古典愛読 1981.10.15刊 中公新書



   古典愛読   一つの自叙伝

          秦 恒平


     目 次  
                                     
      はじめに――思想の本として
                                                             
      一字一句――ふかく読み透す
                                                           
      歓喜咲楽――伏流する裏文化               
                                          
       一期一会――散ってまた咲く                
                                          
       断絶平家――死なせた者の声         
                                          
       一知半解――それでも愛読を         



  はじめに――思想の本として


 「古典」の本として、本書はかなり風変わりに書かれている。
 序章を含めて五つの章に分かれるが、一つの章で『源氏物語』を、次の章で『平家物語』を語るといった叙述にはなっていない。そういう個々の古典を大見出 しに挙げた鑑賞や解説の本ではなく、これは、いわゆる研究者の論考ないし啓蒙の本とは、根本の動機を異にしている。

 専門の研究者や学者は、極端なことをいえば生涯一つの古典を追究し分析し吟味している。せいぜい同時代の範囲を探索して一時代の特質に絡んだ論考を深め ていることが多い。したがって例えば『古事記』と『源氏物語』と『平家物語』と『謡曲』と『徒然草』と『雨月物語』と漱石や潤一郎とを思う存分一貫して、 好き勝手に、自由自在貫く棒のようにタテ読みする真似は、専門家はまずしない態度になっている。

 しかしわれわれ市井の読者は、そうでない。

 幼時から成人に、そして老境に至るまで数え切れない本を好き勝手に読み、そのどれか一冊から受けた断片的な感銘を、他の一冊の、数冊の、数十冊のそれへ と次から次へ自在に重ね、繋ぎ、綯い合わせながら、その結果自分なりの感興や発見から、人生を生き抜く個性的(時に独善的)な態度や力量や思想を培養し形 成してもなんら差し支えない。咎められる謂われはない。
 たった一冊の本に頼って何かを生むのでも創るのでもない。一見恣意的にみえながら読書子一人一人の素質と語感と人生体験にそって数多い読書のさまざまな 感銘が、深く契合し、融和してその人なりの「愛読」のあとを証して行くというのが、むしろ古来「読書」という営みの本筋であったわけだ、私はそう信じる。

 この本は、紛れないその「実例報告」として書かれた。
 幼時からの一人の古典愛読者が年来の初一念に励まされて徐々に一人の小説家になり変わって行ったその体験に則して、古典を読む面白さを何の捉われもなく 存分に語ってみた。
 読者に知識を提供する本ではない。ただ愛読を、耽読でもいい、無用のためらいなしに「読んでみる」という思い切りだけを、読者に誘いかけている。「読み 方」という規則は、ない、のである。
 本書の大半(「歓喜咲楽」の後半以降)は長篇小説『冬祭り』についで今年(1981)二月から五月初旬にかけて成った。数え切れぬ学恩を多く蒙っている が、その一つ一つは深く私の思いにもう融け合っている。ただ記して深い感謝を表するにとどめたい。
 この本の誕生まで、根気よく督励して下さった中央公論社の青田吉正氏に、またユニークに美しい装画を寄せられた春陽会会員出岡実氏の友情にも、心から有 難うと言う。

   一九八一年秋分の日    秦 恒平


 


   一字一句――深く読み透す


     *

 蔵書を金にかえた覚えが、二度ある。
 一度は生まれ育った京都を――親も友だちも在籍中の大学院も――ふりすてて東京へ出て来る間際だった。たいした嵩ではなかったが虎の子のように大事に買 いため、やっと全巻が揃って間もないその当時の角川書店版『昭和文学全集』や、創元社版の『谷崎潤一郎作品集』なども入っていた。電話で呼んだ本屋が、ど の程度の金を置いて帰ったか、ただ、打ちのめされたほどの金額だっただけが確かな記憶と言える。
 もう一度は、小説家になり今の家に住んで数年、日ましに水嵩が増すように本が溢れだし、たださえ狭い――なんと私ひとりの書斎もない――家がもはや危殆 に瀕すると見えた時に、仕方なく相当な量の本を神田から馳せ参じた古本屋に引きとらせた。市に出したあと売金を届けるという話で、後日、あっと失神しそう なくらいの少額の現金が送られて来た。ただ家が狭いといっただけで私は、近衛家の名高いあの大手鑑を覆刻した、畳一つほどの豪勢な二帖本もやむなく処分し たのだが、実感としては大事な本を例の「チリ紙交換」に間違えて払ってしまったような情なさ。金額の多寡は言うまい。本を、蔵書を、一度めは必要であった が、二度めはその必要すらなくて金に換えた後味のわるさは消えない。
 それ以来、もう旧に二倍も三倍もする本に揉み合って家族四人が寝ている。よくよくの場合には、お世話になっている市の図書館に寄付しているが、それも私 は二度三度思案する。まるで守本奴の体ではあるが、本がどんなに有難いものだったか、本を読んでいると極道呼ばわりする父の家で育ちながら、ただただ本が 読みたさに、つまりは人の本が借りたさに友だちに頭を下げつづけた少年時代を思い、また生まれてはじめて『細雪』の一冊本を自分で買って読み(昭和二十五 年)、またはじめて岩波文庫の『徒然草』(二十五年)や『平家物語』(二十六年)を買った日の足もとから宙に浮かぶような感激を思い起こすと、たとえどの ような本であれ、私にはそう容易く手離せるもので無いのだった。
 いったい「本」とは何だろう。私に「本」について考えさせたのは、けっして難しい哲学書でも大学の講義でもなかった。そのことで思い出ばなしを一つさせ てもらわねばならない。
 もう新制中学へは進んでいたろうか、好きに本を買う小遣いはなくて、よく古本屋で立ち読みに熱中したものだ、たとえば佐々木邦。その佐々木邦のユーモア 小説の中で、もう何という作品か思い出せないが、或る青年が本屋で店番をしている女性を好きになり、思い悩む場面があった。とうとう恋文を渡したか送った か、自分の胸の内はやっと相手に届いたものの、真剣な愛かどうかと彼女の方が疑うらしい節が見えて彼はまた悩む。悩みながらつい足は本屋へ向かうのだが、 買うでなく、読むでなく、いじらしいほどもじもじしたすえに、ついに勇を鼓して彼は一冊の本を書棚から抜きとり、帳場に坐っている当の恋人のもとへ運ん だ。
「本」の題は「心」――。
 いぶかしそうな女の眼の前へ彼は指をさして、「本」「心」、「本」「心」と謎をかけた。そして、やっと真意は伝わり、話はめでたく先へ進んだのである。
 本のことを考えると私は反射的にいつもこの「本」「心」、を思い出す。そして、「本」「屋」で売っている「本」と、「本」「心」の「本」とは同じなの か、と考える。
 絵本、台本、古本、教本、製本、本棚などと矢継早に思いつく。この「本」はまず本屋の方に縁がありそうだ。が、根本、基本、本当、本格、本気、本命、本 能、本質、本望、本籍、本人、本尊、本願、本体、本来、本家、本懐、本分、本位、本論などと拾い上げてみて、これらの「本」からおよそ理解できるのは、こ の「本」が直ちに本屋で売っている「本」即ち書物の意味ではなさそうだ、ということだ。「本心」の「本」はこの方らしいということだ。物事の中心に、中核 に、ずしんと高く太く強く、また大きく広く確かに在るもの、在ること、在る所、を「本」というらしい、日本の「本」も願わくはそういう「本」らしい、とは 誰にも容易に察しられる。
 この大事な、まさしく、本質、本格の根本にある「本」の字をかりて、他ならぬ書物というものが一般に「本」と名のっていることは、言うまでもなく書物の 形が「本」である以上に、書物の内容が、書物の意図して書きあらわすすべてが、本当の「本」であるという、誇り高い名のりだということになる。また読書と は書物にさながら体現されている「本」のところを、読み、習い、学ぶという意味ではじめて、「本」を読む、という言い方も成り立つのである。本末の末の方 でなくて本の方を教えられるからこそ、書物を「本」と敬称して呼ぶのである。
 だから私は娘や息子によく言う。
「そうなんだよ。本を読むのはただ国語の勉強に役立つだけでなくて、あらゆる学問やあらゆる判断やあらゆる行為の根本に本当に生きて来るものが、書物の中 には含まれているからなんだよ。わかったか――」
 娘も息子も、だがにやにや笑っていて、さすがに私の言を否認はしないが、積極的に感激したり肯定したりしない。それはただ張り合いがないだけでなく、な んらか重大な印象、批評的な印象を私に強いて来るという感じで、つまり、私の方が旗色がわるい気配なのである。娘や息子だけでなく、そういう場合妻にして も、薄気味わるく笑っていないではないのである。
 なるほど、「本」をそこまで本格的に持ち上げると、他でもないその「本」をこのところ立てつづけに出版している自分の著書を、暗に本物の「本」だと吹聴 している気味がある。私は大慌てで、それはまあ「本」を「本」と呼ぶに至った本質的な道筋を言ったまでであって、世に行われている書物には、「本」の名に 値しない枝葉末節の屑の如きものが寡くない、いや、多い、いや大概がそうである、ということを付言せざるをえなくなり、但し自分の著書がその「本」に属す るか「末」の方かの証言だけは、ぜひとも差し控えるのがやはり得策というものではあった。
 ただ、こうは自信を持って我が子や妻にも言えることだった、その「本」の「本」たる所以をたっぷり包容し秘蔵するがゆえに久しい歳月にいよいよ磨きをか けられている「本」があり、それが「古典」というものに相違ない、と。これには中学二年生の息子はともあれ、大学のそろそろ卒業論文をという娘も、もと大 学生の妻も、安んじて大きく頷いてくれる。
「古典」は何か、という話を、それだから私はここで、もう繰返さないでおこう。古典は、結局は自身読んで学ぶしかない「本」だし、読まずに、「古典」とは いかに価値あるものか、どんな書名の誰がいつ書いた本であるか、だけを知っていても、あまり意味がない。
それでも世間には、古典に限らず「本」の読み方を親切に指導するむきの本がたくさん出版されている。けっこうなことである。
 ところで私も、ひょっとしてここにその一冊を、屋上屋を架するふうに書こう、出版しようとしているのかも知れない。いや、かも知れないと言っては思わせ ぶりで卑怯でもある。事実そうなのであって、しかも世の「読書論」が挙げて模範的ならぬ、悪しき読書の最右翼に並べているような読み方、私流儀の「古典」 の読み方を体験的に披露しようというのである。
 一冊の「本」を読んで、その枝葉末節に捉われてはならぬ、片言隻句に拘泥してはならぬ、とは、私自身が幼時から学校の先生に何度となく訓戒されたこと で、その正しさを私はむろん信奉している。いや、信じている。が、あまり奉じては来なかったのである。
 文章は文で、文は文節で、文節は単語で構築されている。教室で文法を習えば一等先に習うことである。片言隻句に捉われるなかれとは、文章を、「本」を、 極端にいえば「単語」の一つ一つに捉われて読むなということだろう。しかし、片言隻句もおろそかにしないのが「いい文章」というものなら、同じことは「い い読書」にも言えることか知れぬ、というのが私の言い分である。
 久保田万太郎に、こんな句がある。

  竹馬やいろはにほへとちりぢりに

 私は講演に行き、聴衆が高校生や大学生であったりすると、時にはさも裕福そうな顔を並べたレディス・クラブなどであったりすると、眠気さましに壇の上か らこの句がどんな句か、訊ねてみる。どれ一つむずかしい言葉は使われていない。それなのに、思いのほかロクな返事が返って来ない。竹馬で遊んでいた、の が、ちりぢりに家へ帰って行くらしい、とも容易につかめない。ましてや「いろはにほへと」がまったく分からない。「ちりぢりに」を引き出す懸け詞だという くらいが精一杯のご名答だが、わずか三句十七音の句にそれだけの中七音ということはあるまい。
 竹馬の友という。子どもたちが主役には相違なく、また彼らが「ちりぢりに」散って行く、或いは散って行った、にも相違ない。運動場や広場でもいいが、母 や姉に名を呼ばれて散って行くなら、平凡な路上を想ってみるのが美しく、時刻はしぜん夕茜のやがて蒼澄んで行くようなたそがれどきであろう、ただでも長い 人影は竹馬に乗っているので一層長く、黒い。そうなりば下町の作家久保田万太郎と知らなくてもごく庶民的な町なみが眼にうかび、万太郎と知ってみれば、東 京というより江戸の名残りゆかしい下町風景と、どうしても読みたくなる。
 東京は下町の夕餉どき、夕茜に路上に影ひく竹馬遊びの子どもたち、それを呼ぶ声、答える声、そして「さよなら」と言いかわして長く濃い影は算を乱すよう に「ちりぢりに」。灯ともし頃のあたたかな食膳のにぎわいもやがて髣髴として来る――。
 が、さて「いろはにほへと」が問題だ。
 昨今、ものの数勘定には、便利な、数字がある。記号にはアルファベットを使う人も多い。しかし日本ではかつて、というよりも、比較的近代に至るまで右の 両方に「いろは」を使っていた。
 私の息子は中学の二年C組にいる、が、この私が昭和十七年(1942)四月に京都市立有済国民学校に入学した時は一年イ組だった。それが卒業の時は六年 一組になっていた。
「イ組一「口組」といえば、江戸は下町一帯の定火消を想い出す。お芝居の『め組の喧嘩』を想い出す。赤穂四十七士が背中や袖につけていた「いろは」四十七 文字を想い出す。あれも火消し装束だったというが、火消しのことはこの際措いて、「いろはにほへと」とは竹馬で遊んでいたのが二人や三人でなく、まして一 人ぽっちでなく、何人もいたことを先ず想わせる。それからその子どもの一人一人がべつに太郎でも正男でも健一でも花子でもない、かりに実の名前はそうで あってもそんな名前をとくに呼び立てるまでもない、ただ「いろはにほへと」と勘定してそれで用の足りるごく普通の子どもたちであることを、みごとに表現し ている。そう表現することで、句の深さ広さがしっかり出来てくる。なるほど久保田万太郎の世界が息づいているし、むろん「いろはにほへとちりぢりに」と中 句から下句へ詞の懸かりかたも申し分ない。
 およそこんな読みかたで十分ではあろう、が、もう一段踏みこむなら、やはり「竹馬の友」に懸けての、「ちりぢりに」に、子どもの昔をひとり追憶する老い ごころとでもいうところを汲みたくなる。すると「色は匂へど」という、中の句がそこはかとない人生の哀歓や無常の思いへひしと繋がれて来る。竹馬遊びに、 おきゃんな少女もまじっていたかと想像するのもよい。往時ははるかに夢の如く、老境の夕茜ははや心のすみずみから蒼く色褪めはじめている。かつての友は故 郷にほとんど跡を絶えて訪う由もない。想像は想像を呼んで、この一句、さながらの人生かのようにずっしり胸の底に立つ。
 言葉の一つ一つを深く読み透す気持ちなしに、俳句や和歌が十分たのしめよう道理がない。逆に、俳句や和歌を世界的にも珍しいみごとな短詩形の文藝に育て えて来た日本人の語感には、言葉の一つ一つを読みこむ姿勢というものがたしかに有ったということだ。言葉の奥、ふくらみ、ひだ、かげ、深さ、いのち、さら には歴史、状況といったものを、日用の平易な言葉の一つ一つから「語感」としてつかむことから、「本」物を選択し「にせ」物を淘汰して行く眼を養い心を 養って、日本人は、来たわけだ。このことが日本語文化の根になって来たわけだ。
 よく言われることだが、日本人は固有の文字を持たなかった。かろうじて漢字からかなを産んだが、かな文字だけで用を足すことができなくてやはり漢字を主 に、かなはあたかもその補助のように用いて来た。漢音呉音のほかに漢字に訓読みを加えたのが大きな発明になった。
 中国人はじつに夥しい漢字を創造した。それはまるで新しい概念の定着と、それに相応する文字の創造とが、固く接着して照応し表裏する気味でさえあった。
 しかし日本人はそうは出来なかった。もともと駆使可能な漢字の数が少なく、また日本語としての単語そのものが少ない。勢い一字一語の負担増を顧みること なく含蓄を強い余情を発散させて、手近な具象具体と高遠な観念理念とをそこに同居させる術に長けて行った。例えば「家」と書きかつ読んで、ただハウスや ホームに限らぬ、すぐれて歴史的、精神的な価値観や判断を含蓄して来た経過はよく知られている。「お家の大事」とか「家、家にあらず。つぐをもって家と す」とか、それは「家が建った」「家が狭くて」と日常に言う意味を超えている。家族をさして「家の者」という時、もうこの「家」は「家が狭くて」と嘆く 「家」を心もち超えている。そういう一切の微妙な語感の重さに耐えて「家」一字はさまざまに用いられている。「道」もそうだ、「花」も「風」も、「手」も 「顔」もそうだ。
 中国人は無数に語と文字を創造し、さらに無数の熟字、熟語に仕立てた。日本人は乏しい語と文字に、いわば一つ一つの単語に、ずっしりと含蓄を湛えた。こ の大きな特色に眼をひらくなら、ことに日本の「古典」に接する場合、文字どおりの片言隻句がおろそかにはならぬ道理ではなかろうか。
 ともあれ、私のささやかな体験が、いささかでも「古典」へ気がるに近寄れる細道を開く役に立つなら嬉しいと思い、肩肘もはらずに話を前へ進めたい。これ は名だたる古典作品の文学史的解説でも模範的鑑賞でもないし、一つ一つの作品そのものについて講釈するものでもない。私をいやおうなく一人の小説家・作家 に仕立てた、或る自由奔放な古典世界に飛翔のさまを見ていただくのである。なるほど、こういう読みかた接しかたでいいのなら、きっと自分にも自分流に可能 にちがいないという、きっかけや自信を持っていただこうというのである。



   歓喜咲楽――伏流する裏文化


     *

 人により「古典」の名でまず思い出す書物はさまざま有ろう。私の場合、触れた古い順に挙げてみると何はともあれ、『古事記』になる。そして『百人一首』 『源氏物語』また『徒然華』『平家物語』それに父に習った一部の観世流『謡曲』本というところを挙げたくなる。『校注神皇正統記』『啓蒙日本外史』それに 大部な『絵本太閤記』などを加えると、ほぼ、これで中学を卒業するくらいまでの出会いと言える。但しこの段階では『源氏物語』がまだ与謝野晶子の訳であっ て、原典を読み出すのは高校へ進んでからだった。
 大学時代へかけてこの範囲は自然拡がった。但し拡げるより繰返し間をおいて同じ本を読み直すタチで、つまり愛読型だった。『万葉集』『伊勢物語』『古今 集』『枕草子』『和泉式部日記』『更級日記』『大鏡』『讃岐典侍日記』『宇治拾遺物語』『梁塵秘抄』『建礼門院右京大夫集』『山家集』『方丈記』『松浦宮 物語』『愚管抄』『古今著聞集』『問はずがたり』『太平記』『風姿花伝』『閑吟集』などと積み重ねられ、一方では『日本書紀』『風土記』『日本霊異記』や 『往生要集』『撰集抄』『歎異抄』などが加わって来る。『般若心経』『法華経』『浄土三部経』『臨済録』『法句経』などへも手が出て行った。『論語』『老 子』『荘子』『列子』『韓非子』『史記列伝』『唐詩選』『古文真宝』の類は祖父の蔵書にあり、かなり幼くから何となく手にとって繙読する機会は多かった。 白文ではむりだが、返り点が付いてさえいたら、読むぐらいは早くから読めた。
 こう思い出してみると、自分なりに二つの点が指させる。そう特殊なものは読んでいない、だから、誰でも昨今ならこれくらいの「古典」は容易に手もとに揃 えられるということが、一つ。つまりすこしも個性的な選択でないわけだ。もう一つは、江戸時代のものが寡い、というより、無いに等しいことだ。近松は芝居 でしか観ない。読んで面白いはずもない。西鶴は一、二冊しか知らない。好き嫌いより先にやたら読み煩った。芭蕉周辺はさすがに『去来抄』『三冊子』の類ま で読んでいたけれど、蕪村の句や秋成の小説ほど好きになれない。かと言って馬琴や京伝や一九や三馬など、まるで読む気がしなかった。江戸時代となるとむし ろ白石、真淵、宣長、梅岩などのものを好んで読んだ。
 総じて日本の近世を、私は「古典」に属する時代と認めなかった。まだまだ淘汰と選別にさらさるべき時代と考えて来た。それに、好きな秋成であれ、苦手な 西鶴であれ、江戸時代人の女章がなぜか厄介で叶わない。極端にいえば、私には平安時代の文章の方が、易しく思えた。
 こういう私の読みぐせを、むろん、読者は無視されていい。私は、ただ自分の手の内を明かしておくにすぎない。
 では、日本の古典の中で、お前ならどれが一等読みいいと思っているか、誰にも比較的易しく読みはじめられる古典はどれかと訊かれたなら、躊躇なく『古事 記』と『平家物語』を私は挙げる。これは体験的に、挙げる。漢字がまずまず一通り読めて知解できる人ならば、中学生であってもこの二つは読める。少なくも 筋は追える。とくに『古事記』は、そもそも予備知識というものを必要としない。素直に、ずんずんと読めばいい。言いまわしこそ現代からすると不思議な日本 語だけれど、たとえぱ「故」とあっても、「ゆえに」「だから」と自分で漢字の意味に頼って翻訳しながら読み進んで行ける。文体の独特の旋律感に乗って文脈 を辿って行くという読書の原体験のようなものは、むしろ『古事記』くらい特徴ある文章によって先ず手にする方がいいとさえ、勝手に、私はそう思いこんで来 た。
 しかし、勝手な熱をいくら吹いていても仕方がない。それより、その『古事記』を私がどう読んだか、そこから、話の環を思い切り自在に繋いでみよう。
 私が今も大事にしている『古事記』は、幸田成友校訂、昭和十九年八月に第二刷改訂発行された「定価四拾銭」の岩波文庫で、私はそれを戦後インフレのさな か、例の立ち読みを楽しんだ京都の古本屋で、あえて定価の数倍を支払って買った。以来、表紙も紙も赤茶けた、寸詰まりのこの文庫本を、もう三十余年も愛読 しつづけているわけだ。
『古事記』はやさしいといった。が、昨今と違い、天皇陛下万歳でしつけられた昭和十年(1935)生まれの少年は、相応に日本の神話にいつとなくなじんで いたのである。ちょうど国民学校一年から二年生への春休みに、何の用事でか私は父につれられ京都郊外に住む女先生のお宅を訪ねている。用向きはよく憶えな いが、帰りがけに先生から『日本の神話』という一冊の本をいただいた、のが、『古事記』の神代巻をおよそそのまま読み下しに現代語に書きあらためたもので あったから、ともあれ下地は十分あった。それは正直に認めねばならぬ。
 ところで、その『日本の神話』から、天皇家の祖先について学ぶといったご時世柄の実感を、ほとんど一度として私は持ったことがなかった。いささか顔朱ら めがちに白状すれぱ、たとえば、何より私をしてウンウン頷かせた最初の箇処というと、開巻の早々、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみ のみこと)二た柱の神が淤能碁呂嶋(おのごろしま)を造ったそのあとの、こんな記述であった。参考に『古事記』の本文を挙げてみよう。

 其の嶋に天降り坐して、天之御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。是に其の妹伊邪那美命に、汝が身は如何に成れると問曰ひたまへば、吾が身は成り成り て成り合はざる処一処在りと答曰したまひき。伊邪那岐命詔りたまひつらく、我が身は、成り成りて成り余れる処一処在り。故此の吾が身の成り余れる処を、汝 が身の成り合はざる処に刺し塞ぎて、国土生み成さむと為ふは奈何とのりたまへば、伊邪那美命然か善けむと答曰したまひき。爾に伊邪那岐命、然らば吾と汝と 是の天之御柱を行き廻り逢ひてみとのまぐはひ為なと詔りたまひき。

 私の『古事記』はかように総ルビがついているから、小学校六年生が一年生であってもともあれ読めたろうし、この明快を極めた解説のゆえに私は、「みとの まぐはひ」というかつて聞き知らぬひらがなの一語の意味するところを、百千の性教育ふう解説よりも端的に理解してさわやかに興奮したものであった。
 私が育った場処は京都市内の八坂神社、つまりは祇園花街にごく近く、小学校、昭和十七年だから戦時下の国民学校、に入学してその当日にもう一年坊主は学 級内のあれこれ女の子を物色して、「好きやん」(好きな相手)を分けどりに選び合うしまつであったから、いささか早熟の傾向を環境的に助長されていた点、 認めるにやぶさかでない。それにしても国土にせよ人の子にせよ、『古事記』の右のような叙述にあざやかに文学的感銘を受けて、その生産と創出の秘儀をゆる ぎなく感得できたのは、明朗この上ない悦びには相違なかった。男と女との、そして男と女とが此の世に必要な、かくも正確を極めた描写がまたとあろうかと、 私は今でもこの文章を書き写し読み返しながら、往年の感動ないし興奮のさわやかさを反芻することができる。
 これが『日本書紀』になると、鶺鴒の尾を振り合うかたちに教えられて、といった今すこし性の容儀に及ぶ説明がついている。が、それと知ったのは十分青年 期に入ってからのこと、どれほど早熟に育っていても国民学校の一年二年生では、かえって鶺鴒の教訓は何事とも分からずじまいに済んだであろう。
 生意気でもあったが、『古事記』との出会いは、これなら読める、そして、読んで面白そうだ、というに尽きた。国体の明徴も何も、じっはつゆ感じてなどい なかったのである。
 さて、折角こうも単刀直入に『古事記』世界に踏みこんだからは、この調子で足を早めよう。上巻、神代の巻、の半ばを過ぎたあたりは例の大国主命(おおく にぬしのみこと)国譲りが大きな話題で、慎重な政治折衝が高天原と出雲国との仲に繰返されている。折衝を繰返すという表現はすこし大袈裟かもしれない、繰 返されるのは天つ神々による下界への使者の派遣である。が、送り出す使者が次々に国つ神の歓待に籠絡されて大事な復命を怠り、中でも天津国玉神(あまつく にたまのかみ)の子、天若日子(あめわかひこ)の如きは、

 ……其の国に降り到きて、即ち大国主神の女、下照比売(したてるひめ)をめとし、亦其の国を獲むと慮りて、八年に至るまで、復奏さざりき。

という仕儀になっている。
 そこで天つ神々は鳴女の雉を催促にまた下界へ遣わしたところ、天若日子は、その木の枝にとまって鳴く声がききづらいと言って、高天原から持参の天之波士 弓に天之加久矢をつがえて、つれなく射殺してしまう。雉の血に塗れた矢は天上に達し、不審に思った天つ神がそのまま下界へ矢を衝き戻す、と、矢はあやまた ず「胡床に寝たる高胷坂」を射ぬいて天若日子は覿面に死んでしまう。

 故天若日子が妻下照比売の哭かせる声、風の与響きて、天に到りき。是に天なる天若日子が父、天津国玉神、また其の妻子ども聞きて、降り来て、哭き悲み て、乃ち其処に喪屋を作りて、河鴈を岐佐理持とし、鷺を掃持とし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とし、如此行ひ定めて、日八日夜八夜を遊びた りき。

 天若日子にとくべつ同情した覚えはない。が、子ども心に、この場面が葬礼を表現していることにはすぐ気づいた。そして「如此行ひ定めて」の意味を私はほ ぼ正確に「配役」というくらいに理解し、河鴈、鷺、翠鳥、雀、雉といった鳥たちを正真正銘の鳥でもあれば、また時としてそのような冠物か仮面かをつけて人 が演じてもいいもの、と想像した。今も田舎の方へ行くと見られる葬礼、葬列のかなりありのままを表わしている、だから配役、ということへも思い至った。指 折り数えると昭和十九年、三年生の学藝会で、葬式でこそなかったが、私自身担任の先生の演出でそのような冠り物を頭上に置き、我が「好きやん」の女友達と 思えば稚いお伽の芝居を演じもしていた。私が亀で、相手は兎だった。
「岐佐理持」とは死者のため食を盛った器を捧持する者、「御食人」はその食を調理する者、「碓女」はその用に米を舂き精げる者、そして「掃持」は喪屋を清 め、「哭女」は号哭の礼にあずかる役に相違なく、しかし私は同時に「日八日夜八夜を遊びたりき」とある一句に眼をとめずに居れなかった。
 親しい者に死なれて嘆き悲しまないものはない。右の情景は文字どおりの葬式、日本の葬儀をさながら描写した最古の証言と言っていい。泣き声は地上から天 界にまで届いたというではないか、もっともだ。が、それなのに「日八日夜八夜」を「遊びたりき」とは、なにごとか。
 私はかなり注意深く『古事記』の一字一句に当たり直して、この場面にはじめて「遊」の字を宛てて「あそ」びと訓んであることに気づいた。大袈裟に言え ぱ、これまた日本最古の「遊び」の証言かのようであった。だが、それは違っていた。
 右の配役中、「碓女」には霊前に歌舞を以て奉仕する者、神楽の女、の意味もあって、宇受売とも書け.は、言わずと知れた天の岩戸舞のあの宇受売命(うづ めのみこと)を想い出す。

 ……天香山の天之日影を手次に繋けて、天之真拆を鬘と為て、天香山の小竹葉を手草に結ひて、天之石屋戸にうけ伏せて、踏みとどろこし、神懸り為て、胷乳 を掛き出で、裳緒をほとに忍し垂れき。爾高天原動りて、八百万神共に咲ひき。

 岩屋の中から天照大御神(あまてらすおおみかみ)は「何由て天宇受売(あめのうづめ)は、楽びし、亦八百万神諸咲ふぞ」と不審に思うのであるが、ここに 「楽」びという表記が出て来る。『古事記』中、これこそ「あそび」の初出に違いなく、それもいささか猥褻がかって宇受売が歌い舞う有様を、人は、日本人 は、神楽のはじめと見て来た。
 ところで天照大御神が岩屋に退き隠った状況は、これが日本語の本来の「しぬ」という、つまり生でも死でもない、その中間に勢いよわく萎え衰えたさまを表 わしていたらしい。「心もしぬに古へ思ほゆ」という「しぬ」の原意だ。
 岩屋は即ち、その間に屍霊が住む喪屋であり、宇受売らは天照大御神の今一度の蘇りを願って「歓喜咲楽」んでいるのである。天若日子の場合よりもこの場面 こそがじつは葬いの最初の表現なのであり、両者の違いは、天照大御神が幸い蘇ってまた岩屋を出、天若日子は蘇ることなくついに黄泉路に往に果てた。黄泉国 へ行ってしまえばもう本物の「屍」であったことは、伊邪那岐命が見た亡き妹(妻)伊邪那美命のからだに、「うじたかれとろろぎて」八雷神(やくさのいかづ ちがみ)が五体に蟠っていた、という描写でよく分かるはず。
 こうみると、「遊び」とは「歓喜咲楽」ぶことで、「歓喜咲楽」ぶとは生と死の境にある魂魄に侍して、食や歌舞を以てその霊を鎮め慰める行為に他ならな かったと察しがつく。
 大和国に、むかし「遊部郷」の地名があり、「遊部」という、大葬のとき殯宮に供奉するのを職とする部曲(一定の職能をもち豪家に隷属した人々)が住ん だ。殯宮とは、死者の蘇りを願い埋葬前に死屍を当分安置し守護する場所をいう。但し遊部は、蘇我氏や大伴氏同様に遊氏というのがあってそれに従ったわけで ない。
 むかしむかし垂仁天皇の子孫で円目王(つぶらめのおおきみ)という人が、伊賀の比自支和気(ひじきわけ)の女を妻にしていた。比自支和気は、天皇の殯所 に奉仕するのを久しい家職にしていたが、雄略天皇の死にさいし、あいにく比自支和気の男が一人も居らず、七日七夜も御食、伝説では鹿尾菜御膳を奉らなかっ た。そのため天皇の霊魂は烈しく「あらび」給うた。
 諸国に人をやって比自支和気を尋ねたところ、円目王に聞くがいいという者があった。さて王の妻はたしかにその氏人ではあったけれど、彼女の曰くすでに同 族は死に絶え、しかも、自分は殯所の事に女の身でとても耐ええないから、代わって夫君円目王に奉仕してもらおう、と。このようにして荒ぶる亡魂もしずま り、時の帝は勅して、手足の毛が「八束毛」となるまで王とその妻に「遊べ」と仰せがあった。このため「遊部君」と名のることになった。
 古い本に、「遊部は幽顕の境を隔て、凶癘の魂を鎮むるの氏なり」とある。「終身事なく、課役を免じ、意に任せて遊行す、故に遊部と云ふ」としたものもあ る。
「故に遊部と云ふ」かどうかは別問題として、天若日子の場合の「日八日夜八夜を遊びたりき」というのも思い併せると、「あそぶ」の原意、古意に、もともと 死者の霊魂を慰め鎮める行為ないしその具体的な手段方法が示されていたに相違なく、では、蘇りを祈って死者の屍の前でどういう振舞いに及べば霊魂を慰め鎮 めることができたものか、その振舞いそのままが「あそび」と解して、例えば延長上に今日私たちのいわゆる「遊び」を考えていいものかどうか。
 神代の昔から一気に今日私たちの語感にまで話が飛ぶのでは、度が過ぎる。

 遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん  遊ぶ子供の声聞けば 我が身さえこそ動がるれ

『梁塵秘抄』に名高い四句神歌、というよりも今様、と言った方がいい、が、この「遊び」「遊ぶ」を中継ぎにちょっと考えてみてはどうか。註釈の必要のな い、ただ真心で読めば共感しない人はないうた、遊ぶ子供の愛らしさを真正面から見て歌ったうただと想える。こういううたは、ひたすら読むこと、声に出して 何度も口遊むことだ。字句の一つや二つに拘泥することはない、真心こめて読めば、私どもの心に古代人の思いがまっすぐ響き合って来る。もう一つ挙げておこ う。

 舞へ舞へかたつぶり 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん 踏み破らせてん まことに愛しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん

 この「遊ばせん」もさきの「遊ぶ子供の声聞けば」と響き合い共鳴りしていて、しかも今日の私たちの「遊び」「遊ぶ」という語感に親密に繋がって来てい る。少なくも天若日子の死を悼んで「日八日夜八夜を遊びたりき」というのと違う。喪屋や殯宮で「遊部」が果たした職掌とは、もう縁がふっ切れているとしか 思えない。
『梁塵秘抄』は後白河上皇の自撰ということが確実視されている、十二世紀の歌謡集である。和歌の集ではない、むしろ謡曲ないし歌謡曲に通じる歌ううた、そ れも十二世紀当時に「今様」と呼ばれて、その新風を時代を挙げて悦ばれたうたの集である。
 こういう『梁塵秘抄』時代の「遊び」という言葉に、二十世紀の私たち自身の語感そのまま捉えられる意味がもう籠められていた。それは事実だ。
 が、それだけではなかった。
 同じ『梁塵秘抄』にこんな短いうたが載っている。

 遊女の好むもの 雑藝 鼓 小端舟 簦翳 艫取女 男の愛祈る百大夫

 遊女は『梁塵秘抄』の世界では、さながら主人公の一人だが、その遊女の好む物を列挙している。「雑藝」とは舞い踊りや、物真似、曲藝、つまりいろんな庶 民藝能をおよそ総称しているとみていい。今様もむろんその内に入る。鼓も入る。とりわけ鼓は女の藝になっていた。静御前など白拍子の姿を想い出して欲し い。「小端舟」は小型の舟、のちにいうチョキ舟に類するだろうか、この遊女は舟の上へ客を取った類の、江口や神崎の遊女をさしているようで、その舟の楫を 取ってくれるのも、これは女である方が何かとつごうがいい。現役を上がったもう年寄女の仕事だったろう、「艫取女」とはそれだ。「おほがさかざし」も客と 女の身を大きな傘で人目から隠す役目の、やはり女だろう、「艫取女」と兼業だろうと思う。つまりは商売上必要な仲間と想われる。そして「百大夫」とは、道 祖神、路傍の石仏のことで、遊女たちは男の客が跡を絶たぬよう信仰したという。
 うたの鑑賞は当面の関心事ではない。問題は、私がわざと「遊女」と書いたままの二字の「訓み」なのであって、『梁塵秘抄』はもともとこの一句を「あそび の好むもの」と読ませている。「遊女」は久しく「あそび」と訓まれて来た。だから、先に挙げた「あそびをせんとや生まれけむ」という今様にも、「遊女がみ づからの沈淪に対しての身をゆるがす悔恨をうたつたものであらう」といった解釈をする人も無くはない。このうたに限って私はこの解釈を取る気は全然ないけ れど、それほどに平安時代ないし室町時代になっても、「あそび」には「遊女」の意味が付いてまわり易かった。遊部の裔かのように後の遊女、遊君を考えてみ ることは、日本の藝能の出自をうかがう上にも、大事な視野を広げる。まして名指しで謡曲やお伽草子に「遊女」と呼ばれてもいるあの小野小町や和泉式部のよ うな著名な女性を想い直し、見直すきっかけには、十分なるだろう。

     *

 元和卯月本と呼ばれる、江戸時代最初期に編まれた『謡曲百番』中の「そとば小町」を読むと、 いたはしやな小町は、さもいにしへは遊女にて、花のかたち かゝやき、かつらの眉墨青ふして、白粉を絶さず、羅綾の衣おほふして と出てくる。 うたをよみ詩を作り、酔をすゝむるさかづきは、閑月袖に静也まことゆ ふなる有様 とも出てくる。
『卒塔婆小町』は小野小町を脚色した能の中では老女物に属し、すでに面色廃亡の著しい物哀れな曲として、舞台は知らなくとも誰もがおよその察しをつけられ る内容になっている。大袈裟にいえば国民的に察しの利く曲目である。嬌慢多才、絶世の美女が天人の五衰も斯くやと落魄漂浪の老いに苛まれる話である。それ は分かる。が、そのうら若い「いにしへ」は晴れやかに宮廷生活を満喫する貴女でこそあれ、「遊女」とは想いにくいのが常識というものだろう。この常識は、 しかし、近世以降の、いわゆる遊廓にたむろして嫖客を待った「遊女」の像に強く支持されてもいる。
 近世ですら、遊廓にばかり遊女がいたのでないことは、芭蕉『奥の細道』などの紀行文を読めば分かる。二人三人と打ち連れた「田舎わたらひ」の遊女渡世に 旅人芭蕉は幾度も出逢ったらしい。「一つ家に遊女もねたり萩と月」とは、そこが青楼で、芭蕉は登客だった、と言っているのではない。芭蕉も旅中、遊女も漂 游の田舎渡世の佗しい一夜を仮の宿に求めていたのである。むろん誘われてうたも歌ったろう、踊ってみせたかもしれず、また相客と枕を重ねなかった段ではな い。
 加賀中山での三吟歌仙の中にこうある。

