枕草子NHKラヂオ放送・エッセイ 等
春は、あけ
ぼの
秦 恒平
* わたしの枕草子 * 参考・枕草子 第一段
* NHKラヂオ放送 春は、あけぼの 1979.8−9
* 一つな落としそ * いはでおもふぞ
わたしの枕草子
『枕草子』は創意と発見の書である。今どきの分かりいい言葉を使えば、オリジナルである。たとえば名高い『徒然草』をまず読んで大いに感心して、そのあと
『枕草子』を読んでみて、おやおやと思う。あれあれと思う。兼好の思索と構想もまたオリジナルに優れたものだが、なお多くをこの平安時代の『枕草子』に負
うている。少なくも取材という形で学んである。
「春は、あけぼの」という巻頭の提唱は、古今に冠絶したこの随筆文学を象徴する、古来極め付けとされている。『万葉集』にも『古今集』にさえも、「春は、
あけぼの」という美意識は表現されていない。昔の日本が、何かにつけお手本にした中国にも、「春は、あけぼの」という把握と表現は無かったそうである。な
るほど、無くてもいい詰まらないものなら、それは無くて当然、無い方がいい。しかし、『枕草子』がはじめて「春は、あけぼの」と打ち出したその時から、こ
の提唱はいわばすべて日本人の心にすぐれて美しく深く落着き、誰一人これにケチを付けた者はいなかったのである。ありがたいとは、文字どおり、こういう事
をこそ言うのではなかろうか。
『源氏物語』と並び称されてきた『枕草子』であるが、同じく古典中の古典として尊重されていながら、ともに大部のものではあり、必ずしも名ほどには広く読
まれてきたとは思われない。『枕草子』を、通して読みあげたような人は、ことに一般の読者には極めて稀というしかなく、またそれだけに「こういうもの」と
ただ通念に頼んでイメージしている人が、数限りなく多い。ところがその「通念」なるものが学者の間でさえ容易に定まらず、喧嘩沙汰にちかいまでゴタゴタを
つづけているの.が、『枕草子』学であるらしい。
まず本文が容易に定まらない。次に成立の現場が容易に再現できない。およそ大別して三、四種類ほどの差のある内容を含んでいる。学者は、「類想的」とか
「随想的」とか「回想的」とかいろんな呼びかたで分類はしてみせるのだが、何故に、そんな一読して表現の異なる内容が順序なく入り混じることになったかと
いった事の説明は、いっこう出来ていない。しかし我々読者は、そういう事も知りたい。もし定かに知ることが今ぶん不可能であるなら、それならば自分で、あ
たう限りの想像を加えて読む自由も読者は持っている。そういう事になる。読書に、たとえ礼節は要しても拘束や羈絆があっていい道理はないのだから。
私が、NHKラジオの古典講読に『枕草子』をと勧められた時、反射的に上のような事を思った。古典の研究者ではないが、幼来の熱心な愛読者ではある。繰
り返し読むなかから自分なりの疑問やそれに対する回答もえて来ている。一人の「作家」として語る以上、率直に思いどおり、かつ誠実にその愛読体験を通して
話してみたい。そう考えそう用意して、昭和五十四年(一九七九)七月二十六日から八月三日までに九時間全部の録音を終え、八月五日の日曜日から日曜日ごと
に九回の放送が始まった。同じ頃、私は学習研究社版『日本の古典』シリーズで『枕草子』の現代語訳をほぼ仕上げ或る程度の自信も持っていたので、放送にも
それを多分に利用したのは、むろんである。
私の『枕草子』観は、今度新たに添えた巻末の「解説」を参照願いたい。
昭和六十年(一九八五)七月二十七日 娘朝日子の誕生日に 秦 恒平
参考 枕草子 第一段
〈三巻本〉
春は、あけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、
紫だちたる雲の、細くたなびきたる。
夏は、夜。
月のころは、さらなり。
闇もなほ。
螢のおほく飛びちがひたる、
また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。
雨など降るも、をかし。
秋は、夕ぐれ。
夕日のさして、山のはいと近うなりたるに、
烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ、三つなど、飛びいそぐさへ、あはれなり。
まいて、雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。
