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秋成生母の死と京の袋町
秦 恒平
「実母只一面耳」と最晩年、秋成は書いた。同じ頃べつに「四歳母マタ捨ツ」とも書いた。が、四歳で自分を捨て、以後一度逢ったというだけの実母の法名と祥
月命日とを秋成は知っていた。
その「実妣法名妙善」はともかく、秋成が実法院主に届けた「明和九年(庚子)五月二十九日」の命日は、「安永九年」の間違いと、ほぼ問題なく修正承認さ
れている。明和九年は十一月十六日に安永と改元され、しかも庚子でなく壬辰だというのが理由になっている。明和九年は秋成三十九歳で、安永九年には四十七
歳になっている。
この年齢の差は無視しにくい。秋成が実母の死にどう応じえたかに関わる大事なところ、定説にそう無条件に応じていいか。
実法院主あての書簡は寛政十二年秋成六十七歳の時のもの、明和か安永かいずれ二、三十年は隔たる身依の没年を、紀年と干支と、ふつうどちらで記憶してい
るものか、「明和九年」が頭にあり、九年九年と呟きながら手控えの干支を探してふと安永のを鵜呑したとも考えられ、間違うなら安永を明和によりは、壬辰を
庚子にの方がありえそう、と私は思った。
そればかりか秋成は安永九年十月、京都に遊び、修学院離宮を拝して『藐姑射山』を書き、冬には『去年の枝折』で、前年秋、妻たまと城崎温泉に入浴した思
い出を新たに筆にしている。しかもこの年、大坂淡路切町に家を買って改築し、翌天明元年春新宅に移っている。これらの文章や行為に生母と永別の影もさして
いない。喪中の感が全然ない。無縁に徹していたからとも思えるが、それほどなら二十年後、実父は措いて「只一面耳」の生母の法名や命日をさながら遺書のて
いで実法院主に告げて行くこともなかったではないか。
一方の明和九年(安永元年)はどうか。かろうじてこの年師走三日に「上田秋成門人藤提蕪」による『古今序聞書』が成ったほかは、年譜的にほぼ空白になっ
ている。生前とくに親しかった高井几圭追善の句集にも、編者几董は行方知れない秋成の名を省くに忍びず、はからって旧作一句を採るしかなかった。
秋成の一家はその前年正月のうちに火災に遭い、家産悉くを失っていた。秋成は生涯の岐路に立ち、父亡く姉亡く、「泊然としてありか定めず」と『自伝』に
書かねばならない無宿流浪の暮しをよぎなくされていた。各所を転々したかの述懐もあって、確かなのは翌明和九年、「なんにもしつた事がない故、医者を先学
びかけた」こと、その間をどこに身を置いたか、どんな手段で「医者」の学びが可能だったか分らない。妻がいた。恩義ある二人めの養母も一緒だった。妻の母
まで伴っていた。世間は、産を失った秋成一家に温かくはなかったらしい。
秋成は『自伝』に明記している、「家は火に亡び宝は人に奪はれ、三十八という歳より泊然としてありか定めず住みわずらふほどに母もなく成り給ひて」と。
学者はこの「母」を秋成が五十六歳で黄泉路に送った第二の養母というが、そう粗放な文脈ではないだろう。生母との「只一面」が翌三十九歳の年にどこかであ
りえて、それがほぼ同時に母子永別の機会になったのではないか。その直後に秋成が医を志した動機は、なりわいより何より生母の病死、難病死に遭ってきた体
験ではなかろうか。
私は二度三度、御所市の名柄や増を訪れて高田衛氏の説にすでによほど堅く与して居り、名柄末吉家と堂島嶋屋が秋成出生以前からたんに取引関係以上の親族
であったこと、第二の養母は秋成生母の妹か姪かいずれ母代りに、むしろ秋成のために末吉から再度嫁いだ人であったこと、秋成は嶋屋の娘つまり義姉との間に
