毎年輸入しなければいけない
義務が生じたこと、その保管料が年間150億円もかかっていること。さらには農政事務所(旧食糧事務所)がいつも行革の削減対象に上げられて、職員の志気
が著しく低くなってしまっていたことなど、制度的な問題点があるのだが、今回の事件でそこに鋭く切り込んだ報道はあったのだろうか? 元々売れない外米を
抱えている農水省がそれを買ってくれる加工会社の検査をするという仕組みも変だが、検査の主体が国から自治体に移れば、広域(三笠フーズの場合は大阪と九
州)に亘る不正行為を見抜けなくなり、現在よりチェック体制が脆弱になってしまうことは明らかだ。国の出先機関全てが必要とは思わないが、食品の検査制度
は国のお仕事。消費者庁でも何でも良いので、食品に関わる一連の検査体制を一元的に管理する国の機関が出来てほしいと私は思う。
漢字はものを良く現していると感じ入るが、農産品には商品として販売される「食料」と国民生活に不可欠な「食糧」としての別々な顔を持っている。食べ物
について大揺れになった今年、食べる人も作る人も、そして(本来)その仲立ちをする農政も、農業の二面性を良く理解して、農薬を含む農業に対するバランス
の取れた考え方を持ってほしいと思う。