日入りはてて、
風のおと、虫の音など、はたいふべきにあらず。
冬は、つとめて。
雪の降りたるは、いふべきにもあらず。
霜のいと白きも。
また、さらでもいと寒きに、
火などいそぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、
火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。
〈能因本〜三条西家旧蔵本〉
春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
夏はよる。月の比はさらなり、やみも猶ほたるとびちがひたる。雨などのふるさへをかし。
秋は夕暮。夕日花やかにさして山ぎはいとちかくなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつふたつなど、とびゆくさへあはれなり。まして雁などのつ
らねたるが、いとちひさくみゆる、いとをかし。日いりはてて、風の音、虫の音など。
冬はつとめて。雪のふりたるはいふべきにもあらず。霜などのいとしろく、又さらでもいとさむきに、火などいそぎおこして、すみもてわたるも、いとつきつき
し。ひるになりて、ぬるくゆるびもて行けば、すびつ、火をけの火も、しろきはいがちになりぬるはわろし。
〈前田家本〉
はるはあけぼの。そらはいたくかすみたるに、やうやうしろくなりゆくやまぎはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
夏はよる。月のころはさらなり、やみもほたるのほそくとびちがひたる。またただひとつふたつなどほのかにうちひかりてゆくもをかし。あめなどのふるさへを
かし。
秋はゆふぐれ。ゆふひのきはやかにさして山のはいとちかくなりたるに、からすのねにゆくとて、三つ四つ二つ三つなど、とびゆくさへあはれなり。ましてかり
などのつらねたるが、いとちひさくみゆる、をかし。日のいりはてて、かぜのおと、むしのねなど、はたいふべきにあらずめでたし。
冬はつとめて。雪のふりたるはいふべきならず。しもなどのいとしろく、またさらでもいとさむきに、ひなどいそぎおこし、すみなどもてわたるも、つきつき
し。ひるになりて、やうやうぬるくゆるびもてゆけば、いきもきえ、すびつ、ひをけも、しろきはいがちにきえなりぬるはわろし。
〈堺本〉
春はあけぼのの空は、いたくかすみたるに、やうやう白くなり行く山のはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたるもいとをかし。
夏はよる。月の比はさらなり、ねやもなほ螢おほく飛びちがひたる。又、ただひとつふたつなどほのかにうちひかりて行くもいとをかし。雨ののどやかにふりそ
へたるさへこそをかしけれ。
秋は夕暮。ゆふ日のきはやかにさして山のはちかくなりたるに、烏のねにゆく三つ四つふたつみつなど、飛び行くもあはれなり。まして雁のおほく飛びつれた
る、いとちひさくみゆるは、いとをかし。日入りはててのち、風のおと、虫の声などは、いふべきにもあらずめでたし。
冬はつとめて。雪の降りたるにはさらにもいはず。霜のいと白きも、又さらねどいとさむきに、火などいそぎおこして、すみもてありきなどするみるも、いとつ
きづきし。ひるになり、ぬれのやうやうぬるくゆるいもていにて、雪も消え、すびつ、火をけの火も、しろきはいがちになりぬればわろし。
NHKラヂオ放送
春は、あけぼの
一
枕草子といえば、古典のなかの古典。書かれた時代もほぼ同じころの源氏物語とならんで、名前だけは知らぬという人がない。
それと同じに、源氏物語の紫式部とならんで枕草子の清少納言という、つまり作者の名前も知らぬ人はないくらい、あまりにも有名です。
富士山を知らぬ日本人は、いない。名高い、日本のシンボルのような山です。ところがその富士山に登った人が、どれくらい有るでしょう。これは少い──
けっして多くはない。
源氏物語も枕草子も富士山の名高さに勝るとも劣らないけれど、ほんとうに読んでいる方は少いですね。せいぜい学校時代にごく一部分を習った方が、それさ
え、そう多くないはずです。
