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 秋萩帖の道風 後撰集の大輔

             秦 恒平


 漢字がひらがなになる、ちょうど過渡期に草仮名が用いられていた。「あきはぎの」とあるところを「安幾破起乃」と漢字 をかなり砕いた草書で書いた。その時期はある程度限られていて、それが小野道風の活躍期と重なっている。古今集のあと後撰集が成る頃まで、十世紀中葉とい うことになる。それかあらぬか、草仮名の書蹟では極めつきの国宝「秋萩帖」が伝道風筆として年久しく皇室に秘蔵され、宮家へ伝えられ、そして東京国立博物 館に託されてきた。
 ところが、伝えられる現「秋萩帖」が、じつは第一紙の部分は十二世紀近い、第二紙以降は十四世紀はじめの、それぞれ写本であり、しかもなお原「秋萩帖」 ともいうべき歌集の原本断簡が金沢市内の美術館ほかに二点別に伝わっていて、それこそが小野道風自筆と信じられる、というショッキングな研究が当の博物館 内から発表された。
 だれが、いつ、どんな意図からそのような原「秋萩帖」を企画したのか、ともあれそれを清書したのが道風であるのなら、道風を芯にいわば後撰集時代を歴史 小説にしてみたいと、たまたま雑誌『墨』に連載の企画があったのを幸い、ほとんど見切り発車に踏みこんで行った。昭和六十一年(一九八六)夏のことであっ た。
 道風には書聖伝説は散見されても、なかなか実像に触れた資料がない。無いのはかえって小説家の励みにはなるが、無さすぎても動き難い。彼は幸い後撰集に 数首の和歌を採られていた。しかも「大輔」という女性とのお安くない相聞も含まれている。小説としては恰好のヒロインに当初から恵まれていたわけで、わた しは、魔に誘われたように連載を始めてしまったのである。
 一つには「大輔」が、有名な伊勢に次いで後撰集で第二位に多くの歌を採られている女性であり、しかもその交際たるや目くるめく当時の権門勢家ばかり、道 風の如きは比較にもならぬ下ツ端であった。したがって「大輔」の氏素性は容易に知れるものとわたしは安心しきって、道風よりも彼女にむしろリアリティーの 基盤を得ようともくろんでさえいた。
 あに図らんや、だが学界はかかる「大輔」の戸籍について、定説をもっていなかった。古今集に同じ「大輔」という女歌人のいるのと同一人であるという、す こし慎重に考慮すれば噴飯物とわかる誤解をイージィにどの本も本も踏襲していた。誤解のままに受け取れは彼女と恋の歌をかわしている若い貴公子たちは、倍 近い老女を相手にしていたことになるのである。しかも大輔は、けっして名もない女でなく、菅原道真の怨霊にとり殺された第一号の犠牲者、醍醐天皇最初の皇 太子、の愛人であり子までなしていたことが、大和物語、大鏡その他によって知られ、当時最も華やかな存在なのであった。だが誰の娘とも妻とも、なにゆえの 「たいふ」の名乗りとも、(私の知る限り一人の在野の研究者を覗いて)後撰集学者もその他古典学者もまるで放ったらかしの有り様であった。
 まいったなあ…と思ったが小説の連載は始まっていた。途中下車はならなかった。小説は道風どころでない、この「大輔」という女の幻影をまさに夢中に追い つめて行く推理小説と化し、しかし『秋萩帖』(芸術新聞社・一九八八)刊行直後に、古代学の大家角田文衛博士から電話でわざわざ「よく、調べましたねえ」 と褒めて来ていただけた小説に、且つ、ここが味噌なのであるが「十世紀」の怨霊騒ぎもただならぬ政変の渦へとなだれ込み、しかも「現代」の恋愛小説にと仕 上がったのである。
 生易しい作品では、だが、ない。眩暈に耐えられる人に読んでほしいと、今も思う。
                                    「朝日新聞」次作再見 一九九一年六月三十日
   *

