古典・能エッセイ 16篇
能
死生の藝
秦 恒平
能 死生の藝
能の鑑賞
女の能
千秋楽
能の天皇
薪能
能を楽しむ
蝉丸・逆髪
葵上
住吉詣
玉鬘 噂の姫君
清経入水
小宰相
十三世梅若万三郎
友枝昭世 鞘走らない名刀
文学としての謡曲批評
能 死生の藝
広くも狭くも「能」という。静御前が白拍子の舞を鎌倉の八幡宝前で舞ったのも、「能」と書かれてある。また「藝能」と
もいう。藝「能」人は、今日ではいわば一種の貴族であるが、その「能」の字が「タレント」を意味するとして、本来はどんなタレント=技能・職能を謂ったも
のか、綺麗に忘れ去られている。
能や藝能を、たかだか室町時代や鎌倉・平安末に溯らせて済むわけがなく、人間の在るところ、藝能は歴史よりも遠く溯った。日本の能や藝能に現に携わった
人や集団は、遙かな神代にまで深い根ざしを求めていた。能の神様のような観阿弥や世阿弥は、傷ついて天の岩戸に隠れた日の神を、此の世に呼び戻そうと、女
神ウヅメに面白おかしく舞い遊ばせた八百萬の神集いを即ち「神楽」と名づけ、「能」の肇めと明言しているが、それは、アマテラスという死者の怒りを鎮め慰
め、甦り(黄泉帰り)を願って懸命に歓喜咲楽=えらぎあそんだ「藝能の起源」を謂うているのであった。幸いに、天照大神は甦った。
国譲りの説得を命じられた天使アメワカヒコが、復命を怠って出雲の地にあえなく死んだときも、遺族は互いに色んな「役」を負うて「日八日夜八夜を遊びた
りき」と古事記は伝えている。だが甦りは得られなかった。ここでも死者を呼ばわり鎮め慰める藝能が、そのまま「葬儀」として演じられていた。藝能=遊びの
本来に、神=死霊の甦りや鎮め慰めが「大役」として期待されていたことを、これらは象徴的に示している。そしていつしか、鎮魂慰霊の「遊び役」を能とした
「遊部」も出来ていった。藝能人とは、もともとこういう遊藝の「役人」「役者」であった。各地の鳥居本に遊君・遊女が「お大神」「末社輩」を待ち迎えるよ
うになったいわば遊郭の風儀すら無縁ではなかったのである。
「能」とは、わが国では、死者を鎮め慰める「タレント」なのであった。能楽三百番、その大半は死者をシテとし、その「鎮魂慰霊」を深々と表現している。
だが「能」の藝は、それだけに止まらない。死者を鎮め慰める一方で、生者の現実と将来を、鼓舞し、祝い励ますという「タレント」も、また同じ役人たちの大
役であった。能の根源の「翁」は、生きとし生ける者の寿福増長をもって「今日の御祈祷」としている。「言祝ぎ=寿ぐ」祝言の藝こそが藝能であったのだ、死
の世界と表裏したままで。
観世、宝生、金春、金剛、また喜多。こういう「めでたい」名乗りには、じつに意義深いものが託されていた。死霊を慰める一方で、また生者を懸命に言祝ぎ
寿ぐ。能楽に限らず日本の藝能と藝能人は、役者は、そのタレントを途絶えることなく社会的に期待されて、一つの歴史を、永らく生きてきた。世の人々はその
能を見聞きし、笑い楽しみ、また死の世界をも覗き込んで、畏怖の念とともに心身の「清まはる」のを実感してきたのである。
今日では、能は、ひたすら「美」の鑑賞面から愛好され尊敬されている。謡曲が美しい、装束が美しい、能面が美しい、舞が美しい、囃子が美しい。舞台が美
しい。美の解説には少しも事欠かない、だが能と藝と役との占めてきた遙かな淵源の覗き込まれることは無くなってしまい、能の表現の負うてきた人間の祈りや
怖れや畏みが、おおかた見所の意識から欠け落ちてばかり行くようになっている。死を悼み、生を励ます真意を、能ほど久しく太い根幹とした藝能は、遊藝は、
他に無い。それと識って観るのと観ないのとでは、「能の魅力」は、まるで違ってくることに気づきたい。
死生一如のフィロソフィー。死なれ・死なせて生きる者らの、深い愛と哀情。同じ「美」も、そこから「思ひ清まはり」汲み取る嬉しさに、「能の魅力」を求
めたい。
(ムック『NHK日本の芸能』2000年)
能の鑑賞
「オー、ノー」と咳きつつ偉大な睡魔に、優美な夢をめぐまれる。至福のとき、である。覚めても至福、覚めなくても、至福。能楽堂の見所は至福の寝所でも
あり得て、うれしい。ただ願わくは鼾はかきたくないし、鼾をきくのも願いさげにしたい。
「能」の美しさは、じつに感覚的に具体的なところと、じつに観念的に記号的なところと、みごとに両面をそなえている。最良の「能」というものを、われわれ
は理想として頭脳に持ち合わせているので、目の前の演能が、ただその理想を記号でひきだす引き金の役でしかないという気分のときが、事実、ある。すなわち
退屈しているのであり、望んで睡魔の到来をそういう時は待つ気になる。理想は夢うつつの間にもののみごとに成就され、最良の能を夢に見ることが叶う。ただ
し才能がなければ、つまり「能」の観客として場数や鍛練を経ていなければ、「至福の退屈境」に「理想の能」を夢見ることなど、それは無理である。だが無理
をいつか無理でなくしてくれる凄い能力・魅力も、「能」はもっている。「能」とは才であり、才長けて「能狂い」が生まれるのである。
観世・宝生・金春・金剛の四座に喜多一流が加わって今日の「能」の在ることなどは、ただ知識の領分にあり、それをいうなら、もともと世阿弥の前後に各地
に猿楽能や田楽能があり、その以前に散楽やまた舞楽・伎楽があり、さらには神楽もあった。歌舞があり語りの芸があり物真似の芸もあった。軽業雑芸の伝統も
あった。しかるべき藝能の入門書によればおよその沿革は知れよう、神代の伝承にも遡れば、大陸渡来の歴史にも触れねばならない。芸能の伝統は、芸術の歴史
よりなお深く遠く、人のからだとこころとに根差しているのである。いや人の暮らしにも根差しているのである。
人は、生まれて、死なれ・死なせて、生んで、そして、死んで行く。その全部を即ち「生きる」というのである。生死は縄のごとく、「能」ほど身近に生前と
死後との命の描かれた世界は珍しいのである。神といい男・女といい狂といい鬼といって、「能」に表現される命は、みな、半ばは死に、死にながら生きてい
る。そういう生死を凝視している。それが藝能という「能」の、根源の約束であった。芸能は、もともと、死者の霊魂を鎮め慰める一方で、生者の生活を言祝ぎ
励ます「役」を帯びていた。「役者」という言葉には、死霊に接しながら生者の安穏にも奉仕するという、両面の意義があった。特別の存在であった。その意味
でも「能」はただの芝居や演劇ではありえず、神意を体して人事を祝福するという「役」の藝であった。大地を踏んで鬼神を鎮め、人の世に寿福増長をもたら
す、めでたい役人の芸能であった。「能」の不思議を真実思うのであれば、むしろ世阿弥以後よりも世阿弥以前に「能」を荷担した役の者たちの、久しく久しい
潜勢の歳月を想像してみるのがいい。その根の哀しみを理解しない「能」鑑賞など、見て見ざる惰眠に等しい。
女 の 能
半分しゃべるふうに書くことを、お許しねがっておきます。
もうだいぶ以前の話になりますが、九州唐津の窯を見に参りました。有名な老名人が、静かな日をおだやかに浴びながら、玄関わきのような気軽そうな仕事場
で、ほどよい大きさの壼の形を造っていました。楽しそうに、低声で鼻唄……。壷に片手を入れ、もう片手で撫で慈しむように形を造っていました。あぁ……、
壼や皿を造るのは、深い浅いはともあれ「容れ物」を造るのは、男の仕事なんだ、なんてセクシィなんだろうと、時のたつのも忘れて見ていました。女流陶芸展
