「e-文藝館=湖(umi)」 古典論攷  招待席

やました ひろあき  昭和六年(1931)八月 兵庫県に生まれる。 軍記物語研究者、文学博士。名誉教授。 掲載作は、平成十七年(2005)三月十五日刊「愛 知淑徳大学論集 文学部・文学研究科篇 第三十号に初出。平家物語に登場の妓王(=祇王、義王)と仏御前とを、平曲から、能から、また平家物語語り本・読 み本から精微に説き明かされて、読んで面白い論攷である。筆者には平成十七年(2005)二月塙書房刊『琵琶法師の「平家物語」と能』の大著もある。掲載 稿では嬉しいことに編輯者平成十一年(1999)刊の『能の平家物語』(秦 恒平・湖(うみ)の本エッセイ22復刊)も参考文献に挙げ言及されている。平家物語対談のラジオ放送で一度お目に掛かっている。久しく「湖(うみ)の本」 をご支援頂いてきた。  (秦 恒平)





 『妓王』から『仏原』へ
      
  ー萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草ー


        山下 宏明



  一 はじめに

 「平家物語」論をめぐって、その方向が多様化しつつあり、一九四、五〇年代の叙事詩論から成立論へと展開する一方、完結したテ
クストの読みを志す物語論へと二極分化し、その両方を止揚する方向として文化論(1)への歩みを見せ始めている。
 こうした状況の中で、この数年、物語論を手がけて来たわたくしとして、ともすれば軽視されがちな語り本系本文をめぐって、その
琵琶法師の語りの正本化を図ったテクストとしてとらえ、その平家琵琶としての曲節と、語りの単位としての「句」の構造分析をあわ
せ考えて来た。その過程で能の世界に目を配ることになったのであった。事実、能を支える謡曲と平家琵琶は、ともに仏教音楽とし
ての声明や講式を母胎としている。そのために曲節名など、その用語に共通するものがある。能が素材、「本説」として『平家物語』を
とりあげる。その世界は、より豊饒で、これを「平家の物語」として考えるには疑問もある(2)読み本ではなく、構造的に は、簡潔化された語り系の本文に通底する。出典としては読み本や、土地の伝承があるにしても、その成り立ちは語り系である。
 中世のいくさをとりあげながら、読み本が武将の勲功談、その記録としての色を濃くするのに対し、琵琶法師は、動乱に亡んでいった人々に即した、いくさ物 語を語った。それを「鎮魂」の一語でかたづけてしまうのには抵抗があるのだが、その死者への対応は、能
の中でも修羅能の世界と共通するものであった。かくて琵琶法師の語りを修羅能、もしくは修羅を描く能の側から検討するという試み
を行って来た。(3)その作業過程で『平家物語』論から落ちてゆくのが鬘物としての女性の物語である。
 いくさ物語と女性については、たとえば、九州の盲僧琵琶が『和仁合戦』で、俄に敗れた和仁城主の室と姫が淵に身を投げ、水神に
なったことを語る。その武将の妻室をとりあげ、夫に殉じて死んでゆく、しかも、これが後に水神をまつる巫女として再生してゆくことがあった。
(5)『平家物語』の場合でも、通盛と、その北の方、小宰相の話などが、その典型と して見られる。それは『太平記』における塩冶判官とその女房や、新田義貞と勾当内侍、さらには後醍醐天皇の一の宮尊良親王と、その女房を描いて、後に幸若 時の『新曲』へ
と展開する両人を加えることもできる、女のいくさ物語の世界である。
 一方でこれらとはつながらない女性として横笛があり、小督があり、そして妓王らがある。
 琵琶法師の語りとしては、口誦の文字化という重要な課題がつきまとうのだが、それは別に考えることとして、文字化した語りの正本として、曲節・墨譜を記 す波多野流の『秦音曲鈔』を素材としてとりあげ、読みやすくするために適宜表記を改める。



