招待席

くりもと じょうん 思想家 1822.3月 - 1897.3.6 江戸神田猿楽町に生まれる。天保十四年(1843)昌平黌の登用試験に最優秀合格するも官途容易でなく、樺太・択捉・国後等の勤務を経 て昌平黌頭取から監察(目付)に任じた。幕府内の文明開化に多く貢献、外国奉行等を歴任後にフランスに派遣されて四年にわたり、異国で幕府瓦解を知る。維 新後は「郵便報知新聞社」編集長として活躍、島崎藤村も師事した。 掲載作は、明治十一年(1878)に書き始めた『出鱈目草紙』中、幕末を支えた一偉才 の生涯を熱意顕彰しつつ幕末日本の運命をみごとに批評している。 (秦 恒平)





   岩瀬肥後守の事歴   栗 本 鋤雲




 幕廷にては軍国の仕来(しきた)りにて殊の外に目付(めつけ)の役を重んじたり、抑(そもそ)も此官は禄甚だ多からず、位甚だ高からずと雖(いへど) も、諸司諸職に関係せざる無きを以て、極めて威権あり、老中始め三奉行の重職と雖も、鑑察の同意を得るに非(あら)ざれば事を決行する能(あた)はず、或 は其見(そのけん)を殊にする有るを顧みず断行するあれば、鑑察は直(ただち)に将軍或は老中に面して啓陳するを中阻する能はず、去れば人の以て仕途の栄 とする者鑑察に過(すぐ)る無し、但其(ただそれ)漢土古代の諌官(かんくわん)に異ならず、梗直敢言を以て職としたれば、其(その)罷黜転遷(ひちゆ つ・てんせん)も亦極めて亟(すみや)かなりき、鑑察の権此(かく)の如く朝(てう)に行はれしかば、政事の改更ごとには必ず先づ此局を一変し、然る後諸 司に及ぶが故(ゆゑ)は、諸司風を聞て廷旨の有る所を知り、迎へて自ら釐革(りかく)するを得策と為すに至れり、其の人を得ると得ざると、一世の盛衰に関 するの職たる知る可し、
 嘉永年間、米舶渡来する日の如き、外国関渉一大変事に当り、満廷震動し、始めて非常の撰を行ひ、人材登庸せざる可からざるを以て、父子共に職に在れば其 子たる者賢と雖も父に超ゆる能はざるの旧規を改めて、堀織部(おりべ)永井玄蕃(げんば)岩瀬肥後の三人を擢(えら)んで鑑察とせり、皆曽(かつ)て予と 同年に学試を経て科に登りし者なり、此時に至り廷上二三の人、始めて九州の外猶ほ九州ありとの説、全く妄ならざるを悟りし程なりき、

 堀氏の事は世に謬説(びうせつ)を伝へ信ずる者あれば後に弁駁(べんばく)す可く、永井氏は今猶ほ現在し、直に就て聞くを得可ければ語らず、今特に岩瀬 氏の事を挙げて述ぶ可し、

 岩瀬君、初の名は愿(げん)、後改めて震、字(あざな)は百里、其築地に居るを以て蟾洲(せんしう)と号し、官を褫(うば)はれ、墨水に蟄(ちつ)する に及びて鴎所と号せり、人と為(な)り明断果決にして、胸次晶潔更に崖岸を見ず、其朝に立つや知て言はざる無く、言て尽さゞる無く、能く人才を鑑別して各 々其技倆を展(のぶ)るを得しめしかば、人の之に帰嚮(きかう)する者も多く、随て亦派を殊にする輩の之を疾悪する者も極めて多かりしが、其幕末萎靡(ゐ び)不振の日に方(あた)り、士気を鼓舞し俊才を撰抜して、一時天下をして踊躍(ゆうやく)憤起せしめたるを、其功推(お)して第一等に置かざる能はず、 今其一二を語れば、荷蘭(オランダ)の観光船を贈りしや、矢田堀景蔵、勝麟太郎(後ち天朝に事<つか>へて参議となる)を不動の小普請より抜 