koten22 

「e-文藝館=湖(umi)」投稿  もり みさこ   愛知県名古屋市在住の主婦  昭和二十三年(一九四八)二月 鹿児島市に生まれる。同志社大学に文学を学んで中退。 掲載作は、読み物仕立ての趣向で、 趣味と古典探訪のよろこびを描いている。この筆者、さきに小説「帝王の絵巻」を寄稿されており、年前には、伊勢斎王 のこ とを書いた『光源氏になった皇子たち』を上梓している。 11.03.21投稿・掲載




           空蝉香の楽しみ

            森 未砂子
                                  


        第一章  聞香   


 香道の世界では香木の匂いをかぎ分けることを、「香を聞く」とか、「聞香(もんこう・ぶんこう)」という。
 香道の楽しみ方のもっとも一般的な遊びが「組香(くみこう)」というゲームである。
 これは香木を何種類か用意して、ほんの少量づつ炷(た)いてその香りが、同じか違うか当てっこをする。
 こう説明すると、「なんだか利き酒大会みたいな遊びね」とか「犬みたい」と笑われることもある。
 たしかに嗅覚に重点をおいた遊びだが、単に香木の香りの相違を当てるだけではない。そこには茶道によく似た作法、所作があり、また古典文学・和歌・漢 詩、有職故実・名所旧跡と様々な主題で遊ぶ。
 特に源氏物語や古今和歌集を主題にした組香が多く散見される。
 源氏物語を主題にしたものの中で最もよく知られたのは「源氏香」。
 これは用いる香木は五種類。それぞれ五粒ずつ用意したものを、一粒ずつ、紙に包み、合計二十五包をよく打交ぜ、中から五包取り、炷出す。この五つが同じ 香りか、違うかを聞き分ける。この答え、五十二通りを桐壷と夢浮橋を除く源氏物語五十四帖に当てはめ、源氏香の図と巻名で応えるという趣向。
 形のない香りを源氏香の図という縦と横の線で表す「源氏香の図」の意匠は、香道が隆盛だった江戸時代からもてはやされ、着物や帯、調度品、器類にもあし らわれた。
  その他にも、「帚木」「空蝉」の帖を主題に、源氏と空蝉の恋を主題に「空蝉香」、六条院を舞台に「初音」「胡蝶」の帖を主題にした「胡蝶香」、「野分」の 帖ならば「野分香」、夕顔の娘玉鬘をヒロインとした「常夏」「篝火」の帖では「篝火香」、その他「夕顔」「葵」「賢木」に出て来る「源氏物語三箇之大 事」、つまり古今伝授のような秘伝、源氏伝授をテーマにした「源氏三習香」まである。さらには「巣守」「桜人」「嵯峨野」「八橋」などといった「雲隠六 帖」の巻名や源氏物語の続編「山路の露」を主題にしたもの等々、数多。
 このように本来、香道愛好者は、今の私たちとは比較にならない、遙かに超えて、源氏物語や古今和歌集を読み込み、理解していた。
 『源氏物語』や『古今和歌集』は貴族社会で生きていくための、は必須科目で常識だという一つの証しといえる。
 江戸初期、で朝廷と幕府をつなぐ武家伝奏という重責についていた細川幽斎の娘婿に中院通村(なかのいん・みちむら)という後水尾天皇の側近中の側近がい た。
 通村は古今伝授の継承者で、天皇御製の添削をも命じられるほど高名な歌人で、父親の源氏学を継承し、帝やその母后・中和門院に『源氏物語』を度々進講、 絵画にも造詣が深く、藤原行成を祖とする世尊寺流の能書家であった。
 通村は舅の細川幽斎以上の文化人である一方、後水尾天皇を退位の決意を幕府に告げなかった非をを咎められると「勅なれば、君臣仁義を守っただけ。我等は 天子の臣であって、関東の臣ではござらぬ」と言い放ち、また将軍家光に古今伝授を所望されるとこれを拒絶する硬骨漢でもあった。
 後水尾院の周辺には通村のような当代の文化人がきら星の如く集まっており、寛永文化サロンを形成していた。それを経済的にパックアップしたのは後水尾院 の中宮である東福門院徳川和子だったろう。
 東福門院徳川和子は戦国一の美女、お市の方の孫である。母親は、今NHKの大河ドラマのヒロインとして一躍脚光を浴びた、小督(お江与とも。ドラマでは お江)。徳川二代将軍秀忠の娘として生まれ、姉に豊臣秀頼の妻となった千姫、兄には三代将軍徳川家光がいる。
 江戸初期の、支配権を巡って朝廷と幕府のせめぎ合いの中で、公武合体の象徴のような結婚をした後水尾天皇と和子姫、お二人の夫婦仲が良かったのか、そう でもなかったのか、知るよしもないが、公家と上層町衆により豪華絢爛に花開いた寛永文化はこの二人を抜きにしては考えられない。
 封建制の強化をはかる江戸幕府に対抗し、京の町衆や朝廷勢力は中世以来の伝統を守ろうとし、茶道、立花、文学、儒学、禅、書、絵画といった古典文化や文 芸の興隆を生み出した。
 その一つに、香があった。後水尾院や東福門院はそれぞれ組香を考案なさって香道を楽しまれたと伝えられている。
 女院は、源氏物語の「空蝉」の巻を主題に初心者でも遊べる、「空蝉香」を考案していらっしゃる。
 用いる香木は二種。一種は、五粒。これをそれぞれ、一粒ずつ紙に包み、五包用意する。もう一種類は一粒。これも同様に紙に包んでおく。初めに、同じ種類 の五包を交ぜて、といってもどれも同じ匂いだから区別はできないが、一応交ぜて、中から一包取って抜き出し、捨てる。その後、もう一種類の香木が入ってい る一包を残りの四包に入れ、また打ち交ぜる。これを順に炷いて、五つの中で違う匂いを当てる。
 これだけのことである。ではこの組香のどこが「空蝉」を主題にしているのか、「帚木」の巻、「空蝉」の巻をなぞってみたい。