  霰ふる左の山は菅の寺     北枝
    遊女四五人田舎わたらひ   曽良
  落書に恋しき君が名もありて   芭蕉

 色も売ったが貧しい藝も売りながらの文字どおりの遊女風情に、三百年後の現代の我々でさえ情緒を想う。
 藝が貧しいとは、だが、私の賢しらな推量でしかない。偏見、に違いない。
 私は、高校二年生の時に仲間と古典の輪読を試みたことがあって、最初に『更級日記』を、次に『紫式部日記』を読んだ。私の文庫本にはその折の稚い書き入 れや赤鉛筆の傍線が残っている。それはさまざまに感銘を受けた古典体験であった中でも、遊女といえば思い出すのが『更級日記』のはじめの方に出てくる場 面、それは日記の筆者が少女の昔、父に伴われ東海道を任国から都へ上る途中のことだ。
 足柄山の麓に庵を求めて泊つた晩のこと、月もない暗やみに篝火が焚かれた。闇と光とが無気味に森の影を映してにじみあったその円光の中へ、「遊女三人、 いづくともなく」現われた。五十ばかりの老女と二十ばかりのと、十四、五歳の少女だった。人々は庵の前に坐らせ、傘の下でうたを歌わせた。髪長く、額ぎわ のきれいな子か声も「空に澄みのぼりて」しみじみ歌いおわると、また深い闇の中へ消えていく。紅燈もなく脂粉の香も漂わない。ただ朱々と篝が時に音立てて 燃える火の輪のしたに、どんな能の女よりも朧ろに幽玄な、老いと若きと女三人でしみじみ声をそろえて歌う声だけが聴える世界だった。『更級日記』の筆者は 少女ごころにこの遊女らと別れたくないとまで心打たれ涙しているのだった。
 芭蕉らが連句の付句に、「遊女四五人田舎わたらひ」と付けたのを、『更級旦記』のこの場面を想い宛てていたとは、思わない。明らかに芭蕉ら自身の旅中触 目をたよりに付けた句だ。が、およそ六百年をへだてて、平安時代の菅原孝標女の幼時と、江戸時代芭蕉の壮年期と、を縦糸に貫いておよそ遊廓に時めく遊君と は趣の違う「あそび」が生きつづけたことだけは、分かる。
 足柄山の遊女らが、そのままあの『梁塵秘抄』の世界に姿を見せ、その一部は後白河院の御所にも憚りなく参入して今様雑藝の時代を十二世紀に広大に現出し た事実を想えば、彼女らの藝が田舎渡世ゆえに貧しいどころか、むしろ都と田舎とを往来して、じつに多種多様の藝能を文化的、社会的に伝播すべく担い歩いた 者として、よほど大事に役割は吟味され再認識されて然るべきなのである。例えば古代中世を通じて、才色兼備の歌人として名高い小野小町や和泉式部をはっき り「遊女」と指さして呼んで来た隠れた深い意味なども探ってみなければならないのである。
 もう一度『古事記』へ戻ってあの「歓喜咲楽」んだ宇受売命(うづめのみこと)のあそびぶりを想像してみたい。そしてこの神楽の先駆者宇受売が、天孫降臨 に随従したという記事を読み直したい。

 爾に日子番能邇邇藝命、天降りまさむとする時に、天の八衢に居て、上は高天原を光し、下は葦原中国を光す神、是に有り。

 この神の正身を顕わしむべく天つ神々はあの宇受売神をつかわし、その結果、「僕は国神、名は猨田毘古神也」と名のらせ、俗にいうこの猿田彦が天孫降臨を 無事に道案内するということになる。さらに詔をえて宇受売は猨田毘古神の「御名」を負うこととなり、以来その子女は猨女君と呼ばれることになる。
 明らかに大事な課題の一つに「猿の研究」がとり上げられていい。(秦恒平・湖の本エッセイ28『猿の遠景』が有る。)宇受売が猨田毘古の名を負うとは、 つまりは「猿」という語の負うている"ちから"を承け嗣いだという意味でなければならず、ここの条りを慎重に読めば、それは天上天下を光すに足るほどの国 つ神の威力、能力、才藝、天分を言外に含んでいる。言葉の魔術的呪力を信仰する限り、名を体するとは最上乗のいわば合体、結婚、受胎であろう。
 それなら「猨=猿」とは何か、ということになる。ただ動物の一種たるあの猿を無視もなるまい。その上で猿丸大夫のことも考えたい。猨と蔑称されたと言い 伝えのある柿本人麻呂のことも、むろん考えに入れたい。猿楽、猿若、猿牽き、猿真似、猿芝居といった藝能なり言葉なりを考えに入れながら、土俗の猿信仰を もっとよく検討せねばならない。「意馬心猿」といったふしぎな言葉とともに、馬小舎には同時に猿を飼った習俗や、猿をお使いにしている山王信仰なども不思 議をたっぷりはらんでいる。
 そういう課題の範疇に「猨女君」はよほど大事な地位を占めるだろう。なにしろ天上の遊女と呼べそうな天宇受売の子女が猨田毘古の一切を身に負うたのだか ら、その技能はたいしたものでなければならない。
 この猿女族と、かなり執拗な接触をつづけた氏族に小野氏がある。小野氏は小野妹子以来の名家だが、一種の所領問題などから徐々に近隣の猿女と混淆し、つ いには小野氏から「猿女」を「貢進」するような慣習が生じて行った。この猿女貢進の如きもの言いにすでに芽生えているように、猿女が負うた藝能の才は、或 る特別の神秘をはらんだ、またそれゆえに尋常日常の域をはみ出たものの如くに一般には眺められていた。そしてそれは小野氏にとって必ずしも望ましいことで なかったらしく、同氏から猿女を出すことの不当を当局に愬えた例が平安時代の初期へかけて一、二にとどまらない。
 しかし一度混淆した両族の、譬えていえば血合は容易に元へ戻らず、むしろ小野氏が宇受売、猨田毘古以来の特技を、たとえば語り、たとえばうたう技を、継 承してしまうことになった。
『古事記』を諳誦していたという奈良時代の稗田阿礼(ひえたのあれ)が猿女君であったことは柳田国男のすぐれた追究により確かめられている(異論もある) が、右の次第で平安時代のようやく盛期にさしかかる頃に小野小町が「遊女」の名を負うて登場する意味はちいさくない。
 小野小町のことは、しかし、日本中に数え切れない生誕および終焉の地をもっている事情もともども、私はなんとなく、――そう、なんとなく――読者の想像 にゆだねたい。そして同じならここで浄瑠璃創始の伝説にまつわられた小野お通の名前を思い出しておきたい。
 小野お通はそれなりに名高い。それなりにとは、いささかあやしげに、という意味である。あやしげな所に目をつけて『小野お通七段譜』のような歌舞伎脚本 もできた。およそ面白ずくの筋書ながら『浄瑠璃十二段草子』へ絡めたところが一と癖になっている。小野お通は浄瑠璃作者として一段とその名をあやしげに光 らせているからである。お通の名があらわれる義太夫には『本朝三国志』『三日太平記』『山城の国畜生塚』『三国無双奴請状』などがある。歌舞伎にも『出世 太平記』『松下嘉平次連歌評判』『日本出世鑑』『時今蓮先魁』などと、どれもよほどかぶいた話が多いが、こうした中から実在の人物としての小野お通の経歴 がそれらしく整理され、我々の眼に届いてくる。参考までに『大辞典』の記事を見よう、なかなか面白い。

 小野お通  伝浄瑠璃作者。美濃の人、小野正秀の娘。糸竹の技に秀で、内裏に奉仕中、真田大内記信政と通じ真田勘解由信就を産む。また秀忠の娘千代姫に 琴曲を授けたとも伝へる。これ等の閲歴が、後世伝へる如き信長、或は秀吉、又は秀次等の侍女であったとなし、浄瑠璃十二段草子を綴った等の説を生ぜしめた らしい。伝延宝七年(一六七九)殁、享年未詳。

 また或る本によれば、お通はれきとした「能登守小野政秀の娘」で京にきこえた「博学能文の才媛」であり、徳川家康に招かれて「婦女子に礼式作法を教 授」、のち千姫の介添で大坂城に入るや、「淀殿の信望」をえて「右筆的存在」だったか、とある。その書風は「お通流」として久しく「高級武家の女性の間で 一大流行」したともある。また生殁年も一五五九―一六一六(永禄二年―元和二年)と明記されている。どう見ても立派に名流婦人、文化人という趣で紹介して ある。浄瑠璃作者たる「確証はない」ともある。
 これに対し『大辞典』の記事は、「糸竹の技に秀で」とか「琴曲を授け」とかの技藝を介して「侍女」ふうに「奉仕」したらしい閲歴を記し、父の「小野正 秀」も美濃の仮に藝人であったと読んで差し支えない趣を備えている。自然、浄瑠璃作者かという「伝」えも結びつく。
 むろん小野お通が十二段草子の作者とは、とても考えられない。室町中期にはもう義経伝説に入り混じった浄瑠璃姫の物語は、薬師如来をまつって海道に名高 い三河の鳳来寺を根拠に語りはじめられていた。むしろそんな語り手たちの身上に、「小野」や「お通」の名乗りが微妙に重なり合っていたらしく想像せねばな るまいとは、夙くに柳田国男が『女性と民間伝承』などで注意している。
 小野お通の実在は疑えない。が、果たしてただ一人の女の名であったのか、それとも或る種のちからを備えもった女たちの生涯に仮に記されがちな通り名であ るのか、少なくもさきに顧みた二つのお通伝からは同人とも見づらく、さりとて別人とも言い切れない輪郭の揺らぎが見えるのだが、柳田国男は前掲の本の中 で、寛永七年(一六三○)九月十三日に二十九歳で病殁したといういま一人の小野氏お通伝を、「いつ迄か散らで盛りの花はあらん今はうき世を秋のもみぢ葉」 という辞世をそえて、紹介している。「作州の津山の町から遠くない押入といふ村に」そのお通の伝を山本北山が書いた「堂々たる碑文」が、鎮守である天神社 境内に建っているそうだ。
 このお通は世に優れた美人で学問を好み、五歳で和歌を詠んだ。いったん親の約束にもとづいて京都の富豪に縁づいて祝言の盃を挙げると直ぐ、これで約束を 果たしたからとその夜のうちに四十里を隔てた美作(みまさか)の実家に戻って来たので父母兄弟もはじめて「神通」の有ることを知った。それから追々に祈祷 まじないを頼みに来る者が増え、ついに故郷を辞して諸国を巡り、十八歳の時に再び京都へ入ったのが元和五年(一六一九)、たまたま後水尾天皇の不例を宮中 に召されて占った。
 信じ難い話には(と、柳田は書いている)、お通が十二の壇ごとに水桶を置き、金銀の幣を立て香を焚いて修法すると、果たして桶の水が湧き上がって、中に 小蛇が咬み合って死んでいた。御悩はたちどころに癒え、御感のあまり天皇は「白神大明神」という宸筆の神号をお通に授け、そのままお側に仕えることとなっ たが、やがて宮殿の暮らしを嵯峨の庵室に厭い遁れ、勅使がさがし当てた時はもう、「求めなよ花も紅葉もおのづから慕ふ心の中にこそあれ」の一首を残して、 かの小督局よろしく行き隠れていたという。
 このお通の通力はかくていよいよ加わり、峰から峰づたいに深山の鳥けもののように遊んでいたのが、どういうものかふらりと故郷へまた戻って来て、そして 先の辞世を詠んで他界した。押入の村には、今にも塚と祠があると柳田国男は明言している。
 作州のお通小野氏には、浄瑠璃との直接の因縁はあらわれていない。しかし「通力」に富み、祈祷まじないのちからがあり、諸国を漂游してなお山姥めく行跡 をとどめている点など、さきの「糸竹の技」から浄瑠璃の藝へ想像の道を辿れたと動揺のことが、ここにも言えなくない。初期に浄瑠璃を語り歩いた漂游の藝能 者は、藝能者である以前に、仏徳も礼讃するが古来卜占の業に通じて、土俗の信仰や物語を担い歩いた女人たちでもあったこと、ほぼ間違いないからである。
 寛永七年に二十九歳で死んだという作州のお通小野氏は、逆算すれば慶長七年(一六○二)の生まれであり、或る本に紹介された小野お通や『大辞典』に延宝 七年殁と伝える小野お通と、疑いない同時代をともに生きていた。それどころか同様の小野お通が、他に何人もありえたことを思わせる伝承やら足跡やらが残っ ている。それでいて、どの小野お通にも通有の特徴というものがあり、柳田国男はそれを、生まれた在所に定住せず孤居し漂游して一代を終わったこと、貴人の 寵遇を受け文学技藝の夙に世に認められていたこと、として挙げている。さらに柳田は古く小野小町の属した「小野」氏一族の「凡俗を超えて居た特徴」へと重 ね合わせている。即ち、精細な記憶力、美しく綾ある言葉で物語る技能、そして上の能力を漂泊の旅のはてに日本中に植えつけては果てて行った類まれな生活力 である。
 余事ながら「作州浪人」宮本武蔵の幼なじみ、武蔵を追って漂游やまなかった可憐な「お通さん」を起用した作者吉川英治の或る足場も自然推せられる。お通 さんは笛の名手と描かれている。
 根は同じ歌や物語を日本中にひろめ歩いた氏族は、民俗学的に二、にとどまらない。中でも「小野氏」が際立って広範囲に活動したらしいことは、一つには小 野氏を称する神職が驚くほど諸国に多い一事からも察しられ、或る種の信仰に付帯して猿女俗このかた、太古来の語部的な役まわりを、小野氏があげて演じつづ けたのだろうと当然ながら推察されている。小野小町や小野お通は、この小野氏の久しい家系の中で、歴史に名と姿をあらわした特異な存在だった。
 小町は措くとも「小野お通」などと、なお、中世、近世の交点に、一人の女人が姓名ともに人の口にもそれと名ざしに呼ばれ、自分でも書き表わすということ は、、一般に名を諱んでいた社会、まして女の身ではよほど異様のことではあって、どこかに同時代の「出雲お國」と由来や輪郭をともにするふうの、信仰上の 要素を不思議に身に体していた存在と考えた方がいい。たとえば事実を逸れていようと、お國に歌舞伎の縁があると同じく、お通の背景に浄瑠璃が取沙汰されて それも自然に受けとれるというほどの洞察が、有ってむしろ当然なのである。
 お通の書と伝えられるのは、それかあらぬか私にはただ無気味である。美しいなどと思う前に筆つきそのものが口寄せの呪文めいて見え、日本の表文化の裏を 流れ歩いて来た、ふしぎな裏文化へ、思いを遠くはせてしまう。
 そこで今一度天之岩戸の前へ立ち戻って、「何由て天宇受売(あめのうづめ)は、楽びし、亦八百万神諸咲ふぞ」と問いかける天照大御神(あまてらすおおみ かみ)の「楽び」の一語に眼をとめよう。
 先ごろ、ちょっと用もあって若い歌手のレコードをまとめて聴く機会があった中に、小柳ルミ子リサイタルの録音盤があり、どうやら何日か続いたステージの それが最終日であるらしく、やや涙声に「今日でいよいよ千秋楽」と聴衆に呼びかけている、のを、おっと思いながら聴いた。
 言った当人も、言われたたぶん大多数若い満場の聴き手たちも、ごく自然に「千秋楽」を口にしかつ耳にしたにちがいない。またそれほどにこの三文字、二十 世紀も残りすくない日本の国の、およそ九割がたの日本人には耳馴れた言葉にちがいない。
 大相撲の繁昌が、この「千秋楽」という言葉を全国津々浦々に定着させている。さて意味はと詮議だてする者はなく、もののとじめ、おわりに際して「千秋 楽」ととなえるらしい風儀に、起立して「君が代」を唱わせられるほども、異存を申し立てる人はいない。だからその、小柳ルミ子ほどイキのいい歌手が口にし て、ファンとの別れを惜しみ再会の機を願って「千秋楽」などと言っても会衆は、なに不思議としないで、まっすぐ合点する。拍手する。
 相撲ほど、演歌ほどポピュラーでなくても、例えば一日の番組を「祝言」の謡ではじめるような能の会なら、きっと最後に「千秋楽」の小謡を謡う習慣も、現 に疑いなく生きている。「祝言」も慶ばしく「千秋楽」も有難い、いい謡だと私などは能会のつど聴いている。
 それにしても若い小柳ルミ子はどの辺まで意識して「千秋楽」と言ったろう。ひょっとして舞台の人や高座の人が使う「ラク」という言葉を彼女らしい律義さ でただ丁寧に言ったつもりかもしれず、そうであったにしても「ラク」は、「千秋楽」を符丁的に略して言うのであるから、事情は変わらない。むしろ問題は、 お能の舞台と相撲の土俵と演歌のステージとに共通して登場して誰にも異とされない「千秋楽」三文字の幾久しい伝来そのものに関わっており、相撲取りも猿楽 や田楽の大夫も歌うたいも例外なく、あの「職人尽絵」などに登場する同じ「道々の者」であったからは、この詮索、目下の話題に十分かなってくる。
 小さく限れば「千秋楽」は法会雅楽の最後に必ず奏した盤渉調の、舞の手を伴わぬ唐楽の一曲名であり、演劇や相撲など興行の最終日をさすのはその転用とい うことになる。が、なぜ「千秋楽」か。そこに言葉が秘めた魔術的な呪力への信仰があればこそ、物のはじめの「祝言」と同然に、物のとじめにまた立ち返る弥 栄を祈願して、千秋万歳の豊楽を言祝ごう、千年を「楽ぼう」「楽しもう」というのに相違ない。

     *

 古代すでに千秋万歳法師なるものが、広く濫僧と呼ばれ毛坊主、聖とも呼ばれる人々の中に混じっていた。何を職掌としていたかとは、問う方があまり固苦し すぎるくらいに、その時分には散楽法師も田楽法師も猿楽法師も琵琶法師も餌取法師も絵解法師も説経法師も、みな似たり寄ったり巷にあふれ、要は田畑での生 産とは根を絶たれ、藝能および信仰を表裏一体に担い歩いていた、もろともに一類の仲間内であった。しかしとりわけて千秋万歳と名のるからは、主には寿祝の 言辞や身振物真似を事とし、或る永遠性ともまた現世利益とも言える冥利を人々に信仰せしめえた呪力を持つ、ないし持つと見られていた者にも、相違ない。
 かりに今、相撲、能、演歌と並べて歴史的には太古、中世、現代という順になろうけれど、これを一括して広く「遊び」と眺めれば、物真似を基本とする能の 俳優も、また歌謡も、たぶん相撲の起源もなお天之岩戸の前まで遡ることになる。今日の相撲は国技のスポーツと見られて、演藝とはあまり遠く思われるかもし れないが、じつは野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の相撲勝負の名高い伝説が暗に指さすところ、相撲を含めた「遊び」即ち日本の藝能 の淵源をも指さして逸らさない。
 野見は土師氏であり土師と当麻とはともに葬送の礼に関わる家であった。古墳時代、彼らは何より墳墓の用に石材を必要としたが、宿禰と蹴速の決闘は二上山 近在、もともと当麻氏の本貫に産する石を争った古伝の変形と見られている。相撲はいわば彼らが家の藝であり、独り相撲の神事をもち出すまでもなく、霊魂を 慰めるそれは俳優や歌舞音曲と近縁の藝能であった。「遊部」伝承からみても、藝能の遊びは鎮魂慰霊に誠意を尽くすことを根底に、幾久しく言葉の呪力を頼ん で物のはじめに「祝言」を。物のとじめに「千秋楽」「万歳楽」を欠かさなかった伝統の一点に「千秋万歳法師」といった名前も残し置いたのである。宿禰と蹴 速の太古以来、小柳ルミ子のリサイタルに至るまで、人と社会の平安を祈る或る精神、或る祈願は明らかに維持されて来た。
 表社会、表文化だけが注目されて来たが、脈々と潜勢伏流して来た裏社会、裏文化もたしかにある。その、好事家的でない本格の研究が積極的に必要な機にさ しかかっていることの、何より雄弁な自己主張を、私は一群の中世「職人尽絵」などに、その研究に、いつも期待している。「千秋万歳法師」の名は数有る「職 人尽絵」中でも「三十二番歌合」に見え、「絵解」の男と相対して「立ち舞へる千秋万歳いづくにもけしきばかりの禄ぞかひなき」という愚痴っぽい歌を詠み、 歌合に負けている。
 この甲斐いないまで「けしきばかり」つまり気は心ていどの「禄」が、いわゆる貨幣でありえたと思えず、また千秋万歳を祝った代償に禄が供されたか、むし ろ禄を望んだ、乞うた、せがんだ報謝に千秋万歳を祝ったのではないか、と思わせる古い例が意外にも王朝絵巻というべき『枕草子』の中に見える。あまり言わ れない場面だが、その気で注目すると、『枕草子』がいわゆる実録であるだけに極めて貴重な裏社会への証言になっている。第八十三(日本古典全書)「職の御 曹司におはしますころ、西の廂に不断の御読経あるに……」とはじまる日記的章段であり、稀に見る長大な随筆だが、関連の一部分をざっと訳してみる。

 職の御曹司に宮のいらした頃、西の廂の間で不断の御読経があって、本尊の画像など掛け奉り、むろん僧侶は何人も伺候していた。
 二日ほどたって、縁側で賎しげな者の声が、「どうか、あの仏様のお供えのおさがりを戴かぜて」と言えば坊主は、
「とんでもない。まだ終わっていないのに」と答えているらしい。何者の言うことかと端近に出て見ると、もう年寄りと言えそうな女法師がひどく煤けた物を着 て、まるで猿という恰好でねだっているのだった。
「あの尼、何を言うの」とかたわらを見てひとり言のように言うと、声をとりつくろって、
「私も仏の御弟子でございます、お供えのおさがりを戴きますと申し上げるのに、このお坊様.がたは、物惜しみをなさる」と乗り出す。へんに調子づき上品 ぶっている。こんな手合いはしょんぼりしている方が同情も引くのに、ご大層にえらく調子のいい乞食だと思って、
「ほかの物は食べないで、ただ仏様のおさがりだけを食べるのか。えらく殊勝な心掛けだこと」と爪はじいてみせるこちらの気配を見て取って、
「なんで、ほかの物も食べないで居れましょう。それも無い、とおっしゃるのでおさがりを戴きます」と言い掛ける。くだものやのし餅を容れ物に入れてやった ためか、無遠慮にうちとけてしまって、際限もなくしゃべる。
  若い女房たちが出て来て、
「夫はいるか」
「子供は」
「住まいはどこか」など口々に訊けばいちいちおもしろおかしく返事し、冗談も言うので、
「歌は歌えるか」
「舞なども出来るか」と訊ね終わらぬうちに、
「夜は誰と寝よか。常陸の介と寝ましょ。添い寝した肌のよさよ」
 いやはや、この先がまだまだあった。
 また「男山の峰のもみじ葉、色よい名が立つはサ、浮き名が立つはサ」と、夢中で首を振りまわして歌う。とんでもない歌ばかりなので、皆、笑い出すやらに くいやら、
「お帰り、お帰り」と手を振るのに、
「このままでは、かわいそう。藝の褒美に、さて何をやりましょう」と言うのを宮はお聞きになって、
「まあ、恥ずかしい真似をさせたもの、聞いても居れず耳をふさいでいた。そこの巻絹を一つやって、早くお帰し」とおっしゃる。
「これを、宮様が下さる。着物も煤けているようだし、これできれいに着るがいい」と言って縁から投げてやると、伏し拝んで、絹を作法通り肩にうちかけて拝 舞の礼をするではないか。真実にくらしくなって皆奥に引っ込んだ。が、その後、癖になったかして、いつもわざと姿を見せてうろつく、のを、あの歌からその まま「常陸の介」とあだ名までがついた。着物もきれいにならず、同し煤けたのを着ているので、どこへやってしまったかと、皆にくらしがっていた。
 右近の内侍がこちらに参上した時、
「こういう者を、女房たちが手なづけて出入りさせているらしい。うまい事を言っていつもその辺りまで」と、はじめての日のことなど小兵衛という女房に口真 似をさせながら宮はお聞かせになる。
「その者、ぜひ見とうございますこと、きっとお見せくださいませ。おなじみのようでございますから、万が一にも手なづけて横取りするようなことは」など、 右近の内侍も笑う。
 その後、もう一人尼姿の乞食でずいぶん品のいいのが姿を見せたのを、また呼び寄せてあれこれ訊ねてみたが、この方は身のほどを恥じ入る様子があまりかわ いそうで、例によって巻絹一反を宮からお下げわたしになったのを、伏し拝んで頂いたまではよかったのだが、さてうれし泣きに喜んで帰って行くのを、めざと くあの常陸の介が来あわせて見てしまったものだ、その後長らく姿を見せなかったけれど、そんな事ももう誰が思い出すわけでもなかった。
 師走十日過ぎた頃、雪がたいそう降ったのを、女官たちに縁の上にどっさり積ませて御覧に入れたが、
「同じなら、庭に本物の雪の山を作らせましょう」と侍を呼び出し、宮のおおせとして.言いつけると、集まって作り出した。

 この段はもっと長く、話題の中心も積んだ雪山の方にあるが、それはさておき、長徳四年(九九八)師走から翌る正月半ばまでの事柄を書いている。後半に は、清少納言の言いつけで消えそうな雪山を見守る「木守り」の一家も姿を現すのが、「御垣守衛士の焚く火の夜は燃え」という大中臣能宣の名高い歌に重な る。『更級日記』の開巻早々、あの足柄山の遊女二、三人よりまだ早くに見える竹芝寺の伝説、その中に東国から京の御所へ召された「火焚きやの火たく衛士」 なども連想される。『平家物語』に、高倉天皇の愛でる紅葉を掃き集め、酒を煖めたという「殿守の伴の造」のことも想い合わされる。
 この木守りにせよさきの賤しい尼法師たちにせよ、『枕草子』世界に厳存する階級社会の最底辺をまざまざ見せている、とは言えるだろう。尊貴の御所のこう も近辺に卑賤の者が或る"役"を持った役者として出没し生活していた実情には、深い驚きを覚えもするし、この辺から平安時代のもっと広い庶民社会、裏社会 の裏文化へと、視野を鮮明にひろげて行く研究がつくづく待望される。
 それにしても先の現代語訳の中に、仏前の供物のおさがりをねだる尼法師常陸の介の恰好を、「まるで猿」としたのは、原文の「猿さまにていふなりけり」を ふまえていた。「猿さま」の「猿」を、諸書はまず例外なく動物の「猿そっくり」と取るのだが、「猿の研究」を好題目とかかげてみせた私には、必ずしもそう とばかりは思えない。
 常陸の介がひがんだ今一人の尼法師の出現を、『枕草子』本文は、「その後、また尼なるかたゐのいとあてやかなる出で来たる」と表現している。この「かた ゐ」に「乞食」の文字を平然と宛てるのは、そもそも常陸の介の食を乞う振舞いなどから穏当のようではあって、さて、これも必ずしも後世のいわゆる乞食同然 に考えていると、錯りを犯す。「いとあてやかなる」という明らかなほめことばとも、食い違って来る。
「猿さま」「かたゐ」は明らかに相並んでくる二語ではなかろうか、という一片の不審をはさんで私は、この章の結びに、新たに世阿弥による『風姿花伝』を想 い起こさずにおれない。
 今日、能といい狂言といっている。能楽ともいう。これが十四世紀の観阿弥、世阿弥の時分に溯ると一般に猿楽の能といった。田楽の能というのもあった。但 し世阿弥は『風姿花伝』に猿楽とは謂わず、「申楽」と謂う。世阿弥の話を聴き書いた『申楽談儀』という面白い伝書もある。が、世阿弥より前に「申楽」と書 いた例は知らない。「猿楽」で通っていたらしい。『新猿楽記』という本が、平安時代の末すでに公家の手で書かれていて、それは、『風姿花伝』や『申楽談 儀』のように猿楽者が自身で書きのこした、というのではなかった。
 いったい猿楽と田楽とがどう違うか、較べる時代によって変わって来る。ともに双方に藝のレパートリイの上で交流がある。田舎猿楽をつまり田楽だと説明し たような本すらある。
 田楽は田舞い、田囃しなど、古来の農耕生活と関連の深い、歌舞が基本の藝だった。
 猿楽の方は、散楽という大陸渡来の雑伎に系譜をもつと謂われる。サンガクが訛ってサルガウになったと説明する人もある。しかし散楽が直ちに猿楽にという より、合併して行ったと見た方がいいほど、猿楽は他の藝能の長を摂って己が短を補うことにすぐれた藝能であり、基本は滑稽物真似の藝だった。
 世阿弥や父の観阿弥が、これに田楽の能の歌い舞う長所を積極的にとり入れて優美さを加え、かつは物真似本位の藝風に活を入れたことはよく知られている。 が、平安末期には軽業、曲藝、幻術、手品、人形舞、物真似、音曲などのなお雑伎の名にふさわしい藝をかかえこんでいた。この中から物真似を主に、寸劇化の 足どりを早めつつ歌舞をとり入れたことが、ともあれ「申楽」へと成長の、第一歩になって行った。
 では観阿弥の庭訓の体で、子の世阿弥は「申楽」の二字をどう説明していたか。
『風姿花伝』の序にあたる部分に、近ごろ誰もが観ている能は、推古天皇の御代、聖徳太子が秦河勝に命じて「天下安全」のために、加えて「諸人快楽」のため に、六十六種もの遊びを工夫させ、これを「申楽」と名づけて以来のものだと、先ず語っている。
「天下安全」「諸人快楽」とは言い直せば「千秋楽」に同じい。世阿弥はその「申楽」の藝を指して「あそび」とはっきり言い切っている。「その後、かの河勝 の遠孫、この藝を相続ぎて、春日、日吉の神職たり」とも言っている。それ故に大和や近江の「申楽」の徒は、「両社の神事に従ふ事、今に盛んなり」とも言っ ている。信仰と藝能とを表裏に、「申楽」という「あそび」の伝えられて来たことが、分かる。
 だが、これではまだ「申楽」という二字の意味は分かりにくい。
『風姿花伝』の第四章「神儀云」では、もとより藝人の我田引水と牽強付会とは免れないけれど、およそこんな説明をしている。天之岩戸の前で天宇受売命らの した「御遊び」とは即ち「神楽」であるが、しかもあえて「神」の字を避け、偏を除け旁を残して「申」を用い、また「楽を申す」の意味をも籠めた。「申」は 「日よみの申たるが故に」「サルガク」と訓む、と。つまり神楽と申楽とは少なくも質的に異ならない、という認識である。
 さて、そう認識するについて、「神儀云」はこんなふうに書いている。

 一、日本国においては、欽明天皇の御宇に、大和国泊瀬の河に洪水の折節、河上より一つの壷流れ下る。三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲客(殿上人)、この 壷を取る。中にみどり子あり。かたち柔和にして、玉の如し。これ降人(天降った人)なるが故に、内裏に奏聞す。その夜、帝の御夢に、みどり子の云はく、 「我はこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域に機縁ありて、今現在す」と云ふ。帝、奇特に思し召し、殿上に召さる。成人に従ひて、才智人に越え、年十五にて大 臣の位に昇り、秦の姓を下さるる。「秦」と云ふ文字、「はだ」なるが故に。秦河勝これなり。
 上宮太子(聖徳太子)、天下少し障ありし時、神代・仏在所の吉例に任せて、六十六番の物まねを、かの河勝に仰せて、同じく六十六番の面を御作にて、即 ち、河勝に与へ給ふ。橘の内裏、紫宸殿にて、これを勤ず。天下治まり、国静かなり。

 かくてその「物まね」を指して「申楽」と名づけたのも、聖徳太子であったと世阿弥は言う。
 事の実否は、あまり問題でない。世阿弥らが「猿楽」という慣用の二字を、甘受していなかったことが分かれば、よい。今一つは神楽、田楽、猿楽、また今日 の能楽や文楽にしても、「楽」の字を大事にし、しかしそれは岩戸の前で八百万の神々が日の神の蘇りを期待しつつ「歓喜咲楽」んだ本義を明確に享け継いでい ると分かれば、よい。
 世阿弥は歓迎しなかったが、しかし「猿楽者」という呼び方はつとに定着していた。実際に猿楽を演じる者を意味し、ひいてはそのような役者同然にとかく滑 稽に振舞う者、随ってなみなみで無い変わり者、の意味にも使われた。猿楽者に多彩な演目のあったことは先に言ったが、それも詮ずるところ「面」ないし「か ぶりもの」を着けて「物まね」を演ずるのが主だった。そのようにして「あそび」の本義を生きた。一方で鎮魂慰霊、他方で千秋楽を寿ぐ者として人の世に迎え られていたのであり、「けしきばかりなる禄」が投げ与えられた。概ね寺社に隷属していた。「神事」を勤める「神職」という『風姿花伝』序の謂いかたには、 世阿弥らの久しくも苦い、或る実感が絡んでいる。
「神楽」「歓喜咲楽」「天下安全」「諸人快楽」「あそび」「物まね」「神職」「神事」「面」といったことばをこう縦に貫いて来て、「申楽」といい「猿楽」 というとも、ここに謂う「サル」には、どこか苦々しく「ヒト」に対する意味が含まれているとは、察しがつこう。
『枕草子』に、「かたゐ」の「尼法師」を指して「猿さま」「猿様」という表現をする時には、いわゆるけものの猿と限らない「猿楽者」の「サル」を読みとら ざるをえないと私は思う。むしろ積極的に『枕草子』の記事は、好むと好まざるにかかわらず、「猿」「あそび」「かたゐ」が一連のものだと証言しているとさ え読める。
 それにしても「かたゐ」とは何だろう。いきなり「乞食」の字をあてていいものだろうか。
 室生犀星の『抒情小曲集』にこんな詩句がある。

  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの
  よしや
  うらぶれて異土の乞食となるとても
  帰るところにあるまじや  (以下略)

 この「かたゐ」をただいわゆる乞食の境遇にいきなりおいては、かえって詩興を減じてしまうのではないか。むしろ「異土」への闖入者、招かれざる客として 己れを見つめる異和感を汲みとるところから、詩の内奥へ踏み入りたい気がする。
「かたゐ」は「傍居」「片居」なのである。道なら道ばた、村なら町なら、村はずれ町はずれ、に居る者というのが、もの、こと、の中心をはずれて居る者とい うのが、もとの意味だ。したがってこの「かたゐ」が、もの、こと、の中心へ、中央へ顔を出すとなれば、それは即ち閥入者、招かれざる客としてなのである。 『枕草子』の尼法師はまさしく「招かれざる客」として貴紳の近くへ闖入して来る。だから「かたゐ」なのだ。『伊勢物語』にはこの「かたゐの翁」なる業平風 の人物が或る場面にやや波風をたてている段がある。よく知られている。
 もとより何事もなしに「かたゐ」は訪れて来ない。尼法師の常陸の介ももう一人も、明らかに物乞いの体で訪れている。だから「乞食」だ、といきなり言って もいいが、近代現代の乞食観でこれを納得するとよほど違う。質的に違う。
 食べものと限らず、物を、「禄」を、乞うことをいわば尋常の職分とするような人が、へんに思うかもしれないが、公然と存在した。「ほかひびと」といわれ た。寿詞を唱えていわゆる門づけして物を乞う人、と説明すれば、とかく乞食という近代の語感に引かれるけれど、「ほかひ」ということばは、古語辞典に当た れば分かるように、よい結果の出るように祝い言をいう、建築の祈りや、酒宴の席などで吉事を祈って唱える祝い言、言祝ぎ、つまりは「祝言」であった。
「祝言」にはじまり「千秋楽」におわる、それが今日でも格式を備えた能狂言の会のきまった作法とは、前にも言い及んだ。もう久しく、ふつう「祝言」という と、結婚式の意味にすらなっている。
 祝い言、寿い言を唱えてまわることを職分とし、それに応じて「けしきばかりなる禄」を貰う。唱えるか貰うか、その順序が幾分前後しても、つまりはその種 の"仕事"をもった人々がいたのである。例えば初春の千秋万歳、獅子舞、猿牽、懸想文売り、また歳末の胸たたき、節季候などが活躍した。いずれも「職人尽 絵」の中の職人衆であって、しかもいずれも招かれざる客に相違ない。よその庭先に入って祝言、寿詞を申し上げ、藝を見せ禄を貰う。歌舞伎の舞台に祭文語り や願人のうかれ坊主の登場するのもそれだった、まさしく「ほかひびと」の末裔なのである。
「ほかひ」は一種の祈願・祈祷そのものだった。また言語の魔術的な呪力に対する信仰を購いとる行為でもあった。大事なのは、何よりも社会がそうした"職" や"役"を日常生活のけじめや安心のために、必要ないし不可欠ともしていたことだろう。
 そうした「ほかひ」を最も典型的にあらわすものは、能の中の能といわれる『翁』ではなかろうか。  所千代までおはしませ 我等も千秋さぶらはう と、 「天下太平国土安穏、今日の御祈祷」に徹した、まさに「神歌」として『翁』の能は今日でも最も珍重されている。白式の、つまり白い面をつけた翁が登場する のは、この能の真の主宰者であり、神そのものと思ってよい。ところが黒式の、黒い面をつけたもう一人の翁が闖入して来て、やはり祝言の藝を披露する。これ も神なのである。が、この神はいわば「かたゐ」としての闖入する神なのである。
『伊勢物語』の第八十段に、河原左大臣が「六条」辺に邸を「いとおもしろく造」っての宴席に、急に「かたゐ翁、板敷の下に這ひ歩きて」新邸の風情を褒める 歌を詠んだことが書いてある。これを、ただその時そこにいた見すぼらしい乞食のような老人と見るのは、自然なようだけれど、その実彼は、在原業平と思しい 人物は、彼なりに或る"役"を勤めたのであって、こうした、招かれざる客が闖入して祝言を申すことを即ち「今日の御祈祷」と受け取る約束ごとが、すでに成 り立っていた。『翁』の能の黒式の尉殿は、ちょうどこれに相当しているのである。
 祝言や寿詞を述べて「今日の御祈祷」のために、どこか中心、中央をはずれた処から「かたゐ」の者が招かざる客(まれびと)として訪れ寄って来る――、古 人はそれを即ち「神」や「霊」や「鬼」の来臨と重ねて想うすべを知っていた。神も霊も鬼も畏ろしい。敬遠してもいたいが、その神通威力、ご利益にもあずか りたい。
 いわばそうした威力のさながら"代理神"の"役"をする類いの人が、太古来、日本人の暮らしには「かたゐ」の人として不可欠に存在した。そういう人との 交渉は、人が人として暮らすうえに、一点心に畏れを抱きながら不可避のことだった。そういう威力が、突如割りこんで来るのが人の暮らしであり、しかし、尋 常の暮らしに突如では困るので、然るべき時機と場処とを人の側から定めて行った、それがつまりは「祭り」だった。「祭り日」だった。年中の行事だった。" 代理神"は当然祭りの主要な〃役〃を受け持つ。年々歳々、誰しもが替われる役ではない。自然、人が人をつぎ、家が家をつぎ、"役"はいつかすぐれた"藝" とも"能"とも磨かれる――。
  もうこの先は、柳田国男や折口信夫が身を挺して分け入った民俗学の領分になる。
 言いかえれば、私は『古事記』中の、「楽」や「遊」即ち「あそび」と訓まれている一字一語と出逢った其処から、めぐりめぐってやっと此処まで、辿りつい たことになる。天宇受売、猨田毘古、猿女、遊部君、秦河勝、遊行女婦、小野小町、かたゐの常陸の介、和泉式部、足柄山の遊女、猿楽法師、千秋万歳法師、世 阿弥、小野お通、出雲お国、田舎わたらひの遊女、願人坊主などと、およそこういう、ものの順序めいて今一度並べてみれば分かる。私はもう以前からそれを、 裏社会、裏女化といった、まだまだ言い馴れず、むろん耳馴れないことばに置き換えて受容し高く評価して来た。日本の歴史の、文字(文献、記録、書物)に よっては表わされにくく、それだけにたっぷり昏闇をはらんで厚い、あまりに厚い、価値ある、実在感のある、表社会や表文化にくらべれぱ幾層倍もの情念と技 藝と伝統をはらんだ地層への、そういう視線を自分なりに開眼の糧にして来た。
 ところが、とかく我々は表社会と表文化だけで「歴史」を見てしまう。「歴史」を虚構してしまう。そればかりか根拠も理由もなく表と裏を価値的に高い低 い、貴い賎しいというぐあいに強いて区別し差別し、その不当さを省みるより、自分は表へ、上へ、日のあたるほうへと急ぐようになる。そこに漂泊者世阿弥や 利休の本質的な悲劇があった。むずかしい言い方かもしれないが、彼らの悲劇を必然のものにしてしまうような素質・体質が日本人の全部にある。この生まれつ いた自分の素質・体質に対するたたかいの継続として、日本の歴史はよりよく書きかえられていくのであって欲しいと、『日本史との出会い』(ちくま少年図書 館)で、そう私は少年たちに呼びかけたこともある。
 裏のない表がありうるだろうか。眼に見えず、文字に表わされないが故に表だけを語って裏を信じない、それを即ち不自然といわねばならぬほど、自然は、そ して文化は部厚い、表裏一体の不思議そのものと私には見えている。そして――文字の文藝以前に、言葉の真実を心して聴けとおしえてくれるのも、古典、なの である。