の審査員をつとめたことがありますが、叱られるかも知れませんが女の方の造るやきもの・いれものには、どことなし同性愛ふうの、それも不思議と強がった作
柄が見られまして、なかなか生々しいモノがよく出来て参ります。あの唐津のおじいさんが、無念夢想、壷を抱いて鼻唄を歌っていた静かな愛情とは、だいぶ様
子がちがいます。男の性愛が「容れ物」づくりの魅力の芯を成している……。やきものは、男に似合う藝なのかなと思いました。
見当ちがいの話をしているようで恐縮ですが、お能…となりますと、これは元来が「女」のものでありました。それも古い古いお話です。平安や鎌倉なんて話
ではない、遥か神代に遡る話でありまして、あの、天の岩戸のまえで、女神の一人のアメノウヅメが、神隠りした日の神アマテラスの、いわば蘇りを願い祈りま
して、激しくく舞い遊びます。あれが「神楽」の肇めと『風姿花伝』には言われてあります。神楽とはむろん「能」楽の一種、「能楽」の祖型の一つでありま
しょう。観阿弥も世阿弥も、秦氏を名乗っています。ま、ご先祖筋の言われる事でありますから、平成の秦さんとしても、信じておく方が無難なのであります。
言うまでもありません、天の岩戸舞いは、お葬いでの、蘇生を祈る魂呼ばいの一場面であり、日本の「遊び」の起源、「遊」ぶという文字使用の最初の例であ
ります。遊び楽しむという行為が、もともと死者を弔い、その鎮魂慰霊と強く結びついていたことを、古事記の記事は雄弁に証言しています。
もうすこし後の、例の国譲りの辺でも、天つ神々の使者として下界へ交渉に遣わされましたアメワカヒコが、返り言を怠って、国つ神々の世界で呆けている。
頭にきました天上の神が矢で射殺してしまいます。その死を嘆きまして、天上からも地上でも大勢の身寄りが集い寄り、そして「日八日・夜八夜を、遊びたり
き」と記しています。ここにも「遊」ぶという文字がしっかり使われまして、お葬いのさまも具体的に、いろんな「役」まで、書き添えられています。
「歓喜咲楽」の四文字も「えらぎあそぶ」と訓まれていまして、泣き悲しみを演じる役、死者の飲食などに仕える役のほかに、やはり舞い遊び歌う「役」も配し
てあります。あのアメノウヅメの演じていた「役」が、ちゃんと踏襲されています。
このように、「遊・楽」には死者への奉仕、と同時に、死の世界と生の世界との間に立って、死の畏れや穢れから、生者の日常を隔てるという、不思議な機能
つまり「役」が与えられていたことが察しられます。「祝ふ」という、それが本来の意味でありましょう。
「祝」うという文字は「はふる」とも訓まれまして、祝の一字で「はふり」さんといえば、神葬をいとなんでくれる神職の名乗りでもありました。まさに、死者
を「葬る」「ほうむる」という営みと「祝ふ」とは、臍の緒を繋いでいます。
また「いはふ」は、精進潔斎の「斎」の字の訓みでもあります。何故に精進潔斎するか、これまた自然に、死穢を「忌む」「忌まう」避ける、そして、慎み、
身も心も清まはるというところへ、意味や意義が連関してゆくわけですね。
「遊び」の藝の根本は、この「祝ふ」「祝ぐ」ことにありました。ないしは「祝ひの言葉」「祝ぐ言葉」をもって、生と死の世界を、結びつつ、かつ引き離し
て、生と死、それぞれの世界を安堵させるということにありました。「祝言」「言祝ぐ」「言祝ぎ」とはそういう由来久しい意味でありまして、まさにその
「役」に当たる「役者」たちに、一方では、死者の鎮魂慰霊を担当してもらいつつ、他方では、死なれて生きつづける者の立場を、千秋・楽と、言祝ぎ祝っても
らうわけです。そういう「役者」──「能」ある「役者」の家筋が、たとえば「観世」「宝生」「金春」「金剛」「喜多」などというめでたい極みの名乗りをも
ち、また万蔵・万作といい千作・千五郎といい、唐傘の上で土瓶をまわして見せる人が二言目には「おめでとうございます」「ありがとうございます」と祝って
くれるのも、みな由来は同じ、日本の藝能の「祝言藝」たる本筋を今に伝えているわけです。日本の「めでたい」には、いつも死と生との両面に顔を向けてきた
「役」の者たちの「はたらき」が深く関係していたわけです。
能楽の台本であります謡曲は、世界に類のないほど、徹底して「死なれ・死なせ」た者たちの「死者の霊魂」をシテにした創作です。死と死者とが主題で主役
であるという所へ、九割がたのものが歩調を揃えています。鎮魂慰霊の藝能のこれ以上はない典型であり、みごとな達成ですが、それもこれも、アマテラスの死
をいたむ八百萬の神々、わけて女神ウ.ヅメの神楽舞を、起源にしていると見てよろしいのでしょう、あの観阿弥・世阿弥サンがそう言い残しているのでありま
すから、そう言いたいようでありますから、信じましょう。
しかし、それならば、中世このかた現代に至る猿楽ないし能楽を、なんで「女」が主になって演じ継いで来なかったか。これにも、いくらか説話ふうに、理由
らしきものを垣間見せてくれる史料があります。これまた「遊び」という言葉と関わっています。
あのアメノウヅメは後にサルタヒコの大神とご夫婦になり、道祖神かのように信仰されるのですが、その子孫かのごとくに扱われて猿女、猿女君といった呪言と
藝能の女、遊びと伝承の女の系譜がこの世界に生じます。大きくはいわば遊び女、遊君といわれるものの祖型を成した、遊女でもあり藝妓でもあり、性と藝と呪
の各面で死者でもある神にも仕え、また生ける者をも「祝う」ないし「呪う」存在です。今様の歌謡などの世界で活躍している「あそびめ」へと繋がる存在で
す。
しかし、実は女だけにいつも可能な、鎮魂慰霊の遊びではなかったのです。「遊び」には、死者ないし神への奉仕という意味が確かにありましたが、これは、ま
こと身を灼くほど全身全霊の奉仕でもあった。疲労困憊した。たとえば三輪の大神につかえた現世の女性を表現して、「髪落ち体痩みて」と日本書紀にあるので
も分かります。概して死者の霊魂は、丁重な奉仕を欠けば、すぐさま荒ぶる神となって報復しがちであったので、それを鎮め慰める「遊び」は、極限の消耗を強
いられる体のものでした。
こういう話がある。
上古、語り部などというのと同じに、「遊部」という職掌がありました。喪屋に入って死者のために遊びに遊び、ひたすら霊魂を鎮め・慰める役割でした。飲
食から歌舞から不思議の性的奉仕にいたるまで、精魂を尽くして仕えます。あるとき、ある帝の霊が、奉仕に丁重ならずといたく荒れました。たまたま遊部に人
を欠き、急遽女性の一人がこれに宛てられたものの、その女人では、とうてい脅威の死者に相見えるに、気力体力とも不足していると当局に訴え出まして、男子
が、これに代わって奉仕したという記事が残っているのです。これは、あるいは、男子の神主と女子の巫女とへ分業化していった事情をやや説話ふうに言い残し
ている記録なのかも知れないのですが、「遊部」という名義に、たいへん深いものが偲ばれます。
それかあらぬか、からだを張って凄いエネルギーを要する演藝・演能の仕事が、概して、いつしかに男子の専業のようになって行った事情は、確かに歴史的に
も認められる。女がよくするには、まことアメノウヅメほどの神がかりめく体力・気力が、常に必要であったろうと思われるのです、そのことは、今日でも、と
言うより、今日であればこそなおさらに言い得るところでしょう。もちろん例外の実在をけっして否定はいたしません、が、今日、ご婦人の演じられる「能」の