源氏物語ですと、まだ、谷崎潤一郎をはじめ何人かのすぐれた文学者によるよく出来た現代語訳が行われていますので、そのほうで読んだ方が、かなりの人数
いらっしゃるでしょう。しかし、枕草子となりますと、従来、現代語訳がまるで無かったというのではありませんが、与謝野晶子の、谷崎の、源氏物語といった
上出来の現代語訳はまず無いも同然でしたから、いきおい原文を、註釈つきの、かなり専門的なにおいのする本で読まねばならなかった。ところが、なかなかこ
れが難儀なわけですね。よくよく意欲と辛抱のないかぎりその種の本を頼って、しかも面白く古典を読む、読みとおす、というのは容易でない。
いったい古典にかぎらず、本、書物に「読み方」という規則はありません。ことに古典は人類の、民族の、すぐれた遺産、共有財産であって学者研究者の占有
物ではありません。その読みにしても一少年、一主婦、一サラリーマンがかならずしも大学者の研究や鑑賞を補えないわけではないのです。
一等大切なのは、古典と一読者との深切な対面です。対話です。かならずしも一般化されない体験です。私的な体験であってもいいのです。体験が、どう深切
か真実かを重く見るべきです。むろん誤解、曲解は避けたい。しかしただ知識水準の正解より、血肉となって喰いこむような体験深度での誤解、曲解の方が、時
には当の読者個人を鼓舞し激励し充実させる場合もまま有ることを、高飛車に否認してはならないでしょう。むろん誤解、曲解は避けたい。そのための勉強は、
努力は、古典と顔を合わせる者の支払うべき敬意というものでしょう。私が言うのは、古典のまえで萎縮し逡巡し退却しないこと。そのためにも初心の誤解、曲
解ないし幼稚や未熟を怖れたり卑下したりし過ぎないでということです。
なぜ、こんな乱暴そうなことを言いますかというと、私どもの読みますのが〃言葉〃〃文章〃であり、説明するまでもなく、伝達手段としてけっして万全なも
のでない。その代りに、或いはそれ故に、一語一字一句がいやおうなく相当の含蓄、余情をもち易く、またそれをもたせるように努めてもきたのが、日本語の特
質と言えましょう。漢字その他外来語を利用した熟語をもし別にすれば、純然たる日本の言葉は語数としても想像以上に少い。しぜん一言一句に多くの意味を重
奏させながら、使いわけるということを致します。たんに「はな」と書いて、花・鼻・端などのどの意味をとるか、場合により微妙になります。とり違いも生じ
ますし、どれをとっても朧ろに意味が通じたり重なったり、独り合点して、あとで混乱することもありましょう。
古典の原文は、例えば枕草子の場合などほとんど平かなで書かれていますから、右のような混乱は起きやすく、解釈が生じて、意見や学説が岐れもする。学者
同士でさえ見解がまちまちで定説が出にくい。それもこれも"言葉〃"文章〃のなせるわざであり、そこに一般読者の思い切った発言を容れる余地も、大いにあ
る。
知識の豊富な宗教学者が、必ずしも深い信心に支えられ神、仏と共にいるとは限りませんね。しかし一文不通の人がじかに神、仏の恩寵を蒙り不思議に疏通し
ているという例はむしろ多いのです。古典への対い方にもこれと似た事情が有るのだと、そう我々は思ってみてはどうでしょうか。そうして知識の乏しいことを
思い悩まず、精一杯に自分なりの力と誠意とで、古典の扉を勇気をもって先ず押し開いてみることです。
私も、学者研究者ではありません。むろん学問研究の成果に敬意を払い、学びとるのを躊躇ったことはない。しかし一人の小説家にすぎません。その事実に、
今、とくべつ立ち辣んでもおりません。
それどころか、小説家、いわゆる文士、でありますことが、この際「枕草子を読む」うえで、存外プラスになる点も無くはないと思っています。
小説家は、日々に文章を書いて暮しています。しぜん文章を書く、綴る、際のそれこそ句読点一つ、てにをはの一つ一つ、声に出して読みました場合の音から
音へのつづきぐあいにまで、いわば書き手の心理、生理のようなものは、他人の文章を読みながらでもかなり察しをつけることが出来ます。そんなていどの己惚
れは小説家、作家なら誰しも持ちあわせております。そのていどの自信がまるでないのでは、文筆家は自分の書いた文章すら自己批評できなくなってしまう。
枕草子は、おいおいに申しますが、なかなか一筋縄でくくれない、或る面ではたいそう厄介な古典の一つです。だから面白さもひとしおとも言えるので、こと