   一期一会――散ってまた咲く


     *

『源氏物語』を、光源氏の生涯とその子孫の恋の物語、と、かりに要約して間違ってはいまいと思う。『平家物語』を、平家一門の栄枯盛衰の次第を叙した物 語、と、かりに要約してそれが見当はずれとは言えまいと思う。
 が、もし『源氏物語』や『平家物語』を読んで、こうも要約して、それだけで終わるならそんな読書はほとんど体をなさない。読書体験が深切であればあるほ ど、この程度ではおさまり切らない、溢れるほどの感想、感動、感嘆に満たされているだろう。それは、ただ大まかな要約などかえって必要としないくらい「全 面的」な或る体験であったに違いなく、しかし、その体験をさて文字なり言葉なりに置き換えるとなると、何をどう言っていいか迷ってしまうだろう。
 それほど茫漠とした体験にも、それでも芯になる「印象」はやはり有るものだ。人さまざまではあれ、これはと感じた細部に幾度か立ちどまり、何事かしきり に思い入れた覚えなしに、感動.がのこっているわけがない。
 ところが、その芯を、印象を、具体的に他から切り離し、抜き出して、叩快に人にもし話さね.はならぬとすれば――、これは尻込みしたくなる。その古典が 大作であったり、あまりに著名であったりすればなおさらそうで、こんな幼稚なことを読後の「印象」としてもち出すのは、ただただ不見識な嗤われそうなこと と思えてしまう。
 しかも、それほどにも他人に「意外」と見えそうな箇処へ、我ながら「印象」を深めてしまうということが、有るものなのだ。
 そこが大事だと思う。そこを大事に反芻し、なぜそこを作品の芯と印象したのかを丁寧に、自分なりに追求する根気をもつのでなければ、自分の読みも、自分 の考えも、自分の思想も成熟して行かないと思う。
 そこでこの章では、まず、とりとめもない幾つかのそんな読書の印象を少々羅列してみることから、考えを前へ進めてみたい。断るまでもなくこれは私自身 の、それも少年時の体験を現在でもまだ追体験しているという、一つの実例である。
 例によって『古事記』から始めよう。最近ではすっかり忘れられた言葉だが「天孫降臨」と、戦前は、いやほど教室であれどこであれ、よく聴かされた。そう 愉快な思い出ではないが、さて神国日本といったイデオロギイをほとんど幼年の昔から信奉した覚えのない私は、だからかえって『古事記』は何よりおもしろい 古典だった。自由に読めた。
 天孫降臨にしても、そう仰々しくなく私の胸に一つの神話的場景としておさまっている。前章でもいささか触れたことだが、ことに天上より笠沙御前に降り 立って第一番めに天孫のくだした判断が、地上の神の娘二人のうち姉の石長比売(いわながひめ)を退け、妹の木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)を妻 に娶るという決意であり選択であった事実に、私は大いに心惹かれたのをよく憶えている。
 この、天孫が人の世に降り立ち、人として最初にくだした決断は、いったいどういう意味をもつものか。私は『古事記』本文の趣旨にもさからって、なにかし ら頻りに私自身の解釈を、理解を、追い求めたことをほんとうによく記憶している。自覚している。
 次に『源氏物語』から拾ってみよう。与謝野晶子訳から原文へ、また谷崎潤一郎訳へ、そしてまた原文へという翻読を繰返した『源氏物語』の中で、比較的早 くに私が反応して、その部分へ来るときっときまって涙ぐんだ或る箇処がある。
 それは「須磨」の巻。もはや光源氏の父桐壷帝は亡くなり、兄朱雀帝の御代と変わって、ふとした事件から光君がすべて官位を公に返上し、都を須磨へと落ち のびて暮らすしかないはめに陥ったあたりの話である。いよいよ父帝の北山御陵に暇乞いに心寂しく赴く道すがら、「賀茂の下の御社」の前を通りかかると、御 供しているもとの右近丞で蔵人だった男、今は主君光源氏ともろとも「御簡削られ、官も取られ」たのが、つと馬を下りて光君の「御馬の口」をとって昂然と歩 んだ、というのである。
 むろん俄かにただこれしきを抜き出して紹介しても、読者には何事とお分かりにならないのが当然で、この蔵人の丞の突然の振舞いには、相応の背景がある。 光源氏も花やかなら仕えるこの男も花やかに、かつて賀茂の祭日に彼は満都の注目を晴れがましく浴びながら主君の馬の口をこう取って、大路を練り歩いたこと を今、万感こめて思い起こしたのである。
 私は、自分が光源氏の落莫に涙したとは決して思わない。それより明らかにこの従者の心根におどろき、かつ涙ぐまずにおれず、それは不覚にも幾度『源氏物 語』を読んでもきっとそうなのである。
 私の涙を分析する気はない。なぜにこの男は突如ここで馬を下りたか、光君の馬の口をとって歩んだか、私はその事の前に立ちどまった。立ちどまらずにおれ なかった。それがこの章の中心の話題になるだろう。
 だが、今は話をもっと先へ進めよう。私の父は素人ながら若い時分に道楽の余禄で京観世の舞台に地謡で出たような人だったから、家の中で、機嫌さえよけれ ばいろいろと謡いだすのを幼来数え切れないほど聴いていた。近所の若い人に頼まれて『鶴亀』や『竹生島』を教えていたのを忘れないでいるどころか、私にも 教えてやろうかと言われ、うんと頷いていきなり『東北』『花筐』『俊寛』の三曲を厳しく稽古されて、音をあげた覚えがある。
 ことに戦時中から戦後へかけ、あの荒廃した時期に聴いた父の謡曲は、巧い拙いでなく、すこぶる美しい別世界の実在を信じさせてくれた。そして機会をえて は能や狂言を観たいと思う中学生、高校生に育って行った。歌舞伎より人形浄瑠璃の文楽が、文楽よりお能が好きと、そうむりでもなく口にできた時期がたしか に私にはあった。今も同じだとは自信を持って言い切れないけれど、ともあれ父の素人藝(と思う)は私に有難い感化を及ぼしてはいた。
 数有る謡曲の中に、『鉢木』はあまりに名高い。旅の僧に身をやつした最明寺時頼を大雪の夜の荒ら屋に迎え、何の馳走もないまま、落莫の御家人佐野源左衛 門尉常世夫婦は、秘蔵の梅松桜の鉢木を截って、凍えた客僧のために炉に焚きつけてやる。
 それは、後段の様変わりで大層な恩賞に常世があずかろうがあずかるまいが、したたかに感動的な場面であった。が、さて、真実のところ、何に、どのように 自分が感動しているのかが、私の、久しいあいだ私自身への一つの問いかけになって行った。
『鉢木』もさて措いて、私が父の謡曲にいささか心惹かれるのと前後して、京都の家で終始同居していた独身の叔母(父の妹)が、町の娘たちに教えていた茶の 湯というものにも私はずいぶん魅惑されている。一つには戦後早々のことで、芋するめ一枚の茶菓子にありつけることすら茶室はなかなか飢えた少年を吸引する に力あったわけだし、二つにはやはり女の匂いにも惹かれたに違いない。私がはじめて見様見真似に抹茶をたて、また袱紗捌きを覚えたのは終戦後二年、小学校 六年生のうちのことだった。
 以後、私の茶の湯熱は上がりっぱなしで、高校生、大学生の頃を通じて叔母の代稽古を勤めた体験は、いささかの小遣いを叔母からせしめたという以上に、稔 り多かった。本気で本格に勉強すれば、茶室、茶庭、書、画、陶、花、香、食、炭、工藝から禅、歴史、古典まで、じつに広範囲に"日本"を、"中世"を吸収 できる。そのどの一つにも、まずまずは生きた姿、活かせる形で接しえられる。やはり中学時分から熱中した短歌づくりと並んで、私の青春は、同世代の少年た ちとは甚だ様のかわった茶の湯との日々に埋もれていた。京都、茶の湯、短歌のこの三つが私の青春を組み立てる三本柱だったことは、いやも応もなく年が経つ につれて忘れ去るということができない。
 そんな次第で私はむろん利休の名を早くから知っていたし、利休好みという美の感覚にも幾らかの感想はもっていた。私が原稿というものを書き、はじめて穫 た金五百円也は、中学・高校時代に中学・高校生のまま私自身で指導していた学校茶道部の体験を雑誌「淡交」の懸賞に応募し入賞した時のものだ。栄西、義 政、相阿弥、珠光、紹鴎、利休、織部、三斎、遠州、不昧、また今日庵や不審庵代々の家元、また楽焼代々など、自然と名前だけは記憶していた。その中に、大 名茶の最後を飾った井伊直弼の名もあった。
 安政大獄や日米通商の井伊大老と、私の場合、全く並列的に埋木舎の昔から茶の湯に親しんでいた「一期一会」の井伊直弼の像ができていたことは、たとえば 舟橋聖一作の『花の生涯』といった小説を迎えるのに恰好の下地になった。映画が先だったか、昭和二十九年七月配本の『昭和文学全集』版で読んだのが先だっ たか忘れたが、大学へ入って早々のあんな通俗小説がけっこう面白かった。
 井伊直弼の著『茶湯一会集』を読んだのは、昭和三十六年の『茶道古典全集』第十巻を手にしてからだった。名高い「一期一会」という考え方に直弼自身の表 現を介して触れた体験には、ただの言葉として知っていた時とはまるで次元の違う感銘があった。じっと考えこまされたものだ。『古事記』『源氏物語』『鉢 木』などの、その時々にばらばらであった或る感想が一気につながって、私の体内でむくむくと生きもののように組み立てられるには、どうしてもこの『茶湯一 会集』との直かの出逢いが必要だったらしい。
 その時、私は今あげた古典とべつに、今一つ、もはや現代の古典と呼ぶべき谷崎潤一郎の『細雪』のことも思い出していた。
『細雪』が少年の眼にも触れやすい形で本にまとまったのは、昭和二十五年ごろではなかったか。とすれば私は中学三年生だった。たしかに私はこの年に『細 雪』を読んでいる。与謝野晶子訳『源氏物語』に次ぐ私の重々しい読書体験だったことに間違いなく、この二つは烈しく私の、心の奥で融合して、或るプライ ベートな"思想"を形造ってしまったのだが、今、そのことは措く。
 私は京都の東山のふもと、八坂神社、知恩院、建仁寺などに近く育ち、ほんのすこし足をのばせば清水寺、南禅寺、そして平安神宮にも近かった。『細雪』の いろんな場面の中で、とりわけて平安神宮での花見に心を奪われたのもむりなかったのである。
 私はあの『細雪』から、ことに平安神宮の花見との関わりから、少なくも三つの点を自分の問題にしたように思う。
 一つは、「花」とは何だろうかという、かつてない思いを持った。私に茶の湯を教えた叔母は、また遠州流系統の生け花の師匠でもあった。私は茶のように生 け花は習わなかったけれど、「花を生ける」ことやその稽古場は親しく見知っていた。幼稚園ごろから「お花の稽古日」を心待ちにするふうでさえあった。花は 美しいし、若い女性が一日中出入りするのも花やかだった。この辺に「花」とはと考えこませる素地は用意されていた。
 今一つは、蒔岡家の三姉妹が毎年花を見る、「花見」をする、その花見の仕方に心を惹かれた。
 そしてもう一つは、美しい姉妹の好んで見る花が「桜」であり、三人のうちの年嵩な姉が、幸子が、かつてハネムーンのあいだに夫から好きな花はと訊かれ、 言下に「桜」と答え、また好きな魚はと訊かれると「鯛」と答えていささかの躊躇いもなかったこととも思いあわせて、いったい『細雪』の作者が何を言いた かったのかが、たいへん気になった。
 ここの花見、そして、花は「桜」という選択は、従来概して批評家たちにあまり歓迎・評価されず、平凡で型通りな好みと失笑も苦笑もされて、いきおい作品 や作者の消極的な評価を引きだす糸口にさえなされ易かった。
 だが、私は一度としてそんなふうに思わなかった。
 もしここで幸子が、好きな花は「桔梗」とか「グラジオラス」とか「山茶花」とか答えていれば批評家は個性的な好みとでも頷いたのだろうか。万々そんなこ とはあるまい。梅でも藤でも椿でもなく、この小説のこの場面では「桜」でなければならない内的必然性を作品は迫力十分に主張しえている。ただ凡庸な好みで 作中人物が選択し、作者もたんにそれを受け入れているのではない。作中の幸子の選択を、作者の谷崎潤一郎が進んで是認し、気合十分に、しかもすぐれて自然 に、花は「桜」と語らせている。その上での平安神宮花見の場面になっている。
 いったい単に「花見」「花宴」といえば、日本人ならまず「桜」のことと承知している。そして「秋」の「紅葉狩」に対して「春」の季節感を、この「花見」 という言葉から端的に受け取る。
 梅見という言い方はあるが、桜見とは断る必要がない。そこに伝統的に「桜」の位が出来ている。谷崎がそれを承知で敢て「桜」を話題にする時、『細雪』は たんに昭和十年代前半の、上方の、一中産階層家庭内の風俗絵巻であるだけでない、根をもっと深く「日本」の土壌に張っていることの自己主張がなされていた に相違ない。そう読まねば、作の面白さ大きさ正しさが生きてこない。
 さて、桜に代表される様態から想えば、「花」とは咲いて散り、また咲いては散る生命と見られる。花は端、先端の意味でもある。花やかな、花々しい、おお よそ佳き物、佳き事、佳き時、また佳き人をも、象徴的に先ぶれするものとも謂える。花が枝の端先に咲くに准えるなら、歴史、時代、時間の最先端、つまり 今、現在、現代を何よりも「花」と眺める視線がありえよう。しかも花の生命の不可思議に美しいのは、ただ咲く、咲きつづけるからではなく、むしろきっと 散ってまた時機を待ち返り咲くところにあることも、日本人ならよくよく識っている。散ることを介して咲く花だから、新鮮で、愛ずらしいことをよく心得てい る。即ち「花」には、繰返す生命の不思議な永遠が籠っている。ことに「桜」の花に日本人はそれを眺めてきたし、それを佳しと受け入れてもきた。
『細雪』の幸子が答えた「桜」にも「鯛」にも、すべて佳き物、事、時の、無際限に繰返し、積み重なって、なお新鮮に美しい生命の意味があればこそ、ああ佳 いなと胸にひびく。私は、そう読んだ。多くの人が幸子の、つまり谷崎の選択をただ趣味の域で論評したけれど、私は谷崎の思想として理解すべきだと今も考え ている。批判するにしても思想の如何として論ずべきだと考えている。

(略)そして再び渡月橋を渡り、天龍寺の北の竹藪の中の径を、
「悦ちやん、雀のお宿よ」
などゝ云ひながら、野の宮の方へ歩いたが、午後になつてから風が出て急にうすら寒くなり、厭離庵の庵室を訪れた時分には、あの入口のところにある桜が姉妹 たちの袂におびたゞしく散つた。それからもう一度清涼寺の門前に出、釈迦堂前の停留所から愛宕電車で嵐山に戻り、三度渡月橋の北詰に来て一と休みした後、 タキシーを拾つて平安神宮に向つた。
あの、神門を這入つて大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、――海外にまでその美を謳はれてゐると云ふ名木の桜 が、今年はどんな風であらうか、もうおそくはないであらうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくゞる迄はあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じや うな思ひで門をくゞつた彼女達は、忽ち夕空にひろがつてゐる紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、
「あー」
と、感歎の声を放つた。此の一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、此の一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亙つて待ちつゞけてゐたものなのであ る。彼女たちは、あゝ、これでよかつた、これで今年も此の花の満開に行き合はせたと思つて、何がなしにほつとすると同時に、来年の春も亦此の花を見られま すやうにと願ふのであるが、幸子一人は、来年自分が再び此の花の下に立つ頃には、恐らく雪子はもう嫁に行つてゐるのではあるまいか、花の盛りは廻つて来る けれども、雪子の盛りは今年が最後ではあるまいかと思ひ、自分としては淋しいけれども、雪子のためには何卒さうであつてくれますやうにと願ふ。正直のとこ ろ、彼女は去年の春も、去々年の春も、此の花の下に立つた時にさう云ふ感慨に浸つたのであり、そのつど、もう今度こそは此の妹と行を共にする最後であると 思つたのに、今年も亦、かうして雪子を此の花の蔭に眺めてゐられることが不思議でならず、何となく雪子が傷ましくて、まともにその顔を見るに堪へない気が するのであつた。
桜樹の尽きたあたりには、まだ軟かい芽を出したばかりの楓や樫があり、円く刈り込んだ馬酔木がある。貞之助は、三人の姉妹や娘を先に歩かして、あとからラ イカを持つて追ひながら、白虎池の菖蒲の生えた汀を行くところ、蒼龍池の臥龍橋の石の上を、水面に影を落して渡るところ、栖鳳池の西側の小松山から通路へ 枝をひろげてゐる一際見事な花の下に並んだところ、など、いつも写す所では必ず写して行くのであつたが、此処でも彼女たちの一行は、毎年いろいろな見知ら ぬ人に姿を撮られるのが例で、ていねいな人は態々その旨を申し入れて許可を求め、無躾な人は無断で隙をうかゞつてシヤッターを切つた。彼女たちは、前の年 には何処でどんなことをしたかをよく覚えてゐて、ごくつまらない些細なことでも、その場所へ来ると思ひ出してはその通りにした。たとへば栖鳳池の東の茶屋 で茶を飲んだり、楼閣の橋の欄干から緋鯉に麩を投げてやつたりなど。
「あ、お母ちやん、お嫁さんやわ」
と、突然悦子が声を挙げた。見ると、神前結婚を済ました一組が斎館から出て来るところで、花嫁が自動車に乗り移るのを、弥次馬共が両側に列んで覗き込んで ゐるのである。此方からは白い角かくしと、きらびやかな裲襠の後姿が、硝子戸の中でちらと光つたのを見たゞけであつたが、実は此処でかう云ふ一組に行き合 はすことも、今年が始めてなのではなかつた。(後略)

 どうか、この長い引用を、故人にもお許し願いたい。人は嗤うかもしれないが、これが谷崎と私の「出逢い」だった。
『細雪』は、言うまでもない、あの大戦争の予兆に日本中揺れ動いていた時代を描いている。書く、とすべきなのを、思わず、描くと言ってしまったほど、美し く、一抹寂しい絵巻物ではあるのだが、戦火いよいよ熾んな昭和十九年、秋、十月二日に辛うじて身一つで京都を訪れた潤一郎は、平安神宮に過ぎこし花の春を しのんで数首の和歌をのこしている。「むかし年々の春毎に家人とその妹たち二人を伴ひて此の神苑の花見に来りしことを思へば感慨禁じ難し」と前詞が据えて ある。わずか二カ月後に『細雪』中巻五百四十四枚の稿が成り、しかし私家版ですら軍当局の干渉で印刷頒布が禁じられるという時世だった。

  くれなゐの雨としだれしその春の糸桜かや夢のあとかや
  雪とばかり袖にちり来し花ならで落つる木の葉ぞ桜なりける

 この二首を読むだけで、「細雪」という題が、女主人公の一人「雪子」の名に重ねて、むしろ散りに散る桜の花吹雪を作者が想い描いていたことがよく分か る。現に『花の段』という狂言小謡を潤一郎は作詞していて、「祇園、清水、嵯峨、あらし山、御室なんどと申せども、都の花は平安神宮大極殿の紅しだれよの /今年も花見に参つたれば、げに咲いたりやな糸ざくら、そよ吹く風に一ひら二ひら、ひらりひらり、ひらりひらり、空に知られぬささめ雪、かの三人のおとゞ いと妍をきそひて候よ(以下略)」と言っている。作中人物にかぎらず谷崎もまた心から花は桜の春を愛していたので、けっして一小説作品のポーズではなかっ た。潤一郎の墓は同じ京都の鹿ヶ谷法然院に生前造られてあったが、「寂」と、自筆の一字を刻んだだけの美しい石の墓の背には、すでに平安神宮「紅枝垂」の 一株が姿佳く移し植えられていた。

     *

 何を私は言いたいか。読者は、読みながら戸惑われているだろうか。
『古事記』『源氏物語』そして謡曲『鉢木』から井伊直弼の『茶湯一会集』を経て、谷崎潤一郎作『細雪』を話題にしながら、私は「花」や「桜」を語ってき た。そしてその平安神宮の場面を紹介しながら、作中の蒔岡姉妹の、いや、今や谷崎潤一郎家の"花見"の仕方に眼をむけてみずにおれないのである。
『細雪』によれば、蒔岡家の人は平安神宮の桜を愛でるその先に、例年、ほぼ決まった道順をふんで、「いつも平安神宮行きを最後の日に残して」いたという。 「此の神苑の花が洛中に於ける最も美しい、最も見事な花であるからで、円山公園の枝垂桜が既に年老い、年々に色褪せて行く今日では、まことに此処の花を措 いて京洛の春を代表するものはない」からでもあるが、必ずしもそれだけの理由ではあるまい。
「常例としては、土曜日の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭で早めに夜食をしたゝめ、これも毎年欠かしたことのない都踊を見物してから帰りに祇園の夜桜を 見、その晩は麩屋町の旅館に泊つて、明くる日嵯峨から嵐山へ行き、中の島の掛茶屋あたりで持つて来た弁当の折を開き、午後には市中に戻つて来て、平安神宮 の神苑の花を見る」と、作中に書かれてある。これほどのものをたっぷりと先ず用意して、やっと平安神宮の桜はしみじみと、心ゆくまで眺められる、というこ とだろう。
 瓢亭の夜食や(例えば「炭屋」のような)麩屋町の定宿こそ、誰しもの叶うことではないにしても、その余は賛沢そうに見えて必ずしも出来ないことではな い。むしろ容易に及び難いことといえば、これだけの手続きをぜひとも繰返さずに済まない蒔岡姉妹らの心入れの深さであろうか。だが、平安神宮の花は、これ ほどの心入れにのみよく釣合って、はじめていやが上に美しく咲く花といえる。
 こんな口説ばかりを弄していると、ただ趣味的な私の好みに執していそうに思われかねない。
 しかし、ここで本当に指摘したいのは、蒔岡姉妹らの、こうした花見の仕方に生かされている「繰返し」のみごとさだ。その意味の重さだ。深さだ。
 美しい花が咲いては散り、また咲いては散るように、「毎年」の「常例」がじつにだいじに繰返されているだけでなく、ここでは些細な人の振舞いまでが意識 して丁寧に繰返されている。貞之助は美しい姉妹の姿を「ライカを持つて追ひながら」「いつも写す所では必ず写して行く」し、女たちにしても、「前の年には 何処でどんなことをしたかをよく覚えてゐて、ごくつまらない些細なことでも、その場所へ来ると思ひ出してはその通りにした」という。
 花と同じように人も繰返し、人のそのように繰返す思い入れをさながらの生命かのように吸いあげて、花は美しく咲き匂っている。谷崎も、作中の女たちも、 そのようにして日本の美の在りようをはっきり自覚している。
 我々はここまで思い及んで、かの神代のむかし天孫が地上の存在としてはじめてなしえた"選択"の意味を、岩ではなく花をえらんだ意味を、今一度はっきり 思い起こさねば済まぬ。
「岩」は、往きて帰らぬ永遠の持続時間を象徴している。そのような時間は、明らかに神のみが専有できる絶対の時間であるだろう。しかし「花」は、繰返し生 き変わり、また繰返し死から蘇る断続、反復の時間を象徴している。そこに人の営みの余儀ない真相がうつされている。
『古事記』の成立には、稗田阿礼という舎人の協力があったと編者太安万侶が序文に書いている。阿礼がどんな人物であったか、男か女かとまで議論はなかなか 定まらずにいるが、ともあれ「年是廿八。人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払るれば心に勒す。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日継、及び先代の旧 辞を誦み習はしむ」とある。諳誦力によほど秀でていたのだろう、阿礼に限らず宮廷に、また各豪族ごとに言い伝えを憶え継ぎ、然るべき時機には先祖の事蹟な どを誦み語る役の者が備わっていたことが早くから推察されている。
 先祖を祭る、また当年の死者を新たに祭るとは、多くの場合、祖霊や故人の霊のまえで彼ら生前の卓越した事蹟を顕彰し賞讃することであった。そうして霊を 慰めた。難しい漢字で「誄」と書き、天皇や皇族、重臣などが死ぬとその霊前で由縁の皇族や大官が入れ代わり、立ち代わり鎮魂の目的で「しのびごと」を奏し た実例が『日本書紀』などに見えるけれど、先祖祭ともなれば、子孫が記憶し誇示するに足る過去の事件や業績が偲びかえされたろう。皇室への密接な関係や奉 仕の実績が公に語られる場合は、服属儀礼とも宣伝ともなり、ゆるがせには出来なかった。文字による記録が容易でなかった以上、それらは誰かが誦習し諳記し ていて、時機ごとに語り継がれていたのである。『古事記』は、そうした多くの語り伝えを或る主筋に、大和の王権が確立する過程に沿って排列し編纂したもの とも十分言えるわけで、その限りでは、私はとくべつなにごとを付け加ええたわけでない。
 たしかに"語る"行為は、語部と呼ばれる人たちもいたことではあり、とくに『古事記』以前にはだいじな働き、だいじな役割だったにちがいない。
 だが"語り"だけが伝承の方法だったろうか。当然"歌"ってでも記憶は伝えられただろう。
 ただし"歌う"も"語る"も言葉あっての表現と伝達の行為である。"文字以前"には、ことに語りつがれ歌いつがれて記憶は伝わった。
 だが、それだけだったろうか。"語り、歌う"うえに"舞い、踊る"という手段も加わり、所作や身ぶりで演じ伝える、記憶を演戯化することももちろん有っ たのではないか。
 日本史上、演劇と呼べるものの登場は、十四世紀、名高い観阿弥と世阿弥父子による大和猿楽能の真の大成まで待たねばならない。しかし当然にも世阿弥以前 に演劇的なものの萌芽は有った。大道藝としての滑稽や物真似や寸劇はむろん、寺社に伝わる仮面を用いた演戯や雑戯など、細々とながら十分遠くまで溯ってそ のような芽生えは探し求めることが出来る。素朴な舞台、桟敷ふうの設えすら認められなくはない。
 前章でふれた天若日子を葬る場面や天之岩戸前での神楽の場面なども、さほど無理なく演戯的な"遊楽"のさまを想わせてくれる。たとえばイザナギとイザナ ミとが天の浮橋に立ち、「国稚く浮脂の如くして、くらげなすただよへる」世界に天の沼矛をさし入れ、「淤能碁呂嶋」を凝りかたまらせた場面にせよ、「其の 嶋に天降り坐して、天之御柱を見立て」てから、互いの性器を見確かめ、「国土」や神々を産んだ場面にせよ、ただ誦み習い語り継がれただけでなく、時に応じ て然るべく演じられていてもすこしの無理もない、いかにも演戯といい演劇というになじみやすい場面で『古事記』は満たされている。十分、そう読める。笠沙 御前で、天孫が地神の娘の「花」を娶り、「岩」を退けたあの場面なども、さながらのドラマとして、繰返し演じられたとしてもおかしくない。
 このうえ、強いて言いつのる気は毛頭ない。語り歌い舞い踊るといった表現は、むしろ太古上古に溯るほどかえって分化していなかったろうということを、 「歓喜咲楽」とか「日八日夜八夜を遊びたりき」といった言い方から感じとりたいと思うまでだ。
 それに、日本の祭儀祭礼には、断片的ではあれ豊富に演戯化された所作や礼式や掛合いが生き残っていることも思い起こせば、広い意味の「演戯」が、太古来 有効な伝承の手段とされていたろうこと、そこに「藝」「藝能」の発生があったろうことはたやすく推察できるとも言っておきたいのだ。
 それよりも私はそうした「演戯」の質、性格に注意を払いたい。祖先や故人を偲ぶ祭りに嵌めこまれた演戯なら、勝手な変改をもともと受け入れにくかったろ う。厳粛な反復継承こそ古代の「演戯」の本来であったろう。つまりは忠実に、信心をこめて「繰返し」「繰返す」ことが大事であったろう。
 舞踊の手も、楽器の演奏も、郢曲今様などの唱歌も、能や人形浄瑠璃や歌舞伎などの様式化された演劇も、日本の諸藝能の根本に、「藝」は、繰返して深める ものという垂直志向がつよい。
 久しい時の間に細部を洗練され、たしかに面目新たに変貌し変容して行っているのも事実でありながら、それでも歌舞伎ほどもともと「傾いた」自由放埒な起 源をもった藝でさえ、藝としてそれ自身が成熟し完成して行く過程では紛れもなく「繰返し」「繰返す」深めかたを見せている。避けられぬ根源的な日本藝能の それが素質体質であるかに見える。
 独創を重んじないといった批判を急いではなるまい。そのまえに、やはり日本人の「時間」に対する感覚なり思想なりを問い直さねばならない。その点を、木 花咲耶姫と磐長媛とのあの伝説は意味深く教えてくれている。
 万物流転といった直線的に延長して行く時間は、理に叶っているようで、どこか親しみにくく頷きにくいものを、西洋人ですら感じていたようだ。そうでなけ れば「最後の審判」というようなすさまじい遮断機を設け、永遠に延長される神の時間に、奇妙に人間的な修正を施す必要はなかったろう。
 少なくも我々日本人は花の生命が繰返すように、四季自然が繰返すように、どうやら時間もいわば「時の環」を成して衰亡し再生する、循環するものと、心の 底では信じてきたのではないか。仏教の輪廻転生といった形而上的な理法とはべつの、もっと素朴に身のまわりの自然そのものから学んだような仕方で、一種完 結した、透明な袋にも似た時の環にとりまかれ、その空間化された時間の環の内で自在に生きるようなアニミズムを、ほとんど先験的に体内に脈打つリズムとし て宿しているのではないか。
 私は、太古上古の呪術について知識をもつものではないが、そうした呪術の矮小化したいろんな民間信仰や、もっと痕跡化した児童の遊戯が、或る身ぶりや言 葉(歌)を執拗に繰返しているのを知っている。その心身に及ぼす畏ろしげな効果を垣間見ることもできる。
 桜井徳太郎氏は「地蔵憑け」という民間信仰を紹介され、それが遊戯化した「地蔵遊び」から、さらに「中の中の弘法さん」や「かごめかごめ、かごの中の鳥 は」などの眼かくし遊びに至っていることを早くに論じておられた。
 桜井教授によれば、福島県郡山辺では、明治の末頃まで正月の遊びに少女たちが集まって、仲間の一人に地蔵の霊をのりつけて遊んだという。即ち、相談が決 まると一人を選び、手拭で目を隠し、笹を幣束に持たせる。そして取り巻いた少女たちが「南無地蔵大菩薩、おのり申せば、あそばせ給え」と唱えごとを繰返し 浴びせかける。この唱えを繰返すうちに真ん中の少女にがさがさ震えが来て地蔵様がのりうつる。周囲から何でも知りたいことを訊くと、地蔵は一々に的確に答 えたという。
 こうなるともはや遊戯とも言っておれないが、なおいっそう祖型を探ると、この地蔵遊びが子女の手を離れ、遊びは遊びでも"神遊び"というに等しい、大人 の、それも女たちの宗教儀礼として伝わったことが多くの証跡とともに確認できる。
 ノリテと呼ばれる一人の女が目隠しされ、手に笹を持ち、地蔵堂から持ち出した石地蔵と向かい合って中に坐るこの「地蔵憑け」の儀礼は、土地の日常生活の ためにも有用で意義の重いものとして伝え継がれ、男たちは女の特異な能力をただ遠巻きに見て、農事、人事はては失せ物探しにまで頼むところ大きかった。し かもこの能力も習俗も、けっして限られた一時代一地域の特別な女たちだけが占有していたのではなかったのである。
 かごめ遊びから地蔵憑けへ辿れる道筋は、だが、さらに遠く古く溯ることが可能なはずである。例えば今、地蔵憑けのノリテが持つ笹など、祖霊や神霊の憑り 移るさまを明らかに現世人の目に見せる役をする巫女の採り物の一種であり、この際は地蔵より採り物の歴史の方が遥かに古い。採り物には笹のほか榊や鈴をは じめ種々知られているが、その命脈は、ワカやモリコの持つオシンメイやイタコの持つオシラサマにも繋がって生きのびているし、超モダンな建築現場にさえ今 なお地鎮祭の神主が手にする御幣としても姿を見せている。
 それより、その採り物に神霊を招ぎ寄せるべく、言葉(歌・呪文)や身ぶりの際限ない「繰返し」の伴うのが無視できない。さらには右の少女たちが唱えつづ ける「おのり申せば、あそばせ給え」という「あそび(あそばせ)」にも耳がとまる。前章でとりあげた話題に直接結びついて行く響きをもっている。
 青森県のイタコたちはオシラサマを「あそばせ」たものだ。この使役の他動詞にも、「神あそび」を意味する『古事記』天之岩戸まえでの「歓喜咲楽」に通じ る響きはある。地蔵憑け、地蔵遊びのような呪術的な信仰や遊戯にしても、神楽、伎楽、散楽、猿楽、田楽、能楽また文楽などという「楽」の系譜に質的に絡み 合っていることに察しがつく。
 楽焼という陶藝もあるが、たしかに日本語化した「楽」の字は漂泊の藝能者たちの藝と心情と境涯の記された独特の響きで日本の社会に沈澱しているといった 趣がある。その響きに無際限に繰返されてきた、積み重ねられてきたものの喜怒哀楽が籠っていることにも察しがつく。
 繰返しの効果が活かされたのは神儀や山嶽修験道や山間僻地の民俗に限ったことでなく、密教加持修法にも、またたとえば市中の念仏三昧にも、無際限な繰返 しを利かして法悦境へ誘い入れるような呪法は常時に行われていた。
 私の育った京都市内、京都大学のあたりに「百万遍」という地名が今もある。知恩寺というお寺の通称でもあって、百万遍もの唱名唱和が行法、行事として巷 間の信者にも支持されてきた。ほんとうに百万遍数えるのかどうか、私は子どもの頃、もし百万遍も「南無阿弥陀仏」を繰返すのには、どれほど時間がかかるか 勘定してみた覚えがある。が、それはさておいても、大勢が一堂に会し、独特の節づけで六字名号を百万遍もひたすら繰返せば、いつか地蔵憑けと同様の惑乱、 悦惚、法悦、不思議が会衆の心身にもたらされただろうとはたやすく想像できる。
 百万塔、百万遍といい、お百度を踏む、お千度参りをするともいい、また三十三間堂の千一体仏といい、三十三所、千社参り、不断念仏、さらには不断経、不 断香などと、要するに数量の多さや重畳重複の熱意に信心と祈願の効果を願おうとした流行が、或る時期、それも長い時期、日本人の持前にも合致して人の心を つよく捉えたのは事実で、それなりに見遁せない興味ある現象だけれど、その一段底辺には、数を重ねる、繰返す、ことの呪的な超能力が信じられ敷きこまれて いたのだとも見抜かねばならない。そこでは時間が一線に延長するのでなく、あたかも一枚二枚と数えられそうに重畳し濃厚になり、膨張して超現実の世界を幻 出したのだ。
「百万遍」に対して、たとえば名高い「一遍」という御上人の名に心惹かれることがあるが、その一遍上人にしてからが民衆を惹きつけた踊躍念仏にも、唱名と いう発声発語の効用だけでなく、明らかに五体を反復躍動させ、その繰返しに呪的な働きを期待するところがあったのは明らかではないか。
 念仏三昧、踊躍三昧という有難そうな言葉にもむろん繰返すことの或る無気味さが色濃く塗りこめられている。理屈三昧、遊興三昧はては放蕩三昧といった言 い方も同様に通用する。「繰返す」ことが、或るえたい知れぬ暗闇の底から吹きつけてくる、いわば「物狂い」「三昧」の状態を喚び起こす鋭い引金であるらし いことを、人は太古来十分に理解していた。ともあれそれは現実の時空間におしかぶせて、まるで別趣の時空間を幻出してみせたらしい。
「物狂い」が即ち狂人、発狂、狂気、の意味でないことは、用例をいろいろ拾ってみればわかる。人は熱狂も狂喜もするし、酔狂から狂態、狂言を演じ風狂、佯 狂といった評判もとる。野球狂をいきなり精神病者だと言ったら、バットを振りまわされかねまい。いっそ「狂」とはどういう状態かと問い直すほうが早かろ う。
 能楽の演目に『翁』を別格にして、よく神、男、女、狂、鬼の五種類があるという。その四番目物つまり狂女物で演ずる物狂いのさまは、必ずしも精神病その ものを表わしてはいない。一念凝っては時に応じて物狂うのであり、物が憑くというより、早く言えばその時その人物がべつの物になり変わるのだ。なり変わり 易い状態に這入るのだ。そして、それは必ずしも不幸な変身とは限らない。そういう状態にある男女にむかって、「面白ふ狂ひ候へ」などと尋常の者の勧めてい る言葉が、謡曲にはよく出てくる。