 小野道風について、「書」とかかわらない部分を語るように求められたら、どうするか。
 を調べるか。
 系図を詮索し、小野氏について語ることは出来る。しかし道風その人に即したはなしにはならない。彼の、「書」における天才を証言してくれる文献は、かな りの数ある。彼の画像と称するものも、ある。まるで酔いどれたばけものじみた絵である。そういえば花札にも傘をさして柳にとびつく蛙をみている道風の姿が 描いてある。
 いずれも、やはり「書」の道風を出てはいない。
 だが、まったく手がかりが無いわけでもない。小野道風は筆をとれば三蹟の第一と数えられた人物だが、後撰和歌集に数首もとられた勅撰歌人の一人でもあ る。筆墨の生活をはなれた道風の素顔や本音が、わずかながらそこで垣間見られる。恋の歌もある。
 後撰集は言うまでもない古今和歌集撰進(西暦九〇五)についで、ほぼ五十年ほど後に成ったと見られる勅撰和歌集だが、古今集はもとより他の多くの勅撰和 歌集とくらべても顕著な特色を備えている。贈答歌が非常に多く、十世紀前葉の宮廷貴族たちの日常や交際を、ハレよりはいっそケ寄りにかなり色濃くいわば 「噂話」ふう「告白」ふうに反映した撰集と成っている。道風の「歌」に拠って道風その人の実像にふれるということも、そうは見当はずれでないわけである。
 ただし道風の歌から立ち現われる他の人物は、多くはない。一人は確かに、もう一人はかな書きの名前だけで、いささか影がうすい。
 影のうすい方はしばらく看過ごすとして、確かな一人は女であるが、これが困った女なのである。歌をひく。
  うづまさわたりに大輔が侍りけるに
  つかはしける    小野道風朝臣
 限りなく思ひいり日のともにのみ
   西の山べをながめやるかな
  道風しのびてまうできけるに
  おやききつけてせいしければ
  つかはしける    大輔
 いとかくてやみぬるよりはいたづまの
   ひかりのまにも君をみてしか
 この二首は直接の贈答ではない。歌の詮議は、しない。たぶんこの二人の応酬とみていい歌がべつの所にも並んでいるが、それも今は措く。問題は「大輔」で ある。
 道風はこの女に惚れている。女も憎からぬ思いをうたっている。道風を語るには、かっこうのヒロイン登場と思いたい。
 道風は後撰集に四ないし五首がとられている。一首でも名の誉れは高かったのだから、ま、たいしたものである。
 だが大輔の方は少なくも十六首が確認できる。
 後撰集の女流で圧倒的に歌致の多いのが、百人一首でも有名な伊勢。次がこの、大輔。いわば時代の花形である。さもあろう、大輔が歌をかわしたのは道風と だけでなく、藤原実頼(左大臣)、師輔(右大巨)をはじめ敦忠、朝忠、敦敏、雅正、橘敏仲などきらびやかの限りなのである。
 これほどの女であれば、氏素性ただしく周知の人であったろう……と、まずは安心してしまう。そして安心して本など調べてみると、いとたやすく「嵯蛾源氏 の弼(たすく)の女で、古今歌人」であるよしが注してある。古今集を調べてみると確かにそういう「大輔」がいて、歌一首がとられてある。
  なげきこる山とし高くなりぬれば
    瓶杖(つらづゑ)のみぞまづつかれける
 さきの大輔の歌と、調子がだいぶちがう。古今の大輔と後撰の大輔とは別人ではないのか…と、すぐ疑われるのだが、どんなものか。
 後撰集の大輔が歌をかわしたなかで最年長者が道風であり、次が実頼である。
 実頼は西暦九〇〇年に生まれ、道風は八九四年に生まれている。九〇五年に出来た古今集にすでに「嘆き」という「木」をこる歌をとられた女に実頼が恋をし ていたとなると、彼が、よほど早熟であったにせよ十五ほどは女より年若く、十五歳迄の恋でも、女は三十にちかい。ところが実頼は大輔にただならぬ歌を送っ たり通ったりしているのである。敦忠や朝忠も大輔に恋歌を捧げている。しかし彼らは実頼よりまだ六ないし九歳も若いのである。
 後撰集の大輔が、源弼の女で古今歌人である大輔と同一人である、はずがない。
 こういう時に大鏡という本は役に立つ。大輔ほどの花形なら、どこかに名が出ているかも知れない。事実出ていて、彼女は醍醐天皇の皇太子であった保明親王 の乳母子だとある。ところが研究者はこれに注して、乳母とするのが正しく、大輔は源弼の女で古今歌人でもあるとしている。そんな本がいまも大出版社から新 刊で出ている。
 言うまでもない、これは本文どおりの「乳母子」が正しく、大輔は延喜御集などによれば皇太子の「みこ」をすら生んでいたらしい。だからこそ親王が延喜二 十三年(九二三)ににわかに死んだときの悲しみが大鏡や大和物語に書かれていて、納得できるのである。親王は西暦九〇三年の生まれ。その乳母子ならば大輔 もその前後の生まれのはずであり、それなら後撰集の多くの贈答歌も、相手方の年齢とともに自然に読みとれる。
 古今の大輔と後撰の大輔とを同じ人と読むのはいぶかしいと、たとえば宇佐美喜三八は昭和十三年(一九三八)の歌誌「水甕」にすでに書いていたのだが、い まだにかなりの本が相変らず「源弼の女」とやっている。
 では弼の女でないとして、大輔は何氏の誰の女なのか。
 乳姉弟の親王に死なれて後、誰の妻になり、どんな子を生んだのか。
 まだ、どの本にも、どの研究者の論文にも、それは出ていない。分っていない。分っているのは、後撰集以外にも彼女の名を世にのこす縁となった保明親王こ そ、かの菅原道真が怨霊となってとり殺した最初の人であるとされた「史実」である。こうなっては小野道風のごとき、にわかに大輔を遠く離れた影のうすい存 在に退却してしまう。厄介なことではある。
「大輔」というからは、父兄か夫かに八省の次官を勤めた男を捜せばいいようなものだが、これが専門家にも出来ていない。母か姉かに保明親王の乳母に任じた 女を捜してみてもいいのだが、これも確かには大輔への脈絡がとれていない。
 ひとつ私が考えついているのは、……いゃ、思わせぶりだが、それは言うまい。
 いま雑誌「墨」に、私は『秋萩帖』と題した小説を「八の帖」まで連載中であり、この道風から書き始めた幻妙な長編はいつしかに「大輔」という謎の女の隠 された面影を捜し求めたい渇きに導かれて、十世紀と二十世紀とを夢や夢うつつや夢と往還しながら、「九の帖」で巻をすべて綴じんとしている。
「大輔」は、もう、うしろ姿ではいない。
                「層」No44  一九八七年十一月二十日刊