招待席

くにきだ どっぽ 小説家・詩人 1871.7.15(新暦8.30) - 1908.6.23 現千葉県銚子に生まれる。 我が国自然主義文学に先駆け、且つ理想をはらみ抒情性に富んだ短編作家として知られた。没年彼が療養費支弁の目的で友情出版された、長谷川二葉亭、島崎藤 村、徳田秋声、正宗白鳥ら『二十八人集』の連名が当時獨歩の重みを証言して余りある。 掲載作は、明治三十六年(1903)「新著文藝」十月に初出、勝本 清一郎、平野謙ら具眼の批評家により、独歩随一畏怖に値する人間認識の秀作と評価されている。 (秦 恒平)





     正直者     国 木田 獨歩



 見たところ成程私(わたくし)は正直な人物らしく思はれるでせう。たゞ正直なばかりでなく、人並変(ちが)つた偏物(へんぶつ)らしくも見えるでせう。
 けれども私は決して正直な者ではないのです。なまじ正直者と他(ひと)から思はれたばかりに容易ならぬ罪を今日まで成し遂げて生涯の半(なかば)を送つ て来たのであります。
 鏡に対(むか)へば私にも直ぐ私自身の容貌が能く解ります。私の顔には角(かど)といふものがありません。冴えた色がありません。眉毛が濃く、頬髯が多 く、鼻が丸く、脣が厚く、そして何処かに間(ま)の脱(ぬ)けたところがあります。笑へば眥(まなじり)に深い皺が寄るのです。それが――浅ましいことに は――言ひ知れぬ愛嬌になつて居ます。それに私は随分大きな方ですから、何時も着物は裄(ゆき)の足(たら)ないのを着て太い手が武骨に出て居るので一見 素朴らしくも見られるのであります。身体(からだ)の小(ちさ)い人はチヨコマカと才はじけて、身体に重みのないばかりか心の重味までが無いやうに他(ひ と)から推(とら)れるものですが、身体の太い男は、馬鹿でも悪党でも横着者でも先づ他(ひと)から重く思はれるのが普通で、私も其例には洩(もれ)なか つたのであります。
 口数多ければ未(ま)だしも、私は口無調法でした、けれども滔々と饒舌(しやべ)れないかといふに左様(さう)でもないのです。時に由つては随分人並の 弁舌は振ふのであります。唯々(たゞ)、(これが天稟<うまれつき>でせう、)大概の場合は他人(ひと)の言ふことのみ聞いて、例の眥(まな じり)の皺を見せるばかり、それで居て他人の言ふことは何もかも能く解り、推測もする、邪推もする、裏表も知つて居るのであります。
 私のやうな男は世間に随分見受(みうけ)ますが、皆な其身の置かれた境遇、例へば昔でいふ士農工商の境遇に居て、それぞれ面白い芝居を打つて居ます。 たゞ此種の人は、(私も其一人、)滅多に其境遇から外には飛び出し得ないものであります。其(その)飛び出し得ないところに彼(か)の重味も着いて、其打 つ芝居が愈々巧(うま)く当るのであります。
 ところで私の境遇の低いのと、それから私には或特別の天性(うまれつき)があるのとで、私の演じて来た芝居が誠に浅間しい、醜いものとなつたのでありま す。或特別の天性といふのは、今こゝで言はないでも、後で段々に解つて来るでせう。
 しかし誤解をふせぐ為めに一言します、私は決して世の中のこと悉く芝居と同じだといふ説を持つて居るのではありません。たゞ前に説きました如き、私共の やうな性質を持て居る連中は、何処かに冷いところがあつて、身に迫つて来た事柄をも、静かに傍観することが出来るのです、それですから極く真面目(まじ め)な、誠実な顔をしながら、而も克(よ)く巧(たく)んで物事を処置することが出来ます。既に巧んで処置するといへば、其処に芝居らしい趣があるではあ りませんか。
