古典 百人一首




 好き嫌い百人一首 ――秦恒平・百首私判――



              原題「私のかるた読み」一九八四年十一月平凡社刊『歌留多』初出
                  『秦恒平の百人一首』一九八七年十一月十六日 平凡社 刊




      小倉 百人一首 一覧

一  秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ……………天智天皇…
      
二  春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山………………………持統天皇…

三  足引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ……………柿本人麿…

四  田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士のたかねに雪はふりつつ………山部赤人…

五  おくやまに紅葉踏み分けなく鹿の声きくときぞ秋は悲しき………………猿丸大夫…

六  かささぎのわたせる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける………中納言家持…

七  天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも…………………安倍仲麿…

八  我が庵は都のたつみしかぞすむ世を宇治山と人はいふなり………………喜撰法師…
  
九  花の色はうつりにけりないたづらに我が身よにふるながめせしまに……小野小町…

一○ これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関……………………蝉丸…
                一のま
一一 わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟……………参議篁…

一二 天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ乙女のすがたしばしとどめむ……………僧正遍昭…

一三 つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる………………陽成院…

一四 陸奥のしのぶもぢづり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに…………河原左大臣…

一五 君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ ……………光孝天皇…

一六 立ち別れいなばの山の嶺に生ふるまつとしきかば今かへりこむ………中納言行平…

一七 ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは………在原業平朝臣…
                 
一八 住の江の岸による波よるさへやゆめの通路人めよくらむ……………藤原敏行朝臣…

一九 難波がたみじかきあしのふしのまもあはでこの世を過ぐしてよとや…………伊勢…

二○ わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしてもあはむとぞ思ふ…………元良親王…

二一 今こむといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな……………素性法師…

二二 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ…………文展康秀…

二三 月見れば千々にものこそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど………大江千里…

二四 このたびはぬさもとりあへず手向山紅葉のにしき神のまにまに………………菅家…

二五 名にしおはば逢坂山のさねかづら人にしられでくるよしもがな………三条右大臣…

二六 小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ…………………貞信公…

二七 みかのはらわきてながるる泉河いつ見きとてか恋しかるらむ…………中納言兼輔…

二八 山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば……………源宗干朝臣…

二九 心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花………………凡河内躬恒…

三○ 有明のつれなくみえし別れより暁ばかりうきものはなし…………………壬生忠岑…

三一 朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里にふれる白雪……………………坂上是則…

三二 山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり………………春道列樹…

三三 久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ…………………………紀友則…

三四 誰をかも知る人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに…………………藤原興風…

三五 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香に匂ひける…………………紀貫之…

三六 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづくに月やどるらむ…………清原深養父…

三七 白露に風のふきしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける………………文屋朝康…

三八 忘らるる身をば思はずちかひてし人のいのちの惜しくもあるかな……………右近…

三九 浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき……………………参議等…

四○ しのぶれど色に出でにけり我が恋はものや思ふと人の問ふまで……………平兼盛…

四一 恋すてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか…………壬生忠見…

四二 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみ越さじとは………………清原元輔…

四三 あひ見ての後の心にくらぶればむかしはものを思はざりけり………権中納言敦忠…
 
四四 逢ふ事のたえてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし………中納言朝忠…

四五 あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな…………謙徳公…

四六 由良のとを渡る舟人かぢをたえゆくへも知らぬ恋の道かな………………曾禰好忠…

四七 八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり………………恵慶法師…

四八 風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけてものを思ふころかな……………源重之…

四九 みかきもり衛士のたく火の夜は燃え昼は消えつつものをこそ思へ……大中臣能宣…

五○ 君がため惜しからざりし命さへ長く畏くもがなと思ひけるかな…………藤原義孝…

五一 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじなもゆる思ひを…藤原実方朝臣…

五二 明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな 藤原道信朝臣…

五三 歎きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る…右大将道綱母…

五四 わすれじの行末まではかたければけふをかぎりの命ともがな…………儀同三司母…

五五 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ………大納言公任…

五六 あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな………和泉式部…
  
五七 めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬまに雪隠れにし夜半の月かな…………紫式部…
       
五八 有馬山いなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする……………………大弐三位…

五九 やすらはでねなましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな……赤染衛門…

六○ 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立…………………小式部内侍…
                
六一 いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな……………………伊勢大輔…
       
六二 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ………………清少納言…

六三 今はただおもひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな…左京大夫道雅…

六四 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木………権中納言定頼…

六五 恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむ名こそ惜しけれ………………相模…

六六 もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし………………大僧正行尊…
           
六七 春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ……………周防内侍…
        
六八 心にもあらでうき世にながらへばこひしかるべき夜半の月かな……………三条院…

六九 あらし吹く三室の山のもみぢ葉は龍田の川のにしきなりけり……………能因法師…

七○ さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくもおなじ秋の夕暮…………良暹法師…

七一 夕されば門田の稲葉おとづれてあしのまろやに秋風ぞ吹く……………大納言経信…

七二 音にきく高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ……祐子内親王家紀伊…
              
七三 高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ………………権中納言匡房…

七四 憂かりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬものを……源俊頼朝臣…

七五 契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり………………藤原基俊…

七六 わたの原こぎ出でてみれば久方の雲居にまがふ沖つ白波
                          …法性寺入道前関白太政大臣…

七七 瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末にあはむとぞ思ふ………………崇徳院…

七八 淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬ須磨の関守………………………源兼昌…

七九 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月のかげのさやけさ……左京大夫顕輔…

八○ 長からむ心も知らず黒髪のみだれてけさはものをこそ思へ…………待賢門院堀河…

八一 ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる……後徳大寺左大臣…

八二 思ひわびさてもいのちはあるものをうきにたへぬは涙なりけり…………道因法師…

八三 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奧にも鹿ぞなくなる………皇太后宮大夫俊成…

八四 ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞいまは恋しき…藤原清輔朝臣…
       
八五 よもすがらもの思ふころは明けやらで閨のひまさへつれなかりけり……俊恵法師…

八六 歎けとて月やはものを思はするかこちがほなるわが涙かな………………西行法師…

八七 村雨の露もまだひぬまきのはに霧たちのぼる秋の夕暮……………………寂蓮法師…

八八 難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき…皇嘉門院別当…

八九 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする………式子内親王…
   
九○ 見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞぬれし色はかはらず……殷富門院大輔…

九一 蟋蟀鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む……後京極摂政太政大臣…

九二 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾くまもなし……………二条院讃岐…
      
九三 世の中は常にもがもな渚漕ぐあまの小舟の綱手かなしも………………鎌倉右大臣…

九四 み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣うつなり……………………参議雅経…

九五 おほけなく浮世の民におほふかなわがたつ杣にすみぞめの袖………前大僧正慈円…

九六 花さそふあらしの庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり…入道前太政大臣…

九七 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ………権中納言定家…
     
九八 風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける……………従二位家隆…

九九 人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は……………後鳥羽院…
 
百  百敷やふるき軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり…………………順徳院…



    秦 恒平・ 好き嫌い百首私判



一  天智天皇(てんじてんのう)
 秋の田のかりほの庵の苫を荒み わが衣手は露にぬれつつ


「あきのたの」は発音に力がいる。それだけに明確で大柄な歌い上げになる。意味を超えたところに聴こえの上の風格が出る。事実、天智天皇の作かどうかは大 いに疑われるが、さよう心得て撰者が冒頭歌に据えた意図に慎重なものがある。鎌倉の武家政権を前に、王朝の律令制が今まさに危殆に瀕している時、遠い日の 近江京に律令制定を初めて志した、かつは現在非運の皇統の始祖と目される天智天皇の名を、先ず置いている。『古今集』の巻一よりも、『万葉集』の巻一にな らっている。ちょうど同じ時期に隠岐の後鳥羽院が試みていた百人、百五十番、三百首の『時代不同歌合』が、柿本人麿と大納言経信の三番で始められているの に比較しても、この『百人一首』の首尾結構には、ただの秀歌撰を超えた撰者の祈願なり気概なりが表現されているとみたい。「刈り穂」に「仮り庵」の澄んだ 音を重ねて、稲田のほとりにスゲやチガヤで粗く葺きあげた「庵」の、さも露けき草枕の風情が読めれば、御製にかりて王道如何を心新たに問うたかとの古人の 理解にも、いささかはうなずける。一首の魅力は、上句の聴こえの佳さに尽きる。「カ」一音の澄んだアクセントを聴きこみながら、三句字余りの受けの妙味を 堪能したい。「うたう」とはこれだ。これに較べ下句の聴こえは重く濁って難渋している。下句すべてを母音に換えて読み下せば上下句の差はよく分かる。「ぬ れつつ」も、現代の語感には納まりがわるい。

 六二六 - 六七一 中大兄皇子の時に大化改新断行。六八六年第三八代天皇即位。近江大津京に都。現天皇家の遠祖。



二  持統天皇(じとうてんのう)
 春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山


『万葉集』に出ているこの女帝の御製「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」の、いわば読み替え歌になっている。原歌では、少なくも目前の香 具山に白妙の衣が干されていて、それを眺めながら夏の到来をじかに感じている。一方読み替えのこの一首では、上古、季節のおとずれを予感して白妙の衣を干 す風のあったのを今にしのびつつ、しかも現にその光景を眺めているという体に、重奏かつ重層的に時の音楽を構成している。撰者をはじめ新古今歌人らの、悠 々と、面白く古歌をもて遊びえた語感の冴えを想うに足る。「衣ほすてふ」は伝聞の表現だから、香具山の実の光景は目にしないで季節の推移をただ想像して一 首を作っている、などと読んではなるまい。それでは作者を藤原京の王者とした意味が失せる。原歌を原作者の名においてこう読み替えることで、和歌の世界の さらに蒼古として大きく遠い時の深みへ想いをやっているのだ。この歌に限っては、私は、新しい一首の方が魅力的で、少なくも巧いと思う。気宇の豊かに晴れ やかなこと、聴こえの大きく暢びやかなこと、百首中の屈指の名歌だとも思う。私のこの比較は、あるいは在来の評価と逆かも知れないが、和歌を面白くかつ音 楽として読むなら、この理解は動かない。ただ五七調であるため、下二句で札をとるのはやや寸足らずの損がつきまとう。それにしても万葉調を新古今調へ、変 調の妙をさらりと見せた、ニクい一首である。

 六四五 - 七○二 天智の皇女、天武の皇后から六九○年第四一代女帝即位。藤原京に都。律令と編史の時代を推進。



三  柿本人麿(かきのもとの・ひとまろ)  
 あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝む


 撰者定家が殊に好んだ人麿歌だ。「足引の」の枕詞の、なおその上に上三句がそっくり「ながながし」へかかる序詞でもあるという、国語の授業の好教材には なるものの、長の一夜をひとり寝の寂しさに、いくらか甘く想い負けているだけの歌、とても、人麿を代表する歌とは思いにくい、のだ。が、渋滞しないという 事ではこれほど聴こえの佳い歌もめずらしい。和歌の、耳にし口にしての「聴こえ」という音楽的な美の要素は、時に一首の意味を超えてでももっと丹念に味わ われていい気がする。『百人一首』の魅力の大半は、今やむしろ卓越した聴こえの美にある。まして「かるた」遊びの視点、いや聴覚からすれば、この妙味を ルーズに聞き逃していては話にならない。ふつう和歌の濁音は耳障りに響き易いのに、この一首など、「び」「ど」「だ」「が」「が」とつづく五つの濁音が、 暢達のハーモニィを成している。定家卿はじめ平安京歌人らの繊鋭な耳の冴えが、みごとに聞き漏らさなかったこの歌の美点を受取らずに、鈍感に「かるた」遊 びを終っては大きな損をする。名歌の条件といったものが、客観的に決められるとは思わないが、歌であれ散文であれ耳に聴きこむ音から音への続きぐあい、つ まり「聴こえ」の効果はいつも我・人の別なく気になる。それを幾分でも判定すべく、遊び半分母音へ戻してみる。この歌の上三句も「アイイイオ アアオイオ オオ イアイオオ」と音読して、快い調べに妙に首肯ける。

 持統・文武朝の宮廷歌人。久しく歌聖と頌えられてきたが、官位低く万葉集の伝え るほかは生没年など事蹟不詳。



四  山辺赤人(やまべの・あかひと)
 田子の浦にうちいでてみれば白妙の 富士の高嶺に雪はふりつつ
   

『百人一首』に出会う最初は、むろん人によりまちまちだろうが、遅くも小学校のうちに出会っている人が多いように想う。私も二年生ごろにはもう独り遊びに 読みあげては札を拾い拾い、比較的はやくに百首とも覚えていた。家に、『百人一首一夕話』があって、ことにその人物逸話の部分などを愛読しながらの独り遊 びだった。独りッ子で、近所にそういう仲間も少なかったから、実際に「かるた」取りをした回数より、余念なく歌を読み耽ったことの方が断然多い。赤人のこ の歌は、最初から好かなかった。初・二句に字余りの続く聴こえの重さが気に食わない。「田子の浦に」の「に」の鈍さも、子供心にガマンならなかった。いっ そ「田子の浦へ」と歌えば動きがある。舟の上とも浜でとも、どっちつかずの視点のアイマイさにイラだった。説明的に、ウソをついているのが二重に悪い。持 統天皇の香具山の場合と逆に、赤人のこの歌の改竄は、万葉集原歌「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞふじの高嶺に雪はふりける」のこれ以上はない丈高さ を、無残にぶち壊していた。赤人という万葉歌人の天才を知るにつけても、この、後世読み替えの一首は『百人一首』中の汚点のように思えて、見るもイヤだっ た。定家もどうかしている……。この下句をオハコにして狙う連中など、私は目もくれなかった。少年の昔のこういう頑固な思いこみは、直らない。「白妙の 衣」は聴せても「白妙の富士」など、今もいやだ。

 万葉集では山部。聖武天皇の八世紀前半中葉に優れた叙景歌で活躍。並び称された 人麿同様生没年も事蹟も不明。



五 猿丸大夫(さるまるたいふ)
 奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ秋は悲しき


 歌の表記や作者の名は、便宜に、目崎徳衛著『百人一首の作者たち』巻末索引等によっている。本により幾分の異同がある。柿本人麿も、「人丸」に作った本 が多いかもしれない。昔の人は音通ということを容認していたから、現代の職業的校正マンほどその辺はうるさくなかった。明治の作家にも音通宛て字の面白い のが多くて、それも佳い読み味になっている。天智・持統と父娘二代の天皇サンはともかく、次へ「人丸」「赤人」「猿丸」とつづくのが何とも子供心に面白く てならなかった。「人」と「猿」との微妙な対立は、日本の裏社会史や裏文化史を探るキィでもあろう。「猿」には、漂泊の藝能信仰者のイメージがダブってい る。周辺に「道々」「ワタリ」の職能も絡む。虚像「猿丸大夫」の名には、そういう無名の「猿」たちを統べる大きな背景が広がって見える。この「おくやま に」の歌もそれほどの深みから掬いとれば、単なる秋山寂蓼の風情を超えて読める。言うまでもないこの作者は、生没年・伝ともに不明の、虚在の歌人である。 「大夫」も、これを五位相当の官人と受取るより、例えば芝居や音曲の人を今も「太夫」と呼んでいる伝統などから理解した方が当っていよう。こういう「何レ ノ代ノ人トモ知レズ」とされた人物が、和歌の世界に久しく籍を与えられ重んじられていたのが、何故か。中世末期の『職人歌合』の歌や人へ繋がる脈絡ととも に、誰かによく解きほぐして貰いたい。

「たいふ」と官人めくより「だゆう」と藝人めかす理解も可か。十世紀より以前に推 置される、一切不明の伝説歌人。



六  中納言家持(ちゅうなごん・やかもち)   
 鵲の渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞふけにける
                                        
 初二句には、七夕の恋を助け翼をひろげて天の川を橋渡しした「かささぎ」の影がある。と同時に「かささぎの渡せる橋」が宮中の御階を寓意したものとも普 通に読まれている。但し秘められた貴人の恋に「かささぎ」の仲立ちが働いていると、鋭く察しなければならぬ。かくてこの句は七夕という季節を超えて、しか も天上の恋が秘めたロマンの味は失わずに、まさに「たまさかに逢ふ恋」を謂う恰好の表現力をえた。この家持の歌では霜冴えわたる、冬。星空を仰いで牽牛織 女の恋の行方をおもいつつ、身は、凍てつく地上の忍ぶ恋路を、往くのか帰るのか、今しも踏み渡ろうとしている。「夜ぞふけにける」には、天にも他にもの感 慨が重ね合されている。むろん『応永抄』に「感情限りあるべからず」と読んだ古人の共感には、歌聖定家にまつわる式子内親王との苦しい恋の伝説までが、後 生の願望も籠めてうち重ね読み込まれていたではあろう。いや歴代の宮廷社会に数々秘められたタブーの恋の色々までも、もののあわれ深く悲しく、この一首を 通して反芻されていたでもあろう。そのような想像の働きで存分の深読みをゆるす魅力が、この一首を真実名歌の位置へ押しあげてきた。一首の歌の魅力とて も、また、人の名声と同じに時代を経て育って行く。「霜」の読みなど、これまであまりに淡泊に過ぎたのである。室町小歌に「帰るを知らるるは 人迹板橋の 霜のゆゑぞ」とあるではないか。

 七一八頃 - 七八五 万葉集編纂に深く関わった武の名家の惣領、繊細優美、感傷の歌人。政変に遭い悲運に死ぬ。



七  安倍仲麿(あべの・なかまろ)
 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも


 作者は、唐の国で重く用いられた奈良朝の秀才として知られる。ようやく帰国の途次、蘇州江上で折からの満月を眺めてよんだ歌だと『古今集』初出以来のお 話だが、一首の聴こえは、平安朝の優美を備えている。誰かの仮託創作である可能性も、ある。「天の原」はここは素直に月夜の大空と読んでいい。ただ日本語 で「あま」は、天でも海でもある。青海原とした本が時にあるのも、それはそれで納得できる。むしろ「天」を「海」にどう読み直して行くかは、上古日本史な いし前史の興趣溢れる課題の一つだろう。一衣帯水の日本と中国の交流に、最も早い時期に貢献した仲麿望郷の歌を介して、天海同意の日本人の根源(ルーツ) を、「春日なる三笠」ならぬ、逆にはるか南や西の島や国に「ふりさけ見」てみるのも面白い。いたるところ青山あり。つまり銘々に故郷・原郷を胸に生きる人 も、また、太古いたるところに暮していた。たとえ夢に結んだ「月」であれ、「ふりさけ見る」つまり遠くはるかに見渡す視線があって、見えて来る。この一 首、撰者の思いは知らず、さすがに稀有の展望に思わずアジアの「歴史」の絵が浮かぶ。しかもこの快い聴こえの佳さ。「力行」音の小刻みの律動をさも覆う大 いさで、「アマノハラァ」という広大な広大な天来の妙音が統率している。「あ」の部の札は十六枚もあって取りにくいが、「アマノ」までで決まる。この歌を 通俗などという人は、「たけたかき」和歌の魅力を知らない。

 七○一 - 七七○ 奈良時代の遣唐留学生のまま、玄宗皇帝に仕え李白らと親しんで文明高く、遂に帰らなかった。



八  喜撰法師(きせんほっし)
  わが庵は都のたつみしかぞすむ  世をうぢ山と人はいふなり


 六歌仙の一人という事のほかにこの歌が一つ、その余は一切たしかな事跡の分からない坊さんだから、さしづめこの歌は名刺代りというか、自己紹介という か、の趣がある。それだけに読み損じると、同じ作者の顔が別人に見えてしまう。京より「辰巳」の方角、「鹿」も棲むかはどうあれ「宇治」の山に庵をもっ て、「然」つまり斯様に自分は暮しています。と、聞いただけでは、法師の人物はまだ浮き上がってこない。問題は下句の読みにある。「世をうぢ山と他人はい ふ」のだ。他人が言おうと自分で言おうと、要するに人から「憂し」と見も見られもする「宇治」にわたしは住んでいますよと歌っているのか。「憂し」をこの 坊さん、肯定しているのか。どうもそれでは尋常過ぎて、歌も面白くないし、坊主はこれだから陰気でイヤという気にもなる。幼い日の私は事実そう感じて、こ の歌がなかなか好きになれなかった。けれど実は逆なのでは…。「然ぞ住む」は強い肯定的な自己主張だ。しかも歌の聴こえは、ここでひとつ言い切れている。 それならば下句の読みはどうなるか。そんな人の案じる「憂し」などと思ったこともなく、こう愉快にのびのび暮しているのに、さすが都の人は陳腐でヒマな評 判をしてくれますよ、笑止笑止。そんな所か。この体だと猿丸大夫の親類のような、やがてまた泊然雲水に身をまかせて行く毛坊主(有髪の僧)の一人であった やも知れないのだ。歌も人も、その方が私には格別面白い。

「ホッシ」とも読みたい。古今集に六歌仙の一人と擬してある以外、一切不明。確実 な作歌も他に見当たらない。



九  小野小町(おのの・こまち)
 花の色は移りにけりないたづらに  我が身よにふるながめせしまに

                                         
 言葉の色を巧んで重ねている点で、百首中屈指の藝には相違ない。話題にも作者はこと欠かない。六歌仙の紅一点、弁天様なみの絶世の美女。深草少将を嘆き 死にさせたり、大伴黒主の詐術を見破って古筆草紙の墨を面々の前で洗ったり。老い衰えて世にさすらい、全国にあまねく小町伝説と墓所を残したり。近世の小 野於通とはるかに気脈も血脈も通じた、あるいは不特定多数の「うかれめ」「あそびめ」の総称ですらあり得そうな不思議を、小野小町という名ははらんでい る。いわば猿丸大夫の女版とも見られる。そういう底昏い背景から浮き立って咲いた花かのように、この「花の色は」の歌を読むといい。同じ女人でも紫式部や 赤染衛門ら現世の常識人とはタチの異なる、虚在感の濃い、半身を民俗の世界に沈めた感じの女性。それだけ、ご託宣にも似たシンボリックな歌い上げに魅力、 いや圧力がある。下句の鈍い二音繋ぎの聴こえの重さも、上句の大きな身ぶりを支える腰の強さになっている。日本語「花」と「色」の文化史的含蓄もしたたか 汲める。桜にただ長雨の歌ではない。容色の衰えをただ嘆く歌でもない。キィは「よに」か。強意、そして「世に」。この「世」とは濃密な男女の仲らい、愛欲 の境涯を意味する。「いたづらに」という嘆息の声が、だから出る。古る、旧る、経る、降るの「ふる」だが、体験の主軸は「世に経る」という愛欲無残にあっ た。しかも己れを、花心失せやらず「ながめ」ている。

 九世紀中頃の宮廷歌人とみるほか、生没年不詳。老いて不遇に諸国を浮浪し多くの 墓跡を遺すのも伝説の内か。



十  蝉丸(せみまる)
 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関


 ぶきみなほど、作者の配列というか二人ずつの組合せに、尽きぬ趣向の妙を覚えるここまでの十人十首だった。蝉丸また小町にヒケをとらない謎の人。盲目ゆ えに巷に捨てられた皇子ともいい、音楽の名手ともいう。謡曲『蝉丸』ではこの上に逆髪と呼ばれる姉皇女も登場する。その名のゆえにやはり疎まれ巷をさすら い歩く身の上になっている。藝能者の世界で生きた伝説的なやはり虚在性の濃い歌人か。いや、いっそ琵琶法師らの先祖のように想像していいのかも知れぬ。会 者定離の常無きこの世を歌いつつ、しかもキィは「あふさか」の逢う、逢わずにいない、との認識にある。そういう人世肯定の強い含みのあるのを、この歌か ら、在来多く読み落としてきたのではないか。情あり心あるこの「人世」は、男女の出逢いでこそはじまる。この歌の「逢坂の関」とは、事実どおりの京近江の 境の関をいう以上に、人と人が、男と女とが出違うまさに「此の世」をば、象徴的に表現しえている。蝉丸は、そのような真実を言葉巧みに巷に説いて歩いた、 声聞師のような存在だったかも知れない。一首の歌は、申し分ない快い聴こえを保ち、「これやこの」これがまァ…という軽みの投げ節も利いている。こういう 「カ」行の音を鈴をふるようにきれいに響かせた和歌は、概して聴こえ佳く、「うた」として明快に成功した例が多い。それにしても和歌世界に膚接したいわば 歌謡世界の人と表現へも、撰者はよく目配りしている。

 生没年不詳 宇多の皇子に仕えた雑役の官人だとも、琵琶の名手とも、十世紀初め 逢坂関辺に住んだ隠者とも。



十一 参議篁(さんぎ・たかむら)
  わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと  人には告げよ海人の釣舟