  二 清盛と白拍子

 平家一門が栄花をきわめ、
 〔初重〕帝闕も仙洞も是には過ぎじとぞ見えし。
と「我身栄花」を語りおえるところで、改めて
 〔口説〕入道相国は、かやうに天下を掌の中に握り給上は、世の誹を も憚らず、人の嘲りをも顧みず、不思議の事をのみし給へり。
と「妓王」を語り始める。「かやうに」とは勿論「我身栄花」で語った平家一門の栄花を指す。物語としての前後のつながりを見せるわけである。単なる単編の □誦の物語ではない。その「妓王」は、大きく三部に分かれる。
 (序)の段。妓王母子の盛衰。
   たとへば、其の頃、京中に聞えたる白拍子の上手、妓王・妓女とておととひ有り。
と物語に入る。清盛の横暴を語る一環として、これを清盛に翻弄される白拍子の側に焦点化して語る。開曲にふさわしく〔口説〕で、まず清盛の寵愛ゆえに「家 内富貴」する妓王母子を語り出したところで
  抑我朝に白拍子の始まりける事は……
と白拍子の起源を語る。この種の語りを平家琵琶は、内容の性格から、日常の次元を越える言説を語るにふさわしい〔中音〕で語り始めて、〔初重〕でその段落 をしめる。この曲節の組み合わせが、各終曲部に見られる定型であり、以上が物語としては(序)の第一小段である。
 第二小段は、〔白声〕で京中の妓王母子の賛嘆を語ったところで、〔口説〕に切り替え、「かくて三年と言ふに」と仏御前を登場させ、これを「加賀国の者な り」と紹介する。読み本の延慶本にこの出自め明示はない。幸若舞を以て知られる藝能の場が背景にあって、仏をその生まれとしたものか。後述の能『仏原』 が、現在の小松市原町に仏御前の屋敷跡と称する遺跡を残している。この仏原の地名は、 延慶本巻一本「師高与宇河法師事引出事」に、宇河寺の大衆が
   一千余人也願成寺ヨリ同六日仏ガ原金剣宮へ入給フ
と見える。秦恒平
(7)は、仏御前の生まれを加賀国シラ山のシラ拍子であったとし、時に「年十六」であっ たとする。これが、当時栄花を極める清盛に「召され」ようとして登場する。「遊び者の習ひ」ゆえの「推参」をあえて決行するもの。この段階で、いまだ妓王 の年齢を語っていないのだが、仏の「十六」という年齢は、例えば、二代后として二条帝の寵愛を受けることになる元近衛帝の后、今は太皇太后宮こと、多子を

  〔口説〕永暦の頃ほひは、御年廿二三にも成らせましましけん、御盛少し過ぎさせ給ふ程なり。

として、当時の女性の年齢と容色を語っている。それに比べると、この仏を十六歳とするのは、明らかに若さを強調するものである。事実、この後、出家する妓 王を〔中音〕「二十一にて尼に成り」とすることとの対比が明らかである。この後の語りは見えている。しかし、この場で清盛は仏を引見するどころか、仏の推 参を「大いに怒つて、何条、さ様の遊び者」「さうなう推参するやうやある」、「妓王があらんずる所へは、叶ふまじとぞ」とはねつける。「推参」を、他界か ら祝福を携えて訪れる異人としての藝能者に刻印された表徴だと言う。
(8) そしてこれが藝能人世界では、「習ひ」の世界になると言うのだが、清盛には、それが通じなかったと言うものか。藝能人の世 界の慣習、文化装置を物語テクストの読みにいかに生かすかが課題となろう。文学批評としての物語論の今後の行方として、諸批評との交流があるだろう。この 場合、祝福をもたらす異人であるがゆえに許されるとするのが仏の思いであり、それを理解できない野慕男としての清盛が笑いの対象になるのか。妓王に思い入 れる清盛に、よそ者の推参は論外という主張である。この清盛の発言に見るとおり、清盛との仲について、それにおのれの藝についても自信があるためか、余裕 を持つ妓王は、仏の期待していた通り、〔折声〕「遊び者の推参は常の習ひでこそさぷらへ」と肯定し、ここで相手の「年も未だ幼う侍ふなるが」ゆえの「ふび ん」さに、ともあれ一度の見参を許すようにと促す。延慶本は、義王が、仏の立場を思いやって「義王ガ御所へ推参シテ御目モミセラレマイラセデ帰ニケリ」と 人から言われるのを、仏にとっては、不愍であり、義王(延慶本の表記)としても藝人として度量に欠けると批判されるとでも考えたのであろう。清盛に仏との 仲介をとると言うのである。これが、実は妓王の境遇を変えることになる。その意味で、妓王にとって重要な発言である。これを考慮してのことであろう、語り 本はこれを〔折声〕で語る。〔初重〕「我が立てし道なれば、人の上とも覚えず」の言説こそやはり想像した通りの妓王の自信を語るものにほかならない。こ の妓王の進言、斡旋により仏の推参がかなえられるのであるが、さらに「今様一つ歌ふべし」との命令に仏がうたう

  〔三重〕君を始めて見る時は 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れ居て遊ぶめれ

は、祝福をもたらすことをこととする藝人の藝にふさわしい、主への賛嘆である。しかもこの今様は『増鏡』九「草枕」にも引かれる、当時流行の賀歌を引用し たもので、推参の白拍子が謡うには最適の今様である。これを本曲の中では、始めてとも言うべく極点の曲節である、詠唱の〔三重〕で語り、
(9) ここに物語として、一つの極点のあることを示唆している。妓王に対する仏の位置を示唆す る音曲の世界である。この「上手」でありける今様に促されて清盛は、さらに舞「一番見ばや」と仏に舞を所望して舞えと促す。