藝は、一般に、よく言って優しく、すこし厳しく申せば、うすく・淡く・やや平たく痩せて見てとれる。いかに、神の来臨・影向に能を奉納し奉仕するのが、女
性の体力・気力にとって過酷なほどのものであるかを、まぎれもなく示してくれる結果になっている。
それがまた、私などには、貴い或る歴史の証言であり、確認であるかのように思われて、しみじみいたします。本来は女のものであったような能を、歴史的に
はいつしか男が肩代わりして主に演じてきた……と、そうも眺めますと、そこに必然も当然も見え、また女の人がそれなりに演じましても、それはそれで死者な
いし神々はきっと喜んでいるだろうと思わせるものが、ある。どこかに、ある。女の人がこれほど強くなって来ている昨今であってみれば、女の能の復権・復活
の時代が到来しつつあるのかも知れない。男の能役者たち、心して良い能を見せないと危ないんじゃないですか、と、ちと口の滑りましたところで終わります。
(「能楽ジャーナル」第18号 1997年7 月1日)
千 秋 楽
ちょっと用もあって若い歌手のレコードをまとあて聴く機会があった中に、小柳ルミ子リサイタルの録音盤があり、どうやら何日か続いたステージのそれが最
終日であるらしく、やや涙声に「今日でいよいよ千秋楽」と聴衆に呼びかけている、のを、おっと思いながら聴いた。
言った当人も、言われたたぶん大多数若い若い満場の聴き手たちも、ごく自然に「千秋楽」を口にしかつ耳にしたにちがいない。またそれほどにこの三文字、
二十世紀も残りすくない日本の国の、およそ九割がたの日本人には耳馴れた言葉にちがいない。
大相撲の繁昌が、この「千秋楽」を全国津々浦々に定着させている。さて意味はと詮議だてする者はなく、もののとじめ、おわりに際して「千秋楽」ととなえ
るらしい風儀に異存を申立てるような人もいない。だから小柳ルミ子ほどイキのいい歌手が口にして、ファンとの別れを惜しみ再会の機を願って「千秋楽」など
と言っても稚い会衆は、なに不思議としないで、合点する。拍手する。
相撲ほど、演歌ほどポピュラーでなくても、例えば一日の番組を「祝言」の謡ではじめるような能の会なら、きっと最後に「千秋楽」の小謡を謡う習慣も、疑
いなく生きている。「祝言」も慶ばしく「千秋楽」も有難い、いい謡だと私などは聴いている。
それにしても小柳ルミ子はどの辺まで意識して「千秋楽」と言ったろう、ひょっとして舞台の人や高座の人が使う「ラク」という言葉を彼女らしい律儀さでた
だ丁寧に言ったつもりかもしれず、そうであったにても「ラク」は「千秋楽」を符丁的に略して言うのであるから、事情は変らない。むしろ問題は、お能の舞台
と相撲の土俵と演歌のステージとに共通して登場して誰にも異とされない「千秋楽」三文字の幾久しい伝来に関わっており、相撲取りも猿楽や田楽の大夫も歌う
たいも例外なく「職人尽絵」に登場する「道々の者」であったからは、この詮索は主題にかなっている。
小さく限れば「千秋楽」は法会の最後に必ず奏した、盤渉調の、舞の手を伴わぬ唐楽の一曲名であり、演劇や相撲など興行の最終日をさすのはその転用という
ことになる。が、なぜ「千秋楽」か。そこに言葉が秘めた魔術的な呪力への信仰があればこそ、物のはじめの「祝言」と同然に、物のとじめにまた立ち返る弥栄
を祈願して、千秋万歳の豊楽を寿ごうというのに相違ない。
古代すでに千秋万歳法師なるものが、広く濫僧償と呼ばれ毛坊主、聖とも呼ばれる人々の中に混じっていた。何を職掌としていたかとは、問う方があまり固苦
しすぎるくらいに、その時分には散楽法師も田楽法師も猿楽法師も琵琶法師も餌取法師も絵解法師も説経法師も、みな似たり寄ったり巷にあふれ、要は田畑での
生産とは根を絶たれ、藝能および信仰を表裏一体に担い歩いていた、もろともに一類の仲間内であった。しかしとりわけて千秋万歳と名のるからは、主には寿祝
の言辞や身振物真似を事とし、或る永遠性ともまた現世利益とも言える冥利を人々に信仰せしめえた呪力を持つ、ないし持つと見られていた者にも、相違ない。
かりに今、相撲、能、演歌と並べて、歴史的には太古、中世、現代という順になろうけれど、これを一括して広く「遊び」と眺めれば、物真似を基本とする、
能の俳優もまた歌謡も、たぶん相撲の起源も、なお天の岩戸の前にまで溯ることになる。今日相撲は国技のスポーツと見られて、演藝とはあまりに遠く思われる
かしれないが、野見宿禰と当麻蹴速の相撲勝貝の名高い伝統が暗に指さすところ、相撲を含めた「遊び」即ち日本の藝能の淵源を指さして逸らさない。
野見は土師氏であり土師と当麻とはともに葬送の礼に関わる家であった。古墳時代、彼らは何より墳墓の用に石材を必要としたが、宿禰と蹴速の決闘は二上山
近在、もともと当麻氏の本貫に産する石を争った古伝の変形と見られる。相撲はいわば彼らが家の藝であり、独り相撲の神事をもち出すまでもなく、霊魂を慰め
るそれは俳優や歌舞音曲と近縁の藝能であった。「遊部」伝承からみても、藝能の遊びは鎮魂慰霊に誠意を尽すことを根底に、幾久しく言葉の呪力を頼んで物の
とじめに「千秋楽」を欠かさなかった、その伝統の一点に「千秋万歳法師」といった名前も残し置いたのである。宿禰と蹴速の太古以来、小柳ルミ子のリサイタ
ルに至るまで、或る精神、或る祈願は明らかに維持されて来た。
表社会、表文化だけが注目されて来たが、脈々と潜勢伏流して来た裏社会、裏文化もたしかにある。その、好事家的でない本格の研究が積極的に必要な機にさ
しかかっていることの、何より雄弁な自己主張を、私は、一群の「職人尽絵」に期待している。「千秋万歳法師」の名は三十二番歌合に見え、「絵解」と相対し
ている。
能の天皇
天皇を中心にした神の国という国体観で、われわれの総理大臣は、厳かに、勇み足を踏んだ。踏んだと、わたしは思うが、思わない人もいるだろう。
能には、神能という殊に嬉しい遺産がある。「清まはる」という深いよろこびを、なにより神能は恵んでくれる。それでわたしは行くのである、能楽堂へ。神
さまに触れに行くのである。
神能に限ったことでなく、数ある能の大方が、いわば「神」の影向・変化としての「シテ」を演じている。そういう見方があっていいと思う。シテの大方は幽
霊なのだし、たしかに世俗の人よりも、もう神異の側に身を寄せている。そしてふしぎにも、あれだけ諸国一見の僧が出て幽霊たちに仏果を得させているにかか
わらず、幽霊が「ホトケ」になった印象は薄くて、みな「カミ」に立ち返って行く感じがある。みなあの「翁」の袖のかげへ帰って行く。その辺が、能の「根」
の問題の大きな一つかと思うが、どんなものか。
能には、神さまがご自身で大勢登場される。住吉も三輪も白髭も高良も杵築も木守も、武内の神も。また天津太玉神も。それどころか天照大神も、その御祖の
二柱神までも登場される。能は「神」で保っているといって不都合のないほどだが、但し、いずれも「天皇」制の神ではない。それどころか、能では、いま名を
あげた神々ですら、天皇にゆかりの神さまですら、それまた能の世界を統べている「翁」神の具体的に変化し顕われたもののように扱っている。イザナギ、イザ
ナミやアマテラスが根源の神だとは、どうも考えていない。或いは考えないフリをしている。「翁」が在り、それで足るとしている。そうでなければ、歴代天皇
がもっと神々しく「神」の顔をして登場しそうなものだが、だれが眺めても能舞台にそういう畏れ多い天皇さんは出て見えないのである。
