古典詞華集鑑賞 NHKブックス




   梁塵秘抄    信仰と愛欲の歌謡


       秦 恒平  湖の本エッセイ 42




     目 次

小序
一章  梁塵秘抄の成り立ち そして巻第一
二章  後白河院の執念 そして法文歌
三章  十二世紀の今様 そして四句神歌
四章  御口伝と五条乙前 そして雑の神歌
五章  源資時と平曲 そして雑の神歌
六章  歌謡の流れ そして二句神歌

    撰抄「梁塵秘抄」百三十八首


     


 梁塵秘抄  信仰と愛欲の歌謡


NHKブックス『梁塵秘抄 信仰と愛欲の歌謡』一九七八年三月二十日刊  日本放送出版協会

   

   小序

 前巻『閑吟集─孤心と恋愛の歌謡』に先立つことほぼ四百年余、十二世後半の源平闘諍の世を掌にあやつった後白河法皇ご自身の若き日々の労 作、『梁塵秘抄─信仰と愛欲の歌謡』をお届けします。互いに個性のきわだった、しかも無類に読んでも口遊んでも面白い歌謡の集です。一乗の天子自身が、な ぜ、このように優れて庶民の歌謡歌詞を蒐集編成し、その歌唱法を自ら十巻の「口伝」にして伝えられた動機は、さて何であったでしょう。
 NHKラジオの文化シリーズ「中世の歌謡」の内、此の巻は『梁塵秘抄』と題しまして一九七七年十月二日より十一月六日まで、毎日曜日、六回に亘って放送 した内容に加筆したものであることを、申し添えます。一般放送という点を考慮し、日ごろ古典や歴史になじみのうすい、むしろ高校生以上の学生、主婦、お年 寄りがたを念頭に、話しかつ書いたつもりです。内容に手心を加えたなどということでは決してありません。
 たぐい稀に赤裸々な信仰と愛欲のこの歌謡集の魅力を満喫してくだされば幸いです。著者には後白河院や源資時を主要人物に、『梁塵秘抄』の世界に取材した 歴史現代小説『風の奏で』『初恋(雲居寺跡)』があります。あわせ、こ愛読下さいますよう。
                                                          騒壇余人
 秦 恒平






   一章 梁塵秘抄の成り立ち そして巻第一


     一     

 誰が作詞し作曲したのか分らない流行歌は、昨今はほとんど無くなっています。それどころか、その「うた」をもっぱら独占して歌う歌い手まで決められてい る。勢い、同じ「うた」を歌いたい人は、その歌い手を真似て歌うということになりがちです。そしてそれが、当然のアイサツというくらいに大勢が思っていま す。
 しかし、かつては決してそうでなかった。誰が詞をつくり誰が曲をつけたか知れない「うた」が多く、近代より近世へ、近世より中世へ、中世より古代へと 溯っていけばいくほど、「うた」は人々の暮しとともに自然に生まれ、喝采され、忘れられていきました。むろん誰の持ち歌などということは、まず、ない。み なが自由に歌い、その自由な楽しみかたの結果として「替えうた」がたくさんできたのです。これは大事なことです。
 昨今「替えうた」で面白かった、よく流行ったという例をそう聴きません。ほとんど無いようにも思います。まして世間に「替えうた」づくりが深く広く潜行 して楽しまれているという話は聴きません。これにも、存外大事な問題が含まれている。
 どんどん「替えうた」が生まれないのには、相応の理由がありましょう。一つには、現代人にとって、目下「うた」は外側から与えられる著作になりきってい ます。自分たち一人一人の感情や批評や創意をこめて内側から自己表現しつつ他人と連帯していくような歌ごえ、歌ごころ、がかれてしまっているとも言える。
 文藝としての詩歌と歌謡としての「うた」との根が微妙に一つであるのは間違いないことです、そしてそこに或る「型」が生まれたことも。例えば常識的な、 和歌の五句三十一音という定型のことですが、この「型」は、本来文藝ゆえの型である以上に、まさに歌われるものとしての「うた」の型でした。そのような 「型」ができていった、「型」に応じて独特の口調や曲節や音調ができていった一等奥深い動因は、その方が「替えうた」をどんどん生産しやすかったからなの です。
 「替えうた」という言い方が軽く見過ごされています。品もなく、価値も低いものと思い過ごされています。しかし大胆に言って、例えばあの「和歌」とは、 五七五七七昔、五句の定型を利用した無際限な「替えうた」の総体なのだと譬えることもできます。和歌や俳句があまりに文藝的なのでピンとこない方には、 いっそ都々逸のようなものを思い出していただきましょう。

  成ると成らぬは 眼もとで知れる
  けさの眼もとは 成る眼もと

  三千世界の 鴉をころし
  主と添寝が してみたい

 七七七五音四句で歌われる都々逸を、こう二つ並べてみて、どこが「替えうた」かと思う万もあるでしょう。しかしこの二つの作を成り立たせている基盤は、 まずは定まった「型」にあります。次には、「型」どおり限りなく歌い替え作り替えていく、その創作心理自体がいわゆる「替えうた」の動機と質を同じくして います。ものの初めに一つの「もとうた」があった。それが喝采された。その時に、よし自分も一つと、他の誰かがべつの「うた」を作ります場合、決してただ 歌詞の一部をもじっただけが「替えうた」になるのではない。それ以前に、心理的かつ作法的に「型」に倣うのでなければ作り替えの意味も体もなしません。素 朴な真似ほど内容より形式に惹かれやすいものです。
 「うた」の「型」や、定まった「韻律」というものは、このように無数の「替えうた」をもともと約束しています。人々が広い意味の「うた」を、心で、肌 で、受けとめるために、「型」がたいへん大事な機能を果してきたわけです。この機能の少なくも半分は、人々がみずから「替えうた」を歌いだすように期待も していたわけです。
 その「替えうた」を作る、歌う、ちからを人々が喪っていけば、勢い「型」も衰えざるをえません。昨今の流行歌やポピュラア・ソングが、一時の歌謡曲のよ うな一種の「型」をあまりもたないのは、その方が新鮮で自由であるからでしょうが、同時に、歌詞と作曲と歌唱とが、いわば専門家の技能にのみただゆだねら れていて、人々がその刺激で思わず自分なりの「替えうた」を産み出そうなどという表現欲をもたなくなったからでもあるでしょう。また自分も真似て歌いたい 願望を幾分はあきらめてしまい、聴く一方の姿勢を普通と感じるようになっているからです。詞も、とくに曲は、当然、技術的にむずかしいものになっていま す。
 しかし、決して今も昔も同じだったとは言えません。昔へ溯るほどうた″は人々にかなり均等に共有されていました。それだけに人の受け入れ易い「型」は よく承けつがれ、またその「型」を頼んで、類似の「替えうた」づくりが旺盛に楽しまれてすらいたのです。和歌も、明らかに上古や古代には眼で読むより、口 で朗唱、朗詠されていました。今日の我々が想像するより、はるかに彼らの和歌の一つ一つがある原型原質に則った、亜型変型、異種異色の「替えうた」なので した。「本歌どり」もまさしくそれでした。
 まして、貴族に独占されていた宮廷音楽や宗教音楽や詩歌はともかく、民衆的ないわゆる「うた」には、「型」に対する自由な感覚と素朴な信頼とが生きてい て、さまざまな「替えうた」群がむしろ積極的に抱きこまれていたようです。「型」に対し自由で捉われず、かつ「型」を信頼して利用する、そこが面白いので す。
 まずはこの程度の緒口だけつけておきまして、さてこれから数回にわたって、日本の十二世紀を中心に、貴賤上下の別なく、たいへん流行した「うた」の話を いたします。
 「うた」とわざわざ括弧つきで言っております。なるほど「うた」としか名づけようがないのですが、名高い萬葉集、古今集、新古今集などの、いわゆる「和 歌」の話ではありません。以下、一緒に読んでまいりますこの「うた」は、ふつう、和歌と区別して「歌謡」と呼んでおります。謡曲、お謡、の謡の字にもご注 目願いますが、むしろいわゆる歌謡曲の歌謡に近いたいへん面白い「うた」について話してまいります。
 まず代表的なその「うた」の一つ二つをあげてだけみましょうか。教科書で、またものの本などで一度ならず眼に耳にしているはずの有名なのをわざと選んで みます。どうか眼で読むだけでなく、口遊んでみてくださるようぜひお勧めしたい。なぜならこれらは文藝である以前に「うた」なのですから。

★ 舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん 踏み破らせてん  ま   ことに愛しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん

★ 仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ

 憶えておいでの方が多いに違いない。そして今改めて声にも出してお読みになり、早や幾つかの点に気がつかれたと思うのです。
 まず、この二つともが五句三十一音、つまり五、七、五、七、七のあの和歌の調子や姿とは、よほど違った形をもっているということ。たとえば、「久方の  光のどけき 春の日に しづこころなく 花のちるらむ」という名高い紀友則の和歌の調子と、いまの、「仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 人の昔せ ぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ」の、七、五音でつごう四句という歌謡の調子とでは、いくぶん、ですが、はっきりと違っている。まして「舞へ舞へかたつぶ り 舞はぬものならば」などというのとはよほど姿が違っている。この「うた」と較べますと、和歌の調子や姿はずっと整っております。いや、「馬の子や牛の 子に蹴ゑさせてん 踏み破らせてん」といった歌いっぷりが一度面白く思えてしまいますと、和歌の整いが妙に取り澄ましたもの、お高いもの、にすら感じられ てくる。
 また次に、「舞へ舞へかたつぶり」と、「仏は常に在せども」とでf、歌われている内容、材料、傾向、がまるで違っています。
 かたつむり舞いなさい。
 舞わないの。そう。それならホラあの馬の子に蹴らせようか。あの牛の子に踏み割らせようか。
 さ、舞うのよ。
 ちゃんと可愛らしく舞って見せたら、
 きれいな花の咲いているお庭へ連れてってあげる、
とでも訳したい一方の「うた」に対しまして、
 み仏はわれらが身の傍にいつもいらっしゃる。それなのに、凡夫のかなしさ、ありありとこの眼に拝むってことがなかなかできないのさ。それでも、誰も起き 出てこないまだ暁の夢の中に、み仏があけ白む日の光のようにお立ちになることはあるよ、とでも言いたい「うた」の方には、明らかに信仰、広く神や仏を慕い 拝む思いがこめられています。
 そして「仏は常に」の方は七音五音で一句をなしながらつごう四句が全体を整然と形造っているに対しまして、「舞へ舞へかたつぶり」の方は、そうした定型 らしいものがない。
 ごくおおざっぱにではありますが、読んでまいりますこの『梁塵秘抄』には、七五調であれ八五調であれよく形の整っている「うた」と、あまりそうでないの と、の二種類が混じっていると、そうさしあたり理解しておいていただきましょう。
 むろんこれくらいの違いだけではありません。たとえば「仏は常に」の方はさすがに法華経などの仏典を踏まえるといった背景をもっていますし、仏の夢中示 現を言い表わした詩歌や文章には前例があります。つまり歌謡として歌われる以前の状態をさかのぼって望める「うた」になっています。ところが「舞へ舞へか たつぶり」の方は、逆に、この「うた」を本歌かのようにして、「牛の子に踏ますな庭のかたつむり角のあるとて身をなたのみそ」(寂蓮法師集)といった和歌 が詠まれているのです。そういう前景や背景へまで眼がとどいていくと、こういう「うた」の味わいがまた深まるとは言えるでしょう。
 さて『梁塵秘抄』には、こういう「うた」が、たくさん収められています。
 お断りしておきますが、昔のこういう「うた」は、かな書きにわずかな漢字を混ぜて書き遺されているのが普通ですから、例えば漢字の当てようで訓み方が微 妙に違ってくることがあります。つとめて通説にしたがいますが、稀に幾説かの中から選択して私流に訓むこともあります。その場合は「うた」の鑑賞の中でそ のつどふれます。主なテキストとして「日本古典文学大系」(岩波書店)と「日本古典文学全集」(小学館)を参照しています。「うた」をあげますのに、テキ ストをお持ちの方のためにも、「歌番号」を一々申すつもりですが、番号はこの二種類のテキストとも共通しています。「仏は常に」の方は二六番で、「舞へ舞 へかたつぶり」の方は四○八番です。
 まず『梁塵秘抄』という本のことを、大よそ、はじめにお話ししておこうと思います。
 「梁塵秘抄」の「秘抄」の方は、文字どおりに秘密の本、抜き書き、という意味もそうですが、たいへん大切な秘伝を書きおいた本、だいじに大切に隠し持っ ていたい本、というくらいの意味でよろしく、「──秘抄」といった題の本はほかにも例がございます。
 では「梁塵」とは。「梁」は建物の梁、うつばり、棟木ですね。「塵」はちりですね。梁の上の塵がどうしたかと申しますと、これは古い言い伝え、故事、が ありまして、中国の古代に虞公とか韓蛾とかいった美しい声の持主がおりまして、この「梁塵秘抄」の現在伝わっております「巻第一」の、うしろの部分にこう 書いてございます。「声よく妙にして、他人の声及ばざりけり。聴く者愛で感じて涙おさへぬばかり也。」たしかに美しい声で美しく歌われる「うた」に聴きい り、思わず落涙するという体験、数寡ないながら私にもなくはない。「梁塵」の二字はその声の美しさを、「涙」とはいますこし違った方から譬えて謂おうとし ているのでして、それは、虞公や韓蛾ほどの美声というと大変によく響きまして、「清越、けだし梁塵を動かす」とか「余音、梁欐を繞ること三日にして絶え ず」とかいうぐあいに、梁にたまった軽くこまかな塵が、声の響に乗って舞い立つほどだというわけです。ただ舞い立つだけでなく「三日」の間も静まらないほ どだ、ともいうのです。
 「梁の塵起ちて三日居ざりければ、梁の塵の秘抄」とは大袈裟なようですが、ちょっと信じたくもなる。美しく張りきった佳い声や音には、たしかに、こう、 ピーンと障子やうすいガラスなら共鳴りするような、それが魅力、とでも言いたい魅力、迫力がございます。
 江戸時代、小鼓を打つ人がおりまして家代々の小鼓打ちであったもので、毎日ポンポンとお稽古をいたします。その人の父親は名人といわれたので、息子も幼 少から、それも朝早くから稽古に精を出していたのでしょうが、ある日、つねは口もきかないような下働きの女が、思わずその若い小鼓打ちに、坊ちゃまも大層 ご上達なさいましたこと、とほめたわけです。
 これはしたりと、ほめられた方がビックリです。こんな女に、鼓の何が分るというのか。一瞬ムッとするくらいにこの若い男はなぜそんなことを言うのかと反 問いたしました。イエ難かしいことは分りませぬが、わたくしはこうして毎朝のように井戸の水を桶に汲みあげております。その桶の水にも井筒の中の水鏡に も、お父上の鼓の音はそれは小気味ようポーンポンと響いて水面が揺れるほどなのに、あなたのはついぞそういうことがなかった。それが腕前の差かしらと思っ ておりましたら、昨日今日になって、坊ちゃまの鼓の昔が気持いいくらい井戸に響き桶の水に響いてまいったものですから、つい失礼なことを申しました、と、 まことに理の通った、動かしようのない感想なので、若い小鼓打ちも感じいったというわけですね。
 梁の塵が舞い上がるほどの美しい歌い方のための秘伝や秘密を語った、大切な、貴重な本であるという、それが「梁塵秘抄」という四文字の意味になります。
 従いまして『梁塵秘抄』は本来は音楽の本、声楽の本、唱歌法の秘密や秘伝を語る本というわけで、決して「古今和歌集」や「千載和歌集」のように、文学文 藝としての「うた」を集めた本とばかりは言えないのです、この点を、ぜひ大切に理解する必要がある。
 本は、本になってしまえば、もはや編者や著者の私有物でない。独占物でない。どう読まれても致し方なく、いわば世の中を一人歩きして行くもので、いくら 当事者が大声で違うよ、そんな読み方をしては困るよと訂正して歩こうにも追っつくものではありません。まして時代を隔てればなおさらです。
 従って逆に、本、とくに一種特殊な専門書などの場合、また著者編者に特殊な意図のあった本の場合などは、読者の方から親切に身を寄せて根本の目的なり精 神なりを理解してあげる、あげたい、という態度もたいへん大事なことになると私は考えるのです。
 ぉ手もとにもし岩波文庫でなりと『梁塵秘抄』をお持ちの方はご覧ください。目次には多分「梁塵秘抄巻第一」、大きく眺めて次に「巻第二」とあって、形態 や名称はともあれ、具体的な歌詞がたくさん集めてあるでしょう。
 しかし、その次には間違いなく、「梁塵秘抄口伝集巻第一」と「巻第十」と、場合によって「第十一」以下「第十四」まで目次が並んでいて、この方は少なく も歌詞でなく、何か文章が書いてあり、ところどころ楽譜らしいものまであるのにお気づきのはずです。
 つまり全体として歌詞篇の部分に対し、いわば理論篇らしき部分が相拮抗して編集されているのが、一と目で分るようになっています。但し、「文学」と銘 打った全集ものの中には、歌詞篇だけをとり出して、「口伝」の方はマルマル割愛した本も出版されている。あくまで文学作品としてのみ『梁塵秘抄』を読むな ら、それも一つの行き方です。が、題から推しましても、この本は、歌詞を集めるのが主目的という以上に、その歌”うた”の一つ一つを、どう梁の塵が舞い立 つほどに、みごとに、美しく、巧く正しく歌うか、その歌い方についての「秘伝」「秘抄」たる大目的を持っていたのですから、私は、せめて「口伝」の「巻第 一」と「巻第十」(この一と十の間の巻々は伝わっていないので、やむをえないのです)の両巻だけは、ぜひ歌詞と併せて鑑賞し理解するという態度が、必要と 思うものです。またそれほど、「口伝」のこの巻第一と巻第十とはよくできた、すこぶる面白い内容を具えています。
 これに対し、「口伝」の巻第十一以下は一応この際考慮しなくてよろしいのです。少なくも巻第十一以下の口伝は『梁塵秘抄』の原本に存在したかどうか、む しろ後に関連資料として追加されたものと思われるからです。
 ただ、こうは言える。
 「口伝」巻第十一以後は、文字どおり具体的な歌唱法講義という内容をもっているのですが、残念にも今日には伝わっていないもともとの『梁塵秘抄』の「口 伝」巻第二乃至第九の内容というのは、おそらくこれとよく似た、極めて詳細な歌唱指導なり楽譜ふうのもので埋められていただろう、と想像されるのです。少 なくも想像の余地を残しているのです。
 これを強調して申しますと、さきに「関連資料」というふうに言いましたが、『梁塵秘抄』をそもそも編もうとした編者、著者の強い意向から察すれは、実は この「口伝集巻第一」から「第十」までが本当の正篇、本籍で、歌詞の方は従篇、資料篇でなかったとも言えない。今日の感覚でこそ、歌詞を眼で読み文学的に 鑑賞するのが主眼で、だから古典文学の大系だの全集だのにも、また国文学の通史にも欠かせない貴重な作品集ではありますけれども、本来の目的、主張、意向 からしますと、『梁塵秘抄』はより多く「音楽書」に部類さるべき歌唱技法の専門書、秘儀秘法の秘抄だった、と考えないとおかしい性格を具えているわけで す。
 どういう所が、文藝書というより音楽書だというかと申しますと、「口伝巻第十」で、この本の編者、「口伝」を口述かつ筆記している著者はこう申しており ます。
 「大方詩を作り(漢詩ですね、五言絶句だの七言律詩だの。また、)和歌をよみ、手を書くともがらは(手を書くとは書ですね、筆で上手に字を書く、そうい う人達は)書きとめつれば、末の世迄も朽つる事なし。(つまり、一度文字にして書きとどめれば、末代まで作品がそのまま残って、容易には消えて無くならな い。ところが、)こゑわざの悲しき事は、我身かくれぬる後とどまる事のなき也。」
 どう声が美しく歌い方が巧いと申しましても、それは一瞬に消えてしまい、辛うじて同時代には記憶されるにしてもそれすらあやふや、まして後世の人には美 しさも巧さも所詮伝わらない。しかし、せめて自分がこの「うた」をどれくらい深く理解して美しく上手に歌えたかの、片端をなりと自分が死んでまったあとあ との世の人が分って信じてくれるよう、また自分の歌う技術を習い覚え伝えてくれるようにと、つまり、「なからむあとに人見よとて、未だ世になき」(かつて ない)「今様の口伝をつくりおく所なり」と、この編者は書いているんですね。
 また同じ「口伝巻第十」の中の別の場所でも、こんなふうに申しております。「年頃かばかり嗜み習ひたる事を、誰にても伝へて、其流れなども、後にいはれ ばや」と。年来好んで習い覚えてきた歌謡、歌唱のわざを、誰でもいい、すぐれた技術として教え伝えて、後々の世にまで誰それの流儀、誰それ流、といったふ うに言われてみたい。それなのに、「これをつぎつぐべき弟子なきこそ、遺恨の事にてあれ。」習う者はいても、わざを次々に伝えていくほど技倆十分の、でき のいい確かな弟子のないのが口惜しい。「殿上人下臈に至る迄、相ぐして歌ふ輩」は多いけれどもただの道楽で、これを自分と「同じ心」、同じ熱意、同じ志で 一心に習おう、学ぼう、とする者は「一人なし。」一人もいない──。
 歌声が消えれば、わざも残らない。それを声から声、口から口に伝えたくても、流儀として継いでくれるほどのいい弟子がない。この二つの口惜しさ残念さ、 「遺恨」の思いが、少なくも『梁塵秘抄』の「口伝」の強い動機になっています。歌詞をたくさん集めているのは、歌い方を具体的に一つ一つ教えていく、不可 欠の教科書、材料、資料であったというわけです。
 この編者、著者の異様に強烈な唱歌への執着心、熱心、こそが『梁塵秘抄』を本として実現させた根本のエネルギーなのですから、私どもも、まずはそのエネ ルギーの力に素直に反応してよいのではないでしょうか。
 さて、わざとここまで名前を申しませんでしたが、この『梁塵秘抄』の撰者、口伝の筆者こそ、誰ありましょう、源氏と平家とが大童に戦争いたしました頃 の、あの有名な後白河上皇なのです。
 和歌の方にはいわゆる勅撰和歌集が幾らもございます。『古今和歌集』はその第一等のもので、平安時代の初期、西暦の九〇五年にできております。また、漢 詩の方にも、これより早く勅撰集がつくられております。が、いわば雑藝、藝術と申すより日常卑近の歌謡曲のようなもので勅撰集が編まれた、それも「口伝」 の部分は天皇ないし上皇が自身で語られた書かれたなどという例は、古今に絶えて無いことでした。この一点からも、逆に、私どもは後白河院という歴史上の人 物の極めてユニークな一面、と同時に、この人物、この『梁塵秘抄』を生み出した時代、日本の十二世紀の、ユニークな一面に思い当らざるをえない、という気 がいたすわけです。この点はまた後にていねいに話します。
 『梁塵秘抄』という本の名前は、むろん古くから人に知られておりました。ご存じの『徒然草』第十四段にも「梁塵秘抄の郢曲の言葉こそ、またあはれなる事 は多かめれ」などと出ております。『八雲御抄』や『夫木和歌集』などにも出ております。そして「口伝巻第十」だけは『群書類従』というものに収められて内 容が知れていましたものの、歌詞その他の実物は、久しく世に姿を現わさない、申さば幻の本だったのです。
 古代末期の『梁塵秘抄』は、近代に至って明治四十四年にようやく和田英松博士の尽力で一部分が、即ち「巻第二」二冊がはじめて発見されました。そして大 正元年に佐佐木信綱博士の手で単行本として出版される、その校正の最中に歌詞の「巻第一」と口伝の「巻第一」のそれぞれ断簡が発見されるという偶然が重 なったのでした。むろん出版されたこの本を見た人は、ひとしく驚嘆の声を惜しまなかったというわけです。
 ただ、発見そして出版というその時点から、すでに『梁塵秘抄』は、思えば当然ながら文学・文藝の書、文学作品、詩歌の一種類、として関心をあつめ、鑑賞 され、研究されたのです。決して音楽の方面の本とは見なされもしなかったのです。
 これは確かに無理からぬことです。というのも、かりに「口伝」の歌唱法や楽譜の部分が伝えられていたにせよ、なんと言っても実際の歌、歌声、歌い方はこ の耳で聴くわけにいかないのです。音楽としての歌謡そのものは、たとえ楽譜があったとしても、声としてはすでに消滅し、事実上それを伝えるレコードもなけ れば、技藝を伝えた歌い手も歌い方も絶えてない状態なのです。よほど詳細に歌い方が分ればともかく、肝腎の「口伝」巻第二から第九の部分が全く散逸して伝 わっていないし、「巻第一」はいわば総論の、それすらごく一部しか遺っていない状態なのです。そして「巻第十」は、後白河院が自身どんなに熱心に『梁塵秘 抄』を編集し勅撰するに至ったかの体験談が、申さば「口伝」全体のあとがきのていで書かれてあるわけで、具体的な楽譜も技法もきれいに抜け落ちているので す。
 これでは所詮、音楽書と頭で理解はできましても、もはやその実体実質を欠いているのですから、あたかも資料篇の歌詞そのものが『梁塵秘抄』の本来の本体 かのように重要視されていっこう無理はなく、またそうするに実にふさわしい、たいそう貴重な内容を具えていた、というわけなのです。
 ま、その辺は、また追々に申しあげましょう、ともあれこれくらいで、『梁塵秘抄』の「解題」というか、およその外側、姿、形、についてはご理解くださっ たことと思います。
 ところで、それではもう全然『梁塵秘抄』は「うた」として息絶えているのか、眼で読む詩歌になりきったのか、と申しますと、そこは最近の努力で、これを 実際に音楽として歌ってみよう、という研究も試みもありまして、昭和四十八年(1973)四月でしたか、演奏された例や記録も国立劇場にございます。私も それは聴きました。悠長を極めたものでした。今ではもっと研究が進んで、また違った趣の復元がなされているかも知れませんが。
 さ、いよいよ、本文へ急ぎたいわけですが、もう少し話してみたいことがございます。
 『梁塵秘抄』はもともと、歌詞の巻が十巻、口伝の巻が十巻、合計二十巻という『萬葉集』なみの大部な構想でした。現在は、歌詞の方が「巻第一」のごく一 部、二十一首だけと、「巻第二」の、おそらく全部と、合計して五百六十余首にもなりますから、全十巻とも伝わっていたなら、なかなか盛大なものだったと想 像がつく。散逸したのは惜しんで余りあるわけですが、現存の五首六十首余りでも、一と時代の歌謡集成としては、質的量的に他を圧倒する内容を十分備えてい る。まこと偉業の名にふさわしい驚異の撰集事業だったことが想像されます。
 むろん近代現代への影響も大きく、詩人北原白秋などは一等早く『梁塵秘抄』の「うた」に共感を示した一人でした。
 「ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光のさす心地する」などという歌を詠んでおります。また、

  両掌ソロへテ日ノ光 掬フ心ゾアハレナル
  掬ヘド掬ヘド日ノ光 光リコボルル音モナク

などという詩、これを、先刻の、

★ 仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 人の昔せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ

と読み較べてみますと、明らかに、ここに、詩歌の伝統として七五、七五、七五、七五という四句を畳みこんだ韻律の定型が、生きて伝わった姿が認められま す。形だけでない。白秋は「梁塵秘抄」の歌謡の情(こころ)をさえ自分の詩に承けつごうと努めたと思われます。
 斎藤茂吉や芥川龍之介もそうです。
 佐藤春夫にしてもそうです。佐藤は『殉情詩集』でこんな詩を作っております。いいえ歌いあげています。

  かくまで深き恋慕とは
  わが身ながらに知らざりき
  日をふるままにいやまさる
  みれんを何にかよはせむ

 やはり、間違いのない七五音の四句ですね。この詩には、つづいてもう一聯ありまして、それは、『梁塵秘抄』の中の、四五五番をご覧ください。

★ 吹く風に 消息をだに托けばやと思へども よしなき野べに落ちもこそすれ

 古歌との照応のいくぶん見える「うた」です。例えば古今集の「甲斐が峯を峯こし山こし吹く風を人にもがもやことづてやらん」や、『蜻蛉日記』の「ふく風 につけても問はむささがにのかよひしみちはそらに絶ゆとも」などとどこかで通いあい、しかし「替えうた」というより新たな恋の「うた」としての独自の面白 さをよく産み出している。
 この人恋しい熱い気持を、どう恋人に伝えていいのやら、あの吹く風に乗せても便りをやりたいが、頼りなくどこの野原にむなしく落ちてしまうやら、あー あ、と、いった「うた」ですね。
 佐藤春夫には、こういう思いを実際に味わっていた時期、「さんま、さんま、さんま苦いか塩つぱいか」という有名な詩も同じで、やるせなく頼りない、望み もない恋に陥っていた時期がございます。「かくまで深き恋慕とはわが身ながらに知らざりき」という心境で本当にいたはずなんですね。そこで、彼はこう歌い つづけます。

  空ふくかぜにつてばやと
  ふみ書きみれどかひなしや
  むかしのうたをさながらに
  よしなき野べに落つるとぞ

 「梁塵秘抄」のいわば本歌がなくて、とてもこうはありえない佐藤春夫の詩句だということがよく分ります。
 このようにして『梁塵秘抄』は現代の文学にとってもすぐれて価値ある古典でありつづけています。「うた」のかずかずを愛好する人は決して少なくない。多 分、これから読んでまいりますその「うた」の一つ一つを、あなたもきっとお好きになりそうな、そんな予感がいたします。


     二

 それでは「うた」を読んでまいります。前にも申しましたが、どうか眼で読み、かつ口遊んでもみてください。
 いろいろと似た歌があって、それぞれ較べながら批評的に読むのも一法ではありますが、大体、本の順序を追って、歌詞篇の「巻第一」から見てまいります。 数が多いので、とくに最初のうちはどんどんトバしていくつもりでおります。その理由も追々に申します。
 『梁塵秘抄』巻第一の巻頭には、「長歌」十首がまず出てまいります。とりあえず、その最初の一つ、歌番号の一番を、読みましょう。

★ そよ 君が代は千世にひとたび居る塵の
     白雲かかる山となるまで

 この「うた」に、「祝」と、題らしいものがついています。お分りのように、これはあの「君が代」の歌に「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある、あ れを「塵」積もって「山」となるに置き換えたような「うた」なんですね。塵も積もれば「かかる」(こんな)山になる、むろん大変に莫大な時間がかかる。そ れほどの歳月、寿命で以て「君が代」の久しさを祈り、願い、祝った、それがこの「うた」なんですね。
 「祝」とは、意味からもそのとおりですが、もう一つ、よく申します祝言として、もののはじめにまずめでたい「うた」を歌う、めでたい「ことば」を発す る、そういう久しい習慣に倣ってこの『梁塵秘抄』が編まれている、ということも示しているのです。
 これはなかなか大事な点です。
 というのは、そんな祝言から、例えば『古今集』も『新古今集』も露わにははじまっていない。ただ「春」の初めの和歌ではじまっています。ところが『梁塵 秘抄』巻第一ではこの「祝」の「うた」の次に、「春」立春の「うた」がきている。それもついでに読んでおきましょうか、二番。


★ そよ 春立つといふばかりにやみ吉野の
     山もかすみて今朝は見ゆらん

 暦の上で立春になった、ただそれだけでもうなにやら、吉野の山々が美しく春霞たなびいて見えるよ、そんな気がするよ。まだ雪は深いのに、という「うた」 ですね。この「春」の「うた」が最初にこずに、「祝」の「うた」が先だつのは、実はこれが日本の雑藝、藝能の社会でのまことに久しく久しい伝統だからなの です。慣習なのです。今日でも、例えばお能を観にまいりますと、第一等に長老が出て、短い、が、めでたい「祝言」の謡を謡います。それから当日の演目がは じまる。ついでながら、最後には「千秋楽」という謡を晴やかに謡いおさめてその日の行事がとどこおりなく果てる。それなんですね。
 と言うことは、『梁塵秘抄』が明らかに和歌集といった晴の藝術、上流の貴族社会にほぼ占有されていたような文藝とはよほど違った世界、雑藝、即ち民衆の 藝能の世界にこそ根をおろしていたという事実を物語っている。これが大事なんです。同時に、そんな民衆藝能の本を、一天万乗の天皇=上皇、が自ら編んだと いう事実にも、心から驚嘆していいのではないでしょうか。
 さて今、二つの「うた」即ち「長歌」を読みました。お気づきのように、両方とも、アタマに「そよ」という囃子のことばが冠せてあったですね。とくに意味 のあることばではありません。これは、実際に歌いだす前に、一人なら一人で息を調え、人数の多い合唱でなら、みながうまく声を揃えるためにぜひ必要な囃子 声だったのでしょう。眼で読むのでなく、口で歌う「うた」、文字どおりの本来の「うた」だったことが、この「そよ」で分るのです。が、そのあとへつづくの は、これも十分お気づきのように、これはそっくり和歌一首なんですね。十首が全部そうです。ちゃんと作者まで分っています。さきの「君が代は」の方は「後 拾遺集」の大江嘉言の作、「春立つと」の方は「拾遺集」の壬生忠岑の作です。およそ平安時代の前期、中期の和歌集から採られています。
 ではこの和歌、短歌を、なぜ「長歌、ながうた」と呼んだか、実はこれにもたいした意味はありません。古今集ができる時、巻十九の雑体の部の「長歌」のと ころに、まちがって「短歌」と書いてしまった、それがそのままになっていたという、古い誤記があって、それでわざと(ま、ユーモアですね)長歌と短歌をさ かさまに言うような習慣らしいものができてしまった。『梁塵秘抄』はそこは雑藝の集です、のっけに、公家方の古い失敗をかるく笑いの種にしている、といっ た程度のこととして、深く拘泥ることではない。
 『梁塵秘抄』巻第一の現存部分には、この「長歌十首」のあと、「古柳」と呼ばれている種類の「春」の「うた」が一首、そして次に「今様」──「今様」に ついてはいずれ大きな話題にして詳しく話すつもりです──が、十首だけ残っています。合計二十一首ですが、もともとの目次によれば、長歌は十首。しかし古 柳は三十四首もあった、今様の如きは二百六十五首もあった、つごう三百九首も一巻の内に採録していたことが分るんですね。これでみても十巻揃えばたいした 数ですが、『梁塵秘抄』が主に「今様」の本だったらしいなとも見当がつきます。「梁塵秘抄」といえば「今様」、「今様」といえは「梁塵秘抄」と、これは、 もう常識なんです。
 「長歌」は、要は既製の和歌を「そよ」と敬して歌ったもののようですから、この際はこれでトバしましょう。それぞれ佳い歌ばかりですが、それは和歌文藝 として鑑賞する別の機会をおもち願いたい。面白いといえば、祝のあと、春夏秋冬および雑のうたで計十首なんですが、雑三首は別として、ふつうですと残りを 春秋各二首で夏冬が一首ずつというのが常道なのに、春と冬から二首えらび秋は一首。ちょっと言い及んでだけおきます。
 さて、一一番の「古柳」を読みましょう。「春五首」としながら一首しかないのは、代表として書き写し、あとは割愛した、むろん夏、秋、冬の「うた」も あったが割愛した、ということです。「巻第一」の伝わり方はもともと全部は書き写さず、およそ内容を摘録するという形です。これは「口伝」の方の「巻第 一」についても言えることです。ともあれ「古柳」となるとこれほもう「長歌」と趣がすっかり違います。一一番。

★ そよや 小柳によな 下がり藤の花やな 咲き匂ゑけれ ゑりな 睦れ戯れ や うち靡きよな   青柳のや や いとぞめでたきや なにな そよな

 姿佳い柳にまじって、下がり藤の花が咲き匂っているよ。あれ、両方から睦みあい戯れあっているよ。あれ、風になびいて、あの青い柳の、ああ、なんて色佳 いんだろ。アラアラ、ホラホラ──といった感じでしょうか。いかにも歌う「うた」ですね。たとえ黙読するにも、気持は歌うようにして味わいたい。読むと読 みにくい。が、「うた」と思って見ていくと、快い音調で貫かれているのがよく分る。一つは、「そよや」の「や」の昔、もう一つは「小柳によな」の「な」の 音の響きあいですね。「によな」「花やな」「ゑりな」「靡きよな」「なにな」「そよな」というぐあい。また、「そよや」「や」「青柳のや」「や」「めでた きや」というぐあい。もうこれだけでも音楽になっています。譬えてみれば「柳」の「な」音に対して「藤」の方が「や」音を受けもち、「や」と「な」が睦れ 戯れあっている感じではありませんか。もう一度口遊んで読んでみましょうか。