に書き手である清少納言の微妙な筆の運びの背後に、彼方に、彼女のとばかり限定できない重層した心理や、場面や、趣味判断を受けとめ、時に多人数の肉声を
聴きとめながら、こまやかに読まねばならない作品なのです。
その点、多少なりと私の、想像力を用いて文章を書いてきた日ごろの経験が役に立たないでもない、と思っているところです。
今一つ、幸い、私は枕草子をこの数年来、かなり熱心に読みかえす機会をもちました。そして、この容易ならぬ古典作品を、私なりに現代語に置き換えてみる
という試みに、時問と精カをかけてきました。この"体験〃をはずみに、先学の豊かな学恩を蒙るのはむろん、またそこに、誰に遠慮もない一小説家、一作家と
しての思い切った読みを加えて枕草子の世界へ踏み入ってみよう、今なら、それが出来るという気がしています。
さて──あなたは、もうはや身構えておいででしょう。枕草子なら、ともあれくじ取らず──「春は、あけぼの」の段から読みはじめるだろう、と。
その積もりではいますが、その前に、どうしてもあなたにご承知いただきたいことがある。幾つか、あります。それを順序立ててあらまし申上げるのが、本文
の理解のため、また、どのような本文を読むかという撰択のためにも、なおざりにできない手続きです。
昔から、或る一対のものを較べまして、どっちが優れているか、劣っているか、或いは、どっちが好きか、嫌いか、といった競いを致します。概して日本人
は、これが好きのようです。春と秋、お茶とお酒、源氏と平家、はては犬と猫、馬と牛、木と竹などと例題に事欠かない。その伝では、源氏物語と枕草子という
のも昔からの好一対なのですね、冗談でなくて。
源氏物語は、光源氏を主人公と立て、理想的な女人や貴公子を数多くとりそろえた長大な物語です。まずは架空の物語です。
枕草子は、いわゆる随筆といわれ、後代の方丈記や徒然草に先立つ傑作とされています。
こう物語と随筆とを並べながら、たちまち一本の物指で優劣を較べたり好き嫌いを競ってみても、たいして有効な議論になりにくいのではないか。
しかし、案外それが為されてきた。今でも、さほどむちゃな話としてでなく、学者でも読者でも両者の比較を試みつづけています。それだけの何かをこの二つ
の古典が、互いに突っぱりあい、持ちあっているらしいとは認めなければなりません。
一つには作者とされる紫式部と清少納言との比較にも、なっているのですね。ことに紫式部が、彼女の日記、紫式部旦記のなかで清少納言の名前をあげて(よ
く知られた話ですが)、ずいぶん辛辣にやっつけている。紫式部ほどの才女が清少納言ほどの才女を痛撃していますだけに、人は思わず固唾をのみます。そして
二人を、自分の眼で、心のなかでつい比較してみたくなる。それには、片端なりと、二つの古典に関する予備知識も必要なわけですが、さすがに、知識なり情報
なりをなにかの本や話から入手するのは、今日ではたやすいことです。本当は源氏物語も枕草子も一度として通読していない人でも、なんとなく紫式部と清少納
言を比較したついでに、作品の方まで品評できたような気がしてしまう。大概は先入主、偏見、受売りで終りますし、突っこまれると綻びるていどの比較です。
たとえば紫式部と清少納言ではどっちが年上で年下か、それとも同年輩かといったことさえ気がつかないでいるものです。同じ一条天皇の皇后定子と中宮彰子
とにそれぞれお仕えした二人だからといった不十分な情報から、いわば同じ職場で、働いている部署だけが違うていどの、つまり同期の女子社員同士くらいに思
いこんでしまう。
私は、これが「源氏物語を読む」機会でもあるなら、こんなことを一等先に話したりはしないでしょう。しかし枕草子の世界は、こういう些末そうな詮索から
丹念に解きほぐして眺めないと、遠近法正しく見渡せないような生まな人間関係、人と人との奇妙な力関係にタテヨコに支えられていて、しかも架空の物語と違
い、大方それは現にその時、その時に実際有った関係なのです。誰は誰より年が上、官位が上、家柄が上といった事実をとても莫迦にしておれない世界なので
す。しかもそういう世界の住人として清少納言は同じ立場の紫式部から痛撃を浴びていたのです。
紫式部が生まれたのは西暦九七〇年、九七三年、九七八年という有力な三つの異説があります。