 海を、わだつみと謂う。「わた(だ)のはら」とは大海原、青海原。「人には告げよ」の「人」とははるか都の人々。歌の背景からは、この歌人を隠岐へ島流 しの罪にあてた、嵯峨上皇以下の朝廷人を指していることが、知れる。難波の浦からまずは瀬戸内に浮かぶ「八十島」を縫うように漕ぎ出したのだろうが、流さ れのはてない距離感も言いえている。詩文に秀でた小野篁は、仁明朝の承和三年(八三六)春、遣唐副使として九州を船出したが間もなく難破。翌年また失敗 し、三度めにやっと揚州へ渡ったが、一行の中に篁の姿は無かった。最初の難破のあと、権柄ずく、大使が損傷の少ない副使篁の船と乗り換えたのに強硬抗議し て、渡航を拒否し、あげく遣使をそしる風刺詩を作って世の喝采を浴びた。やがて遣唐使が歴史的に廃止になる前の微妙な時期でもあった。上皇は怒って篁の官 位を奪い死罪一等を減じて隠岐へ流した。理屈はいろいろあろうが、荒海を乗り切るほどの船も技術も、もう、京都の政権は持合せなかったということだ。篁は 当然の命を惜しんだに過ぎない。それなのにまた「わたのはら」を遠い島へ流されて行く。悲劇というより思わずクスンと来る可笑しみもあって歌柄はじめじめ していない。「人には告げよ」にもグチっぽさはなく、清々と胸をはった男の意気が読める。潮風が薫る。海人の小舟の境涯へ呼びかけることで、事大主義な都 人士への鬱憤を吹き飛ばしてもいる。陰気には読むまい。

 八○二 - 八五二 名門小野氏。赦されて帰京し参議・従三位に昇る。漢詩文・和歌ともに優れ六歌仙以前の逸材。



十二 僧正遍昭(そうじょう・へんじょう)
 天つかぜ雲の通ひ路吹き閉ぢよ をとめの姿しばしとどめむ


 まことに魅力の乏しい歌だった。一度として好きになったことも、見直したということもない。無理からぬことで、この歌詠みを催した「五節の舞姫を見て」 という情景が、現代の私、まして子供の頃には、とても想いも及べなかった。現代にかぎらず、「乙女の姿」の歌それ自体かならずしもいつも誰からも、六歌仙 の一人であるこの歌人の代表作として評価されていたわけではない。だが「かるた」遊びでは「乙女の姿」に人気が集まる。歌の表むきの意味は、やさしい。要 するに天女の昇天をさまたげてみたかった漁師白龍の気分になれば済む。百枚の取り札のなかで、これほど分かりいい札はすくない。実は、むしろその一点に私 の不満はあったらしい。今読み直しても子供の頃の印象は変らない。意味は上下でよく通っているのに、歌の命がいわば腰折れに微妙に切れ離れていないか。も のを、言い過ぎてはいないか。上三句なら三句だけで、あとは余韻として味わいたかったと思わす説明的な荒さが下句の分かりよさには、ある。えてして通俗な 歌の特徴が、出ている。坊さんの名だが、歌は俗名の良岑宗貞時代、まだ三十代はじめ頃の作らしい。桓武天皇の孫に当り、出家後も宮廷社会とは密接に係わり ながら、古今歌風を醸成する上でも大きな感化力を持ちえた人物だった。律令制の根を揺がした初の摂政藤原良房とは血縁の叔父に当り、これ令外の官の「蔵 人」の頭に任じられている。ほがらかなものだ。

 八一六 - 八九○ 蔵人頭のとき仁明天皇の死にあい出家、僧官の最高位に至る。六歌仙の一人。素性法師の父。



十三 陽成院(ようぜいいん)
 筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる

     
 この作者、かんばしからぬ錯乱非行の噂の絶えない在位九年(八七六−八八四)の天皇だったが、和歌の道には独特の執心をもってたびたび歌会も催してい た。この歌、院の作としてはただ一首勅撰集に採られたものだが、巧みな、愛唱に耐える名歌に仕上がっている。「みなの川」が「男女川」とかつては容易に読 めた。そういう関取がいて後に双葉山と並んで横綱を張った。この読みで恋に繋がる。さらに「水無川」とも読めればこの「こひ」には水ならぬ泥の意味も重な る。そう解く人もある。ちょっと読み過ぎだが、「つもる」の語感には水無きゆえに渇く恋の泥が面白い。自然、暑い夏へかかって、恋の在りようの激しさをも 言いえている。筑波山から流れ落ちて桜川へ注ぐ現実の「みなの川」を、かく巧みに織り込みながら上古の歌垣伝承などへも想像を誘う趣向の深さ。耳への聴こ え、目への見ばえ、ともに申し分ない。「ようぜぇいーん」と、ぜひとも「かるた」遊びでは作者名から読みあげて欲しく、『百人一首』では、作者の名前も歌 のうちと私は楽しんだ。とはいえ、この歌の「みなの川」にはもう一つの読みの可能性があって、作歌の事情に触れてくる。「見無の川」だ。想ひて逢はざる恋 の歌なのだ。大叔父光孝天皇の皇女に、「みな」つまり見るなと禁じられた恋の歌だというが、想い初めての恋情の積もる苦しさを歌っていた。和歌は、幾重ね にも読めるからこそ面白い。現代語になど訳してはいけない。

 八六八 - 九四九 清和天皇皇子、母は藤原基経の妹高子、第五十七代天皇。精神を病み退位、以降六十余年を上皇。



十四 河原左大臣(かわらのさだいじん)
 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにし我ならなくに


 家の「かるた」に、この歌、取り札は残って読み札が紛失していた。それで逸早くソラで覚えた。先の陽成院にしてもそうだが、本当に良い歌は、読みあげて いるだけでも大船に乗って豊かな波を分け行くような快感に恵まれる。『百人一首』を楽しむ一つの道は、二人一組の歌合ふうに、頭から順に、番いで鑑賞し優 劣を競わせてみることだ。大概作者も歌も対照の妙をえて、しかもみごとに伯仲している。奥州信夫郡、「染め」の文字摺り乱れ模様。それへ懸けて、忍ぶ恋心 の誰ゆえこうも乱れ「初め」苦しむかと嘆き訴えた歌いざま。「もぢづり」というねじけて地に這う草もある。小さな花も咲く。「みちのく」の初句にも、男と 女を隔てている恨めしい距離感を読み取った方がいい、それでこそ「忍」び「乱れ」る辛さも、深く読める。屈曲した感情ゆえにかえって「我ならなくに」と いった、普通ならイヤミにねじけた物言いが、逆に聴こえとしても効果を挙げている。この歌では初・四句に「ミ」の頭韻が響いている。「かるた」取りではこ れが便利な記憶法に利用できた。歌の効果としては、前歌の、「峰より落つるみなの川」の「ミ」の響きと比べてどうだろう。あの方が、「ミネ…ミナ」と 「ナ」行の音まで重ねた効果が加算されていて、上下句頭韻というヒラきより、はっきり勝っている。だがこの歌では、「誰ゆゑに」「我ならなくに」といった 露骨さを妙に子供心に受容れていた。作者は嵯峨源氏の、融。

 八二二 - 八九五 源融、嵯峨天皇の皇子から臣籍に。左大臣従一位。皇位へ復帰の意欲も阻まれ、河原院に隠棲。



十五 光孝天皇(こうこうてんのう)
 君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ
 

 陽成天皇の大叔父つまり祖父文徳天皇の弟に当りながら、即位は後れた。在位は四年(八八四−八八七)。自分を位に即けた藤原基経を初の関白に任じ、みず から律令制の破綻に拍車をかけた天皇だが、和歌の道には熱心だった。平易な歌で説明を要しない。天智天皇の「秋の田の」の歌と対照的、むしろ類歌の感じす らあるが、この感想には「かるた」取りで悩まされた実感が絡んでいる。同じ「雪はふりつつ」でも赤人の「富士のたかねに」よりは自然で、万葉古歌の大らか さや素朴な魅力にちかい。二句の字余りの読み込みが鑑賞の眼目か。これで、心入れてわざわざに、という「実」のある感じになる。さらに「春」と「雪」とい う意表に出た文字面の上での組合せも、「若菜」摘みの行事からはるか遠のいている現代人には、かえって新鮮さが感じられる。天皇みずから「君がため」雪に 降られに出て行くのに、素直に驚かされる気味もある。どうもこの歌の方が、十世紀半ばに出来た『後撰和歌集』に初出の、あの「秋の田の」のむしろ原歌では なかったかと推理したくなるフシがある。取り札としては、私は、この「雪は」の方が終始好きだった。ただこの歌、意味や文字の上の見ばえはともかくとし て、「うた」としての聴こえでも本当に「屈指の名歌」と言えるのだろうか。上三句だけならいい。俳味すら楽しめる。いけないのは四句だ、重苦しい。慣用の 「我が」にせよ、一首のどこでどう使うかは至極難しい。

 八三○ - 八八七 仁明天皇皇子、第五十八代天皇。関白基経に政治を預け学問と和歌興隆に力を致した風雅の天子。



十六 中納言行平(ちゅうなごん・ゆきひら)
 立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かばいま帰り来む
   

 好きな歌だった。美しい波にゆったり乗せられて上下動の快感が満喫できた。しかもうなる巧さ。別れ行く者の別れを惜しんで見送ってくれる人々へ、これほ どみごとな挨拶があろうか。「待つ」とさえ聞いたら飛んで帰って来ますからね。当人が間違いなく因幡守として赴任の際の歌だというし、むろん「立ち別れ去 なば」と、旅立つ具体性が詠み込んである。これで因幡という特定の地名から解放されて、歌のひろい自在さも獲得できている。挨拶として今でも応用が利く。 「山の嶺」という普通ならくどい畳みかけが、この際は、行く人と見送る都人との無情な隔ての役をちゃんと果たしている。現代の「短歌」からは完全に欠け落 ちてしまった「和歌」の趣向の魅力が、面白く息づいている。作者はほぼ九世紀を生きた人で、業平の兄、在原氏。能『松風』の姿なき主人公であり、一族の学 問所として、藤原氏の勧学院にならぶ奨学院を創立している。また彼が催した『在民部卿家歌合』は、今日に伝えられた歌合として最古に近いもの。実在の人だ が、どこか伝説的に艶に彩られた不思議な虚在感にも富むのは、弟の業平朝臣ともろともに「在原氏」が歴史的に担った悲劇性とも土俗性とも関連しているのだ ろう。兄弟の父は阿保親王だった。まかり違えば藤原氏にも代りえたか知れぬ見果てぬ夢も抱いていただろう、それで不思議のない在原氏は一つの宮廷勢力だっ たが、屈折し脱落した。敗者の魅力がある。

 八一八 - 八九三 平城天皇の孫、業平の兄。八八○年代に現存最古の歌合主催、在原氏の学問所創設で知られる。



十七  在原業平朝臣(ありわらの・なりひらあそん)
 ちはやぶる神代も聞かず龍田川 からくれなゐに水くくるとは  


 つづく敏行朝臣と一対、私は感心しない。業平のこの歌、何を撰りに撰ってこれを、という不審が失せない。結句の「くぐる」は「くくる」かも知れぬと説が 分かれているが、からくれないの紅葉の下を潜って龍田の川水が流れようと、紅葉の美しさにさながら川水の流れそのものが、珍らかな「くくり染め」に見えよ うと、「神代もきかず」の大袈裟さに実意がけし飛んで、シラける。大きく読みあげてもどこか窮屈な寸づまりを覚えたのも確かだ。聴こえになだらかな大きさ がない。末尾の「とは」にも、真率な嘆声より、歌として舌足らずなやりっ放しを感じたものだ。「ちはやぶる」という枕言葉が、現代の語感で捉え切れないも どかしさもあった。万葉仮名の「千磐破」「千早振」から何となく神威の大いさを感じとってものを思うしかない。それにしても私は、同じ業平朝臣なら「月や あらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」のような、破調ながら真情に富んだ作の方が好きだ。あるいは『伊勢物語』にとられている色好みの歌 でも、そうでなくてももっと胸にしみる歌はある。御屏風の絵に添えた色紙形の歌らしいが、「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」などと いう西行に先駆のような佳い歌を、ゆったりと「かるた」遊びでは読みあげてみたかったと、桜好きの私は今も不満だ。そもそもこの歌、「カ」行音の響きがわ るい。堅いし冷たい。聴こえのわるさの最欠陥だ。

  八二五 - 八八○ 美男子の代表格、終生武官の偉丈夫であった。六歌仙の一人、伊勢物語の主人公に擬される。



十八 藤原敏行朝臣(ふじわらの・としゆきあそん)
 住の江の岸による波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ


「よるさへや」と切れ「よくらむ」と寸づまりな鈍な感じがどうしても許せず、一枚札だが、どうぞご勝手にと手が出ない感じだった。「住の江の」という魅力 のある澄んだ音楽に聴き入りながら、さて、この著名な浪速の地名が歌のうえで働いていない感じなのも、大いに不満だった。今もこの点の納得が行っていな い。四句に及ぶ聴こえはなかなか快調なだけに、また歌の意味も、夢のうちでさえあなたは人目をはばかるのか、通っては来てくれぬなどと気が利いているだけ に、いわば措辞の難が恨めしい。『古今集』が出来てまもなく、延喜七年(九〇七)に死んでいる先駆的な古今集歌人。「秋きぬと目にはさやかに見えねども風 の音にぞおどろかれぬる」の歌で名高い。この辺で、いい機会でもあり、和歌の現代語訳について言っておく。例えばこの歌をある学者は、こう訳している。 「住の江の岸による波ではないが、現実の世界ばかりでなく、夜までも、夢の通い路で、あの人は人目を避けているのだろうか。夢にも会えないことよ。」誰が 訳してもまずこんな所といえばそれまで。しかし和歌という詩を、こういうヒドい日本語に置き換え知解してしまう事の恐ろしさを考えてみたい。それ位なら簡 単な手引きにのみ従い、つとめて舌頭千転、口ずさみに歌の音楽的な聴こえの妙味を会得した方が、よっぽど勝れている。また、そうしているうち、自ずと歌の 意味し寓している所も、多重奏的に面白く聴き取れてくる。

 生年未詳 - 十世紀初年歿か。蔵人頭から右兵衛督に至り、能書。歌人としても著名で家集「敏行集」がある。 



十九  伊勢(いせ)
 難波潟みじかき蘆のふしの間も 逢はでこのよを過ぐしてよとや


 いわば「伊勢の御息所」だ、宇多天皇の皇子を産んでいる。同じ天皇の皇子敦慶親王との仲に、すぐれた女歌人に成長する中務を産んでもいる。九世紀末から 十世紀前葉にかけて歌壇に実力をうたわれた女流。ことにこれは圧力に富んだ屈指の名歌で、『新古今集』まで一度も採られなかったのが不思議な気がする。措 辞こまやかに適切的確、「アシ」「フシ」「アハ」「スグシ」と小刻みな韻律が快いなかでも、初句の大きさ、「なに」が何でもとすら聞える音声魔術に呼応し て、結句の「過ぐしてよとや」という粘った物言いが、かえって、恋に賭けた女の気概を心優しく表現しえている。「難波潟」「芦」「短い」「節の間」など、 すべて巧みに縁語を重ねて不自然でない。のちの皇嘉門院別当の「難波江のあしのかりね」の歌もいいが、「歌」の調べというより、微妙に生きた内在律という 点ではこの伊勢の御の歌は、あなどり難い力に溢れている。気稟の清質最も尊ぶべきものがこの恋情の表現自体に備わっているのだろう。実際の恋を「文学」的 に超え出た、真率な「詩」の魅力とでも言おうか。「ふしのまもあはでこの世を」は、何でもないようで、さて容易に言える言葉ではない、されば「過ぐしてよ とや」と気迫でにじり寄る女の身振りの美しさが目に見えてきて、少年だった私は、まちがいなくこういう歌から女の魅力も怕さも学んだと、今さらに思う。こ の日本語の生命の輝きは今どこへと、嘆かれる。

  八七五 - 九四○頃 古今集を代表する女歌人。宇多帝やその皇子に愛され、宮廷に重きをなした「伊勢の御」。



二○ 元良親王(もとよししんのう)
 わびぬれば今はた同じ難波なる 身をつくしてもあはむとぞ思ふ    

「今はた同じ」の読みが理解を分けるという。私はちいさい頃からこの句を、「今となっては何をし何を思おうと同じこと、それなら」と下の句へ繋いでいた。 「わびぬれば」とは、こうもこの恋、にっちもさっちも行かない状態へ周囲から追込まれてきたからは、という意味だろう。世間がうるさくなって来たら、あの 小泊瀬山の墓穴に二人で籠ってしまいましょうよ、という歌が、『万葉集』にも『常陸国風土記』にもあったと覚えているが、その初句が、「言痛けば」だっ た。この歌の「わびぬれば」も、それ位に読んでいい。幸いこの恋、二人の気持ちは生きて通い合っている。そこに「同じ」共感の余地がある。二人とも「身を 尽して」の恋を諦めてはいない。逢いたい。逢わせまいと妨げる力はつよい。宇多天皇の后、京極御息所との禁制の恋に身を焼きながらの、思い余っての絶唱。 色好みの貴公子で、風流な、物語の主人公的なところが多分にあった。が、さてこの歌はどれほどの作か。初句の「わびぬれば」の条件づけは何としても寸が短 い。「今はた同じ」の聴こえもやや粗雑に跳ねている。ことに「ナニワナル」の音の粘りは生きていない。「なる」の座りがわるく押しつけがましいのだ。一首 の手柄は、「難波」の「みをつくし」つまり往き来の船に水脈をしらせる杭、にかけてひたむきな恋の思いを言いえた点にある。よく似た歌柄でいて、先の伊勢 の歌にはだいぶ水をあけられている。

  八九○ - 九四三 陽成の皇子、好色風流の浮き名に飾られ、音に名高い奏賀の声は鳥羽の作り道まで聞こえたと。



二一 素性法師(そせいほうし)
 今来むといひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな


「かるた」取りの時には「待ち出づるかな」と読んでいた。語法的にも意味の上でもこれではマズいと言われる。だが、待つうちに月が出てしまったという意味 もさりながら、音楽としての聴こえは、ここの字余り、もたつく感じだ。この取り札、「出づる」なら欲しいと、今でも私は頑固にその気持ちだ。が、原歌を曲 げるわけにも行かない。ま、「長月」の長アい夜々を、いつか月の二十日も過ぎて有明けの月を見るようになるまで、空しく来ぬ人を待たされてしまったとい う、捨て処のないもやもやの感じにこの渋滞の字余りは、呼応しているとも読める。九月は、むろん昔の暦では最晩秋。「飽き=秋」の心持ちがすでに恋の末路 を占っている。もっとも定家が言うほど私は「余情妖艶」とも浪漫的とも感じない。かはたれ時にふさわしく、あっさりと、諦めに近い澄明な感じがする。歌を 流れる時間が、一夜か月来か二説あって、それは「長月」の読みによるのだろうが、「飽き」深まるかと読むならば少なくも九月中。晩れゆく秋の推移は読み込 んだ方が面白いだろう。恋の歌だが作者は坊主、僧正遍昭の子に当る。「法師の子は法師になるぞよき」という父の考えで兄由性とともに出家したものの、勉強 家の兄とは一風違ってこの素性、京中をわがもの顔に「し歩きける」と『大和物語』に書かれている。「延喜の遊徒」とも人に批評されている。色坊主とみえ る。この恋歌も、どこか風流な味わいがある。

  九ないし十世紀の人 僧正遍昭の在俗時の子。紫野雲林院に住み後 に大和石上に移り住んだ。三十六歌仙の一人。



二二 文屋康秀(ふんやの・やすひで)
 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ


「かるた」だから、どの歌も自然取り札の下句が頭に入る。「むべ山風を嵐といふ」なんて得意そうに、なんたる子供だまし、「むべ=なるほど」などと浅々し い…と、ここだけで軽く読んでしまう。聴こえに伸びもないので、なにが『古今集』を特徴づけるほどの機知かと、子供心に軽蔑していた。「吹くからに」の 「からに」にも「あらし」の壮快感がない。吹けばたちまちの意味だろうが、もう一度、「しをるれば」とまた条件づけめいて句切れるのも、鈍い。六歌仙の代 表歌としてはズサンなと、とても感心がならなかったのを、よく記憶している。今でも基本的に同じ評価しか与えられない。が、一首を通して何度も口遊んでい るうちに、この歌、かすかながらある速度感は内に秘めていて、それを感じとった瞬間から、なにとはない秋のさびしみのようなものが、清水の湧くように胸の 底に動いてきた。「しを」れるものが、歌に触発されて心の底に潜んでいたようだ。そうなって初めて「山風を嵐と」感受した歌人の思いに、詩を覚えることが 出来てきた。つよい感銘はないが、あぁそうか…と首肯くだけはできる。思えばおれも五十歳か‥・という感慨もこれには絡んでいる。撰者の定家卿にも似た気 持ちが下行く水のように動いていたのかなぁと思う。もっとも、この歌の作者は正しくは康秀ではなくて、子の朝康らしい。どっちにしても今では大過ないこと になっている。親子とも九世紀後半からの下級官人だった。

 九世紀後葉の歌人。 経歴の官職は高くないが歌詠みの名があり、小町や業平らと 肩を並べ六歌仙に名を列ねた。



二三 大江千里(おおえの・ちさと)
 月見れば千々にものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど

 
 この歌は今も好かない。だいたい「――すれば」と歌い出される歌が好きでない。勢い初句で切れて伸びが出ないし、この歌のように三句でまた切れるものが 多い。「月見れば」「秋にはあらねど」などと、これが勝れた歌詠みの歌であるものか。そう思った。初めから終いまで理屈を言っている。説明している。 「月」の美しさ白さ、「秋」の哀れさ涼しさなどどこにも表現されていない。但しこの歌、古来の評価は概して高い。本歌になり秀歌撰にも再々採られている。 白楽天の詩句の翻案らしい。翻案が得意な歌人だったらしい、この千里は。つまり学者だったということだ。つづく菅原道真とはその点でも同じ。根が同じ土師 氏の出という意味でも一対だ。採られている歌が共に理屈っぽい点も似ていて、それとても詩文尊重の時代の好みを反映してはいる。もともと土師氏は凶礼の事 にも任じた家だが、外交にも重要な働きをしてきたと言われる。つまり巨大な石を用いて土木の技術を駆使しつつ築いた「古墳」の時代から、この家系は、渡来 のそうした技術と人とを宰領もしてきたらしい。自然、外国事情にも通じていた。学問も進んだろう。桓武天皇にも土師氏の血が流れていた。その縁から、彼が 即位するとまもなく土師氏一統は願い出て、姓を大江、菅原、秋篠などと改めている。学問の家として立ち、古来凶礼に従事という印象を払いのけたかったのだ と言われる。千里にも『群書要覧』など学問上の労作が多い。

 九世紀後半から十世紀への学者、歌人。「句題和歌」を宇多帝に詠進、後胤にして は官位は異様に低かった。



二四  菅家(くわんけ)
 このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに

 
 初・二句は要らん。それが私の批評だった。へんな断りだと感じた。理りに走られてシラけるのだ。「ぬさ=幣」は、「このたび」の読みに「旅」の意味も重 ねるなら、手土産の意味ほどに軽く取るのも面白い。「まにまに」が、随意にの意味に取りにくくて引っかかったのを覚えている。そこで表現の力が抜けている 気がしたものだ。取り札としてはきれいに纏まっているので人気はあり、私も熱心に取った札には相違ないが、もう一つ気の乗らない歌ではあった。九世紀も今 終ろうという年(八九八)に、奈良の手向山行幸に随い詠んでいる。「神のまにまに」などと恭しいことを言うていたご当人が、やがて天神さんに祭り上げら れ、敬い畏れられたとは。そう思うとこの歌は、撰者はじめ歌の道の後輩たちが菅原天神の宝前に捧げた「ぬさ」であったかの気さえ、せぬではない。その「ぬ さもとりあへず」だが、急のことで用意も出来なかったという解と、持参はしたもののこの山紅葉の美しさには負けてしまう、「紅葉のにしき」を神様どうぞと 遜る解と二通りある。「とりあへず」の尋常な語感は前の理解を是とするが、後の読みにも通俗なりの面白さはある。日本語は含蓄の余情のというしかないほ ど、一つの語に色々意味を重ねて用いている。だから、この歌で言うのは必ずしも適切な例ではないが、とにかく和歌や俳句を一通りの現代語訳で片づけてしま うなどは、邪道なのだ。読める限りは色々に読むべし。

