古典詞華集鑑賞 NHKブックス
閑吟集
孤心と恋愛の歌謡
秦 恒平 湖
の本エッセイ 41
目 次
小序
一章 桑門の狂客 そして春の歌謡
二章 小歌の魅惑 そして春は逝き
三章 中世の陽気 そして夏が秋へ
四章 趣向と自然 そして秋が冬へ
五章 愛欲と孤愁 そしてめぐる春
六章 暗転の不安 そして恋の歌謡
撰抄「閑吟集」百九十三首
閑吟
集 孤心と恋愛の歌謡
NHKブックス『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』
一九八二年十一月刊 日本放送出版協会
小序
『閑吟集』は中世の歌謡を集めて、十六世紀はじめ(一五一八)に成った、全編が赤裸々な愛欲の情を清
冽に奏でた、それは面白い本です。大半がいわゆる室町小歌で、含蓄に富み、しみじみと親しみぶかい恋と夢うつつの歌詞の数々は、五百年の歳月をこえて、今
も我々を切なく優しく感動させます。
十二世紀半ばに成った、古代の『梁塵秘抄──信仰と愛欲の歌謡──』(NHKブックス、拙著)とあわせて、たぐい稀な「孤心」と「恋愛」のこの歌謡集の
魅力を、思わず手を拍って満喫してくだされば幸いです。
日ごろ古典になじみのうすい、高校大学生、主婦、お年寄りがたを念頭に、数多い日本古典文学の「大系」(岩波書店)「全集」(小学館)「全書」(朝日新
聞社)その他(新潮社の「集成」は脱稿後に出版された)の本文や研究も有難く参照しながら、なお読み易く正しい歌詞の表記を著者なりに心がけ、昭和五十七
年(一九八二)年七月、NHKブックスのために新たに書下ろした本であることを申し添えます。 騒壇余人 秦 恒平
一章 桑門の狂客 そして春の歌謡
一
『閑吟集』は、一度手にふれると手放せなくなる、それは面白い本です。小説本でも随筆本でもありません。漢詩集でも和歌集でもない。謡う歌、歌謡、の集で
す。あたかも平安時代の末期、平家が大きく擡頭して行く十二世紀半ばごろの、かの後白河上皇がみずから編纂されたという『梁塵秘抄』と、双璧をなすもので
す。
『梁塵秘抄』は、別にこのNHKブックスの一冊として、すでに「信仰と愛欲の歌謡」と副題を付して出版しています。一つだけ、今度の閑吟集とくらべて、注
目したい点がある。梁塵秘抄は、文字どおり梁の塵を浮かばしめるほど朗々かZ巧妙に歌を謡うための、いわば唱歌技の秘伝書といった性質をもっていました。
ところが閑吟集では、謡うという技藝への貢献はとくべつ期待されていず、むしろ読本として、総数三百十一の歌詞の妙味が読んで翫賞できるよう、よくよく首
尾面白く撰びかつ配列してあります。広い意味で、そしてより念入りに趣向をくわえた、あたかも詩集のように、この閑吟集は、意図的に編成されています。
梁塵秘抄には歌詞十巻をいわば資料篇として、べつに、というよりむしろ本篇として口伝十巻を擁していたらしいことが、後白河院じきじきの叙述から察しら
れます。あくまで実際に謡うための"技藝伝達"が芯になっている。念願となっています。
閑吟集には、そのような口伝は付いていません。かわりに、やや取澄ました漢文の序と和文の序とが巻首に布置してあります。ちょっと歌謡における古今集と
いった趣です。梁塵秘抄にくらべると、手のかけかたが、どことなく違う。
そもそも収録歌数の三百十一篇というのが、一見半端なようですが、じつは「毛詩三百余篇になずらへ数を同じくして」と仮名序にあるように、中国の古典
『詩経』を意識しています。詩経の詩句もまた、それなりに歌謡的な性格をもっており、しかも一言にその特質をつくして、「思ヒ邪無シ」とされている。閑吟
集の編者も、それを念頭にしていたのでしょう、そういう意志ないし態度が閑吟集には、ある。成果も、見えます。
編者は、さらにこの三百十一篇の配列にも、当時盛んに行われた連歌の妙に倣った、なかなか巧緻な配慮をみせています。四季および恋という、見出しこそ立
ててはいませんが、それなりの編成もきちんと出来ています。
端的に閑吟集の面白さへ、三つの側面から迫ることができましょう。一つは、この、連歌的な、また毛詩になずらえてもいるような、編集上の趣向の面白さ。
二つには、採集されている歌謡一篇一篇の、独立独歩、理屈抜きに詞句そのものの、純粋な面白さ。
第三には、閑吟集の置かれた"時代"そのものの面白さに質的に裏打ちされて、一層も二層も広がり深まる面白さがあります。梁塵秘抄が古代末期の躍動する
時勢をみごとに反映していたように、閑吟集は、その成立時期から推して、少くも室町将軍時代の全容をほぼ蔽いうるいわば"時世〃の歌声を、私たちの耳に、
胸に、リアリティ確かに届けてくれるのです。しかもこの、いわゆる室町時代の理解というのが、なまなかの一筋縄ではいかない。少くも、従来の通念や常識に
は再検討の必要が出て来ています。
以上三様の面白さを、なるべく過不足なく汲みあげながら、閑吟集を読み進めたいと願わずにおれません。で、そのためには教科書的な解説にとらわれない、
大胆にそこをはみ出ていく把握の情熱をつくして、なにより一つ一つの歌謡歌詞を"読む"ことを楽しみましょう。研究者には大事でも、我々現代の一読書子に
すればもはや余分に思えるところは、遠慮なく端折っていい。
たとえば、堂々たる漢文で書かれた真名序などは、今日の私たちの胸に生き生き響くには、いくらか大袈裟な文飾に満ちています。「爰ニ一狂客アリ。三百余
首ノ謳歌ヲ編ミ、名ヅケテ閑吟(=口ヘンに、金)集ト曰フ。……時(=日ヘンに、之)ニ永正戊寅穐八月、……以テ同志ニ胎スト云尓」とあります結びの箇処
だけを、ここに引いておけば十分でしょう。
さてこの編者、著者は、今以って「一狂客」とある以上には不明です。連歌師宗長の名をあげる説もありますが、確證はない。「一狂客」ないし仮名序にいう
「ここにひとりの桑門」の述作とすなおに受容れておくしかない現状です。狂客の「狂」の字は、閑吟集全篇を開く鍵言葉なので、おいおいに歌謡といっしょに
考えて行くのが便宜です。むろん、狂気の人という意味ではありません。
また唐詩でも和歌でもなく「謳歌」と謂っている、これが声に出して文字どおり謡われた歌に対する、一つの歴史的な態度なのですね。吾が世の春を謡歌する
などという、口々にほめたたえるの意味ではない。それより時好時流を反映する風聞、風説といった古意を汲む方がまだ当たっています。要するに閑吟集は、今
日でいう歌謡曲の「曲」を欠いた歌詞集なのですね。いわゆる俗情下情にも膚接していて、しかもその詞を、一の文藝として翫賞すべく編み成した本であるわけ
です。
ありがたいのは、閑吟集が「永正戊寅」つまり永正十五年(一五一八)秋の著作とはっきり分かることです。歴史年表によれば後柏原天皇の時に当たり、室町
幕府の将軍は足利義稙です。しかも概して後柏原であれ義稙であれ、その史実にとくに意義というものが見出せない。ついでに言えば、管領として、永正五年以
来の細川高国がまだ在職していたかどうかも定かでない。京都を表舞台に権勢の行方は混沌と、世は乱れに乱れていた。今あげた三人の天皇、将軍、管領の名を
聞いて、輪郭たしかな何らか歴史的映像がすぐに結べる人はきっと少いでしょう。かろうじて、後柏原という方が、先帝を襲いで践祚のあと、二十五年以上も皇
室貧窮のゆえに即位式が挙げられなかった気の毒な天皇と、憶えている人があればある程度でしょう。幕府および将軍家から即位料を献納して、やっと即位式の
できたのが永正十八年三月のこと。「永正」とは、そういう荒廃期でした。
応仁文明の大乱からおよそ半世紀はへていますが、武田信玄も上杉謙信も、まだ生れていない。織田信長が生れてくるのが閑吟集の成った秋におくれることな
お十六年、豊臣秀吉は十八年、徳川家康は二十四年。「天下布武」の一統までずいぶん先がある。戦国大名ではひとり北条早雲が大活躍して、天寿八十八歳、家
訓二十一箇条を遺してやがて死んで行きますのが、閑吟集成るその翌年、永正十六年(一五一九)のことです。
一つ、面白いことがある。それはこの「永正」のころに、はじめて「不自由」という言葉が見えだすことです。
むろん早合点はできません。
もともと古代以来中世のはじめまで、日本人が使ってきた「自由」の二字は、否定的な、負の意味をもっていました。ある学者はそれを、「我欲を逞しくし、
慣例に背き、不法を行ない、専恣横暴の振舞いがある」意味に整理してくれています。ところが十三、四世紀ころから、この「自由」の語に、積極的な、いわば
願望に値するプラスの価値が付随しはじめる。「他からの拘束を受けない」といった意味が意識されはじめます。おおまかな話、マイナス面の「自由」は、古来
そうであったようにむしろ公用語として生きのこり、プラス面の「自由」は、どうやら社会の下層から頭をもたげ出してきた人たちの逞しい自覚を示す言葉とし
て、その後も、江戸時代まで併用されていくわけです。
そんなわけで十六世紀はじめの永正期に至って目につきだす「不自由」には、当然、正負両様の「自由」に対する人々の価値観の裏づけがあったと見たがい
い。どちらかといえば「不自由」を負担と目し、積極的に「自由」を獲得したいと考えはじめた人々が、質的にも量的にも大勢動きだした、そういう愉快な時節
に、この閑吟集は成立ったとみていいのです。
天皇、将軍、管領、守護大名また零落公家など、支配の側に身をおいて権勢権威の維持拡大を性懲りもなく考える人々にすれば、もともと、「自由」とは忌々
しい危険なものでした。また、それだけに権柄ずくの支配圧力を「不自由」と感じ、はねのけたい、手足を伸ばしたい階層からは、「自由」の積極面を逆手に
とってでも、頭を擡げたい、起ち上がりたいと望んでいたことでしょう。閑吟集成立の時代を、一人の編者の意図なり思惑なりにとらわれずに、そういった「自
由」「不自由」の面白い沸騰点と見る眼、聞く耳が、だいじです。
さて即位の式もあげかねた後柏原天皇同様に、この永正期の将軍こそは、さんざんでした。足利義稙は、文字どおり流浪の将軍として下剋上の荒波に法外に
漂った人です。はやくに義材の名で将軍職につき、一度みじめに追い落とされたのが、諸所彷徨のあげくまた義尹の名で祭りあげられ、やがて義稙と改名してい
る。それもこれも細川や畠山や赤松や大内など旧来の守護大名の際限ない内訌、私闘、確執の、時に楯にされ、時に旗にされ、時には弊履のように打ち捨てられ
る存在として、操みくちゃになっての話です。大小の兵乱は京に田舎に起きて熄み、熄んではまた起きる。
けれど、政権のかような衰弱を、不幸とばかり眺める視線は必ずしも民衆自身のものでない。むしろそれも良しと、時勢の波をかいくぐって商工業は手を拡
げ、農作業も質量ともに漸進して、着実に民衆は歴史的な力を蓄えつつあった。衣服、食器、祭行事などを仔細に見ていけば、これは裏づけのとれる観測です。
編者がどう感じていようとも、中世が、一等中世らしく活溌な呼吸をしていた「永正」期であるとも謂えば言える、面白いどん底時代に、閑吟集は成立したので
した。
北条早雲の成功には、どことなく、彼を支持した民衆の安堵も関わっているようです。東山時代は過去に遠のき、安土桃山の繁昌にもなお相当の距離を残して
いながら、たとえば雪舟の没後に狩野元信や土佐光信が実力をあらわしていたのも、このころです。都鄙をとわず連歌好きの風は根づよく、また千利休の誕生を
数年後にひかえて、いわゆる珠光流の茶の湯が、唐物のほかに和物の粗相美にも着眼しつつ、おいおい京や奈良や堺の町衆の暮しに浸透して行くのも、このころ
からです。
政治の空白がめだつ戦国乱世だからといって、ただ暗黒の中世、隠逸の中世とばかり想っていては、半面に渦巻く陽気な中世を見喪ってしまいます。閑吟集を
編んだのが、たとえ文字どおりの「桑門(世捨て人)」であろうと、その一つ一つの歌謡の"現場"まですべて世ばなれた隠逸と風雅の世界だったとは言えませ
ん、かえってその逆であったかも知れません。私どもは、この編者である一人の「桑門」が、同時に一人の「狂客」でもありえた意味を、これから、よく考えた
いと思います。
閑吟集すべて三百十一篇。そのうち、春の歌五十六、夏三十五、秋百二十六、冬六十三、恋の歌が三十一。ざっとそれほどの見取図もあります。が、愛恋無窮
の純情は、四季の歌謡のくまぐまにも忍び入っています。あまり窮屈に右の数字にこだわる必要はないでしょう。
それよりも、市販の本を見ますと、歌の肩に、「小」「大」「吟」「早」「田」「近」「狂」「放」など細字の注がついています。これには前もって多少の諒解
があった方が、いい。必要というより、便利です。煩わされずにすみます。
勘定するまでもなく、「小」の肩書が圧倒的に多いのですが、それはその歌謡が、「小歌」であるということを表わしています。同様に「大和節」「吟詩句」
「早歌」「田楽節」「近江節」「狂言小歌」「放下歌」など、各歌謡のいわば素性を表わしています。閑吟集は、さように当時の人々の意識し弁別しえた多種類
の歌謡で出来上がっているのですが、概しては「室町小歌」の集と見ていい。
今、これらをいちいち解説する労は、省きます。四百年後の平成の市民には、所詮及ばぬ無用の詮索だからです。必要なかぎりは、そのつど触れましょう。
そうは言っても、たとえば能の台本である謡曲をご存じの方なら、いわゆる小謡ふうに謡曲の詞章がいくらか混じっていること、そして一読、ここにいう小歌
との差異に気づかれることでしょう。今日の能、謡曲がおおむね観阿弥、世阿弥の手で大成された大和猿楽の遺風であることをご承知の方なら、「大」すなわち
大和節と肩についている歌謡が、ほぼそれに当たっているらしいと頷かれるにちがいない。それなら、「近」の近江節が、大和と拮抗した近江猿楽の詞句であ
り、「田」の田楽節についても、漠然となりと或る察しはつけていただけそうな気がします。ただしそんな察しが、ぜひ必要とも、今は、私は考えていないので
す。
ともあれ『閑吟集研究大成』(昭和四十三年、明治書院)から浅野建二氏の周到な「口訳」を頼んで、一人の「桑門」による、仮名序というのを、ざっと読ん
でおきましょう。
ここに一人の世捨て人がある。遠く富士山を眺められる地をえらんで草庵をつくり、すでに十余年の歳月を過ごした。松風の吹きそよぐところに軒端を構え
て、その風の音に和して琴を奏でたり、尺八を伴侶として春秋の季節にふさわしい調子を試みる折々に、一ふしの小歌をうたうことを慰み草として、速やかに過
ぎ去った過去の幾年月、都や田舎の遠い国までも、春は花の下に日を暮らし、秋は月の前に夜を明かして風雅な宴遊の席に列なり、共にうたった老いも若きも、
今では半ば故人となってしまった昔が恋しさに、「柳の糸の乱れ心」と謡い出したのをはじめ、あるいは早歌、あるいは僧侶が和漢の名句を詠ずる吟詩句や、田
楽節、近江節、大和節に至るまで、数々の歌を忘れ難い記念にもと、思い出すままに、閑居のかたわらに記して置いた。これらの歌をうたい暮らすうちは、浮世
の繁多な事件にわずらわされる邪念も起こらないので、詩経三百十一篇に似せて、同数の歌を集め、閑吟集と命名した。この趣意を少し草稿のはしにというわけ
で、余命の幾ばくもない身が、折しも幽かな光をともす秋の蛍を話相手として、月の光をたよりに記したものである。
とくべつ註釈の必要なものではありません。そんなものかと納得しておくだけで、私たちには十分でしよう。
漢文の序、真名序になるとかなり長文です。「そもそも歌謡の道というものは、混沌とした宇宙の中から天地万物が化育して以来、聖明の君王がこれを治道上
の要具として重んじ用いたものである。この事例を古代の中国に徴してみるに」と漢文で重々しく書き起こされ、詩歌ないし歌謡の宏遠で博大な功徳が説かれて
います。また、それらの変遷や変容のあとが歴史的に辿られています。一種の文学論、詩歌論ですが目立って独創的というわけでもない。中ほどに、こういう一
節があります。
つくづくわが国の(神代の)昔を考えてみるに、(天照大御神の隠れ給うた)天の岩屋戸の前で神々たちが七日七夜の歌舞を奏し、それを怪しんで大御神が岩
戸の隙間から覗かれたところを裂き開いて、初めて真暗な天地がパッと明るくなった。かくて国の神の始め(奈良朝)にすでに神楽歌があり、次いで雅楽的宴遊
歌曲の催馬楽が起こった。催馬楽が再度変化して中世期の早歌(宴曲)となったのであるが、その中間には今様や朗詠のような謡い物もある。また、平安末期の
多彩な雑藝類が三度変化して、猿楽の近江節・大和節などを生じた。これらの歌曲の中には、あまりにテンポが緩慢なため退屈せられるものもあるが、また、急
調に過ぎて喧騒の感に堪えないものもある。してみると、宮廷貴紳の間に演奏されて、しかも下庶民の人情を歌い、心の慰めとなるものは、ただ小歌のみであろ
うか。
「演奏」とありますが、小歌はおもに一節切の尺八で伴奏されるのが普通だったそうです。
右に説かれた歌謡変遷の大体は、あくまで閑吟集編者の理解で、今日の研究はさらに詳細を極め、伝統の系譜ももっと十分見究めがついてもいるでしょう。
が、藝能ないし歌謡の「歴史」をここで復習する、さし迫っての必要はやはりないのです。二種類の序文を紹介し抄録したのは、私にすれば閑吟集を編んで伝え
てくれた「一狂客」、ひとりの「桑門」へ、謝意ならびに敬意を表わしたにすぎません。
で、以下、いよいよ歌謡の詞句に直々に見参するまでとなりました。幸いどんな本を利用されても、総数は三百十一篇。配列にもまず異同はないが、詞句にや
や差が見えます。原本に番号はありません。但し番号を付した市版本が多く、便宜にそれに従って読んでまいります。
念のため、ここでなお確認しておきたいことが、もう一つ、二つ、あります。閑吟集は、先に言ったように、「小歌」の集と言えるほど、三百十二篇中の圧倒
的多数を「小歌」で占めていますが、この「小歌」だけでもどんな歌なのか、やはり一応心得ていたい気がしますね。次に、閑吟集のいわゆる「連歌」的な編纂
法とは、どういうことを謂っているのかも、知っていたい。
もとより問題は、他にもこまごまと数えられはしますが、今挙げたこの二点への態度なり理解なりがおよそ定まれば、閑吟集をどう読むかもおのずとよほど明
快になってきます。つまり、こういうことです。この二点に私たちはぜひ深く関わって読む必要が、あるものか。それとも、そう気にはかけなくて、いいのか。
「小歌」の歴史も久しいのです。今日にも、いきな「小唄」を好んで習い覚える人がありましょう。大広間ではあまりやらない。小座敷の宴席、酒席で、それ
も藝妓舞子の出入りするような場所で、世間に顔を売っているようなお旦那衆や通人が、いい気分で口遊んでいたりします。巧い拙いはべつに、浅酌低唱といい
ますか、そういう楽しみかたができる。古代や中世の「小歌」と現代の「小唄」を直付けに短絡させた物言いは慎みたいと思いますが、おのずと脈絡は、ある。
脈絡はあるけれども私は謡いて≠フ違いを、重く考えたいと思います。少くも同じ遊戯遊藝ではあっても、閑吟集を支えた上流や下層は、ともに死生の舟子一
枚で時代の荒い波を漂っていました。恐怖もあり惑溺もあった。現代の宴会人種のような、度しがたいただの趣味人ではなかったのですね。
十世紀末、すでに文献上に「小歌」という文字は見えてきます。当然ながら「大歌」との対比で謂われていたことも、文献で確認ができます。
が、この「大」と「小」とを、あの長歌、短歌の「長」「短」の場合のように、分量なり形態なりとして区分することはあまり適切ではなかったようで、むし
ろ歌う人なり機会なりのちがいから、「大歌」はより晴れがましく、「小歌」はより構わない場や人によって歌われていたとくらいに受取っておいて良い。
事実、それ以上に古代の「小歌」をきっぱり定義づけるということは専門家にもしにくく、例えば、宮中五節の行事ともともと深い関係のあったこと、それで
いて「大歌」にくらべて「小歌」は、民間でもっばら唱われていた俚俗の歌謡に近いこと、そのためか傀儡女、遊女、白拍子など女遊藝人たちがこういう初期小
歌のだいじな荷担者ではなかったかと推測されていることなどが、おおよそ指摘されている程度の、研究の現状のようです。「小歌節」を「女節」と謂いかえた
ような例も、古い文書に見えるそうです。
が、こんなことをどれほど聞いても、知っても、なるほど「小歌」とはそうかと分かったわけでもない。分からぬことにいくら拘泥っても、焦れても、学者や
研究者でない者には身動きがとれません。ありがたいことに古典に「読み方」という規則≠ヘ、無い。それと同じに”予備知識≠ェ仮に乏しくても、それゆえ
古典の真価がすべて見喪われてしまうといったことも、じつは無い話なのです。なまなかの知識より本気の「読む気」の方がどんなにだいじか知れず、心を入れ
て読むうちに、知識の方があとからついて来るという体験も、まま有ります。
歌謡研究者である浅野建二氏は、先の著述の中で、こうした「小歌」の歴史的な詮議をして、こんなふうに書いておられます。
「鎌倉時代における小歌の形成に関する文献的挙証を求めることの困難な現在においては、中世初頭(十二世紀中葉)の宮廷の小歌から、どのような経過を
もって中世小歌が形成せられたか、今様雑藝歌謡(「梁塵秘抄」に相当)に見られるような律調から、どのような経過をもって中世小歌の律調が形成せられた
か、そしてそれがいつの間にか『閑吟集』にうかがわれるように普及して勢力を得るようになったかは、まだ十分に明らかにはせられていない。」
それにもかかわらず、事実は、先へ先へ走って行きます。浅野氏の解説をさらに聞きましょう。
「当時(室町時代ともなると)宮廷に出入りした平家語りの座頭や連歌師、猿楽者、品玉法師等の遊藝者群によって舞と結合して吟誦された小歌が、やがて宴
席に列する女中衆の口唱にものぼったことが知られる。また、室町時代の京都で生活した公卿や禅僧の日記類には、宴席の徒然を慰めるために、田楽法師や猿楽
大夫の好き専門藝能者を呼んで種々の藝能を演じさせたり、また自ら小歌・尺八に興じたりした記事が満載されている。」
この時分になると「小歌」は、どうやら専門の藝能人たちと宮廷や寺院関連の素人たちとが、相寄るふうにして育て上げていたらしいのですね。その結果「今
様」の集や「宴曲」の集がかつて編まれたように「小歌」の集も意図して蒐集され、編纂されはじめます。宴席の娯楽歌謡としてのみでなく、どこかしら上流の
文藝趣味との質的な接近の様子が見えて、謡われるはずの歌謡の歌詞が、歌詞の表現にひかれて、別途に詩句の妙としても賞翫され吟味されはじめるのですね。
平家物語や太平記のような語り物、謡曲のような謡い物の詩的、文藝的な魅力が、感化が、効果的にここへも及んで来ているのでしょう。そして歌謡の妙味と文
藝の情趣とが湊合されて、さながらの「小歌」時代といわれるほど流行します。閑吟集とは、その小歌時代の到来における、顕著にすぐれた所産、それも一等早
くに創出された成果の一つだった、と、そのように受取っておいていただきます。
にもかかわらず、まだ私にも、「小歌」がどういう音楽か、歌謡であったかの定義をえた気がしません。なにぶん歌詞はあれど、曲なり節なりの面白さ、リズ
ムやメロディやテンポの面白さを、たとえば楽譜で確かめ、演奏を聴いて納得するということができません。よほどの専門家以外には、まずむりな望みです。
閑吟集はなるほど「小歌」の集と文字面からは、宛行扶持に頷けます。が、「小歌」を音楽的に、また形態的に、私たちの現代の感覚や判断でウンウンと理解
できるほど整理の行届いた、明確な解説を期待することほ、じつは国文学者であれ音楽史家であれ、しにくい相談となってしまっているのです。謡曲をよく聴
き、浄瑠璃その他近世俗曲類を玄人顔負けに十分聴きこなしてやっと漠然と、推量がきくか、きかぬか。その程度のところと、少くも私たち門外漢としては今後
に期して待つ以外にない。
録音技術や、詳細な科学的な写譜の手段をもたなかった時代の音曲の、唱歌の、これが宿命でした。そうであればこそ後白河院は梁塵秘抄のため、驚異の口伝
十巻を書いて、歌技歌藝の秘術をとにかくも後代に秘伝書の体で伝えようと、稀有の試みをされたのでしょう。残念にも、口伝は巻第一の一部分と巻第十とが
残っているにすぎません。穿ったことを言えば、本当に、そんな秘技の口伝を成しえたか、遺しえただろうかと、かすかな疑いすらさし挟みたいほど、それは難
儀な事業であったにちがいありません。
閑吟集の編者は、後白河院のようなそういう試みは一切していません。この場合「小歌」その他いろんな歌謡の音楽性は、わずかにその素性を「小」「大」
「早」「吟」などと小さく肩書きするだけで、すべてもうはや詞句の面白さ、文藝性のかげへと断念され、捨象されていたと言わねばならない。
かくて私たちも「小歌」その他に対する、音楽の領分での理解について、あえて多く心を労さないで、そのかわり十分「読む」「口遊む」ことを考えましょ
う。詩句として、歌詞として、その一言一句をよく読み、また舌頭に千囀させてめいめいの内なる歌声として、新たに詩情を胸の奥深くで歌いあげましょう。存
外それでこそ歌謡の本来に親しく迫ることになる。私はそう思っています。
二
もう一つの問題は「連歌的な」と言われている編集法のことです。連歌はもと、上句と下句との唱和一回の短連歌でしたが、院政期つまり十二世紀ごろから、
定法に従ってこれが続々と連鎖する長連歌として、寄合の席をいっそう楽しみ多いものにして行った。文字どおり、連歌とは唱和の遊藝であったのです。もちろ
ん無意味な、趣味のない唱和や連鎖では仕方がない。おのずとそこに創意と趣向に富んだ、定法や定式が生じます。そのためにくわしい参考書や入門書も室町時
代に入るとすでに幾つか著わされています。閑吟集の歌謡は、そういう背景を負うて、巻首から巻末まで一つ一つが微妙に連歌的に呼応かつ連鎖しているので
す。
巻頭の、一番から三番までを順にならべて、その趣を、とりあえず看て取っておきましょう。
小 花の錦の下紐は 解けてなかなかよしなや 柳の絲の乱れ心 いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影
小 いくたびも摘め 生田の若菜 君も千代を積むべし
小 菜を摘まば 沢に根芹や 峰に虎杖 鹿の立ち隠れ
三番には「小 小歌」のような肩書が欠けています。先も言うように、そう気にかけないでいいことですけれど、これも同じ「小歌」です。
そんなことはさて措いて、一番の歌は、「花の錦」「柳の絲」という一対の表現で、まぎれない「春」の景気を表わしていますね。この「春」を受けて、二番
では「若菜」が謡われる。お正月に春の七草でお雑煮を祝いましょう。「芹、なづな、ごぎょう、はこべら、仏の座、すずな、すずしろ、これぞ七草」と私は京
都で育ってそう大人に教えられましたが、地方により異同もあるようです。これを俳句の常識を借りて言いますと、「柳」から「若菜」へと”季語≠きかし
て、「春」を唱和している。これが2番から3番へ視点が移動しますと、前者の「若菜」および、千代を「積む」という字句を、後者の「菜を摘まば」がいきに
かるく受取っているのが分かる。むろん「春」の景気もきちんと受継がれています。「根芹」も「虎杖」も「しか(独活=うど)」も、いずれも「春」の芽立ち
の若やぐ嬉しさにつながる季語≠ニして働いていますね。
もっとも長連歌の定法は、これしきの簡単な話ではとても済みません。呆れるくらい難儀で煩雑な約束ごとを沢山につくり出して、その不自由の限りにさんざ
掣肘を受けつつ、しかも唱和の妙を競う。そういう悪しき爛熟へ連歌が陥っていき、そして徐々に廃れていきます。閑吟集の編者は、そういう連歌流行の波を十
分に浴びてきた人らしく、学者によっては有名な連歌師宗長が――前にも言いましたが――閑吟集の序を書いている「桑門」「狂客」にほかならぬ、と説をなし
ているくらいです。
それはそれとして、当時の連歌の約束ごとに精通した人――点者などと言います―― が読めば、閑吟集の趣向には、今日の私たちが思案してやっと見つける
より遥かに多彩な連歌との類似性を看て取ってやんやと手も拍ったのでしょうが、それとて、連歌流行という時代の風潮や風尚の中でこそ相応の意味がありえた
ことで、現代の私たちに、そんな編者得意の手のこんだ下絵が、かりに十分とは透かし見えないにしても、どうという影響はありません。少くも先に三つの歌謡
に即してほぼ納得したほどの注意と興味とを、今後の読みにも忘れないでさえおれば、いわゆる連歌的編纂″の大体を、まず見喪うことはありません。
だいじなのは、歌謡それぞれの生命感、魅力を深く感受することです。それが連歌的唱和の配列によってより豊かな大いさを、より面白い効果を、たしかに生
んでいる点を落着いて鑑賞できれば、余分の知識などこと細かに読書の現場へ持ちこむ必要は、すこしも無い。
さ、躊躇なく、一番のあの小歌から読んで行きましょう。三百十一篇ぜんぶは所詮むり。また、その必要もないこと。もとより「小歌」を主に、中でも心にの
こる佳い歌をよく撰んでみましょう。市販されている何種類もの『閑吟集』本文を参考に見くらべながら、NHKブックスの性格になじむよう、私の判断で適宜
に表記だけは読みやすく改めますことを、お断りしておきます。
小 花の錦の下紐は 解けてなかなかよしなや 柳の絲の乱れ心 いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影
自編他撰の別なく、詩歌集でも小説集でも、巻首にどういう作を置くかは一等心はずみ一等心重い決断になります。全篇の効果を決定づける場合がある。読者
の印象を、そこで或る程度固めてしまうこともある。予断、先入主、見通しが出来て、それが実は当人の思いと懸け隔たってしまう時など、なかなか作者は身を
揉む心地がします。「なかなか、よしなや」とある、ちょうどそんな遣瀬のなさです。
閑吟集一冊は巧緻に編まれた本だと言いました。その巻頭の歌謡がこの「面影」の小歌だとは、どういう編者の真意なのか。本をまずは「繙く(紐解く)」と
いう式の洒落でしょうか。その辺から、あれこれと思いめぐらしてみて欲しいものです。
歌謡は藝術というよりも、藝能として広く親しまれました。歴史的にはお角力やお能とどこかで共通します。たとえば「千秋楽」という謂いかたがある。お角
力の「千秋楽」は説明するまでもないでしょう。お能の会は、昔ですと神、男、女、狂、鬼の五番立てを一日の芯に、狂言や仕舞や舞囃子や素謡などを何日かか
けて観せたり聴かせたりしたもののようです。今日でも、番数はおおかた減りましたけれど、番組の原則はほぼ同じです。そして最後に「千秋楽」の小謡を謡っ
て、散会。
面白いことにチャキチャキの現代歌謡曲歌手の録音盤を聴いていましても、時として、何日かつづいた公演の「ラク」(最終日)かと思しく、「今日で千秋楽
です」と丁寧に、はっきり挨拶して拍手を浴びている。そんなレコードを私も聴いたことがあります。
「千秋楽」とは、むろん文字どおりの言祝ぎです。衆人愛楽、寿福増長は日本の藝能の、ひとしく旨とする精神でした。その精神をめでたい言葉にして表わ
す、それが祝言、寿ぎ、であるわけで、事のとじめ、けじめに限らず、事のはじめにも念入りに言祝ぎをします。文字どおりの「祝言」です。お能の「翁」など
は、壮大な「祝言能」として能楽三百番中の揺がぬ第一番の地位を占めつづけているわけです。
あの、『梁塵秘抄』巻第一の巻頭「祝言」は、こう謡われていましたね。
そよ 君が代は千世にひとたび居る塵の白雲かかる山となるまで
次いで「春」の歌が、つづきました。
そよ 春立つといふばかりにやみ吉野の山もかすみて今朝は見ゆらん
けれど『閑吟集』の巻頭は、これは、右のような意味の祝言歌なのでしょうか。21頁に先に挙げました閑吟集の二番と、この梁塵秘抄の二番とは、この方は
ともあれ「めでたい春」のよろこびを祝ぎごとふうに謡っている。それはまず明らかですが、同じ一番同士はだいぶ容子が異っている。いっそ梁塵秘抄の一番と
閑吟集の二番とこそ相応する、文字どおりの「祝言」歌のように思えますね。
閑吟集一番の「面影」に、気を集めましょう。
「面影」という謂いかたは、現在眼前にある人の顔を指してはいない。半日前か三日前か十年前か、いずれ記憶され回想されている、過ぎし或る日或る時のこ
れは「面影」なんですね。
では、男が女の「面影」を、それとも女が男の「面影」を、「いつ忘れうぞ」と想い出しているのか。どっちでしょうか。歌詞をただ読むかぎり、両説とも可
能で、事実両説とも行われています。
「下紐は、解けて」のところが、一つの注意点でしょう。
もう一つは「寝乱れ髪」です。が、男女とも髪は寝乱れないではない。でも、私自身が男のせいか、この歌のこれは女の人の「寝乱れ髪」であって、自然女の
人の「面影」でもあると読みたいのですね。
あんなに慎ましやかな女だったが、いちど肌身をゆるすと、短か寝の仮寝おろかな無明長夜の夢うつつを、墨に黄金の粉をまき散らしたほど煌らかな惑溺に、
耽溺に、啜り泣き、怨み囁き、歎きつ悶えつ男の総身に五体をなげかけて、愛欲無残、倦むことがない──。
男の方は、女と容子がすこし違いましょう。こと果てて、幾分索漠とした浅い酔い醒めの底に沈んだまま、男というのは、うすく眼さえあいて、夢のうつつを
見るともなくそんな女の豊かな寝乱れ髪をわざと邪慳に手いっぱいに梳いて乱してやりながら、女の、面変りしたような顔、疲れやつれて青白う透いた頬からう
なじ、そしてあらわな乳房のなまめく色香にまだ心を惹かれています。気だるいまみを、閉じつ開きつ、女は声にならぬ声で物を言いかけたり背いたり。うとう
と寝入ったり。その表情や姿態から男はなかなか眼が離せないでいるのですね。可愛い。愛しい。このまま露の玉ほど掌の深くににぎりしめてしまいたい。あ
あ、それほどのあれは女だった。真実そういういい女だった。いつ忘らりょうものか。なのに、それなのに久しく逢わない……。逢えない……。
まァこういった男ごころの物狂おしさでつくづく謡っている歌だと、かりにこれを読んでみますと、どうでしょうか。
「下紐」とは女の肌に添うた着物の、つまり一番忍びやかなかげ緒のことです。それに手をかけて男が解く、ほどく。どうかこの手で解きたいと願いつづけて
きた好きでならない女の「下紐」を、とうとう我が手で解いてやれた。とは、言うまでもないことです、女は、男にはじめて花の蕾の身をまかした、開いた、咲
いたという意味ですね。
「花の錦の」とは、女が身に着けたものの美しさだけでなく、女体そのものの、男にすれば身震いの出そうな美しさを、肉感の部厚さを、譬えている。
どのような女でしょう。少女か、処女か、または人妻か、遊女か、たわれ上手の浮気女か。どれと釈ってもいい、とにかく男の眼に、思いに、とびきりいい
女≠ナあるのでしょう。恋に憧れていてもまだ男は知らなかつた、年若い熱い肌と心を蕾のままに抱いてきたような娘と想うのもよい。人の占めた高嶺の花だっ
たのかも知れず、苦界に汚れぬ泥中の蓮だったのかもしれません。いずれにせよ「花の錦の下紐」は固く結ばれ「解けて」はいなかった相手なのですから、どん
な身分や年齢の女であろうと男の思いには、初咲きの清い花、花の蕾と同然です。
それがこうひとたび「解けて」みると、どうでしょう。「柳の絲」より華奢に揺れて撓んで、しだいに奔放に大胆に女体は、女心は、虚空を乱れ漂うのでし
た。この時の「乱れ心」は、はや女だけのそれでなく、女の魅惑にのめりこんでいった男自身の奔逸と苦闘のさまをも、いみじく言い表わしていたのにちがいあ
りません。
「解けてなかなかよしなや」とあるのを、男の側から言い直せば、もはや一度は抱いて寝た女なら、獲た獲物のようにいくらか軽くなげやりに忘れられもしよ
う。と、そうも思い上がっていたのに、なかなかどうして忘れられるものでない。いや参った……ぞ。逢いたくても逢えない、恋しい、困ったぞ……。そう読ん
でも、いい。
一度の逢瀬では、満たされない男の生理。それに対し一夜の夢に燃え尽きることの可能な、女の体熱。その微妙な勝敗が、優劣が、「なかなか、よしなや」と
いう男の坤きになる。
ところが女の方には、「いつ忘れうぞ」とアトをひくような、ふんぎりの悪さはないのではないか。もうよその男へ……と、男というのは、ついそんな気弱い
ことを想ってしまいますね。
逆に女から、もし、男の「面影」を想っているのなら、自身を「花の錦」「柳の絲」と譬えるのがちょっと背負ってる感じがして自然じゃないなと、私は見て
います。
それでもなお、女が男を想っていると考えたいなら、この場合の歌謡一番は、いつか男の遠のいたのを恨んで悩んで肌身をゆるした己が浅墓さを、「よしな
や」と悔いている、諦められずにいる、愛着している歌になるンでしょうね。それも一つの境涯ではありますし、そう取るときは、「解けて」の一語に、「解か
れて」という受身の語感をぜひ添えて読んだ方がいい。その場合、「面影」の二字に浮かぶ相手の男の容子は、なかなか端正な貴公子然としたものに、私には想
像されます。そして女は遊女のような気がします。なるほど、この想像もまた、面白い。言葉のあやに絡んでどっちともいろいろに取れる、これは日本語の表現
の、良くも悪しくも特色ですね。それだけ私たちは読みの自由を、想像力十分に満喫すればよい。
この歌謡には、類歌があります。ここでは、歌舞伎『身替座禅』の原拠である狂言『花子』や『座禅』から引かれています。するともともと「面影」は、さる
大名が妻女をはばかり、太郎冠者を身替りに屋敷にのこして通うて行く先の、つまり遊女花子のそれと話がきまってしまいそうですが、なにも、もとの狂言に義
理を立てなくてもいいでしょう。存分に自由に読んでいいと思います。
その捉われのなさで、私は、もう一つの読みを試みたい。こうです。唱和です。
女「花の錦の下紐は 解けてなかなかよしなや」
男「柳の絲の乱れ心 いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影」
これを、男女の愛欲、こと果てて互いに泣きたいような笑いたいような取乱した睦言の交換そのもの、と読めば、この二人きりの宇宙、この二人きりの閨房
が、そのままに無限抱擁の別世界です。
ところが、賑やかに男女入り乱れての宴席が歌謡の現場であってもいい。
女からまず戯れて「花の錦の」と唱いかければ、男たちも囃して「柳の絲の」と和する。これはこの時代、いいえ久しく久しい歌謡の沿革なり現場なりを想え
ば十分に有りえた遊びです。情況です。歌謡はもともと連歌ふうにこのように唱和して、劇的にも楽しまれてきた。それが、ふさわしかつた。酒の香がして脂粉
も匂う、歓声も湧きたつそういう場所。男と女とのむき出しに楽しみあえる場所。かくて歌声は、はかない永遠を面白う奏でえた、とも、読めばこう読める妙味
を、味けない型に嵌まって、すげなく見捨ててしまいたくはありませんね。
それにしても、です。なぜこんな歌で巻頭を飾ったのでしょうか、『閑吟集』の編者は。「春」を謡い初めたというより、個人的な或る特別の恋の想い出が
あって、全篇を通してのそれがつよい動機になっていると、そう言いたいのでしょうか。分かりません。が、こういう歌がこう巻首に据えられている事実は、動
かない。この歌が豊饒で芳醇な愛欲夢幻の恍惚や寂蓼を、はんなりと謡っている事実も動きません。私たちは『閑吟集』を、ともあれ、かかる「小歌」の一篇で
はじまる集と、よくよく納得してかかるべきです。そして、次へ。
ですが、私には今一段この一番の歌に対し、べつの感想がありますので……。
編者が私的の追憶を抱きしめていたかどうか、かりにも「桑門」にある「狂客」に、放恣の詮索は深く慎みます。が、この歌が、現在の満たされぬ歎きをもっ
て、過去溢美の感悦を想いおこしている歌、昔を今に、と願っている歌であるには相違ありません。しかも「昔を今に」とははやありえぬことも、つくづく承知
の歌と読みとれます。老いの影が、忍びよる死の兆が、もう見えている。新しい時節(来るべき「近世」)へのひそかな脅えを抱きながらの、これは、過ぎ逝く
「中世」に対する余儀ない挽歌のつもりではないのか。この編者は、あえて「狂客」の趣向と「桑門」の諦念で以て、十六世紀末というこの時点を通過しつつ、
微苦笑を浮かべて、かかる挽歌をまずは同時代に献じた。もしや、そうではなかったでしょうか。
この上の縷述を、今は避けましょう、不十分な議論におわりそうです。が、この提言、どうかこのさきざきも想い起こして下さるよう、願っておきます。
二番と三番は、「若菜」と「莱」また「摘め」と「積む」との縁語をきかした、やはり唱和の一対になっている。私はそう読みます。
小 いくたびも摘め 生田の若菜 君も千代を積むべし
菜を摘まば 沢に根芹や 峰に虎杖 鹿の立ち隠れ
春の若菜を献じて「君」の長寿を祈り祝う久しい風儀が、二番の下敷になっています。その意味で祝言そのものです。「いくたびも」が「千代」に響きあい、
また「生田(=幾多)」に懸かる。生田は神戸三の宮辺の地名ですし、古来若菜の名所です。歌枕の地です。となると、これッきりの歌なンでしょうか。どこが
三番と唱和なのでしょうか。
三番も、表面はごく単純です。菜を摘もうなら、沢で根芹を「摘みましょう」という感じを「や」の一字に籠めて、言葉が略してある。以下同じことです。
「シカ」または「シカ隠れ」は、動物でなく、春に根から芽吹いて出るあのウド(独活)の若茎を指す西国方言です。すると、これも何の変哲もなげですね。
ところが「生田」は名高い生田社のある場所ですし、そこの「若菜」を、参道にたむろするあでやかな女たち、春の遊女の若やかな姿と眺めますと、「幾度も
摘め」という一句が花やぎなまめいた呼びかけ、誘い、に聞こえます。事実、昔の社参はこのような気もそぞろの誘惑へとみずから身を寄せてゆく「君」達の、
男どもの、たいした楽しみであったのでした。「千代を積む」は祝ぎ言ですが、同時に「千代」の永さに匹敵する享楽の深さ、分厚さを約束しているとも取れ
る。これなら一番の情調を、また別途に、しかも濃厚に受けていますね。当然にも、この二番は「女」からの誘いです。
これに応じて「男」から、三番の歌声が湧く。「沢」も「峰」も深く読めば女体の景色でしょう。それに対し「根芹」「虎杖」「うど立ち」はどこか「男」を
感じさせる様態です。男心に、はや交歓の絵模様が浮かんでいる。それを嬉しい春の景物に、こと寄せて謡いあげている。
べつに三の宮、生田の社頭の実風景である必要はないのです。やはり宴遊の席を彩る、女と男とのさんざめく歌の掛合いと読むのが、存外に正確であるかもし
れません。