         第二章   空蝉


 女は摂政関白、大臣家という権門の生まれではなかったが、中納言兼衛門督であった父親が、娘を源氏の父・桐壺帝に入内させたいと大切に育てられた。 し かしその父親が早くに亡くなり、後見人を失った女は心ならずも身分の下の、受領階級(現代では知事か大都市の市長くらいの身分)の、しかも年老いた男の後 妻にならざるを得なかった。 
 その女との最初の出逢いは、方違えで出かけていった紀伊守の邸でのことであった。
 受領とはいえ、鴨川の堤沿いにある紀伊守の邸は一年中美しい草花が絶えることがなく、中川の水を引き込んだ風雅な造りであった。
 前栽の草木を抜ける風は涼しく、そこはかとなく響く虫の音にも、遣り水のあたりに舞う螢にも、光君は満足した。
 突然の光君の来訪に、慌てふためいて寝殿を片付け清め、御座所を造るなど指図を済ませた紀伊守が挨拶に罷り出た。
 雑談の中で、折から邸には、紀伊守の父伊予介の若い後妻が滞在しているので女どもが多く、失礼がなければよいが、という。
「そなたの継母になった亡き衛門督の娘のことは、父帝からもお伺いしたことがある。衛門督が入内させたいと頻りに奏上していたあの娘はどうなったことだろ うかと、仰せであった。・・・そうか、お妃教育を受けて育った女が、今は、そなたの継母になったとは・・・世の中って、人の運命なんてどうなるかわからな いものだね・・・」
「まことに、世の中はいつどうなるか、わからぬものでございます。まして女の運命は浮き草のように哀れなものでございます」
 紀伊守も光君の言葉に深く頷いた。
「ところで、その若い継母は、器量よしという評判の人だそうだが、本当に美しいの」
 光君は雨夜の品定めで、中流の女の味わい深さを遊び仲間たちからあれこれと聞かされたので、興味津々である。
「亡き衛門督さまが掌中の玉と慈しみ育てた娘、帝の更衣にさし出そうとするくらい評判の娘だったのです。父・伊予介も、わが主とばかりに大切に傅いていま すので、顔をはっきり見たことはございませぬが、悪くはございませんでしょう」
 そう応えた紀伊守は光君の顔を見つめ、一瞬薄笑いを浮かべた。
 いかに高貴な御方とはいえ、十七歳の光君の考えていることくらい筒抜けでございますよ、とその目は笑っているようであった。
 その夜、馴れぬ受領の邸での方違えで、光君はなかなか寝付かれなかった。
 嗜みのない若い女の忍び笑いや衣ずれの音が意外に近くで聞こえる。襖の隙間から洩れる光りの影、・・・光君は寝所をそっと抜け出した。
 渡殿を通り抜け西の対に向かった。真新しい壁代と几帳に囲まれた一角に誘われるように近づくと、ほの暗い明かりの中にひとり、たいそう小柄な女が眠って いた。
 調度の品々からしてもここは伊予介の例の若い後妻の部屋に違いないと思った光君は部屋に入ると女の枕元へ滑り込んだ。
 気配に女が目を覚まし、驚愕の声を上げようとしたのを優しく制して言った。
「驚かないで。行きずりの出来心だと思われるでしょうが、長年あなたを思ってきたのですよ。今宵の方違えも偶然ではなく、貴女にお逢いしたいがため・・・ やっとお逢いできたのです。さぁ、顔を見せて・・」
 方違えと聞いて、女は、この無謀な若い男が高貴な人、今宵邸にいらした光君とわかった。
 確かに、お仕草やお召し物から薫るお香がゆかしく高雅なのだ。
 この男が光君なら無下に騒ぐことは出来ない、と思ったが、
「人・・・人違いでございましょう」と、息も絶え絶えに言うのがやっとだった。
「なんと、可愛らしいお声か。麿を怖がることはないのですよ。さぁ、あちらへ参りましょう」
 光君は女をやすやすと抱きかかえると、そのまま自分の寝所へ連れ込んでしまった。
 途中渡殿でばったりすれ違った女の侍女も、自分の主人を抱きかかえている不埒な男が光君と判ると、その行為を咎める術もない。
 ここで騒ぎ立てて、邸の者たちに知れ渡ったら、奥さまの評判を落とす。それどころか光君に恥でもかかせれば、紀伊守一族の浮沈に関わる。ここは自分一人 の胸に納めねば、ととっさに判断し、ひれ伏した。
 その侍女に向かって、光君は、
「夜が明けたら迎えにおいで」とぴっしゃと言い置いて、寝所の屏風の影に消えた。
 慣れた手つきで女を茵(しとね)に横たえると、光君は再び、甘い言葉を女の耳許で囁いた。
 その言葉は女の耳を通り過ぎていった。
    どんなに甘い言葉を囁かれようと、これは強姦ではありませぬか。光君からお歌の一つ頂いたこともない。光君は行きずりの一夜妻として私を抱い ていらっしゃる。たかが受領の妻、尊貴なお方に夜伽をするのは当たり前、と見下げているからの強引な、無体ななさりよう・・・
 そう思うと女は屈辱で死ぬほど辛く、汗がにじみ、体は激しく震えた。
「夢のような優しいお言葉も、すべて虚しゅうございます。卑しい身分とはいえ、このような見下げたようななさりようは、あまりでございます」
 女の悲鳴のような声が聞こえなかったのか、男はひたすら甘い言葉を囁き続けた。
 光君の体が動く度に、衣に薫きしめられた高雅な香りに女はしっとりと濡れていった。抗いながらも女は、大きな渦の底にある甘美な世界へ連れていかれる心 地がした。
    何故なのです・・・光君ほどの高貴なお方がこれほどまでに、激しくわたしを求めて下さるとは。これは夢・・・夢ならば醒めないで欲しい・・・ いいえ、だめ、駄目でございます。もう遅いのです。遅すぎたのです。わたしは応えることができない、身分に落ちてしまったのですもの・・・
 空蝉は受領の妻という自分の立場がたまらなく、惨めに思われた。
「父が生きている頃なら、いやいやせめて伊予介のものになる前であったら、高望みといわれようと、お情けに身を任し、寵愛が続くことを願って生きていくこ ともできるでしょうが、今は紛れもなく受領の妻。今夜限りの儚い逢瀬だとおもうと、切なく迷うばかりです」
 女は途切れ途切れに口にするのだが、その言葉とは裏腹に女の光君への思いは熱くなっていくのであった。
 女はそんな自分が情けなく、気の強い嫌な女と見られてもいい。いっそ木か石のような情趣の通じない女だと思われよう、折れそうで折れぬ弱竹(なよたけ) ように、光君をひたすら拒み続けた。