清少納言のほうにも、西暦九六四年、九六六年、九七〇年、九七一年に生まれたと、これも有力な四つの異説があります。
清少納言がもし九七一年に生まれ、紫式部が九七〇年に生まれていた場合は、紫式部が一つ年上、そして同じ九七〇年生まれの同年ということもありうる話で
す。しかし最も離れた場合は九六四年の清少納言に対しまして紫式部は十四歳も若い九七八年生まれというのもあります。
清少納言は康保三年(九六六)、父清原元輔五十九歳の時の生まれ、という説が有力のようで、概して清少納言の方が、どうも紫式部より四歳から十二歳ほど
は年長であったらしい。
正確な比較が事実上不可能なのですが、この、年齢を較べるということも、想像以上に大事な手続きでして、これを怠っているため存外な思い違いに気づかず
にいることが、とくに歴史にふれる場合には多い。しかも日本人は、昨今とちがい、久しく年長者に対して若い者はある威圧感を覚えて当然という、独特の人間
関係、力関係を守って来ました。そしてこの力関係が崩れる際にも、微妙に年齢差がものを.言ったことでしょう。その好例として、余談になりますが、豊臣秀
吉と千利休との仲が考えられる。あれほどの生きるか死ぬかの対決があった二人ですから、さぞ年齢的にも拮抗し合った、どちらかというと権力にまさる秀吉の
方が年嵩に感じられがちなのですが、利休は秀吉の主君織田信長より十二歳、秀吉よりは十四歳も、徳川家康よりは二十歳もの年長でした。秀吉が信長にはじめ
て仕えた、例の草履取りの頃は、利休はもう彼なりの茶の湯を磨きあげており、信長が本能寺に討たれ、秀吉がやっと山崎で明智光秀を討った頃には、もう利休
の茶の湯は完成の域にまで深まっていたのでした。
このキャリアの差は、やはり二人の仲を結果として緊張させるに余りあったのですが、清少納言と紫式部との場合にも、大なり小なり似た事情がありました。
清少納.言がはじめて定子中宮のいわばサロンへ宮仕えに出たのは、正暦四年(九九三)の閏十月時分と考えられています。そして定子皇后の亡くなるのが
ちょうど西暦一〇〇〇年の十二月十五日、年わずか二十五歳になるならずでした。清少納言がもし九六六年生まれならば、この時数えどし三十五歳で、皇后より
十歳の年長です。しかも定子皇后あっての清少納言でしたから、彼女の宮中での活躍は、およそこの時を最後と見るしかない。
ところで、紫式部が御堂関白藤原道長の娘であった一条天皇の中宮彰子のもとに出仕しはじめたのは、寛弘三年(一〇〇六)十二月二十九日のことでした。そ
して、源氏物語の名高い「若紫」の巻などが宮中にまわし読みされて評判を取ったらしいのが寛弘五年(一〇〇八)の冬時分のことですから、そのことをも記事
の一部にし、また清少納言や和泉式部を批判している紫式部日記の成立は、それよりまだ後ということになります。
明らかに、紫式部と清少納言の宮仕えの時期、枕草子が評判になっていた時期と源氏物語がそうであった時期とは、十年とは違わないけれど、そのていどは
はっきりすれ違っていたのです。紫式部日記は往年の花形であった清少納言が、不幸にもすでに落魄していたらしいことも、塩辛い筆つきで書きとめているくら
いです。
譬えていうと、たしかに同じ一条天皇の「後宮」という会社には就職したけれど、紫式部という後輩が入社した時には、清少納言という先輩はもう退社してい
て、但し、その過去の名声が枕草子という著述(業績)となってまだ残っていた、というわけです。しかも清少納言の所属していたのはいわば定子部屋で、紫式
部の身を置いた彰子部屋とは業務成績を競いあう立場にあり、その熾烈な対抗意識は定子部屋がとうに撤廃されてからも残っていて、一の働き手であった、すで
に身を退いている清少納言に対し、時めく彰子部屋の実力者紫式部は、さながら屍馬に鞭打つほどの敵愾心を隠さなかったと、そう言うことも出来る。
一つには、枕草子のなかで清少納言が、紫式部の亡くなった夫の藤原宣孝について、ほんのちょっと、やや面白ずくの話題にしております。その筆つき、口つ
きが紫式部の気に入らなかった、ということも手伝っているかとは、考えられます。
いったい平安女流文学の担い手たちは、ほぼ例外なく宮仕えの人たちでした。あの小倉百人一首には、僧侶とならんで、何人もの女人が登場しますなかで、女