 いかに狂女、宣旨にて有ぞ、御車近ふまいりて、如何にも面白ふ狂ふて舞遊び候へ、叡覧有べきとの御事にてあるぞ。急いで狂ひ候へ。(花筐)

 都の人といひ狂人といひ、面白ふくるふて見せ候へ、狂はずは此舟にはのせまじひぞとよ。(隅田川)

 暫是成狂女はそこつ成事を申者かな、さればこそ物狂にて候。 なふ是は物には狂はぬ物を、物に狂ふもわかれゆへ、逢時は何しに狂ひ候べき、是はまさしき 我子にて候。
(三井寺)

『花筐』の女は別れていた男を恋うて物狂いを見せ、『隅田川』『三井寺』の母親はともに見失うた我が子を探しもとめて物狂ってはいるが、文字どおりの狂人 でないことを、心中に繰返し祈り願ってきたことが幸い叶えば物狂いはたやすくやむことを、『三井寺』の女が明晰に語っている。事実、この母親も『花筐』の 女も、本望遂げて狂女の域を脱している。
 喜怒哀楽ないし愛憎の極まった時に心身に憑りつくいわば他界の威霊が「もの」であり、この「もの」の働きで一種尋常ならざる振舞いを演ずるさまをおよそ 「物狂い」といえるだろう。
 こういう物狂いの状態に対応する観察者の感性が、そのひたぶるに純粋な極限感情への讃嘆や共感のゆえに肯定的に磨き抜かれて行くと、尋常普通の者でも、 或る何らかの自己暗示で容易に物狂いへと転じうる。その好例が、早くに挙げた『源氏物語』須磨の巻の六位蔵人の感極まった振舞いであり、また『細雪』の人 たちの優にやさしい振舞いではなかろうか。

 月の出るのをお待ちになってお出かけになります。お供にはただ五六人ばかり、下人も親しい者だけをお連れになって、お馬でお越しになります。今さらめい たことですけれども、昔の頃のおん歩きとは有様が変っています。皆がたいそう悲しく思いますうちにも、あの御禊の日に仮の随身の役を勤めた右近将監の蔵人 は、当然の叙爵の御沙汰にも漏れてしまい、ついには殿上の御簡から名を削られて、官も召し上げられてしまったよるべなさに、お供の中に加わっているのでし た。下賀茂の御社はあすこだと思って見渡しますと、ふとあの日のことが浮かんで来ましたので、馬から下りて君のお馬の口を取ります。
  引きつれて葵かざししそのかみを
    おもへばつらし賀茂の瑞垣
 (行列を作り葵をかざして君のお供をしたあの頃のことを思うと、
  今の境涯があまりにも違うので賀茂の神様が恨めしい。)
と言いますので、なるほど、この男はどんなに感じていることか、あの当時は人にすぐれて花やかにしていたものをと、不憫にお思いになります。 (谷崎潤一 郎の訳)

「賀茂の下の御社を、『彼処』と、見わたすほど、ふと、想ひ出でられて、下りて、御馬の口をとる」のも、「げに、いかに思ふらん。人より異に、花やかなり し物を」と光源氏が憐れみ思うのも、そこが神域であり下馬は神への礼儀というばかりでなくて、賎の苧環ではないが、「繰返し昔を今に」と祈願する心根にふ と絡みよる刹那の物狂い、あえてそのように「亦」振舞ってみせる醒めた物狂い、であって、ともに咄嵯に選び取った物狂いと言えよう。
 光源氏には、この若者の物狂いにひそむ極まった哀情に対してはむろん、彼の、曰く言いがたい心やさしい感性がよく表現しえた独自の美的態度、風情、をも 一瞬に受け入れうる洗練された感度があった。それは、"文化"の二字が本来もっている最良至醇の精神の感度であった。前途を見限った前の蔵人の現状はよそ めには惨憺たるものでありながら、この場面でこの主従の心を満たした思いは、むしろ至福というに近い美しい共感、あえて"文化"的共感とも言えるほどのも のであったにちがいない。そう思えばこそ私はきっとここを読むたびに感動したのであった。
 そして『細雪』の美しい姉妹が演じてみせた数々の「繰返し」も、質的には右に同じ、或る美しい物狂いと言うしかないものだった。
『源氏物語』失意の主従と『細雪』の姉妹が繰返した繰返し方には、共通点がある。過去の振舞いを意図して真似ている。物狂いが、物真似を介して彼らを衝き 動かしている。
 そして、「物真似」という「繰返し」から深く進入して行く「物狂い」を、表現として、風情として、美として、もっとも深切に把握していた人が、私は、世 阿弥だろうと思っている。私は、さきに物狂いにふれてただ狂女物について語ったけれど、「物真似」をこそ藝の基本とする能楽の魅力は、神、男、女、狂、鬼 のいずれの演目を問わず、そもそもが独自の様式美を、その徹底して「繰返す」ことの秘蹟に負うていると言わねばならないだろう。

     *

 世阿弥の『風姿花伝』はまた久しく「花伝書」とも呼ばれてきた。日本の思想史、藝術史の世界にも誇れるみごとな成果であるが、約めた物言いをすれば、こ の本は、「花」一字の含蓄を「風情」「風体」の二面から縦横に説きあかしている。もっと端的に言えば「風」のいろいろで一つ永遠の「花」を説いている。風 は花を散らす働きをするものだ。そう譬喩として思うだけでも、すでに世阿弥や父の観阿弥が考えていた「花」の魅力には、その底に「繰返す」ことで常に新し く珍しく面白い在りようがはっきり認識されていたことと察しられる。
 むろん『風姿花伝』はいわゆる咲く花を鑑賞しようなどという本でなく、申楽(猿楽)の能という演戯の美と真とを説いた奥行深い藝術論であること、言うま でもない。「風情」はその心で表現する側面を、「風体」はその体で表現する側面をさしていると思って差し支えないだろう。そのうえで「花」と説かれると、 ひたすら美しく佳き生命の秘密の如きものへ、持てる語感のすべてが吸いとられて行く心地がする。

 そもそも、花と云ふに、万木千草において、四季折節に咲く物なれば、その時を得て珍しき故に翫ぶなり。申楽も、人の心に珍しきと知る所、即ち面白き心な り。花と、面白きと、珍しきと、これ三つは、同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散る故によりて、咲く比あれば、珍しきなり。能も住する所なきを、 先づ、花と知るべし。

 難しい話ではない。「能も住する所なきを」の「住する」を、花の場合に譬えて、花が咲ききり、咲きっぱなしの状態と理解すれぱ全体の趣意は通じる。 「花」は、咲きっきりでないところが、つまり時あって散りまた時あって咲くから花だと取ればいい。そういう譬喩を通して「面白い」「珍しい」美の在るべき 様態が説明されている。
 観阿弥や世阿弥は比類ない指導者、教育者でもあったから、稽古の藝が深まり行く諸段階にも驚嘆すべき洞察をもっていた。たとえば二十四、五歳の頃を生涯 の「藝能の定まる初め」と見極めながら、いわば「年盛り」にむかっているため人目に立つ藝も出来てくるのを、「果報」の藝、「誠の花」ではない「当座の 花」にすぎないと注意している。とかくそういう時に限って「すは上手出で来たりとて……人も思ひ上げ、主も上手と思ひ初むるなり。これ、返す返す、主のた め仇なり」。その程度の上手の藝は「一旦の心の珍しき花」を咲かせているだけのこと、「真の目利きは見分くべし」と。
 世阿弥はこの二十四、五歳ごろこそ、まさに「初心」の時だという。だから、「たとひ、人も讃め、名人などに勝つとも、これは、一旦珍しき花なりと思ひ覚 りて、いよいよ、物まねをも直にし定め、なほ、得たらん人(本当の上手)に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし」。時分の花、当座の花をまことの花 だと錯覚していると、「真実の花」から遠ざかる一方になる。だが人はとかく「この時分の花に迷ひて、やがて、花の失するをも知らず。初心と申すはこの比の 事」だと世阿弥は断定する。ここで「物まねをも直にし定め」とあるのは、神、男、女、狂、鬼の何にせよ「風体」と「風情」の両面から正しくきちんと稽古も し演じもすることを謂う。心ある形にからだを嵌めこんで、なお自在の域に達するのが物真似の稽古だろう。それが十分果たせた状態を、私は、物狂いの可能な 美的な状態だろうと読んでいる。
 世阿弥は「能に花を知る事」を目して「無上の第一なり。肝要なり」と言い、「一大事とも、秘事とも、ただ、この一道なり」とも言い、「ただ、誠の花は、 咲く道理も、散る道理も、心のままなるべし。されば、久しかるべし」と、独特の"永遠"の価値を「花」と眺めてもいる。
 およそ『風姿花伝』にこのような言辞を拾って行けば、やがて全篇を通して読み返し読み直すということになってしまう。しかもこの「花」を説くこと、こと に「花」一字を風力、風根、風曲、風姿、風体、風情、風趣等々「風」の熟語術語を以て倦まず説きあかす傾向は、彼の最晩年の著作にまで最も目につきやすい "方法"として徹底されている。世阿弥の場合、それが申楽能のもつべき"面白さ"の追求となっている。
 私は、能にすこしも関心がない人でさえ、『風姿花伝』は読めば十分教えられる本だと勧めたい。一度でも能の舞台を観た人になら、たとえその一度の経験に 懲りた人でさえ、『風姿花伝』を読んでみることで、もう一度という気が起きるかも知れない本だと思う。もう一度能を観る気にならなくても、『風姿花伝』の 底知れない人間理解に舌を巻き、きっと面白い、良い本だと頷くだろうと思う。他にも十数冊もの能楽論を世阿弥は書いたが、ふつうの者はそうまで深入りする 必要もない。『風姿花伝』なら簡単に文庫本で手に入り、りっぱに現代語訳した本も出ている。剣術は出来なくても宮本武蔵の『五輪書』という本は面白く読め るが、『風姿花伝』の把握も、ただに技術論を超えて、"日本"の風土と人との根源的な関わりを畏ろしいまで見抜いている。そうでなければ、なかなか「花」 の一字で一切を説き尽くすような、温かく、かつ鋭い哲学的な"方法"は入手できるものでない。折あらば私の処女評論『花と風』(湖の本エッセイ2)も参照 願いたい。
 ところで私の見るかぎり世阿弥は「花」をさして梅とも桜とも特に指さしたようすはない。指ささないところに世阿弥の「花」の、理念としての価値があるわ けであろう。それは一切の神性を先ず「翁」と表わし、その無際限の個別化、もじり、として神、男、女、狂、鬼、の能楽三百番.をうち出しているのと、ちょ うど見合う態度と思われる。「翁」が象徴であるように「花」も象徴なのである。
 だが、人は「花」と聞けば具体的などれかの花を想うものだ。銘々に、最も好む花の色香を想うものだ。たしかにその中でも桜は久しく日本人の「花」を代表 しえてきたにちがいない。それはそれで、とかく抗ってみるまでもない歴史的な事実にちがいない。
 私は、かつて、菅原道真と紀貫之との僅々二、三十年しかない前後の見境に、日本は「梅の時代」から「桜の時代」に転じたという説をなした。そして『古今 集』によって確立された「桜の時代」は昭和の『細雪』を経て今なお継続中であり、そういう同時代観に照らして日本の十〜二十世紀を巨視的に一つに見渡す大 きな視野と視点も必要だと言ってみた。その意味では、私は、世阿弥の「花」の説をも、「桜の時代」を代表するもの、白眉、眼目、と思ってはいたのである。
 また同じその意味で『古今集』ならぬ『万葉集』が、先立つ「梅の時代」を代表していると考えていたし、およそはそれに相違ないはずである。

  なにはづに咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

 この「この花」が此花か木花か、いずれにせよ「梅」であるにはちがいない。

  あをによしならの都は咲く花の薫ふが如く今盛りなり

という名高い歌に咲く「花」も、「匂」でなく「薫」の用字からして、また、同じ時期の類歌、

  梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり

に推しても、「梅」であったろう。現に『万葉集』には、梅を愛して、

  ももしきの大宮人はいとまあれや梅をかざしてここに集へる

という歌がある。ところが同じ歌が『新古今集』では「桜かざしてけふもくらしつ」と改作されている。私はこの「梅」から「桜」への時代転換を哀情こめて、 また、放胆なまでに歌ったのが、次の二首だと挙げてみた。

  東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ 菅原道真

  桜より優る花なき春なればあだし草木をものとやは見る   紀貫之

 だが、私は旧説中の次の一部を訂正したくなっている。右のような考えから私は『古事記』が伝えた「木花咲耶姫(このはなさくやびめ)」を『万葉集』の歌 に重ねて「梅」の精霊であったにちがいなく、たとえば昭和の画家堂本印象が、この女神の名をそのまま画題に一双の扉風に満開の桜を描いたのは、「桜の時 代」を生きる身でむりはないが、『古事記』の同時代人は木花咲耶姫を梅の女人と想っていたことだろうと断定していた。
 先に挙げた「なにはづに咲くやこの花」という歌は、『古今和歌六帖』の第六に「花」の題で見え、紀友則の名高い「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花 の散るらむ」がこれにつづき、紀貫之の「行く水に乱れて花の散れるをば消えず流るる雪かとぞ見る」というあまり巧くない歌がその後につづいている。以下二 十首余の「花」の歌は例外なく桜を詠んでいる。明らかな「桜の時代」に編まれた私撰集であってみれば、編者は、読人の知れない冒頭の歌を当然桜を詠んだも のと理解していたと言いたいが、これはアテにならない。『古今和歌集』の仮名序にこの歌をとくに挙げて歌の「ちち、はは」とも推賞している紀貫之が、「こ の花」に限っては「梅なるべし」とも書いているのだから。
 いかにも万葉調のこの古歌が、もともと「梅」をうたっていただろう事実を私はすこしも疑っていない。冬籠りから今は春べと咲き出づる花は、より「梅」の 方がふさわしいことも言えるし、『万葉集』に最も多く登場するのは断然梅で、桜は頻度において四、五位以下だし、当時の官人が主に梅見の風尚を持していた 実例も、先に例歌を一つ挙げたが、『万葉集』のとくに後半の巻巻にいくらも拾い出すことが出来る。
 私がいささか反省しているのは、この梅の花を愛する風が、必ずしも「梅の時代」と呼んで以後の「桜の時代」に匹敵するほどは長期間には至らなかったろう ことを、はっきり言っておかなかったことだ。それというのも梅花を愛でる趣味そのものが、中国渡来の、当時むしろ新奇な好みであった。たとえば後代の菅原 道真ともならんで、強いて梅を好んだ人物というと大伴旅人(おおとものたびと)とその「友どち」を思い浮かべるのがふつうではなかろうか。
 大伴旅人や家持は、言うまでもない奈良時代も後半期、末期に属する武人、文人であるが、同じ『万葉集』で最も早くに春ないし花をうたった例は、天智天皇 の近江大津宮で、「春山万花之艶」と「秋山千葉之彩」とが競い合われた時に、額田王(ぬかたのおおきみ)が召に応じて「判」を下した長歌(巻第一の一六) だろう。その春を嘆じた部分はこう詠われている。

 冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼杼 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 (以下略)

 ここには不思議に移り行く時の流れが見えるため、咲く「花」もたとえば梅から桜へ、さらには藤や山吹へとイメージが打ち重なっている。そう読むことが可 能である。しかし、これにつづく「秋山乃 木葉乎見而者」以下を読み併せれば、秋の「黄葉」に春の「花」が対応していることがはっきりし、確証はないがす でにこの花を桜と眺めているらしい視線をうかがうことも可能な歌いざまになっている。少なくもぜひ梅とばかりは決めかねる。
 これをもっと溯って、『古事記』でなく『日本書紀』の允恭紀八年の春二月の条まで踏みこむと、ここに木花咲耶姫の生まれかわりのような衣通郎姫(そとほ しのいらつめ)が、まばゆい美しさで艶姿を見せ、文字どおり「桜の華」に譬えられているのである。
 玉依姫(たまよりひめ)の名がいわば選り抜きのシャーマンたちの別名かといわれるように、衣通郎姫の名もいわば絶世の美女に与えられた讃嘆の称呼=普通 名詞であったのかもしれないが、ここに登場の女人は、允恭天皇には我が后の妹、名を「弟姫」といった。「弟姫、容姿絶妙れて比無し。其の艶き色、衣より徹 りて晃れり。是を以て、時人、号けて、衣通郎姫(そとほしのいらつめ)と」呼んだといわれる。
 この美女である妹を、他でもない姉の皇后自身が余儀ない宴席での成り行きから、天皇に「奉る」はめになり、天皇は「歓喜びたまひて」早速使者を七度まで も遣わし弟姫を召したものの、「皇后の情に畏みて」妹は固く辞退して応じる気配がなかった。
 折から皇后はのちの雄略天皇を出産すべく予定日も近かった。それだからか、それにもかかわらずか、とにかく天皇は弟姫の拒絶に業を煮やして、とくに計略 に富んだ腹心の臣に言いふくめて使者にたて、この使者は巧妙な詐術を弄してとうとう弟姫を「京」へ伴い帰ってきた。天皇は折しも后が出産の日と知りつつも 忍びかねて弟姫を隠した藤原宮へ逢いに行こうとする。聞き知った后は逆上して、「自ら出でて、産殿を焼きて死せむと」した。天皇もこれには我を折り、「朕 過ちたり」と后に頭をさげねばならなかった。これが「七年の冬十二月」の事件であった。
 衣通郎姫は允恭天皇を情において拒んでいたのではなかったらしい。天皇も思い絶えていたわけでなく、『日本書紀』は翌年の「春二月に、藤原に幸す。密に 衣通郎姫の消息を察たまふ」と記している。この表現からは、この日互いにすべて許し合う仲になったように読みとれるものがある。そして、

 明旦に、天皇、井の傍の桜の華を見して、歌して曰はく、
  花ぐはし 桜の愛で 同愛でば 早くは愛でず 我が愛づる子ら
 皇后、聞しめして、且大きに恨みたまふ。

 この後の記事をみても、衣通郎姫は天皇のことを「常に王宮に近きて、昼夜相続ぎて、陛下の威儀を視」たいと洩らしている。しかも姉后の苦悩をもやわらげ たい気持を捨てずに、ついに京を遠く離れて河内国の茅渟に去って行く。
 それにしても天皇の後朝の歌はどうだろう、桜によせて愛恋の濃まやかに切なる極みをうたった和歌で、これ以上のものはあるまい。なかなかの古調ではあ り、一読大意をとることも容易でないが、魅力の真髄は私は初句の「花ぐはし」に籠っていると思う。
「くはしめ」といえば繊細に美しい麗人のことだ。古語辞典によれぱ「くはし」は古く朝日、夕日、山、湖、花、女など主として自然の造化物のすぐれて美しい さまを表現し、しだいに小楢や青柳の枝などの精細な美を強調する言葉となり、さらには昨今の「詳細」の意味を帯びるに至ったという。この歌の「花ぐはし」 には、桜の花びらのもつ形や匂いや潤いの、言語に絶した精妙で華奢な魅力が、あつい愛情の息吹さながらに的確に捉えられている。
 なんとまあ桜の花のこの愛でたさよ。うかつに気づかずにいたが、これほどの美しい花だったのか。もっと早くから愛でいとおしみたかったぞ。それと同じ だ、衣通郎姫へのこの我が愛の深さは。切なさは――。
 允恭天皇の息も喘ぎそうなこのほとばしる愛の表現とほぼそっくりの愛恋の情に、かの高天原から笠沙御前に降り立った天孫も衝き動かされたのに相違ない。 彼の眼前にまさに「花ぐはし」処女の姿で立った木花咲耶姫とは、この衣通郎姫のような「桜の華」そのものでありえたことを、今は、私も肯定しかつ願望せず に居れないでいる。
 じつに日本は神代このかたの「桜の時代」を経てきたように思われ、ただ奈良時代以降、菅公の頃までたまたま大陸趣味の「梅」の小時代をさし挿んでいたの だと思わざるをえない。
『古今集』はまことに花の、桜の、歌集として後世を感化した。それは一の革新的態度であったとともに、じつは古き佳き「桜」の時代への復帰の宣言書とも読 まれていいものであった。
『新古今集』もまたその名のとおりに、『古今集』の右の態度を新ためて確認していること、御一人者であった後鳥羽院の、

  見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ

の一首にもよく見えるし、また先に挙げた桜をかざしの歌にもうかがえる。右の、山もと霞む夕ぐれ時の遠景が、暖雪紅雲、すなわち「桜」ゆえの「春」の美し さを詠じていることはまぎれもなく、夕べの風情は秋が一番などとなにを今まで勘ちがいしていたことかという思い切った強調が、かえって理の勝ったこの歌を 或る徹したものに、柄の大きい名歌になしえている。
 言うまでもないかの天成の歌よみ西行法師一代の『山家集』にも、また「桜の花を詠じた歌が何十首となくある。咲く花を待ち、散る花を惜しむ心を、繰り返 し繰り返し実に根気よく歌つてゐる。」「それらのすべてが必ずしも秀歌と云ふのではないが、折に触れて重ね重ね洩らしてゐるところに真実さがある。」「様 子をかへ、言葉をかへて、同一の境遇に沈潜し、同一の思想をなぞつてゐるところが値打ち」だと、谷崎潤一郎は『藝談』のなかで言い、さらには「これは私の 持論なんだが、歌人の歌と云ふものは何もさう一つ一つの歌が際立つた秀歌でなくともよい」とまで断言している。
 実のところ、私はこうした谷崎の所感にふれた時に、一度に、それまでバラバラの感じだった或る自分の思想が、キューンと一本の力づよい一筋にまとまるの を感じたものだ。禅でいう悟りには及びもつかないが、なんだかそれに近い処へ近づいたような深い感動を覚えたものだ。名状しがたい貴重なヒントがそこに、 谷崎のさりげない言葉のなかに、在った。
 ああこれだナ、このことだナ、と、古典を読んでは、谷崎の言っていたことに思い当たる体験を私は重ねつづけてきた。世阿弥の「花」の論はむろん、

  春の海ひねもすのたりのたりかな   蕪村

も当然として、

  古池や蛙とびこむ水の音       芭蕉

をさえ、私は谷崎のいう「繰り返し繰り返し」という言い方に訓えられながらたまらなく面白く耳に聴いた。
 当然にも谷崎文学は私に『源氏物語』との反復対話を勧めつづけてくれた。私もまた忠実に両者の間を往来した。『源氏物語』の現代語訳は幾種類もある。そ の一々を比較する気はさらさら無いが、谷崎潤一郎に於けるその作家的必然性という一点に限って、他の誰のよりも根が深いとは今も確信できる。私の『谷崎潤 一郎―〈源氏物語〉体験―』では、それを各論にわたって説いた。

     *

 では私は、谷崎を介して『源氏物語』の何を学んだと言えるのか。と言うまえに、谷崎は『源氏物語』から何を学んでいたかを、私は考えた。そして、二つの 問いに一度に答えるものとして「花」一字の意味を思い直した。もうすこし尽くした言い方をすれば「花ごころ」でもいい。そうなれば言葉もかえて、「好色」 と言ってもいい。
「花」と「色」とを、ともあれ私は同義語的にとらえられる素地をもっていた。京都の、紙園町そのものではないが、背中合わせの場処で育ち、通った中学は祇 園花街の真ん中に在った。「花街」と書いてかりに「いろまち」と読んだにしても十分通じる環境は、なにも私の実家近辺と限らず、日本中に拡がっている。そ もそも百人一首の歌がるたで遊んだほどの者なら、小野小町の「花の色は」とはじまる名高い和歌を覚えている。
 私は、たぶん谷崎もそうであったろうように、『源氏物語』を、古来多くの日本人と同じに好色の物語と読んで怪しまなかった。この表白に私は言いわけも限 定もつけずに置こうと思う。

 万にいみじくとも、色このまざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵の当なきこゝちぞすべき。

と兼好が『徒然草』の第三段を書き出していた。また、

 さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからずおもはれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。

とも書きおさめていた。兼好がこの際「光源氏」のことを念頭にしていたとしてなに不思議もない。そう思いつつ私は大いに兼好の言に共感した。こういう好色 道を、せめては讃嘆し理解したかった。だから『梁塵秘抄』に、

  聖を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや 年の若き折戯れせん

とあったのにも、『閑吟集』に、

  くすむ人は見られぬ、夢の夢の夢の世を、現顔して。

  何せうぞ、くすんで。一期は夢よ、ただ狂へ。

とあったのにも首肯いた。「くすむ」とは「まじめくさる」くらいの意味にとればよい。すると西鶴も近松も、洒落本も人情本も、川柳も狂歌も、南北の歌舞伎 も蕪村の画俳もズソと一筋に踏み切って行く日本の「道」が見えてきた。すくなくとも、芭蕉が言った意味での西行の歌・宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶、そ れに芭蕉の俳譜とつづくらしい陰気な隠遁の道だけがそうではないのだということが眼に見えてきた。
『源氏物語』では紫上という光源氏理想の正妻をさして「春の御方」とも呼んでいる。彼女の住む庭はさながら春の花園のようにしつらえられていたが、花園の 主はむろん桜、それも豪華な樺桜であったこと、紫上その人も樺桜のように艶に優しい女人であったことは、光君ならぬその子息夕霧の憧れに満ちた一瞥でみご とに描かれている。
 紫上をそうまでみごとに描くことなしに一介の「藤式部」が「紫式部」と讃称され、口うるさい堂上公卿たちの限りない敬意や喝采がえられたわけはない。私 は『源氏物語』を読みはじめた少年の昔から徹頭徹尾の「紫上」びいきだが、おそらく谷崎潤一郎もそうであったと想われる。
 紫上は花の、桜の、精霊のように咲き、匂い、散り逝くことで木花咲耶姫や衣通郎姫の系譜上に在る女人であった。その匂い立つ在りようは「光」在るがゆえ に可能な女人であった。その意味をよく弁えておきたい。
 桜ならば紫色ではあるまいと言うなかれ。若紫の名は叔母である藤壼、光君の思い妻であり父帝の中宮すなわち義理ある母でもある藤壷とのゆかりに負うてい る名であった。さらには光君の生母であり父帝の更衣でもある桐壼の思いを鎮める名であった。桐の花も藤の花もみな紫であり、この三代の女人たちはいわゆる 「紫のゆかり」に運命的に結ばれていた。しかし紫上の夫は、この妻を春の権化と眺め、桜の精と愛していた。桜でなけれ.は、桜にちかい紅梅のように愛して いた。その意味をもここで、よく弁えておきたい。
 桐壷更衣の旧居を光君が生母鎮魂の願いをこめてこの上もなく美しくしつらえたのが二条院だった。光君は、成ろうならここに生母と瓜二つといわれた義母藤 壷を妻に迎えて共棲みがしたかったと「桐壷」の巻でしみじみ洩らしているが、叶う夢ではとてもなかった。それで藤壷によく肖た姪の若紫を移し植えてここに 住み、のちに宏壮な六条院が成ってからも、紫上は二条院を心安い我一人の拠りどころとして、時あればここに帰って憩った。二条院の庭には彼女が此の上なく 愛し育てたかがやくまでの樺桜と紅梅とが植えてあった。
 そして紫上は、光君に先立って此の世を去るのだが、ことさらに二条院へ帰っての臨終となる。この辺の深い作意を読み落としてはなるまい。紫上は光君の孫 で彼女を「ばば」ならぬ「はは」と慕う幼い匂宮を枕べに呼びよせて、二条院とともに樺桜と紅梅との行末を護らせようと遺託する。匂宮は二条院を嗣ぎ、のち にここに宇治中君を迎えて、亡き「はは」の紫上が果たせなかった出産の慶事を実現する。桐壼このかた光君の正統を承けたみどり子が他でもない二条院で生ま れるという、これほどの鎮魂は考えられないことであった。
 私は『源氏物語』の、ことに中学高校時分には、宇治十帖を愛読した。私の書いたエッセイらしいものの最初は高校三年での宇治十帖についての短文だった が、宇治大君、中君それに浮舟という三人のヒロインヘの愛や共感もさりながら、私の微妙な関心は、薫君と匂宮とのどちらがあの光源氏の世界を正統に相続し ているのかということにもあった。
おそらく、「光」という新制中学生にとっても奇抜な(と思えた)名前に注意したそもそもの最初から、「光」に応じた「匂」と「薫」という二人の貴公子の名 前は気になっていた。紫式部ほどの天才が(と今も思っているが)わけもなくこんな奇妙な名前をつけるとは思わなかった。
 だが答えはすぐには出せなかった。先にも書いたが、二条院が、桜と紅梅とともに紫上の遺志として匂宮にさずけられたことからも、私はこの好色の貴公子に 光君の正統の後継者を見定めてはいた。しかし「光」と「匂」が濃厚な縁語であり、逆に「光」と「薫」とは断絶している言葉であること、それが物語中の三者 の奇しき血縁の連続と断絶とに正確に見合っていることに気づいたのは、さすがにもっともっと後日のことであった。
 匂い出.ずるものは色佳いものである。いわば丹の色が秀に出ずるのである。主に視覚に愬えてにおうのが桜や紅梅や藤の花であり、「匂」は「光」のちから で先ず「色」として人の眼に映じなければならない。ところが「色」なき花は、たとえば白梅の「薫」は、「光」をなんら要せずに主に人の嗅覚に愬えることが できる。

  春の夜の夢はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる

「闇」にも白梅は「薫」るのである。闇の子、罪の子としての薫大将。光源氏の次男として生まれながら、じつは何ら光の血脈を承けていない薫君の、これほど 絶妙な命名はなかった。光源氏の物語を宇治十帖までもちこむことによって、紫式部は梅に対する桜の優位を「桜の時代」の代表者らしく徹底して構想してい る。宇治十帖における匂宮の薫君に対する何かにつけての優勢は、二人の仲らいが麗わしくも微妙であればあるほど、作者の十分な作意をそこからも汲みとらず にはおれない。
『源氏物語』は窮極、「光に匂う紫のゆかり」の世界、色の世界として書かれており、そこに充満する好色の精神は、豊かに美しくこそあれ、けっして不健康な 歪みばかりは持っていない。
 色の世界は陽気である。この陽気を凄艶なものとして感受したのは『新古今集』の藤原定家であり、優美なものとして感受したのは『徒然草』の兼好法師で あった。そして二人ともに『源氏物語』が代表しえた時代精神を「花」と観念した。同時に「風」の働きも認識していた。
 同じことは世阿弥にも言えた。しかも彼は定家や兼好以上に「花」を散らす「風」の意義をより積極的に直観することによって、より次元高く精妙に「花」の 魅力を説くことが出来た。おそらく世阿弥は、『源氏物語』とともに『平家物語』や『方丈記』や、さらには彼自身が上古来身に受けてきた漂泊民としての体験 からも十分学びとらずには済まない、定家や兼好以上に苛烈な生き方を生まれながら自覚していたのにちがいない。
「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」と、すぐれた女流作家の林芙美子はよく、本の扉などに書いていた。なにか典拠があるのか林自身の述懐か は知らないが、その人と文学から受ける印象に結びつき、多くの愛読者はこの言葉に共感することで林芙美子の生涯にも共感していたように想われる。
 私はだが、なんとはなくこの言葉に賛同しかねるものを最初から感じていた。おそらく浅い深いというよりも「花」に寄せる理解が根からちがうという感じ だった。
 林の表現には「花の命」が一回こっきりである認識が生きている。なるほど一つの花の命は一回でしかないと見るのが、物に即した見かたであって、生命の繰 返すかたちを見入れるなど一種の観念論にすぎぬとも言える。私はここでその点について云々する気はない。
 しかもなお私は、その「一回」の感じ方「一生」の感じ方に、「こっきり」といったふうな貧しい断念をどうしても籠めたくないと思った。
 飯を食う。寝る。起きる。笑う。泣く。本を読む。散歩する。人と会う。ゲームをする。どれもこれも一度一度、一回一回で、一つとして本当は同じようで同 じでない。だから同じもの、同じことは繰返されているようで繰返しはないのだという理屈も言える。それが屁理屈に近くても、とくべつ抗弁する気はしない。
 夜が来て朝が来る。また夜が来て朝が来る。春が来ていつか秋になり、だがまた春が来ていつか秋になる。去年の春と今年の春とはどう様子が違おうと年々歳 々に「春」を春といい「秋」を秋という。繰返しは自然にもあり人の心の内にもある。
 要はその「繰返し方」にあるだろう。私はそのことを大事に考えるようになっていた。
 私は『源氏物語』や谷崎文学を読みだすより早くから、正確にいうと敗戦まもない、私自身が小学校六年生の早々の時分から、叔母の茶室で袱紗をさばいたり 茶筅を振ったりして茶の湯を習いはじめていた。本を読むのも大好きだったが、作法にしたがい茶を点てるという、不思議に独特な行為も大いに気に入ってい た。私はそれをはじめから気の合った同士で楽しむ快い舞踊の一種のように感じていたから、当然のこと自分一人だけの茶の湯よりは、主客一座の寄合いの茶が 好きだった。茶の湯の本質は花やかな陽気、人と人との心がふれあって静かにはずむ陽気、に在ると思いこんでいた。
 茶の湯には、今も人に知られた幾つもの標語がある。いわく「和敬清寂」、いわく「佗び、寂び」など。それもよい。が、私は、井伊直弼の『茶湯一会集』を 読みだした時分から、大学時代の半ばから、「一期一会」の四文字に注目した。一つには、これくらい安直に浅く読まれている言葉はないという気がしていたの と、また一つには、これくらい日本の思想として誇るに足るものはすくなく、その気になって受けとれば、この四文字はただ今から即刻日本人の一人一人が伝統 と現代との双方をより良くよりみごとに生き抜くうえでの、最良の規範になるのではないかと思われたからだ。
 ここに見える「一」の文字と、私の抱いてきた「繰返し」ということとは、ふつう、重なることのない別もの、別ごとと取られている。たとえば「一期一会」 とは一生にただ一度の「会」であって、二度と再びは繰返せないものと思われている。その実例、用例ならいやほど探し出せる。私は、だが、このような理解に 首を横にふらずにおれなかった。
 一生に一度きりのことなら、死んだ気持で清水寺の舞台からとびおりることも出来るかもしれない。一生に一度きりのことなら、秘蔵の鉢木を焚いて客をもて なすことも出来るだろう。だが、その同じ敢為を、親切を、奉仕を、決断を、二度とは必然繰返せないのなら、私にはそれらの行為をさほどたいしたこととは思 えなかった。例えば能『鉢木』前シテの感動は、この男なら、この佐野源左衛門尉常世という男なら、この同じ真情と親切とで幾度同様にどんな客が訪れても、 秘蔵の鉢木を焚いてもてなすにちがいないと信じられるその一点、その気稟にあった。繰返しのなかの一度一度をあたかも一生におけるただ一度の如くに決然と 繰返す。そういう陳腐に陥ることのない繰返しはけっしてただ凡庸の繰返しではないが、「一期一会」という四文字に籠められた思想的価値は、かかる無際限の 繰返しに朽ちずに生きつづける「一」の、新鮮で無量の命がけといったところにあるにちがいない。

 (略)一会ニ深き主意あり、抑、茶湯の交会は、一期一会といひて、たとヘハ幾度おなし主客交会するとも、今日の会にふたゝひかへらさる事を思ヘハ、実ニ 我一世一度の会也、去るニより、主人ハ万事ニ心を配り、 (略)客も此会ニ又逢ひかたき事を弁へ、 (略)実意を以て交るへき也。