  【初重〕仏御前は、髪姿より始めて、眉目かたち世に勝れ、声よく節も上手なりければ

その舞姿に魅せられて清盛は「仏に心をうつ」す。延慶本は仏を「当時名ヲ得タル白拍子也年ノ程十八九許也」とし、そのため「入道殿二心モナク見給ケリ」と 仏にのめり込むと語る。しかもここで義王は「入道殿ノ気色ヲ見奉テヲカシク覚テ少シ打咲テ有ケリ」というから、その藝人としての自信は一向にゆるがない。 清盛は重ねて「イツシカツイタチテ未ダ舞モハテヌサキニ仏ガコシニ抱キ付テ張台へ入レ給ケルコソケシカラネ」と延慶本は語るのだが、琵琶法師は、清盛の、 このふるまいを抑えて〔初重中音〕「人道相国舞にめで給ひて仏に心を移されけり」と語る。延慶本の清盛は直情径行、幼児的ですらある。これでは狂言になっ ても能にはならない。延慶本では、物語を、池禅尼の嘆願に屈し、常葉御前の容色に迷って一門を滅亡させることになる清盛にふさわしい行動である。延慶本 は、物語全体を

 清盛公モ (頼朝らを)ユルシ置奉り池尼御前モイカニ糸惜ク思奉給トモ我子孫ニハヨモ思カへ給ハジ人ヲバ思侮ルマジキ物也トゾ時人申沙汰シケル

と結ぶ。この結びの源氏賛歌は古本『平治物語』も頼朝の天下平定を語り、

 九郎判官は二歳のとし、母(常葉)のふところにいだかれてありしをば太政入道、わが子孫をほろぼさるべしとは思はでこそ、たすけをかるらん

と語ったのだった。両テクストの清盛像の近さを示唆する。
 それにしても事の意外さに驚く仏が、これまでの経過、妓王への恩誼への慮かりから身を引こうとする。しかし清盛が「但し妓王が
あるによつて、憚るか」と、仏の思いの核心をつき、「其の儀ならば、妓王をこそ出さめ」と言うのであるから、清盛の移り気、変心は疑いようもない事実であ る。この当初の仏の思いは、実は後半の伏線をもなす。これに仏が「共に召置かれんだに恥しう」あるのに、と
は、まさに仏の思いでもあったのだが、まして〔口説〕「妓王御前を出させまいらせて、わらはが一人召置かれなば、妓王御前の思ひ給はん心の中、いかばかり 恥しう片腹痛くも侍ふらん」とは、やはりこの推参の場を拓いてくれた藝人仲間ゆえの思いやりを仇で返すことになる。藝人の世界ではありがちな「推参」であ りながら、仏は、みずからを知ると語るのが物語である。今、この場はとにかく、「暇を賜はらん」との取り繕いが、逆に清盛の直情を刺激し、〔指声〕「入道 相国、其儀ならば妓王をこそ出さめ」と、「御使重ねて三度までこそ立」てることになる。仏の妓王への慮りが、逆に清盛をして直接行動へかり立てたと語るの である。ここまでが第二小段であ
る。句全体の積層構造としては、一句の中の (序) に当たる部分である。妓王の藝の先達としての自信が思わずみずからの滅びのきっかけをなしたことを 語っている。この段階での物語の主役は妓王であり、その主役の座を狂わせる敵役が仏である。そのために、時に仏に焦点を当てる語りをも見せている。その間 に立つ清盛は、妓王の蓮を狂わせる舞台回しを演じるワキもしくはツレの位置にとどまる。白洲正子は、清盛の終始ワキ役であることが、かえってその性格を出 していると言う。
(10)


  三 仏と妓王

 (破)の段に入る。容姿を元手にする藝人として、栄枯盛衰は覚悟の上、そうは言いながらも〔中音〕「さすが昨日今日とは思ひもよら
ず」、心残りもあったものの、「入道相国、いかにも叶ふまじき由、宣ふ」という執拗な晴盛の行動は、前段から一貫している。そこで
妓王のとった態度は、居室を「掃き拭ひ、塵拾はせ」る。藝人の先
輩としての、仏や清盛への意地がある。し かも〔初重〕「一樹の陰に
宿り合ひ、同じ流を結びても、別れ悲しき習ひぞかし」と語り手は妓王に焦点化してゆく。その思いを『秦音曲抄』が〔中音〕〔初重
で語るのは『説法明眼論』を引く修辞がからまると同時に、やはり語り手の思いを 表すものでもある。そのための音曲としての語りである。〔折声〕との組み合わせの定型として、〔指声〕で「さてしもあるべき事ならねば」と妓王の行動を語 りながら、「なからん跡の忘れ形見にもとや」、「一首の歌」を旧居の障子に書き付ける。その詠歌が