★ そよや 小柳によな 下がり藤の花やな 咲き匂ゑけれ ゑりな 睦れ戯れ や うち靡きよな   青柳のや や いとぞめでたきや なにな そよな

 どんな情景か分りますね。きっと、これは何人もが車座になって歌い囃す。ひょっとして片方が柳に、他方が藤になって、掛けあいで、「そよや」とか「ゑり な」とか、「や」「や」「なにな」「そよな」と歌いあったものかもしれません。こうした囃ししことばは催馬楽やのちの宴曲に、また田歌などにも見られま す。
 囃してて歌う。
 なかなか好ましい遊び、楽しみ、の雰囲気もある。どこかおめでたい感じ、悠久の自然の、優しい内懐に抱きとられていくような、温かい嬉しい気分も溢れて います。
 「古柳」と書く、この意味はよう分っていません。べつに、「旧古柳」といった種類の「うた」もあったようです。およそは今の、「そよや 小柳によな」の 「うた」のような調子、感じ、内容のものが「古柳」なんだろうと推察しておこうと思います。なにしろ『梁塵秘抄』巻第一の「古柳」を、この「そよや 小柳 によな」が代表するていでただ一首伝えられているのですし、「口伝」巻第十の中でもこの「うた」が熊野参詣の際ことさらに歌われております。また存外、こ の「小柳によな」という「小柳」の一語が、楽しそうなこの手の「うた」の通り名になったのかもしれない、そう言っている学者もございます。その辺で納得し ておいても十分かと思います。
 こうした「古柳」「長歌」などという「うた」の、種類ないし名称。これは「梁塵秘抄」当時までに、よほどたくさんあったようです。が、ひっくるめて大分 類いたしますと「口伝」巻第一の巻頭でこう言ってある。「古より今に至るまで、習ひ伝へたる謡あり。」(この謡に、和歌の歌でなく、謡曲の「謡」の字の当 ててあることにご注意ください。)大きく分けて「これを神楽・催馬楽・風俗といふ」と。
 「神楽」は申すまでもない、いかにも「天の岩戸」以来のものでしょう。が、およそは宮中での神楽を意味しているかと思われます。
 「催馬楽」というのは、一と口で言いきれない内容と伝承をもっており、古代では宮中の遊宴歌謡として、歌い方などよく整えられていましたが、由来は古い ものです。いわゆる民謡とも深く関わり、また渡来音楽とも関わっていた。が、本文では、国々の貢物を政府に納めます、運びます時の、「民の口遊み」うたが その起こりである、「時の政よくもあしくもある事」を、民衆が褒めたり謗ったりした「うた」だと言っております。もともとこれが広く「民を恵む」歌謡民謡 となり、久しく人の胸を打ち、心を打ってきたんですね。
 催馬楽は、今も申したように徐々に音楽的に整備され洗練されて、宮廷社会に取りこまれ、貴族の家でも代々この歌唱法を伝えるような名家さえあらわれま す。それが「郢曲」の家です。
 これに対して「風俗」こそは民謡。それも概して東遊など東国に根を生じたもののようですが、ところが近代(むろん十二世紀当時での近代ですが)になっ て、また新しく「習ひ伝へたる謡」が出現してきた、つまり新風が吹いてきた。それはあたかも当世風であり、今日風であり、新しい今今の風という意味で、 「今様」と呼ぶ。そう「口伝」は言っている。そしてこの今様は例えば「神歌、物様、田歌に至るまで」形式、内容ともに自由かつ変化や興趣に富み、「習ひ多 くしてその部広し」という有様で、どんどん大流行してきたわけですね。
 とまれ歌謡として、「神楽」「催馬楽」「風俗」「今様」という以上の四大別があったと、まあ、ご理解願います。「長歌」「古柳」あるいは「裟羅林」とか 「足柄」とか「片下」とか「早歌」とか、細かな分類はいっぱい有るのですが、それはもう私どもの理解をおよそは越えた昔の話で、今は無視いたしておきま す。
 で、いよいよ「今様」を読みましょう。一二番。

★ 新年春来れば 門に松こそ立てりけれ 松は祝ひのものなれば 君が命ぞ長からん

 「春」の初め、ですが、また祝言でもありますね。何の解説も要りませんね。この「君」は国歌「君が代」の君と違います。あなた、お前、きみ、でいいで しょう。それがまた自ずとわたし、俺、ぼくの意味になって戻ってくるのです。「おめでとう」の声には「おめでとう」と同じ声が返ってくるのが、民衆のつき あいというものです。
 そして、一三番。文字どおり「春」の初めの「うた」です。

★ 春の初の歌枕 霞たなびく吉野山 うぐひす佐保姫翁草 花を見すてて帰る雁

 「歌枕」はお分りでしょう、和歌によく詠まれる地名や題材ですね。
 「佐保姫」というのは奈良山の東、佐保山の女神で、春を織りなすといわれ、西の、龍田山の女神の龍田姫が秋を織りなすのと一対にされています。「翁草」 は白頭翁という別名のある、春咲く花です。花のあとが、ちょっと白髪の風なびく感じに糸状にそそける植物なんですね。
 何のわけもない。他愛ない。が、妙に快く、めでたい。こんなふうな「うた」を歌って昔の人は四季自然の恵みや秘密を感じ、山川草木、花や鳥ともろともに 生きる喜びを祝ったのですね。どういう「うた」にも、たとえ軽い笑いやくすぐりの「うた」にでも、なにか敬虔なもの、信仰にふれた感じがある、それが『梁 塵秘抄』の「うた」の特徴と申せます。
 言いかえますと『梁塵秘抄』の「うた」には、まだまるまる個人は顔を出さない。誰もが、もろ声に声をあげて歌う、という民衆的なひろい地盤から、一つ一 つの「うた」が発生しています。「我」の顔がなく、「我々」の声が響いています。なんとしてもまだ古代の匂いを残しているのですね。中世と古代との、いか にも、けじめ、折りめ、分れめ、にこの『梁塵秘抄』は位置しているのですが、まだ個人でなく民衆大衆の声になって「うた」が歌われている。まさしく民謡的 であることが、どこか人々の古代的な祈りや望みや信仰の思いというものを歌声にしのびこませ、響かせている。そう私は感じ取っているのです。私はこれを、 古代の「うた」を、中世の声で歌うと言いたい。『梁塵秘抄』とは古代の「うた」を中世の声で歌っている、その重なりあいに魅力の秘密をもっている、と私は 考えています。
 次に、一六番。

★ 常に消えせぬ雪の島 螢こそ消えせぬ火はともせ 巫鳥といへど濡れぬ鳥かな 一声なれど千鳥と  か

 これは、一枚でもせんべいとは如何に。一つでもまんじゅうの如し、式の「うた」ですね。「雪の島」は日本海の壱岐の島。むかしは「ゆき」と発音しており ました。雪は消えるものなのに、壱岐の島は消えない。「しとと」と清んで訓みますが、しとどに濡れるという言い方と語呂合わせになっている。「巫鳥」とは 蒿雀、黒鵐など雀に似た小鳥の名前です。鳥ですから、暁け方の草みたいにしとどとは濡れていない道理です。いかにも庶民の、さほど巧みでもない酒落うたで すね。
 三つつづけて、一八、一九、二一番を読みます。まず、一八番。

★ 釈迦の月は隠れにき 慈氏の朝日はまだ遙か そのほど長夜の闇きをば 法華経のみこそ照らいた  まへ

 お釈迦さまは亡くなった。「慈氏」即ち弥勅菩薩が、現世に仏となって衆生を救い給うという約束には、 まだまだ莫大な五十六億七千万年といった歳月がか かる。それまでの無明長夜を、かすかに照して我 々を地獄の苦しみから救ってくださるのは、法華経の教えだけですよ。有難や、
と、そんな感じでしょうか。この十一、十二世紀という時代には末世末代をいよいよ迎える、長いくらやみの時がいよいよ来ると信じられていた、その中で、平 安朝約四百年を通じて法華経信仰が貴族をはじめ広く浸透していたことがうかがえます。多分、詞を作ったのは僧侶でしょう。が、歌ったのはごく広い範囲の人 でした。紛れない、人々の願いの声がここに響いているわけですね。
 次に、一九番。

★ 仏はさまざまに在せども 実は一仏なりとかや 薬師も弥陀も釈迦弥勤も さながら大日とこそ聞  け

 仏様は薬師、阿弥陀、釈迦などといっぱいおいでですけれども、みんなあの大日如来がお姿を変えて おられるんですって。そんなにも大日様は大きな、有難 い、根本のみ仏なんですって、
という意味で、大日如来は密教至上の教主です。昆慮舎那仏ともいい、奈良東大寺の大仏さんがそうです。久しい密教信仰の根深さを十分想わせます。また、仏 教の教義を大きく一とまとめに民衆に徹底させるはたらきも、今様が果していたことがよく分りますね。私、妙にこの「うた」が好きで、よく口遊みます。
 二一番を読みましょう。

★ 釈迦の正覚成ることは このたび初めと思ひしに 五百塵点劫よりも 彼方に仏に成りたまふ

 「正覚」は悟りですね。「五百塵点劫よりも彼方」とは、天文学的数字でしか分らないほど、遙かな昔々に、ということで、現在仏としての釈迦の本体を、最 過去仏の仏性の中にすでに根ざすものとして、極めて深遠な仏教の立場を、大変すらりと美しい口調の中で、感嘆の思いすら十分こめてうまく表現しています。 しみじみとした、私の好きな「うた」の一つです。
 こんなぐあいに「今様」には、遊び楽しみの、快い、祝言もの、自然感覚に溢れたもの、人間生活にじかに結びついたものと、もう一方には仏や神の威力をほ めたたえ、その深い教えを「うた」の魅力にしみじみ溶かしこみながら、歌声ともろともに身に覚えこむ、ひろげていく、といった両面をもっていることが分っ てきました、が、その辺を、もっとよく考えていきましょう。




   二章 後白河院の執念 そして法文歌


     三

 「梁塵秘抄」と私との出会いは、古いとも新しいとも申せます。新制中学と呼ばれていた時分の三年生のころ、お年玉で、岩波文庫のまず『徒然草』そして 『平家物語』上下二冊を買いました。
 その『徒然草』に、たしか前章でも申しました、「梁塵秘抄の郢曲の言葉こそ、またあはれなる事は多かめれ」といった文章が出てまいります。何ごととも知 らぬまま、やはり「梁塵秘抄」という文字のふしぎさで名を憶えました。名だけでした。
 高校へ進みますと国語の時間に習います。これもたしか、前に、例にあげましたとおりの、「仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 人の昔せぬ暁に ほ のかに夢に見えたまふ」という四句の法文歌(二六番)と「舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものならば」という雑体の今様(四○八番)とが教科書に出ておりまし て、はじめて『梁塵秘抄』の何たるかをおよそ承知いたしました。但しその時、例の『徒然草』の文章を併せて思い出したという記憶はありません。が、この本 の編者として後白河院の名前をあげられた時は、意外な、いわばふっと新鮮な印象を持ったのは事実です。
 というのも、私は『徒然草』でだけでなく、実はほぼ同時に買って帰った『平家物語』からも『梁塵秘抄』の名を憶えていたからです。またあの源平角逐と盛 衰の物語の中で、私は、奇妙に清盛でも義仲でも義経でもない、それ以上のあたかも「主人公」かのように、後白河法皇という人物に対してわりにしつこい関心 を持っておったのです。
 『平家物語』本文に「梁塵秘抄」の四字は出てまいりません。が、私の買った二冊文庫本の校訂者が今は亡い山田孝雄博士でした。当然、今日のいわゆる「解 説」に相当する「序説」を書いておられた、その中に、物語の作者は誰かという点にふれて、有名な、やはり『徒然草』の中に出てくる「信濃前司行長」と、も う一人の「生仏」という法師について書かれていました。『平家物語』は行長が詞を書き、生仏が語り物としていわは節づけした、つまり行長が文藝的に、生仏 は音楽的にこの物語ないし平曲を産んだといった大意を兼好法師が『徒然草』に書いていたのを受けて説かれていたわけです、むろん私はその箇所をすでに承知 しておりました。
 「行長」「生仏」については議論が多く、またとくに「生仏」のことはさっばり分ってないと申しておいていいでしょう。それでこそまた山田博士の解説が私 の関心を惹いたと言えるわけで、博士ほこの「生仏」とは、あの『梁塵秘抄』の「口伝」巻第十の末尾に特記されている源資時(綾小路家)が出家して「正仏」 と名乗っていたのと「同一人」ではないかと推測されていたのです。「生仏」と「正仏」と一字の違いで、昔の人は平気で普通にあて字・通字を使いますから、 頷けないことではない。が、兼好法師の言っているような「生仏」と、博士が指さされた「正仏」こと源資時とではよほど印象が違うのもまた、たしかでした。
 残念ながらその時の私はまだ「仏は常に在せども」も知らない、「舞へ舞へかたつぶり」さえ知りませんから「口伝」の巻第十という話がなにやら分りませ ん。が、「源資時」なら知っておりました。この名前は覚一本・流布本『平家物語』の本文に、数多くはありませんが二度三度は出てまいります。ことに山田博 士の指摘を知っておればなおさら印象的に眼にも記憶にもとまる。たいした記述があるのではないが、中で、とくに一点、とても忘れ難いことがありました。
 それは、木曾義仲の軍勢がついに都に迫るという時、もう清盛亡き平家の公達には防ぐ手だてなく、いわゆる西国落ち、都落ちを覚悟いたしまして、ともあれ 幼い安徳天皇と生母建礼門院はむろん、眼の上のこぶのような後白河法皇も西国へ掠って行こうというわけです。いち早くそれと察した法皇は、法住寺御所、現 在の三十三間堂あたりから夜陰にまぎれて鞍馬へ、そして比叡山へと遁走するんですね。その時、法皇にただ一人お伴をしたのが、源資時でした。
 こう言えばなんでもないことのようだが、よく想像してみてください。平家が衰え源氏が再び興ろうという時です。保元・平治の乱を上越す大乱が幕をあけた ころです。その騒ぎの、まして真最中の闇夜をついて、一天万乗の天子であった方がわずか資時ひとりをお伴に都から北の深い山中へ奔って遁げたのです。
 私はこういう際の「ただ一人」に資時が付き添ったという点を、ただ偶然とは読みませんでした。法皇と資時との「二人」のドラマも感じました。『梁塵秘 抄』のことはさっばり知らないながら、この源資時を山田博士は「郢曲の名家たる綾小路家に生れ、当時天下無雙の達人」と書いており、「郢曲」がよく分りま せんでしたが、音楽の方面かとは察しがつく。と、資時、出家して「正仏」が「生仏」かという博士の推量にもなにやら納得がいきます。
 古代末期の音楽の天才が、中世早々の「平曲」という「新音楽」の創始に関わっているというにひとしい推量ですら、私は子どもごころにも、そこに歴史の 「動き」を感じました。そして、高校の教室で『梁塵秘抄』を習い、後白河院の名前が出てきた時には、ひょっとしてあの資時にのちのち平曲創造を勧めていた のが、後白河法皇その人であったら面白いぞ、それもあの時あの闇夜の脱走のさなかに二人しみじみそういう将来を語りあったのならもっと面白いぞと思いつき ました。
 昭和二十六、七年(一九五一、二2)のことです。
 その辺から、いずれ小説を書く人間になっていく自分を、私は、予感していたようです。が、依然『梁塵秘抄』の「うた」は二つしか知らず、「口伝」も知ら なかった。
 小説を本気で書きだしたのは、昭和三十七年(一九六二)七月末でした。二十六歳半でした。そのおよそ十年の間に、たまたま『梁塵秘抄』のちょっと背の高 い岩波文庫を、会社勤めの合間に、お茶の水駅近い古本屋で買いました。すぐ読みました。全部読みました。感激しました。とくに後白河院の手になる「口伝」 が面白かった。源資時の名前もちゃんと巻第十の末尾に見つけました。いよいよ私はこの二人の仲に「小説」的興味をもちました。山田博士の言われるとおりな ら資時は重要な歴史的人物になります。それに、『平家物語』で知っていた後白河院の印象を大幅に改めるものを『梁塵秘抄』口伝は私に教えてくれました。私 は興奮しました──。
 しかしそんな私ごとはお預けにしましょう。『梁塵秘抄』の歌詞、巻第二の「うた」を読んでまいりましょう。と言いたいが、いきなり「うた」に入る前に、 およそ「巻第二」の組み立てについて説明しておきたい。その方が『梁塵秘抄』全体を、いくぶんなりと構造的に頭に入れていただけるし、それがまた面白さと して印象づけられるに違いない。
 この「巻第二」にも、もともと目次、目録がついてまして、大きく分けて「法文歌」が二百二十首と、「四句神歌」が百七十首(実は二百四首)、と、目次に 出ていない「二句神歌」がべつにもう、百十八首(これも実は百二十一首)。つごうざっと眺めまして三種類の「今様」が、合計で五百四十首余りも収録されて いるんですね。
 で、「四句神歌」や「二句神歌」の説明はいずれの機会にいたしますが、およそ『梁塵秘抄』巻第二には、大きく「法文歌」と「神歌」の二部門がある。それ も「今様」なんですね、今めかしい、当時としてすこぶる新鮮な、ナウな内容の「うた」が集めてある、と、とにかくご了解願っておきたいのです。
 その上で、さて「法文歌」を話題にいたします。
 これも目次に細分されています。念のため書き出してみますので、漠然とでも印象のようなものを持ってみてくださいませんか。
 まず仏歌(仏の「うた」ですね)が、二十四首。次にお経の「うた」になって、華厳経一首、阿含経二首、方等経二首、般若経四首、無量義経一首、普賢経一 首、そして法華経二十八品の「うた」がつごう百十四首、そして、懺法歌一首、涅槃歌三首、極楽歌六首、さらに僧歌(坊さんの「うた」ですね)が、十首。最 後に雑法文が五十一首。これは雑、いろいろの法文歌、ということですね。
 いかがですか。見なれないお経の名前がありましたね、阿含とか方等とか。しかし法華経とか華厳経とか、これは名高いお経です。また涅槃歌というのはお釈 迦さんの亡くなる時を歌った「うた」と思ってよろしいでしょう。極楽歌は極楽浄土をほめたたえた「うた」です。
 すると、最初に仏の「うた」があり、「雑」はべつとしますと、おしまいにまた僧の「うた」がある。間に「仏・法」の有難さや功徳を説いたいろんなお経の 「うた」がある。つまり仏と法と僧と、そして雑の「うた」という組み立てでこれら「法文歌」全体が整然と構成されているのが分ります。
 「うた」の数こそ違います。「法」が圧倒的に多い。が、それだから「法文歌」なんで、仏法、仏教を「うた」の形にこなれたものにして歌う。歌いながら覚 えこむ。それが一人一人の信仰を深めることになる、というのが、ある意味で「法文歌」という今様の機能、役割であったのでしょう。
 こういう「うた」は、その殆どに仏教の特殊な用語が混じってまいります。が、それが「うた」の邪魔にならないのが、手ぎわ、腕前、というんでしょうか、 かえって堅苦しい仏語や漢語が、「うた」の調子と雰囲気とを巧く盛りあげてもおります。
 歌う人、聴く人の殆どが、そんな難儀なことばの意味など、分りはしなかったと、私も思うのです。また、とくに分ってもらう必要もなかった。要は、仏の教 えの尊さや有難さを、歌声もろとも、気分よく味わってくれればいいのでありまして、それ限りのこととすれば、「法文歌」はなかなか、みな、よくできていま す。
 二六番の、もう何度も申しております「仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ」も、法文歌の中の「仏歌」で す。仏をうたい讃える「うた」の一つですね。これなど難しい字句が一つも混じりません。たいへんに美しい、感銘の深い、そして『梁垂秘抄』の半面、信仰と いう半面を、みごとに代表する名作であります。とくに「ほのかに」の一句に眼、いいえ耳を澄ませていただきたい。現と夢の間を漂うなつかしさ、はかなさ、 静かさと一緒に、信仰を内面化していくある深みへも憧れの思いを寄せている。
 もっとも、この時代の信仰とか宗教感覚の実情を、二十世紀の我々の画一的な理解に、あまり引きつけて考えるのは危いですね。『梁塵秘抄』の中だけでも、 人間存在の極限にふれながら、その表現や感覚性や志向には、本当にさまざまな幅と展がりがあります。少なくも信仰と表裏してもう半面にはすさまじい愛欲の 世界も展がっているのですからね。
 では、二四番を読みましょう。

★ 釈迦の御法のうちにして 五戒三帰を持たしめ 一度南無といふ人は 華の園にて道成りぬ

 「五戒三帰」がすぐには分りませんね。が、「五戒」の方は多少見当がつく。不殺生、生きものを殺さない。不偸盗、盗まない。不邪淫、不純な性行為をしな い。そして不妄語、嘘をつかない。不飲酒、わるい酒を飲まない、の五つを仏教では重い戒めとしていますが、「三帰」とは、先も申しました、仏、法、僧、の 三宝を心から信じ慕う、帰依信順する、それを五戒と並べて三帰といっております。
 釈迦の教えをつねづねよく聴き、五戒三帰を一心にたもちながら、一度でも、南無み仏様、とまごこ ろから口にしたような人なら、かならず花盛りの浄土に 招かれて、すえは有難い悟りをひらいて仏の 身にもなれますよ、
とは申せ、当時の人も、今日の私どもも、そんな解釈ぬきに、ひたすら耳にきき、ひたすら口に口遊んでくりかえすうちに、「うた」の狙いは、味は、分ってし まうんですね、ちゃんと。「うた」ならこその功徳でしょうか、だから口遊むということが大事なのです。

★ 釈迦の御法のうちにして 五戒三帰を持たしめ 一度南無といふ人は 華の園にて道成りぬ

 こういう「うた」が「法文歌」には、なんと申しても多いんです。となると、こういった「うた」が民衆自身にはちょっと作詞できなかったろうという見当も つきます。
 同時に、もしあなたが、お寺へ足を運びお坊さんのお説経を聴かれるような方なら、法文歌というのが、例えば和讃だのご詠歌だのと似ている、と思われるの ではないでしょうか。
 たしかに似ています。少なくも、仏の教えやお寺の由緒来歴を「うた」にして歌わせ、それで信仰心を広め、深めるというのですからね。また和歌の方にも釈 教歌がある。釈迦の教えを歌にしたという釈教歌でもありましょぅし、仏教を解釈して歌にした、そういう釈教歌でもありますでしょう、そんなのとも、『梁塵 秘抄』の法文歌は、精神において、たしかに似ています。
 つまり「法文歌」がある日突然に今様歌として現われ出たのではない。そもそも旧、古いもの、があってこその新、今様なのですからね。
 ですから、法文歌にはそれなりの久しい前蹤がある。古代を通じて仏教の世界に例えば、七五調で四行一聯、長い長い和讃型式といったものがあり、その歌い 方の歴史というものがある。また法文歌にかなり近い、つまりそう長いものではありませんけれども、歌い方の違った訓伽陀とか教化(忘れられて差支えないこ となので、説明は省きますが)などがございました。逆に、法文歌の影響から、のちのちの、もっともっと平易な新しい和讃、親鸞上人の和讃なども生まれてま いります。ひょっとして平家物語を琵琶にのせて語った平曲すらそうか、という想像は、先にちょっと申しました。
 そういう、鎖のようになって繋がっていく広い意味の釈教、教えを釈く「うた」、歌謡、の歴史があって、その中で今様としての法文歌も世間に広く受け入れ られた。
 おそらく、私は、それが詞として新しい、のであるよりも遥かに、歌い方、歌い口、ふしづけ、が新しかった、テンポもあり今めかしかった、それが喜ばれた のだ、と考えております。『梁塵秘抄』では、その、新しい今様の歌い方を丁寧に、情熱的に教えた「口伝集」こそ、正篇・本篇である、「歌詞集」はその資料 篇である、という、私の根っからの強い実感もそこに根拠を置いているわけなのです。
 ともあれ「法文歌」は、仏教を賛美した「うた」と理解してくださって、「仏」歌から見てまいります。二六番は、もう読みました。
 次に、二八番。

★ 弥陀の御顔は秋の月 青蓮の眼は夏の池 四十の歯ぐきは冬の雪 三十二相春の花

 皓々と照る秋の月、満月、名月、を阿弥陀如来のお顔に見たてた名高いものに、「山越阿弥陀図」とか「阿弥陀来迎図」などがありますね。実は私も以前、話 は中国の廬山という名高い山の頂でのお話ですが、これも名高い恵遠法師という方が、まだ八つの年にこの大きな山の中へ迷いこみ、難渋苦渋のすえ頂上に辿り ついて、折からの満月にみ仏の顔をありあり見る、亡き父と母の幻も見る、といった場面を『廬山』という短篇小説に仕立てて芥川賞の候補にあげてもらったこ とがございます。
 私自身、宇宙ロケットが月まで飛んでいくご時世ではありますけれども、それとは関わりなく、やはり、月を見て、満月を見て、仏を感じることは、今もしば しばございます。感じるどころか、はっきりそう想い願いながら、月を見あげて祈ることがございます。
 「青蓮の眼」というのは、青蓮華のように涼しやかな仏の眼、これを夏の池のようだと譬えていっている。もう一度読んでください。

★ 弥陀の御顔は秋の月 青蓮の眼は夏の池 四十の歯ぐきは冬の雪 三十二相春の花

 「三十二相」は八十随形好とも並べて、仏体の具えるふしぎな特徴を数えあげているわけで、その中から、顔、眼、歯を代表してとりあげているのでしょう。 「三十二相春の花」という結びが、重々しくて、花やかで、ゆったりと、立派に「うた」を結んでいる。引き締めている。
 しかも、仏の、阿弥陀の有難さを、四季の花や雪や月や涼しい池に譬えていうことで、世界中くまなく遍満し充満している、なんとも壮大な仏の慈悲が、たい そう美しく印象づけられます。世界そのものが、そのまま仏の五体そのものだ、と言いつつその中に生きる人の子の嬉しさをも歌っているのですね。
 もう一つ、ぜひ阿弥陀仏の「うた」を。
 三○番です。

★ 弥陀の誓ひぞ頼もしき 十感五逆の人なれど 一度御名を称ふれば 来迎引接疑はず

 「十悪五逆」は「五戒三婦」のくちで、ここでは悪逆を数えたてているわけですから、「十悪五逆の人なれど」というのは箸にも棒にもかからぬ極悪非道の人 間でも、の意味です。
 「来迎引接」はおよそ読んで字の如し、阿弥陀如来は人の死ぬるに臨んで、西方十万億土の遠くから、一瞬にして死者を極楽浄土へ連れていくべく、来たり迎 え引き接ってくださる。そうすることが阿弥陀が如来となるに際しての根本の大願、本願、本当の願い、誓い、であったわけですね。「弥陀の誓ひぞ頼もしき  十悪五逆の人なれど 一度御名を称ふれば」これですね。どんな悪人も一度「南無阿弥陀仏」と、心から信じて唱えた人なら、「来迎引接疑はず」極楽へ迎えて くださること、ゆめ疑いがないんですよ、と、こういう「うた」です。
 重々しい仏語が、二度も出てきて、堅い感じもありますが、それがまた眼目です。効果をあげている。よく「うた」の中で響いて、耳にしっかりとどきます。
 親鸞上人に「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という、たいへん名高い、断定的な信仰信心の表明がありますが、この仏歌などは、さながら悪人 正機をとなえた親鷲の到来をすでに十分予告していたわけで、世は、もう奈良平安の戒律仏教から、鎌倉時代の、信心や実践を重んずる新仏教へと移り動こうと していたことが、『梁塵秘抄』のこの一首からもありありうかがえる。
 三二番を。

★ 像法転じては 薬師の誓ひぞ頼もしき 一度御名を聞く人は 万の病も無しとぞいふ

 「替えうた」と申した意味がよくお分りでしょう。「像法の世から末法の世に近づいてはいよいよ」という意味の初句さえ分れば、説明も無用ですね。釈迦入 滅後五百年(千年とも)を正法、次の千年を像法、以後を末法の世とみて、教えの衰えをいっているのです。十二世紀の人は、その像法と末法の境に身を置いて いる気がしていた。
 薬師如来への信仰は奈良時代から盛んでした。薬師寺というお寺もありますね、名前からして病厄をはじめ現世の災難をよく救うとされていました。のちに私 はこの「うた」をもう一度思い出していただくことになるでしょう。
 次に三四番へ行きましょう。

★ 瑠璃の浄土は潔し 月の光はさやかにて 像法転ずる末の世に 遍く照らせば底も無し

 阿弥陀如来の国土を極楽浄土と呼ぶように、薬師如来の世界は、瑠璃の光り輝く浄土、瑠璃光浄土と呼びます。実は私は瑠璃とはこうだという、実物を知りま せん。名前こそなじんでいますが、あなたもそうは実感を以て瑠璃について説明できないのではないですか。しかし説明の必要のない、もうなにか分っているだ けの「瑠璃」という文字や、ことばの印象で、十分じゃないでしょうか。
 瑠璃に月の光が晴々と照り映えている世界。浄土の名にふさわしく、静かで、冴え冴えとしていて、清らかな世界をただ想像してみましょう。幻想的で、浪漫 的でもある薬師の浄土の、その輝きの深さ、底知れない、明るい静かさ。
 「像法転ずる末の世に」ほ、三二番の「像法転じては」より説明的ですね。先にも申しましたが、仏の教えがそっくり正しく伝わる「正法」の時代と、それの 衰えていく「像法」の時代と、絶えてしまう「末の世」「末法」の時代に分けますと、この『梁塵秘抄』の時代に、まさに像法の時期がきれていよいよ末法末世 が到来する、という怖れに人々は戦いていた。「転じ」は、末法へ変転の「転」であり、しかも仏法を説く行為を「転法輪」あたかも法の輪をまわして行くと久 しく譬えてきたのも受けています。
 薬師如来はそういう時代の転換期に衆生を災厄から救って法の輪を転じてくださる、現世の苦しみや病を救ってくださる、というので、あの世も有難いがこの 世も大事ですから、たいへん信仰されていました。その薬師如来の浄土をほめたたえているのがこの「うた」です。
 そんな理屈抜き説明抜きに、まったく美しい。そこを、どうかしみじみ耳に聴いてください。

 瑠璃の浄土は潔し 月の光はさやかにて 像法転ずる末の世に 遍く照らせば底も無し

 実に浄らかで神秘的です。夜空を昨今の私どもはめったにしみじみ見あげませんが、昔の人には美と想像と、かつ信仰心との底知れぬ源泉であったろうこと が、むりなく、納得できますね。普賢、文殊をトバして、次に観音様の「うた」を読みましょう。
 三九番です。

★ 万の仏の願よりも 千手の誓ひぞ頼もしき 枯れたる草木も忽ちに 花咲き実生ると説いたまふ

 「千手」は千手観音ですね。一度人が願いをかければ、たちどころに見とどけ聴きとどけ、千本もの手で何事であれ成就してくださるというので、これ以上の 説明は要らないでしょう。「説いたまふ」は教えていらっしゃいます、ということ。
 まことに明快、しかも千手観音の有難さがいっぺんに、具体的に、分る。この具体的というのが、民衆には何よりの功徳なんですね。
 一つ気づかれましたか。わざと「頼もしき」という句のある三つを、つづけて読みました。これなどは「うた」の詞に惹かれて次から次へ生まれる、まさに 「替えうた」的な面を分りやすく歌い出しています。これも具体的なことなので申し添えておきます。
 「仏歌」には、こんなふうに釈迦、薬師、阿弥陀、また地蔵、観音、普賢、文殊から龍樹菩薩や金剛菩薩など、さまざまな仏菩薩への賛歌でいっぱいです。
 そして最後に大日如来を歌っています。すべては、大日如来一仏の教えをさまざまな如来や菩薩が成り変って代弁し説法しているのだという、仏教の根本義が ちゃんと押さわっているのですね。
 逆に申しますと、どんな名前の仏菩薩を「頼もし」と信仰し愛慕していても、ちゃんと一仏、根本仏にふれている。ですから、また、妙な言い方ですけれど阿 弥陀ファン、観音びいき、薬師第一、お地蔵さまさま、といった岐れが出てまいっても、いっこう、それはそれでよろしいことになる。
 仏という超越的な威力を、具体的には阿弥陀や薬師に分りよく分けて信じて、それを自分の護り仏、持仏にして信心する。お経ならば持経として信仰する。そ ういう種々様々な仏教の信仰が成り立って、もはや極限にまで岐れていたのが、日本の十二世紀なのです。
 だからまた、「仏はさまざまに在せども 実は一仏なりとかや 薬師も弥陀も釈迦弥勤も さながら大日とこそ聞け」という、反省なり納得なりをたいへん有 効なものにしていた。仏法僧三宝の広大な教えの、ここが魔術的な底力、強み、なんですね。弥陀の誓いが頼もしい、いいえ千手の誓いが頼もしいなどと口々に 歌いながら、その底に広大無辺の「一仏=大日」はちゃんと押さえておく、ということが、仏教、仏法、としてぜひ大事だった。やはり背後に、流行は流行とし て、根本に知識階級、僧侶、の手が働いての「うた」だったらしいなと分ります。
 『梁塵秘抄』の法文歌も、間違いなくその辺は押さえているのです。ということで、四五番を読んでおきましょう。

★ 真言教のめでたさは 蓬窓宮殿隔てなし 君をも民をも押し竝べて 大日如来と説いたまふ

 「蓬窓」は字の如く、庶民の住まいでしょう、それで「うた」の意は通じますね。初句と末句とで、平等に大日如来は救ってくださると真言教には説いてあ る、有難い、となりますね。
 大事なことが二つある。
 「君をも民をも押し竝べ」るという思想が、仏の慈悲のもとではあれ、はっきり出てきている。そのことが意識され自覚されている。十二世紀という大転換期 にふさわしく、また中世到来を告げるにふさわしい感覚です。上代には無かった感覚です。
 もう一つは、「真言教」といっていること。私は『「梁塵秘抄』によく顔を出す聖、山伏たち、歩き巫女たちを思い出すのです。山嶽修験道の人たちを思い出 すのです。「法文歌」をあるいは作りあるいは歌いながら仏法を広めてまわった人たちの存在を想います。すると「真言教」の三字が大いに示唆的です。たとえ ば弘法大師のような方をさえ思い出すのです。


     四

 さて次に、「仏」に対して「法」お経、の「うた」が並びます。天台教学の五時教判という、まあ私どもには及びもつかぬ根拠に随いまして、華厳、阿含、方 等、般若、法華経の順に整然と法文歌が並びます。とくに法華経は八巻二十八品もあり、その前後に、開結二経と申しまして、開経、まあ露払いのお経として無 量義経が先立ちます。そのあとに、結経、太刀持ち役の普賢経が従います。綺羅びやかな行列に譬えますと、前後に勇士を従えた法華経大将軍が盛大に歩み出る といった感じですね、どれほど、平安時代に法華経が尊ばれたか、よく分ります。
 ただ法文歌も、もうおよそはお分りのことでしょうから、あまり多くは読みません。第一、難解なお経の内容を読み解いたような「うた」は、なんとしてもむ ずかしい。
 例えば、四七番と四九番。

★ 阿含経の鹿の声 鹿野苑にぞ聞こゆなる 諦縁乗の萩の菓に 偏真無漏の露ぞ置く

★ 大集方等は秋の山 四教の紅葉は色々に 弾呵法会は濃く淡く 随類ごとにぞ染めてける

 「古典文学大系」の注釈を見ますと、四七番には、「釈尊は鹿の声の聞こえる鹿野苑で阿含の四諦の説法をなさった。その四諦十二因縁の行者には空・涅槃の 甘露が萩の葉に置く露のように得しめられるのである」とありますが、阿含経も読んでいないし、いっこう分った気がしない。四九番には、「大方等大集経の方 等時の説法は仏一代の説法中季節の秋に相当、広く蔵通別円の四教を説いて衆生の利鈍の機に応じたのは秋の山の紅葉の色のとりどりの美しさというべく、偏小 を正ししりぞけ大円をほめ大衆を法に向かわしめたのは紅葉の濃淡に比せられ、衆生の機類に従って化益したのは紅に黄に染められた木々の葉のようだ」とある のですが、面白いくらいさっぱり分りません。
 しかし、この二つの「うた」を「うた」として舌頭に三転五転させていると、そんな大層なことでなくて、ただ美しさと有難さとが融けあってくる妙機にふれ てくる。今日のあなたや私には、それこそがむしろ正しい接し方であるでしょう。
 しかしまた、昔の人には抜きさしならない信仰というものがたしかに有りました。今の私たちには、そこまで仏教へのふれあいをもちえない気味がある。とい う次第で、『梁塵秘抄』の「うた」らしい「うた」は、まだ他にたくさんありますので、そこへ行くためにも、思いきって割愛いたします。
 ただ、これはご理解いただきたい。「法文歌」には比較的、整然とした韻律上の定型がございます。殆どが七五音、即ち「鷲の御山の 法の日は」といった句 を四句重ねたものか、八五音、「大品般若は 春の水 罪障氷の解けぬれば」といった句を、四句重ねたものだということです。そして「大品般若」などと仏 語、漢語を重ねて調子を作ったものには八五音が多いのです。反対に大和言葉のものは七五音が多い。むろん、そうとばかりではありませんが、これは漢音と和 音の発声上の特徴に絡んだ傾向です。
 同時に、それぞれの四句が、漢詩でいう起承転結にほぼ相当していて、一首一首がなかなか論理的に、発展的に、知的に、構築されている「うた」が多いのに も、注目したい。
 般若経四首のうちの、五二番を読みましょう。

★ 大品般若は春の水 罪障氷の解けぬれば 万法空寂の波立ちて 真如の岸にぞ寄せかくる

 これも、字句を説明すれば分る、というより、何度も口にし耳にして八五音の走る魅力を味わいたいところですが、「大品」とは、般若経を立派なお経、とほ めているのですね。般若経の功徳はさながら春の水のように暖かく、「罪障」、人の罪けがれを、氷を解くように解き放ってくれる。すると、「万法」すべての 法の教えが、世界の本質は「空寂」である、(般若経は「空即是色」「色即是空」と説くお経ですからね。)空と寂とに尽きる、という深い教えの波が、ひたひ たと真実さとり、の彼岸へ寄せて行きます。わたしもその波に乗って悟りの世界へ、浄土へ、ぜひ行きたい、という意味になります。