 直弼の『茶湯一会集』はすでに明白に私の不審に答えてくれている。今すこし茶の湯に身を寄せて直弼の「一期一会」観を聴こう。彼は、茶会ごとに違う道具 を使い、錺りもかえ手前も工夫してひたすら客に珍しいめを見せたがるのは「嗜茶之輩の常」つまり茶に耽溺して大本を忘れた手合いのすることだと批判したう えで、かの利休が説いた、茶道具などは「呉々相替る事なく、日々同事斗の内、心の働ハ引替へ引替へ如何様ニも可有候」という訓えを引合いに出して、「誠ニ 尤成教訓、いつも同物をもちひ、錺り、手前迄尋常にして、心を引かへ改めもてなす事、茶道の大本也」とひときわ強調している。
 同じ場処(茶室)で同じ道具や錺りで、同じ主と客とが、幾度び繰返し「会」を重ねても、その繰返しの一会一会に一期の誠実と真情とを互いに籠めることで えられる永遠の現在、新鮮にして無比の共感、を「一期一会」の値いと直弼は明らかに理解しており、この理解は、一生に一度だけ、一回こっきり、という浅薄 な思いつめようとは、天地のへだたりを見せている。
 一生に一度のことだから「実意」を見せるというのでは、無価値とまでは言えないけれど、思想としての高まりも深まりも感じさせない。強いていえば誰にも そういう「一度」は通過できる。
 平々凡々の日常際限のない繰返しに、その一度一度に、一期(一生)の重みをかけて心を新ため改ため、気を働かせ、さながら一生に一度きりのこと「かのよ うに」真実精魂を籠めあう仲らい。それを「一期」の「一会」と言うのである。この「一会」はけっして一回こっきりの出会いではないのだ。我々の人生は何も かもが別々の一度、新しい一度であるほど物珍しげでも変化に富んでもいない。人も、物も、事も、いやになるほど同じ繰返しに出会いながら生きつづけねばな らない。退屈する、陳腐になる、怠惰になる。そこを一度一度心新しく乗り越えて行く気働き、思想、そして「一期一会」という四文字が、茶の湯の「大本」と して自覚された。
 だが茶の湯に限らない。『細雪』の姉妹が演じた繰返しも私のいう意味での「一期一会」なればこそ、心にしみて美しかった。佐野常世の振舞いにも、光源氏 に仕えた六位蔵人の振舞いにも、そういう「一期一会」の覚悟が体現されていたと思えばこそ、分かればこそ心にしみて美しかった。
 見失っても忘れても成らない、「一会」にはまた「一度の出会い」程度の意義を遠く超えた、一の「会得」「理会」の意義が生きている。「一会一切会」とい う「一明一切明」という深みにも照り合った「一期一会」なのでもある、忘れまい。
 神代の昔にも昭和の今にも、ためらいなく「花」と選んで「桜」を愛でいつくしんだ人の心にも、いつの会得かのように「一期一会」の真意が生きていた。こ のような真意、このような態度をこそ日本の「思想」として、もっと大切に日々に活かしつづけたい。そう思うのである、私は。




   追悼平家――死なせた者の声

   
     *
                 
 世間にはたまに、死にたがる人がいる。それを異様に思う人もあり、さまで感じない人もいるに違いないが、私はまア前者に属している。死にたがる人のこと はここでは言うまい。
 正直のところ「死」のことなど、そうすんなりとは分かっていない。死者とか死体とか、幾らか具象化しないと分かりにくい。子どものころはとくにそうだっ た。「死」との関わりでいえぱ我と人とのけじめなく「死ぬ」ことと「死なれる」ことだけが余儀ない「死」のイメージであった。リアリティであった。「死 ぬ」のはこわく、「死なれる」のはもっとこわかった。他人の身の上に起きたことでも凄くて怖かった。
 私も幼稚園や友だちの家で相応に絵本を見て大きくなったはずだが、ほとんど記憶にない。かすかに木曽(だったか)の『万寿姫』がはるばる鎌倉(だった か)の牢に捕われの母唐糸(だったか)を忍んで尋ねて行く場面や、『孝女白菊』がどこだかの山中で難儀に遇っている場面などが朧ろな絵になって遠くに浮か んでいるだけだが、なぜかと言えば、この二つの物語が私には手ひどく怖いものであったからだ。離別、そして死、というイメージが薄幸の美女(美少女)にま つわりついていた物語は、とても"愛読"に耐えなかった。だから記憶に残ったのだ。そうなると配流の地へ父を尋ねて行く『阿新丸』や物哀れな『安寿と厨子 王』のことも想い出されてくる。こういう絵本は、私には楽しい読物でなどありえなかった。表紙の絵を遠くから見るのもイヤだった。それでも見た。読んだ。 そんな、いわば"哀読"体験の方が心にこびりついている。
 今考えると少年少女の物語には"哀読"を強いるタチのものが多かった。何を読んでも"哀読"になった。『小公子』『小公女』『家なき子』『母をたずねて 三千里』『王子と乞食』なども私は楽しまなかった。
 同様に、京都の街々を風来坊が絵解き説経にまわって来るのも、また飴売りの紙芝居も、たいがいは怖いもの見たさで両の脚をすくませ金縛りになったまま見 も聞きもした。独特の哀調に戦慄した。
 一等強烈なのが六道の辻、京都六波羅の珍皇寺へ年に一度大人に連れて行かれて見た地獄絵であった。脅えて何日も夜泣きした。国民学校の一年二年生になっ て、ちょっとは生意気に口がきけるようになってからも、そんな地獄なんて信じないと平然とした顔ひとつ作れなかった。
 私は、実の父と母とを幼来見喪っていた。物心がついた時すでに私はよその家に貰い子として育っていた。育ての親はそんなことを私に言いはしないが、容赦 なく近所の大人や子どもは私がひとすべの根無し草にすぎぬことをいろいろに告げしらせ、私は五つ六つの年から一つ屋根の下の大人たちに、毎日常、そんなこ とは夢にも知らずにいる演技に励んだ。人の告げ口を多少でも疑う気があれば私は率直に親に訊ねただろう。だが満三歳半の真夏に突如として「父」「母」のほ かに生まれてはじめて見る「祖父」「叔母」が待ってくれていた、うすぐらい、はじめての家というものは、幼な思いにも唐突すぎた。安易に打ち消すには容易 ならぬ迫力ももっていた。黙って受け容れるしかなかった。
 実の親たちの、一片の記憶も私はもたなかった。今にして承知する限り記憶のあろうはずもなく、実父と生母は一閃の火花かのようにこの私を南山城の旧家に 生み落としたまま、一度衝突した二個の星屑が再び相去ること千万里の天涯へと互いにふっ飛ぶぐあいに別離していた。父方の旧家では処置に困じ、人手を伝い 頼んで京都市内の子のない中年夫婦にとにかく荷を預けた。
 自分を生んだ親について皆目記憶のない状態を、私はかなり自身のため好都合に利用したと言える。親が無くて生まれる者はいない。その親の在りようが一向 子には知れぬということは、考,え方ひとつで世界中の誰を親と想い描いてもいいということになる。子どもらしい想像力は気ままに羽搏いて、青い月夜の浜千 鳥よろしく、私は何より書物と歴史との中へ親探しに翔び立って行った。
 現実世界を水平に拡大することは、電車にもバスにも乗るに乗れない子どもには、最初から断念されていた。それに、戦時色に塗りつぶされた昭和十年代の現 実世界など魅力はなかった。やがて整列歩調をとって通学し合った町内の仲間やクラスの仲間よりも、私にすればたとえば釣針の行方を争い合っていた海幸彦、 山幸彦らの方がどきどきするほど身近だった。唱歌で覚えた敦盛や正行の方が身近だった。彼らの不思議さは、私が気儘に彼らの一人と化り変わることをたやす く許してくれる点にあった。近所にはいなかったのに、書物や歴史のなかには親に死なれたり、親と別れたりしている子は数え切れないほど、いた。その実感 は、私の感受性の原基を築き固めるに足りたろう。
 こうした幼時の覚えを、今では、さほど特別なものだと思わない。親のことこそ誰しもが嘗めた体験とは考えないが、子どもらしい想像力に身をゆだね、現実 とは別にもう一つの世界を大きく広く身内に抱きこみ、そこで出逢った実在と架空とをとりまぜての数々の出逢いに、ふと現実の知人から受けるより新鮮で強烈 な共感を持つくらいは、たいがいの人がしてきたことだ。幸か不幸か、私は、そういう素質のままそうした身に覚えというやつを執拗に手離しも忘れもせず、大 人になった。それを身の因果だとも思う反面、今となれば身についたそれが私の個性なのだと思うしかないのである。
 そのような次第で、私は光源氏の物語をはじめて読んだその最中から、はっきりと、これは母(桐壷、藤壷)に死なれた子(光君)が母に肖た妻(紫上)をえ た物語だと受け取って、以来、この本筋だけは疑わずに来た。
 古典とかぎらず、どんな本に対しても「読み方」という「規則」はないが、自分自身にとってその本の本筋をうまくつかむこと、当たりをつけることはどんな 場合でも大事だし、トクでもある。それは碁でいう目(両眼.二眼)に相当する。目があってこそ、手も脚も自在に伸ばせる。遠くへ歩いて行ける。
「そんなの、目じゃないね」と達人には見抜かれるかもしれない。それでも目は他に学びながらでも自分で作り自分で開けた方がいいのだ。なまじ借りものを 持ってきてもガラスの眼玉でしかない場合はあるわけだから、むしろ我が肉眼の真実を頼んで、まだ半眼・一眼でしかなくても、両眼をあいて「生き」があるま で頑張りたい。
 何度も言うように私が一等早くに接した古典は『古事記』と『源氏物語』であった。『小倉百人一首』も加えていいだろうが、百人一首はともかく先の二つ は、然るべき人の手で現代の言葉に置きかえてあった。そういう所から入って行って、古典の本文に直かに触れたはじめは『平家物語』であった。『徒然草』の 方を二カ月ほど早くに買ってあったが、読めたのは昭和二十六年春の『平家物語』が先であった。一月十五日に第二十三刷のピカピカの岩波文庫が、上下二冊で あった。たいそうな満足感と充実感とに恵まれたのを今も心嬉しくよく覚えている。
 では、私なりにこの戦記文学にどんな本筋を読みとったろうか。さすが十二、三世紀にまたがる史実がらみの承導文藝のこと、架空の長篇小説『源氏物語』の 場合ほど一筋縄ではくくれなくて、あちこちに私の興味はひっかかっていた。どんなところにひっかかったか、先にその二、三を告白しておこう。
 私の文壇処女作は昭和四十四年に第五回太宰治賞を受けた『清経入水』という百二十枚ほどの小説だが、謡曲好きの人なら『清経』という名曲でおなじみにし ても、ふつうは一度や二度『平家物語』を読んでも見落としてしまう、ごく目立たない公達の一人にすぎない。清盛の孫、重盛のたぶん三男。木曽義仲に都をお われ、はるばる九州まで落ちた平家一門は、その九州からも在地の豪族たちに追い立てられて豊前の柳浦に舟で浮かぶことになる。義経の武勇が轟いた一谷や屋 島の合戦はまだまだ後日の、平家の命運もまだまだ尽きてなどいなかったそんな時に、月夜の海にひとり笛吹き朗詠して、念仏の声もろとも西海の波間に音もな く沈んで果てたのが、我が主人公の平清経であった。
 その死にざまの静かさ、孤りぼっちの寂しさに私は惹きこまれたらしい。どんな気もちやったやろ――と想うともう私は清経だった。清経に化り変わってい た。
 私は死を憧れたことはない。だから清経にも死を憧れさせたくはなかった。だが、そうなると事実上彼の入水死は、窮死か事故死か、つまりは犬死にになる。 そういうめからどうかして彼を救い出す道がなくてはならない。しかし中学生の私に適当な手立てはなかった。高校へ行き大学へ進んでも手立ては見つけられな かった。清経でもある私はなんとなく死にきれずに年齢をとり、京都から東京へ出て就職し、結婚し、勤務のかたわら昭和三十七年の真夏、七月三十日という日 からようやく小説という一つの手立てに活路を見出した。
 以来、私は幾つかの長い、短い小説を書き溜めたあと、昭和四十二年頃からやっともとの清経に立ち返った。
 最初「鬼」という題で書こうとした。夜半、舟の舳に直垂姿の清経が静かに坐し、そして海の上四、五間さきの夜の闇に、宙に安坐して腕組みした鬼が向きあ い、生死を賭して両者が烈しい問答をかわすといった場面を想像してみたが、結局は今あるような、過去と現在とを夢とも現ともなく綯いまぜた一篇の物語を書 いた。作品は幸い選者の一致した支持をえたが、「作者固有の主題」は「考証と夢幻と現実が、あやしく織りなされ」たその文学的方法のかげになって、後日、 上田三四二氏が文庫本の解説で、「白状すれば、初めて雑誌に読んだとき私にそれがよくわからなかった。選評を読んだかぎりでは、当時の選者にもそれがわ かっていたかどうか、疑わしい。いまなら――」と書くような、「現代怪奇小説(河上徹太郎)」ふうの受け取られようであった。だが、私ふうに一言で言え ば、それは「死なれたもの」の物語であった。はっきり言って「死なせたもの」がそれを自覚せずに「死なれた」と感じている、どこか甘い物語でもあった。
 清経が『平家物語』に登場する場面は、事実上、私の読んだ山田孝雄校訂の岩波文庫では、入水するその一箇処しかなかった。他は単に平家側の部将の一人と して名前だけが一、二度挙げられていた。入水の場面にしても都合四、五行分にすぎなかった。同じ入水死にしても兄維盛の場合や小宰相の場合や教経、知盛の 場合は筆かずも多く、状況ももっと劇的に烈しかった。
 それなのに、もし自分で化り変わるのならこの清経と私が感銘をうけた理由は、私的にはたくさんあるが、此の際の話題ではあるまい。
 強いて一つを挙げれぱ、清経の「清」いという一字が、その死にざまに響き合って澄んだ音楽を聴く心地に誘われた。私の幼来平家びいき、ひいては清盛びい きにも、「清」いの一字に触発された気味は濃い。
 もっとつまらなさそうな今一つを挙げてみると、じつは、清経入水のことは『平家物語』のなかにほとんど同じ調子で二度繰返されていた。一度は巻第八の 「太宰府落」で、もう一度は灌頂の巻の「六道の沙汰」で。なぜだろうと、これが子ども心に妙に気になった。『平家物語』という本の出来上がり方に、不審と 関心とを持つこれが最初の手がかりになった。
 まったく同じことが、平清経でなく源資時という人物の登場の仕方にも感じられた。気になった。
 この資時源氏は、軍をする源氏ではない。宮廷社会で郢曲、わかり易く言って唱歌や演奏を家職とする名門公家の公子で、父は『平家物語』の随処に後白河法 皇至極の側近として登場する按察使大納言資賢という人物。子息資時も近衛少将だったり讃岐守や右馬頭だったり、とにかく年若くて四位にも昇っていた院の近 臣の一人であった。そのため清盛には憎まれ、親子して京都から追放されたりもしているが、しかし総じて資時如きはこの物語中の脇のまた脇役で、さきの清経 以上に『平家物語』読者の眼中に入らずにすんでもふしぎでない。
 それでもよく気を入れて読んでいると、かの清経入水に匹敵するかなりの見せ場が一回だけあった。寿永二年(一一八三)七月廿四日の夜半、木曽義仲が都へ 肉迫する、と、平家は堪らず三種の神器もろとも安徳天皇や建礼門院を奉じて福原へ、さらに西国へとお定まりの都落ちをするが、その時、後白河法皇をも平家 一門は都から掠って行く手はずであった。ところが法皇は逸早く察して夜陰に乗じ、「右馬頭資時」ただ独りを供に鞍馬へ遁げた。『平家物語』作者にすれは扈 従必ずしも資時にかぎるといった話ではなかったろうが、一読者の私は、かかる危急の変時に法皇が資時をつれ、資時はこの院の側を離れなかったという、二人 だけに通じ合った呼吸を感じ、ことに若い資時の身になって想えば大変は大変であるにかかわらず、昂揚した或る幸福感を頒ちもつことが出来た。これは『源氏 物語』で、落莫の光君の馬の口を昂然ととったあの若い六位蔵人の振舞いに感じたとほぼ等質の感情であった。余の一切の荒々しく不安な物音がはたと失せて、 鞍馬山へ忍んで行く院と従者との深い闇に包まれたただ二人の世界というものは、余人の忖度し.がたい或る永遠をはらんでいそうな感動を覚えたのである。
 そしてこの場面もまた、巻第七の「主上都落」と巻第八「山門御幸」の冒頭とに、ほとんど字句も同じに二度繰返されているのを知った。だから印象に残った か、平清経にせよ源資時にせよ印象に残る人物のことが二度繰返されていたからよけい目立ったのかは今さらどうでもよいことだが、その、どうでもよい二つの ことを私は執拗に記憶したまま、勝手な私の頭のなかで、いろいろに結んだり解いたりしつづけた。
 ちょっとした謎解きめくが、これも古典の読みの一例に相違なく、まんざら道草でもないと思うので、このまま話題を進めてみよう、私は今、平家の公達清経 と宇多源氏のすえの若い公家資時という、『平家物語』にとって物の数でない二人を私なりの関心から拾い上げてみた。
 資時は、今も言うとおり後白河法皇あってはじめてその存在に気がついたという人物である。その点、清経にはすでに父重盛なく祖父清盛も亡く兄弟はみな異 腹で、いかにも寂しい死にざまが頷ける孤独な表情をもっていた。
 それでもその清経の横顔にひそと眼をとめていたかと想えるほど、数ある平家の公達の中で清経一人の名を挙げながら平家没落の始終を六道(地獄)の沙汰に なぞらえしみじみと物語っている人がいた。文治二年(一一八六)の春のころ、洛北大原の庵室に後白河院はるばるの御幸を迎えた、かつての建礼門院いまは尼 女院の徳子平氏がその人であった。徳子は清盛の実の娘だが、兄重盛の膝もとで清経の母経子の手に育てられている。清経には叔母に当たるが、たんに姉のよう な人でもあった。
 言うまでもない『平家物語』の末尾を飾る灌頂の巻は、さながら「建礼門院物語」と言えそうな結構をもち、これを脚色した能の『大原御幸』では建礼門院を シテに後白河院をワキに配している。主人公はまさにこの二人。ところが三巻、六巻、十二巻と巻数こそだんだんに増えて行ったらしいもともとの『平家物語』 本文にあって、この尊貴の二人はことさらただ影のようにしか書かれていなかった。灌頂の巻は、たとえば私が愛読した岩波文庫でも、さながら垣外にまた一つ 別に結いまわされたほぼ独立の物語として特別の位置を占めている。
 後白河院という方は、いろいろに悪く言われながら強運に生き抜いて保元の乱(一一五六)に勝ち、平治の乱(一一五九)をしのぎ、清盛にも義仲にも頼朝に も、また寺社勢力にも摂関勢力にも負けないまま「古代」そのものを冥途の土産に建久三年(一一九二)春に大往生を遂げた、じつに怪力の帝王であった。『平 家物語』の世界があたかもこの院政の主の掌に乗っていた事実は疑いようがない。
 また『平家物語』のあの修羅闘諍は、徳子平氏が安徳天皇を産んだから起きたと言えなくない。その一事がなけれ.は、少なくも平家の栄華と没落とはもっと 別の形をとらざるをえなかったし、伊豆の頼朝や木曽の義仲に、源氏の勢力に、あれほど烈しく平家と対抗できる機会があったかどうかも覚束ない。後鳥羽天皇 の即位もありえなかったはずだ。
 それほどの後白河院と建礼門院とを、かんじんの本文ではことさら影かお人形かのようにしか書かなかったのは、むしろ作者たちが軽くみた結果でなく、二人 の存在が、『平家物語』世界を真に支えて軸芯に大きく位置していたと評価したからだろう。
 だから事がみな果てての後にこの二人をしみじみと出逢わせて、過ぎにし源平争乱を顧み、鎮魂慰霊の思いを灌頂の巻に万感こめて表現したのであろう。
『平家物語』の本性は、おびただしい異本が複雑に増殖しながら数世紀にわたって『源平盛衰記』や『義経記』等へまで雪崩れて行く、まるで巨大な生き物にひ としい古典であるが、大きく分けて、読むための本と、琵琶法師が平曲として語る際の台本とに分類され、後者はさらに、灌頂の巻を特に立てた本と立てない本 とに二分されている。「蓋し灌項は密宗の授職灌頂に擬したるものにして密宗にては灌頂を受けたるものは阿闍梨となりて一個独立の師範職となり、又他に灌頂 を授くるを得るものなり。即ちこの灌頂巻を授けられたる琵琶法師はその成業を証明せられたるものなり」。言いかえれば「平曲伝授上の制度に基づ」いて『平 家物語』灌頂の巻というものは出来ていると山田孝雄博士は説いている。「灌頂」とは、文字どおりに頭に水をそそぐ、キリスト教でいう洗礼に近い意味をあら まし持っていたと合点しておこう。
 私はこの灌頂の巻の存在は、『平家物語』がどう発想され、制作され、流布されたかを問い直すことにつながる要点だと考えている。より文藝的にか、より藝 能的にか、ともあれ『平家物語』の最初本がどう生まれ育ったかという根本の問い直しにつながると考えている。
 どうやら、学者たちは今なお夥しい異本の地図を作製しようと八幡の藪知らずに似た迷路のなかで悪戦苦闘している。そのわりに、なぜあの"時代"が『平家 物語』の誕生をぜひ必要としたのか、物語生成への動因について説きあぐんでいる。たしかに架空の物語とは異なる史実がらみの『平家物語』であってみれば、 とうてい一人の作者の純然創作であるとは考えにくい。あらゆる階層に根を持った莫大な情報や資料を収集し、編集脚色し、文章にし、また琵琶の曲にのせて盲 法師たちが語れるようにするには、相当の人数と強力な権威のある支持や後援がなければなるまい。
 私がしきりに作者たちと書いてきたのも、書き手がたんに複数であろうというより、製作・監督・編集まで含めて或る『平家物語』機関の如きものの大きな意 欲がなくては、少なくも当初は手がつけられないほどの難事業であったろうことを言いたかったのだ。おそらく巷に溢れた噂や口碑や見聞体験談や、また公式非 公式の文献資料などが各方面から意図して収集され吟味されるということが特に初めのうち必要であったろう、そういう事業であればあるほど、一人や二人の知 識人なり藝能者なりのゆるいコンビで書ける程度の内容でなかった。『徒然草』が伝える、信濃前司行長が書いて盲法師の生仏に語らせたといった有名な証言 も、その背後に十二世紀の未曽有の動乱を"時代"の体験として把握しようとした有力者や有力機関の意向が力強く複合されていた、そのむしろ末端での実行者 としてなら、合点が行く。
 私は、後白河院と建礼門院とにことさら具体的な筆を惜しんだ『平家物語』の書きざまから推して、逆に、この二人を結ぶほどの線上にもともと胚胎された一 種特異な修史事業で『平家物語』はあったかもしれぬとまで想像してみた。その間の事情をとくに大事に承知していた一部篤志の藝能の徒が、あらためて二人の 意義を限りない追悼と記念の気持で表現したのが、灌頂の巻ではなかったか、と。
 この想像は、まんざら放恣なものでない。源資時という人物にもう一度焦点を結んでみよう。
 資時が資賢の子であること、彼らのいわゆる源氏綾小路流が郢曲の秘技を伝えた家系であることは、先にも言っておいた。資時は比較的若年でなぜか官途を見 切り、出家して法名を正仏といっている。建久三年(一一九二)三月の後白河院崩御に際し、その柩を運ぶ数人のうちにも加えられている。この正仏(資時)を 指さして、『平家物語』研究の大家であった山田孝雄博士と岩波文庫『徒然草』の校訂者西尾実博士とは、期してか期せずしてか口を揃えて、兼好法師が「平 家」作者の一人に挙げていた盲法師の「生仏」その人であるとしているのを、私は、乏しい小遣いで買って虎ノ子のように大事にしていた二冊の文庫本で見てい た。どんなに遅くとも私はそれを高校一年生のうちに確認していた。
 ふうん――と息をつめて私は二人の碩学の脚注と序説(今でいう「解説」に相当)との当該箇処を見くらべたまま、まるで推理小説の山場に臨んでいる気がし た。私はすでに「殿上闇討」の段だの、神無月のころ風情ある山里の佗住居に「柑子の木の、枝もたわゝに」生ったのが、意外や厳重に囲われているのに「こと 醒めて」いる『徒然草』第十一段だのを教室で習っていた。授業中に先生に質間されて答えた内容や、特に「殿上闇討」の忠盛すがめに取材して、授業最中に起 きたもともと仲の良い男子生徒二人の物哀しいトラブルを短篇小説らしくはじめて書いてみたことなど、忘れていない。
 そんな機会に、だから、『平家物語』がただの文藝作品でなく、平曲という語り物藝能の台本であった史実についても先生によく教えられ、一種新鮮な驚異を 覚えたことも忘れはしなかったのである。資時が重代の家に生まれて、催馬楽や今様のみごとな謡い手であったことが本当なら、その才能が平曲の節づけに活か されたという趣旨の、兼好の、また山田、西尾両大家の言及は軽軽に無視できない。私はむろん国文学研究の知識など当時皆無ながら、いや皆無なればこそ、少 年らしく深く此処のところで頷いたものだ。なぜなら、この少年はほとんど同じころ同じ教室で、「舞へ舞へかたつぶり」や「仏はつねにいませども うつつな らぬぞあはれなる」の今様うたについても習っていて、それらを収めた『梁塵秘抄』の編者が、ことにその歌唱法をくわしく説いたらしい「御口伝」十巻の筆者 が、誰でもない後白河天皇であったという驚くべき事実についても先生に教わっていたからである。
 だが、今一歩のところで、即ち若い資時がじつは今様謡いの秘技秘伝をほかならぬ後白河院にじきじき習い受けていた随一の愛弟子であったとまでは知る由な かったのである。

     *

『梁塵秘抄』との本当の出逢いは、ずっと遅れた。『平家物語』を読んだのは昭和二十六年の正月すぎからだが、『梁塵秘抄』という戦前版のちょっと背の高い 岩波文庫を御茶ノ水駅近い古本屋で買ったのは、私がもう東京の医学書院という堅い出版社に勤めはじめて、それでも二、三年のうち、つまり昭和三十五、六年 のことであった。私はその頃、岩波文庫の背の高い本とみると、昼飯を抜いてもとにかく買っておくという気で財布のひもを弛めていた。貧しくて、かえってほ かに金を使う気も、機会もなかったのである。
 本はかなり古かったが、傷んではいなかった。思えばこれほど安い買物はなかった。その本は今は私の手で、表も裏も背も糊とテープで幾重にも貼り直してあ るが、それくらい翫賞し熟読した。それはそれは面白かった。とかく『源氏物語』や『更級日記』傾向の私の古典好きに、この『梁塵秘抄』との出逢いは確実に ショックを与え、私の関心を古代から中世へ力づよく引きつけた。どうあってももう一度『平家物語』以降『徒然草』や『太平記』や謡曲、狂言の世界へ眼をむ けよと、この本は、私に強いた。うすぐらい中世、陰気な中世、いわゆる芭蕉が西行、宗祇、雪舟、利休の名とともに言挙げした隠遁や風雅の中世とはまた別途 の中世を、眼をみひらいて見直すようにと強いた。
 そこには遊女、巫女、博打うち、狩人、木樵、漁師、山伏、聖、祝、下級武士たち、また若者や老人の旺んな肉声が渦巻いていた。彼らの信仰と愛欲とが相寄 る魂の活気に満ちた旋律となり歌声と化して、豊かに奏でられていた。しかもそうした声を、歌の詞を、歌いざまを、世を挙げて古様ならぬ「今様」と呼び、そ れを貴族や武士、法師はもとより、上御一人の後白河その人までが熱烈に愛好し、あまつさえ唱技の秘奥を後代に知られたいばかりに、十巻もの歌詞蒐集にくわ えてさらに十巻もの口伝を編述していたのである。

  冠者は妻設けに来んけるは 構へて二夜は寝にけるは 三夜といふ夜の夜半ばかりの暁に袴取りして逃げにけるは

 思わず哄笑、高笑い、の渦巻くような傑作な歌だ。「冠者」は太郎冠者などという、未婚の若者のこと。この青年が「妻設け」つまり嫁取り、妻問いに来た始 末はと言ったらな、と歌い出す。首尾よく男と新嫁とは、二晩がほど、仲良う寝たことよ。ところが三晩めという晩の夜半も過ぎた暁け方になって、この男、袴 の股立ちとってすたこら逃げてしもうて、帰らんというじゃないか――。どうやら袴もかついで、下帯一本、いわ.はパンツ一枚で逃げたような調子がある。
 おかしい。男もおかしいが、逃げられた女の、三晩めにはもう男に逃げられてしまうというのも、妙にいろいろ想像ができて、またおかしい。
 なんのかのと、やんや笑いあう一座が眼に見える。

  吾主は情なや 妾が在らじとも棲まじとも言はばこそ憎からめ 父や母の離けたまふ仲なれば 切るとも刻むとも世にもあらじ

 あなた、情ないこと言わないでちょうだい。このわたしが別れましょとか、一緒に住まないとか言い出したのなら、そりゃ憎いでしょうよ。でも、そうじゃな いのよ。お父さんやお母さんが仲を裂こうとなさってるだけ。わたしは身を切られても刻まれても、あなたから離されたりしたら、生きてなんかいないわ――。
 こう読めば、時代を超えた、これで今どきの歌謡曲の歌詞にも巧くするとなりそうなくらいだ。恋というより、愛欲。真ッ裸の愛欲。こんな幾つもの歌が、伝 えられた『梁塵秘抄』のすぐれてリアルな核の部分をなしている。
 むろんこんな歌(法文歌)も多い。

  像法転じては 薬師の誓ひぞ頼もしき 一度御名を聞く人は 万の病も無しとぞいふ

 この歌などは、後白河院にとって今様謡いの師匠であった五条の尼の乙前がやがて臨終の床を、院自身で見舞ったとき、薬餌がわりに歌ってやった今様であっ た。
 ほんとうの上手が力づよい佳い声で歌をうたえば、梁の塵が宙に舞うという。有りそうに想えて、うなずける。十二世紀半ばに成った『梁塵秘抄』が、そんな 中国伝来の故事を踏んだ、もともとはいわば唱歌技法の秘伝書に、資料として歌詞篇が付随したという事情を我々はもう一度推測し直していいのである。
 後白河院がたいした歌い手であったことは、「御口伝」巻第十がさながら「今様自伝」の体をとって全篇の跋文的効果をもっている、その抜群に面白い行文か ら十分理解される。この巻は、およそ一まとめに書かれた大半と、後年に書き加えられた、追加された、ごく短い一部とに分けられる。その、前の大半部結びの ところはこう書かれている、「おおかた詩を作り和歌を詠み書をよくするといった人の仕事は、文字に書いたものだから後世まで朽ちて無くなることがない。と ころが悲しいことに声に頼る歌唱の藝は、このわたし自身が死んでしまえば跡に残すに残せない。それ故に、わたしの死後にもせめて人が読んで我が至藝のほど を察してもらいたく、かつて世に無い『今様』の謡い方についての詳しい口伝を書き置いたのが、この本である」と。
 後白河院の今様自伝も面白い。蒐められ伝えられた歌謡の詞も、兼好法師の感想どおり「あはれ」に「いみじく聞こ」えて、たいへん面白い。何より歌唱や舞 踊の藝、また話藝や演藝の宿命を的確に見当てながらその価値を主張している。私はこの本こそもっともっとたくさんの現代人に気がるに読まれていいと思う。 むずかしくなく読めて自分流に楽しめる、すばらしい古典だと思う。
 ところで「御口伝」の巻第十には最後に追加があると言っておいた。追加まえの部分は、「嘉応元年(一一六九)三月中旬のころ、これらを記し終りぬ」と 結.はれ、久しい難事業だったことが述懐されていて、いつ始めたのだったか憶えないほどだと書いてある。
 そもそも後白河院が『梁塵秘抄』を思い立った動機には先にふれたが、その執念、熱意を十二分に汲んで歌藝を継承するほど優秀で意欲的な弟子に恵まれない のが、よほど院には苦の種であった。
 それをその嘉応元年より後に育てえたというのだ。正確にいつごろ追記されたとは知れないが、いきなり、「左兵衛佐源資時(みなもとのすけとき)、治承二 年(一一七八)三月廿三日、(熊野御幸の途中)滝尻宿より(稽古を)はじめて、二年が間に、今様、娑羅林、片下歌、早歌、足柄、黒鳥子、伊地古、旧古柳、 権現、御幣等、物様、田歌に至る迄、皆習ひて瀉瓶し終りぬ」と書かれてある。「今様」からあとの列挙は私には十分な説明が出来ないけれど、それほど多様に 歌謡が弁別され歌い方のちがいが重視されていたのだと理解したい。「瀉瓶」の二字が面白く、つまり師から弟子への免許皆伝を、さながら瓶から瓶へ水を移す ようなものに譬えたような語感がある。師匠の後白河院はこれを「熊野(詣で)の道より起る。年頃継ぐ者なしと思ひしに、(この優れた弟子をえたのは、まさ に熊野)権現の御はからひか」と驚喜のさまを率直に言っている。
 前にも言うとおり源資時は重代郢曲の名家に生まれ、もともと藝能の公家として筋目は正しい。院は資時の次にもう一人「太政大臣師長(もろなが)」の名も 簡単に挙げているが、この地位の高い公家は資時が源家郢曲を代表しえたに対して、藤家郢曲の代表者といえる人物であった。
 院は、慎重にこの「二人」の弟子だけを正統の歌藝を伝ええた者と最後に託宣し、後輩は、この二人と「同じ」に歌えれば「よく習へりと思ひ」、違えば「疑 をなすべし」と規定した。藝道のことゆえ自慢の天狗がさまざま我流を唱え異端を行うであろう、まして朕の死後は甚しいことになろうと重々慮ってこの口伝は 編んだのであり、これだけのことを最後に今一度追記しておくと院は筆をおさめている。
 この口調はまさしく、源藤二家の郢曲の正統を上から自分が把握して、後代にまで斯道御一人の宗家であろうとするもので、さながら「家元宣言」の気味があ る。源平確執をあしらった後白河院という古代人は、一方にこういう中世人的な道統尊重の気質を帯びた帝王であったし、資時は、その一の弟子であったのだ。
「治承二年三月」から「二年が間」とはどんな時であったかを見るがいい。三年七月には平重盛(清経の父)が父清盛に先立って病死している。後白河法皇は即 座に平家に対してさまざまに揺さぶりをかける一方、古代宮廷社会を知る上でかけがえのない貴重な「年中行事絵巻」を指導完成させている。危機を感じた清盛 は十一月武力を背景にクーデターを強行して関白を罷免、太政大臣以下法皇の近臣三十九人の官を解き、さらには院政を停止して法皇を幽閉さえしている。平氏 一門の知行国が急に増加するのはこの時からだが、翌四年五月には以仁王を奉じて源頼政が決起し、八月には伊豆で頼朝が、九月には信濃で義仲が挙兵する。
 また治承二年の前年には有名な鹿ヶ谷の陰謀もなされ、後白河院が謀議に加わっていた事実は動かない。
 こういう凄まじい時勢の激流のさなかで資時は、口ずから今様以下田歌に至るまで「皆習ひて瀉瓶し終」わるような時間を後白河院との仲で共有していたこと になる。この間柄に重ねて読むなら、平家一門都落ちの「寿永二年(一一八三)七月廿四日夜半ばかり、法皇は按察使大納言資賢卿の子息右馬頭資時ばかり御伴 にて、ひそかに御所を出させ給ひ、鞍馬へ御幸」されたという劇的な道行にも、十二分の説得力がある。
『梁塵秘抄』は歌謡の本で、たんに歌詞集ではなかった事実を確認しよう。編者の後白河院の本意が、歌唱の藝の正統を定めて院自身の至藝の全部を「御口伝」 の形で後代に伝えようとするにあったらしいことも、もう一度確認しよう。そして源資時は院の鍾愛した天才的な歌い手であった。山田孝雄博士は「当時天下無 双の達人」であったと解説されている。
 では実際に後白河院や資時はどんな拍子や速度で『梁塵秘抄』の世界を実際に謡っていたか。「御口伝」の殆どが不幸に散逸して伝わらないことでもあり、復 元の試みは幾らかなされていても正確にはよく分からない。しかし神楽や催馬楽の一部は雅楽など宮中音楽や寺社の音楽として伝わっているし、声明、和讃など 先行する仏教音楽の遺風もかすかに伝わっている。さらには今問題の『平家物語』が語られたという平曲(たんに「平家」ともいう)は、今日でも細々とながら 一方流の橋本敏江らの努力で伝承愛好されている。次いで謡曲は、まだまだ広範囲に各流儀のものが謡われている。今様などの歌い方が、これらと全く孤立無縁 のものであったとは到底考えられない。
 それよりもいっそ『梁塵秘抄』の歌謡が先立ってあってこそ、『平家物語』もまた、文藝としてただ眼に読まれるそれより早くに、琵琶法師らが謡い語る藝能 の台本的性格をもちえたと考えるべきではないのか。今様と平曲とを通分する何かが十二、三世紀の交点に、『平家物語』最初本の誕生の時点に、"時代"の要 請ないし意向として強力に機能していたと考えるべきではないのか。それは文藝よりも歌藝・話藝の伝染力をより有効と認めていたということかも知れぬ。
 それならば、或いは『平家物語』のそもそも成り立つもののはじめに、『梁塵秘抄』の世界を支えていた師の後白河院と弟子の源資時とが、同様に、それぞれ の役割を果たしていたのかもしれぬではないか。少なくも藝能史上無視できない"藝"の継承関係がこれら二つの古典を貫いていたと思わなければ不自然極まる ように、私は考えた。ここに真に「中世」の起点があると、そう言っていいほどに本気で考えた。
 是非はさだかでないが山田孝雄や西尾実の資時正仏=盲法師生仏説は学界の存分に採るところとなっていない。だが断然否定されているとも思えない。兼好法 師の、信濃前司(実は下野前司)行長入道が「平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へてかたらせけり」という証言にも今なお多くの研究者は頼ってい る。少なくもこれを断然否定できている学者はいまい。「武士の事、弓馬のわざは、生仏、東国のものにて、武士に問ひ聞きてかゝせけり。彼の生仏が生れつき の声を、今の琵琶法師は学びたるなり」という結句にも多くの人は躓いてきた。この通りなら生仏=正仏資時説は当たらない。しかし謂うとおりの盲目生仏如き が一人で「問ひ聞」ける範囲は知れており、ただ「東国のもの」というだけで可能なこととも思えない。『平家物語』の取材は、情報網の発達した現代とはちが い、それだけに未曽有の規模を誇りえている。致仕の公家と盲目法師が二人だけで出来た話ではなく、かりにも彼らの場合あくまで執筆しそして曲節を付けたこ とに限定されてくるだろう。
 生仏の「生れつきの声」を東国者のだみ声と取るより、天成の声調や曲節の面白さと解釈すれば、生仏が資時であったとして、これ以上に適任のいわば作曲編 曲者は求められなかった事情を併せ考えた方がいい。
 しかし、私は右の推測を"事実"と強弁する気はない。"真実"の手ざわりとして感触してはどうかと思うまでだ。それで『梁塵秘抄』や『平家物語』の古典 としての活力や面白さが増すものなら、学問的に証拠をあげて否定されてしまえば仕方はないが、けっしてそうではない現状、まさに「読み方」という「規則」 ないわけであり、自在に、大胆に、積極的に、古典はこんなぐあいに所有されてもまたいいと思うのである。
 謡曲を聴きなれた人なら、謡う部分と語りかつ話す部分とが綾なしていることを知っている。そういう人が平家琵琶、平曲を聴けば、詞章、曲節、発声、情調 などにちがいはあれ、やはり謡う部分と語りかつ話す部分から成っていることに、容易に気がつく。
『平家物語』がより多く読んで楽しまれたか、琵琶の語りを聴いて楽しまれたか、もちろん正確な多寡のほどは知れないが、兼好の証言や中世の諸記録にのこる 平家語りの例やはては「耳無し芳一」の話などから推して、また版本流布の可能な時期を考え併せてみても、その盛行はもっぱら藝能の場を介してのこと、口か ら耳へ伝達されていたろうことが、察せられる。「生仏」の存在が無視できない所以であるが、そうであればあるほど「資時」に准じるふうの藝の達人名人が、 ことの最初に指導性を発揮せざるをえなかったろう。ただ黙読や音読ならばとにかく、然るべき曲節で楽器にのせて謡い語るとなると、ましてそれが流派流儀を なして教習が必要となると、よほど当初に「声わざ」に長けた人が率先道を拓く必要がある。師匠と弟子たちが派をなし流をなして、免許皆伝に相当する何らか の関門も設けねばならない。灌頂の巻は、すくなくもそうした流派的、藝道的な要請に応じて創作されているのである。
 そしてそのような、より藝能的な灌頂の巻が、後白河院の大原御幸を中心に構想され、建礼門院の往生で結ばれているとあっては、よくよくそこに藝能者たち の作意が籠められたと考えたくなる。平家の真の終焉をまえに、院と女院とはいったいどういう気持で過ぎし動乱の日々を語り合ったと読むか、そこに深い作意 が存するのではないか。
 そこで、いよいよ話題をもとへ戻して先ず私自身が、少年の昔に『平家物語』の本筋をどう読みとったかを話すべき時がきたようだ。
『平家物語』は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす」とはじまるとおり、正盛、忠盛、清盛、重盛、維 盛につづく平家嫡流六代御前が、ついに源氏の手で田越河で斬られ、「それよりしてこそ平家の子孫は永く絶にけれ」と結ばれるように、いわゆる「断絶平家」 としての首尾を整えた本文をもつものが多い。灌頂の巻はなおこの垣外に特立されたものだが、それとて事実上は六代御前より永生きした建礼門院の往生で結ば れ、やはり「断絶平家」という趣旨にそっている。
 しかし私は学者たちのいう「断絶」の二字が響かせる、なんとも事に即して共感を欠いた乾いた読みに感心しない。「断絶」には違いないが、ただそれだけを 謂うべく『平家物語』が世に生まれたわけがない。この二字を、もっと事に即していえば、かつてなく大勢の人が死んだということだ。平家だけが死んだのでは ない。源氏も公家も僧侶も無辜の庶民もまことに数えきれないほど死んだ。天皇でさえ西海の波間に沈んで死んだ。
 それだけ死んだ人がいたということは、それ以上に大勢の死なれた人がいたということだ。死者への切ない愛を胸に抱いたまま生きつづけねばならなかった人 がいたということだ。そういう人が『平家物語』の実現を"時代"の意向として要請したのなら、「断絶」の二字は或る尽くさない憾みを遺していないか。これ は死んだ者たちの死の表現である以上に、死者に死なれた者たちの「追悼」「哀悼」の表現ではないか。ことに灌頂の巻を追加せずにおれなかった人たちの真意 には、『平家物語』一切を収斂しうる存在として後白河院、ことに建礼門院を登場させ、この数奇の運命を生きのびねばならなかった女院の死で、往生で、平家 のみならず一つの激動の時代の終焉を物語りつつ、世を挙げて、死なれた者の死んだ者に対する追悼、哀悼の真情を表現したい衝動があったことだろう。
 冷静に文治二年(一一八六)春、大原御幸における後白河法皇と建礼門院との立場を眺めてみよう。前年の春には屋島壇ノ浦で平家一門が滅亡し、十一月には 鎌倉の頼朝は守護地頭の設置を朝廷に認められている。源平の立場は逆転したというより、対峙という関係ですらなくなってしまった。だが源氏の内部はなお流 動的で頼朝は殊勲の義経を「現在謀叛人」の一人として追及しながらの幕府づくりをしていた。
 思えば後白河法皇こそ源氏をして平家「断絶」を完遂させた当人だった。大原の庵室へ法皇はその平家の生き残りである建礼門院をたずねて、西海を漂った日 々の平家生地獄の有様を語らせている。今は尼女院の徳子平氏は国母の身で波間から荒けない源氏の兵士の熊手にかき上げられ、死ぬに死なれず都に連れ戻され た人であった。女院こそは我が子安徳天皇をはじめ夥しい人数に死なれた存在として法皇に相対していたといえる。平家断絶の痛みを「哀悼」「追悼」の思いに かえて、栄華の昔にかわる佗住居に、つらい舅の法皇を迎えているのが建礼門院なのである。
 後白河院は、では、女院のまえに勝ち誇っていたであろうか。女院が「死なれた」人であるならこの法皇こそは夥しい人数を「死なせた」人であった。その自 覚があっての大原御幸であったなら、両者対座の場面を占めていたものは、死なれ、死なせた双方からのやはり哀悼、追悼であったろう。
 死なせた者、後白河院、断絶平家。
 死なれた者、建礼門院、哀悼平家。
 そして二人の目前に累々として死者の山。『平家物語』の大筋を私はそのように理解した。物語の語り手たちの意向をそのように推察してみた。鎮魂慰霊、そ れが灌頂の真意であろうと思った。灌頂の巻ではかの平清経の名はちょうど平家一門の哀れな死にざまを代表するふうに口にされている。むろんそのことを、か の源資時ないし彼に准じた『平家物語』作者たちも心得ていたことだろう。
 このようにして、私は『平家物語』を自分なりに四人の人物を二組に頭のなかで組み合わせながら、"自分の古典"に仕立て上げた。シテ建礼門院、ツレ平清 経、そしてワキ後白河院、ワキツレ源資時というふうにである。
 しかし私は、灌頂の巻の主人公二人の立場や真情について、また別に一つのすぐれた古典と出逢ったことで、自分の考えを、思想を、微妙にその後動かして 行った。法皇と女院とは大原御幸の場面で、そうも対蹠的な役割ばかりを演じていただろうかと。