 夏の夜は明けやすい。早、一番鶏が鳴いた。
 ざわざわと御車の支度も始まり、女を迎えに侍女も襖の向こうに来ている。
 二番鶏、三番鶏と続けざまに鳴いた。
 光君は気ぜわしく囁いた。
「つれなきを恨みも果てぬ東雲にとりあへぬまで驚かすらん・・・こんなにつれなく扱われ、恨みのたけも申し上げる間もなく、はや夜が明けて・・・どうして 鶏があんなに慌ただしく起こすのでしょう」
 女はしみじみと我が身を振り返るに付けても、光君とはあまりに不釣り合いで恥ずかしく、身に余る言葉も重く感じるだけであった。
 光君の細やかな愛撫は返って強い不安となり、突然、女は、常日頃愛の欠片も感じないと思っていた夫の伊予介に逢いたい、と切に思った。あの無骨な腕の中 にいればこの不安から救われるのではと思った。
    だが、今夜のことを、夫は夢に見ていないだろうか・・・と思うと再び言いようもない不安に身がすくんだ。
「身の憂さを歎くにあかで明くる夜はとり重ねてぞ音も泣かれける・・・夜通し、この身の憂さを嘆いても嘆ききれないのに、夜の明けることのなんとたやす容 易いことか。鶏が声を合わせ時を告げるぬように、私も哀しみを幾重にも重ねて泣くことしかできません」
 そう言って女はまた涙ぐみながらも裾の乱れを直して、立ち上がった。
 夏の夜はみるみる明けた。
 光君は、女を自ら障子口まで送っていき、しばらく欄干に体をよせて有明の月を見上げながら物思いにふけっていた。
 光君の姿が、月の薄明かりの中でほのかに見えた。
 眩い輝きははや薄れてはきたが、月は庭をさやかに照らし、趣のある夏の曙だった。
 光君氏は、とても身に沁む夜この明けの風景のことを、恋慕を、この気持ちを女に伝えたい、と切に思った。
 しかし、何ということだろう。あの女に言づて一つする術がないのだ。
 光君はとうとう心を通わすことの出来なかった女をへの思いに引きずられ、振り返りながら紀伊守の邸を出て行った。
    光君は自分の邸に帰り着いても、常のようには寝付くこともできない。
 そうだ、次の逢瀬を約束することもできなかった。それにつけても、女はどうしてあんなに拒んだのか・・・顔もろくに見えなかったが、とりわけ器量が優れ ている風でもない。どこがどう優れているというのでもない。が、そこはかとなく感じが良く、嗜みを身につけている。あれが中の品の女の味わいなのか。あら ゆる女を見尽くしている者が言ったのは本当だ・・・
 光君はひとり頷いた。
 突然光君に言い寄られた女はどうだったのか。
 後宮に上がる教育を受けて育った女。お妃になるのを夢見ていた少女が、父の死後、没落し、生きていくために高齢の受領の後妻にならねばならなかった。
 父を失った女は、その時、自分にはもう灰色の時間が永遠に続くしかない、と自分の生を諦めたはずだった。
 このとき、女は、二二、三歳か。それが突然、十六,七の眩いばかりに若い光君に言い寄られた。燦然と光りが射し、心が時めかないはずはない。だが、しか し、尊貴の血を引く光君の前で、卑しい受領の妻となった自分の立場を思うとき、あるのは深い絶望。これが受領の妻となる前であったなら、とその絶望の淵を 覗いている自分が、魂の掬いを求めたのは、意外にも愛情の欠片もなかった年老いた受領の夫だった。
 女は、理性と感情と、肉体との葛藤に苦しんでいた。
 しかし、光君はそれを知るよしもない。
    この私を拒絶する女がいるなどとは・・・
 思い通りにならない女に対し光君は、
    たかが受領の家女房ふぜいが・・・それにしても、仕草がたおやかな女だった。さすがに亡き衛門督が入内させたいと思っただけのことはある。大 臣家の姫君と比べて、遜色はない。あれこそ中の品のよさか・・・
 反問を繰り返した末、光君は一計を案じた。
 光君は紀伊守を邸に召して女の弟・小君を差し出すことを命じた。小君を手元で召し抱え、取り持ちをさせようと思ったのである。
 しかし、女は小君に持たせた手紙さえ受け取ろうとしない。
 その後も、光君は「又逢いたい」と手紙や歌を届けるが、女は頑なに源氏の恋慕を拒む。
 小君に女と逢う手立てを作らせ、方違えを口実に、再び紀伊守の邸を訪れる光君。しかし、またもや肩すかしで逃げられてしまう。口惜しさを抱えて帰宅した 光君は女に恨みの歌を贈った。
「帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな・・・貴女はどうしてお逃げになるのか。あなたは帚木。近づけば消えてしまうという園原にある幻のほう き草。そんなつれない女に恋した私は、消えた女を捜し求め道に迷っているのですよ」
 こんな歌をもらって、さすがに女も眠れず歌をお返しするのだった。
「数ならぬ伏屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消ゆる帚木・・・貧しい伏屋生えるという帚木のように高貴な方とは満足に口もきけないこの身。そんな自分 に恥じて、わたしは帚木のように消えてしまいたいのです」
 女はすべて自分の思うままになると信じて疑わなかった光君は、自分を拒む女など考えられない。激情期の青年の例にもれず、「恋は略奪愛に限る」と思い込 み、拒まれるとよけい燃え、女を忘れられないでいた。
 そうこうしているうちに、紀伊守が任地に下がっていると聞いた光君は小君に手配させて三度、女が滞在している紀伊守邸に忍んでいくことにした。
 ある日、夕闇に紛れ小君の案内で、光君は紀伊守の邸に忍び込んだ。
 中河の邸は主人の留守でのんびりとしていた。
 光君は、まだ明るさの残るうちに義理の娘ののきばのおぎ軒端荻と碁を打っている女を垣間見た。要は覗き見である。
 やはり女は華奢だが美人ではなかった。だが所作に奥ゆかしいところがあって、肉感的で美人の若い軒端荻よりも、心惹かれる。
 さて夜になると源氏は小君の手引きで、真っ暗な邸の中を女の部屋に忍んでいった。
 一方女は、初めての逢瀬以来源氏を拒み続けているものの心は揺れていた。
    当代一の美男子、才能にあふれ、しかもなんといってもお血筋は天皇