四番は、大和節。現行の謡曲『二人静』から採っています。四つの勅撰和歌を綴れ”に織りなして、「春」を謡います。 ノ
大 木の芽春雨ふるとても 木の芽春雨ふるとても なほ消えがたきこの野辺の 雪の下なる若菜をば いま幾日ありて摘ままし 春立つと いふばかりにやみ
吉野の 山も霞みて白雪の 消えし跡こそ路となれ 消えし跡こそ路となれ
参考書を頼って、どんな四つの和歌から成っているか、挙げておきましょう。
霞立ち木の芽春雨ふるさとの吉野の花も今や咲くらん (後鳥羽院 続後撰集)
春日野の飛火の野守出でて見よ今幾日ありて若菜摘みてん (読人しらず 古今集)
春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は見ゆらむ (壬生忠岑 拾遺集)
み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は来にけり (藤原良経 新古今集)
謡曲や宴曲(早歌)の詞章はこうした作法から成っている部分が、たいへん多いのですね。綴れ織りのように、と評されています。そして謡曲やお能をご存じ
の方なら、この手の詞章にはきっと馴染みがある。ゆったりとした気分で、理屈に走らずに、詞句のつなぎの音声なり意味なりの曰ク言いがたい詩趣と妙味とを
口遊み翫賞するのが第一です。と、それだけのことを申して、この本では、よくよく他と関連の面白い場合はべつとして、この手の大和節や近江節は紙数を惜し
み、割愛することにします。小歌を大事に読んでゆきます。閑吟集の大体を、それでも、見喪うことはないと私は思い切っています。
つづく「松」の三つをとばして、「梅」に。八番です。
小 誰が袖ふれし梅が香ぞ 春に問はばや 物いふ月に逢ひたやなふ
俄然、閑吟集らしく、小歌らしくなってきます。「逢いたやのう」と現在の仮名づかいで書いては出ない感じが、ものやわらかな「逢ひたやなふ」ににじみま
す。「や」の柔らかな響きに「なふ(「なう」が正しいのですが)」がたまらない余韻を引きます。何度も口遊むと、この身揺ぎに似た情動が憑り移ってきま
す。すると言葉の意味より先に、「タガソデ」「ウメガカ」「ハル」「ツキ」「アイタヤノウ」などという音そのものの魅惑が、澄んで明るく、温かに懐かしく
納得できる。詩歌や詞句は、眼に頼る以上にそういう音感を澄まして、わが耳の奥で聞くべきです。
「梅」と「月」は古典的な取合せです。梅は闇にも薫じ、月光をえて匂い出ずる花です。薫ると匂うとの意味の差を「月」が演出します。
ただしこの小歌では、「梅」「春」「月」いずれも艶に擬人化されているように感じますね。「誰」かがこの懐かしやかな梅花月の世界に紛れ入って、忍ぶ思
いを呟いている。妙に難解そうな歌になっていますのは、もともと二重三重に本歌というものを利用し、当時の読者(唱歌者)の深読みをアテにしているからで
す。
本歌取りとか、本説正しくとか謂います。謡曲の詞章は古来秀歌名歌の綴れ織りもとより、源氏物語や平家物語などの文章、詞章、情調、場面などに多くを取
材しています。そのもとになるのが「本説」でしょう。
「本歌」は──この八番に即して例をあげますと、直接には新古今集から、「梅の花誰が袖ふれし匂ひぞと春や昔の月に問はばや」という秀歌を下敷に発想し
ていると言われます。この場合発想のもとになったのが「本歌」です。ところが、この本歌のさらに本歌として浅野建二氏は、古今集と伊勢物語から各一首をあ
げておられます。閑吟集八番の小歌は、じつに先行三首の秀歌が個々に描いた情景や詩趣を背後に感じさせながらの作詞になっている。事を分け筋を立ててそれ
らの複合効果をべつの言葉へ翻訳するという試みは、たいがい徒労におわるくらい、微妙な重ね絵がこの小歌以前にすでに用意されていて、さらにその上へ新し
い言葉の色香と輪郭とを重ねているのですね。
私は、いささか大胆に過ぎるかもしれませんが、閑吟集の一読者としては、目前に与えられたかぎりの詩句の妙に気力を集め、背後にどんな本歌、本説がひそ
んでいるかの探索の労は、断念されても差支えないのだと申上げたい。『国歌大観』にかぎっても、どれだけ多くの和歌の数でしょう。そこから本歌の詮索をは
じめるなど、研究者に任せるしかない労力です。いくらか遺憾ではありますが、なまじこの辺に躓いていると、古典を読む根気を最初から損じます。また不思議
にも、古典を初心に読み返しているつど、すこしずつ周辺の知識が向うの方から寄ってきて、身についてくれるものです。
「物いふ月に逢ひたやなふ」が面白いンですね。「月」を誰だか人に見立てている。だから物を言う。口をきく。「月」は、半月ごとに満ち欠けするもので
す。通う男の足がとかく間遠に定まらないのを、女から恨めしく眺める気もちで、空には朧ろの月が照っているのでしょう。さらに加えて.女は月のものの障り
をも嘆いているのですね。ええいこんな煩わしい「月」が来て、「物いふ」あのなつかしく輝く「月」は来てくれない──。どうしちゃってるのかしら、「春」
よ教えて、と女はしおれている。末の句から溯るように読むと、そう読めて来ますね。
むろん「梅」が女です。「色よりも香こそあはれ」といつかも男に嬉しく耳もとへ囁かれたことのある女です。女は、思うのです。このあたしの美しい色香に
しても、誰でもないあの人の袖にはじめて触れて、あの人の光にはじめて抱かれて、思わず知らず身の芯の深くから匂い出たものですよ。それなのに、その当の
人が逢いに来てくれません、何日にもなるのに。あの「月」の澄ましかえってにくいこと。この身うちの「月(経)」の鬱陶しくにくいこと。あたしの気もちは
「春」だけが、この身内に熾んな春情だけが知っていてくれるわ──。
男という「月」に照らされて新たに匂う魅力の「香」をひき出された「梅」の女の、これも男を知ったればこそと、半ば嬉しく半ば切なく、「逢ひたやなふ」
と呻いているのが、この小歌です。私はそう読みます。そう読むとこの歌声、ずいぶん面白い、情の深いものだナと合点が行きます。
ところが逆も真かどうか、正反対の読みも可能です。どこの誰の袖にふれて、色佳いあの「梅」の女は今ごろ睦み合うていることやら。「月」の障りを口実に
逢えませんなどと……まことか嘘か「春」よ教えて。ああ、あ、月は月でも「物言ふ月」で女があればよかったのに──。これも逸興ですね。
次に九番。浅野建二氏の訓みに、とりあえず従います。
吟 只吟可臥梅花月 成仏生天惣是虚
(ただ吟じて臥すべし梅花の月、仏に成り天に生まるるも惣て是れ虚)
「吟詩句」の初登場ですね。とッつきにくい感じでいて、閑吟集の中でも洒落な興味に富んでいるのが、吟詩句です。さてこの上七字を、浅野氏の訓みにした
がえば、梅が香に匂う「月」を、愛でつ褒めつ気ままによこに成るが最上という、それまでの風流ないし閑雅であって、すると「惣是虚」の問題句を含む下七字
が、ちと大袈裟には思われませんか。この上句は、「自然の風物の典型」をただ叙景した句でおわっているのでしょうか。
私は、「梅花」と「月」とを、やはり女と男と見立てて、「只吟可臥」と嗾かす面白さ、囃すほどの景気をはらんだ歌謡仕立てであらねば、うそだと思いま
す。梅花と月との色佳さ優しさ清らかさを、男女の仲に望ましく看てとりながら、現世の愛欲を厭離するどころか享受しようとする姿勢、態度がこの一句に籠め
られていると。
「ただ吟じて臥すべし」とは、無垢の愛情を赤裸々に交しなされという勧めでしょう。それでこそ、下句七字の諦念に熱い意欲を潜流させている同時代人の現
世観にも、それなりに理が見え、気が通ります。愛念楽欲の極みに成仏できるか生天(昇天)できるか、「そんなことは知ったことか」と、「惣是虚」の一句を
読んでいい。こじつけでなく、私は、先の八番またつづく一○番との付合からも、ここは「梅花の月」でなく、「梅花と月と」であって、「吟」「臥」「成仏生
天」すべてこれ情念の様態を表現するものと読んでこそ、胸に届いてくる佳句に思えるのです。
一○番はこれをさらに、はつきり謡っています。
小 梅花は雨に 柳絮は風に 世はただ嘘に揉まるる
「雨に」「風に」「ただ嘘に」すべて「揉まるる」のですね。「もむ」も、その受身形も、日本語の語感として、或るなまめかしさ色っぽさを伴います。肌に
肌を重ねて、この世のこととも思われず、ただ「吟」じつ「臥」しつ男と女がまろび合う。「梅花」に情愛のたけを浴びせる「雨」──は、古来男の迸しる意気
を表現する暗喩の一つで、あとの「風」は、その勢いを示します。むろん「柳」の「絮(いと、わた)」とは、虚空をさまよう女体の、あえかな優しさいとおし
さを謂っている。
それなら「世」とは。これは源氏物語以前の昔から紛れない、男女の仲らい≠指してきた言葉です。「世の中」といえば、男女の関わりあう場の意味で
す。
そこで九番の「虚」を受けた一○番の「嘘」が、みごとに批評の針を光らせる。
世の中は、「嘘」で互いに揉みあっているとは──一瞬呆れ、しかし一瞬ののちには真率かつ的確なことに、思わず苦笑されます。
「世はただ嘘」「惣て是れ虚」と謡いつつ、九・一○番の両篇ともに、いっこうそれを否認し、見放し、厭い嫌っているというふうでもない。むしろ「そんな
ところサ」という、肯定とも覚悟ともまた諦念ともつかぬ、妙にからんと澄んだ明るい寂しい気分が、賑かそうでいてひとりぽっちの気分が、感じとれます。そ
の辺が閑吟集歌謡の真髄かもしれません。「虚」も「嘘」も承知で、ひとりの「我」がふたりの「世」の仲として揉み合うてでも産み出さねばすまない人間的な
陽気、中世の陽気、がそこに在る。現実の陰気を、辛酸を、知りつくしながら、ずっぷりと「性」の虚構に浸って、その底から掴み出してくる「生」の実感。
「生」の気力。ただ耽溺ただ風流ではない必死の意向で孤りの「我」を、力ある「我々」へと押しあげて行く、陽気。これを、この価値を、私たちは永らく「中
世」という時代に見落としていたのでした。
「虚」とは、まさに乱世の謂いです。権威と価値を一刻のあだ花に吹き散らす「風」の世界が、「虚」です。虚は虚と、虚に背かず陽気にうそぶいて生きる、
それを「嘘」と彼らは承知している。嘘が即ち偽りとはかぎらない。嘘の真を信じて、「世」の仲を手さぐりに歩いてきた農民の中世。遊女の中世。職人や商人
の中世──。閑吟集の編者「桑門」の「狂客」は、そんな愛すべき中世の行方を、不安に見守っていたのかもしれません。
二章 小歌の魅惑 そして春は逝き
一
『閑吟集』の比較的私たちにも読みやすい参考書はと訊かれても、たやすく思い浮かびません。が、研究書なら、有力なテキストを含むものを挙げても、志田
延義(岩波書店版・古典文学大系)、白田甚五郎(小学館版・古典文学全集)、北川忠彦(新潮社版・古典集成)、浅野建二(朝日新聞社版・古典全書)氏らの
著書が容易に手に入ります。他にも数々有ります。折にふれて参照することになるのもそういう本ですが、その一々についてここでとくべつ紙数を割くことはし
ません。
それよりも、たいへん私の感動した或る研究をちょっとご紹介しましょう。それは、三人の比較的若い主婦が、同じ大学の国文学科を卒業後、八年間かけて作
りあげた『閑吟集総索引』(昭和四十四年、武蔵野書院刊)です。
高梨敏子、津藤千鶴子、耳野紀久代という三人の著者は、大学生活最後の年に指導教授の「中世歌謡」演習に参加し、講義にも歌謡にも深く共感したあまり卒
業まぢかに一念発起、この索引づくりの難事業を企てたというのです。けれど在学中についに成らず、卒業後も互いに励ましあって作業を継続します。主婦とな
り母となって以後も頑張りぬいて、とうに退職していた元の教授宅ヘやっと三人そろって「分厚い原稿」を提出に出向いた。それはたいした努力というばかりで
なく、たいした成果でもありました。
「索引」づくりというのは、ふつう学術書などでは人名、地名、書名、事項名の別に語彙のカードを書き出し、然るべく順序をつけて便宜に配列する作業で、
とくべつ何でもないようなものですが、語の選択によほど原則が立っていないと難しい。ことに詩歌、歌謡と限らず文学作品の語彙索引となりますと、すべてが
微妙な表現で絡んでいるがゆえに、想像もつかない難儀な判断を強いられます。
一例に、閑吟集一二番の小歌を、とりあえず読んでみましょうか。
小 それを誰が問へばなふ よしなの問はず語りや
この際・「索引」の真の目的や効用はどこにあるか。たんに語彙を網羅する以上に閑吟集の文学、音楽、時代また人間的な真率と真実とをより特徴的に理解を
深める点にありましょう。例えばここの「問へばなふ」にせよ、前章八番の「逢ひたやなふ」にしましても、索引上は単語で見出しを出すか、文節として出す
か・文節の複合のようにして出すのか、それを閑吟集理解のために十分ふさわしい形で決める必要がある。必要とはいえ、その判断はさぞや微妙にむずかしかっ
たに違いないのです。
かりに「なふ」(正しくは「なう」。以下「なう」と統一する)という、終助詞の「な」が転じて共感を求めているなつかしやかな余韻の表現を、ただこれひ
とつ見出し語にされても、索莫とした機械的な作業結果に終ってしまいます。そこで著者三人は、この種の、発声上の響きに微妙な色合いのある語尾音は、別に
「附録」にして、「あひたやなふ」「とへばなふ」などと複合的に表現例そのものを列挙してくれており、おかげで「なふ(なう)」の用法用例に関連して、た
だ「索引」を拾い読むだけでも或る種の感情移入ないし納得が可能になっている。「ぢや」「ぞ」「そろ(侯)」「な」「よ」「よの」などはみな同様の配慮が
してあります。そうなると、例えば「なふ(なう)」は閑吟集を通じて前後六十数回も、「そろ」は十回も、「よ」は三十八回も頻出していることが、ちゃんと
「索引」を見ただけで分かります。
意味のある独立語としては、一二番の場合「問へ」「逢ひ」などの方がたしかな用言ですし、まして名詞もあるのですが、さりとて今の「なふ」とか、他の歌
でいえば「くやしさよ」「こがれ候よの」「めでたやな」等々の語尾の表現効果はやはりすぐれて特徴的で、これらを読み捨ててしまえないし、かと言ってただ
愛想もなく「なふ」「な」「よの」と出すだけで、各々六十三例、十二例、二例があると数字を与えられてみても、その色合いも味わいもちょっと読みとれない
ままで終ってしまったことでしょう。
どんな語彙や表現がどう用いられているかを統括的、逐語的につかむことは、たしかに全体の理解にも細部の把握にもよく役立ちます。「索引」づくりはたい
へんな辛抱仕事ですが、研究者、読者には大いに有用な手引になります。そしてそれも(家庭の主婦の力を割引く気持で言うのでは決してありません)、深い古
典愛と慎重な原則とがあれば、子育てにせわしい若い母親たちの友情に富んだ作業からも、こうした学問的成果を産むことが可能です。すばらしいその実例の一
つが『閑吟集総索引』で、私は、これをこの本の中でもいろいろに利用させてもらいます。この著者たちも市民、私も市民です。古典はけっして学者の占有物で
なく、第一義に市民の所有であることを、いつも自信をもって確認しつづけたいものです。
それにしても前章にとりあげました、一・二・三番や、八・九・一○番の小歌の読みに、私の読みに、いささか鼻白まれた方もあろうかと心配します、深読み
が過ぎていないか、と。
そこでもう一度八番を読んでいただきます。
誰が袖ふれし梅が香ぞ 春に問はばや 物いふ月に逢ひたやなう
ある方の現代語訳によりますとこの小歌は、「どなたが袖を触れた移り香なのだろう、この梅の香りは。匂いの高いいわれを、春に尋ねたいものだ、もの言う
月に会って問いたいものだなあ」としてあります。私は、とくに、詩歌の現代語訳というのを認めたくありません。幾重にもとれる日本語のふくらみを、原文で
なら幾重にも翫賞できるのに、訳してしまうと或る一つの訳者による解釈のみに原歌が固定されてしまうのが、反対の一理由です。日本語の詩歌を他の日本語に
置きかえるなど、ノンセンスなのです。ことに今あげたような解釈では、「春」と「月」の重出はもとより、「問はばや」「逢ひたや」の意図するところのちが
いも、「物いふ」の擬人化が暗示する含みについても解決が十分ついていない。そもそも「逢ひたやなう」とあるもとの歌詞は、「会って問いたい」のではなく
て、文字どおり「逢ひたや(逢いたい)」なのです。この現代語訳では、「物いふ月」の微妙な意味が、ただ「春に問はばや」の言い替えにしかなっていない。
しかもよく落着いて考えるなら、この訳の程度でこの小歌の解釈をおさめては、なんともはや他愛がない。詞句の後半分が、意味も意図も不明におわってしま
います。
次に、もう一度一○番の小歌を、ごらん願います。
梅花は雨に 柳絮は風に 世はただ嘘に揉まるる
これを現代語訳として、「梅の花は雨に、柳の綿は風に揉まれる。そしてこの世間はただもう嘘に揉まれることだ」とあるのは、うわべの文字どおりには確か
にその通りでしょう。けれど、それでは「世」の含み、「揉まれる」という語の含蓄はほとんど語感の上で活かされていない。ピンと利いていない。ただ鹿爪ら
しく世間虚仮とやらの仏法の認識を知解しただけで、それならなぜことさらに「梅」なのか「雨」なのか、また「柳」か「風」かという面白さにしっとり触れて
行ってない。「しょせん世間は、嘘」というだけでは話はただ大まか、そしてただ淡泊ただ稀薄になるばかりです。ちょうど大きなざるで水を掬うように、詩句
のうまみがすっかり漏れてしまう。
ところが「世」を、男女の仲と慣用にしたがい踏みこんで受取ると、世間は自然と背景、遠景となってかえって浮き立ってきます。いわゆる世間とは、男女の
仲の無際限の変様変態なのであるという穿った理解に情意調うて繋がるからです。
で、今後も必ずしも教科書的に上清みを掬うだけでない、私の気に嵌まった解釈を、読みを、ためらわず試みてみるつもりです。但しあくまで私の読みは可能
なかぎりの一例であり、より豊饒な解決や解釈は読者であるあなたの特権です。自在に私の読みにあなた自身の読みをつけ加えて欲しいものです。
さて、先にあげた一二番の小歌。
それを誰が問へばなう よしなの問はず語りや
「よしな」が、「由無」と読めて、理由の「由」の無いことと納得できると、表面の意味は、さほど難儀ではない。「問はず語り」の方は、いわば独り言かの
ように意味を釈ってもわるくはないのですが、ちょっと微妙に逸れてもいる。これは、やむにやまれぬ内心の催しが、つい口にさせてしまう述懐か、ないしは愚
痴かであるように、動機的にぐっとつよく捉えるべき語句です。たんに形ばかりの独り言とよわく読むと、語りての切なさも、「それを誰が問へばなう」と我な
がら呆れている切なさも此方の胸に響いてこない。「よしなの」といういわば批評は、自分で自分を嗤ってやる、苦い笑いなンですね。あァあ、誰に訊かれたっ
てわけでないに……つい、ばかな問わず語りをしてしまったよと、みずからを嘲笑う塩ッぱい自己批評。
けれど、また、この小歌はこのままで他者からの物言いとも読めなくはない。そしてその場合はたんに嘲笑と取ってはかえって共感乏しく、それよりいっそ、
「誰が問へばなう」の「なう」に深甚の同情、たぶんに優しい女の同情心を物憂く響かせて読むと、「よしなの問はず語りをしかけてきたたまさかの男の境涯に
対する、いささか呆れ、したたか共感し、もうそこに、「嘘」とも言い切れない「世の仲」の味わいを察している女、佳い女の、男をひっそり慰めている口調が
受取れてきます。
先のと、後のと、どっちの解が面白いか。私は、後の方をじつは取りたいのです。が、男の述懐また女の愚痴ととるのも、けっして悪くはない。
歌謡は、一回きりの一義決定的な表現ではなく、それを実地に謡う場と、人と、時との関わりに応じてそれ自体の世界なり情趣なりを自在に選びとることの可
能な、つまり可変性をうちに所有んでいます。詞句の与えるメッセージが、けっして窮屈に一つッきりに固定されてはいないのです。
但し、この小歌が閑吟集のちょうどこの位置に配されているのは、明白に、先立つ一一番の長い大和節の詞句を受けています。「老をな隔てそ垣穂の梅」とか
「人に一夜を馴れそめて」とか「馴れは増さらで恋の増さらん悔しさよ」とか、まさしく一一番は長々と「よしなの問はず語り」をしている歌です。そして「そ
れを誰が問へばなう」と一二番は応じている体裁、まさに連歌的な展開が試みられている。編者の意向はそうだと認めても、いい。けれどまた、そうだからと
言って、必ずしも他者からの対応とばかり決めつけて一二番を読まなくても構わないのです。かりに一一番大和節の主体が、一二番へ転じて今一度みずからをし
らじらと嗤いかつ泣いて述懐しているのだと読みとる自由も、十二分許されています。編者にはたしかに彼なりの思惑があったにせよ、私たち読者が銘々に共感
し解釈する自由を制限されはしない。歌謡の場合は、ことにその自由の幅も広く奥行も深い。あなた一人の動機や体験が生き生きと働くように、大胆に読んでい
いはずです。
ここで私は重ねて一二番の小歌にいう「よしな」の句にあなたの注意を誘いたい。すでに一番の小歌でも「下紐は 解けてなかなかよしなや」と出ていました
ね。これは、身をよじるような言表です。
「由無し」を辞書は、@手掛りがない。方法がない。A関係がない。縁がない。B根拠がうすい。いわれがない。Cくだらない。つまらない。──そう説明し
て、「由無し心」とは、たわいもない気持のことと言い替えています。語の意味としてはよく尽していますけれど、言葉の生命感は、その同時代に活きた語感に
より近づけて汲めれば汲みたいものです。
私はこの「よしなや」「よしなの」に、或る寄るべなく浮かんだ、漂った、あてどない、それ故の嘆声とまたそれ故の自由の感じとを受取ります。この場合の
自由は必ずしも良い一方の無拘束感ではなく、無縁であることの頼りない心細さとも、ひたと表裏しているように思います。必ずしも人は世間と無縁な楽や自由
を誰しもが歓迎する、欲するというものではない。それどころか縁を頼み、法の庇護や干渉をすら求めてやっとこの世の中を安心に生きる人の方が多い。「赤信
号、みんなで渡ればコワくない」とは、穿ったものです。社会とは、約束とは、そういう幾分の不自由な安心の関係≠ゥら、成立っています。規則や前例を互
いに守ったり強い合ったりして暮らしています。そうした安心からの脱落感も、やはり「よしな」の実感であったはずでしょう。
閑吟集の成るもう大分前に、京都ばかりか全国的な規模で、まるで下痢みたいにだらしなくつづいた応仁文明の大乱がありましたが、その一方の大将だった山
名宗全は、彼が生きた同時代を指さして、もはや「例」が物を言う時代でなく、「時」の勢いこそが我らの時代の必然だということを、さる公家方にむかい広言
していた話が伝えられています。理由の「由」は、「よし」は、いわば前例先例としての法式、規則、権威の意味ですが、それがもはや効力を喪っている時代と
して、山名宗全は「時」の勢いに自身の大名としての飽くなき欲望を代弁させたのですね。
宗全に代表される、つまりは古い守護大名型の欲望は、しかし細川も、赤松も、一色も、佐々木もみな潰えて行きました。はや新しい型の戦国大名による時代
へ、土地領民に対し領主もー体の、少くも当面善政と規律を必要とした群雄割拠の時代へ、世の中は動いていました。太田道灌、北条早雲が成果をあげ、やがて
武田信玄や上杉謙信が一代の名声と実績とを挙げてきます。それは、新たな時代の新たな「例」が、「由」が創り出されて行かねばまたも済まなくなってきた、
そういう「時」の勢いを意味します。無謀な我欲に暴走した山名宗全らの没落こそ、その時の勢いの皮肉な竹箆がえしだったのでした。
ところで、閑吟集におさめられているあまた小歌の類が、まさしく「由無い」時代のまっただ中に生れた民衆の歌声だったという事実は、うっかり忘れていて
ならぬ前提です。いわゆる中世小歌の、閑吟集はとりわけて早い時期の編纂本だったのですから、成立と目されます永正十五年(一五一八)八月より、もっと以
前の歌声を集めています。この永正十五年という時点に、ある知識人のやや憂鬱な感情と知性とでたいそう面白く編集されたいわば小歌集が閑吟集なのだという
観点は、見喪ってならない条件です。あの大乱のあった応仁文明という元号は、西暦一四六七年にはじまり、八七年まで続きます。太田道灌という武将はこの中
ほど(一四七八)で初登場し、そして文明最後の十八年(一四八六)に相模国で戦死しています。ついで一四九五年(明応四年)になると、北条早雲が以後五代
に及ぶ根拠地の小田原城を、大森藤頼から力づよく奪い取っているのです。
非情な新旧勢力の交替は、当事者にとっても関係者にとっても、周辺の民衆にとってもさまざまに「由無い」ことに違いなく、しかもそれをどうにか「由有
り」げに評価を仕直し仕直して行くしか、生き甲斐がない。さぞ心細くも頼りなくもあったでしょう、が、妙に我が身を先へ先へ運んでゆける風通しのいい道程
でもあったことでしょう。大名や武家の世界も激動しましたが、農民といわず商人、職人といわず、民衆の生活や身分や活動の範囲も、本当はこの頃からはっき
り社会的、経済的さらに文化的にも動き拡がってきた。力がついてきたのです。
「よしなき恋を」「よしなき人に」「よしなの問はず語りや」「よしなの涙やなう」「よしなの人の心や」「なかなかよしなや」「こがくれてよしなや」「慕
ふもよしなやな」と、先に紹介した三人の主婦の労作『総索引』は、閑吟集中の用例をすばやく教えてくれています。多い少いの評価はべつとして、こういう一
語のもつ時代感情をどうにか汲もうとしないでは、歌謡に籠もる同時代人の嘆息や、元気や、批評はとうてい読みとれはしないものです。「それを誰が問へばな
う よしなの問はず語りや」などと、ひやかしてはいけません。
次の一三番は明らかな謡曲の一場面です。謡曲の鑑賞にはおのずとべつの便宜もあることとて割愛しますが、謡いおさめの一聯として出てきます、
……よしそれとても春の夜の 夢の中なる夢なれや 夢の中なる夢なれや
という述懐は、きっと今後に大きく響いてくる基調音とも言えそうで、これだけは、何度も口遊んでみて欲しいものです。およそ何事も「春の夜の」「夢」の
「中なる夢」に同じよと謡っている。「世はただ嘘」(一○番)「惣て是れ虚」(九番)を受けての「夢の中なる夢」という認識がここへ突出して出ている。は
たして否定的にか。肯定的に出ているのか。編者の、謡いての、聞きての、そして私たちのそれぞれの判断の重みをしっかりこの句の上へなげかけておいて、先
を読んで行くことにしましょう。
一四番。一五番。一六番。
小 吉野川の花筏 浮かれてこがれ候よの 浮かれてこがれ候よの
小 葛城山に咲く花候よ あれをよと よそに想うた念ばかり
小 人の姿は花靫やさし 差して負うたりや うその皮靫
右の三つを事実一連の、同時の作詞であると考えるというわけには、ちょっと行きかねます。編纂配列の技巧で、意図して微妙に面白う連絡しあっているのに
は相違ないでしょう。歌詞のかげに隠れた歌謡の主体つまり謡いてが男か女かのいずれとも解釈できそうですが、「花」の縁語からは、やはり女を想う男の心情
として一連の情趣を読みとってみたい。
すると先ず一四番では、心浮かされ想い焦がれるものを、吉野川に浮かび漕がれ行く「花筏」に繰返し呼びかけかつ託している。「漕がれ・焦がれ」の懸詞を
効果的に生かすためにも、ここの「花筏」は、ともあれ花枝に飾られて現に人の乗っている筏のことと想うのが、真実感も臨場感もあっていいでしょう。
一五番へ行くと、「女」は「葛城山に咲く花」に見立てられている。俗にいう「高根(嶺)の花」で、よそにのみ見てやむしかない。手が届かない。「あれを
よと(あの花が欲しい欲しいと)」「念ばかり」の響きあう詞句が、可憐にかなしいではありませんか。葛城は名だたる高嶺。美しい桜の名所。「浮かれてこが
れ」それでも「念ばかり」で「よそに想うた」としたたる涙のしずく。めめしいようで、しかしこういう純な男心は、かえって武勇の男子にもよく似合い、わる
くないものです。
これは女が男を思っているのだと、一四、一五番とも十分に読めるのですが、その場合は、口つきからして遊女または村娘などが、身分ありげな手の届かない
男性を遠目に慕っている風情になりましょうか。女が、男を「花」と見立てていけない道理はないが、逆が普通と謂えますかどうか。
一六番へ眼をうつしますと、男は「花」の女を、結局もう手に入れてしまっているのですね。しかもその経過と結果から或る「うそ」を感じてさえいる。
「靫」とはいわば「矢差し」に造られた空のツボ。皮で造ったツボ。これを背に負うのですね。女の姿、女の体を「優し」い「羞し」いツボ、「矢」の容れ物と
見立ててもいるのですね。
「矢」が男を示すことは、鴨社の神話伝承にも見えている、太古来日本人の実感です。美女が川溝にまたがっていると川上から矢が流れて来ます。そして美女
は神の子を妊む。そのような矢を「差して」とはっきり謂う表現は、縁語を懸詞で強調したなまめかしいエロスの効果をもちながら、一転して、靫をただ背に負
うてみるというふだんの動作にもどされ和らげられる。女という名の花靫を背に負う、つまり我が物として背負いこむ、と──、優しく羞しいと見たその花靫の
出来が、じつは皮は皮でも「うその皮」で張ったからっぽの靫だった──と、そう言うのです。
ずいぶん手厳しく女を攻撃しているようですが、この小歌を反復口遊んでいても不快なえげつなさはなく、かえって優しげな女のその外見の美しさは、すこし
も害われず眼に見え見えてきます。「差して負うたりや」といった口調子には、快い、男の意気のようなものさえ想われます。となると、ここで「うその皮」
は、女という相手をわるく決めつけているというより、もともと男と女との「世」の仲なんて「うそ」と「うそ」の掛け引きなンだものと、ちょうど鐘と撞木の
間が鳴るぐあいに、以前の「世は嘘に揉まるる」ふうの感懐が、さらりとやさしく残響していることが読めてくる。分かってくる。
手に入れた女を、一方的に「うその皮」と貶めるほど男心はいやしくない。男は、己が男心にさえも苦笑いのうちに「うそ」を感じている。それどころか男と
女との「うそ」を悪いとも言ってはいない。「うそ」は、時に、すぐれて美しいしやさしい。そういうことをよく知りぬいた同士の、知りぬいた時代の、これは
可憐なほど面白い歌声なのだと私は味わっています。
すると、次の一七番が引き立って見えます。
小 人は嘘にて暮らす世に 何ぞよ燕子が実相を談じ顔なる
孔子、孟子などと聖人を呼ぶ。その手で渡り鳥の燕をご大層に、燕子と呼んでいる。燕尾服が式服礼服でありますように、燕という小鳥、どこかおつに澄まし
た気味がある。電線に並んでとまっている時など、とくに賢しげに見えますね。人生の、此の世の、説くに妙にして聴くに趣ありげな真実真相を、したり顔に何
とはなく論じあい談じあっているかに見えます。そんな燕たちの真摯なお談義を高くもちあげながら、この小歌、人の世の軽薄な嘘をいたく窘めているのでしょ
うか。どうやら、それが逆さまのようなンですね。むしろしたり顔した「燕子」の、まじめくさった顔の方がかるく嗤われている。おいおい、よせやいといった
余韻がわざと「燕子」といった調子にのこっている。それがこの小歌の姿勢です。「人は嘘にて暮らす世に」という物言いの方に、存外につよい肯定が龍もって
いるのです。
真実真相といい、道理法則といい、それがとかくくるくる移り変わって、アテにならない。その変わりようの早く烈しく果敢なかった時代に、閑吟集の小歌は
生れ、謡われ、受容れられていた。「何ぞよ」つまり何じゃい阿呆らしいという気持で、「実相」とやらの「嘘」にいやほど人は付合っていた。大事なことは、
それはそれで必ずしも悪い一方とは限らなくて、世の中が本当にくるくる移り動いて行く時代には、そのアテどない流れ自体を図太く肯定することで、かえって
前途に希望を託するという態度も必要だしまた可能でしたろう。その態度がとれない、頭のかたい、嘴の青い(赤い)若い燕のような澄ましかえった手合いに、
「嘘」の妙趣をさらりと笑って訓えている、そういう、これは小歌なンだと取れば、先行する一六番の、「花靫やさし」もきっちり面白く受取れる。この辺との
関連で、いずれ先へ行って五四番、五五番のこんな小歌と出逢うことにもなります。
小 くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
小 何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
この「くすむ人」の「うつつ顔」が、ちょうど「実相を談じ顔」の「燕子」と相応しているのですね。「くすむ」はまじめくさるというほどの、ここではかな
り強い否定語になっています。その読みは後刻のこととして、この一七番の小歌は、閑吟集傑作の一つと言っておきましょう。
人は嘘にて暮らす世に 何ぞよ燕子が実相を談じ顔なる
「嘘」を肯定し推奨するというのでは、むろん、ありません。が、じ
つは「嘘」という真相もある世の中に、ただ浅く眼をそむけて、口先の「実相」ばかりをだらだら談じていて済むことかという意気は、少くも中世の荒いあの時
代を生きぬく「力」でも「思想」でも、十分ありえた。それは、より高次元の真実や誠実を求めての、かなり切ない手さぐりでした。逆もまた、真。そこで、二
五番のこんな歌が謡われます。
小 散らであれかし桜花 散れかし口と花心
金無垢の価値としての真実を「桜花」に想い籠める。これは、遠く上古来のすぐれて日本的な風尚というものでしょう。「散らであれ」という願いには、ただ
桜の花を愛で想う真情にくわえて、男の、女の、まごころの佳さ優しさ確かさを祈願する「真」の熱望が表わされています。それに対し「散れかし」とは、ほと
んど吐き捨てる口吻です。まやかしの実相を談じ顔の「口」や、そんな口が吐きだす浮気ごころは、のろわれよ。二五番の小歌には、閑吟集に珍しい、直截の表
現が見えます。ほとんどこれは例外に属しています。
では、三○番。
小 花ゆゑゆゑに あらはれたよなう あらうの花や うの花や
「うの花」は「憂の花」であってまた「卯の花」でもある。「あら、うの花の」と歌った本歌が古今和歌集にあります。が、この小歌の生命は、むしろ「露は
れたよなう」という嘆きの声にこそ籠もっています。あまり「花」が美しいので、忍ぶ想いの花恋いの真情がつい「色に出にけり」で人に知られるまでになっ
た、それをあら「憂の花や」と謡う。
けれど「憂」という感情を、消極的に否定的にばかり受取っていると、この小歌の微妙な歓喜や満足を読み落とすことになる。美しい花に出逢うて、心中の愛
が思わず外へ露われる。純な人間のそれはむしろ当然で誇らかな心の動きなのですから、この「あら憂」という物言いには、初々しいはじらいや当惑を乗りこえ
て溢れ溢れる恋の喜びもふくまれているのです。
古今集の本歌は「世の中をいとふ山べの草木とやあらうの花の色に出にけむ」とあって、妙に厭世的なンですが、閑吟集の小歌では、「うの花」を恋愛に身を
濡らす美しい四月の花として、むしろ明るく輝かせています。「花ゆゑゆゑに」の一句を、わたしのこの花ごころに裏切られて……露われた、という趣で読みま
すと、恋知りそめた女の愛らしい嬌態が眼に映じてきますし、「花」を女と、「あら憂」と嘆くのを男と取りますと、どこか年かさな男の、余裕のようなものが
巧くよく出た、そう騒々しくない酒席での世なれた反語か喃語のように耳に聞こえてきます。
ところで、この三○番までの歌謡は、いずれも目前の場面描写ないし体験者の即座の実情というより、より民謡に近いほどの普遍性を私たちに想像させて来な
かったでしょうか。それだけに、一種の諺だの箴だのに近い趣致が伴っていて、いささか歌詞によせて「実相」を談じ顔でもなくはなかった。おそらく編者であ
る「桑門」「狂客」の知識人ふうな心境や態度が、余儀なく反映し反響していたのだろうと思います。
が、そういう小歌ばかりでない証拠が、次の三一番です。おいおいに、こういうのが増えてきて、閑吟集はひとしお面白くなります。
小 お茶の水が遅くなり候 まづ放さいなう また来うかと問はれたよなう なんぼこじれたい 新発意心ぢや
「お茶の水を持ってくる(持って行く)のが遅くなりますわ。さアさ。放して下さいな」というのですから、ここに女が一人いる。女をつかまえて「また来う
か」と問うている男も一人います。そして男の振舞いが、「新発意心」と女にからかわれています。「新発意」とは頭をまるめて間のない若僧のことですが、若
僧、小僧というここは一般に通用の意味を生かして、事実どおりの丸坊主、僧侶と限定してしまう必要はすこしもない気がします。
この小歌、梁塵秘抄の雑の今様に似ていて、情況がたいそう面白い。面白いのに、そのくせ、ちょっと分かりにくい。能狂言「御茶の水」での表現どおりに納
得すれば、まさに若い僧侶の新発意が、女を引き留めようとしている。それを迷惑がる女の言葉として、ほぼ同じ物言いになっています。団扇踊りの歌詞を見ま
しても同様で、なるほど水汲み女と若い坊主となら、情景はそのままの歌舞伎踊りといった趣向ですから、まるで眼に見えるようですね。お多福とひょっとこ位
の対照の妙はあるわけです。但し団扇踊りですと「お新発意やの」と言うています。これを「新発意心」とひき直されてみると、もうものの譬えに転じて、必ず
しも姿どおりの色坊主とはかぎらず、ちょっと逸れた意味合いを生じています。ごく功者な女が、世なれぬ若僧、小僧をうまくあしらい気味の表現になり変わっ
ています。
ここは、「また来うか」の読みが大切なンです。男が女に、「また来るか」と訊いていると解釈した本がある。放したらもう二度と戻って来ないだろう、だか
らまた来るか、と問う意味に取っているのですね。これはとりあえず、「まづ放さいなう」という女の声に対し、道理の通った反問のようです。が、じつはつづ
く「なんぼこじれたい新発意心ぢや」の取りようで、およそその重みが変わってしまいます。女にすれば「なんぼこじれたい」「問はれ」ようであるかが小歌の
眼目なのですから、ここでこそ「また来うか」の意味が、効果をもって生きて欲しい。
第一、「また来うか」は「また来るか」と他人の行為を問い訊す物言いでしょうか。かりにこれを京言葉として読みますと、私も京生れ京育ちなンですが、
「また来うか」「また来うなァ」と言う時は、他者にむかって自分自身で来る、来たいという意志を告げる物言いなンですね。たとえば清水寺の花を見に行って
大いに満足した。思わず身近な他人にむかって「また来うか」と提案するとか、内心誰かを連れてもう一度、来ようかなと思ったり、門前の気に入った茶屋女に
でも、また来るよと満足を世辞がわりの約束にかえて、機嫌よく言い表わす。「来う」は、自分が来ようと思う意向でして、他人が来る来ないを問うなら、「来
うか」ではなく「来るか」「来てくれますか」であるはずです。但し京言葉の場合です。
次に、場所が問題です。文字どおりに坊さんなら、ここは寺内といったふうな場所なンですが、遊所、茶屋ふうの場所とも十分考えられる。すると場数を踏ま
ない青道心めく若者と、苦界(公界)無縁の達者な女との出会いに場面が変わります。どちらかと言うと私のはそういう説です。「また来うか」は耽溺の味を覚
えた若い男の、それでもおずおずと「またお前のところへ来てよいか」という甘えなのでしょう。「まあ。あまりといえば小焦れッたい坊やちやんねェ」と女は
苦笑い。そういう応酬です。来て良く、来て欲しく、来て貰っての身すぎなのは女には知れたこと。それをおずおず「問はれたよなう、なんぼ……」と呆れなが
ら、その男がもうすでにちょっと可愛らしくなっている。その女にしても、心根に可愛げの生きた、気のいい遊び女なんですね。
こうなると、「まづ放さいなう」は、けっして行きずりに袖をそうひくなと窘める程度の軽々しい場面ではない。今しがた巫山雲雨の夢を見たその合歓の床な
かでの、いっそ睦言なのではないか。
「お茶の水」は、のどの渇いたお二人さんの口直しです。ここまで読んでいっそう面白い小歌のように思えます。
二
ここで、ぜひ心づいて欲しいことが、一つ。「お茶」がもう十六世紀のこの時点で、かなり日常ふだんの飲料として出て来ている。むろん茶室の茶ではない。
淹し茶の類、焙じ茶の類でしょう。が、紛れない庶民の飲みものに「お茶」がある。茶は、栄西禅師が宋から種子三粒をたずさえ帰って以来の普及と、よく言わ
れます。一つの画期が禅院茶礼のその時分からとは確実ですが、日本人がそれ以前から「茶」に類する何らか植物性の味を、淹したり焙じたり溶いたり煮たりし
ないで来たとは、とても思えませんね。水か、湯か、ないし酒だけという飲みもので鎌倉時代までの三千年、五千年を植生豊かな日本列島の住人がすごしてきた
などとは、かえって想像もできない不自然な話です。
「茶」の歌がつづきます。三二番。
小 新茶の若立ち 摘みつ摘まれつ 引いつ振られつ それこそ若い時の花かよなう
「娘十八番茶も出花」と今でも謂うじゃありませんか。とかく学問の本ではズバリと敢えてくれないことですが、若駒が笹を喰む、という類の表現は、まず男
(性)と若い女(体)との合歓を寓意している例が多いンです。それと同じで、ここの「新茶の若立ち」の場合は、男女ともお互いの、気恥ずかしやかな青春の
二次性徴をピンと感じとった方が、かえって気分もさっぱりします。「摘む」「引く」「振る」みな男女の出逢いで自然とはずむ肉体の上にあらわれ出る媚態な
のですから、すこしも猥褻に想う必要はない。そしてこの歌謡からは、そんな若さを喪ったか、はや喪いかけているらしい年増の嗟嘆の声になっている趣を受
取ってみることです。「それこそ若い時の花かよなう」とは、なんとまァ真率な嘘のない息づかいでしょうか。
三三番。
小 新茶の茶壷よなう 入れての後は こちや知らぬ.こちや知らぬ
「此方知らぬ」が「新茶」に対する「古茶知らぬ」でもあることは、すぐ、分かりますね。となれば、この小歌は濃艶至極の性の歌謡です。「新茶」は先の三
二番の「若立ち」に通じます。若い女の性の、みずみずしい外見と味わいとを謂うています。その新茶の「茶壷」とは──。
「壷」は言うまでもない容れものです。即ち女体本来の機能です。「新茶の茶壷よなう」とは、まさしく若い美しい女の幽所秘処をずばりと眼下に直視して形
容しているのです。嘆賞しているのです。「入れての後は」を、だから今さら説明の余地などないわけですね。ああ、ああ「古茶」のことなんか、知ったこと
か。知ったことか。わるい男──。可哀相な「古茶」よ。傑作!