擢(ばつてき)し、其人に従て其技を学習せしめ、其他平山謙二郎、河津三郎太郎を収めて、配下に置き、下曽根金三郎、江川太郎左衛門に洋砲訓練を任じ、箕 作玄甫(みつくりげんぽ)、杉田玄端を挙て蕃書調所後ち開成所と改むの教官とし、儒官古賀謹一郎(筑後守沙翁)が漢儒にして、傍(かたは)ら横文に渉(わ た)るを以て其(その)督と為すの類、殆んど枚挙に暇(いと)まあらずして、松平河内、川路左衛門、大久保右近(今天朝に事へて議官となる)水野筑後、竹 内下野(しもつけ)の類、宿耆長者比肩儕輩(せいはい)と雖(いへど)も、苟(いやしく)も志(こころざし)経国に存する者は誠を推して親交せざる無く、 傍ら各藩有為の人物を延(ひ)き、城府を撤して協心戮力(りくりよく)し、以て国威を拡張せんことを一身に担負(たんぷ)したり、
 当時英仏魯米を概して一に之を毛唐人(けたうじん)と称する蒙昧(もうまい)の政廷に立(たち)て、弥縫(びほう)周旋し、衆を開明に導き国を無欠の金 甌(きんおう)に全くせんと企図する、其摧心(さいしん)労力幾何(いくばく)なりしや、今日之を想ふも決して千百の十一に至る能(あた)はず、此時全国 の横文学者僅に荷蘭(オランダ)一国の書を読み得て、訳司も亦其国語に通ずる者のみなりしかば、多方開説して世間の学者に、英書を読み英語に通ずるを創 (はじ)めしめたり、
 初め米国ハルリス航来して、和約貿易の条例を議定せんとするに方(あた)り、満廷逃避を以て高趣と為し、振(ふるつ)て一人(いちにん)の能く負担する 者無く、皆手を拱(こう)して尽(ことごと)く君を推す、君於此(ここにおいて)断然一身を抛(なげうつ)て犠牲(いけにへ)と為し、自ら任じ辞せず、往 復論弁燭以てきゆう(=日ノシタニ、咎)に継ぐもの数閲月、始めて稍(や)や貼定する所のもの、乃(すなは)ち安政年の条約なり、今日より之を見れば其加 刪(かさん)を要する者数十にして止(や)まざれども、顧みて往時に溯れば一身の利益得喪を忘れて、国家に点汚せざらんと謀る、苦心の一端を見るに足る可 し、」

 条かん(=款)草(さう)成るの日、大(おほい)に諸侯伯を大城に召し、大老井伊掃部頭直弼(かもんのかみなほすけ)代りて旨を演(の)べて云(いは) く、今日各方を徴すは他の故に非ず、和親貿易は当今世界公同の事避る能はざる而已(のみ)ならず、其法を得れば富国強兵の基と為すに足り、之に反すれば禍 乱立処(たちどころ)に至る、其(それ)間髪を容れず、委細は鑑察岩瀬肥後に演述せしむれば、得(とく)と聴かれて後各伏蔵無く其意を述べられよと演べ、 於此(ここにおいて)大老退き岩瀬君代り進て、其顛末条理を細説するに、言辞明朗、少(いささかも)渋晦無ければ、聴衆悦服し唯々諾々(ゐゐだくだく)敢 て一辞を措(お)く者無く、皆其説の時世に適して宜(よろし)く然らざる可(べか)らざるを讃し、其旨を謹領して退かれたりしか、何ぞ料(はか)らん既退 (すでにしりぞく)の後数日各自意見書を出すに及んで、尽く前日の言に反し、粗暴軽忽前後を顧慮せず、殆んど乃公(だいこう)の事を破らんとする者多かり しかば、君大に驚き、始めて其書の悉く臣下の手に成り、君侯と雖も之を制圧するの権無きを悟り、衆侯伯中に就て、其聡明にして威権あり、能く臣下を服従し て共に当世の大事を談ずるに足る者を得て、其力を仮(か)るに非ざれば済(な)す能はずとし、水戸老侯、松平春嶽、鍋島閑叟、薩摩世子、土州容堂諸公に説 きしに、五公能く其説を容れ、其人を敬信せしかば、君の声望於是(ここにおいて)漸く世間に高し、