 さて、これから私の身の上噺(ばなし)を一ツ二ツお話いたします。
 私の父は古い英学者で永年中学校の教師を務めて居ましたが、同窓の友ともいふべき人々は皆其の学び得し新知識を利用して社会枢要の地位を占めましたけれ ど、私の父のみは最初語学の教師となつたぎり、終(つい)に其職以外に何事をも為し得ず、私の十二の春まで一教師として此世を送り、変則英語の専売者にな つて生涯を終(をへ)ました。
 父の死と共に私は全くの孤児(みなしご)となりました、といふものは母の顔を私は少(すこし)も知りません。父は私の母の亡くなつて後は、始終妾同様な ものを置いたばかりで、それも七人八人ではなく、私の記憶に存(のこ)つて居るばかりでも四人ばかりあり、終に真(まこと)の家庭らしいものは作らなかつ たのです。
 何故父は、さる不倫なことをして居たかといふ理由は知りません、けれども父の子なる私の性質から推測しますると、父は唯だ肉慾の満足を得るばかりに女を 置くことを知つて、家庭などのことには全然(まるで)心を動かさなかつたのだらうと思はれます。
 私の知つて居る三四人の妾に就いても父は情愛を以てこれを遇した様子は少しもありませんでした。私は少しばかり酒を呑みますが父は決して酒杯(さかづ き)を手にしたことなく、又私よりも更に無口で、家に居てもたゞ茫然(ぼんやり)と火鉢に対(むか)つて煙草を吹(ふか)して居るか、それでなくば机に向 つて英書を繙(ひもと)いて居るかで家中は常に寂莫(ひつそり)として居ました。
 それですから女中兼帯の妾が来ても初(はじめ)の中(うち)は父や私を対手(あひて)に饒舌(しやべ)りますが、一月二月(ひとつきふたつき)と経つ中 に何時(いつ)しかこれも無言の業に堪へ得るやうになつて了ふのです。
 冷寒(つめた)い空気と暗欝な影とが常に立罩(たちこ)めて居る中に、私も亦た父と同じやうな性質で、別に悲しいとも辛苦(つら)いとも思はず生育(お ひた)ちました。それですから私は父の在る前から既に孤児(みなしご)同然であつたのであります。
 兄もなく弟もなく、頼りにすべき親戚もなく、十二歳の少年は父の死と共に父の友なる某中学校の国語の教師の家に引取られました。教師の姓は加藤。其加藤 の言葉に依れば私を引取つたのは父が生前の依頼であつたさうです。
 加藤が私を親切にして呉れたか如何(どう)だかといふことは別に言ふほどのこともありません。普通の学僕同様なことを仕ながら英語の夜学校に通ひ、国語 の方は直接に加藤から少しづゝ学んで居ましたが、孤独には慣れて居ますから私の心持では加藤の待遇に就て格別の感じを持ちませんでした。
 「お前の父上(おとつさん)は至極好人物であつたが、惜いことに活動といふものを仕ないで退居(ひつこん)でばかり居なすツたから、折角の利器を懐(い だ)きながら老朽ちて了はれた。お前は一ツウンと世の中に飛び出して大(おほい)に活動しなければ可(い)かん、学問が如何(いくら)あつても活動といふ ことが無ければ今の世は用ゐられんのじや」加藤は其細い眼を光らして自分に向ひ此言葉を聞かしたことは幾度であるか知れません。
 なるほど左様(さう)だ、加藤の叔父(をぢ)さんの言はれる通りだと私も思はぬではないが、天稟(うまれつき)は争はれぬもので、重苦しい性質は言葉の 弾力や、理想の槓杆(はかり)では容易に動きませんでした。所謂(いはゆる)、なるがまゝに移つてゆく其境遇に処して唯だ其日々々じつくりと暮す、それが 私の運命であつたのです。
