招待席
つのだ ぶんえい 歴史学者 文学博士 大正二年 平成 年 福島県伊達郡桑折町に生まれる。京都帝国大学卒 大阪市大教授を経て、平安博物館館長兼
教授、同改組後の古代学研究所所長兼教授、古代学協会理事長。古代世界の諸相にわたって実証を重んじた研究業績は莫大に及ぶ。 掲載作は、昭和五十八年が
三月学燈社刊『王朝史の軌跡』所収。昭和五十二年一月「別冊歴史読本」第二巻第一号に初出。一条天皇の時代は、まさしく枕草子、源氏物語、栄花物語、藤原
道長の時代であったと云うだけで、その歴史的な意味の重さは推し測られよう。聖帝ともたたえられたこの天皇の時代を史実として承知することの、数々の古典
の名作を理解するに資する意義は、たやすく察しられる。なお博士は、高貴の女性の名を定子=ていし とはよむべきでない さだこ とよむのが正しいとされ
ている。 (秦 恒平)
一条天皇 角田文衛
一
一条天皇は、十世紀の末葉から十一世紀の初めにかけて二十五年間在位した天皇である。それは平安時代の中頃に当たり、最も安穏平和な時代であったが、天
皇
はいかにもこうした時代にふさわしい温厚で教養の裕かな君主であった。
一条天皇は、譲を懐仁(かねひと)と言い、円融天皇の
第一皇子、より精確に言うと、円融天皇の一粒の皇子女であった。円融天皇の後宮には、関白・兼通の娘のテ
ル子(=女ヘンに、皇)(九四七−九七九)が皇后となっていたが、この皇后は一人も皇子女を産ま
ず、天元二年(九七九)六月に早世した。また関白・頼忠の娘で、天元元
年に入内した女御の遵子(のぶこ)(九五七〜一〇一七)は、後に『素腹の后(すばら の きさい)』と呼ばれたように、子を産めぬ体質であった。その点、皇子・懐仁は、幸運の星
の下に生まれたと言えよう。
一条天皇の母后の詮子(あきこ)(九六二〜一○○一)は、大納言・藤原兼家の第二女であって、天元元年八月に入内し、同年十一月、女御に任じられ、正四
位下を授けられた。『梅壷の女御』と呼ばれていた詮子は、天元二年に懐妊し、翌三年六月一日の寅の刻、父・兼家の東三条院(二条大路南・西洞院大路東)に
おいてめでたく皇子を産んだのであった。皇子はやがて大江斉光の撰上によって懐仁と命名され、
藤原繁子(師輔の娘。従って皇子・懐仁の叔母)
橘 徳子(播磨守・仲遠の娘。参議・藤原有国の妻となり、資業らを生んだ)
らが乳母に採用された。皇子の誕生は、兼家もさることながら円融天皇にとってもこよない慶びであったから、皇子は間もない八月一日、親王に宣下されたので
あった。
女御・遵子の父の藤原頼忠(九二四−九八九)は、関白太政大臣に在任していたのみならず、系図に見る通り、摂関家の嫡流(時平の子孫)であった。天元二
年六月に皇后・テル子が崩ずると、円融天皇はそれを慮り、子はなくとも遵子を先ず中宮に立てようと意図された。その風評が流れると、右大臣・兼家は参内を
やめて自邸に籠り、露骨に不満の意を表した。天元五年(九八二)三月、遵子が中宮に立つと、兼家の不服は一層募った。つまりただ一人の皇子を生んだ女御を
さし措き、『素腹の女御』を后に立てることに兼家は我慢がならなかったのである。
こうした事情から梅壷の女御の詮子も出産いらい参内せず、里第にとどまっていた。円融天皇は、関白・顔忠との関係から止むをえず遵子を先ず中宮に立てたが、いず
れ懐仁親王は位に登り、その際に生母の詮子は后に立てられるのであるから、兼家はそう不満を覚えなくてもよかろうと、考えられていたようである。同じ天元
五年の十二月七日、親王は生母の女御・詮子と共に参内し、御袴着の儀をすまされたが、親王が参内されたのは、この時だけであって、後はひたすら東三条院に
あって成長されたのである。
永観二年(九八四)の八月、円融天皇は、位を皇太子・師貞親王に譲られた。皇太子(花山天皇)は受禅すると共に、先帝の命を奉じて懐仁親王を皇太子に立