 大品般若は春の水 罪障氷の解けぬれば 万法空寂の波立ちて 真如の岸にぞ寄せかくる

 佳い歌ですね。巧みに難しいことを言ってのけています。私は好きです。
 法華経百十五首から厳選して、まず「序品」の五八番。

★ 鷲の御山の法の日は 曼荼羅曼珠の華降りて 栴檀沈水満ち匂ひ 六種に大地ぞ動きける

 一、四句が七五音、二、三句が八五音になってますね。
 「曼荼羅曼彙珠」はともにマンダラゲ、マンジュシャゲで花の名前です。「栴檀沈水」ともに香の名ですね。「六種」は六種類、「六種震動」などと申しまし て、仏法の奇瑞、奇跡、の表現によく用います。霊鷺山、つまり「鷲の御山」で釈迦仏が法を説かれる日は、さまざまな有難い奇跡で世界は満たされるという意 味の「うた」なのですが、響きがいい。「曼荼羅曼珠の華降りて」「栴檀沈水満ち匂ひ」と、「ン」の音を「マ」音や「サ」行昔に絡め、美しくも荘重に「う た」声を響かせておきながら、「むくさに大地ぞ動きける」と「六種」といわず、軽く大和言葉でむすぶ「うた」の余韻。この辺が魅力でしょう。奇瑞奇跡の大 いさ、有難さが、そっくり豊かに音楽として表現されています。
 次に「薬草喩品」から、七九番。

★ 釈迦の御法は唯一つ 一味の雨にぞ似たりける 三草二木は品々に 花咲き実なるぞあはれなる

 「久能寺経」という、ちょうど「源氏物語絵巻」と「平家納経」との時期的にも質的にも中間に位置する写経の見返し絵の中に、この薬草喩品の経意を写し て、雨の野に傘をひろげた貴人を描いたのがあります。しみじみと仏の慈悲を雨に譬えた描きざまの美しい絵ですが、この「うた」も、およそ文字通りに受け 取っていい、しんみり有難いものです。一、二、三という文字をうまく使っているなど、心にくいものがある。
 次に「授記品」から、八五番。

★ 四大声聞如何ばかり 喜び身よりも余るらむ 我等は後世の仏ぞと 確かに聞きつる今日なれば

 お釈迦さまには迦葉 須菩提 迦栴延 目 連という「四大声聞」つまり四人のえらいお弟子がありまして、この四人が法華経の「授記品」で、未来に確かに 「仏」と成るであろう、という保証、ゆるし、を得るのですね。その四大声聞の喜びをそのまま歌っている、には違いない。が、もしそれだけなら、凡夫にはよ そごとです。共感を深めることはできない。
 四大弟子は、もろもろの仏弟子、現にこの「うた」を歌う民衆を含めての、すぐれた代表者でもあるのです。四大弟子が後世の仏になれる、という確かな如来 の保証は、いつか努力しだいで自分にも順番がめぐり来るであろう保証、として共感するから、すばらしいこと、有難いこと、なのであって、「如何ばかり喜び 身よりも余るらむ」という推察は、もし自分もそうならその時は、という思い入れが感動に高まっているのですね。この私でも、ありありとその感動を自分のも のにしながらこの「うた」が読めます。私もやはり、仏になりたいのです。もう一度。

 四大声聞知何ばかり 喜び身よりも余るらむ 我等は後世の仏ぞと 確かに聞きつる今日なれば

 「我等は」という声の響きを、きちんと聴きとめたいものです。
 次は「法師品」から、一○三番。

★ 法華経八巻は一部なり 廿八品いづれをも 須臾の間も聴く人の 仏に成らぬは無かりけり

 「須臾の間」とはほんの僅かな時間の意味です。いわば「仏はさまざまに在せども 実は一仏なりとかや」を法華経八巻廿八品に言い換えた「うた」です。こ う言えばあなたはあの称名一念、一遍の教えを思い起こしませんか。莫大かつ無数のものから唯一つを代表させて全体を吶喊する、難行から易行への信仰の誘導 は、即ち古代から中世への仏教とくに浄土教の変貌を表わしているのですが、なかなか興味深いところです。この一○三番の「替えうた」でしょう、「寿量品」 の一二七番はこうです。

★ 法華経八巻は一部なり 廿八品その中に あの 読まれたまふ 説かれたまふ 寿量品ばかり あ  はれに尊きものは無し

 戻って「安楽行品」の一二四番がなかなか美しい。

★ 妙法勤むる験には 昔まだ見ぬ夢ぞ見る それより生死の眠り覚め 覚悟の月をぞ翫ぶ

 「妙法」は即ち南無妙法蓮華経です。「昔まだ見ぬ夢」とは経意からして自分がいつか成仏に及ぶ、という夢です。その夢に励まされて生死輪廻の迷いから はっと覚めてみると、心は夜空の月のように澄みきっていた、というわけですね。われわれが生きていると思い込んでいるのは、それ即ち夢中に迷っているだ け、真実生きるとはそんな夢から覚める、覚悟することという見極めが説かれています。
 次はずうっと飛んで「観音品」の、一五八番。

★ 観音深く頼むべし 弘誓の海に船泛べ 沈める衆生引き乗せて 菩提の岸まで漕ぎ渡る

 観音菩薩の衆生を救おうという誓いは弘大かつ深厚と申します。その弘く深い誓いを「海」と譬えて、「衆生」は、罪けがれの重さにその海に沈んでいるの を、観音は引きあげて救いの船に乗せ、往生菩提の岸へ連れて行ってくださる、そういう譬え「うた」です。ちょっと解説的でもあるが、それだけに分りは早 い。その分だけ詩的な美しさがやや概念化されております。
 これで「仏」「法」と終って、「僧歌」十首から一つだけ、一九○番を読みましょう。

★ 山寺行なふ聖こそ あはれに尊きものはあれ 行道引声阿弥陀経 暁懺法釈迦牟尼仏

 山寺で修行をつむ聖はあわれに尊いと讃えて、そのお勤めのさまを歌っているのです。夕には「引声」つまり声を長く引いて阿弥陀経を、さながら「うた」の ように美しく誦している、かと思えば、朝には釈迦牟尼仏の名をいとも尊く称えている、という情景ですね。
 但しこの「釈迦牟尼仏」を、『梁塵秘抄』では「せいきやうぼうぢふ」と発音しています。当時、漢音でよむ釈迦牟尼仏のそれが訓み方だというんですが、こ れはもう今日の私たちには、ちと妙ですね。
 さて法文歌で残るは、「雑法文歌」が五十首、実は五十一首有ります。
 が、いったいすでにお聴きのように「法文歌」それぞれの内容は、なかなか高等なものです。道理ないし教義として聴けば実に万巻の経意を蔵しているわけ で、それだけに、巧く「うた」になっているのはそのとおりではあるけれども、反面お説経に近くもなりやすい。決して面白おかしく読んでいいものではない。 どうも酒あり女もいるかという宴席に、そうふさわしくは思えない歌謡ですが、なぜ、これが流行ったか。いわば抹香くさい信仰の、仏教礼賛の「うた」が、な ぜ、かほども作られ歌われたか。と申すと、いかにも私が「法文歌」に感心しないようですが、その実は存外にこれらを私は好きでございます。面白いとも思っ ておりますうえに、この時代の信仰の在り様がかなり具体的に、示唆的に推量できるという関心のもち方もしております。決して軽く見られない。こう数多いだ けでも、それは一つの意味ある現象に相違ありません。
 世は早や末法末世、濫妨の濁世にさしかかっております。無明長夜の到来をしんそこ怖れる空気も日ましに濃いという時代です。現世の安楽もほしいが、それ が叶えられぬなら来世の安心がほしい。その逆でもむろんいいのでして、およそ十二世紀人の誰もがそう頼っていたのですね。好き放題にも遊んで現世も楽しみ たい。が、うかうかしていて、後世安楽を棒に振りたくもない。信心の行もともあれ相応に積んでおきたい。
 「雑法文歌」の二二二番に、こんな歌が出てまいります。

★ 狂言綺語の誤ちは 仏を讃むるを種として 麁き言葉も如何なるも 第一義とかにぞ帰るなる

 戯れの言葉が「狂言」に対して、綺麗に飾りたてた言葉が「綺語」ですね。ともに、実質を欠いた、むなしい遊び言葉、ひいては無意味な、ふまじめな文藝の 営み。そんなものは本質的にある種の誤ちごとだという認識が根本にまず在るんです、中国に。そしてより強く日本に、伝統的に在る。いわゆる物語なども、所 詮は女子供用の「狂言綺語」で、そんなことにかかずらわっていたため、紫式部は死んで地獄に堕ちたといった伝説すら生まれたくらいです。
 一方に「狂言綺語」へのそんな低い評価があるのですから、『梁塵秘抄』の今様の如き民の口遊みなどその代表格に当ります。
 ところがそれとても、尊い仏法僧三宝に帰依信順して礼讃するかぎりは、逆にたいした功徳となって、粗雑な荒い物言い、言葉づかいをはじめとする、大概の 罪障が帳消しになってしまう。それどころか、転じて「第一義」の道理、仏法の真実、を言い明らめる尊い言葉として、極楽往生の因になる、保証になる。まあ 百八十度の真っ逆様なんですね。
 但しこの「うた」の二句め、「仏を讃むるを種として」の「を」を除いて訓んでいる本もあり、私の古い岩波文庫本や日本古典文学全集では「讃むるを」なの です。ところが岩波版の「大系」では「を」を除いている。意味が変ります。私はこの「を」が大事だと思います。「狂言綺語」ながら「仏を讃むる」という行 き方「を」、「種として」、そこを発条にして、「第一義」に帰るのですからね。「を」を無くしては説得力が無に帰すると私は思います。
 ところでこの発想は中国の白楽天の、「願ハクハ今生世俗ノ文字ノ業、狂言綺語ノ誤リヲ以テ。翻シテ当来世々讃仏乗ノ因、転法輪ノ縁トセム」という詩句を 踏んでいます。白詩もまた他に拠るべき原典をもっていたでしょう。この考え方に立って『梁塵秘抄』の編者、口伝の述者の後白河上皇は、信念堅く今様への生 涯愛好の熱情を、はばかりなしに語ってやまなかったわけです。
 今様は、前にもちょっと申しましたが、どこか信仰心といつもいつも微妙にふれた雰囲気や調子をもっている。生理といってもいい。それだけに今様を歌うこ とを通じて、一方で遊び楽しんでいながら、他方で遥かに仏の教えを慕い、仏の教えを信じ、仏の教えを広めている、といった行法不思議の功徳がある、それを 信じる、というわけです。遊びが、そっくりそのまま信心につながって、それが尊いというわけです。
 ちょっと調子のいい話のようですが、古代から中世へ、信仰自体が生活化していく中での際立って特色あるこれは歴史的現象なので、草木国土悉皆成仏といっ た汎神論的信仰とも表裏しながら、何をしていても、底に一枚、信心の気もちが生きておれば、そのまま仏の教えに叶っているのですという、実に融通のきいた 視野が、人事と仏法との間に、一面に拡がっていったんですね。なまじ藝術的な文藝としての和歌より、直かに「法文歌」や「神歌」つまり今様を歌っている方 が、神、仏のお膝もとへ近いとするくらいの、いわば居直りに近い価値転換の論理が、ここに持ちこまれた。どの仏を信じようが根本は一仏である、どの品を読 誦しようが法華経の功徳にあずかれる、たった一念の南無阿弥陀仏で極楽往生疑いなし、といった発想とも重ねて、まことに興味深い一つの時代性の表現として よく認識していいことではないでしょうか。仏教の裾野、信仰の幅が、つまりは人間界寄りに好都合にどうっと拡がった証拠で、法然や親鸞や一遍の特異な浄土 教の誕生と、これは重大に関わりあっております。
 従来ならば、一心に仏教を学び信じて救われた。申さば修業・修学が必要でまた全てであった。難行苦行まさに勉強です。
 これを譬えれば、善人なら、知者なら、行者なら往生できた。
 ところが、狂言綺語をあやつっていても「南無」の一言で救われる。
 これを譬えれば前任でさえ救われるのに「いはんや悪人をや」の類です。悪人なれはこそ救われるのですという、仏の慈悲の大胆無比な大肯定につながりま す。
 善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
 悪人正機、親鸞の不滅の信仰です。『梁塵秘抄』の「うた」は、「法文歌」は、もう親鸞の信念へ、あと一歩という地点をさし示していました。
 面白いことに後白河院も、「口伝」中はっきり「せぞくもんじのごうひるがへして讃仏乗のいん、などか転法輪にならざらむ」ということを言いながら、ま だ、親鸞の域には至りえていないのですね。
 院はこう言っています。「我身五十余年をすごし、夢のごとしまぼろしの如し。既になかばは過にたり。今はよろづを投捨てゝ、往生極楽を望まんと思ふ。た とひ又今様を歌ふとも、などか蓮台の迎へに(来迎引接ですね)あづからざらむ」と。
 これはいいのです。問題はなぜそう信じえたかです。後白河院はそれをこう言っているのです。
 「其故は、あそびのたぐひ、(遊女ですね、そしてくぐつや白拍子なども意識されているはずです)舟にのりて波の上に泛び、流にさををさし、きものをかざ り色を好みて人の愛念を好み、」そのように妄執の罪を重ねている彼女らにして、しかも「法文歌」などの尊い今様を歌うということを善因に「往生」をとげる ことができる。平たく申せば遊女ほど賤しい者にも「往生」がゆるされている、「ましてわれらはとこそ覚ゆれ。」我らほど尊い上つ方の身には「往生」当然、 かくて「法文歌、聖教の文に離れたる事なし」という状態がいかに有難いものかが分る、という次第です。この身分尊い自分が、しかも真心こめて今様の仏法賛 歌を歌っているのだもの、救われないでいるはずがない、という確信です。自負です。信仰です。
 言い換えますと、悪人(遊女や自拍子を悪人というのもなんですが、親鸞の言葉と対比する関係で、また後白河院の口ぶりを察してこう言っておきますが)で さえ往生する。ましてや善人の自分が往生しないわけがない、と、こうなりますね。
 親鸞の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という信の深さというものほ、実にこの後白河院の「悪人なをもて往生をとぐ、いはんや善人をや」と いう自己満足(これを古代的自力的自己満足の信仰とでも言っておきます)を、中世的他力的無私の信仰へと一大革新したところに定まった、ということが言え るでありましょう。
 この意味でも、最後の古代人後白河院の手になって中世人の前に与えられた『梁塵秘抄』は、実に微妙な時代転換の折りめ、岐れめに立っていたことが分りま す。たいそう貴重な時代の心をこの『梁塵秘抄』は歌詞、口伝の両方から雄弁に証言しているわけです。
 さて、この後白河院と出会うのはふつう誰もが、私と同様に『平家物語』で、でしょう。そして、『』平家物語』の主人公は平清盛です、木曾義仲です、さら には源義経であり、その背後にいる源頼朝です。中学生の私が読んだ山田孝雄博士の解題にもそう書いてありました。
 後白河院(後白河法皇)という人はしかし、清盛に勝ち、義仲や義経に勝ち、そして鎌倉幕府の開祖である源頼朝にも生涯譲ることなく、逆に畏れさせた「大 天狗」でした。皇室と公家の勢力のためにこの上皇、この法皇は、頑強に乱世を粘り抜いて武家に屈せず、また摂関政治に対しても院政の権威・皇室の権威を守 り抜いたと言えます。とても一筋縄でくくれない巨人だったと言えます。私の『平家物語』の読みは、この法皇を、主人公と言わぬまでも『平家物語』世界の一 切の目盛を均衡させたり狂わせたりするに足る、中軸中枢に位置していたというところへ定まっていきました。
 今でこそ後白河法皇のそういう怪物的な大いさ、ユニークな点はかなりよく認められていますが、実のところこの天皇はむしろ久しくダメな帝王の見本のよう に嗤われてきたのでした。
 そもそも鳥羽天皇と中宮待賢門院の皇子(四の宮)である後白河、即ち雅仁親王は所詮帝位に即けるような器量とは思われてなかった人物でした。実兄に崇徳 天皇があり、この人がある厄介な理由で父親の鳥羽法皇に忌み嫌われていたんですね。それで半ばむりやり位を降ろされまして、しかも自分の皇子を即位させる ことができなかった。それができれは、慣例で自分が院政をとるわけですから問題はないのですが、鳥羽院は愛妃美福門院と自分との間の近衛天皇という皇子を 強引に即位させてしまったのです。ところがこの方が若くして死ぬ。それで今度こそはと崇徳上皇はわが皇子の即位を期待したのですが、またもその希望にわざ と背くようにして、反崇徳勢力は今度は部屋住みの、誰の眼にもその任でない弟の雅仁親王を担ぎ出し、とうとう後白河天皇に仕立ててしまったわけです。鳥羽 院も美福門院もこの親王の人物に期待していない、むしろ後白河の皇子でのちの二条天皇の方に期待していた。要は崇徳上皇に院政をとらせまい策略だったので す。
 ついに崇徳上皇は藤原頼長や源為義と組んで保元の乱を起こしました。西紀一一五六牢に当ります。しかし後白河天皇は平清盛らと組んで上皇側を圧倒してし まった。これが平清盛異数の出世の第一歩ともなりました。
 保元の乱についてはまったくいやになるほど複雑な背景がございます。どうかこの方は別途に歴史の本でくわしくご勉強願います。
 ではなぜ、そうも雅仁親王、後白河天皇が暗愚扱いされていたか、と申しますと、早い話が実は「今様」狂いのためだったのですね。
 たしかに後白河天皇(退位して上皇、出家して法皇、ないし後白河院)に政治家としての治績は無いも同然です。というより、先に申したように源平の桔抗、 摂関勢力と院近臣との拮抗、それに寺社勢力もあからさまに絡んだ全くの乱世の、ちょうど台風の眼というか、計りの支軸支柱に似た場所にこの院は位置して、 いろんな勢力を巧みに対抗させ闘争させ、一つが勝てばまた他の一つをぶつけるという工合に、結局自分ひとり生き残った、そういう権謀術数型の巨人だったの ですね。
 「口伝」では嘉応元年(一一六九)ごろに、先のように「今はよろづを投捨てて、往生極楽を望まんと思ふ」などと言っているわけですが、その実これが、清 盛が太政大臣になって二年め、二年後の暮には高倉天皇のもとへ、のちの安徳幼帝の母建礼門院徳子が入内するという次第で、後白河院が権謀の限りを尽さざる をえなかったのがこの以後のことなのです。あの源資時を連れ、都落ちの平家に背を向けて暗夜鞍馬に奔ったのも、この承安元年から十二年ものちのことです。 とにかくしぶとい皇室人でした。頼朝にしても、この人が死んでしまうまでは鎌倉幕府とはいえ、決して十分動けなかったのですね。
 この人は、もともと天皇になど成れると自分でも思ってなかったから、その覚悟で、も変ですが、部屋住みの間ずうっと好きに遊んでいました。達者に馬を 駆って狩もしました。中でも人目を惹いたのがつまり今様狂いで、「梁塵秘抄」口伝の巻第十というのは、この今様ゆえに生きたような後白河院前半生の、ほぼ 自叙伝的藝術論であるわけです。
 「口伝」については、やがて、もう少しとり纏めて申します。まずは「雑法文歌」を読みあげてしまいましょう。
 二三二番、をどうぞ。

★ 仏も昔は人なりき われらも終には仏なり 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ

 ついでに、こういうのも、どうぞ。

★ 仏も昔は凡夫なり われらも終には仏なり いづれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

 よく似ていますよね。「仏も昔は人なりき」を歌い替えて「仏も昔は凡夫なり。」分りがよくなっています。「三身仏性具せる身」では妙に難儀なのも、「い づれも仏性具せる身」と言い直すと、いかな凡夫の我々にも、まかり違えば極悪の我等にも、仏性の種が具わっていて、上手に育てればいつかは仏になれます、 という意味がすらっとのみこめます。違うのは互いの第四句だけです。
 二三二番を「もとうた」とすれば、あとのが「替えうた」なんですね。この「替えうた」は『平家物語』に名高いあの白拍子の祇王が、なが年寵愛された平清 盛により若く美しい仏御前に見変えられたと知って、六波羅邸を出て行くまぎわに恨んで歌った今様なのです。「もとうた」の「仏」は、まさに仏如来を意味し つつ「人」と対照されています。しかし祇王は巧みにこれを「仏」御前と、とりえもない「われら」祇王祇女姉妹と、という対比に置き直してみせ、それでも 「仏」も「私(凡夫)」も本性本来に差別はないのに、隔てありげに一方を良し他方を悪ししとなさるのは悲しゅうございますこと、と愬えているのです。祇王 の「替えうた」をもう一度読んでください。

  仏も昔は凡夫なり われらも終には仏なり いづれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

 こんなぐあいに「替えうた」に即興の趣向をうち出せるのも、いわば雑藝、民衆藝能の面白さです。こう折にふれての言い替えの例は『平家物語』にまだ二度 三度と出てまいりますし、『梁塵秘抄』の作をよくよく読み較べてみましても、明らかに、あ、これとこれは互いに「替えうた」だ、ないし言い替えだと分るの がいくらもございます。いつの世でも上手な「替えうた」をつくれる人というのは、一座の人気者であり機才に富んだ人でしょう。
 では次に一度に、二三五、二三八、二四○番の三つをつづけて読みましょう、およそ八五音になっております。

★ われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし

 これが、二三五番。次に、二三八番。

★ 暁静かに濠覚めして 思へば涙ぞ抑へ敢へぬ はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参る  べき

 次に、二四○番。

★ はかなき此の世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに よろづの仏に疎まれて 後生わが身をいか  にせん

 さ、いかがでしょう、あなたがお年寄りか若い方か分りませんけれど、もし年輩の方だとどんな感想をお持ちでしょうか。若い人だとどうでしょうか。ここに はまざまざと、源平争乱の十二世紀を苦しく生き、今は老いを自覚した古代の老人たちの嘆息が、響いています。その嘆息が、はっきりと今は後世安楽、極楽往 生への熱い願いに高まっています。信仰を持つ人にはせめてもそれが老いの前の心の慰めであり、死の不安を静めるせつなる願いだったのでしょう。
 「われらは何して老いぬらん」と深い深い徒労感を抱いて、「思へばいとこそあはれなれ」と思わず胸を抱いてうずくまる老人にとって、源平、公武の果て知 れない民衆抜きの争いは、絶望的な末法末世と映ったことでしょう。もう今はひたすら極楽世界へ引きとってくださるという阿弥陀様の本願におすがりするしか ない──。哀しい、が、心に迫る「うた」です。
 また、「暁静かに寝覚め」するのは、お年寄りのつねのようですね、早く早くに眼が覚めてしまう。と、つくづく過去現在未来が思われて、「思へぼ涙ぞ抑へ あへぬ」わけですね、ああこうも一日一日ぐずぐずと侘しく日を送ってみ仏を拝むこともしないでいては、どうして浄土へ行けるだろう、今からはためらいなく 仏の慈悲にすがって後生を願いましょう、という──これも実感に溢れ胸を打つ「うた」ですね。
 さらに歌い替えてみると、はかない一生をあくせくと精一杯に海で山で働いて稼いできたし、今日も明日もまだ稼がねばならない。しかし、そんな稼ぎにかま けているうち「よろづの仏に疎まれて」しまったなら、「後生わが身をいかにせん。」さあ、仏にすがりましょう、という二四○番の「うた」になる。

  われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし

  暁静かに寝覚めして 思へぼ涙ぞ抑へ敢へぬ はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参る  べき

  はかなき此の世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに よろづの仏に疎まれて 後生わが身をいか  にせん

 「実感」と申しました。が、これも「法文歌」であり一種の「説経うた」でございます。むしろ誰か知識階級の者が、民衆に、老人に、最初は与えた「うた」 なんでしょう。しかし、与えられたものが惻々として我が「実感」に育って頻りに物を思わせる。それは今日の流行歌の詞やメロディに相応に共感し、むずかし い本を読む以上に心を打たれる人がたくさんいるのと一緒です。決してそれを愚かなこと、低級なこととばかりは申せない。
 まして今の三つの「うた」など、老人の心情に時代を超えて迫っていく問題性をすらはらんだ佳い「うた」ばかりです。
 なるほど十二世紀の老人も寂しかった。
 しかし二十世紀(二十一世紀)の老人には、十二世紀人ほど、仏を頼む、信仰に生きる、ということが少ないだけ、老いの寂しさはもっと深刻だとも申せます でしょう。




   三章 十二世紀の今様 そして四句神歌


     五

 私はここまでわざとおおざっぱに、『梁塵秘抄』は十二世紀のもの、十二世紀は源平合戦の時代、といった言い方でものを申してまいりました。間違いではあ りません。が、厳密にいうと正確でもありません。その点を話ししたいわけですが、その前おきにさらに『梁塵秘抄』の「口伝」について、もう少し深入りして おきます。
 私は前に「口伝」の巻第十が述者の後白河院によって、申さば「今様」を主題の自叙伝かつ藝術論ふうに展開されたもの、と、こう申したはずです。
 こと細かな議論は省いてもよろしいでしょう、この「口伝」巻第十はおよそ一と纏めに書かれまたは話された大半と、後年に書き加えられた、追加された、ご く一部とに分けられるのです。
 前の大半部の「結び」の部分は早くに紹介したはずです、こう書かれています。

☆ 大方詩を作り、和歌をよみ、手をかくともがらは、かきとめつれば、末のよ迄もくつる事なし。こ ゑわざの悲しき事は、我身かくれぬる後とどまる事のな き也。其故に、なからむあとに人見よとて、 未だ世になき今様の口伝をつくりおく所なり。

 そしてこのあとに「嘉応元年三月中旬のころ、これをしるしをはりぬ。やうやうえらびしかば、初けんほどはおぼえず」とあって、これがいわゆる奥書に相当 していたのです。「口伝」と「撰集」の動機が尽されていますし、久しい事業であったことがよく分ります。おそらく大方を院は自身で作業されたようにすら想 えるくらいです。
 ところで、このあとに追加があるのです。どういう趣旨の追加かというと、従前、良い弟子ができない、だから自分の今様歌唱法が後世にも伝わらない、口惜 しい、残念だ、「遺恨」なりとまで「口伝」に書かれていたのが、幸い、源資時および藤原師長という、二人もの並びない名手名人の弟子ができた、やれ嬉し、 一と安心、ということをわざわざ書き加えられているのですね。「これ二人が様ぞ(二人の歌い方こそ)、風体いと違はぬにてあるべき。これに同じからむをば (資時、師長と同じに歌えてはじめて)よく習へりと思ひ、違はむをば疑ひをなすべし。我も我も我が様といふ者多からむずらむ。(自分の歌い方が正しいのだ と言う者が多いことだろう。)当時だに(このわたしが存命の間にですら)我が様とて諸々の僻振を言ふめれは(自分勝手にいろんな間違ったことを言うようだ から)、まして亡からむ跡はと覚えてこそ」この点をはっきり書き記しておきたいのだ、というのが追加部分の結び、本当の結語、です。
 とくに資時については、「年来継ぐ者なしと思ひしに、権現(熊野権現)の御計らひか」とまで言っているわけでして、これは、よくよくのことと思ってよろ しいでしょう。
 この部分は、前の部分よりよほど後年の追加と読んで間違いありません。資時が院に習いはじめたのが治承二年(一一七八)三月から「二年が間」だそうです から、撰集と口伝を終えた嘉応元年より九年もあとです。従って「口伝」追加は治承三年(一一七九)説や、同四年ないし文治元年(一一八五)頃までとする説 などありますけれども、どっちにせよ、後白河院がとうに出家して法皇となられている年代に相違ありません。(但し「口伝」前半にも追加はあって、治承二牢 九月、八幡参りに今様を歌って奇瑞が有った由の記事も加わっています。)
 ところで、すでに散逸して無い「歌詞」の巻第三ないし第十、および「口伝」の巻第二ないし第九の中身ですが、少なくも「口伝」部分については、巻第十冒 頭に後白河院自身、「神楽、催馬楽、風俗、今様の事の起りより始めて」(これは、「口伝」巻第一の書き出しを正しく受けています。)「裟羅林、只の今様」 などの「謡ふべきやう」(歌い方ですね)を、「田歌に至るまで、記し了はりぬ」と語りまして、およそ全体の内容がどんなものだったかを推量させつつ、これ らすべての「故事を記し了はりて、九巻は撰び終りぬ」と言っている。この言い方ですと、あるいは歌詞と口伝とは、おおよそ内容相応しながら編纂されていっ たのかも知れません、その点私はこうも想像していますので、申しておきます。
 私は歌詞篇五巻、これに相応した楽譜篇が五巻のつごう十巻の資料篇に対し、歌唱法の「口伝」が九巻、最後に後白河院が全体をまとめた自叙伝ふうの体験談 ないし総括ないし「あとがき」が一巻で、この口伝十巻分が、少なくも編集意図としては本来の本筋本体をなしていた、と。
 ともあれ、歌詞と譜と、歌い方および自伝的付記と、という総合された大系としての「今様」集成で、稀にみる雄大な意欲的な企てとして『梁塵秘抄』は構想 され完成された、と私は思いたいのです。
 嘉応元年(一一六九)三月中旬のころに、「やうやうえらびしかば(多種多彩に、そしてやっと撰び終えたので)初けんほどはおばえず」と、文字どおり肩で 息をついているくらいです、『梁塵秘抄』編纂をいつ思いたち、いつ着手したかは、とてももう決定できないわけでして、この年、嘉応元年には、もう後白河院 は四十三歳です。院が出家し法皇になられたのほ、この直後の同年六月のことですから、『梁塵秘抄』は「口伝」巻第十の追加を除けば、いわゆる後白河「法 皇」の、ではなくて後白河「上皇」の、場合によっては後白河「天皇」時代からの、いいえまだ部屋住みの雅仁親王時代からの編述であったかも知れないわけで す。
 さて、この辺で、ぜひ、年紀、と申しますか、歴史的な事の継起のさまといったものを簡単に再確認しておく必要がございます。そうすることで、より正しく 十二世紀の状況が頭に入るでしょうから。
 くりかえしますが『梁塵秘抄』の大体が成ったと「口伝」にある嘉応元年三月は西暦一一六九年に当っております。即ち、十二世紀の後半五十年がもう二十年 近く過ぎている時点、約八百年余り前のことです。以下、分りやすく西暦を主に申します。
 十二世紀開幕の一一〇一年(康和三年)は堀河天皇の治世、ですが、政権はその父の白河法皇が握っていました。つまり天皇が皇位を皇太子に譲り上皇(出家 すれば法皇)となってから、いわば天皇の親父、皇家の長者という資格で律令制の掣肘を受けずに政治を動かすわけで、むろん律令政治にすれば異例ですが、こ の「院政」を慣例化することで皇室は藤原氏の摂関政治に拮抗し復権を企てていたということになる。建前は天皇親政、しかし実質には上皇が政治を左右するこ の行き方は、とかく皇室の力をしのいだ藤原主流に対する対抗措置として確かにかなりの効果をあげました。もっとも白河法皇、鳥羽法皇とつづく二代のカリス マ的な強さもものを言ったし、対する藤原主流には内紛があった。また院政に寄生して力をのばしたい院近臣たちの策動もつねにありました。例えばあの源資時 の父である按察使大納言源資賢なども院近臣として、典型的な存在でした。
 ともあれ日本の十二世紀は白河院政の盛りの時期に幕をあけていたわけです。むろん異例の体制ゆえのひずみもあった。政権の中心部では上皇(父)と天皇 (子)と、また皇室と藤原氏主流と、そしてその間に頭をもたげてきた武家の中でもとくに源氏と平家と、また同じく貴族、公家の中でも主流藤原氏とその他の 貴族と、それに寺社勢力も加わって、もう何が何やら分らないほど複雑にいり組んだ暗闘が実際にくり展げられ、しかもこの渦に女の力までが介入します。つま り後宮の争い、閨閥の争い、外戚をめぐっての陰湿を極めた争い。
 保元の乱はいわばその限界点に達した大爆発でした。それが保元元年(一一五六年)のことで、白河院政をつぐ第二の王者だった鳥羽法皇の亡くなった直後の 大椿事でした。前にも申しましたこの時の天皇が、他でもない後白河天皇でした。そして乱後、実兄である崇徳上皇は讃岐に流され、無残に怨み死にに死んでし まいます。
 白河・鳥羽と二代つづいた半世紀に余る院政が、ここでちょっと空白をおきます。が、後白河天皇もやがて予定どおりという格好で、保元三年(一一五八年) には皇太子の二条天皇に位を譲って自分は上皇となり、また院政がはじまる。そしてあくる平治元年(一一五九年)には揺り返しよろしく平治の乱が起こって、 かえって複雑怪奇な宮廷事情が実は整理されてまいります。
 まず摂政関白政治というのが決定的な打撃を受け、ずんと後退します。
 次に源氏を圧倒して、本格的な平家の時代、つまり平清盛栄華の時代が到来します。
 この清盛には、一一六四年(長寛二年)という年に注目すべき二つの大事業がございます、その一つが厳島神社への名高い国宝『平家納経』の仕上げ。いま一 つはあの「三十三間堂」(蓮華王院)の供養。
 清盛には保元と平治の内乱を勝ち抜いた武力と幸運とがございます。上皇も、天皇も、公家も、寺社の勢力もそれを無視はなりません。今や古代の終末期に 至って平清盛は、久しい藤原氏の栄華に代る平家の栄華をつよく願望しながら、着々と力を伸ばして、ついに仁安二年(一一六七年)には太政大臣にまで昇りま す。かつては公家の膝下に侍っていたような武士としては、破天荒な、前代未聞の出世でした。
 『梁塵秘抄』はこういう有為転変の政治情勢のかげで、着々とか、遅々とかはさだかに分りませんけれども、ともかくも撰集事業が進められていて、清盛が太 政大臣になった仁安二年から僅か二年後の嘉応元年(一一六九年)には、後白河院の筆になる「口伝」巻第十に、殆ど全部が成った由を書き留められるにまで 至ったのです。
 平清盛の保元の乱以前は、事蹟が無くはないのですが殆ど取るに足りません。保元の乱といえば、すでに十二世紀半ばを過ぎていました。十二世紀と一と口に 申しても、前半は文字通り「院政」に終始していたことをお分り願います。
 平家の上昇期は保元の乱から清盛の太政大臣昇任まで、およそ十年の上り坂でした。
 さて平家の絶頂期、繁栄期に揺さぶりをかけたのが、有名な鹿ヶ谷のはかりごとですね、後白河法皇を中心に大納言成親だの俊寛僧都だの平判官康頼だのとい う、いわゆる院の近臣たちが京都東山の鹿ヶ谷に籠って平家討伐を計画した。しかしあえなく失敗して俊寛たちは鬼界島へ流されたりいたします。それが一一七 七年(治承元年)の事件で、これで平家の絶頂期にも暗いかげがさす。
 いよいよ下り坂に入るのは三年後の一一八〇牢(治承四年)で、この年、源三位頼政が、後白河皇子の以仁王をかついで、平家に背きます。この蹶起は宇治で あっさり負けてしまうのですが、同年のうちに源頼朝が伊豆で、源義仲が信濃で積年の怨みを平家にむくいんものと、一斉に兵を挙げるわけですね。清盛の任太 政大臣から源氏挙兵までが約十三年、これが奢る平家の絶頂時代というわけです。
 さらに源義経の武勇により最終的に壇ノ浦で平家が悉く滅亡いたしますのが、元暦二牢、この時入水して果てました平家方、安徳天皇側の元号に従えば寿永四 年(一一八五年)二月。下り坂にかかって滅亡までは五年か、せいぜい、七、八年しかございません。
 さて平家を倒し、同じ源氏の義仲や義経も倒し、奥州の藤原氏をも倒しまして、源頼朝が晴れて征夷大将軍の称号を得ますのが、建久三年(一一九二年)の やっと七月のことです。当面私どもの主人公後白河院は、もう亡くなっております。この法皇は、頼朝を自分の手ではとうとう大将軍にしてやらずじまいに、同 じ建久三年三月に亡くなりました。いわば畳の上での大往生でした。余談ながら藤原定家卿の『明月記』や九条兼実公の『玉葉』にかなり詳しく終焉の記事があ り、棺を担ぐ数人の中にかの「資時入道」の名もちゃんと現われます。
 後白河院は、途中少々の出入りこそございましたが、即位から崩御まで、日本の大激動期を三十六年間、粘って粘って生き抜いて六十六歳で大往生されまし た。おおよそ院政をとりつづけての大団円でした。人間が強いのか、運が強いのか。しかしこの方はより深い部分で「藝術家」でもあったことに多くを支えら れ、救われていたのではないでしょうか。この人物については、まだ十分の吟味が済んでいないというのが現状か、と私は思います。
 やがて十二世紀の果てる西暦一一九九年(建久十年)正月、ついに頼朝が死にます。京都ではすでに後鳥羽天皇が前年のうちに位をすべり、院政を再開してお ります。
 以上、こう眺めてまいりますと、実に二〇一年の白河院政から一一九九年の後鳥羽院政まで、十二世紀は、「源平時代」などと呼ぶよりも「院政の百年」と呼 んだ方が遥かに当たっている気がします。白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の四代にわたる院政。中でも十二世紀の前半五十年は、白河院と鳥羽院が断然押さえ、そ の頃の後白河院は、天皇どころか部屋住みの、希望のないただの四の宮雅仁親王時代で、それがまた彼の今様「狂い」、彼によれば「修練」の時代に当ります。
 後白河即位から嘉応元年までにも十四年の歳月が経っている。在位期間は僅か三牢です。が、彼は以後院政をとりはじめてからも営々として、表むき政治のか けひきのその裏側で『梁塵秘抄』完成のためにも夥しい歌詞を蒐集し、また長い長い「口伝」をつづっていたことになる。
 くどいようですが、和歌でも漢詩でもないのです。絵を描いてたのでも歴史を勉強して夢中で読書していたのでもない。遊女、くぐつ、白拍子らが広めて歩く ていの「今様」うたを蒐め、その唱歌法を詳細に検討し究明していた。
 なんというユニークな帝王でしょうか、それは信仰的な「法文歌」や民謡的な「神歌」から、やがて愛欲肯定の雑の「うた」かずに触れてまいるにつれ、おそ らくあなたを唸らせることでしょう。まさに「後白河院」と『梁塵秘抄』とは、十二世紀百年のユニークさを象徴していると言いきって錯たないのです。
 むろん後白河院の、文化事業には、『梁塵秘抄』の編纂以外にも、藤原俊成に命じた『千載和歌集』の勅撰があります。『年中行事絵巻』を描かせたのも、数 ある絵巻物の中で文化史的にみて珍しく価値高い、後世の我々にはありがたい仕事でした。
 ふつう保元・平治の乱や源平争乱のあった十二世紀は、ながらく、藤原時代や鎌倉時代のはざまに逼塞していた、いわば不毛期かの如く看過ごされがちだった のです。しかし、前半の五十年のうちには『三十六人集』『源氏物語絵巻』『久能寺経』『普賢菩薩図』といったそれぞれの分野で最高、第一等の名にふさわし い名品を産みだし、『大鏡』なども書かれています。造寺造仏にすぐれた遺例もたくさんございます。
 そして後半五十牢、文字どおり後白河院が主宰した十二世紀後半の五十年には、『平家納経』『信貴山縁起絵巻』『伴大納言絵詞』をはじめ、『鳥獣戯画』 『病草子』『餓鬼草子』『消息経』また『源頼朝像』『平重盛像』などがあらわれ、画風書風は一新され、武士の物具は華麗を極め、古代と中世を架け渡す 「橋」としてはみごとな成果を今日にまでよく伝えているのです。私には、この百年間を『女文化の終焉』の名でかなり詳しく語った本(美術出版社・一九七 三、湖の本エッセイ12、13、14)がございますので、ご参照ください。今様雑藝がこの百年にしめた重さもよく分ってくださるはずです。
 後白河院自身が今様雑藝の歌謡集に自分で手を染めて事に当った点を私は面白いと思います。詩歌、美術そして造寺造仏は古代文化の華でした。夢でした。古 代文化といえば貴族文化のことです。公家貴族の統率者である後白河院が、それらを軽く見るわけがない。しかも彼自身は、最底辺の庶民のものでもある同時代 の歌謡、今様うたを、みずから究めみずから説いた。いわばその専門書を合計二十巻も編集された。
 公家貴族が時を得ていた古代社会に武士の武力が割って入って、公武拮抗という時代になっていく、それが日本の十二世紀です。これさえ慈円(九条兼実の実 弟で延暦寺座主。『愚管抄』という優れた史論の著者ですね。百人一首に大僧正慈円の名で「おほけなくうき世の民におほふかな我が立つ杣に墨染の袖」という 神妙な歌を詠んでいます。)のような最高級の貴族僧侶が「武者の世」到来と嘆いていますように、前代未聞だったのに、この後白河院は庶民も庶民、最下層の 民衆との接近をものともしないで『梁塵秘抄』に熱意を燃やしたのですから、これこそ何よりもめだつ当世風俗、今様、つまり文字本来の「今様」の最極端とは これだったわけですね。さぞ顔をしかめる人も多かったことでしょう。
 いったい、何度も申しますけれども「今様」とは「古様=昔風」と一対の言葉です。今日的である、今めかしくて新鮮で、だから面白いもの、というくらいの 意味です。もっとも、わるく取れはいくらでもわるく謗れる、卑俗で下等な半面も具えもっていたはずです。
 従って何も歌謡に限った謂い方ではない。意味だけ汲んで申すなら、和歌にも今様があり、『千載集』や『新古今集』もそれ以前の勅撰和歌集とははっきりち がった新風の今様を打ち出していました。
 繪巻物にしてもそうです。女繪といわれた描き方で最高傑作である、いわば色が主体の『源氏物語繪巻』が、白河法皇の後宮を中心に十二世紀はじめにでき上 がっていたのに対し、おそらく『梁塵秘抄』とあい前後する頃には、色より線を主体にしますところの男繪の最高傑作で、前に名をあげた『信貴山縁起繪巻』や 『鳥獣戯画』や『地獄草紙』などが続々と新登場します。これも当世の風、顕著な今様現象です。
 書にしてもそうです。小野道風などの平安朝の書風に対して、美しいだけでなく、実用的に機敏で明確な、新しい今様の書が物を言ってきます。美しい能書よ り間違いのない達筆へということでしょうか、武人である清盛も、頼朝や義経も、なかなかの字をちゃんと書いているし、伝染力をもったはずです。
 衣服もそうですね。古代王朝の、きらびやかな女装束ないし「女文化」の装束から、武士たちの武具物具が時代の中心にきらきら映えてきます。十二世紀の大 鎧、大兜、そして強い太刀、強い弓。紛れもない十二世紀今様風俗の代表格なんですね。
 どんな時代もつねに過ぎし日に対して「今日」であり「現代」であるのですから、今様は必ずその時、時、に存在した。しかもなお日本の十二世紀は、とくに 平家が上り坂につく境からのわが十二世紀後半は、好むと好まぬにかかわらず、世をあげての際立った「今様」時代でした。
 しかし大事なのはここです、即ち、そうした諸々の今めかしく、新しい時代転換期の諸現象の中で、他の一切を措いて「今様」中の「今様」として、他でもな い歌謡、「法文歌」とか「四句神歌」などのいわゆる今様雑藝に、代表して「今様」という固有名詞が与えられていたことです。
 この事実を、どうか重く重く感じ考えていただきたい。ここに十二世紀人の、新風、今様、に対する明らかな判断、評価、共感、意志、趣味というものが認め られるからです。
 もはやご想像のように「今様」の内容はただ法文歌、神歌とは限定できない、甚だ雑多なものです。それはやがて興趣に富んだ「雑」体の「うた」を読めば明 らかになることですが、思えば十二世紀とは、爛熟する古代女文化の一切と、新生をめざす中世男文化ないし衆文化の兆しとが、ごった煮のように混じりあって どうっと沸騰してきた百年なのでした。
 『梁塵秘抄』の今様は、こと信仰から風俗を経て愛欲に至るまでの、そういう雑多な混合状態をそっくりさらえ出して「うた」の詞に定着させている点で、文 学的価値以前に豊富な歴史資料的価値をたっぶり含んでいる。後白河院自身は音楽的な、歌唱的な意図と期待を寄せていたにせよ、今日の私どもにとって『梁塵 秘抄』とは、貴重な言語表現を介し古代と中世のつなぎめをみごとに証言する、今も生きた大事な証人の一人なのですね。その価値は同時代を証言するものとし てなら、或いは『平家物語』などより高いかもしれぬくらいです。
 『梁塵秘抄』の歌謡に原則的に嘉応元年(一一六九年)以後のものは含まれてないのは事実でしょう。
いったい古くはどの頃からの「うた」を蒐集しえているのか、私には確かなことは言えませんけれど、古いものは十世紀、『源氏物語』以前にまで溯る「うた」 も含まれているか知れません。大事なのはそれが歌いつがれていなければ残りようのない、拾いあげられようのないものばかりだった、ということでしょう。
 その意味では、成立は十二世紀中葉ですが、「うた」が歌われたことではそれ以前ないし十二世紀全体、十三世紀にもそれ以降にも及びえた『梁塵秘抄』で あったろうことは、少しも割引く必要がない。
 かなりおおざっぱなことを申しましたけれども、それでも『梁塵秘抄』が十二世紀のどんな時点で成立し、どんな側面を表わしえていたかは、お分りいただけ たろうかと存じます。
 まあ、取り纏めて私は、ただ源氏と平家が戦をしたからだけでなく、政治、経済、文化、藝能、宗教、風俗、人心の全部を眺めて、十二世紀くらい面白い百年 はない、とさえ思っております。そしてその理解の根本の部分に、算数の分数で申します分母の部分に、私は「後白河院」と『梁塵秘抄』とを一と組にして置く ことにいささかもためらいを覚えないくらい、以前からこの人物、この今様雑藝の集に興味と関心とを抱きつづけてまいりました。