 十九の秋、加藤は病(や)んで床に就き、二十日(はつか)ばかりで遂に此世を去りました、六十七歳ですから先づ以て長命の方でせう。死ぬ少し前に私を枕 許(まくらもと)に喚(よ)んで、斯(か)ういひました。――
 「お前の父上(おとつさん)から私の受取つた金は四百円足ずであつた、家財や書籍(しよじやく)を売つて二百円ばかり、都合六百円に三十円不足する金を 私がお前と一しよに預かつたのじや、父上の頼(たのみ)は此金を食料に、金の続く間お前を世話して呉れとのことであつた、それでお前の十二の時から今年ま でザツと八年の間で、預つた金は大概無くなつて了つたが未だ百円ばかり残つて居る勘定になる、それを今お前に此処(こゝ)でお返しするから、お前は私の死 (しん)だ後(あと)、この金を持て独立して見るが可(よ)からうと私は思ふのじや。」
 加藤の言ふことは私に能く飲みこめました。要之(つまり)、加藤の死んだ後、私は百円の金を持つて、加藤の家を出てゆき、如何(どう)にもして独立(ひ とりだち)で世の中を渡つて行くことになつたのであります。それでも加藤が私に百円の金を渡すといふのが今から思ふと不思議で、実(じつ)いふとあの時、 加藤から一文なしで直ぐ立退きを命ぜられても私は文句なしに其言葉に従ひ、文句のないばかりか、当然のことゝ考へて立退いたのであらうと思はれます。です から百円受取つた時は、真実私はうれしう思ひました。加藤の死(しん)でから一週間経(た)つて、私は住みなれた家を、別に大して悲しいとも思はず、出て ゆきました。
 落着く先は麹町区某(なにがし)小学校の直ぐ近所にある下宿屋の一室(ひとま)です。私は加藤生前の世話で小学校の英語の教師になりましたので、月給は 十円、下宿料が七円ですから差当り食ふには困りませんでした。
 其頃の私は今よりも丸顔の、可愛い顔つきをして居ました上に、言葉の少ない、それで愛嬌もある少年でしたから、校長初め同僚からも可愛がられ、下宿屋の おかみさんからも「沢村さん沢村さん」とちやほやされました。大概のものは斯うなると一寸得意になるものです。まして年からいふと生意気盛(ざかり)です から、つい言はないでも可(い)い悪(にく)まれ口をたゝいたり、怒らんでも可いことに顔を赤くして声を高めて見たり、かりそめにも先生を鼻の先にぶら下 (さげ)て居るものですが、私に限つてそれがありません。何時(いつ)も同(おなじ)やうな顔をして下宿を出て同じやうな風で帰つて来る、袴を脱ぐと直ぐ 畳んで納(しま)ふ、見たところ実体(じつてい)な感心な青年(わかもの)であつたに違ひありません。
 下宿屋のかみさんといふのは其ころ四十四五でしたらう、年頃の娘と十四になる男の子と三人暮(ぐらし)の後家(ごけ)の内職で、間数(まかず)は僅に四 個(よつつ)、それも立派な部屋は一間(ひとま)もないのです。娘はおかみさんに似て細面(ほそおもて)の、色の蒼白い、病身らしい子でしたが、眼は黒眼 勝のはつきりとしたので、先づ此子の特長(とりえ)とでもいひませうか、其眼で熟(ぢつ)と人の顔を見て、暫くして微かにほゝゑむのが此娘(このこ)の癖 でした。名はおしんですから、私どもはしんちやんと呼んで居たのです。
 おかみさんは軽薄な御世辞も言ひませんが、下宿人の誰にも親切であつたやうです。分(わけ)ても私を可愛がつてくれて二月三月(ふたつきみつき)居る中 (うち)には親子かと思はれるまでにしてくれました。けれど私は情ないことに、親子の情といふものを知らない人間ですから、うれしいとは思ひましたが、た いして感動もしなかつたのです。