『梁塵秘抄』を楽しんですでにお読みなら、この辺で、はっきり気づいておいでのことが、一つ、あるはずです。かの法文歌はべつとして、四句や二句の神
歌、ことに雑の歌には「巫女」「武者」「殿」「関守」「咒師」「鵜飼」「遊女」「海人」「博党」「近江女」「土器造り」「受領」「尼」「法師」「樵夫」
「兵士」「舎人」「禰宜」「祝」「聖」「山伏」「山長」などと、指さすように歌詞の中でそれと判る人物、その様態、が眼に見えていました。ところが、少く
もこれまでのところ『閑吟集』にそういう様態を背負うた人影が見られない。まるで個別から一般へ、とでも言えそうに、人がただ「男」と「女」の「世」の中
に、さながら抽象化されています。理念化されています。現実の「巫女」も「遊女」も、また「兵士」も「樵夫」も、歌の背後にそれぞれ固有の身なりを隠し埋
めてしまっている。そして男に、女に、ある意味で本然の姿にかえって、さまざまな小歌のなかで生きています。
今一つ、『梁塵秘抄』では、かなりの頻度ではっきりした「我」が歌詞に顔を出します。例えば「我等が修行に出でし時」「我が身は罪業重くして」「妾らが
柴の庵へ」「我を頼めて来ぬ男」「我が子は十余になりぬらん」「我が恋は」などと。むろんこの「我」も、個別の我と、一般化された我とに丁寧に弁別すべき
ではありますが、それにしても『閑吟集』にこの手の「我」表現が、少くも先の三三番の辺まででは、全く目立たない。したがって二人称を指す「君」の表現も
また、ごく数寡いのです。
右の事実を、どう理解しておくか──。
二つ、見当がつきます。梁塵秘抄の時代そして今様の雑の歌を見ていますと、ある日ある処で生れてはじめて出会ったような同士が・円座になって膝をつきま
ぜて互いの体験や心境を歌語りに語り合うてでもいるような歌謡が多い。巫女同士・修験者同士、遊女同士のこともあれば、それらの人がたぶん混在もしている
のでしょう。互いの体験や心境が珍らかであり、また身に泌みて共感もされ、そしてそれが明日から先のまた漂泊の日々を支える知識や情報や判断の素地とも材
料ともなって行く。そういう人たちのそういう時代にふさわしい、具体的に生々しい歌謡群として、あれら今様は、紛れない時代の表情をむき出しにしていまし
た。「我」を表に出して謡い語ることは、さまざまな人が階層を越えて意志疏通するための、前提であり、仁義でさえあったことでしょう。
閑吟集の時代では、小欲は、もはや必ずしもそのような漂泊者たちばかりの所産ではなかったようです。むしろ俺とお前との仲に、名乗りや「我」の強調をさ
ほど必要としない、お互いお馴染みの場所で謡われていたのでしょう。あまり具体的に表現しすぎては、それが限定、制約となって歌謡のスムースな疏通をそこ
なうという配慮さえあったでしょう。
逆説でも何でもない、つまり「我々」と「彼等」との区別が世の中でいろいろに明確になってきて、他のグループや人の体験から身を退きがちに、疎遠になり
がちになっていたのです。「古代」にも人は寄合って日用を弁じました、が、「中世」の寄合の場は、古代のそれよりももっと強く「我我」の連帯を欲し、「彼
等」との対決を鋭く意識し勘定する場になっていた。ならざるをえなかった。
そうですから、顔なじみとまでは言わずもがな、しいて己が職分や身分を告げあう必要のないような場所へ、たとえば遊び女のいるような中立の場所へは、個
別、特殊としての「我」を持ち出さないのが、むしろ作法でした。そして日常の場所では、むしろ個よりも衆としての「我々」が、よその「彼等」との間で利害
をたしかめたしかめ相い集わないでは心細い時代、頼りない時代、身を守れない時代だったのです。「中世」とは、一つにはそんな時代でした。だからこそ、と
言いましょう、そうして寄合う場所からは、陽気に面白い藝能が生れもしたし、じつはこっそりと時代変革のための謀議も重ねねばならなかった。陰気な逸機は
「中世」では命とりであったのです。隠遁とは、そんな「中世」の特異な陽気活気になじみ切れなかった者の、あるダンディズムだったのかもしれない。私はそ
う考えています。
小歌でも謡おうかという場所で、人は、男であるか女であるか以外に、個別の特別の役割分担はもう必要としないどころか、危険でさえあったのですね。「我
々」同士の仲ででも、その紐帯から「我」ひとりはみ出ようとするが如き個性は、大成功して支配者に変身するか、退いて隠遁するか、村八分にされて屈すると
いった存在でしたろう。まして「彼等」の間へ紛れこんだ時に「我」はと主張してみても、窮屈になるか、無視されるか、排除されるのが落ちでしょう。
閑吟集歌謡は、どこかで一味同心の場を囃すうわべは浮かれた宴遊歌のようでありながら、時代の激流に呑まれまいと、危い孤心を隠しておく、陽気な隠れ蓑
でもあったはずです。
閑吟集の編者は、むろんそうした中世小歌の時代特性をよく知っていながら、はるか古代中国の詩の風雅にも叶おうほどの儒者らしい思い入れで、民衆の歌声
を一の文藝としてひとり選びひとり列べてみる趣味の良さを示しました。それ自体が孤心を養う覚悟のほどでしたろう、が、露わな心境は慎重にその趣味性の奥
に塗り籠めてしまった。私は中世を生きた歌謡歌詞そのものと、編者の心境や意図との或る乖離、分裂、疎隔を適切に読みこむのも、閑吟集にむかう者のエチ
ケットのような気がします。少くも、私は編者の意向に添い過ぎることを怖れています。
そこで、それならば「閑吟」とは何かという問題に、ようやく遭遇します。
「閑」とは閑居の閑、「しづか」でも「ひま」でもある。「吟」はまさに「口遊む」こと、謡うこと、それも高声にでなくて、浅酌低唱する心地ですね。梁塵
秘抄は「梁塵」の文字から合点のいきますように朗唱です。そして哄笑でもあり驚嘆でもあり喝采でもある。閑吟集は、それに対してよくよく熟れた共感です。
笑うも泣くも、古代漂泊者の野性が放った逞しい情感とは自ずと別趣の、同じく漂泊に等しい乱世流離の境涯は生きていながら、さすがに定住への希望と手段と
をようやく抱きかかえた生活者たちの、少くも「我々」同士の間でならもう眼と眼で頷いて分かりあえる泣き笑いです。
けれど、小歌の一つ一つを現に謡い楽しんだ男女の心境が、即ち、「閑吟」なのかといえば、それは違う。違うはずです。「閑吟」とは、序にいう「桑門」
「狂客」の孤心が望んだダンディズムなのであって、現に小歌を謡い楽しんだ人の気分はもっと流動しています。揺れています。時には面白ずくです。例えば一
七番の、
人は嘘にて暮らす世に 何ぞよ燕子が実相を談じ顔なる
にしても、世の一般の人は、必ずや私が読んだようにくすんだ「燕子」をかえって嗤うふうに謡い囃したでしょう。が、この「閑吟」を風雅と心得た隠者めく
「桑門」ならば、今すこしべつの理解を示していたはずです。とかく実相を談じる「燕子」にむかって、「こんな世の中のこと、言ったってむだサ。よせよせ」
と苦笑いしていたろうと想っていいのです。それにしても私は、この面白い歌謡の集を、編者への妙な遠慮と義理立てで、「実相を談じ顔に」読む必要はないと
考えています。
私は想っています。閑吟集編者の「閑吟」とは、じつは先にトバしていた田楽節の二一番こそ、ぴたり言い当てているのではないかと。閑吟集小歌のおおかた
は、主として尺八の伴奏で謡われ、尺八に代って三味線が新楽器として世間に大いに人気をえたころから、およそ衰えて行ったという経過を念頭に、二一番を、
ただここに挙げておきます。これは、まことに快適に口遊むことができて、その快さがまたふしぎに寂しみを帯びて想われる、たいへんいい歌です。
田 我らも持ちたる尺八を 袖の下より取り出だし しばしは吹いて松の風 花をや夢とさそふらん いつまでか此の尺八 吹いて心を慰めむ
「我らも」という梁塵秘抄ばりの物言いが見える、ほとんど唯一の
"述懐≠ナす。これは「我々」でない、孤り在る「我」の意味なンですね。この辺にも編者がもう時代の波間から願わくば彼岸に身を預けたいと夢みている「狂
客」の、いっそ懐古的なと呼びたい態度が表われています。「いつまでか此の尺八」というのは、前途に不安をもった者(男)のもう抗うことは諦めて、ただ
「閑吟」に生きる表明なのですね。集の全部を読んでまたこの二一番を読み返してみますと、編者の孤独な息づかいと、「しばしは吹いて松(待つ)の風」とい
うしみじみ胸にひびく「閑吟」「往生素懐」の趣致とが、こんなによく示された述懐歌≠ヘ他に無いと言い切れそうです。
さて、この二一番の述懐に、次に三四番の大和節をひっそり寄り添わせてみますと、編者のひめやかな或る動機が忍び忍び輪郭をあらわして、あの得異な巻頭
歌一番と呼応するようであるのも、一つの読みどころと思います。
大 離れ離れの 契りの末は徒夢の 契りの末は徒夢の 面影ばかり添ひ寝して あたりさびしき床の上 涙の波は音もせず 袖に流るる川水の 逢瀬はいづく
なるらん 逢瀬はいづくなるらん
しみじみ低唱してみて下さい。さながらに『閑吟集』編者へ現代日本の私たちからの、手向け歌かのように、ふと錯覚されてしまいそうです。
次に、三六番と三七番と。
小 さて何とせうぞ 一目見し面影が 身を離れぬ
小 いたづらものや 面影は 身に添ひながら 独り寝
「面影」は、閑吟集の動機に深く沈んだ一つの鍵語です。巻頭一番の歌謡から、面影は見えていました。今あげた三六番の小歌は、一言もつけ加える必要のな
い、まさしく真率の情というものでしょう。
次の三七番は、「いたづらものや」という謡いだしの感慨をどうか正しく読みたい。今日の語感で「おいたをしてはいけません」と、母親が愛し子を窘めるよ
うな意味では、ない。
近世このかた大正、昭和の初年までも、「いたづら者」と批評したりされたりする背景には、必ず男女の公に認められない「世」の仲が隠れひそんでいたと言
えます。時に不当に、この言葉には度はずれた好色者というくらいのつよい非難も籠もっていました。けれど十五、十六世紀の「いたづらものや」を、そうまで
非難がましく決めつけては気の毒というものです。ここで「いたづらものや 面影は」とあるのを、主語と補語の倒置と早合点するのは禁物です。「いたづらも
のや」で、一度区切って読むべきです。人の面影を身に添わせつつ独り寝の己れ自身が、そんな己が状況、そんな己が心根、そんな己が愚痴こそを「いたづらも
のや」と嘆息しているので、決して「面影」が「いたづら」をする、わるさをするとばかり言うているのではない。ああ「いたづらものや」と我と我が身を真先
に詠嘆している。天を仰いで自分の顔をトンと打っている。そう想像したいものです。
いたずらに急ぐな、身をいたずらにするな、などと言います。むろん「いたずら」もこの場合の「いたづらもの」も、否定に傾き易い語と結びついて意味をも
つ批評語です。でもこの小歌の場合、独り寝していとしい「面影」を身に抱いている男が、当のいとしい女を(女が男をでも妥当しますが)否定でき否認できま
しょうか。それどころか「色」好む者なら、かかる「いたづらものや」の境涯さえ本懐とすべき風情でもあり情趣であり、粋の粋とは、この嘆息この愚痴の中で
はじめて結晶するのかも知れはしないのです。「思ひみだれ、さるは独寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ」と兼好法師も徒然草の第三段で言っていま
す。
源氏物語や枕草子いらいの好色を「あはれ」とも「をかし」とも「ながめる」伝統は、このように生きている。とても、ただ否認してすむ美意識ではなかった
のです。「いたづらもの」こそ実存者であったような時世を、日本の時間はたっぶり抱きこんでいます。まこと、「萬にいみじくとも、色このまざらん男(女)
は、いと寂々しく、玉の巵の當なきここちぞすべき」と言い切った兼好法師の美意識は、この小歌をふしぎに倫理的な魅惑で飾ってさえいます。
必ずしも私は今、それを讃美ばかりはしませんけれど、そうした特色ある歴史的感情に眼を背けて、「いたづらものや」を説明して「無用な物よ」と教え、独
り寝のことをみ「いたづらね」とも謂うとただ言い替えて読みおさめてしまうのでは、この小歌の嘆きを無価値にしてしまいます。いい本歌や類歌のある小歌で
すが、これはこれで心優しく身にしむ実情歌ではありませんか。
44・45・46番を、次に一連で読みましょう。
小 見ずはただ宜からう 見たりやこそ物を思へただ
小 な見さいそ な見さいそ 人の推する な見さいそ
小 思ふ方へこそ 目も行き 顔も振らるれ
「見ずはただ宜からう」は含んだ物言いです。見なければ差支えなかろうといった浅い解釈では、かりにこの一句の解決はついたようでも、つづく一句とのか
ね合いに緊張が乏しくなります。ここは二つある「ただ」をどう読むかも大事なところ。見ないうちは、評判どおりの「ただ宜からう」で、よそごとに想うて平
気でおれたのです。それなのに「見たりやこそ」現に見ちゃったもンだから、おかげでこの物思いさ、惚れこんで──。前のは、気軽な「ただ」です。後のは、
ひたぶるな「ただ」です。四四番、これは男の口吻ですね。女でもありえます。
つづく四五番の「な見さいそ」の「な」「そ」は、禁止を示しています。「見ちゃァだめ!」「人が怪しむわ(けどられてしまうわ)」と、当時の女人の直接
話法そのままを想わせます。「推する」は、推量し推察するのでしょう。ことば≠ェ自然な "うた≠ニ化している好例ですね。
四六番は、「振らるれ」という、受身とも自然とも両様にとれる「らるれ」のラ行音が、いとまろやかに耳に響きます。「だってェ。好きな人の方へ目も顔も
行っちやうんですも−ん」といった嬌声が聞こえてきます。酒席宴席や祭礼などでの、臨場感旺盛な咄嗟のギャグが、「あはれ」に「をかし」い人の思いを把握
しえた小歌ですね。男が、女の口説き文句に謡ってもなかなか有効だったでしょうし、さぞ愛誦されたことでしょう。
そうは言いながら、さて、どうも閑吟集の歌詞は淡泊で、コクというものが乏しいと物足らずお思いかもしれません。
仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
染塵秘抄の二六番、随一の秀作として広く知られた今様です。七五音を四句つらねた、少くもこういう型の整いは室町小歌には、ない。ない、のが特色とすら
言えます。型の整いならば、謡曲つまり大和節や近江節などの方があるでしょう、が、それでも七五、七五と四句をつらねるといった定型というのではありませ
ん。謡曲のそれは、むしろ梁塵秘抄の今様より時期的にややおくれて流行した、宴曲(早歌)の詞句のつらねかたに近い。
恋しとよ君恋しとよゆかしとよ 逢はばや見ばや見ばや見えばや
梁塵秘抄の四八五番、二句神歌のうちから、一等閑吟集の率直な謡いぶりに近そうなのを一つ、抜いてみました。が、これにも或る整いがあり、閑吟集四五番
の、あの「人の推する、な見さいそ」などというあたかも日常の物言いそのままとは、よほど違っています。これを譬えて、まだ和歌的な梁塵秘抄と、もう俳諧
的な閑吟集と謂ってみてよいかどうか。これは、あなたに、質問として呈するに止めておきましょう。
ところで、俳諧ないし川柳のことを念頭におきますと、わざと後廻しに残しておいた、四二番のこんな小歌を、ここでご一緒に読まずにおれません。
小 柳の蔭にお待ちあれ 人問はばなう 楊子木伐るとおしあれ
この恍けた物言いのおかしさ。
楊子は、書いて字の如くやなぎ(楊)の木で作るのが良いと言いますね。セームタイムのセームプレース、つまりデートの約束を、とある柳の木蔭でと決めて
おいて、もし誰かが通りがかりに何とか言うたなら、いえ楊子木を伐っているのですと「おしぁれ」仰言いナあるいは言っておやンなさいナ……と。女から男へ
知恵をつける「おしぁれ」でしょう。軽みのきいた、私の好きな小歌の一つです。
話題をもどして、閑吟集の小歌に歌詞としてのコクが有るか無いかと、一つ一つについて論えば、これは少くも梁塵秘抄とくらべて分がわるかろうというの
も、私の見かたです。けれど、それを補うものも、たしかに、有る。閑吟集のいわゆる連歌的編纂です。配列です。思い切って四九番から五五番まで七つを一度
にならべて見てみましょう。すると、連歌めく情緒の展開のなかで、たとえば梁塵秘抄の編集でならばそうは打ち出されてなかった、閑吟集ならではの或る宣
言、主張、態度として、読者の胸へひとかたまりに感銘が迫ってきます。
小 世間はちろりに過ぐる ちろりちろり (49)
小 何ともなやなう 何ともなやなう 浮世は風波の一葉よ (50)
小 何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十古来稀なり (51)
小 ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あぢきなの世や (52)
小 夢幻や 南無三宝 (53)
小 くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して (54)
小 何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ (55)
四九は、閑吟集を代表する小歌の一つです。しかも問題含みの一つです。「世間」を「よのなか」とどの本どの学者も訓んでいますのは後生の解釈で、一応私
も従ってはいますけれど、そういうアテ訓みを強いる用字が、存外閑吟集に数寡いのを思えば、文字どおりの「せけん」と訓んで正しいのかも知れません。もっ
とも文字どおり歌謡は、黙読に先立って口誦第一に唱歌されるもの。おそらく編者も、これが「よのなか」と訓まれることに疑念はもたなかったでしょう。しか
も「せけん」の意味も、この二字が体していたこと言うまでもない。そしてここからこの一篇の二重構造、趣向の面白さが真実湧き出すのですが、ところが私の
見たかぎり、「よのなか」と訓んだ研究者たちが、口をそろえて「せけん」の意味でしか、この「世間」の面白さを汲んでいないのにはおどろきました。
そもそもこの四九番で謂う「ちろり」が、はたして、ちらり、ちらッ、ということか。光陰の過ぎ易く、少しずつ移動する状態を「ちろり」と浅野建二氏らの
ごく通常の解で本当に十分かどうかです。当然のように古語辞典でも、@一瞬目にふれるさま、ちらっと、Aまたたくま、さっとの二種の解を示しています。ど
うも、どれも閑吟集のこの四九番を原拠としていて、それ以前に溯る用例は示していないンですね。近世、近代の語感で溯って行って、閑吟集の小歌に分かりよ
く安直に解釈をつけたと、皮肉に言えなくもない。なるほどムリのない理解で、けっして私も反対ではなかったのです。
とはいえ私自身「ちらッと」「じろッと」「じろり」という瞬時の瞥見を意味する副詞なら、たまには使ってきたでしょうけれど、「ちろり」という、音便で
も何でもないむしろ澄んだ発音の名辞か、あるいは擬音のような物言いでは、もっとべつのことを考えます。例えば真先に、酒好きの私なら酒器の「ちろり」を
思い出します。それと秋野にすだく「ちんちろり」のような虫の音を思い出します。
しかもこの二つは燗のついてくる時のさやかな音≠ノかぶって、親密に、印象として重なり合っています。「ちろり」と「ちんちろり」──どちらかが、他
方の語源であるかとさえ想像したいほどです。事実、長崎ちろりといって、色硝子のそれは美しい酒器が遺っていますが、そんな南蛮・舶来めくものと限らず、
やはり古語辞典が教えています「酒の燗をするに用いる容器。銅または真鍮製の、下すぼまりの筒形で、注口や把手がある」と説明しています、錫の品も多いこ
のような酒器の名前は、後撰夷曲集の八より引いたという、「淋しきに友まつ虫の寝酒こそちんちろりにて燗をするなれ」とある、燗のつくさわやかな鳴りから
も、またその注ぎ勝手のやさしさからも、来ているわけです。
この手の酒器を、では、いつの時代から「ちろり」と仇名ふうに呼んだか。にわかに確認できませんけれど、この閑吟集四九番の用例などは、松村英一氏や藤
田徳太郎氏の示唆もあったとおり、早くにあらわれていた証拠の一つと、十分考えられます。いかにも閑吟集ふうの名辞、語彙として、しっくりこの場に嵌まっ
ています。もっと溯って平安王朝の女房がたで日常に使われだした愛称、仇名だったかもしれない。閑吟集時代にはもう市民権を十分もって広まっていたのでは
ないか。
こう察しをつけておいて、その上ではじめて、この名辞の語感の根に、先にあげたような「ちろり」の通解を、さらに語意を拡張されたものとして思ってみた
いのです。
私の理解を率直に言いましょう。この小歌で眼に見えている近景は、まず酒器としての「ちろり」です。そしてその蔭に遠景となり背景となってひそみ、懸詞
ふうの隠し味にもなってふくらんでいる意味が、いわば通解どおりの無常迅速の「ちろり」なのです。こう意味を取ってはじめて、「よのなか」の訓みがはっき
り生きてくる。つまり「せけん」のことはと話が漠然と拡がってしまう以前に、この小歌では、男女の「世」の仲こそが、艶に直接にまず謡われているのです。
愛し合いなじみ合うた二人が、濃厚な「世」の仲をいましも枕を倶に満喫し充足している最中≠ナあると想像しましょう。一つ床のまぢかに、あと≠フお
楽しみの旨い酒が「ちろり」で煖められているのです。ちんちろりと燗はついてくる、その「ちろりちろり」の間にはや二人の愛の高潮も過ぎて行く。ひしと寄
合う二人の思いが、あるいは男の、あるいは女の孤心が、夢うつつにその「ちろり」の迅さをしみじみ認識しているのですね。相愛の営みが、わずか「ちろり」
の鳴りはじめるまでの、酒に燗がつくまでの寸時に過ぎてしまう、果ててしまう、そのはかなさを惜しみ、呆れ、なげき、そして男女ともどもに酒の方へ這い
寄って行く。そんな、やや醒めてうつろな睦まじさとして読むのが面白い。松村、藤田民らもここまでは読まれていなかった。
「ちろりに過ぐる」の「ちろりに」という形容動詞ふう語法は、酒器「ちろり」で燗がついてくるほどの時の間に、束の間に、という意味でなければたしかに
不自然です。そしてあとの「ちろりちろり」はその時の間を擬音ふうに表現し描写している。リアリティはすべて眼前の酒器「ちろり」が面白う確かに支持して
います。
そのものズバリ、有力な応援を、太田南畝先生、即ち天明狂歌壇の大将格だった四方赤良のこんな面白い狂歌に願いましょう。
世のなかはさてもせはしき酒の燗 ちろりのはかま着たり脱いだり 四方赤良
酒器を容れて置く「はかま」と着物の袴とを懸けている。袴を着たり脱いだりとは、すでにエロスの情景を直写しています。四方赤良は閑吟集のこの小歌をど
うやら本歌にしていたかとも言えそうですね。
まずは、この小歌は、こう読まねばならぬはずの秀句です。そしてこれほどの具体具象を経て、さらに広く遠くに、「世間」は、時世は、人生はとおし拡げて
行けばよい。「世の中はさてもせはしき酒の燗」です。「ちろり」の妙に、かくてこそ意味深長に手を拍つことができます。
四九番は、いわば二重底、三重底の面白さなのです。それをはなから無常迅速調で単調に片づけてはへんに説法くさいものに終ってしまう。はじめに愛欲耽溺
のはかなさがしたたかに感じられて、ついで男女「世」の仲の行く果てが想われ、それでこそ世間虚仮、無常迅速というほろ苦い諦念も遠景に生きてくる。身に
つまされるのです。ともあれ目前の景としては、男は男の、女は女の事後″のしらじらをこの小歌で思いつ見つしているンで、真の意味の、これが「きぬぎぬ
(後朝)」の情緒というものでしょう。
さあ、先に挙げた一連の七篇は、最初の四九番一つをこう読まないと、すべて浮足立って生悟りのお説法くささに鼻をつままねばならなくなる。五○番は「浮
世は風波の一葉よ」といい、五一番は「人生七十古来稀なり」といい、五二番では「あぢきなの世や」とふッと口をついている。それをさえエイと振り切るほど
いっそ勢いよろしく五三番は、「夢幻や 南無三宝」──。一炊の夢に夢さめた謡曲『邯鄲』に出てくる一句です。
一度はおちこみかけた「あぢきな」という否定や消極を、今一度「何ともなやなう」「何ともなやなう」と否定の肯定に反響させ逆転させての、すべては、
「夢・幻」という真実の現実。これをすべてそのまま、「だからどうだと言うの」「何じゃいナ」とまたバサリ夢幻(無間)の底へ切って落とすわけです。その
原点に四九番の男と女との愛恋夢幻、無限抱擁の束の間が過ぎ行きつつある。「ちろり」と酒が煮え立つほどの儚い時の間にも、しかし、よくよく想えば、よそ
の現実社会では決してえられなかった甘美と充実とがあった。あったはず……だ。
「浮世は風波の一葉」それで、けっこう。「人生七十古来稀」で、けっこう。「水の泡」「露の間」で、とことん味わいつくすいとまもなげな「世」は世なが
ら、それとて南無三宝、「夢幻や」であるわけです。
観念だけの諦悟は机上の空論です。最初に人間らしい愛欲の真相が寂然かつ「ちろりちろり」と据えられているから、四九番から五三番までが、みごとに緊密
な、少くも一つの態度≠毅然と表わしえている。この態度の毅さは、この時代の人々にすれば、世間万事心細く心もとなければこそ、こう生きぬくしかない
強さであったのでしょうね。またこの一連をこう編集しえたことで、閑吟集の編者は、「狂客」たるの真骨頂を表わしえていると言えましょう。
こうまで断乎読み切ってみると、もう、五四番の、また五五番の、「うつつ顔」を嗤って「ただ狂へ」と噴きあげる歌声に、余分の註釈は不要というもので
しょう。男女の仲を、そして現世を、徹底して「夢の夢の夢の」と幾重もの合せ鏡の奥をのぞくような覚悟があれば、「一期(生涯)は夢よ」と見切って、だか
ら肯定して、「ただ狂へ」と両手両脚を奔放に虚空になげ出すのは、語の真実として極めて
"自然≠ナす。この自然≠リアリティ≠ニ訓みたくなるのは、根本に男女の愛を据えて動かない『閑吟集』の人間肯定があるからです。
ここで「くすむ人」というのは、一般に「まじめくさった人」ととるだけでは、じつは味わいがまだ稀薄です。明らかに「夢の夢の夢の世」つまり性愛の秘境
を、はるばる訪れていながら、なお「くすむ人」は、尻ごみする人などは、とても「見られぬ」と嗤っているのです。
「ただ狂へ」も、どれほど深遠に釈義してもいいのですが、根本には、男女愛欲の海のなかで狂い游ごうよと、徹した思念が第一義に謡われている真相を見忘
れては、聴き遁しては、いかな説法も屁ひとつ、何の足しにもならないのです。
『閑吟集』が説く「春」とは、まさにこういう小歌に寄せて認識される「春」なのでした。そしていつしか「夏」が、そこへ来ています。
三章 中世の陽気 そして夏が秋へ
一
『閑吟集』つごう三百十一篇の歌謡については、こう編集される以前のいわば素性が、今日あらまし調べ尽されています。本歌や類歌や後続歌もよく調査が進
んでいて、市販の註釈書を見ていただきますと、およそそういう点はほぼ遺漏なく参考に掲げてあります。
けれども、一読者としてつくづく思うのは、その種の知識をもつことと、一篇の歌謡をより豊かに面白く深く読むのとは、関係があって当然としても、必ずし
もそれが決め手でないということです。ましてや徒らにその種の知識に足をとられますと、そこで満足して、それ以上に自身の発見や創意で歌詞をじかに読もう
という意欲を逸らせてしまいがちなのが、残念です。残念というより、困ります。
学者研究者の精細な仕事に私はけちをつけるどころかつねづね感謝して参考にさせてもらっているのですが、率直な不満を言えば、周辺の詮索は行届いている
のに、この場合、歌謡そのものの読みは意外に淡泊に浅いということが、一つ。また、閑吟集歌謡を、その同時代の政治社会文化の諸現象の中で相対化する現
場%Iな、臨場感ゆたかな評価や鑑賞が必ずしも十分でないのが、もう一つ、です。むろん歌謡史変遷の中での位置づけなどは周到になされています。が、もう
少し大きく、閑吟集成立の
”時代”の幅をどれほどに見積るか、かりに十五世紀の百年間をそう見積った場合に、日本の十五世紀が先行した時代と後続する時代とのかねあいで、どのよう
な意義をもった百年間だったと納得すればいいのか、そう納得することがさらに閑吟集の翫賞とどう有効に関わるのか関わらないのか、などの見解が、十分出て
いない憾みはのこるのです。
『閑吟集』は、いわゆる南北朝時代と安土桃山時代とにはさまれた室町時代の有数の文化所産であるわけですが、南北朝合一の明徳三年(一三九二)から足利
将軍家廃絶の元亀四年(一五七三)までの約百八十年、そのおよそ三分の二期間をへた永正十五年(一五一八)という時点は、大きく眺めて、将軍の時代、守護
大名の時代が過ぎ、戦国大名の時代へ移り動くいわば室町時代第三期へのそのまた過渡期に当たっていました。何度も言うことですが、閑吟集の編者は明らかに
北条早雲という戦国大名の登場をよく承知していますし、応仁文明の大乱をたぶん身を以て体験していたはずです。が、私たちのよく知っている武田信玄や上杉
謙信の登場はまだ見知らぬまま、『閑吟集』をひとり編んでいます。
将軍、守護大名、戦国大名と、権勢が三期に移り動いた。言いかえれば要は、下剋上で時勢がそう動いたのです。それに違いはありません。しかしこういう権
力交替の視点でのみ、室町時代を納得してしまうのは、この時代が真に乱世であっただけに、危険が大きい。藤原氏から平氏へ、そして源氏から北条氏へとい
う、古代から中世への権力交替を語るのととても同日には語れないもっと別の条件、いわば庶民参加という条件が室町時代には下に渦巻いています。
将軍(足利義満ら)守護大名(細川勝元、山名宗全ら)戦国大名(北条早雲、武田信玄、毛利元就ら)をこう縦に一筋にならべて、このあとへ例の織田信長、
豊臣秀吉そして徳川家康とつづくのが顧みて動かぬ時の勢いというものでしたが、すると中世とは、この場合の室町時代とは、日本に武家封建社会が確立するま
での経過そのものと想えてきます。歴史家では、普通そう考えている人が多いようです。
しかし私は、同じことでも、ちょうど逆様に考えています。鎌倉、南北朝時代を通じて室町・安土桃山時代までの時の勢いを、私は、封建社会の確立を、源氏
にゆるさず、北条氏にゆるさず、また足利氏にゆるさず、また諸大名の野望に対しても頑強にゆるさずに、信長・秀吉、家康三代に至って彼らの天才的な天下布
武の実力についに組み敷かれてしまうまで、武家封建社会の確立を断然阻止しつづけた、それが「中世」真の意義であると考えています。私は、そう考えていま
す。そこに、権力階層の荒っぽい交替をさも促すかたちで、封建支配化を精いっぱいかわしかわししてきた庶民層の根づよい頑張りがあった。庶民の実力を、巧
まずして、文化的によく刺戟しえた朝廷や公家の伝統の力もそこに働いた。意図的だったかどうかを問わなければ、いわば「公・庶の合体」がそこにあった。あ
りえた。私は、公家と庶民との、武家封建社会確立を妨げつづけた全体のエネルギーにも、あの陽気な「中世」の熱源を感じています。閑吟集もまたそのような
熱源の一部たりえていたと、私は想像しています。
ここで、閑吟集の時代を支えた秀れた文化人として、編者である「桑門」「狂客」に対しても大なり小なり同時代人として感化を与えたろう巨きな人物を、三
人挙げてみましょう。
一人は連歌の大才、宗祇(応永二十八年一四二一 〜
文亀二年一五〇二)です。未證明の説ですが、閑吟集編者を連歌師宗長としたものが昔からまだ生き残っている。事実そうなら、宗祇は、この宗長が尊敬してや
まなかった斯道の先達でした。
もう一人は雪舟(応永二十七年一四二〇 〜
永正三年一五〇六)です。宗祇の前年に生れ、四年ながく生きました。画家雪舟の大業については言うまでもないでしょう。
もう一人は茶の湯の村田珠光(応永二十九年一四二二 〜
文亀二年一五〇二)です。生れは、宗祇や雪舟よりおくれまして、没年は、宗祇と同年です。この珠光なくて、後年の千利休の出現はほぼ絶対にありえなかった
かと想像されるほど巨きな存在として、精緻な伝記研究が今日待望されている重要な人物です。
もう一人、挙げたくなりました。
右の村田珠光に対しては直接に、他の二人にもおそらく直接ないし間接に感化の及ばなかったはずのない内心の先師として、名高い一休(応永元年一三九四
〜 文明十三年一四八一)も、閑吟集の背景には、ぜひその姿を認めておきたい偉大な存在です。
そしてこれら四人の人物の生涯に呑みこまれるようにして、いわゆる東山文化の演出家の如くに虚名をはせた、ダメ将軍でエセ文化人であった八代足利義政
(永享八年一四三六 〜 延徳二年一四九〇)の存在を思い出しておくのも、あながちムダではありませんでしょう。
ここで、これら歴史上の人物を論評している紙数はもちませんが、珠光が千利休を、宗祇が松尾芭蕉を、雪舟が長谷川等伯と狩野永徳とを後世にも
たらしたことを想ってみるだけで、そしてこの三つの線の共通の背景に一休が立っていたろうことを想像してみるだけで、いかに閑吟集編者が、閑吟集歌謡の一
つ一つが、すぐれた同時代人を先師先輩としてもちえていたかが、分かります。
それと同時に、一休をはじめ宗祇、雪舟、珠光といった調子の高い人物の活動だけで埋め切れなかった、しかも貴重な広範囲を、閑吟集歌謡が庶民の肉声を以
てよく補充しえていたことを、改めて高く評価もし感謝しなければなりません。
その意味からも私は、『閑吟集』とまったく同時代の文化遺産として、必ずしも有心連歌や草庵の茶の湯や雪舟の山水花鳥画ほどの高みにはないものの、より
広い時代の裾野に根をしっかとおろしていた、なかなかの趣向に富んだ大事な「職人尽絵」の展開を、ぜひ、この場で考えあわせておきたい。
前章で、十二世紀の梁塵秘抄には、登場する人物たちのいわば職種、身分が具体的に歌詞に組込まれていると申しました。十六世紀の閑吟集ではそれがあまり
見られないと指摘しましたね。その理由づけはいろいろに可能でしょうが、閑吟集の時代に至って、もうとても一々に挙げきれない、挙げていては歌謡の一つ一
つを狭く限定してしまうことになる、といった事情が一つ想定されましょう。
いったい日本の庶民を、大きく二つに分別できましょう。一つは土地(農地、田畑)に縁有る人々、農民。今一つは、そのような意味の土地に原則として縁の
乏しい人々、商工藝能人をふくむ、非農民。古代律令制による公民とは概ね前者の農民で公地に拘束され、非農民の方は拘束はされないかわり、とかくアウト・
ローとして疎外されがちでした。
けれど、そんなことでいついつまでも成り行くものでない。人の世は、より複雑で微妙な有機体へと膨張し変容して行きます。非農民たちが、多種多様な職種
を分担し繁昌させて行きます。中世はこの人々を汎称して、広く「職人」と呼び「道々の者」として存在価値を正しく認めます。それら生業の実態をまざまざと
今日の私たちにも教え伝えてくれているのが、いわゆる「職人尽絵」なのです。
花園天皇の代(一三〇八 〜
一一三八)の制作とみられる鎌倉末期の『東北院歌合』は、現存する最も初期の遺作です。おそらく当時の職能人をリアルに、五組、十種十人登場させて「道々
の者」と呼び、その様態を絵に描く一方で、彼らに「月」および「恋」の詠題を与え歌合をしている。歌と絵との組合せが、たいへん貴重なまた面白い史料にな
りえています。
医師と陰陽師(占いやまじない)、次に鍛冶と番匠(大工)、刀磨と鋳物師、巫女と博打、そして海人(漁師)と売人(商人)という組合せでして、歌の優劣
を定める判者を、経師(経巻を造る人、大経師になると暦も扱う)が勤めています。農民以外の庶民から、よほど代表的な職能のみをこれで十種(判者をふくめ
て十一種)選んだものかと思われ、商人がまだ細かに分かれてはいませんし、古代いらい、いずれも土地に結びつくことのなかった、つまり農作物を生産しな
かった人々でした。
次に、室町時代も中期と思われる『鶴ケ岡放生会職人歌合』になると、組合せも十二番にふえ、判者の神主をくわえて全部で二十五種の職能人が登場します。
それも大きく、信仰および藝能の徒(信仰と藝能とは、日本の歴史を通じて到底切り離せない緊密な関係を保って時世を経てきました。拙著『日本史との出会
い』ちくま少年図書館=「湖の本エッセイ19『中世と中世人(二)』を参照)と、なんらかの生産や技術に関わる人々とに部類分けができそうです。楽人、舞
人、宿曜師、笇道、持経者、念仏者、遊君、白拍子、相撲、博労、猿楽、田楽、相人、持者(侍者)らが信仰ないし藝能の徒に属します。絵師、綾織、銅細工・
蒔絵師、畳差、御簾編、鏡磨、筆生、樵夫、漁夫は生産ないし技術者です。判者の八幡宮神主は、むろん前者のほうに属します。ここには何故か物売り、つまり
商人がひとりも入っていないのに、気がつかれましたでしょうか。
この点を補うのがつづく『三十二番職人歌合』です。おなじ組合せ十六番で二種類の歌合を試みています。それで三十二番と呼んでいます。判者は勧進聖で
す。ここへ来て三十三種の職能が見られるばかりか、奇妙なほど先の『鶴ケ岡放生会職人歌合』と職種が重複していないのも史料的にありがたく、藝能(信仰)
人と手職人とのほかに、物売りが加わります。
千秋万歳法師、絵解、獅子舞、猿牽、鶯飼、鳥差、算おき、桂女、こも僧、高野聖、巡礼、かね敲、胸たたき、それに勧進聖が第一類にあたります。
大鋸引、石切、鬘捻り、へうほう絵師(表具)、はり殿、渡守、輿昇、庭掃、農人、結桶師・箕作りが第二類に属するでしょう。
材木売り、竹売り、火鉢売り、糖綜売り、地黄煎売り、しきみ売り、薬売り、鳥売りは明らかに物を売る者たちです。
どうでしょう。よほど職業が分化してきて具体的にその様態が想像できますね。同時に、今日の「職人」という常識からは、よほどイメージの異なるものも混
じっていて、なかにはどんな仕事とすぐには訓みかね、判りかねるのもあります。
