古典エッセイ
 

  
    八島狂言        秦 恒平



 継信最期、那須与一、錏引、弓流、と、見どころに飽かせない屋島合戦で、とりわけて誰にも印象の残るのは、扇の的をはるかに射抜いて見せた那須与一の遠 矢の冴えであろうに、なぜか能の「八島」にこの場面は出ず、ただ、アイ狂言が「仕方」で丹念に語ってくれる。独立しても演じられる「那須」の語りは、小気 味よい満点の大サービスで、演じる狂言方によりいろいろの味が出る。自分の小説『八島』では、この「仕方」の名作をことに大事に書いて溜飲をさげたが、そ れは余談。とはいえ、能の「八島」は能を観ればよく分かる。で、この余談には、もう少し話したい先がある。
 那須与一に扇を射抜かれたあと、褒めそやすふうに平家方からまた武者が舟の上に出て、舞い遊んで見せた、のを、あれも射て落とせと義経に命じられ、与一 は容赦なく「しや頸の骨をひやうふつと射て船底へまさかさまに射倒し」た。「あ、射たり」と言う者もいたし、「情なし」と言う者もいた。殺された武士は平 家の名将知盛の乳兄弟であったといわれる、伊賀平内左衛門家長の弟で、十郎兵衛家員であった。
 どうも平家方にはこの手の「挑発行動」がめだち、それが因となって源氏を勢いづかせてしまうことが、まま有った。児島の陣では、藤戸の渡しを源氏に馬で 駆けられ敗走したのもそれであった。十郎兵衛のは無惨なほどの犬死にであり、「情なし」の声は、必ずしも射た与一だけを責めてはいない。
 わたしはこの射落とされた男に、ひそかに久しく興味を抱いていた。どういう奴なんや。あんな死に様では後に残った身寄りのものが、どんなに肩身も狭う、 泣き嘆いたやろ…。むろんそういう男にも妻子がいたであろう、ああいう男の子孫ほど、えてして、ひっそりと巷の波間に身を沈めたまま、まこと細々と世に永 らえ、幾世代もを生き続けているのではないか。八百年後にもなお京都のような懐深い町なかに、ひょっとして十郎兵衛家員が最期の鎧や薙刀を無念の家の宝に 秘蔵しながら、子々孫々の家系が意外な家業と家族とで、めずらかに暮らしていたりはせぬものか、と、まあ、そんな想像から、私の短篇小説『八島』は出来た のだった。
 ところへ、同じように思った人が小説の読者にいて、その「平内」さんという家は、必ずや我が親族に当たると想われるので、どうか仲介の労を願いたいと丁 重な手紙が舞い込んだから、呆気にとられた。手紙の差し出しが、冗談ではないらしい、きちんと活字印刷した「伊賀平内左衛門」さんだったから、仰天したの である。娘さんが明石のほうに嫁がれていて、たまたま小説を読まれ、すぐ実家の父上に連絡されたらしい。
 で、ご当人のお手紙にいわく、自分はまぎれもない「伊賀平内左衛門家長」直接の子孫であり、自分たちの現に暮らしているあたりは、かつて陸の孤島といわ れた日本海に臨んだ秘境で、かしこくも安徳天皇を奉じて門脇中納言教盛はじめ与党の多くがこの地にのがれ住み、由緒正しい遺跡は今でもたくさん残っていま す、ぜひぜひ一度お訪ね下さいと、兵庫県城崎郡の正確な現存の地名が、現住所として封書の裏に印刷されていた。
 氏によれば、「門脇宰相教盛、伊賀平内左衛門家長らの一隊は御座船を護って虎口を脱し、幼帝安徳を奉じ日本海岸沿いに東進、ひとまず鳥取付近に上陸して 戦塵を洗い、態勢を整えて更に東進を続け、但馬の国御崎の海岸にたどり着」いた。地形的にも、三百メートルの断崖絶壁の下は眺望のひらけた荒海で、「陸か らの探索も容易でない」という。嬉しいことに、夫通盛の戦死のあとを追い入水死したはずの小宰相局も生きながらえこの地にあって、安徳帝のお世話をしてい たとか。寿永の平内左衛門らはその帝を守護して、もっと奥地に深く隠れ住み、昭和平成の平内左衛門氏もまた、その、香住町畑に住み着かれて年久しいのであ る、と。余談も、捨てたモノでないでしょう。