 然るに一大珍事の出来(しゆつたい)して君が禍を得しは、全く深く国家を憂慮するの誠心より出て、尤も憫むに余り有る事にして、之を言ふも猶ほ余潜に勝 (た)へざるは、十三世将軍家定公(温廟)性多病にして言語了々たらず、此多事の日に中(あた)り、内は列藩の人心を鎮めて、外は各国に応ずる能はず、宗 室中を歴観するに能く時望に叶ひて、以て今日の任に勝(た)ゆべき者、唯一個の一橋(ひとつばし)君あるのみ、特に天下願望する所の水戸老君現に其親父 (しんぷ)たれば、意を決し諸官一同上請して以て、温廟老を告げ一橋入(いり)て嗣君となり玉へば、政令途を殊にせず、賞罰多門に出でず、以て始て此屯蹇 (とんけん)を経て康衢(かうく)に達するを得可しと、親(しん)を立(たつ)るの衆議を排して賢且長を立るを今日の急とするを発言し、閣老参政も大半嘉 納し、天下有志の士も亦粗(ほ)ぼ泄聞(せつぶん)して、大に喜び、国威一たび屈するに似たれども又伸び、日月晦(くら)からんと欲して又再び明なるに至 らんと、瞻望冀仰(せんばうきかう)して其時の至るを待ちしに、何ぞ料らん其言未だ上(たてま)つるに及ばざるに、温廟脚気病に嬰(かか)り玉ひ俄に大漸 (たいぜん)に及ばれしは実に千歳の遺恨なりし、此(ここ)に於て前に君に排せられし説再び勢を得て、遺旨を奉じ賢且長を置て親(しん)を立(たつ)るに 決したるなり、」

 是より前、米国「ペルリ」の始めて浦賀へ渡来する日に先だち、慎廟は強く暑に中(あた)り玉ひ衆医手を尽したりと雖も、追日(ひをおひ)疲労し自ら起つ 能はざるを知り玉ひたれども、押て老中に接し此回の大事は開闢(かいびやく)以来の珍事にて実に深く憂悶せるが、不幸にして大病に侵され如何(いかん)と もする能はず、付ては水戸隠居は年来海外の事に苦慮煉熟する所なれば、定めて能き了簡(れうけん)も有る可ければ、予死後外国所置の件は、隠居に量りて所 置あらば大過無かるべきなりと言置かれしか、其夜来米舶内海へ乗入りたるに付(つき)深更に及び宿直側役(とのゐそばやく)より、唯今伊勢登城(老中阿 部)引続き、唯今備後登城(老中牧野)と上申するを聞玉ひ、直に此へ呼べと言ひながら肩衣々々と呼求め玉ひたり、此時慎廟体(たい)既に疲れ神(しん)既 に困(こう)じて漸く恍惚たられしかども、猶ほ扶けられ玉ひ、強て端坐し肩衣を着て直に老中を召し、其言ふ所を聞んと為し玉ひしか、米舶又乍(たちま)ち 外海に出るの再報を得て、両老謁を請ふに及ばずして退き、慎廟翌日休息の室に薨(こう)じ玉ひたり、(休息所は所謂路寝便殿の類にて、老中と雖も入るを得 可らず、又肩衣を着ざれは病中と雖も、老中に接する能はざるを見るに足る)夫より遣命を以て、水戸老公を召し、老体大義ながら隔日登城し、新将軍外事の顧 問に備はる可き旨下り、老公委々命(めい)を奉じて城に登られたりしが、如何にせん公は年来士を練り卒を訓へて外国を獣畜視し、唯志を膺懲(ようちよう) の一辺にのみ向けありしより、円孔方ぜい(=木ヘンに、内)にして其説また当世に適せざれば幾(いくば)くも無くして止め、軍艦旭丸(俄に厄介丸)を製造 するを督せられしか、岩瀬君屡々見(まみ)へ、漸を以て開説するに、今日の外国は古戎狄に非ざるを以てせしかば、老公固(もと)より英明の質大に感悟せら