一つ一つの説明は省かざるをえませんけれど、ここへ来て「農人」つまり耕作者としての農民の名のあがっている意味は、一思案せねばなりません。が、その
点は、もう一つの『七十一番職人尽歌合』を見てからのことにしましょう。
この『七十一番職人尽歌合』は、享禄二年(一五二九)、『閑吟集』が成って十一年後、今から見ますと、ほぼ同時代に出来ています。室町時代の産業分化の
実態を示す職人史料として、歌あり絵あり詞もはいって、じつに貴重な文化財です。判者はいませんが、百四十二種もの職能をあげてくれている。参考までに一
応ぜんぶを挙げることにして、まず藝能(信仰)人から、拾ってみましょうか。
琵琶法師、女盲、たち君、辻君、医師、陰陽師、いたか、えた、暮露、白拍子、曲舞々、放下(僧)、鉢叩、田楽、猿楽、山伏、侍者、禰宜、巫、薦馬組、相
撲取、禅宗、律宗、念仏宗、法華宗、連歌師、早歌うたい、比丘尼、尼衆、山法師、奈良法師、華厳宗、倶舎宗、楽人、舞人などが挙げられています。藝人も仏
徒も、修験や呪術の人も、いまで言えばスポーツマンらしきも、要するにどこかで神がかり仏まわりの人々とされていました。はっきり言えば、農作物も表立っ
てはつくらず、日用品もつくらず、概ね生産の外にいた職能でした。
これと対比して、武士でも農民でもない、また物を売り歩くのでもない、工人がいます。その中から今日の感覚でも職人らしい職人たちを拾ってみましょう。
番匠、鍛冶、壁塗、檜皮葺、研、塗士、紺掻、機織、檜物師、車作、酒作、筆結、筵打、炭焼、木こり、烏帽子折、弓作、土器造、紙漉、鎧細工、ろくろ師、
草履作、傘張、足駄作、御簾編、唐紙師、仏師、絵師、経師、蒔絵師、貝磨、冠師、沓造、鞠括、銀細工、薄打、針磨、念珠挽、紅粉解、鏡磨、玉磨、硯士、筏
士、櫛挽、畳刺、瓦焼、笠縫、鞍細工、縫物師、組師、刷師、葛籠造、皮籠造、矢細工、箙細工、蟇目くり、むかはき造、庖丁師、調菜、酢造、金掘り、汞掘り
などが挙げられます。よほど分業が進んでいます。それだけ生活も多様化している。需要も活気もある。
次に、物売りを挙げましょう。
鍋売り、油売り、餅売り、扇売り、帯売り、白粉売り、蛤売り、魚売り、弦売り、饅頭売り、塩売り、そうめん売り、味噌売り、硫黄売り、箒売り、一服一
銭、煎じ物売り、米売り、豆売り、豆腐売り、こうじ売り、燈芯売り、葱売り、枕売り、鞘巻売り、畳紙売り、白布売り、直垂売り、苧売り、綿売り、薫物売
り、薬売り、心太売りなどがいて、しかも大半はみずから製造者でもありえたはずです。とすれば、この中には農業と密着するか農民自身が副業的に従事したか
と思える業種も必ず混じっている。前に「農人」が数えられていたのも、そのへんの事情を明かしているのでしょう。
さてこのようにはっきり品物を売るだけでなく、中には、馬買おう、革買おうといった面白い呼ばれかたの商人も混じれば、山人、浦人、大原女、草刈りだ
の、通事、文者や弓取だのも混じっている。また、さいすり、ひきれうり、すあひ、蔵まはりのように、私にはどんな職能と判りかねているのも含めて、じつに
雑多な百四十二種もの職能が挙げてあります。なかなか私たちの語感でこれをひとしなみに「職人」とは呼びづらいのですが、これがまさしく「中世」の、閑吟
集と同時代の、陽気溢れる職能人たちの勢揃いでした。
煩雑をいとわず、ながながと「職人尽絵」の紹介をしました理由は、もう、察していただけるでしょぅ。閑吟集の小歌だけを読んでいましてもすぐさま想い浮
かばずに、ただ男がいて女がいる世界のようなのですが、じつはこれほどの庶民が、これほどに多種多様の生業に従事しながら、閑吟集歌謡の中に生きていたの
だという、疑いようのない歴史的事実を、はっきり認識したかったのです。工人とも物売りとも藝人とも指摘はされていないが、指摘されないなりにこうした
「道々の者」「職人」たちが或る一体感、「我々」の意識で集散し、陽気に喜怒哀楽を頒かちあっていた同じ場所で、閑吟集の歌謡は愛好され、堪能されていた
こと、少くも社会の上流に遊び暮らしていたような人(そんな人があまり実在感をもてなかった乱世です)だけの宴遊歌とは限っていなかったことを、よく承知
しておきたかったのです。職人ないし「職人尽絵」に関連した日本史の問題点に就いては、どうか前記の拙著『日本史との出会い』によって、お子さんとご一緒
に、改めてお考え願えると幸いです。
さて、五六番の小歌で、「弥生の永き春日も なほ飽かなくに暮らしつ」と「春」の歌謡が謡いおさめられて、五七番の「卯の花重ね」の小歌から季は「夏」
に転じています。弥生は三月で春、卯の花咲く卯月は四月でもう夏、と、そのような暦の上での中世と現代とのちがいもちゃんと頭に入れていませんと、古典を
読むさいに往々季節感をあやまりますので、ご注意ください。
五九番。
小 わが恋は 水に燃えたつほたるほたる もの言はで笑止の蛍
「笑止」は今日では失笑、冷笑、喋ってやるといった意味に使われ易いのですが、もとは、この小歌の時代では、気の毒な、可哀想なという意味で使われてい
ます。間違いやすい言葉ですから、注意が要ります。その上で「こひ」「燃え」「ほたる(火垂とも書く虫です)」と言った「火」の縁語を読みとりながら、反
対語の「水に」に「見ずに」の意味を懸け重ねて読んでください。蛍は、物を言わずに恋い焦がれる、忍ぶ恋のシンボルにされている夏の虫です。「見ずに」
「もの言はで」忍んで燃えているわが恋ごころの切なさへ、「蛍」よ「蛍」よといとおしむように呼びかけています。
六三番。
近 思ひ回せば小車の 思ひ回せば小車の 僅かなりける浮世哉
近江節ですね。「恩ひ回せば」「回せば小車」と言葉を懸けて回旋の速度感がよく出ている上に、同句を繰返すのも「小車」らしい佳い効果になっています。
「浮世」とは、後代に浮世草子などが盛んに書かれ読まれます、『浮世床』などという読物も人気をえますし浮世絵もあって、言葉としてはなじみ切っていま
すが、意味はとなると簡単にいかぬ言葉です。あさはかに、ふわふわと頼りない世の中というふうに「浮」くという文字からつい取りたくなるし、まァそれで大
異はないようなものですが、根本に「憂き世」という感受があり、それを批評的にかるく「浮世」と思い直した経過に、意味深長な時代感情のあやは汲まねばな
りません。やはり閑吟集を特色づける語彙の一つと言うべきでしょう。
しかしそんな印象ばかりを言うのでなく、たとえば、よく「浮身をやつす」と言います、あんな謂いまわしとの関連からも「浮世」のことは考えてみたいもの
です。番茶も出花の年ごろになると、どう大人が制しても、とかく漂いがちに世間へふらりと出歩いて行く若い男や女の、やるせもなく春情ゆたかな、けれど心
もとないそぶりを指して、「浮身をやつす」と昔の人は謂ったンですね。「浮世」とは、そういう男女の「世」の仲でこそあるのです。するとこれも、前章で読
みました、四九番の、
世間はちろりに過ぐる ちろりちろり
の「ちろり」と同じ効果で、「小車」が使われている。「世間」と同じように「浮世」が使われている。ともに「僅かなりける」時間、まさに逢う瀬の束の間が
嘆かれているわけです。さらに徹して読むと、遠景に邯鄲一炊の夢、夢幻や南無三宝といった感慨が浮かび上がるのですね。
六五番。
小 やれ 面白や えん 京には車 やれ 淀に舟 えん 桂の里の鵜飼舟よ
98
珍しいのではない。風情があり目に立ちやすいその物を「車」「(渡し)舟」「鵜飼舟」と挙げているのですね。「やれ」「えん」という囃しを交互に出して
くる。アイヌのユーカラでもこういう囃しかたが目立つそうです。
六六番と六七番は、連れて読みましょう。
小 忍び車のやすらひに それかと夕顔の花をしるべに
小 ならぬ徒花 裏白に見えて 憂き中垣の 夕顔や
六六番の小歌は、明らかに源氏物語「夕顔」の巻に取材しています。が、それに捉われてしまわぬようにと言いたい。歌謡への身の寄せかた、ことに閑吟集の
ようにわざとと言えるほど主語を欠いた語法のものでは、敢えて、その表に出ない主語の箇処へ自分か、自分でなくても自分同等に大切なもう一人を据えて読ん
でみるのが、ごく自然な感情移入の本道です。徒らに周辺の知識に足をとられ、いきなり光源氏や薄幸の美女夕顔を外側から傍観者の視線で眺めるといった読み
では、歌謡にふさわしい対いかたと言えなくなる。
「やすらひ」は誤解しやすい古語で、つい「安」や「休」の漢字をあててしまいがちですが、これは「躊躇する」「ためらう」意味です。百人一首に赤染衛門
の名歌があります。
やすらはで寝なましものを小夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな
まこと凄いほど身にしむ、待ちて逢わざる恋の秀歌なンですが、ためらってないで寝てしまえばよかったわと愚痴っています。来る来るという言葉を心待ちに
月を見ながらつい宵も過ぎ、夜も更けて、傾きはてたお月様を山の端へ見送ることになってしまったわという歌でしょうか。この赤染衛門の「やすらはで」は、
たしかにそういう意味なのですけれど、閑吟集六六番の「やすらひ」は、たいてい、小休止の意味と取られています。ある人の現代語訳ですと、「女のもとへ
こっそり通ってゆく車、その車が休息のおりに、あれは自分が思っている女かと、そこに咲いている夕顔の花を道案内として訪ねた」と、あります。
残念なことにこの訳は、まともな日本語になっていない。十分に意味をなさない。
なぜ「忍び車」が「休息」するのでしょう。女のもとへ車で忍んで行く者の気持にすれば、「ためらい」こそあれ人目立つ途中の休息などとのんびりしていら
れるわけがない。が、男の逢いたい思いと、それをためらう思いとが、忍び車のえも言われぬ足のおそさにはなっている。それがここでの「やすらひ」の本意で
しょう。
なぜ「やすら」うか。なぜ「忍」ぶか。
日かげに咲く夕顔の女だからです。辻君や遊君のような女だからです。それでも愛しいからです。ここの「夕顔」は、源氏物語も踏まえながら、夕暮れ時から
ほのかに町かげに咲いて出るような女の身上なり素性なりをうち重ねています。「それかと」「しるべに」は、源氏物語の中の「心あてにそれかとぞ見る白露の
光添へたる夕顔の花」や「寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔」という男女の応酬に示唆をうけています。
六七番の「夕顔」は、ものの言いまわしからは一応源氏物語を離れています。が、恋の対象としての「夕顔」であって、しかも「憂き中垣」のむこうに裏白に
咲いたのが、見えてはいて、手は届かない、そういう「憂き仲」の花の夕顔でもある。この恋、どうも実を結びそうにない、だから「ならぬ徒花」でもあるわけ
です。
六七番の「夕顔」の女を、遊君と見るか。垣がへだてた人妻と見るか。「人妻」説によれば、これは源氏物語を遠くに感じとって読むのがいい。はじめて光君
が夕顔と出逢って、先の歌のやりとりをした時は、女はまだ頭中将の思い妻の一人であったのですから。けれど、「ならぬ徒花 裏白に見えて」は、必ずしもあ
の「夕顔」にふさわしい物言いでない。どこか町の小路の遊君めく女と取れます。どう取ってもいい、十分に物語めいて面白い小歌です。
七二番。
小 恋風が 来ては袂にかい縺れてなう 袖の重さよ 恋風はおもひ物かな
『魔風恋風』という流行った小説が、明治の頃に小杉天外作で書かれています。「恋風」は、銘々の語感で好きに読んでいいはずです。恋慕の衝動に性愛が混
じるくらいに想っていていい気がします。「掻い縺れて」は、払いのけても絡みつくようなまことに余儀ない情動を言い表わしている。「おもひ物」は「重い
物」と、ものを思わせるものとの両方に懸けていますね。ちょっと歌が重い感じです。
で、いっそ私はこう読みたい。これは独詠の述懐でなく、今しも座敷で、(戸外でもいい)袂にからんでくる女にむかって、男が機転のご愛嬌でからかってい
るのだと。すると、歌が軽くなる。ぐっと面白くなります。そして、男と女との表情や身ごなしまで眼に見えてきます。
七三番。
小 仰る闇の夜 仰る仰る闇の夜 つきもないことを
「つき」は「月」でもあり、ふさわしい「拠りどころ」の意味でもあります。「つきもない」という物言いには「月もない」闇夜の意味と、「いいかげんなこ
とを」という非難が懸け合わしてある。「まァ仰ること。闇の夜だからいいだろですッてェ」「まァ仰るわ仰るわ、聞の夜だからいいだろですッてェ」「つきも
ないことを」と。たいそう面白い。
こう読むと先の七二番が、男から女へ、この七三番が女から男への、剽軽なしっペ返しとして一対のものに想われる面白さも加わりますね。つまりこの一対、
恋仲のお二人さんが逢引の散策を楽しみながら、軽口でやり合っていると読めるのです。配列の妙がここに生きています。
同じ趣を、七七番と七八番でも読み取ってみましょう。
小 我御寮思へば あのの津より来たものを 俺振り事は こりや何事
小 なにを仰るぞせはせはと 上の空とよなう 此方も覚悟申した
「我御寮」はこの時代の二人称です。あなた。お前。相当の親愛を籠めています。それだけに目上の人への物言いではありません。男女の限定はないが、七七
番では、男が女へ
「あのの津」は伊勢の安濃津、現在の三重県津市にあてて構わないのですが、むしろ「あの」という遠い指示詞の効用へ一般化してみた方が、いい拡がりを産む
ようです。この歌謡の妙味は、むろん「振り事」「何事」という脚韻にありましょう。実際に振られたというより、あだけた睦言の感じが面白いのですね。
七八番は、女の応酬ですね。深刻に読めば、はや帰宅の時間でもしきりに気にかけている男の、上の空の物言いをプンと怒って、女からも、「いっそ別れま
しょうよ」と投げつけたふうに想えます。
「せはせは」は受け答えも頼りなげに妙に気にさわる早口で、つまり「上の空」で、と取りたい。
けれど、この際の女の、「此方も覚悟申した」という科白を、そう深刻に取ってはかえってつまりません。むしろ「男の扱いに慣れた女の口吻」という臼田甚
五郎氏の理解に賛成です。
「俺振り事は こりや何事」
「此方も覚悟申した」
こうやり合って、瞬時に微笑か微苦笑か、あるいは咲笑をさえ交しあっている仲よさがここに見えて、そういう見えかたを誘っているのが、閑吟集のなかなか
手だれに自然な趣向の冴えと言えましょぅ。この「桑門」がたいした「狂客」でも粋人でもあって、広い意味でも狭い意味でも社交場裡の甘い酸いを噛み分けて
いた人、妙な比較ですがプーシキンの「イフゲーニェ・オネーギン」みたいな人物、そういう体験の蓄積を過去にいやほどもった人と想像するのは、きっと正し
かろうと思っています。
二
閑吟集の思いの深さを、次々に読んで行きましょう。
八○番、です。
小 思へかし いかに思はれむ 思はぬをだにも 思ふ世に
こんなのを、畳語といいます。同じような物言いを微妙にずらして畳みこんでいます。舌も噛みそうですが、頭も痛くなります。すこし時代がおくれて、『宗
安小歌集』にこんな類歌があります。
思ふたを思ふたが思ふたかの 思はぬを思ふたが思ふたよの
恋いこがれた相手を恋いこがれてみて、向うも同じに恋いこがれてくれたか。いやいや。恋いこがれもせぬ相手を恋いこがれた顔をしたら、向うは夢中で恋い
こがれてきたことさ。いやはや、ままならぬ──。
独白でよし、唱和と読んでもよい。ちょっと切ないような、宗安小歌の言葉遊びの面白さです。が、閑吟集の八○番は、趣味的に言葉遊びで終らせない、さし
迫った覚悟、が言いすぎならば、意気ごみを帯びています。これは自分で自分に、または親しい相手に、噛んでふくめて訓えているとみたい内容です。
「思ふ」は愛する、恋する、惚れこむ意味に違いない。「思へかし」は命じるくらい強い勧めです。そうすれば自分も強く深く人に「思はれ」ないではあるま
い。愛されるためには先ず愛せよとこの小歌、謡いかけ勧めています。そしてそのあとが、独特なンですね。愛してないはずだった相手でさえ、愛してしまうこ
とになるのが、男と女との「世」の仲だもの。愛の不思議なンだもの。そう言っている。つまり人を愛さずには生きてられない存在として「人間」を見ている。
これを諦悟ととるか耽溺ないし頽廃ととるかは、読者の自由でしょう。「思はぬをだにも 思ふ世に──」ふしぎに涙ぐましくもなる、真率の凝視が詞句の内
に生きています。少くも、すこしもふざけていない。
八一番は、端的です。
小 思ひの種かや 人の情
「なさけ」という言葉が現代ではかなり風化して、「なさけ無い」ことになっています。義理と人情の浪花節などと言いくたされて、ひところ人気を喪ったも
のですが、浪花節はともかく、「情(なさけ)」という日本語は、必ずしも正しく深く受取られていない気がします。
この小歌など、よく謂う「情が仇」に近いことを謡っているのですが、「情」を否定してはいません。むしろ、つよく肯定している。しかもその「情」が「思
ひの種」になる。「思ひ」は恋愛の気持とほとんど同義ですし、同時に物思いの苦痛も指しています。この両義性で人の情の、えも言われぬ重さを捉えようとす
るのが抒情詩なのでしょう。
八三番は、「意味不明」とされる小歌ですが、そうでしょうか。
小 思ひ切りかねて 欲しや欲しやと 月見て廊下に立たれた また成られた
「思ひ切る」を、縁を切る意味ととると難儀になるのです。直截に、「欲しや」を性の疼きの表現と読めばよい。火照る情「欲」を「思ひ切りかねて」いるの
は、せっかく尋ねて行った先の女が生憎「月」を見ている、つまり月の障りの最中だからです。「月」と「欲し(星)」が縁語に懸けてある。仕方なく帰ろうと
一度は「廊下に立たれた」が、また「成られた」とは「御成り」の意味も籠めて、女のもとへ戻って来た、居坐った、さらには「月」も厭わなかったという位の
物言いでしょう。女の側は、それでまた男への愛おしさを増しているのです。「成られた」が、敬と愛とのないまぜの表白として、十分効果をもっています。古
事記にヤマトタケルとミヤヅヒメとの同様の故事をふまえたのでしょうか。
八五番と八六番とは、それぞれの中に対話をふくむ感じです。
小 思ひ出すとは 忘るるか 思ひ出さずや 忘れねば
小 思ひ出さぬ間なし 忘れてまどろむ夜もなし
日ごろあたしのことを忘れているから「思ひ出す」なんて薄情なことが言えるわけね。そうね。そうでしょ──、つめよる。しょせん屈理屈なンです。深い情
愛が仲立ちしないでは、とても成立たない可愛い言いがかりなンですね。
ほう。それじゃお前は思い出してもくれないわけか、ただ忘れないッてだけで。そうだね。そうなんだろ。この薄情もの──と、男もやり返す。
どっちが男でも女でもいい。仲良く、愛情のほどを口争いめいて競っているのです。八五番と八六番が唱和の作だというのでなく、それぞれの歌の中で、惚れ
合った二人が唱和しているのです。そう読んだ方がずっと面白い。
八七番と八八番とも、唱和です。年輩の男(女)と年若な男(女)同士の佳い唱和です。耳を澄まして、よく口遊んでみてください。
小 思へど思はぬふりをして しやつとしておりやるこそ 底は深けれ
小 思へど思はぬふりをしてなう 思ひ痩せに痩せ候
辛抱のいい、静かな愛の毅さ良さが出ていると読めないでしょうか。八七番の「しやっとし」たも八八番の「息ひ痩せ」も、美しい日本語ですね。「しゃっ
と」「おりゃる」とつめて読みましょう。ここに恋愛する日本人の一面の理想像が出ていると言っては、笑われるでしょうか。私は、好きです。
九○番。
小 扇のかげで目をとろめかす 主ある俺を何とかしようか しようかしようかしよう
とろんと好色な目つきを扇のかげに隠して、あいつめ……。
「主ある俺」は、「主」と「俺」とどっちを男女と取っても構わない語法なのですが、ここは「主」が妻、「俺」は男と、私なら、そう取りたい。この小歌は
客の男が、同座の女にむかって悪くふざけながら、逆に求愛し挑発しているのです。「しょうかしょうかしょう」(と速読したい)は、「そうかそうかそう」と
いう都合のいい独り合点と、愛の営みを「しよう」の誘いとの、調子のいい両義を備えた囃子言葉で、さぞ一座をどッと湧かせたことでしょう。
「する」「しょう」は今日でも微妙に挑発的な性愛求愛の陽にも陰にも耳をくすぐる物言いです。名高い京の鞍馬の火祭りの勇ましい囃子言葉が、「サイレイ
(ャ)」「サイリョウ」です。祭礼を賑わわせているのではありましょうが、土地の人に、「サ入れや」「さ入れう」とあたかも性愛の男女唱和なのだと囁かれ
た記憶がある。大地土地の豊熟豊産をそのように唱えつつ祈願するのだと火祭りの遥かな由来をその人は教えてくれました。あながち冗談と思えぬ民俗悠久の背
景がありそうです。三三番の、「入れての後は」などが思い合わされて、頷けます。
九一番は、小歌としては屈指の長篇です。
小 誰そよお軽忽 主あるを を締むるは 喰ひつくは よしや戯るるとも 十七八の習ひよ 十七八の習ひよ
そと喰ひついて給うれなう 歯形のあれば露顕はるる
粗忽。いちびり。ふざけ屋。「お軽忽」とは、女から男へ、そういう軽い非難をぶつけた呼びかけです。女には「主」つまり夫か愛人が家にいるのですから、
この女にしてもやっばり「お軽忽」なンです。年は番茶も出花の「十七八」とか。「を締むる」の「を」はどうやら衍字、読まなくてもいいくらいの接頭語とし
ておきましょう。
「よしや」は「たとえ」戯れるにしてもの意味ですから、女は男の締めたり喰いついたりを実は受容れています。歯形だけはつけて下さるなと言っている。い
やはや、すさまじいもので、それを「十七八の習ひ」で、余儀ないこととしている。してみると「戯るる」のは、男だけでなく女もそうなンですね。男も同じ
「十七八」の、筒井筒になじんだ恋人であるのかもしれません。
梁塵秘抄の四二六番に、
聖を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや 年の若き折 戯れせん
というのが有りましたが、それにしても閑吟集のこの九一番は、いささか私ももてあまします。そしてこの小歌で、暑苦しかった「夏」がいつしか過ぎて行くよ
うです。
小 浮からかいたよ よしなの人の心や
九二番のこの小歌が、自分を有頂天の夢中へと漂わせてしまった恋人の、愛と、性との力″を、喜びつつかつ長嘆息しているのが、いかにも「夏」の終りに
ふさわしく、下句の嘆きは、男女のそれぞれに懸かっています。「浮からかす」という表現が、面白いですね。そして次にくる「人の心」の「秋」は、はや「飽
き(秋)」の季節のようです。
九三番。
小 人の心の秋の初風 告げ顔の 軒端の荻も怨めし
「秋(飽き)の初風」を告げ顔の軒端の荻のそよぎに、「人の心」の
頼りなさをふと思い初めています。「男(女)心と秋の風」を嘆じているのが、まさにこの小歌です。「軒端の荻」は実景であってよく、しかも源氏物語に、人
ちがいされたたまたまの成り行きから、一度は光源氏に抱かれながら忘れられ捨てられた「軒端の荻」という、うら若い女人の切なさが遠景に見えていても、よ
ろしいでしょう。見えていなくても、よろしいでしょう。
九五番は田楽節で、やや型に嵌まっていますが、末の一聯は閑吟集なりの主張かと思えます。
田 夢の戯れいたづらに 松風に知らせじ 槿は日に萎れ 野艸の露は風に消え かかるはかなき夢の世を 現と住むぞ迷ひなる
「夢の戯れ」の「夢の世」を「いたづら」「はかなき」と認めていますから、末の一句の取りようで、趣が右へも左へも動きます。
「夢」を否定して、「夢」は夢、所詮「現」ではない間違うなよ。そう誡めていると取るのが普通の解釈でしょう。けれど、「いたづら」に「はかな」いのは
「夢」の本来、また愛と人生の真相なのだから、「現」の思いで「夢」をひとかど批評しえたなどと思う方が「迷ひ」である。「夢」はやはり夢、「現」など実
は実在しないのが現実の姿と見究め、「夢」に徹して生きればいい、と、そういう主張も十分ありえたのが、閑吟集の「ただ狂へ」なのでした。私も「夢」派で
す。
九六番。
小 ただ人は情あれ 槿の花の上なる露の世に
「槿花一朝の夢」と定まり文句があるのを、思い起こすにも及ばぬことでしょう。あくまで「情」とは自身に、他者に、何ごとであるか、ありうるかを問いた
い気がします。
九七番。
小 秋の夕の蟲の声々 風うちふいたやらで さびしやなう
蟲の声々を、風が吹きおこした天然の笛の音と聞き惚れながら、音色の奥から人の世のたそがれ行く寂しみを引き出しています。人間万事「春」あれば「秋」
もあり。数ある秋の歌から、「桑門」の選択が、この辺でつよく物を言っています。和歌ならぬ漢詩に取材した小歌がつづきます中から、唐の元槙の詩に取材し
た一○一番へトビましょう。
小 二人寝るとも憂かるべし 月斜窓に入る暁寺の鐘
この上句は、さしもの春情もかかる秋思とは沈静するものかと、ひとしお寂しい。これを梁塵秘抄四八一番のこんな濃厚な歌とくらべてみて下さい。
いざ寝なむ 夜も明け方になりにけり 鐘も打つ 宵より寝たるだにも飽かぬ心を や いか にせむ
はっきり「飽き(秋)」ならぬ「飽かぬ」愛欲の昂揚が、梁塵秘抄の歌謡には、ある。時代の若さ、ということを考えさせられます。謡っている当人の、いわ
ば天真の青春と、閑吟諦悟の老境との、さも落差かとさえふと想われて、しみじみと目が冴えます。
一○五番。
小 身は浮草の 根も定まらぬ人を待つ 正体なやなう 寝うやれ 月の傾く
これぞ前節で触れました、「やすらはで寝なましものを小夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな」の小歌版ですね。「根も定まらぬ人」とは、「寝(処)も定
まらぬ浮気な男」よということで、「正体なやなう」はそんな男へのいまいましさと、そんな男を待ち暮らす自身へのいまいましさとを、「狂ってるわよ」と憤
怒かつ自嘲しているのです。
「寝うやれ」が面白い。寝ちまへとくらいの口吻です。ここで「身は浮草」は、浮わついた男の描写であるとともに、また女のかかる身上のこともはっきり指
しています。その場合は「根」はやはり暮しの根っこの意味ですね。懸詞の妙味です。
一○六番。
小 雨にさへ訪はれし仲の 月にさへなう 月によなう
うがったものですね。いやな雨の日にも訪ねてくれたあの人が、さわやかな月夜にも来てくれないなんて。こんないいお月さまなのにねえ──。しかし一方に
また月の障りもいとわないで抱いてくれるの、ほんとよ…ともちゃんと読めるのですね。
一○八番。
小 薫き物の木枯の 洩り出づる小簾の扉は 月さへ匂ふ夕暮
すこぶる優艶な、閑吟集の編者には似合っても、「職人尽絵」世界とはちょっと縁の遠げな、王朝物語めく小敵です。
「木枯」は名香の名で知られています。「木枯のもり」となると、その森の名が、静岡県下のふるい歌枕になっている。むろん薫き物をほめるだけでなく、名
香を薫きしめている当の貴人の、けはいのみして婆の見えぬ御簾の向うが奥ゆかしく、木枯の森に浮かぶ月さえも匂うて眺められる夕暮の風情よと、幾重にも情
緒をてんめんさせているのです。九一番の「誰そよお軽忽」といった調子と、ずいぶんな違いに微笑まれます。
一一四番から一一八番まで、「人の情」を謡って八一番や九六番の類歌めく小歌がならびます。さっぱりと割愛して、次に一一九番を読みます。
小 ただ人には 馴れまじものぢや 馴れての後に 離るるるるるるるるが大事ぢやるもの
馴れてしまうと離れづらくなる。「る」が八つもという例は、他本にもあります、調子づいているというより離れる辛さを強いて我慢しているのだと言ってお
きます。「大事ぢゃる」は「大事である」おおごとである、のつまった物言いです。
一二一番と一二二番。
小 塩屋の煙々よ 立つ姿までしほがまし
小 潮にまようた 磯の細道
塩を焼く煙の立ちのぼるさままでが、塩じみひなびて見える。その実は、女の立ち姿が「しほ」らしく、可憐に見えるのですね。女の「しほ」とした風情に恋
の細道へ迷いこんだよという寓意が、一二二番の小歌。表面は、潮の満ち干につい通いなれた磯の細道をまちがえたと謡っていますが。
一二三番。
小 何となるみの果てやらん しほに寄り候片し貝
粋な小歌ではありませんか。「なるみ」は歌枕の鳴海潟を踏まえながら、どうなる「身の果て」へ意味を懸けていますね。「しほ」は原文は「塩」なンです
が、意味は潮、そして女の「しほ」とした魅惑に懸けています。「片し貝」は、二枚貝の片割れ、半端、つまりは片恋のなる果てを男の身にしむ思いで嘆いた小
歌です。身につまされます。
一二八番は大和節。今も能舞台で年に何度も観ることのある謡曲「江口」のひとふしです。
大 歌へや歌へや泡沫の あはれ昔の恋しさを 今も遊女の舟遊び 世を渡るひとふしを 歌ひていざや遊ばん
往事渺茫の懐舊は、閑吟集編纂者の根深い心境です。底に「いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影」というあの巻頭歌謡の嘆息が沈澱しています。それが「秋」の歌
謡を読み進むにつれて、はっきりしてきたという感じは、なさいませんか。
「世を渡るひとふし」は、一節ぶし即ち尺八による小歌のふしでもあるわけです。遊女が舟遊びをするのではない。遊女と、男が舟遊びをする。そこに遊女風
情の尽きぬ哀しみがあるのを汲まねばなりません。
一三○番。そして一三二番。
小 身は近江舟かや 死なでこがるる
小 身は鳴門船かや 逢はでこがるる
舟を「漕がるる」と、思いに身が「焦がるる」とが懸けてあります。近江の「志那」(滋賀県草津市志那町)で、阿波の鳴戸海峡で舟は漕がれ、遊女は身が焦
がれる。「死なで」「逢はで」と苦海をわたる女のもの哀れな境涯です。「近江」には「逢ふ見」の意味もひそみます。
一つ戻って、一三一番は、たいへん注目すべき歌謡です。
小 人買ひ舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ 船頭殿
閑吟集の時代が、人が人を売買した、半ば公然と売れも買えもしていた、ひどい時代でもあった事実は、決して忘れられません。安寿と厨子王の物哀れな物語
は、ちょうどこの時期に流行った説経節の代表的な一つでした。波の荒い沖を漕ぐのは、それでも官憲の追及を思うからでしょうか。その揺れる舟に苦しみなが
ら「船頭殿」と呼びかけて、この身はどうせ売られて行くのです、可哀想に思ってせめて静かに漕いで下さいと。悲しみの表現もここに極まります。一三○番と
の関連で、琵琶湖上の人買い舟と読んで自然ですが、必ずしもそう限ることもなくて、それより「とても」「ただ」とある切ない語感をたしかに汲むことです。
時代をこえて歌謡の生命をこやすのは、そういう共感の深さだと思うのです。
一三六番。
小 月は傾く泊り舟 鐘は聞こえて里近し 枕を並べて お取梶や面梶にさし交ぜて 袖を夜露に濡れてさす
舟宿でなどというより、もっと直接に、猪牙舟なみの泊り舟で巫山雲雨の夢を抱き交す男女の風情を謡っているようです。「里近し」ですから「里」即ち陸の
上にいるのでない、とすると、深更暁闇の泊り舟の中で、というのが舞台装置のようだからです。「お取梶」の「お」はそう重く見なくてもいい、要は「取梶、
面梶」ともに舟の縁語です。つまりは左へきしり右へきしって身をよじり抱き合いながら、満天の夜露にぬれるぐあいに、夜具の袖に腕をさしかわすぐあいに、
互みに愛を、情を確かめ合っているというのですから、濃艶なものです。「さす」の語感は・梁塵秘抄の四六○番に、
恋ひ恋ひて たまさかに逢ひて寝たる夜の夢はいかが見るさしさしきしと抱くとこそ見れ
とある「さしさしきし」に近いものです。かなり露骨です。
一三七番。
小 また湊へ舟が入るやらう 空艪の音が ころりからりと
水辺に住む、海女とも遊女ともつかぬ女のはかない独り言のような小歌です。「空艪」とほ、櫓をごく浅間に水に入れて漕ぐのです。よその繁盛にじれながら
お茶をひいているとも読めますが。
一三九番。これは、美しい。
小 来ぬも可なり 夢のあひだの露の身の 逢ふとも宵の稲妻
むろん「稲妻」からは、瞬時の光芒とともに一夜「妻」どころか、わずかに宵のうちの妻でしかないかなしみを、しかと汲むべきです。その悲しみゆえに、
「来ぬも可なり」と硬い表情もして見せる。しかし本当は来て欲しい、そして少しでも長く逢っていたいのです。そこに永遠を夢見たいのです。「夢」「露」
「宵」「稲妻」すべてぴたりと利いています。屈指の秀作ではないでしょうか。
一四三番。
小 葛の葉葛の葉 憂き人は葛の葉の 怨みながら恋しや
佳い歌ですね。葛の葉は、「裏見」の白さの風にひるがえったところが古来風情として愛され知られています。「秋風の吹き裏がへす葛の葉のうらみてもなほ
怨めしきかな」という古今集の歌が原拠でしょう。「怨みながら恋しや」とは、恋ごころの切ない真実なんでしょうね。
一四五番。
小 添うてもこそ迷へ 添うてもこそ迷へ 誰もなう 誰になりとも添うてみよ
学者は、「意は明らかでない」などと言われていますが、そうではない。どうせ迷いどうせ悩むが男女の仲。それならば、思う人に添いとげた上で迷いたいと
いう重ね重ねの嘆息は、町娘の実感か遊女の悲しみか。ああ誰でも誰でも、誰になりとも添いとげて迷うがいい、悩むがいい、とは所詮自身の自身に対するじ
れったい願望のようです。
結婚したい──それが、女の底深い夢であるのは、往古も現今も、まったく同じのようです。ちがうかな。
一四七番。
小 人げも知らぬ 荒野の牧の 駒だに 捕れば 終に馴るるもの
どんな荒馬であっても、馴れるのに、あの人はわたしに馴染んでくれない──。たは、どんな荒くれ男でもかまわない、夫にもちたい──。
一四八番。
小 我をなかなか放せ 山雀とても 和御料の胡桃でもなし
これははっきり肘鉄の歌です。ええい放してよと突っぱねています。あたしが山雀のような安っぽい女にしても、あなたなんか山雀が好きな胡桃(あたしの方
ヘ寄って来る身)って柄ではないのよ。
「秋(飽き)」は、恋の成らぬ季節のようですね。
一四○番。
小 身は破れ笠よなう 着もせで 掛けて置かるる
うまいものです。謡われていることは悲しい女の嘆息であり愚痴ではあるのですが。「着もせで」は、「来もしないで」でもある。「掛けて置かるる」が、さ
ながら曝しものの感じでし愛を喪っている女の「破れ笠」同然の侘びしさが、しみじみ言い尽されています。傑作の一つでしょう。
一五五番。
小 身は錆太刀 さりとも一度 とげぞしようずらう
錆びを「磨」ぐに、「遂ぐ」意味が重なります。一度は思いをきっと遂げてやるぞと。太刀は、むろん「男」自体を表わしている。頑張らねばすまない、成ら
ぬ恋のここぞ瀬戸際です。
一五六番。
小 奥山の朴の木よなう 一度は鞘に成しまらしよ 一度は鞘に成しまらしよ
朴は堅くて、鞘の材。鞘は太刀(男)を容れるもの、つまり女体です。男が奥山(手の届かぬ処)の女に対する欲情を、心に決して、謡い、迫っているので
す。言い寄るさまはすさまじいけれど、女を "性≠ニ見定めて迫る男の執心には、ふと行者の清浄な念力のようなものさえ感じます。
一五七番。
小 ふてて一度言うて見う 嫌ならば 我もただそれを限りに
「ふてて」が面白い。昨今の若い人たちの日常会話に、この「ふてて」が復活しているではありませんか。ふてくされてでも、すてばちにと取っても、いいで
しょう。
何を「一度言うて」みるのか。それは想像にまかせましょう。男ならこれを言い、女ならあれを言う。人さまざま、男女でもさまざまな情況をしかと受けとめ
て、通りのいい面白い歌謡に仕立てていますね。それにしても、「ふて」ねばならない程度にはやや嶮しい仲であるらしいのが、別離の覚悟もあるらしいのが、
胸を痛めます。原文の「見う」は「みょう」と読んでいいでしょう。
さ、これで『閑吟集』三百十一篇の、半数をいくらか越えるまで読みすすんできました。季節は、「秋」の、まだ半ばのようです。
四章 趣向と自然 そして秋が冬へ
一
さ、閑吟集の「秋」の歌は、まだ半ばです。
次に、一六○番を読みます。
小 犬飼星は 何時候ぞ ああ惜しや惜しや 惜しの夜やなう
「犬飼星」とは、七夕の夜の牽牛星の別名です。七夕は、昔の暦では、秋。その星をふと見上げて、時のたつのを惜しんでいる。静かに静かに深まる閨房のく
らやみの、男女の愛。
一六二番。
小 秋のしぐれのまたは降り降り 干すに干されぬ恋の袂
「飽き(秋)」の催すしぐれの雨が度重なると、干すに干されず、恋の涙に袂は乾くまがない。女の歌ですね。
次に一六四番から一六七番まで、後朝の名残惜しい別れをしみじみ謡います。
小 名残惜しさに 出でて見れば 山中に 笠の尖りばかりが ほのかに見え候
小 一夜馴れたが 名残惜しさに 出でて見たれば 奥中に 舟の早さよ 霧の深さよ
小 月は山田の上にあり 船は明石の沖を漕ぐ 冴えよ月 霧には夜舟の迷ふに
小 後影を見んとすれば 霧がなう 朝霧が
一六四番は山へ帰って行く男を、一六五番は舟で去って行く男を惜しんでいます。
一六六番の「霧には夜舟の迷ふ」「冴えよ月」という女の情愛の深さに心を打たれます。男と女との切ない別れを通して胸の内に培われる「なさけ」や「あは
れ」そして「をかし」といった心情を、二十世紀(二十一世紀)の現代はこのまますっかり忘れ果ててほんとうにいいものでしょうか。一六七番、「霧がなう
朝霧が」と背のびして見送ってくれる女の(男の)愛は、愛の形は、見喪いたくないものです。
次に、一六八番の田楽節を読んでみましょう。「児手柏」とは、幼な児の手の形をした葉の柏です。「恋ひかぬる」とは、恋しい思いを忍びかねる意味です。
口調のいい謡い物の一篇でもあります、快く繰返し口遊んでみましょう。
田 秋はや末に奈良坂や 児手柏の紅葉して 草末枯るる春日野に 妻恋ひかぬる鹿の音も 秋の名残とおぼえたり 秋の名残とおぼえたり
