招待席

くろいわ るいこう ジャーナリスト・翻案小説家 1862.9.29 - 1920.10.6 高知県(現)安藝市に生まれる。「回覧改進新聞」「日本タイムス」「輸入自由新聞」「都新聞」の主筆を歴任の後明治二十五年 (1892)十一月一日絵入傍訓(ふりがな)日刊新聞「萬朝報(=よろづてうほう)」を創刊し、経営の任と共に翻訳、論説、雑報等の全面に力業の筆を振 るって盛行、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らを引き寄せた。戦争に関しては内村、幸徳らと訣別し「平和を尚ぶの主義は時として戦はざるを得ざるの主義」とも なった。「鉄仮面」「巌窟王」「噫無情」などの翻案作者としても大いに知られた。 掲載作は、発刊及び満十五年め(明治四十年)の十一月一日に所信を述べ たもの。 (秦 恒平)





    「萬朝報」発刊     
黒岩 涙香



 「萬朝報」発刊の辞

 <目的> 萬朝報(よろづてうほう)は何が為めに発刊するや、他なし普通一般の多数民人に一目能く時勢を知るの便利を得せしめん為のみ、此 の目的あるが為めに我社は勉めて其価を廉にし其紙を狭くし其文を平易にし且つ我社の組織を独立にせり
 <代価> 近年新聞紙の相場次第に騰貴し今や低きも一銭五厘以上なるに及べり、然れども今日我国今日の社会に於て一銭五厘は大金なり、人々 日々に欠く可からざる入湯の料より高く、重宝無類なる郵便はがきの価より高し、新聞紙一枚買ふには一度の入湯を廃せざる可からず、一度の音信消息(いんし んせうそく)を見合せざる可からず、否(いな)廃しても猶足らず見合せても猶届かざるなり、実際に於て真逆(まさか)に入浴を廃せずば以て新聞紙を買ふ能 はずと云ふ程の人も有るまじけれど算盤珠(そろばんだま)の上に於ては入浴を廃するに同じ音信消息を見合すに同じ、富者とて算盤玉の上に違ひは有る筈なし 此故に新聞紙の価高きは普通一般の便に非ず、多数民人の利に非ず、広く社会を益するの主意に非ず
 <紙幅> 新聞紙の記事は成る可く簡単なるを宜(よ)しとす、長きは暇潰しなり、読て心力を疲れしむるなり、昼間は用事を妨ぐること多くし て夜は則ち油を費すこと多し、故に我社は勉めて記事を簡単にす、記事短かければ紙面も従て広きに及ばず、要するに新聞紙は長尻の客の如きか、長尻の客に迷 惑せし実験ある人は必ずキリヽと締りたる新聞紙の便利なるを会得せん
 <文章> 陽春白雪を唱へば和する者少く下俚巴人(かりはじん)に至りて一座皆和して楽しむが如く新聞紙の文章高尚に失するときは家内中に て一番学問のある其家の旦那唯一人楽しむ可きも之を平易にし通俗にし何人にも分り易からしめば旦那の後は細君(さいくん)読み番頭読み小僧読み下女下男読 み詰(つま)る所一銭の価にて家内中皆益するが故に此上なき安きものなり一人頭(ひとりあたま)には一厘に足らぬ事ともならん一家経済の秘伝は此辺に在り と知る可し
 <独立> 此頃の新聞紙は「間夫(まぶ)が無くては勤まらぬ」と唱ふ売色遊女の如く皆内々に間夫を有し其機関と為(な)れり、独り公やけに 我は自由党機関なりと大声狂呼する自由新聞が猶(まだ)しも男らしき程の次第ぞかし、或は政府或は政党或は野心ある民間の政治家、或は金力ある商界の大頭 皆な新聞紙の間夫なり、斯(かか)る新聞紙に頼(よ)りて普通一般の民人が真成の事実を知り公平の議論を聞かんこと覚束(おぼつか)なし、我社幸か不幸か 独立孤行なり、政府を知らず政党を知らず何ぞ況(いは)んや野心ある政治家をや、又況んや大頭なる者をや、嗚呼(ああ)我社は唯だ正直一方道理一徹あるを 知るのみ、若(も)し夫れ偏頗(へんぱ)の論を聞き陰険邪曲の記事を見んと欲する者は去て他の新聞を読め

(「萬朝報」 明治二十五年十一月一日)

 