るゝあり、始めて己を知らず彼を知らざる無謀の戦を為して、徒(いたづ)らに国家を牋害(せんがい)するの甚だ畏る可きを回顧せられ、和親交易の断乎とし て易(か)ゆ可からざるを允(いん)し、君に語られしに譬へば良家に美女子あり、人の強て婚を求むる者あるも、我之を拒み辞する再三に至り、彼の求むるの 情願益(ますます)懇(ねんごろ)に益迫るに至り、漸く始めて之を許せば、其伉儷却て厚く、多情の人の速(すみやか)に応ずる者に優るが如し、我国外交を 拒む二百年の今日に至り始て之を許さば、彼此(ひし)の交誼必ず濃厚に至るの益ある可しと申されたり、」

 老公既に自ら外交の止む可からざるを許す、此に於て宗藩外藩に説くに、尾州越前を始め皆大に其説に信従するに至る、乃ち前に挙(あぐ)る所の数侯の如 し、然るに老公の股肱(こかう)にして、大義を知り一藩の信服を得て能く之を率導するの士に、藤田虎之助(東湖)戸田銀次郎(蓬軒)なる者あり、共に是迄 老公を左右し、鎖攘の説を唱へしが、老公説を改められしより、二人も其高見に服し、己(おの)が説も亦改め、力(つと)めて衆士に説諭するに、時勢然らざ る能はざるを以てし、漸く嚮者の轍を換へしめんとするの日に方(あた)り、非常の大震あり、藩邸家屋を傾覆し、両人一時に圧死せられ、老公の意終(つひ) に遍(あまね)く一藩に敷くに及ぶを得ざりしより、其一朝にして俄に両翼を失ひたるを此上も無く歎息せられたりし、
 其後温廟の世々未だ幾(いくばく)ならずして昭廟儲副(ちよふく)と定められしより、水戸老公を始めとし、尾州越前土州の諸侯、凡そ平生君が説を是とせ し者、皆大城に会し大老と議論ありしを、大老一切聴かざるのみならず、退城後直(ただち)に老公、一橋公及び他の数侯、凡そ君が儲副論に意を同ぜし朝紳、 高下大小一網打尽し、褫位(ちゐ)奪職終身を禁錮し、乃ち野に在る志士も連累せられて、或は刑せられ、或は逃亡する者数を知らず、君は固(もと)より首唱 の罪を以て厳譴を蒙り、屏(しりぞ)け且つ坐せられて人と歯するを得せしめられざりしより、墨水の別墅(べつしよ)逵雲園(きうんゑん)に蟄(ちつ)し、 日々唯毫(がう)を揮(ふる)ひ書画を認(したた)めて、幽娯とせしか、後少(すこし)く弛まり、一二の親友時として訪(おとな)ひ来る有るのみ、其余は 一切拒(こばみ)て逢はず、一年余積鬱疾を為し、多く血を喀て死せり、今在(あり)たらんには六十一歳前後なるべければ、其時は四十歳頃なる可し、」

 君罪せられて後、幕朝の事語るに足らざるのみか、衆怒り人叛き、継て桜田(門)の事(変)ありて、親藩の臣を以て天下の執政を暗殺しやう害(再現不可漢 字は、壮のツクリが、戈)せし端を開き、裴度武元衡の蒙りし惨禍を演ぜしより、鎖港攘夷の目は変じて尊王攘夷(老公撰弘道館の碑中の語なりとか)と成り、 鑑察の数は増加して終(つひ)に二十八人迄に至りしか、威権見識共に痛く落て、幕廷を終る迄復(ま)た記するに足る者無きに至れり、