 人の心ほど奇態なものはありません。それほどの親切に対して私が感動もせず、初めて下宿に来た時と少しも変らぬ態度を保つて居ましたので、おかみさんの 心は益々動き、愈々(いよいよ)私に感心して、私をば又とない正直な、温順な謙遜な青年(わかもの)だと全然(すつかり)信仰して了つたのです。
 娘のおしんも同じことで、母のやうに口にこそ余り出して言ひませんが、私を信仰する熱度は母と少(すこし)も変らぬことが其挙動(そぶり)で私には能く 解つて居ました。
 今から思ひますと、真実(ほんとう)に正直な、温順な、謙遜な人といふは無論、此私ではなく、此娘でありました。私はおしんをば完全無欠の人間とは思ひ ませんが、少くとも女として彼(あ)の位なのは余り類がないと今では信じて居るのであります。ひとつは健康のすぐれないためでもありませうが、おしんの起 居(たちゐ)振舞から言葉から、こゝろばせまでが如何(いか)にも穏かで、おつとりとした中に情深いやうなところがありました。
 年は二つ違(ちがひ)で、先づ同年輩ですが、私は年よりもふけて見える方、おしんは小供らしいところがあつて、二ツも若く思はれるはうでしたから、おし んの私に対する心持は母と同(おなじ)ながら、其うちに何処(どこ)かあまえるやうな風(ふう)もあつたのであります。
 私が一人部屋にすつこんで居ると能く遊びに参りまして色々な話をして事によると夜を更(ふか)すこともありましたが、そんなこんなの例を申せば或晩のこ とです、
 「あなたの親父(とうさま)はどんな方で厶(ござ)いました、」とおしんが訊きましたから、
 「どんな人ツて別に言ひやうもないが、大変煙草が好きでした。」
 「きつと好(い)い方でしたらうねえ。」
 「何故(どう)して?」
 「だつて貴様(あなた)の親父(とうさま)ですもの。」
 又或時のことです、おしんは私が謝絶(ことわ)るのを無理に私の衣服(きもの)を畳(たゝみ)ながら、
 「貴様(あなた)は他(ひと)から話しかけないと、めつたにお口をきゝませんねえ。」
 「さうですか、自分ではそんな積りもないのだが。」
 「でも母もさう申して居ますよ。」
 「さうですか、それではこれから気をつけませう。」
 「あら、別段悪いと申したのでは厶(ござ)いませんわ。」
 「イヽエ、そんなことは善くないことです。私の父など始終黙つて居て、碌に私にも口をきかないで死んで了ひました。」
 「でも必定(きつと)お心優い方でしたらうよ。なんでも宅(うち)の父上(とうさま)のやうであつたらうツて、母が申して居ました。」
 「あなたの父上はどんな方です。」
 「口数はきゝませんが、何時でもにこにこして居て母でも私でもめつたに叱るなんぞいふことは厶いませんでした。」
 「私の父はにこにこしたことは厶いません。」
 「まア、それでは可恐(こは)い方でしたの。」
 「別に可恐くもありません、たゞ黙つて居るばかりで小言も言ひませんから。」
 「母上(おつか)さんは如何(どう)でした――さうさう貴様(あなた)は母上さんは御存じないのですねえ、」と言つておしんは暫らく黙つて居ましたが、 何と考へたか、
 「貴様(あなた)宅(うち)の母を如何(どう)思つて居(ゐら)つしやいます?」と訊きました。
 「優しい方と思つて居ます、真実(ほんと)の母のやうに思ひます。」
 「あら、うれしいこと、母が聴いたら如何(どん)なによろこびませう。」