 八四五 - 九○三 宇多天皇の右大臣にもなったが藤原氏に追い落とされ怨霊神として祭られた。天神様である。



二五 三条右大臣(さんじょうの・うだいじん)
 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな    

 これも最初に「名にし負はば」つまり、その名に背かないならばと、条件付けがある。普通はこれが私はイヤなのだが、この歌ではさほど気にならないのは、 初句の字余りが利いて、きれいに「オワバオウサカ」と二句ヘ音が通う、妙な言いかたをすれば快通感がものを言っているからだろう。「名」は、「逢ふ坂山」 と「さ寝かづら」の両方にかかる。逢うて寝る、恋が成就することが願われている。ひさしぶりに『百人一首一夕話』をひもといて見ると、「後撰集恋三に女の 許に遣しけるとあり。歌の心は…人に逢ふといふ事を名に負うて居る山ならば、その山に生えてあるさねかづらを手でたぐるやうに、その人がこの方へ来る事も あれかしと詠みたるなり。逢坂山は近江の名所にて、さねかづらは後味子といふ実のなる草なり。かづらとは葛かづら・蔦かづらなどの如く長く這うてあるもの 故、手にて繰ることを人の繰る事によせて詠めり。また寝る事を万葉にさ寝初めてなど詠めれば、このさねかづらも寝る事にかけていへり」と、ある。こういう 本を国民学校の昔に、友だちもないままいつも独りでむさぼり読んでいた。ことにこのあとへ作者の逸話のつづくのが面白かった。但し十世紀初め、醍醐天皇の 朝に三条に邸のある右大臣だった藤原定方には、この言葉巧みに粋な恋歌ほどの他に逸話が、あまり無い。「人に知られで」の「で」を「知られないで」と読ん で意味の通った時の嬉しさだけを、懐しく記憶している。

 八七三 - 九三二 右大臣藤原定方。管弦と和歌に長じた。内大臣高藤の子、醍醐天皇の叔父。宮廷に和歌を普及。



二六 貞信公(ていしんこう)
 小倉山峰のもみぢ葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ


「今ひとたびの」の取り札はもう一枚、和泉式部の秀歌があり、式部を相手ではとても比較にならないから、関心はもっばら「貞信公」に向けた。この歌、前の 三条右大臣のと順序を換えて、菅家の「手向山」と番えたなら良かったろうにと、今でも思う。するとあの「逢坂山のさねかづら」が、つぎの兼輔の「わきてな がるる泉河」の恋歌と好一対になる。「心あらば」を、心などあるわけがない紅葉に仮りに心というものがあるならば、と、取るのでは浅くはないか。そんな浅 い理屈は古代の人は突き抜いていただろう。人間にだけ「心」があるなどとは、さすがに昔の人は謙虚に、思ってはいなかった。この「心あらば」はもっと率直 に、お願いだ紅葉よ、というほどの呼びかけとして強く受取った方がいい。ここの「みゆき」は字にかけば「行幸」、つまり醍醐天皇のお出でを、散らずに 「待っていて欲しい」意味になる。これは、現に宇多上皇の「御幸」に作者が供奉していて、目のあたりに美しく燃えた北嵯峨小倉山の紅葉に酔いしれている歌 なのだ。この二通りの「みゆき」の使い分けは、覚えていると古典を読むのに何かと都合がいい。「大原御幸」とあれば少なくも天皇のお出ましではない。この 作者藤原忠平は、平安王朝を通じて一、二のやりてだった。兄の時平が道真の怨霊で没落後を引受けて、大藤原氏の氏の長者たる主流を確保し、摂政関白太政大 臣と位人臣を極めた。この歌には祖父良房の同想類歌がある。

 八八○ - 九四九 温厚の長者ぶりで菅公怨霊を巧みに利して兄時平の一統を追い落とす。「貞信公記」がある。



二七  中納言兼輔(ちゅうなごん・かねすけ)
 みかの原わきて流るるいづみ川 いつみきとてか恋しかるらむ   


 巧緻とは、この歌だろう。こういう歌で恋の何かを覚えた。恋における「見る」大事さも知った。「見る」にも色々あることを、『源氏物語』などを読み進む につれておぼえた。「世の中」は、まさしく男と女で出来ているという実感を養われた。おそるべきは『百人一首』と言わねばならない。私の父方の根は、この 泉河即ち現在の木津川が分けて流れる瓶の原にまぢかい、というより同じ加茂町、山城国相楽郡の当尾の里にある。この原には聖武天皇の恭仁京があった。今も 海住山寺など古跡が多い。岡田鴨といわれたふるい鴨社もあった。原を分け、また泉が湧く。「わきて流るる」はうまい掛け言葉だ。だが一首の要点は、「いつ み河」に「いつ見」き、つまりいつ逢ったものやらという自問とも反問ともつかぬ言葉の重ねが、よく利いている所にある。まだ実は「見」は見たけれど、隔て なくは「逢」えていないのだろうと、読みたい。それで「恋しかるらむ」というややトボけた痛嘆が歌の上で働く。聴こえ上乗。「いづみがは」のような濁音ま でを快い音楽に響かせている。「イ」段の旋律の素早い反復も心にくく、速度感もいい。鴨川堤に家があって堤中納言と呼ばれた実力ある歌人だった。もっとも この作者の代表歌としては、定家以前は「人の親の心は闇にあらねども子をおもふ道にまどひぬるかな」といった歌が挙げられていた。わるくはないが、「みか の原」の優雅さと面白さとが、上、と見る。

 八七七 - 九三三 和歌を好む風流人で紀貫之ら古今選者らが膝下にサロンを成した。紫式部の曾祖父に当たる。



二八 源宗干朝臣(みなもと・むねゆきのあそん)
 山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば 

   
「むねゆきのあそん」と作者の名は読まれている。一首の鍵になる言葉は当然「かれぬ」だろう。草の「枯れる」と人めが「離れる」の掛け合せ。都離れた冬の 山里へまでは、人の訪れのきっと間遠になるであろうことを、冬枯れの寂しみにうち重ねてなげいている。予感している。自然な感じでしんみりいい歌だと思い つつ、結句の座りには幾分の不満、不安があって、失せないでいる。「かれぬと思えば」の「ぬ」と「ば」が重苦しいだけでなく、妙に時制の整わないような揺 れた感じを伴うのだ。上句の聴こえが素直によく伸びて快いのに比べ、下句のそれはボキボキしている。掛け言葉を巧むのに頭が先へ働き、「うた」の魅力を損 じたかとの憾みがのこる。三十六歌仙の一人で、天慶二年(九三九)に亡くなっている。光孝天皇の孫に当るといわれる。大体この頃のこれはという歌人は、そ の代表歌を織り込まれて、歌物語として名高い『大和物語』に登場している例が多い。宇多院の花のいと面白う咲き盛っていた時に、右京督だった宗干朝臣が、 「来てみれば心もゆかず故郷は昔ながらの花は散れども」という妙に不機嫌な歌を詠んでいたことも、この物語に出ている。父一品式部卿是忠親王は光孝天皇の 第一皇子でありながら、皇位を遠退き出家して南院宮と呼ばれていた。代って即位したのが宇多天皇だった。藤原氏擡頭の時期で宮廷も力関係が揺れていた。 「かれぬ」の句もその辺から読み込んではどうか。

 生年未詳 - 九三九 光孝天皇の孫。歌合名誉の歌人。三十六歌仙の一人で余情豊かな歌境がながく評価された。



二九  凡河内躬恒(おおしこうちの・みつね)
 心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花


 子供とはヘンなもので、「みつね」やて。ケッタイな名やなぁと、同情を無くしてしまう。それかあらぬか「心あてに折らばや折らむ」などと、この歌、ワザ とらしくて、テンデいやだった。いくら霜が置こうと、白い菊が紛れて見当もつかんやて、アホか。ま、そういう感じだった。だが、さすが『古今集』を代表す る大歌人の作、聴こえのなだらかに大きいことは抜群。耳に聴き込むぶんには十分快いし、「おきまどはせる」という句は美しく、つづく「白菊の花」を引き立 てている。「心あてに」の字余りも、一首を大柄にしっかり立たせている。「うた」という音楽としては、やはり最高位の一つに数えたい。「かるた」の札とし ても、この下句、魅力にあふれて、是非にも手にしたい一枚だった。撰者定家はことに「白」の好きな人だった。が、私自身は、この歌から「白い」イメージを ひときわ受けるという実感は、淡い。音楽の魅力、「うた」としての内在するリズム感にこそ、心惹かれ、耳惹かれる。三十六人撰の一人であるばかりか、その 中でも人麿、貫之、伊勢、兼盛、中務とともに特に十首ずつ撰ばれている。言うまでもない『古今集』撰者の中心的な一人でもある。それでいてこの人物、生れ た年も死んだ年も親兄弟もしかと分からないままという。歌は確かに、相当数が各勅撰集に採られている。貫之との優劣も古来の好話題にされ、定家は貫之派だ が、師匠筋の俊頼も俊恵らも、より概して躬恒の評価が高い。

 生没年不詳 俊頼は貫之に比して「躬恒をば侮らせ給ふまじきぞ」と言い俊恵も 「又類なき者なり」と言っていた。



三〇  壬生忠岑(みぶの・ただみね)
 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし


 1+1=2というほど、あまり段取りのよ過ぎる歌だと、子供の頃から先入見をもってきた。「有明のつれなくみえし別れかな」位で十分なのだ。下句へはむ しろ有らずもがなの理屈を言い掛けている。上句は情緒纏綿、短夜のあかぬ逢瀬もはや別れの刻限とばかり、つれない有明け月。あれ以来「あかつき」くらい心 憂いものはない、と。刻限も謂い、同時に月もさしている「あかつき」なのだと読みたい。もっとも私の愛読した『百人一首一夕話』では、別れを嘆いているこ の男、女には逢えていないと皮肉に読んでいた。「宵の程よりかの人の許に行きたるに、かの人は何とも思はず知らぬ顔して我れに逢はぬ故本意なう別れて帰り しよりこの方」と解いていた。そうも読めはする。『新古今集』を代表する藤原定家も家隆も、後鳥羽院も、この歌を熱烈に評価していたけれど、私は、さほど の歌とは今も取らない。「ありあけ」「あかつき」の頭韻も少々かたい感じが耳に残るし、同じ感じが「カ」行の音の響きようにも認められる。何より、こうだ から…こう…という理屈っぽい歌いざまに妙味が乏しく、一本調子で陰影がない。せいぜい随身級の身分は低い官人だったが、和歌の道には堪能で、折に触れて の機知と配慮に富む歌が巧かった。この「ありあけ」の歌では醍醐天皇の御感にあずかり、昇殿を聴されたともいい、やがて『古今集』撰者にも任じられてい る。三十六歌仙の有力な一人で、九十八までも長命したという。

 九二○代までは存命。 随身級の卑官ながら執心出精の歌人と評価され、名のある 歌合にもよく名を列ねた。



三一 坂上是則(さかのうえの。これのり)
 朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪


 好きな「うた」だった。音楽としてまず惹かれた。「あさぁぼらけぇ」とほがらかに読みあげる心地よさ。そして二、三句の一字分余りが、いい。朗詠とは、 文字どおりこれかと思えて、緩急のうねりを大いに楽しみ詠じた。「見るまでに」が、「見えるほどに」と読みとれれば、歌意に難儀はさらさら無い。この作 者、「花」の吉野の、「月」と「雪」を歌っている。ほかにも代表作のように、「み吉野の山の白雪つもるらし故里寒くなりまさるなり」といった歌がよく挙げ られる。が、定家がここに採っている歌が一番いいように私は思う。文字どおりの春咲く桜花ではない、もっと理念的な、後世の世阿弥らのいうあの「花」が、 この一首からも十分感じとれる。初句、結句が体言だが、それが重苦しい感じでなく「朝ぼらけぇ……」「白雪い…⊥と余韻を含みえている。そして「カ」行の 音の耳立たないなりによく統制された韻律が、一首に徹して生きている。寒い冬のあけがたを、すがすがしく明るく把握しえている。実感が籠っている。躬恒の 「心あてに折らばや折らむ」のウソと同工異曲でありながら、美しいリアリティを感じさせる点でも勝れている。どっちも事実見てはいるのだが、「菊」より 「雪」の歌の方に、心の内の原像に触れてくる切実感があるのだろう。三十六歌仙の一人。坂上田村麿の子孫の一人らしいが、晩年に従五位に進み蹴鞠に堪能 だったこと、いい歌読みだったことしか知られない。

 生年未詳 - 九三○ 蝦夷計略の田村麿子孫、古今集時代の著名歌合歌人で、蹴鞠にもひときわの名技で知られた。



三二 春道列樹(はるみちの・つらき)
 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり      


 なんだツマンナイ。そういう感じで今もいる。趣向は分かるがそれが自然でない。なるほど「趣向」という考え方自体に、どこか「自然」な感じには本来背く もの、或る作った感じというか色濃い人工的なものの絡み易い気味がある。しかも日本人のものの創り方楽しみ方には、この「趣向」を求める気持ちが大事な衝 動とも動機とも成っている。但し、いい創造、いい享受には、そうした「趣向」の過度の逸脱を、すぐれて抑制しつつより「自然」な達成や成就を喜ぶ動機もま た強く深く働いてきた。「自然な趣向」「趣向の自然」という相反した欲求の喜ばしい融和や調和こそ、日本的な創造と鑑賞の原理原則だったと私は信じて、機 会ごとに言いもし書きもしつづけて来た。この歌など、志賀の山越えに実際に見ての光景を詠んでいながら、「趣向」に走ってしかも趣向足らずの平凡さに終っ たものと見る。しがらみとは、川の岸堤などを水の崩さぬように、杭を打ち竹柴などを絡みつけておくものだとか。この柵、よく見れば人ならぬ風が仕掛けたも のじゃないか、今しも降りやまぬ紅葉で出来ている、という次第。「やまがは」と濁って読む時は水音も激しく流れ落ちる渓流を意味しているから、「流れもあ へぬ」にはその勢いをせきとめる抵抗が感じられる。その時間的な緊張の一点で紅葉と山水とのあらゆる対比が生かされる必要がある。その割に、句切れの息継 ぎがややこまかに多くて、効果を相殺している。

 生年未詳 - 九二○ 文章生から出、壱岐守として任地で歿、古今に三首、後撰に二首を採られた以外は不詳の歌人。



三三 紀友則(きの・とものり)
 久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ


 定家以前に、『古今集』撰者のこの歌には全く人気がなかった。定家独りがこの歌を多くの秀歌撰に組み入れた。不人気の理由を考えて、かつて私はこう書い た、上三句の正々堂々としたまぶしいほどの明るさのせいではないかと。花と光とはむしろ互いに障るものとさえ考えられたのではないかと。そして定家は、大 胆に言えば、この友則の歌を全く下二句、いや極端にいうと「花の散るらむ」の七音だけに鑑賞の全重力を投入して、この一首に秘められたある本質的な紋様感 覚と時間感覚の交錯から「ものの映え」を見当てたのではなかろうか。花の枝と草萌えの大地の間をさまざまなかたちに埋めて、薄紅の花びらが涯てもなく散り 散ろう。それは紛れもなく美しい空間であり紋様であるが、散る花びらの微妙な動きに息づくのはまた美しい時間だ。花が散る、それはいかにも見馴れた平凡な 時空の営みと見えていながら、人はそれに常なき世の哀れを知ろうとし、また逆に悠久とも永遠ともいえるようなものの証しを見た。一つの花びらが花の枝をは なれる。その瞬間から、人はあたかもその花びら一枚が死へ落ちゆく自分の生命かとも想像する。だがあたかも死の時間、死の空間をひとしく無数の花びらが埋 め尽す時、その時間も空間も実は終りのない、変りのない、悠久無窮の生けるイメージであったことをはっと悟るのだ。有限のままの無限が生きて息づいていた ことを悟るのだ。私はそう、定家の美学を読んだ。

 生年未詳 - 九○五 選者の一人であった「古今集」の成立直前に歿した。悼む歌が集のうちに収められている。



三四  藤原興風(ふじわらの・おきかぜ)
 誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに


 あまり魅力を感じない歌の一つだった。どことなくアイマイで、締まりがない歌という印象を、拭い去れないでいる。『古今集』雑上に「題知らず」とある。 管弦の道にすぐれ琴を弾じて巧みだったというが、一首はそうも音楽的でない。「たれをかも」「たかさごの」と、「タ」音の繰返しに快いものはあるが、 「カ」音は旨く響いていない。冷たく堅い。「まつもむかしのとも」まではいいが、「ならなくに」と粘ったのは感じ悪い。そもそも「知る人」とは何か。知人 ないし友人の意味に取った理解が一般だが、「知る」には天の下「しろしめす」という言葉もあるように、領じる、わがものとする、の意味があり、転じて愛す べき者、伴侶や恋人の意味ももつはずだ。が、そういう解釈は見ない。問題にならないからか。それなら「高砂の松」とは何か。能『高砂』を援用するのは気が ひけるが、しかもここの「知る人」を年老いて失った伴侶、老妻の事とでも取れば、それでこそ歌の意味は明快になるのではないか。もう誰を「知る人」にすれ ばよいのか、相生を歌われている「高砂の松」は、羨ましくこそあれ、この私の友ではないのだから。ああ私は独りボッチになってしまったと。「知る人」を漠 然と同じ年齢の知人、友人の意味に解釈していたのでは、この歌、もう一つピンとこない。老いの孤独をただ嘆く歌ではなく、はっきり愛する者に死なれた孤独 の歌、挽歌として読めばいい。作者は古今撰集時代の人。

 生没年未詳 最古の歌学書『歌経標式』著者濱成の曾孫。官位は低いが著名な歌合 等で生彩を放った管弦の名手。



三五 紀貫之(きの・つらゆき)
  人はいさ心も知らずふるさとは  花ぞ昔の香ににほひける


 歌には背景がある。背景を無視して読むことも出来る。ふるさと人の、ひさしぶりに自分を迎えてくれる胸の内まではどうだか分からないけれど、この花ばか りは昔に変らず心地よく咲き匂っている、(人々の気持ちもそうだとよいが……)という歌にもなる。現代にもそのまま通用しそうな、帰郷述懐歌だ。だが、貫 之詠歌の現場へ戻って詮索すると、この「ふるさと」は彼がかつて初瀬詣でのつど常宿のように使っていた家の事らしい。なにかの事情からその足が遠のいてい た、のに、ひさしぶりにヒョッコリ顔を出した。当然ながら宿の者に、嬉しさも半分の恨み顔をされた。その当意即妙のこれは返歌であったらしい。自分はこの 宿りを、「ふるさと」のようにいつも懐しんでいたのだ、花はそれを知ってくれている、と応えた。ここの「人」は、ただ宿の者の意を超えて読むことが許され るだろう。「花」に対する「人」であれば、貫之との仲にひとすじの愛が交されてきた女性かと読むのが、面白い。「年々歳々花相似」にかけて、「歳々年々人 不同」と逆襲した面白みもある。聴こえはさほども良くないが、さすがに魅力に富んだ措辞の妙は感じとれ、いい下句に惹かれて熱心に手中に収めたものだ。貫 之といえば、桜より「優る花なき」とも詠み、いわば日本史上に桜の時代の幕をあげた人だが、しかもこの『百人一首』で「花」と言いつつ桜でない「梅の花」 を詠じたただ一首が、この歌。古今集の謂わば首席撰者。

 八六八頃 - 九四五 古今集仮名序や土佐日記の筆者、道風に先立つ能書でも名高く、人麿・定家に比肩の大歌人。



三六 清原深養父(きよはらの・ふかやぶ)
 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづくに月宿るらむ    


「ふかやぶ」という珍らかな名、しかもあの清少納言の祖父だか曾祖父だかであるらしい事にまず関心を払った。いったい歴史好きな少年少女ならば、一度は気 づいた事があると思う。人の名づけが、時代が下るにつれ、どこかではっきり変ってしまう。馬子、不比等、真備、乎佐美、田村麿といった男名前が、良房、基 経、道長、頼朝、義政という具合に変ってきた。その交点に相当する時期から、逆に天皇の名が、天智、持統、桓武、光孝などと厳めしげなのから、京都ないし 周辺の地名、宇多とか三条、白河、鳥羽とかに変って行った。いっそ藤原氏の長者たちの方が貞信公の謙徳公のと大仰になって来た。この相互の変化は、もっと 大事に吟味され洞察の対象にされていいと私は考える。それはともあれ、この深養父の名にはより古い時代の感じが濃い。上古の名家清原氏が引きずって来た久 しい時勢の重さがふと偲ばれる。この歌自体は、趣向の自然をかちえて、なかなかシャレている。夏の短夜を誇張ぎみに興じて、または嘆じて、こんなことでは 月は夜明けに追いつけず、どこかで迷子になっていようと。暑苦しくもなく月の涼しさ美しさを言外に感じとらせる。旋律に、速い快感が備わっている。それで 私はこの初句は、息をつがずにすぐ二句の「まだぁ」まで一と息に読み下して、あとへ続けるのがいいと何故か思ってきた。「明けぬる」「やどる」の微妙な響 き合いもわるくないと思っていた。今でも、思う。

 生没年未詳 九世紀末から十世紀初めの歌人。清少納言の曾祖父で、晩年、洛北に 補陀落寺を建てて隠棲したとも。



三七  文屋朝康(ふんやの・あさやす)
 白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける    


「むべ山風を嵐といふらむ」の歌の、本当の作者かといわれる人。康秀の子。達者な藝だと感心する。言葉が、難なく、みな生かされ働いている。「吹きしく」 とあるだけで吹きしきる風の強さと、風なびいてその力に組み敷かれたような草野の原とが、ともに目に見える。草野にと言わず、それを「白露に」と歌い出し た美しさに心そそられる。もうあがってはいるらしい雨の美しさまで、目に見えてくる。その白露の無数に散りこぼれるさまを、ただ「玉」というだけでなく、 緒に貫いてない玉のようにという。そう言われてみると、美しい首飾りのようなものがかえって目に映じてくる。言葉の斡旋が、さながら魔術的効果をもってい るわけだ。清純でしかも豪華なイメージ。この朝康の確かな歌としては、『古今集』にわずか三首のほかに多くはない。定家はそれでもこの歌と人を撰んだ。い い撰択だと思う。同工同想の歌もあるが、品高くしかも言いおおせている点で、すぐれている。いつ生れいつ死んだか分からない人物ではあるが、下級官人の身 で『是貞親王家歌合』や『寛平御時后宮歌合』などに歌を詠んでいる。その道では重んじられていたらしい。「言語に余りある歌なり」と、後世にも評価は高 かった。ことにこの歌の聴こえがいい。一音一音が、さながら「玉」のように光っている。およそ秀歌名歌とはこうであろうよなと、深く首肯かせる。「かる た」では、むろんこの取り札から目を放さなかった。

 生没年未詳 九、十世紀をまたいだ頃の歌人、官職は低いが当時著名の歌合に名を 列ねた、力ある歌詠みの一人。



三八  右近(うこん)
 忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな


 村上天皇の頃の屈指の女流歌人として知られる。右近衛少将季縄の娘なので、父の官名を名乗って醍醐天皇の皇后穏子のもとへ宮仕えに出た、いわゆる宮廷女 房の一人。「思はず」を否定の終止形と読むのか、「ちかひてし」へ繋がる連用形と取るのか。「かるた」遊びで上句と下句に分ける習慣からは、「思はず誓 ふ」感じになる。この場合、誓いを立てたのはこの歌の作者になる。そして「人」とは、自分に冷たくなっている恋人のこととなり、それでもその冷たい相手を 今も命長かれと祈っていることになる。相手は知らず、自分は神前でのかつての誓いに忠実ですよという言いかけにもなる。裏返せば、同じ誓いを男は裏切って いるのだから、神罰のほどもおそろしい、命があぶない。それを案じ心配しているというのだから、むろん皮肉に近い。「思はず」で一度句切って読むと、誓っ たのは男、心代りの恋の相手、歌のうえでは「人」ということになる。ま、空頼めの誓いをさまざま立てて女を口説くのは男の常のようだから、二句と三句との 間で意味的に句切れがあると解釈し鑑賞するのが普通らしい。だが、どっちでもいいという気もする。女は男を、この歌で、恨んでいるのだろうか。それが子供 心に気になった。真実恨んでいてこの「身をば思はず」の歌であるなら、女の思いには切なるものがある。恨みもせずにだとすると、いささか出来すぎで気色が わるい。どうも皮肉が先の軽さがある。遊びの恋か。

 生没年未詳 十世紀中頃醍醐天皇の后穏子に出仕の恋多き女房歌人。父右近衛少将 藤原季縄の官名により名乗る。



三九  参議等(さんぎ・ひとし)
 浅茅生の小野の篠原忍ぶれど あまりてなどか人の恋しき
                                        

 すぐれて面白い序詞の多い『百人一首』だが、これも聴こえに優れた佳い一例だ。「篠原、忍ぶ」の続きぐあいは格別佳い。「浅茅」と「篠」それに「小野」 と「原」とを交互にない混ぜながらイメージを濃いものに仕上げて行く技巧も練れていて、こまやかに乱れがちな心のさまが、景色さながらに察しられる。 「(思ひ)あまりてなどか」という、身をもだえたような直接の表現にも真実味が感じられて成功している。「などか」は、どうしてこうまで、と押えきれない 意味。この前の女房右近の歌よりはるかに身につまされる情深い感銘がある。恋の世間に、男が偽り、女は泣くもの、と言わんばかりの決めつけはどんなもの か。嵯峨天皇の曾孫に当るこの源氏の貴公子、名は「ひとし」と読むのだろう。この人が天暦元年(九四七)に就任している参議という地位は、普通三位以上の 者から選ばれて、いわば内閣に参与する重職である。さきの文屋朝康あたりから、ようやく『古今集』時代を過ぎて『後撰集』『拾遺集』時代に入っている。定 家はこの歌などことに好んでいたに相違ない、「なをざりのを野のあさぢにおく露も草葉にあまる秋の夕暮」のような、みごとな換骨奪胎も試みている。言うま でもない原歌の「浅茅生」は、「蓬生」などと一緒で、生えている意味を単簡に示したうまい表現。私は先の戟争中に丹波の「杉生」という村に縁故疎開してい たので、それもこの歌に親しむ妙なよすがになった。