てられた。太子は、直ちに東三条院より参内し、母女御の局である凝華舎(梅壷)を御所とされ、こうして兼家の一族はようやく愁眉を開いた。花山天皇の曽祖
父たる摂政太政大臣・藤原伊尹(これただ・九二四〜九七二)は早く世を去っていたから、皇太子の外祖父に当たる右大臣・兼
家は、自ら政界に重きをなすに至ったのである。
兼家は、外孫に当たる皇太子・懐仁親王が一日も早く天位に登ることを切望していた。そこで彼は奇計を案
じ、花山天皇の譲位を策した。彼の策謀に乗じられた花山天皇は、寛和二年(九八六)の六月、にわかに剣璽を東宮に授けた上、側近に知られぬよう秘密裡に内
裏を出御し、花山寺に入られた。そこで上皇は、権僧正・尋禅を戒師として出家されたことであった。
このようにして懐仁親王は、六月二十三日に践祚し、直ちに外祖父・兼家を摂政に任ずると共に、兼家の外孫の居貞親王(後の三条天皇)を皇太子に立て、ま
た生母の女御・詮子を皇太后とされた。当時、一条天皇はまだ七歳の少年であったから、これら一連の人事が摂政・兼家の方寸に従ってなされたことは、言うま
でもないのである。
ニ
ー条天皇の治世は、寛和二年(九八六)六月から寛弘八年(一○一一)六月まで二十五年に及んだ。伝染病の流行と言うことを別とすれば、それは平安時代の
うちでも最も平穏無事な時期の一つであった。
天皇の践祚と共に兼家は摂政に就任し、永年の望みをかなえることが出来た。天皇は、寛和二年において七歳であり、生母の詮子は兼家の娘であったから、政治は摂政・兼家の思う通りに行われた。永祚元年
(九八九)の十二月、兼家は太政大臣に任じられた。それに彼の息子たちは、轡を並べて昇進していたから、晩年の兼家は栄達の限りを尽くしたと言える。翌
年、つまり正暦元年(九九〇)の五月、兼家は病によって摂政太政大臣を辞し、関白に任じられたが、それも三日間で辞し、出家入道した。
この年の正月五日、一条天皇は十一歳をもって元服された。同月二十五日、兼家の一男である内大臣・道隆(九五三−九九五)の娘の定子(九七七−一○○○)が入内し、二月十一日、女御とされた。定子は天皇より三つ年長であっ
たが、この入内は兼家が予め指示していた方針に沿ったものであった。
兼家は、同年(正暦元年)の七月二日、東三条院において栄光に溢れた生涯を閉じた。道隆は、嫡妻腹の一男として父の後を継承し、藤原氏の氏長者となっ
た。一条天皇は既に元服されていたけれども、まだ十一歳の少年であったので、道隆は関白ではなく、摂政として国政を統理したのであった。
一条天皇に侍した東宮学士は高階成忠であり、侍読の方は大江斉光や大江匡衡であった。天皇の漢学に関する素養は意外に深く、詩文にも長じておられた。高
階氏はもともと儒者の一族ではなかった。成忠は外祖父(文章博士・藤原博文)を通じて儒学を研鑽し、康保元年(九六四)には早くも大学頭に任じられてい
た。しかし成忠は、政治的な関心も旺盛な人物であって、つとに兼家の前途を洞察して娘の貴子を道隆の嫡妻に配し、かつは東宮学士として親しく天皇の教育に
与ったのである。正暦元年に女御となった藤原定子は、成忠の外孫であり、こうした諸関係を通じて成忠は地歩を築いて行ったのである。
正暦元年十月、定子は予定通り中宮に冊立された。こうして道隆やその息子たち──伊周(これちか)と隆家──は、わが世の春を謳うこととなった。道隆の
嫡室の高階貴子は正三位典侍(ないしのすけ)に叙任されたし、余慶は成忠にも及び、彼は従二位と言う破格の位を授けられた。
正暦四年(九九三)の四月、道隆は摂政を辞し、関白を命じられた。彼は豪放な性格で、斗酒なお辞さぬ愛飲家であったが、洗練された趣向をも備えていた。
彼は、中宮・定子の衣装や鋪設に善美を尽くすと共に、女房には才媛を選(すぐ)って採用した。道隆は若いながらも威厳があり、ために誰一人、自分の娘を後
宮に納れようとはしなかった。道隆の弟の道長は中宮・定子をお世話する中宮大夫の任にあり、うやうやしく兄に仕えていた。