の御子という最高の方。そんな方が自分に恋をしてくれた。父の中納言は私を、帝の妃にしたいとあんなに大切に育ててくれていたのに・・・今の私は一介の受 領の妻。なんという皮肉な運命であろうか」
 これが独身時代だったら、とわが身の不幸を嘆くので、あれ以来、眠られない日々が続いていた。
 年老いた夫は、私を心から大切に思い、都から遠く離れた伊予の国・愛媛にも単身赴任して頑張っているというのに・・・と心乱れる。
 女はその夜もまた悶々として眠られそうになかった。
 すると闇の奥から微かな衣擦れと素晴らしい香りが漂ってきた。
    あぁ、なんとしたこと! これは忘れもしない、あの時私を強引に抱
いた光君の着物に焚き込めていた香り。光君がいらしたのだわ。これは大変」
 女は慌てて生絹(すずし)の単衣(ひとえ)ひとつまとったままの姿で寝所をそっと抜け出した。
 入れ違いに部屋に入って来た光君は恋い焦がれた女に寄り添って、強く抱いた。
 と、思いこんだが、・・・抱いたのは、たまたま女と碁を打ち、そのまま一緒に寝ていた女の義理の娘の軒端荻。
 とんでもない人違いをしたのだが、真っ暗だから光君にはわからない。
 漸く途中で、どうも若すぎる。この間と勝手が違う・・・相手が恋い焦がれた女ではないと気付いた光君。
 びっくりして人違いしたことをその娘に誤った・・・
「申し訳ない、真っ暗だったし、ここは貴女の継母の君の居間だから、てっきり継母の君だと思った」と平身低頭。
 並みの男だった、うろた狼狽えて、そうするかもしれない。間違えて抱かれた軒端荻は恥ずかしさと誇りを傷つけられて、ぼろぼろになってしまう。だが、光 君は、若い女を傷つけるようなそんな野暮はしない。慌てず騒がず・・・
「ずっとあなたに憧れ、やっと会えた」と娘を優しく抱き、その夜は娘とそれなりに楽しく過ごした。
 そして夜が明けると部屋の片隅に女が脱ぎ捨てていった蝉の羽根のように薄衣を抱いて、自分のお邸に帰って女を偲んだ。
 かの薄衣は、小袿(こうちぎ)のいとなつかしき人香(ひとか)に染めるを、身近くならして、身ゐたまへり。
 結局、女は二度と源氏に許さなかった。
 源氏は、胸の思いを歌に託した。
「空蝉の身をかへてける木の下に なほ人がらのなつかしきかな・・・蝉の抜け殻のように小袿を残していなくなった貴女。私は貴女の抜け殻のような小袿を手 にして、貴女の人柄を懐かしく思い出しています」
  これより女は空蝉と呼ばれる。
 軒端荻と一夜を過ごしながら、文も届けず思うのは空蝉のことばかり。軒端荻を思わないでもないが、空蝉と比べると色あせてうつる。光源氏という十七歳の 男の傲慢さ、身勝手。
 陽気な軒端荻も、この夜以来、一人で考え込むようになる。結局、源氏の傲りに傷つけられてしまった。
 光君はあの夜以来、空蝉の香が染みこんでいる薄衣を源氏はいつも側に置いていた。
 空蝉は、日常の衣も香をたきしめていた。光君が持ち帰った小袿もそこはかとない温かな香りがした。しかし空蝉は光君が持ち帰った衣が汗臭くないだろう か、汚れてはいないだろうかと気をもんでいた。
 空蝉は冷たい木石のような女ではなかった。そればかりか光君への思いは深くなる一方であった。
「源氏に情け知らずの女だ」と思われるのも辛かった。光君に歌を返せない切なさに堪えかねて源氏からの歌の端に思いを書いた。
「空蝉の羽に置く露の木がくれて しのびしのびにぬるる袖かな・・・蝉の抜け殻に置く霜も、陽が当たれば消えてしまう。葉の陰に隠れているからこそ命。そ れははかない私の運命のように思え、人目を忍んで涙しています」
 空蝉はしみじみと我が人生を振り返りその境遇に涙した。
    これが結婚前の身であったらと思うが、昔に戻れるものではない。身分や境遇をこえて、夢や望みだけに身をゆだねて傷つくのは自分だ。頑なな態 度をとるしか道はない。心を閉ざすしかほかに術はない。
 繰り返し自分に言い聞かせてきた空蝉。
 空蝉は父の死で運命が暗転したが、本来ならば光源氏の世界に所属できる女であった。今の自分は栄光の過去の残骸。
 空蝉が畏れたように光源氏にとって空蝉はあくまで中の品の女だった。受領の妻としてしか見られないという悲劇。
    そうではない。違うのです。あなたの母君、桐壺更衣となんら違うところはないのです。私だって、父させ存命であれば更衣になれたはず・・・
 彼女の叫びは、結局光源氏には届かなかった。
 空蝉は源氏を拒み通した女。後に夫の死後、空蝉は出家する。継子の紀伊守に言い寄られたからだが、源氏ともども全てを断ち切るため。しかし、拒むのは源 氏を嫌っているからではなく、身も心も揺さぶられたからこそ。
 源氏を受け入れたならば、源氏に頼らずには生きていけないかもしれない。自らがそれほど美人ではなく、身分も高くないことを認識していた。
 たしかに美人で財産に恵まれ、前の皇太子の未亡人という最高の身分の六條御息所ですら、光君に厭きられ捨てられ、その身を生霊と化すことになる。
 空蝉は解っていた。中の品の女への一時的な興味だと。自分だって生霊にもなろう。だがそうはなりたくない、だからこそ拒んだ。
 賢くも哀しい女の空蝉。そして光君は夕顔に出逢い一気に傾斜していく。
  伊予介について地方へ下る空蝉。小袿を返す光君。
 厳格な身分制度と人として誇りの間に揺れ動きながら、空蝉はただ一度の光君との逢瀬に、青春を、女として輝きをすべて賭けた。
 たった一度の逢瀬に、空蝉は女の人生のすべてを経験した。生きることの嘆きと、生きることの喜びと華やぎとを味わった。
 父の死後、灰色の日常では決して味わうことのなかった至福の時間。それにしてもなんと儚い時間であったことか。
 ただ一夜の光君との逢瀬により、今まで夫伊予介との日常的な夫婦生活で全く知ることの無かった、新しい人生を経験する。しかし理性的な空蝉は一方では深 く心を惹かれながら、ただ一度の逢瀬を最期として光君への愛を胸の奥深くしまい込み、親子ほども年の離れた伊予介とともに伊予に下った。
 十七年後、二人は逢坂の関ですれ違った。
 光君は内大臣となり空蝉はやはりいまだに受領の妻。光君にとって空蝉は、結局、路傍の花に過ぎなかったが、空蝉にとって光君は、一瞬の華やぎを与えてく れた生涯ただ一人の忘れがたい男。