 八八○ - 九五一 嵯峨源氏。累進して参議に至るも歌人としての経歴は明らかでなく、後撰集に四首を見るのみ。



四〇  平兼盛(たいらの・かねもり)
 忍ぶれど色に出でにけり我が恋は ものや思ふと人の問ふまで      

 三十六歌仙の有力な一人で、王族から降りた人。紫式部とも親しかった赤染衛門は、その娘かという一説もある。この歌は、次の壬生忠見の「恋すてふ」の歌 と番えられて『天徳歌合』の場で競いあい、勝ちの判を貰って兼盛は欣喜雀躍、舞いながら席を立ち去ったと伝えられている。気の毒に負けた忠見は悶え死にし てしまったといわれ、この頃の歌合にかけた歌詠みたちの熱中ぶりを象徴する、恰好の話柄だった。『一夕話』で読み、スサマジイ思いをしたのを覚えている が、同時に、双方ともそれほどの歌だろうかと、シラケたのも忘れない。勝負が決まらず、御簾の内へお伺いをたてると、聞き取れぬほどかすかに「しのぶれ ど」と御意があった、さてこそ勝ちにしたなどと面白く書いてあった。死ぬなんてイヤやなぁと思いつつ、こういうエピソードは記憶に残っている。歌は平明で ごく分かりいい。私がこの歌を通じて触れてみたい事は、ここではただ顔色のこととされている「色」といった、含蓄豊かな観念語の伝統的な発展や充実ぶり だ。喜撰法師の「世」や、小野小町の「花」の「色」、我が「身」の辺りから出はじめているのだが、大江千里の「もの」も三条右大臣の「名」も、おいおいに 日本と日本人を探るキィワードに成って行くだろう。兼盛の歌の「色」も「もの」も、心して語の内面を流れる文化史・精神史的な(少なくも定家に至る)真実 と魅力を問いつづけたい、課題性を帯びている。

 生年未詳 - 九九○ 光孝天皇の子孫で臣籍に降り平氏となる。三十六歌仙のうちでも有力な勅撰集歌人である。



四一 壬生忠見(みぶの・ただみ)                    
  恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか
                                                                                 「コ「コイスチョォー」という出だしは、聞く耳に障った。持統天皇の「衣ほすてふ」でも気になったが、まだしも「アマの香具山」への続き がなだらかでいい。この歌では意味のうえでは「わが名」に直かに続くはずなのに、詠みあげでは息が切れる。それだけ初句が孤立して耳に残る。やんごとない 人が御簾(みす)の内で、かすかにも兼盛の「忍ぶれど」に票を投じたという『天徳歌合』勝負の秘話にも、納得が行く。「和歌」が、先ずは、ないし結果的に は「音楽」であるという当然の基準を、この歌合判定は今日に対しても教訓しえている。それにもかかわらず一首の歌同士を比較してみると、判官びいきも幾分 加わるのは否めないが、「色に出でにけり我が恋は」よりも、「わが名はまだき(早くも)立ちにけり」の嘆息に私ならば軍配をあげたい。兼盛の「我が恋は」 にはどことなくナマな、理屈っぽい響きがある、忠見が「立ちにけり」の「けり」にひそむ真率な嘆きに比べると。ただ、「恋すてふ」でとぎれてまた「立ちに けり」で句切れるのが、この歌の、ほぼ決定的な難だろう。さらに下句の聴こえがよくない。「こそ」とある係り結びからみても「しか」と已然形に清んで読む のが当然なのだが、つい「思ひ初めしが」と濁し、理由づけて読みたくなるアイマイさでも、損をしている。この勝負、兼盛の歌がいかにも分かり易かった、聴 こえもまずわるくなかった、という所だろう。だが忠見も、負け死んで、名は残した。

 生没年未詳 忠岑の子。官職ともに低かったが歌人の名は高く多くの歌合に加わっ て活躍、末期は不運であった。



四二 清原元輔(きよはらの・もとすけ)
 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは       

「かるた」では、どうしても「チギリィ、キナ」と読んでしまう。と言うよりそう読まれるのを耳にしつつ札を取る。「契る」が、せめては約束する位の意味だ とはやがて分かっても、「キナ」はただキナ臭く語感の外にある。「契りき」という過去形に感動助詞「な」が添うたものと読めれば、どんなにすらっとこの歌 の中へ入って行けたろうと、今さら悔しく思わぬでもない。「かたみに」がお互いにの意味らしいとは、これは語感の支配領域内の物言いであることは、体験的 に分かる。「契り」「かたみに袖をしぼる」という表現からも見当がついてくる。一人では契れまい。もう少し知恵がついて来ると、男と女が契るといえば、た だ口約束の域は越えていようと察しが利いてくる。するとその契りの折、互いに袖を絞って流した涙とは、口惜し悲しの涙でなく、至極甘美に恋の成就を喜び あった感激の涙だったのだと、自然に気がつく。だが、語感に頼って察しが利くのは、この歌ではここまで。「末の松山」でひっかかる。こういうのが、歌枕。 知識が無いと、歌の狙いが大きく深く取れないままに終る。『一夕話』によれば、奥州にこの名を負うた山があって、海辺ながら山高くいかな荒波もこれをしの ぐことがない、とか。これにかけて相愛の心の末かけて変らぬ誓いを「波越さじ」と言い習わしてきた。それさえ分かればこの歌、誓いを破った男へ恨みを告げ たものと読める。清少納言の父が、女に代っての即妙の作という。

 九○八 - 九九○ 深養父の孫、清少納言の父。九五一年和歌所寄人となり後撰集の選進に寄与。三十六歌仙の一。



四三 権中納言敦忠(ごんのちゅうなごん・あつただ)
 逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり  


 これ位は分かると、大概の読み手が嬉しそうな顔をする。それでいて尋ねてみると、「あひ見ての」がほとんどアイマイに、ご当人は明快なつもりで、「出 逢ってからは」とか「顔を見てからは」と説明してくれる。それでは下句が誇張に過ぎよう。逢いたい語りあいたい。そう恋い焦がれつつも見ぬ間はともかく、 願い叶ってひとたび顔を見合ってからは、ないしは言葉を交してからは、切ない思いはいや増さり、昔の苦しさどころでない。ま、そんな程度で読めば、それで 大きく間違ってはいない。しかしこの時代の「逢ひ」そして「見る」とは、慣用的にももう少し深い仲をさしている。愛は肉体的にも成就している。そしてその 「後」を歌っている。いつもいつも容易くは逢えない憂き世のしがらみに、二人はかたく隔てられていると読んでもいい。事実は、逢いえての翌る後朝の感慨で もあったらしいが、前の元輔の「契りきな」にせよ、また「世」の読みにせよ、日ごろ使いなれている言葉ほど、慎重に深読みの用意も必要なのである。あたら 面白い佳い歌を尋常なものに見過ごしてしまい兼ねない。琵琶の名手だったというこの左大臣時平の三男坊は、『大鏡』に「よにめでたき歌の上手」と評判され ている。ところで『一夕話』によれば、この作者こそ、谷崎潤一郎の名作『少将滋幹の母』のその滋幹の実弟に相当する人物であったらしい。なににせよ初句五 文字の読みしだいで、秀歌にも凡歌にもなる。

 九○六 - 九四三 逢うて逢はざる恋というより逢うて悩み深まる恋歌。三十六歌仙の一人。琵琶の名手。



四四  中納言朝忠(ちゅうなごん・あさただ)
 逢ふ事のたえてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし     

 下句の聴こえは抜群に佳い。人気のある取り札の一枚だろう。が、上句がややモタモタと冴えた出来ではない。前の敦忠のと、同巧同想の気味もある。「絶え て桜のなかりせば春のこころはのどけからまし」と同類の気味もある。一度は逢えた恋がすでに仲絶えた恨みの歌とも、てんで一度も逢えたことないふてくされ 歌とも。私は後者と取りたい。「心余りて言葉足らずの体なるべし」と、業平歌の名にかけ批評されている。言い得ているようで、時として、逆に「言葉余りて 心足らず」の感じも残る。作者は、「名にしおはば逢坂山」の三条右大臣定方の、子。それより何より私は、朝忠というと、「その生れつき世にすぐれて背も高 く肥え太り給ひければ立居につきても苦しく」と書かれていた、それも当然というしかない大食いの逸話を思い出す。医師は食物をえらんで痩せるしかないと処 方した、冬は湯づけ、夏は水づけだけで済ませるようにと。だが験はなく、太る一方。そんなはずはないのにと、医師は水飯いかにと見分に及んだ所、「いかに も見事なる鮎に干瓜やうのものを山の如く器に盛らせ、さて金椀とて大きなる椀に飯高々と盛り上げ水少し入れさせて、箸取り上げ二かき三かき廻し給ふと見れ ば、ことごとく食ひ尽しまた前の如く取りよせて、取り代へ引き代へ食し給ふにしばしの間に皆々残り少なくなりぬ」という「めざまし」さだった。『一夕話』 はこういう逸話で、ひとしお歌の世界へ少年の興味を誘った。

 九一○ - 九六六 三十六歌仙の名だたる一人、笙の名手とはいえ、大の肥満漢モテなくて居直った歌に聞こえる。



四五 謙徳公(けんとくこう)
 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな


 摂政太政大臣藤原伊尹。かの貞信公の孫に当る。十世紀半ばの屈指の歌詠み巧者で、『後撰集』成立にも大きく寄与した。魅力的な人物だったらしく、ことに 面白いのは彼の家集『一条摂政御集』の書かれようで、「大倉史生倉橋豊蔭」なるごく身分の低い架空の人物に託して、「くちをしき下衆なれど、若かりける 時、女のもとにいひやりけることどもを書き集めたるなり」と、物語風に編まれてある。この歌はその巻頭の一首。『拾遺集』に採られた時には、「深い仲だっ た女が、のちに、つれなく逢ってくれなくなったので」といった詞書がついて「一条摂政」とある。創作なのか、実情をそのまま詠んだのを架空人物に託して韜 晦したのか。なににせよ別名を『豊蔭』ともいわれる『一条摂政御集』は、物語時代の動向を告げるなかなかの読みものになっている。但しこの一首は、けっし て分かりいい歌でない。「あはれ」は直接話法に近く、『一夕話』では「ああと感じて愛する心なり」と説明していた。自分が誰かをそう思いたいのに思い浮か ばないのか、それとも誰かが自分をそう思ってくれていいのに、それが誰とも思い浮かばないのか。女に捨てられた男の愚痴な歌に作られているのだから、実は どっちにも取った方が歌柄は大きい気がする。下句の「いたづらに」を、空しく死んでしまう意味に取れれば、愚痴ははっきり耳に入って来よう。この下句の聴 こえは佳い。が、さして秀歌とは思われない。

 九二四 - 九七二 大実力者師輔の長男。和歌所別当(長官)で大中臣能宣ら梨壺の五人を率い後撰集撰進を指揮。



四六  曾禰好忠(そねの・よしただ)
 由良のとを渡る舟人かぢをたえ 行方も知らぬ恋の道かな     


 これは好きな五首の内に入れていた。作の事情もなにもなく、恋のはかなさと、どうはかなくとも所詮は思い放つことの不可能な、人の業のようなものをほと んど一読したその瞬間から感じていた。此の世を「海」と譬え観る思い習いが私にはあった。だからこの「舟」といい「人」という言葉は象徴の域にあった。作 者は「曾丹」とあだなされていたように、官は丹後掾だったのだし、この「由良の門」は、由良川が日本海にそそいでいるあの広々と大きな、外へ開けた景観で あろう。が、その種の詮索はかえって歌を縮めてしまう。有効な舵取りのすべもなく、とかく「ゆら」ぎがちに頼りない此の世、男女の仲、というほどの語感に 比重をかけたい。「かるた」遊びでは読み手の大人は、ごく自然に「ふなんど」と読み上げていた。許されてもいいという気が、今もしている。聴こえも、百首 中の最高位に位置している。これほどの名歌の詠み手にしては、この作者、性格的に度外れたところがあり、評判わるく、逸話の類にもわらわれてばかりいる気 味があり、案外だったのを未だに可笑しく記憶している。歌の道にたいそう自信があったのに、身分の低さと性格とが災いして受入れられなかったと見える。招 かれざる客の体で貴人の席へと押しかけ、追い出されたりしているが、『伊勢物語』に出てくる「かたゐの翁」風の異色も感じられる。家集『曾丹集』は、そん な評判をはね返すように、爽かな秀歌で満たされている。

 生没年未詳 十世紀後半の異色優秀かつ放逸不遇の歌人。精神で自在自由の歌風に えも言い難き魅力がある。



四七  恵慶法師(えぎょうほうし)
 八重葎しげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり      

                                        
「さびしきに人こそ見えね」のところへ素直に感受性が働くかどうかで、一首の行方が変る。うちの「かるた」が安物だったのだろう、私の覚え始めに、三句は 「さびしさに」だった。それを「さびしきに」と正しく覚え直した時からかすかな違和感も持ち込まれてしまった。「寂しいところへ」と読める一方で、「こん なに寂しいので」とも読めた。すると「人こそ見えね」つまり人間はやって来ないがという歌いざまとの相乗りで、妙に理屈っぽく思えてしまう。人と自然との 対比を歌いながら「しっとりと深い詠歎を沈ませ」た積りではあろうが、「秋」に「飽き」を掛けて歌うのは常套だけに、実は人の心の飽きっぽさへ重きを置い ての歌とも十分読めるのだ。「あれたる宿に秋来といふ心」を題にした歌だという。それならば、かりに「法師」が「女」の心で、訪れ絶えた男の無情を怨じて みせたとしてもいい。その方がこの時代の歌のたのしみ様として、より適切かも知れない。「さびしき」「あき」「きにけり」の「キ」音の重ねは、聴こえの佳 さを大いに損っている。「流麗な調べ」などという人もいたが、この歌、そうは流れていない。とぎれとぎれで、音楽としての美は乏しい。現代の鑑賞家たち、 もっと耳を養うべきである。作者は十世紀末の人。末流の源氏であったらしく、『拾遺集』以下に数多く歌が採られている。この歌、私の読みが通るなら、時期 的にも『源氏物語』「蓬生」巻への暗示が可能になる。

 生没年未詳 十世紀後半のかなり有名な勅撰集歌人で、僧として学殖に富んでいた ようだが経歴は分からない。



四八  源重之(みなもとの・しげゆき)
 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ 砕けてものを思ふころかな


 現代の語感では「おのれのみ」が、ひとりでに、おのずと、とは読みにくい。「のみ」が限定の助詞につい読めてしまって、それでは「波の……砕け」との結 びつきに必然性が薄らぐ。自分ひとりは砕ける思いで悲しんでいるのに、女の方はしれっとしている意味にも取れるけれど、それでは序詞の巧みが十分生きな い。あまり風がつよいので岩うつ荒波も我から、と、「砕けて」に続け読みすべきだろう。ここの「くだけて」は、巷間にいうクダケタお人のそれではない。文 字どおり千々に砕けてという表現である。むろん女の冷淡を恨んでいる意味に相違ない。よほど評判のよかった歌とみえ、名のある秀歌撰の大概に採られてい る。「山伏の腰につけたる法螺貝の ちやうと落ちていと割れ 砕けてものを思ふころかな」という二句神歌が、十二世紀に編まれた『梁塵秘抄』に収めてあ る。源重之は十一世紀に入ってその一年めに亡くなっている。『枕草子』を成さしめた定子皇后が前年、西暦一〇〇〇年にわずか二十五歳で亡くなっていた。 『源氏物語』が成るのは、まだこれよりわずか後のことになる。分かりのいい読みの一つに、自分ほど深く物思いする者は世にためしない意味の「おのれのみ」 だとする理解もあるのだが、やはり「波」の「おのれ」への繋がり具合はきっぱりしない。興趣に富んだ歌のようで、どこか心浅い、尋常な技巧歌に過ぎぬでは ないかとの印象も、今もって拭い去れないでいる。

 生年未詳 - 一○○○ 清和系の源氏。武官や受領を歴任、足跡の異様に広い歌人で、陸奥国で最後を迎えている。



四九  大中臣能宣朝臣(おおなかとみの・よしのぶあそん)
 御垣守衛士の焚く火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ   


「夜は燃え昼は消え」と、「ル」「ワ」そして「エ」の音の対になった効果は、実は七五調でなく五七調に読んでこそ生きる。ところが「かるた」遊びではいや でも三句と四句との間で句切って読む。すると「ヨルハモエ」ではへんに寸が詰まり、「ヨハモエテ」と俗読みがしたくなる。私たちの遊びでは、大人も私もず うっと「ヨハモエテ」と読み上げながら、佳え歌やなぁと言い合って来た。たしかにすばらしい歌だ。大好きだった。『更級日記』の竹芝寺縁起なども思い合せ ながら読んでいた。「御垣守り」と書けば「衛る」意味が重なり、宮廷警護の下士が、清掃も兼ねて御所近くでたく火への連想も働きやすくなる。高貴の女人へ の叶わぬ恋の苦しさを想像してみれば、興趣はいや増す。が、この歌の作者が「衛士」なのではない。「燃え」る思いを引き出しただけであろう。それでもな お、恋の火をたく男の思いに、女への卑下ないし謙譲を読み取ることは可能だし、むしろ大切な勘所だろう。「申したやなう申したやなう 身が身であらうには 申したやなう」という、後の室町小歌に通う意味合いがあろう、必ずや。また、それでこそ哀れはひとしお深い。佳い音楽だ。一首の魅力は、「火」の美しさが 目に見える点に、すべて掛かっている。三十六歌仙の一人、また梨壷五人の一人ともうたわれ『後撰集』の撰に当った。もっともこの抜群の歌は、歌風からして 能宣のものではあるまいという、気の毒な説もあるようだ。

 九二一 - 九九一 神祇の家に生まれ、万葉集に訓点、名誉の歌人として知られる。「けふ九重」の伊勢大輔は孫女。



五〇  藤原義孝(ふじわらの・よしたか)
 君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな      


 一条摂政謙徳公の子だが、兄とともにあまりに若く、しかも一日の朝と夕とにともに病に命を落した。三跡の一人行成卿の父に当る。この歌、どこにも「逢 ふ」と言わずに逢っての無上の歓喜を歌い上げている。三句と四句との間へ「願い叶ってあの人に逢うことの出来た今は」と、補って読めばよい。惜しくないと 思っていた命が、逆に一日でも長くあれと思われるのだ。初々しい喜びの歌で、きもちがいい。恋人の許から帰ってすぐ詠んだ、いわゆる後朝の歌らしい。こう いう歌を、別れてすぐ贈って寄越された女の嬉しさというものも重ねて想い合され、ひとしお時代の魅力に触れる心地がする。わずか二十一歳で念願の出家も成 らずに死んだ幸薄い青年の、純真な恋の体験をよろこびたい。ましてこの作者、若い頃からことに法華経信仰の心あつく、色好みな振舞いのめったに無かった人 だというから、この逢瀬はひとしおの感激だったろう。「昔はものを思はざりけり」という、かの敦忠の歌と同じ気持ちが歌われていて、さてこそ「逢ひ」「見 る」ことの意味はよくよく深切に読み取らねばならない。「長くもがな」の「もがな」は、そうあって欲しいという慣用の物言い。風「を」痛「み」というの が、風「が」激しい「ので」というやはり慣用の物言いであるのなどと一緒に、覚えてしまうといい。この歌、こまやかな感動を、いと巧みに表現しえている。 「思ひぬるかな」と過去の心にする本もあるが、私はとらない。

 九五四 - 九七四 病は疱瘡。出家の志あつくも子行成のために果たさず、死後も法華経を読みたく火葬を拒んだ。



五一  藤原実方朝臣(ふじわらの・さねかたあそん)
 かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを 

 
 こう、ひねくられては頭が痛い。しかし「さしも知らじなもゆる思ひを」の下句には、歌をどうこう言う前にグッと来る思いがある。いや、あった。「さし も」は、必ずしも分かりいい三音ではなかったが気合いで感じさせる。「そんなにも、そんなにも、そんなにもとは、よも気づいていないのでしょう、あなた は。わたしのこの燃える恋の思いの激しさを」とは、一度は告げてみたいまるでタンカのように、幼い日の私はスカッとした気分で聞いた。関連して「かくとだ に」もこれほどまでに、の意味とおよそ分かる。この「およそ」は、強いて合理的に煮つめないがいい。ともあれ机でもドンドン叩いているみたいだ、が、事実 はそう勇ましい歌ではない。むしろ身もだえして、気持ちは内向的にプスブスくすぶっている。煙が出ている。それで「もぐさ」に繋がる。近江だか奥州だかの 「伊吹」山に生えたもぐさでもよし、しかし恋心の表現に掛けた燃えるもぐさのくすぶる煙を、「息吹」の意味にも掛けていよう。となれば「言」い出す、打明 ける意味へも繋がりができる。それを「え・やは」の反語で打消しているのだ。打明けたいが言い出せない。それで…と、「さしも草」「さしも」と掛けて行く 序詞の効果は、縁語の重ねにも支えられ、面憎いほど。上句の一見モタモタが、かえって愬及効果を挙げている。一風魅力あるこれは、音楽だ。この作者つまら ぬ事から宮廷の寵を失し、陸奥守に左遷されて任地で死んだ。

 生年未詳 - 九九八 貞信公曾孫。円融・花山帝に仕えて華やいだが、宮中で行成に暴力、左遷されて陸奥で歿。



五二  藤原道信朝臣(ふじわらの・みちのぶあそん)
 明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな  

 アホらしい歌だと呆れてしまって、まるで顧みなかった。朝が来ればきっと晩になり、また朝が来る。分かり切った話なのに、やっぱり、恋しいあなたと「別 れよ」顔に朝明けの時刻はやって来る、それが恨めしくて恨めしくて。どうやら雪の降った朝らしい、女に別れて帰ってそして贈った歌二首の、あとの一つで あったらしい。「ただこと」歌にも読める。思ったまま、そのまま三十一文字に置き換えただけと読める。それにしてはサラリと巧い。さしてイヤミな感じはな い。よく読めば、尋常過ぎた味けなさといったものもない。こういうのも秀歌の一つのタイプなのだと大人になってから納得した。子供には表面の、文字面の上 だけの平易さがかえって理解から遠退けた。そう思う。そう深刻な歌ではない。愛が薄いとはむろん思わないが、「なほうらめしき」にさほどさし迫った感情も 覚えない。良くも悪しくも優雅な後朝の歌であり、受取った女もさぞ優しい微笑で読んだろう。九百年代の末四半世紀を短命に生きた貴公子。謙徳公の孫に当 る。『栄華物語』にも『大鏡』にもその若い死と才とを惜しむ記事が見え、「いみじき和歌の上手」として世に記憶されていた。父太政大臣為光が亡くなって一 年、除服の際によんだという、「限りあれば今日ぬぎ捨てつ藤衣果てなきものは涙なりけり」の一首を『一夕話』は挙げて、「時の人この歌を聞きて、その孝心 を感じけり」と特に賞賛している。歌よりも、人柄が偲ばれる。

 九七二 - 九九四 太政大臣為光の子、「いみじき和歌の上手」と世に称讃され嘱望されながら二十三歳で逝去。



五三 右大将道綱母(うだいしょう・みちつなのはは)
 歎きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る
  

 ここまで女歌はわずか四首だった。もっとも坊主も四人、猿丸大夫と蝉丸をかりに含めても六人だけだった。この辺から女が急に増える。藤原氏全盛の時代は また咲き匂う女房文学満開の時代でもあった。そ耀く先駆けがこの歌の作者、即ち『かげろふ日記』の著者であった。男としても権力者としても魅力に富んだ藤 原兼家の妻の一人となり、訪れを待ちわびつつ女の意地をはげしく自覚し表現しつづけた。すぐれて個性的な女人だった。歌の意味は取り易い。「ぬる」は寝 る、だ。あなたのお出でを待ちわび嘆きながらも、空頼めにひとり床に身を横たえ夜を明かしてしまう。その長いこと長いこと悲しいこと、お分かりか。それな のに……と、一首の歌が成る背景が『日記』には、激しい筆で書かれている。この作者は夫が気を兼ねる第一位の妻でない。それはいい、が、わが待つ家の前を 通ってぬけぬけと怪しげな町の小路の女のもとへ身分ある夫が通うのは、いかにも恥じしめられたようで我慢ならない。道綱が生れて間もない頃のことだ。作者 は怒り狂い、二三日の後に訪れてしきりに門を叩く夫を、拒み通した。そして殊更に明くる朝、「うつろひたる菊」に添えて夫に贈ったのがこの歌だという。ま さにこれは「詰問」である。「抗議」である。同時代のいかに多くの女人が、この絞るような作者の「なげき」の声に共感しただろうと想う。本朝三美人の一人 といわれ、歌佳く散文にも優れた至極の才女だった。