 先づ斯ういふ風でしたが、おしんは矢張年頃の娘です、母と同じ親切な心ばかりではすみません、月日の経(た)つと共に、親切以上の心で私に近づくのが私 にも解るやうになりました。母親も心づいて居たには違(ちがひ)ないのですが、如何(どう)いふものか、それを少(すこし)も気にしないばかりか、娘と一 しよになつて益々私を可愛がつてくれました。さてそれなら私はおしんを如何(どう)思ひましたかと言ふと、おしんの情の十分の一も私にはありませんでし た、そんなら私はおしんを冷(ひやゝ)かに扱つたかと言ふとさうではありません、おしんの思ふまゝ思はせ、するがままにさせて置きました。
 そして其の結果は如何(どう)でせう! 忘れもしません二月十五日の夜(よ)のことです。夜の十二時過ぎでした。下宿人は勿論、母も男の子も皆な寝て了 つて家(いへ)の内はシンとして居ましたが、外(そと)はドンドン雪が降りそれに風が出て雨戸(あまど)をうつ雪の音サラサラと折(を)り節(ふ)し聞え て居ました。おしんは九時ごろから私の部屋に来てゐたのですが、十二時打つて何分か経ちまして部屋を出てゆく時、
 「よう厶(ござ)いますか、必定(きつと)二三日中に母上(おつかさん)に言つて頂戴よ、母上は二つ返事で承知しますから、ね、必定(きつと)言つて頂 戴よ、」と繰返して言ひました。その時のおしんの顔は今でも忘れません。
 この晩から私とおしんは母親の眼をも忍ぶ仲となりまして、おしんは望(のぞみ)を達したといふ満足の様子の外(ほか)に、深い決心と、かすかながらも言 ひ知れぬ恐怖とで、小供のやうに笑ふ時があるかと思へば蒼い顔をして吐息(といき)をついて居る時もあり、そして私の様子は以前と少しも変らんのでありま す。たゞ竊(ひそ)かに願つて居た慾望、おしんの身体(からだ)に近づく毎に愈々つのる慾望、後には機会(をり)があつたらとまで熱中して居た慾望が達せ られたので大きに満足しましたが、心の平穏なることは以前の通りで自然変つた様子が顔にも挙動にも現はれなかつたのであります。
 おしんは身も魂も私にゆだねて了ひました。私を愛し私を信じて少しも疑がはないのです。それですから、早く母親に打明けて結婚を申込んでくれろと言ひま しても、私がまあまあ私にまかして置けと申せば、それで安んじて居たのです。
 私が前に、自分に特別の天性(うまれつき)があると申したのは肉慾のことです。私のやうな物に偏(かたよ)らず、冷やかに、其傍を素通りしてゆくことの 出来る男が、男女の慾となると前後を顧(かへりみ)ることが出来ませんでした。それですからおしんの操(みさを)を一度破りました以後は、おしんの好む好 まぬに関はらず、母親の目も同宿の者の眼もくらまし得るかぎり、此慾を満しました。それをおしんは私の愛情の猛烈なためだと解して居たのです。
 それで私は結婚の積(つもり)がないかといふに、さうでもないのです。いつそ結婚して了はうかと思つたことも有りましたが、どうもそれをおかみさんに打 出していふ決心は起りませんでした。言へばおかみさんは大よろこびで承知することも知つては居ましたけれども、ぐづぐづ二月ばかり経ちました。
 ところが四月の末のことです、其日は日曜で私は同僚の一人から是非遊びに来いと招かれまして宿に帰つたのは夜の八時ごろでした、部屋に入るとおしんが其 処に坐つて居ましたが私の顔を見るや直ぐ突伏(つゝぷ)して了つたので、流石(さすが)の私も胸がドキリとしました、急いで傍に坐(す)わり、
 「如何(どう)したの、え、如何したの。」
 見ればおしんは泣いて居るのです。「え、如何したといふに、しんちやんやコラしんちやん?」
 「だつてね、母上(おつかさん)が余(あんま)りなことを言ふのですもの、」といひながら挙げた顔を見ますと、なるほど涙は出て居るけれど泣いて居るの か、笑つて居るのか判らないのです。これで私も少しは胸が落着きましたから