  〔上歌〕萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草何れか秋にあはではつべき

であるが、これまでの語りからして「萌え出づる」に仏を、「枯るる」におのれを託することは言うまでもない。延慶本は、義王の思いとして「指当リテノ人目 ノ恥シサ心ノアヤナサ」を語る。藝人としての世の聞こえを恥じるのだが、琵琶法師は妓王自身の怒りに集約する。何よりも、それに、この詠自体が、同じ運命 が仏にも訪れることを言い抜いた詠でもある。
 妓王の宿帰りは言葉にならない。その思いを語り手は 〔中音
で語って、<破>の段の第一小段を閉じる。延慶本は「母ニ泣々申ケルハ」として、「加様ナ遊者トナシ置キ給テ今ハカカルウキ目ヲミ セ給事」を「口惜」しく思い、「サレバコソホドナラヌ者ノ成ヌルハテヨト言ハレンモハヅカシ」と、やはり恥を訴える。それゆえに母を妹に託し、みずからは 入水をと決意する。琵琶法師は、それを一人の
藝人としての屈辱感に絞って語るのであった。
 次の小段へ移り、宿での妓王の失意、人々の招きにも応じようとしない隠棲を 〔口説〕 で語り、

 さる程に今年も暮れて、明くる春にもなりしかば、人道相国妓王が許へ使者を立てて

と、その清盛の言葉が

 仏御前が余りにつれづれげに見ゆるに、参つて、今様をも歌ひ、舞などをも舞うて、仏慰めよ

との要請である。清盛を引きつけて王座を占めた仏が「無聊で、満たされぬ」思いをもてあますと清盛が語る。栄華に奢る清盛に、仏
の思いを忖度する思いやりはあり得ない。その仏自身の思いを語り手は直接語らない。聞き手の想像に委ねられるのだが、実は人の思いを理解できない清盛の眼 に「つれづれげ」に見える仏の思いは、これから後に仏自身がとる行動によって明らかになろう。その場の語り手は、まず清盛の弁を耳にする妓王の思いの側に 寄って、これに焦点化してゆく。「妓王とかうの御返事にも及ばず」、清盛の重ねての催促、「浄海も計らふ旨あり」とは、弁明を一切受け入れぬ強要であるの だが、妓王は動じない。この経過を語り手は曲節を伴わない 〔白声〕 で語り、清盛の怒りを怖れる母とじが妓王を説得にかかる、これを 〔口説〕 で語る のだが、これにこたえる妓王の

 涙をはらはらと流いて、
折声〕参らんと思ふ道ならば こそ、やがて参るべしとも申ぺけれ

 しかし自分に参る思いは無いと拒む語りを、悲痛な曲節である 〔折声〕で語る。今回入道の命を拒むにしても、「定めて都の外へ出さるるか、さらずは命を 召さるるか、是二つにはよも過ぎじ」を〔中音〕で語る。妓王への語り手の思い入れは一貫している。母とじは、清盛にさからうな、とにかく、男女の縁には限 りがあると説くのを〔口説〕で語り、その男女の縁が「千年万年とは契れどもやがて離るる中もあり」と道理をかざして〔折声〕で始め〔白声〕へと結ぶのは、 語り手の、母のさとしへの思い入れであるのだが、以下、母の説得
に、やむを得ぬと妓王が屈服するのを〔白声〕で語る。
 以上、<破>の第二小段は、やはり妓王の拒否行動に頂点がある。
 <破>の第三小段は、妓王が妹の妓女、それに二人の白拍子を具して西八条へ参るが、下座にすえられること、見かねた仏がとりなすことを〔口説〕で語る。 延慶本は、ここでも義王が、またもや「心ノ中ニハ母ヲノミゾ恨ケル」とし、さすがの「重盛宗盛已下ノ人々目モ当ラレズシテ」父を非難するが、清盛は聞き入 れない。清盛の行動を軸に語る。清盛の専横、これに従わざるを得ぬとする母、この母への恨みを語るのが延慶本の義王である。語り本は、「参る程では、とも かくも人道殿の仰せをば、背くまじきものを」と思って歌う今様を、その語りの定型として 〔三重〕 で

  仏もむかしは凡夫なり 我等もつひには仏なり 
  何れも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

と語る。それは、さきに退出する際に障子に残した詠と同じく、盛りにある仏への清盛の思い入れを諷するもので、やはり妓王の思い
を直接語っている。それに(序)の仏が推参した当時の今様の謡いと対をなす。自拍子を主役とする句にふさわしい曲節の配しようで
ある。延慶本は、ここでも「仏御前モ」が「泪ヲ流」すと語る。『平家物語』の中の和歌や今様の特殊な効果を語り、語り本は、それを
曲節としても謡うわけである。部屋の格下げへの抗議、仏のとりなし、そこへこの今様による抵抗に、さすがの清盛も