次は、忍びかねて妻恋う鹿の、一六九番。
小 小夜小夜 小夜更けがたの夜 鹿の一声
伴侶を恋うて、鹿の下枝下草を踏みわける擬声音で「さよ」の音を重ねた趣向。わるくないですね。
一七○番も、鹿の恋の小歌です。
小 めぐる外山に鳴く鹿は 逢うた別れか 逢はぬ怨みか
いずれにしても「なさけ」に感じて本当に泣くのは、男であれ女であれ、鹿ならぬ人なのです。
次の、一七一番の狂言小歌がそれを可憐に示します。集中の傑作の一つでしょう。
狂 逢ふ夜は人の手枕 来ぬ夜はおのが袖枕 枕あまりに床広し 寄れ枕 こち寄れ枕よ 枕さへに疎むか
百人一首に、「閨のひまさへつれなかりけり」という取り札がありましょう。その、在るべきが在らずに床広き「ひま」をつれなく占めた「枕」にむかい、
「寄れ」「こち寄れ」とは、あまり身にしむ表現ではありませんか。しかも、「枕さへに(自分を)疎むか」と「来ぬ」人のつらい情を怨みます。まさに怨歌で
す、ね。
前歌の「枕」で繋いで、一七二番、一七三番、一七四番の三つ、趣致に富んだ小歌や吟詩句をあげておきましょう。漢字の美しさを眼に残しますと、口調の佳
さとも相俟って印象深く記憶してしまえる "うた" です。
一七二番は、「芭蕉」に「雨」が、縁語です。
小 一夜窓前芭蕉の枕 涙や雨と降るらん
両夜の独り寝。寂しさに侘しさが加わっているはずですが、漢音と和語との快い交替は、ちょっと枕草子に名高い清少納言ばりの小気味のいい応酬とも読めま
す。
一七三番は、「邯鄲一炊の夢」の故事を知っておく必要があります。出世を夢見て旅立った青年が、旅次の茶店で粥を炊いてもらっている間に、枕をかり昼寝
をして、夢中に己が生涯のすべてを体験してしまいます。しかも眼が醒めてみると、やっと頼んだ粥が炊けたかどうかという束の間の夢を見ていたのでした。翻
然と悟って青年は、出世を願うことなくもとの故郷へ帰って行くのですね。
「灔澦の灘」は楊子江上の大難所だと思ってください。
吟 世事邯鄲枕 人情灔澦灘
(世事耶部の枕、人情灔澦の灘)
「灔」の文字づらが、いかにも「人情」にふさわしいのが、閑吟集の趣致にかなっていると思うなど、私の勝手な感覚でしょうか。
前句には同時代に対する万感の批評が、後句には同世代に対する無限の期待が(また失望も)籠められています。同時に今世紀の現代にあっても、事情はそう
変わるわけがない。「世事」と「人情」と、もし二者択一を迫られもすれば、生きの真実を、あなたならどちらに懸けて日々を送り迎えますか。
一七四番は、「清容」が即ち月の美しさでもあり、美女の面輪でもあることを念頭に置いてください。そうすれば「残夢」の余情またひとしお艶に推量が利い
て、これが、前歌で私が問いかけましたことへの、閑吟集なりの答でもあるらしいと察しられます。
吟 清容不落邯鄲枕 残夢疎声半夜鐘
(清容落ちず邯鄲の枕、残夢疎声半夜の鐘)
「烏啼き月は落つる寒山寺、枕を欹てて猶聴く半夜の鐘」といった、名高い唐の張継の詩が下敷になっているにしても、むしろ日本の秋の風情に移しかえて想像
力を働かせた方が、面白い気がします。
そして次の一七五番は、今一度「枕」に懸けて先に読んだ一七一番、一七二番の情緒を切なく謡い返します。
小 人を松蟲 枕にすだけど 淋しさのまさる 秋の夜すがら
人を「待つ」蟲とも読むべきで、「すだく」とは、蟲の集い鳴くさまを謂う動詞ですね。松蟲はどちらかというと賑やかに鳴くだけに、かえって淋しい。人の
心に忍びこんだ「飽き」を怨むからです。
一七六番は、我が家から遠く離れて山田を作っている若者が、仮庵住まいしながら、寝にくい枕をかこっているという、民謡情緒ゆたかな口調のいい小歌で
す。狂言小歌です。雑の今様ふうです。
小 山田作れば庵寝する いつかこの田を刈り入れて 思ふ人と寝うずらう 寝にくの枕や 寝にくの庵の枕や
「思ふ人」と寝るのは、刈入れもすんでこの仮庵から家へ帰ってのあとの話です。若者が寝にくい「枕」に夢を破られながら、好きな人を想っている悩ましさが
よく表現されています。「思ふ人と寝うずらう」を、まだ果たさぬ願望と取った方が面白いなどと言っては、可哀想でしょうか。山田を刈入れたら、帰宅して晴
れて祝言、という段取りを想像してみるのもわるくない味わいですね。さらに天智天皇の、「秋の田の仮庵の庵の苫を荒みわが衣では露にぬれつつ」という百人
一首の御製を思い出してみるのも、わるくない。
一七七番は、渋い傑作です。
小 科もない尺八を 枕にかたりと投げ当てても 淋しや独り寝
「科」は、罪のことと思っていいでしょう。尺八が小歌のだいじな伴奏楽器だということも忘れなければ、なんだか閑吟集編者その人の独り寝の述懐かと想わ
れもするのですが、そう限るのはトクではない。女が、男の忘れて行った尺八を、「男」さながらに握って、なげた、と読んでみたいからです。「かたり」とい
う堅い音は、昨今の枕の感じに逸れますが、昔は木枕が多い。陶枕とまで読むこともないでしょう。
小歌を謡ってどうにか憂さをはらしたいのですね。けれどどうにも、やり切れない。えい、と憎い男を突っころがしてやる気もちで尺八をなげやると、「かた
り──」と音がする。音がして、やんで、またひとしおの静かさが、独り寝の淋しさをいやほど思わせる。
世捨てびとの孤絶の狂心と見てもよく、しかし来ぬ男が恋しく怨めしい女のすねた仕草が、「かたり──」と鳴らした木枕の音になったと、読んでみたい。
尺八というと、いかにも男の楽器です。それへ、孤り在る女がいとしく手をふれ、唇を添えていたというエロチシズムの方が、閑吟集らしくていいのか。それ
とも、「桑門」の「狂客」を襲った「淋しや」と読む方が、閑吟の風情にふさわしいのか。読者の選択にゆだねていいことです。
それにしても「枕」の歌のつづきますこと、それほどに「枕」は「世の仲」の良きにつけ悪しきにつけて、物言わぬ証人なンですね。時には恋しい人の代役ま
で勤めている。「竹夫人」などという専用の「抱き枕」もあるくらいです。
一七八番など、まさに代役です。
小 一夜来ねばとて 科もなき枕を 縦な抛げに 横な抛げに なよな枕 なよ枕
「なよな枕」「なよ枕」とは言葉にならない悶えた呼びかけですね。あっちへ、こっちへ抛げられたり抱きしめられたり、「枕」も懸命に来ぬ男の代役を演じ
ます。が、こういう女の痴態を、嗤おうとは思いません。
一八○番。
小 来る来る来るとは 枕こそ知れ なう枕 物言はうには 勝事の枕
「来る」の繰返しは、「来て欲しい」の強めで、けれど男が「来る」かどうかは「枕」の方が知っている。女には、もう男心がはかり知れなくなっている。さ
らに言えば、女は、男が「来まい」とさえ予感しているのです。だからもし「枕」が物を正直に言ったりしたら、男にも女にも笑止な、つまり気の毒なことに
なってしまうのですね。
「勝事」は「笑止」のあて字だという通説にしたがって読みました。きっと「来る」と、枕がもし確言してくれるのなら、それは「勝事」つまりとっても良い
「枕」なのですが。屈折して読んだ方が、趣は深い。あの人が「来る」のよ、「枕」は知っているのよ、でも、それを枕がもし喋ったりしたら一大事だわという
読みもなかなか面白いのですが、この辺の一連の歌が、「来る」よりじつは「来ない」を味わいにしていますので、屈折させて読みました。
一八二番。
小 衣々の 砧の音が、枕にほろほろほろほろとか それを慕ふは 涙よなう 涙よなう
「後朝」という古語があります。これまでも二度三度説明ぬきに私は使っていたはずです。脱いだ衣を重ねて男と女が共寝をした翌朝、めいめいの着物を身に
つけて別れます。その別れ。また、その朝。また転じて男女の離別のこととも古語辞典は教えています。この小歌を「離別」とまで取るかどうか。それではあま
り身につまされます。
「砧」は絹の色艶としなやかさとをより美しく優しく出すために木槌で打つ、その行為でありその木槌でもあります。謡曲に「砧」という世阿弥作の名曲があ
り、夫に置き去られた妻の深い哀しみを砧打つ侘しい音によせて切々と謡いあげていますが、直接にこの一八二番の小歌とは関わりません。あくまでも「後朝」
の心情と読みましょう。
女がみずから砧を打つのではなくて、朝早に、もうよその小家で打つのが聞こえている。男を送ってまた独り寝の女が枕にうち臥しよその砧にじっと耳をすま
していると、恋しい涙がとぎれもなく、ほろ、ほろ、ほろ、ほろ。ああ涙よ、わたしのこの涙よと、女は男恋しさに己が涙までがいとおしいのです。思わず涙ぐ
まれそうな歌です。
一八三番は、謡曲「砧」に取材した大和歌。
大 君いかなれば旅枕 夜寒むの衣うつつとも 夢ともせめてなど 思ひ知らずや恨めし
夫は、訴訟のことで都へ上り、それが長びいて故郷なる妻のもとへ約束の期限にも帰ってこないのです。妻は砧を打ちながら、現に逢えないのならせめて
「夢」にもと夫を恋い慕っている。あなたは今どこの旅枕の夢にもそれを思い知らず、徒な仮寝をむさぼっているのですかと怨んでいる。
「砧」の能にしたがえばその通りです。が、歌謡としては原曲に捉われることなく、自身を女にも男にもよそえて、感情移入しながら読みとって欲しい「恨め
し」でなければと、思います。
一八四番。
小 ここは忍ぶの草枕 名残の夢な覚ましそ 都の方を思ふに
住めば「都」と謂うくらいですから、「都」を京都とむしろ限定せずに、妻が待つ、恋人が待つ故郷の家のこととでも読みましょう。「忍ぶ」にも、実在の地
名の「信夫の里」をしいて懸けて読むことはない。旅中の男が、心忍ぶ仮寝の枕で、かりそめに惹かれた女人と「名残多い夢」を見ているのでしょう。
もとより男は「都」にのこした女、妻か恋人かを疎んじてはいない。恋しいと懐かしんではいるのです。が、旅寝の夢にふと抱きしめた行きずりの女の可愛ら
しさにも、心を奪われているのです。「ここは忍ぶの草枕」という一句に、男の切ない申しわけが聞こえて、それも人の「なさけ」よと思います。「なさけ」無
いとは、私は、思いません。
このところ「枕」の歌が、閑吟集の内じつに十四篇もつづいています。今日の恋する男女が、こうも「枕」に感情を籠めているとはとても思えないだけに、面
白く感じられます。
一八五番。
小 千里も遠からず 逢はねば咫尺も千里よなう
これは理屈です。類歌もたいへん多い。「咫尺」とは、八寸ないし一尺といった短い距離のこと。説明を要しません。
一八六番。
小 君を千里に置いて 今日も酒を飲みて ひとり心を慰めん
一八五番を踏まえて読まねば面白くない小歌です。普通の理解なら、好きな人を千里へだてた旅に出している、その面影を慕いながら酒を飲んで孤りのわが身
を慰めよう、と読むのです。すこしひねって読んでもいい。好きな人の身は咫尺の間にありながら、その人の心はもうこのわたしの上にない。千里も離れている
かのようにこの人は遠くにいる。それが辛くて憂くて、今日の逢う瀬にもひとり酒でやるせなさを慰めていますよと、男の方へ怨めしく呟いている女ごころの歌
と聞くのです。この方がオリジナルな深まりが読みとれます。
一八八番。これは、なまめかしい。
小 上さに人の打ち披く 練貫酒の仕業かや あちよろり こちよろよろよろ 腰の立たぬは あの人の故よなう
かず
「上さ」は、どこか方言の感じがします。つまり、いつも頭から被いて着るなよやかな練貫小袖と似て、よくよく練った練り酒をあおったのが祟ったか、「あ
ちよろり こちよろよろよろ」と腰が立たない。練貫の小袖のなよなよとした感じが、立たぬという感じに巧くかぶさっているのです。が、「腰の立たぬ」本当
の理由は、あの人と愛し合って愛し抜いた一夜の耽溺の、あまり烈しかったせいですのよ、と、女は燃えつくした五体の余炎にまだ身を焼かれつづけているの
が、本当の意味です。酒はだしにされての惚気なンですね。
さて一八九番が、すぐお分かりになりますか。
小 きづかさやよせさにしざひもお
「思ひざしにさせよやさかづき」と逆さに読みます。遊びですね。「あなたが好き」と、眼にもの言わせてさす酒が「思ひざし」です。但し酒をさすというと
ころを盃にさすとしてある以上、「盃」は、受容れる女の容儀でしょう。それへ「思ひざしにさせよや」とは大胆な女の求愛と「さし」「させ」を直線的に読ん
でこその、いわば暗号うたの効果ではないでしょうか。さぞ美味い酒を盃はさされるでありましょう。一八八番の濃厚な調子を受けると、どうしてもこの読みが
生きてきます。
小歌を逆さに読む。これはなにも閑吟集編者の恣までなく、事実そうすることが意図の露骨を和らげも強調もする趣向が、巷間に喜ばれたものと考えていい。
その方が面白いと見込んだ趣向が、喜ばれたとみていい。
「趣向」とは、何より人を面白がらせ、そして自分も面白がる、そのための高度に知的な企画と、その企画が成って実りをおさめて行く経過との、双方、全
体、を指している言葉です。高度に計算のきいた構築行為です。
私たちは今、閑吟集を三分の二近く読み進んできまして、このいわば小歌集が、たいそう秀れた趣向で成っていることを、およそ納得できているはずです。第
一、歌の選択と配列とにすぐれた工夫があります。春から夏へ、夏から秋へ、その移り行きの中に、何となく人生および愛の在りようを巧みに示唆しまた批評し
ています。ただ面白ずくにおわっていない閑吟集の値打ちがそこに見えているわけですが、その値打ちを「趣向」という働きに即して言うならば、他でもなく、
閑吟集の趣向がすこしも不自然でないということでしょう。
「趣向」を、たんにアイデア(着想)という程度におさえて理解してはなりません。趣向には幾層もの場面や色合いの違った満足が組み込まれていて、先に言
うように計算や勘定も入るし、変化や展開をも内包していて、それ自体がかなり精練され研磨され吟味に耐えた、つまり「構築されて行く意向」だということで
す。かなり創造的、産出的に考え工夫するという内面行為に違いなく、ただ用が足りればよいのでなく、明らかに用以上の満足、美的ないし趣味判断的な満足が
本当に組み込まれることを欲求する姿勢。それが「趣向」する姿勢、です。
ところで近代以降の日本の諸藝術は、良くも悪しくも「面白さ」を主目的とはしなくなっていて、他にもっとだいじな条件として、人間(性格)が書けている
か、事柄や表現にリアリティがあるか社会性があるかなどの議論が、なにかにつけて先行するのですが、事実問題として近代以前・江戸幕末に至るまでは、文
学、造形、音楽、遊藝のいたるところで先ず望まれたのは、「面白い」という言葉に値することだったと思います。あらゆる作者は作品をいかに面白くあらせる
かに知恵を絞ったのであって、「趣向」とは、先に言うように、面白さを工夫し考案する意向と過程と結果との全体を指さしていう言葉となっていました。
但し「面白い」とは、これ以上通俗な言葉もないかわり、大事に考え直せば、なみなみでない難しい言葉にも相違ない。しかも漱石の文学を思うにせよ漫才や
コントを思うにせよ、同じ「面白い」一語でけっこう通じあえる機微については、日本人ならば誰一人として理解に苦しむことのない批評語なのですね。
当面その詮索は措くとしましても、要は「面白さ」がどう表現され、どう昔の人々を惹きつけ魅惑していたのかと考え直し思い直してみることは、歌舞伎・読
本、俳諧、連歌、茶の湯・申楽の能から新古今集、朗詠集、歌合、絵合、古今集などを本当に理解する要諦だろうと思いますし、同様に、多くの造形美術に就い
てみても、極めてだいじな鑑賞の要点になってくるはずです。
「これは面白い」というのが、実は今日の我々でさえなにかに満足した時の、通俗なようでいちばん本音に近い定まり文句です。まして明治以前の人にとって
はもうそれ以外にないほど「面白い」か「面白くない」かは、評価の物指でした。人は無意識のうちに作者の「趣向」を先ず評価していたのです。あれだけ「写
生」を尊重した俳句の正岡子規の、晩年の随筆や批評に、いかに「趣向」の二字が頻出するか、あの樋口一葉や紅葉、露伴らの初期小説が、いかに痛々しいまで
の「趣向」を見せてくれているかを、想ってみて下さい。佳く「趣向」するかしないかは、作者たるものの死命を制する、文字どおりの決め手”一だったので
す。
むろんこの久しい「趣向」の伝統から、わが『閑吟集』といえども例外たりえていません。それどころか、和漢の両序をもつことから、詩経を踏まえたことか
ら、三百十一という歌数から、古今集に倣った配列から、連歌的展開を狙った編成から、人生と恋愛の境涯を四季の推移にあずけて多くの歌謡を選抜したことか
ら、ことごとく、みごとな趣向の所産です。閑吟集は「趣向」の産物としてもめざましい成績をおさめている典型的な一好例なのですね。
ですが、この典型性は、趣向が不自然な趣向倒れにおわっていなければこそ獲得しえたものです。私はそれを重ねて言おうとしています。
「趣向」は、過ぎればたねやしかけの多い、いわゆるけれんという不自然なあくどさに陥り易いものです。それがこの知的構築のこわい陥穴です。陥穴をぜひ
避けるための心づかい、配慮が必要ですが、それは、「自然な」という気構え、抑制、好みだろうと私は考えています。
日本の創造の秘密を、ただ「趣向」にのみかけて解いてはならない。が、ただ「自然」という好みにのみかけて求めてもならない。「趣向」は不自然という陥
穴に誘われ易い点で、「自然」とは反対概念なのですが、この相反する意向を、同じ一つの創造≠ノ融合調和させて「自然な趣向」「趣向の自然」を求めてや
まなかったのが、私の理解では、日本の創造行為、表現行為だったと思うのです。
これは容易なことでなく、願わしい調和と融合を達した時代や作品もあれば、悪趣味に陥ったり尋常のあまりの平凡や陳腐に陥った時代や作品もあったので
す。その点、閑吟集の時代、即ち十五世紀から十六世紀へという時代は、自然な趣向をうるのに本当にいい環境だったかどうか、判断がたいそうむずかしい。但
し閑吟集に限っては、したたかな趣向を歌謡歌詞の背後にたっぷりはらみながら、およそ自然に編者の動機を一冊の「小歌」集に表現しえています。表現し切っ
ています。だから面白く、だから読んでただ面白い以上の共感と興奮を覚えるのです。
十五世紀の百年は、足利義政による応仁文明の乱をまんなかに抱きこんで、いわゆる東山時代なる禅趣味貴族文化を、破産に導いて行きます。前にあげた宗
祇、珠光、雪舟といった人材の独創は、明らかに東山文化の似而非ぶりへ、内から外からつきつけた厳しい反措定としての、ほんものの性根をもっています。三
人に先行して反骨一休の禅をおいてみればもっとよく頷けるところです。
さきに、この時代、自然な趣向をうるに好環境だったかどうかの判断がむずかしいと私が言いましたのは、一般の説とはかけちがうかも知れないのですが、い
わゆるまやかしの東山文化なるものと、雪舟、宗祇、珠光らが精神の重みをかけて求めたものとの、拮抗と隔差に、この時代の創造的環境としての意味や評価を
見なければならぬと思うからです。
一つの見当として、あの申楽の能の天才世阿弥の存在が、十六世紀へと近づいてくると、さすがに変容変質を強いられて、能の中に、傾きの要素が近づき浸透
してくる。それ自体は積極的な「趣向」要因なのですが、世阿弥が理想とした幽玄な花≠フ美しさが、彼の直接の後進の手でより深められたとばかりは言うわ
けに行かず、むしろ雪舟、宗祇、珠光らの方が世阿弥の高邁と深玄そして優美とを、それぞれの分野で承け嗣いだ感がある。
世阿弥を世阿弥として消化も吸収もできなかった体質として、私は反庶民的な禅趣味に終った東山文化を否定的に考えています。さらに言えば東山文化と闘っ
た雪舟の藝術は、狩野派がこれを受けとってやがて官僚的画風へ変質させ空洞化させます。宗祇の藝術は『閑吟集』という異色の子をなして、その後は、俳諧の
芽がそして芭蕉の新芽が芽ぶくまでのあいだ、立ち枯れを余儀なくされます。幸い珠光の茶だけが利休の茶へ大きく育つのですが、しかもそこで躓いた。利休は
秀吉の手で裁断され、後継者は茶の道を容易に立て通せなかった。あげく頽廃の繁栄へと今日にまで導いた。
この三様の挫折。それは信長、秀吉、家康の成功と当然に表裏していました。武家の側からみれば、十六世紀の戦国大名時代そして安土桃山時代は上昇そして
勝利の時代でしょう。が、民衆の側からみれば、全く同じ時代が雪舟、宗祇、珠光らの余儀ない変容変質へと下降そして敗亡した時代でした。
安土桃山時代は、実は、私の表現を用いれば、黄金の暗転期≠ノほかならなかったのです
二
さて、もとへ戻って、一九三番から読み進めて行きます。
小 憂きも一時 嬉しきも 思ひ醒ませば夢候よ
「き」の音の三つの重ねが前段でよく利いていますね。音楽的に巧くはこんでいる。が、それより面白いのは、「思ひ醒ませば」「憂き」も「嬉しき」もひと
ときの「夢」ではあったよと謡っているはずなのに、どことなく、夢から「思ひ醒めた」その時空、それもじつは「夢」の中だったとさも言っているように、十
分取れるところですね。世事人情いずれにせよ憂きも嬉しきも、それこそが「現」の生きの姿とそう思っていたけれど、そのあまりな頼りなさに気がついた、つ
まり眼が醒めた先の世界がまた「夢」だった──。「夢の夢の夢の世」(五四番)と繰返し、「一期は夢」(五五番)「夢の中なる夢」(一三番)と強調する閑
吟集なればこそ、「思ひ醒ませば夢候よ」を、夢から醒めたらそれもまた夢だったと抉って読みたくなるのです。
一九六番。
小 せめて時雨れよかし ひとり板屋の淋しきに
あの淋しやかな時雨にさえも賑いを求めたい。それほど、音もしないようなただ「孤り」の板屋住みが、地獄なのですね。
一九八番。
小 独り寝しもの 憂やな二人寝 寝初めて憂やな 独り寝
これも面白い。独り気らくに寝なれていたので、二人で寝る暮しに変わるというのが、当座、面倒なンですね。ところが、さて初めて二人で寝てみると、つら
いのは独り寝なンですね。男からも、女からも、言える小洒落た小歌です。
一九九番。
小 人の情のありし時 など独り寝を習はざるらん
なんでもないタマを投げてもらったようですが、手もとで変化してくる、相当なこれはくせダマです。
「情」とは愛人の愛のひたむきであり、思いやり、つまり情の深さのことでもあって、そういう人と互いに愛し愛されていれば、これは「独り寝」どころかい
つも嬉しい二人寝の日々であるのが自然≠ナす。ところが愛が醒めたのか、事情あって遠退いているのか、独り寝を強いられている歌ですね。こうなっての独
り寝、一九八番が謡っていた二人で「寝初めて」しまってからの独り寝は、ああ「憂やな」と嘆くしかない。こう「習ふ」つまり慣れを強いられる独り寝という
のは、たまらない。
そこでこの小歌は、あの人の情の深かったあいだに、それが嬉しくって有難くてたまらなかったあのあいだに、いっそ贅沢をむさぼるくらいに「独り寝」とい
うことをこのからだに覚えさせておくべきだった。共寝へののめりこみを慎んでおくべきだった。そうも慎ましやかにしていたなら、ほんとうはあの人に飽きら
れることもなく愛情をより深く強く長くひきとめられただろうか。ああ、あ、飽き(秋)の足の早いこと、それは耽溺の咎なのかとしみじみ嘆いている。一時の
深情が飽きを誘うことを、賢く、訓えてでもいるような、ふしぎな味わいの小歌だと思われませんか。
二○○番は、負け惜しみの諦めうたでしょう。しかも「習はし」に負けて右に揺れ左に揺れてあてどない浮草の人の世に対する、もうよほど沈静した視線が感
じられて、これにも身につまされます。
小 二人寝しもの 独りも独りも寝られけるぞや 身は習はしよなう 身は習はしのもの哉
「寝られけるぞや」と過ぎし日の身に覚えを思い起こし、「二人寝」の味を覚えた者でも、結局はまた独り寝の淋しさにあきらめをつけることは出来るように
なるのさ、と。誰だか今も泣いている、泣かされている可哀相な同性をしんみりいたわり慰めています。一九九番との唱和と取っていいようです。年かさな女
の、けれども、「身は習はし」と二度繰返す物言いには、冷ましきれない身内の情熱を、しいてしいて押し鎮めている切ないため息がまじっています。
二○一番。
小 独り寝はするとも 嘘な人は嫌よ 心は尽くいて詮なやなう 世の中の嘘が去ねかし 嘘が
余儀ない、事情のある「独り寝」には淋しさも堪えよう。けれど「嘘」を言いわけに飽きを深めて、あげく強いられる「独り寝」は、いや。そんな「嘘」で言
いくるめてくる人も、いや。そんなことじゃ、どう淋しさを堪え、どう人を愛しても、恋しても、心づくしのかいがない……。そう女が嘆いています。不安に戦
き疑っています。男の「嘘」を予感しながら、それを否認したい女ごころが叫ばせています、嘘が万事の「世の中」で、せめて男女の恋に、やはり嘘はなくてあ
りたい、と。「嘘」去ってしまえと。
これも「独り寝」が誘う不安と猜疑の身もだえです。好きな男のことを「嘘な人」だとは、本当は「嫌」で認めたくない女の情をも、よく汲んで読まないと、
底が浅くなります。
二○二番も、面白い。
小 ただ置いて霜に打たせよ 夜更けて来たがにくい程に
戸の外に立たせておいて冷たい霜に懲らしめてもらいましょう。こんなに夜も更けてやっと顔を出すなんて。どこで何をしていたやら、あまり憎らしい人です
もの。
『梁塵秘抄』の三三九番、三三八番にも、たいそう面白い同巧の歌謡がありましたね。
われを頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎まれよ 霜雪霰降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ 池の浮草となりねかし と揺り かう揺
り 擦られ歩け
厳粧狩場の小屋ならび しばしは立てたれ閨の外に 懲らしめよ 宵のほど 昨夜も昨夜も夜離れしき 悔過はしたりともしたりとも 目な見せそ
右の二つを要約したような閑吟集二○二番です。いかにも小♂フにつくりかえていますね。梁塵秘抄の雄弁な率直、生々しい迫力にくらべますと、閑吟集小
歌は表面は小体に粋になります。それだけ逆に、言いたいことだけが、ずばりと出ます。諺や箴に近いかと、まえに私の言いましたのも、こういう巧みな抽象化
の効果にふれてみたつもりでした。
二○三番。
小 とてもおりやらば 宵よりもおりやらで 鳥が鳴く 添はば幾ほど味気なや
「おりゃる」は、やって来る、訪ねてくるという他者の行為を敬語化した物言いです。古文の表記ですとすべて「おりやる」で、この通りに今日のルールで読
みますと、間が抜ける。「おりゃる」とつめて読んで欲しいですね。
どうせ訪ねて下さるなら、宵の内から見えればいいのに。そうはして下さらずに……、もう暁けを告げて鶏が鳴いてるじゃありませんの。こんな時分から一つ
床で添い寝したって、気が気じゃなくて味けないわと怨んでいる。二○二番で「にくい」と怒った女の、”あと愚痴”という口吻で、けれど、機嫌もなおり情が
添って、色っぽくなっていますね。
二○四番。
小 霜の白菊 移ろひやすやなう しや 頼むまじのひと花心や
白菊が霜にいためられると色変りが早い。それが「移ろひやすや」という嘆息になっている。「霜」に男の冷淡を、「白菊」に自身の女盛りをよそえながらの
「移ろひやすやなう」には、男心の浮わつきと、女が若さを惜しむ思いとが重ね懸けられているでしょう。ここまでは尋常な物言いです、のに、急にかっと激情
がほとばしる。「しやッ」と、嘲りの舌打ちが女の口をついて出ているのですね。「ひと花心」は「あの人の浮気心」でもあり、「一時の浮気心」でもありま
しょう。
この小歌、「霜の白菊」を冷淡な女に見たてて、男の側からの「しや 頼むまじ」と読んでもいいのです。「しやッ」という吐き出すような舌打ちは、戦記物
によく出てくる男っぽいものですから。
二○八番。
小 霜降る空の あかつき月になう さて 和御料は帰らうかなう さて
女の反語です。挑発と嘆願。本音は「和御料(男)」に帰られたくないのです。へえ。こんないちめんの霜を踏んで、明けの月に見下ろされて。へえ。あなた
はお帰りになりますの。へえ。帰れますの。そうかしらこの寒い寒い朝ばやに、と、とめどなく帰りを促す口ぶりのうらに引き留めたい気持がありありうかがえ
ます。但し逆効果じゃないでしょうかね。
二一○番。
小 帰るを知らるるは 人迹板橋の霜のゆへぞ
一つ前の二○九番が吟詩句で、こうあります。
吟 鶏声茅店の月 人迹板橋の霜
これは温庭筠という人の詩句そのままで、「茅店」は、ひなびた茅ぶきの茶店と想っていい。早暁の鶏鳴ですね、天に残月。見ると霜を置いた小川の板橋に人
の足迹があるのは、はや家路について茅店の一夜をあとにした客があるらしい、と取る。と、もう閑吟集の世界です。
これを二一○番は面白く受けています。いとしい殿御にもう帰らねばと里心をつけたのは、あの「人迹板橋の霜」のせいだわ、にくい霜ねとなります。後朝の
余情です。
二一一番は「板橋の霜」を、またひと捻りしています。
小 橋へまはれば人が知る 湊の川のしほが引けがな
海へそそぐ川口から潮が引いてくれれば、霜の板橋に足迹をのこさず、人にそれと知られずに川を徒渉りして帰って行けるのに。そう謡っています。「人が
知」って困るのは、男としてもいいが、女の立場である方が、面白いでしょうね。主ある女に男が忍んでいたと読む。後朝にいちまつのスリルが添います。
二一二番。
小 橋の下なる目目雑魚だにも 独りは寝じと上り下る
「目目雑魚」の上下するのを見ているのは、男です。いいえ、これは橋下で女を買おうとうろつく男なんです。そういう男と出会おうと川辺を上下する女でも
あるんです。まるで互いに自分で自分に言いわけしているみたいで可笑しいし、自分を「目目雑魚」なみに言ってみる気分もほろ苦いし、それでも橋下のくらや
みを「上り下」りのやめられない性の飢え、身売りの歎き。身につまされます。何でもない小歌ですが、男心、女心に情をうち重ねて読む、と、何でもなさそう
なことが、妙にぐっと思い迫ってくる。そこが閑吟集小歌の内懐の深さ、くらさというものでしょう。
二一五番は、唱和か問答かのように読みましょう。
小 鎌倉へ下る道に 竹剥げの丸橋を渡いた 木が候はぬか板が候はぬか 竹剥げの丸橋を渡いた 木も候へど板も候へど にくい若衆を落ち入らせうとて 竹
剥げの竹剥げの 丸橋を渡いた
これは愉快な歌声です。年かさな女が、「にくい若衆」の「鎌倉へ下る(帰って行く)道」に、木橋でもない板橋でもない、剥げてやわい竹の丸橋を渡したと
いうのです。川へ「落ち入らせうと」いうのです。成功しましたか、どうか。手拍子の聞こえてきそうな旋律感のある歌詞が面白い。
二一七番が、またケッサクです。
小 靨の中へ身を投げばやと 思へど底のじやがこわひ
「こわひ」は「怖い」です、が、とぼけた感じをのこそうと「こわひ」のままにしました。「じや」は「邪」でも「蛇」でもある。当然これは男が、愛嬌に富
んだ可愛い可愛い美少女に、色気もたっぷりの美少女に、もうからだ半分、心はほとんど惹きよせられながら、残る一分の心配をしている小心な歌です。が、女
をからかっている、世馴れた口ぶりとも見えます。落語にいう「饅頭こわい」式の、これはこのまま後世の都々逸になっていますね。
だからと言って、すべて軽口と読みとばしてはしまえない。男には、女は、どんないい女でも、どこかえたい知れない怖い「じゃ」を魅力の底に秘めて想われ
るのです。これは、本音の小歌と、やはり読んだ方が身のためでしょう。
さて、かくて、いつしか閑吟集も「秋」過ぎて心寒い「冬」のおとずれとなります。
二一八番。
小 けさの嵐は 嵐では無げに候よの 大井川の河の瀬の.音ぢやげに候よなう
後朝を愛しむ女の、甘えをふくんだ物言いです。嵐山、大井川(大堰川、京の保津川下流)といった実の地名に惑わされず、大井を「逢ふ日」と読めば、これ
が、忍び逢うた一夜の明けの、「嵐」にも似た愛欲熾盛に満足している、ため息のような歌と、分かるはずです。むろん忍ぶ宿りは山川の瀬のとよむあたりで
あったでしょうね。
二一九番。
小 水が凍るやらん 湊河が細り候よなう 我らも独り寝に 身が細り候よなう
これは深く読むことは、よしましょう。川上が凍って、湊の川口では流れが細くなっていると、独り寝の女が、事実心細く眺めているものと読みましょう。寂
しい冬の風景が、女の心象風景ともなりえています。
二二○番。
大 春過ぎ夏闌けてまた 秋暮れ冬の来たるをも 草木のみただ知らするや あら恋しの昔や 思ひ出はなににつけても
「草木」だけが時の移ろいを知らせるのではないという長嘆息を支えているのは、「思ひ出」です。「恋しの昔」を甦らせる「思ひ出」です。閑吟集編者の強
烈な動機はこの「思ひ出」、すぎし恋しき昔を慕い懐かしむ「思ひ出」なのですね。それがあの「いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影」という巻頭一番の小歌ととて
も無縁に思えないこと、ここまで「春」すぎ「夏」たけ「秋」くれ「冬」が来た今は、もう疑いありません。「あら恋しの昔や 恩ひ出はなににつけても……」
なのです。
人生を四季の移ろいに譬えるような思い慣いは、日本人にはすこしも分かりにくいものでない。一つの画面に四季を描きこんだ「四季山水図」が盛んに描かれ
出すのも、同じ十五世紀美術からの一つの目立った趣向ですが、西洋人にはこんな「四季山永図」がどうあっても、不合理に思えるらしいということを、なにか
で読みました。さもあらんと思う一方、それを妙に可笑しく頬笑んでしまうのが、日本人です。
源氏物語を読みすすんでいても、明らかに四季の推移に添えて物語の組立てが出来ているなと思う場面は、何度も現われます。
けれど、源氏物語を遠く溯る太古上古から「四季」は日本人の暮しを表現していたか。
これは必ずしも、あまり速断のならぬ話のようです。と言うのも、誰しも万葉集が上古の日本人の生活や感情を反映した、すぐれた大歌集であると認めないでお
れないわけですが、しかも万葉集は四季のめぐりを、さほどは大きく表現していない。むしろ表むきの世事を「雑歌」と立てた以外は、「相聞(愛)」と「挽歌
(死)」という大きな部立をまず用意して、それで巻第一と巻第二をなしていた。いわば原万葉集の姿でした。
「四季」を確認する気持は、ある面で物事の尽きぬ「繰返し」を確認する態度と無縁でありえません。私は、そのように以前から考えています。古今和歌集
が、はじめて部立を春夏秋冬そして恋と先ず大きく立て初めた認識は、その意味で、万葉集時代からの新鮮な脱却を示していました。あらゆる判断の、批評の、
方法の底に「繰返し」を認めて、その前提の上で陳腐と常凡とを免れる工夫をこらして生きて行く、物を創り出して行く、そういう時代が古今集とともに開幕し
たと言えましょう。そしてその時代が、二十世紀の今も、終りかけているのかも知れませんが、事実はまだ終っていない気がします。
「四季」という言葉は、相変わらず日本人のお気に入りで、延喜式などの「式」と同様に、多くの場面で、有効な売言葉として利用価値が認められています。
閑吟集をここまで読んできて、気づいた点が二つあります。一つは「相聞」に満ちていて、「挽歌」のないことです。もう一つは、苦しい恋の歌はあっても、
醜くもつれた嫉妬の争いを謡った歌がなかったことです。たいしたことと思われないかも知れないが、これが閑吟集の印象をたいへん清やかにも晴れやかにもし
ていることは、認めたい。編者の体験なり心性なりがさすがに気高く反映しているという気が致します。
それにしても閑吟集は、古今集の伝統に意識して追随しています。閑吟集の成ったこの時代は、古今集や源氏物語に関連して奇妙な秘伝口伝の伝授が滑稽なく
らい物々しくもてはやされた、へんな形骸化の時代でもあったのですが、古今集や源氏物語を大切に思うことで、武家のあらわな進出に、心理的にも文化的にも
必死で待ったをかけつづけた階層、公家や、公家と結託した教養ある町衆なり藝術家なりの或る作戦、策略としても考えられることでした。
酒をのみ、男と女とが戯れ合っていても、しょせん閑吟集は乱世の武者ばらの手で編めるものでなかった。もう五十年百年まえなら真似ごとにもできたこと
が、十六世紀初頭の乱戟をむりむり潜りぬけ生きのびていた武士たちにはむりな相談でした。古今集ばかりか中国の詩経までも視野に入れた閑吟集を、天上天下
にただ孤りぽっちの「桑門」「狂客」の仕事と見るだけでは、感傷的に過ぎるのです。編者の動機には、私的に根深い憧憬や悔恨もあり、しかしまた、一つの時
代を生きぬいた者のひそかな反武力・背武家という批判も籠められていたでしょう、それを見落としてはならないと思います。
四季の反復するように日々「繰返す」のは世事人情の常と言えましょうか。それとも宿命とでも謂うべきことでしょうか。そう思ってみると、閑吟集の恋人た
ちは、なにかしら大きな掌の上を這いまわる蟲たちのように想われなくもない。が、一寸の蟲にも五分の魂があって這いまわっているのなら、這うもまた良しと
言っておきましょう。
昨今、何のきっかけでか、「一期一会」という言葉が、意外にものの広告にさえ使われています。言うまでもない井伊直弼の『茶湯一会集』に、きわめて大切
に使われていた言葉ですし、時代を溯るとと「一期一碗」と書いた例にも出会います。(太平記には「一事一会」の四文字が見えます。)
「一期」とは、一期の浮沈などと謂いますように一生、生涯、命ある限り、の意味にちがいなく、それが即「一会」であれ「一碗」であれ、つまりは「一事」
「一度」であってみても、この意味が浅薄に誤解されて使われているのです。
一生に一回きりの茶の湯の会、一生に一回きりの一服の茶、ないし一生に一度きりの一事。だから、だいじ。そんな理解が世間一般に広まり過ぎています。そ
れも分かる。が、それだけでこの言葉の果たして本当の本質が見抜けているのでしょうか。