隠し藝のように、わたしは、歴代天幸を、第百代の後小松天皇までオチなく数え上げることが出来る。お風呂の湯の中で数を数えるかわりにとか、最寄り駅ま
での徒歩が退屈な時とか、今でもわたしは神武・緩靖から後亀山・後小松までを繰り返し唱えるのだが、後小松天皇より先は、全然頭にない。出てもこない。少
年時代の皇室好きも、南北朝統一の第百代まででぴたり興が尽きて、あとは群雄割拠の戦国大名に関心が移った。(現在は百二十五代平成今上まできちんと暗誦
できる。)
観阿弥や世阿弥の能は、この後小松天皇の前後で書かれていたはずだ、が、舞台の上に「シテ」で姿をみせる在位の天子は、たぶん「絃上」の村上天皇ぐらい
で、ま、「鷺」にもという程度ではないか。崇徳も流されの上皇だし、後白河も法皇である。崇徳も安徳も「中心」を逐われた敗者であり、村上天皇ひとりがさ
すが龍神を従えた文化的な聖帝ではあるが、森首相のいうような統治の至尊でなく、いわば優れた芸術家の幽霊なのである。
歴代天皇の総じて謂える大きな特徴は、この文化的で芸術家的な視野の優しさにあった。またそういうところへ実は権臣勢家の膂力により強引に位置づけられ
ていた。その意味で、森総理の国体観は、意図してか無知でか、あまりに「戦前ないし明治以降」に偏していて、
天皇の歴史的な象徴性をやはり見落としていると謂わねばならないだろう。
総理の執務室に「翁」の佳い面を、だれか、贈ってはどうか。
薪 能
昔、つまり学生侍代。絵画でいう「画面」の可能性が気になった。例えば「球」の表面を、一画面として絵画が成るかどうか。ちいさな鶏卵大の球画面を塗り
わけた民俗的な試みなら、無くはない。だが、もっとハイテクを駆使した施設的・動的な大球面への絵画表現には、刺激的な隠れた「問題」「課題」が多かろ
う。だが、残念ながら私の『球面絵画論』は、以来、目立った反応に恵まれないでいる。
同じ頃から、私は、もう一つ「闇」という画面にも強い望みをかけていた。高度の技術開発が伴えば、人は必ず「闇」を画面に「光」で「繪」を自在に描ける
ようになるに違いないと、それが、三十年ほど以前からの、まだコンピュータのよく知られない以前からの持論であった。この方は、名作絵画にはまだ程遠いな
りに、試みが既になされている。但し美学的な検討や追究はまだ十分ではない。
開と光との拮抗、共存、調和は、元始以来、多様な「美」の母胎であった。たとえば、さよう……紫式部。彼女はその機微を把握しながら、古代の「闇」を世
界に、「光」という主人公を設け、彼の微妙な世界の相続人として、「匂」と「薫」の二人を立てて競わせた。その構想自体に、光と匂う、闇と薫る、との批評
的な把握が生きていた。
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる
闇に紛れもない花は梅であり、それは色なく光なくても、芳烈な薫りによって人をたたずませる。と二ろが色ゆえに匂う花桜は、射し添う光をうけることで魅
力を満開させる。つまり、色に匂う匂宮は光の正当の血筋なのであり、色なき薫君は光源氏との血筋を断たれた不倫の闇の子なのである。紫式部の把握、まこ
と、説得の力に富んでいる。
古代の闇は、現代の我々が忘れ果てている底知れなさを湛えていた。闇あっての光であり、光あっての匂であることを、古代の闇を畏怖した人たちは知ってい
た。だから光を招さ、たかく掲げようとした。光は、まこと、闇の奥から生まれるモノであった。
世阿弥の徒ほど、光と闇との相剋と調和を徹して知っていたモノはいない。彼らは半身を闇に沈めながら、光に匂う美の表現に命を削った。それが彼ら根の悲
しみを抱いたモノたちの、町代と社会への身を以てした批評であった。
薪能の魅惑をいう人は多い。人気は高い。それだけ闇の深さや畏しさや美しさを、日ごろ忘れている証拠のようなものでもある。かつての能は、刻限がうつれ
ば必然に薪能であった。と同時に、そこに光りかつ匂いたつモノの来臨を、肌に粟を生じて実感した。光臨や光来の二字は、あだおろそかなモノでない客神(ま
ろうど)の到着を告げ知らせる。薪能の火の光は、たんなる照明では決してない。「匂へよ」と、舞台の能はその光により命じられている。匂うてこそ、美しい
光は、真実闇から生まれるのである。
いつ、どこの薪能をみても、同じことを感じるのだから、私のモノの見方や感じ方は定まっている。モノすごく、モノモノしく、またモノあわれにも、モノさ
びしくも現れて、人にモノ心づかせ、人をモノ狂いさせて来た、モノ真似という能の不思議さ。それは、太古米、光と闇との共演そのものであった。闇に描き出
す光の絵であった。屋内の間接照明、冷暖房完備の能楽堂に取込まれてしまった現代の能のいちばん忘れている、そのような闇の絵のモノ凄さや美しさを、かつ
がつ、思い出させてくれるのが「現代薪能」である。演者も見所も、「光」に、また「闇」に、きびしく問いかけられている。「匂」のある能を創れよと。色よ
き花に匂なくて、風体も、風姿も、何でありえようかと。 (清水市薪能パンフレット 1989年10月8日)
能を楽しむ
能の舞台をみて、何に心をひかれたか尋ねられると、初心の人ほど圧倒的に数多く、「面」「装束」そして「囃子」と答えている。間違っても「仕舞」や「地
謡」がよかったなどとは答えない。
面・装束は見た目に、囃子は聴く耳に、たしかに快いし美しい。それぞれに珍しくもあり、存外に古くさくもない。機会に恵まれて能の舞台を初めて見た人ほ
ど印象的であるらしく、何が何やらわけが分らなくても、とにかく一番の能にねむけを催さないでいられた、目をみひらいていました、美しかったなどと答える
人が、思いのほか多い。
他人事を言うのでは、ない。私自身、能の舞台に初見参のころがそうであった。
女面は、増にも泥眼にも心ふるえたが、まして小面の美貌にはほとほと思い痩せた。あまり美しい小面ゆえに、シテより早く橋掛かりに登場のツレの女を、こ
れぞ主役と思い込んだこともあり、かなわぬ恋をしてしまって夢にもみたことがある。それどころか思い余って清水焼のよく似せた小面を部屋に隠し、秘密のキ
スでいつか唇の紅を悩ましく剥がしていたこともあった。
般若の面でも、すこぶる美しいものとして眺めた。大飛出みたいな異形の面も十分に面白く、好きになれた。『顔と首』などという本を後年に書く種は、播か
れていた。
装束のことは少年にはなにも分らない。ただ見馴れるにつれてある程度は形の見分けも利いたし、役により色や柄の約束のようなものが有るらしいのにも気が
付いた。狂言師の衣装など、軽みもおもしろく剽げた文様も趣味豊かに目に入るようになった。
囃子は、おおかたの例にたがわず大鼓のあのカン高い音色に、まッさきに、肝を奪われた。笛は、習いたくて習いたくて、叶わぬ夢を何年ものあいだ見とおし
た。笛への夢は実はさ切っていないが、いまは小鼓のまるい音色に気が静まる。古道具の店などで時代の鼓胴を見るつど、欲しいなと思ったりする。
それはそれ、たぶんこれも真実であろうと思うが、囃子が佳いという人の半ば以上が独特のあの掛け声に惹かれるのではないか。私などいい年齢をして、日に
何度か気分を変えたくなると、吸わない煙草のかわりに下腹に力を籠めては、「イヤ一ッ」とか「ヨッホン・ヨォ」とか「オォ…オォッ…」とかやっていい気分
で楽しんでいるが、むろん真似ともいえない勝手次第の遊びではある。だが、功徳である。