     六

 さて長談議はうちきりに、また「うた」を読んでまいりましょう。
 巻第二の「四句神歌」からでしたね。
 「神歌」と申しますからは「法文歌」と並べて、これにも信仰色が強いには相違ありません、が、それは『梁塵秘抄』の全部、当代の「今様」の全部について 言えることでした。十二世紀ほどの乱世に、それも末世到来に脅えている末法の世に人が信仰や宗教と無縁に生きえたか、生きえたはずがない、と考えてみれ ば、もっともな話ではあるわけです。
 が、「四句神歌」全部が抹香くさい、辛気くさい、神、仏ものばかりか──そうではない。決してない。むしろ「神歌」の根は民謡にあるとさえ申せます。
 ここに新たに、十二世紀ないし中世開幕期の特色であるムンムンと人間くさい世界が、あざやかに開けてきます。それが「四句神歌」のとりわけ「雑」の部の 「うた」で、この部分を除けば、『梁塵秘抄』の魅力は半減どころか、三分の一にも四分の一にもなろうか、とさえ言われております。
 四句神歌のはじめに「神分」三十六首がございます。
 十二世紀頃には神仏習合、古来の神道と渡来の仏教とを総合して、神も仏ももとは同じ、といったていの物の考え方、信仰の誘導の仕方が盛んになり出した頃 ですから、「神分」というのも、その手の思想の影響下、いや支配下における神祇歌、神さま「うた」でございます。さほど面白いのは多くありませんので、適 当にトバしてまいります。
 まず、二五一番から。
 「何れか貴船へ参る道──」と、こういう調子で参宮道の道順を歌ったのが多いのです。

★ 何れか貴船へ参る道 加茂川箕里御菩薩池 御菩薩坂 畑井田篠坂や一二の橋 山川さらさら岩枕

 ま、説明しようのない「うた」で、貴船社へ参る道順をそのまま地名を盛りこんで歌っている。こういう類がこの辺、多うございます。京都の町なみを憶える のに、「丸竹えびすに押し御地、姉さん六角蛸錦、四綾仏高松万五条」などと申します。京都の通りを北の方から丸太町、竹屋町、夷川、押小路、御地、姉小 路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺、五条と並べているわけで、京都育ちの私にもけっこう便利です。貴船への道行 はこんな暗号じみたものではないが、相応に便利な「うた」でもあった、あの「鉄道唱歌」式の道案内だったのでしょぅ。もう一度、読んでみてください。

  何れか貴船へ参る道 賀茂川箕里御菩薩池 御菩薩坂 畑井田篠坂や一二の橋 山川さらさら岩枕

 この手のものは総じて「替えうた」的性格が濃いのも、当然ですね。
 では、二五三番。

★ 近江の湖は海ならず 天台薬師の池ぞかし 何ぞの海 常楽我浄の風吹けば 七宝蓮華の波ぞ立つ

 琵琶湖はただの湖ではありません。比叡の御山の薬師如来のお池なのです。それが初めの二句、「近江の湖は海ならず 天台薬師の池ぞかし」の意味ですね。 そして改めて「何ぞの海」と問い返し終りの二句が続く。日本一の大湖を譬えて薬師の池に見立てるというのは、それなりに美しくも雄大なんですが、「常楽我 浄」は、文字はやさしいがそう分りいい四文字でない。涅槃に関わる不生滅、安楽、自在、清浄の四徳などと聴いても「ほう」としか思わない。のに、「常楽我 浄の風吹けば」と口にしてしまうと何となく神変不可思議に涼しやかな風が吹けば、というふうな、分かる気がいたします。すると「七宝蓮華の波ぞ立つ」んで すね。七宝蓮華にしても眼に見るように、指さすように分るわけではない。のに、分ったと言えば分った気がする。七つの宝、そんなきらきらしい宝で飾られた ような蓮の花、その美しい蓮の花に見紛うような波が湖いちめんに立つ。それで十分、それで有難い奇瑞の湖として、あの琵琶湖がなみなみならず想像できるの なら、いいのです。

  近江の湖は海ならず 天台薬師の池ぞかし 何ぞの海 常楽我浄の風吹けば 七宝蓮華の波ぞ立つ

 はじめてこの「うた」を覚えましたむかし、何はさておいても「近江の湖は海ならず」という一句だけで、もう何ともふしぎに琵琶湖が想像されて好きになり ました。ならずにおれなかった、という覚えがございます。そういう受けとめ方が銘々に、どれかの「うた」にできればいいのですね。字義や典拠や文法や解釈 に足をとられ過ぎていると、せっかくの宝が光を喪ってしまうことがある。研究者には研究者の、私どもには私どもの読み方があってよく、根本は古典への敬意 を失わぬことではないでしょうか。
 では、二五六番と二五八番。

★ 熊野へ参るには 紀路と伊勢路とどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀絡も伊勢路も遠か  らず

★ 熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山峻し 馬にて参れば苦行ならず 空  より参らむ羽賜べ若王子

 結局はどっちも「遠い」ということを歌っているのですが、二五八番の方が面白いですね。
 和歌山県南端の紀伊熊野の本宮、新宮への参詣は十二世紀ごろ俄かに盛んとなり、とくに後白河院は生涯に三十三度もはるばる往来されたと申します。後鳥羽 院もそれをしのぐほど熱心で、お伴の公家たちが音をあげたほどでした。
 熊野へ参る道は、京都から、大きく分けても三通りほどございました。が、いずれを通っても難路峻路。途中、「王子」と申しまして宿舎にもあてられるいく つもの末社があった。一行は王子ごとに神前に歌を献じたり、今様の遊びを楽しんだり、そこへ遊び女たちも寄ってきたりして、信仰と物見遊山との入り混じっ た行楽気分もたしかにあったわけです。が、何しろべらぼうに遠い。山は高く峻しい。「徒歩」には遠いし「すぐれて山峻し。」しかし、この厳しさに耐えるの が即ち信仰を証明する行なのですからね、「馬にて参れば苦行ならず。」行が行にならない。
 ま、そんなことを息を喘がせて、互いにぼやきながら歩くのでしょうね。と、峯より高く、悠々と熊野鷹でも舞うのでしょう。そうだ、いっそ「空より参ら む」どうか熊野の神さま、あの大鳥のような羽をくださいまし。
 「若王子」は熊野十二所権現五所王子の一体で、若一王子というのが正しいのでしょうが、霊験あらたかな熊野の神々の一柱とくらいにお考えください。

  熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山峻し 属にて参れば苦行ならず 空  より参らむ羽賜べ若王子

 ところが、二六一番がこれとよく似ています。

★ 八幡へ参らむと思へども 賀茂川桂川いと速し あな速しな 淀の渡りに舟泛けて 迎へたまへ大  菩薩

 今もございます、石清水八幡宮へは、かつて水路、と申すよりは渡し舟で向い岸から参宮いたしました。それについての神頼みですね。さきの二五八番と、互 いに「替えうた」と言って差支えないのが分る。それに説明の必要もない分りいい「うた」ですね。「あな速しな」という一句で、眼の前に水勢ゆたかな急流を ありあり見ている感じがする。率直な面白さを巧みに生みだしていますね。
 「神歌」には、こういう神詣でに関わる「うた」が多く、類型ともなっています。が、但しただの信仰だけでない。「迎へたまへ大菩薩」などと、口うらに好 色な期待もひそませてあります。そこに行旅、行楽の、心ほぐれた気持、仲間同士の冗談口に近い卑猥で愉快な口つき物言いが「うた」に生きているのを聴き落 さないことが肝腎です。神さま菩薩さまの方にもちゃっかり色気の客寄せ、宣伝の気味もあるわけです。
 それと、もう一つ。
 熊野権現とか八幡大菩薩とか、つまり神様の世界と仏教の世界とが、信仰を通して一つに溶けあっているという、特異な姿。神仏習合、本地垂迹などと申しま して、日本の神と渡来の仏との間を、もとの姿と仮りの姿とに連合させ、仏神ともに一つにくくって、同時に礼拝し信仰します。今日では誰も八幡大菩薩と申し て怪しみませんが、かりに今の世にアラー明神だのキリスト菩薩ではなじまない。そのような、なじまないながら仏教にも神道にも、と申してもより仏教寄りに ですが、つごうのいい信仰の形を演出し誘導していった、そんな神仏習合や本地垂迩信仰の熱心な開花期と『梁塵秘抄』の世界とは、ちょうど時期としても相重 なっていたことを、こういう「神参り歌」が証拠だてているのですね。
 生涯に三十三度も熊野詣でをした後白河院の桁外れの行ないには、いろんな他の理由もあったでしょう。しかもなおかつ、こういう信仰上の「今様」にも先が けていったこの人物の、ある個性はうかがい知れる。新日吉社や今熊野社を京都へわざわざ呼び寄せたのも後白河院なのです。
 やや調子の違った、面白そうな「うた」を読みましょう。二六五番、です。「四句神歌」にしては長いものです。

★ 金の御嶽にある巫女の 打つ鼓 打ち上げ打ち下ろし面白や 我等も参らばや ていとんとうとも  響き鳴れ 響き鳴れ 打つ鼓 如何に打てばか此の音 の絶えせざるらむ

 「金の御嶽」は吉野の金峯山で、古来、修験道の霊場として知られています。そこに神楽を舞ったり、神託を人に伝えては神に仕える女、巫女がいるのです が、その「打つ鼓」が、「打ち上げ打ち下ろし面白や。」
 山なかにひびく鼓の音に、遠く私どもも耳を澄ましてみましょう思わず、「我等も参らばや」参
りたいなという気になってくる。この「我等も参らばや」が、間投詞というか直接話法というか、
さきの八幡参りの「うた」にあった、「あな達しな」などと同類の、いい効果をもっている。そし
てもう一度鼓へ戻って「ていとんとう ー 」
 今の私どもに、鼓といえばポンポンと聴えますが、昔の人には「ていとんとうとも響き鳴れ 響き鳴れ」なんですね。こういう擬声音は国によっても違うけれ ど、同じ日本でも時代によって違うのが面白い。いきなり時代の空気が知れてしまう趣がある。ましてやここでポンポコポンでは、狸の腹鼓になってしまいま す。ここは神に捧げる音楽です、「ていとんとうとも響き鳴れ 響き鳴れ。」
 山々の木々にこだまして鳴る鼓の音に、ふと神々の声が聴こえてくるんでしょうか、「如何に打てばか」(どんなにして鼓を打つと)ああも音色尊く澄みきっ て耳に残るのだろうか、ああいい音だ、尊いことだ、という感じ。それを、ああ楽しい音だ、面白い鼓の拍子だ、と取っても構わない。それは金峯山へ参る、人 それぞれの思いであっていい。「うた」 の詞はそのどっちもを含むことのできる余裕をもっています。いわゆる含蓄ですね。

  金の御嶽にある巫女の 打つ鼓 打ち上げ打ち下ろし面白や 我等も参らばや ていとんとうとも  響き鳴れ 響き鳴れ 打つ鼓 如何に打てばか此の音 の絶えせざるらむ

 どれほど当時の人々にとって神詣でや仏参りが、また楽しみの種、珍しい見聞の機会にもなっていたかが、よく分ります。
 そこでちょっととんで、二七三番。

★ 住吉四所のお前には 顔よき女帝ぞおはします 男は誰れぞと尋ぬれば 松が崎なる好色漢

 摂津の国(大阪府)住吉大社には、表筒男、中筒男、底筒男命という男神三所と、息長足姫命(神功皇后)のつごう四所の神々が祀ってあります。この神々の 御前に「顔よき女帝」がいらっしゃるという。美人の女帝とは誰のことでしょう、神功皇后その方か、いろいろ説がございますが、住吉の神に仕える巫女ないし 神社に群がる遊び女と取る説が有力で、それを「女帝」と大きく譬えてみたという。端的に「女体」と読んでいる本もあって、その方が率直なのですが、「おは します」という敬辞がやや「女体」では浮かんでしまう。
 それではその尊げな「女帝」「女体」「顔よき」女人を守る男は誰なのか。守るなどと申せば物々しいが、要は女体の美形美色を慰めにくる男、ひいては女体 を求めて味わいにくる男どもは誰なのか。それは松が崎なる「好き男」だというんで、この「好色漢」をまた、よその神社の男神と取る考え方もあるし、どこや ら松が崎の「好き男」とも取れます。
 私は、この歌に、神々同士の好色と、その神々に仕える女と女のもとへ通う男との好色とを、二つ重ね合わせ、神人もろともの好き心を読み取るのが、この 「うた」本来の面白さであろうと考えます。
 どっちと決めつけてしまってはつまらない。神も人も、ともに本性に「好き心」をもっているのだというくらいの理解が大事です。その理解を介して旺盛で、 おおらかな古代の心がまだまだ横溢しているのを感受したい。また神詣でや仏参りの道行には、存外、神々しく浄らかなばかりでない、好色の花もたくさん咲い ていたことを分りたい。
 私の育ちました京都では、例えば祇園八坂神社の前に祇園町という遊廓があります。北野神社近くには上七軒だの五番丁だのというのがありました。
 十二世紀の神詣で仏参りには、そうした男女の花ごころ、好き心が纏綿とまといついていて、そこから新しい「うた」が生まれ、踊りが生まれ、多くの流行の 一つの源点になった。社頭、即ち神社の鳥居本とは、そういう期待ももって人k群集する場所だったのですね。『梁塵秘抄』の法文歌はお寺の、神歌はそういう 神社の、境内や鳥居本を一つの母胎にしていたのでしょうか、それを必ずしも「信仰」一辺倒では割りきれない。人くさい風俗や遊びの楽しみと絶えず裏表に、 両面からものを見ないといけない、と私は思うのです。
 女体や好き男の「うた」を出しましたが、こういうのもございます。ちょっと戻って二六八番。

★ 清水の冷き二宮に 六年苦行の山籠もり 数珠の禿るも惜しからず 童子の戯れ如何なるも それ  如何に

 「二宮」は比叡山王上七社のうち東本宮のこと、本地は薬師、と申してもピンとこない。致し方ないことです。むしろ、そこは清水の冷たいので聞えた霊場と 了解することが先です。そこで六年山籠の修行をしているというわけです。
 日々に数珠をくって珠が磨滅しそうだが惜しいわけがない。それほど一心に行じているようにみえて、あとが可笑しいんですね、「童子の戯れ」というのは、 法華経の中に、こどもが戯れて砂で仏を造るとか、仏の絵をどうへたに描くくらいであっても、それでも成仏のための功徳になると教えているので、それを引き あいに、こうまで修行を積んでいる我が功徳のほどは「如何に」と自問している。
 これは、前に後白河院と親鸞とを較べたのと似てますね。どこかに信心誇りというか、難行誇りがある。それが出ずに済まない。やはり凡夫なんですね。そこ が哀しく、そして可笑しい。
 四句神歌の「神分」からいくつか読みました。
 次に、法文歌の場合と同じに、また「仏歌」、「経歌」「僧歌」と、仏法僧三宝の「うた」が並びます。そのあとに「霊験所歌」つまり、霊験あらたかな、比 叡山根本中堂とか清水寺とか、いろんな霊場をほめて歌った「うた」がつづきます。
 その「仏歌」から、二八三番。

★ 我が身は罪業重くして 終には泥犂へ入りなんず 入りぬべし 佉羅陀山なる地蔵こそ 毎日の暁  に 必ず来りて訪うたまへ

 「泥犂」は地獄のことです。佉羅陀山にいる地蔵菩薩は、地獄の亡者を救うといいます、賽の河原のことなど、ご存じでしょう。「毎日の暁に」とはもう地獄 に堕ちている気でいるわけですね。此の世を地獄とみる考え方もしていたのでしょう。「入りぬべし」という句がずんと重く胸にこたえます。
 同じ「仏歌」から次に、二八七番。

★ 妙見大悲者は 北の北にぞおはします 衆生願ひを満てむとて 空には星とぞ見えたまふ

 大悲妙見菩薩を北極星か北斗七星かに見たてているのですね。説明を要しません。美しいなと思ばかりです。美しさほ、人間的な欲望を惹くこともあり、また 崇高な信仰の心を誘うこともある。この「うた」など、純然として心を清く澄ませます。
 「経歌」は割愛します。が、次の「僧歌」には、注目したいものが二、三つづきます。

★ 我等が修行に出でし時 珠州の岬をかい回り 打ち巡り 振り棄てて ひとり越路の旅に出でて   足打ちせしこそあはれなりしか

 「我等」は複数でなく、ここでは自分、わたし、の意味ですね。
 このわたしが修行の旅をした時のはなしですよ。あの難所ながら霊場で名高い能登の珠州の岬を、や っとやっと歩き回りましてな。えいえいと海端に沿って めぐりましたよ。とうとうの事で岬をあとに、 ひとり北陸の方へと旅の足をのばしましたものの、道中、足ももつれるくらい、爪先やら踵やらに怪 我なんど 致しましてな、あれは、本当に辛うございましたよ。
 ああも想像しこうも口にしながら耳の底に聴いていますと、一人の修行者の、寂しい一人の修行者の、寂しい一人旅の様子、道吹く風の音や、孤独な足音が、 聴こえてまいります。
 しかし、この「うた」のこの歌い手は、決して一人では歌っていないほずです。聴き手がいるはずです。いわば「うた」仲間というものがある。飲んで食べ て、話して歌って、火も燃えていてのあげくに、みなが一と息入れた所で、ふと、述懐と回想の「うた」を誰か気の良い修行者の一人が、即興の「うた」にし た。そういう「うた」でしょうかね、これは。
 大事なのは「我等が」という歌い出しが、はっきり特定の体験をもった一人、自分、の意味になっている。これは私がもう前に、『梁塵秘抄』にはまだまるま る個人が、「我」一人が、出てこない、まだまだ民衆が、一座の衆が「我々」という共感の中で「うた」を歌っている、と申したのと矛盾するようですが、そう ではないのであります。
 この「うた」など明らかに「我」の芽が出てきた印であって、「我」一人の体験を特別の表現として打ち出そうとしている。その点ここに古代の民衆が、中世 人として一歩を踏み出そうとしていたその第一歩が、たしかにうかがえます。
 が、またこの「我等」はすぐさま他の衆それぞれの「我」に吸収されて、共有の「我等」の「うた」になってしまう。一座の誰もが同じような体験を重ねてい て、共感の地盤がまだまだ一枚岩の広さと厚さをたっぷりもっていた。一座の人にはこの「うた」の「我等」を、ただちに「我」「自分」のこととして受けとれ る素地をもっていたでしょう。

  我等が修行に出でし時 珠州の岬をかい回り 打ち巡り 振り棄てて ひとり越路の旅に出でて   足打ちせしこそあはれなりしか

 そこでただちに次の声が起こります。
 三○一番になりますと、もう同じ「我等」が、それなら「俺もそうさ」という、打てば響く、主張、または共鳴、になっています。

★ 我等が修行せし様は 忍辱袈裟をば肩にかけ また笈を負ひ 衣はいつとなく潮垂れて 四国の辺  道をぞ常に踏む

 「我等が修行に出でし時」と一人が歌い出せば、次の一人は「我等が修行せし様は」と応じています。先のが北陸、能登を足打ちして歩いた、辛かった、と歌 えば、こちらは、袈裟をまとい笈を背負って、四国の辺路、と言いたいが、辺道であり辺地であるような処、むしろ意図して海辺から海辺を難行苦行して歩いた んじゃないでしょうか、そのため衣も何もみな潮風に打たれてべとつくのでしょうね。
 まさに歌声が一つ起こればすぐ二つに広がる。そこに体験の共有というていでの、人々の交流が始まる。たまたま似た体験ではあれ、北陸と四国は遠く離れて います。しかもなおそんな二人、三人、五人、十人が顔を合わしているから成り立つ「うた」ではありませんか。
 それなら、何処で。
 それはやはり京都でと私は考えたい。しかし都の町なかででは、よもありますまい。となると、鴨の河原や寺社の門前でしょう。
 一般の庶民農民は、決してこの時代そう自由に全国を歩きまわれはいたしません。となれば、動くのは山伏や聖たち、です。くぐつや歩き巫女たちです。アウ ト・ロウです。彼らがこんな体験と同時に、さまざまな都の文化、風俗、そして物語や噂を地方へ、田舎へ、広めて歩いた。そのような彼らの働きには、実に大 事なものがあって、辛うじて日本中の人が、どこかで心と心の触れあえるパイプの役を果していたんですね。『梁塵秘抄』の「うた」の一つ一つも、例えば北陸 の民と四国の民とをどこかで同じ一つの世界へ誘い入れる、魅力ある役割を果していたはずです。その意味でも私はこの「我等が修行に」といった「我」と「我 々」との微妙に交錯した歌い出しや「うた」そのものを、大切に考えて受け取っているのです。
 「僧歌」から、もう一つ、いえ二つ、注目すべき歌を選びましょう。
 どこを注目すべきか。
 日本ではっきりした演劇藝術の成立ということだと、十三、四世紀の田楽や猿楽をまつよりない。むろん芽は早くから大陸渡来の散楽とかそのほかの雑藝とし て民間に芽生えていました。くぐつの藝やわざおぎも太古以来ありました。平安末にはもうそういう記録や批評に満ちた著述も著されています。私は、『梁塵秘 抄』中の次の歌、三○二番と三○三番なども、一種の演劇歌、いわばミュージカル台本ででもあったような気がしております。
 三○二番。
★ 春の焼け野に菜を摘めば 岩屋に聖こそおはすなれ ただ一人 野べにてたびたび逢ふよりは い  ざ給へ聖こそ あやしの様なりとも 妾らが柴の庵へ

 野焼きした春の野に、若菜が萌え出ます。それを乙女が摘みに出ると、岩屋に尊い聖が一人でお籠りの行をしている。乙女は前からそうと知っていたんでしょ うね。それで、いつも一人野中でわたしと聖とで逢っているのでは勿体ない。さあ、いらして下さいな、見ぐるしい所ですがわたくしどもの柴の庵へ、と、読め ば牧歌的な、のどかな 乙女と僧侶との出逢いのようです。
 が、春の焼野の若菜摘みといい、「いざ給へ、妾らが柴の庵へ」という誘いといい、妙になまめかしいではありませんか。
 そこで次の、三○三番と一緒に読み合わせると、様子がまた変ります。

★ 柴の庵に聖おはす 天魔はさまざまに悩ませど 明星やうやく出づるほど 終には従ひ奉る

 聖ほとうとう柴の庵を訪れたんですね。すると可愛い乙女と思いきや、魔性は夜っぴてさまざまに行者を誘惑しようとする。しかし聖は、それにのらない。暁 けの星が瞬き初める頃には、とうとう天魔も行者の法力に従いました──という。
 これは、荒野のキリストにも山中苦行の釈迦にもあったことで、とかく魔性の誘惑は行者を襲うもののようです。
 g番と303番ほ一応別の「うた」です。
 が、これをお能の前シテ、後シテにわけて想像してはいかがでしょう。菜摘みの女は前シテ、変じて天魔が後シテ。そして岩屋の聖、転じて柴の庵の聖がワ キ。これでぴたっとお能になりますね。こう読めば、この二つの歌は、はっきり演劇的な場面を前半と後半とに歌い分けているように取れる。
 事実は分りません。が、そうも取れる「うた」も『梁塵秘抄』にはあり、それが有ってなに不思議もないところに、『梁塵秘抄』の魅力の幅があるのではない か。そうあなたはお思いになりませんか。
 私はこの一対の「うた」などを通して、十二世紀の世の中に、もう藝をする側の人と、それをみて楽しむ側の人とが、岐れていく、岐れている、のを微妙にあ りあり感じます。




   四章 御口伝と五条乙前 そして雑の神歌(一)


     七

 いよいよ『梁塵秘抄』の魅力の大半をなすと見られております、四句神歌の中でも「雑」つまり形も中身もいろいろの「うた」、一応「四句神歌」ではあるの ですが、それにそう厳格に縛られていないさまざまな「うた」を読んでまいりましょう。
 本には「雑八十六首」とあります。しかし実数は百三十首も入っております。なぜこういうことになったか、写本の際に追加されたか、後白河院存命中に、嘉 応元年(一一六九)の一応の成立後の蒐集歌も加えていかれたのでしょうか。すると、『梁塵秘抄』の今様はいよいよ十二世紀中の流行をとりこんでいることに なります。
 ここで考えたいのは、いったいどうしてこんな今様がこうも数多く蒐ったのか、です。先行の雉藝集もあったでしょう、が、大概は「うた」であって文藝作品 でない。民衆が一々記録したわけがない。そこで考えられるのは「うた」を専ら背負って歩いた階層が、やはり存在したということと、だから後白河院はそうい う階層ともためらわず接触されたということ、です。歌い較べあうのも大事でしたが、歌を蒐めるためにも(地方の事情に通じるためにも)院は積極的に彼らと 接しられたのでしょう。そう考えるとよく納得がいく。後白河院の身辺には、ちょっと風体の変った協力者たちが集まっていたのですね。その辺は、のちに改め て言い及ぶつもりです。
 さて前以て申しますと、これから読む四句神歌の「雑」百三十首のあとに、「二句神歌」というのが並びます。本に百十八首とありますが、実は百二十一首ご ざいます。つごうまだ二百五十首余も残しているのですから、ほどほどに選ぶのがなかなか苦労です。とてもこの放送で全部とはまいりませんから、どうかこの 機会に『梁塵秘抄』に興味や関心を持って、ぜひ自身でもお読みになるよう、お勧めしておきます。
 では、祝言七首の中から、三一六番。

★ 万劫年経る亀山の 下は泉の深ければ 苔生す岩屋に松生ひて 梢に鶴こそ遊ぶなれ

 「万劫」とは数えきれないほどの時間、です。そんなことに、しかしたいした意味はない。亀は万年、鶴は千年の譬えをめでたしと思う人の、文字どおり縁起 を祝う「うた」と思って、快調な音声を自分もまた何度も口遊んで楽しめばいいでしょう。
 次に、三二○番。やはり祝言です。

★ 黄金の中山に 鶴と亀とは物語り 仙人童の密かに立ち聞けば 殿ほ受領になり給ふ

 「黄金の中山」黄金づくりの山、それも世界か、立派なお庭か、の真中に全山光り輝いている山、だという。そこで鶴と亀とがお喋りをしているんですね。あ んまり話がお伽噺めくからこそ、かえって神仙譚などと大層にいうより、あとの「殿」ですね、この殿さんの邸うちの庭を見たてて、ま、家来からのお祝いの気 分を含めた祝言、お世辞うたとも取れます。実際にこれが歌われる場面を想像すればそう取る方が面白い。鶴亀の会話を「仙人につかえる童子」が立聞きをいた しますのも、話として面白い。これも素直にそのまま一つの「見たて」と受け取ってよろしいんです。
 では、何を鶴と亀が喋っていたか。
 「殿は受領になり給ふ。」これですね。これが祝言になるんですね。「受領」は、ごく大胆に譬えてしまうと、のちの国持ち大名のようなもの。この当時です と、つまり国司です。越後守とか大和守とか伊勢守とかいった地方官。
 では、なぜこれで「祝言」になるのか。
 十世紀の末から十一世紀のごくはじめ、紫式部が源氏物語を書き出すかどうか、という時分に、彼女の伯父の藤原為頼という中流貴族が、ちょうど女の子の生 まれた時でしたか、こんな有名な歌を詠んで評判になりました。

  后がね もし然らずは よき国の 若き受領の 妻がねならし

 「妃がね」「妻がね」は、妃や妻にふさわしい女の子、という意味です。女の子と生まれた以上は末は天皇の后にもなるか、そうでなければむしろ大国の、そ れもまだ若い国守と呼ばれるような男の妻にもなる女の子であってもらいたい、という述懐の和歌なのです。
 天皇の后は分りますが、しかし、大臣も公卿もとばして、后がだめならいきなり受領の妻がいい、というくらいすでに十世紀末頃には、なまなかの中央官僚よ り諸国、それも大中小または上中下とあるうちの大国、上国の国司即ち受領の方が、ずっと経済的にはぶりがよくなっていたことを示します。中下層の貴族たち は、どうかしてこの受領の職にありつきたかった。
 平家や源氏も受領階級として東国に、西国に、実力を蓄え、その武力と財力とを威圧的な背景に、京都で、上皇や天皇の近臣となり、ついに保元の乱や平治の 乱の主役にまでのしあがったわけですね。清盛や父の忠盛が三十三間堂やその他を寄進できたのも、積年の受領としての蓄えが物をいったのでした。
 源氏物語の中でさえ、終盤の宇治十帖になってくると、ものの数でなかった受領のはぶりのよさが、徐々に表だってくるくらいです。まして十二世紀、平家の 躍進にみなが眼を瞠らいている中では、「殿は受領になり給ふ」などという預言、お追従、には絶妙の効果、祝言としての効果がございましたでしょう。
 平家という話になりましたので、ちょっととびましょう、三二七番。

★ 武者を好まば小胡簶 狩を好まば綾藺笠 捲りあげて 梓の真弓を肩に懸け 軍遊びをよ軍神

 いい「うた」ですね。
 武者が好きなら、矢のたくさん入ったイキな胡簶を背に負い、それで狩が好きというなら、蘭草を美 しく編んだ笠をかぶり、さあその笠を背の方へ捲りあ げ、梓の強い弓を肩にかけて軍遊びをするがい い、軍神に守られた若者たちよ、
と、かなり大胆に意味をとって読んでみましたが、「軍遊びをよ軍神」という、颯爽とした呼びかけに、大人たちが逞しく育った氏族の若者たちを鍛える、いか にも武家が頭をもちあげた時期のおおらかさを聴く心地です。いろんな解釈があるのですが、私はこれで間違いなかろうと思います。「うた」の心も響きもこれ で汲めていると思います。
 武者は、かつては侍、貴人、公家の御用を待って地に膝をついて「侍ふ者」でした。それが晴やかに武士、武家、武者として一躍時代の正面に立って、その武 者ぶりが一つの時世粧と申しますか、時代のモードとなる。これぞ「今様」なんですね。これぞ当世風なんですね。