     *

『衝動殺人・息子よ』という、映画を観た。掌中の珠の一人息子を行きずりに殺された初老の父と母とが、同様の被害に遭った全国の「死なれた」家族たちを訪 ねてまわりながら、国家に対して、ついにそうした犯罪の補償をえる法律を国会で通過させるに至る実話を、描いていた。この法律は現に適用されており、この 死なれた親や家族たちの努力はながく記憶され感謝されるにちがいない。
 何ということはない町工場の経営者が、息子に死なれて以後の執念にとり憑かれたような日常は、たんなる復讐というよりも公的な被害者保護の立法にまで到 達するものであっただけに人々を感動させる迫力をもっていた。えらいなァとつくづく頭をさげて映画を観た。
 それにしても「死なれた」人は世間になんと多いことか。病死もあり不自然死もあり事故死もあるが、どんな死にざまであれ「死なれた者」は悲しい。その悲 しみを知らないで生きている人が、世間にはむしろ少ないのである。
 私はこの章のはじめに、「死」は、そうは分かるものでないと書いた。自分がまだ死んでいない以上「死ぬ」ことも本当はなかなか分からない。結局、愛する 身近な人に「死なれる」という受身の事態に遭遇して、人は「死」の酷さをいやほど教えられることになる。哀読した絵本や少年物の物語類を経て『源氏物語』 を読むに至った十三、四歳の昔から今まで、私は「死なれた」思いで書かれ描かれ創られた藝術にもっとも鋭く反応しつづけてきた。自分でも、ほとんど例外な しにと言えるほどそれをモチーフに小説を書いてきた。私は、人は「死なれて」はじめて「生きる」のだというくらいの、それまでは人はただ「生まれた」だけ の受身の存在にすぎぬとまでの、思いを今ももっている。
 私の両親は、私をただ生み落としておいて姿を隠した。私にすれば文字どおり was born=生まれた、受身の存在たるべく此の世に一人でなげ出されたのである。しかもその産みの母に、まったく知らぬうちに「死なれて」もいた。人は「生 まれて死なれて」その上で真に生きはじめる存在なのかと諦めながら、生母の死をとうとう知った頃から私は小説を書こうとつよく思うようになった。小説を書 いて生きようと思った。
 そういう動機から小説を書いていて、その動機に共鳴してくれる読者がすこしずつ増えて行くのは作者冥利に尽きたが、ことに或る年、私の作品『みごもりの 湖』につよく触発されて、第二次世界戦争で愛する人に死なれた無数の人々から手記を蒐め、「死なれたもの」の記録をながく世に残そうと企画した良い本が或 る新聞社から出版された時、思わず涙がこぼれた。嬉しくもあり、また、それほど死なれた人の多い此の世が悲しくもあった。
 死なれたものはたまらないー
 それが率直な創作の動機になって何年かが続いた。
 そんな私が創作をはじめた時分から愛読しつづけた古典の一つに、『建礼門院右京大夫集』がある。
 はじめて読んだのは古本屋で見つけた本位田重美氏の『評注全釈本』によってで、本文にも感動したが、その「研究」には非常に多くを教えられた。なにより 研究の筋道がとても面白く、文壇での処女作となった『清経入水』や初の書下し評論『女文化の終焉――十二世紀美術論――』が書けたのも、この本文と研究と を、つくづく愛読していたからだと、今も思っている。
 その後、各種の本文を手に入れた。そのつど繰返し読んだ。もっとも私の『建礼門院右京大夫集』との久しいつきあいは、終始一貫、ただの読者の尋常で平凡 な好奇心にまつわられていて、平気で脱線もし、平然と飛躍もし、それはそれなりに一点に固定されず、読む回数がふえ私の生理年齢もふえ、多少周辺の知識も ふえるにしたがって、感じ考えることも動いてきたという体の読みであった。
『源氏物語』や『平家物語』ほど人に知られた古典ではない。女流日記文学の一つとも言えるし、閨秀歌人の私家集でもある。著者は若い時分建礼門院に仕えて 右京大夫と呼ばれていた女房であるが、平家の西国落ちに同行して波間に散るというめには遭っていない。しかし平資盛、あの清経のすぐ上の兄に当たる気性の 毅い公達と右京大夫とは恋しあっていた。
 宮廷に時めいていた頃の資盛は右京大夫を泣かせもした驕慢の平家人であったが、一族の上に歴史の暗雲がしのびよる頃から二人の恋はほんものになって行っ た。女は、だが、事情があって宮仕えをやや早めに退いて、病む母の最期を東山の松原辺でみとっている。資盛はそのような時期にも、都落ちのその時まで、も はや先途に望みのない切ない恋の訪問を重ねていた。互いに悲しいながらも醇な愛に二人の仲は幸せそうであった。
 資盛はだが、一門と運命をともにして壮烈に西海に散った。右京大夫は遠くはなれて恋しい人にむなしく死なれた。

  さる程に門脇平中納言教盛卿、修理大夫経盛、兄弟鎧の上に碇を負ひ、手に手を取組んで海へぞ入給ひける。小松の新三位中将資盛、同少将有盛、従弟左馬 頭行盛、手に手を取組んで一所に沈み給ひけり。(『平家物語』巻第十一)

  寿永、元暦の頃の世の中の騒動といったら、夢とも幻とも感慨無量だとも、何だとも、一切何とも形容の出来るような程度のものでもありませんでしたの で、万事どうであったとさえ分別が出来ず、いっそのこと思い出すまいとばかり、唯今までも思われます。親しくしていた人達が都落をするという噂をきいた秋 頃のことなどは、あれこれと考えても考えつくせもしませんし、口に出して云ってみても云い尽くせることではありませんでした。(略)あの人は「世の中がこ んなひどい騒動になりましたので、自分も今すぐにも亡き人の数にはいるかも知れないということは疑う余地もないことです。そうなればあなたもいくら何だと いっても少しくらいは不憫に思って下さるでしようね。いやたとい何とも思わないにしても、こういう風に親しくいいかわすようになってからも、もう幾年とい う程になってしまった情として、自分の後世を弔うことは必ず考えておいて下さい。(略)」といっていたことを、なる程さもあろうと思って聞いたのですが、 それにつけても私の悲しみは何とか云いようがありましょうか、唯涙を流すよりほかは云う言葉もなかったのですが、とうとう秋の初め頃都落という夢の中の夢 のように儚い事実を聞いた時の心持は何にたとえたらよいでしょうか。(略)この悲しみは人に話す訳にもゆかず、ひとりつくづくと思い続けて、思い余ると、 仏様にお向い申して、泣き暮すより外のことはありません。けれどもなる程世間でいうように、人間の命は寿命というものがあってどうすることも出来ないだけ ではなく、せめて出家でもしようとしても、それさえ自分の思い通り気儘には出来ないで、かといってひとりで家を飛び出したりなども亦出来ないまゝにそうい う状態で生きてゆかれることが、何と思っても情なくて、
   またためしたぐひも知らぬうきことを見てもさてある身ぞうとましき
     (他に前例も比類もないような情ない事件をこの目で見ても別段何の変りもな      くその儘生きているわが身が厭わしく思われます)
    その翌年の春こそ愈々本当にこの世のほかの身となったということを聞いてしまったことでした。その時のことはまして何といったらよいでしょうか。全くいい ようもないことでした。みんな前々から覚悟していたことですけれど、その場に臨んでは唯全くぼんやりと気が抜けたように感じられました。あまりひどく涙が 流れてせきとめかね(略)何とかして忘れようと思いますけれど、意地悪くも面影は目の前にちらつき、人の言葉を聞く度毎にあの人の声が聞えてくるような気 がして、次から次へと身が攻めたてられるようでその悲しいことといったら、何とかいい表わそうとしても、その方法がありません。
   (本位田重美氏の通釈文を借用。但し現代仮名づかいに改めた。)

 そして悲痛の極みといった歌を、叩きつけるように数多くならべているのは原著によって読んでいただきたい。ともかくも建礼門院右京大夫は、かかる死なれ た痛みを抱いてなお七十歳の余までも生きのびねばならなかったのである。再度の宮仕えにも出て、「右京大夫」ならぬ新たな別の名前で二十年もの間人にまじ らう暮らしも重ねたらしい。
 しかし我々は、彼女の実の名はむろん、後年名のった女房名も容易に知る由ない。知っているのは彼女自身が「その名で」後世に知られたいと望んだ「建礼門 院右京大夫」というわずか六年足らず名のっていた若い時分の名前だけなのだ。この選択に彼女の境涯は尽くされていたと言えようか。「平家」につながる身の 上であったことを、「源氏」の世になってからもこの女人は生きる心のよすがに縋っていたのであろう。
 右京大夫の父は三蹟の一人行成卿の嫡流で、世尊寺流の能書で聞こえた藤原伊行。母は箏を奏して天成の異才とうたわれた大神基政の娘の夕霧。この両親に鍾 愛されたらしい右京大夫は、宮仕えに出ても持前の華やかな性格と才能とで公家たちにいつも大もてであった。ことに時めく平家の公達は、宗盛、忠度、維盛、 経正、そして清経ら大勢と親しい交際があり、嬌声に近い歌のやりとりも記録されている。
 親ゆずりの書と音楽の才能はもとより、右京大夫の自負は和歌にも厚かった。『建礼門院右京大夫集』が自撰された動機も、一つは過ぎし日の恋と悲嘆とを記 録する意味があり、しかし拮抗して和歌にも堪能との強い自讃が働いていたように私には受け取れる。ちなみに「右京大夫」という名は、母夕霧が父伊行と結婚 の以前すでに一児をなしていた仲の、大歌人藤原俊成が、彼女の初出仕の当時任じていた官名に依っている。そのうえ「右京大夫」の名とこの「家集」とを今日 にまで無事伝えるに至った契機も、俊成の子の藤原定家が『新勅撰和歌集』を編むに当たって、彼女にも然るべき家の集があればと提出を求め、また入集に際し て、現在の女房名か安元治承の昔のなつかしい名のりかどちらをとるかと問い合わせてやった親切なはからいに有った。定家と右京大夫とは、血つづきでこそな いが親しいいとこ同士くらいの仲ではあったと言える。
 そういう縁故は別にしても、『建礼門院右京大夫集』は前半を華やいだ恋そして苦悩の愛と、後半を死なれた者の絶望そして死者への哀悼とで太い筋を通し、 その切々たる真情は今も読者の胸をゆさぶってやまない。右京大夫に代表されるようなどれくらい沢山な「死なれた」人が同じ時代を生きのびねばならなかった か知れず、さてこそ『平家物語』の生成には、そうした人々の期待がかかっていたでもあろう。
 奇妙なことに『建礼門院右京大夫集』を読んでから私は、中学、高校のころに五体もしびれそうに愛読した西洋の小説の幾つかが、なぜあんなに私を魅了した のか、分かった。バルザックの『谷間の百合』、デュマの『椿姫』、ジイドの『狭き門』、シェイクスピアの『ハムレット』、シュトルムの『みずうみ』、E・ ブロンテの『嵐が丘』、ツルゲーネフの『初恋』等々、どれもこれも「死なれた」者の悲しみの上に世界が築かれていたのだと分かった。
 また『枕草子』も、『和泉式部日記』も、『更級日記』も、『讃岐典侍日記』も、皇后定子や、恋した二人の宮や、親しい身近な人々や、堀河天皇に「死なれ た」痛みに痛切に彩られている古典であったことを、改めて承知した。此の世に生まれてきた数だけの「死んだ人」がいるのは当然として、「死なれた人」もそ れに劣らずいるのだという動かしがたい真実を過去現在の人々がどう鋭く感受してきたか、私は藝術や文学の根本の動機に、あたかもそればかりがあると錯覚し かねまじきまで、そのことを考えた時がある。いや今も考えている。
  たとえば「むかし或るところに一人の男がいて一人の女を愛し、女もまた彼を愛していました」という一文を英語で書いて、谷崎潤一郎が文学とは所詮これに尽 きるという意味のことを言っていたけれど、そして「愛」はあらゆる藝術の根本の動機にむろん相違ないけれど、少なくともそれに並ぶ重さで「死」、それも 「死なれた」者の痛苦は、創作の、それのみか人が真に「生きる」ことの動機となっている。そう私は信じている。そういうことを、まざまざと考えさせてくれ た『建礼門院右京大夫集』との出逢いは有難かった。
 だが近年私が、すこしく視点をずらしてこの古典に対するようになったのは、他でもない右京大夫と、彼女がかつて仕えた建礼門院徳子とを、漸く較べがちに 物思うようになったからである。今一度、本位田氏の通釈文を借りて、右京大夫が文治二年の秋、例の大原御幸から半年ほどおくれて大原の庵室に尼女院を訪ね て行った記事を紹介したい。

  女院は大原においでになるとだけはお聞きするのですけれど、その筋の人の諒解を得なければおたずねのしようもなかったのですが、女院を思い奉る深い真 心を道案内として、むりやりおたずねしてゆきましたところ、次第に近づいてゆくにつれて、さびしくなって行く山路の様子を見ると、もう早速涙が先に立って こぼれるのですが、愈々行きついてみると、これは又何とも云いようのない御庵室の有様、調度器物などをはじめ御生活の様子、一切が目もあてられません。昔 の御栄耀の御様子を拝見していないような人でさえも、大体の御生活の様子を拝見すれば、どうしてこれが並々のことだと思われましょうか。まして昔の御有様 を親しく承知しております私には夢とも現実とも何とも云いようがありません。秋深い山から吹きおろしてくる風がすぐ傍の木の梢に音をたてあって、それに筧 の水の音、鹿の声、虫の音など、いえば何処でも同じことではありますけれど、比類なく悲しく思われます。(略)
  今や夢昔や夢とまよはれていかに思へどうつつとぞなき

 察してあまりある涙がここでも流されている。右京大夫は「死なれた」者の思いを胸いっぱいに抱いて女院を訪ねており、それは同じ思いの者同士がいたわり 合うための訪問と言うべきものに違いなかった。右京大夫にすればそうであった。
 しかし、人が死ぬ場合、そこに「死なれた」人だけが残るのではないということを、かつて私が気づけなかったように、右京大夫もおそらく気づいていなかっ たらしい。強いて対比的な物言いをするなら、「死なれた」人もあれ.は、じつに「死なせた」人も此の世には生き残っているという無残な事実を、当の建礼門 院の前で意識できるほど右京大夫という女人の神経は乾いても覚めてもいない。
 あの源平争乱を頂点に、十二世紀百年に限っていえば、じつに多種多様の死が山と積まれ、その一つ一つの死に、「死なれた」痛みと殆ど等価の「死なせた」 痛みや悔いも、時代の底流に沈みかつ澱んだことを思い知らねばならない。
 いま、平資盛という公達を念頭におく場合、建礼門院右京大夫という女人に、かりにも資盛を「死なせた」咎を負わせることは出来ない。またそれ故に安んじ て(と言っては皮肉が利きすぎるが)彼女は、資盛に「死なれた」悲哀にひたりきることも許される。
 だが逆に、その右京大夫に大原の栖まで慰めに訪れてもらっている往年の主君、建礼門院その人はどうであったか。
 建礼門院徳子こそ、すさまじいまでに酷い死の数々を眼に灼きつけて生きのびた、平家滅亡の最高位の生き証人であった。わが子安徳天皇をはじめ、建礼門院 ほど由縁のあるなしに関わらず多くの人に「死なれた」人は、くどいようだが、めったにいないのである。
 しかも右京大夫如きに比較するなら、ただに「死なれた」人として泣きの涙でばかり生きておれない、「死なせた」人としての針の莚にも坐っていた。彼女こ そ貞応二年(一二二三)に至るあまりに長い長い余生を「死なれた」悲しみに何十倍して、「死なせた」者の痛烈な痛みに耐え抜いた人であったに違いないこと を、私は想うようになった。
 そこまで想像が出来るようになって私は、『平家物語』灌頂の巻の構図に修正をくわえねばならなかった。後白河院が死なせ、建礼門院が死なれたのでなく、 二人ながらに"時代"に対してあまりに多くをして「死なせた」痛苦を頒ちつつ大原の春に二人は涙をかわしたのであった。その涙があってはじめて二人の「哀 悼」や「追悼」に情が通った。作者の眼は温かくかつ厳しかったのである。私は、『清経入水』から十年を経て、平家物語最初本をこそ主人公に見立てたよう な、長篇『風の奏で』を書かずにおれなかった。

     *

 こういう一種の逆転を味わってみると、かつて私が感銘を受けた東西の古典的名作群にも、じつは「死なれた」という以上に「死なせた」痛みが貫いていて、 それ故に烈しく読者を感動させる体の「愛」の物語が多いことに、いやでも気がついた。
 たとえば夏目漱石の『こころ』は、中学時代に私を可愛がってくれた上級生が、卒業して行く日に記念にくれた春陽堂文庫で、青春期さながらのバイブルとし て耽読したものだ。これなど、作の意のあるところに身を寄せて読めば、「先生」が友人の「K」を「死なせた」という痛烈な自覚を読みとらざるをえない。語 り手や「奥さん」にすれば「先生」に「死なれる」話ではあるのだが。それに気づかなかったのではない。が、「死なれる」の一語と対比的に「死なせる」とい う苛酷な一語をはっきり意識しえてから、気づいていたものに、形が添った。漱石の心には、『夢十夜』などとの重ね読みからも、或る「死なせた」負担が沈ん でいたと想えてならない。
 時と処を超えてあらゆる文学作品を仮に「死なれた」「死なせた」の両面から克明にチェックして行くだけでも、多分に作家の動機ばかりか、思想と表現との 評価にもわたって興味ある分析が可能ではないか。さきに挙げた『ハムレット』『谷間の百合』『狭き門』『嵐が丘』などにしても、じつは「死なせて」いる文 学にこそ数えるべきだし、イプセンの『野鴨』やワイルドの『サロメ』やドストイェフスキイの『罪と罰』なども根本に同じものを読みとっていないと、理解 に、観念的なぬるさが生じてくる。
 ここに及んで私の思いはまたしても『古事記』へもどり、また『源氏物語』にかえる。
『古事記』が殺戮と征服の神話であり史譚であることは一々挙証の必要もあるまい。言いかえれば、この世界は勝者と敗者とがきわやかに上と下へ、表と裏へ、 明と暗へ立場を異にして行く過程そのものだ。
 須佐之男命や大国主命を頂点とする出雲の神々を「死なせ」てはじめて大和の国は、存立を確かなものにした。熊襲のタケルや土蜘蛛のタケルを、それどころ か倭のタケルをさえ「死なせ」て、大和の朝権は基礎を固めて行った。
 山幸彦の海幸彦に対する圧勝と、海幸彦の山幸彦に対する隷属とは、まさに表裏をなして日本の歴史に無残な構造的乖離を強いている。もともと兄と弟ほどで あったものが最尊貴と最卑賎とに押し隔てられて、その間を鈍重に最大多数の「中流」が占めた。
 だが歴史を硬直した一本の「棒」の如くに眺める視線に対して、突如として一本の棒が首尾相喰む「環」に見える時があり、その時、最尊貴と最卑賎とは相隣 り合う、もともと上でも下でもない、ただ兄と弟にすぎなかったという当然の自覚に痛く疼かねば済まなかった。狼狽して両者を「棒」の両端へ必死で分けよう 隔てようとする「中流」大多数の意向を真に思想的にチェックすることなしには、本当は「日本」のことなど何も分かりはしないであろう。
「棒」といい「環」といい、私が、あたかも「蛇」のような姿で日本の歴史を語ることに読者は厭悪の念を覚えられるかもしれない。それならぱ「龍」といえば 受け入れられるであろうか。龍頭蛇尾の四文字をあて、かかる認識から日本列島には勝者と敗者とが混在し共存してきたと想像してみて、それが歴史的に錯覚に すぎないかどうか。
『日本書紀』に、山幸彦は海幸して海神の娘を妻とし、この妻は海浜の産所に身を隠して龍蛇の正体にかえりながら男子を産んだとある。この時、禁制を破って 夫が妻の蛇身であることを見露わしたのを咎めて妻は海に隠れ、代母として同じ蛇性の妹を夫と子のもとへ送った。子は叔母に当たるこの海神の娘を妻に、神武 天皇らを儲けている。
 一種の創世神話であり、類似の神話は先後して諸外国でもたやすく採拾することが出来る。中国、エジプト、インド、朝鮮、タイその他、幾らでも龍ないし蛇 が働いた創世記なら探し出せる。エデンの園の主が蛇であったことも広く知られている。
 しかし、他方にかような神話世界などでなく、現に日常生活にあって余儀なく蛇を意識して暮らし、蛇を畏れて祠り、祟りは固く避けて厚い恵みに浴したいと 願わずにおれなかった、譬えていえば蛇族ふう熱帯、亜熱帯、温帯の民族や種族が太古、上古の海に山に居住していた動かしがたい事実にも、正しく眼をむけね ばならない。日本また例外でありえようわけがないからである。
 こころみに大部な地名索引を拾ってみるといい。漢字にこだわらず音だけを頼りに引いて圧倒的に数多い地名頭音は、「オオ」ではじまる。漢字にすれば 「多」「太」まれに「鳳」「逢」「会」がありえても、九割九分が「大」の文字ではじまっている。なんとなく、その意図し祈願し表現したかったところ、察し がつく。多くて当然かと合点が行く。
 では、「大」の次に断然多いのは何か。「東」「西」「南」「北」でも「上」「下」でもなくて、「ナカ」「ナガ」の発音ではじまる地名が日本中に、べらぼ うに多いのである。はたしてこれにも「オオ」の場合ほど容易く頷けるかどうか。文字にすると「永」「仲」が僅かにまじる。稀に「那」「名」「奈」などの字 でもはじまるが、九分九厘は「中」および「長」に尽きる。この場合は漢字の意義よりは本来口称の「ナカ」「ナガ」の意味を考えねばならぬのではないか。
 高天原から見下ろしたおよそ日本を「葦原中国」と呼んだと物の本にはある。天神の世界に対して地祇が占めた国土を、主に大和や出雲や九州をそう呼んだと 取っていい。「中」を天上の世界と地下(海底)の世界との中間の意味に説くむきもかっては多かったが、この論法を、先にもいう日本中に散在する同類の地名 に及ぼすことはきっと難しかろう。京都市の上京区、中京区、下京区のようには必ずしも「上」「下」と関係なしに「ナカ」と付いている地名があまりに多過ぎ るからだ。それも明らかに「ナガ」と酷似していて、たとえば「中郡」(京都、神奈川)「那賀郡」(島根、徳島)「那珂郡」(茨城)もあれば「名賀郡」(三 重)「那賀郡」(和歌山)もある。いずれも歴史的な大きな地名であり、これに対し上郡や下郡は全国的に現に存在していない。「加美郡」(宮城)「香美郡」 (高知)などは、「上」でなく「神」や「鴨」族との縁が深そうに想われる。
 今一度試みに日本中にどっさりある、例えば「中尾」「永尾」「長尾」の地名ないしそれらを冠した野や山や川や峠や瀧や鼻や神社の名を調べてみると、奇妙 なことに東北六県(青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島)には唯一ヶ所宮城県の「長尾」が拾えるだけで、目立って南に、西に多い(平凡社『世界大百科辞 典』日本地図)。そしてこの傾向はけっして「ナカオ」「ナガオ」に限らない。
 率直に言おう、「ナ」「ナカ」「ナガ」は蛇(族)の意を体していた古語かと思われる。太古来、蛇をトーテムとするか種族神とするか、生活的に蛇を余儀な く意識しつつ暮らしたかと思われる漁労の民が広く海や川づたいに日本列島に散開し土着し定住していった足どりをこれらの地名が暗示している。そう思う。
「ナ」「ナカ」「ナガ」は西南海の島女や華南また東南アジアさらにインドに及んで広範囲に蛇ないし蛇族をさす名辞とされ、創世神話のヌシの名でもある例が 多い。「ナーガ」は蛇神の名そのものであり、威力に溢れた「アナンタナーグ」や「ナーグライ」を祭祀した寺院も崇められている。頭に角を生やしたタイ国原 生林中の龍蛇「ナーク」を追ったテレビフィルムにもお目にかかったし、英語の「snake」とも音は響き合っている。有名な志賀島で発見された「漢委奴国 王」の金印に蛇紐がついているのも、「ナ」の国に対する漢帝国のかなり正確な習俗認識があったからだと、言われている。
「長い」という日本語の語源には、蛇=ナガ虫の姿態が横たわっている。「長いものには巻かれろ」という皮肉な警句もある。
 日本には、その「長いもの」を、もともと「神」として畏敬しその庇護恩恵を求めてきた人や、たとえぱ葦原の蛇族の国に属する人がいた。大和のナガ髄彦の 如き、その首長にふさわしい象徴的な尾長な名のりを示している。
 だが、多くの蛇族たちはともあれ次々に征服されて奥山に海辺に、即ち辺陬の地へと逐いやられた。屈服敗亡して久しく勝者の膝下に鎮圧されたまま生きつづ けた。敢て言おうなら敗者の首領とは、出雲の大巳貴神つまり大国主命であり、大和の長髄彦であったろう。
大国主には大穴持だの大国魂だの大物主だの異名が多い。要は穴に住む大モノの地主神に違いなく、大巳貴とは直訳すれば「大きな貴い巳イさん」の意味に相違 ない。史書が敢て「巳」の字を「己」の字に替えているのは、祟りをはばかる政治的配慮とみたい。「巳」は即ち「ナ」と取られ訓まれ、そこに蟠踞したものが 龍蛇神を奉ずる人々であったこと、ゆめ疑いがない。だが「己」に「ナ」の読みはない。出雲の祭りをうかがえばそのことは明瞭に知れるし、諏訪や三輪などの 祭神や祭儀を斟酌すれば分かることだ。なにはばかる話でもなく、それより日本中に数多い太古上古来の神社が、どうやら本来そのような被征服種族神の祟りを 押し鎮め、かつ押し籠めようと征服者側からも斎き祠ったものらしいと歴史的に察しをつければ、ここに勝者と敗者の歴然とした地図が描けてくる。また勝者が 敗者の神話や祭式や藝能をいかに吸収しながら朝廷と藩屏とを結集維持して行ったかも、『古事記』『日本書紀』などの在りようから、よく分かる。「祀」ると いう文字にすでに「神」なる「巳」が表示されている。
 蛇は、海神、河神、水神で、また山の神、田の神、歳神としても広く信仰されてきた。神話や伝承や説話は枚挙にいとまがない。農業、林業むろん漁業に深い 縁をもつが、もともと渡海と潜水と両方の漁労民たちの意識下を占めていた威力的存在に相違なく、当然ながら隼人や安曇その他のいわゆる海士系の人々にとっ ては畏ろしく大事なトーテム同然の生物であり神霊であった。
 再び地名を参照しよう、「アマ」と冠した地名はやはり数多いが、それも西南地方の海辺に当然多い。頭字には、天、尼、雨、海、甘、余、奄などが配されて おり、いずれ根源が「海」にあることは言うまでもない。「海」はまた「ワダ」「ハタ」の訓みも持つ。「ウラ」や「ツ」「ツツ」も海とは縁の濃い言葉にな る。先の「ナカ」「ナガ」に加えて、仮に「アマ」「ハタ」「ワダ」「ウラ」などと付く地名の分布を克明に吟味して行けば、日本列島の、時に山中深くにまで 入り込んだ遠く遥かな蛇族つ国びとの余儀ない分散拡散の足どりを暗示されないでもない。安曇の変容とみられる「アツミ」「アタミ」「イヅモ」「イヅミ」や 「アタ」「アト」も含め、熊襲を根にした「クマ」「カミ」「カモ」「ソオ」「ソタ」「ソガ」などまでも、さらに蛇の古名「カカ」説によった「カガ」「カ ゴ」「カグ」等を冠した地名までを加えて行け.は、かの敗者海幸彦の子孫とみられる海士びとは、じつに日本中に、それも概して僻地に移動し土着していたこ とがまざまざと地図の上からも想像される。秦氏を名乗った世阿弥も、抛筌斎の号に漁労民としての出自を証した千利休も例外でない。
 日本は、朝鮮半島でのように新羅、百済などと統一国家の分立はついに見なかったけれど、国境のない敗者と勝者との、いわば海山勢と天孫勢との根深い対峙 というものは歴史的に潜勢し定着していたのだと思わざるをえない。但し対立はなしくずしに"中流"の拡大へと緩和され混合されて、遠い遠い記憶の痕跡と変 容して行き、いつしか巻きつく「長いもの」の立場までが逆転してしまった。
「長い」は或る意味で威力の表現だったろう。とすれば、その威力を征服者が、勝者が、敗者から肩代わりに奪い取った歴史が在ったようだ。そうした好例があ る。即ち「タケル」は、熊襲や出雲の勇者がもっていたたぶん「ナガい」以上にもっと雄々しい活力そのものであった、のを倭の天皇を代表する皇子オウスの命 のたばかりに屈した最期の息のもとに、彼に献じた。奪われた。肩代わりされた。出雲や熊襲のタケルが倭のタケルになり変わった。勝ちまた負けるとは、そう いうことだった。
 それと同じ論法が、「長いものには巻かれろ」という自嘲の句になって敗者の胸に生きのびたと思われる。それではならぬ。その思いが、私に長篇小説『冬祭 り』を書かせた。
 とかく歴史とは、勝った側の、死なせた者たちのものとして書かれ易い。『古事記』もそうなれば、『栄華物語』も『平家物語』もそうであったのだ。
 私は『源氏物語』を、はじめ典型的な「死なれた」者の物語だと考えていた。読んでいた。光源氏は生母に死なれ祖母に死なれ、また義母藤壼に死なれ、愛人 の夕顔に死なれ妻の葵上に死なれ、六条御息所にも死なれている。最後には最も愛しい紫上にも死なれている。
 ところが、つくづく読めば彼女たちは光源氏の存在によって「死なしめ」られている。少なくも光君が意識するとせぬとに関係なく、一人一人が死ぬほどに光 君の存在に苦しめられていると読むしかない動因が、物語の全篇を苛酷に貫いている。一言にしていえば強烈な好色、頑強な愛欲がそれである。この物語をすべ て通分するに足るそれが動因である。
 光君だけが好色、愛欲の人なのではない。誰より先に彼の父親であった桐壷帝の無類の愛欲が、この物語世界を切なく動かしたと言える。そして同じ愛欲が、 好色が、匂宮の五体にも継承されて宇治の大君を「死なせ」また浮舟を死ぬほど苦しめ、妻となった中君をも悲しませている。
 桐壼帝が、桐壷の更衣を人々の恨みを買うまで「すぐれて時め」かせ、健康を損じて「里がち」に身を退こうとしている更衣のことを、「いよいよ、あかずあ はれなるものに思ほして、人の謗りをも、え憚らせ給はず、世の例にも」なってしまうまで、心ある人の「もて悩みぐさ」になってしまうまで、愛執の念を注ぎ とおして光源氏を此の世の珠と儲けるに至ったことが、その結果、桐壷更衣とその生母を「横ざま」に死なせてしまったことが、そっくり光源氏の生涯と彼の子 孫の生き方に影響してくる。『源氏物語』とはそういう物語なのである。私がそもそもの最初に、「母に死なれた子が、母に肖た妻を求めて得た物語」と解した こと自体、原因はその「母」を死なせて「子」を悲しませた父帝の好色、愛欲の無残な結果にあったということになる。
 かくて『源氏物語』は測りがたい人間の業執がなし遂げて行く運命の劇と読みとれてくる。はじめに横死ありき――その死のかげに愛欲の業があったと『源氏 物語』を見つめれば、ここにまた「死なせた」ものの痛切な鎮魂譜が胸を打つ。
 何も、言ってみれば当然のこと、当然の読みであるのかも知れない。しかし、そうは早くから当然の地点へ到達できずに、自分の脚力にあわせて遠い道を辿っ て行くうち、やっとこんな場処まで来ていたのだと長嘆息するしかない。それで良かったのだとも思うし、まだまだ此の先が長いぞという実感もある。それがす ぐれた古典の、大きな恵みなのではなかろうかと思いながら前途にまた望みを抱くのである。
 だが、今すこし此の章の終わりに追加したいことがある。日本の古典のなかで、丈学の方法として、理念として、その両面から「死なせた」ものの長嘆息を真 にみごとに、多彩に定着した作品は、謡曲の、ことに修羅物の詞章ではないかということである。
 勝修羅、負修羅という言葉がある。いわば簡単な、その主人公が現世にあった日の勝者か敗者かが目安になっている。たとえば『平家物語』に取材して、主人 公が源氏と平家側とを問わず『敦盛』も『清経』も『忠度』も『経政』も、『実盛』も『巴』も『船弁慶』の知盛も『頼政』にしても、つまりは修羅道を敗者の ままに彷徨うことになる。勝修羅ものはむしろ極く稀にしかない。ということは、これらの主人公をして修羅の巷に「死なせた」思いが根底に描かれ、主人公の 鎮魂に一曲の主眼が置かれてくる。
 修羅物に限らない。殺生を業とした猟師や鵜使をシテにした『善知鳥』『鵜飼』も、恋の真情を踏みにじったがゆえの『通小町』や『綾鼓』『恋重荷』の苦患 も、龍宮の玉を取らせた『海士』や空しく故郷の妻に帰宅を待たせた『砧』や貴女を生きながら怨霊にさせた『葵上』など、どれも根本に人を辛く「死なせた」 劇になっている。その緊迫した辛さが、悔いが、我々をいたく感動させるのである。
「死なせる」のは必ずしも「殺す」のではない。殺すには何らかの動機がはたらく。ただ衝動殺人であっても、探ってみればそれさえが動機であると説明がつく 場合も多かろう。しかし「死なせる」者の、何ら個人として動機をもたない場合というのがある。建礼門院徳子が死なせた咎を身に負い苦しんだであろうと察し て、それが見当はずれと思う人は少ないにせよ、その辛さ酷さは、どの死にはどうと責苦の負いようのない死なせ方であった点にあるだろう。
 人の世には、たとえそうした捉えどころない死なせ方にも身も心も灼かれる思いのする人間も棲み、手を下して殺さない限り自分に負い目はないものと割り切 れる人間も棲む。時代の罪、国家の罪、社会の罪、他者の罪をかくして己が罪とも受け入れて負う人と負う気のない人とが居て、そういう人の世に生きながら例 えば戦争に対し、例えば公害に対し、例えば差別に対し、例えば独裁政治に対して自身の「思想」というものを自身で生み、育て、かつ堅く持して行かねばなら ない困難さもしみじみよく理解していた方がいい。
 私は良い文学、良い藝術、すぐれた思想というものは、こうした、より良く生きることのまことに困難な人の世に、たとえ細々とでもどこまでも道をつけてく れる力のあるものだと考えている。その場合、良い文学、良い藝術、すぐれた思想とは、結局のところ、自身をただ被害者の立場に置くだけでなくて、あらゆる 意昧で自身を加害者の立場に曝し、その罪責を敢て負担する痛苦に耐えぬく意志を、根とも幹ともしている文学、藝術、思想なのだと思う。