と、まぁそんな次第で、能が一番、文楽(人形浄瑠璃)が次に面白く、歌舞伎はビリ、などと少年の昔の私はこっそり日記にも書いていた。高校へ上がって大
学にまだ間がある頃のハナシだから、これは、相当のツッパリようである。我ながら、思わず眉に唾する心地である。
だが、まるまる無茶な言い分とも思わない。それどころか物指によっては一に能、二に文楽、三に歌舞伎の順に「好み」の票を投じて、それで是とする文化史
的・様式的・趣味的な基盤は、(説明せよとなると長いハナシになるが)調ってはいる。初心の高校生に、それがどれだけ実感でありえたかが疑われるだけだ。
物指次第でちょうど逆様の順番もつき、高校生ならその方が素直なようにも思われそう…と、いうだけだ。
くわしい記憶は、もはや、ない。しかし一つあの当時、生意気は生意気なりに「俗」で有ると無いとを金科玉条と眺め眺め、それぞれの舞台それぞれの演戯に
エラク厳しく対していたことは、妙に忘れていない。ウソとマコト、夢と現、あの世とこの世、神と人。そういった区別を立ててどちらかに身を置かねば済まな
いような不自由なリアリズムからは、能が最も純粋に解放されていると私は感じていた。「俗」に対決して、いと遠きもの、趣向は豊かだがごく自然でしかも高
貴なものと感じられた。生死の道にしんしんと雪降りつむように、永遠の時空が能の舞台には息づいていた。しかしそれとて、正解とも誤解とも言い切れないも
のがある。芸能として歩んで来た道のりが、能の場合続く二つよりよほど長かったから、堆積した時間の質も量も文楽や歌舞伎よりはるかに世離れているのだと
言えば済むことかも知れないのだった。だがやはり、それだけでは、ない。
わが伝統芸能には、古来求められつづけた役目として、一に「祝う」ことと、二に「清める」ないしそれにより人が「清まはる」ことと、少なくもこの二つの
働きは成すべきものとされた。
千秋万歳、寿福増長、皆楽成就。言祝ぎの芸で、例えば能があることは、四座一流すなわち観世、宝生、金春、金剛、喜多など名のりのめでたさを見るだけで
納得されよう。「祝う」芸は今日の諸芸能にも、明らかに衰弱はしているものの認められる。たとえば「ラク」という言いかたで、よほど元気のいい若い芸人で
も「千秋楽」の伝統にかすかに繋がれている。
だが今日、芸を見せてないし見て、「清める」「清まはる」ということを意識できることは、さすがに稀になっている。どういうことですかと、芸能人にすら
反問されたりする。災厄を「祓う」という行為は、形骸化はしていても例えば初詣でなどで年中行事化しているのだから、全然、過去のことでもない。ただそれ
により「清まはる」即ち、けがれが除かれ心身が清浄になるという自覚は、あまり無い。あまり無いけれど、それでも能の舞台で佳い「翁」や佳い「高砂」など
に惹き込まれるときには、したたか「清まわる」という実感に恵まれる。文字どおりに有難くなる。ただ神能ばかりでなく「田村」のような修羅能であれ「羽
衣」のような鬘能であれ、すべて能には人の思いを無垢にする霊気が内在していて、その点が例えば文楽や歌舞伎より魅力…と、言えばはっきり言えるのであ
る。少年時代から私は、だから能はすばらしい、居眠りしている間にも「清まはる」ことが出来ると思っていた。能の舞台でこそ神的なモノの不思議に出逢える
のを、悦んだ。
その頃、どんな能を私はみていただろう。「高砂」「三輪」「嵐山」「羽衣」「田村」「清経」「屋島」「実盛」「井筒」「半蔀」「松風」「野宮」「三井
寺」「花筐」「桜川」「隅田川」「紅葉狩」「葵上」などが次々に、舞台や演者とともにすぐ思い出せる。花ゆたかに、少年の思いをなるほどもの寂しくひきつ
ける、そして今でも好きな能ばかりである。「自然居士」や、「善知鳥」「鵜飼」のようなのや、「砧」「千手」「蝉丸」などにも出会っていたろうが記憶にな
い。それらも今では身にしみて心に残る好きな能である。しかし一番好きなのは、今言った意味からも「翁」なのは当然である。
ま、思い切って素人は素人らしく能との付合いを語るに落ちて語って来たわけで、特別許されないこととも思わない。が、ここで話が尽きても困る。なるほど
面・装束も囃子も、能一番を形づくる重要な条件に山々相違ない。しかし、それだけで尽されるものでもない。謡い、語り、そして舞う魅力。物真似の魅力、ま
た間狂言の魅力。能本来の面白さの魅力が、工夫も十分に、むしろ主としてそれらにあったと理解するまでには、やはり大分な月謝を払わねば済まなかった。
能が、歌・舞そして物真似の芸から出発して大成したことを、現代の我々はおおかた忘れ果てている。ましてそれを面白いと受入れしみじみ堪能するには、た
だ知識ばかりでは事足りない。どことなく「時間」の魔術で歴史を超え、古代や中世の「感性」なり「信仰」なりに行き着かねばならない。必ずしもラクなこと
ではない。例えば先に触れた、能がただ「祝う」芸であるばかりでなく、その根源に「清め」「清まはる」ための芸質を秘めて来たことなどは、こんな時代であ
ればこそなかなか忘れ果てて意識にも上りにくい。感受しにくい。だが、謡曲の詞章にも節調にも、またそれに即かず離れず舞や物真似の技と面白さにも、ただ
文学ただ音楽ただ演戯とは言わせない、神と人との契約の重みがかかっていて、その重みがはたと有難く身にしみないのでは、所詮「清め」ようもなく「清まは
る」わけもない。なぜ、そしてなにを、能は舞うのか、また謡うのか。面・装束の美しさも囃子の心地よさ・小気味よさも、その根の深い不思議の問いへかか
わって行くことなくて、生きた体験にはなりにくい。ならない。
能を、現代のセンスで演劇として創ろう演じようという批評や実践は、無意味ではない。が、能の「舞う」「謡う」根本を逸れてでは大したことは望めない。
初心のファンが、おおかた「謡う」「舞う」という根本にかえって心を惹かれず、退屈と難解の当然の理由にしか挙げようとしない現代能の現実。能が能の本来
を、歌舞伎や文楽の場合以上にかなり無残に失っていることの、これは弁解しようのない証拠とされて致しかたない。
能は「現代」の「演劇」的変容と成熟とを考えずに済むのかといえば、それは、そうではない。能の陥りやすい落し穴は、外からも内からもとかく安易にもた
れ込みやすい専門知と神聖視なのである。能役者ほど、また能の見巧者をもって任じている人たちほど、かえって能に対する初心の批評や批判ができない。現代
に対応する弾みも用意も乏しい。同時に初心の者はとかく己れの初心に自信なく、尻馬にのって過大に持上げたがる。だが、能には、ことに現代通行の能にはよ
ほど変なところ、おかしなところも有るのである。その変でおかしなところをさかしらに強調して、妙に、現代のまた西洋の前衛劇と能との共通性などをばかり
振回されても迷惑する。
能の魅力などと、安易の言説をつつしむことから、演者も見所も初心で出直したい。
(森田拾史郎写真集『能』序 1987年11月)
蝉丸・逆髪
蝉丸の能には、ごく私的な興味ではあるが、気になるところが一つ二つある。
その一つは、勅命により蝉丸を都のそとへ連れ去って坊主にしてしまう役が、「藤原清貫」と名乗る人物であること。
清貫という人は、醍醐天皇、つまり「延喜の聖代」に仕えたてまつる臣下という以上に、時の権勢左大臣藤原時平の腹心の一人であった。父保則とともに反菅