一生に一度の一事だからだいじであるという価値認識は、そんなにも意義あることと、私は思いません。意義が無いなどとは言いませんが、当たり前の話で
す。もっともっと意義深い理解は、我々の「一期」の営みが無際限の「繰返し」を余儀なくされているという前提や認識に基づき、根づくべきでしょう。
平凡で尋常で退屈な繰返しの一度一度を、その一度一度をあたかも一生に一度の一事かのようにそこへ真実の真情を籠めて迎える、行う、繰返す、ということ
ができるか。それができれば、この繰返しの人生がどんなにすばらしいか。そう思い、そう努めるのが、真に「一期一会」という覚悟ではないのでしょうか。
字義どおり一生に一度の一事をだいじと思うことは、実はさほど難儀でない。ところが昨日にも今日にも明日にも繰返さねばすまぬあれこれを、その一度一度
を、一事一事を、あたかも一生に一度の一事かのように懸命に清新に繰返してみせる覚悟。私はそれを「一期一会」の思想と呼びます。生きの理想であろうと考
えます。そしてそれが、たとえば茶の湯においてそう自覚されてきたのは、村田珠光の後進で、千利休の師だった、堺の武野紹鴎がようやく歴史に登場してくる
時分、閑吟集がちょうど世に広く受容れられて行く時分に当たっています。
一会の茶寄合に一期の真実を懸ける覚悟とは、一会に寄合った人と人との信頼と親愛とを一途に確認し合うということです。そういう倫理がひたむきに求めは
じめられた時代は、裏返しに言えば、それほど人と人とが容易に信じ合いにくい時代だったと言えましょう。閑吟集が反映している歌謡の真実も、実は、ひたむ
きに互いの愛を確認し合おうとする男と女との、「世」の仲らいに、ある。さらに大事な一事を言い添えねば成りません。「一会」の会とは会合の会だけでな
い、むしろ会得する、理会する「会」の真意も含んでいたということです。
言うは易く、現実はあまりに厳しかったのです。そこに「夢」や「嘘」を敢えて現実や実直以上に評価する気分を生じているのが、閑吟集歌謡の思えばつらい
本音なのかもしれませんね。しかもその「夢」や「嘘」に、さらに裏切られ傷ついて行くのかもしれない不安もさらに兆します。毅然と、または心よわく隠逸や
隠遁を考えるようにもなる。文化人、知識人ほどそうだったことでしょう。閑吟集編者の経てきた心理的、精神的な足迹とは、およそそんなところだったかと思
えます。
しかし、あくまで閑吟集編者と閑吟集歌謡とは、どこか別もので別ごとでもあることを再確認しておきましょう。編者は過去の面影を追っていますが、歌謡は
まだまだ明日につながる今日を生き生き謡っている。たとえ涙あり怨みあり悩みはあっても、です。
二二三番は、そんな微妙な撞着をよく表わしています。
小 須磨や明石の小夜千鳥 恨み恨みて鳴くばかり 身がな身がな 一つ浮世に一つ深山に
「身がな身がな」とは、からだが二つ欲しいというのです。「恨み恨みて泣くばかり」だから「深山」に隠遁してしまいたいと思い切るのでなく、そうも思う
けれど「浮世」に未練もあるわけです。深山か浮世か。これが「中世」自体がやがての末期を迎えてのむずかしい模索だったと言えましょう。この辺では閑吟集
編者の姿勢や心境は、かなりはっきり「深山」寄りに想われますけれど、けれど、二二七番など、まだまだ「浮世」恋う風情を見せています。
小 音もせいでお寝れお寝れ 烏は月に鳴き候ぞ
帰ろうという男を、暁け近う、女が引きとめているのでしょう。烏はさわいでいるけれど、あれは月が照っているからよと。まだ朝じゃないわと。けれども男
は席を立ちます。それが次の二二八番。
小 名残の袖を振り切り さて往なうずよなう 吹上の真砂の数 さらばなう
「吹上の真砂の数」とは数えきれない多数多量をいう常套句です。名残惜しさと「さらば」と繰返す言葉との両方に懸かりましょう。けれど男も女もとても離
れがたくて「惜し」くて、次の二二九番になる。
小 袖に名残を鴛鴦の 連れて立たばや もろともに
「連れて」とは、一緒の意味ですね。仲の良い「鴛鴦」となって、思い切って二人で一つの人生を歩もうと、新たな門出を決意する。なかなか心に迫る歌では
ありませんか。
二三一番。
小 世間は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと ふるよなう
「ふる」を「経る」「古る」「降る」に懸けて読みたいのはむろんですが、「霰」「笹の葉の上」を男女の「世」の仲にも懸けて読むと、まことにきわどい性
の秘境を、感覚を、女自身の肉感で今まさに感受していると取れます。これは表面と深層との両方を重ねあって、どちらに偏するともなく双方を味わってみた
い、粋な小歌です。そう思いつつ、この章の最後を、「さらさらさっと」結びましょう。
五章 愛欲と孤愁 そしてめぐる春
一
「冬」とは謂いますが『閑吟集』の春夏秋冬は、気分を象徴的に表わすのが主で、一つ一つの歌謡が即「冬」の歌、「秋」の歌でなければならぬというのと
は、ちょっと容子がちがいます。それは先刻お察しのことでしょう。四季のあとに「恋」がつづくとはじめに申しましたものの、四季を通じて恋愛、愛欲、愛楽
の歌ばかりだったともお思いでしょう。その通りです。むしろそれが『閑吟集』なので、四季をこめて恋のなさけの小歌集、愛のおもいの歌謡集なのです。恋の
季節、愛の季節を世事人情に重ねて表現し、なおも恋を恋として謡いおさめて行くという趣向を見てとりますと、ごく頷きやすい。しかもけっして「春」は春
の、「秋」は秋の趣を見喪ってはいなかった。配列、まことに心憎い趣向と技巧とを凝らしていたと、私は、嘆賞の感を深めています。
前章を締めくくった小歌の二三一番など、どう読もうとも、まず、その詞がさわやかに出来ていました。もう一度、口遊んでみましょう。
世間は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと ふるよなう
口遊むにしても、とにかく四節になっているのを、どう息を継ぎ、息を切るのか。
閑吟集歌謡はけっして長編ならぬ小歌が断然数多いにかかわらず、この点が微妙にむずかしい。
一気に一息に読むは読んでも、そこに内容上の切れめ継ぎめがあります。世のなかは笹の葉にふる霰みたいなものだなあ、という述懐はむろんよく聞きとれま
すから、「笹の葉の上の」のところで句読点でいうと「。」をうちたい気がします。が、事実そうしてしまうと、「笹の葉」を、「世間は」と「霰」との間に
あって差支えない位置から、わざわざこの位置へ移し動かしてある、音韻上の工夫、効果、が消え去ってしまいます。「ささのは」というじつにさわやか軽やか
な音の佳さを、「さらさらさっと」と、常の語法をのりこえてもなおつづけて発声するから、この小歌は意味内容とはべつに、謡う"うた≠ニしての気分のよさ
をもちえている。
ただ平凡に歌の意味に即するなら、「笹の葉の上の」のあとの「の」の字を「へ」の字に替えてしまえば何でもない。それを、そうしていないのは、なぜか。
「なう」「の」「の」「の」「なう」という伸びやかに響く音調の快味を一貫して利かせているからでしょう。
語法よりも音感を先立てている、そこに謡う”うた≠ナある歌謡の表現がある。
二三一番とかぎらず、こういう問題を含んだ作は、これまでにも数え切れないほどあったわけです。むしろ、もっと早くに、この点を私は話すべきだったので
す。眼で読むだけでなく、口遊んで口遊んで、そうして感受して欲しいと願うのは、ここなンですね。
私は詩歌の現代語訳ということを、前にも言いましたが、認めていません。国文学の本で、よぎなく訳をつけてあるのが、現に市販されていますが、これはさ
せる方が悪いので、読めば分かります、サンタンたる日本語にしかなっていない。ことに歌謡のような多義性の重層構造、暗喩効果をたっぷり身に絡めているも
のの場合、一つの歌をただ一つの訳文に固定して済むわけがない。方法が間達っています。文字や語法を乗りこえて真に魅力に迫る方法は、まず繰返し口遊むこ
と。音で、声で、舌と、のどと、胸そこへ響いてくる感動とで、歌謡が表では隠して内で謡っている本音にしみじみ共感して踏みこむのこそ、最良の鑑賞方法で
す。
二二九番の、
袖に名残を鴛喬の 連れて立たばや もろともに
という小歌も、ジーンと胸が熱くなるまで口遊むことが何より大事です。と言うより、口遊むという自分自身の能力で、ジーンとくるものを歌謡から引き出して
みせる共感が大事です。
二三一番の、「世間は寮よなう 笹の葉の上の さらさらさつと ふるよなう」を何度も口遊むことから、女人の、女体の、性の絶頂までが我がものに感覚で
きるなら、それはいやらしくも何ともなく、歌詞の清冽に昇華して行くすぐれて音楽的で文藝的な楽園に、魂をともに遊ばせることができたということです。
「ふる」を「古る」とばかり受取り、ただ無常迅速の此の世という型に嵌めて読むのでは、惜しい秀作です。
二三三番を、そのように口遊んでみましょう。
小 申したやなう 申したやなう 身が身であらうには 申したやなう
「申す」のですから、「申したや」と思っている人は女であれ男であっても、つまり相手を、心もち、見上げています。遠くから見ています。むろん心の内
を、思いの程を、恋心を伝えたい、告げたいのです。但し「身が身であらうには」なンですね。身は数ならぬという卑下ゆえに、「申したやなう」と思っても言
い出せないでいる。
この場合、社会的な身分と限って「身が身」を読むことはない。自身に対する謙虚が相手に対する深い敬愛と表裏していて、それで言い出せないという気高い
心理がありうるからです。八十歳のゲーテが十代の少女の前に脆くということも、ありうるからです。
二三四番。
小 身の程の なきも慕ふも よしなやな あはれ ひと村雨の はらはらと降れかし
「よしなや」と嘆く思いは、きれいになかなか割切れない。「由」というものが無いのですから。「身の程の無き」自身の状態にしても、なにも自身の責任で
そうなったわけでない場合が多い。だから、「よしなやな」なのでしょうし、だから、好きな人を「慕ふ」ものの、告げられない、受容れられない状況が、また
「よしなやな」なのですね。身をよじりたいような「よしなや」の嘆きが、どうにもならず呻き声になる。それが「あはれ」です。
それでもぐっと直接な表出は抑制します。降るほどの涙をまぎわらすため、「ひと村雨の はらはらと降れかし」と思わず空を仰ぎ、また面を伏せる。「村
雨」は、やさしい育みの雨です。このかなしいあたしの胸の底までしみじみと雨にうたせたい。慰められたい。こまやかな感情のひだの奥の方で、男の降りそそ
がせる、あの愛の雨をも待ち望んでいるのです。そこまで読まないでは、この小歌の真の主人公に共感したことになりません。
二三五番。
小 あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の早さよ
佳い歌ですね。
軽薄な物言いをお許しいただくなら、これは「泣かせます」ね。
本当ははっきりした求愛の言葉を口にしたいのに、とても口に出せなくて、つい、アレ、ごらんなさいな「空行く雲の早さよ」と口走っている。それだって言
葉はかけたのです。かけることのできた満足はあるのです。
恋をした人、恋心をうちあけられないで今かなしんでいる人には、「あれ見さいなう 空行く雲の早さよ」は、さぞ胸にこたえましょう。言葉がかけたい、そ
の思いからもう恋心は深まっている。昨日も今日も明日も、初々しい恋人が同じようなことを胸をどきどきさせて口走っているはず。そういう平和な日々の永か
れと祈りたいものです。但し過ぎ行く「雲の早さ」には、恋しい人への深層の不安も、もう重ねられている気がします。
二三六番。
小 芳野川の よしやとは思へど 胸に騒がるる 田子の浦波の 立ち居に思ひ候もの
言葉に出せない不安が、思う人の「立ち居」ひとつにも波騒ぐのでしょう。自身、居軾ても立ってもおれない或る胸騒ぎに苦しんでいるのでしょう。「よしや
とは思へど」という不安、不信、憶測、嫉妬、は苦しいものの中の苦しい物思いです。
二三七番。
小 田子の浦浪 浦の浪 立たぬ日はあれど 日はあれど
「浦浪」を「浦の浪」と言い替えたのは単に調子をとったのでしょうか。「うら」は「占」です。我一人の心の中で恋のうらないを立てつづけている気味を汲
みたいですね。たとえば、「来る」「来ない」「来る」「来ない」とか、「好き」「好きでない」とか。要するに浦浪の立たぬ日はあれど、恋心の浪騒ぐことは
思いの浦(裏)では絶えまがない。そう謡っています。
二三八番。
小 石の下の蛤 施我今世楽せいと鳴く
漢字のつづく部分は、「我ニ今世ノ楽ヲ施セ」という意味になります。漢文の訓み下しとしては「施せい」という要望になり、しかし「楽せい」つまり楽をせ
よという勧めとしても、言葉が照応し相応しています。それを「石の下の蛤」の鳴き(言葉)に作ってある。まだ石の下に隠れて人に会わない「蛤」とも、石の
ように重い堅いものに組み敷かれている「蛤」とも、とれます。大昔から妙に「蛤」という貝は擬人(神)化される生きものです、それも女に。「女」の性に。
と、すると、「施せい」は「蛤」の願望、「楽せい」はどうやら「石」の、「男」の、自負かな、と読めるのが面白い狙いの小歌です。
二三九番。
吟 百年不易満 寸々彎強弓
(百年満チ易カラズ 寸々強弓ヲ彎ク)
蘇軾の詩句によっていますので、なるほど「百年の寿命を保つことは容易ではないのに、人間は絶え間なく、強弓を引くようにあくせくと心身を労すること
だ」という解(臼田甚五郎氏)が本当でしょう。が、前の二三八番とのかねあいは、どうでしょうか。またこの吟詩句、そのようなお説法どおりに畏まって聞い
て終っていいのでしょうか。「百年」はともかく「満チ易カラ」ざるは女の欲求、女の生理で、「寸々強弓」は男のあの頑張りではないのでしょうか。そういう
含みがあってこそ、また、二四○番へつながって行くように思います。
小 和御寮に心筑紫弓 引くに強の心や
「心尽し」の「弓」を、せい一杯引いて「和御寮(此処では、女)」を愛してきたのに、さりとはつれない心よ、という歌です。「弓」は男のはり切った愛を
さながら体現しています。暗喩の歌と読みます。
二四一番も、微妙です。
小 取り入れて置かうやれ 白木の弓を 夜露の置かぬ前に 取り入れうぞなう
「白木の弓」は、まだけがれない童貞を暗に謂っている。年かさな女の、あらわな手の動きが見えるようで、よその「夜露」に濡れてしまわぬうちに「取り入
れうぞなう」などは、あまり露わな物言いなンですが、歌謡の歌詞としては、ふしぎに綺麗に澄んだ表現効果をもっている。だから口遊んでいて、いやな気がし
ないのですね。
242番。これは興味ある一篇ですが、きわめて難解です。でも、割愛するに忍びない佳い調子をもっている。「──だよ」「──だ」といった今日の物言い
の、最初例であるかもしれません。
小 さまれ結へたり 松山の白塩 言語神変だよ 弓張り形に結へたりよ あら神変だ
「さまれ」は「さもあらばあれ」の略で、とにかくも、どうあろうとも、と、物の言いはじめをトンと調子づよく打ち出す時によくこう言います。
「松山の白塩」が、なかなか把めないのですが、「結へたり」と言ってあるのがヒントにならないか。「結び松」に願いをこめる風習は、万葉集の昔からうた
われているのですから、そんな民俗が背景にあると見るのはいいでしょう。が、さてそれでどう通して読むか、やはり難しい。
「言語神変だよ」「あら神変だ」というのを曰く言いがたい良い思い、良い気分の絶頂と、「さまれ」受取ってみますと、「弓張り形に結へたりよ」が、男女
の結ばれ合った互いに緊縛、緊張のこの上ない態様と見えなくない。つまり、「さまれ結へたり」を一応の結合と眺め、それが「松山の白塩」という契機で「言
語神変」の状況、言い換えれば「弓張り形に結へたりよ」の状態までに昂まった。その昂揚その歓喜が「あら神変だ」と読んで、こじつけが過ぎたでしょうか。
どうやらこれぞ正解の感じがしますが、まだ私も、「松山の白塩」にずばりと見当はつけかねています。
それにしても小歌の味が、ひところと様変わって濃厚かつ芳烈、どこへやら「冬」の寒さなど置き忘れて、したたか汗まみれの愛欲を謡いつづけている趣です
ね。
二四四番。
小 嫌申すやは ただただただ打て 柴垣に押し寄せて その夜は夜もすがら 現なや
えらいことを謡うものです。これは何とも勇ましい夜這いの歌ですね。「いやと言うものか」と強気で柴垣の内へ打ち入りに押し寄せた。そして「その夜は夜
もすがら」つまり暁け方までも「現なや」で、愛欲夢幻の境をさまようたわいと大満足の体でいます。むろん女も受容れているのですから、よろしいとしましょ
う。
二四五番。
小 薄の契りや 縹の帯の ただ片結び
薄い藍色、縹色には、醒めやすい色変りの意味がこもります。それが「契り」の薄さと重なって、片想いのかなしみを怨じています。つづく二四六番の大和節
の中に、「人やもしも空色の 縹に染めし常陸帯」という文句がありましょう。帯に意中の人の名を書いて締める、鹿島の神に本望成就を願う帯占いの常陸帯と
いう風儀を、これは念頭に置いている小歌に相違ありません。
二四六番は割愛しますが、未に、「露の間も 惜しめただ恋の身の 命のありてこそ 同じ世を頼むしるしなれ」と強く居直っての恋の肯定は、閑吟集歌謡を
貫く主張の一つと言ってよい。
二四八番。
小 水に降る雪 白うは言はじ 消え消ゆるとも
恋の思いをあからさまには言うまい。「水に降る雪」ほどに「消え消ゆるとも」と。
二五二番には、つよく領くのみです。
小 しやつとしたこそ 人は好けれ
但し愛の場面でさわやかに毅い男を、女がほめたとも想えます。男も女も「しゃっとした」人は、すくない。
二三五番。
小 人の心は知られずや 真実 心は知られずや
「や」を、詠嘆ととるか、疑問ないし反語ととるかで、小歌の味もいろいろです。真実、人の心を知りたいという願望の強さを、読みとりたいと思います。
二五六番。
小 人の心と堅田の網とは 夜こそ引きよけれ 夜こそよけれ 昼は人目の繁ければ
堅田は琵琶湖の西岸、名高い歌枕の地です。が、堅い人の心という利かせがありましょう。いくら堅い女も、人目のない「夜」ならば引き寄せられよう。男と
は、こういうことも考えているけものです。とは言え、女は、ちがうのでしょうか。
二五七番。
小 陸奥の染色の宿の 千代鶴子が妹 見目もよいが 形もよいが 人だに振らざ なほよかるらう
梁塵秘抄の三三五番に「恩ひは陸奥に 恋は駿河に通ふなり」という詞句がありました。「染色の宿」が実在の地名として確認できない以上、色に染まるとい
う寓意を読みとるべきでしょうから、ここの「陸奥」に「恩ひは陸奥」に通う同じ意味を取るのが、主題をはっきりさせます。
「千代鶴子」には、幾らか拠るべもあるのでしょうが、めでたそうな遊女の名乗りと読んでおきます。主役は彼女の「妹」分に当たる名の知れぬ少女とはっき
りしているからです。
若い男どもがもう盛んに生い先めでたいこの少女を目がけている。その、ひそひそくすくすのいわば評判うたでしょう。前歌の「堅」い「人の心」を、この
「妹」が受けています。
二六一番。
小 忍ばば目で締めよ 言葉なかけそ 徒名の立つに
目が、時に口ほど物を言ってくれる。はっきり心を伝えてくれる。「あだ」な浮名が立つよりは、人目忍ぶ場合は目に物を言わせておくれよと好きな相手に頼
んでいます。
二六三番はその逆ですね。
小 忍ばじ今は 名は洩るるとも
「名」は、先の「あだ」な浮名のことでしょう。恋情が強まり、辺り憚らずという段階に入ってきた。女でしょうか。男でしょうか。つづく二六四番はどうで
しょうか。
小 忍ぶこと もし露はれて 人知らば 此方は数ならぬ躯 其方の名こそ惜しけれ
「名」が名誉の意味で使われています。
二六七番。
小 おりやれおりやれおりやれ おりやり初めて おりやらねば 俺が名が立つ 只おりやれ
「俺」は、この時代なら男女に通用の一人称です。ここは、女。男に、幾度でもつづけて「おりゃれ」来て…と望んでいます。一度二度来初めて道が絶えたの
では、いかにも自分に魅力が乏しいからかのように心外な評判が立ってしまう。「ただもう、来て欲しいの」とせがんでいます。ここに居りゃれ、そのまま居て
欲しいと取ることも可能です。趣意は同じです。
二六八番は、様子がちょっと変わります。
小 よし名の立たばたて 身は限りあり いつまでぞ
「よし」は、たとえ。あるいは、いいサ、かまわないサ。悪い評判が立ってもかまわない、恋を貫きたい。どうせ数ならぬ身のあたしのこと。評判などやがて
消えてしまうわ、この命にしても同じだわ、と。
二六九番になると、また評判(讃談)に悩んでいます。
小 お側に寝たとて 皆人の讃談ぢや 名は立つて 詮なやなう
「お側に寝た」のが事実か当て推量かで、この小歌、うんと重みが変わってきます。もし事実ならば、たとえ名は立っても、まァ仕方がない。実のない邪推で
名が立つのでは、迷惑至極。でも、この「詮なやなう」の、困っちやうわァという声音には、かすかに、得た恋の満足感も籠もっていないでしょうか。
二七○番。
小 よそ契らぬ 契らぬさへに名の立つ
主あるこの身。浮気なんかしない。それなのに、浮名が立つなんて──。
この辺で、「名」という立場や感慨が、十一首ほど続きました。「徒名」「浮名」「名」のいずれにせよ個人の名誉や利害がからみます。面白いことに、遊女
らしい「千代」「鶴子」という源氏名は出ましたけれど、ほかに名らしい「名」は一度も出てこない。まして日本の歴史で、女人の本名を拾うことは、まさかま
るまる名が無かったのではないでしょうに、至難のことです。もし出会うとすれば、高貴高位の女人、例えば皇后定子とか北条政子とか秀吉夫人のねねさんと
か、または伝説的な藝能人である小野お通とか出雲お国とかにほぼ限られていました。
諱(忌み名)といって、本名を、あらわにそれと呼んでも呼ばれてもならない風儀は、じつは日本人だけに限らなかった、かなり世界的な古い昔からの禁忌で
した。だから通称や字や号が必要でした。大家の婦人は昭和のはじめごろまで別に替え名をもっていた例がありますし、奉公人にさえ、親がつけた名は呼びづら
いと、雇い主がべつの名をつける風習があった。そういうことを背後に感じとっていませんと、武人に限らず「名」を惜しむという昔びとの心根も本当にしみじ
みとは分かりかねることです。
二七二番は難解を極めます。それ故にまた想像力をいたく刺戟しないでもない小歌です。吟詩句ではないのです。表記は小歌らしくないが、そこに、ひねりが
有りそうです。
小 只将一縷懸肩髪 引起塗帰宜刀盤
(タダ一縷ノ肩ニ懸カレル髪ヲモツテ 引キ起コストキ宜シトハ)
臼田甚五郎、浅野建二氏らの訓みにしたがっています。賛成です。が、難しい。一筋のたぶん女の髪の毛が、たぶん男の肩に懸かつている。赤裸々の状態と取
るしかない情況です。愛欲の熾りの様態でしょうか。途中で休息といった時でしょうか。それによって「引き起こす」相手が変わりましよう。全身(上体)か、
局部か。
「淡粧タダ肩に掛かる髪を以ちて 引き得たり雨中の衰老翁」という「滑稽詩文」があるそうです。これは喝食といわれる有髪の少年僧に寄せたもののようで
すが、これを参考にしますと、「雨中衰老翁」には、喝食の若さに対比する諧謔の気味があり、或る萎えた物の感じを諷しています。「雨中」は古来の慣用で、
ほぼ愛戯、性戯のさなかを示しているからです。「淡粧」は相手を女に見紛うと取るのが自然です。
巨象も女の黒髪一筋に引かれると謂いますね。そうしたことも考慮して、「引起塗帰宜刀盤」という、ややとぼけた万葉仮名ふうの表記と物言いとを、むしろ
快く受容れてみますと、「只将一縷懸肩髪」の一句にひびく「か」の音の清んだ印象に、小歌の「なさけ」が感じられます。いやらしいと思うより、美しい風情
が美しい音色≠喚起しています。”うた″は、詩は、それで良いのではないでしょうか。
二七三番は、逆さに読んでください。
小 むらあやでこもひよこたま
また今宵も来でやあらむ──。遊女仲間の半ばあきらめた舌打ちでしょうか。
遊女の仲間同士と言いましたが、遊廓といった場所がこの時代にすでに在ったか、どうか。京の祇園島原や江戸吉原のような大遊廓はのちのちの話ですが、遊
女には遊女の居る家戸のあったことはむろんで、いろんな便宜や好都合ゆえにそれが船着場や宿場の一部にかたまりやすかったのは、室の津の遊君や、江口神崎
の遊君などで早くから知られています。社寺の門前に参詣客をあてこんだ女たちの宿が、形ばかりの粗末な詫びたものであれ、在ったし在りえたことは、大和物
語や、光源氏の住吉詣での昔から疑いない事実です。
「職人尽絵」の中に、立ち君、辻君の絵が出ています。「職人尽絵」の決定版のような『七十一番』ものの中で、家の中から女たちが客を招いています。これ
は『閑吟集』成立のわずか後の制作でしたから、この小歌、遊女が遊客を「今宵も来でやあらむ」と怨みまじりに待つ風情と読んで、とくべつ時代錯誤ではな
かったのです。
但し、遊女と限る必要はない。男をむなしく待つ女は、「世」の中にいろいろに在りえたからです。
二七四番。
小 今結た髪が はらりと解けた いかさま心も 誰そに解けた
「誰そ」とは、「だれかサン」の感じです。むろん「誰」であるかはっきりしているのです。今結うた髪がはらりととけた。そのように、あの人に対して自分
の心ももう無防備にひらかれてしまった、ああ嬉しいこと……いう気持でしょう。結うた髪のとけたのは、男の思いが届いたからで、それが嬉しい。愛は、不合
理です。理屈ぬきです。
但し「いかさま」はインチキの意味ではない。ああいかにもという強い納得です。合点です。女の嬉しさが言わせる、やはり理屈ぬきの満足なンですね。なぜ
なら、この小歌は、必ずしも霊感が通ったような不思議ではなく、今宵は来ないとあきらめていた男が来て、女の髪を解いたのです。それで、怨む心もとけたの
ですから。女が髪を結うのは、男がそれを寝乱れの朝寝髪に解いてくれるのを暗に待つからです。裳の紐と同じなのです。
二
二七六番の小歌を、お読みください。
小 待つと吹けども 怨みつつ吹けども 篇ないものは 尺八ぢや
「篇ない」とは、甲斐ない、役に立たない、仕様がないの意味です。尺八は小歌の伴奏楽器ですから、これは待つ恋を謡った、分かりいい小歌のようです。し
かし、「尺八ぢや」とこう断定的になげてみられて、そこで却って、おやと気がついて欲しい。こう「尺八」が貶められるのは、じつは条理に合わず、妙に八つ
当りめく。それなら「尺八」でなくてもいい。何が憎らしくッてもよく、すると、一篇の小歌として急に底が浅くなる。「篇ない」歌になってしまう。
考えましょう、これは女の歌です。尺八は笛≠ナす。女が「笛を吹く」というのは、時に、相当に濃厚な愛戯愛撫の様態を諷しています。そういう用例は隠
語、暗喩として寡くはないはずです。「尺八」という、長さに関係した楽器の名、笛の名が物を言わされていて、それを女がどう焦れて吹いても役に立たない。
そんなジレンマがおかしく謡われていることを読み落としては、やはり「篇ない」ではありませんか。
二七七番。
小 待てども夕の重なるは 変はる初めか おぼつかな
「夕」を、たいていの学者が男の「来ぬ夕」ととっておられる。私は、これは安直な気がします。「夕」は刻限をあらわしている。しかもこの小歌のどこにも
「来ぬ」という否定は表現されていない。むしろ「来なくなりはしないか」という「おぼつかな」さを謡っている。いずれ来そうな心変りの時をおそれ案じてい
る。つまりまだ、男は「来て」はいるのです。
待っても待ってもやって来ない宵が「重なる」と取ったのでは、「変はる初め」どころか、もう「変は」っているではありませんか。「おぼつかな」どころ
か、もうダメなンではないですか。
「待てども夕の重なるは」とは、だんだんと刻限が遅くなって行くのはという意味でしよう。以前はもっと早くから来てくれたのでしよう。男はまだそれでも
女の躰の魅力に惹かれて「夕」になると来てはいるのですが、女の愛は「躰」にだけあるのではない。もっと大きな安定を望んでいる。だから男に抱かれながら
も、「変はる初めか おぼつかな」と、ひとりものを思ってしまう。男女の仲の微妙な瀬戸際を、これは上手につかまえています。
二七八番。
小 待てとて来ぬ夜は 再び肝も消し候 更け行く鐘の声 添はぬ別れを思ふ烏の音
別れの鐘、烏の声は昔から嫌われものです。「鐘の音」「烏の声」とあって欲しい表現ですね。ここの「鐘」には、おそらく年越えの除夜を撞く鐘の意味も
あって、閑吟集もいよいよ「冬」の果てを感じさせています。「待て」と言っておいて「来ぬ」「添はぬ」「別れ」と、春にはじまった冬は、寂しい「鐘」に送
られて──去ろうとしている。
そして、二八○番では「白雪」「薄氷」「降る雪の花」などの冬の景物を用いながら、最後には、「春もまた来なば都には 野辺の若菜摘むべしや 野辺の若
菜摘むべしや」と、また「若菜」へもどって回春の願いを謡いおさめているのです。
閑吟集の「四季」はここに一巡しました。
さて、次に「恋」の小歌の集がつづきます。
これまでも、恋と愛とのほかではない歌謡の連続でした。堪らないナと、ちょっとした悲鳴をあげて、『閑吟集』ってこんな本か、ふゥんと感嘆されたり渋面
をつくられたり。読者の反応もいろいろだったことと思います。いくら何でも、これは深読みである、へんなンじやないかと、筆者に腹を立てた方もおいでか知
れませんね。けれど、私の読みは参考になさってくださればいいのです。そこまでの深み奥行を受容れて、その上で、程よい読みに銘々の納得の場を確かめなさ
るのがいいと思います。但し大きな誤解を、私は犯していないつもりです。
そう念を入れておいて、ここで注目しておきたい点が、また少くも一つ有ります。
私はさきに、『閑吟集』に先行して評価の高い『梁塵秘抄』を同じNHKブックスの一冊として上梓の際、"信仰とと愛欲の歌謡≠ニいう副題を添えました。
その"愛欲″の一面は明らかに『閑吟集』では深まっていると思われます。が、"信仰″の方はどうか。少くも表面は影を喪っています。この点です。
梁塵秘抄の歌詞は、大部の十巻構想の中で巻第一の一部と巻第二を今日に伝えるのみですから、必ずしも正確なことが言い難くはありますが、それでも法文歌
と神歌という大見出しで、ほぼ現存する全部が蔽われている。文字づらからも、そこに紛れない仏法なり神道なりの広大な信仰世界が含まれているとは、頷きや
すい事実です。法華経ですとか、阿弥陀如来や大日如来やまた観音菩薩とか言わなくとも、たとえば、
はかなき此の世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに よろづの仏に疎まれて 後生わが身をいかにせん
といった歌謡(二四○番)を、ほとんどまだ『閑吟集』から拾いえていないのが、事実です。
ちはやぶる神 神にましますものならば あはれと思しめせ 神も昔は人ぞかし
といった神への直な呼びかけ(四四七番)も『閑吟集』には見えていません。
『梁塵秘抄』では信仰″と愛欲″との間に距離がないというより、融合があった。同化があった。根は同じで、枝(表現)こそ岐れて見えても咲く花(祈
願)も生る実(功徳)も同じという趣をもっていました。一つには、ことに雑の今様に登場する「道々の者」たちが、多くが信仰≠伝統的に支えてきた人々
で、遊女も巫女も、山伏も呪師も、それぞれの場所と役割をまだ正面切って確保していました。そこに海士も樵夫も鵜飼もいながら、農民はまるで影も見せな
かった。いかに染塵秘抄の歌謡が非農民世界からの所産であるかをそれは明白にしていました。制外の漂泊者たちの歌謡集であり、あの難しそうな法文歌がどれ
ほど数多く含まれていようと、全体の性格を変えるものでなかったのです。言葉こそいかめしい法文歌も、それを事実上諸国に広めてまわった人人は、一所不住
の漂泊を身の境涯といさぎよく受容れて、それを、修行≠ニ心得ていたような独特の信仰者≠スちであって、それが、かりに遊女や巫女であろうと、その例
外ではなかったのです。
『閑吟集』では、土地付きの農民が大勢顔を出しているとも言えませんが、さりとて土地と無線の非農民たちがそれと分かる顔つきで主人公顔をしているとも
言えないのです。ただ「男」と「女」とが登場している。「男」とも「女」とも、名ざされることさえ稀に、です。男女の没人称、没職種、没身分という抽象化
が、気化が、まるで意図的に徹底されています。それだけに一つ一つの歌謡に、読者である他者が、容易に入りこめて、その「男」にも「女」にも化り変われま
す。
遊女の好むもの 雑芸 鼓 小端舟 簦翳 艫取女 男の愛祈る百大夫
といった一般的な批評や観察(梁塵秘抄の三八○番)もせず、また、
尼は斯くこそ侯へど 大安寺の一万法師も伯父ぞかし 甥もあり 東大寺にも修学して子も持たり 雨気の侯へぼ 物も着で参りけり
といった極めて個別的、私的な口吻(梁塵秘抄の三七七番)も閑吟集には寡い。二七七番の、
待てども夕の重なるは 変はる初めか おぼつかな
にせよ、ある一人の体験が、瞬時に、べつの大勢の追体験として共有されて行く表現になっています。
閑吟集の十五、六世紀になると、もはや、「職人尽絵」にどれほど多くの職種が描かれ、その中に広義の信仰″にたずさわる「道々の者」がいくら挙げられ
ているにせよ、どうやらその人々は、はや社会に於いて積極的な伝統の力と役割とでそうあるという以上に、もう、かなりの部分は余儀なくそこへ獅噛みつかさ
れていて、とても、
我等が修行せし様は 忍辱袈裟をば肩にかけ また笈を負ひ 衣はいつとなく潮垂れて 四国の辺道をぞ常に踏む
などと、梁塵秘抄の三○一番のように謡ってみるにしても、体験を頒かちあえる場も人も乏しく弱くなっていたのでしょう。
信仰≠フ方面へ世情が動いていないで、利害≠どう頒けあい奪いあうかで、人は我々≠ニ彼等≠ニを血まなこに識別していた。極端なことを言え
ば、信じ合えるのは完全燃焼中の男女の「世」の仲だけで、それさえも「嘘に揉まるる」ものという覚悟を常にもっていた方が、少くも、気がらくではあったの
ですね。
男女の望ましい「世」の仲と、例えば珠光、紹鴎、利休らが望ましい茶寄合のうちに期した倫理とは、かなりの点で類似し相似していて、即ち、そこに互いに
信≠仰ぎ願う人間関係の特殊な、現を超えた、時代の夢≠ェ托されていたでしょう。もはや神仏を頼む信仰≠ナなく、人と人との仲に運命を頒かち合え
るかどうかの信頼"をぎりぎり求め合わねばならぬ乱世、濁世として「中世」の在りようを想うならば、人間関係としての茶の湯と、閑吟集における愛欲纏綿
の歌謡とは、じつはほぼ同じことを願い、謡っていたとも理解できます。侘び寂びといった美的な理解よりは、やはり一期一会、和と敬とといった倫理の面から
茶の湯のもともとの渇望を理解するのが、正しい利休の理解なり、中世の理解なりにとって本道なのでして、閑吟集も、同じその本道に咲きひらけていた魅力的
な一面の花野であったわけです。
それにしても閑吟集が、仏や神を口に出して頼もうとしていないのは、中世人が無信心のためとは思えません。あの一向宗や法華宗の人々の信仰の熱さ烈しさ
を想うだけでも、それが間違いと分かります。一つには、歌謡と関わる信仰の支え手が、上古来のいわば地下の藝能者たちであったわけですが、この藝能者の世
界が、あたかも上清と沈澱のように中世半ばに達して社会的に乖離現象を生じはじめたことが影響しています。
たとえば同じ猿楽者でも、世阿弥らによる大和猿楽の連中がひとり社会的に浮上しましたが、他はかえって、近江猿楽をはじめ諸国猿楽も、早歌うたいも放下
僧も、曲藝軽業手品師も、呪術も巫女も瞽女も、なべて藝能信仰者たちのいたましい顛落が促進されてしまったこと。その間に寄合社会は拡大され、いろいろの
会所で、もはや藝能者を頼まずに自ら歌をうたって楽しむ人々が飛躍的に増えたこと。同時に信心の表現のために歌をうたうというような必要も、一般には感じ
られなくなったことが考えられます。ことに中世藝能者の上昇・下降の分岐は顕著でした。
中世の藝能のうち、世阿弥による申楽と、珠光−利休による茶の湯とは、武家封建社会にひとかどの市民権をもって浮かび上がれた特異な例外だったと言えま
しょう。連歌は、元禄の芭蕉に辿りついてやっと連句という俳諧文藝に結びつきえましたが、必ずしも武家と結びつきはしなかった。
中世藝能の運命には、どこか一将功成って万骨枯る式の悲愴がつきまとっています。しかも日本の信仰を支持してきた多数者は、何も高級な僧侶や神官ではな
くて、地を這うように諸国に漂泊しつづけた藝能者たちであったという、信仰と藝能との太古来の運命的な結びつきを、ここで改めてよく見入れておくべきなの
です。さもないと『梁塵秘抄』が分からず、さもないと『梁塵秘抄』から『閑吟集』への変容が納得できないのです。
私は、『梁塵秘抄』の編者の後白河上皇は、或る意味で藝能者の頂点としての天子の位というものをよく弁えていた独特の信仰者だったと思う。それと同じ強
さで『閑吟集』の編者は、藝能者である以上に知識人であって、知識人ゆえにもう信仰に頼ることのできない「狂客」寄りの「桑門」だったとも思うのです。
思うにこの編者は、埋合せのつかない何かしら大きな大きなものの喪失者として、そのこと自体を己が運命としてむしろ肯定しつつも、いとおしみつづけてい
る孤心孤愁の持主のように私には想えます。その孤心孤愁が、今もって愛欲無類の男女の世の仲を否定し尽していないところに、『閑吟集』編成のやむにやまれ
ない動機と趣向との面白さがひそんでいる。そう私は思うのです。
愛欲そして孤心ないし孤愁。信仰に根ざして先行した梁塵秘抄の愛欲とこの閑吟集のそれとの違いは、大岡信氏の美しい用語にまなんで謂うならば、この「孤