 〔白声〕入道時に取ては神妙にも申たり。扨は舞も見たけれ共、少紛るる事出来たり

とその場を取り繕い、またもや
           
 此の後はめさず共常に参つて、今様をも謡ひ舞なんどをもまふて、仏慰めよとぞ宣ひける

という。妓王の厳しい抵抗に清盛は一瞬ひるみを見せる。その清盛のことばを 〔白声〕で通している。
 <破>の段の最終、第四小段に入る。
 母の命には背けず、入道の許に参ったのが「二度うき恥を見」ることになった。またも「憂き目に逢」うよりはと入水を決意する妓王。妹の妓女が行動を共に するとの発言に、母はまた教訓する。前小段の〔三重〕による今様以後、〔白声〕で語り続けた語りが、この
母の教訓から 〔口説〕 に変わる。その内容からすれば、〔中音〕や〔折声〕を織り込むべきところだが。「未だ死期も来らぬ母に、身を
投げさせんは、五逆罪にてやあらんずらん」との強い教訓も〔口説
のままである。この「妓王」の句を、百二十句本は、第五句「義王』
と第六句「義王出家」の二句に分かつ。その区切り目がこの場所である。言いかえれば、一句としては長編で、そのために曲節の語りようとしては、後半の開曲 にふさわしく 〔口説〕 や 〔白声〕 に抑えたものであろう。そして、その結末としての後半に語りのヤマパを置くのは、平家琵琶の語りの一つの定型であ る。

 〔中音〕妓王二十一にて尼に成り、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵を引き結び、念仏してぞ居たりける。

から妹妓女が十九歳で姉を追い、ついに母とじも四十五歳で剃髪して「一向専修に念仏して」後世を願うを〔初重〕から、〔初重中音
〕へとピークを構成する。これまでが(破)の最終小段である。