原道真党の有力な旗振りであった。父子二代していろんな機会に、しかも討って出るように道真の道を狭く狭くする方へ働き、同時代の、だれもがそれを知って
いた。あげく、清貫は、清涼殿を襲った道真怨霊といわれる雷に、八つ裂きに焼き殺されてしまった。と、言うより、彼が爆死すると間髪をいれず「道真怨霊」
ということが朝廷で囁かれ、脅える醍醐天皇を尻目に、亡き兄時平の与党を逼塞させて、弟忠平の勢力が、油が水面をなめるように広がり行く。
「延喜の聖代」というのは、緒についた摂関政治をなんとか確保したい下心で、藤原北家、ことに兄時平の蔭にいながら忠平が着々と地下活動をしていた時代で
ある。醍醐の第三、四の御子かともいわれる逆髪・蝉丸が、その奇病や不具のゆえに巷に棄てられるというのも、見ようでは源氏崩しであった。藤原氏による賜
姓源氏崩しは露骨であった。
もっとも逆髪も蝉丸もただ源氏なみとは見られない。盲い、聾い、足萎え、逆髪、みな不幸な病いゆえに、尋常の人をふかく超えた不思議の力が具わってい
た。蝉丸は琵琶の秘曲を博雅三位に伝えたともいわれる、いわば琵琶法師の祖のような伝説の人であり、才能は盲目という不幸に表裏して想われていた。逆髪
も、また、悠久の民俗に下支えられての、坂神か、ないし塞の神のちからを帯びていたのかも知れない。少なくもそういう不思議を口実に、かえって延喜の聖代
はいわば身体障害者の二人を無用の邪魔者にした。律令体制のなしくずし崩壊過程で弱者の切りすてが用捨なく始まっていた時代への、つまり貴賎都鄙という二
重の座標にあって、賎は鄙へ棄てればよいとし始めた時代への、「蝉丸」という能は、痛烈な批評の意味を負うていた。†
この能の作者は、まさしき蝉丸・逆髪らの無念と成熟とを体した、まぎれもない中世の藝能者であり、名誉の末裔であった。
(朝日芸能文化サロン84 パンフレット 平成3年12月)
葵 上
解説じみた話は避けたい。と、なると私ごとになる。
与謝野晶子訳の『源氏物語』と出逢ったと同じ頃に、能にも出逢っている。大江又三郎の舞った「半蔀」や若き日の観世元正が舞った「羽衣」などが、目にあ
る。戦後間なし、私はまだ新制中学の二年生だった。京都の町なかにいた。
父は若い時分、何かあると地謡にかり出されて、地頭に「扇子で尻をつつかれる」ような稽古をしていたらしい。その余波で券など手に入ったのだろう、私は
よろこんで父の代りに能楽堂へ出かけて行った。父が日ごろ独り謡うのを、「佳ぇな…」と思って聴いていたし、謡本も好奇心からたいがい「梗概」だけは読ん
でいたので、とくべつ背伸びというほどでなく、二、三番の能なら楽しんで見て帰った。面白いとは言えなかったにせよ、たしかに「美しい」とは感じた。この
実感、今も利息の大きい私の財産になっている。
ちょうどその頃、現代語訳ながら『源氏物語』を読む機会に恵まれ、『更級日記』のうら若い女筆者のような惑溺の日々を送った。物語は少年の思いにも十分
面白く、しかも美しかった。その本が人からの借り物だったのを、あんなに口惜しく思ったことはない。
能の台本に、『平家物語』に取材したものの多いことを、私は知っていた。だが、例の「半蔀」や、「葵上」など『源氏物語』から採った能もあること、意外
に数少ないこと、そしてなぜか「仕方のないこと」といった感想を、私は持っていた。なぜ「仕方ないこと」なのか、その辺を押して考えもしなかったが、『源
氏物語』の美と『平家物語』ないし能の美とが、なにか素性を異にして幼い私には想えていたのだろう。
『源氏』と『平家』の「ものがたり」かたも微妙に異なって感じたし、「平家語り」と「能の謡い」との近縁ということも子供心に予感はあった。なにより
『源氏物語』の自然さと能の趣向とでは、美を狙う原理のようなものがちがう気がしていた。
能面の鬼と出逢ったのは、それでも、「葵上」が最初だった。演者が誰だったかなど覚えないが、その能を、嫉妬の表現とは見なかった私の気持ちを忘れな
い。原作では読めてなかったのに、舞台の女に逢った瞬間から、悲しみが極まれば人は鬼にされてしまうと感じた。葵上が鬼ではなくて、光の男心にこそ鬼が棲
むとも、感じた。凄い体験だった。 (朝日芸能文化サロン28
パンフレット)
住 吉 詣
御礼詣りと、よく言ったものである。このごろは物騒な例もあるけれど、それはこの際忘れよう。光源氏と明石君とが、都から、明石から、住吉に詣でて再会
する。ともに深い背後に御礼詣りの意味がこめられていて、御礼の筋にも関わりがある。偶然の出会いではなかったのだ、源氏物語世界を律する運命が、ここへ
また一つ具現していたのである。
光の生母の桐壼更衣がさる大納言の娘であったこと、その大納言の兄弟にさる大臣がいて、その大臣の子が明石君の父親の明石入道であること、つまり光の母
と明石の父とはいとこの仲であったこと、光と明石はまたいとこの間柄になることなど、とくに『住吉詣』という能を見るには知っていていいことである。そし
てこの光や明石の祖父兄弟が、いわゆる藤原氏でなく在原氏なみの多分宮家の血筋をうけていたこと、遡れば皇家の血筋にあったことも、源氏物語世界の構造や
表現の意図からみて、とくに注目されていいのである。
源氏物語が、大きくみて皇宮家と藤家とのさまざまな競り合いを縦糸にしていることは、光が帝の愛子でありながら、源氏を賜って皇位から逸れた道を強いら
れたそもそもから、浮舟を争う匂宮と薫君との葛藤に至るまで歴然としている。そして現実の平安時代には藤家は皇家を圧倒し、道長らのまさに「望月のかけた
ることも無」き摂関体制を確立していたのだが、物語世界では逆に光源氏とその一統が着々と藤原氏に圧倒し、光君は准太上天皇に上り、藤壷や明石や宇治中君
ら宮筋の血をうけた光源氏の子孫が、つぎつぎに皇位・皇権を確保(キープ)しつつ、この世の極楽のような「六条院物語」や「二条院物語」を達成して行くの
である。住吉詣はその華麗にして深切な「序曲」をさながらに奏でている。藤原氏ならぬ光の母や祖父の、明石の父や祖父の、そして皇宮家の、それは久しい悲
願が達成されて行く運命そのものへの「御礼詣り」を言わず語らずに実現していたのである。
紫式部は藤原氏の女であったが、父為時や伯父為頼は、近い血縁で結ばれた例えば村上天皇皇子の具平親王の周辺に文化のサロンを得ていて、彼女もそれを誇
りとしていた。あの夕顔のモデルが親王の寵愛深かった大顔といわれた美女であったのも、角田文衛氏のいわれる如く事実であろう。紫式部が複数の賜姓源氏を
念頭に光君を造型していたのも確実だろう。「光」源氏物語にこめた作者藤原氏が情念の真相は、まだ深い「闇」に隠されてある。この「闇」に潜んでいるの
は、まず、まちがいなく、海の王者龍蛇神であろうことは、物語に占める「住吉社」の大いなる臨在が示唆しており、まさしくこの事に繋がって実は源氏物語と
平家物語は、共通する「海神」の掌の上に成った世界であることも、いずれ正確に論じられて行くことだろう。
玉鬘 噂の姫君
『源氏物語』の楽しみかたはいろいろ可能だが、巻々の好みや登場人物の好き嫌いを話しあって楽しんだ人は、古来もっとも数多かったと思われる。場面や風
情や事件がそれほど変化に富み、また主人公なみに魅力のある主要男女の豊富なことも、作り物語としては群を抜いている。つまり、楽しみがいがある。鎌倉時
代のはじめ頃に出来た『無名草子』などは、そういう批評ないし噂ばなしの楽しみを「本」のかたちにした最初であろう。