 九三七 - 九九五 後の摂政藤原兼家と結婚、道綱を産む。本朝三美人の一人、「蜻蛉日記」の著で不朽の名を残す。



五四  儀同三司母(ぎどうさんしの・はは)
 忘れじの行末まではかたければ けふを限りの命ともがな    


 難儀な作者の名乗りである。三司は三大臣、分かりよくいえば太政大臣、左右の大臣と理解して、格においてそれら大臣に準じた待遇の者の母親だと思えばい い。関白道隆の子の伊周の母貴子、三条氏。他に隆家や一条天皇の皇后定子も産んでいた。清少納言が『枕草子』のなかでほれぼれと描いていた伊周だったが叔 父道長との権力闘争に敗れて九州へ左遷され、ようやく聴されて帰京朝参の折に「大臣の下、大納言の上に」席が与えられた。儀は三司に同じとは、しかし、自 称だったらしい。この歌は、だが失意に死んだ作者晩年のものではない。夫道隆がもっとも華やかだった昔に、初めて「忘れじ」の愛の誓いを口にも思いにも露 わにし通ってきた当時の、歓喜に溢れた、しかし初々しい恐れや恨みも秘めた、ほとんどこのまま物を言いかけたような趣の、さらりと耳に残る住い歌だ。「難 ければ」と文字を置けば上句の意味は通る。いかな誓いの言葉も将来の保証はおぼつかないのだから、いっそ……と下句へ繋がる。「けふ」とは、行く末かけて 夫が愛を誓ってくれた「今日」だ。「も・がな」は、強い願望を籠めた慣用の助辞だから、理屈ぬきに覚えてしまうしかない。このただ今の嬉しさのままに、 いっそ死んでしまった方が幸せよと歌う。この時代の「うた」の一等純な表われ方をしている。心の内のひたすらな音楽が、何のケレンもなく清水の溢れるよう に流れていて、千年後の男の胸をも烈しく打つ。

 生年不詳 - 九九六 円融帝の高内侍から中関白藤原道隆の妻となり一条皇后定子や儀同三司伊周らの母となる。



五五 大納言公任(だいなごん・きんとう)
 瀧の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ    


 大覚寺に涸れ滝のあったのを詠んだという。浄金剛院の瀧とも聞いたことがある。『百人一首』ではおおかた「瀧の音」だが、『拾遺集』では「瀧の糸」とあ る。瀧の落ちざまは必ずしも糸の語感にそぐわないが、絶えそめてより細く細くついに涸れたという「糸」なら、それも佳い。瀧は、目より耳に親しいという感 覚も捨てがたい。「きこえけれ」との縁も「音」が馴染む。だが佳い歌かどうかとなれば、私は、好まない。縁語の重ねといい音の重ねといい、技巧がこうるさ い。名のある瀧が事実在ったやら無かったやらハキとしないのに、「名こそ流れて」も「なほきこえけれ」も、ピンとは来ない。粘っこい「なりぬれど」など、 あの歌学の大家のいうことかと首を傾げたい。音楽的な聴こえを意図していながら、逆効果に終っている。歌よりは人に興味が湧く。人への興味が結果としてこ の歌への興味をよみがえらせる気味すら、ある。ただの「瀧」でなく「絶え」でなく「名」でなく「きこえ」でない背景のようなものが、目に見えてくるから だ。この作者、藤原摂政家本来の嫡流に生れ、青年の頃は希望の星だった。それが政界の渦に巻かれ、いつか脇のまた脇の御堂関白道長に仕える地位へ押し流さ れていた。政治ならぬ彼は文学の才能で道長栄華の時代を華やかに演出したとすら言える。作文、和歌、管弦の三船の才をうたわれ、趣向巧みな『和漢朗詠集』 など、数多い著述を残した。家の名は絶え、秀才の名を残した。

 九六六 - 一○四一 関白太政大臣頼忠の子。歌人・歌学者また風流の才は抜群、時代の藝術ディレクターであった。



五六 和泉式部(いずみしきぶ)
 あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな


 近代短歌以前にいわゆる和歌時代があったとして、そこからもし男女一人ずつの歌人を選べといわれれば、男歌人には迷っても、女の方はためらいなく和泉式 部を推す人が多かろう。その式部の一首としては温和な歌を選んだものだが、温和なりにさすがに間然する所ない気持ちのいい歌だと思って来た。この人に歌わ れてみるとこの大きな上句の歌いぶりも、さこそと思えてしみじみしてしまうのだから、もう仕方がない。もう今にもわたしはこの世にいなくなりましょう、今 生の思い出にせめてもう一度あなたに逢ってから死にたい…と。この時、作者は「心地れいならず」つまり病気に悩んでいた。『後拾遺集』ではそんな時に 「人」におくった歌だとある。どんな人でもいい、「うかれめ」とまで時の人にはやされたほど恋多い女だった和泉だが、この歌を通して感じとれるのは、清純 とも言いたいくらい素直に溢れ出た若い愛だ。澄んだ愛だ。妙な掛引も、遊戯的な馴れあいも感じられない。「あらざらむ」から「逢ふこともがな」への展開も なだらかだし、一首の座りも佳い。式部には、自在に他界や異界へ呼びかけるとでもいった歌がまま見えるが、「あらざらむ」の一句にも此の世と彼の世とを、 言葉の意味からでなく「うた」の気合いで大きく架けわたす不思議な「働き」がある。平明な歌一首が一転美しい情念の象徴歌に読めてくる、それが和泉の人な らびに歌の底知れない深さだ。謎だと言ってもいい。

 生没年未詳 大江氏。冷泉皇子の為尊・敦道両親王との至醇の恋が「和泉式部日 記」に。和歌女流歴世第一人者か。



五七  紫式部(むらさきしきぶ)
 めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな


 末句は「月影」がどうも正しいらしい。『紫式部集』にも『新古今集』にも「月影」とある。後の世のたぶん誤写が定着したかと言われている。なかなかの誤 写で、わるくない。詠歎はこの方が生きる。何となく物語風の背景も感じられるが、これは式部が幼な友だちとひさしぶりに出逢ったのも束のま、秋七月(また は十月)の「月に競ひて」あわただしく帰ってしまわれた悔しさと寂しさのままに詠んだ作、と、私家集の記事で分かる。見たと思った、が、しかとも確かめら れぬ間に…「雲隠れ」た「月」のような、あなた。再会は夜のことだったが、この「月」は男ではない。少女の昔からかたみに懐しい女友だちだった。こういう 友情の歌が実に少ないのが、日本の詩歌や物語、説話などの一特徴かも知れぬと思っている。ともあれ『源氏物語』には、巻の名だけあって本文をおそらくわざ と欠いた「雪隠」の巻が知られている。光源氏のその間の死去が暗示されている。それがかりに後生の仕業であったにせよ、それならばそれでこの歌の影響だろ う。この歌も、あるいは誰のどんな歌でも、かりに作歌事情が知れぬままに感興を自由に大きくはばたかせて読んでも、罪ある事とは思わない。極まって佳いも の価値あるものをこの「月」一字にすべてかけ、かりに生者必滅や会者定離の感慨を一首に託しても悪かろう道理はない。一首は完結した詩的表現であり、詞書 にのみ頼んだ読みの制限は、安易過ぎる。

 九七○頃 - 一○一六頃。藤原為時女。大貳三位母。一條中宮彰子に仕え、世界文学史に物語作家の不朽の名を残す。



五八 大弐三位(だいにのさんみ)
 有馬山いなの篠原風吹けば いでそよ人を忘れやはする     


 紫式部の娘賢子。神戸市六甲山系の奥に有馬山、猪名川がある。が、歌の意味にさほど直かには係わっていないらしい。が、「いな」に、男の居直りをすかさ ず否定した語気の強さもあり、これが「いで」にも確かに響き合い、出色の序詞の美しさ、丈の高さになっている。この「いで」には、何を言うの…位な、しや つとした女の意気地が込められている。男が遠退きがちになっていた。責めると、逆に女の気持ちを疑うような返事をする。かっと来ただろう。篠の葉に風がそ よぐ、その「そよ」には、然様には、そう軽薄にはと否認して相手を突っ返す気合いがある。誓いを忘れたのはそっちの話、わたしが何で忘れましょう。男にせ よ女にせよ、もし有馬山猪名の土地に関係でもあれば歌はもっと働くのだが、面白いが、そこまで見なくても「うた」はよく機能している。「アリ/マぁ/ヤマ /ぁ、/イナ/ノぉ/ササ/ワラ/ぁ、/カゼ/フケ/バぁ」と、自然に二音ずつで読む。音の伸びる所も自然に息をつぎ、一昔分の休みをとる。この歌に限ら ない、日本語のこれは基本の構造であり、「アリ/い、マヤ/マぁ」と読もうが同じだ。ある意味でこれが日本語の音楽性を単調にもする。だからこそ工夫して それを変化に富んだ聴こえに組立てるのが、言葉の藝であり術であろう。国語の魅力を、命を、国語の条件を破壊することなく、より新鮮に、より深切に引き出 して、我々を楽しませ励ましてくれるのが、詩人だよ。

 九九五頃 - 没年未詳 母紫式部の薫陶を得て後冷泉天皇乳母となり夫高階成章の官を名乗った世の信頼厚き才媛。



五九 赤染衛門(あかぞめえもん)
 やすらはで寝なましものを小夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな


 いい人柄だったらしい。学問の家大江の匡衡に嫁いで遜色ない素養を示し、今も『栄華物語』の作者として最右翼に擬せられている。『拾遺集』以下の勅撰集 に実に九十三首もとられている。和泉式部とならび立つ歌人とされたが、むしろ人柄や評判において対照的に、堅実で温厚な、文字どおり賢夫人だったと見られ る。幸田露伴の『連環記』にその人物がよく描かれている。「やすらはで」に、どうしても今日の語感で「安」の字を宛ててしまう。まんざら間違いではない。 現に「やすらへ花や」と散る花を惜しんではやす祭が京都の今宮社に残っているが、ぐずぐずして散り急ぐなよ花よという意味か。「やすらはで」は「で」と否 定の助詞がついているから、ためらわず、躊躇しないで寝てしまえばよかったのに、の意味になる。「寝なましものを」と、語気はつよい。歌一首の意味はそれ で通る。夜更けて、西へ、月が傾きはてるまでとうとう来ぬあなたを待ってしまいました、と。言えばそれだけの事だが、何と美しい歌だこと。「やすらはで」 に女の優しさのすべてが「音」と化しているのを聴こう。もはや単語の意味の域を超えて、詩の魅力が横溢している。二句の、かすかな音の粘りがこの歌では 却ってなまめかしく優しく、そして「さ夜更けて」の澄んだ音楽に引き継がれる。自在な、とはこれを言わずして何を言うか。下句はむしろ尋常な中味なのだ、 が、「カ」の音の響き合いでしかと地に着く。納まる。

 九五八頃 - 一○四一存命 赤染時用女、藤原道長妻に仕え一條中宮彰子にも伺候、良妻賢母の称讃に包まれた。



六〇 小式部内侍(こしきぶのないし)
 大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立    


 作者は、並びない歌の上手の和泉式部の娘。この母親の後光が、娘には何かとわずらわしい時もある。ことに歌の評判される時がそうだ。親の手が加わっては いないか。本気でそう思っていなくても、とかく人はからかいたがる。そんなからかいに当意即妙に答えて歌の実力をみごと発揮したのがこの歌と、古来「説話 的」に喝采されて来た。つまり伝説の領分に組込まれている位の評判作なのである。山は丹後の名山、野も同じ今日の福知山市内の、生野。「行く」には都から ははるばる遠くて、「私」はむろん、いくら景色はすばらしくても、そんな遠国の天の橋立へなんか行ったことがないのですよ。その否認の意味を「踏みもみ ず」と表現している。重ねて「文もみず」を利かせてもいる。母和泉式部が今その夫の赴任地丹後国へ行っているのを人は皆知っていて、このたび晴がましい歌 合の出詠者に選ばれた娘のため、さぞや佳い歌を代りに作って、もう届けて来てくれましたか、その日に間に合いますかと、からかうのだ。いいえ。そんな 「文」は来てませんわ。それだけの事をいかにも洒落て即座に歌い返したのだから、母親譲りの才能でこそあれ、手を貸して貰う必要のない、あっぱれ実力だ。 からかったのは、後に登場する定頼卿だったとか、その袖を手で控えたまま小式部内侍は歌い返したとか。本当なら愉快だが、面白ずく説話化されているという 説もある。私は概ね事実と思う。当意即妙だけの歌だとも思う。

 生年未詳 - 一○二五 母とともに上東門院彰子に仕え藤原教通に愛され子をなし、他にも恋多く和泉の娘らしい。



六一  伊勢大輔(いせのたいふ)
 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな


「ここのへ」を宮中の雅称と分かれば、そしてその昔、八重桜は奈良の都でしか見られない花だったということなどもし知っていれば、かりに知らなくても、奈 良時代と京の平安時代を対比してみるだけでも、歌一首の狙いはすぐ分かる。対応の歌なのだ、古えと今日、奈良と京都、八重と九重、都と朝廷。光栄の主役 は、むろん咲き匂う桜である。これも当意即妙、「万人感歎、宮中鼓動す」「ことわざ奇特」と大喝采を博した歌だ。言葉の妙、神異に類するとでもいうか。現 代の短歌と最大の違いが、この和する歌の当意即妙、咄嗟の技巧の冴えにある。物語ではこういう場面にしばしば出逢えて、感興ますます加わる所だがそこは創 作のこと、と、割引してしまう。ところがこの歌でも、先の小式部内侍のでも、後に出る周防内侍の歌でも、現実にバッと打ち返しているのだから、唸る。この 唸りには、やはり昔に『一夕話』を読んだ時の率直な感想が生きている。和歌時代で一等おどろくのは、こういう働きで日常場面に光り輝く「うた」心だ。その 妙だ。この聴こえの美しさはどうだろう。まさしく八重桜のとろりと甘い魅惑を、あまさず謂いえている。「ナ」行のややたゆみがちな音を大胆に快く構成しえ た、音楽の妙でもある。しかも世界が大きい。想像の翼は豊かにはばたいている。配列は自然こう成ったものにせよ、こう女流の名歌秀歌がつづくと、呆然とし てしまう。私の謂うこれぞ「女文化」の淵叢だ。

 生没年未詳 上東門院のもとで難しい紫式部や艶麗な和泉式部らと親交、人柄に花 も落ち着きもあったという。



六二 清少納言(せい・しょうなごん)
 夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ       

 この辺り、私は作者について多く省いている。人か歌か。限られた字数ではやはり歌の読みや味わいを先にしたい。おおかたは宮廷女房であり、ここではそれ で足りている。この『枕草子』の筆者については、さらに解説の必要はあるまい。だが歌は難儀で、関連の知識が必要になる。「夜を籠めて」は終夜、夜どお し。「空音」はいわば声帯模写、ウソ鳴き。したがって「はかる」は計りごとをする、ダマす。上句をここまで読んでおく。これには『史記』の孟嘗君伝の故事 が下敷きになっている。とざされた函谷関を急いで通らねばならない、関の扉は朝にならないと開かない。そこで一行のなかにいた鳥の空音の上手が、朝告げ鳥 の鳴き真似をして、寝呆けた関守を難なくあざむいたという。こういう知識を、男まさりに駆使しえたのがこの女作者の図抜けた特技だったことは、『枕草子』 にくわしい。この歌も行成卿とのその種の応酬に生れた一つで、函谷関ならば知らず世の男と女の逢坂の関ともなれば、簡単には開かないものですわと言い返し ている。易々とわたしに逢えると思わないでと澄ましている。この逸話の始終は、『枕草子』でも相当の経過をふくんだ興味あるものだが、一首の意味だけなら これで足りよう。さすがこの作者の交際していた男たちは当時一流の才人揃いだったが、行成には清少納言、ひときわの情と敬意とを捧げていた。「はかると も」の「とも」に良くも悪しくも人柄が露出する。

 九六○頃 - 没年未詳 一条帝皇后定子に愛された天才的感性の宮廷女房。紫式部や優秀公家たちに強く意識された。



六三  左京大夫道雅(さきょうのだいぶ・みちまさ)
 今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな  


「由もがな」の「よし」は、手だて、方法の意味。人づてでなく自分の口から直かに伝える、何かいい手だてが欲しいなあ、と。初二句は「――」に入れて直接 話法で読めばいい、「おもひ絶えなむ」とは、恋しいあなたとの愛の成就は今はただ断念しましょうという事。この歌の味は、この上と下の句を繋いだ「とばか りを」という、いささか鈍な、ナマな、物言いにこそある。私の父はこの句を、いつも、「と、バッカリ、をー」と読みあげていた。たしかに「トバカリヲ」で は読みにくく意味も取りにくい。「バッカリヲ」と読むと、この男の煮え切らないグチがそれなりの効果をあげる。そこが面白く、事実そのように読まれて来た のではないか。同じような読みをする例は、散文にはよく見受ける。しようもない歌やナと苦笑しながらも、この歌は、何となくその折々の自分の気持ちを代弁 して呉れた気が、しないでも、ない。思い当る人、多いのではないか。その意味で、ニクい歌ではある。オリジナルの味と重みとがある。へんに図々しい歌に も、えらく切ない歌にも読める。女々しい感じもする。が、女の歌ではない、女なら、テコでもこうは言わないだろうという気がする。事実は三条天皇の皇女へ の、厳しく禁じられた恋の悲痛をうったえた歌であり、実情歌の典型でもある。この時代の恋歌には、題に応えた創作歌も多い。作者は例の、不遇に終った儀同 三司伊周の子。道雅もこの恋ゆえに生涯不遇だった。

 九九 - 一○五四 幼い頃に父伊周の一統が政変で没落、暗澹と暮らし、後半生は世を諦めた風流生活に甘んじた。



六四  権中納言定頼(ごんのちゅうなごん・さだより)
 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木
 

「あらはれわたる」に、かすかに間伸びを感じて来た。微妙すぎるところで、人によっては、だから佳いと言うだろう。そうなのかも知れない。前後の句がきび きびしている。この四句も同じでは却って単調になるか、気ぜわしいという事もあろう。景色の大きさもこのゆっくりした「あらはれわたる」でこそ言いえてい るのかも知れない。そう思い直してみれば間然するところない名歌だ。「たえだえに」の前後にかかる濃やかな物言いが、いたく耳にも目にもしむ。「網代とい ふものは近江の田上川や、山城の宇治川に杭を左右に並べ打ちて、その下の方に床をかきてかがり火をたき居るを網代守といふなり。かやうにして待ち居れば、 川の水がその杭の間にせかれ入るにつれてかの床の簀の上へ氷魚がよりて来るを取る事なり、その杭を網代木といふなり」と、『一夕話』に聞いた。こう純粋の 叙景歌もめずらしい。作者は「大江山」の小式部内侍をからかったといわれる四条中納言で、かの「瀧の音は」の公任卿の子。父に似てなかなかの才子だったと いう。こういう純然とした自然描写の歌には、おのずと中世の到来を予感させるものがある。これまでは自然のなかにいつも人影が感じられ、人は自然の胸にす すんで抱きとられながら恋をし、嘆き、また楽しんでいた。この歌にはその人影が感じられない。作者の目だけが冴えている。だが、だからか、この歌にも公任 の歌と同じ、家の衰えを悲しむ寓意を読む人は、いる。

 九九五 - 一○四五 父大納言公任の血をうけ和歌に書に秀でたが、小式部内侍にからかい、やりこめられたりも。



六五  相模(さがみ)
 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ      


 十一世紀前葉の名だたる女房歌人だった。鬼退治で名高い源頼光を義父に育っている。『永承六年内裏歌合』に出詠して勝をえた歌で、その折のことは『榮華 物語』根合の巻に詳しい。後々も評判の高い歌だが、私は、めずらしく『百人一首』恋の歌のなかでは、そう出来のよくない、したがって好まない一つに数えて いた。上句だけでよい、下句は繰返しで、くどい。「ほさぬ袖」とは、恨み嘆きの泣きの涙でかわくまも無い女の袖をいう。そんな袖が情ない、なおその上に、 実らぬ恋ゆえあたら浮き名と朽ちてしまうわたしの名。悔しいこと…と。それにしても「あるものを」が、詩的に働いていない。急に「恋にくちなむ」と転じる 息づかいにも、なだらかさが乏しい。定家は妖艶の趣を買ったようだが、どんなものか。「恨みわび」という出だしの息切れも寸詰まりだし、「だに」「こそ」 の強調二つも利いていない。それよりこの歌、取りようでもう一つの読みも利く。「ほさぬ」つまり乾かぬ袖でさえ朽ちないでいるのに、名の方は朽ちてしまう のか、と。どっちともつかず、どっちにせよ歌の評価には響くまい。この作者は相模国に受領していた大江公資に嫁いでいた。夫が大外記という職に就きたいと 希望して、幸い任じられると決まりかけた時に、小野宮右大臣実資の放言で流れた。「公資は妻の相模を抱きて秀歌を案ぜんほどに役儀を欠くべき者なり」と。 あまり品のいい冗談でないので却って記憶している。

 生没年未詳 鬼退治の源頼光の養女。後朱雀帝の祐子内親王に仕え、宮廷歌壇に重 きを成した実力派の女流。



六六  前大僧正行尊(さきのだいそうじょう・ぎょうそん)
 もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし


「山桜」は文字どおりに山なかで咲いている桜の意味に取った方がいい。修験者の道場大峰山で「思ひかけず桜のはなをみてよめる」と『金葉集』には見える。 この歌の難は、「山桜よ」と呼びかけていながら、すぐ続いて「花よりほかに」と客観的に主観を歌っているチグハグではないか。気持ちとしては「そなたより 外には」の意味の「花」なのだが、すんなりそう聴こえて来ない。「あはれ」の読みが大事だ。悲哀の気味にとっては間違う。分かりよくいえば互いに懐しい気 持ち、仲よい気持ち、身内の思いに近い。こんな深い山のなかではただ花と我との世界。余人をまじえないしみじみした交歓を求めているわけだ。歌われた状況 も作者の為人も分かっているから誤解はないが、ただこの歌だけを見れば、山中、桜のように匂いやかな佳人と逢っての、恋の呼びかけ歌とも読めよう。もしも そのように実際に読んだ人がいたとして、それは間違いだと言い切れるものかどうか。この辺りが和歌や俳句の読みの微妙なところだし、また一通りの現代語訳 でこの歌の意味はこれですと、むやみに押しつけていいかどうかも、大層気になる。私は反対したい。出来るだけ自在にいろんな解釈や鑑賞の余地を残すのが、 本当だろう。それよりもこの歌は、佳い歌か。そうも思えない。やや、つまらない。小一条院(三条天皇の子)の孫で、白河、鳥羽、崇徳天皇の護持僧だった。 天台座主も勤めた。並びない修験者でもあった。

 一○五五 - 一一三五 園成寺長吏、山伏修験者として著名で加持祈祷にすぐれ、和歌にも堪能の大僧正。



六七  周防内侍(すおうのないし)
 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ  


 同じ「名こそ惜しけれ」では、さきの相模の「恋にくちなむ」よりも好きだった。この歌の手柄はすべて「かひなく立たむ」に尽きている。「腕」と「甲斐無 く」の重ねは説明するまでもない。さらには「隠名」の寓意もあろう。「春の夜の夢ばかり」というにも、男のあだし心の甘いはかなさが諷されていて、拒絶の キツさ無くおおどかに佳い歌い出しになっている。「手枕」はおのずと一首のキィになる。これくらい豊かに縁語を重ねながら才気がうるさくないのは、「う た」として詞が奏で合っているからだ。清少納言の「夜をこめて」の歌に似ている。この文字づらでは十分鑑賞出来ない点でも似ている。と言うのもこの歌に は、「二月頃でしたか月の明かい夜、二条院に大勢が居残って話し明かしていました時、内侍の周防がものにもたれながら枕がほしいと睡たげにつぶやきますの を聞きとめ、大納言忠家がどうぞ枕にと自分の腕を御簾の内へさし入れましたので」という詞書が『千載集』には付いているのだ。これまた当意即妙を絵に描い たような咄嵯の口遊みで、それにしては文句の付けようもない完成された言葉の巧み。男と女の実の契りなく、ただ腕だけ拝借して詮ない浮き名ばかり立つので は、たまりませんわと。こう読んでみると、しかし、忠家との応酬がなくても独立の一首として鑑賞できない歌ではない。とろりと甘い味がして面白く、社交術 として「和する歌」の魅力を教科書さながらに教われる。