中宮・定子ほ、教養が裕かで聡明な人柄であり、また情緒に富んでおり、かの清少納言が心から傾倒し、思慕しただけの女性であった。一条天皇が生涯におい
て最も熱烈に愛されたのは、この中宮であった。中宮の局は、麗景殿であったけれども、他に后妃はいない当時のこととて、天皇、中宮は、普通の夫婦のよう
に、清涼殿の上御局などで一緒に起居されていた。
清少納言の『枕草子』は、一条天皇と中宮・定子を中心に集うた一流の殿上人たちが醸した、文化の馨りの高い宮廷生活の趣を、精彩に富んだ軽妙な筆致で描
いた回想録である。そこには一条天皇の私的な面、つまり歌人、詩人としての才幹、音楽に対する趣向、もの柔らかで思い遣りのある性格などが巧みに述べられ
ている。
『枕草子』(第二九五段)によると、正暦五年(九九四)の夏のある夜、清涼殿の北廂に参上した権大納言・伊周は、天皇や中官に夜の更けるのも忘れて漢籍
のことなど奏するのであった。時刻はすでに丑の四刻(午前三時半頃)を過ぎ、眠気を催された天皇は、柱によりかかってまどろまれた。それでもなお伊周は、
中宮や清少納言らに向かって説明を続けるのであった。この時、女童が上長押の間木(棚のような置物)に隠していた鶏を犬が嗅ぎ出し、けたたましく吠えたの
で、天皇も女房たちも驚いて眼を醒ましてしまった。すると間髪をいれず伊周は、
声、明王の眠りを驚かす。
と、都良香の詩の一節を高らかに吟誦したことであった。天皇も中宮も、『いみじき折のことかな(折にぴったりあった句ですね)』とこもごも興じられたと言
う。
伊周の性格はやや軽薄ではあったが、その漢学の素養は並々ではなかった。彼の母の貴子は、『忘れじのゆく末まではかたければ』の作者であり、歌人として
も知られている一方、漢学に精通していることでも有名であった。清少納言が憧憬の眼差しをもって見上げていた伊周は、多分、母から学藝的な素質を承けたの
であろう。『枕草子』はまた中宮・定子が琵琶を弾き、殿上人たちがそれぞれ笛、箏の琴、笙などを合奏する愉しい管絃の遊びの光景などを伝えている。まこと
にそれは、江戸城の大奥などでは想像も出来ぬほど光耀にみちた文化的サロンであった。
中関白家──関白・道隆とその家族──の運命は、長徳元年(九九五)四月における道隆の薨逝によって暗転した。兄・道隆の後を継いで関白となった道兼
(九六一 九九五)は、『七日関白』と言われたように、在任七日間で急逝してしまった。一条天皇は、熱愛する中宮の実兄であり、かつ才学に富んでいる内大
臣の伊周に関白を命ずることに傾いておられた。しかし直ぐ下の弟の道長を特別に愛されていた母后の詮子は、涙を流しながら天皇を説得し、天皇も根負けして
遂に内覧の宣旨を道長に下されたのであった。時に道長は三十歳で権大納言の任にあったが、六月には右大臣に、そして翌二年七月には左大臣に進められた。し
かし一条天皇の治世を通じて、道長は内覧の宣旨を蒙っていただけで、遂に関白には命じられなかった。道長を『御堂関白』と呼ぶのは俗称である。内覧の職権
は、関白と殆ど変わりはないけれども、道長は遂に関白を命じられなかったのである。
道長を内覧の右大臣に抜擢したことは、当然、彼と内大臣・伊周との厳しい対立を招いた。長徳二年に起こった伊周・隆家の配流事件の真相は、必ずしも明確
ではない。それはともかく、天皇には、自らの手で直接事件を究明する慣例はなく、調査に基づいて型通りの勅裁を下すほかはなかった。天皇は中宮の激しい悲
嘆や親愛な伊周らの運命を想い、どれほど苦悶されたにしても、治天の君として配流の罪科について勅裁されねばならなかったのである。
三
長徳年間には、道長の勢威はまだ圧倒的でfなかった。そのためもあって、道長は、右大臣・顕光、大納言・公季、乳母の典侍・繁子がそれぞれ娘を後宮に納
