「e-文藝館=湖(umi)」 古典の味わい


まつお みえこ  作家・文藝批評家  平家物 語「延慶本」を研究・批評したユ ニークな著書をすでにもち、鎌倉時代初葉への関心深い、また別の面では西欧の象徴詩への視野と批評とをもった在野の文学者。古典の味わいにしっかり触れた 筆者なりの確信に満ちた好エッセイ。 (秦 恒平)




    浮かれ女と呼ばれたひと、和泉式部


           松尾 美恵子



(一) 関守ならぬ人なとがめそ

 和泉式部は自分の扇に、「うかれ女(め)のあふぎ」と書き付けられて、

    こえもせむこさずもあらん逢坂の関守ならぬ人なとがめそ
 
と歌で応じた。扇に落書きしたのは時の最高権力者、藤原道長だった。
「男女のあいだの関を越えることも超えないこともあるでしょうよ。それがどうだというのですか。夫でもないあなたにとがめられる筋合はありませんよ」とぴ しゃりと言い返した歌と読める。
精一杯、愛嬌たっぷりに解したところで、「あなたは私の関守になりたいのですか」と揶揄していると受け取れるくらいのものだ。
おそらく道長は苦笑いするしかなかっただろう。
「うかれ女」という侮りのこもったからかいに対し、恥じるでもなく、臆しもせず、「それは私の決めること、あなたの知ったことではない」と平然と言っての ける。
 和泉式部は、恋に生きた女性だとしても、男性の言いなりになるような、あるいは情に溺れるような、主体性のない女性ではなく、強い自我を持ち、自分の意 思で、自分の生き方を選び取った女性だったと思われるのである。
 この道長との応酬は、式部が最愛の人、帥の宮敦道親王を亡くしたあと、道長の娘である彰子中宮に宮仕えした時期のできごとであったと思われる。


(二)うらみがほにはみえじ

和泉式部が最初の夫、和泉守橘道貞と別れたいきさつが知られるのは、大江匡衡の妻であった赤染衛門との贈答歌を通してである。

          道貞さりてのち、帥の宮に参りぬと聞きて  赤染衛門
    うつろはでしばし信田(しのだ)の森をみよかへ(返・帰)りもぞする葛のうら風
         返し
    秋(飽き)風はすごく吹くとも葛の葉のうらみ(裏見・恨み)がほにはみえじとぞおもふ
 
赤染衛門は匡衡と夫婦仲がよく、円満な人柄であったと言われる。このやりとりを見る限り、先に心を移したのは道貞であったようだ。
「そんなにさっさと見限って家を出て行くものじゃありません。しばらく耐え忍んでいたら帰ってくるかもしれませんよ」という、当時おそらく常識的であった だろう赤染衛門の忠告に対し、和泉式部は「あの人がわたしに飽きてわたしから去ってしまったとしても、あの人に恨み顔を見せたくはないのです」と述べる。 式部にはすでに道貞の子(小式部内侍)がいたが、心変わりをした夫を恨みながらも、自分のもとに戻ってくるのを待つという生き方を選ばず、自分は自分の道 を行く決意を宣言したのである。
弾正の宮為尊親王、その亡き後は弟の帥の宮敦道親王との恋に、自分から積極的に飛び込んで行った。そうした行動のせいで、親兄弟から勘当されたり、世間の 顰蹙を買ったこともあったようだが、和泉式部はものともしなかった。


三)    もともこゝろふかゝらぬ人にて

弾正の宮を疫病で失って悲嘆にくれる式部に、同母弟の帥の宮が橘の枝を送って「いかヾみたまふ」と問いかけた。「さつきまつ花橘の香をかげばむかしの人の 袖の香ぞする」という古今集にとられ人口に膾炙した古歌を踏まえて、「さぞかし弾正の宮を偲んでいらっしゃるのでしょうね」と哀しみを労わる思いが籠めら れていた。
しかし、和泉式部から返ってきたのは、帥の宮を大胆に誘いかける歌だった。