 大老既に水戸老公始め総て己の見に異なる者を排斥?撃(ほうげき)し為めに大獄を起し、遺類を芟除(せんじよ)し、諸司百官尽く更新して、門客に斉しき 者のみを任じたれば、爾時赫々の威は殆んど飜山倒海の勢を為し、挙朝屏息足を累(かさ)ねて立つの思を為す程にして、随分恣意跋扈(しいばつこ)とも名付 く可き人なりしか、唯余人の成し能はざる一の賞す可きは、外国交際の事に渉(わた)りては、尤も意を鋭(と)くし、敢て天威に懾服(せふふく)せず、各藩 の意見の為めに動かず、断然として和親通商を許し、然る後に上奏するに在り、此一事たるや当時に在りては天地も容れざる大罪を犯したる如く評せし者多しと 雖も、若(も)し此時に当り一歩を謬(あやま)り此断決微(なか)りせば、日本国の形勢は今日抑(そもそ)も如何なる有様に至りしならん、軽く積りても北 海道は固(もと)より無論対州まれ壱岐まれ魯亜英仏の為め勝手に断割され、内陸も諸所の埠頭は随意に占断され、其上に全国が背負ふて立たれぬ重き償金を債 (せめ)られ、支那道光の末の如き姿に至り、調摂二十余年を経(ふ)るも、創痍或は本復に至らざる可く、独立の体面は迚(とて)も保たれまじく思へば危き 至極にて有りしか、所謂神国の難有さは、祖宗在天の霊其衷(そのうち)に誘(みちび)きしと見へ、人心危疑恟々(きようきよう)の日に当り、大老断然独任 し胆力を以て至険至難を凌ぎたるは、我国にありて無上の大功と云ふ可し、
 大老曽(かつ)て云ふ、岩瀬輩軽賎の身を以て柱石たる我々を閣(お)き、恣(ほしいまま)に将軍儲副の議を図る、其罪の悪(にく)む可き大逆無道を以て 論ずるに足れり、然るを身首所を殊にするに至らざるを得るは、彼其(かれ、それ)「日本国」の平安を謀る、籌(はかりごと)画図(ぐわと)に中(あた)り 鞠躬尽瘁の労没す可らざる有るを以て、非常の寛典を与へられたるなりと、大老の他の政績に就て見れば、此一言は真に別人別腸より出(いで)たるが如し、
 大老既にたふ(=噴の偏が、イ)れ、次て柄(へい)を執る老中安藤対馬も能く前事に懲りて恐怖せざるのみならず、最も能く心を外国事務に尽し、力めて国 家の大体を維持し、米のハルリス、英のアールコック等に接して、談鋒毫も沮滞せず、又屈撓せず、彼の肆横(しわう)を折(くだ)き、彼の侮慢(ぶまん)を 挫(くじ)き、詞気凛然として能く彼を懾服(せふふく)せしは、当時其下に立ち事に任じたる者の存して、今に在る者の皆能く識る所にして、決して予が一人 (いちにん)の私断にあらず、謂(いひ)つ可し徳川の世に立ち、能く外使に専対するに堪へて耻(はぢ)る無き者、唯対州一人有りしのみと、後に至り朝旨を 以て彦根岩城二藩の封を削られたれども、幕廷其保国の大功を没するに忍びず、陽に其旨を奉じ陰に庇護して、故(もと)の如く之を給し、唯其名を改めて委託 地と為すのみなりし、(後に阿部豊後の白川、松前伊豆の梁川亦此例に因る)
 幕末の政、乍(たちま)ち鎖港攘夷、乍ち開国と屡々替り、其度毎に有司の黜陟(ちゆつちよく)変遷はありしが、其実鎖攘は脅迫せられ止むを得ざるに出 でゝ真情に非ず、政家の精神は常に存して開国の一遍に向て在りしかば、岩瀬君が時の老中阿部と共に、最初に決したる和親交易は、大老も改る能はず、其後を 受たる老中も皆奉じて徳川の世を畢(をは)りたれば、宜(む)べなり常に之を仮りて上(か)み天朝と、下(し)も人民とに責られてのが(=官ニ、シンニュ ウ)るゝ能はざりしを、
 安藤対州が坂下の災は、不思議に其傷重からず、日を経て全癒せしかば再び出らる可かりしが、時益々蹇厄(けんやく)に趣(おもむ)き、剰(あまつ)さへ 蜚語(ひご)の天聡を誤るありて、幕廷憲宗の断無きにあらざりしも、裴度(はいど)復(ま)た相(しやう)たるを得ざりし、」