 生没年不詳 平氏で珍しく本名伸子と知れる久しい宮廷女房。多くの歌合に名を列 ね、練達の歌人として知られた。



六八  三條院(さんじょうのいん)
 心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな     

「うき世」を「この世」とした本もいくつか有る。私は「うき世」で覚えたし、歌としてもその方が聴こえはいい。「心にも」「この世に」「こひしかるべき」 では、「コ」の音の重なりがキツく、うるさくなる。第六十七代の天皇。位をすべってからは院と呼ばれる。上皇でなくても準じて院と呼ばれる例もあるので注 意がいる。天皇でなかった光源氏が六條院と呼ばれたりしている。目をわずらったりして、暗に藤原道長に強いられ、本意なく位を後一條妄天皇に譲った。その 頃の心根をはげしく悲しく歌いあげている。かなり意味の取りにくい歌になっているのは、それだけ事情も複雑なのである。「心にもあらで」には、存外に、思 いがけず、の意味だけでなくて、本意なくこの憂き世に生き長らえることにでもなれば、という気持ちも籠もると読みたい。分かりよくいうと、来年のこの秋ま でもし生き長らえていたにしても、という気がこの歌の作者にはある。今年と来年とでは違いが大きい。今はまだ天皇の位に居るが、来年はもう位に居ない。見 る月は来年とて同じ月のようでいて、まるで寂しいものに見えるだろう、そして今この大内で見ている月の美しさを、さぞや恋しく懐しく思うことだろう。ま、 そんな述懐の歌だ。お気の毒なはなしではあるが、係わりのない事でもある。同情も、この類の事となると及びもつかないヨソ事だ。「人づてならでいふよしも がな」などという恋の女々しさの方が、まだしも佳い。

 九七六 - 一○一七 冷泉天皇の皇子、摂政兼家の孫。一○一一即位、五年で九歳の後一条天皇に譲位、出家、薨去。



六九  能因法師(のういんほっし)
 あらし吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり


 この歌には閉口する。なぜこんな歌を撰者は採ったのか。この法師には、ほかにもっとマシな歌はなかったのか。私が言うのではない(私も言いたいのは同じ だが)、これまで随分多くの人がそれを言って来た。「三室山の紅葉」は「龍田川の錦」である。そういう命題めく歌だ。川上の山から紅葉が吹かれ流れて龍田 川を彩るのだ。永承四年(一〇四九)十一月、晴れの内裏歌合へ持ちだした自信作だったらしい。事実評判になって勝ちはもとより、秀歌として喧伝された。典 型的な歌枕秀歌で、装飾そのもの。実感というものを微塵も感じさせない。さすが『能因歌枕』の著者よと感心しておくしかない。聴こえは相当に佳いようでい て、上下句の跡切れは歴然、腰折れになっている。「もみぢ葉は」の「は」が感興をいちじるしく殺ぐ。算数の等記号を読む如くである。俗の時は橘氏。文章生 から出家したのが二十六歳だった。執心の歌詠みだったとみえ、「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」という歌を都にいながら詠みえた時、このま ま世に出すは無念と「人にも知られず久しく籠り居て、顔の色を黒くせんとて日ごとに日に当りなして後、陸奥へ修行に出でて詠る由いひて」初めてこの歌を世 へ披露したという、その種の逸話に富んでいた。人の薄なさけに捨てられる歌が出来ると、そういう体験を敢えて求め、その場に至ってかの歌をおくり、「いみ じくあはれに」思われたりするのが好みだった。

 九八八 - 一○五○頃没か。若くに出家、十一世紀前半の指導的歌人として後生を刺戟、歌学に「能因歌枕」がある。



七〇  良暹法師(りょうぜんほっし)
 さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮      

 一枚札である。何ともない、ただこと歌のようでいて一種忘れがたい魅力がある。「寂しさに」と歌い出された時にはまだ感じとれないものが、「秋の夕暮」 まで読み徹した時にはたしかに寂しい気がしている。「宿を立ち出でてながむれば」とは、まるで舞台の上での大きな所作に似て想われるのだが、この「ながむ れば」に感興の秘密があるのだろう。我々の語感では、つい眺める意味を主にこの言葉を読む。だが小野小町の「わが身よにふるながめせしまに」でも経験して 来たように、「ながめ」にはただ自然の、ただ外界の景色を見渡すといった意味以上に、むしろ我が心のうちなる景色、心象風景、に感傷の視線を呆然とそそぐ ような、身にしみしかも捉えどころない自己批評の態度、を読む必要がある。「いづくもおなじ秋」にも、かの大江千里の「わが身ひとつの秋」などより、ずっ と実感に沈んだ自然受容の重みがある。だが、まだ徹してはいない。一通りは謂えている程度で、この受容も観念に止まっている。内省の深みへ達した根からの 把握ではない。どこヘどう逃れようもない秋の寂しさではないが、それ位のことではあれ、しかし、ようやく古代は果てて行くようだと、これより以前の歌の数 々がふと懐しく顧みられる、そんな歌には相違ない。『金葉集』の撰者源俊頼が人と、大原の里を馬でやっていた時、つと降りて、ここは良暹法師の旧居、乗り うちは出来ぬと敬意を払った由、住い逸話が残っている。

 生没年未詳 一○六四頃に没か。比較的長命の天台僧で祇園社別当。洛北大原の里 に隠棲したとも伝えるが。



七一  大納言経信(だいなごん・つねのぶ)
 夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろやに秋風ぞ吹く


 宇多源氏。師賢朝臣の梅津の山里で、「田家秋風」の題をえて詠んでいる。題詠ながら実の風景にふれての清々しい歌だ。「夕されば」に「去れば」と、過ぎ 行く意味の語感を持ちやすいのは現代、致しかたもない。これは夕方になると、夕暮れて来ると、の意味。「稲葉おとづれて」も、訪問の語感だけでせまると誰 が訪れるやら惑ってしまう。「おとづれ」には、ある懐しやかな物音がまず耳に来て、それで人なり季節なりの来訪が予感されるというのが本来の意味。「廉動 かし秋風ぞ吹く」のも、「風の音にぞ驚かれぬる」も、恋しい人なり秋なりの訪れが、まずは謂わば「音連れ」として察知されるのであろう。この歌でも、門田 の稲葉をそよがせて秋風が、葦で葺いた田舎家に吹きおとづれて来ている。ここはぜひとも風のそよぎに稲葉の心地よく揺れる景色が目に見えて来るような「お とづれ」の読みでありたい。「まろや」は、まるッぽ葦で屋根を葺いた、その程度の小家ということだろうが、風情でいっている。主人の山家を、おとしめてい るのではない。これこそは純然とした写生歌であり、叙景歌であり、しかもどこか腰の座った落着いた心境が籠められている。まさに田家秋風という「心」を詠 み得ている。百首中この種の歌としては最右翼に位置しよう。しかもこの後の歌風に大きな感化を与えた。定家卿は作者源経信を、父俊成を経て完成されて来た 新古今歌風の、直接の祖のように高く仰いでいた。

 一○一六 - 一○九七 詩歌管弦に秀で有職故実に通じ、歌の道で重んじられ、歌合の判者を再々務めている。



七二 祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけの・きい)
 音にきくたかしの浜のあだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ 


「かるた」の楽しみの一つに、坊主めくりがあった。坊主と「お姫」さんとをアテにしてめくるのだから、自然、歌よりは姿、つまり読み札の絵が付け目だ。こ の絵が楽しみで、よく眺めた。生きた人を思うように眺めてその人柄まで想像した。だから尋常に正座した型通りの絵ばかりの「かるた」はつまらない。どこか 新聞社の付録だったらしい一種類が、字は能書の乱れ書きで閉口したが、絵は自由自在すこぶる雅致に富んだものだった。頬杖ついたり、寝そべったり、小手を かざしていたり。火桶を抱きかかえているのも有った。おどけて貧相な男がいて、「由良のとを」の曾丹だったろうか、がっかりした記憶がある。なかでも女姿 には憧れた。後姿の髪の美しい人が何人もいた。この歌の作者もそうだったか、派手な名乗りではあり、すらりと姿佳く見惚れたものだ。だが、この作者がこの けっこうな恋歌を詠んだのはもう六十過ぎた婆さん時分だったというから、なにやら可笑しい。あの噂に名の高い高師の浜のと、歌枕にかけて歌い出している。 噂高いのは、だが「浜」の名よりも浜に寄せる「あだ波」の方だ。いやいや浮いた男の浮気者よとはやされる「あだ(な)名」の方だ。そんな「あだ」な波はか ぶりますまい、波ならぬくやし涙で袖が濡れましょうよ、まァお断り…と。『堀河院艶書歌合』で俊成の父、俊家の「人しれぬ思ひありその浦風に波のよるこそ いはまほしけれ」に応えた歌。趣向遊びの極みだ。巧い。

 十一世紀後半から十二世紀半ばの女房歌人。平氏。系譜に諸説定まらないが、著名 な数度の歌合に名を列ねている。



七三  前中納言匡房(さきのちゅうなごん・まさふさ)
 高砂の尾上の桜咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ   


 高砂も尾上も、要は高い山や峰のさまを思えばいい。ここで桜が咲いて見えるのは「外山」ならぬ「深山」の尾上である。「外山」は手前の山、まぢかな山の こと。末句の「あらなむ」は、文法的に、そうあって欲しいとあつらえ望む気持ち。遠山桜の美しいのを、近くの尾根に霞をかけて隔ててしまわないでと願う歌 だ。何ともなげで、しかも爽かに詠めている。「あらし吹く三室の山の」と比べれば、微妙に上下句の連絡に趣味がある。美がある。間も佳い。末句の字余りも 一首の座りを効果よく安定させている。「うた」として相当達者に出来ていて品も高い。十一・二世紀にかけてこの大儒と聞えた大江匡房は、「いとけなき時よ り、人にすぐれて才智あり、四歳の時始めて書き読み習ひ、八歳にして史記・漢書を読み通し十一歳にて詩を作られたり」といった才子だった。またこの当時の 歌会に歌題を出す役をしばしば勤めた人でもあった。歌題は今ではとかく軽く忘れがちなものだが、よく調べればその当時の騒壇文雅の好みはもとより、もっと 広い範囲で暮しの感覚など、詩題とも比較しまた時代順にも比較して、観察の利く佳い資料だろうとおもう。匡房出題で、おのずと和歌の世界に漢詩の風を吹き 込ませただろう、院政期歌風のおのずからな変容にも影響しただろう。大江氏としては異数の出世で正二位に昇り、『遊女記』『洛陽田楽記』『江家次第』『続 本朝往生伝』など価値ある著述を残している。

 一○四一 - 一一一一 赤染衛門の曾孫、幼くて神童の誉れ高く、優れた儒者・漢詩人として著述多く、異数の高位に。



七四  源俊頼朝臣(みなもとの・としよりあそん)
 うかりける人をはつせの山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを


『金葉集』を独り撰した人。『千載集』の藤原俊成、『新古今集』『新勅撰集』の藤原定家が最も敬意を払った先人と思われる。その詠みくちに清新なものと艶 麗なものを兼ねている。定家の頃から顧みて「近代」のさきがけの歌になりえている。もっともこの歌は子供には難解だった。長谷の「山おろし」の風へ、そう 激しく吹いてくれとは祈らなかったのにと恨みかけている歌か‥くらいには察しが利いても、祈った相手が長谷寺の観音様とは、ある程度『枕草子』や『源氏物 語』の知識がつくまで分かりにくい。よほど信仰された観音様だったようだが、物見遊山も兼ねた参詣だっただろう。その長谷へ、「憂かりける人」つまりこの 私につれないあの人が、どうか恋の思いになびいてくれますように、とは確かに祈った。それなのにどうだ、あの人はあれから「山おろし」よ、お前さながら、 ひとしお辛く私に当る、あンまりではないか……。「もみもみと」して、とても人が詠み切れないような境涯を巧みに詠んでいる、定家が一等望んでいる境地が これだろうという意味の批評を、後鳥羽院がしている。事実定家はこの歌を絶賛している。そこに定家の特色も、おのずから限界も見えている。「祈れども逢は ぬ恋」を歌ったものというが、徹して言葉の駆使で創りあげた歌である。その限りでは意味さえ通ってしまうと、なるほど上手と感心する。聴こえもなかなか 「もみもみと」した味わいで、陰翳と抑揚に富んでいる。

 一○五五 - 一一二九 父経信の歌風を展開、歌論「俊頼髄脳」等により俊成・定家に先駆け、「金葉集」を勅撰。



七五 藤原基俊(ふじわらの・もととし) 
  契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり    


 この歌には、巧拙はさておきウンザリしていた。あぁ今年の秋も去ってしまうのか……。それ位は分かったが、上句は子供にはサッパリだった。子供でなくて も、事情の知れない現代人にはおおかたサッパリのはずだ。「契りおきし」は約束していた、当てにして来た意味だろう。「露命を繋ぐ」という言葉があるか ら、「露を命にて」もなんだか必死に頼り頼む感じにはやがて取れて来る。それが「契り」の中身だろうとも察しはつく。じりじりと、こんな手順で読み進んで 来てなおぶつかるのが「させもが露」だ。これは同時代の人には難なく理解できる言葉だったらしい、先行して、「なほ頼めしめじが原のさせも草われ世の中に あらむ限りは」という清水観音の世にも有難い本歌があった。この基俊の歌ではそれを、「頼みにせよ」との「契り」へ掛けて歌っている。契りに命をかけてそ の約束の秋を待っていたのに、むなしく秋は過ぎて行くのだ、恨んでいるのだ。こう読んでも、まだその約束の中身が分からないので、歌の意味は十分伝わらな い。子の僧都光覚のため興福寺唯摩会講師の名誉を父の作者は与えて欲しかった。氏の長者忠通に何度も頼み、今度こそはアテにしていい「なほ頼め」と聞いて いたのに、またしてもアテはずれて残念の極みと恨みを言いかけた歌なのだ。「あはれことし」に万感籠もるとはいえ、なんとヤヤこしい事。性格的にも何かと 不遇だったが、俊成卿の歌の師として記憶される。

 一○六○ - 一一四二 新風の源俊頼にたいして伝統保守の柱と立てられたが、名門の生まれながら官界では不遇に。



七六 法性寺入道前関白太政大臣
   (ほっしょうじにゅうどう・さきのかんぱく・だいじょうだいじん)
 わたの原こぎ出でてみれば久方の 雲ゐにまがふ沖つ白波 

「雲居にまがふ」だけ分かれば問題のない歌だろう。白雲に、天空に、見まがうはるかな波の白さよと。大海に乗り出してさらにはるかな沖のかたを眺めた風情 だろう、「海上遠望」の題詠で、実見ではありえない。そらぞらしさと大らかさとがつき混ぜられた歌だ。尊貴の人はよく人に体を洗わせても前を隠さないとい う話を聞いたが、そう聞いた印象と奇妙にかさなる、カナワンという感じの歌でもあって、まともに感想など述べにくい。これを、「ほのぼのと明石の浦の朝霧 に島がくれゆく舟をしぞ思ふ」という人麿の佳い歌と並べて「恥ぢずやあらむ」などと評判されると、そうかなぁと瞬時めまいがする。この作者が、この前のか わいそうな基俊に空頼めさせた張本人だと思うと、この、絵さながらの大風呂敷歌がまぶしい。エライ人は違うわいという気がして来る。作者は、保元の乱に後 白河天皇をかついで、崇徳上皇と弟藤原頼長を負かした、王朝屈指のやりてだった。それでいて似絵が達者で、歌もうまく、書も法性寺様とうたわれたほどたい したものだった。学問は弟頼長の方がだいぶ上だったが、弟は趣味的なことは苦手だったらしい。この性格の差も兄弟の張り合う原因になっていた。父忠実は頼 長の方を愛して兄忠通の勢いを殺ごうとはかり、それへ鳥羽院と崇徳院との不和がからんで、源氏も平家も親族相分かれ両方に加担した。世は、戦乱のるつぼへ となだれ込み、治承寿永の『平家物語』時代が来る。

 一○九七 - 一一六四 藤原忠通。漢詩、和歌、書画に優れた政治家、位人臣を極めた。晩年は法性寺殿に隠棲。



七七 崇徳院(すとくいん)
 瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の われても末にあはむとぞ思ふ     


 一枚札で気にはなる歌だが、もっと気になるのは、「われても」という表現だった。海の水が二つに「われて」と、神話などで言わなくはない。が、「瀧川」 が「われ」るという物言いには私はどうしても不満だった。違和感が残った。今も残っている。瀬が早くて瀧川が岩にせかれしぶきをあげて二た岐れはする。 が、また一つに相逢うて、行く末々まで流れるように我々の恋も、たとえ障害あって一時別れても末は必ずまた逢うのだ、逢いたい、逢うべく力を尽そう…と。 およそそんな意味で尽せるが、「われても」を、「わかれても」と取るしかない表現の上での収まりのわるさに、悩まされた。秀逸の一首といわれるのに異論は さらさらないが、さて古注が教えるほど素直にここを「わりなく」「強いて」とも取りにくい。この辺り、現代と古代との語感のわかれだろう。それに言葉の斡 旋に気をとられ、存外に心を打たれない。四句までえたところで作者の感興はおよそ尽きて、「逢はむとぞ思ふ」が軽く淡く、悲痛とも哀切とも思い入らせな い。造り花の感じがのこる。保元の乱のすこし前の作であるらしい、院以下十四人が院出題による百首歌を各自詠んだ。俊成が部類作業に任じたが、乱のためつ いに奏覧に至らず終ったという。讃岐に流されて憤死。和歌に堪能で、独自の題で百首歌を何度か詠進させている。宿敵、同母弟の後白河院は和歌ならぬ歌謡の 名人で、みずから『梁塵秘抄』を撰し口伝を書いている。

一一一九 - 一一六四 鳥羽天皇皇子、実は中宮璋子と白河院の子として立太子、即位、退位。保元の乱の因となる。



七八 源兼昌(みなもとの・かねまさ)
 淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守


 千鳥は、淡路島から須磨の関へ通うて来る。「関路千鳥」の題で印象澄明な秀歌に相違ない。歌の意味も言葉どおりに明快だし、感情移入もしみじみとして心 に残る。人気のある歌で、分かりいいという第一印象が尾をひいている。特別に異な解釈もないらしい。むしろ作者の評価にいろいろ説がある。さして卓抜の歌 人でもないといわれる。事実、勅撰集にとられた歌の数は、この百首歌人のなかでは少ないと言える。それだけ定家はこの歌をとくに選抜したというわけで、ま たひとしお歌の出来が見直される。初句と結句と共に体言という風変りだが、それは難になっていない。難をいうなら私なら、「なく声に」の「に」が重く、調 子をやや殺していると思う。間がここで心もち伸びている。ま、それでも好きな一首に数えてきた。それには私なりのワケがある。「逢はじ島」かとも密かに読 むのだ。恋を「す」まの関守か(または、恋を「すま」じの関守か)と読むのだ。「かよふ」「千鳥」「なく」「幾夜」「ね覚めぬ」「関」など、皆、恋の道具 立てではないか、普通。この先は歌の取りよう、一つ種類で済むまい。が、こう道をつけることの可能な一首を、ただただ叙景歌としてのみ終らせたくない。 「逢はじ」というのに夜ごと通うて鳴く千鳥のせつない呼び声に、さすが恋は「すま」じのお堅い関守も、さぞ寝覚めがちにしていよう、人はみな情あれ…と。 千鳥を男に、関守を女に見る。むろん恋の関を守るのだ。

 生没年不詳 宇多源氏。藤原忠通主宰の歌合等、十二世紀初頭に活躍のあとの見え る歌人である。



七九  左京大夫顕輔(さきょうのだいぶ・あきすけ)
 秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月のかげのさやけさ 


 上句はさして佳くない。「キーカ…クーク」とうるさいし、「たえまより」の「より」もうるさい。しかし下句の字余りの聴こえと「さやけさ」とで挽回し た。俊成、定家の御子左一派より先輩格六条家の、この棟梁作者は『詞花集』を撰した重鎮。これくらい平明な歌もめずらしい。おそらく実景にあたっての作歌 だろう。視線が、素直に濃やかに働いている。「たなびく雲」を「ただよふ雲」とした本がある。その方が、私はいっそう好きだ。世に人麿影供といって人麿の 絵図を祭ることがあるのは、この作者のひたすらな人麿讃仰の念に始まったという。時の帝は、そのために讃岐国に祭田を賜わったという。俊成ははじめこの作 者の養子となり名も顕広といったが、その後に基俊の弟子となり、歌の風も六条家のものとは変って行った。六条というのは、父の顕季の時から六条鳥丸に住ん でいたからの通称で、冷泉家にせよ堀河家にせよ同じこと。そうでもしないと藤原氏も源氏も枝葉にわかれて家が多過ぎた。この作者の子には清輔、重家、顕昭 法師、孫にも有家、知家などがいてはげしく俊成、定家の派と歌の上で争ったが、結果的に、為家を含む御子左三代の力量に圧倒された。俊成撰の『千載集』が 世に迎えられ、後鳥羽院もあつい敬意を払ったのが大きく響いたが、西行や慈円や寂蓮らに見守られての、若き定家の頑張りも貴重だった。歌は、もう社交の場 での応酬でなく、苦心鍛練の創作だった。

 一○九○ - 一一五五 藤原氏。和歌をよくし崇徳院の勅撰集撰進の命を受けて一一五一年頃「詞花集」を撰んだ。



八〇  待賢門院堀河(たいけんもんいんの、ほりかわ)
 長からむ心も知らず黒髪の 乱れて今朝はものをこそ思へ 


 たまらなく好きな歌の一つだった。間然するところないという批評語を何度か用いたが、この一首にもふさわしい。恋は得ているのである。末永くと、男はつ い先ほども誓ってくれたのだ。それは分かっている。そうは分かっているけれど、そうだけれど、今朝になってこの寝乱れの黒髪をひとり床の上にながめるう ち、いつか心は乱れて不安な物思いがつのること…と。これは『久安百首』の召しに応じて詠んだ歌ではあるが、十分に実感に富んでいる。作者の体験が露出し ているというのでは、ない。一首の奏でる「うた」の美しさがそれを真実に感じ取らせるのだ。和歌の冴えというものだ。私は男の子だったが、男なればこそ、 女の恋にはこういう感情の動きがあるかと清新な発見と感動があった。ちょっと、手を拍つといった感じ入りかただった。作者の女房名も佳かった。この歌に惹 かれていたから、のちに、あの崇徳天皇や後白河天皇の母である待賢門院をめぐる院政期の醜聞を知った時にも信じたくなかったりした。西行は、この待賢門院 の不幸に心ひかれつつ出家したのだと謂われる。四国白峰へ崇徳院の墓参に出向いて歌を詠んだりしていた西行の気持ちが察しられる。彼は、この歌の作者とも 親しかった。俊成卿はこの作者を高く買って、『千載集』に十五首も採っている。おそらく後朝ほど優なる恋の歌を詠ませたものはないだろうが、この一首など ことに美しいうえに、今もよく胸に届く。

 生没年未詳 村上源氏。白河院の令子内親王に、後に崇徳後白川の母待賢門院璋子 に出仕、西行との親交があった。



八一  後徳大寺左大臣(ごとくだいじの・さだいじん)
 ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる
 

『平家物語』で名は馴染みの藤原実定。大将の位を平宗盛に超えられた時に、チエをつけられて平家信仰の厳島へ参り、清盛の同情をかちえて昇進の望みをとげ たという人物。この歌、まるで名画に余韻を聞くような、顔へ月かげとほととぎすの鳴く音とがふりそそぐような、しっとりした雰囲気をもっている。微塵の難 解さも難渋さもない。平凡かというと、それを不思議にひろびろと突き抜けた感じが残っている。陳腐になりがちな取合せの情景を、頓着なく、実感こめて素直 に言ってのけた、その思い切った「うた」い上げが大らかに丈の高い詩の世界を実現した。「なきつるかたをながむれば」というゆっくり伸びた調子が、ほのぼ のと月ひとりの空へ、思いと視線とを誘う。鳥の、声とも言わずに声を感じさせる。けっこうな床の間の絵を見ている心地よさがある。それ以上のものではな い、それで十分。その昔、大人はなぜかこの歌の初句を、「ホットントンー」と読みあげた。妙なもので耳に馴染んでしまうと、「ホトトギスぅ」と読まれるよ り、例の「ホゾンカケタカ」や「テッペンカケタカ」など直かに鳴く音にちこう聴こえて、札をとる気分がはずんだ。一枚札だということもあった。「後徳大寺 左大臣」という雅でない名乗りまで「うた」の内として生きた。手に入れて嬉しい札だった。冬の夜の月白う冴え渡って、内侍所の御神楽の清い拍子が宮中にひ びくのを聴く心地、と、古人の印象批評もある。