  四 仏の決意

 最終の <急> の場の第二小段、

  かくて春過ぎ夏蘭けぬ……

は、語りの展開からしても、区切りをなすもので、本来なら〔口説
で語り始めるところであるのだが、『和漢朗詠集』「丞相」以下、最
終の<急>の段では、この仏のとった行動が、仏への恨みのゆえに、『和漢朗詠集』の「春過ぎ夏蘭けぬ  袁司徒が家の雪路達すべし」、『今鏡』「すべらぎ の上」の「楊貴妃の契りを思ひ出られて星合の空
いかに眺め明かさせ給ひけむといと哀れに」、『後拾遺集』 秋上「天の河とわたる船の梶の葉に思ふことをも書きつくるかな」を引用して、しかも七五調のリズムをも有することから、その語りは三重〕から、その〔下り〕、つまり〔中音〕、さらに〔初重〕へと、詠唱の極をなす形で、抒情の色濃く妓王母子の庵室、その夕景を語る。それは上述の出典と の関係もさることながら、「妓王」の句全体の終曲の始まりをなす、語り手、琵琶法師の思いでもある。物語 の主役は、やはり妓王である。そこへ〔中音〕「竹の編戸をほとほとと打敲く者」が登場する。「其の時尼共」の驚きと恐怖を〔指 声〕と〔折声〕の組み合わせで語って、「今は只なかなか明けて入れんと思ふなり」、以下、〔初重〕から〔中音〕へと念仏を唱えつつ、「竹の編戸をおけ」る。意外にも 「魔縁にてはなかりけり」、仏御前が登場する〈破〉の段の第一小段を、このように、曲としては最高の曲節 を以て語り構成する。
 以下、第二小段で〔口説〕妓王に促されて仏が「申さずは、又思ひ知らぬ身ともなりぬべければ」と、その訪れ のわけをありのまま
に語り始める。仏に焦点化した、その言説は
 ○ そなたのおとりなしにより召し返されたわが身が「女の身の言ふがひなき事」に、そなたを追い出すことになったのが、「今に恥しう」と思うこと。女ゆ えに義理立てできぬわが身を恥じるのである。藝人の中に女としての思いが介入する。
 ○ そなたが宿所を退去する時に障子に書き残した「何れか秋にあはで果つべき」の詠が「げにもと思ひ」知ら れたこと、つまりいずれは同じ落魄の身になることを思い知らされたというのである。
 ○ さらに、妓王にとっては再度の恥になった、召されて「仏もむかしは凡夫なり」と今様に清盛のとった態度 を責めたこと。
いずれも、これまでの語りをそのまま仏が受けとめる。これらを一貫して〔口説〕で語るが、この妓王の意志に動 かされた仏は、妓王らの脱俗の隠遁生活を羨み、「常は暇を申ししか共」、清盛はとりあげない。そこで「つくづく物を案ずるに」、以下〔折声〕で栄華がはか ないとの思いを語り、「老少不定のさかひ」である現世に若さをもかえりみず、後世を願って出奔、出家して来たことを〔指声〕で語る。〈急〉の場の第二小段である。これが延慶本では、仏の思いとして義王への「ウシロ メタナキ」思いから清盛を拒もうとするが、「女ノ身ノハカナサハ思ノ外ノ事共ノ有」「心苦シサ」に「ナニハノ事モアヂキ無テ」出奔して来たと語る。語り本 における仏の決断を見るべきであろう。
 以下、〈急〉の最終小段では、この仏のとった行動が、日頃、仏への恨みのゆえに、ともすればわごぜの事の恨 めしくて「なまじひに
今生も後生をも仕損じたる心地にて」あった妓王を目覚めさせる。仏に座を奪われた恥のゆえに世俗の思いを脱し て出家しながら、
その恨みを越えられない。それが相手の「大道心」に感動したことを〔口説〕で語って、その仏の大道心を「嬉し かりける善知識」とし
て、恨みを翻して一行四人、他念なく住生を志し、その素懐を遂げたこ と、その過去帳が後白河法皇の長講堂に残ることを語っておわる。法皇をめぐる王権に物語の発主を考える武 久堅(11)は、歴代天 皇の名列記に続いて安徳天皇以後、その内容が同時代にまで及ぶことの一理として、この過去帳を考えるものか。延慶本は、仏の行動を契機に決意する義王 の思いもさることながら、むしろ仏の「上下万人ニモテナシカシヅカレテ豊カニノミ成マサ」るそれも「年モ 僅ニ廿」にも満たぬ若さで「是程ニ思立ケル(仏の)心ノ中ノ恥カシサ)と、やはり世間の評判を介しての義王の思いを語る。
 この結びが物語るように、琵琶法師の語りは、妓王を主役に、時に仏に焦点を移しつつ、そのシテーツレとして の妓女と母とじ、こ
のシテを突き動かす相手役として仏を置きながら、全体は四人の往生談として完結すると言える。その意味で全体 としては、妓王がシ
テを演じ、敵役とも言うべき仏が結果的にはシテを導くワキを演じることになっている。清盛のかげは全く薄い。
 琵琶法師の語りの対極にある延慶本の言説をあわせ見てきたのであるが、延慶本は「サテ人道殿ハ仏ヲ失テ東西 手ヲ分テ尋ヌレドモ叶ハズ後ニハカクト聞給ケレドモ出家シテケレバ不及力サテヤミ給」と結ぶ。義王もしくは仏をシテと読める、実はシテを導くワキを演じ る、その言説を、延慶本は前後の文脈から、この両人を苦しめる、笑われ役、一種の道化としての清盛で枠組みを作ることに主
力を注いでいる。と言っても、藝の世界を破壊して活性化するほどの力もない。その意味で「道化」の語は当たら ない。秦恒平(7)は、 「時代をこえて吹き流れて来た藝能の、いわば奏で、調べを即ち『風』」と読みとることから語り本によりつつ、この仏御前たちの行動を、「時勢への痛烈な批評味を帯びながらも、来世の救われ を願う人々の耳に、はなはだ良く出来た説法」とし、これら「女人たちの健気にものあわれな物語を、清盛悪行の初めに挿入したことで大団円、大原御幸後の建 礼門院往生浄土と首尾照応のみごとな効果をあげているとする。


  五 能『祇王』の世界

 作者未詳だが、世阿弥の『三道』に

 この外、静、祇王、祇女などは人体白拍子なれば、

とあるから、現存曲がそのものかどうかは別として、とにかく早くから、この能『祇王』があったらしい。
 見てきたように、物語としては長編に属する「妓王」を本説とする能である。仏の年齢を十六歳とし、その出自 を越前とすることか
ら、その直接の出典は語り系の、琵琶法師が語る『平家物語』であったろうと想像できる。ちなみに延慶本は「年 ノ程十八九許也」とす
る。 
 第一段。開曲、ワキが登場して、