  武者を好まば小胡簶 狩を好まば綾藺笠 捲りあげて 梓の真弓を肩に懸け 軍遊びをよ軍神

 すかっとした、小気味のいい「うた」です。しかも三二○番の、「殿は受領になり給ふ」と、政治的社会的に臍の緒の太くつながった「うた」でもあると考え るべきです。
 ちょっと戻って、三二四番。

★ 鈴はさや振る藤太巫女 目より上にぞ鈴は振る ゆらゆらと振りあげて 目より下にて鈴振れば   懈怠なりとて 忌々し 神腹立ちたまふ

 「藤太」は男の名ですね、藤原氏の太郎なのかもしれない。が、昨今にも勝太郎などという女性の歌手がいたことですし、ここは女巫女と取りたい。
 「鈴」は、三番叟などでシャンシャンと振る、ああいうぶどうの実生りに小さな鈴がたくさんついたものでしょう。「さや振る」は、鈴の音色の亮かに清んだ 感じと、「そんなふうに」(さや)という語とを掛けているものと思います。
 せっかく音色涼しい鈴を、そんなふうに邪魔くさそうに振るんじゃないよ、藤太巫女。お神楽の鈴は いつもちゃんと目より高くでいさぎよく振るものさ。そ うだよ。ゆらゆら、しゃんしゃんと高く振り あげるのさ。目より低くで振ったりすると、「怠けているな」と、ああこわや、神様が腹を立てなさる ぜ。
と、巫女を囃したて、からかう「うた」ですからね。烏帽子をかぶった女巫女の、白衣に緋の袴姿を目にうかべて面白く情景を想像してみたい。
 この時代、神につかえる巫女たちはよほど男どもの入気者、むろん好色の対象としての人気者、だったのですね。その辺に一つ時代風俗が見えてまいります。 『梁塵秘抄』らしい「うた」が現われたので、もう一度読みましょう。

  鈴はさや振る藤太巫女 目より上にぞ鈴は振る ゆらゆらと振りあげて 目より下にて鈴振れば   懈怠なりとて 忌々し 神腹立ちたまふ

 三二八番。

★ 筑紫の門司の関 関の関守老いにけり 鬢白し 何とて据えたる関の関屋の関守なれば 年の行く  をば留めざるらん

 源重之という人の歌に「昔見し関守もみな老いにけり年の行くをばえやは留むる」というのがあって、「門司」を歌ったのではないのですが、「門司」とは関 守のこととも謂えて、巧く転用しています。「関」の字が六度も使われて、いい旋律を生んでますね。いかにも「うた」です。互いの老いを笑いつつ、どこか心 しおれて行くもののあわれも感じられる。大事に耳を澄ましたくなる「うた」です。
 三三二番へいきます。

★ 心の澄むものは 秋は山田の庵ごとに 鹿驚かすてふ引板の声 衣しで打つ槌の音

 「心の澄むものは」の一句に耳をとめていただきたい。
 「心が澄む」とはどういう状態でしょうか。澄む。透明な、冴えた、清らかな、という感じが、ここにある。十二世紀人は一方でどっと諸声に笑いあうような ことも好み、もう一方ではひとりしいんと心の澄む、そして深く物に感じ物を思い、より良くより人間らしい生き方を我が身に問いかけて、自然の物音にも静か に耳を澄ます時をもっていた。
 「引板」、つまり鳴子を、山の番小屋でからから鳴らしては、鹿、猿、鳥などを追う。私も子どもの頃、田舎ずまいで耳にした覚えがあるのですが、山田に響 いて、思わず心のしんとするような、寂しくも、花やいだ音がするものです。人がまだ貧しい。人と鳥獣とがそのように争いあってでも生きていかねばならな い。そういう、生き物としての根源的な寂しさを響かせる物音ですからね、思わず、あ、これが此の世を生きるということかと、心は蒼澄んで静かにしおれるの です。
 「衣しで打つ」とは、砧を打って衣に柔らかなつやを出す。「しで打つ」に説はいろいろありますが。お能に「砧」という名曲がございます。夜長にとんとん と砧打つ音は、底知れない過去から未来への時の流れ、その中で辛うじて生きていく人間の営みを、ありありと昔の人の胸に、反響させたことでしょう。その余 韻は今も私どもの胸にとどいています。もう一度読んでください。

  心の澄むものは 秋は山田の庵ごとに 鹿驚かすてふ引板の声 衣しで打つ槌の音

 「梁塵秘抄」にはあの「仏は常に在せども」と同じく、こうした、しんしんと人間存在の原点を覗きこむような、心の澄む、深い味わいの「うた」も含まれて いるのです。ご記憶ください。
 もう一つ「心の澄むものは」があります。三三三番。

★ 心の澄むものは 霞花園夜半の月 秋の野べ 上下も分かぬは恋の路 岩間を洩りくる瀧の水

 気になるのは「上下も分かぬは恋の路」の一句です。当然これも「心の澄むものは」の一つとして歌われているはずです。恋は、心を曇らせも澄ませもするも のですからね。
 しかしこういう恋の認識も大事ですが、「上下も分かぬ」恋があったという、この「上、下」の存在、これに注目したい。貴族社会の上下ではない、明らかに 民衆社会における、都市民もそうですが、農村部にも上と下、上手と下手、がもう分かれていた階層分化進捗の一つの証しがここにある。しかも恋の心は、その 上と下の岐れを無視して通う。その真実ゆえに「心が澄む」のだという点を、人間的な大切な眼目と読みたいのです。
 三三五番、をどうぞ。

★ 思ひは陸奥に 恋は駿河に通ふなり 見初めざりせばなかなかに 空に忘れて止みなまし

 思いは満ちて陸奥まで。恋する、その、する気持は駿河にまで。それほどの遠くまで通うという上の二句は、まあ掛け言葉として普通のものです。
 胸にしみるのは、「なかなかに」の五音ですね。あの恋しい人を見初めなかったなら、いっそ、むしろ、かえって、何もこう苦しいまで恋い焦れなくてすんだ ものを、という感じ。そうでなかった方がよかったと口では言いながら、やはり、見初めてよかった、それが自分の運命だ、が、ああ辛い、ああ苦しい、という 感じ。それが、「なかなかに」なのですね。呻くような真情が響いて、美しい詩語へと高められている。

  思ひは陸奥に 恋は駿河に通ふなり 見初めざりせばなかなかに 空に忘れて止みなまし

 この「うた」などは、万葉集から現代にまで、少しも変らない恋の真実を、そのまま歌いえているのでしょうが、とくにやはり、素朴な古代と自意識の中世と の微妙な重なりが感じられます。
 さてそれではまた、趣のがらっと変った「うた」面白い「うた」を、つづけざまに読みましょう。
 三三六番。

★ 百日百夜は独り寝と 人の夜夫は何せうに 欲しからず 宵より夜半まではよけれども 暁鶏鳴け  ば床寂し

 「夜夫」は、「夜妻」をあてる説もあります。「人の夜夫」は、人の夫で夜だけ妻ならぬ女のもとへ忍んでくる男、通ってくる男、と取りましょう。歌の主人 公はそういう妻ある男を待っている独り身の女ですね。その男が、百日潔斉か何かでながながと通ってこない状態。
 ええい、どうせ人の夫だもの、欲しかないよ。とは言え、宵から夜中まではむりにも辛抱できるけれ ど、ねむれぬままの暁方になって、鶏が妻呼ぶ声を聴い ていると、一人寝の床の広さが、ああ、しん しんと寂しいよ。
 そんな「うた」ですね。
 「うた」はそういう女をほめてはいないが、怪しからんとも責めていない。人間孤独の真情は真情として認めているわけですね。
 三三八番。

★ 厳粧狩場の小屋竝び 暫しは立てたれ閨の外に 懲らしめよ 宵のほど 昨夜も昨夜も夜離れしき  悔過はしたりともしたりとも 目な見せそ

 「厳粧狩場」は美々しく飾りたてた狩小屋という意味でしょうが、反語でもあるでしょうし、厳粧には懸想の意味もかかって、ここは狩場近く立ち並んだ遊女 小屋なのでしょうか。「習ひ」と訓めば習わしでしょう、が小屋が「竝び」と、「竝び」の方が理に落ちなくていい気がしますね。西洋風にいうと飾り窓の女た ちがいるんでしょう。
 「よべも、ようべも夜離れしき」というのは、昨晩もその前の晩もここへ通ってこなかったよ、薄情者め、という気合い。それがやってきたものですから、暫 く懲らしめのためにも戸の外に立たせておいておやり、せめて宵のうちは、という結果になる。「悔過はしたりとも」とは、悪かったと悔いて詑まったとて、 「目な見せそ。」簡単に逢ってなんかやっちゃいけないよ、と、なるわけですね。

  厳粧狩場の小屋竝び 暫しは立てたれ閨の外に 懲らしめよ 宵のほど 昨夜も昨夜も夜離れしき  悔過はしたりともしたりとも 目な見せそ

 遊女同士の男への意地でしょうか。またそれが、遊びでもある。共感でもある。それをまた、遊女以外の人も、遊女の思いを汲みとって、けっこう面白がっ て、笑い興じて、聴くのです。所詮通う男も通わせる女も、一つの舟で浮世の波を渡っているわけで、だからこそ共通の彼方に、仏に救われてたどりつくべき彼 岸が望まれる、ということになる。そこまでぜひ深く読み味わいたいと思いますね。
 三三九番。

★ 我を頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎まれよ 霜雪霰降る水田の鳥となれ さ  て足冷たかれ 池の浮草となりねかし と揺りかう揺 り揺られ歩け

 「我を頼めて来ぬ男」とは、わたしに頼みに思わせておいて、そのまま顔も見せない、うそつき男め、という意味。こういうのは、いつの世にも無くなりはし ない。女は、こういう男に対しくりかえし空しい罵声を放ちつづけてきたわけでしょうが、この『梁塵秘抄』の女の罵声は、面白うて、やがて悲しい女心です ね。
 「角が三つ生えた鬼になってしまえ。そうして人に嫌われてしまえ。」また、「霜雪霰降る凍えた水田に、はだしで下りるあの鳥のようになってしまえ。そう してお前なんかの足は冷たく凍ってしまうといいんだよ。」また「池の浮草になっておしまい。そして頼りなげに、あっちへ揺ら、こっちへ揺らと、なんの甲斐 もなく世間をさまよい歩いて、野たれ死にでもしておしまい。」
 もの凄いかぎりです。が、どこかまた、男に未練を残した女の哀調が残っているじゃありませんか。
「角三つ生ひたる」も面白い。「さて人に疎まれよ」も面白い。「霜雪霰」と、知った限り冷たいのを並べたてたのも面白い。「さて足冷たかれ」なんて、まだ 若い、可愛い女の言い草ですね。ユーモアと哀調と、いいえ、まだどこかに愛情すら残っている「うた」として聴けませんか。

  我を頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎まれよ 霜雪霰降る水田の鳥となれ さ  て足冷たかれ 池の浮草となりねかし と揺りかう揺 り揺られ歩け

 これも『梁塵秘抄』なのですが、さらに一歩進めて、これこそ『梁塵秘抄』と言いたいような、面白くて、佳い「うた」の代表的な一つです。
 三四○番。

 
★ 冠者は妻設けに来んけるは 構へて二夜は寝にけるは 三夜といふ夜の夜半ばかりの暁に 袴取り  して逃げにけるは

 思わず哄笑、高笑い、の渦巻くような傑作な「うた」です。「冠者」は太郎冠者の冠者、未婚の若者ですね。この青年が、「妻設け」「め」、嫁取り、妻どい にきた始末はと言ったらな、と歌い出す。首尾よく男と新嫁とは、二晩がほど、仲良う寝たことよ。ところが三晩めという晩の夜半も過ぎた暁け方になって、こ の男、袴の股立ちとってすたこら逃げてしもうて、帰らんというじゃないか──。
 「袴取り」は、言葉どおりです、はかま袴いて、そして股立ちとって走って逃げるんですが、どうも袴をかついで、下帯一本、いわばパンツ一枚、で逃げたよ うな調子がある。
 おかしいですね。男もおかしい。が、逃げられた女の、三晩めにはもう男に逃げられてしまうというのも、妙にいろいろ想像ができて、またおかしい。なんの かのと、やんや笑いあう一座が、眼に見えますね。

  冠者は妻設けに来んけるは 構へて二夜は寝にけるは 三夜といふ夜の夜半ばかりの暁に 袴取り  して逃げにけるは

 恋というより、愛欲。真っ裸の愛欲。こんないくつかの歌がまた『梁塵秘抄』の、そして十二世紀世界の、一面の真実を率直に反映している。この辺の一つ一 つの「うた」は、私どもに息をつかせないある勢いを今も持って生きつづけています。


     八

 読み進めてまいります。この辺、ちょっと割愛できない興味ある歌が、目白押しに並んでおります。
 三四一番。

★ 吾主は情なや 妾が在らじとも棲まじとも言ははこそ憎からめ 父や母の離けたまふ仲なれば 切  るとも刻むとも世にもあらじ

 「わぬし」は女言葉でしょうか、あなた、ですね。「わらは」は女言葉です、わたし。
 あなた、情ないこと言わないでちょうだい。このわたしが別れましょとか、一緒に住まないとか言い 出したのなら、そりゃ憎いでしょうよ。でも、そうじゃ ないのよ。お父さんやお母さんが仲を裂こう となさってるだけ。わたしは、身を切られても刻まれても、あなたから離されたら、生きてなんかい ないわよ ──。
 こう読めば、時代を超えた、これで、今どきの歌謡曲の歌詞にも巧くするとなりそうなくらいですね。
 「わぬし」「わらは」と、この辺は、もうぎりぎりいっぱい「個人」が顔を出してきていて、私的な述懐を、私小説ふうに歌詞に表現しているのが巧い。「情 無や」「憎からめ」「世にもあらじ」などと、この若い同棲者たち、どこか、ナウく、そして純情に、あなたは感じませんか。
 三四二番。

★ 美女ち見れば 一本葛にもなりなばやとぞ思ふ 本より末まで縒らればや 切るとも刻むとも 離  れ難きはわが宿世

 「美女」はそのまま、美女のことです。
 美しいあの女を見初めてからは、互いに「一本葛」にでもなってしまいたいよ。根もとから末まで、 互いにぎりぎりと縒られたいよ。そうなれば切っても刻 まれても離れない。そうさ、離れられない、 それが俺の、俺たちの、宿世なんだよ。
 どこか一途、どこかエロチック、どこか哀愁を帯びながら、ユーモラス。この「うた」私は好きです。
 「本より末まで縒らればや 切るとも刻むとも 離れ難きはわが宿世」などと、とてもいい加減なことでは出てこない、絶唱、ですね。
 そして次の、三四三番。美しいことでは、『梁塵秘抄』中の最高かも知れない。          
★ 君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり 賀茂川に川中に それを求むと尋ぬとせしほどに 明  けにけり明けにけり さらさら清けの秋の夜は

 藺草で編んで美しく飾った笠。男笠。その「君が愛せし」、あなたの大事になさってた綾藺笠が、風に煽られたのでしょうか、賀茂川の川の真中へ、落ちた わ、落ちたわ、という「うた」で、詞はみな、お分りでしょう。その笠を二人がかり、でしょうね、愛しあっている男と女と、それも若い二人で流れに沿うてさ がし求めた秋の一夜の、清々しく澄みきった印象。
 読みましょう、声に出して。聴きましょう、耳を澄まして。それが何よりなのですね。

  君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり 賀茂川に川中に それを求むと尋ぬとせしほどに 明  けにけり明けにけり さらさら清けの秋の夜は

 「落ちにけり落ちにけり」「明けにけり明けにけり」というリフレイン、が、この歌に生きてはずむ時間を、現実の時間から詩的な時間に変えて、さながらの 永遠を生んでいます。それはこの若い恋人たちの時間が、俗世間の時間から心澄む永遠に、もはや埋めこまれているからでもあるでしょう。だから「さらさらさ やけの秋の夜は」という、清らかな「サ」の音の積み重ねが生きてくる。
 秋の月も、暁けの明星も、清く照った世界として見えてくる。光る川波も、流れる綾藺笠も、それを追う二人の黒い影も、風も川原も、みな生き生きと躍って 見えてくる。おそらく『梁塵秘抄』中でも最も美しい傑作の一つと、私はこの「うた」のことならいくら話しても話したりない気がします。
 こうずっと見てまいりますと『梁塵秘抄』には、今日の感覚、今日の恋する若者たちの感覚で、そのまま情況を、十二世紀から二十(一)世紀へおき直しても さしつかえなく鑑賞できる「うた」がたいへん多く、それが大きな魅力になっている、と分る。こういうことは同じ時期の和歌の勅撰集「千載集」には、「新古 今集」にすら、もはや求むべくもない『梁塵秘抄』に独自の特質で、同じ歌謡集でも室町時代末の『閑吟集』や江戸時代の『松の葉』などをも超えていると私は 思う。
 さて私はこういう『梁塵秘抄』を、ほかでもない天皇、上皇、といった方が自身で撰したことを驚異だと、二度三度も申してまいったのですが、その意味をあ なたはあなたなりに、どう、今、お考えでしょうか。
 譬えて申すのもナンですが、今、皇太子や天皇がいわゆる流行歌、歌謡曲のファンかどうか、私は存じません。ましてその種の楽譜や歌詞を聚めたり分類した り、自分で歌い方を研究したり、御所や宮中に歌手を招いて、連日連夜歌ったり歌わせたりしている、という話は聞きません。
 ところが『梁塵秘抄』の口伝を読みますと、四の宮の雅仁親王、のちに後白河天皇は「十余歳」の若い頃から夢中で、それも御所のうちで、今様、つまり流行 の歌謡を好んで練習に励んだ、「好んで怠る事なし」。そのためには遊女、くぐつ、自拍子を問わず呼び寄せて習った、とはっきり書いてある。とても昨今の歌 手どころではない相手です。
 「そのかみ」(その昔、ですね)「十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠る事無し。」「四季につけて折を嫌はず、昼は終日に謡ひ暮らし、夜は終夜 謡ひ明かさぬ夜は無かりき」(なかった。)「大方夜昼を分かず、日を過し月を送りき」(送った。)「その間、人数多集めて、舞ひ遊びて謡ふ時もありき」 (あった。)おかげで「声を破る」、声をつぶしてしまうこと「三箇度なり。」「あまり責めしかば、喉腫れて」湯水もろくに通らないほどだったが、「構へ て」(無理にも、押して)「謡ひ出したりき。或いは七、八、五十日もしは百日の歌など始めて後、千日の歌も謡ひ通してき。」公卿たちとも歌ったが、鏡山や 神崎辺の歌い女たちも呼びよせて歌った。「斯くの如く好みて、六十の春秋(六十年と取るより、六十回の春秋、つまり三十年と取る方が適当と思いますが)を 過しにき」(過してきた)という次第です。
 いかがですか。
 「上達部、殿上人は言はず、京の男女、所々の端者、雑仕、江口神崎の遊女、国々のくぐつ、上手は言はず、今様を謡ふ者の聞き及び我が付けて謡はぬ者は少 なくやあらむ。」
 男女となく貴賤となく、今様を歌える者で、上手はもちろん、ある程度の者なら、この自分が聴くなり、一緒に歌うなりしなかった相手は少ないはずだと、こ れを雅仁親王時代のこととして後白河院ははっきり断言しているのですから、いくら今様が流行した時代といっても、あきれていた人は多かったに違いない。
 どうせ天皇になれっこないという居直りもあったでしょう。が、生半可な好きようで、こうは今様人生が送れたものでない。
 この方は生来、音楽が好きだった。その証拠に、彼は仏教音楽としての声明についても素人の域をやはり超えたような勉強をした、瓦坂法印家寛という人の弟 子筋だった、ことが知られています。今様の歌い方には、この声明が大きな先駆をなしていたかどうか。少なくもとても無縁とは思えないのですね。「法文歌」 も「神歌」にしても、神仏習合とは申せ、大概坊さん、お寺との縁有って生まれてきたと言える。
 しかも生まれた子を育てたお乳母さん役をしたのは、遊女、くぐつめ、白拍子のたぐいでした。貴族や僧侶社会の子を庶民の最末端者が、代って乳をやり、肌 に抱いて育てた気味が「今様」にはある。
 また後白河院の父の鳥羽院が、今様ではありませんが催馬楽や管弦の遊びのたいへん好きな方でした。だいたい平安貴族のたしなみは、一つは書であります が、もう一つは音楽ですね。彼らは「手」という一文字で、書の巧さと音楽の巧さの両方を言い表わしていたくらいです。が、この「手」で分るように貴族の音 楽と申せは主として楽器音楽でした。歌う。声で、口で、歌うのは、それに較べるとお添えものでした。
 しかし後白河院は、とくに笛の名手でしたけれども、何よりも、断然歌う、声で、口で歌うのが大好きであったらしい。
 ふつう歌うといえば、独唱か合唱かです。今様でも両方の歌い方があった。みなで集って誰かの「うた」を聴く。しかしみなで声を揃えても歌う。おのずとそ こに上手と下手ができる。また、誰がより正しく歌うかという、技藝としての正統ができる。
 後白河院は、誰の歌がより正しいか、誰が、誰から、それを正しく承けついできたかという点に、たいへん気を配った記述をされております。なぜか。それ は、すぐれた技藝がすぐれた師弟を通じてすぐれた伝承をとげ、そこに藝や技の正統を形造りたいという強い願望を持っていたからです。同時に、その正統の一 と筋の中に後白河院自身の天才を、確実に位置づけたいという熱い願望も持っていたからです。その点、後白河院にはちょっとした流儀の頂点、家元の意識がご ざいます。言いかえれば藝の頂点としての自負がある。貴賤を問わず誰とでも歌いあわせてみるというのも、その努力ないし自信の一つのあらわれなんですね。
 ですから、所詮公家同士ではラチがあかない。諸国流浪の藝人で、都へたどりついた者を、名高い連中なら片端から御所へ呼ぶ。そして歌わせ、自分も歌う。 見ようによっては、まことに乱妨狼籍の無礼講の場面がそこに現出したことでしょう、風紀の乱れもきっと有ったことでしょう。遊女やくぐつめです。白拍子で す。藝も売るが、色も売った。
 しかし後白河院はあくまで藝を第一義に彼らを受け入れた。
 「口伝」巻第十には、何十人という後白河院の「弟子」の名があらわれます。身分の低い者、公家でも武家でもない者が十人も十五人も顔を出します。みな、 院の鋭い批評の的になっている。むろん人物批評ではない、藝の批評です。批評しながら後白河院自身は自己の天才を確認していくのですね。それだけ桁外れの 努力、勉強を彼はしている。その自負があります。「今様合わせ」といった未曾有の興行も何度も主催しています。才能発掘の有力な機会にもしたのでしょう。
 今も申した藝の正統という意識からいたしますと、後白河院は自分の天才にふさわしい立派な師匠、そして立派な弟子をもたねばなりません。ところが前にも 申したように、弟子がどうしても育たない。絶望のあまり「遺恨」なりと院は口伝の中で呻いております。録音機、レコード盤のない時代ですから、「声わざ」 つまり歌う技藝は、文字と違い一瞬に消えてあとに残らない。伝わらない。せめて口うつしに技を伝える天才的な弟子がほしいのに育たない。「遺恨」の深さが 熱心に、詳細に、後白河院に十巻もの「口伝」を書かせているわけですね。
 ところが師匠の方、これは五条尼とも呼ばれる乙前という老女を見つけます。名人中の名人、本物の正しい名人、とすっかり見極めますともう後白河院は、多 分流れの遊女ででもあったでしょう乙前をば、はっきり先生、師匠、の座に据えて学びに学ぶ。乙前はすでにお婆さんですが、熱心に丁寧に一切承知の技や藝を 教える。この二人の、親子も及ばない師弟関係は、『梁塵秘抄』口伝中の圧巻、白眉です。まこと奇跡と呼ぶに近い間柄です。そして乙前は、八十四という高齢 で、病死いたします、その辺を読んでみます。

  乙前が八十四という年の春、急に病が重くなったが、まだ持前の元気さで、どうという変化もなか つたから、持ち直すだろうと思っているうちに、間もな く危篤、という話。御所の近くに家を与えて あったので、急いで忍んで見舞うてやると、娘に抱き起こされ、挨拶をした。大分弱っているので、 二人の久し く親しい縁を思い、後世を願う供養にもと、当座に法華経の一巻を読んでやってから、つ いでに今様も歌って聴かせようか、と訊ねると、喜んで急いで頷く。
   像法転じては 薬師の誓ひぞ頼もしき 一度御名を聞く人は 万の病無しとぞいふ
  こう二三返もくりかえし歌って聞かせたのを、お経を聴くよりも嬉しがり、こうお聴かせいただい てこそ、苦しい命も生き返りそうでございますと、手を すって泣く泣く喜んだ有様を、互いに哀れに 感じながら、その日は帰った。
  その後、お室の仁和寺へ出向いているうち、二月十九日にとうとう死んだと聞いた。惜しいという 年齢ではないが、多年見なれていたので悲しさ限りな く、世のはかなさ、おくれ先立つ現世のさだめ など、今にはじまった事ではないが、あれやこれやと思い続けられ、まして今様歌と限らず、多く教 えても らったこの道の師匠でもあったのだから、と、死の報せを聞いた日から朝夕に身をつつしみ、 阿弥陀経を読んで乙前の西方極楽往生を祈り、五十日間はつとめ た。また一年の間、千部の法華経を 読みとおし、次の年二月十九日の命日には、あれは今様をこそ尊いお経以上に欣こんで聴いてくれた ぞ、と思い出して、 習った今様の、主なものを暁方までかけて悉く歌いとおし、心から後世安楽を祈 ってやった。
  その後も、その命日ごとには、必ず乙前を思って、後世をとぶらう今様を歌ったことだ。
 ま、こんなふうに後白河院は書いておられます。上皇と一市井の歌い女との、こんな真心の通った人間関係が、古今を通じて他にありえたでしょうか。全く珍 しい例で、『梁塵秘抄』の全巻が、さながらこの遊女乙前への供養かとさえ取れる。乙前が後白河院に出逢った時が、そもそももう老女なんです。この乙前に、 「十余年が間に習ひとりてき。そのかみ、これかれを聞きとりて謡ひ集めたりし歌どもをも、一筋を通さむために、皆此の(乙前の)様に遠ひたるをば習ひ直し て、残る事なく瀉瓶(瓶から他の瓶へうつす)し終りにき。」まこと色恋沙汰ぬきの間柄。純然、藝と藝との関わり。二人を結んだ価値は藝術の価値なのです。 そこが驚異的。
 後白河院には、「その流れなど」と後に言われたいと書いてあるように、乙前の藝を流儀として承けつぎ、一人の家元かのように、藝の世界の頂点に立っても のを言おうとする所がある。中世的な流風の発想の、一等早い先がけの一つが後白河院の並はずれた今様好きの意志自体に見える。それも今様、庶民の藝、雑 藝、歌唱の藝の頂点にです。くりかえし私が驚異的と申してまいったのは、そこなんですね。
 それにつけて、前にふれたことのある、あの「口伝」の追加。あの真意、本意も、ただ単純に弟子が見つかった感激のあまりとは限らないと私には思える。源 資時と藤原師長と二人をあげているところに存外の意味が隠れていないか。
 資時は名門の公達ですが、必ずしも高位の人ではありません。せいぜい従下の四位程度で官途を見限った人です。この人のことは改めて言う機会があるでしょ う。
 藤原師長は保元の乱で敗死した藤原頼長左大臣の子息で、自身も太政大臣です。そして妙音院という呼ばれ方のとおり、音楽の才能にたいへん恵まれていた。 摂関家の血筋です。「平家物語」にも資時の父の按察使大納言源資賢と一緒に何度か登場するし、院のお気に入りということを疎まれ、平清盛によって都を追わ れたりしたのも同病同悲の同士でした。
 この師長の藤原氏と資賢、資時の源氏とは、実は貴族社会で郢曲の名家をなしていた。家学家藝として、伝統的な音楽に深くたずさわる、あずかる、家柄でし た。催馬楽などはそれぞれの流儀や秘伝で上手に歌えたのでしょう、その藤源二氏の秀才天才を挙げて後白河院はわが今様の弟子として公認したのが、「口伝」 追加、そのものなのですね。これは端倪すべからざる後白河院のいわば政才です。こう追加することで、院は源藤二氏の音楽の技藝を一人の家元として一身に結 びとめ、その上に立ったことになる。違いますか。
 源氏や平家と渡りあい、骨肉血で洗い、公家の先頭に立って時代変動の嵐のまっただなかに動かなかった後白河院人間像の核心に、こういう「藝術家・藝能 人」後白河の熱烈な執念が生きていたことを、どうかあなたは、『梁塵秘抄』の名とともにようく記憶していただきたい。なまなかの天皇とは大分違った、歴代 天皇の中でも、最も興味深い人物の一人だったと言えるのです。
 「梁塵秘抄」の口伝巻第十は、乙前との死別のあと、「その流れなども、後には言はればやと思」いつつ「うた」仲間をあれこれ論って、さて今様を歌うこと にはいったいどんな功徳があるかという点を熱心に語っています。あくまで神仏の心にそうものとして、前にも申しました「狂言綺語」転じて、往生の因にな る、というあの考え方ですね。その証拠かのように後白河院は、神前仏前での幾度かの今様ゆえの奇跡、奇瑞を筆にしています。
  神社に参って今様を歌い、あらたかな示現を蒙ったこと度々になる。それにつけて、自分の声は不 足してもいるし美しくもないのだから、なぜこう神の思 召にあずかるか、わけがわからない。思うに、 ただ年ごろ熱心に嗜み習ってきた年功のせいであろうか。また、ことに信心こめて歌っている信力に こたえて いただくものか。およそ今様を好むこと四十余年の努力を自分は怠らなかったのだから、そ のおかげと思うよりないわけで、これほど、自分ほど今様に深入り した古参の者は世に少ないことと 思う。少ないに違いない。
 こんなふうに後白河院は述懐しているのですが、実に、深い執着、篤い自愛自負と申さねばなりません。さ、その今様をまた読んでまいりましょう。
 三四七番。

★ 小磯の浜にこそ 紫檀赤木は寄らずして 流れ来で 胡竹の竹のみ吹かれきて たんなたりやの波  ぞ立つ
                                          
 どこか分らないのですが、小磯の浜には南からの上等な楽器のつくれる紫檀や花梨などは寄ってこな いで、流れてこないで、「此方来」(此方へ来い)とば かりに、笛つくりの胡竹の竹ばかり鳳に吹かれ てきて、「たんなたりや」と笛の音よろしく波音を響かせるよ、
と、いうのですが、どうもそれきりのことなのか、もう一と読みしてみたい「うた」ではないのか。小磯は「恋ひそ」で、「そ」は禁止の意味だが、ここでは反 語的に聴こえもします。それに楽器で、はっきりと「たんなたりや」という笛を想わせるようにできている。「胡竹」に「此方来」も掛けている。どうも女のも とへひょろっとした笛同然の男ばかりが流れより言いよってきて、つい情の波が静まりかねる、という「うた」になっていると私は想います。そして、巧いな、 気がきいているな、と思うのです。
 次は、三五○番。

★ 明石の浦の波 浦や馴れたりけるや 浦の波かな この波はうち寄せて 風は吹かねども や 小  波ぞ立つ

 「浦」「波」のくりかえしにリズムが生きているのは分りますね。しかしこの「浦」と「波」に何か言外の諷意もあるかどうかです。「浦」は「うら」つまり 表に対する裏、かげの部分。男と女との親密な秘めごとにも通わせたことばで、そこは荒い風こそなけれ、情念の波は立つのではないか。ただ叙景の「うた」と は限らない、もっと情の乗ったわけ知りの「うた」と読んだ方が、ふしぎになつかしく、また美しい気がしてなりません。いかがですか。
 三五二番。

★ 上馬の多かる御館かな 武者の館とぞ覚えたる 呪師の小呪師の肩踊り 巫は博多の男巫

 「上馬」は上等の馬、良い馬、です。良い馬のたくさんいるお屋形だな、武者の屋敷らしいな。
 威勢 のいい武家の、晴やかな庭先を覗きこんでいるのでしょう。
 あれあれ、人が寄って。なんと、大きな藝人が小供を肩に乗せて踊らせているぜ。お神楽を舞ってる のは、あれは伯太彦神社の男巫じゃないか。
 眼に見えるような陽気なさんざめき、それがはぶりのいい武士の家の庭面の光景であるところに、侍の分際からのし上がってきた連中の、十二世紀らしい風 俗、今様の風俗がある。この賑やかさ、眼に耳に、残りますね。
 もう一つ、三五三番。

★ 御厩の隅なる飼ひ猿は 絆離れてさぞ遊ぶ 木に登り 常葉の山なる楢柴は 風の吹くにぞ ちう  とろ揺るぎて裏返る

 三五二番同様に武家屋敷の光景かと取る人がありますが、そうでしょうか。そうかも知れない、が、「飼ひ猿」という感覚がピンとこない。猿を飼っている と、馬が病気しないとも申すようですがそれだけではしっくりしない。むしろこの「飼ひ猿」とは、公家側からみた(庶民からもみた)成上りの武士を諷しては いないでしょうか。これまでは貴人の厩の世話をしていたような猿同然の田舎侍が、「絆」を離れて時めいているのを皮肉って歌う気持が、全然無いのかどう か。私は有ると想いながら読みたいですね。
 次に、三五五番。

★ 鵜飼は可憐しや 万劫年経る亀殺し また鵜の首を結ひ 現世は斯くてもありぬべし 後生我が身  を如何にせん

 鵜飼は鵜のえさに亀の肉を使ったそうです。「鵜飼はいとをしや」というのを、鵜飼は気の毒だ、と、よそ事に解釈している人もいますが、ちょっと気遠い。 鵜飼の身になって「鵜飼も可哀想じゃないか」と、自分で自分に言う感じに読みたいものです。
 鵜飼ってのも可哀想じゃないか。万年も生きてきた亀を殺してさ。鵜の鳥の首に紐をかけてさ。現世 はそれでもやってけるよ。だけどそんな殺生しててそれ で後生はいったいどうなる。まったくの話が よ。えー。
 私はなぜかこの嘆息まじりの「うた」に惹かれるのです。殺さねば、奪い取らねば生きていけない現世です。鵜飼ならずとも殺生しないでやってはいけない。 顧て投げ出すということも許されていない。しかし「後生我が身を如何にせん」というつきつめた思いに、人間は、古代人も中世人も、現代の私どもも、一生に 一度は突き当たる。「後生我が身を如何にせん」とそう省る時がきっとある。年とってからとは限りません。若い人にも有ることなんですね。

  鵜飼は可憐しや 万劫年経る亀殺し また鵜の首を結ひ 現世は斯くてもありぬべし 後生我が身  を如何にせん

 幼い子どもの自殺が多いですね。痛ましいことです。彼らは「後生我が身を」とも思わなかったのでしょうか、それとも思った末に死をえらぶのでしょうか。 『梁塵秘抄』の歌声を、ただ遠い昔の声とばかりは聴けない思いです。
 次はいよいよ、三五九番を読みます。

★ 遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ動が  るれ

 「遊び」を遊女の読みや別名と取る、もって回った解釈をする人があるが、愚かなはなしです。これこそ註釈の必要のない、ただ真心で読めば共感しない人は ない「うた」、遊ぶ子どもの愛らしさを真正面から見て歌った「うた」です。
 先の鵜飼の歌は、いわば老いし古代の大人の、苦悶の声です。
 これは、中世の曙を身に浴びた子どもの未来に健やかな光を垣間見たい、やはりこれも、古代の親の思いです。と同時に、決して人間は、遊びをしに、戯れを しにだけ生まれてくるのでない、もっともっと重い業苦を担いながら、長い、暗い、辛い、道のりを歩んでいかねばならない存在であるということを、熟知して いる大人の歌声です。そうと知っておればこそ、嬉々として連び戯れる子どもの声の可愛さに魂を絞られ、思わずこもごもの思いに身をふるわせてしまう大人 の、歌声なんですね。
 こういう「うた」は、ひたすら読むことです。声に出して何度も口遊むことです。字句の一つや二つに拘泥することはない。真心こめて読めば、私どもの心に 古代人の思いがまっすぐ響きあってきます。

  遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動が  るれ

 いつとなく真珠のような大粒の、大人の、親の、涙が眼に見えてくる。幼い子、育ち盛りの子を死なせたくありませんね。元気な未来を、なんとしても健やか に生きていってほしい。そう、いつも、私も、心から願っております。




   五章 源資時と平曲 そして雑の神歌(二)


     九

 四句神歌のうち「雑」の「うた」を最後まで読みとおしてまいります。
 三六○番。

★ 御前に参りては 色も変はらで帰れとや 峯に起き臥す鹿だにも 夏毛冬毛は変はるなり

 行楽を兼ねた神詣でうたです。「色も変はらで」には参拝の効もなくてというのが表の意味で、裏に巫女や遊女にふれもせずにということが隠されています。 男どもの「うた」ですね。旅さきの浮気の口実かと聴くと、笑い声が耳にとどいてきます。これは夫が妻に歌いかける「うた」ではない。男同士が車座になって 酒の勢いで高笑いしている「うた」。当の神様の「御前」で遊びの女も一緒に笑って歌う「うた」です。
 むろんそんな場所で男にだけ歌わせてはいません。
 三六二番。