「玉鬘」という女性について一と通り知っておくことは、そう難儀ではない。この物語では「光」源氏が第一の主人公なのはもとよりであるが、その幼くからの
親友(亡妻葵上の兄)に「頭中将」(のちに大政大臣にもなる藤原氏)がいて、その彼が元愛人の「夕顔」に生ませていたのが「玉鬘」である。ところがひょん
な経緯から「夕顔」は「光」に愛され、ある晩五条の家から連れ出された先で、にわかにモノに憑かれ死んで行く。「頭中将」はそうした事は全く知らずに、
「夕顔」にも娘にも未練をもっていた。
母を頼りなく見失った稚い「玉鬘」は、理由あって実父を頼ることもならず、そのまま乳母たちに連れられ九州へまで流れ、それは美しく成人するのだが、在
地の男の威しぎみの求婚にあい、からがら都へ逃げのぼって大和の長谷寺に参籠のおりから、今は「光」君に仕えるかつての母の侍女に幸運に見付けられる。そ
して時めく「光」君は「頭中将」に一切秘めたまま「玉鬘」を己が隠し子として引取り、世間へは「にせの親」のまま、内々には美少女相手に微妙にけしからぬ
プレーを楽しむのだが、やがて実父に全てを明し、「玉鬘」は頭中将の子で光君の養女として、後宮に出仕する。しかも予想や期待を大きく裏切り、彼女は、に
わかに「鬚黒」といわれる男の妻になり、子を沢山生む。『無名草子』はこの「姫君」のことを、好感が持てて申し分なく、ことに並び立つ二人の大臣を父にし
ていた重々しさなど高く評価しつつも、つまらない男とそそくさと結婚したりして「いといぶせく心やまし」い、つまり実に不愉快である上に、あの楚々とした
「夕顔」の娘と思えぬ自尊心に溢れて「しっかり」している所は、どんなものかしら、などとやっている。筑紫に下っていたことまで、「余り品下りて」と爪弾
きの種にしている。とは言え「玉鬘」のいない物語の寂しさは想像に余り有り、私など大好きな人である。 (朝日芸能文化サロン69 バンフレット
平成6年11月29日)
清経入水
平家物語のなかで、(覚一本などに限っていえば)平清経に関する記事はわずか八ヶ所にしか出てこない。しかも内六ヶ所はただ名前が出るだけであり、記事
らしいのは「太宰府落」に見えるまさしく「清経入水」の数行分に過ぎない。おなじ入水のことが字句もほぼ同じにもう一ヶ所、灌頂巻「六道之沙汰」で大原の
庵室をおとずれた後白河院をまえに、建礼門院その人の口から、あれぞ「憂きことのはじめ」であったと語り出されている。西国にあってまだ持ち直す力は十分
蓄えながらの「清経入水」は、平家一門にとって容易ならぬ滅亡への先ぶれであったし、直接には、やがて兄維盛の八島を落ちて高野から熊野へ、そして入水死
にいたる小松大臣重盛の「家」の悲劇を、哀韻豊かに導いている。おそらく甥清経とともに長兄重盛の手もとで一時期を育てられた建礼門院にとっては、まこと
「あなあさましの、あへなさや」と嘆かれたのであろう。
清経の実像は、同じ時代のいろんな文献に散見できるとはいえ、それもちらと遠目に姿を見かけたかという程度で、建礼門院右京大夫集に、斎院の中将という
女に飽きて他の女に見かえているような公達ぶりなど、垣間見る程度とはいえ、『清経入水』という奇怪に凝った小説で世に出た私としては、はなはだ有難い記
事であった。
兄維盛の陣抜けを承知していた私は、実は、それをしも弟清経に倣ったのではないか、清経の入水は実はひとり遁走していちはやく平家の陣営を離れ去ったの
ではないか…と、想像したりした。想像じたいが強ちなものであったけれど、そもそもの始めに月明のもと舟のへさきに端座した清経と、海面数間のさきに宙に
浮かんで大あぐらの鬼との「問答」場面を想い描いていたのを思い出す。仕上がった作品は、それから思えばよほど別ものに変貌してしまったが、それでも
「鬼」のようなモノに導かれて清経が戦列をひとり音もなく離脱して行ったという筋立ては変えなかった。
能の「清経」を見たのは、平家物語を岩波文庫で読んだ中学三年よりやや遅かったが、舞台はしんそこ身にしみた。私は根ッからの平家びいきであったし、こ
とに「清」いの一字ゆえに清盛の悪行をも大目に見ていたような少年であったから、理屈抜きに「清経」という名前に、もうすでに惚れていた。あああの清経に
自分が化ってみたい…と思った。
(朝日芸能文化サロン51 パンフレット)
小 宰 相
あわれ尽きない物語が平家物語であるなら、あわれをとどめたのは平家の公達であり、その周囲にいた女たちであろう。優雅の極みを演じてあわれであったな
らいいが、修羅のちまたを、それも負け修羅の血と涙とに染めだされ、浮き沈み、果てて行ったのである。ことに通盛と小宰相のように、人目にうるわしいアツ
アツの夫婦であった場合は、ひとしお、あわれ深い。はじめて橋本敏江さんの平家語りで、小宰相入水の最期を聴いたときなど、泣いてしまった。十六のわが子
知章をみすみす身代わりに死なせ、命助かって御座船に戻った父知盛の、思わず泣いてかきくどく武将のあわれも一圧巻であるけれど、それと双璧をなし「真実
心」に胸うたれるのは、通盛と小宰相の夫婦愛の場面であろう。
ところがこの小宰相が、亡き通盛の父権中納言教盛らとともに源氏の手をのがれ、はるか山陰の陸の孤島ともいわれた僻陬に、安徳天皇を奉じ、余生を完うし
ていたという伝承がある。日本海の波轟く兵庫県下の香住町一円の地であり、その奥地の畑の在である。
「伊賀平内左衛門」といえば、平家物語の要所に顔をだす大事の脇役の一人である、が、その子孫で、平成の今日もやはり「伊賀平内左衛門」と名乗る紳士がお
られる。壇の浦に沈んだと記された平内左衛門もまた、門脇中納言を棟梁に、幼帝を堅く守護してここに逃れ住んだ。そしてその「伊賀平内左衛門」氏らは、ま
ぎれない平家の誇りと伝統とに現に健在で、機会あるたびに香住を、また畑の地を訪ねてくれるよう、お手紙をいただくのである。
もとより伝統的な平家落人たちの、よくいう後裔なのであろう。そういう方々のいわば「平家会」ともいえる広範囲な連絡は現在もよくとられていて、面白い
ことに会の組織は、往昔の官位の高い低いで古格に守られてある。そんな名簿も、微笑ましく目にしたことがある。小宰相の嫁していた従三位通盛の家は、六波
羅本拠の門脇にあった。父は従二位中納言であったから、生き延びた平家の一門では最も高位高官の方で、だから現在の門脇氏も、やはり重きをなしてお仲間の
なかにあることは、じかに文通などもして承知している。山陰の現地へ行けば、たしかに小宰相がその地で帝と運命をともにして果てた遺跡や伝承が採訪・採取
できると、伊賀氏らのお誘いはしきりであるけれど、まだ訪問の約束を果たせないままでいる。こういう話に私は、白い目をむけたりしない。胸の一点に、あぁ
よかったとかえって喜び迎えるものを秘している。平家の時代は何故か懐かしい。
(朝日芸能文化サロン100 パンフレット 平成7年12月12日)
十三世梅若万三郎
京観世の、端の端のほうにかすかに席をえていた時期が、わたしの父に、有った。その父から、わたしは謡という美しいもののこの世に在るのを教えられた。
耳で教わり、やがて望んで口づたえに教わった。まだ新制中学生だった。ながくは続かなかった。が、ことに『花筐』と『東北』とは、謡曲としてよりも文藝と
して、印象ふかくいつまでも心に残った。
近江の湖西、安曇川の辺に想をえて、長い『冬祭り』という新聞小説を書いたときにも、『花筐』の昔が、継体天皇の大和へと苦心の歩をすすめていた大昔