  これは入道相国に仕へ申す瀬尾太郎何某にて候

と名のる。瀬尾太郎兼康のことであるが、この兼康は、『保元物語』の 「主上三条殿ニ行幸ノ事タリ官 軍勢汰ヘノ事」に、「清盛ニ相随手勢者共」の一人として登場し、『平家物語』でも巻一「殿下乗合」に「片田舎の侍どもの、こはらかにて、入道殿の仰より外は、又お
そろしき事なしと思ふ者ども」として難波と並んで登場する。清盛の指示に従い摂政松殿(基房)を辱める行動に 及んで重盛から勘当
されるが、その清盛の悪行について春日大明神の怒りをかって「当社大明神の召しとらせ給」との夢を重盛が見 る。物語にあって清盛の行く末を先取りして察知するのが重盛であるのだが、この重盛と同じ夢を見たと語るのが、この瀬尾であり、「さてこそ」(重盛は)
「瀬尾の太郎兼康は、神にも通じたる者かなとぞ大臣(重盛)も感じ給ける」と言う。清盛の運命をも重盛同様に 予知する人として語
る。このような清盛に近い登場人物であることから、能『祇王』では、この瀬尾をワキとして位置づけたものであ る。ちなみに祇王は
ツレ役である。そのためにツレ方の小面をつける。(12)
 そのワキが冒頭から語り始める。まるでアイのような語りである。祇王御前が清盛の寵愛を専らにすること、そ こヘシテ仏御前が推参するが、祇王の「いづれも流れをたつるは同じ事にて候」との斡旋も叶わず清盛に拒まれる。そこで祇王は、藝人としての度量を示すため に「この四五日は出仕をとどめ給ひて候」、そのために、清盛が折れて「今日御対面あるべき由仰せ出だされ」る。その清盛の
ことばを祇王に伝えようとしてワキが登場するのであった。『平家物語』に見られた経過をワキの要約によって語 り尽くし、ただちに
祇王・仏両名に参上するよう指示する。第二段、祇王は重ねて「唯今参り候事も、仏御前の訴訟ゆゑ候よ」と訴え るのを、ワキは、す
でに仏推参の義が叶ったことを言って、「いかに仏御前、唯今の御出仕めでたう候」と祝う。第三段、前シテの仏 がシテ方の面(おもて)である増女をつけてここで登場し、仏は清盛を「人をえらばせ給ふ」、つまり「名高き」人にふさわしからぬ人と恨む。第四段、それを ワキの瀬尾が宥め、「御前にてそと御舞ひあれ」との指示に、仏は喜びながら「祇王御前同じくは、相曲舞に立ち給へ」とつれ舞を促し、「二人伴ひ立ち出づ る」ことになる。相舞の趣向が関与している。(13) これまでが前半である。祇王と仏を対立させる構造から、瀬尾をワキとせざるをえなかったのであろう。そのために物語から選び出され たわけである。
 第五段、アイ語り。仏の生まれと、西八条への推参の経過を語るが、そこでアイは、清盛がすでに心を仏に移し て、やがて「定めて
祇王はすてらるべきかと存じ候」とまで語っている。
 後半、祇王と仏の両人が同じ装束で舞う。本曲を、喜多流が『二人祇王』と名づけるゆえんであろう。第六段、 〔地謡〕が〔クセ〕で清盛の栄花とその好色のゆえの祇王の栄花を語りながら、仏が出現したことを語り、この二人が舞う中に、「名にし負ふ仏神の御感応
か、人心うつれば、かはる習ひ故か」清盛の心は仏に傾く中に舞をおえる。能も、この清盛の移り気に重心を置 く。第七段、そこで重ねてワキ瀬尾が登場し、清盛の意向として「祇王御前は御休み候ひて仏御前一人舞はせ申され候ヘとの」仰せであると言う。一貫してツレ である祇王は「妾はニれに在りもよしなし」とただちに「家路に」帰ろうとするのを瀬尾は制止し、祇王がその場に留め置かれる中をシテとしての仏は「羅綺の 重衣たる情なきことを機婦に妬む」という『和漢朗詠集』の一句に舞姫のおのれを托して舞いつつ

 人は何とも花田の帯の、引きかへ心はかはるとも、祇王御前心に懸け給ふな、わが名は仏神かけて、(清盛と の)深き契りの中(すっかり心を許している)ぞとはよしなや聞かじと、(祇王への感謝の念を)諸共に虚言なくこそ契りけれ

と、仏の、祇王への謝意を以て結ぶのである。「推参」をつねとする藝人としての生き方を通す仏である。
 祇王・仏両人の二人舞を中核に、仏の、祇王の恩誼に対する謝意と、義理立てを主題とする一曲である。この二 人舞こそ、この曲の
見所である。物語に読みとられるような祇王の自負心ゆえの屈辱感、この手厳しい祇王の指摘に啓発される仏の一 途な思いに比べると、能は、それを仏の祇王への恩誼と謝意、藝人としての義理立てに絞り込んだものと言える。「推参」そのことをモチーフとしてい
る。
 全体として仏をシテとし、祇王をツレとするわけで、物語に見た、その極点とした今様や和歌を欠き、かれらを 取り巻く妹の祇女も母
とじも登場しないし、清盛もかげの存在で、その姿を見せない。
   