れることを阻止できなかった。一条天皇は、義理の上から三人の女御を迎えられはしたけれども、中宮・定子に寄せる愛情はひたむきであった。中宮は、長徳二
年十二月、第一皇女の脩(ながこ)を産まれたが、長保元年(九九九)十一月には、第一皇子の敦康を無事出産された。天皇は皇子の誕生に狂喜し、翌年には皇
子に親王の宣旨を下されたのであった。
その間に左大臣・道長の第一女の彰子(あきこ)も成長した。長保元年の十一月、彰子は花々しく入内して女御となり、藤壷を局とした。しかし彰子は、まだ
十二歳の少女であった。
長保二年の二月、定子は中宮より皇后に転じ、彰子は中宮に立てられた。当時二十一歳の天皇にとって、いかに華美を凝らしても、中宮・彰子との営みは雛遊
びのようなものであり、天皇はとかく里第(三条坊門小路北・東洞院大路東)に籠る皇后に恋々とされていた。長保二年の二月、久しぶりに参内した皇后は、天
皇の愛寵を蒙って懐妊された。同年十二月、皇后は里第において第二皇女・ヨシ子(=女ヘンに、美)を出産されたが、後産が出ずにそのまま崩じ、二十四歳と
言う若い命を絶たれた。清少納言は、最後まで皇后に侍した忠実な女房であった。
やがて后の亡骸は鳥辺野に運ばれ、荼毘に付された。その夜(十二月二十七日)、天皇は夜大殿に入られず、涙の袖を絞って夜を明かされた。この時詠まれた
歌、
野辺までに心ばかりほ通へども
わが行幸とも知らずやあるらん
は、人々に深い感銘を与えた。
一条天皇は、内裏の運が悪かった。すなわち、長保元年(九九九)六月、内裏は炎上し、新造された内裏は、長保三年十一月にまた焼亡した。ついで新築され
た内裏は、寛弘二年(一〇〇五)十一月に三たび目の火災に罹った。翌年、内裏は再建されたけれども、天皇は縁起が悪いとしてもはや内裏に還幸しようとはさ
れず、播磨介・佐伯公行が母后に献上した一条院(一条大路南・大宮大路東)を専ら御所とされるようになった。『源氏物語』は内裏を舞台とし、それに関して
詳しい記述がみられるけれども、少なくとも一条天皇の治世において、紫式部は内裏で宮仕えしたことはなかったのである。
一条天皇の母后の藤原詮子(九六ニ 一〇〇一)は、なかなか威厳のある女性であり、また政治への容喙も辞さぬ人であった。天皇が受禅後ただちに女御・詮
子を皇太后とされたのは当然であるにしても、天皇は事毎に母后に対し恭謙な態度をとっておられた。正暦二年(九九一)の九月、皇太后が病のため落飾される
と、天皇は母后に『東三条院』と言う院号を贈り、上皇に准ずる待遇を上られた。これは女院の嚆矢であるが、母后の御所である東三条院の名を院号とされたの
であった。女院は、母后として天皇の身辺に絶えず気を配られ、中でも皇后・定子が遺した皇子女を暖かく遇しておられた。恐らく清少納言なども、女院の意向
によってヨシ子内親王の養育のため、宮仕えを続けたことであろう。
一方、あどけなかった中宮・彰子も、やがてたおやかな女性へと成長した。それに中宮をとりまく女房たちは、紫式部、赤染衛門、和泉式部、伊勢大輔など絶
世の才媛ぞろいであり、目も眩むばかりのきらびやかさであった。故皇后への追慕や母后を喪った皇子女に対する配慮は別として、天皇がそうした新しい雰囲気
の中に融け込んで行かれたのは、自然ななりゆきであった。藤原元子ら三人の女御たちは、中宮の隆昌と道長の威勢に気圧され、殆ど里第に籠ったままであっ
た。
一条天皇は英君ではなかったにせよ、気の優しい、まじめな君主であり、公事を疎かにされるような方ではなかった。学藝にも理解が深かった。長徳二年(九
九六)正月の除目で、紫式部の父の藤原為時が期待した越前守に任じられず、淡路守を命じられたことを悲しんで上った申文の字句に感泣され、越前守に任じら
れた源国盛の辞書を停め、更めて為時を越前守に任命されたことは、よく知られた逸話である。
一条天皇は、延喜・天暦の治を見倣われたためか、関白を置かず、道長を内覧のままにとめおかれた。しかしそれは名目上の制約に過ぎず、道長の実力は逐年