 これが十七歳の光源氏と空蝉との恋の概略であるが、もしこの時代の人々が匂いに鈍かったら、この恋の劇的な場面は成立しない。平安の貴族達は、自分だけ の香りを作り、着物や髪に薫き込めていた、だからこんな物語が成立するわけである。そこに目を着けて「空蝉香」は考案されたに違いない。
「空蝉香」では一粒用意する香木で源氏、五粒用意する方の香木で空蝉や一緒に碁を打っていた軒端荻、そしてお付きの侍女達など五人の女を表現している。香 木は一粒ずつ紙に包んで置く。
 まず同じ香りの五包から一つ抜くのは、源氏が部屋に近づいたことを知って、空蝉が横で寝ている義理の娘や近くに寝ている侍女達を置いて一人部屋から出た ことを表現する。
 次に残った四包に、異なる香木を入れた一包(源氏)を加えるのは、空蝉が抜け出た後、源氏が寝室に入ってきたことを表現している。
  こうして五包にしてこれを打交ぜ、一包ずつ順に炷きだし、何番目が違う香りか、つまり源氏は何番目かを当てる。
  これだけのことだが、「空蝉の巻」の世界へ遊び、男性ならばもちろん源氏の気分で、女性ならばたぶん誰でも「間違えられて抱かれた軒端荻」ではなく「本命 の空蝉」に自分をなぞらえて、聞香を楽しむ。
 この場合、不倫とか、女性蔑視とか、不道徳だとかいうことは横において、あくまでも王朝の物語を愉しむ。
 空蝉の巻を主題に、このかなりきわどい遊びを考案された女院。
 江戸時代では最高の身分、将軍の娘として生まれ、天皇家に嫁ぎ、中宮となった最上の品の女である女院が、中の品の女「空蝉」に心惹かれたということであ ろうか。女院は空蝉の巻のどこに惹き付けられたのか。
 何より、源氏物語の作者、紫式部自身もかなりの熱意を込めて、空蝉の巻を書いている。
 空蝉は中流階級の女として源氏物語に登場するが、摂関家の姫君ではないけれど、実は源氏の母・桐壺更衣と同じく、上流階級の姫君。
 どちらもその父親は娘の入内を夢見ていたのに、父親たちは早くに亡くなった。
 大納言の娘であった桐壺更衣は後家となったお母さんの頑張りで無事入内を果たし、皇子である光源氏を生み、天皇の寵愛を一身に受けた。酷い苛めにはあっ たが、時めいていたことに違いはない。
 一方の空蝉は中納言兼衛門督であった父親の亡き後、天皇のお妃にはほど遠い、年老いた受領階級の男(大都市の市長か、県知事のレベル)の男・伊予介の後 妻とならざるをえなかった。
 父親の死によって入内を諦めた空蝉。父の死を乗り越えて入内し、光源氏を生んで時めいた桐壺更衣。
 空蝉は噂に聞く桐壺更衣の人生を自分と重ねたことがあったに違いない。それは受領の妻に落ちた貴種への見果てぬ夢。