 「何て言つたの母上さんが。」
 「何とつて別に判然(はつきり)したことは言ひませんけれど、何だか二人のことを母上(おつかさん)は感付(づい)て居るらしいことよ。」
 「それで何とか言つて。」
 「お前どうする気かとだしぬけに聞きますから、どうするツて何を、と言ひましたら、母上(おつかさん)にだけは明亮(はつきり)言つておくれお前は沢村 さんと約束でも仕たのではないかと言ひますから、私はたゞ黙つて居たのよ。さうすると母上(おつか)さんが、女といふものは操が大事だとか何とか色々なこ とを言ふんですよ、私悲しくなつて泣きだしたの。さうするとね、母上さんが、若しお前が沢村さんの妻になる気なら私は決して否(いなや)は言はない、沢村 さんなら私も気に入つて居るのだからお前の決心さへちやんと打明けて呉れゝば私から今夜にでも沢村さんと相談するが如何(どう)かと申しますのよ。私もそ んならさうして頂戴と言はうかと思つたけれど、若(も)しね、だしぬけに母上さんが貴様(あなた)にそんなことを言ひだしたら、貴様に考へがあつて、其 (それ)とぶつかるといけないと思ひましたから、何と言つて可いか分らなくなつたから黙つて居ました、さうすると母上さんが黙つて了ひましたから、私尚ほ 悲(かなし)くなつて泣いて居ましたのよ。けれどもね、何とか言はないと悪いと思ひましたから、それじやア母上さん何卒(どうか)貴女から沢村さんに聞い て見て下さいと頼みましたの。けれども其前に私から一寸沢村さんに言うて見ますから其後(そのあと)にして下さいと言ひましたのよ。それじやアまアお前の 可いやうになさいと母上さんは何だか機嫌が悪いのよ。だから私も直(す)ぐお部屋へ来て先刻(さつき)から待て居ましたの。」
 斯う言はれて私はすつかり当惑して了つたのです。これが当前(あたりまへ)の方なら「ウンよろしい、それなら私から直ぐ母上さんに相談しよう」と決心す るところですけれど、私には其決心が出ないのです。私の性質として、かういふ場合に直ぐ熱することが出来ないのです。
 「それは困った、」と口を衝(つ)いて出るかといふに、さうでもないのです。
 「それでは母上さんが今に何とか相談に来るでせう。其時よく相談すれば可い、」と静かに言つて火鉢にもたれて涙の痕をハンケチで拭(ふ)いて居るおしん の背を撫でました。すると例の慾情が燃えあがりましたから我知らずおしんに摩寄(すりよ)りました、何と浅間しい人間ではありませんか。
 其トタンにすツと障子(しやうじ)を開けて入つて来たのが母上さんです(其頃私はおかみさんと呼ばず母上<おつか>さんと言つて居ました。他の下宿人 <げしゆくにん>の一人二人もさう呼で居たのです)。
 おしんの来て居る時、母上さんの来ることは此二三ケ月殆ど無いことですから私は喫驚(びつくり)しておしんの傍(そば)を飛退(とびの)きました。おし んは起(た)つて外に出てゆきました。其あとに母上さんは坐りましたから、私も其向に坐わり、二人の仲には小さな長火鉢があるのです。
 「私少し御相談があるのですが、」と先方は直ぐ切りだしました、そして力(つと)めて話を真面目(まじめ)にしやうとする様子ですが、やはり言ひ悪(に く)いと見えて笑(ゑみ)を含んで居るのです。
 「はア、」と言つたぎり私は何とも言葉がでません。
 「大概お察しでも厶(ござ)いませうが。それで貴様(あなた)のお心持は如何(どう)でせうか、それを一応承(うけ)たまはりませんとね、私も心配でな りませんから。」
 「イヽえ、最早(もう)僕には如何(どう)といふ意見もないのですから、母上(おつか)さんのお心持一つで……」