   一知半解――それでも愛読を


     *         

  灌仏やもとより腹ハかりのやど
  卯月八日死ンで生るゝ子は仏

 与謝蕪村は安永六年四月八日から右二句を筆はじめに、百数十句にのぼる『新花摘』の句作りをはじめている。この日山に入って花を摘むのは必ずしも仏教に 由らない古来故人の霊を我が家へ招ぎ寄せて供養する追善哀悼の民俗であるが、蕪村が敬愛した其角に夙に亡母追憶の『華摘』がある。蕪村の"新"花摘にも同 様の思い入れは働いているわけだが、それにしてもこの二句の異様なことはどうだろう。ここに垣間見る「母」と「子」との葛藤はすさまじい地獄図とも見れば 見える底昏さをはらんでいる。作者蕪村の真意を、今もって誰一人的確に指摘した人はいないのである。
 蕪村の安永六年は名高い『春風馬堤曲』の発表された年に当たる。いわゆる中興俳譜へと雄飛する蕪村にとって正に画期をなす馬堤曲であり『新花摘』であり ながら、これに臨んだ与謝蕪村実像を蔽うべールは今もって深く厚く、蕪村藝術の真の動因は画にも俳にも、今日なお容易に確認されていない。そもそも蕪村ほ ど著名の藝術家で、わずか二百年前には活躍していた人物の通称も本名も、確かな生地も生家も分かっていない。先の二句など、まるでそうした蕪村の謎を眼前 へ突き出すような畏ろしげな内容をはらんでいるかと読めるのだが、ここにも、「死なせた」人の身の毛のよだつ呻き声が私には聴こえてならない。但し『新花 摘』の解釈がここでの本当の話題ではない。
 与謝蕪村の印象は人によっていろいろであろうけれど、大方の場合、高校時分の国語教科書で出逢った『春風馬堤曲』が物を言ってはいないか。私の場合は萩 原朔太郎の「郷愁の詩人与謝蕪村」という一文と対にして、これが教材化されていた。
 そして今に至る私の感想では、どこかしことなく気になる特異な力作にちがいないが、教室で習ったかぎりへんに奥歯に物のはさまったようで、魅力のほどが 十分掴めなかった。責任は朔太郎の文章、というより、これと一対にして読ませた教科書の編者にあったろう。春風胎蕩の毛馬の長堤を、浪速の繁華から藪入り で帰る小娘と、蕪村当人を想わせるじいさんとが先になり後になり故郷の村里へ帰って行く。事実か架空かを問わず、およそのどかに牧歌的な情景であって、郷 愁をそそるといえばその通りだが、いささか睡くもなるそのような漫々的の解説をいくら聴かされても面白くなかった。へんに阿呆らしくさえあった。
 漢文の序詞を芳賀徹氏の訳文を借りて、やや簡約して挙げてみる。

  私ハアル日昔馴染ノ老人ヲ訪ネヨウト故郷二帰ツタ。淀川ヲ渡リ毛馬ノ堤ヲタドツテ行ツタ。タマタマ一人ノ女ガ同ジク里帰リシヨウトスルノニ出会ツタ。 先ニナリ後ニナリシテ数里同ジ道ヲ行ツタノデ、互イニ言葉ヲ交ワスヨウニナツタ。ソノ容姿ハナカナカ小粋デ(嬋娟)、マセテ色ツポイ(癡情)。ソコデ次ノ 歌曲十八首ヲ作ツタ。私ガ女ノ身ニナツテ、女ノ心ヲ述ベテミタノデアル。題シテ「春風馬堤曲」トイウ。

 せっかくであるから『春風馬堤曲』十八首を原文のまま左に挙げておく。紙背に徹する眼光をむけていただきたい。

  ○やぶ入や浪花を出て長柄川
  ○春風や堤長うして家遠し
  ○堤ヨリ下テ摘芳草 荊与蕀塞路
   荊蕀何妬情   裂裙且傷股
  ○渓流石点々 踏石撮香芹
   多謝水上石 教儂不沽祐
  〇一軒の茶見世の柳老にけり
  ○茶店の老婆子儂を見て慇懃に
   無恙を賀し且儂が春衣を美ム
  ○店中有二客 能解江南語
   酒銭擲三緡 迎我譲榻去
  ○古駅三両家猫児妻を呼妻来らず
  ○呼雛籬外鶏 籬外草満地
   雛飛欲越籬 籬高堕三四
  〇春艸路三叉中に捷径あり我を迎ふ
  ○たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に
   三々は白し 記得す去年此路よりす
  ○憐ミとる蒲公茎短して乳を浥
  ○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
   慈母の懐袍別に春あり
  ○春あり成長して浪花にあり
   梅は白し浪花橋辺財主の家
   春情まなび得たり浪花風流
  ○郷を辞し弟に負く身三春
   本をわすれ末を取接木の梅
  ○故郷春深し行々て又行々
   楊柳長堤道漸くくだれり
  ○矯首はじめて見る故園の家黄昏
   戸に倚る白髪の人弟を抱き我を
   待春又春
  ○君不見古人太祇が句
    藪入の寝るやひとりの親の側

 さて蕪村老人の酔興はまだしも、母や幼い弟の待つ小娘が人もほめる晴着姿のまま「堤ヨリ下テ」「裂裙」「傷股」の道草など喰うものだろうか。わけもなし に、よそのじいさんと「酒銭」を支払うような茶店の奥まった「榻」に休んでなど行くものだろうか。どう考えても昨今のけっこうな勤め人とちがい、当時の藪 入りは当人にみも家族にも待望久しい一刻千金の貴重な休暇であってみれば、へんな年寄と「先後」して行くどころか若い娘の脚で一散に走ってでも親の懐へと んで帰りたいのが、この年頃の娘ごころというものではなかったか。
 そんな気持で私はこの教材を習ったから、朔太郎の親切な文章が呑気すぎる気さえしたものだ。但しこの詩曲の方法的な面白さ新鮮さに頷く気持は十分持って いた。だから忘れなかった。要はのどか一辺倒の"解釈"に疑義があり、しかし自力でぐいと奥歯にはさまった物を引き抜く腕もなかった。
 そのうち私は大学へ進み、俳人蕪村より画家蕪村のほうへ親しむようになった。大雅、竹田、玉堂、木米らより私は蕪村の絵が好きであった。むろん「好き」 を支える蕪村の俳諧にも一定の関心と評価はもっていたに違いなく、『春風馬堤曲』は或る未解決の問題作としてはっきり字句までも記憶されていた。
 昭和三十一年(一九五六)は私の大学三年生の時分に当たる。専攻していた「美学」会の雑誌に、当時神戸大学教授の故小林太市郎博士が「春風馬堤曲の解 釈」を発表された。すぐ読んだ。
 "驚倒"とはあれであった。三嘆、すでに高校生の昔に隔靴掻痒のもどかしさを感じた一切がきれいに解消していた。少なくも、こう深く読めば、 少女が「堤ヨリ下テ」草を摘んだ風情も、晴着の乱れ破れ傷ついたのも、あやしげな店に小憩して鶏が垣を越えて翔ぶのを見てうち興じているのも、そうか、な るほどなとよく納得が行った。教室で習ったのよりは格別に説明が細かに行届くと思った。
 小林は、『春風馬堤曲』の内容を、安永六年二月おそおその歳旦帖「夜半楽」に公表より四年も早い、安永二年正月に実際に蕪村が体験していた実事と推定 し、藪入りの少女をさして、以来蕪村の身辺に「実際に実存して彼と関係」しつづけた「女」だと言っている。推論の前提として、毛馬堤で藪入りの少女と老人 の仲になまなましい情事があったというモーレツな読みを展開している。精到かつ迫力に富むこと、驚くべきものがある。そのために碩学入魂の論文が面白ずく に読まれてしまった気味も、たしかに有る。念のため、この論文は有精堂刊、日本文学研究資料叢書『蕪村・一茶』の巻で容易に読むことが出来るとも付記して おこう。(加えて、私にその後、書下し小説『あやつり春風馬堤曲』湖の本35の有ることも。)
 私は、蕪村のこの力作をはじめて読む人に、ぜひすすめたい。ダマサレタと思って、せめて三回、マル写しにしてみることを。そうすれば本当にいろんなこと に細かく気がつく。小林は、『春風馬堤曲』ほどの詩がどうして蕪村の深部から「うめき出た」か、そこを十分玩味しなければと切言している。「字句の表現の 馬堤曲とは全く別の」「言換れば書かれない馬堤曲の予想外の相がそこに彷彿と浮んで来る」とも言う。その通りだと私も思った。
 もとより馬堤曲中の男女に情事が読みとれるという小林の理解に私自身足をとられてはいない。曲中を抜け出たこの少女が、以後蕪村の寵い者の如く近辺に実 在していたという小林の推測にも縛られてしまいたくはない。先ずは馬堤曲の一句一句を克明に、語感ゆたかに読みこむこと、先入主に捉われた尋常かつ固陋な 感覚では、詩人心中のやむにやまれぬ情意を汲むことはできない。その一点で私は小林の"方法"を理解する。また小林の"解釈"が説得力ゆたかに迫力に富む ことも理解する。「深読み」に過ぎるなどと研究者たちはいたずらに軽視し道学者流に黙殺することをやめ、小林をしのぐ理解を見せて欲しい。
 蕪村の安永六年がなかなかの年であったとは、この章のはじめに『新花摘』の冒頭二句を引いて先ず言いおいた。前年還暦の四月、比叡山麓一乗寺村の金福寺 内に芭蕉庵を再興し、蕉風とのつながりを明らかにしている。馬堤曲と『新花摘』とは、その蕪村の境涯を大きく打ち出したモニュメント(=記念碑)であった が、結果としてともに或る難解な内容をもつことになった。
 なぜ難解か。分からないと頭を下げるのが正直なのは承知のうえで、この両作に或る注目すべき一連の実事を絡めて、私なりの"風呂敷"をひろげてみたい。
『新花摘』百三十七句は四月八日の花祭りから謎多い二句ないし六句を筆初めに書き出され、四月十七日までの十日間にとんとんと九十六、七句も進むが、十八 日以後はただ書き留めの句帖かのようになり、「若竹やぜひもなげなる芦の中」(百三句め。五月極初)の辺まで渋滞し、そのあともポツポツ書き加えて、五月 十七、十八日には全く棒を折ってしまう。この棒折れの理由として一人の「少女」が登場してくるのである。
 この「少女」が『春風馬堤曲』中の藪入りの少女なのではけっしてないが、心情的に無関係でないことも殆どの評者は察している。じつはそれでまた話がやや こしくなる。
 一般にこの「少女」が蕪村の唯一人の愛娘で、名前を「くの」ということが認められている。くのは前年師走に、さるかたに縁付いた、つまり嫁入りしていた が、あけて正月末に発表の『春風馬堤曲』の作意には、愛する一人娘を手離した老蕪村のやるかたない父親ごころが働いているという。曲中の藪入りの少女と娘 のくのとが作者蕪村の心中で微妙に重なっているという。その通りであって、しかも先の小林太市郎の解釈も成り立つのでは、あまりに事が怪しくなる。
 ところで『新花摘』棒折れの理由に、「良縁」をえて「片付」けたはずの娘を、蕪村が強引に奪い返すという騒ぎが起きていたのである。事情を明かす蕪村の 消息文で二、三証拠しらべをしてみよう。
 誰しもがその内容を「むすめ」の結婚当日のことと読んでいる、安永五年十二月十三日の手紙。

  (略)其節は愚宅ニ三十四五人之客来、京師無双之妙手、又ハ舞妓の類ひ五六人も相交、美人だらけ。大酒宴にて鶏明ニ至り、其四五日前後ハ亭主大草臥、 只泥のごとく相くらし申候、それ故、早速御返事も不二申上一、(略)

 お披露目ともとれるが、たいそう遊び上手であったらしい蕪村自身が「亭主」の、ただ仲間うちの散財でなかったともいえない。次いで十二月二十四日の手紙 には「愚老義も当月むすめを片付候て甚いそがしく、発句も無レ之、無念ニくらし申候。併良縁在レ之、宜所へ片付、老心をやすんじ候。来春より身も軽く相成 候故」などとあるのは、まずは結婚させたととれる文言に相違ない。
 ところが明けて安永六年五月二十四日になると、『新花摘』の継続を断念する一方で、

  (略)
  一、むすめ事も、先方爺々専ラ金もふけの事ニのみニ而しほらしき志し薄く、愚意ニ齟齬いたし候事共多候ゆへ、取返申候。もちろんむすめも先方の家風し のぎかね候や、うつうつと病気づき候故、いやいや金も命ありての事と不便に存候而、やがて取もどし申候。何角と御親節に思召被下候故、御しらせ申上候。
  (略)

という手紙が、書かれることになる。だが蕪村の言い分には奇妙に納得のいかない所がいろいろと有って、この「むすめ」は本当に結婚などしていたのか、そう 思いこんでいるのは後世の我々だけではないかと考えこんでしまう。そこで前年師走以前に溯って蕪村の夥しい書簡群をつぶさに読み直してみても、じつは事前 に見合い、結婚、嫁ぐといった気配すらもなく、ただ彼の娘が病弱であることといかにも年端もいかぬ印象とがはっきりしている。
「むすめ」「娘」と書いて、自分の実の子だけが指さされているかどうかを、何故人は考えてみないのか。「くの」という子のあったことは疑わないが、じつは 安永六年の「むすめ」取り返しの渦中、蕪村の身辺には妻女「とも」のほかに明白に「ふゆ」「きぬ」という若い(と思える)女名前が交錯する。また蕪村没後 の信ずべき資料中に「息女みを」「蕪村元娘おみを」の名があらわれ、この「世づかぬ娘が行末など」を臨終の床で蕪村は弟子たちに依頼している。枕頭に「妻 娘」はむろん、どうやら高弟の几董による臨終記草稿によれば別に「両姉」も侍っていたことも確実で、几董はのちにこの二字を何らかの配慮で削除しているの である。
 こう見ると先の「良縁在レ之、宜所へ片付」や「身も軽く」が、必ずしも実の娘の結婚を意味すると限らず、はっきり言って年若な自分の妾を他に縁づかせた か、或いはけっこうな奉公先を意味するとさえ強弁したいくらい、じつはこの婚儀への経過は無理、不自然あるいは稀薄さがつよく見てとれる。
 無理不自然の最たるものは、この嫁入ったとされる娘の、年齢に対する悪しき偏見が一っ。蕪村の家庭生活ひいては娘が絶対に一人という思いこみがその二 つ。
 なぜそんなことになったかには、明らかな原因がある。そこに誤解というより独善の曲解が先行している。なぜこんな詮議立てをするか、私なりに理由は持っ ているので、それは後刻のこととして詮索を先へ進める。
 近世文学研究の大家であった頴原退蔵は、昭和二十三年「蕪村に関する新資料」を発表、冒頭に、明和三年(一七六六)秋、蕪村が四国に渡る直前の、召波宛 て手紙を紹介している。
 ここに、自分の留守中は「只今の通賎婦相守罷在候間、此辺御行過之節ハ折々御訪可被下候。殊更嬰児も在之候故、留主中(ママ)心細き事ニ御座候」という 一節があり、蕪村妻子に関する最も古い証言として以後広く珍重されるのだが、ここにいう「嬰児」こそ、『春風馬堤曲』が発表される直前、安永五年(一七七 六)師走に蕪村が他家に嫁がせた娘と同一人と、ほとんど誰一人疑う人もなかった。だが、果たしてそうなのだろうか。
 頴原退蔵は右の論文中にこう書いている。
「嬰児といふのを二、三歳とすれば、安永五年にはまだ十二、三歳で、いかに早婚の江戸時代にしてもあまりに早すぎる。だからこれはおほよそに幼児の意と見 てよからう。……まづ五歳とすれば安永五年には十五歳となる。十五歳の十二月といへばもはや十六歳と言つてもいいのだし、又十五歳ぐらゐで結婚するのも江 戸時代では必ずしも珍しい事ではない。すると明和三年に子供は四歳だつたと見る事さへ出来る。」
 要は、この頴原の最初の推定が、疑われもせず踏襲された。しかしこの推定には先入主として、安永に嫁入った娘こそ「唯一人」の蕪村の子だというつよい思 いこみが働いている。その思いこみをすべて起点に発想しているから、どうあっても「嬰児」の意味を「幼児」「四歳」「五歳」と強引に拡張しなければならな くなる。「賎婦」「嬰児」に謙辞の響きは斟酌するとも、すなおに受け取れば「嬰児」は疑いようなく未だ立って歩けない、ふつう満一歳にならない赤ちゃんの こと、「二、三歳」でもどことなく不自然なのであって、まして四つ五つの「嬰児」を強いられては叶わない。
 些細な詮索のようで、この一件が蕪村理解に影響するところは大きかった。たとえば彼の結婚の時期にしても、大方はこの頴原による「嬰児」四、五歳説から 溯って、宝暦十〜十二年頃(一七六○〜六二)と推定している。久しい江戸、野総両毛さらに奧羽へも足をのばした遍歴ののちに突如として京都へ帰り、さらに 丹後与謝へも両三年滞在のあとの、蕪村が四十五ないし七歳での初婚を考えているわけである。が、ふつうならこの年齢だと片方は再婚か、再婚同士か、それな らばどっちかに連れ子の一人二人はなどという疑問もあって然るべきなのだが、いっこうその辺が素通りになっているらしい。そして一般に、蕪村にはこの宝暦 十ないし十二年に結婚した妻女「とも」との間に、安永五年暮に嫁ぎ、六年五月に取り戻したというただ一人の娘「くの」があったとのみ承認されているらし い。
 私は、大いに疑問をもっている。
 書簡群に交錯する「ふゆ」「きぬ」は「くの」の替名で、「みを」は改名であるといったもっともらしいが安易な説にも、たやすくは頷けない。先の二つは全 く同時期に共存しているのだし、蕪村没後に「みを」と見える他に、また「くの」の名も実在しているからである。
 こんな議論は、すべて蕪村の藝術と関わりない私生活の詮索にすぎぬではないかという批評に、私は答えたい。蕪村の場合、その伝記面の不透明度が彼の画俳 両面の正確な理解を拒んでいる度合いはかなりよく比例していて、たとえば独自の「離俗論」の如きも、その俗の俗なる生活者としての一面に十分な視野が開け ないため、とかく理解も上すべりとなり、奇妙に観念的な評価に終始しかねない。ひいてはとかくうめきがちな詩人の本性本音が、その根の哀しみとともに把握 される度合いも低まっているのが、いわば「蕪村学」の現状なのである。現に『春風馬堤曲』や『新花摘』の根深い動機すら掴めず、その解釈はあやしくも定ま らないでいる。
 蕪村は決して高踏、脱俗の山林に生きた詩人ではない。繁華の巷に沈湎して、籠りがちな心を励ますように芝居や遊女や酒食の世界ともにぎやかに付き合って いた俗聖の一人にちがいない。その、いささか毛坊主ふうの世界をより正しく洞見するところから、彼の藝術の高さやすばらしさへと心を運ぶのでなければなる まいと私は考えており、それにつけても、一人の、大学者と呼ばれた人の、おそらく唯一度の強引の独善が今なお尾をひいて蕪村の謎を一層昏いものに混乱せた らしいことを、私は悲しむのである。

     *

 大家による独断が、という以上にそれへの盲従が怖い、今すこし微苦笑ものの例を挙げておこう。豊臣秀吉はなかなか手紙上手の人であったが、遺品のなかに 小田原攻めの陣中から北政所にあてて、どうか気晴しに淀どのを此方へ送り出してもらいたい旨の、事が事だけに気も遣った面白い一通があり、この消息文の差 し出し人「てんか」が天下人であり殿下とも呼ばれたか知れない秀吉当人なのは言うまでもないとして、宛名は誰が読んでも「五さ」となっている。北政所の実 名は「ね」「おね」だが、今日では「ねね」として広く知られている。
 この「五さ」のことを、昭和十年代の末に官学のさる大学者が北政所に仕える侍女の名であるとした。貴人に手紙を差し上げるとき、侍女や侍史に宛てる風は たしかに有る。が、この際文面や筆致から推しても、また「五さ」と呼ばれる侍女の確認が無い点からも、つまりは当て推量にすぎなかった。それどころか、じ つは間髪を容れないタイミングで、的確な反論が出されていたのである。
 柳田国男は秀吉とねねとの出身地に着眼して、「五さ」が尾張、美濃方面の主婦に対する敬称であること、つまりは「お嚊」ないし「嚊さん」に類する糟糠の 妻への親愛の呼び掛けに他ならぬことを克明に証明していた。愛知や岐阜方面ではそうだが、地方によってたとえば白秋詩で親しい「ゴンシャン」など、未婚の 女性への敬称にもなったりすること、歴史的にも「ご」は「女御」などの例に見られる如く女人への敬愛が籠る所の言葉であること、この「五さ」に類する表現 を「ごさん」「ごッさま」「おご」等々ほぼ全国的に数多くの用例を拾いながら、柳田は「侍女」説をやや揶揄ぎみに完膚なく否認し尽くしていた。
 しかし「侍女」説は呆れるほど安易に踏襲されてきた。権威ある立派な書展の豪華な解説本で、相変わらず「侍女」と説明してある実例にごく近年にも私は出 会っている。
 一字一句を深く「読む」とは、また一語一句をよく「聴く」という日常の蓄積に呼応する心がけであるだろう。とかく我々は文字や文章を偏愛偏重のあまりに 日常会話をゆるがせにしがちであり、そのくせ人を貶めること、「口の利きようも知らぬ奴」などと言ってのける。確かな口を利くまえに確かに聴いて覚えるこ とがなくて人の言語生活が豊かになろう道理はなく、事が日本語に関わる以上それが「方言」といえどもけっして埒外でないことも無論ではなかろうか。この場 合の「五さ」など、コロンブスの卵めくが、当然そこへも一度考え及べば、そして大家の説にも盲従しない基本姿勢さえあれば、「侍女」の珍説など、いつまで も横行する余地はなかったのである。
 同じ与謝蕪村の『春風馬堤曲』をしのぐ、すばらしいいわば俳体詩に『北寿老仙をいたむ』と題されている作がある。全文はかかげないが、「君あしたに去ぬ ゆふべのこゝろ千々に 何ぞはるかなる 君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ をかのべ何ぞかくかなしき」とはじまる心にしみる十八行八聯は、親愛の故人晋我を 哀悼してまこと美しく切ない調べを奏でる。
 ところが、この第五聯に「へけのけぶりのはと打ちれば西吹風の」の一行があり、この「へけのけぶり」を「変化の煙」などと奇妙に解釈した説や、他にもい ろいろとながらく通用し、しかし定かには広く納得されずにいた説は多かったのである。
 しかし近時、都立大学の高田衛氏は「結論からいえば『へけ』とは、水辺に接した傾斜面を持つ台地状の地形の先端部分をいう野州方言である。つまり河をの ぞむ『岡』なのである」と、当該地方に生きている言葉に正確に着眼して、「へけのけぶり」が仲春の季題である、水辺丘陵の夕霞であること、「霞」と「老 仙」とが古来丹念の縁語であることを説かれて、もはや間然するところがない結論が出た。
 俳諧も消息文も、ともに物語小説の文章以上に日常平俗の生きた生活語に近い。「五さ」も「へけ」も、要はその生きている生活語を忘れて取り澄ました感の ある文章語につねづね我々が身を寄せすぎたための間違いを犯してきたと言える。
 それにしても先の「嬰児」を四、五歳にとったり、勝手に「幼児」の意味だと押し曲げてしまう咎は「五さ」や「へけ」の段でない罪多い誤ちではなかった か。現に私が指摘したいろいろと曖昧な、無理な、不自然なところは究明されないまま、そのために(と言えるだろう)『春風馬堤曲』や『新花摘』を焦点とす る蕪村伝記は薄暗い霧のとざしに蔽われて、逆に多くの作品の鑑賞も頓挫しているのである。
 私は先立つ三つの章で、主として作者の詮議など多くは必要のない古典を語ってきた、わざとしたことではないが。日記や家集には著者のおのずからな人物像 が敷き写しになっている、たとえ『土佐日記』のように紀貫之が女の筆に仮託して執筆していようとも。近代の場合でも純然私小説の作家の伝記にかえってあま りメリットはない。むしろ例えば泉鏡花、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫のような作家の伝記的研究が、彼らの文学の奥底の拡がりをさらに面白くさらに有 効に開拓するであろう予感は濃い。そして私の信ずるところ、作家の伝記的な研究や追求にはおのずからな節度がある。あくまでそれがその作家の作品を、より 豊かに面白く読めるよう貢献するかどうかが截然たる一線を画する。作品がより豊かに面白く奥底を拡げるということは作家にとってのやはり本懐であって、そ のための追求に読者や研究者が貪欲であり意欲的であることを咎めない。伝記面の追求を奇妙な論法で潔癖そうに拒否し、ひたすら書かれた作品の表現にのみ執 着するのは分からぬではないが、じつは噴飯物の奇妙にこねまわした観念論が仕立てられている例も多いわけで、その種の自己満足に塗り立てられた教条的な作 品論には誰より作者が当惑し迷惑する場合も多い。
 だいじなことは柔軟に、尖鋭に、より正確に作品の精髄へ一字一句迫る姿勢であって、その際、どうしても作者その人をして語ってもらうのがぜひ必要な作 風、作品はかならず在る。日本の古典に限って私の希望を言うなら、紫式部よりは上田秋成の、清少納言よりは兼好法師の、人麻呂よりは藤原定家の、芭蕉より は蕪村の人物について識っていたい。前者よりは後者の場合に、それを識っていないと具合のわるい度合いが強いというくらいの意味である。
 今一度蕪村の『新花摘』に立ち戻って冒頭二句に続く難解な四句を挙げてみる。二句一聯のこの六句は初日に一連に書かれていることにも注目しなければなら ない。

  更衣身にしら露のはじめ哉
  ころもがえ母なん藤原氏也けり
  ほとゝぎす歌よむ遊女聞ゆなる
  耳うとき父入道よほとゝぎす

「母なん藤原氏」の句は同年四月二十九日付の消息で、「母人ハ藤ハら氏也更衣」と改めているが、いずれにしてもこの一句が『伊勢物語』第九段に絡んだ一種 の本説物、本歌取には相違ない。

  むかし、をとこ、武蔵国まで惑ひ歩きけり。さて、その国にある女をよばひけり。父は、こと人にあはせむといひけるを、母なむ、あてなる人にと、心づけ たりける。父はなほ人にて、母なむ藤原なりける。さてなむ、あてなる人にと思ひける。(略)

 要らざることと思うが念のため、手近な、中河与一氏の現代語訳を左に借用しておく(角川文庫)。貴公子を在原業平ふうの男と読んで差し支えなく、むろん 解釈に異存はない。

  むかし、或る男が武蔵の国までさまよひ来て、さてその国の或る娘に言ひよつた。娘の父親は他の男に娘を嫁がせようと言つたが、母親の方は素姓のいい身 分のある婿をと平生から心掛けてゐた。それといふのは、父親の方は素姓も並々の人であったが、母は当時有名な藤原の血を引いた人であつた。そんなわけで母 親はこの上品な都落ちの貴公子を婿にとのぞんだのである。(以下略)

 与謝蕪村の句風は客観的だと誰かが言っている。私生活の反映が殆ど察知できない詩人だとまで誰かが言っている。「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな」といっ た句がすぐ思い出せる。今あげた「母なん藤原氏」などもそうした句風の一典型と見てしまえば、『日本古典文学大系』の校注者たちのように、「更衣して今さ らながら由緒のしのばるる体」と解し、あとは読者の思い思いにまかせてそれで十分でもあるだろう。
 しかしこの一句は、『新花摘』という特別の意図にことに濃厚に染められている。冒頭六句との微妙なかねあいで慎重に読まれねばならないはずの一句であ る。今一度六句を通読して欲しい。

  灌仏やもとより腹ハかりのやど
  卯月八日死ンで生るゝ子は仏
  更衣身にしら露のはじめ哉
  ころもがえ母なん藤原氏也けり
  ほとゝぎす歌よむ遊女聞ゆなる
  耳うとき父入道よほとゝぎす

 ここに蕪村の「私小説」を推量する人は有った。が、この推量、じつに今以て半歩一歩も進んでいない。この一読奇怪な少なくも冒頭六句のかねあいを、いっ たいどう読み解くことで、明らかに『伊勢物語』を踏まえた「母なん藤原氏」の一句に味到できるのか。蕪村の伝記はここを突破しなければ書けないのである。
 私にもその力はない。が、右六句にもし追善哀悼の意を汲むなら、死なれたか死なせたか、いずれ蕪村の念頭には「母」のほかに「父」も、そして「子」も居 坐っている。「子」は「娘」ではないかと読みとれる。
 伊勢の本文には、父は平人だが母は貴人であるという意味が籠めてある。蕪村もまた我が母を偲びながらそれが言いたかったのか。父は平人だが母はたとえ落 ちぶれても賎しからぬ生まれの人であった、と。
 この六句、二句ずつ対になっているのが、先にも言ったが、すぐ看てとれる。すると「遊女」と「父入道」とが一対ととれ、すると「遊女」が即ち「母」に重 なり気味に自然想えてくる。「もとより腹ハかりのやど」という怕いような初発の句が、ぎろッと光る眼になってこっちを見据えてくる。
 蕪村は目下の研究では十七歳時分に突如として西国(丹後の与謝または摂津の毛馬)から江戸へ出て行き、三十六歳の晩秋から初冬の頃に急に京都まで帰って 来る。なぜ行ったか(むしろ、なぜ行けたか)も分からず、なぜ帰ったかも分かっていない。蕪村の結婚はまだその十年近く後のことと定説になっているが、結 婚にも、いわゆる妻娘にも、さらに十何年かあとの年端も行かぬらしい娘の慌しい結婚と離婚にもたいへんな疑問がある。が、それら一切は措いても「母なん藤 原氏」に限っていえぱ、当の蕪村自身が『伊勢物語』本文のとおり「武蔵国まで惑ひ歩きけ」る男だった事実が、もっと大事に思い出されていいのではないか。
 通説では、蕪村の実父は或いは「村長」であったかも知れぬような人であった。が、生母のほうは「村長」の家に奉公の女とか妾とかという口碑が残るばかり で、その逆は無い。蕪村生母が丹後国与謝郡の「あてなる人」とは思えぬ女であったことは動かぬ事実のようだ。むろん蕪村は知っていた。その地方には今にも 「津の国行き」という言葉が記憶されている。女が摂津方面へ奉公に出る風のあったことを意味し、私はそれを現地で聞いて確かめてきた。
 そこで『新花摘』に、とあれ「母」を追憶しての「母なん藤原氏也けり」という句を、蕪村らしい韜晦の句法に敢てまぎれ入って読めぱ、父は平人だが母は身 分賎しい女だったと、伊勢とは逆の意味が籠められたことになる。それが俳諧なる文学の辻褄というものではなかろうか。少なくも尋常一様でない蕪村の語感に 於て、「藤原氏」の三字が「なほ人」以下に逆転する表現上の秘密の径路がここには伏せられてあることになる。その入口を探し出さない限り、この句ないし 『新花摘』の面白さや蕪村の意図が決して読みとれないことになる。
 蕪村には、自身の父と母との関わりように重ねて、江戸ないし東国で、『伊勢物語』本文とも絡むような縁組か、恋愛が、または結婚の事実があり、しかもそ れが或る不幸な結果に終わってついに京都へ帰って来たかと想像されるような事情が、ありはしなかったろうか。「母なん藤原氏」の「母」とは、我が生みの母 でありまた我が子の生みの母でもあったと、少なくもそう一と重ねに二人の女が偲ばれていると読める余地はないか。そればかりではない、その「子」も「死ン で生」れていたような不幸な子ではなかったろうか。『新花摘』に籠めた追善の意志は昏く深い蕪村の、生まれ、死なれ、また死なせた悔いや痛みにまつわられ ていたように私には察しられる。またそこに蕪村の趣向も生きていたように察しられる。
 私は蕪村について、他にも幾らかの或る漠然とした推測、いや臆測を持っている。しかし此の本はそれを書き記す場処でないことも承知している。私はただ蕪 村に関する今なお拭い切れない曖昧な濃い霧のようなものを指さしておいて、この霧がはれるには、蕪村の伝記研究が、絵画と俳譜という作品を通しての内証を え、生活環境や交際範囲から外証をえながら深まり拡がって行く以外にあるまいということだけが、ぜひ言いたかった。古典とはいえ、こうした手続きが、何と しても必要で有効な対象が幾らもあると分かって欲しかった。あとは私が、小説で表わすしかない。
 古典を読む楽しみには、前章までに繰り広げてみせたような道もあるが、作者の人物や生涯に迫って行くことで、作品がいっそう面白さを深めることもあるの である。それも往々にしてそんな探求の必要もなさそうな、いかにも作品が作品を語り尽くして見えそうな人物の場合にかえって有効な例に幾らも出逢う。何度 も何度も引き合いに出すが、近代の作家では谷崎潤一郎が私にはそうであった。今は泉鏡花や川端康成のそれにつよい関心を寄せている。
 古典世界の人物に限っていえぱ、例えば蕪村にならぶ十八世紀後半のすぐれた藝術家上田秋成もそういう作家であった。但し秋成の伝記面で、私が私なりの追 求を果たすということは出来なかった。或る種の常識だけを受け入れていた。が、これも都立大学(元)の高田衛氏の『上田秋成年譜考説』が、強烈無比の爆弾 となって、私の、いや多くの秋成愛読者の常識を粉砕した。(東京大学の長島弘明教授にも多年に亘りいろいろ教えられた。)
 大阪曽根崎新地の遊女の生んだ私生児が或る商家に養われ、長じて家業を捨てて小説や国学の道に入ったと、そう誰もが信じていた。ところが高田氏の画期的 な研究によれば、秋成は、かの江戸時代初頭の偉大な数寄大名小堀遠州四代の孫に当たる。秋成の母は今の奈良県御所市にあった、もと小堀家旧領を預かる代官 家の由縁であった。ま、そのような提言を、研究を契機にして上田秋成の実像探索はまるで面目を一新した。
 私はその代官家の子孫である中村英之介氏(故人)を訪ねて、実際に葛城山麓の風光にも二度三度と眼をさらして来ているが、高田氏による意外な、だが十分 説得力に富んだ追究の鋭さに承服している。少なくも高田説を展開する長島氏らの研究は当然として、高田氏説を退ける、または別方面へ凌駕する新研究には出 逢っていない。
『雨月物語』『春雨物語』は言うまでもない近代日本文学の真の先駆的位置を占める名作であるが、秋成出生事情の高田氏らによる大逆転説がどれくらい深刻に その読み、その面白さに響くか、私にここで自分の推測を書き綴る用意はない。が、影響甚大とだけは、すこしも疑っていない。と同時に高田氏の手になる「年 譜考説」の卓抜な方法上の成功に注目して、同じ方法に学びながらもっと多くの人物、例えば蕪村などの、みごとな年譜が集中力ある学徒の手で書かれること を、どんなに望んでいるかしれない。
 考えてみれば本位田重美氏の建礼門院右京大夫の研究、目崎徳衛氏の西行の研究、辻彦三郎氏の『藤原定家明月記の研究』、また角田文衛氏の「建礼門院の後 半生」のような研究にまことに多くを教えられながら、古典が層一層とその根の深い部分から自分の眼のまえで面白く変容して行くことに驚嘆しつづけてきたも のだ。
 なるほど誰も彼もがそのような研究者の業績にまで接することはむずかしいとも言える。またそれらの研究さえ、なお途上のものである場合も多い。先学に学 ぶこととその論考に捉われて自分なりの健康な主観や思索を放棄してしまうこととが、一続きになっては困る。
 それに、先ほど来の蕪村に対する私の不審や疑念を、或る程度まで"私見"として仕立てて行けたように、存外の部外者、門外漢が、熱心な読書の過程で思い がけない疑問の突破口を開けるかもしれぬ可能性も、十分ある。門外漢なればこその視点が効果を挙げて行く可能性はたしかに有るものである。私は此の本の最 後に、自分のそういう一例を思い切ってとりあげてみたい。そうすることで、少しでも読者が古典を前にして無用の尻込み、大事なことは学者研究者にまかせて 通説に従っておけぱよいという悪しき尻込みをされないようにと、願わずにおれない。
 さて話題は『徒然草』にうつる。兼好法師の上にうつる。
 この古典中の古典を、何度も言うように私は『平家物語』よりわずかに早く、おそらく昭和二十五年初冬の頃に、星一つ、つまり定価参拾円の岩波文庫で買っ て、読もうとした。正直のところ容易には読めなかった。結局年かわってお年玉で手にした『平家物語』上下の方が早く読めた。それでも中学三年生のうちにお よそは『徒然草』が如何なる古典であるかは承知していた。高校の教科書で一部を習った時、心強い自信がもう出来ていた。
 私は、子ども心に、『徒然草』はたいへん面白いが、兼好という作者はそう好きでない第一感を持っていた。つまり兼好その人らしい人物が登場して物を言っ ている段で、幾らも気分的にひっかかる、感じのよくない箇処があった。素直にうなずけない、よく分からない、という処があった。
 その一方、たいへん心を惹かれる、それも思索的にという段より、小説的に心惹かれる段がいくらもあって、繰返し読むにつれ、ふしぎにそういう段は前半の 早い部分にかたまっている気がした。
 しかし話題をなるべく具体的にしよう、私は『徒然草』を手ごわい相手、何はさておいて難しい文章だと思いながら、校訂者西尾実博士によるごく僅かな脚注 に頼る以外の参考書をもたなかった。よほど強引にかき分けるようにして、ただ文字だけを読んで、文章の意味の分からないところは分からないなりに跳び跳び にでも前進した。そういう読み方を、はじめのうち、するしかなかった。
 それでも一応の納得や理解や判断は付く限りは付いてしまう、誤解であるにしても。そしてそのうちに、年数を経て行くうちに、『徒然草』をとりまく"時代 "についての知識が増してくるし、古文をものにして行く力も増してくる。自然と参考書や学者たちの意見も手に入れられるようになってくる。
 そのなかで、余の一切は措いても私にここだけは他人の考えに頷けない或る箇処を、まるで痒さや痛みのひかない腫れ物のように意識することになった。『徒 然草』上下二巻は全部を通じて二百四十三の段に便宜的に分けられている。その第二百三十八段というのが兼好の「自讃」ばなし七箇条を列挙しているのだが、 その最後の箇条を、私が初めて読んでこのかたの思いこみと、然るべき学者たちの理解とがまるで違っていて、どうあっても私は私の読みが間違っていそうに思 えないのであった。