 そしてもう一人、現実の世界に、紫式部の身近に、空蝉と同じような身分の父親を持ち、桐壺更衣と同じように一人の皇子を生み、早世したお妃がいた。
 父親は参議・藤原兼輔。娘・桑子は醍醐天皇に入内、更衣となった。兼輔はその後、空蝉の父と同じく、中納言兼うえもんのかみ右衛門督まで出世して亡く なっている。
 桑子は帝の寵愛を受け皇子を生み、楓御息所と呼ばれるが、光源氏の母・桐壺更衣と同じく、皇子が三歳の時に死んでしまう。
 桐壺更衣のモデルの一人と思われる境遇の女人。
 藤原兼輔は紫式部の曾祖父なので、桑子は紫式部にとって大叔母に当たる。逢ったことのない過去の方とはいえ、一家にとっては自慢の親戚筋だったことだろ う。
 兼輔は娘を入内させた後、醍醐天皇のわが娘への寵愛が続くことを願って、
    人の親の心は闇にはあらねども
       子をおもふ道にまどひぬるかな
という歌を詠んでいる。そしてこの歌は、曾孫の紫式部が書いた源氏物語の引歌として最も多く登場する。
 源氏物語研究の大家・角田文衛博士の研究によると紫式部邸はもともと曾祖父兼輔の邸で、醍醐天皇と藤原桑子の間に生まれたたった一人の皇子、章明親王の お屋敷と隣接していた。空蝉の巻の舞台となった紀伊守の邸はこの兼輔の邸宅をモデルにしていると云われている。
 お隣が皇族のお屋敷で、しかも父親の従兄弟に当たる方。感受性豊かな少女であった紫式部に大きな影響を与えたのではなかったか。