 此時に当り、一賊の和学者塙(はなは)次郎を暗殺する者あり、詞を藉(し)くに隠に対州の命を奉じて、北条氏廃帝の旧例を点検するを以てし、又外国奉行 堀織部が屠腹自尽の事を牽強して、対州専ら外人に密比親眤(みつひしんぢつ)し、愛妾を以て英使アールコックに与ふるを許すと苦諌し用ひられざるに因て、 刃に伏し以て意を致すと為し、偽作の諌書一篇の漢文世に行はれ、衆人其の死を憫(あはれ)み、墓に賽する者陸続として香花常に堆(うづたか)きに至れり、 今日の情を以て見るも、外人に贈るに我が妾を以てするの理あらんや、仮令(たとひ)我之を贈るも彼豈(あ)に之を快受せんや、況(いはん)や織部は予が同 学の人、其技倆に於るも能く知悉(ちしつ)する所なるが、決して今伝ふる諌書の如き漢文を作る能はざりき、別に伝ふる所に拠れば此時偶々夜に乗じて魯国士 官を市中に暗殺する者あり、織部が臣窃(ひそ)かに其党に与(くみ)したるを以て後に偵知し、織部大に驚き自ら其罪の免かる可からざるを懼(おそ)れて以 て此に及ぶなりと、此説或は是ならん、(織部曽て箱舘奉行たり、任所に在るの日、偶々仏船の港に入るありしが、久航中病者の多きを以て時刻を限り上陸して 情を慰するを請ふ切なりしかば、是時猶ほ之を許さゞるの規なりと雖(いへど)も、特に其情を憐み之を聴(ゆる)せしに、何ぞ料らん水夫火卒等縦(ほしい) まゝに瓶酒を携(たづさ)へて、樹陰石角に倚り沈酔僚倒、或は高歌漫歩せしより、織部其初請に殊なるを見て、一は怒り一は憂ひたり、蓋し其怒る者は外人の 我が約束に従はざるを怒り、憂ふる者は幕廷の聞て譴あらんを憂ひてなり、此夜室を闔ぢ自刃せんと為せしが、僚属早く其色常ならざるを察し、解謝勧諭百方力 を尽して漸く止るを得たりし事あり、平常広量の様なれども、事に臨み意外に小心けい果(難漢字は、軽ノ扁ガ、石)の人なりしを知る可し)、」

 此より後に進む所の幕臣は、皆庸碌の人にして更に称す可きを見ず、一の小栗上野(かうづけ)ありて、大に理財の一分丈けは得たりと雖も、積贏(せきえ い)の余復(ま)た如何(いかん)ともする能はず、唯百方日に増すの費用を窮乏中に斡旋し、智力を竭尽(けつじん)して幕世を終る際迄を供給せし事に止れ り、去れども其施為の巧妙は他人必らず及ぶ能はざりし、
 慎廟の世、老中水野越前守が造る所の金銀の大分銅は、予其量数を詳(つまびらか)にせざれども、多分五七百万円余に抵(いた)る可(べ)かりし、彫する 所の文は軍国需用の四字なり、(時の勘定奉行岡本近江が定め且つ書する所なり、初め大学頭(だいがくのかみ)林くわう(=光ヘンに皇)に命ありしが其撰字 の雅にして俗に遠きを以て改めて近江に命ありしなり)後ち本城再災後の建築に方(あた)り、井伊大老彼の分銅を以て其費に充(あて)んとし、其然否を時の 勘定奉行竹内下野に謀りしに、下野拒む能はず、其旨に応じて之を許し出せしかば、於此(ここにおいて)国帑(こくど)全く底を払へり、
 幕廷既に憚る可きの人と、憚る可きの実無ければ、四方の侮り競ひ起り、鎖港攘夷の説益(ますます)盛(さかん)にして、倍撃するに朝旨に忤(もと)り膺 懲(ようちよう)の典を正す能はざるを以てし、儒者は経典に拠り異端の害を説き医者は素霊に泥(なづ)んで施治の乖謬を論じ、其他神道者、和学者、僧仏 者、武夫剣客、皆各(おのおの)国の為めにするを知らず、只己の為にする而已(のみ)の一偏の見(けん)を執り、きう(=口ヘンニ、休)して止まざれば、 是非渾乱殆んど天下を挙て弁別する能はざらしめたり、此に於て幕臣中往々其説に傾き、隠に草莽(さうまう)に結(むすび)て紳士を脅制し、以て己の説を売 て進陞(しんしよう)を希図(きと)する者あり、或は其職に居り其禄を食(は)みながら鉗黙容を取り、物外に超へて烈子の風に御(ぎよ)するが如く、冷然 として善き者も亦多かりし、