 「萬朝報」満十五年

 今日は萬朝報(よろづてうほう)が営業の満十五年に達する日である
 萬朝報は明治二十五年の十一月一日に第一号を発刊した
 此の満十五年の経過中に社会が著しく発達したと共に萬朝報も著しく発達した、吾人は多く己れを語ることを美事で無いと心得て居るけれど、今の世の流風は 滔々(たうたう)己れを語りて自(みづか)ら広告するに在る、此の流風に面じて、吾人(ごじん)が今日の此の自ら祝す可き当日に聊(いささ)か己れと社会 とに就て語ることは、許さるゝであらうと信ずる
 当初数年間の萬朝報の主義は勧善懲悪であつた、勧善の意は多く人に認められなんだが、懲悪の事は、著しく世に看取せられ、単に朝報が人を罵るのみの目的 の為めに生れ来た如くにも解せられた、其れは無理で無い、当時萬朝報を経営した同志数輩は、学校から父母の家庭から又は無産無経験から、新たに出て来たホ ヤホヤの少年であつた、其最年長者が満三十歳を越えなんだのでも分る、彼等は自己の新鮮なのに引較べて世を悉く新鮮にする意気であつた、彼等の或者は無頼 又は堕落とも称され得る程の青年的逆境に居たけれど、彼等は熱(ジール)も志尚(アスピレーション)も無い朽ちたる木や糞土の牆(かき)では無かつた、彼 等の頭にはヨシヤ理想とは称され得ざる迄も、熾烈(しれつ)なる空想の火が燃え、彼等の胸には真成に倒れて而して後ち止(や)むの精神が鬱勃して居た、彼 等は神をも人をも何物をも恐れぬ「向ふ見ず」であつた、彼等の唱名(モットー)は精神一到何事か成らざらんと云ふ外には無かつた、斯(かか)る徒輩が新聞 紙の壇に立ちて世間を見れば、唯だ憤慨を感ずる外は無い、紳士も富豪も官吏も学者も実業家も名誉職も悉く横着に見えた、彼等は単に警告だにせば其の人々が 自(おのづか)ら横着を改むる事と信じ、其れのみでも社会が改良される様に思うた、彼等は無遠慮に警告した、けれど功が無い、殆ど寸效も見えぬ、彼等は怒 つた、彼等は呆れた、其の寸效の無いのを、他の横着の度す可からざるほど膏肓(かうくわう)に入(いつ)て居たが為と信じた、彼等は容赦なく罵つた、痛棒 を喰はせた、彼等の勢ひは狂人の叫び廻るが如き時も有つた
 彼等は斯(かく)の如くにして、大(おほい)に世の正人君子の感識を予期した、憐れや彼等は、其予期の感謝は得ずして、得たのは只だ悪徳――毒筆――黄 色新聞――と云ふ鸚鵡返しの仇名(あだな)であつた、若(も)し之に利益が有つたとせば「世を罵る者は世に罵られ、世を憎む者は世に憎まる」との悟りを彼 等に与へた一事に過ぎぬ
 けれど彼等の為に一言弁護す可きは、彼等自ら決して、善人を以て居らなんだけれど、人を譏(そし)るを快とも美徳ともしたのでは無かつた、彼等には其程 度に於て確乎たる標準が有つた、其標準は、彼等が自ら俯仰(ふぎやう)天地に耻(は)ぢぬと呼号した信念であつた、彼等は思へらく、己れの行ひ得ぬ事を人 に強ひては成らぬ、己れは凡人である、其代り凡人たる己れよりも劣悪の行を肯(あえ)てする者に対しては、飽くまで懲戒する権利がある「我は人に対して聖 人になれよとは責めぬ、唯だ斯く申す我に見習へと云ふのである、自分の日常持して居るだけの平凡なる操行を人に強(しゆ)るに於て誰に憚ることや有らん」 とは彼等が傲然繰返して紙上に列ねた語辞である
 彼等は之が為に壮士をも向けられた、発行をも度々停止せられた、同業社会からも俗に云ふ鼻摘みを以て遇せられた、而も斯かる事情は益(ますま)す彼等の 狂熱を煽り立る外に、少しも緩和的の功を奏せなんだ
 其の後、彼等は其自ら漸く世故(せこ)に長(た)くると共に、又漸く人情の辛酸を知ると共に、或者は妻も出来、子も出来、一家をも為すと共に、彼等の気 焔が自(おのづか)ら沈衰した、彼等も又悟りもした、人を矯(た)め世を改むるは、口や筆の仕事で無い、己れを矯め我身を改むるより初まると、又思ひ知つ た、世を攻撃して世を救はれる者で無い、世を愛してこそ世は救はるゝなれと、世を愛せねば世に愛せらるゝことは出来ぬ、何で世間が憎む人の忠告に従ふ者 か、斯かる考へと共に萬朝報の態度は自然と改まつた、其の紙面も其の筆調も経営者の年齢と共に、自(みづか)ら云へば「老成」した、悪く云へば「老い込ん だ」其の中に多く学者も有り信望も有り経験もある他の紳士が幾人(いくたり)も来て経営者の仲間に入られた、一社の方針を共々に評議して定めらるゝに至つ た