                  第三章   中河の辺り


 京都市上京区寺町通広小路上ル北辺町廬山寺。通称「鬼踊り」と呼ばれる、節分の行事で知られる古刹がある。
 節分の日には境内で、赤青黒の鬼に紅白の餅と豆を投げて悪霊退散を祈願する「追儺式 鬼法楽」が行われ、善男善女が数多く参詣する。
 この寺の源氏の庭と呼ばれる所に、紫式部の邸宅址の石碑が建っている。
 江戸初期、源氏学を継承し後水尾天皇や母后・中和門院に『源氏物語』を進講した後水尾院の寵臣・中院通村はここ廬山寺に葬られているという。紫式部邸址 ということで、通村が望んだことなのであろうか。

 平安時代、京の東の外れ、東京極に当たるこの一帯は当時中河の辺りと呼ばれていた。
 この鴨川堤の一角に、醍醐天皇の寵臣であった藤原兼輔は、一年中花の絶えない美しい屋敷、堤第を構えたとされる。
 兼輔は高名な学者であり、また醍醐天皇の母方の叔父で、自分の従兄弟であり、妻の父である藤原定方などと共に、当時の歌壇の中心的な人物で、凡河内躬恒 や紀貫之などを後援したいわれる。初めは下級官吏に過ぎなかったが、醍醐天皇の即位後は、外戚として重用され、蔵人頭、参議、そして中納言兼右衛門督まで 出世した。
 兼輔は娘の桑子を醍醐天皇の許へ入内させたとき、娘への君寵が続くように願って歌を詠んだ。
  人の親の心は闇にあらねども
   子を思ふ道にまどひぬるかな
 兼輔のこの思いは、娘を入内させた貴族全員の思いであり、また人の子の親の切なる願いであったので、当時の人々の共感を得た。
 兼輔の曾孫である紫式部はこの歌を、源氏物語の中に繰り返し引用している。
 兼輔は鴨川堤のこの邸宅を、醍醐天皇の妃となった桑子の里第として恥ずかしくないように磨き上げていたことであろう。桐壺更衣の母親がそうであったよう に。
 まだ中納言にもなっていない参議の娘である桑子の後宮での立場はいかようなものであったろうか。
 醍醐帝の後宮に入った桑子は更衣となり楓御息所と呼ばれた。そしてまもなく、皇子を生む。大和物語、蜻蛉日記にも登場する章明である。
 しかし章明がわずか三歳の時、更衣桑子は没した。『源氏物語』で桐壺更衣が没したのも光君三歳の時。
 当時の貴族の慣習として、更衣桑子は宿下がりをして章明を実家である堤第で出産し、そこで養育され桑子亡き後も、そこで育てられたに違いない。
 兼輔は、この尊貴の血を受け継ぐ、しかも愛娘桑子の形見である孫、章明の皇子を溺愛したのではないだろうか。
 兼輔の邸宅は、兼輔の息子たちのものではなく、娘である桑子が伝領するのが自然であったと思われる。桑子の死後全財産は当然、ただ一人の子であった、章 明親王が受け継いだのではないだろうか。『源氏物語』でも光君が桐壺更衣の実家、二条院で生まれ育ったように。
  しかし、現実には兼輔の堤第は娘で醍醐天皇妃の桑子が伝領せずに、息子である雅正からその子為頼・為時兄弟が伝領し、紫式部の屋敷となった。
 どのような経緯で堤第を章明親王が伝領せずに、親王の従兄弟である藤原為頼・為時兄弟が伝領することになったのかわからない。
 現在、章明親王家は堤第つまり為頼・為時邸の北隣にあったとされている。
 兼輔は堤第の北隣も所有していたのだろうか。ともかく、両邸宅は隣り合っていたことになる。
 さて、源高明はじめ、醍醐天皇の皇子、皇女の多くが臣籍降下された中で、七歳になった章明は親王宣下された。その直前、藤原兼輔は除目で五人の上席を飛 び越して権中納言になっている。章明に親王宣下するための布石であろうか。ちなみに『源氏物語』では光君は七歳で臣籍降下され、光源氏の誕生となる。
 ともかくも章明親王は為時・為頼のお隣に住み、風流な親王さまとなった。 みなもとのしたごう源順が著した『本朝文粋』では「洛城以東有一勝地。都督大 王之深宮也。大王才華清英。徳宇凝遂」と讃えられている。
 またなかなかの遊び人でもあったらしい。『大和物語』にも艶聞を残す章明親王は、藤原道綱の母が綴った『蜻蛉日記』では藤原道長達の父親であった兼家の 上司として、兼家の妻のひとりである道綱の母親との疑似恋愛のような歌を交わしたり、兼家と町の女のもとへ出かけたりと、親しい交際ぶりが綴られている。
 皇族との親しい交際は道綱の母の虚栄心をくすぐったであろうし、なによりこの頃は道綱の母にとって夫兼家との関係が良好で、最も幸せな時期であった。
 為頼・為時邸の斜め向かい側には東京極大路を挟んで、人臣で初めて摂政となった藤原良房の邸宅・染殿があり、『伊勢物語』で業平との恋を描かれた藤原高 子はここで清和天皇の子・陽成天皇を出産している。
 その隣の清和院は清和天皇の退位後のお住まいだった。
 また隣は藤原道長の正妻、源倫子の父親、源雅信の邸宅、土御門邸があり、後年、倫子と道長は結婚後ここで暮らすことになる。
 つまりこの一帯は親王家、摂政邸、宇多源氏の邸宅等々、中級貴族の為頼や為時にとって眩い存在のご近所に囲まれた、高級住宅街だった。

  永観二年十一月四日庚戌。卜定伊勢斎王。弾正尹章明親王女済子女王卜食。  (『日本紀略』)
 永観二(九八四)年八月、円融天皇が退位され、十月、甥の皇太子・師貞親王十七歳即位。新帝は花山天皇。

 章明親王家の三の姫の慶子女王は花山天皇が十月十日の即位式でお座りになるたかみくら高御座のとばり帷を掲げる左けんちようのにようおう褰帳女王という 儀式での重要な役を務めている。(この時右褰帳女王を勤めたのは、明子女王。つまり後に藤原道長の妻となって高松殿と呼ばれる源明子。父源高明が安和の変 で失脚後、明子は叔父・盛明親王の養女となっていた)
 さらに十一月四日二の姫のなりこ済子にょうおう女王が伊勢斎王に卜定された。
遡って円融天皇の御代には章明親王の一の姫隆子女王が四十三代伊勢斎王に卜定されていた。しかし隆子女王は在位わずか三年で天延二(九七四)年、斎宮にて 病没。
 死去した隆子女王の代わりの斎王として従姉妹に当たる村上天皇皇女規子内親王が卜定された。この伊勢下向には、異例のことながら母親が同道した。『源氏 物語』のヒロイン六條御息所のモデルとされる斎宮女御徽子女王である。
 そして円融天皇の退位により、規子斎王も退下。再び章明親王家から斎王が卜定された。
 一の姫の隆子女王が、斎王在任中病死するという、不吉の際たるものであったのに、なぜ、再び章明の娘に白羽の矢が立ったのかは不明である。
 章明親王家と花山朝は深く結びついていたのではないだろうか。
 済子姉妹と花山天皇の最愛の妃、ふじわらのよしこ藤原忯子は母親が共に藤原敦敏の娘、つまり姉妹だったようである。済子姉妹は花山天皇が天皇の位を捨て るほどに溺愛した妃忯子とは従姉妹ということになる。
  紫式部家はとみれば、父為時は花山天皇の皇太子時代の家庭教師であり、花山天皇が即位してからは式部丞という官職を得ている。紫式部の式部という呼び名 も、父のこの時の官職名が由来だとも言われる。夫となる藤原宣孝も花山朝の官吏であった。さらに済子女王が花山天皇の伊勢斎王に卜定された旨を伝奏する宮 中からの使者には「(章明親王の従兄弟という)縁あるによりて」という理由で紫式部の伯父為頼が選ばれ、章明親王家に出向いている。
 花山天皇の叔父義懐と紫式部の姉妹との縁戚関係もあったとされ、花山天皇を軸に、章明親王家と紫式部一家はかなりの深い交流があったのではないだろう か。