許婚者たることが約束されて養なわれたこと、それでとくに第二の養母が優しかったことや姉の家出に信義を重んずる養父が激怒したことなども納得しやすいこ
とを、私は想像してきた。
それならば明和八、九年、落着くところ養母の縁、ひいては生母の縁で大和国名柄の末吉家を頼むしかない秋成らの成行だったし、余儀ないその一時しのぎの
期間が年譜上の空白になったのは、むろん生母そして実父につながる出生の秘密を、世間にそれと知られまい秋成一族の堅い意志も物を言っている。放蕩無頼な
がら実父が武家の名家の血筋では、関係者は堅く秘密を守るよりない。いずれ生れた子と産んだ母を引き分け、母は再び嫁いだかどうか、とまれ「只一面」はそ
のまま母と子の死別の時だった。それが明和九年であっていい事情は、安永九年より出揃っていると私は見ている。「三十八といふ歳より泊然としてありか定め
ず住みわずらふほどに母もなく成り給ひて」という「母」は、生母のほかに考えようがない。なぜなら秋成は翌る安永二年にはもう、ともあれ大阪郊外の加島村
つまり「長柄」の里に居を定めて、かつは古典の研究に励みはじめているのだから。
「日本文学」一九七九年二月号
*
御所市増の中村英之介氏が亡くなられた。ご遺族のお知らせを受けたとき、温容とともに、増の、中村さんのお家、いわゆる小堀家代官屋敷をいつも日盛りの
なか二度三度と訪れたつどの、ふしぎに実家へでも帰って行くようなあの懐かしさがこみあげて来た。高田衛氏の論文にたまたま触れ、猛烈に刺激されて、まだ
勤めのある時分であったが、やむにやまれずぶっつけに御所市まで出向いたものだ、聳える金剛・葛城をさながら仁王立ちのようにふり仰いで、なぜか嬉しくて
嬉しくてしかたなかったのを思いだす。
とはいえ、それと同時に約束を、秋成を書く約束をなかなか果たせぬ不甲斐なさにもしたたか見舞われ、思わず訃報を手に、しおたれてしまった。なにしろ秋
成を書こうとは、優れた秋成学者で名古屋大学(現在は東大教授)の長島弘明さんが、まだ東大に在学され、学生として私に五月祭での講演を依頼にみえた昔か
らの古い証文なのである。この先もまだ担って歩く重い宿題ということになる。
秋成の名にひかれたのは、雨月物語の作者とはたとえ聞いていたにしても、たぶん作品を読むより、だいぶ先のことであった。
私は京都市東山区の知恩院新門前通で育ち、大学を了え東京へ出るまでそこに暮らしていた。この東西に通じた新門前通を東へ、交差した広い東大路をまだ東
側へ踏み越えたさきに松原町というちいさな町内があった。同じ小学校へ通ってくる生徒数も松原町からの子はいちだんと少なかった。その狭い町内に、東大路
(東山線)から東むき、ものの六、七十メートルも突っ込んだ行き止まりの道があり、頼山陽の子孫の住まいが現に在ることでも近隣にいささか知られて、「袋
町」と呼ばれていたのである。古地図には「袋丁」とある。
秋成はここに一時住んでいた、いや、二度住んだようだ。そういうことも幼いままに聞き知るほど、新門前通での暮らしに秋成の名前はなお余韻をとどめてい
たのである。
なんで、あんなとこィ秋成いう人は、宿替えして来ゃはったんやろ。
こういう不審を抱きうるのは、ご近所者のいわば特権である。しかし解きがたい不審でもある。
秋成の袋町住まいは、寛政五年、難波の地を去って京へ居を移したそもそも最初の折りであった。鴨川の東ではあるが、新門前・古門前通りからこの袋町へか
けては町屋として早くに開け、行政区的にも洛中なみに下京内に扱われていたが、そんなことより何より、はるばる難波からの移転とあれば、移転先との、何か