 一一三九 - 一一九一 藤原俊成の甥、定家とは従兄弟でかつ庇護者。平家物語にも登場、博学かつ多藝の実力者。



八二  道因法師(どういんほっし)
 思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪へぬは涙なりけり    
                                        

 この一首、意味から味わうには理が勝ってさして面白くもないが、「うた」う感じはけっしてわるくない。音楽としてはなかなかのリズムをもっている。「思 ひわびさてもいのち」の続きぐあいも、「あるものを」の面倒な感じが「うきにたへぬは」とすっと軽みへ転じて行くぐあいも、佳い。下句の姿もととのって、 有難いお経でも聴いたような気分になれる。平家全盛の頃に出家している藤原氏。九十を超えて長命した。和歌に命をかけたような篤志執心の人だったとみえ、 その方面の逸話がとくに多い。貴族や上流社会が和歌なんぞにかくもうつつを抜かしていたのはナサケないとの批評もあろうが、また近時の指導者層の文芸的鈍 感にも呆れてみていいのだ。どっちが良いとすぐに結論する必要はない。が、人生五十といったような昔に、七十、八十になってもなおどうか秀歌を詠ませて下 さいませと神詣でに月々精を出していた坊さんがいたなど、わるくない。しかもこの歌、恋の歌だ。失恋の歌だ。あまり苦しい片恋の、はては命もないかと思っ たのにまだしぶとく生きている。ただ涙のやつだけは堪え性もなく溢れ流れてとめどないとはなぁ…と。所詮坊さんのつくつた歌だ、実の体験がどうのと詮索す るような作ではない。つまらないとも思わない。たいした工夫のある言葉も無理して用いず、ごくふつうの物言いで、しかも曲折のある「うた」に仕立てたのは 手柄。クドい筈の「さても」「ものを」がよく利いた。

 一○九○ - 没年不詳 藤原氏。多くの歌合に名を列ね、九十歳にして右大臣兼実の歌合に出ていたが、程なく没か。



八三  皇太后宮大夫俊成(こうたいこうぐうのだいぶ・としなり)
 世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奧にも鹿ぞ鳴くなる  


 この歌は誤解され過ぎてはいないのだろうか。作者がわずか二十七歳の歌だ。九十過ぎた老大家の「述懐」ではない。少なくも「世の中よ」の一句は、近景に 遠景をダブらせて読むべきものだろう。「道」も、政治の道などではよも有るまい。せいぜいこの世を生きて行く人の道、もっと直かには行方も知らぬ恋の道と 取るのが素直な、男と女の「世のなかよ」だろう。鹿がなくのは、妻を求め夫を恋してなくのが和歌の道ではふつうのこと。ふつうをふつうと素直に取らないか ら、抹香くさい説教くさい読みをしてしまう。俊成という人は若くから人一倍色好みだった。妻も子も大勢いた。「思ひ入る」を遁世の志などとして読み過ぎて はつまらなくなる。途方にくれ、いっそ、こんがらかった女のわずらい、まさに「世の仲」から袴どりして山へなり逃げ出そうと思うのだけれど、山の奥でも鹿 は鹿で恋に身をやつしているだろうし。所詮は色の世じゃなァ…と、はっきり読み切るのが先決だ。その上で、また一段の遠景、背景を深切に解説してみるのは 自在。そのようにして一首の歌を、いっそう面白く出来るならそれでよい。いきなり高飛車な説法歌にして読まされては叶わない。「世の中はちろりに過ぐる  ちろりちろり」という室町小歌にしてもそうだ。「声きくときぞあき(秋、飽き)は悲しき」もそうだ。この「鹿ぞなく」など「然ぞなく」でもあり、女に現に 目の前で泣かれて弱っている事態とも想いたい。

 一一一四 - 一二○四 藤原定家の父。千載集勅撰、あらゆる面で歌壇の重鎮。古代和歌を清艶に中世へふり向けた。



八四  藤原清輔朝臣(ふじわらの・きよすけあそん)
 ながらへばまたこの頃やしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき

  
 これまたごく陰気に読まれて来た代表歌といえる。まして作者が『詞花集』撰者だった父と折合いわるくて撰にもれたり、自身勅撰の『続詞花集』を編みなが ら二条天皇の死で陽の目を見ずに終ったり、ツイていない人だっただけに、ついそれへ引かれた読みをしてしまうらしい。「憂しと見し世」が、あのイヤだった 「昔は」と読めるまえに、「昔の女は」と読めていいのではないか。それでこそ「ながらへばまたこのごろやしのばれむ」が生きて来る。歌の主人公は、目下も 気乗りのしない恋をしながら昔の女と皮肉に比較しているのだ。あーあこんな女でも長生きすれば懐しく思い出せる日もあるのだろうかなぁ、あんなにイヤだと 思った昔の女が、(今のと比較してのハナシだけれど)恋し懐しと思われる位だもの…と。こういう風に読むと学者でない悲しさ、コジツケルと言われる。しか しこの歌の言葉をキチンと読めば、ここから深刻な哲学めいた述懐ばかりを読んで取り澄ましている方が、よほどコジツケなのである。前の俊成の歌とここへ並 んでいる一連の連絡を、匂いづけを、悟り澄ました諦悟の観念でのみ汲みとるなどどうかしていよう。次の俊恵、西行の歌へもかけて読むべし。あたら面白い歌 をつまらなくしてしまうのは、たいてい学者に罪がある。「たけたかきすじ」つまり高尚な点ではこの歌には「おくれ」つまり難がある、と、古い批評のあるの も、私の理解を間接に支持している。

 一一○四 - 一一七七 和歌の六条家を率いた歌学の大家。二条帝勅撰の続詞花集が薨去で成らなかった不運の歌人。



八五 俊恵法師(しゅんえほうし)
 夜もすがらもの思ふころは明けやらで 閨のひまさへつれなかりけり
    

 女の気持ちで恋の恨みを風情にした歌だそうだ。歌合の席での作。昔は三句が「明けやらぬ」とあったとか、意味はその方が言葉にも働きがあって佳いが、流 れのとぎれる感じも、ふと残る。「かるた」歌として上下句に分かれるのなら、江戸以来の「明けやらで」の方がありがたい。聴こえもわずかに佳い。つれない あの男に悲しい思いをさせられていると、目はさめがちに夜が長くて長くて……。独り寝の床の空しくひろいのまで、本当ならあの人が占めていていい場所なの にと、情ない。憎らしいわ……と。なんという坊主の歌のうまいことだろう。「うらむまじき物を恨み、なつかしがるまじき物をなつかしがり、その面影にする こと、恋の道のならひ」なのだそうだ。「来る来る来るとは 枕こそ知れ なう枕 物言はうには 勝事(笑止)の枕」だ。「来ぬ人をまつ」のはよくよく辛い ものだったろう、それをさえ風情に歌を楽しむという歌合だから、エライものだ。作者は源俊頼の子で、京白河に在野の歌林苑を営みたくさんの歌人仲間を集め ていた。同人のハシリか。鴨長明の先生でもあった。十二世紀後半は、一方では源平合戦の武者の世だったが、また一方ではこういう歌仲間たちが活動して新古 今時代を着々準備していた。この作者の歌論の内に、さして一首のうえでは風情はないのに、「言葉をよく続け」れば、「おのづから姿に飾られて」余情や景色 の美を発揮するという指摘がある。詩の秘儀を言いえたか。

 一一一三 - 一一九○頃没 東大寺の僧であったが、京白河に移り住んで「歌壇」を経営、創作としての和歌を鼓吹。



八六  西行法師(さいぎょうほうし)
 歎けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな


「月前恋」の題がある。この作者として特筆大書すべき代表歌とは思わないが、さすがに巧妙、の感想に尽きる。巧妙に過ぎたきらいもある。好きかと聞かれれ ば、それほどは…と、言葉をニゴす。上句でヤリ過ぎている。なげきも、物思いの哀れもとくべつ伝わらずに、ワザだけが見え透く。歎けと「月」が人に物を思 わせる道理はないでしょうが、とテーゼを持ち出す。理屈に過ぎぬと承知で、押し出す。それなのにその月へ言いがかりでも付けたげに、月を見ると涙がこぼれ てしかたがない。歎かせるのは月ならぬ薄情なあの「人」なのに、と。作者自身も、この歌には自信をもって歌友の俊成の判を貰っていた。判者は「心深く優」 としつつも大事な自分の秀歌撰には採っていない。むしろ子の定家の方がこの歌を評価していた。この父子の歌風や歌論の違いを見るには、間に西行の歌を据え てその評価の差を見るのが有効だという考えは、今ではかなり一般化しているのではないか。私もそういう観点から一篇の小説を試みてみた事がある。俳句の虚 子が、師である子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」をガンとして認めなかったと同じような事が、西行の歌に対する俊成定家父子の間にも、まま見られるよ うだ。それはともかく、またこの歌のことはともかく、女歌人ならひとり和泉式部を挙げた私は、男なら結局はこの西行法師の名と歌とを挙げることになろう。 『花月西行』の根に、恋があったろう。
     
 一一一八 - 一一九○ 佐藤義清。鳥羽院の北面武士から多感の春二十三歳で出家。天性の詩人、最初の中世人。



八七  寂蓮法師(じゃくれんほっし)
 村雨の露もまだひぬまきのはに 霧たちのぽる秋の夕暮


「まだひぬ」は、まだ乾かないの意味だから、それさえ読みうれば歌は十分意が通じている。艶っぽい坊主の歌がつづいたが、これはまた墨絵さながらの観があ る。この前の戦争で私が学童疎開した先は丹波の山なかのささやかな村だったが、杉にならんで槙の木も多く、この歌さながらの秋の夕暮は目にも胸にもしみて 忘れない。いま一つこの歌にはやく馴染んだ理由は、私ぐらいな年齢の人には覚えがあろう、霧立のぼるという美人女優がいた。映画は見なくても名前は知って いた。宝塚には百人一首から名乗っていた女優が何人かいた。天津乙女、神代錦などそうだろうが、霧立のぼるはそのものズバリの佳い名だった。「むすめふさ ほせ」一枚札の筆頭で、景色は目に見えて、誰にも親しまれていた。が、私は必ずしも歌はさほどと思わなかった。上句が、微妙だがかすかに口に粘るのだ。 「マ」行の音が重いのだ。「霧たち」はまだしも、「たちのぽる」はナマな物言いに感じられた。作者は定家の年かさな従兄で義理の兄でもあった。俊成が甥を 養子にしていたのだ。彼ら御子左家の中でも名にし負う論客で、歌学の上では対抗する六条家との論争で常に矢面に立って活躍した。その火花の散った大舞台 が、『六百番歌合』といわれる左大将良経主催の歌合だった。判者は俊成がつとめた。六条家では顕昭法師が学殖を示し、寂蓮は果敢な論難で譲らなかった。弟 定家が実力を発揮しだすと自身は出家し、後援した。

 一一三九 - 一二○二 藤原定長。御子左家一統の学・才抜きんでた応援団長格、新古今集の撰進半ばに惜しくも没。



八八  皇嘉門院別当(こうかもんいんの・べっとう)
 難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき
 

 別当も女房名。女は、例外はあるが、たいがい身近な身寄りの男の官職や位階を名乗って宮仕えに出た。女を、なるべく誇らしい名乗りで出してやれるのが男 の甲斐性でもあったろう。待賢門院が鳥羽院の皇后だったように皇嘉門院は崇徳院の皇后だった。作者はその人に仕えて十二世紀の末まで生きた。「旅宿に逢ふ 恋」の題で、やはり歌合の際の歌。一首の和歌としては最高度の技巧をこらし、しかも寸分のゆるみなく歌い切っている。屈指の名歌といえる。「難波江」「葦 (悪し)」「刈り根(仮り寝)」「一節(一夜)」そして「みをつくし」「渡る」と縁語で緊密に繋ぎながらうるさく感じさせない。芯は「ひとよ」という短 さ、はかなさ。その恋に身を尽し殉じてしまう私なのかと、なげきつつも肯定しているひたむきな迫力がよく表現できている。たった一夜の契りが旅の宿りで籠 められた。どこかわびしい体験のようでもありながら、みごと情ある恋として美しく歌われている。事実以上の、詩の美しさというよりない。「優なるべし」と の古人の感想はもっともで、序詞も掛詞も「優」に一首の景色たりえている。旅に風情を添える水の魅力がこの歌には、それと言わずに十二分のびやかにひろ がっている。まちがいなく当時の人にはさまざまな説話や伝説に彩られて、難波江の宿と聞くだけで豊かな水のイメージが蓄えられていたはず。しかもその下地 を欠いた我々にも、この歌、なお心惹く十分な情緒がある。

 生没年未詳 十二世紀末も存生の女房歌人、源氏。皇嘉門院は九条兼実異母姉、別 当の活躍もその範囲で知られる。



八九  式子内親王(しょくし・ないしんのう)
 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする  
  

「忍ぶる」は、今の語感では「秘める」「隠す」に同じと取っていい。「弱りもぞする」は、このうえ生き長らえてなどいたら、この思いを「忍ぶる」気力が 弱ってしまうに違いない、そんな事になると困る、位な気味を込めた表現で、それだからこの切ない命を繋いだ「魂の緒」など、玉飾りの緒が切れるのと同じ に、切れるなら切れてしまえ絶えるなら絶えてしまえとうめくのだ。百首歌を詠んだなかの「忍恋」の題詠。和泉式部に匹敵する古代最末期のすぐれた歌人だっ た。これまた間然するところない名歌で、ただ歌一首のまえで呆然自失する。この内親王には、今やいろいろに伝説化した話柄がからまりついている。家司だっ た定家との忍ぶ恋などその典型で、能の舞台にもしばしば演じられ、それらがこの歌の鑑賞にもとかく影をおとすことになる。それもよし、さりとてそういう支 持がないと保たない歌ではなく、十分に自立しえた立派な一首である。俊成の『古来風体抄』を、私は、定家の『近代秀歌』に先立つだいじなものと時々読み返 しているが、これが式子内親王へ献じられたいわば教科書だったらしい。後白河院の第三皇女、平家討つべしと頼政と兵を興したあの以仁王の同母妹だった作者 の生涯は、寂しいなかにも俊成父子など佳き同伴者をえて歌の道に没頭できたのはなによりだった。正治三年、十三世紀の第一年に亡くなっている。その哀切な 恋の歌の数々は、多くは胸を打つ忍ぶ恋の歌だった。

 一一四九 - 一二○一 賀茂斎院。乱世のかげに生きて、藤原俊成に深く師事した新古今歌人の代表的な一人。



九〇  殷富門院大輔(いんぷもんいんの・たいふ)
 見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色はかはらず  


 難の多い技巧歌で、すらりと胸に落着かない。「ばやな」「袖だにも」と言めんどうで、眼目の「ぬれにぞぬれし」が美しくない。その上へ「色はかはらず」 の座りがわるい。その証拠と言えるかどうか「かるた」遊びの折に、この結句を「色はかはらじ」と読む人がいた。なんだかその方が音楽である「うた」は、落 着いたのだろう。あの人に「見せてやりたい」という語気するどい歌い出しの、その見せたいのが、泣きの涙で色の変ってしまった自分の袖なのは無論でありな がら、あれほど潮に濡れても色までは変っていない雄島の海人の袖の方を見せたいかと、ふと短絡しかねないあやうさが、この一首の措辞にはある。相当な歌詠 みだった作者だが、そしてこの歌も評判をえて人の口にのぼっていたらしいが、だからといってその歴史的事実にあまり深々と会釈を返して、自身鑑賞の実感を 失ってしまってはなるまい。古今の懸隔は余儀ないことであり、いかに同時代に受入れられた作品でも、それ自体に判断の尺度を求めるだけでは困る。参照はし ても囚われては間違う。批評や鑑賞は、作者の名にひきずられる事なく、まずは作品そのものへ何より自身の感想をまず正対させるべきだろう。いろんな既製の 評判に遠慮しすぎて、せっかくの自分の感想や批評を、ただ生まぬるく相対化ばかりしていたのでは、「読み」が「体験」にまで深まらずじまいに終るだろう。 知識だけの読みでは生きる蓄えにはなりにくい。

 生年未詳 - 一二○○頃七十歳ほどで没か。 藤原氏。小侍従、二条院讃岐らとならぶ十二世紀末の練達の歌人。



九一 後京極摂政太政大臣(ごきょうごくの・せっしょう・だいじょうだいじん)
 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む 
                                                                           
 藤原兼実の子、良経。三十八歳で変死した。定家をも嫉妬させるほどの歌の上手だったといわれ、定家をおもしろずく犯人扱いしたような巷説もあらわれたり した。人材としても惜しまれ、その篤い後援をえていた定家ら御子左家にも急な死は大きな衝撃だった。父兼実の痛嘆極まりなく、この後に急速に法然上人への 帰依を深めて行った。藤原氏一の人の念仏信仰への傾斜は、それ自体が大きな政治問題ですらあった。この歌では誰しも一読、柿本人麿の「足引の山鳥の尾のし だり尾のながながし夜をひとりかもねむ」を思い出す。そういう歌をこの時代の用語で「本歌」といった。思い出せる本歌はむろん思い出して、ダブル・イメー ジの面白さを堪能するのが佳いに決っている。問題は力及ばず思い出すどころか知らない場合はどうなるか、だ。この歌には今ひとつ「さむしろに衣かたしき今 宵もや我を待つらむ宇治の橋姫」という『古今集』の一首が本歌になっている。それを知らないと不可いと言われたのでは、一般市民は古典など鑑賞を禁じられ たのも同然になる。こういう知識は志深く繰返し読むうちには向うから寄って来てくれる。そう気にする必要はない、致命的な影響はない、と言っておく。「衣 片敷き」と読めれば難儀な歌ではない。「なくや霜夜のさむしろ」がよく利いた表現で、言うまでもない作者も泣いている。「や」と「さ」の「うた」効果は憎 いばかりで、虫の鳴く音が耳にしむ名歌だ。

 一一六九 - 一二○六 藤原忠通の孫、俊成卿に師事し、新古今集の仮名序を書き、歌史に名高い六百番歌合を主催。



九二  二条院讃岐(にじょうのいんの・さぬき)
 我が袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾くまもなし


「潮干」にも人の目には見えない遠い沖の石が、それでも濡れに濡れて乾くまがないに違いないように、私の袖も、あなたは知らない顔をなさるけれど、悲しい 涙で乾くまなどありませんの……と。「しほひに見えぬ」の聴こえの危うさを、「沖の石の」と字余りにつづけて気分を盛りあげた手腕で、一首は稀にみる安定 をえた。「沖の石の讃岐」ともてはやされたのは、作者の父にすでに知られた「磯の石」や汀の「離れ石」を詠んだ歌があっての対照から。父というのは、歌人 としてもよく名を知られ、しかも源平合戦の火蓋を切って落とした事で歴史にながく名を残す、源三位頼政。さすがに父の名を恥ずかしめない歌詠みで、定家 は、当時の有家、雅経、家隆などにも劣らぬ実力を高く買っていた。この歌、『千載集』に俊成が採ったままの表記だが、『二条院讃岐集』では結句が「乾くま ぞなき」となっている。ここはこのままの方がやや佳いように思っている。「まもなし」ではやや軽い。但し元歌の初句は、「我恋は」で、これでも成立つ歌だ けれど、やはり乾くにせよ濡れるにせよ、縁語の「袖」を利かした方がだいぶ佳い。あるいは俊成の手が加わったものか。題に「石に寄する恋」とある。『万葉 集』の昔から正述心緒の歌とならび寄物陳思の詠作はあったわけだが、こうした発想がどれほど人と自然との交歓に、感性の洗練に、自然な趣向の工夫に役立っ てきたか、具体的に広い領域で調べ直してみたいものだ。

 一一四一 - 一二一七 二条天皇の女房、次いで宜秋門院に仕えて、のち出家。百首歌や千五百番歌合に力量を発揮。



九三  鎌倉右大臣(かまくらの・うだいじん)
 世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも


 言うまでもない作者は鎌倉の社頭に非業に斃れた将軍源実朝、年二十八。独自の『金塊和歌集』を遺した。さて、この歌の従来普通の読みにも、私は、簡単に 首肯けないでいる。「世の中はつねにもがもな」を、ある現代語訳の例のように、「世の中は常に変わらぬものであってほしいものだなあ」と置き換えただけで 済むのだろうか。「世の中」をどう把握しているのか、ボヤーッとしていて、靴を隔ててかゆい所を掻いているような不満が残る。作者は「世の中は」に、いき なり人生とか、此の世とか、社会とか、世界中はとかいう感慨を託していただろうか。そうまで大風呂敷をひろげてしまうと、却って一首の和歌としては肩肘が 張ってしまい、ピンと来ない。ここの「海人」は一人でなく二人、それも夫婦かと見える二人の姿と、先ずは読むべきではないのか。「綱手」は、「綱手引くち かのしほがまくりかへしかなしき世をぞうらみはてつる」という定家の歌にもあるように、「くりかへし」「引く」作業として面白くうらがなしく印象づけられ ており、そこに、無常ならぬ「つね」の語感が生きて来る。大自然の一点景となって遠いなぎさを漕ぎわたり行く、あのおそらく海人夫婦の、なんと根気よくど こまでも綱手を繰返し引いて行くことよ。その静かな光景をひとり眺めていると、男と女のあのような愛の協力が、暮しの平和がいつまでも変らであれと願われ てならない…と。かくてこそ、詩になる。

 一一九二 - 一二一九 源頼朝の子、母北条政子。定家卿に師事し「近代秀歌」を贈られる。独自の万葉調をも成す。



九四  参議雅経(さんぎ・まさつね)
 み吉野の山の秋風小夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり      


 藤原氏で『新古今集』撰者の一人。和歌のほかに蹴鞠でも知られた飛鳥井家の祖になる。さてこの歌に限っていえば、ちょっと杜甫の詩を読むような深みもあ り、秀歌の名にそむかない。詠みあげて、しんとする感慨が胸にある。さりげない、技巧的なもののない歌だが味わいは非常に濃い。「衣うつ」というのを、秋 風が、着た着物の裾や袖をはためかす意味に取っては足りない。むろんそこまで読みながら、主な意味は吉野の里人が砧を擣つのである。秋とはいえ冬の到来も 想わせて、「小夜ふけ」ての風は「寒」い。「ふるさと」という表現に、人けの絶えた山里の、だが戸ごとにまだ人の営みの懐しさが、灯の色のもれる具合によ くにじみ出ている。ただ、この歌には本歌として、私なども記憶にある「み吉野の山の白雪つもるらし故里寒くなりまさるなり」が先行している。よく似てい る。本歌取りというには、取り過ぎでないかという議論が、だからついてまわる。その気味はたしかにある。ましてこの作者には、これと限らずに他人の歌の言 葉を、やや取り過ぎるのではという評判が当時からあったので、割引いて評価する向きも無いではない。私は、この歌に限ってともう一度断った上で、これは本 歌の域をまた大きく新古今調に乗り超えての佳い歌だと感じている。定家の撰に異存はない。この作者の岳父は、鎌倉幕府の大立者の一人大江広元だった関係か ら、当時の公家としては数多く鎌倉へも出向いていた。

 一一七○ - 一二二一 藤原氏。俊成卿に師事し千五百番歌合などに参加、参議としていわば内閣にも加わった。



九五  前大僧正慈円(さきのだいそうじょう・じえん)
 おほけなく浮世の民におほふかな わがたつ杣に墨染の袖


 この歌は、苦手にしていた。何と言われようと私の感性にしかと触れて来ないのだから仕方がない。だが、概して慈円の歌はこういうのが多いし、それが似合 う人だ。鼻の大きい人だったことが画像から察しられるが、人物も豊かで、この時代と限らず文化史的にも第一級だった。九条兼実の弟で天台座主に何度も就 き、承久の乱の直前には『愚管抄』を著して歴史の道理を説き、どうかして公武の衝突を避けるよう暗に後鳥羽院に働きかけたりしている。歌詠みが大好きで、 あまりのことに諌める人があると、誰にでも一と癖はあるではないか、私にも、この歌詠みの癖だけは許して欲しいという意味の返事を、即座に歌でして返した という逸話が伝えられている。物を言うように歌が出来たというからは、自然と述懐歌が多かったのだろう、この歌も大柄なその一つである。「わが立つ杣」 は、理屈抜きに延暦寺のある「比叡山」そのもののことと覚えてしまおう。この作者は自身「我立杣老比丘」と自称してもいた。比叡一山に何度も君臨したよう な人だから気宇も大きい。それでも遜って「おほけなく」つまり分不相応ながら、一世の師表として浮世の民をことごとくこの比叡山から私の墨染の袖のかげへ 蔽い取ろうというのだ。ま、こんな事は誰にでも言えることでない。しかもこの歌を詠んだ頃の作者は、まだ天台座主にはなっていなかった。この人は平家物語 の成立にも大きな背後の力になっていたらしい。