強化されて行った。聡明な道長は、摂関家を主とする藤原氏が松の幹(天皇家)に巻きついた藤蔓であることを熟知していたから、彼は天皇を自家薬籠中の物に
化そうとは図っても、皇位を覬覦(きゆ)したり、天皇を廃黜(はいちゅつ)したりしようとは毛頭考えていなかった。無論、時として道長は、天皇の叡慮にそ
むくこともあった。
寛弘五年(一〇〇八)の九月・中宮・彰子は土御門殿(土御門大路南・東京極大路西)において皇子・敦成(あつひら)を産まれた。その情景は、『紫式部日
記』を通じて周知されている。寛弘八年六月の譲位に際して、天皇は次の東宮には、皇后が遺した敦康親王を立てようと切望された。また敦康親王を猶子のよう
にされていた中宮・彰子も、父・道長にそれを要望された。しかし道長は頑として承引せず、好機逸すべからずとして敦成親王を皇太子に立て、一条上皇や中宮
の悲嘆を買ったのであった。
『古事談』によると、上皇の崩後、御手筥にあった手習の反古類を道長が整理していると、『叢蘭欲茂秋風吹破。王事欲章讒臣乱国。叢蘭茂(も)えんとすれど秋風吹破る。王事章(あらは)れんとすれど讒臣国を乱る』
と書かれた反古(ほご)
が目についた。道長は、自分のことを思って書かれたのであろうと考え、それを破り捨てたと言う。これまた有名な逸話である。そうした摩擦も折々はあったに
相違あるまいが、天皇がいつも道長に不満を抱いておられたなどと推量するのは、行き過ぎであろう。
平安時代の文化は、平穏なこの一条朝において一つの頂点に達した。天皇は、温厚で教養に富んでおられたし、道長は文化人として見ても一流の人物であっ
た。大江匡房の『続本朝往生伝』には、一条朝にあっては、あらゆる分野に亘って素晴らしい人材が雲のように輩出したことが具体的に述べられている。天皇
も、『我人を得たる事、延喜(醍醐帝)、天暦(村上帝)にも(勝っている)と御自讃有ける』(『十訓抄』)と伝えられている。天皇は、毎日、日誌をつけて
おられた。この『一条院御記』七巻ほ、宮中には鎌倉時代の末まで、また勧修寺家には応永の頃まで伝えられていた。しかしその後、大部分が失われ、今日では
三、四条が知られているに過ぎない。
寛弘八年において一条天皇は三十二歳になっておられた。この年に入った頃から天皇は譲位を志されるようになったが、道長はこれを諌止していた。しかし五
月下旬に至って天皇は病に臥し、死期を覚られたらしい。よって天皇は天下に大赦し、また皇太子・居貞親王を一条院に喚び、後事を託された。
六月十三日、一条院において譲位された後も、一条上皇の病勢は快方に向かわれず、六月十九日、慶円僧正を戒師として一条院において出家され、法名を精進
覚と称し、妙覚と号された。ついで中宮には、
露の身の草の宿に君をおきて
ちりをいでぬることをこそおもへ
と言う辞世を贈られた。そして二十二日の午の刻、念仏を唱えながら崩じられた。中宮、皇子女、近臣、女房たちの悲傷は、言うも愚かであった。
上皇(法皇)の亡骸ほ、六月二十五日、乳母子の藤原資業や近臣たちによって入棺(にっかん)され、七月八日、北山の長坂野(巌陰)において荼毘に付され
た。後にその地には火葬嫁が営まれた(円融寺北陵)。御骨は、翌日、鹿ヶ谷の円成寺(えんじょうじ)に運び、しばらくそこに奉安された。その後、山陵は衣
笠山の支峰の朱山に造営され、それが一条天皇とみなされているが、実のところ、山陵の精確な位置はさだかではないのである。
その年の冬、赤染衛門は所用で一条院の前を通った。以前とうって変わり、一条院には人気もなく、ひっそりとしていた。車を院内に引き入れて見ると、前栽
もすっかり霜枯れしているのも哀れであった。かつては衛士が警備に用いていた火焼屋(ひたきや)を見て、彼女は次のように詠じ、昔を偲んだ。
消えにける衛士の焼火(ひたき)の跡をみて
けぶりとなりし君ぞ悲しき