帝や皇女はともかく、その余の人は、「歎きつつ独り寝る夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」という歌の作者、蜻蛉日記の著者でもある右大将道綱の
母、摂政藤原兼家の妻の一人、を除いてみな何らか官仕えに出勤していた人ばかりです。
ということは、彼女たちは勤め先である公家社会で、さまざまな形で男たちと接触し、その接触の際にきらめく個性や、才能や、また美貌でもって名を挙げた
と言える人たちでもあった。そこに男対女という人間関係のドラマがあったわけです。
しかし、男対女のドラマに先立って、こういう社会では、また余儀ないことに女と女、女同士のさまざまなドラマがくりひろげられざるをえなかった。
必ずしも葛藤ばかりではありません。協力、調和、友情、そしてお互いの切瑳琢鷹もありえました。むろん激越な女の闘いも喧嘩も反目もありえました。才能
に恵まれ一藝にも二藝にも秀で、しかも男に人気があって、容貌も銘々に自負があれば、それはひとしお烈しさのまさる闘いぶりとなり、嫉妬し中傷し誹誇しあ
うなまぐさい間柄にもとかくなりやすかった。
清少納言と紫式部とは、先にも申しましたように、時期的にも、勤めた場所も、スレ違っていた間柄ですから、友情とも反目とも本来は無縁なはずの二人でし
た。清少納言の側に限って言うなら、紫式部の噂、その活躍と名声とを、後年には当然聞き知ってはいたでしょうが、宮仕え時分は、まず念頭にも眼中にも影ひ
とつとどめないような相手であったでしょう。
紫式部にしても、清少納言と面と向った覚えは、たぶん、ない。ないけれども、彼女のいろんな評判に飾られた影のようなものはまだ色濃く宮廷にのこってい
たでしょうし、まして枕草子がつい源氏物語と並び称されもすると、それも中宮(彰子)側と皇后(定子)側との評価や比較にまで及びかねないのですから、紫
式部は清少納言のその影に対し、なにかしら物申さずにおれない、余人にははかり知れない昂りもひそかには持っていたか知れないのです。
妙な言い方をしますと、これほどの二人ですら、こうなるのは、そうならせる社会で公家社会や貴族社会があったから、です。本来、比較にならない二人、比
較にならない二つの文学を比較してしまう、そして、それに興趣をおぼえて楽しむ傾向や素質を、当時の公家、貴族や周辺の女たちがもっていたということで
す。
彼らだけのこととも言えません。大なり小なり同様の傾向や素質を、われわれ現代の日本人もやっぱり、たっぷり頒けもって、それを好んでいるのも事実なの
です。そしてこの「好み」を、春か秋か・月か花かと転べ競べあういわば「合わせ好み」をだいじに腑分けして行きますと、もっともっとていねいな「日本の心
の理解」に近づけるかもしれない。ただ貴族、ただ武士、ただ庶民と限定できないほどそれは、古来、日本人の好んだ問題提起の一つの基本型だからです。
ま、それは今は措きましょう。
このように、宮仕えの女たちは、闘いの場に置かれることで、そこで闘い抜く能力によって男たちからの、その社会からの、評価を受けました。人と人との闘
いだから、武器をもたぬ闘いだから、年齢の差、経歴の差は、だいじにそして微妙に複雑に物を言います。それを一言で、「位」と呼んでみましょう。
「位取り」という言葉を思い出しましょう。位.が高いといっても官位とばかりは限らない。品位も気位も家柄も学問見識も腕力も親の七光も年齢も「位取り」
を微妙にさせます。日本語の「位」という一字一語ほど、奥行も間口もある複雑な鍵言葉はそうザラにはない。政治も経済も人間関係もこの「位」一字でぜんぶ
説明されかねない精神風土に日本人は生きています。
たとえば年はとっていても宮仕えの新参者は「今参り」なとと呼ばれてちいさくなっていました。しかし、この、年のいった新参者に、古参の者にはないとく
べつの或る才能があると、一気に力関係が逆転しないでもない。才能のゆえに幅を利かす、位を張ることが出来るわけですね。清少納言がそうでした。紫式部も
そうでした。二人とも、宮仕えに出たのは相当の年、三十ちかく、ないし三十すぎからの「今参り」でした。二人とも結婚生活や出産を体験していた大人でし
た。この新参者たちは、はじめこそ先輩のかげに身をちぢめていましたが、その期間は短かかったようです。それも家柄のせいではなかった。彼女らの身に備
わった、まさに天才が、大きくものを言ったのです。