   六 『仏原』への再生

 世阿弥の作かと言われながら詳細未詳、室町前期の成立かと言われる能『仏原』がある。遅くとも宝徳四年(一 四五二)音阿弥が薪
猿楽で演じている。
 第一段、そのワキは京からの旅僧、行く先は白山で、その参詣を志す。このワキ憎が加賀の仏の原に着く。現 在、小松市の原町に現場が擬せられる。ちなみに福井市西藤島には妓王邸の跡があるとも言う。日が暮れ、ワキが草堂に宿をとろうとする。第二段、その里の女 が若女の面をつけて登場し、ワキ僧に素性を質す。相手が僧であり、「今日は思ふ日に当たれり」それゆえに草堂の旧主を弔えと願う。このシテ女がシテ方の面 「若女」で現れ、「いにしへ仏御前と申し白拍子」が「都に上り舞女の誉れ世に勝れ給ひしが、後には故郷なればとてこの国に帰り、終にここ(草堂)にて空し くなる」と言う。この前シテ女の堂の示しようは、後ジテとして現れる仏御前を匂わせるものと言える。第三段、ワキが重ねて「なほなほ仏御前のおん事物語り 候へ」と乞う。シテが清盛と「妓王妓女、仏とじ」の物語を語り、妓王・妓女が「さながら宮女のごとくなりしに」、仏御前の登場により、清盛が心変わりして 妓王が追い出されることに
なったと、物語を要約して、早くも前半で〔クセ地謡〕で仏が妓王の思い「我はもとより有職(遊女と有職をかけ る)の、花一時の盛りなれば」を想起し、いずれは衰えることを覚悟する。「我」とは仏ならぬ妓王の自称である。「弥陀の御国もそなたぞと」、決意して、妓 王母子が住む「さがの奥深き草の庵」を、このシテ仏が訪ね、妓王ともども再会に「感涙を流すばかりなり」と語る。前半の極点がここにあり、物語の最後の 〈急〉の段に焦点を当てたものと言える。ただし舞台には登場しない妓王の思いを、その相手の仏が代弁して、〔地謡〕が語るのである。本曲の〔クセ〕は妓王 の視点から仏を描くと言うべきであろう。
 第四段、かわってこの草堂の現場にもどし、その草堂へ前シテの女は姿をかくしてしまう。修羅能と同型で、言 うまでもなく、この前シテが後ジテの化身であり、それも草堂の旧主、仏、その人であることを示唆して閉じる。この女舞が軸をなすと言うべきか。
 第五段、アイ語りが語って、第六段、〔サシ〕で後ジテの幽霊が登場し、第七・八段、「恥づかしながらいにし への 仏と言はれし名を
便りにて 輪廻の姿も歌舞をなす」と。第九段、「前仏(釈迦)は過ぎぬ 後仏(弥勒)はいまだなり」と舞い、 その弥勒出現の世への「一
歩」の舞が「仏の舞とは言ふべけれと 謡ひ捨てて失せにけり」と退場する。ワキ僧の弔いを謝しつつ、弥勒の世 を祈念して閉じるの
である。
 『平家物語』では、いったん嵯峨に隠棲しつつ、仏御前への恨みから悟達できなかった妓王が、仏御前の発心を 善知識として、まことの道に入ろうとし、四人ともに往生をとげることを語ったのであるが、この能『仏原』は、前述の『祇王』の続編とも言うべく、祇王の善 知識としての仏御前自身の往生を独立した主題として語り出したものである。『平家物語』の集約版とも言うべき曲で、物語の伝承
が仏の現場を求めて仏御前の物語を作り出したものと言える。そのためにも、シテは二曲ともに仏が演じることに なったのだった。


   

(1) 小峯和明篇『『平家物語』の転成と再生』二〇〇三年二月など。
(2) 山下宏明『平家物語』の本文、語りと読み」『國語と 國文學』二〇〇四年十二月
(3) 『琵琶法師の『平家物語』と能』を予定している。
(4) 山下宏明『いくさ物語と源氏将軍』二○○三年五月。
(5) 折口信夫「水の女」『民族』一九二七年九月・一九二 八年一月。
(6) 奥村三雄『波多野流平家譜本の研究』 一九八六年六月。
(7) 秦恒平『能の平家物語』二〇〇一年三月。
(8) 阿部泰郎『聖者の推参』二〇○一年十一月。
(9) 平家琵琶の音楽については、薦田治子『平家の音楽 当道の伝統』二○○三年二月
(10) 白洲正子『旅宿の花──謡曲平家物語』。一九八二年五月。
(11) 武久堅『平家物語発生考』 一九九九年五月。
(12) 院生、田崎未知の示唆による。堀安右衛門・増田正造・宮野正喜『能面』一九九八年十月。
(13) 山中玲子『能の演出 その形成と変容』 一九九八年八月。
(14) 稲田秀雄「作品研究 『仏原』」『観世』 一九九三年十二月。