 回顧すれば誠にお耻かしい次第として赤面さるゝ事のみ多いけれど、又聊(いささ)か以て自ら慰むるに足るとするは、萬朝報当初の高調子が必ずしも、単に 彼等経営の無経験なる空想のみの為めで無かつた一事である、然らば何の為めか? 他無し、彼(あ)の調子が矢張り世の反響で有つた、人は誰か時代の子に非 (あら)ざる、誰か全く世に背戻(はいれい)して能く事を為すを得る、若しも世の中の調子に、萬朝報の調子と相通じ相感じ相応ずる所の者が無かつたなら ば、何うして萬朝報が存立することが出来た、何の事業も適種存生(ぞんしよう)である、誰が何と云はうとも、萬朝報の彼(あ)の調子が、社会の状態の何 (ど)の辺にか適応する実相を持して居たに違ひ無い、社会の生存競争は、孤弱なる萬朝報を亡(なく)さなんだ、萬朝報は経営者が作つたので無い、社会が育 てたのである、其辺の事情は、事々しく述べずとも今日萬朝報が営業の満十五年を告白して居る一事が明白に證明して居るでは無からうか
 今から見れば、誠に、誠に、勧善懲悪などとは詰らぬ旨意である様に思はれる、けれど当時の社会には、未だ進歩した倫理の思想が無かつた、一般の思想が勧 善懲悪と云ふ程度を出でなんだ、其程度の時代に其の程度の新聞が生れたのは、異様なる現象とは思はれぬ
 人は世に連れ、世は人に連れる、爾來朝報の経過を見るに、自ら求めてゞは無いけれど時代の思想と相連れて進んで居る、近年の社会に流れて居る主義は独り 日本のみで無く広く世界を通じて、政治的には帝国主義と平和主義との未だ充分に和合せざる怪物、即ち産業的武力主義である、藝術の方面から云へば感情主義 (ローマンチシズム)から写実主義に移つて今は道徳的虚無主義にも近き自然主義が芽を吹いて居る、之に照らして萬朝報の紙面を傍観せば、政治的にも藝術的 にも毎(つね)に其時代の其主義と霊犀の通じて居る所が有る、更に又倫理から云へば萬朝報は精力主義即ち向上主義の鼓吹者であるが此の主義も社会に負(そ む)いて萬朝報が唱へるでは無い、社会の大勢が茲(ここ)に在りて自(おのづ)から萬朝報を茲に到らせるので有らう、けれど社会の総ての思想に多く旧主義 の色彩の残つて居ると同じく萬朝報の主義にも当初の勧善懲悪の主義が何処にか存在を告げて居る、政治的に産業主義と武力主義の調和を計りつゝも、単に産 業、単に武力、と云ふより以上に真の善、真の美、真の真を世界にも我国にも来(きた)さんとの精神及び努力を伴ふて居る、又紙面に現はるゝ写実主義、自然 主義とても無意味無差別の其れでは無い、当初以來の勧善懲悪の旧精神が自(おのづ)から取捨の間に存して居るらしい、是は読者の一切が認めらるゝ所であら う
 今日以後、朝報の進む所は何(ど)の辺に在らう、勿論「世に連れる」ので有るけれど、単に世に連れるのみ事とする盲従的の地位に立つことは本意で無い、 多少は世をして、萬朝報と云ふ此の「人に連れ」させ度(た)いのである、我等を以て今の世を見ると、来る主義も来る主義も、多く盲従的に追随せられる、此 頃の精力主義――、何と盛んなる事であらう、或は成功と云ひ或は楽天、或は修養、或は健康法、或は致富術、其の言葉の下に世人が夢中になつて操られて踊つ て居る、けれど精力主義は斯様(かやう)な浅薄な者で無い、「アヽ浅薄よ、汝は今の世の人の名である」と叫び度くなる、何(ど)の問題も何の解釈も総て浅 薄である、単に物質的、利益的、金銭的、快楽的、名誉的の方面より観察せられ解答せられるのみで、より深き倫理の根底より解釈せらるゝ場合は無い、婦人問 題も青年問題も文藝も総て斯かる浅々薄々の脚地に立ち、浅々薄々の思想を以て迎へられ、之が為に信仰も哲学も、其他の高尚なる形而上(けいじじやう)の一 切と共に、論理的の遊戯とせられ、物質の波に漂はされて居る、朝報は精力主義を取りても自然主義を取りても斯かる浅薄な立脚地に甘んじては成らぬ、一面に は事実報道の新聞紙たる職責を尽すと共に、一面には社会教育者と云ふ当初以来の信念を立して、幾分なりともヨリ深き解釈を総ての方面に与へて行かねば成ら ぬ
 是が萬朝報の今後の期す可き所であらう、又当初以来の本然の精神であらう、其の精神の表顯は時に連れ世に連れ遷(うつ)り行くも、精神其者を蒸発し尽さ しめて、浅薄なる時俗の思想と浅薄を斉しくしてはならぬ、既往満十五年は徒爾(いたづら)に過去つた様でも有るが、萬朝報をして多少の設備、多少の基礎、 多少の勢力を作らしめ、又経営者に多少の経験をも与へた、此の設備や経験や勢力が、如上の精神を今後に、益(ますま)す進めて行く資料となるであらう、さ すれば、既往満十五年は必ずしも徒爾では無かつた、其の徒爾で無かつたゞけ、其れだけ祝す可き理由が有るではないか
 既往を語り、現在を祝して、今後の発展を約束したい為に斯くは長々と記したのである

 (「萬朝報」 明治四十年十一月一日)