さて今一つ指摘しておく必要が、ここに出て来ました。平安時代の貴族社会は、いわば家柄社会へと成熟して行った社会です。ことに十世紀から十一世紀へか
けて、その、成熟の速度がはやまっていた。この事実が宮仕えする女たちの人間関係、力関係に影響しないわけがない。
彼女らにはそもそも名前がない。伝わらない。清少納言も呼び名、紫式部も呼び名です。清、は清原という彼女を生んだ家の、今でいう苗字です。彼女は清原
元輔の娘、清原深養父の曾孫かといわれます。この三人がそろって例の百人一首に名を連ねるという、身分は高くないが、和歌や文学の恵まれた家筋に生まれて
います。紫、はこれは源氏物語の「紫上」という理想の女人を創造した大作家へのいわぱ敬称です。その以前は、また正式にはたぶんずうっと藤式部であったで
しょう。藤は藤原です。彼女の属した藤原は、藤原兼家や道隆、道長ら主流藤原と同じ北家の筋ですが、主流ならぬ支流の、すこしも威勢のよくないむしろ貧し
い藤原でした。父は藤原為時という、和歌より漢詩にすぐれた、やはり学藝畑の中級貴族でした。
彼女らの身分、家柄は、ともに、その少納言、式部という呼び名(召名)が表わしています。宮仕えの女たちは、ふつう出仕当時身依りの男の官位官職を借り
て、名のる習わしです。男たちの身分社会、家柄社会の力関係を、女たちもいやおうなく反映して生きる。
歴史事典などの付録部分によく「官位相当」という一覧表が付いています。官職名と、位階の高い低いとが、どう釣合うかが分かります。
最高の官職、太政大巨なら、正一位または従一位に相当しています。
少納言は、従五位下、つまり殿上人と呼ばれるのにまずは最低の、正一位からかぞえて第十四等の位階に相当します。紫式部の式部という名は、父親の為時が
式部省の大丞だったから、ともいわれますから、かりにそうとすると、正六位下、少納言よりまだ二階級も低い位になります。
二階級とはいいますが、貴族社会で五位と六位との問にはまことに太い線が引かれて、極端にいうと、雲泥の差にもなります。
もっとも藤原為時は娘の紫式部が出仕してほどなく、正五位下に相当する蔵人左少弁にまで昇りますので、まあ、家柄、身分は清少納言も紫式部も追っつ縋っ
つ、どっちもそう高くない。が、低すぎもしない。
そんなわけで、あだおろそかに平安女性の名のりを、ただ記号か固有名詞ふうには読んでおれない。身内の女を、宮仕えのはじめになるべく誇らかな名前で出
してやるのは、これは身内の男の甲斐性というものでした。
以上、こうまで手数をかけて、なぜ二人を見くらべながら、年齢、経歴、家柄、名のりなどについて話して来たかといいますと、枕草子くらい右の事情を直か
に反映した古典はすくなく、清少納言くらいこうした事情をぴりぴり意識していた人もすくないからなのです。
また、大なり小なりこれを気にかけずに済んだ宮仕えの女など、一人もいなかったのが、つまり平安時代、十、十一世紀の貴族社会でしたし、そうした暮しと
美意識とを露骨に、と言ってわるければ典型的に写し取っているのが枕草子だと思われるからです。この何でもないような、そのじつは当時の人が四六時中意識
せざるをえなかったことを、本文を読む前に一つの空気、雰囲気としてはっきり承知しているかいないかは、枕草子というこの古典に接する姿勢として、一等だ
いじな岐れめになる。そう思います。
さあ、それではお待ちかねの「春は、あけぼの」へ進みましょう。但し今あなたが、もし活字本の「枕草子」を用意されているとして、いったいどんな本を実
際にお持ちか、これがたいへん気になる。こういう点が気がかりになるのも、古典の、一つの難儀なところなんですね。
試みに、それでは枕草子巻頭の「春は」とはじまる部分と、次の「夏は」とはじまる箇処に限って、私の揃えている本で先ず読んでいただきましょう。なんと
四種類もの違った本文を私はここに取り揃えているのです。
最初に、能因本と呼ばれる系統の本文を読んでください。
春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
夏はよる。月の比はさらなり、やみも猶ほたるとびちがひたる。雨などの降るさへをかし。
次に、三巻本と呼ばれる系統の本文を読んでいただきます。「春は」の方はほとんど違いがありませんけれど、「夏は」の方の字句が若干増えています。