 一一五五 - 一二二五 藤原忠通の子。天台座主を四度。新古今時代代表的な自在歌人。史家また警世の人でも。



九六  入道前太政大臣(にゅうどう・さきのだいじょうだいじん)
 花さそふあらしの庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり 


 西園寺公経、藤原氏。源頼朝の姪を妻にしていた関係からも親鎌倉派の最右翼に数えられ、承久の乱の際には後鳥羽院らに拘禁された。だが鎌倉勝利のあとの 一家の繁栄はめざましかった。定家の妻はこの作者の姉であり、御子左家の歌学は大きな庇護をえた。そういう俗なはなしはさて措いて、この歌は文句なしに子 供の頃から大好きだった。『新勅撰集』の雑部に撰者定家により採られている。一読、華麗に寂しい。「花さそふあらしの庭の雪」とはあまりに美しい。むろん 風に舞って真っ白な「雪」と見まがう桜花が、降りに降るのだ。その「降る」にかけて年「古る」わが身の上をなげいている。髪にいただく白さも謂われてい る。それにしてはイメージの旺盛な歌で、老い衰えたなさけなさとは、ちょっと無縁な歌いざまだ。「落花を」目前にしての感動の方がつよく、老いのなげき は、美しい極みの花に卑下した余裕の挨拶であるか、にも読める。私は、どっちかと言えば下句の述懐より上句の華麗に重きのありそうな、いかにも栄華の人の 位たかい歌と受取り、しかも軽薄に流れるところの微塵もない詠み巧者の藝に感心する。この人は歌の上手なのだと思う。のちに北山文化とうたわれ金閣の建っ た鹿苑寺が、西園寺殿の古跡だった。幸運に恵まれて従一位太政大臣、入道して大相国とまでいわれたが摂政にも関白にもならなかった。古代に厳重に築かれた 家柄の壁は動かぬ伝統と化し、極位極官を固守した。

 一一七一 - 一二四四 親幕派の惣領格、承久の乱後の京都政界に事実上君臨。縁戚の御子左家風と歌境進展に寄与。



九七  権中納言定家(ごんのちゅうなごん・さだいえ)
 こぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ  


『百人一首』撰者の自撰歌である。よくよくの自賛歌だったろう。この直前に『百人秀歌』があり、手直しの体で定家自身の手でともあれ完成したのが文暦二年 (一二三五)五月ないし直後頃かと推定できる。『秀歌』段階では百一首で、隠岐と佐渡へ流されていた後鳥羽・順徳院の歌はなく、一条院皇后宮と権中納言の 国信と長方とが入り、源俊頼の歌が「うかりける」でなかった。未解決の点はまだあるが、およそそういう事だった。この歌は、待てど暮せど来ぬ人を待つ女 の、身を焼くなげきを歌っている。淡路島松帆の浦という歌枕にかけて「来ぬ人を待つ」気持ちを、夕なぎのさなか藻塩焼くけむりの棚引きもせずやるせなく立 ちのぽる気うとさに言よせ、「身もこがれつつ」と表現した。この「つつ」には、そういう境涯の日々うちつづく苦しさが籠められる。さすがである。初句と五 句の「コ」の音が響き合い、「夕なぎに焼くや藻塩」の聴こえも抜群に美しい。『万葉集』長歌を本歌にしているのだが、そんな事をまるで思わせない完成度を 一首の和歌として誇っている。それにしても定家ほど各時代の歌風に実技的にも通じていた人は珍しい。その作になる『松浦宮物語』などを読むと、定家が作中 人物をかりて実際にいろんな歌風をこころみていた事が分かり、驚いた記憶がある。ある意味では和歌の素質を変えてしまったような、革新的な最初のプロ歌人 だった気もする。今日もその保守的末流で溢れている。

 一一六二 - 一二四一  歌道精進の勉強家で、病弱ながら長命し古典保存にも大きな業績。新古今・新勅撰集選者。



九八  従二位家隆(じゅにい・いえたか)
 風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける 

   
「ならの小川」を奈良市内の川と思ってしまわぬこと。「楢」の葉そよぐ情景と、京都上賀茂神社境内の摂社奈良社の前を流れている小川とを、想い合せて欲し い。一瞬季節を見失う涼しさだが、見ると六月祓えに「みそぎ」する人があって、ああ夏だったと思う…歌。定家、家隆と並び称される歌人の代表作としては、 甚だ物足りない。ここへ来て拍子抜けがする。茶の湯の稽古をしていた頃、竹の柄杓を用いるのに夏用と冬用との区別があった。どこで見分けるかというと、柄 の裾が斜めにちいさく削いである。皮の方へ削いだのが冬用、そして「身削ぎ」ぞ「夏のシルシ」と教えられた。そんなたわいないことを思い出す程度の歌だっ た、私には。屏風の絵に添えた歌だったというから、どこか型にはまっているのだろうか。くどいイヤみは無い。心涼しい気分もある。けっしてワルくはないの だが、「まつほの浦」の歌にこってりと焼き立てられたあとでは、淡彩に過ぎる。それよりもこの作者で忘れがたいのは、最期まで隠岐に悲運の後鳥羽院を京都 から慰めつづけた忠節な態度だ。どれだけ院は、この人とのいろいろな消息の往来に心を和らげられたことか。その点、心の内とは逆だったろうが、表向きは後 鳥羽院のとかく不興を買いやすかった定家の立場というのは、辛かった。歌聖とあがめられ、その後の和歌世界にまさに君臨した定家の和歌作法を、隠岐島から も徹して批判し続けたのは後鳥羽院だった。

 一一五八 - 一二三七 俊成に入門、定家と並び称せられて御子左歌風の鼓吹と成就に寄与、新古今集の撰者の一人。



九九  後鳥羽院(ごとばのいん)
 人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は


 勅撰集にこれほど数多くの歌が採られた天皇がいただろうか。『新古今集』以下に二百四十八首。すぐれた歌人だった。主導した『新古今集』は、『万葉集』 や『古今集』の規範性や独創性には及ばないが、古代を仕上げ中世を性格づけた。この院は、また身を以て政治の流れを武士の手にゆだねてしまった。自身はそ の武士の力で隠岐の小島に流され、薨じてなお都への帰還が許されなかった。この歌を読む者は、ついそういう時期の院のつらい述懐かと思う。それで選ばれた 歌かと思う。事実は建暦二年(一二一二)の作で、この頃迄に『新古今集』は成っていたものの、院はわずかに三十余歳、まだ鎌倉との決定的な破局へ九年をあ ましていた。しかし東国武士に対する不満は日々に深まりつつあった。この時院は春五首、秋十首のほかに述懐五首を詠んでいたが、この歌はその述懐最後の一 首である。この歌に限っては「人」も「世」も、およそは時代の動向とともに理解した方が佳い。「人もをし」は「愛し」の意味で読みたい。「愛し」「恨め し」「あぢきなし」「思はし」と作者の気持ちは分裂気味にジレている。強いてとれば、「この日本の国が心配なあまり何かにつけ物思いに悩むわが身には」と 謂う下句だろう。但しこの全体に「あぢきなく」と冠せてある。「さまざまな不満を抱きながら」とでも読み、そして上二句へ意味が戻るのだろう。ここの 「人」はあまり深追いせず、人はさまざまにと読みたい。

 一一八○ - 一二三九 第八十二代天皇。新古今時代を主導。また鎌倉幕府と烈しく対立、敗退して古代の幕を引く。



一百  順徳院(じゅんとくいん)
 百敷やふるき軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり      


 そばで見れば、かなり血気と魅力に富んだ青年だったろうという気がする。父後鳥羽院の討幕計画に果敢に参加して迷いが見られなかった。その一方で歌学書 『八雲御抄』や有職書『禁秘抄』を著すなど文化面の業績もある。佐渡へ流されて佐渡で二十年、やはり京都へ帰ることなく薨じた。この歌はその運命を招いた 承久の乱勃発の直前に詠まれている。さきの父院の述懐歌よりはるかに直接に皇室の衰えを嘆いた歌で、それなりに胸打つ力がある。「百敷」はこの歌では即ち 朝廷を謂っている。やや和らげて読むなら大宮、宮中の意味。その軒端に「しのぶ草」が蔓を垂れている。そのさまに目をとめながら「ふるき」昔の栄華や権威 や格式を「偲ぶ」のだが、いま目前の衰えは目にあまり憤激と哀惜の思いもとても「忍ぶ」には余りあり過ぎて…ひたぶる昔恋しい、と。独り順徳院の思いでな く、この歌を以て『百人一首』を結び籠めた時点での、撰者藤原定家その人の感慨でもあった事は、寸毫疑いを容れない。そう思いながめて、初めて冒頭歌の天 智天皇に託した「わが衣手は露にぬれつつ」の感慨にも、何らか時代をかなしむ意味が籠められていたのではないかと思い当るのは、それも自然なことで、あえ て否認の必要もなかった。思えば『百人一首』の百人には、北条氏の手に倒された「右大臣」実朝のほかに一人の東国勢も加えていない。この選択に公家文化を 担った定家の、誇りに溢れた憂憤の気概があろう。

 一一九七 - 一二四二 第八十四代天皇。父後鳥羽院の先鋒として京方に殉じた。賢明好学を歌学「八雲抄」に結晶。




百首索引(上句)
*表記はひらがなにより、配列は発音による五十音順によった。数字は歌番号を示す。

 あ
あひみての………………43
あきかぜに………………79
あきのたの………………1
あけぬれば………………52
あさぢふの………………39
あさぼらけ
 ありあけのつきと……31
あさぼらけ
 うぢのかはぎり………64
あしびきの………………3
あまつかぜ………………12
あまのはら………………7
あらざらむ………………56
あらしふく………………69
ありあけの………………30
ありまやま………………58
あはぢしま………………78
あはれとも………………45

 い
いにしへの………………61
いまこむと………………21
いまはただ………………63

 う
うかりける………………74
うらみわび………………65

 お
おほえやま………………60
おほけなく………………95
あふことの………………44
おくやまに………………5
をぐらやま………………26
おとにきく………………72
おもひわび………………82

 か
かくとだに………………51
かささぎの………………6
かぜをいたみ……………48
かぜそよぐ………………98

 き
きみがため
 をしからざりし………50
きみがため
 はるののにいでて……15
きりぎりす………………91

 こ
こひすてふ………………41
こころあてに……………29
こころにも………………68
こぬひとを………………97
このたびは………………24
これやこの………………10

 さ
さびしさに………………70

 し
しのぶれど………………40
しらつゆに………………37

 す
すみのえの………………46

 せ
せをはやみ………………77

 た
たかさごの………………73
たきのおとは……………55
たごのうらに……………4
たちわかれ………………16
たまのをよ………………89
たれをかも………………34

 ち
ちぎりおきし……………75
ちぎりきな………………42
ちはやぶる………………17

 つ
つきみれば………………23
つくばねの………………13

 な
ながからむ………………80
ながらへば………………84
なげきつつ………………53
なげけとて………………86
なつのよは………………36
なにしおはば……………25
なにはえの………………88
なにはがた………………19

 は
はなさそふ………………96
はなのいろは……………9
はるすぎて………………2
はるのよの………………67

 ひ
ひさかたの………………33
ひともをし………………99
ひとはいさ………………35

 ふ
ふくからに………………22

 ほ
ほととぎす………………81

 み
みかきもり………………49
みかのはら………………27
みせばやな………………90
みちのくの………………14
みよしのの………………94

 む
むらさめの………………87

 め
めぐりあひて……………57

 も
ももしきや………………100
もろともに………………66

 や
やへむぐら………………47
やすらはで………………59
やまがはに………………32
やまざとは………………28

 ゆ
ゆふされば………………71
ゆらのとを………………46

 よ
よをこめて………………62
よのなかよ………………83
よのなかは…‥…………93
よもすがら………………85

 わ
わがいほは………………8
わがそでは………………92
わすらるる………………38
わすれじの………………54
わたのはら
 こぎいでてみれば……76
わたのはら
 やそしまかけて………11
わびぬれば………………20



百首索引(下句)
*表記はひらがなにより、配列は発音による五十音順によった。数字は歌番号。

 あ
あかつきばかり…………30
あしのまろやに…………71
あまのをぶねの…………93
あまりてなどか…………39
あらはれわたる…………64
ありあけのつきを………21
あはでこのよを…………19
あはれことしの…………75

 い
いかにひさしき…………53
いくよねざめぬ…………78
いづくもおなじ…………70
いつみきとてか…………27
いでそよひとを…………58
いまひとたびの
 あふこともがな………56
いまひとたびの
 みゆきまたなむ………26

 う
うきにたへぬは…………82
うしとみしよぞ…………84

 お
おきまどはせる…………29
をとめのすがた…………12

 か
かひなくたたむ…………67
かけじやそでの…………72
かこちがほなる…………86
かたぶくまでの…………59
からくれなゐに…………17

 き
きりたちのぽる…………87

 く
くだけてものを…………48
くもゐにまがふ…………76
くもがくれにし…………57
くものいづくに…………36

 け
けふここのへに…………61
けふをかぎりの…………54

 こ
こひしかるべき…………68
こひぞつもりて…………13
こひにくちなむ…………65
こゑきくときぞ…………5
ころもかたしき…………91
ころもほすてふ…………2

 さ
さしもしらじな…………51

 し
しつこころなく…………33
しのぶることの…………89
しるもしらぬも…………10
しろきをみれば…………6

 す
すゑのまつやま…………42

 た
ただありあけの…………81
たつたのかはの…………69

 つ
つらぬきとめぬ…………37

 と
とやまのかすみ…………73

 な
なほあまりある…………100
なほうらめしき…………52
ながくもがなと…………50
ながながしよを…………3
ながれもあへぬ…………32
なこそながれて…………55

 ぬ
ぬれにぞぬれし…………90

 ね
ねやのひまさへ…………85

 は
はげしかれとは…………74
はなぞむかしの…………35
はなよりほかに…………66

 ひ
ひとをもみをも…………44
ひとこそしらね…………92
ひとこそみえね…………47
ひとしれずこそ…………41
ひとづてならで…………63
ひとにしられで…………25
ひとにはつげよ…………11
ひとのいのちの…………38
ひとめもくさも…………28
ひるはきえつつ…………49

 ふ
ふじのたかねに…………4
ふりゆくものは…………96
ふるさとさむく…………94

 ま
まだふみもみず…………60
まつとしきかば…………16
まつもむかしの…………34

 み
みをつくしても…………20
みをつくしてや…………88
みかさのやまに…………7
みそぎぞなつの…………98
みだれそめにし…………14
みだれてけさは…………80
みのいたづらに…………45

 む
むかしはものを…………43
むべやまかぜを…………22

 も
ものやおもふと…………40
もみじのにしき…………24
もれいづるつきの………79

 や
やくやもしほの…………97
やまのおくにも…………83

 ゆ
ゆくへもしらぬ…………46
ゆめのかよひぢ…………18

 よ
よをうぢやまと…………8
よをおもふゆゑに………99
よしののさとに…………31
よにあふさかの…………62

 わ
わがころもでに…………15
わがころもでは…………1
わがたつそまに…………95
わがみひとつの…………23
わがみよにふる…………9
われてもすゑに…………77



作者索引
*配列は現代かなづかい五十音順。 *作者名、姓名、名のいずれでも引け、
( )内には百人一首の作者名または姓名を示した。 *数字は、歌番号。


 あ
赤染衛門…………………59
赤人(山部――)………4
顕輔(左京大夫――)…79
朝忠(中納言――)……44
朝康(文屋――)………37
敦忠(権中納言――)…43
安倍仲麿…………………7
在原業平朝臣……………17
在原行平…………………16

 い
家隆(従二位――)……98
和泉式部…………………56
伊勢………………………19
伊勢大輔…………………61
殷富門院大輔……………90

 う
右近………………………38
右大将道綱母……………53

 え
恵慶法師…………………47

 お
大江千里…………………23
大江匡房(前中納言匡房)73
凡河内躬恒………………29
大伴家持(中納言家持)…6
大中臣能宣(――朝臣)…49
興風(藤原――)………34
小野小町…………………9
小野篁(参議篁)………11

 か
柿本人麿…………………3
兼輔(中納言――)……27
兼昌(源――)…………78
兼盛(平――)…………40
鎌倉右大臣(源実朝)…93
河原左大臣(源融)……14
菅家(菅原道真)………24

 き
紀伊
 (祐子内親王家――)72
喜撰法師…………………8
儀同三司母………………54
紀貫之……………………35
紀友則……………………33
行尊(大僧正――)……66
清輔(藤原清輔朝臣)…84
清原深養父………………36
清原元輔…………………42
公経(入道前太政大臣)96
公任(大納言――)……55

 け
謙徳公(藤原伊尹)……45

 こ
皇嘉門院別当……………88
光孝天皇…………………15
皇太后宮大夫俊成
 (藤原俊成)…………83
後京極摂政前太政大臣
 (藤原良経)…………91
小式部内侍………………60
後徳大寺左大臣
 (藤原実定)…………81
後鳥羽院…………………99
小町(小野――)………9
伊尹(謙徳公)…………45
是則(坂上――)………31
権中納言敦忠
 (藤原敦忠)…………43
権中納言定家
 (藤原定家)…………97
権中納言定頼
 (藤原定頼)…………64

 さ
西行法師…………………86
坂上是則…………………31
相模………………………65
前大僧正慈円……………95
前中納言匡房
 (大江匡房)…………73
左京大夫顕輔
 (藤原顕輔)…………79
左京大夫道雅
 (藤原道雅)…………63
定家(権中納言定家)…97
定方(三条右大臣)……25
定頼(権中納言定頼)…64
実方(藤原実方朝臣)…51
実定(後徳大寺左大臣)81
実朝(鎌倉右大臣)……93
讃岐(二条院讃岐)……92
猿丸大夫…………………5
参議篁(小野篁)………11
参議等(源等)…………39
参議雅経(藤原雅経)…94
三条院……………………68
三条右大臣(藤原定方)25

 し
慈円(前大僧正慈円)…95
重之(源重之)…………48
持統天皇…………………2
寂蓮法師…………………87
従二位家隆(藤原家隆)98
俊恵法師…………………85
俊成
 (皇太后宮大夫俊成)83
式子内親王………………89
順徳院……………………100

 す
崇徳院……………………77
周防内侍…………………67
菅原道真(菅家)………24

 せ
清少納言…………………62
蝉丸………………………10

 そ
僧正遍昭…………………12
素性法師…………………21
曾禰好忠…………………46

 た
待賢門院堀河……………80
大僧正行尊………………66
大納言公任 (藤原公任)55
大納言経信(源経信)…71
大弐三位…………………58
平兼盛……………………40
篁(参議―)……………11
忠平(貞信公)…………26
忠見(壬生――)………41
忠通(法性寺入道前関白
 太政大臣)……………76
忠岑(壬生――)………30

 ち
千里(大江――)………23
中納言朝忠(藤原朝忠)44
中納言兼輔(藤原兼輔)27
中納言家持(大伴家持)6
中納言行平(在原行平)16

 つ
経信(大納言――)……71
列樹(春道――)………32
貫之(紀――)…………35

 て
貞信公(藤原忠平)……26
定家(権中納言――)…97
天智天皇…………………1

 と
道因法師…………………82
融(河原左大臣)………14
俊成
 (皇太后宮大夫――)83
敏行(藤原敏行朝臣)…18
俊頼(源俊頼朝臣)……74
友則(紀――)…………33

 な
仲麿(安倍――)………7
業平(在原業平朝臣)…17

 に
二條院讃岐………………92
入道前太政大臣
 (藤原公経)…………96
 
 の
能因法師…………………69

 は
春道列樹…………………32

 ひ
等(参議―)……………39
人麿(柿本――)………3

 ふ
深養父(清原―――)…36
藤原顕輔
 (左京大夫顕輔)……79
藤原朝忠(中納言朝忠)44
藤原敦忠
 (権中納言敦忠)……43
藤原家隆(従二位家隆) 98
藤原興風…………………34
藤原兼輔(中納言兼輔)27
藤原清輔朝臣……………84
藤原公経
 (入道前太政大臣)…96
藤原公任 (大納言公任)55
藤原伊尹(謙徳公)……45
藤原定家
 (権中納言定家)……97
藤原定方(三条右大臣)25
藤原定頼
 (権中納言定頼)……64
藤原実方朝臣……………51
藤原実定
 (後徳太寺左大臣)…81
藤原俊成
 (皇太后宮大夫俊成)83
藤原忠平(貞信公)……26
藤原忠通(法性寺入道
 前関白太政大臣)……76
藤原敏行朝臣……………18
藤原雅経(参議雅経)…94
藤原道信朝臣……………52
藤原道雅
 (左京大夫道雅)……63
藤原基俊…………………75
藤原義孝…………………50
藤原良経
(後京極摂政太政大臣)91
文屋朝康…………………37
文屋康秀…………………22

 ほ
法性寺入道前関白
 太政大臣(藤原忠通)76
堀河(待賢門院――)…80

 ま
雅経(参議――)………94
匡房(前中納言――)…73

 み
道真(菅家)……………24
道綱母(右大将―――)53
道信(藤原道信朝臣)…52
道雅(左京大夫――)…63
躬恒(凡河内――)……29
源兼昌……………………78
源実朝(鎌倉右大臣)…93
源重之……………………48
源経信(大納言経信)…71
源融(河原左大臣)……14
源俊頼朝臣………………74
源等(参議等)…………39
源宗干朝臣………………28
壬生忠見…………………41
壬生忠岑…………………30

 む
宗干(源宗干朝臣)……28
紫式部……………………57

 も
元輔(清原――)………42
基俊(藤原――)………75
元良親王…………………20

 や
家持(中納言――)……6
康秀(文屋――)………22
山部赤人…………………4

 ゆ
祐子内親王家紀伊………72
行平(中納言――)……16

 よ
陽成院……………………13
義孝(藤原――)………50
好忠(曾禰――)………46
良経
(後京極摂政太政大臣)91
能宣(大中臣――)……49

 り
良暹法師…………………70




   あとがき(平凡社版)

 この本『秦恒平の百人一首』での私の態度は、はっきりしている。
『百人一首』は、わずかに先行したであろう『百人秀歌』の用意をもふくめ、すべてが藤原定家の手で、中院別荘の障子のために色紙形染筆が成ったとほぼ同 じ、即ち文暦二年(一二三五)五月頃には成っていたと見る。隠岐と佐渡の両院のことも、定家は仕切りを付けていて迷いはなかったと見るのであり、為家をふ くむ後人の作為の必要などなかったものと私は見.るのである。巻末に据えた小説『月の定家』(湖の本26所収既刊)は、右の見極めを、定家が生涯の歌道に 照らし合わせ、小説家なりに表現した意欲作であり、この本になまじいに学者が書く「解説」は副えなかった。
 小説の語りくちは、章(三章)ごとに趣を変え、趣向の「本づくり」でこの一冊、「百人一首」ファンに、よほど風変りなサービスを楽しんでいただけよう か。
 小説の一、二章は、かつて雑誌『太陽』(昭和五十五年十月号)が「百人一首と藤原定家」を特集した折に、『俊成と西行』の題で書いていた。が、その折に は紙数の関係で割愛した「定家」の章を、幸いに今度追加書き下ろすことが出来た。ここまで書いて「一篇」という思いが、当初来あった。心行く擱筆に機会を 与えられた平凡社に感謝している。

 さて『百首私判』であるが、根に、少年の頃に打ち込んだ「かるた読み」が横たわっている。その昔の一首一首に向けた「好き嫌い」の思いが、意外につよく 残っている。歌の意味から好み悪むということもあり、また歌の「うた」たる音楽的な聴こえに関わって、容赦ない批判を加えつづけて来たとも思う。ご存じの 方も多い、私自身、少年の昔から短歌の執心実作者であったことが、迷いなくものを言わせている。つまりただの鑑賞でも、まして解説や語釈でもなくて、徹し て私の批評、つまり「百首私判」と、はばからず謂う所以である。作者の紹介なども批評の内に必要なかぎり溶かし込んである。
 読みや評価の上でも、自然、大いに通説にさからう所が多い。俊成、清輔や鎌倉右大臣その他の歌の読みなど、なかには眉を逆立てる人もあろうが、それもよ し。むしろ、なるべく天智天皇・持統天皇から後鳥羽院・順徳院まで、順々に読んでほしいと願っておく。この首尾結構に、撰者定家の秘めた祈願が籠められて いようから。かなりの個所で歌合も可能なほどの二首一番の撰歌が為されているのだから。
『百首私判』は、かつて単行本『歌留多』(平凡社 昭和五十九年十一月}に「私のかるた読み」の題で収められていた。一首につき六百字でという堅い制限 に、挑むようにその通り書いたのを覚えている。今回もほとんど手は加えず、原型を残した。

   昭和六十二年(一九八七) 十月十日   秦 恒平