心」の深みなのでしょう。そのままそれを十二世紀と十六世紀との信仰の差とみても、いい。十二世紀は古代と中世とを渡す長い橋でした。十六世紀は、中世を
近世に売り渡す、民衆にはつらい転変の取引場でした。その歌声も、前者は梁の塵も浮かばせる朗々の歌藝なら、後者は浅酌低唱、孤心孤愁を静かに奏でる内面
の述懐なのでした。忘れてならないことは、孤と雖も、じつは男女一対「身内」ということを生きの単位として切に願いながらの「孤」だったということです。
恋とは、対の「世」の仲を無事に密室の中で燃え尽さしむる情熱の意味でした。壷中日月長しという認識は、禅でも悟りでもない、「壷」の中ではという、いわ
ば愛欲の願いそのものでした。
二八一番を読みましょう。閑吟集を象徴する恋の名歌とされています。
小 つぼいなう 青裳 つぼいなう つぼや 寝もせいで ねむかるらう
これは、何度も口遊んで、まず感じをよくつかみたい小歌です。ふしぎな旋律をもっています。同音の微妙な反復や重複が意味以前の音楽をなしています。
「青裳」が、ひとつ問題です。このままだと合歓木の別名で、それでも意味は成している。「青小」の含みをもたせると、これは小童のことですから、男同士
の男色歌だとする説も出てくるのですが、そんな限定は、一篇の小歌の魅力を浅いものにしかねません。まして口調は女のものに思えますので、青裳にせよ青小
にせよ、相手を年少の男性と私は取りたい。そこに「つぼい」という、身も世もない可愛らしさの肉感が迫ってきます。
しかし「つぼ」つまり「壺」は「女の性」の形容ですから、男が、年若いまだ「つぼみ」の少女の「からだ」をしんからいとおしみ耽溺の境に酔っていると
も、読める。
この二人、ねむいもあらばこその身悶えの愛を今満喫して、なお余燼のつよさに身をよじっている。その堪らない五体の疼きが「つぼいなう」「つぼや」とい
う呻きを喚び起こしています。しかも相手のさすがに疲労げな眉目を見やって労っている。もっと起こしていようかもう寝かしたがいいかと思い惑いまだ飽き足
りていない。「ねむかるらう」という優しげな母性と、すさまじい肉欲の魔性とがそこに交錯します。
「つぼい」は可愛らしい意味の千葉、茨城また長野地方の方言であるという解説が、よく付いてまわります。現にそうであるのでしょう。が、方言土着の一つ
の型としても、それがその地方にもともと独特のものというより、事情あって移入されたものの定着、遺存であるのかもしれませんし、閑吟集の時代には、もっ
と広範囲に感受され使用されていた共通語でなかったとは言えない。むしろ地域的に限定された方言だとすると、この小歌の語法などが他のそれと、そう異って
もいない理由が解きにくくなります。方言というより、これも閑吟集にふさわしいむしろ伝統の生きた語彙の一つと受取りたい。
すると、「つぼい」が可愛らしい意味でむろん構わない、けれど「可愛い」と言わず「つぼい」と言い表わす必然をも問うてみたくなります。
「つぼ」は壷、莟、局などを連想させますね。しかも、いずれも女に縁がある。桐壷、藤壷といえば後宮の一画をさす呼名であって、しかもその女主人の呼名
でした。花の莟といえば処女の譬えですし、お局さまといい、転じて美人局などと書くのも、性の対象としての女人と無縁でないどころか、それそのものを指し
ています。 壷は容れものです。女は銘々に小さな壷を身の秘処に抱いている。平常はつぼんでいるものへ、時に物を受容れて用を足
す。そういうことを「つぼい」「つぼや」という可愛さのほとばしった言葉が、含意していない道理がない。その壷が、進んで物を受容れたまさしく合歓・青裳
の喜悦が、思わず「つぼいなう」「つぼや」と叫ばせているのです。思わず知らずに甘えた女の、誇らかに満ち足りた充実感が、性の自覚が、「つぼいなう」
「つぼや」なのです。これを男の歓喜の声と取りうるゆとりもこの小歌、十分持ち合わせています。だから「ねむかるらう」を、男が女を労るのだと諸本が解釈
しています、が、性愛の反復で、ねむさと疲労とに参るのは、概して男の方なのでは。こんな場合少女は似合わない。女は年増であれ少女であれ、「寝もせいで
ねむかるらう」という顔はしそうにない。似合わない。さっさと寝ているか、ガンと頑張っているか、でしょう。
それより「青小=小童」を恋の相手にした年かさな男を想ってみるのが、逸興です。「待てよ」と耳もとへ囁かれたまま「寝もせいで」待っていてくれた小童
の前で、息をはずませて「つぼいなう」「つぼや」とうめく男色の大人。これも捨てがたい耽溺の一境地。そういう解が十分成立つ小歌です。この際の「青裳」
はあくまで少年です。いやいや逆に言うと、やはり年かさな女の方から年若い少年のところへ、すでに来てもう床の中にいるか、じつは今しがたかけつけたとい
う読みの方が、なじみます。「つぼいなう」は、女でないと口に出せない、語感ならぬ体感そのものです。「莟」と書けばむしろ少女の「つぼみ」よりも少年の
性器に近いという用例もあります。
二八二番。
小 あまり見たさに そと隠れて走て来た まづ放さいなう 放してものを言はさいなう そぞろ いとほしうて 何とせうぞなう
「恋しとよ君恋しとよゆかしとよ 逢はばや見ばや見ばや見えばや」という絶唱が梁塵秘抄の四八五番にありました。閑吟集はおおむねこの続篇で、とくにこ
の小歌は「あまり見たさに そと隠れて走て来た」とつづく。二八一番をしばらく念頭に置いていてください。そしてその先が、閑吟集のまったく独擅場なンで
す。待っていた方は、いきなり抱きついてくる、のを、まァまずは放して息を入れさせてよ、言いたいことが沢山ある、それからさきに言わして頂戴と。とは言
え情はせまってきます。「そぞろ」とは情の波が高まってくる感じを謂っている。「何とせうぞなう」とは、もう言葉に替えようがない表現です。
この歌のあとへ、前の「つぼいなう」「寝もせいで ねむかるらう」をつづけても面白いわけですね。ところが、編者はそうしなかった。二八一番が、やはり
閨房での喃語だからではないでしょうか、顧みてまたそう思われます。二八二番とのつづきは、順序どおりに次の二八三番を読むべきです。
小 いとほしうて見れば なほまたいとほし いそいそと 掛い行く垣の緒
男が訪ねて来た。女はいそいそと錠のかわりの垣の緒を掛けに行く。人に邪魔をされたくない逢う瀬のよろこびが纏綿しています。二八一番を受けて二八二番
だけを見ていると、「そと隠れて走て来た」のは大胆な女の振舞いです。が、二八三番へ転じて顧みると、二八二番の「走て来た」のが男と読めてくる。こうい
う円転滑脱の面白さが、いわゆる連歌風なるものの真骨頂なのですね。
二八四番。
小 憎げに召さるれども いとほしいよなう
この場合の「召さる」は、ことさらお呼びよせになるとはっきり取るより、広く、「なさる」「振舞われる」の意味でよろしいはずです。わざとあたしの気も
ちを知らぬふりして憎らしそうになさる(着る、食う、飲むなど)けれど、そんな容子からもまた愛情はかえって伝わってきます。だからあたしも愛しくて。恋
しくて……と、女は絶句しています。幸せそうな歌いぶりですね。
二八五番は、対話で成っています。
小 愛しうもないもの 愛ほしいと言へどなう ああ勝事 欲しや憂や さらば和御寮 ちと愛ほしいよなう
「欲しや憂や」が、あまりはっきりしないのが焦れったいのですが。先ず女から、可愛くもないあたしをいくら可愛いと言うてくれても、「おお笑止」と男を
挑発します。歌舞伎の舞台なれした人なら、「おお笑止」という嘲弄の科白はおなじみです。これに対し男の方は、可愛いが「笑止」なら、お前は「ちと=
ちょっとだけ」可愛いよと割引して、やり返しています。
「欲しや憂や」は、たぶん男の側から女の「ああ勝事」に対抗する科白かと思われます。わざといやみをいう女をなお「欲しい」と思いつ「いやな奴め」と思
いつする気持を、ひっくるめているのではないでしょうか。
二八六番。
小 いとほしがられて あとに寝うより 憎まれ申して 御ことと寝う
「御こと」は敬語の二人称ですね。男とも女とも、どちらで読んでもよく、「あとに寝うより」は、あとで「独りで」寝るよりは、と意味を補って読めばよろ
しい。なかなか面白う口説いているわけです。「いとほし」「憎まれ」の対比は、本当はこの小歌のような対句に結びつかないはずなので、それを敢えて言い出
すところに、男女の仲にあまい甘えがすでに可能になっているわけでしょう。「いとほしがられて」や「御ことと(今)寝う」が、言いたい本音なのでしょう。
二八七番。
小 人のつらくは 我も心の変はれかし 憎むに愛ほしいは あんはちや
198
「あんはちや」は「ああ恥や」と取っておきますが、表記にも解釈にも幾説もあります。向うが冷たくなったのだし、此方も心変りがしてやりたいのに……憎
まれていながらあの人が愛しいなんて。ええい恥辱……と舌打ちしているのです。
二八九番。
小 いとほしいと言うたら 叶はうずことか 明日はまた讃岐へ下る人を
或る解に、「いとおしいと言ったら、かけた思いがかなわないことがあろうか。明日は再び讃岐へと下ってしまう方を」とあるのは、前半の取りようが逆で
しょう。「いとほしい」とさえ言うたから「叶」う願いならばいいのだが、もう叶う話ではないのです、という意味でないと通らない。これは切ない湊の別れ歌
です。
二九○番。
小 われは讃岐の鶴羽の者 阿波の若衆に肌触れて 足好や腹好や 鶴羽のことも思はぬ
「われは」と謡い出し、「讃岐(香川県)の鶴羽」「阿波(徳島県)」と地名をよみこんでいます。例はあるが閑吟集ではむしろ珍しい。船乗り同士の男色と
読んでいる人もありますが、微妙なところ。前歌を受けるなら、「阿波の若衆」をいっそ遊女と読むのが分かりいいのですが、「若衆」の用例はやはり男の場合
が多い。
それでもなお、「鶴羽のことも思はぬ」は、鶴羽の女が、鶴羽の土地で「若衆」に触れて思う思い方ではない。自身が「阿波」へ出むいていてこその「思は
ぬ」思い出さぬ、のではないでしょうか。私は「阿波の若衆」を阿波の美い女の意味に読んでおきます。
「足好や腹好や」は「肌触れて」の満足感です、何をか言わんやという露わな表現です。
二九一番。
小 うらやましや我が心 よるひる君に離れぬ
これは面白い。我が身と我が心とをわざと切離して、我が身に身を寄せつつ、我が心を羨んでいる。よるひる君に離れぬ「心」を苦しいと思うのが、万葉集の
昔から恋の感情でしたが。性の目覚めが十二分に深まっていることを思わせます。身近にいたい。それがこの時代の「世」の仲でした。そして今も。
二九二番。
′
小 文は遣りたし 詮方な 通ふ心の 物を言へかし
「詮方な」とは、どう仕様にも手だてがないという嘆息です。幸い「心」は通うている。遣れない手紙に代って、わたしの恋心よ、あの人に物を言うておいで
と願う。いつの時代の恋人たちにも通じる、やるせない、けれど巧みな歌いぶりですね。
二九三番。
小 久我のどことやらで 落といたとなう あら何ともなの 文の使ひや
「久我」は山城国(京都市)の地名です。文使いがだいじな恋文を落としてきたという。「あら何ともなの」は、まァどう仕様もない人ねえと呆れている。自
分の文より恋人の文を落としてきたと読む方が、気がもめて歌が面白くなる気もします。どっちでもいいことですが。
さすがに、えり抜きの「恋」の小歌の数々、なかなかに味わいのある作がつづきますね。
六章 暗転の不安 そして恋の歌謡
一
一つの歌謡に二つ、三つ、ないしはそれ以上もの重層する意味の寓されているのが、日本の詩歌、とりわけ閑吟集小歌の大きな特色です。表面の詞句はすぐれ
て雅びに、深層の情念はきわめて肉感的なのが特色です。そうあるべく歌詞は、歌の言葉は、ぎりぎりいっぱいに余分の表現、説明、具体化を切捨てています。
それは潔いくらいに「しやっとした」ものです。感傷的でなく、いっそ思索的ですし批評的ですが、他者を論う態度でなく、ごく体験的です。
ただ、言葉の斡旋にふしぎに冷静な落着きがあって、ものを言い過ぎないために、個別の体験が広く共感され共有されて行くつよみがあります。独白に似た歌
謡とみえて、じつは宴席の遊び歌でもある。寄合う男女が、時と場合に応じて口遊んでいます。しかも時と場合と男女の差、個人差で、歌謡の愬えるところが、
色合いも、意味合いも、情合いも自在に変わるという、内懐の広い抱擁力を短い一つ一つの小歌がもっている。それが、閑吟集の面白さ、中世小歌の面白さであ
り、近世、江戸時代に入りますと、似て非なるもの、つまりあまりにも語り尽して雅致の乏しい、型通りな歌謡に固まってしまいます。
閑吟集が謡っている内容は、謡う者にも聞く者にも、切実なことです。いやおうなく情感が即ち実感です。しかも閑吟集小歌はいかにも言ずくなに控えめな表
現をもっている。「我」をあらわにしないことで他者からの共感をたやすいものにしているのです。そうして連帯が生じ、「我々」という感銘の輪が広がりま
す。語法の破格も、特異な省略も、会話のような歌、唱和の歌、演劇的な歌も、すべてこの共感による連帯へ時代と階層の地盤を拡げたいという、隠された動機
をはらんでいます。恋する男女の「世間」が出発点で、そういう世間の連帯した「現世」が目標です。この距離は、近いようで遠く嶮しく、無常の相を帯びて夢
とも現とも知れぬ「虚」を人々に手さぐりさせます。
人は心細い孤立を感じて生きている。だから社交の場、寄合うための会所をいつも求めている。会所での共通語として小歌が謡われ、一味同心のために茶の湯
がたしなまれたと言っても、過言ではなかったでしょう。
何度確かめてもいいことは、閑吟集編者の意図は意図として、これら小歌の類は、なにより実際に謡われていた。ひとりの眼で、読まれていたというのではな
いのです。だから、どんなにポーノグラフイックな底意の凄い小歌も、言葉は清潔にはずんで、力づよく、手厚く、十分に磨きぬかれています。都会的に洗練さ
れているという以上に、伝統の文化から必要なだけの滋養をとりこみ、しかも華奢に脆弱いというところがない。いっそ図太いくらい、じつは、どの歌謡も物を
十分言い切って、すさまじいほどなのですが、しかも、きりっとした抒情味を崩していない。流石に、これは公家(都)の文化性に加えて庶民(鄙)の積極的な
時代性が、つよい挺子入れをしているからでしょう。
例えば、こんな視点も大事です。貴種流離といって、都の貴人が僻遠の地に流されて憂き艱難をつぶさに味わうという物語、説話、伝説は必ずしも新しいもの
でなかったのですが、逆に、田舎から都へ上って貴人となる話は、漸く閑吟集の時代に人々の関心にこたえはじめたのでした。お伽草子といわれる分野に、その
種のお噺は、文正草紙など、かなり初手から人気をえています。都鄙と貴賤との交流は、もとより梁塵秘抄の昔にすでに顕著で、背景には武家擡頭そして全国的
な戦乱といったことがあったのですが、閑吟集の時代になると、衰弱した都(権勢)の文化を田舎(衆庶)が肩代りしようほどの意欲を、持つ気なら持てるし、
現に持ちはじめるところへ到達していました。
多くの小歌に触れていると、そこに嘆きも悩みも淋しみも謡われています。それなのに、総じて歌謡の担い手たちが、さも「自由」に「遊」んでいることに驚
嘆を禁じがたい。なるほど人買い船は出て来ましたが、むろん悪しき状況にちがいないが、いわば人を売り買いする自由までが謡われている。この無拘束な自由
の中に孤心の自覚が沈んでいて、しかもなお、梁塵秘抄にははっきり見えていた後世・来世への不安のようなものが、かき消えたように見えない。後世安楽や往
生極楽を願望している歌謡が、たいへん少い。ほとんど見つかりもしない。
ところがこの時代はあの蓮如の生涯に重なっているのです。一向念仏の教団は多くの一揆のかげで社会革新の強い挺子の役をしていました。念仏の徒が動けば
法華の信者も動いて来ます。ある意味で過激な信仰が日本列島の土壌を変質させたくらいに浸透して行った時代でした。しかも念仏や題目を唱える声々が、閑吟
集にはない。編者を、かりに禅に近い人と見て、そのためかと考えてみても、その実・閑吟集に顕著な禅趣味もまるまる認めがたいのです。むしろ伝統の日本的
な文藝趣味と、例えば詩経に倣うような趣向こそが、編者の教養素養の質を示唆しています。
編者がいかに世捨て人であろうが、閑吟集歌謡がただ遁世者の好みなり考えなりで取捨されているとは言い切れないのが、閑吟集の二重性格です。しかもこの
二重を渾然の一層と眺めてなお、そこに念仏も禅も法華も、また広く神や仏も、もっと広く土俗民俗の信仰や伝承さえもさほどは含んでいないのが、また大きな
特色です。この時代にそれら信仰がとくべつ稀薄だったととても言えない環境下で、なおかつそうなのです。
『閑吟集』が、この複雑で流動的な時代を全面的に代表していたなどと言ってはならないでしょう。そういう一般論を言わせないのが「古代」ならぬ「中世」
本来の姿なのですから。
けれど、そういう多面多様の「中世」とあって、『閑吟集』が、だからこそすぐれて特徴的にその大きな一面を照射し代弁しえているということも、これは断
言していいことです。その一面とは、譬えれば「自由」に「遊」べた陽気横溢の中世です。この陽気と、「不自由」の中で「遊」んだ近世の陽気とを対比し、真
贋のほどをさまざまに検討し吟味するのもだいじなことで、少くもそのための適切な視座を閑吟集小歌は提供してくれます。
「自由」といい「不自由」というとも、それは、最初の章で触れたようにそれぞれに双刃の刃です。それを心得ながら「中世」を検討し「近世」を吟味するの
でなければ、正しい「現代」の立場もえられない。
私が読んでいますと、まるでポーノグラフイックな怪しからん歌謡集のように読者は思われ、いささか好意的な方でも、怪しからんのは『閑吟集』でなく、読
み手の秦恒平であると、顔をしかめて爪弾きなさるかもしれない。それも自由ではあるのです。
しかし閑吟集の時代は、まさに私の読みを成立たせるような歌謡の流行を、自由に成立たしめえた時代として評価さるべきなので、私は、評釈者の義務から
も、野暮なくらい言葉数多く克明に読み解こうと致しましたものの、さて原詞句を口遊みまた黙読して、そこに健康な陽気こそ溢れていても、陰湿で淫靡な猥褻
感の全く感じられないことだけは、認めていただけると思う。これは中世人がここへ来てかちえていた「自由」の質の、まだまだ純真で高貴だったことを証して
いるのでしょぅ。近世ともなれば、これが形骸化しつつ陰湿化します。淫靡にもなります。しかも型通りに嵌まりこんで行きます。こんな調子です。
其様ゆへにぞみだれ髪、解きし下紐かず重なりて、無理に実からいとしゆてならぬへ、ややともすれば閨の内より、手を叩いては水くれよ、夜は何時ぞ、帰
らにやならぬ、急かせ言葉の無意気の時は、神ンぞつらいは勤めのこの身、心を配りて気をとりて、限りもあらぬ玉章を、夜明けぬうちに認めて、ここや彼処と
やり繰る辛さ、恨みられては恨みもしたり、あら恐ろしの誓の詞、この行末を何とせん、可愛がらんせ流れの身
『松の葉』という、江戸時代の歌謡の集から「川たけ」を抜いてみました。『閑吟集』小歌の七つも八つもを綴れに織って組唄にした趣があります。伴奏楽器
はむろん三味線に変わっています。
むろんこうなるまでに、幾段階かがある。梁塵秘抄より閑吟集に至るまでにも、大きく眺めても平曲や謡曲があり、宴曲(早歌)がありますし、閑吟集の成立
に前後して狂言小謡がもてはやされ、追随して『宗安小歌集』や『隆達小歌集』が世に出ます。
また田歌、囃田の系譜を綜合して、古来の農耕神事歌謡を集成する幾つかの試みもあった。中でも『田植草紙』のような優秀な歌謡集があり、『閑吟集』など
いわば非農民系歌謡に括抗する、農民歌謡の伝統を保っていました。田植仕事の順に応じて、朝日、朝霧、ひるま(昼食)、酒、酒の肴、日暮れ、日没、月の輪
などを唄い囃して、早少女たちの作業を励ましかつは呪祝の祈願をこめています。『田植草紙』の、朝の歌の一つを次に挙げてみましょう。読みやすく、漢字を
あてるなどしてみます。
昨日から今日まで吹くは何風
恋風ならばしなやかに
靡けや靡かで風にもまれな
落とさじ桔梗の空の露をば
しなやかに吹く恋風が身にしむ
上がり歌、つまり千秋楽に当たるおしまいの歌も引いておきましょう。
今日の田主は田の嵩を植ゑてな
八つ並に蔵を建て徳を招いたり
作り靡けて四方に蔵を建てうや
蔵の鍵をばげに京鍛冶が能う打つ
今日の田主を寿積もり長者と呼ばれた
『隆達唱歌』の小歌は、およそ時代も天正頃(一五七三−一五九一)に、名も高三隆達の手で主に作詞作曲され、一世を風塵どころでなく、遠く江戸末期の歌
沢節や近代詩歌の創作にまで余響を誇るものとなりました。よく知られた、
君が代は 千代にやちよに さざれ石の 岩ほと成りて 苔のむすまで
は隆達唱歌の劈頭を飾る小歌で、ここにいう「君が代」は、天皇や主君をさすというより、一般に「あなた」の御寿命は、と祝う意味になる。この歌じたいは隆
達の創作でなく、先蹤のあるものです。また、
種採りて 植ゑし植ゑなば 武蔵野の せばくやあらん わが思ひぐさ
君ゆゑならば雪の野に寝よよ よしや此の身は消ゆるとも
叩く妻戸は開けもせで 先づは明けたよ ほのぼのと明けた
などの歌が含まれています。総じて閑吟集のそれより一段と歌詞の整理がすすんで、情緒も淡泊ですが、その分、品よくととのった優しみが人気を呼んだのでし
た。
狂言小謡は閑吟集にも幾つも採られていましたが、
あわわあわわ てうちてうちあわわ かぶりかぶりかぶりや めめこめめこめめこや やんまやんま棹の先に止まり やよ 雁金通れ 棹になつて通れ 往
んで乳飲まう 乳飲まう
と、乳呑み児をあやす噺し詞など、今だに京都の町なかで耳にしますし、
よその女臈見て我が妻見れば 我が妻見れば 深山の奥の愚痴猿めが 雨にしよぼ濡れて ついつくばうたにさも似た
などと、にくたらしいのもあり、閑吟集は、これらから相当慎重に、編集の意図をよくよく貫いて精選されていたことが、改めて、認識されます。
けれど、何と言っても閑吟集小歌と括抗するのは、その一部分を採ってあるというものの、宴曲と謡曲でしょう。平曲や太平記のような叙事的な語り物や説経
節を、直にとりこむことはなかったのですが、早歌(宴曲)や大和節、近江節また田楽節などの謡曲は、閑吟集編者が吟詩句などとともに、大きな取材源として
注目していたことは確かです。
出典未詳の謡曲、大和節ですが、ここで改めて七四番を挙げておきましょうか。
大 日かずふりゆく長雨の 日かずふりゆく長雨の 葦葺く廊や萱の軒 竹編める垣の内 げに世の中の憂き節を 誰に語りて慰まん 誰に語りて慰まん
また一四○番は、曲名不詳の田楽節謡曲から採っています。
田 今憂きに 思ひくらべて古への せめては秋の暮れもがな 恋しの昔や 立ちも返らぬ老の波 いただく雪の裏白髪の 長き命ぞ恨みなる 長き命ぞ恨みな
る
こう口遊むだけで、謡曲がおよそ小歌と調子のちがう詞章であるとよく分かります。それにもかかわらず、閑吟集の全体に巧くなじむように気を遣って選ばれ
ている。これも、よく分かりますね。
人は、叫びます。歌います。話します。いま一段こまかに分けますと、「宣る」「申す」「語る」「謡う」「話す」「喋る」「言う」などとも。同じくう
た≠、のにも、「謡う」「歌う」「詠う」「唱う」「謳う」などと漢字を使い分けてみますと、ふしぎに、みなそれぞれに異って感じられます。が、要するに
「愬う」のでしょうか。
そして要するに「語り物」「謡い物」などとも言い分けるわけですが、その境界がよほど微妙なことは、平曲、謡曲、浄瑠璃から浪花節に至るまで、知らず知
らずにすでに知っています。謡いかつ語るか、語りかつ謡うか、いずれ一曲のうちで交互に演じ分けている例がすくなくない。平家物語を台本とする平曲は、そ
れでも「語り物」とされ、能の台本としての謡曲は「謡い物」に属するとされています。
漫々たる海上なれば、いづちを西とは知らねども、月の入るさの山の端を、「その方やらん」と伏し拝み、しづかに念仏し給へぼ、沖の白洲に鳴く千鳥、友
まよひするかとおぼゆるに、天の戸わたる梶の声、かすかに聞こゆるえいや声、いとどあはれやまさりけん、「南無、西方極楽世界の阿弥陀如来、あかで別れし
妹背の仲、ふたたびかならず同じ蓮に迎へ給へ」とかきくどき、「南無」ととなふる声とともに、海にぞ沈み給ひける。
『平家物語』八坂本から「小宰相身投ぐる事」の、ことに美しい謡の箇処を引用してみましたが、私たちは、かりに閑吟集小歌をいかにも面白う読んでいる時
も、同じ時代に他方でこういった平曲や謡曲などの異なる藝能も広く愛好されていた事実を、頭のすみに心得ていたいと思うのです。あれもあり、これもある。
そういう多彩な多面性こそ「中世」が「古代」と容子を異にする歴史的な特色なのですから。
すでに、人買い船の小歌を読みました。人買いといえば私たちは山椒大夫という物哀しい説話を知っていますが、これを語った簓説経も、やはり閑吟集の時代
を受けつぐ勢いで、中世の末期には民衆を感涙にむせばせたものでした。
以下は・わが子安寿と厨子王とを遠退く舟に奪われて、自身は子らの乳母「うわたき」と二人、海上を別の方角へ売られて行く母御台の、悲痛な叫び声です。
「やあやあいかにうわたきよ、さて売られたよ買われたとよ、さて情なの太夫やな、恨めしの船頭殿や、たとえ売るとも、買うたりとも、一つに売りてはく
れずして、親と子のその中を、両方へ売り分けたよ悲しやな」宮崎(西国船)の方をうち眺め、「やあやあいかに姉弟よ、さて売られたとよ買われたぞ、命を庇
へ姉弟よ、またも御世には出ずまいか、姉が膚に掛けたるは地蔵菩薩でありけるが自然姉弟が身の上に、自然大事があるならば、身替りに御立ちある地蔵菩薩で
ありけるぞ、よきに信じて掛けさいよ、(以下略)」
やがて絶望した「うわたき」 は、
舟梁につつ立ちあがり、しゆへんの数珠を取り出だし、西に向つて手を合わせ、高声高に念仏を、十遍ばかり御唱へあつて、直井の浦へ身を投げて、底の藻屑
と御なりある、御台このよし御覧じてさて親とも子とも姉弟とも、頼みに頼うだうわたきは、かくなり果てさせ給ふなり、さて身はなにとなるべきと流涕焦がれ
て御泣きある。
平曲や謡曲の詞にくらべて、簓といったひなびた竹の楽器を伴奏に、格段に庶民の肉声が同じ庶民の耳に胸に、ひしひしこたえて響くふうに語っていますね。
どういう調子で語りかつ謡ったものか私にはしかと判じかねますものの、やはりこの線上に近世の浄瑠璃や近代の浪花節を想っていけなくはないでしょう。
何にせよ閑吟集の小歌とても、前後する同じ時代に孤立した歌謡でも藝能でもなくて、周辺にかくもいろいろの語り物、謡い物の存在を自覚しながら、言わず
語らずにそれらとの交流交渉をもっていたわけです。それを承知し、その上で室町小歌なる特色を主張するのでなければ、いけなかろうと思います。
では、閑吟集にまた戻って、二九四番の小歌から読み進みます。
小 お堰き候とも 堰かれ候まじや 淀川の 浅き瀬にこそ 柵もあれ
「堰く」は、水の流れをせきとめるのですから、川や瀬に縁の言葉ですが、ここはいくら二人の恋路を堰こうとしてもムダですよと主張している。恋を堰くし
がらみ(堰堤)は、あの淀川ではないが淀んで勢いのない瀬にこそ可能でしょうけれど、わたし達のように勢いづいた恋の川が、どうして堰きとめられますもの
か……と。お熱い恋人同士が意気軒昂といった歌声でしょうか。
二九五番。
小 来し方より 今の世までも 絶えせぬものは 恋といへる曲者 げに恋は曲者 くせものかな 身はさらさらさら さらさらさらさら さらに恋こそ寝られ
ね
「さらに恋こそ寝られね」が可笑しいですね。説明の要もない内容です。恋をしていると、何かの歌にも謡われていたあの笹の葉に霰ふる、さらさらさらの音
にさえ眼が冴えて、とても寝られないと、独り寝を謡うのか。そうではなくて、身は「さらさらさら」とすべて脱ぎすてて、こんな逢う瀬に、寝てられるもので
すかと共寝を謳歌しているか。
二九六番。
小 詮ない恋を 志賀の浦浪 よるよる人に寄り候
恋を「し(志)」と懸かり、浪が「よる(寄る、夜)」とも言葉が懸かって繋がります。しょせん成らぬ恋の波を立てては、夜ごと思う人のもとへ寄って行く
のですがと、「詮ない」恋を嘆く小歌ですね。男の歌とも、女の歌ともとれ、男女によっては「寄る」の意味が、通って行くとも、閨の内で迫るとも変わりま
す。
女の場合ですと、「恋」とはあるものの、つれない夫へ、妻の「よるよる」「寄り候」と読みとりますと、また感じが一段深まる気もします。
「志賀」は近江の国、「近江」は逢うて見る意味に懸けて読む習いがあり、すると、男が女のもとへ(たとえ思う遊女なりとも)通うて、逢うて、けれど「詮
ない」恋に受けとれます。それとても女に逢うて帰る男の、いささかキザな凱歌めく口吻でもあるのが、微妙なところでしょう。
二九七番。
小 あの志賀の山越えを はるばると 妬う馴れつらう 返す返す
京都の白川と、近江国とを結んで志賀峠を越えて行く古代の道があったのです。が、そんな実の山道というよりも、やはり前歌で言いましたとおり、「逢う見
=
近江」に女のもとへ山を越えて男が通う。自分の夫が出かけて行く。それを妻が嫉妬しているのです。狂言や歌舞伎の『身代座禅』を思い出します。嫉妬の歌が
閑吟集では奇妙に寡い。これはいっそ珍聞に属する小歌です。思う男(夫)とよその女の馴れあうさまを想い描いて「返す返す」憎く妬ましいのでしょう、が、
読みようでは「寝度う馴れつらう 返す返す」といやが上に濃厚に想像し、激烈に嫉妬している辛さともとれます。「はるばると」「返す返す」の繰返しが対応
して、女ごころに、ふっと物憂いあきらめももう混じっていそうな気もします。
二九八番。
小 味気なと迷ふものかな しどろもどろの細道
もとより迷う恋路の細道です。「しどろもどろ」の自覚がある。「迷」っている自覚もある。しかも引き返せないで迷いつづけている。それは「味気な」い、
気はずかしい、辛い、憂いことと承知でいて、いちまつ迷うことにさえつい満たされている物思いもあるのでしょう。恋から人生へ、趣を移し広げて読むことの
可能な、半ばもう醒めている夢ほどの、寂しみももった小歌です。
二九九番。
小 ここは何処 石原嵩の坂の下 足痛やなう 駄賃馬に乗りたやなう 殿なう
これは珍しく、まことに素直な男女の語らいそのままで、しかも「殿なう」ねえェあなたァと甘えてせがむ若妻か、恋人か、妹かの声音ばかりか道なかばでの
姿態までが、生き生き再現されています。
「石原嵩」を岐阜県は関ケ原近在の実の地名と拘泥する必要なく、むしろ、石の多いごろた道の難渋を想ってみる方が大切でしょう。宿駅に備えた駄賃馬は、
こういう際にはありがたい旅の乗物でした。「殿」は、えらい殿様のことでなくて、女から男への親しい敬称でした。
ふしぎに心なつかしく、いい感じに迫ってくる、歌らしい歌に思えます。ところが、つづく三○○番を読むと、またべつの感じが加わります。
小 よしや頼まじ 行く水の 早くも変はる人の心
もしもこれを、プンと怒ってすねている女の歌と読むと、前歌の、駄賃馬をせがんで甘えた女のそぶりに、わざと知らんふりの男の顔が可笑しく見えてきま
す。新婚旅行などという洒落たことはしない昔でしたろうが、かりにそれに近い道行を想像してみると、この深刻そうな小歌が、他愛ない痴話喧嘩の口説とも、
なり変わって読めますのが、面白い。この辺は、閑吟集の一つの効果でしょう。
但しこの小歌に限って読めば、いっそもう類型的な、定まり文句じみてもいます。
「早くも変はる」という一句に注目しましょう、むしろ遅きに失したかも知れないのですが。
「早く」は、これも閑吟集の鍵言葉の一つと読んでいい。例歌は、幾つでも拾い出せます。何かにつけて、ものごとが迅速に、束の間に、さっと、ちろりと、
来ては過ぎて行く。その、印象という以上の実感を閑吟集歌謡の内に生きた男女は、例外なく抱いていたのにお気づきでしょう。それは王朝人が夏の短夜を惜し
んだ程度の「早くも変はる」とは質のちがう迅速への嘆息でした。こと定まらぬ乱世を、いろいろに反映しての「早くも変はる」という厳しい見定めでした。そ
う変わってははかないし、頼りない。けれど、必ずしもわるく変わるばかりではないという希望のもてるのも、この状況でした。必ずしも「早くも変はる」世の
中に対し、泣いて嘆いて愚痴ってばかりはいなかった男女の生き甲斐のようなものも、それなりに閑吟集から認知していいでしょう。
さて次の三○一番は、二九九番の女の甘いせがみを受け、三○○番の女のすねた甘えをまた受けて、「しやっとした」男の、綺麗な返事と読めますのが、面白
い。
小 人は何とも岩間の水候よ 和御寮の心だに濁らずは 澄むまでよ
「何といわ(言は)ま」と懸けてある。何とお前さんが言おうとも、俺の心は岩清水のように清いものさ。お前がそうドロドロした気分でふくれてない限り、
いつも澄んだ思いでお前のことを俺は好いているさ。そんなふうに言い返している感じです。むろん同じことを、まるで別の状況にあって男が言い、また女が男
に言っても十分通じます。好きな小歌です。
三○二番。
小 恋の中川 うつかと渡るとて 袖を濡らいた あら何ともなの さても心や
「中川」という名の川は問題でなく、恋の仲という懸け言葉を利かすのが狙いです。むろん「川」は「渡る」「濡らいた」の縁語です。「袖を濡らいた」を、
ただ泣きの涙と取るばかりでなくて、恋のもっといろいろのアクシデントと取っても、よろしいでしょう。が、興趣は「あら何ともなの さても心や」にある。
「あら何ともなの」に類する表現が、前に紹介しました『閑吟集総索引』によると、五○・五一・一二七・二九三番そしてこの三○二番に重複しています。
「何ともな」いは、今なら、大丈夫、心配ない、怪我はない、無事であるなどの意味になりましょうが、閑吟集では、そういう語感じゃない。どう手の施しよう
もない、力及ばない。なさけない、まいった。そんな感じに使われています。これもすぐれて閑吟集らしい、ひいては室町時代らしい述懐なのではなかろうかと
思います。恋になやむ、恋にはしる、恋に陥る、恋に袖を濡らすだけでなくて、多くの「世事」「人情」において我からのめりこむ我が「心」のあてどなさを、
どうあっても制御しきれない、うまく舵がとれない。そういう嘆息が「あら何ともなの」でしょう。
もっとも、さきの「早くも変はる」と同様に、だから失望し落胆しものごとをなげて見捨てているわけではない。そうあわてて誤解したくはありません。
三○五番も、同じ趣です。
小 花見れば袖濡れぬ 月見れば袖濡れぬ 何の心ぞ
なぞなぞ問答です。問われて、答えますと、「その心は」とまた問われる。答えの寓する意味を重ねて訊ねられているのですが、ここは「何の心ぞ」の問いに
「恋ゆえに」と答えても、それだけでは一応の返辞の域を超えていない。何とまァこのわたしの「心」というやつは。そう呆れた「あら何ともなの」という嘆き
をこの小歌は謡っているので、袖の濡れる理由や原因を問うているのではなかろうと思います。自分の、どうしようもない「心」に、自分で呆れて吐息をついて
いる。そこを読みたい。
三○六番。
小 難波堀江の葦分けは そよやそぞろに袖の濡れ候
難波の海から堀江の葦をそよがせて、舟で溯る。それは、障りの多い難儀なことだったようです。ものの譬えにも「難波堀江の葦分け」は、容易ならぬことを
意味したのですが、ここは、その譬えをも恋しい人のもとへ心せく者の心象風景にとり入れています。「そよやそぞろ」にと葦分けの物音を重ねて、露と涙とを
「濡れ候」にふくませています。むずかしい恋路を謡って、たいした巧さです。
三○七番。
小 泣くは我 涙の主はそなたぞ
これ以上の簡潔は望めません。「主」とは、涙を流させる原因、加害者、つまり恋しい「そなた」だというのです。
二
三○八番から、残る四篇を十分に読みおさめましょう。
小 をりをりは思ふ心の見ゆらんに つれなや人の知らず顔なる
和歌の調子ですが、和歌と眺めてはつまりません。どんなに冷淡な人であっても、それだっても、たまには此方の気持が察しられそうなもの。なのに薄情も
の。いッつも知らんふりしてるよ、と、愚痴っぽい。それでそこを一つとびこえて、男女の仲のいい、言いがかりとまで読んでみるのは、どんなものでしょう
か。
三○九番。
小 昨夜の夜這ひ男 たそれもよれ 御器籠に蹴躓いて 太黒踏み裂く 太黒踏み裂く
本によって詞句に多少の差がある。二句めが「たそれよもれ」または「たそれたもれ」とあって意味不明なンですが、臼田甚五郎氏の解にしたがって「だいそ
れたもの」とまずは取っておきます。それでも、難解です。「御器籠」は食器龍なみに読みましても、「太黒」が分かりにくく、全体に「夜這ひ男」のあやしさ
にうまくつなぎにくい。臼田氏はこう現代語訳されています。
「昨夜の夜這い男は、けしからぬ奴だ。御器龍にけつまずいて、踝を踏みつぶしたよ、踝を踏みつぶしてしまったよ。」
「太黒」を「踝」とは、苦しい。しっくりしない。これは、やはり「夜這ひ」に相応の「けしからぬ」寓意が「御器籠」や「太黒」に龍めてあるとみた方が、
率直です。
いずれにしても「御器」も、それらを容れる「龍」も、ともに容れものです。妙にご大層な、鈍重な、大きな容れ物めく印象を滑稽に与えながら、「男」が夜
這いに近寄った「女」性のシンボルを喋っているフシがある。「蹴躓く」という、むろん暗闇に関係したらしい表現のかげで、これはどうも「女」のどうしよう
もない感じ・寝相などを喋っているのだと私は想像します。こんな女かしまった、という鼻のあかい末摘花を抱いてしまった光源氏よりまだ品のない悔いの感じ
が、「蹴躓いて」に出ています。となれば、「太黒」は、「だいこく」と訓んで僧侶の女房かと持ってまわるより、端的に太くて黒い短い大根脚か、とてもゾッ