が、影をひいていた。また現存東北院のすぐちかくに、恋をしていた昔の妻の家があった。和泉式部を話題に、ひっそりと、境内のデートを楽しんだ。京の大学
時代は花であった。
そんなふうにして、わたしは、能や謡の世界に、親しむようになった。いまもいうように父は観世流の人で、大江又三郎らの舞台に地謡を勤めたりしていたか
ら、その口から「梅若万三郎」の名前がいと重々しげに出てきても、そう突飛なことではなかったのだろう。だが、なぜ梅若で、なぜ万三郎なのか、父と直接の
縁など必ずしもよく伝わってこなかった。ただ名人だと聞いた。流儀の大きな名前に、父なりの感嘆や感想があったのかも知れないが、具体的な話は聞かなかっ
た。聞いて分かる年頃でもなかった。ただもう「梅若」「万三郎」といういい響きに、少年は、ここちよく聞き入った。忘れなかった。
その当時、大江の舞台へ、ときどき観世元正が来ていた。他流では京都のこととて金剛巌の名をよく耳にした。
あとにもさきにも右の四人の能役者しか名前は覚えずに、高校の頃には、いっぱし、能の大ファンのような顔をしていた。父の先生のたしか溝口桂三という名
前すら記憶朧ろで、まして万三郎は、名前しか知らぬまま、長い時間がわたしの内を流れた。流れ去った。
東京へ出て来てからは、ご縁あって、もっぱら喜多の舞台に親しみ、ときどき宝生流にも足を運んだ。たまたま梅若万紀夫の能を五流能で初めて見なければ、
そしてその後の万紀夫のちいさな蹉きに遭わなかったら、わたしは特に梅若能へは近寄らずじまいだったかも知れない。わたしは一頓挫した万紀夫の才藝が惜し
かった。かげながら、復帰の応援をせずにいられなかった。幸い望みはかない、またよく彼も盛り返して、時に目をみはる美しい能を見せてくれる。おかげで、
わたしは万紀夫の父十三世梅若万三郎の舞台をも目のあたりにする機会を、何度も恵まれるようになった。はたしてこの、万三郎が、あのわたしの父の賛嘆して
いた万三郎と同一人であるやら無いのやら、詮索はせずじまいに、万三郎の最期の舞台まで繰り返し楽しませてもらえたのは、嬉しいかぎりであった。
わたしは、亡き、万三郎の袴能や直面の能が、殊に好きであった。面構えに異色の味があった。万紀夫に、一日もはやく襲名してもらいたい、梅若の舞台がま
すます美しく冴えて匂いたってほしい。
(十三世梅若万三郎三回忌追善能 プログラム)
友枝昭世 鞘走らない名刀
私に、いわゆる能評家のように能をみる備えはない。気もない。その日の能をみに出かけて、いい気持ち、いかにも清まはった気持ちになれれば、それだけで
も、いい。そんなのはこっちの気分や体の調子も大いにかかわることだから、だから、私は、当日の能役者に、なにもかも、いい・わるいを押し付けようと思わ
ない。むろん向こうは本職なのである。よろしく演じる責任がある。しかし、へたはへたで、どうすることも出来ない。やめてくれればいいのだが、生活がか
かった人をどうすることも出来ない。みなければいい。
それでも能はみたいから、だから予告の番組をみてしまう。この人だったらやめとこうとか、都合をつけてでもみに行こうとか。曲の魅力も関係する。どっち
かといえば、曲が好きなら、少々役者が物足りなくてもみに行く。うまくしたもので、その曲の理想のようなものが頭の中に出来ているから、役者がへただと思
えば寝ていても能は楽しめる。けっこういい気分で能楽堂から出てこれる。そういう芸能は能だけである。能はおもしろい。
友枝昭世は、みに行こうと気のはずむ能役者である。能を舞っている姿に、近寄ってちょっと手をふれてみたくなる。演戯にぶあつい弾みがあり、ふれなば消
えんのかそけき魅力よりも、生きもののというしかない力ある感触が、昭世の舞台に、舞台の空気に、いつも見所をはげますほどの波動を生んでいる。たとえ能
では死者や霊異を演じていても、男を演じ女を演じていても、あわれはあわれで、美しいは美しいで、昭世のシテは実に落ち着いてものを言ってくる。花があ
り、実も、落ち着いて熟れてきている。だから手をふれてみたくなるのだろう。「昭世の会」旗揚げの朝長でも今度の江口でも友枝昭世の会は、昭世だから安心
してみに行ける。
友枝昭世とあらたまって話したことはないが、たぶん、この役者の地は、部下に人気のある会社の部長級が、本人にまったくその気はなくても、いつのまにか
もっと偉くなって行く、そういう途方もない普通の人なんじゃなかろうか。鞘走らない名刀のような、能には、そういう天才が生きるのである。
(第2回友枝昭世の会 パンフレット 平成8年5月25日)
文学としての謡曲批評
能評を、ときどき読む。能を観る、なにか有益な参考になるだろうかと。
だが私のような、怠惰な部外者、ただ好きで気分がよくて観ている見物人には、そうそうは役に立たない。
それなりの日本語としては理解するけれど、当日の所演を観ていてさえ、能評の言うところが、あまりに技術的であったり、あまりに観念的・美的であったり
で、ピシャリとは分からない。
演者には分かるのだろうなと思う時も、演者にも分からんのじゃないかと思う時も、ある。極めて特殊な「批評」いや「注文」だなと、文学の作品評などと比
べて思ってしまう。
そんなことを思っているうちに、気がついた。
能の台本である謡曲は、当然のように古典文学全集の配本に一、二冊は欠かせない常連になっている。私の書架にも何種類かの全集が揃い、いずれにも「謡曲
集」が入っている。採られた曲も、あまり違っていない。注釈や鑑賞や解説も、あまり顕著に向きがちがうという風には見えない。
それらを通じて、一つの特色を挙げるなら、古典文学とはいいつつ、「文学」作品として「謡曲」を取り扱っていない。
あくまで能の台本、演能の実際と関係づけて詳細に解説されるか、ないし作者の詮議や藝能の歴史が解説されているに過ぎない。謡曲の一作一作が「文学」作
品として批評されている実例を、ほとんど国文学の世界で、見たことがない。盲点のようにこれが大きな空白になっている。わたしが知らないだけかもしれない
が。
よく「名曲」だといって能を褒めている。
当日の「演能」のすばらしさを褒めていう場合は、ごく率直な称賛であり問題はない。だが、演者のだれそれに関係なく、たとえば『清経』は名曲だとか
『砧』は名曲だとかいう場合、名曲という物言いが示すように、あくまで舞台上に表現された「能」の評価であり、文学作品として「名作」であるやいなやは、
これまで、当然のように人の関心から漏れてきた。問うまでもない、どうでもいいことのように扱われてきた。そう思う。だからか、「謡曲」を文学表現として
一篇ずつ批評しよう、評価し直そうとしてきた人が、まず見当たらない。そう思う。
能のことは、藝能として文化史として、ほぼ隈なく語りまた書かれてきたかも知れないけれど、じつは、謡曲がどういうふうに古典文学として優れているの
か、それとも、その面では不十分なものであるのかなどは、いっこう語られも書かれもしてこなかったのである。少なくとも、現存の謡曲を網羅し、そのような
評価を尽くそうとは誰も努めてこなかった。
それで構わないのかも知れない、能にかかわる人たちの世界では。
しかし、それだけで謡曲のことは事足れりとするならば、今度は、そんな「謡曲集」が、どんな古典全集にもけっこう広い場を占めて来る理由が、立たないの
ではないか。これは「狂言集」にも同じ事が言える。
(「観世」65巻1号 1998年1月号)