    かをるかによそふる(比ふる・他所経る)よりはほとヽぎす きかばやおなじこゑやしたると
 
『和泉式部日記』は、このできごとをきっかけに、和泉式部が帥の宮と心を通わせ、宮の住む南院に迎えられて共に棲むにいたるまでを、二人のやりとりした歌 を中心にまとめた歌日記である。四季折々の風趣につけて歌を読み交わすうちに、二人の思いが相寄り高まっていくさまが繊細にとらえられている。
作者が和泉式部であるかどうかには異論もあるようだが、記述の大部分が女の目と思いを通して描かれていること、男の目で見た女のありさまや女の知らない男 の日常について踏み込んで書いた描写がないこと、女を「もともこゝろふかゝらぬ人にて」と評しながらも、抑制の利いた筆使いで女の心情を弁護していること などからも、この日記を和泉式部本人の作とすることに違和感はない。
帥の宮は式部の南院入りの四年後、急逝した。帥の宮を失った式部は、夫を失った妻がするように一年の喪に服した。『和泉式部日記』は喪の明ける前後から、 式部が彰子中宮のもとに出仕するまでの期間に書かれたとみるのが自然である。
最愛の帥の宮を失った式部は、全身で慟哭するかのような哀悼歌を数多く残した。和泉式部歌集のなかでも圧倒的な存在感をもつ歌群である。もし、第三者が和 泉式部の歌日記を編纂しようとしたなら、まずこの哀悼歌群を取り入れようとするのではないか。そうすれば日記は、帥の宮の死と取り残された式部の歎きを もって終わるものになっていた可能性が高い。
しかし、式部本人にとっては、帥の宮と逢い初め、行き違いや、皇位継承者の一人という帥の宮の重い身分ゆえの不自由さ、もどかしさを乗り越えて愛を育てて いったその頃がとりわけ、なつかしくしのばれたのであろう。

   今はただそよそのことと思ひ出でて忘るばかりのうきふしもなし

現存する『和泉式部日記』は、式部が南院で暮らすことを不快に思った宮の北の方(藤原済時女、姉は東宮女御)が南院を出て行く場面で終わっている。いわ ば、式部の恋の凱歌ともとれる構成だが、そのような勝利の高揚はない。式部が宮の御所に乗り込んで正妻を追い出したと冷たい目を向ける世間に対し、南院入 りにいたった愛の純粋さを描いて対抗しようとする意図があったのかもしれない。


(四)いのちあらばいかさまにせん

帥の宮を失った和泉式部は歎き哀しみ、死ぬことをすら願った。

     かゐなくてさすがにたえぬ命かな心を玉の緒にしよらねば
    
宮の死によってはかない夢のようなこの世だと知ったというのに、夢からの目覚めを望まず、この世を捨てひたすら来世を願う決心がつかない自らを責めること もあった。

   はかなしとまさしくみつる夢の世をおどろかで寝(ぬ)る我は人かは

 尼になりたいと思いながら、踏み切ることはできなかった。真剣に考えれば考えるほど踏み切れないのは、一時の思いで出家したとしても、式部にはその後に 死ぬまで続く尼としての侘しい暮らしに耐え抜く自信がなかったからである。

     いかにせんいかにかすべき世の中をそむけばかなしすめばうらめし
    
   えこそなほうき世とおもへどそむかれぬ おのが心のうしろめたさに

 「つれづれ」こそ、和泉式部にとって何よりもつらく耐え難いものだった。

   つれづれと空ぞみらるる 思ふ人あまくだりこん物ならなくに

   には(庭)のままゆるゆるおふる夏草を分けてばかりにこむ人もがな

   つれづれとながめくらせば冬の日も春のいくかにことならぬかな

 春も夏も秋も冬も待ち続ける。つれづれの人恋しさ。

     これにつけかれによそへて待つほどにたれをたれともわかれざりけり

   身のうきも人のつらきもしりぬるを こはたがたれをこふるなるらん

 ついには恋しい思いだけが虚空に満ちて、主体も客体も溶け合って、誰を恋うるのか、誰が恋うているのかすら、わからなくなってしまう。
  
   いのちあらばいかさまにせん 世をしらぬ蟲だに秋はなきにこそなけ

 秋の虫が力の限り鳴くように、いのちが全身全霊をあげて呼ばわっているのだ。このいのちの思いに忠実に生きることこそがまさしく生きることだと、和泉式 部はいつの日か思い定めたのではなかっただろうか。
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