     *

 堀河天皇の御随身に近友という馬藝の達者がいて、自讃七箇条ただしいずれも「させることなき事ども」を書き遺した。兼好法師はそれに倣って『徒然草』第 二百三十八段に「自讃の事七つ」を書いたその一が馬術、二が論語に関する記憶、三が鐘銘に関する誤りの発見、四が行成卿筆跡をめぐっての鑑定、五が仏語に 関する記憶力、六が目敏さのようなこと、七が女性問題らしいことで、およそ他人には無意味で些細な自讃にすぎないが、中で私が看過ごすわけに行かなかった のが、その第七箇条であった。

 一、二月十五日、月あかき夜、うちふけて千本の寺に詣でて、うしろより入りて、ひとり顔ふかく隠して聴聞し侍りしに、優なる女の、姿、にほひ、人よりこ となるが、わけ入りて膝にゐかゝれば、にほひなどもうつるばかりなれぱ、便悪しと思ひて、すりのきたるに、なほゐよりて、同じ様なれば、起ちぬ。
 其の後、ある御所ざまの古き女房の、そゞろごと言はれしついでに、「無下に色なき人におはしけりと、見おとしたてまつることなん有りし。情なしと恨み奉 る人なんある」とのたまひ出したるに、「更にこそ心得侍らね」と申してやみぬ。
 此の事、後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局の内より人の御覧じ知りて、侍ふ女房を、つくりたてて出だし給ひて、「便よくば、言葉などかけんものぞ。 其の有様参りて申せ。興あらん」とて、はかり給ひけるとぞ。

 少々原文のかなを漢字に直したので、現代語訳の必要もあるまい、これを例えば武田祐吉氏の『徒然草新解』には兼好の、「年たけては道心ふかくおのずから 行い澄んでいるその人が如実に表れている」所などと評してあったが、どんなものかと首をひねらずにおれなかった。たしかに武田評にあるように普通この一節 は、女色を以て動揺させようとする策謀に抵抗した兼好の道心堅固さの自讃と解釈されて、私には意外としか言いようがないほどこの解釈が定まっていた。それ にしては奥歯に物のはさまった自讃ではないか、私はこれを何度読み直しても「道心堅固」を「自讃」しているのだとは受け取れなかった。
 分かりやすそうで、この第七箇条の文意にはいろいろ疑念をはさめる隙間がある。武田氏のいう年たけての道心堅固とはいかにも上面で、悟り深く行い澄まし た僧侶の振舞いにしてはこの一条いかにも生ぐさい。馬藝くらいならとにかく、女色にひるまなかったことを自讃する坊さんでは情なくはないか。「優なる女 の、姿、にほひ、人よりことなるが」と、かすかに洩れ入る月かげに素早く女の品定めはしているし、「わけ入りて膝にゐかゝれば」なども、寄って来る女を、 待って、見ている印象だし、「にほひなどもうつるばかり」膝にかぶさってくる女体をはねのけるのでなく、やっと「すりのきたる」程度なのは、寄ってきた女 が賎しく不快な素姓でないことを察し、ただ人ごみの堂内にやや不体裁を感じての形ばかりの「起ちぬ」としか思えない。恥をかくのを怖れてのみ席を起ったの であり、もはや兼好にはその女がわざと強いていることを、かげに誰かのはかりごと、はからいのあることを、それが誰方かの見当さえついていたろうとまで想 われる。
 つづく「其の後」のはなしは、原文では行も改めずに書きつがれ、兼好自身で探りを入れに「ある御所ざま」の辺りに顔を出していると十分読めるし、「更に こそ、心得侍らね」という恍けからは、にんまり笑んだ独り合点が胸に届いてくる。もしこの事が書いてなければ、それでも法師兼好の深い道心のさりげない表 れとも読んでいいだろうが、この後日ばなしは、「年たけて」どころか、むしろ色めきがちにまだ俗世間を這いずっている青年の未熟な体臭をにじませている。 それだけでなく、当夜の楽屋落ちまで結局は耳にして来て、得意気にそれでこの箇条をしめくくっているのも語るに落ちた。
 自慢と自讃とはちがうだろう。江戸時代の学者は、「自慢とは、或いは学問才藝を以て、おごりたかぶり、人をないがしろにする也。自讃とは、平生我がつと めし事を、他にはほめねば、せめて自らなりとも、ほめて楽しまんと云ふ心也」と解説している。
 ここで秘かにたのしみたい「自讃」の内容とは、寄って来た女を拒んだことだろうか。それよりも、寄って来られたそのこと、恥をかかずに済ませ、そのう え、その高貴な辺りの人とも親しくなって楽屋裏まで知るに至ったそのこと、かなり高貴の御所方にそういういたずらを心易くたくまれたそのこと等を、或る深 長な人間関係の意味や結ばれを背景にして、どうにも自讃せずにおれなかったのではないか。
 この一段を書いた頃の兼好その人はまちがいなく或る年輩に達した法師であったに違いないが、また、それだけに露わに口にも出せない秘めた想い出もあった ろうが、この短い一節などは、隠したままおくには兼好の心にも肉にも刻まれの深い記憶として、ついつい洩らされたまさに「自讃」なのではないだろうかと私 は読んだのである。これに先行する六箇条の如きは一種の目くらましなのではないか――。
 ちょうどこの辺までが高校生なりの不審であった。思いこみであった。そしてこれをどうするというほどの力は有るべくもなかったのである。ただ頑固にこの 疑念を捨てないできた。えらい人たちのあんまり当たりまえな解釈に、承服する気はなかった。その頑固さが、いわば私の『徒然草』に親しむ、けっこう挺子の 役をいつもしてくれた。
 但し私の読みのとおりなら、私はここへ登場する兼好以外の人物が誰であるのか、自力で発見するしかなかった。が、そこまで『徒然草』を専門に研究する気 はなく、機会もなく、一愛読者の域から深入りしてみる意欲もとくべつもってはいなかった。
それにもかかわらず私は、一年に一度平均で『徒然草』を読みかえした。拾い読みならもっと頻々と繰返していた。『古事記』『万葉集』『源氏物語』『平家物 語』の四冊で或る時代までの「日本」はほぼ代弁できるだろうと私は今でも思っている。『今昔物語』や『梁塵秘抄』を加えればもっといい気はする。しかし中 世に入ると思想的に内容が拡大するので簡単には行かない。その中でもこの『徒然草』を落とすことはけっして出来ぬとだけは言い切りたい。『徒然草』にまっ たく学ぶことなしに「日本」は語れない。私はずっとそう思ってきた。
 そんな古典中の古典としての『徒然草』を評価する一方、私はこれが兼好法師という人物のやむにやまれぬ一種の創作たる或る動機をもった著作に想えて仕方 がなく、ことに最初の四十段余りまでは、それ以降の各段とモチーフを異にしているという印象をはっきりもった。「ひねもす硯にむかひて、心にうつるよしな しごとを書きつくればあやしうこそ物ぐるほし」いと筆者が感じていた部分は、けっして『徒然草』の全部ではないのだと思った。ことに第十九段のなかに「亡 き人のくる夜とて魂祭るわざは、このごろ都には無きを」といい、第二十一段に「月花はさらなり、風のみこそ人に心はつくめれ」といい、第二十二段に「なに 事も、ふるき世のみぞ慕はしき」といい、第二十三段に「おとろへたる末の世とはいへど、なほ九重の神さびたる有様こそ」といい、第二十四段に「斎王の野宮 におはしますありさまこそ、やさしく面白き事のかぎりとは覚えしか」と思わず歌いあげるほどに言い切ってくる或る感情の高まりに、私はなぜともなく胸を鳴 らした。兼好はなにかしらもっと個人的な、私的な、やみがたい告白の衝動にかられているのではないか。それ有ってこそ『徒然草』は書かれはじめたのではな いか。
「しづかに思へぱ、よろづに過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき」(第二十九段)「人のなきあとばかり悲しきはなし」(第三十段)などという思いを受 けて、第三十一、二の今は「なき人」を偲ぶ両段は、おそらく『徒然草』を動機づけている美しいほどの眼目ではないのだろうか。第三十五、六、七段は描かれ た人物の或る個性的な統一感からも、先の両段の意味深長な補強ではないのだろうか。

 雪がおもしろく降り積もっていた朝、ある女のもとへ言ってやる用事があって手紙を届けさせたが、雪のことをなにも書き添えなかったところ、相手の返事 に、「この雪をどう見ているかと、一筆もお書きにならないような、趣味のないお方のおっしゃることなど、聞き入れるものですか。なんとも風情のないお心で すこと」とあったのには、じつに感じ入ったことであった。
 今はこの世にない女であってみれば、これほどのこともしみじみと忘れがたい。(第三十一段)

 九月二十日のころ、ある方のお誘いのまま夜の明けまでも月を見歩いたことがあったが、折しもゆかりある人の住い近くへ来ていたとみえ、その方は取次ぎを 乞わせてひとり中にはいられた。荒れた庭はしとどの露にぬれ、しのびやかな香の匂いがただようさまなど、ひっそりと暮らしている気配は、まことに趣深いも のであった。
 ほどよくその方はまた出てみえたが、あまり何かにつけ優雅に思われて、それとなく物陰からのぞくと、あるじの女は客の出た妻戸をいま少しあけて月を見あ げている様子、すぐ引っこんで掛け金でもかけられては、さぞ叶わない気がしたことだろう。むろん、こううかがっている者がいたとは、そのあるじは知ってい ようわけもない。
 このような風雅な振舞いも、要は平素の心がけでできることにちがいない。その人はその後、いつとなく亡くなられたと聞いた。(第三十二段)

 兼好の筆には優しい潤色が添っているであろうと読みたいが、いずれにしてもこの両段はひときわ心ゆかしく、ことに第三十二段をしみじみ読んだ時、私は本 当にはじめて茶の湯の心にふれる思いのしたのを忘れない。

 主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終れハ、客も露地を出るに、高声ニ咄さす、静ニあと見かへり出行は、亭主ハ猶更のこと、客の見へさるまても見送る 也、扨、中潜り・遠戸その外戸障子なと、早々〆立なといたすハ、不興千万、一日の饗応も無になる事なれハ、決而客の帰路見えすとも、取かた付急くへから す、いかにも心静ニ茶席ニ立もとり、此時にしり上りより這入、炉前ニ独座して、今暫く御咄も有へきニ、もはや何方まて可被参哉、今日一期一会済て、ふたゝ ひかへらさる事を観念シ、或ハ独服(ひとりで茶を喫む)をもいたす事、是一会極意の習なり、此時寂莫として、打語ふものとてハ、釜一口のみニシて、外ニ物 なし。(略)

 井伊直弼『茶湯一会集』の白眉といわれる「独座観念」の章が、もともと余情残心という狙いで書かれたことを今の私は知っているが、どのような理解よりも この一文に接した時、私は一閃の光に乗じて少年の日に読んだ『徒然草』第三十二段へ立ち帰りながら、ああこれなら知っていた、これだったんだ、これだった んだと繰返し呟いているうち涙がにじみ出るのを感じた。埋木舎の籠り居に、直弼がつれづれを侘びながらも兼好の思いに心をさらしていたかしれない日々のこ とを私は想像した。
 本は、一冊を一冊としてだけ読むものではない。こうして本から本へ、人から人へと時を超え処を超えて長い旅をしつづけて行く根気と熱意との集積が「読 書」という、人間にしかない営為なのだと私は思えるようになった。
 兼好の、『徒然草』へもどろう、私は兼好法師が或る忘れがたい人に、女の人に、死なれておりその哀苦を耐えがたいものに抱きかかえたまま『徒然草』を書 き出したらしいと朧ろに想うようにもなって行ったのである。証明の利くことかどうかは分からないが、そこに兼好の執筆動機があること、もしかするとあの第 二百三十八段七節の「自讃」も無関係ではなさそうなと漠然と思い出した。
 いつか明らかにしたい意欲らしいものを持ちながら、だが、依然として一愛読者のまま国文学の参考書などとは無縁に大学時代を過ごしてから、私は、昭和三 十四年早春に上京し、就職し、結婚した。そしてまる四年後、昭和三十八年三月一日に勤め先のあった本郷の、井上書店で田辺爵氏の『徒然草諸注集成』とい う、八百頁近い大著を買った。今日名著の定評をえているそれは、前年五月刊行の、定価が千七百円もする研究書であったが、幸いその古書店で付けていた値段 はかつがつ私の手に合う程度であった。それでもたいした奮発には違いなかった。
 今、私の手もとに、その日からちょうど一週間後、三月八日付、東京大学医学部の当時小児科助教授であられた馬場一雄先生(後に、日本大学教授附属病院 長、名誉教授等を歴任)の自筆紹介状が残っている。東大図書館の本が読みたい私の希望に、成るか成らぬか親切に身元保証をして下さったもので、その頃、私 は堅い堅い医学書の出版社に勤める一人の若い編集者であった。馬場先生とのご縁は今も深い。が、残念なことにその日、東京大学図書館は学外者の閲覧を許可 してはくれなかった。
 仕方なく私はその足で国文科の図書室を訪れ、そこにいた何人かの一人に馬場先生の紹介状を見せて、『徒然草』の文献類を読ませて欲しいという希望を告げ た。
 信じられないほど簡単に、静かに、私は図書室に出入りのできる一員となりおおせて、以来私は会社の仕事を午後半日で一切済ませ、午前中は口実をかまえて ひたすら東大へ通った。むずかしい医学の専門書誌を編集している私が一度国文科などの研究室へとじこもれぱ、先ず会社の同僚や上役に見つかる気づかいはな かった。私は夢中で本や文献を読み漁り、荒っぼいノートを熱中してとった。国文学の勉強の方法など何にも知らないので、書誌的な注意も払わず、誰の論文で あるかさえ克明に記録することもなく、ここぞと思う限りをどんどん書き写しながら、じかに自分の考えも一緒に書き入れて行った。幸せな毎日であった。
 じつは私は、前年の七月三十日から、突如として、やっとやっと「小説」というものを書きはじめていた。処女作には、幼来祖父の蔵書からことに愛読した 『白楽天詩集』中の「新豊折臂翁」に学んで、いわゆる六〇年安保デモの体験も下敷きに、兵役忌避の行為と臆病心とを絡めたちょうど百枚、一種ひねった反戦 小説一作をその年の内に仕上げていた。三十八年になって一、二私小説の短いのを書き、その一方では卒業した大学の小雑誌にも、上京後もう三本めの何かしら 論文を送れれば送りたいという気持でいた。たまたま社内で担当替えされた新しい仕事があんまりラク過ぎたのを好機に、ひとつ東大を利用させてもらって本で も読もうと決心したのは、小説か論文か、いずれどちらかで役に立てようという気はあったからで、主題は頭から一つに絞る気だった。「徒然草の執筆動機につ いて」いよいよ考えてみようと思い立ったのである。
 この好機は、後日、右の論題で七十八枚の報告になり、また初稿四百枚の処女長篇書下し小説(『慈子』筑摩書房・集英社文庫。原題「斎王譜」)ともなって 活きた。論文は目立たない学内雑誌に載っただけだが、小説の組み立てにも同じ論考の大筋はたっぷりとり入れてあり、私家版以来五種類もの本になって、私の 小説では一番数多く今も読まれつづけているだけに、その、私のたどたどしい「徒然草考」のあらましならば、すでに知っている読者も少なくはないようだ。
 それでいてまたこの本の最後にそんな古証文をなぜもち出したかというと、ここに、専門家でも何でもない、若かりし一人の古典読者による、頼りないながら 一つの試みがまずまずの結果を生んだ一例があり、或いは一人でも二人でも若い読者の胸に小さな励みの灯がともせるかもしれないと願うからである。
 断っておくが私は論文をまとめてはみても、自信など全然持っていなかった。所詮は"小説"に部類する私ひとりの勝手な読みであって、研究上の価値などは もてないと断念しきっていた。読みえた文献とて多くはなく、国文学らしい論文の書き方さえ知らなかった。
 兼好はいつ、そしてなぜ出家したか。兼好法師はなぜ、そしていつから『徒然草』を書く気になり、書きだしたのか。それが表むき私の主題であった。
 しかし本音はもう少し小説風で、兼好にはともあれ妻と呼べない好きな女の人がいて、彼はその人に死なれていたのではないか。もしその通りならその人は誰 で、いつ死に、そしてその人との恋やその人の死が、先の主題に関わっているのか、どうか。
 差し当たって私は、読者に、『兼好法師自撰家集』のなかのこんな歌一首を紹介しておこう。家集の前半、それもわりに早い部分に、前後を「恋」の歌に埋め られ、なにげなく織りこんである。

  つらからば思ひ絶えなでさをしかのえざる妻をも強ひて恋ふらむ

 たんに「かのえさる」と「題」してあるのは、「庚申」の歳に詠んだ述懐歌なのだろう、歌のなかに、きちんとその題が詠みこんである。「小男鹿の得ざる 妻」に重ねて、どうやら「かの、得ざる妻」という痛嘆もあらわされている。つらくなると、あきらめきれずに、それ、山の小男鹿がまだ逢えぬ女鹿を、あんな に恋いこがれて啼いているよ――というのが表むきの意味だろう。だがほんとうは、そんな小男鹿と同じように、あの、とうとう得られなかった思い妻、心の妻 のことを、今も恋しく思い出しては泣けてしまう――とも作者は、兼好は、詠んでいるらしい。
 兼好は、諸説あるものの少なくも七十年以上生きているが、その生涯に庚申の歳は一度しか経ていない。元応二年(一三二〇)兼好が三十八歳の年に当たって いる。
 三十八歳の兼好について確実に分かっているのは、すでに出家の身ということである。彼がいつ出家したかについても諸説あるが、たしかなところ、三十一歳 にはすでに出家していた。というのも十分信用のおける古文書の発見によって、正和二年(一三一三)に兼好が山城国山科小野庄の水田一町歩を買い入れていた ことが分かり、まちがいない彼三十一歳の時で、しかも売買の田券に、はっきり「兼好御房」と宛名されてある。
 延慶二年(一三〇九)秋以前はまだ兼好が出家していないと、神田秀夫氏らが早くに証明されている。そしてこの秋以後翌年にかけ、兼好二十七、八歳にして 積年の素志をとげ遁世したらしい気配のたいへん濃厚なことは、かなりはっきり私にも掴めていた。但しまだ『徒然草』が書き出されているとは、とても見えな かった。私は、この延慶二、三年頃および先の「庚申」を示す元応二年頃が、兼好にとってどのような時機であったかを調べるのがどうやら勘どころと見当をつ けながら、今一度第二百三十八段七節の「自讃」へと、戻ってみたのである。

     *

 本文を読むと、暗がりの釈迦堂のなかで兼好に絡まってきた美しい女房と、御所方でそぞろ言を交わし合った年増な女房と、この女房らより遥かに身分の貴い 人の少なくも三人が、兼好以外に、このだんまりを知っている。主筋の「人」を、諸家は概ね女人と取り、男と読む説もたまにあるが、いずれも積極的にその 「人」を誰か、どんな人かとまで追求していない。兼好の「自讃」を「すりのき」「起ちぬ」の一事にかけて読むからだろうが、それでは間違っていないか。兼 好の秘かな誇りは、実はこの「人」の重さ高さの方にかかっていたのではなかろうか。そもそもここの「二月十五日」は、どの年の涅槃会に当たっているのか。
「人の」は、特に名を秘した書き方のようである。「更にこそ心得侍らね」と遁げる兼好はその時以前に心中思い当たる節があって、その人の誰方かも知ってい て、「はかり給ひけるとぞ」という感想よりも早く、ひそかに笑み首肯いていたようだ。そう感じた。
 ところで「そゞろごと」とは、何とはなし気がすすむまま喋りつづける話と解釈される。そういう話のできる相手とは、互いに親しみ深く敬意も持ちあえる同 士ということになるが、兼好は「御所ざま」の邸をたずねてその程度に親昵する女友だちを得ていたわけだ。そぞろごとに時を移せるほどの御所方へ、兼好は見 当をつけ二月十五日の夜からそう日を経ずに出向いて、そして恍けているのだとすると、これは微妙な自己満足を匂わせる振舞いではないか。「無下に色なき人 におはしけりと、見おとしたてまつることなん有りし。情なしと恨み奉る人なんある」とは直接話法に直した、兼好得意を示す言いぐさであって、ここに絶妙に たくまれた兼好の二重の韜晦があると私は見た。
 もし高貴の人が「情なし」と恨まれたのが本当とすると、「恨み奉る人なんある」とかりにも仕える女房が言うものだろうか。もう少し語り手へ敬った口調が 別にあっていい。ことに兼好は後半で、さも高貴の人がそう仰言ったとほのめかしているのだから、なおさらこの話法はやや軽々しい。
 しかし一方で、兼好をむげに色なき人だと皮肉を言い、情ないと恨んだのが、じつはその古女房当人であったならば、この一節はどういう意味をもつか。もっ と徹して言えばはじめ法会の最中兼好を悩ませた優なる女房は、この「そゞろごと」の相手その人であったと考えても差し支えないのではないか。「古き女房」 は必ずしも年齢に比例しない。主人の恩顧厚い才気のある、やや年嵩な女房とみて、それが「優なる女」であっても不都合はない。優なる女だからこそ押しづよ くできた振舞いであり、そぞろごとの相手もできた。こう解釈すると、兼好は少なくもその女房と親密な間柄であったか、その前後にそうなっていた間柄か、い ずれその口から貴人のいたずらを聴き出せる機会がもてたはずである。
 かなり際どい本心を秘かににじませてひとり賞美しながら、他人には極く当たり障りなく取られそうな文章を書くのは、兼好の卓抜な韜晦術で、道心堅固を 「自讃」しているなどとは、あまり単純なところをすくいあげている。思う壼で、もう一度兼好はにっと笑ったような気がしてならない。
「御所ざま」といえば、御所のほか親王家、大臣家をさしても謂うらしい。兼好は大臣家の堀川具守年来の家司の一人であったほか、家集や『徒然草』で知るか ぎり当然ながら或る片寄りはあるが、いわゆる「御所ざま」との縁はとりどりに察知できる。しかし、「そゞろごと」の交わせる親密な女房がいる御所となる と、極端に限定されてくる。そもそも高貴の方はべつとして、兼好が名を挙げて特定の女人に触れ、かつ歌や消息のやりとりをした相手といえぱ、延政門院に仕 えて一条と呼ばれていた女房が唯一人あるのみで、御所ざまであるとないとを問わず、他には全く記録されていない。
 兼好は家集のなかで、二箇処この女房と歌のやりとりを記録している。主君堀川具守が正和五年(一三一六)正月に亡くなり、もっぱら兼好法師のあつかいで 遺骸を故人ゆかりの岩倉の山べに埋葬した、その次の年の春、またひとりで兼好は墓参している。そのついでに近辺のわらびを摘み、それに添えて、雨の降る日 だったがわざわざ一条のもとへ届けさせた歌が、

  さわらびのもゆる山辺をきて見ればきえしけぶりの跡ぞかなしき
   返し延政門院一条
  見るままに涙のあめぞふりまさるきえしけぶりのあとのさわらび

 故人を偲んでさわらびを送るのは『源氏物語』の「早蕨」の巻の哀傷をともに承知で趣向していることだが、この文保元年春の二首は互いにすぐれて感傷的 で、何かしらこの三人に共通の想い出があって死なれ残された二人の涙を誘っている。そう読める。
 この贈答がある限り、主従の縁はもとより、亡き具守と一条、一条と兼好とが何かの因縁で心情的に結ばれていたことは認められねばならず、女の歌はことに 素直で美しいまでの涙にぬれ、なみなみでない知性と宿執とが感じられる。白石大二氏はこの一条を目して、第三十一段の、雪の朝雪に触れずに用向きの文を送 るとその無風流をなじって来たという、あの風雅な相手を考えている。それだと、一条は『徒然草』執筆の頃には「なき人」の数に入っていたことになる。
 第二の贈答歌は、一条が忌み籠りか何かで、「あやしきところ」に逼塞したことを兼好に告げてきた文に、

  おもひやれかかるふせ屋のすまゐして昔をしのぶそでの涙を
   返し兼好
  しのぶらむ昔にかはるよの中はなれぬふせやのすまひのみかは

 佗しい思いでいるのはあなただけではないという返歌であろう。これを延政門院の亡くなった元弘二年(一三三二)、兼好五十歳の時のやりとりなどと私は受 け取らない。題詠ながら「恋」歌一連の直後に記されてあるのも意味ありげで、忍ぶ昔の想いは、どうにも先の贈答と事実上一つながりのものと読める。「あや しきところ」というのも、延政門院と女房一条と兼好との関連では(高貴の延政門院と兼好とは直かに関わることの殆どなかった以上)はっきり来ないが、代わ りに堀川具守を据えて先の歌と結び合わせ、さらに第三十二段の客を見送って月に惹かれていた女や、例えば第百四段などの家居の風情に「従者の眼」をそそい でいた兼好当人の切なく辛い立場までも重ねて行くと、その「あやし」さが生きかえってくる。
 いったい一条が兼好にとって意味深い存在であるのは、一つにはもちろん兼好当人の感情に根ざしているが、今一つには明らかに主君具守の追憶につながるか らである。一条は率直に謂って具守の愛人であったとして、じつは兼好自身も愛を寄せていたような相手であったかもしれない。接近はむしろ兼好の方が早く、 具守が割り込むかたちで微妙な三角関係が生じていたかと眺めている研究者もいる。当然兼好が在俗時期の、遅くも徳治年間(一三〇六〜○八)にまで二人の関 係は溯り、三者の関係ともなれば畢竟正和五年(一三一六)正月具守の死までがかんじんなのであって、その間には兼好は確実に出家して、男女間の愛から一応 身を退いている。
 もし一条が「あやしきところ」に退いていたのが延政門院の死後とすると、具守の死から十五、六年の後日となって、いかに「しのぶ昔」にせよ間が抜けるば かりか、何より二人の歌そのものがまだ若々しく呼応しているのは、具守死後さほど年数を経ていないからとぜひ読みたい。
 第三十二段前後の女を一条と擬し、この「あやしきところ」に住んでいたかとみると(一条の里であったなら、生前の具守も忍んで行ったであろう)、一条と いう女房は所詮若死にしたとみるべきで、延政門院死の元弘二年、兼好が五十歳になっているそれよりも以後まで存命であったとはとても考えにくい。もし存命 ならなにか初老ないし老境の女友だちに就ての追憶や感想もあっていいのに、『徒然草』の「いまはなき人」の印象は総じてはきはきと若い女房のものなのであ る。
 さらに一段言い募るなら、いかにも千本釈迦堂で兼好に「ゐかゝ」り、また後日「そゞろごと」も交わしてあの夜の楽屋噺もして聴かせた「優なる女」の印象 に重なってくるのである。
 そうまで読み切ればかの「御所ざま」と思しい高貴の「人」は、延政門院(後嵯峨天皇皇女、悦子内親王)かと推量される。『徒然草』第六十二段に幼時の逸 話が出ているが、父帝のことを「恋しく」思うという気持を一首の謎歌に詠んで人に届けさせたという、いかにも頓才に富んだはなしである。歌は、「ふたつ文 字牛の角もじ直ぐなもじ歪み文字とぞ君はおぼゆる」とある。「こひしく」の四文字の書体を見ればいい。これなど兼好は一条の口から親しく聞いた内輪話かも しれず、どこかに「其の有様参りて申せ。興あらん」と謀るような気散じな人柄がうかがえる。
 いずれにせよ延政門院一条は、兼好が自撰の家集に名を記した唯一人のなみの女で、概して女に点のからい兼好にとって、とてもただの人と想われない。いっ たいこの一条と兼好ないし堀川具守の間にどんな因縁が存在したものか。
 一気に核心へ話題をもち込もう、私は『徒然草』を幾度翻読しても必ず第二十四段の書き出しに来ると粛然とした。

 斎王の野宮におはしますありさまこそ、やさしく面白き事のかぎりとは覚えしか。

 これは一般論でない。「おはします」という敬辞から「やさしく面白き事のかぎり」と口を極めての嘆賞、そして「覚えしか」という追想など、みな体験にし かと根ざした回顧と思われる。それだけにここの「斎王」には、疑う余地もない固有名詞の口吻があり、その特別な感情移入が逆につづく野宮の風情に感動した 筆の運びの背景になっている。とすると、この際の「斎王」は後宇多院の第一皇女奨子内親王以外に考えられない。後二条天皇の徳治元年(一三〇六)十二月に 斎王として洛西野宮に入御、しかし徳治三年八月天皇崩御のため伊勢神宮に参向の儀もなく、ほかでもない延政門院の坐所へ退下されている。
 この時代はいわゆる持明院、大覚寺両統の迭立の時代であり、宮廷社会ないし近傍に住む者なら、いずれどれかの派に属しているしかなかった。兼好とて例外 でなく、彼は、というより彼の主君であった堀川具守の家系は、大覚寺統のそのまた後宇多院、後二条院の系列に親近していて、同じ大覚寺統でも、のちの後醍 醐天皇寄りとはいえなかった。しかし後二条院が亡くなり、尊治親王(後醍醐)が新たな花園天皇の皇太子に立たれれば(徳治三年九月、一三〇八)、宮廷政治 家たる具守にすればそれなりの画策は必要であったはず、自然、家司兼好の動きにもその線は出てこざるをえなかったろう。
 即ちその線上に延政門院の姿が浮かび、その「御所ざま」に、今は神の斎垣を立ち出でてきたばかりの、尊治皇太子とは同母妹の、奨子内親王の存在が重々し く彼らに注目されていたのではなかろうか、という見当を、私はひとり東大国文科の図書室に日参している間につけはじめたのである。
 第二十四段「斎王の野宮に」のあの高潮した讃歎の辞から強いて想えば、若き日の兼好にとって、野宮入りされた内親王こそが高嶺の花は花ながら貴女中の貴 女として憬仰おく能わざる存在であったと私はしてみたい。彼が吉田神道の家に生まれていることも考え合わせて、仏徒ではあるが敬神尚古の気風からも斎王の 運命にはおそらく卜定、御禊、入御そして遂に伊勢参向の事なく終わっての退下までの成り行きを、兼好は人一倍注意深く眺めていたに相違ない。
 そして――延慶二年(一三〇九)の二月十五日、というあの「自讃」の夜が訪れ、兼好は、「御局」のうちに年老いた延政門院ばかりか野宮を出て間もない奨 子内親王のお姿があり、もとより女房一条が近侍のこともそれと深く察しながら、「ひとり顔ふかく隠して」「千本の寺」に詣でた――ということになったので はないか。
 わずかな事実を土台に推量に推量を重ねてではあるが、かかる一連の経過は、しかしながら「得ざる妻」の痛嘆をもたらす、いわば一つの恋の挫折と変容をも 帯同する仕儀ともなる。そこに主君具守のいささか強引な、表むき、裏むきの介入があったか、ということになる。
 その一方、兼好家集を形造った当時の歌には、青年期以来のそこはかとない遁世への願いが深沈とした実感と物哀しいまでの衝迫によって急速に濃い輪郭をえ て行く経過も読みとれる。延慶二・三年の交、兼好二十七、八歳にして、出家は、一つの断念であると同時に、家司兼好の切ない「従者」感覚から類まれな古典 『徒然草』のあの兼好法師へと飛翔する、大きな大きな転機となったに違いない。
 しかし、それでも兼好は、出家して即座に『徒然草』の筆を起こしてはいない。それには内なる衝動のなお十二分な貯蓄が、時間が、必要であった。私は『徒 然草』の動機は、ことに前半の四十数段分の動機は、幾人もの心親しい人の死であり、同時に後醍醐朝廷の内部から噴きあげてくる時代変革の予兆であったろう と思う。
 主なところを拾っても、正和五年に忘じがたい主君具守の死があり、文保二年に頼む兄の倉栖兼雄の死があり、その翌年には奨子内親王が兄帝の宸命を蒙って 達智門院の称号を受け、同年、帝や門院の生母逝去のことがあって天下は諒闇の喪に服する。
 そしてあけて元応二年(一三二〇)は、「庚申」の歳であった。とても確かめられることではないのだが、もしこの年に、「かの、得ざる妻」であったのかも しれぬ延政門院一条の死があってあの歌を兼好に詠ませたものならば、ここにいよいよ彼三十八歳の精魂を傾けるべき『徒然草』起稿の時機はきたといえるので はないか。家司兼好から兼好法師へ、そして名作『徒然草』の執筆へ、およそ十年の幅をみながら時間的に縦につながる一連の事柄として、かなり力強くその事 蹟は把握できるのではないか――。それが私の結論であった。
 思えば、これは、相当以上に"小説"に類する追究に違いなかったと、今の私は思うし、当時、もう二十年近く以前の私にしても、今よりもっと強くそう感じ ていた。それでも、ここまで粘ってみたことで、『徒然草』という古典中の古典が、兼好という作者の風貌とともに、すぐれて身近な、自身の所有に帰した事実 は動かない。
 それに嬉しいことに、詳細は長編『慈(あつこ)子』を読んでいただきたいが、私の読みが必ずしも無茶苦茶ではなかったとみえ、この十年来ぼつりぼつりと 研究者からの良い反応も耳に眼に届いて来ている。それこそ私のささやかな「自讃」であり、同時に(専門家には迷惑がられそうだが)いよいよ古典をそれなり に愛読しつづけたい私を勇気づけてくれる。
 臆面もなく願わくは、私一人が勇気づけられるのでなくて、いわゆる「古典」の名ゆえに、その前で過度に謙遜に尻ごみをしているかもしれない、ことに若い 読者、自分の個性や思想をこれから打ち鍛えて行こうとしているたくさんな若い読者の一人でも二人でもを勇気づける、とてつもない一例、前例となりうるもの ならば、どんなに嬉しいかしれない。まちがいなく、それが私にこの本を書かせた動機であった。
                                              ――了――