★ 王子のお前の笹草は 駒は食めども猶繁し 主は来ねども夜殿には 床の間ぞなき若ければ

 奔放な「王子の社」の主ある女巫子の性生活があっけらかんと歌われている。ある意味で貴重な資料になる「うた」ですね。「駒」を男に、「笹草」を女体の 秘所に暗に誓えるのは古来の常套なのです。「床の間」というのも座敷に掛物をかける床の間でなく、「床」即ちセックスとセックスとの「間」の意味ですね。 その間隔があかないくらいだというのは、たしかに「若」いのです。そして、はやっている。『梁塵秘抄』の中で、これは、ぎりぎりいっぱい卑猥感に近い例だ と思います。
 次に、三六四番、三六五番、三六六番の三つが、四句神歌のうち「僧歌」の一部として読みました、「我等が修行に出でし時」また「我等が修行せし様は」と いった僧侶や聖、山伏同士の応酬、こもごもに体験談を交し合うた「うた」と同じ趣向の「うた」でございます。これは三六三番から引き続いてそうなんです が、三六三番は割愛します。
 いずれも、自分の子ども、それも今は生き別れのままの子どもを想いやって歌っている。歌い手は母親で、それも母親自身が遊女か歩き巫女かのように想像さ れまして、読んでいて、妙にもの哀しいような、そこはかとなく寂しいような、ほろりとくる「うた」です。
 三六四番。

★ 我が子は十余に成りぬらん 巫してこそ歩くなれ 田子の浦に潮踏むと 如何に海人集ふらん 正  しとて 問ひみ問はずみ嬲るらん いとをしや

 「巫」は、ここでは歩き巫女のこと。特定の神社に属さず諸国を経めぐって歩く巫女です。占いなどするのでしょう。男たちの嬲りものにもなるのでしょう。 この前に、三六三番の歌が、「媼が子供は唯二人」と歌い出されていますのを受けて、「わたしの子はもう十余りの歳にもなったでしょうか」と応じている。そ ういう母親の「我が子」なのです、おのずと母と娘との状況も、関係も、分りますね。
 あの子は今、歩き巫女になってあちこちを旅しているらしいんですよ。田子の浦の海辺かどこか、東 国の方をきっと歩いていることでしょうよ。漁師たちが そりゃどっさり集まることでしょう、あの子 の占いが当ったの当らないの、どうした、どこから来た、どこへ行く、親は、何はと、さんざ訊きな がら、年端 も行かぬと思って嬲りものにするんでしょうよ、ああ可哀想。でも、どうしてもやれない し──。
  こういう母、こういう娘、それが別れ別れて日々の生業を立てていた時代です。占いだけでなく、「うた」も歌ったに違いない。そして明日にはこの母親 も、どこを定めぬ旅の歩き巫女として、自分もまた歩き出すのでしょう。
 そのたった一夜の、鴨の川原か、鳥居のかげか、の顔合わせの際に、何人もの同じ境遇の女たちが、思わず我が子のことを喋らずに、歌わずにおれないでい る。寂しいことですね。その寂しさが歌に出ております。

  我が子は十余に成りぬらん 巫してこそ歩くなれ 田子の浦に潮踏むと 如何に海人集ふらん 正  しとて 問ひみ問はずみ嬲るらん いとをしや

 三六五番が、さらにこの歌を受けていく。

★ 我が子は二十に成りぬらん 博打してこそ歩くなれ 国々の博党に さすがに子なれば憎か無し   負かいたまふな 王子の住吉西の宮

 わたしの息子の方は、もう二十にもなったでしょうよ。さんざ博打をうちながら流れ歩いているそう ですよ、しょうのないやくざ者が。でもね、国々の博打 うちたちに、なんてったって腹を痛めた我が 子ですもの憎いわけがありませんからね、どうか負けさせないでくださいましよ、住吉西の宮の神さ ん、王子さ ん。お頼みします──。
 「さすがに子なれば憎か無し」というのが、「国々の博党に」と「負かいたまふな」の間に、ひょこんとはさまっているのが、日常の話しことばそのままで、 その辺の息づかいが、実際に歌ってみると、きっと面白かったのでしょうね。これは、先の「娘」に対し「息子」、先のが歩き巫女なら、これは博打うち。  『梁塵秘抄』の世界がこれです。「法文歌」も「神歌」もこういう連中が広めて歩いたのですね。
 次、三六六番。

★ 媼の子供の有様は 冠者は博打の打ち負けや 勝つ世なし 禅師は早に夜行好むめり 姫が心のし  どけなければ いとわびし

 またまた、年取った女が、媼が、出てきます。今どきの母親たちと、教育ママでないだけで、あとはすこしも変らない。
 今度は、長男(冠者)と次男(禅師)と、それに「姫」つまり女の子が一人いるようです。長男の「冠者」は博打うちだけれど、負けてばかりで勝ったことが ない。なんとなくおかしいですね。「冠者は博打の打ち負けや 勝つ世なし。」そして次男の「禅師」はあだ名でしょうか、この仁は「まだきに」まだ若いの に、「夜行」夜遊びが好きで好きでという。夜這い、女遊びですね。これも苦笑いもの──。おまけに「姫」がいます。「姫」はよかったという感じですが、こ のお姫さんも「なんともだらしが無くて無くて、ああ、ああ、親は情ないやら心配やら」で、「いとわびし。」もっともですし、またこの母の子かな、という気 もせぬではない。それが面白いより、寂しい気がします。もう一度、読んでみてください。

  媼の子供の有様は 冠者は博打の打ち負けや 勝つ世なし 禅師は早に夜行好むめり 姫が心のし  どけなければ いとわびし

 ちょろろと薪の火が燃えていそうな、女ばかりの車座の、妙に佗しい、妙に温かな、しかし、しんしんと心の底の冷えこむ「うた」ばかりでしたね。
 次に三六八番と三六九番、それぞれ都で流行の風俗を男と女とに分けて歌っています。説明いたしません、ただ並べておきますので、口調を味わってみてくだ さい。

★ このごろ京に流行るもの 肩当て腰当て烏帽子止め 襟の竪つ型 錆烏帽子 布打の下の袴 四幅  の指貫

★ このごろ京に流行るもの 柳黛髪々ゑせ鬘 しほゆき近江女女冠者 長刀持たぬ尼ぞなき

 強装束といって堅く線の竪った男の衣裳が後鳥羽院の頃から流行する先がけがもう歌われ、また尼さんも「長刀」を持つような乱世の物情騒然が歌われてい て、興味深いけれども、またよくは分りかねますね。
 三七二番。

★ 山城茄子は老いにけり 採らで久しくなりにけり 赤らみたり さりとてそれをば捨つべきか 措  いたれ措いたれ種採らむ

 山城茄子が名産だったのは、『新猿楽記』などにそう書いてございます。その茄子の採り残したまま、赤らんで古びたのを歌っている。「赤らみたり」を「吾 子噛みたり」「吾子が見たり」と読んだ本もありますが、「赤らみたり」ですんなり分ると思います。(しかし「吾子噛みたり」も捨てがたいのです。)さて、 赤らんだ茄子、「さりとてそれをば捨つべきか。」そのままにしておけしておけ、種でも採ろう、という「うた」ですが、その程度で終っているのかどうか。ど うもこの古茄子を、年寄ったまま縁づいてない女性、に見たてている気味がある。となると、「吾子噛みたり」も利いてきます。父親が眼だけつけていた女に息 子が手を出した。「措いたれ措いたれ種採らむ」には、一つ、息子の子を産ませてやろうかといった意味を生じて、わっと笑い囃す男どもの声まで聴こえてく る。そういう「うた」のようです。読みなおしてみてください。

  山城茄子は老いにけり 採らで久しくなりにけり 赤らみたり さりとてそれをば捨つべきか 措  いたれ措いたれ種採らむ

 次に、三七六番。

★ 楠葉の御牧の土器造り 土器は造れど娘の貌ぞよき あな美しやな あれを三車の四車の 愛行輦  にうち載せて  受領の北の方と言はせばや

 「楠葉の御牧」は、大阪郊外、枚方市の辺にあった皇室御料地。楠葉が地名として、今も残っています。その楠葉御牧に土器造りが住んでいた。土器といえば 土くさく無骨なもの、陶器などより一段と素朴なものですが、打って変ってその土器造りの娘が楠葉小町の人気もの、すばらしい美人なんですね、「あな美しや な」と」お世辞ぬきのため息が出る。
 そこで、あんな可愛い娘だもの三国一の花嫁になれるよ、あれこそ美しく飾った婚礼用の輦に載せてやって、受領の北の方とも謂わせてみたいもの、値打ちは 十分──という肩の入れよう。
 「三車の四車の愛行輦」という語呂のよさに、花やぎがあります。「受領」は前にも申しました地方官の大物で、河内守とか近江守とか国司級の官吏ですね。 「殿は受領になりたまふ」と歌ったあれですが、この「うた」には、もっとからっと明るい庶民同士の高望みの中に、こうまで言ってのけられるようになった十 二世紀庶民の、階級的活気も含まれている。愛情もこもっている。気分のすかっとする、面白い、佳い「うた」だと、私は好きなんです。

  楠葉の御牧の土器造り 土器は造れど娘の貌ぞよき あな美しやな あれを三車の四車の 愛行輦  にうち載せて 受領の北の方と言はせばや

 「北の方」はむろん正式の奥様の意味ですね。そうまで言っているところを汲んでください。
 三七七番。これもケッサクです。

★ 尼は斯くこそ候へど 大安寺の一万法師も伯父ぞかし 甥もあり 東大寺にも修学して子も持たり  雨気の候へぼ 物も着で参りけり

 身なり粗末な貧相な尼さんを男たちが嗤って囃すのでしょう。それに対し老いた尼は、むきになって、自分はそんなに軽々しく人が嗤っていい身分の者でな い、という意味のことが言ってみたい。よく有るではないですか、ご大層な親類縁者を持ち出して言い返す──。
 「大安寺の一万法師も伯父ぞかし」
 なに、一万法師にしてもこの尼さんと五十歩百歩のしょぼくれた坊さんなのかも知れない。だから、尼さんの哀れさが一層めだってくるくらいのもので、効果 はあまりない。騎虎の勢いあとへは退けずに、「甥もあり」。また「東大寺で勉強している子もいますよこのわたしには」とあとからあとヘ言い募る。
 「ホウ、そんなエライさんのお身内にしては、身なりがネェ」と連中はまた嗤うのです。するとその言いわけが、「雨気で、今にも降るかと思ったから、わざ と良い着物は着ないで来たのですよ。」
 「尼」に「雨(あま)」ですね、なんともおかしい。物哀れでもあります。「尼は斯くこそ候へど」(わたしはこうは見えるけれどね、本当はね)という歌い 出しなど、自分で自分を巧まず諷刺している。そう歌うことでひやかしている連中もまた批評されている。

  尼は斯くこそ候へど 大安寺の一万法師も伯父ぞかし 甥もあり 東大寺にも修学して子も持たり  雨気の候へぼ 物も着で参りけり

 おかしい、が、ふっ、と笑いが凍りつく一瞬が残る。読み味わっていただきたいのです。
 三七八番。これも興味深い。後妻(うわなり)打ちと申しまして、前妻(こなみ)が意趣晴しをする、それも女どもを語らって襲う、物を壊す、乱暴するとい う上古来の怖い習俗があったのを踏まえています。

★ 池の澄めばこそ 空なる月影も宿るらめ 沖よりこなみの立ち来て打てばこそ 岸も後妻打たんと  て崩るらめ

 前半と後半が対想のていになっていると読めます。気になるのは後妻の「夫」の位置なのですが、どうも前半の「池」や後半の「岸」で弱腰が諷されている気 もする。いない気もする。怖い「うた」です。
 三八○番、へいきましょうか。

★ 遊女の好むもの 雑藝 鼓 小端舟 簦翳 艫取女 男の愛祈る百大夫

 遊女は『梁塵秘抄』では、さながら主人公の一人です。その遊女の好む物を列挙している。
 「雑藝」とは舞い踊りや、物真似、曲藝、つまりいろんな庶民藝能の意味。今様もむろんその内に入る、鼓も入る。とりわけ鼓は女の藝です、静御前など白拍 子の姿を想い出してみてください。
 「小端舟」は小型の舟、のちにいうチョキ舟でしょうか、この遊女は舟の上へ客を取った類の、江口や神崎の遊女をさしているようで、その舟の楫を取ってく れるのも、これは女が何かとつごうがいい。現役を上がったもう年寄女の仕事だったでしょう、「艫取女」がそれです。「おほがさかざし」も客と女の身を大き な傘で、人目から隠す役目の、やはり人なら女でしょうね、「艫取女」と兼業だろうと思います。つまりは商売上必要な仲間です。
 そして「百大夫」とは、道祖神、路傍の石仏のことで、遊女たちは百大夫と呼んで男の客が跡を絶たぬよう信仰したのです。「うた」の眼目はこの最後の句で しょう。
 三八五番。

★ 西山通りに来る樵夫 を背を竝べてさぞ渡る 桂川 後なる樵は新樵夫な 波におられて尻杖捨て  て掻い縺るめり

 この「うた」も表面の詞だけで解説していいのですが、つまりません。「西山通り」が桂川の西なのは確かとして、そこに何が有って礁夫は、若い、物馴れな い樵夫を尻に連れて早い川波をざぶざぶ渡るか。そこが遊女と逢える場所だからでしょう。それでこそ「新樵夫」が波に足をとられてよたよたするあがり加減が どっとおかしい。仕事のあとの男の遊びなのですね、川原とはそういう場所でした。
 それは、次にあげる「うた」からも分るのです。
 三八八番。

★ 西の京行けば 雀歯黒め筒鳥や さこそ聞け 色好みの多かる世なれば 人は響むとも 麿だに響  まずは

 「麿だに響まずは」が面白いのですね。妻への言いわけなのです。色好みの奴が世間には多いんだもの、あれこれ騒ぐけれど、俺さえ浮かれなければいいんだ ろ、と言う、その西の京には、「雀」「歯黒め」「筒鳥」といった陰語で私語かれるような遊女などがたむろしていたのでしょう。とかく誘惑の多い場所があっ たわけです。
 三九二番。

★ 茨小木の下にこそ いたちが笛吹き猿奏で かい奏で いなご麿賞で拍子つく さて蟋蟀は 鉦鼓  の鉦鼓のよき上手

 「茨」は野いばら「小木」は若木。野茨の若木の下での音楽会ですね。いたちが笛を吹き、猿が奏でる、つまり舞を舞う。「猿奏で かい奏で」と重ねて、 ホーラ舞うよ舞うよ。すると稲子が囃しながら拍子をとる。さて、きりぎりすときたら鉦鼓さ。あれは鉦鼓の名人さ、という「うた」です。鉦鼓というのは、雅 楽の方の楽器の一つで、唐銅でつくった円い鉦。鉦太鼓の、鉦です。さながら「鳥獣戯画」の世界ですね。
 次に三九三番。

★ 彼処に立てるは何人ぞ 稲荷の下の宮の大夫御息子か 真実の太郎なや 俄に暁の兵士につい差さ  れて 残りの衆生たちを平安に護れとて

 あそこに立ってるのは誰。稲荷の下の宮の大夫の御子息か。あ、やっぱり、間違いないあの総領息子 だわ。突然、朝の早いうちの兵士に呼び集められたと か、残る我等を無事に護れと言うんだとか、ご 苦労な。
 いかにも時代ですね。突然、兵士の一人に誰彼となく引っばり出される。
 何も、残った者が安穏をただ喜んでる「うた」ではない。好き勝手に用のない我等をむり強いに戦場にひき出すものに対して、怒っている、そういう「うた」 でしょう。多かったのでしょうね、こういう事が。この十二世紀以降、民百姓にはこの負担が始終のしかかってきたのですからね。なるほど、武士の戦の端武 者、木っ葉侍というのが、どんな所から集められたものか、動員されていたか、よう分ります。
 次の三九五番と三九六番は、四句神歌のうち「僧歌」としてご紹介した三○二番の菜摘の女、変じて三○三番の天魔、魔性の女とちょっと似た、やはり掛けあ いふうの演劇的構図をもった猿楽(さるがう)「うた」で、多分おどけた所作で人を笑わせたものかと想像されます。
 まず、三九五番。

★ 海老漉舎人は何処へぞ 小魚漉舎人がり行くぞかし この江に海老なし 下りられよ あの江に雑  魚の散らぬ間に

 「海老漉舎人」とはこの際「海老すくいさん」でいいでしょう。「小魚漉舎人」とは「小魚をすくうお 人」でいいでしょう、その掛けあい。句の間に微妙な 飛躍があって、演じられている場面を眼に見て いないと、意外に分りにくいのだが、
 「海老すくいさん、どこへいらっしゃる」
 「小魚とりのあの人のところへ、ちょっとね」
 「この入江に海老はいませんよ。あっちの入江の方へいらっしゃい。集まった雑魚が散っちまわない うちにね」
とくらいに読みとっておきましょう。
 さて、三九六番は。

★ いざ給べ隣殿 大津の西の浦へ雑魚漉きに この江に海老なしあの江へいませ 海老まじりの雑魚  やあると

 この方はそう難儀じゃない。
「さ、参りましょうかお隣さん。大津の西の浦へ雑魚をすくいに」
 そして、「この江に海老なし」この入江に海老はいませんよ、あっちの入江へいらっしゃい、海老混じ りの雑魚はいるかと訊いてね。
 乙女即ち魔女をシテに、聖をワキにと考えてみたあのお能じたてとは、ちょっと違います。むしろ狂言ふうの芝居じたてなのでしょう、おどけた身ぶり踊りの 手などもついていたか知れない。
 三九七番。

★ 見るに心の澄むものは 社毀れて禰宜もなく 祝なき 野中の堂のまた破れたる 子産まぬ式部の  老いの果て

 「心の澄むものは」というのを前に読みましたね。これに「見るに」、眼で見て、というワクをはめており、それだけ印象鮮明で心に喰いいってくる迫力があ ります。詞として読むだけでいけない「うた」の代表的なもので、さながら十一、二世紀の洛中洛外の真中へ身をおき足を運んでいる気で想像していただきた い。
 「禰宜」は神主、「祝」はここでは、神主より下位の神職です。「野中の堂のまた」の「また」を正しく読んでください。野中にあるさえ寂び寂びと心澄むも のなのにその上に破損が著しいわけですね。「式部」は一般に女官を指していっているのでしょうが、老いて子の無い女性を広く指すと読んでももの哀れです。 また、この種の「うた」では最後の一句を呼び出すために前の旬をことさら重ねている例が多く、この「うた」の場合も、あるいは「うた」のできていく周辺に 誰と具体的に分る「式部」が現にいて、肴にされているとも思えるのですね。
 それにしてもこの「うた」などは宴席で歌うには心が澄み過ぎる気もします。観照性の濃い『梁塵秘抄』の中で一等文藝寄りの代表作でしょう。
 次は、四○二番。

★ 隣の大子が祀る神は 頭の縮け髪ます髪 額髪 指の先なる拙神 足の裏なる歩き神

 面白い「うた」ですね。「大子」は、その家の長女です。『長女論』というエッセイを、私、書いたことがあります。大昔、長女はその家のいわば巫女さんだ という思いがありました。神の声をその家の長女が聴いて家族に伝える。長男はそれに応えて家をとりしきる。「まつりごと」というと今では政治のことです が、まずは神の声を聴く祭事が先だった。そのあとに人間世界の政治が行なわれた。長女、というのはそういう意味で神憑りする大事な存在だったのです。「一 姫二太郎」の本義です。
 そういう風習にこと寄せてこれはいわば笑い「うた」にしてある。
 隣の姉さんが大事に祭ってる神とはな、そりや頭の縮け髪(つまり、ちぢれた髪の毛ですね)それと ます髪つまり乱れ髪と、額にかかった額髪なのさ。あ、 それと、指の先に住む無器用の神さんと、足 の裏に住む浮かれ歩きの浮気の押さんさ。
 そんなぐあいに一つには隣の長女を巫女にみたて、二つにはお洒落がいもない役たたずの浮気女に見たてて、からかっている「うた」なのですね。「拙神」 「歩き神」など、今にも私どもがとかくおつきあい願っている神々です。
 四○四番。

★ 瀧は多かれど 嬉しやとぞ思ふ 鳴る瀧の水 日は照るとも絶えでとふたへ やれことつとう

 なぜか私は大好きです。お能の「翁」を思い出します。悠久の自然、それも深い山ふところに日の光うららかな日本の自然を思います。「とふたへ」は「と歌 へ」ではありません。「とうたり」とものちに音を変えますが、瀧の落ちるさまを形容しています。『平家物語』の「額打論」に山門延暦寺と南都興福寺の僧が 争う場面がある。

 (略)とやせまし、かうやせましと僉議するところに、興福寺の西金堂の衆、観音房、勢至房とて聞 えたる大悪僧ありけり。観音房は黒糸威の腹巻に白柄の 長刀くきみじかに取り、勢至房は、萌黄威の 腹巻に、黒漆の大太刀もて、二人つと走出で、延暦寺の額を切て落し、散々に打割り、
 「うれしや水、鳴るは瀧の水、日は照るとも、絶えずとうたへ」とはやしっつ、南都の衆徒の中へぞ 入りにける。

 私はこれを中学三年で読み、とにかくもこの「うれしや水、鳴るは瀧の水、日は照るとも、絶えずとうたへ」に魅了されたことをよく覚えてます。瞼の上へ一 瞬とこしえの日の光が射す心地でした。その瞬間、不思議な世界に甦ったような自分を感じました。それは『平家物語』ともこの「うた」この今様とも無縁の飛 躍だったかもしれませんが。
 それにしても『梁塵秘抄』を読まれたなら『平家物語』もぜひ、またその逆もぜひ心がけてほしいのです。漢字の意味を取っていけますので、古文ながら『平 家物語』は決してそう読みづらいものではありません。


     十

 すこし話題がとぶようですが、あなたは「琵琶法師」のこと、というか言葉や文字は一度ならずもうお聴きにもご覧にもなっていると思うのです。一等有名な のが『平家物語』を語る琵琶法師ですね、例えば小泉八雲の『怪談』中の傑作、「耳無し芳一」などがそれですね。「平家琵琶」という謂い方もあり、鎌倉時代 に如一とか覚一とかという名人がいまして流儀も岐れた。ふつうそれを『平家物語』の「平」をとって「平曲」と呼んでおります。曲節を付した本に「平家正 節」がある。
 しかし琵琶の法師必ずしも「平曲」に限ったことではなかった。『平家物語』ないし「平曲」の出現は、どう早く見ましても平家滅亡以後、西暦一一八五年、 寿永四年以後のことでしょう。
 ところが十一世紀ごく初めには書かれていた『源氏物語』にすでに「琵琶の法師」のような、とか、ようにとかいう表現が出てまいります。百人一首中の有名 な蝉丸。「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」というあの歌の作者だという蝉丸が、目が見えず、そして琵琶を抱いた姿をして百人一首 の読札に絵が描いてあったのも、私は記憶しております。但し、この法師らが巧緻に琵琶の手を弾く以外にいわゆる「語り」もしたかどうか、むしろ琵琶という 楽器を「語り」の伴奏に利用したのは説経師たちの方だったのではないか。ともあれどうも琵琶法師は、よほど久しい伝統をもっていたらしい。
 つまり遅くも十世紀、十一世紀に琵琶の法師はもういて少なくも「うた」を歌い琵琶を奏でて人を楽しませていた。その伝統の上で十三世紀に入って「平曲」 全盛へ向かう時に、琵琶は「平家物語り」の主要な伴奏楽器になった。と、すると十二世紀の百年にだけそれが空白だったわけはない。『梁塵秘抄』中の相当数 の「うた」も、鼓の拍子以外に、よほど琵琶が、法師かそれに近い男女によって弾き歌われていたろう、併行して説経師たちの「語り」の合の手に琵琶の法師の 琵琶が流用されだしていたろうと、見当をつけることができるわけです。
 以前、国立小劇場で今様復元の試みがなされた、私も聴いたということを申しました。『梁塵秘抄』の数々の「うた」が実際にどう歌われたかを知りたかった のです。が、よほど聴いていてもそれは歌詞ひとつ満足につかめない悠長を極めたもので、あれで一体、今様の面白さが当時の人々に、詞の意味としてもちゃん と伝わりえたのかと、せっかちな現代人らしい感想をもちました。首を傾げました。疑問ももちました。決定的な、拠るべき確かな立場の十分ではない復元の努 力なので、どうしてもあれは今様以前の宮中雅楽や郢曲や古い声明音楽により引かれて復元されたかという印象を禁じえなかったのです。こう悠長では、中世の 幕あけに臨んだ人々の今様感覚とは思いづらかったのですね。後白河院があんなに熱心に探求した新音楽、新歌唱法つまり今様は、もっと、私どもの今読んでお ります歌詞にも即して、テンポの早められたものではなかったかと期待したのです。が、分りません。残念ながらどうだかよく分らないのです。
 最大の難関は時間の感覚が時代によってどれほど違うかを正確に計測できないということです。例えば一つの音符をどれほどの長さで受けとるか。上古、古 代、中世、近世、近代、現代でずいぶん違う。それどころか昭和初年と十年代と、戦後十年、二十年、三十年、昨今とでも歌謡曲のテンポが全然違っているわけ ですね。旋律も違うが、その底に隠れている時間感覚が顕著に違う。この忙しい現代人の時間感覚で九百年、千年昔の音楽を速断してはいけないのでして、悠長 を極めていて詞が粒だって聴こえないとかりに私が思っても、逆に当時の人が今日のポピュラア・ソングを聴いたなら、なかなか意味ありげな言葉としては耳に 残らないことも十分ありえます。
 とは申しながら、日常会話などはどうしても現在私どもの喋り方とそう違うわけがなかろうにという思いが残ります。しかしこれもアテにはならない。文学作 品に残された多分リアルな会話の部分も、明治時代ですでにうんと違っています。江戸時代の京伝や西鶴になると読んでいて口がもごもごします。『源氏物語』 や『枕草子』にも必ず当時としてリアルな会話が書かれた部分があるはずです。
 そう思えば、勝手な推測を、言葉について、そして言葉の背景にある時間感覚について、下すわけにまいりません。私どもは飛行機も新幹線ももっている。そ のためにかえってせかせかしています。歩いて三十分などという距離を昨今の都会人なら歩こうとせず、乗物を求め、乗物がない場所を称して不便な場所と言 う。
 その感覚で昔のものを読みますと、例えば京都から熊野まで生涯に三十三度も通う人物がいるのが信じられない。現代人にはただの一度でさえそんなことを試 みる人はいない。物理的に遠いどころでない、心理的に追っつかない遠さを感じてしまいます。
 むろん「うた」にもあるように昔の人にも遠かった。そして危険で不便で難儀でした。のに、くりかえし往反する。それが行楽になる。物見遊山にも信仰の行 にもなる。
 西行や芭蕉の漂泊感覚と、それを現代から想いやる漂泊への想像とには、よほど時間感覚や距離感覚に違いがあったことをよく弁えないととんだ錯覚を生じま す。現代の論者はやたら彼らの漂泊を過大に評価しすぎます。一度家を出れは生涯帰らぬかもしれぬ中国人の長旅とは違います。そのまねなのです。その実は ちゃんと用向きのある旅をけろっとした顔でしていたわけです。
 歩くしかない時代に時間をかけて歩いて行くことは、乗物万能の時代の人間には分らないタチの当然という感覚が働いていたはずです。私は熊野路をバスや車 で二度通っています。遠いなあ、よくこんな処を歩いたものだとあきれたものですが、それは比較してものを言うのであって、昔の人にはせいぜい大空の鳥の翼 を想うしかなかった。自分の脚しかなかったのだから、行きたければ歩いて行き、歩いて行ける処までは遠くても構わず疑いもせずに歩いて行った。
 この時間感覚を思えば、『梁塵秘抄』の「うた」がどういうテンポで歌われたかを議論するより、それが当時の人には十分新鮮に面白く、妙味も分って楽しま れていたことを信じれば、足りているのだなと私は思うのです。
 もっとも「平曲」のテンポは明らかに私の聴いた今様のそれより、ずっと早い。
 「平曲」には素声と引句という基本の技があるのですが、素声は口誦、朗詠の伝統をうけた「語り」気味の部分で、引句の方は曲節のついた譬えば「歌い」気 味の部分です。明らかに「平曲」には上古来の歌謡的性格と物語的性格とを綜合するところがある。そして琵琶による伴奏という楽曲性を備えている。
 また拾物と節物の区別があり、「木曾最期」や「宇治川先陣」のような勇壮なものは強く語ります、これが拾物。これに対して「小宰相」などは優艶な哀調を たたえてさながら歌いあげます。これが節物。ですが、その両方とも後の「謡曲」と較べてどっちと言いかねるテンポです。おそらく初期「平曲」の曲節はもっ と単純でもっと早い語り口だったかもしれない。とすると、いよいよ例の今様復元の悠長さはよく分らない。しかし、是非の判断もつけられないのです。「平 曲」は中世、しかし「今様」は古代の「うた」です。較べるならまずそれ以前と、ということでしょう。
 それはさておき、いよいよあの源資時のことを話したいと思います。
 『梁塵秘抄』における「左兵衛佐瀬資時」は、「口伝」巻第十の追加の部分にはじめて登場する人物です。後白河院が、やっとやっと見つけた天才的な歌い 手、後継者、として見つけた弟子二人のうちの一人です。一つには「家重代」の藝として郢曲(謡物の総称と理解しておいてください)の名手だったこと、二つ には後白河院も保証する今様の歌い手として、天才的だったこと、と同時に、三つには、この資時がやがて出家いたしまして「正仏」と名のった、以上三つの事 実から、彼は伝統音楽そして今様を経て、平曲に至る大きな歌唱藝能の流れの、ごく大事な「結び目」になった人物ではなかったろうか、という推定だけは、大 分早くに申しておいたとおりです。
 改めて、なぜ、そんなことを言うか。
 資時の父は源資賢、按察使大納言として『平家物語』に何度も顔を出す、後白河院とは因縁の深い近臣です。かつては父後白河上皇にほぼ敵対した二条天皇側 に立って、上皇呪詛の咎で流罪に遭ったこともある人物です。しかも今様の名手です。後白河院ははじめこの人から今様の面白さを習ったらしいとすら申せま す。そしてそれ以上に源家郢曲の家元格です。郢曲の家には藤家、藤原氏の流れと、源家、公家の源氏の流れと二つありました。それも前に申しました。資時は その源家郢曲の大家資賢の子なんですが、私はどうもこの資時の母親は、いやしい今様うたいの遊女であったろうと想像しております。
 「口伝」には資賢の子として通家、孫として雅賢の名が出てまいります。通家は早死致しますので、資時はいわば跡つぎであっていいのに出家してしまう。ど うも資時は甥雅賢よりずっと若かったという印象がございます。雅賢の方は嘉応元年(一一六九)以前の「口伝」に名を出すのです。が、資時は出てこない。彼 が後白河院から習いはじめるのが「治承二牢(一一七八)三月二十三日」例の熊野詣の途中からです。「滝尻宿よりはじめて、二年が間に、今様、裟羅林、片下 歌、早歌、足柄、黒鳥子、伊地古、旧古柳、権現、御幣等、物様、田歌に至る迄、皆習ひて瀉瓶し終りぬ。熊野の道より起る。年頃つぐものなしと思ひしに、権 現の御はからひか」と院は申されております。もっとも資時のデビューは四年前、承安四年の今様合わせでした。十六歳で、院の眼に、いえ耳に、もうとまって はいたはずです。
 資時は美少年として院に寵愛されたのではないか、足利義満にとっての美童世阿弥に近い存在であったのではないか、と私は想っています。母親が白拍子の静 御前や祇王や仏御前なみの人ならさまざまなことが考えられる。十二世紀に入ってこういう劣り腹の公達はずいぶんたくさん生まれたのです。貴族が氏素姓の知 れぬ雑仕女に手をつけて子をうませるということは、昔にはそうないことでした。ともあれ彼は父から伝統音楽の、母から今様雑藝の才分を受けとった、生まれ ながらの天才歌手だったろう、と私は考えています。だからこそ後白河院は、弟子なくて「遺恨」とまで嘆いていたあとで、わざわざ口伝を追加してとくに「資 時」の名を大きく記したのでしょう。
 今も申すように資時はそれほどの名手でありながら郢曲の家をつぎません。つがずに出家してしまう。つぐにつげない生れ、母が身分の低い女だったからで しょうか。
 資時が出家いたしましたのが、実は、後白河院とともに、平家都落ちのどさくさに、山伝いに闇にまぎれて鞍馬・比叡の山へ遁げのびるといったあの異様な体 験をしたあとでした。元暦二年(一一八四)の清暑堂での神楽に声がかすれてしくじったのが遁世の理由とされていますが、もっと深い理由を想像してみたい。 木曾義仲に追われた平家は、都落ちに際して後白河法皇をも西国へ連れて行こうとしていた。それを察して辛うじて主従二人で法住寺御所を遁げた、その時の 「御伴」が資時一人でした。そういう親しい間柄の師匠と弟子で後白河院と資時はあった。男色に近い愛情ももちあっていたかしれません。
 私はこの逃避行の真最中に、すでに法皇のしみじみとした勧めでもって、資時出家の肚が定まったものかと想像しているのです。理由はいくらもあったでしょ う、後白河院は政治のはかなさに対し、藝術の永遠を信じていたような人です。私は第一に、法皇が、彼資時の天才を生かして、いわば平曲創始のサジェストを したのではないか、とも考えます。時代の記録を、音楽的に、かつ物語的に、永遠に──。
 資時、出家して正仏。この「正仏」が、「信濃前司行長」(この名称はやや事実と違うのですが、今はふれません)と協力して『平家物語』を創りあげていっ た「生仏」と同一人ではなかろうか、という山田博士の大きな推測は、しかし、学問的な支持をえないまま今も埋もれているのです。私は、この示唆の含んでい る、可能性、蓋然性はかなり高いと思う。かりに事実はそうでなくても、一つの仮想、仮説、仮定として、こういう源資時のような存在を介して、『梁塵秘抄』 の音楽性と「平曲」の意図とが、一つの流れに流れあって、後世へ歴史の実相実感を伝えていく、というようなことは、肯定的に、よほど大事に肯定的に考えて いいのではないかと、思うのです。が、それはもう私の本業・小説の世界です。
 さあ、歌へ戻りましょう。四○八番が、最初にご紹介した「舞へ舞へかたつぶり」の「うた」ですね。もう一度読んでください。

  舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん 踏み破らせてん まこ  とに愛しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん

 改めて読んでみてこの「うた」が、『梁塵秘抄』の世界を端的に反映した表現をとっていることに気づきます。たとえば「舞はぬものならば」というふうに、 時代の強硬な一面をはっきり打ち出している。そうかと思いますと、「愛しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん」と、これはまた非常にからりと、華やかな現世 享楽的なまた御恩奉公につながる一面も表現している。
 私は『梁塵秘抄』の世界を理解また翫味するためには、これを成り立たせた十二世紀という百年の混沌のなかで、この強い側面と、華やいだ側面とを、甲乙な しに見落してはいけないといつも思っております。
 十二世紀の魅力、あるいはこの同時代人が感じていた現代〃というもの、十二世紀現代というものの魅力とは、謂い方を変えると例えば平家的・清盛的魅力 とは、どちらかというと「遊びをせんとや生まれけむ」ほど批評的にではないけれども、この「舞へ舞へかたつぶり……」という「うた」のなかにより感覚的 に、あるいはより今様的に、率直に打ち出されているんじゃないか、そういう気がします。
 『梁塵秘抄』にはいくつもの魅力的な側面があると思うのですが、中でも、やはり『梁塵秘抄』を成立させた十二世紀という時代のもっている非常に複雑な面 白さを如実に反映している点を大事に思っています。次に、後白河院の個性的な魅力や体臭を反映しているところ、それと共に大事なのは、やはり目読の詩歌で はなくて、あくまで全部歌われたものとしての「うた」が聚めてある面白さ、詩歌ではなく貴族や民衆の、とくに唱歌を介してさまざまに時代の内面をつかみ出 せる面白さがある。しかも今あげたような面白さや魅力の全部が、一見雑然と、しかし必然的に動いていく時代の今様、つまり十二世紀人の現代感覚≠ノあく まで即した方向でよくつかまえられているところ、それが『梁塵秘抄』のたまらなく刺戟的な面白さになっているのではないだろうかと私は思っているのです。
 いささか「まとめ」めいたことを申すようですが、この「舞へ舞へかたつぶり」は、それほどの感想をただちに思い浮かべさせてしまう、或る内懐の深さを抱 きこんだ「うた」であるなと思うのです。
 四○九番。

★ 鏡曇りては 我が身こそやつれける 我が身やつれては 男退け引く

 鏡と申しても今どきのガラスの鏡ではない。銅か鉄か、いずれ金属の表面を磨いた鏡ですから、手入れを怠るとすぐ曇る。女が鏡を曇らせるというのは、それ だけ若さを失ったことを意味するので、それを「やつれる」と言っています。やつれれば、男は、恋人は、遠ざかっていくばかりだという嘆息のあてどなさ。短 いがあるエッセンスがつかめている「うた」です。ものが見えている。
 四一○番。

★ 頭に遊ぶは頭虱 項の窪をぞ決めて食ふ 櫛の歯より天降る 麻笥の蓋にて命終はる

 頭虱が頭で遊んでいる。「遊ぶ」はないでしょう、その証拠に「項」(うなじ、ですね)、首のうしろの、その窪んだ場所に決まって食いつく。「頭に遊ぶは 頭虱 項の窪をぞ決めて食ふ」とはユーモラスな歌い出しですね。
 それでその頭虱を櫛でぐいと漉いてやる。すると櫛の歯からばらばらと虱が散って落ちるのを、「天降る」と洒落たことをいうわけです。落ちた虱、天降った 奴は、麻笥(麻などを入れるために檜のような木で造った器)の蓋の上でつぶされて「命」いのち、を終る、ご臨終、という、これは戯れ「うた」ですね。しか しなかなか洒落がきいて生き生きしております。
 四一三番。