 「それでは私にも別に否応(いやおう)はないので厶います、あんなものでも貴様(あなた)が生涯連れ添(そつ)て下さるといふことなら私も貴様の御人物 は承知して何時(いつ)も感心して居ますのですから何よりだと喜びます。」
 「なに僕のやうな男が……」
 「それでは急に話を決めませうでは厶いませんか、それでないと、それでないと、まア貴様に限つて万々そんなことはありませんけれども、若いもの同志のこ とですから世間では又た何と申すか分りませんし、さうすると貴様の学校の方も何ですから……」
 「さうですさうです、だから僕も何です、その一応その校長に丈は打明けて相談して置かうと思ひますから」
 「それは可いお考です、校長さんにお話になりまして、校長さんが表面(おもてむき)仲に立つてくだされば何よりで厶います、」とこれで相談は決定(きま つ)たのです。
 母は事の成行きを少しも疑ひませんので、校長に相談すれば万事好結果と呑みこんで了つたのです。私が校長に相談すると言つたのは一方の血路を開いて置い たのです。私のやうな正直者は何時(いつ)も波に流されながら波に乗つて居るのです。
 母上さんが自分の居間(私は一室<ま>しかない二階に居ました)に帰つてゆくや私はごろり寝ころんで二十分ばかり茫然(ぼんやり)して居ましたが、其間 何も考がないので、たゞぼんやりと天井を眺めてまじまじと眼瞼(まぶた)を動かして居たばかりです。けれども今一度おしんが来るだらうと待て居たのです。 来さうもないから床(とこ)をのべて寝てしまひました。
 翌朝おしんが来て部室(へや)を片附けて呉れましたが、すつかり妻といふ挙動(ものごし)です。眼だけで物を言つて口数は多く利きません、袴の皺などを 直してくれて、私の出てゆく時、ちひさな声で、
 「それでは今日校長さんに相談して下さいな、」と言ひました、其声、其調子、少しも疑はないのです。相談といふのはたゞ一通り話して置く丈けのことゝ初 (はじめ)から決めて居るのでした。
 授業が終(す)むと私は校長に少し相談があるからと、一室に連れ込んで、結婚の一条を話しました。けれど勿論私とおしんの関係は言ひません、たゞ手短 (てみじか)に下宿屋の女主人から娘を貰つて呉れろと言はれて居るが如何したものだらうと持込んだだけです。これが他のものなら直ぐ校長に娘との関係を疑 はれるのですが、私は信用されて居るから校長も平気なもので、
 「君は結婚する気かね」と聞きました、先づ。
 「私は如何(どう)でも可(い)いと思ふのです、だから貴下(あなた)の御意見を伺(うか)がひますので、」と私も平気な顔でいひました。
 「まア不賛成だねえ、早いよ、せめて二十五六になればだが君は丁年にすら足りないのだからねえ、尤も君は二十五六の者でも及ばぬ確固(しつかり)したと ころのある人だけれど、矢張り年は年だからねえ。」
 「兎も角校長に相談してと先方(むかう)には申して置きましたのですから……」
 「宜しい、それじやア私から謝絶(ことわ)つて上(あげ)ませう、」と校長の言葉は頗る手軽いのです。
 「けれど随分先方では熱心なのですから唯だ謝絶るわけにも参らんやうですが。」
 「おかみさんが全然(すつかり)君にほれこんで居ると聞いたが愈々事が持上がつたね。まア待ち給へ妙案(めうあん)があるだらう、」と校長は笑味(ゑ み)を含んで考がへて居ましたが、