 幕廷の知力両(ふたつ)ながら此に至て極まり、遂にふ馬(=馬ヘンニ、付)将軍をして楚の懐王秦に入りて還らず、客土に憂死するの想を為さしむるに至り しは、其臣子たる者天に叫び地に哭するも及ぶ無し、豈(あ)に悲からずや、
 叡聖文武なる我が天皇陛下は時世を洞観せられ、明治元年一月十八日を以て明詔を下し、外国交際の今日に已(や)む可からざるを以て、断然決行和親通商す るを天下に告げ玉へり、是に於て曩者(さきの)攘鎖の局面全く一変し、天下智愚賢不肖と無く、雲霧を一洗しぎよう然(再現不能)として始て聖旨の有る所を 知り、旧幕府の因循姑息を以て罪斥せられし者渙然氷釈し復た痕を留めず、然して岩瀬君の志始めて墓木既に拱するの今日に至りて伸ぶ、蓋し君之を嘉永の昔に 首唱し、幕府終始之を遵守し、ふ馬将軍坂城に在り、曽て辞職を乞ふの日之を疏奏すと雖も、皆時未だ至らず、人天共に和せざるを以て行はれず、前後幾多の志 士を屈抑冤枉(くつよくゑんわう)以て死せしむるを致せしが、遂に数年を経て其志を達せしは、真に全国の洪福なりし、予時に仏都巴里に在り、此信を得て大 に喜び、為めにいく酒(=草冠ニ、奧)数硝(ゆすうせう)を倒す、然る所以(ゆゑん)は其十数年来幕府因襲の大功なるを、海の内外に誇揚明言するを得たる を以て、復た一身一家の存亡を問ふに暇(いとま)あらざりし、
 夫れ鎖攘の断々乎行はる可からざるは智者を俟(ま)たず当時皆之を知る、況(いはん)や時を濟(にな)ふに足る堂々たる英雄、中興王佐の才にして豈に之 を悉(つく)さゞらん、然るに猶ほ忍んで之を為し、必らず明治元年一月十八日を待つ者他無し、要するに姑(しば)らく藉(か)りて以て幕府を倒すの具と為 せしに過ざるのみ、」

 予曽(かつ)て天下の人に反するの論を為して云(いは)く、幕府の失政中其尤も大なる者は晩(おそ)く鎖攘せざるに在らずして、早く鎖攘するの甚しきに 在り、夫れ唯鎖攘する早く且つ甚し、故に其書を禁じて読ましめず、其人を遠ざけて近(ちかづ)けず、独り此法を以て是とするのみならず、併せて国内の人材 を鎖攘し、前に高橋作左衛門、土生玄碩(はぶげんせき)を鎖攘し、後に渡邊崋山、高野長英を鎖攘し、以て計を得たりとし、特に従政者のみならず、全国を導 て固陋蒙昧(ころうもうまい)に陥れ苟(いやしく)も生を人間(じんかん)に得る者、海外各国の事を云ふを恥ぢ且つ恐るに至らしむ、況(いはん)や不幸に して二百余年間事無かりしかば、人々之に安んじ恬(てん)として恠(あやし)まざりしが、一旦事不意に出るに及び、復た掩覆収拾(えんぷくしうしふ)す可 らざれは、予(あらかじ)め之が地を為すに及ばず、俄に已むを得ざるの三字を以て、無量の前過を包蔵して、更新の後図を粉飾せんと欲する、宜(むべ)なる 哉神人共に怒り、其誣罔(ふまう)を容れざりしを、是れ幕府自作のせつ(薛ノシタニ子)にして、君が才識君が雅量ありしと雖も、一趺(いつぷ)起きず憂愁 抑鬱を以て其身を終る所以(ゆゑん)なり、然(しか)れども是君の罪に非ず、特に不幸にして其際会然るなり、