★ 熊野の権現は 名草の浜にぞ降りたまふ 海人の小舟に乗りたまひ 慈悲の抽をぞ垂れたまふ

 二五九番の「うた」が二句めまでほぼ同じで、三、四句が「若の浦にしましませば 歳はゆけども若王子」と洒落ています。面白さは二五九番にあるが、四一 三番は「うた」としての律動感が自然です。
 四一六番。

★ 南宮の御前に朝日さし 児の御前に夕日さし 松原如来の御前には 官位まさりの重波ぞ立つ

 広田神社の三つの摂社を歌い、眼目は官位昇進の「重波」に相違ありません。「朝日」「夕日」「重波」といううち重ね方が「うた」となり、存外これが面白 い効果になっています。
 四一三番も四一六番も、一つの型に則ってさらっと歌われているのがわるくないのですね。
 四二三番。これも洒落「うた」ですが、四一○番の、「頭虱」とは大違いです。

★ 般若経をば船として 法華経八巻を帆にあげて 軸をば帆柱に や 夜叉不動尊に楫とらせ 迎へ  たまへや罪びとを

 説明の必要はないでしょう。般若経を船体に見たてる。法華経八巻をそれぞれ帆に見たてる。と、経巻の軸は帆柱に当る。そこで一と声「や」と囃して、夜叉 や不動──仏法僧を守護するといわれる夜叉や不動にこの般若の船、つまり菩提を得る船、知慧の船、の楫を取ってもらって、どうか罪深い我等衆生を浄土へ迎 え取ってください──という、なかなか仏の教え、仏の慈悲を、巧妙に「うた」につくっていますね。「海」「船」「彼岸」という譬えは、仏教の常套句ではあ りますけれど、島国日本人には体で分る、という妙味もあったのでしょう。
 「八巻」「や」「夜叉」と、「や」の音が三つ重なり語調を作っているのが、お耳にとまりましたでしょうか。それにしても、他力本願という日本的信仰の素 質が、この「うた」にももう露わですね。

  般若経をば船として 法華経八巻を帆にあげて 軸をば帆柱に や 夜叉不動尊に楫とらせ 迎へ  たまへや罪びとを

 では、四二六番。

★ 聖を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや 年の若き折 戯れせん

 歌っている中身は、むしろ簡単なんです。聖をとくに修験者と限ることもないでしょう、ともあれ禁欲の聖ぐらしをとおすことなんてするもんか、袈裟なんて 着るもんか、数珠も持つものか、年の若いうちはさんざ色恋を楽しみたいよ、という宣言。
 この歌を、あの「鵜飼は可憐しや」という「うた」の、「現世は斯くても在りぬべし、後生我身を如何にせん」という嘆きと一対にして眺めたい。「遊ぶ子ど もの声聴けば我が身さえこそ動がるれ」と幼な子の姿に涙をためた大人、親、老いたる古代に対して、あの嬉々と遊んでいた無邪気な子ども、新しい時代、中世 は、もうはや、こんな「うた」を歌う若者にまで成長してきて、さらに、古き過ぎゆく世代をはらはらさせたことでしょう。そう思って読み直しますと、いかに も若い世代の声ですね、これは。

  聖を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや 年の若き折 戯れせん

 「はや」という舌打ちとも嘆息とも非難とも聞こえてくる言葉にならない言葉の、批評!
 次、四二九番。

★ 心凄きもの 夜道船道旅の空 旅の宿 木闇き山寺の経の声 想ふや仲らひの飽かで退く

 「ものは尽し」という発想は『枕草子』などにたくさん例がございます。『梁塵秘抄』の「うた」にもずいぶんたくさんございます。その中で「心凄きもの」 を一つ。
 「凄い」というのは、昨今の、若者に限らず誰彼なしにまことに安直に口にする日用諸になっていますが、もともとの意味は、よほど複雑で、微妙で、烈しい ものでした。魂消ゆるほどの怖さと、心細さと、頼りなさとが混じりあいながら、かえって心が真白に色さめていくような状態、それが「凄い」のもとの意味で す。
 私のよく存じあげている文学者で、「凄い」などと安直に口にする奴は嫌い、という方があるくらいです。凄いといった実感は、そうやすやすともてるわけが なく、それだけにむしろ価値ある体験なのではないでしょうか。
 さて「夜道」「船道」「旅の空」は分ります。今どきの夜道や舟旅、旅愁と簡単に一緒にしてはならないでしょうね。飯屋も茶店もない。食って寝ることも自 分で世話をするのです。あくまで十二世紀、古代の闇と中世の孤独とのむらむら拡がる底知れない暗い世界の「凄さ」を想いやってください。むろん、「旅の 宿」とても同じことです。安全第一のホテルと一緒くたにしてはいけない。
 うっそうと木暗い山寺、それも夕暮れてまだ今夜の宿も定まらぬ時刻に聴こえる勤行の声。凄いと、私も一度心細い子連れの旅でしみじみ味わったことがあり ます。怖い、という実感が本当にありました。
 しかしとくに言いたいのは、最後の、「思いあった好きあった同士が、愛情を互いに残しながら余儀なく遠ざからねばならない場合」を、「心凄きもの」に数 えていることです。
 「想ふや仲らひ」の「や」は調子をとる音で、意味の上では「想ふ仲らひ」で、つまり愛しあう同士です。「飽かで退く」とは、お互いに愛しあいながら、心 ならずも遠のかねばならないという、これを「心凄きもの」にしっかり数えあげた十二世紀人は、たいした人間理解者だったと思う。精妙に心のひだにまで眼を 見透して、ものを正しく感じとっていなければこの「うた」は生み出せない。「飽かで退く」 ──退く。巧いものです。
 四三○番。

★ 山の様かるは 雨山守山しぶく山 鳴らねど鈴鹿山 播磨の明石の此方なる 潮垂山こそ様かる山  なれ

 「様かる」という言葉が『梁塵秘抄』にはずいぶん出てきます。「風情有って面白い」という意味ですね。これは実際有る山の名をあげていきながらの言葉遊 びですね。それはそれで調子のいいものです。
 次の四三一番は、問題を含んでいます。
 一体、これほど多種多様多彩な「うた」を含みながら、ご紹介した中に、まだ一つとしてはっきり政治批判の「うた」、階級的にまだ上位にある公家社会を正 面から批判したものがなかったのに、あなたは気づいておられましたでしょうか。
 考えてみれば、後白河院の勅撰かつ自撰ともいえる本です。有るはずがなかった。そこに一つの『梁塵秘抄』の限界が見えることを認めねばなりません。
 その種の「うた」が当時まるで無かったわけはない。民の声が、祝言うた、お世辞うた、ばかりで満足するわけがないんですね。そのことは、この四三一番の 「うた」が間接ながら言い当てている。
 これは後白河院の運命ともじかに関わっていた、十二世紀の政権争奪劇に、じかに(但しエン曲に)ふれた殆ど唯一の「うた」と申せましょう。

★ 讃岐の松山に 松の一本歪みたる 捩りきの捩りさに 猜うだるかとや 直島の さばかんの松を  だにも 直さざるらん

 讃岐の松山に、松が一本歪んで立っています。くねくねと身をよじっては、猜みひがんでいるそうで す。あの辺には、直島、まっすぐの島という名の島もあ るくらい。あんなねじけ松の一本をなぜまっ すぐにできないのでしょう。──
 こんな文字どおりの意味ですが、このねじけた一本松というのが、保元の乱で讃岐の直島に、そして松山に流された崇徳上皇のことを指しているのは明らかで す。
 讃岐院といわれたこの上皇は、後白河院と母を同じくする実の兄なのです。しかもこの兄を、弟は保元の乱で打ち敗かして、断乎島流しにして生涯都へ帰さな かった。讃岐院は弟の無情を松山で怨み死にに死にまして、その詛いが、あとあと都ではたいへんな騒ぎを起こすわけです。白峯という所に御陵がありますし、 上田秋成の『雨月物語』巻頭に西行法師と院の亡霊のやりとりする『白峯』という名作がございます。
 この「うた」の真意はなかなか掴みにくい。が、少なくも後白河院には、気分の負担がないタチの「うた」とみえたのでしょう。しかし、私どもにはなかなか の批判的な背景も種々想像させてくれる、これは『梁塵秘抄』には珍しい血腥い材料を歌った「うた」です。批判は、後白河院にも及んでいると私には読めま す。殆ど唯一と申しましたが、四○六番も、「讃岐の松山へ入りにしは」といぅ句があり、多分崇徳院に関わる「うた」と思われます。そう取ると、その前の四 ○五番の「うた」は、「くわうたいくわう」の一句が「皇太后」と読めて、それなら崇徳天皇が父の鳥羽天皇に嫌われ、ひいては保元の乱の遠因ともなった崇徳 生母の待賢門院璋子ではないかという推測も成り立ちます。崇徳天皇は、鳥羽院の祖父白河法皇が、養女であり自身で鳥羽天皇の中宮にした待賢門院璋子その人 に産ませた「子」であったらしいといういやな噂があったのですね。それで鳥羽院は息子である崇徳天皇を「叔父御」「祖父子」とかげで言っていたというので す。嫌われる道理ですが、実否は分りません。

  讃岐の松山に 松の一本歪みたる 捩りさの捩りさに 猜うだるかとや 直島の さばかんの松を  だにも 直さざるらん

 四三二番。

★ 春の初めの歌枕 霞鴬帰る雁 子の日青柳梅桜 三千歳になる桃の花

 一三番で「春の初の歌枕」をあげました、あれと同類ですが、こういう「うた」がふとなつかしい時があるんですね。正月最初の「子の日」は、野に出て小松 を引いてきて移し植えたり若菜を摘んだりする楽しい日。三千年に一度生るという「桃」とは、仙女西王母が漢の武帝に与えたという蟠桃のことです。これも祝 言であり、春の「うた」として、次の夏を呼ぶわけですね。
 四三三番。

★ 松の木陰に立ちよりて 岩漏る水を掬ぶまに 扇の風も忘られて 夏なき年とぞ思ひぬる

 『拾遺和歌集』に恵慶法師の歌で「松陰の岩井の水を掬びあげて夏なき年と思ひけるかな」というのを本歌どりした「うた」です。さっぱりと、このまま素直 に読んで心涼しい佳い「うた」でもあります。
 四三四番。そして秋、ですね。

★ 池の涼しき汀には 夏の影こそなかりけれ 木高き松を吹く風の 声も秋とぞ聞こえぬる

 これは極めて珍しく、作者が歌僧寂然と分る「うた」なのです。これにも『和漢朗詠集』源英明の漢詩で、「池冷ヤカニシテ水ニ三伏ノ夏無シ 松高ウシテ風 ニ一声ノ秋有り」というのを踏まえています。詩より「うた」の方が数等よくできていると思います。気持のいい「うた」です。
 次は、四三六番。趣が変ります。

★ 武者の好むもの 紺よ紅山吹濃き蘇芳 茜寄生木の摺 良き弓胡簶馬鞍太刀腰刀 鎧兜に脇楯籠手  具して

 武者武士の好むもの。色は、紺色、紅色、山吹色、濃い蘇芳色(つまり黒っぽい紅色)それに茜色や寄生木の藍色を布地に摺りこんだ色。また強い良い弓、良 い胡簶、馬、鞍、太刀、腰刀、鎧、兜、脇楯や籠手を全部揃えてもつこと。「具して」は全部揃えて、持つ、ことです。
 なんでもない、ただ並べたてた「うた」ですが、一つの今様としての武者のいでたち、好みは、たしかに分る。色の中でも紺色など、王朝貴族にはまるきり人 気のなかった、まあ侍分際の下賤の色彩だったのですが、武者の世になって頭角を現わしてきた。今でこそ紺色は大衆的人気をもっているのですが、こういうこ とが読みとれるのも『梁塵秘抄』の面白さ、こういうことが現われ出たのも十二世妃です。
 四三八番です。

★ ゐよゐよ蜻蛉よ 堅塩参らんさてゐたれ 働かで 簾篠の先に馬の尾縒り合はせて かい付けて   童冠者ばらに繰らせて遊ばせん

 蜻蛉に呼びかけている「うた」です。とんぼと塩との縁は、私も知りませんでしたが、「塩買うてねぶらしよ」とか「塩焼いて食わそ」とか、蜻蛉に歌いかけ る童謡が高知県や兵庫県などに残っているそうです。
 じっとしてろよ蜻蛉。塩をやるからじっとしてろよ、動くなよ。お前を、簾の、あの細い篠竹の先に 馬の尾を糸によって、くくりつけて、子どもたちにくる くる回して遊ばせてやるんだからな。
 なんとも無邪気なはなしです。「舞へ舞へかたつぶり」と同趣の「うた」ですよね。
 次は、四三九番。これも似ていますが。

★ いざれ独楽 鳥羽の城南寺の祭見に われはまからじ恐ろしや 懲り果てぬ 作り道や四つ塚に   焦る上り馬の多かるに

 蜻蛉でもかたつむりでもない、これはあのまわる独楽に歌いかけている。こういう擬人法もあった。こまは生きて、まわって、威勢がいいですから。「さ、行 こうよ独楽よ。鳥羽の城南寺のお祭を見に行こうよ。」そう、誘っている。
 城南寺は鳥羽殿に近い城南宮の別当寺で、古くから御霊会があります。神宮寺というか、神と仏が一緒のお寺。いや、この場合はそういうお寺がお宮と一緒に 有った、というわけです。
 これに答えて「独楽」は、いやだと言うのです。「いいえ、わたしは行きませんよ、桑原桑原。懲り懲りですよ」と遁げる。なぜかというと、「作り道(朱雀 大路の南にのびた、新道)や羅城門辺の四辻には、焦らだってはねあがる馬がやたらいますからね」と、そんなふうに言う、これは私は諷刺「うた」だろうと思 うのです。
 独楽は、京都の市民のこと、馬というのは東寺界隈から洛南辺にいつも群集した、何かのきっかけ一つでわあっと暴れ出すような荒くれた連中。あるいは流れ の武士やら素っ破やら浮浪人やら。大体において東寺、羅城門辺から南は、のちにも国一揆の巣窟になる所です。京都郊外でもある意味の先進地域で、西国往来 の要衝でもありましたから、政治的、社会的エネルギーが渦巻いていた地域といえる。それにしても、面白い「うた」ですね─。

  いざれ独楽 鳥羽の城南寺の祭見に われはまからじ恐ろしや 懲り果てぬ 作り道や四つ塚に   焦る上り馬の多かるに

 では四句神歌の最後に、四四四番を。

★ 鷲の棲む深山には 概ての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや

 八幡太郎義家の勇名は轟いていて、一種の信仰の的にもなっていた。盗賊などにも、「八幡殿がおはしますぞ」というのが効き目あるおどし文句、おまじな い、に通用したくらいです。この「うた」は前後が対になっていて、鷲の棲むほどの山に、なみの鳥はすめない。同じ源氏の武者といっても、八幡太郎はとび抜 けた勇者だ、という。素朴な民衆の義家讃美が八幡信仰と重ね絵になっていて面白く、かつ時の勢いといったものを考えさせられますね。




      六章 歌謡の流れ そして二句神歌
      

      十一

 「法文歌」を読み、「四句神歌」をこれで読みとおしました。やっぱり面白かったな、『梁塵秘抄』は貴重な本だな、というのが改めて今の私の感想です。
 まだ「二句神歌」が残っているのですが、この辺で私どもがぜひとも見落してならない点を、ややまとめて申してみたい。その一つは、十二世紀の人たちがな んとなしに時代の暗転のようなものを予感していること。その怯えとかあるいは嘆きとか、それでもやっぱり生きていかなきゃいけないという一種沈潜した不 安、あるいは寂しみ、あきらめ、夢のようなものが、かなりこの『梁塵秘抄』の庶民の「うた」の中にこもっている。しかもその中で私はやはり相反する、ある いは相補う二つの面を見落してはいけないと思うのです。
 例えば「鵜飼は可憐しや」という「うた」がありましたね。これは、「現世は斯くてもありぬべし 後生我が身を如何にせん」というような表現をもってい た。時代の声としてはかなり煮つまったものなのではないかと私は思います。
 また「我等は何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ」とか、「暁静かに寝覚めして 思へば涙ぞおさへあへぬ はかなく此の世を過ぐしても」といっ た言葉も、これは古代の末期人の深い吐息のようなものとして表現的にも素直に煮つまったものと受け取ることができるのではないでしょうか。
 つまり、こういうふうな形で不安のようなもの、寂しみのようなものを、表現としてかなり煮つめているけれど、しかしもう一方こういう不安や嘆きの背景に あるものをも見落してはいけないので、例えば「武者の好むもの 紺よ紅山吹漉き蘇芳」といったように、これまでは公家の侍であったものが、鮮明な印象で すっくと立ちあがってくる。武家階級がすっくと立ちあがってくる。そういうふうなものがちゃんとある。
 民衆の側に立ってみましても、先ほどの鵜飼の「うた」のあとですけれども、例えば「万劫年経る亀殺し また鵜の頸を結ひ」というふうに、同時代人をあげ て、一種の現世享楽と表裏をなしている総加害者的な意識のようなものが、十二世紀人を襲ってきているのではないでしょうか。これは、仏教や信仰とともに新 しいこの時代の人生観と人間観との関係があると思いますけれども、十二世紀の人たちが観念としての死″ではなくて、具体的に死ぬ″ということ、それか らまた目前の事実としての死ぬ″ということを意識してきた、そういう不安や迷惑のあらわれなのではなかろうかと思います。
 私どもは、『梁塵秘抄』の歌詞から受けるメリットとしては、そういう時代の底流としての不安感情というものも、正しくすくいあげているところを取るべき でしょう。十二世紀は非常に現実を享楽している時代だと思うのです。しかしその底には、こういう時代の暗転を予測している寂しみのようなものがあって、そ れが中世開幕を予兆するというか、そのまま中世的な抒情、あるいは中世的な現実感、中世人意識というものに結ばれていく。その大きな歴史の流れの中で『梁 塵秘抄』の魅力を探ってみることが、味わい方としては大事と思います。
 例えば「黄金の中山に 鶴と亀とは物語 仙人童の密に立聞けば 殿は受領になり給ふ」という「うた」には、武士、とくに平家が上昇していく時代に下層武 士や庶民のそうした今様現象=当世風を歓迎する気持があらわれていますけれど、こういう庶民と上層階級との心情的交感が、やがて社会構造の流動化や瓦解へ の道を招いてゆくことを予感させる「うた」でもある。土器つくりの美しい娘を、「受領の北の方と言はせばや」などという賑々しい「うた」が、必ずしも迎合 とか謳歌とばかりは言えない翳りもかすかに秘めていることも、併せて感じとるべきだろうなと思うのです。
 ともあれ『梁塵秘抄』の、とくに現存する「うた」は概ね今様と呼ばれるものばかりなのですから、改めて、「今様」という言葉を、音楽、歌謡の上での言葉 と限らずに、一度、「当世風」といったもとの意味に戻してから受けとめてみれば、それは現代に対する現代人の、あるいは同時代人の批評とか、共感とか、支 持とかといったもののこもった言葉として納得できる。十二世紀はまぎれもなく十二世紀人の「現代」です。その現代を十二世紀人が表現し感受し主張する様式 としての今様感覚=現代感覚があって、あらゆる領域でそれは示現されていた。だからこそ、今様ということばをそういう形で見取っていって、なおかつその 「当世風」即ち「今様」の底に、こうした民衆の歌謡が「今様」という名前で特に指さして呼ばれた意味の大きさに思い当たっていいわけです。
 かず多い今様現象の中で、「うた」が「今様」の名をもっぱらわがものにしたことに、十二世紀の一等興味ある今様現象、時代の開放的状況がうかがえると私 は思います。
 では、「二句神歌」を読んでまいります。
 これもかなり数がございます。それに、前にもちょっと申しあげましたが、この二句神歌に、なかなか佳い歌が揃っております。四句神歌のかげになって目だ たない。もとの目次目録にもこの名が洩れ落ちている。そんな事情で存外忘れられがちですけれど、よく整った味わい深い作品が、いくらでも拾えます。
 「二句神歌」は短くて、和歌の姿にかなり近い。形も、そうは崩れていない。端正な婆をしています。「うた」の内容も四句神歌、とくにその雑の「うた」 と、また一と味ちがいます。実際に読み進めながらご納得を願います。
 もう一つ、ここに次の時代の歌謡、例えば十六世紀の「閑吟集」の「うた」などと、情緒的にも息づかいにおいても接近した「うた」が混じってきます。「梁 塵秘抄」の中で、「我」「個人」「特定の私」のムードがやや露わな感情表現として出てくるのは、この二旬神歌のいくつかの「うた」でではないかというの が、私の今の思いでございまして、早速、読みはじめたい。
 四四七番。

★ ちはやぶる神 神にましますものならば あはれと思しめせ 神も昔は人ぞかし

 「ちはやぶる」は「神」の枕言葉です。威勢烈しい感じをあらわす。「ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは」という百人一首の秀歌で おなじみでしょう。その威勢烈しい神に呼びかけるように愬え祈っている。「神も昔は人ぞかし」の一句が鋭くも聞こえるし、親しみをこめてちょっと肩でも叩 く感じにも取れる。菅原道真のような祭神を考えて、北野社での「うた」かとみる人もあります。「口伝」の中で、例の資時の父の源資賢が歌っています。この 人はおそらく後白河院にとって初期の今様の師匠であったかと思われます。催馬楽のような郢曲は大層巧く歌った人でした。
 この「うた」は、そう特定の神を考えるより、神頼みの人の率直な気もちを一般化した「うた」と取りたい。また、神と人との距離がある面で近く、逆も真な りで、結局は神がこうも人にじかに呼びかけられるほど影がうすくなってきているのだとも取れて、興味ある作例になっています。
 四四九番。

 月も月 立つ月ごとに若きかな つくづく老いをするわが身 何なるらむ

 同じ月といってもあの空の月は新月になるたびに、ああ若くなったと眼に見える。それに較べて、む ざむざと月の立つごとに年老いていくわたし。いった い、どういうんだろ。
 女の「うた」でしょうね。「月」には、空の月と、女の月のもの、と、両方が掛かっているはずです。読みいいようにわざと句切って書いています、もう一度 読んでください。

  月も月 立つ月ごとに若きかな つくづく老いをするわが身 何なるらむ

 こう読むと、容色とともに心根も衰えいく女の、まだ熱いため息が聴こえてきます。
 四五一番。これほ次の四五二番と、同じ趣の可憐な「うた」です。

★ 春の野に 小屋構いたる様にて突い立てる鈎蕨 忍びて立てれ下衆に採らるな

 蕨というのは、頭の方を釣針のようにまるく曲げながら頭を垂れています。それで「鈎蕨」といういい方をする。しかもその恰好が、ちょうど庇を伏せた小屋 でも構えたみたい、というのですが、これはもう、私などにぴたっと分りきれない、十二世紀の農民庶民の日ごろの感覚ですね。要は、春の野の可憐な蕨よ、人 目にたつなよ、卑しい男に摘まれるなよ、という「うた」です。「下衆」は「げすの勘ぐり」という、あの「げす」ですね。
 むろん、ただ「蕨」の「うた」ではない。可愛い乙女に呼びかけている気持でしょう。素朴で、季節感もあって、優しい。

  春の野に 小屋構いたる様にて突い立てる鈎蕨 忍びて立てれ下衆に採らるな

 四五二番も、そうですね。

★ 垣越しに見れどもあかぬ撫子を 根ながら葉ながら風の吹きも来せかし

 よその家の庭に咲いた、垣に隔てられた手のとどかない撫子の花よ、と歌っています。「撫子」は、昔から年若い乙女によく譬えます。むろん垣根越しに眺 め、歌い、願うのは青年、若者、冠者でしょう。
 風よあの撫子の花を、根ごと葉ごとそっくり俺の所へ吹き寄越しておくれ。
 一途な気もちが綺麗に出ていて、先の蕨の「うた」よりもっとある特定の作者の存在、名前、表情のようなものまでが想像されてくる。この若者は、もう、や むにやまれぬ自分、我、というものを意識しながら、恋の幸せを願っているのではないでしょうか。もう一度読んでください。

  垣越しに見れどもあかぬ撫子を 根ながら葉ながら風の吹きも来せかし

 四五四番。

★ 冬来とも柞の紅葉 な散りそよ 散りそよ な散りそ 色変へで見む

 冬が来ても柞(檜やくぬぎなど落葉樹の総称)の紅葉よ、散るなよ。散るな散るな。美しい色のままでいつまでも見ていたい──。
 やはり愛の「うた」でしょう。「冬」、辛い苦しい暗い季節の到来。何かしら運命が大きく動いていく。風が吹く。その予感の中で、愛する美しいものへと呼 びかける若者の、純な歌声がきれいに響いています。いい 「うた」です。

  冬来とも柞の紅葉 な散りそよ 散りそよ な散りそ 色変へで見む

 次四五五番は、前に、佐藤春夫の詩と一緒にご紹介した、「吹く風に 消息をだに托けばやと思へども」に、「よしなき野べに落ちもこそすれ」というのが、 つづきます。二句神歌がなかなか抒情的だという印象を、もうあなたはお持ちでしょう。それぞれに佳い「うた」がつづきます。
 四五七番。

★ 波も聞け小磯も語れ松も見よ 我を我といふかたの風吹いたらば いづれの浦へも靡きなむ

 「我を我といふかたの風」が、ちょっと分りにくいでしょうか。
 この私を、我から進んで率直に誘うような風が吹いたなら、私はどこの浦へなりと靡いて行こうよ、というわけです。誘い手を待っているのですね。古歌に 「わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらば去なんとぞ思ふ」というのがありますが、この退廃感にくらべますと『梁塵秘抄』の女の方が、どこかすっき り、立って、待っている。根なし草のやるせなさではないんですね。「波も聞け 小磯も語れ 松も見よ」という命令形の積み重ねの中から、古代ならぬ、もう 中世の「我」を意識した女が、すっくと立ちあがってくる。そういう所が面白い。しかも健康一方というのでなく、「いづれの浦へもなびく」という女の弱みも さらけ出しています。「我を我といふ」は、しかし強い表現です‥
 四五八番。

★ 須磨の浦に引き干いたる網の一目にも 見てしかばこそ恋しかりけれ

 和歌調ですね。とくに後半というか、下の句、第二句がそうですね。和歌の「替えうた」のようでもある。二句神歌にはこれが多いのです。この「うた」の上 句、第一句の方は「一目惚れ」の「一目」という語を導くためのもので、須磨の浦に引きひろげて干してあるあの網の目の、一目じゃないが、一目あの人を見て しまったばかりに、恋しくてならない、という。洒落ていますね。そして優美になだらかです。古代情緒が十分残っている。

  須磨の浦に引き干いたる網の一目にも 見てしかばこそ恋しかりけれ

 四五九番。

★ 我が恋はをととひ見えず昨日来ず 今日おとづれ無くば 明日のつれづれ如何にせん

 ずうっと前に、「構へて二夜は寝にけるは 三夜といふ夜半ばかりの暁に 袴取りして逃げにけるは」というのを読みました。いわば女の方のその後の様子を 想ってみると分りがいい。
 男は一昨日も昨日も通ってこない。もし今日もこないようだったら多分、明日も──。その時の心の中の深いうつろを、わたしはどう覗きこめばいいのやら、 何にも手もつかず時間が空っぽで過ぎていくのが寂しい。空しいf。そういう嘆きの「うた」と聴こえます。とくに「つれづれ」の一語は、よほど深刻に聴き 取ってこそ「うた」に迫力が増します。

  我が恋はをととひ見えず昨日来ず 今日おとづれ無くば 明日のつれづれ如何にせん

 捨てて顧られなくなりいく女の、過去の甘さと今の苦さと、明日の色濃い寂しさとが、ため息となって渦巻いているようです。
 四六○番。

★ 恋ひ恋ひて たまさかに逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る さしさしきしと抱くとこそ見れ

 これは、あるいは先の女のもとへ、またたまさかに男が通うてきた状態での「うた」ですね。だから息づかいの烈しいのは当然でしょう。
 「さしさしきしと抱く」
 四本の手を互いに差しかわし、肌と肌とを隙間なく寄せあい、触れあい、噛みあわせるように、「きしと」音のするぐらいに抱きしめあう。むろんつい先刻ま で、現の夢に互いにそうしていたままの姿を、疲れ果てて寝てからのまことの夢にも、同じように夢見つづけていたいよ、という。
 少しも、いやらしいと思いません。これが男と女の、愛しあう者の本当の姿であって、どこがいやらしいわけがない。そうか、きっといい夢を見なさいよ、と この「うた」の主に言ってあげたいくらいです。『梁塵秘抄』のある種の代表作で、荒けずりな、骨太な、逞しい野性の残った佳い「うた」の一つです。

  恋ひ恋ひて たまさかに逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る さしさしきしと抱くとこそ見れ

 次の四六一番は、なかなか長い。二句神歌の中に四句の雑体が混じったか、と思われるほどです。

★ つはり肴に牡蠣もがな ただ一つ牡蠣も牡蠣 長門の入海のその浦なるや 岩の稜につきたる牡蠣  こそや 読む文書く手も 八十種好紫磨金色足らうた る男子は産め

 妊婦、つわりに苦しんでいる若い妊婦が夫に甘えて、牡蠣が食べたいと呼びかけている「うた」です。牡蠣がつわりの頃の栄養食なのだそうですね。ただ、ど こで取れる、どんな牡蠣でもいいのではないらしい、この妊婦には。
 「ただ一つ牡蠣も牡蠣 長門の入海のその浦」にある「岩の稜」つまり角立った場所にとりついている牡蠣でなくちゃダメ、だと言う。その牡蠣を食べさせて くれたなら、その時は、読むのも書くのも、まるで仏様なみによくできる、万能の、光り輝くような、それも男の子をわたし産むわよ、と妊婦は夫に言う。「八 十種好紫磨金色」とはまあ八十種にも及ぶ諸々の美点を備えた光り輝く金色の仏様みたいな、めでたい男の子を、ということにしておきましょう。大袈裟なとこ ろが味わいです。
 私は男ですから、つわりの体験はありませんが、傍でつわりで苦しまれた覚えはございます。一体何を食べさせていいやら困るものです。どこの若いご夫婦 も、こんな「うた」みたいなこと、一度や二度は言いあうものなんでしょうか。

  つはり肴に牡蠣もがな ただ一つ牡蠣も牡蠣 長門の入海のその浦なるや 岩の稜につきたる牡蠣  こそや 読む文書く手も 八十種好紫磨金色足らうた る男子は産め

 男子を望んでいるのが庶民ですね。貴族だと妃がねの女の子などを待つ。后になると今度は天皇になりうる男子を望む。しかし、ここでは働き手、能力腕力の ある男の子をと望んでいる。庶民の「うた」です。
 四六三番。

★ 我は思ひ人は退け引く これやこの 波高や荒磯の 飽の貝の片思ひなる

 飽の片思いといいますね。一枚貝で岩に堅くしがみついている貝です。「我は思ひ 人は退け引く」つまり、すがればいっそう相手は醒める。よくある例で す。それを譬えて嘆いている。「これやこの波高や荒磯の」と、二人の仲が、寒々と荒れまさる仲らいをも、巧みに表現しています。調子も走っていて、軽快な ようで、もうどこか、かすかなあきらめも漂う、せつない「うた」と思われませんか。

  我は思ひ人は退け引く これやこの 波高や荒磯の 飽の貝の片思ひなる

 女とも男とも取れます。いずれ失恋の「うた」です。さらっとした調子なのがかえって寂しみを増しています。
 四六四番。

★ 東屋の つまとも終にならざりけるもの故に なにとてむねを合はせ初めけむ

 東屋、その妻、そして棟、みな建築の言葉ですね。縁語。しかも「妻」は奥さんのことだし、「むね」は胸部、からだの一部位をさす胸でもある。
 妻ともとうとう呼ばれずじまいに、それなのにわたしはどうしてあの人の胸とわが胸とを合わせてし まう、つまり素はだで抱きあって寝るようなことをして しまったのだろう。でも、もう離れられない ──。
 妻ある男と夫ない女との間柄ででもあるのでしょうか。宿世というものでしょうか。「なにとて胸を合はせそめけむ」という嘆声の底には、しかし現実、事実 を否定否認しきれない、つらいが身を捨てた思いが、一粒の金無垢のように光っている。世俗の倫理や道徳にはもとるのかもしれません。が、そこに一点の人間 的真実、哀しい真実もある。悪、とは言いきれない人間の業の深さがある。これに較べれば、悪徳政治屋や悪徳商人の悪は極悪非道というしかない。一篇の巧い 小説よりも巧い「うた」だなと思いますね。

  東屋の つまとも終にならざりけるもの故に なにとてむねを合はせ初めけむ

 四六五番。これも、すばらしい。

★ 水馴れ木の水馴れ磯馴れて別れなば 恋しからんずらむものを や 睦れ馴らひて

 「絶唱」という言葉があります。四六四番の「なにとて胸を」の「うた」とこの四六五番の「うた」とは、多分、女と男との唱和した相聞の絶唱ではないか。 女が嘆いた「うた」に対して、これは男の方から慰めながらしみじみ、述懐した愛の「うた」です。
 「水馴れ木」は水に漬かってすっかり水に馴染んだ木。それに眼で見馴れるの意味も通わせた。「磯馴れ」は木が磯に打ちあげられて伏した感じでしょうが、 「そ」は「衣」、着物を「そ」という意味にも通っている。「お互い、水馴れ木のようにこうまで見馴れ衣馴れてしまって、もし別れるようなことになったら、 ああ、どんなにお前が恋しくてならないだろうか、こんなにも好きになってしまって」というのですね。
 「うた」の魅力はなにより調べです。そして充実した愛。それも成熟した大人同士の愛欲愛念の大きさ深さでしょうか。「うた」として完璧のできと高く私は 評価したい。
 もう一度四六四、四六五番を二つ並べて読みましょう。

  東屋の つまとも終にならざりけるもの故に なにとてむねを合はせ初めけむ

 これが女から。

  水馴れ木の水馴れ磯馴れて別れなば 恋しからんずらむものを や 睦れ馴らひて

 これが男から。
 「二句神歌」の中でも上乗の傑作でしょう。
 四六七番。

★ 雨は降る 去ねとは宣ぶ笠はなし 簑とても持たらぬ身に ゆゆしかりける里の人かな 宿貸さず

 これも、「我等が修行せし様は」の一点景でしょうか。雨は降る、宿を借りたい軒下を借りたいのに、いかんと仰っしゃる。簑も笠もないこの身に、なんと薄 情な里人だよと、ぼやいている。そのくせ、妙にからっとしている。こういう場面にもう馴れきっている聖か遊女か、そのからっとした所がまた寂しい味わいで もあります。
 四六八番。

★ 山伏の腰につけたる法螺貝の ちやうと落ち ていと割れ 砕けてものを思ふ頃かな

 おや、と思われたでしょう。下の句、聞いたことがある。百人一首の中に「砕けてものを思ふ頃かな」という取り札がございますね、上の句を憶えておいでで すか。「風をいたみ岩うつ波のおのれのみ」ですね。源重之の歌でしたか。
 これこそ「替えうた」なのです。「ちやうと落ち ていと割れ」というのが眼に見えるようで面白く、しかも和歌でいう下の句につながる呼吸が、大変にい い。そこが魅力ですね。意味はなんでもないようで、実はこれで山伏の失恋なのです。お分りですか。
 無骨な山伏が駄法螺も吹いて女を口説いたが、ダメでした。ダメとなると、やはり寂しい男ごころ、で歌っているのですね。

  山伏の腰につけたる法螺貝の ちやうと落ち ていと割れ 砕けてものを思ふ頃かな
 
 四七三番。

★ 東より昨日来れば妻も持たず この着たる紺の狩襖に女換へ給べ

 これがまた奇想天外。東国出の地下の侍でしょうか、昨日都へ来たばかりです。まだ女房も持ちませんので、どうでしょう、この私の着ている紺の狩衣とあな たの娘さんとを交換してくれませんか。大真面目なのです。だから傑作だし、歌い手の人品も見えるようです。
 こんな時代ですから、この当時の都と田舎との文化落差というのはたいへんなものでしたし、それだけ都へ都へ、という憧れも強かった。貴重な証言の一つで すね。

  東より昨日来れば妻も持たず この着たる紺の狩襖に女換へ給べ

 ちょっと唸ります。


     十二

 読み進めてまいります。
 四七五番。

★ 淀川の 底の深きに鮎の子の 鵜といふ鳥に 背中食はれてきりきりめく 可憐しや

 「きりきりめく」に、鵜のくちばしに鮎が背をくわえられて、身を揉んでもがく姿を言い当てて、感じが十分出ています。それが「いとをしや」可哀そうだな あ、というんです。苦もなく分る「うた」です。情景のよく眼に見えて、心にしっかりふれてくる「うた」ですが、それだけでしょうか。かわべりに春をひさぐ 鮎のような女と、鵜のような男の姿とかたちも目に見えないでしょうか。
 四七七番。