 「妙案があるある、君今日帰つて斯ういひ給へ、校長に相談したら可(よか)らうと賛成したが、然し校長の言ふには下宿屋に居て下宿の娘と結婚するのは不 味(まづ)い、それよりか其処を出て校長の宅(うち)に当分厄介になる、そして一月(ひとつき)も経つたところで校長からお前さんのところの娘を沢村にく れんかと斯(か)う相談を持ちこむ、さうすれば、人目もよし、勿論儀式にも適(かな)ふし、さうし給へと親切に言つてくれたから其議に従はうと思ふ、斯う 言ひ給へ。それならおかみさんも最もだと思ふに違ひない。其処で君は直ぐ私の宅に移転(ひつこ)し給へ。狭いけれど玄関の三畳に弟(おとゝ)が居る、当分 あれと同居するサ。それで君は今後下宿屋に立寄らんやうにする、一月も経つたところで私から理窟をつけて破談を申込めば先方だつて文句はなしそれなりで君 の身の方(かた)がつくといふものだ、これだこれだ、此妙案しか外にあるまい。」
 私は其意を奉じて下宿屋に帰りました。そして校長の妙案を持出しますと、母上(おつか)さんは大よろこびです、おしんは鬱(ふさ)いで居ましたが別に否 とも言ふことが出来ません。其晩おしんは十二時過ぎまで私の室に居ましたが、其いじらしい風は今も私の目に残つて居ます。繰返へして、どうか一月と言はず 一時(いつとき)も早く一緒になつてくれろといひました。そして私が一月(ひとつき)の間は遊(あそび)にも来ないやうにするからと申しましたら、それで は九段の公園あたりで時々会つてくれろといひますから私もそれは承知したのであります。
 校長の宅に移つてから一月経ちました。私は一度も下宿屋には行きませんでした。けれどもおしんとは四度(たび)媾曳(あひびき)しました。最後のとき、 おしんは
 「それでは明日(あした)ですよ、きつと明日ですよ。若し明日校長さんが来て呉れないなら貴郎(あなた)でも可いから来て下さいよ、」と言つて、いそい そして私と別れました。
 おしんの望通り、其翌日校長は下宿屋を訪ねました。私は如何(どう)なることかと、ないない大心配で待つて居たのです。事によるとおしんとの関係が全然 (すつかり)ばれて了ひはせんかと、心配はそれのみでした。間もなく校長は帰宅(かへつ)て来ました。
 「案外話が早く着いた。君、あのおかみさんなかなか解(わか)つて居るなア、」と、これを聞いて私はほつと呼吸(いき)を吐(つ)きました。
 「如何(どう)でした、おかみさん何とか申しませんでしたか。」
 「何(なに)、何(なに)を言ふものか、私がこれこれで結婚はまだ早いし、それに沢村には未だ勉強がさせたいからイヤといふ気はないけれど、先づ当分見 合(みあは)せてもらひたい、縁があれば何年か先のことだが、何時のことかそれも分らぬから娘さんは良縁のあり次第何時でも嫁にやられたら可(よ)からう と言つただけサ。それでもとは言へないぢやアないか。」
 「娘が傍(そば)に居ましたか。」
 「イヤ私が入つたら直ぐ二階へ上つて了つた。」
 「おかみさん何(なん)と申しました。」
 「だから今いつたやうに私が言ふと、顔色を変へて居たが、私ももとは判事の妻です、無理にとは申しません。何卒(どう)か沢村さんに宜しく仰つて下さい だつて。判事の後家さんとは知らなかつた。君あれはなかなか確固(しつかり)ものだぜ。」
 「それから娘を御覧になりましたかお帰りに。」
 「イヽヤ見ない。二階で待て居たのサ。可愛さうに。」

 その後私も二度とおしんには遇(あ)ひません。破談後一週間経(た)つて、私は夜そつと下宿屋の前を通りましたら戸が閉(し)まつて、「かしや」の札が 闇の中に薄く張つてあるのを見ましたばかりです。
 正直者の仕事の一つがこれです。いづれ其中(そのうち)、外のもお話しいたしませう。

       (明治三十六年十月)