としないが「夜這ひ」の「男」性自身を見てとった方が面白い。「踏み裂く」は、ありえそうになくてありえた、女の悲鳴か、男の己れ自身に対する粗相と想え
ば、滑稽感が横溢してきます。笑ってしまいます。
こうなると、「たそれもよれ」を、「だいそれたもの」と強いて分かりよく訓み直さずに、奇妙に可笑しな囃し言葉ふうにそのまま温存する方が、適切。「太
黒踏み裂く」を二度繰返すのも、囃し立てて嗤う感じです。
おそらく、そうまで読むのは読みすぎだと、反対を唱えられる方もありましょう。けれど、それは私が必要上(と言うのも、時代の隔たりもあり語感の跡切れ
もあって、現代人である私どもに理解がついつい届きかねるのですから)すこし露わな物言いをしている、それへの嫌悪感がつい顔に出るのでしょうが、小歌そ
のものはそれほど露骨でも嫌味でもない。昨今の週刊誌や女性雑誌の見出し文字の、趣味も雅致も差恥心もないあんなえげつない刺激的表現から比較すれば、ま
ことに閑吟集のエロチシズムなど、すぐれてポーノグラフィックな内容ではあれ、小憎らしいくらいに美しく、あるいは穏やかに言い表わされています。三○九
番の「太黒踏み裂く」など、例外です。
それに、もう一度閑吟集の編集方法をよく思い出していただきたい。ここへ来て、三○九番から結びの歌、大尾をなす小歌の三一一番までの三篇は、「御器
籠」「花籠」「籠」が共通の連想語でして、ことに三○九番は、つづく三一○番へ親密に意をつなぎ、逆に言えば三一○番は三○九香の「籠」の意味を、明らか
に受けとろうとしている。それが閑吟集の原則で、前提で、約束なンですから、当時の読者もここまで読み進めばそれを疑う人はいませんでした。現代の私ども
も、もう否認はできません。
私の三○九番の読み、少くも「御器籠」の放埒なほどの解釈は、三一○番によってつよく支持されている気がしますが、さて、その美しい小歌三一○番を、読
んでみましょう。
小 花籠に月を入れて 漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な
これこそは、傑作です。名作です。
表面の意味は字句の通りで、はや五百年近くを隔てても、とくべつ説明は要らない。が、この一篇の小歌に対し、「花龍に月を入れて、これを漏らすまい、曇
らすまいと、心にかけて持つのは大切なことです」といった鈍い訳をつけただけで済ませていいとは、到底思えないことです。「大事な」という詠嘆ふくみの断
定に値するには、これだけの理解では、あまりに軽い。寸が足りない。
学問に身を入れる方が、核に反対する方が、金儲けの方が「大事」だよ、といった「由」ない比較に持ちこまれた際、低次元の知解や義解にもちこまれた際
に、右の理解ではとても比較にもならなくなり、せっかく「花寵」の表現の美しさが、泥まみれの踏みつけにされてしまいます。むしろ、そんな俗な比較を峻拒
するほどつよい意味を、この小歌から断乎として読みとるのが「大事な」のです。
むろん一応の現代語訳を右のように付けておいて、訳者の臼田甚五郎氏はさらに注釈を加え、こう付言されています。「性愛を美しい比喩でうたいあげてい
る。『閑吟集』一巻の構成を連歌百韻のそれに学んだものとすると、ここは挙句の直前の句で、花の定座に当たる」と。
浅野建二氏も、「女自らを花籠に、愛しい男を月に喩へた」とされています。が、「性愛」の比喩とは言われず、「漏らさじは浮名を漏らすまい、曇らさじは
男の心を曇らすまいの意。男女反対の立場からも解さる」としておられます。
志田延義氏もまた、「花籠は女自身、月は愛する男の隠喩。月(男のこと)を漏らさじ、月(男の心)を曇らさじ」と解釈され、「漏らさじ」「曇らさじ」と
韻を躇む点を指摘されています。
代表的な研究者三人の理解が、このようにして小歌の表面の表現を超えて、「比喩」「隠喩」に男女の仲を捉えている事実は動きませんし、私も、当然のこと
と思います。「喩」の深みを、どこまで探るかの問題だけが残るわけです。
臼田、志田両氏の物言いは「性愛」「女自身」「男」などと微妙です。私の方で率直な感想を言うと、どうもお二方とも歯切れがわるい。いっそ浅野氏の、浮
名を「漏らさじ」心を「曇らさじ」という解釈の方が、「挙句」になる三一一番の歌意を誘って適切かつ明快とさえ言える位です。が、もはや私にも先入主があ
りまして、この浅野氏の解では、物足りません。もっと徹して読みたい。
この歌は、けっして男が、または女が、一方的な感じで謡っているのではありません。男と女が「世」のただ仲に在って、むしろ力を協せて謳いあげている歌
です。
「もつ」は、保つ、維持する、持続する、持ちこたえるという含蓄です。それを男と女とが双方から協力してする、のが、「大事」なのです。むろん「漏らさ
じ」「曇らさじ」も、それぞれに、男が願い女が思うことで、「心」が曇るなどと観念的なことではない。まさに目近に眼と眼、唇と唇、眉と眉とを近づけ合う
ている男と女との顔色を互いに「曇らさじ」と努めるのでなければならない。胸と胸とを重ね合わせた「世」の仲にあって、顔色が曇るとは、或る不如意、不満
足、不十分な成行に気が萎え気が滅入るということでしょう。ものごとは、具体的に手強く把握するのが、いい。
「花龍」は、女の性器の譬えです。「月」は男の性器の譬えです。「入れて」は二人が結ばれた状態です。「漏らさじ」とは満たされた状態の持続と高潮とを
望む、双方の願望です。
これでこの小歌を介して美しくも美しく合唱し唱和している男女の愛、「世」の平和は、完全無缺の「大事」を保ちえているのです。これこそが、何ものにも
替えがたい価値だ「大事」だと言い切れる時、なまなかの他のものを持ち出されても愚劣な比較が峻拒でき、絶対境が主張できるでしょう。そういう思想、そう
いう主張、そういう自覚によってのみ、辛うじて批評できる外なる世界、よそなる世界、夢とも現とも頼りのない世界がこの二人の眼に見えてくる。その上での
日々の覚悟は、人それぞれに持ち、固むべきことなのです。
つまりこの小歌は、「互いに」「お互いに」という言葉を「漏らさじ」「曇らさじ」「もつ」「大事な」という言葉の前へ繰返し補って読めば読むほど、すば
らしさの増す名歌です。
「性愛」にせよ要は「愛」にせよ、一人では、男一人だけ、女一人だけでは、どうにもならぬということを『閑吟集』は謡いつづけてきたのです。この三一○
番は、その意味で大尾、結論です。連歌連句でいう真の「挙句」にもふさわしいのです。
つづく三一一番、閑吟集の最後の歌はこうです。
小 籠がな龍がな 浮名もらさぬ籠がななう
「龍がな」とは、籠が欲しい、見つけたいという願望の表現です。「籠がななう」は、その切実な強調です。「浮名」をもらすことのない「籠」、男と女とで
双方から持ち合うて世間の思惑に壊れも潰れもしない「籠」、そんな美しい巣籠もりの巣に似た「籠」、母の胎内にも似て柔らかに奥深く優しい「女」そのもの
「愛」そのもののような「籠」が、欲しいのです。
三○九番の「御器籠」では、道化て滑稽視されていたものが、一転して三一○番の「花籠」の美しさへやすらかに謳いあげられていました。三一一番の「籠」
が、前歌の「花籠」の意をも立派に体していること、そこに祈願の籠もること、むろんです。
水ももらさぬ「仲」と謂いましょう。「籠」は、よほど工夫がないと水を漏らすのが本来です。水も漏らさぬ「籠」とは、語の本来の意味においてもともと不
合理な不可能に近いもので、それを敢えて可能にしようとするところに、不可思議の愛が生れます。
三一○番の歌を、私は、ただ恋愛の歌という以上に、結婚生活に入った夫婦の愛の歌とも十分読めると思っています。
結婚とは、何でしょう。結婚式に招かれてスピーチを請われたりもしますので、それを考えることが、よくあります。
結婚するという人に、「よかったね」とか「いいわねえ」と言うのは、文字どおりごあいさつなのであって、そう言ってあげられるのはやはり心嬉しいもので
すが、もうすこし正直に言うならば、「これからが大変だね」とか「しんどいでしょうが頑張ってね」と言ってあげるのが率直でしょう。「結婚」とはそういう
もので、男と女との取り組みとしては、最も倫理的な重みを内に包んだむずかしい人間関係だと思うのです。社会学、経済学、心理学、生理学、教育学、家政学
などもろもろの中身をぎっしり抱きこみながら、夫と妻との根本を形づくる価値はかなり本質的に倫理学の領分に属しているというのが、私の、考え方です。し
かもいわゆる夫婦生活、性のある生活そのものが倫理として、つまり人間関係の根底として受取らるべきだと思うのです。性をただ心理や生理の問題で受取って
はおれないと思うのです。
夫婦生活が即ち性生活であるといった早合点は困りものです。性生活ないし性行為は、これを量的に勘定すれば、夫婦生活の全体の適宜な一部分を占めるだけ
のものです。が、また扇の要に似た位置も占めている。そこが夫と妻とを事実結ぶ結び目なのですから。その結び目を「もつが大事な」という認識は、技巧的、
遊戯的なものでなくて真剣であればあるほど、倫理的な判断であり努力でなくては済まぬ要、要点です。
さきの「籠」との聯想を喚び起こすならば、結婚とは、私は、満々と清水を張った大きな重い器のようなものと想っています。一組の男と女とが、力を協せて
その器をよいしょと持ち上げるのが、結婚式なのだと思っています。
器に張られた水は、ただの水でない。それ自体が夫婦であるという事実の、さまざまな意義や価値や責任の象徴です。彼らは終生水を張ったその器を夫婦の証
しとして「もち」支え、運び続けねばならない。よほど二人が「大事」に心を揃え力を協さぬかぎり、長い人生の歩みの中で、水は簡単に減りこぼれて、ついに
は喪われてしまうでしょう。並大抵の我慢や辛抱や努力では、充実した金婚式など迎えられないのが「結婚」という約束ごとの運命なンでして、世間には、とう
の昔に水は涸れ、器さえなげうたれたような脱けがら夫婦が多いのも、けだし当然の厳しさと言えるくらいのものなのです。
だから、幾山河をなみなみと器に水を張ったまま、二人して持ち歩いて行かねばならない新婚の夫婦には、やはり、「これからが大変だね」という励ましとと
もに、「でも、おめでとう」と祝福してあげるのでないと、均衡のとれていない気が、私にはするのですね。痛烈で頑固で融通のきかない顔をして結婚生活とい
うのはやってくる。それに意地悪くさまざまに試みられて、それでも互いにくじけないのが、佳い夫婦でしょう。器の水は一人の力ではこぼれてしまう。こぼさ
ない為には辛抱がいりますが、また、こぼれて減らない器の水を、二人で日々確かめ合えている夫婦に、大きな不安はないのです。
花籠に月を入れて 漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な
私の謂う意味を、もっと美しくもっと徹した親密さで言い切り、謡いあげているのがこの閑吟集の三一○番でしょう。
恋愛と結婚とを論じる場ではない。私の任でもない。要は、一組の男女の「愛」について問い、それも心だけで体はぬきといった愛でない心身充実の愛につい
て問う限り、閑吟集は歌謡三百十一篇のすべてを挙げて、「愛」の問いに答えていたと言っていいでしょう。
三一一番の「籠がななう」という願念は、比喩的に言えば、その同じ一つの籠の内へ、愛する男と女とがすっぽりと入って棲みたいという願望にほかなりませ
ん。そこに、二人の家庭、愛の巣、安住世界が広義に仮託されているのでしょう。「籠」の内で寄り添うかぎりにおいて、互いの運命を共有しようという不可思
議の一心同体が願われているのです。
さて十六世紀の果て、西暦一六○○年には、天下分けめの関ケ原の合戦がありました。閑吟集は、同じその十六世紀がはじまって十八年めに成っていました
が、私たちが今日普通に読むことのできる『閑吟集』は、その一五一八年からちょうど十年後の大永八年(一五二八)四月に、「本の如く書写し了」えた写本に
拠っています。
この十年間に、史実としていったい何事が起こっていたか。
閑吟集が成った翌る年の永正十六年(一五一九)には、北条早雲が八十八歳で死に、それより二年後の永五十八年には、後柏原天皇が、じつに践詐後二十二年
にしてやっと即位式を挙げています。この年末から将軍は義稙から義晴に代るのですが、よほど歴史好きの人でも、即座に義晴が足利将軍の何代めに当たるのか
言えないほど、将軍職の権威はとうに地に堕ちています。そして相も変わらぬ守護大名のなれの果てどもが、応仁文明の大乱の下痢後遺症のような小競合を、執
拗くあちこちで繰返す中から、早雲につぐ戦国大名がぽつりぽつり擡頭してきます。武田・尼子・大内・浦上、朝倉などの名が史上に動きはじめます。その間に
土一揆や徳政一揆が各地で頻発し、やがて一向宗徒が八面六臂に荒れはじめる兆候も見えて来ています。あの『七十一番職人尽歌合』が成るのは、さきの『閑吟
集』写本が成ったその翌る享禄二年(一五二九)のことでした。
いわばこの十年、歴史的にはごった煮が一段と煮つまっただけの感じで、目立った政治的、文化的事件もなかったのです。が、たとえば千利休が、大永二年
(一五二二)には生れています。すこし遅れて、天文三年(一五三四)に織田信長、五年に豊臣秀吉、十一年(一五四二)には徳川家康が生れます。但しこの三
武将の時代になると、もう同じ小歌でも『閑吟集』のではなくて、隆達小歌や宗安小歌などが流行します。あの桶狭間出陣に際して織田信長が小気味よう「人生
五十年」と舞うて謡ったといわれるのは、幸若舞でした。
それにつけて一言添えておきたいのは、少くも閑吟集の小歌には、舞い踊るという藝は付随していなかったろうということです。伴奏は主に尺八。しかし扇拍
子や時に笛や小鼓も用いたでしょうが、起って舞うということがなかった点では、田楽や猿楽などの歌舞の藝とは別の、やはり梁塵秘抄系統の謡う藝なのでし
た。
元へもどつて、三一○番の美しい小歌をもう一度読んでください。そして口遊んでみてください。
花籠に月を入れて 漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な
「お互いに」という言葉を、要所に補って読もうと私は先に提案しました。それによってこれは真に愛し合う二人の、二人して保ちうる至幸至福の絶境を謡っ
ていることになると言いました。なにも結婚した二人とは限らない。真に許し合った男と女との「世の仲」を謡っているのです。そこに最少限度の「世」を認
め、そこに最大限の世界をさえ見入れようとする、それが中世寄合の、社会の、真の希求であり願念ではなかったでしょうか。その最も倫理化され美化された別
乾坤として、茶の湯の茶室という「会所」が創造されましたが、現実にも、さまざまに広くも狭くも多くの会所が造られ、「寄合」が実現し、和敬の人間的構築
が意図されて行きました。が、根本に、この閑吟集小歌の三一○番ふうなひたむきな男女愛、恋愛、夫婦愛があって、封建的な主従愛にひそかに括抗し反撥する
ものがあった。その力でこそ「中世」庶民は、武家封建体制の成立を延引させえたのではなかったでしょうか。
が、挙句の果ては、信長の、秀吉の、家康の武力がそれを抑えこみました。天下布武。そのかげで、
籠がな籠がな 浮名もらさぬ籠がななう
という願いは、庶民の政治的社会的自由とともに押さえこまれて、安土桃山時代という、一見陽気と見える黄金の暗転期≠ノ捲きこまれ、惨めに去勢されてし
まったのでした。利休の死は、その意味で、私には印象的です。切実です。一つの時代が、一つの時代に屈した象徴のように見えるのです。
けれど、本当の闘いはもっと長くつづきます。利休が死に秀吉が生きのびたことが、永久に秀吉の勝利を意味してはいないことを、私たちの現代がどうかして
証明したいものだと思うのです。
『閑吟集』は、明らかに秀吉ならぬ利休を支持しています。利休の茶が、秀吉の政治とはちがって、どこかで「漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な」
といった人間的愛を願っていたからです。隠逸の風雅といったただ美の観点からのみ茶を眺めるのは、中世に胚胎した会所の寄合藝能である茶の湯の素質を見錯
まることになる。
そうでした。閑吟集編者に連歌師宗長が擬されている、それ自体はたぶん証明の不可能なことではありますけれど、この宗長と利休とは少からぬ縁で結ばれて
いたのです。大徳寺三門は、その初層部分を宗長が秘蔵の源氏物語を売却した金で寄進し、上層の金毛閣を利休が自力で寄進してやっと完成したものです。しか
も、この三門寄進が一つのわざわいとなって、挙句、利休は秀吉のために切腹死を強いられたのでした。
「挙句」とは、今もよく使う言葉ですが、先に臼田甚五郎氏の三一○番の解説文を引用の際にも触れられていたように、本来、これは長連歌の最終句を指して
いるのでした。百韻連歌の作法、約束として「挙句」の前に「花」を詠うのが定めで、それを「花の定座」と呼んでいた。この種の約束は、もっともっと詳細に
定められていて、『閑吟集』でも及ぶ限りはそれを踏まえているはずなのですが、そんな煩雑なことはさて措いても、三一○番の「花籠に月を入れて」というイ
メージは、連歌的手法の約束にそむかぬ、周到な用意ではあったのです。
そして「挙句」に、「籠がななう」という切なる、願い──。
私は、私自身は、子どもの頃から或る動機もあって、この人の世の人をさして、三種類に分類する思い慣いをもってきました。
一等疎遠なところに「世間」を眺めます。その存在と尊厳とは承知も納得もしているが、今直ちに日々の関わりのない、いわば世界中の人々をさします。
次に、その「世間」から、日々偶然に、余儀なく、また必要あって接して行く、知り合って行く関わり合って行く「他人」という層が必然的に生じます。血
族、親族、家族すら、私は、とりあえず「他人」に部類します。師弟、同僚、友人、近隣等々のすべてが、まずは「他人」に属します。「自分」じゃないのです
から。
そして、その「他人」の中から私は「身内」を探し求めます。
人は、父母来生以前から本来「孤独」な存在です。世間という名の大海原に、我一人が立てるだけの島に佇立している存在として、寄りそうことの不可能な他
人の島へ、「愛」を求めて呼びつづけている。それが「人」に定められた真の生きの位相です。ところが、この不可能への渇望が、或る瞬間に可能となり、しよ
せん不可能なはずの我一人しか立てぬ島に、愛する人(人々)と一緒に立ちえていると信じられる時と場合とが生じます。その人(人々)が「身内」です。それ
は真に価値ある錯覚、つまり夢なのですが、本来孤独の人間が、どうしてこの夢なくて孤独地獄に堪えられるものですか。
だから人は「愛」の名で真の「身内」を探し求める。偶然の親子より、必然の夫婦や恋人の方を私は大事な人間関係と考える、これが強い理由です。
お互いに、不可能を可能にしあえる仲、運命を共有しあえる仲が「身内」同士です。自分一人でしか立てない場所に、いつか一緒に立ってしまっている仲が
「身内」です。断絶した親子、協力のない形ばかりの夫婦、偶然の血縁にもたれかかっただけの、きょうだい、親族といったものは、「世間」でこそなけれ、私
の定義では「他人」でしかなくなります。血縁や法の保証が即ち「身内」を無条件に約束するなどという安易なことは、まったく私は考えてもこなかった。真に
「身内」でありつづけるには、どんな間柄であれ、「身内」の価値を支え合うふだんの努力が厳しく求められるからです。
その意味で、『閑吟集』の挙句が示唆している「籠」とは、また「花籠」とは、私には中世とも現代とも限らない、人間の未来永劫に亘る、「身内」同士の本
来の場所、家、世の仲を意味してはいないかと、思われてならないのです。
現存の『閑吟集』には、「挙句」のあと、こんな漢文の奥書が付してあります。訓み下してみますと、
其の斟酌多く候ふと雖も、去り難く仰せられ候ふ間、悪筆を指し置き、本の如く書写し了んぬ。御一見の已後は、入火有るべく候ふなり。比興云々。
大永八年戊子、卯月仲旬、之を書す。
「比興」は「非興」の当て字で、興もなくつまらない、という意味になります。が、たとえ私の読みや解説が「非興」であっても、『閑吟集』と、それを産み
かつ生かした「中世」とは、尽きぬ興味、尽きぬ意義を、なおはらみつづけていると私は信じます。それがまた新たな価値を新たにどう産みどう生かすか。それ
はもはや読者や筆者の器量次第なのであろうと、私は、安んじてこの私の本の挙句に、二五五番の小歌を、もう一度挙げて、お別れを告げようと思います。
人の心は知られずや 真実 心は知られずや
──完──
選抄「閑吟集」百九十三首
歌詞の表記は、各種のテキストを参照しながら、親しみ易く読み易いようにと、
適意漢字をかなに、かなを漢字に、またかなづかいを最小限改めるなどの配慮
もしました。むろん歌は厳密に原歌のままで、変更を加えていません。
一 花の錦の下紐は 解けてなかなかよしなや 柳の絲の乱れ心 いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影
二 いくたびも摘め 生田の若菜 君も千代を積むべし
三 菜を摘まば 沢に根芹や 峰に虎杖 鹿の立ち隠れ
四 木の芽春雨ふるとても 木の芽春雨ふるとても なほ消えがたきこの野辺の 雪の下なる若菜をば いま幾日ありて摘ままし 春立つと いふ
ばかりにやみ吉野の 山も霞みて白雪の 消えし跡 こそ路となれ 消えし跡こそ路となれ
八 誰が袖ふれし梅が香ぞ 春に問はばや 物いふ月に逢ひたやなう
九 只吟可臥梅花月 成仏生天惣是虚
一○ 梅花は雨に 柳絮は風に 世はただ嘘に揉まるる
一一 老をな隔てそ垣穂の梅 さてこそ花のなさけ知れ 花に三春の約あり 人に一夜を馴れそめて 後いかならんうちつけに 心そらになら柴の 馴
れは増さらで 恋の増さらん悔しさよ
一二 それを誰が問へぼなう よしなの問はず語りや
一三 年々に人こそ舊りてなき世なれ 色も香もかはらぬ宿の花ざかり かはらぬ宿の花ざかり たれ見はやさんとばかりに また廻りきて小車の
我とうき世に有明の つきぬや恨みなるらむよし それとても春の夜の 夢の中なる夢なれや 夢の中なる夢なれや
一四 吉野川の花筏 浮かれてこがれ候よの 浮かれてこがれ候よの
一五 葛城山に咲く花候よ あれをよと よそに想うた念ばかり
一六 人の姿は花靫やさし 差して負うたりや うその皮靫
一七 人は嘘にて暮らす世に 何ぞよ燕子が実相を談じ顔なる
二一 我らも持ちたる尺八を 袖の下より取り出だし しばしは吹いて松の風 花をや夢とさそふらん いつまでか此の尺八 吹いて心を慰めむ
二五 散らであれかし桜花 散れかし口と花心
三○ 花ゆゑゆゑに あらはれたよなう あらうの花や うの花や
三一 お茶の水が遅くなり候 まづ放さいなう また来うかと問はれたよなう なんぼこじれたい 新発意心ぢや
三二 新茶の若立ち 摘みつ摘まれつ 引いつ振られつ それこそ若い時の花かよなう
三三 新茶の茶壷よなう 入れての後は こちや知らぬ こちや知らぬ
三四 離れ離れの 契りの末は徒夢の 契りの末は徒夢の 面影ばかり添ひ寝して あたり淋しき床の上 涙の波は音もせず 袖に流るる川水の 逢
瀬はいづくなるらん 逢瀬はいづくなるらん
三六 さて何とせうぞ 一目見し面影が 身を離れぬ
三七 いたづらものや 面影は 身に添ひながら 独り寝
四二 柳の蔭にお待ちあれ 人問はばなう 楊子木伐るとおしあれ
四四 見ずはただ宜からう 見たりやこそ物を思へただ
四五 な見さいそ な見さいそ 人の推する な見さいそ
四六 思ふ方へこそ 目も行き 顔も振らるれ
四九 世間はちろりに過ぐる ちろりちろり
五○ 何ともなやなう 何ともなやなう 浮世は風波の一葉よ
五一 何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十古来稀なり
五二 ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あぢきなの世や
五三 夢幻や 南無三宝
五四 くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
五五 何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
五六 しひてや手折らまし 折らでやかざさましやな 弥生の永き春日も なほ飽かなくに暮らしつ
五七 卯の花重ねな な召さいそよ 月にかがやき顕はるる
五九 わが恋は 水に燃えたつほたるほたる もの言はで笑止の蛍
六三 思ひ回せば小車の 思ひ回せば小車の 僅かなりける浮世哉
六五 やれ 面白や えん 京には車 やれ 淀に舟 えん 桂の里の鵜飼舟よ
六六 忍び車のやすらひに それかと夕顔の花をしるべに
六七 ならぬ徒花 真白に見えて 憂き中垣の 夕顔や
七二 恋風が 来ては袂にかい縺れてなう 袖の重さよ 恋風はおもひ物かな
七三 仰る闇の夜 仰る仰る闇の夜 つきもないことを
七四 日かずふりゆく長雨の 日かずふりゆく長雨の 葦葺く廊や萱の軒 竹編める垣の内 げに世の中の憂き節を 誰に語りて慰まん 誰に語りて
慰まん
七七 我御寮思へば あのの津より来たものを 俺振り事は こりや何事
七八 なにを仰るぞせはせはと 上の空とよなう 此方も覚悟申した
八○ 思へかし いかに思はれむ 思はぬをだにも 思ふ世に
八一 思ひの種かや 人の情
八三 思ひ切りかねて 欲しや欲しやと 月見て廊下に立たれた また成られた
八五 思ひ出すとは 忘るるか 思ひ出さずや 忘れねば
八六 思ひ出さぬ間なし 忘れてまどろむ夜もなし
八七 思へど思はぬふりをして しやつとしておりやるこそ 底は深けれ
八八 思へど思はぬふりをしてなう 思ひ痩せに痩せ候
九○ 扇のかげで目をとろめかす 主ある俺を何とかしようか しようかしようかしよう
九一 誰そよお軽忽 主あるを を締むるは 喰ひつくは よしや戯るるとも 十七八の習ひよ 十七八の習ひよ そと喰ひついて給うれなう 歯形
のあれば露顕はるる
九二 浮からかいたよ よしなの人の心や
九三 人の心の秋の初風 告げ顔の 軒端の荻も怨めし
九五 夢の戯れいたづらに 松風に知らせじ 槿は日に萎れ 野艸の露は風に消え かかるはかなき夢の世を 現と住むぞ迷ひなる
九六 ただ人は情あれ 槿の花の上なる露の世に
九七 秋の夕の蟲の声々 風うちふいたやらで さびしやなう
一○一 二人寝るとも憂かるべし 月斜窓に入る暁寺の鐘
一○五 身は浮草の 根も定まらぬ人を待つ 正体なやなう 寝うやれ 月の傾く
一○六 雨にさへ訪はれし仲の 月にさへなう 月によなう
一○八 薫き物の木枯の 洩り出づる小簾の扉は 月さへ匂ふ夕暮
一一九 ただ人には 馴れまじものぢや 馴れての後に 離るるるるるるるるが大事ぢやるもの
一二一 塩屋の煙々よ 立つ姿までしほがまし
一二二 潮にまようた 磯の細道
一二三 何となるみの果てやらん しほに寄り候片し貝
一二八 歌へや歌へや泡沫の あはれ昔の恋しさを 今も遊女の舟遊び 世を渡るひとふしを 歌ひていざや遊ばん
一三○ 身は近江舟かや 死なでこがるる
一三一 人買ひ舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ 船頭殿
一三二 身は鳴門船かや 逢はでこがるる
一三六 月は傾く泊り舟 鐘は聞こえて里近し 枕を並べて お取梶や面梶にさし交ぜて 袖を夜露に濡れてさす
一三七 また湊へ舟が入るやらう 空艪の音が ころりからりと
一三九 来ぬも可なり 夢のあひだの露の身の 逢ふとも宵の稲妻
一四○ 今憂きに 思ひくらべて古への せめては秋の暮れもがな 恋しの昔や 立ちも返らぬ老の波 いただく雪の真白髪の 長き命ぞ恨みなる 長き
命ぞ恨みなる
一四三 葛の葉葛の葉 憂き人は葛の葉の 怨みながら恋しや
一四五 添うてもこそ迷へ 添うてもこそ迷へ 誰もなう 誰になりとも添うてみよ
一四七 人げも知らぬ 荒野の牧の 駒だに 捕れば 終に馴るるもの
一四八 我をなかなか放せ 山雀とても 和御料の胡桃でもなし
一四九 身は破れ笠よなう 着もせで 掛けて置かるる
一五五 身は錆太刀 さりとも一度 とげぞしようずらう
一五六 奥山の朴の木よなう 一度は鞘に成しまらしよ 一度は鞘に成しまらしよ
一五七 ふてて一度言うて見う 嫌ならば 我もただそれを限りに
一六○ 犬飼星は 何時候ぞ ああ惜しや惜しや 惜しの夜やなう
一六二 秋のしぐれの または降り降り 干すに干されぬ 恋の袂
一六四 名残惜しさに 出でて見れば 山中に 笠の尖りばかりが ほのかに見え候
一六五 一夜馴れたが 名残惜しさに 出でて見たれば 奥中に 舟の早さよ 霧の深さよ
一六六 月は山田の上にあり 船は明石の沖を漕ぐ 冴えよ月 霧には夜舟の迷ふに
一六七 後影を見んとすれば 霧がなう 朝霧が
一六八 秋はや末に奈良坂や 児手柏の紅葉して 草末枯るる春日野に 妻恋ひかぬる鹿の音も 秋の名残とおぼえたり 秋の名残とおぼえたり
一六九 小夜小夜 小夜更けがたの夜 鹿の一声
一七○ めぐる外山に鳴く鹿は 逢うた別れか 逢はぬ怨みか
一七一 逢ふ夜は人の手枕 来ぬ夜はおのが袖枕 枕あまりに床広し 寄れ枕 こち寄れ枕よ 枕さへに疎むか
一七二 一夜窓前芭蕉の枕 涙や雨と降るらん
一七三 世事邯鄲枕 人情灔澦灘
一七四 清容不落邯鄲枕 残夢疎声半夜鐘
一七五 人を松蟲 枕にすだけど 淋しさのまさる 秋の夜すがら
一七六 山田作れば庵寝する いつかこの田を刈り入れて 思ふ人と寝うずらう 寝にくの枕や 寝にくの庵の枕や
一七七 科もない尺八を 枕にかたりと投げ当てても 淋しや独り寝
一七八 一夜来ねばとて 科もなき枕を 縦な抛げに 横な抛げに なよな枕 なよ枕
一八○ 来る来る来るとは 枕こそ知れ なう枕 物言はうには 勝事の枕
一八二 衣々の 砧の昔が 枕にほろほろほろほろとか それを慕ふは 涙よなう 涙よなう
一八三 君いかなれば旅枕 夜寒むの衣うつつとも 夢ともせめてなど 思ひ知らずや恨めし
一八四 ここは忍ぶの草枕 名残の夢な覚ましそ 都の方を思ふに
一八五 千里も遠からず 逢はねば咫尺も千里よなう
一八六 君を千里に置いて 今日も酒を飲みて ひとり心を慰めん
一八八 上さに人の打ち被く 練貫酒の仕業かや あちよろり こちよろよろよろ 腰の立たぬは あの人の故よなう
一八九 きづかさやよせさにしざひもお
一九三 憂きも一時 嬉しきも 思ひ醒ませば夢候よ
一九六 せめて時雨れよかし ひとり板屋の淋しきに
一九八 独り寝しもの 憂やな二人寝 寝初めて憂やな 独り寝
一九九 人の情のありし時 など独り寝を習はざるらん
二○○ 二人寝しもの 独りも独りも寝られけるぞや 身は習はしよなう 身は習はしのもの哉
二○一 独り寝はするとも 嘘な人は嫌よ 心は尽くいて詮なやなう 世の中の嘘が去ねかし 嘘が
二○二 ただ置いて霜に打たせよ 夜更けて来たがにくい程に
二○三 とてもおりやらば 宵よりもおりやらで 鳥が鳴く 添はば幾ほど味気なや
二○四 霜の白菊 移ろひやすやなう しや 頼むまじのひと花心や
二○八 霜降る空の あかつき月になう さて 和御料は帰らうかなう さて
二○九 鶏声茅店の月 人迹板橋の霜
二一○ 帰るを知らるるは 人迹板橋の霜のゆへぞ
二一一 橋へまはれば人が知る 湊の川のしほが引けがな
二一二 橋の下なる目目雑魚だにも 独りは寝じと上り下る
二一五 鎌倉へ下る道に 竹剥げの丸橋を渡いた 木が候はぬか板が候はぬか 竹剥げの丸橋を渡いた 木も候へど板も侯へど にくい若衆を落ち入らせ
うとて 竹剥げの竹剥げの 丸橋を渡いた
二一七 靨の中へ身を投げばやと 思へど底のじやがこわひ
二一八 けさの嵐は 嵐では無げに候よの 大井川の河の瀬の 音ぢやげに候よなう
二一九 水が凍るやらん 湊河が細り候よなう 我らも独り寝
に 身が細り候よなう
二二○ 春過ぎ夏闌けてまた 秋暮れ冬の来たるをも 草木のみただ知らするや あら恋しの昔や 思 ひ出はなににつけても
二二三 須磨や明石の小夜千鳥 恨み恨みて鳴くばかり 身がな身がな 一つ浮世に 一つ深山に
二二七 音もせいでお寝れお寝れ 烏は月に鳴き候ぞ
二二八 名残の袖を振り切り さて往なうずよなう 吹上の真砂の数 さらばなう
二二九 袖に名残を鴛鴦の 連れて立たばや もろともに
二三一 世間は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと ふるよなう
二三三 申したやなう 申したやなう 身が身であらうには 申したやなう
二三四 身の程の なきも慕ふも よしなやな あはれ ひと村雨の はらはらと降れかし
二三五 あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の早さよ
二三六 芳野川の よしやとは思へど 胸に騒がるる 田子の浦波の 立ち居に思ひ候もの
二三七 田子の浦浪 浦の浪 立たぬ日はあれど 日はあれど
二三八 石の下の蛤 施我今世楽せいと鳴く
二三九 百年不易満 寸々彎強弓
二四○ 和御寮に心筑紫弓 引くに強の心や
二四一 取り入れて置かうやれ 白木の弓を 夜露の置かぬ前に 取り入れうぞなう
二四二 さまれ結へたり 松山の白塩 言語神変だよ 弓張り形に結へたりよ あら神変だ
二四四 嫌申すやは ただただただ打て 柴垣に押し寄せて その夜は夜もすがら 現なや
二四五 薄の契りや 縹の帯の ただ片結び
二四六 神は偽りましまさじ 人やもしも空色の 縹に染めし常陸帯の 契りかけたりや 構へて守り給へや ただ頼め かけまくもかけまくも かた
じけなしや此の神の 恵みも鹿島野の 草葉に置ける露の間も 惜しめただ恋の身の 命のありてこそ 同じ世を頼むしるしなれ
二四八 水に降る雪 白うは言はじ 消え消ゆるとも
二五二 しやつとしたこそ 人は好けれ
二五五 人の心は知られずや 真実 心は知られずや
二五六 人の心と堅田の網とは 夜こそ引きよけれ 夜こそよけれ 昼は人目の繁ければ
二五七 陸奥の 染色の宿の 千代鶴子が妹 見目もよいが 形もよいが 人だに振らざ なほよかるらう
二六一 忍ばば目で締めよ 言葉なかけそ 徒名の立つに
二六三 忍ばじ今は 名は洩るるとも
二六四 忍ぶこと もし露はれて 人知らば 此方は数ならぬ躯 其方の名こそ惜しけれ
二六七 おりやれおりやれおりやれ おりやり初めて おりやらねば 俺が名が立つ 只おりやれ
二六八 よし名の立たばたて 身は限りあり いつまでぞ
二六九 お側に寝たとて 皆人の讃談ぢや 名は立つて 詮なやなう
二七○ よそ契らぬ 契らぬさへに名の立つ
二七二 只将一縷懸肩髪 引起塗帰宜刀盤
二七三 むらあやでこもひよこたま
二七四 今結た髪が はらりと解けた いかさま心も誰そに解けた
二七六 待つと吹けども 怨みつつ吹けども 篇ないものは 尺八ぢや
二七七 待てども夕の重なるは 変はる初めか おぼつかな
二七八 待てとて来ぬ夜は 再び肝も消し候 更け行く鐘の声 添はぬ別れを思ふ烏の音
二八○ この歌の如くに 人がましくも言ひ立つる 人はなかなか我が為は 愛宕の山伏よ 知らぬことな宣ひそ 何事も 言はじや聞かじ白雪の 言
はじや聞かじ白雪の 道行ぶりの薄氷 白妙の袖なれや 樒が原に降る雪の 花をいざや摘まうよ 末摘花はこれかや 春もまた来なば都には
野辺の若菜摘むべしや 野辺の若菜摘むべしや
二八一 つぼいなう 青裳 つぼいなう つぼや 寝もせいで ねむかるらう
二八二 あまり見たさに そと隠れて走て来た まづ放さいなう 放してものを言はさいなう そぞろいとほしうて 何とせうぞなう
二八三 いとほしうて見れば なほまたいとほし いそいそと 掛い行く垣の緒
二八四 憎げに召さるれども いとほしいよなう
二八五 愛しうもないもの 愛ほしいと言へどなう ああ勝事 欲しや憂や さらば和御寮 ちと愛ほしいよなう
二八六 いとほしがられて あとに寝うより 憎まれ申して 御ことと寝う
二八七 人のつらくは 我も心の変はれかし 憎むに愛ほしいは あんはちや
二八九 いとほしいと言うたら 叶はうずことか 明日はまた讃岐へ下る人を
二九○ われは讃岐の鶴羽の者 阿波の若衆に肌触れて 足好や腹好や 鶴羽のことも思はぬ
二九一 うらやましや我が心 よるひる君に離れぬ
二九二 文は遣りたし 詮方な 通ふ心の 物を言へかし
二九三 久我のどことやらで 落といたとなう あら何ともなの 文の使ひや
二九四 お堰き候とも 堰かれ候まじや 淀川の 浅き瀬にこそ 柵もあれ
二九五 来し方より 今の世までも 絶えせぬものは 恋といへる曲者 げに恋は曲者 くせものかな身はさらさらさら さらさらさらさら さらに恋
こそ寝られね
二九六 詮ない恋を 志賀の浦浪 よるよる人に寄り候
二九七 あの志賀の山越えを はるばると 妬う馴れつらう 返す返す
二九八 味気なと迷ふものかな しどろもどろの細道
二九九 ここは何處 石原嵩の坂の下 足痛やなう 駄賃馬に乗りたやなう 殿なう
三○○ よしや頼まじ 行く水の 早くも変はる人の心
三○一 人は何とも岩間の水候よ 和御寮の心だに濁らずは 澄むまでよ
三○二 恋の中川 うつかと渡るとて 袖を濡らいた あら何ともなの さても心や
三○五 花見れば袖濡れぬ 月見れば袖濡れぬ 何の心ぞ
三○六 難波堀江の葦分けは そよやそぞろに袖の濡れ候
三○七 泣くは我 涙の主はそなたぞ
三○八 をりをりは思ふ心の見ゆらんに つれなや人の知らず顔なる
三○九 昨夜の夜這ひ男 たそれもよれ 御器籠に蹴躓いて 太黒踏み裂く 大黒踏み裂く
三一○ 花籠に月を入れて 漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な
三一一 籠がな籠がな 浮名もらさぬ籠がななう
以上