しら「縁」が必要であったろう。たとえば村瀬栲亭のような知友が同じ袋町のに住んでいたのも「縁」であったか知れない。しかしその程度なら、妻の縁につな
がる松村月渓の家の近くへでもよかったろう。月渓は当時京のまんなかと言って差し支えない辺りに住んでいた。
繁華をいとい閑静を好んだからという推測もあろうが、やや理由とするには弱いナと、そんな気もした。
そこでいま少し「袋町」辺の地理を紹介しておくが、京の四条通を東へとんと当たつた正面が八坂神社石段下であるのは、多くの人がご存じである。祇園会の
本社である。、この石段下を南北に走る大路が東大路で、土地の者は市電開通のために開かれたと言えるこの大路を「東山線」と呼んできた。
道路というのは大昔からあったとつい錯覚しがちであるが、東山線は少なくも明治時代にはまだ現在のようには通っていなかった。石段下から北へ富永町・末
吉町・新橋通とここまでが祇園花街つまり廓である。ついで新門前・古門前通が並ぶが、その先は北へびっしり民家に塞がれていた。大路の影もなく、知恩院下
古門前通より北へは、白川に沿い斜め東へ柳並木と石橋との美しい白川筋が三条大通ま繋がっていたに過ぎない。
言うまでもない知恩院は、有事の際に徳川方が京攻めの拠点としていわば築城していた浄土宗総本山であってみれば、祇園社から知恩院三門・古門の前を東海
道へ繋いだこの旧道が、どんなに大事な幹線道路であったかは察しやすいのであるが、袋町はまさにその道路の中程に、白川や知恩院の景勝に接してひょこんと
引っ込んだ、文字どおりの閑静地なのであった。
そればかりかこの「袋町」を中心に、祇園石段下からちょうど古門前までの「東山線」を、私たちは久しく「こっぽり」と呼びならわして来たのである。舞子
の履く木履を「ぽっくり」と訓む土地柄であり、書いて「小堀」を訓んで「こっぽり」はごく自然なのであるが、なぜ「こっぽり(小堀)」通なのかは大きな地
誌の類も明かしていない。
小堀通のすぐ西、新門前通より南の一帯はかつて祇園町でも久しく乙部と呼ばれ、藝妓ならぬ娼妓の東新地であったが、同じ新地を「膳所裏」とも呼びなれて
きた。江戸時代に膳所藩本多の屋敷地が占めていて、今も当時屋敷内にあった稲荷社が残っている。小堀遠州はこの本多家のいわば家来筋に身を起こしており、
しかも当時の重要な作事を小堀はしばしば奉行していた。知恩院の真ん前に当たる地域を屋敷地として固めた徳川譜代の本多家が、幕府の意向を受け、少なくも
祇園社下から三条東の東海道筋へ通じる戦略的な新道造成の為に、名だたる小堀遠州一派の能力を利用したということは十分に自然な、有りえたことと思われ
る。
むろん通路沿いに「小さな堀」の構えられていたという想像もしたいところであるが、その種の遺構はまったく確認されていない。となると、「こっぽり」の
俗称には作事をみごとに遂げた小堀に対する褒美の意味がこめられていて、それも単に名声だけではない、具体的に「袋町」に相当する一帯が恩賞として小堀に
与えられたような事実も示唆してはいないか。
風騒の者の比較的多く住み寄った袋町であるとは、はっきりしている。その濫觴にもし趣味人小堀遠州の「縁」を思いうるものなら、その「袋町」を一路めざ
して、秋成夫妻が京入りして来た背後に、あの、頼春水による「霞関掌録」このかた高田衛氏の努力で見通されてきた、遠州血縁の子孫かも知れない謎の秋成伝
記へと繋がる「黙されてきた」不思議が、垣間見えない…でも、無いが。
「上田秋成全集」第十巻月報6 一九九一年十一月 中央公論社刊