★ 御前よりうち上げうち下ろし越す波は 官位昇進の重波ぞ立つ

 ご祝儀「うた」ないし神頼み「うた」です。「御前」は当然神の御前の意味ですから、その前に「うち上げうち下ろし越す波」とは、実の波というより神頼み にくる人波、ではないでしょうか。
 官位昇進を祈り願う人波が重波、つまり重なりあって寄せてくるよ、という状態で、見ようによって公家貴族の官位狂いを嗤った「うた」とも取れます。とな ると、どっちにしても、そう快い「うた」ではない。
 四七八番。

★ この殿に良き筆柄のあるものを そこらの富をかき寄せる筆の軸のあるものを

 これなど露骨なお世辞「うた」で、筆と書く、を「そこら」(其処ら)から「そこら」(沢山)の富をかきよせる、という、書き、掻く、という両方にひっか けているんですね。金の生る木と同じ伝で、富をかき寄せる筆がこの邸にはあるんですね羨しい、と歌っている。これも、そう私などは好きになれません。
 四八○番。

★ たつものは海に立つ波群雀 播磨の赤穂に造れる腰刀 一夜宿世の徒名とか

 波は立ち、雀はとび立ち、刀はものを断ち、そしてあだな浮名はまた立つもの。
「一夜宿世」とは、一夜で深い仲になった契りという解釈もあるのですが、一夜だけ深い仲になってしまった遊びの恋、の意味と思います。
 四八一番。

★ いざ寝なむ夜も明け方になりにけり 鐘も打つ 宵より寝たるだにも飽かぬ心を や 如何にせむ
                                               いざ寝なむ。さあ一緒に寝ようよ。本当に寝入ろうとい うのではない、これもやはり愛欲の念にうち悶える男女の、睦れ馴れた「うた」なのでしょう、と思います。
 こう夜が短くては、逢瀬が浅くては、つらい、物足りない。それが最後の「如何にせん」という嘆息に表現されています。
 宵から寝て、十分楽しんで、もう一と寝入りした。あれでも物足りなかったのに、気がついてみるともう明け方か、暁の鐘も鳴り、別れが近い。
 「いざ寝なむ」
 もう一度、抱きあいたい、ということでしょう。飽くなき愛欲が、美しい詩に昇華されていると申せます。
 もう一度読みましょうか。

  いざ寝なむ夜も明け方になりにけり 鐘も打つ 宵より寝たるだにも飽かぬ心を や 如何にせむ

 四八三番。

★ 山長が腰に差いたる葛鞭 思はむ人の腰に差させむ

 立派な強い「葛鞭」を自分の好きな男の腰に差させてやりたい、そういう若い女の恋の気持を出しています。葛鞭を現に腰に差している「山長」へ心を傾ける のでなく、恋人の身の上へ葛鞭をふり向けているところが純な愛情と想えて、微笑ましい「うた」になっています。強そうな鞭に「男」そのものを想っている。
 四八四番。

★ 結ぶには何はのものか結ばれぬ 風の吹くには何か靡かぬ

 結ぼうと思えば結べないものはない。風が吹けば靡かぬものはない。表面の意味はそうですね。
 裏にこめた意味は、だから、押しの一手で落ちない女はない、と取る人もある。しかし、私は、逆に、そうなのに、こうも自分が好いているのに、あの人は応 えてくれない、という嘆きの調べで読んだ方が、理に落ちないでいい感じではないか、と思うのです。

  結ぶには何はのものか結ばれぬ 風の吹くには何か靡かぬ

 いかがですか。
 さて、四八五番。
 これはもうのちの『閑吟集』の中へ移してもいいような「うた」。

★ 恋しとよ君恋しとよゆかしとよ 逢はばや見ばや見ばや見えばや

 どうです、この、身をよじって迫っていくような、赤裸々な愛のひたむき。何一つ説明がいらない。逢いたい、見たい、見たい、見せたい。それだけです。恋 しい、あなた恋しい、なつかしい。あたしの全部をあまさずあなたに見せたい。それだけ。それで詩になっている。ちゃんとなっていて、傑作といえましょう。

  恋しとよ君恋しとよゆかしとよ 逢はばや見ばや見ばや見えばや

 こうして読んでおりますと、『梁塵秘抄』が稀に見る濃厚で、直情に富んだ恋愛歌集だと分ってまいります。色即是空、空即是色の色の世界が、だが、一転し て空の世界、般若の舟に法華経の帆をあげて彼岸をめざす衆生の祈りの世界でもあるという、不可思議かつ微妙な、世界。それが、とりも直さず『梁塵秘抄』の 世界なのです。
 四八七番。

★ 盃と鵜の食ふ魚と女子は 方なきものぞいざ二人寝ん

 「酒のみの酒好き、魚を好く鵜の鳥の食欲、そして男の女好きとは際限がないもの、さ、二人で寝よう、愛欲の限りを尽そう」という「うた」。脱帽し、共感 する「うた」です。

  盃と鵜の食ふ魚と女子は 方なきものぞいざ二人寝ん

 四九○番。

★ 老いの波礒額にぞ寄りにける あはれ恋しき若の浦かな

 老いて寄る年波は額のしわになって現われる、その額を「磯」と見たてて、そして若い日々を恋い懐かしんでいる。「あはれ恋しき」という生まな言い方がか えってよくきいています。胸を打たれます。
 四九一番。

★ さ夜更けて鬼人衆こそ歩くなれ 南無や帰依仏 南無や帰依法

 「百鬼夜行」ということがしんから怖れられた時代でもありました。これが本当の鬼とは限らない。古代は、鬼が人とともに住んだ時代、と申してもいいほど です。都の人にとって見なれない風体なら、みな鬼でした。乱暴なよそものも鬼でした。「南無や帰依仏 南無や帰依法」は、いわば「クワバラ」のおまじない です。こわごわ宵のくらやみを行くんですね、鬼が出ないかと脅えながら。花の都とて、夜は、ひときわ怖い所でした。まして十二世紀ともなれば、各種の人間 が都へ流れこんできて、一種の無警察状態でしたから。
 さて、四九三番。

★ 南無阿弥陀 仏の御手に掛くる糸の 終り乱れぬ心ともがな

 臨終の枕もとに、仏像または来迎図を置いて、阿弥陀仏の手と、今まさに死なんという人の指との間に、五色の糸をつないだ。そういう証拠があります。名高 い阿弥陀来迎図(山越阿弥陀図)などの、仏手の所に細工がしてあって、糸を結べるようにしたのが有る。
 これは、どうか最期、末期、その糸が乱れないよう、自分の心も乱れないようにして、無事、み仏の慈悲の手にとられて西方極楽浄土へ往生したいという熱願 をこめた「うた」であり、『梁塵秘抄』ももう終末というところへきて、この「うた」が、およそ「二句神歌」の全体を結んでいる感じのあるのが、たいへんに 象徴的です。
 乱れぬ心がほしい、心乱さず死にたい、とそう願わぬ人がありましょうか。死は太古の人にも、現代の私どもにも、同じように訪れる。信仰の思いはこの一点 に生まれてくるんですね。決して過ぎし昔の人の願いとばかりは言ってしまえないものを、この「うた」は示しています。
 十二世紀人は、はかないながら、仏の手と我が手を結ぶ五色の糸にでもすがれたけれど、今の私ども、一体何を信じて、死の安らかさを受け入れられるか、問 題は、存外に深刻な表情で迫ってまいる気がいたします。

  南無阿弥陀 仏の御手に掛くる糸の 終り乱れぬ心ともがな

「二句神歌」は、このあと、四九五番から五五五番まで、神社歌が、かなりの数ならびます。しかし殆どすべて既製の和歌なのです。そして、そのあとに十一 首、ちょっと神社歌とはいえない、補足分、付録、のようなのがつづきます。
 その中から、五五九番を。

★ 神ならばゆららさららと降りたまへ 如何なる神か物恥はする

 「ゆららさらら」は「ゆったり、すんなり」でしょう。降りる、とは、神が巫女のからだに憑る、意味。巫女の方からするとこれが「神おろし」になるわけで す。神おろしそのものが見世物、は大袈裟にしても、いわば巫女の藝でも、能でもありました。つまり、巧いかへたかで人に見られた。
 「いかなる神か物恥はする」
 いったいどの押さんに恥ずかしがるってことがありますかい、と、あたかも神をからかってるようで、実は神おろしの巧くいかない巫女の、鈍なのを嗤ってい る「うた」と私は取っております。
 これも一種の神と人との対話であり、これほどまでに、親しげに、気軽に、対話ができるようになったという点で、それは人が神に近づいた、ともいえます が、神が人の前に神であることをすこしずつやめはじめた、あるいは人から遠のき影がうすれていったことの一つの証しとも見られる。信仰ということよりも、 超自然の霊異とか威力とかいうものの正体を、人がすこしずつ怖れなくなっていった。古代と中世との大きな違いの一つが、ここにも覗けるわけだと私は考えて おります。

  神ならばゆららさららと降りたまへ 如何なる神か物恥はする

 もう一つ、五六○番。

★ この巫女は様かる巫女よ 汗袗に 後をだに編かいで ゆゆしう憑き語る これを見たまへ

 「うた」というより、驚きの声がそのまま詞になっている感じで、かえって驚きの深さ烈しさがありありと伝わってきます。五五九番とは逆に、この巫女の神 おろしの語りのさまが物凄いわけですね。風体も尻をからげて、多分肌も露わなのでしょう、「これを見たまへ」と人を呼ぶ声音がうわずっているように聞こえ ます。「巫女」の真に巫女らしい風情をうたって、実に凄い。
 これで私どもは、『梁塵秘抄』中の主要な傑作、佳作、問題作を、殆ど選り抜いて読みとおしたことになります。ざっと数えて、およそ百四十足らずは読んだ ことになるはずです。五百六十首ほどあるおよそ五分の一強に相当しますので、これがほど良いところと思っております。『梁塵秘抄』作品の魅力、魅惑のおよ そ九割五分までは汲みあげたはず、でございます。
 読むにあたって、とくべつむずかしい態度をとったつもりはございません。数多く選ぶよりは、一つの「うた」をただ字句の説明で終らず、私ひとりの感慨を 敢てこめて、つとめてくりかえし読んで、口遊んでいただけるようにいたしました。「うた」の面白さや情調をそっくり大づかみに捉えてみたかったのが一つの 方針でした。また同じ趣旨からも、一つ一つの「うた」を敢て現代語に翻訳するような、事実上不可能で愚かなまねはつとめて避けました。むしろ「うた」の描 き出している世界、状況、事柄、狙い、そしてそれに附随する面白さというものを、全体として大まかに理解すればよく、あとはくりかえし「うた」を、作品自 体を読んで、口遊んで、納得していただきたかった。訳らしいものも、それはただ大意としてご覧願います。
 私はすでに歌として成り立っている、それも抒情詩を、現代語に翻訳する努力を、かねがね愚かしいこと、むしろ間違ったことという実感を持っております。 そんなものを読まされては古典も、古典読者もむしろ迷惑だと思う。それによって、もと歌を読んだような気になられては困るし、もしすぐれた翻訳なら、それ はもう原作品とはべつの、訳者の文学作品、詩作品なのです。外国語なら知らず、短い長いに関わらず、詩は、歌は、じかに原作について鑑賞すべきで、そのお 手伝いをする学者の評釈の仕事こそたいそう大切です。が、物語、散文など筋で読むものはよろしいけれど、歌や詩の現代語訳はいけない。それは別ものです。 似せものの贋モノです。それが私の考えです。
 私の「うた」の読みは、字句や文法にもこまごまと拘泥らない、はなはだおおざっぱなものでしたが、それだけに、あなたが改めてご自分なりに「もとうた」 の面白さへ迫っていけるゆとりは残せた、と思うのです。どうかぜひ、改めてお読みください。
 普通なら、この辺が、『梁塵秘抄』について「まとめ」という段階かも知れません。が、その必要もないと思うのです。およそふれねば済まぬ話題にはみなふ れました。それも話は話、「うた」は「うた」で、そのつど「うた」とともに「話」もするという方法でせっかくまいりましたものを、話の部分だけくりかえす などということはしたくない。
 私はくりかえすなら「うた」だと思う。『梁塵秘抄』をめぐる知識を決してむだと思いませんが、知識をもつという体験よりは、この際『梁塵秘抄』の「う た」を何度も読んでいただき、せめてその五つでも十でも二十でも、あなたの心に強く印象づけられることを、暗誦、愛誦して頂けることを私は願います。『梁 塵秘抄』もそう願っているはずだし、あなたもきっとそうであろうと思うのです。
 それで私は、この本の巻末に、『梁塵秘抄』五百六十余の「うた」を、まさか全部とはまいりませんから、私どもがここまで一緒に読んできた、つまり採りあ げた「うた」の全部を、歌番号の順番に、列挙しておくつもりです。それはあたかも『梁塵秘抄』秀歌撰として十二分のものと思うからです。全部で百三、四十 の「うた」かずではありますが、これだけで十分『梁塵秘抄』の魅力は汲みあげているはずです。ご一緒に読んだ「うた」を、本のあちこち探しまわらずに文字 どおり「まとめ」て読み返すこともできるし、そのための何かのヒントは、本文中で必ずお話してある。
 むしろ、ここで私は『梁塵秘抄』に先立ち、また後続した日本の「うた」をそれぞれいくつか、山本健吉氏の表記にしたがって、ごく簡単に紹介しておきた い。不十分ではあれ、それで「うた」の歴史をいささかなりと巨視的に見渡す、とまではいかずとも、予感していただけるし、『梁塵秘抄』の特色をより印象に 残してもいただけるでしょう。

  あはれ。
  あなおもしろ。
  あなたのし。
  あなさやけ。
  をけ。

 天照大神が天の岩屋から再び姿を見せたとたんに八百万の神々の口をついて出た「うた」声です。『古語拾遺』に面白い解説、がございます。「あはれ」は 「天晴れ」の意である、「おもしろ」は日の女神の光を受けて「面(=顔が)白」く見えるよという意味である、などと一句ごとに注釈がついている。ただ囃し ことばと取るのが早いのですが、純粋のこれこそが「うた=うったえ」声の起こりと思いたいですね。

  八千矛の神の命や
    吾が大国主、
  汝こそは 男にいませば、
  うち廻る 島の埼々、
    かき廻る 磯の埼落ちず、
  若草の妻持たせらめ。
  吾はもよ 女にしあれば、
  汝を置て 男はなし、
     汝を置て 夫はなし。
  文垣の ふはやが下に、
     蒸衾 柔やが下に、
    拷衾 さやぐが下に、
  沫雪の若やる胸を、
  拷綱の白き腕、
  素手抱き 手抱き抜がり、
    真玉手 玉手差し枕き、
  股長に 寝をし寝せ。
    豊御酒 献らせ。

 八千矛神(大国主神)のお后の須勢理昆売命が嫉妬をする。するだけの理由もあるのですけれど、それを嫌って夫君は馬に乗って出雲から大和へ行ってしまう というわけです。その時、馬の口に取りついて「大御酒坏」をささげながら須勢理昆売命が歌いかけた「うた」です。私はなぜか子どもの頃からこの「うた」と 歌い手が好きです。
 『古事記』にはこの大国主神と神武天皇と倭建命のところに「うた」がかたまっています。私は神武天皇をめぐる「うた」は好きません。倭建命の「うた」は みなすばらしいものですが、比較的知られているので、有名な国思びの一つだけをあげておきます。

  大倭は 国のまほろば。
  畳なづく 青垣、
  山籠れる 大倭し美し。

 記紀歌謡も、時代をくだるにつれ和歌形式のものが多くなっていきます。また時勢のかげに動めく陰謀や急変を暗に諷するふうの「うた」が多くなります。そ ういう「うた」はどうしても歴史的背景を知らねば済まぬ気になりがちです。

  巌の上に 小猿米焼く。米だにも 喫げて通らせ。氈鹿の老翁

 蘇我入鹿の陰謀を諷した童謡とされていますが、そんなややこしいことは忘れて、山村生活一景とでもみるのが本来なのでしょう。通りがかりの村の老人に若 い女たちが気の良い声をかけているのです。

  細波や 滋賀の辛崎や 御稲搗く 女の佳ささや それもがな かれもがな 愛子夫に ま愛子夫  にせむや。

 神楽歌です。稲を搗く女たちの、あれも佳いこれも佳い、自分を夫にしないか、と呼びかけているのですね。

  我家は 帷帳も 垂れたるを 大君来ませ 聟にせむ 御肴に何よけむ 鮑栄螺か 石陰子よけむ  鮑栄螺か 石陰子よけむ。

 催馬楽です。「石陰子」は雲丹です。鮑も栄螺も雲丹も形が女陰に似たものということで並んでいる。露骨ではないが、だからいっそう露骨です。神楽歌も催 馬楽も、また上古の歌謡にしても、「うた」の根本には人間の愛欲が横たわり、その開放の中で信仰の悦びが生きているのだと、よく分ります。
 さて次には、『梁塵秘抄』以後の歌謡の中から、狂言小歌の「靭猿」の一つ。

  淀の川瀬の水草、誰を待つやらくるくると

 室町小歌を一つ。

  世中は霰よの、笹の葉の上の、さらさらさつと降るよの

 「降る」は「古る」でもありましょう。
 次に有名な『閑吟集』から三つ、四つ。(『湖の本』前冊の『閑吟集─孤心と恋愛の歌謡』ご参照を。)

  思へど思はぬ振をしてなう、思ひ痩に痩候。

  人買船は沖を漕ぐ、とても売らるる身を、ただ静に漕げよ船頭殿。

  余り言葉のかけたさに、あれ見さいなう、空行く雲の早さよ。

  余り見たさに、そと隠れて走て来た、先づ放さいなう、放して物を言はさいなう、そぞろいとほし  うて何とせうぞなう。

 愛欲は生き残って、信仰のかげはうすれています。そしてそれなりにたいへん魅惑的、蠱惑的です。が、ここへ深入りしてはあまりの魅力に、こわいという気 にもなる。そう思いながら惹き入れられていく自分が、いとしくもなります。
 これが江戸時代の『松の葉』まできますと、もう私には水っぽくていけません。

  いやと言ふたものかき口説ひてのう、何ぞやそなたのひと花ごゝろ、思へや君さま、かなえや我が  恋、あらうつゝなの浮れ心や、揉まいの揉まいの、 さゞらもまいの、我等も若い時は殿にもん揉ま  れた。

  とても立つ名に寝てござれ、ねずとも明日は寝たとさんだんしよ、花の踊をのう、花の踊を一踊。

 およそこんなところです。ほほう、ずいぶん違う、と思ってくだされば、まずは十分です。

 ここで座右特に多くを教えられ頻繁に参看させていただいた、岩波書店『梁塵秘抄』(日本古典文学大系)の志田延義氏、小学館『梁塵秘抄』(日本古典文学 全集)の新聞進一氏に敬意と謝意を表します。また河出書房新社のシンポジウム『日本の歌謡』を好著としておすすめします。

 さあ、お別れ「千秋楽」に、昔のためしに倣いまして、『梁塵秘抄』五六三番の「うた」をめでたく読みあげ、あなたのご健康を祈ります。

★ 近江なる千の松原 千ながら 君に千歳を譲る譲る みな譲る

 では、ご機嫌よう。
                                      (了)




  
 撰抄「梁塵秘抄」百三十八首     


 歌詞の表記は、各種のテキストを参照しながら、適意漢字をかなに、
か なを漢字に、
 またかなづかいを最小限改めるなどの配慮もしました。
 むろん歌は厳密に原歌のままで、変更を加えていません。



 巻第一

一   そよ 君が代は千世にひとたび居る塵の白雲かかる山となるまで
二   そよ 春立つといふばかりにやみ吉野の山もかすみて今朝は見ゆらん
一一  そよや 小柳によな 下がり藤の花やな 咲き匂ゑけれ ゑりな 睦れ戯れ や うち靡きよな 青柳のや や いとぞめでたきや なにな そよな
一二  新年春来れば 門に松こそ立てりけれ 松は祝ひのものなれば 君が命ぞ長からん
一三  春の初の歌枕 霞たなびく吉野山 うぐひす佐保姫翁草 花を見すてて帰る雁
一六  常に消えせぬ雪の島 螢こそ消えせぬ火はともせ 巫鳥といへど濡れぬ鳥かな 一声なれど千鳥とか
一八  釈迦の月は隠れにき 慈氏の朝日はまだ遙か そのほど長夜の闇きをは 法華経のみこそ照らいたまへ
一九  仏はさまざまに在せども 実は一仏なりとかや 薬師も弥陀も釈迦弥勒も さながら大日とこそ聞け
二一   釈迦の正覚成ることは このたび初めと思ひしに 五百塵点劫よりも 彼方に仏に成りたまふ


 巻第二 (法文歌)
    
二四  釈迦の御法のうちにして 五戒三帰を持たしめ 一度南無といふ人は 華の園にて道成りぬ
二六  仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
二八  弥陀の御顔は秋の月 青蓮の眼は夏の池 四十の歯ぐきは冬の雪 三十二相春の花
三○  弥陀の誓ひぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称ふれば 来迎引接疑はず
三二  像法転じては 薬師の誓ひぞ頼もしき 一度御名を聞く人は 万の病も無しとぞいふ
三四  瑠璃の浄土は潔し 月の光はさやかにて 像法転ずる末の世に 遍く照らせば底も無し
三九  万の仏の願よりも 千手の誓ひぞ頼もしき 枯れたる草木も忽ちに 花咲き実生ると説いたまふ
四五  真言教のめでたさは 蓬窓宮殿隔てなし 君をも民をも押し竝べて 大日如来と説いたまふ
四七  阿含経の鹿の声 鹿野苑にぞ聞こゆなる 諦縁乗の萩の葉に 偏真無漏の露ぞ置く
四九  大集方等は秋の山 四教の紅葉は色々に 弾呵法会は濃く淡く 随類ごとにぞ染めてける
五二  大品般若は春の水 罪障氷の解けぬれば 万法空寂の波立ちて 真如の岸にぞ寄せかくる
五八  鷲の御山の法の日は 曼荼羅曼珠の華降りて 栴檀沈水満ち匂ひ 六種に大地ぞ動きける
七九  釈迦の御法は唯一つ 一味の雨にぞ似たりける 三草二木は品々に 花咲き実なるぞあはれな    る
八五  四大声聞如何ばかり 喜び身よりも余るらむ 我等は後世の仏ぞと 確かに聞きつる今日なれ    ば
一○三 法華経八巻は一部なり 廿八品いづれをも 須臾の間も聴く人の 仏に成らぬは無かりけり
一二四 妙法勤むる験には 昔まだ見ぬ夢ぞ見る それより生死の眠り覚め 覚悟の月をぞ翫ぶ
一二七 法華経八巻は一部なり 廿八品その中に あの 読まれたまふ 説かれたまふ 寿量品ばかりあはれに尊きものは無し
一五八 観音深く頼むべし 弘誓の海に船泛べ 沈める衆生引き乗せて 菩提の岸まで漕ぎ渡る
一九○ 山寺行なふ聖ごそ あはれに尊きものはあれ 行道引声阿弥陀経 暁懺法釈迦牟尼仏
二二二 狂言綺語の誤ちは 仏を褒むるを種として 麁き言葉も如何なるも 第一義とかにぞ帰るなる
二三二 仏も昔は人なりき われらも終には仏なり 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ
二三五 われらは何して老いぬらん 息へばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし
二三八 暁静かに寝覚めして 思へぼ涙ぞ抑へ敢へぬ はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき
二四○ はかなき此の世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに よろづの仏に疎まれて 後生わが身をいかにせん


 巻第二 (四句神歌)

二五一 何れか貴船へ参る道 加茂川箕里御菩薩池 御菩薩坂 畑井田篠坂や一二の橋 山川さらさら岩枕
二五三 近江の湖は海ならず 天台薬師の池ぞかし 何ぞの海 常楽我浄の風吹けば 七宝蓮華の波ぞ立つ
二五六 熊野へ参るには 紀路と伊勢路とどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀絡も伊勢路も遠からず
二五八 熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山峻し 馬にて参れば苦行ならず空より参らむ羽賜べ若王子
二六一 八幡へ参らむと思へども 賀茂川桂川いと速し あな速しな 淀の渡りに舟泛けて 迎へたまへ大菩薩
二六五 金の御嶽にある巫女の 打つ鼓 打ち上げ打ち下ろし面白や 我等も参らばや ていとんとうとも響き鳴れ 響き鳴れ 打つ鼓 如何に打てばか此の音 の絶えせざるらむ
二六八 清水の冷き二宮に 六年苦行の山籠もり 数珠の禿るも惜しからず 童子の戯れ如何なるも それ如何に
二七三 住吉四所のお前には 顔よき女帝ぞおはします  男は誰れぞと尋ぬれば 松が崎なる好色漢
二八三 我が身は罪業重くして 終には泥犂へ入りなんず  入りぬべし 佉羅陀山なる地蔵こそ 毎日の暁に 必ず来りて訪うたまへ
二八七 妙見大悲者は 北の北にぞおはします 衆生願ひを満てむとて 空には星とぞ見えたまふ
三○○ 我等が修行に出でし時 珠州の岬をかい回り 打ち巡り 振り棄てて ひとり越路の旅に出でて 足打ちせしこそあはれなりしか
三○一 我等が修行せし様は 忍辱袈裟をば肩にかけ また笈を負ひ 衣はいつとなく潮垂れて 四国の辺道をぞ常に踏む
三○二 春の焼け野に菜を摘めば 岩屋に聖こそおはすなれ ただ一人 野べにてたびたび逢ふよりはいざ給へ聖こそ あやしの様なりとも 妾らが柴の庵へ
三○三 柴の庵に聖おはす 天魔はさまざまに悩ませど 明星やうやく出づるほど 終には従ひ奉る
三一六 万劫年経る亀山の 下は泉の深ければ 苔生す岩屋に松生ひて 梢に鶴こそ遊ぶなれ
三二○ 黄金の中山に 鶴と亀とは物語り 仙人童の密かに立ち聞けば 穀は受領になり給ふ
三二四 鈴はさや振る藤太巫女 目より上にぞ鈴は振る ゆらゆらと振りあげて 目より下にて鈴振れば 懈怠なりとて 忌々し 神腹立ちたまふ
三二七 武者を好まば小胡簶 狩を好まば綾藺笠 捲りあげて 梓の真弓を肩に懸け 軍遊びをよ軍神
三二八 筑紫の門司の関 関の関守老いにけり 鬢白し 何とて裾ゑたる関の関屋の関守なれば 年の行くをば留めざるらん
三三二 心の澄むものは 秋は山田の庵ごとに 鹿驚かすてふ引板の声 衣しで打つ槌の昔
三三三 心の澄むものは 霞花園夜半の月 秋の野べ 上下も分かぬは恋の路 岩間を洩りくる滝の水
三三五 思ひは陸奥に 恋は駿河に通ふなり 見初めざりせばなかなかに 空に忘れて止みなまし
三三六 百日百夜は独り寝と 人の夜夫は何せうに 欲しからず 宵より夜半まではよけれども 暁鶏鳴けは床寂し
三三八 厳粧狩場の小屋竝び 暫しは立てたれ閨の外に 懲らしめよ 宵のほど 昨夜も昨夜も夜離れしき 悔過はしたりともしたりとも 目な見せそ
三三九 我を頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎まれよ 霜雪霰降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ 池の浮草となりねかし と揺りかう揺 り揺られ歩け
三四○ 冠者は妻設けに来んけるは 構へて二夜は寝にけるは 三夜といふ夜の夜半ばかりの暁に 袴取りして逃げにけるは
三四一 吾主は情なや 妾が在らじとも棲まじとも言はばこそ憎からめ 父や母の離けたまふ仲なれば 切るとも刻むとも世にもあらじ
三四二 美女うち見れば 一本葛にもなりなばやとぞ思ふ 本より末まで縒らればや 切るとも刻むとも 離れ難きはわが宿世
三四三 君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり 賀茂川に川中に それを求むと尋ぬとせしほどに 明けにけり明けにけり さらさら清けの秋の夜は
三四七 小磯の浜にこそ 紫檀赤木は寄らずして 流れ来で 胡竹の竹のみ吹かれきて たんなたりやの波ぞ立つ
三五○ 明石の浦の波 浦や馴れたりけるや 浦の波かな この波はうち寄せて 風は吹かねども や 小波ぞ立つ
三五二 上馬の多かる御館かな 武者の館とぞ覚えたる 咒師の小咒師の肩踊り 巫は博多の男巫
三五三 御厩の隅なる飼ひ猿は 絆離れてさぞ遊ぶ 木に登り 常葉の山なる楢柴は 風の吹くにぞ ちうとろ揺るぎて裏返る
三五五 鵜飼は可憐しや 万劫年経る亀殺し また鵜の首を結ひ 現世は斯くてもありぬべし 後生我が身を如何にせん
三五九 遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ動がるれ
三六○ 御前に参りては 色も変はらで帰れとや 峯に起き臥す鹿だにも 夏毛冬毛は変はるなり
三六二 王子のお前の笹草は 駒は食めども猶繁し 主は来ねども夜殿には 床の間ぞなき若ければ
三六四 我が子は十余に成りぬらん 巫してこそ歩くなれ 田子の浦に潮踏むと 如何に海人集ふらん 正しとて 問ひみ問はずみ嬲るらん いとをしや
三六五 我が子は二十に成りぬらん 博打してこそ歩くなれ 国々の博党に さすがに子なれは憎か無し 負かいたまふな 王子の住吉西の宮
三六六 媼の子供の有様は 冠者は博打の打ち負けや 勝つ世なし 禅師は早に夜行好むめり 姫が心のしどけなければ いとわびし
三六八 このごろ京に流行るもの 肩当て腰当て烏帽子止め 襟の竪つ型 錆烏帽子 布打の下の袴 四幅の指貫
三六九 このごろ京に流行るもの 柳黛髪々ゑせ鬘 しほゆき近江女女冠者 長刀持たぬ尼ぞなき
三七二 山城茄子は老いにけり 採らで久しくなりにけり 赤らみたり さりとてそれをば捨つべきか 措いたれ措いたれ種採らむ
三七六 楠葉の御牧の土器造り 土器は造れど娘の貌ぞよき あな美しやな あれを三車の四車の 愛行輦にうち載せて 受領の北の方と言はせはや
三七七 尼は斯くこそ候へど 大安寺の一万法師も伯父ぞかし 甥もあり 東大寺にも修学して子も持たり 雨気の候へば 物も着で参りけり
三七八 池の澄めはこそ 空なる月影も宿るらめ 沖よりこなみの立ち来て打てばこそ 岸も後妻打たんとて崩るらめ
三八○ 遊女の好むもの 雑藝 鼓 小端舟 簦翳 艫取女 男の愛祈る百大夫
三八五 西山通りに来る樵夫 を背を竝べてさぞ渡る 桂川  後なる樵夫は新樵夫な 波におられて尻杖捨てて掻い縺るめり
三八八 西の京行けば 雀歯黒め筒鳥や さこそ聞け 色好みの多かる世なれば 人は響むとも 麿だに響まずは
三九二 茨小木の下にこそ いたちが笛吹き猿奏で かい奏で いなご麿賞で拍子つく さて蟋蟀は 鉦鼓の鉦鼓のよき上手
三九三 彼処に立てるは何人ぞ 稲荷の下の宮の大夫御息子か 真実の太郎なや 俄に暁の兵士につい差されて 残りの衆生たちを平安に護れとて      
三九五 海老漉舎人は何処へぞ 小魚漉舎人がり行くぞかし この江に海老なし 下りられよ あの江に雑魚の散らぬ間に
三九六 いざ給べ隣殿 大津の西の浦へ雑魚漉きに この江に海老なしあの江へいませ 海老まじりの雑魚やあると
三九七 見るに心の澄むものは 社毀れて禰宜もなく 祝なき 野中の堂のまた破れたる 子産まぬ式部の老いの果て
四○二 隣の大子が祀る神は 頭の縮け髪ます髪 額髪 指の先なる拙神 足の裏なる歩き神
四○四 瀧は多かれど 嬉しやとぞ思ふ 鳴る瀧の水 日は照るとも絶えでとふたへ やれことつとう
四○八 舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん 踏み破らせてん  まことに愛しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん
四○九 鏡曇りては 我が身こそやつれける 我が身やつれては 男退け引く
四一○ 頭に遊ぶは頭虱 項の窪をぞ決めて食ふ 櫛の歯より天降る 麻笥の蓋にて命終はる
四一三 熊野の権現は 名草の浜にぞ降りたまふ 海人の小舟に乗りたまひ 慈悲の袖をぞ垂れたまふ
四一六 南宮の御前に朝日さし 児の御前に夕日さし 松原如来の御前には 官位まさりの重波ぞ立つ
四二三 般若経をば船として 法華経八巻を帆にあげて 軸をば帆柱に や 夜叉不動尊に楫とらせ 迎へたまへや罪びとを
四二六 聖を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや 年の若き折 戯れせん
四二九 心凄きもの 夜道船道旅の空 旅の宿 木闇き山寺の経の声 想ふや仲らひの飽かで退く
四三○ 山の様かるは 雨山守山しぶく山 鳴らねど鈴鹿山 播磨の明石の此方なる 潮垂山こそ様かる山なれ
四三一 讃岐の松山に 松の一本歪みたる 捩りさの捩りさに 猜うだるかとや 直島の さばかんの松をだにも 直さざるらん
四三二 春の初めの歌枕 霞鴬帰る雁 子の日青柳梅桜 三千歳になる桃の花
四三三 松の木陰に立ちよりて 岩漏る水を掬ぶまに 扇の風も忘られて 夏なき年とぞ思ひぬる
四三四 池の涼しき汀には 夏の影こそなかりけれ 木高き松を吹く風の 声も秋とぞ聞こえぬる
四三六 武者の好むもの 紺よ紅山吹濃き蘇芳 茜寄生木の摺 良き弓胡簶馬鞍太刀腰刀 鎧兜に脇楯籠手具して
四三八 ゐよゐよ蜻蛉よ 堅塩参らんさてゐたれ 働かで 簾篠の先に馬の尾縒り合はせて かい付けて 童冠者ばらに繰らせて遊ばせん
四三九 いざれ独楽 鳥羽の城南寺の祭見に われはまからじ恐ろしや 懲り果てぬ 作り道や四つ塚に 焦る上り馬の多かるに
四四四 鷲の棲む深山には 概ての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや


 巻第二(二句神歌)

四四七 ちはやぶる神 神にましますものならば あはれと思しめせ 神も昔は人ぞかし
四四九 月も月 立つ月ごとに若きかな つくづく老いをするわが身 何なるらむ
四五一 春の野に 小屋構いたる様にて突い立てる鈎蕨 忍びて立てれ下衆に採らるな
四五二 垣越しに見れどもあかぬ撫子を 根ながら葉ながら風の吹きも来せかし
四五四 冬来とも柞の紅葉 な散りそよ 散りそよ な散りそ 色変へで見む
四五五 吹く風に 消息をだに托けばやと思へども よしなき野べに落ちもこそすれ
四五七 波も聞け小磯も語れ松も見よ 我を我といふかたの風吹いたらば いづれの浦へも靡きなむ
四五八 須磨の浦に引き干いたる網の一目にも 見てしかばこそ恋しかりけれ
四五九 我が恋はをととひ見えず昨日来ず 今日おとづれ無くば 明日のつれづれ如何にせん
四六○ 恋ひ恋ひて たまさかに逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る さしさしきしと抱くとこそ見れ
四六一 つはり肴に牡蠣もがな ただ一つ牡蠣も牡蠣 長門の入海のその浦なるや 岩の稜につきたる牡蠣こそや 読む文書く手も 八十種好紫磨金色 足らうたる男子は産め
四六三 我は思ひ人は退け引く これやこの 波高や荒磯の 飽の貝の片思ひなる
四六四 東屋の つまとも終にならざりけるもの故に なにとてむねを合はせ初めけむ
四六五 水馴れ木の水馴れ磯馴れて別れなば 恋しからんずらむものを や 睦れ馴らひて
四六七 雨は降る 去ねとは宣ぶ笠はなし 蓑とても持たらぬ身に ゆゆしかりける里の人かな 宿貸さず
四六八 山伏の腰につけたる法螺貝の ちやうと落ち ていと割れ 砕けてものを思ふ頃かな
四七三 東より昨日来れば妻も持たず この着たる紺の狩襖に女換へ給べ
四七五 淀川の 底の深きに鮎の子の 鵜といふ鳥に 背中食はれてきりきりめく 可憐しや
四七七 御前よりうち上げうち下ろし越す波は 官位昇進の重波ぞ立つ
四七八 この殿に良き筆柄のあるものを そこらの富をかき寄せる筆の軸のあるものを
四八○ たつものは海に立つ波群雀 播磨の赤穂に造れる腰刀 一夜宿世の徒名とか
四八一 いざ寝なむ夜も明け方になりにけり 鐘も打つ 宵より寝たるだにも飽かぬ心を や 如何にせむ
四八三 山長が腰に差いたる葛鞭 思はむ人の腰に差させむ
四八四 結ぶには何はのものか結ばれぬ 風の吹くには何か靡かぬ
四八五 恋しとよ君恋しとよゆかしとよ 逢はばや見ばや見ばや見えばや
四八七 盃と鵜の食ふ魚と女子は 方なきものぞいざ二人寝ん
四九○ 老いの波磯額にぞ寄りにける あはれ恋しき若の浦かな
四九一 さ夜更けて鬼人衆こそ歩くなれ 南無や帰依仏 南無や帰依法
四九三 南無阿弥陀 仏の御手に掛くる糸の 終り乱れぬ心ともがな
五五九 神ならばゆららさららと降りたまへ 如何なる神か物恥はする
五六○ この巫女は様かる巫女よ 汗袗に 後をだに編かいで ゆゆしう憑き語る これを見たまへ
五六三 近江なる千の松原 千ながら 君に千歳を譲る譲る みな譲る


 (撰抄 了)