  寛和元年八月二十六日丁卯。伊勢斎王野宮点地也。   (『日本紀略』)                                           
  九月二日癸酉。伊勢斎王済子女王行中河家禊東河。入左兵衛府。      (『日本紀略』) 
 寛和元年(九八五)八月二十六日には、野宮を建てる位置が卜占され、済子斎王は九月二日、中河の邸を出て、鴨河で御禊をして宮中の初斎院にあてられた左 兵衛府に入った。

  九月二十六日丁酉。伊勢斎王(済子)自左兵衛府、禊鴨河入野宮。野宮雖未造畢。依不可過今月。所令入也。又禊所前野有火。遣人見之。葬送火也。諸人恠 之。        (『日本紀略』) 
 九月二十一日には斎宮の禊の地が決まり、九月二十六日には早くも左兵衛府を出て鴨河で御禊。野宮に入った。野宮の建物は未完成であり、異例尽くめであっ たが、これを除いては日がないとのことで慌ただしい野宮入りとなった。しかもこの時禊所の前方に火が見え、人を遣わして確かめると、それは葬送の火だった ので、人々はあや恠しい、不吉だと囁いた。

  九月二十八日己亥。夜。盗入野宮。盗取侍女衣裳。未有如此之事。     (『日本紀略』)
 野宮に入ってからも、盗賊が闖入して侍女の装束が盗まれるという今までに聞いたこともない事件が起こった。後で考えると、全てが前代未聞のスキャンダル を暗示しているような不吉・不祥事の連続であった。

   寛和二年、六月十九日丙辰。伊勢斎王済子於野宮與瀧口武者平致光密通之由風聞。仍公家召神祇官令仰祭文。近四日。遠七日。祈申此事之實否。     (『日本紀略』)
 寛和二(九八六)年六月十九日、秋の伊勢群行を前に、嵯峨野の野宮で潔斎中であった花山天皇の伊勢斎王と警護の滝口武者との密通が発覚した。
              
 瀧口武者致光は済子斎王付きの女房、宰相君を語らって、斎王に近づき密通事件に及んだという。
 天照大神と天皇の杖代わりとなって奉仕するべき御杖代である斎王の密通は、天皇の名誉のためにも秘して処理すべきことである。
 『伊勢物語』では斎宮寮に於いて斎王と在原業平の一夜の契りを匂わし、高階家はその時にできた子どもの子孫だという。業平の子を身籠もったという内親王 は、そのまま斎宮の任を全うしている。斎王の立場や天皇の名誉を気遣って、周辺がもみ消したのだろうか。
 藤原師輔に降嫁した源高明の姉雅子内親王も伊勢斎王に卜定された前後、藤原敦忠と恋の噂は立ったが、これもまた噂だけで奏上などという公にはされず、済 子のような騒ぎにはならなかった。
ところが済子斎王密通の風聞はすぐに朝廷に奏上され、宮廷は騒然となった。
 国家の神事の根幹を揺さぶるこの大事件の発覚わずか四日後、今度はあろうことか十九歳の花山天皇ご自身、宮中を抜け出して山科の元慶寺で出家、退位を余 儀なくされ、花山王朝はわずか二年足らずで崩壊した。一日も早い外戚の地位を狙った藤原兼家、その息子道兼等の策謀の罠にかかったのであった。
 このために中級貴族である藤原為時はようやく得た式部丞の官職を失い、その後十年間、散位(=官職に就けないこと)に甘んじなければならなかった。この 時花山王朝の同僚で、後年娘紫式部の夫となる藤原宣孝も失職している。
 花山王朝崩壊の嵐に紫式部の一家は巻き込まれてしまったのであった。
 そしておなじ中河の地に暮らしていた済子女王は廃斎王の汚名を着せられ野宮を追放された。その後女王はどうなったのか。
 後日の記録に公家達が鴨川の遊覧で、親王邸の庭を平気で横切っていくなど無礼な振る舞いがあったことが、残されている。美しい中河の邸宅は荒れ果て、庭 か通路なのかわからなくなっていたような雰囲気である。
 廃斎宮となった済子を中河の屋敷に引き取って、章明父娘は世捨て人のような暮しをしたのだろうか。
 千年の昔、少女の紫式部はお隣の又従姉妹の悲劇をどう受け止めたのであろうか。
 鴨川縁の邸に暮し、同じ水音を聞き育った、年上の宮家の姫君の数奇な半生は、多感な少女、紫式部に多大なものを残したのではないだろうか。
 宮家の不祥事は一族の不名誉として、決して口には出さない固い決心があったのだろうか。
 式部が、「帚木」の巻、「空蝉」の巻や「花散里」に描いた中河の屋敷、「賢木」の巻に描いた野宮には済子の影は寸分もない。
 空蝉香を考案された女院は、済子女王の悲劇をご存知なかったであろうか。源氏学を講じながら、中院通村は後水尾院や妃達にそのような話はしなかったので あろうか。

 空蝉香という組香で遊びながら、思いは限りなく拡がっていく。