春はあけぼの。やうやうしろく成り行く山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
夏はよる。月の比はさら也、やみも猶ほたるの多く飛びちがひたる。又、ただ一つ二つなどほのかにうちひかりて行くもをかし。雨など降るもをかし。
次に、前田家本と呼ばれる系統の本文になると、まただいぶ違います。
はるはあけぼの。そらはいたくかすみたるに、やうやうしろくなりゆくやまぎはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
夏はよる。月のころはさらなり。やみもほたるのほそくとびちがひたる。またただひとつふたつなどほのかにうちひかりてゆくもをかし。あめなどのふるさへ
をかし。
すこし説明的に、そのかわり分かりよくなっている、とでも言えましょうか。
これが、最後の、堺本と呼ばれる系統の本文になりますと、もっと変化しています。
春はあけぼのの空は、いたくかすみたるに、やうやう白くなり行く山のはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたるもいとをかし。
夏はよる。月の比はさらなり、ねやもなほ蛍おほく飛びちがひたる。又、ただひとつふたつなどほのかにうちひかりて行くもいとをかし。雨ののどやかにふり
そへたるさへこそをかしけれ。
いかがですか。あなたがお持ちの本は、この四種類中どの系統の本文におよそ相当しているでしょうか。
ともあれ枕草子の名で、大別してじつに右の四類もの本文が世上に伝えられている。そして申上げたいのはその差異が、「春は、あけぼの」の段ばかりでな
く、無視できないまで全篇にわたってそれぞれに大きいことです。当然にも、清少納言の手になる本文が、この四類のどれに一等近かったかというきわめて肝要
な問題がここに生じてきます。同じく枕草子とは呼びながら、こんなにも内容のちがう本文があるからには、どれが原文なのか、原文へ最短距離に近いのかとい
う吟味を経ないわけには行きません。
残念なことに清少納言自筆の原稿、草子、本は、片端も遺っていません。どれもみな後世の人の写本、手から手へ写し伝えた本文ばかりです。写し違いもむろ
ん生じますし、写す人の気働きや勝手や好みで、うっかり、また、わざと本文を変えたり添削したりしないものでもない。そんな実例がまま見られるのも古典の
受難なのですね。
一般に古典の場合、自筆本が伝来していない以上、転写の系統によって本文に異同が生じて、その結果として鑑賞や研究以前にどの写本のどの本文が原文、原
典に忠実か、近いかを先ず決めてかからねばならぬという不可避の作業がついてまわる。誰しも作者もともとの文章で、そうでなくてもそれに近い文章で読みた
いのは当然ですからね。
で、枕草子の場合も、研究の結果やっと、今あげた四系統の本文に整理されたうえで、あとの方で読んでいただいた堺本、前田家本は、すくなくもはじめの能
因本、三巻本にくらべ後世の人の手が加わり過ぎている本、ということに学界の考えもほぼ定まって来ているのです。
そして、能因本か、三巻本か(この名前の由緒来歴は、話をながく、ややこしくするので致しません。固有名詞ふうにご記憶願います)のどっちがより良い本
文であるか、今日でも研究者同士で火花の散りそうな(いささかみにくく聞き苦しいくらいな)議論が戦わされているのです。
ここでは、実際問題として私がどっち寄りの本文で読むのか、あなたにしても、もし原典をひろげながらこの本を読んでいただくというのなら、いっそうこの
点は大切な事前の手続きになります。なにしろ読んで行く本文がまるで違っていては大なり小なり困りますからね。
つまらないことと思われますか。いいえ、こういうところ.が、古典をだいじに読むかどうかのほんとうの岐れめなのです。古典の典という字は、つまりは本
文の正しい、より良い本、本当の本、という意味ですからね。本題に、本論に、本文になかなか入って行かないから、と言って、どうか油を売っているかのよう
に謗らないでください。
思い出してみましょう。この、本題、本論、本文といった「本」は、書物、ブックの意味だけではない。ものの中央に、中心に、中軸に太く、高く、深く、大
きく居坐った物、事、ないしその場処が「本」です。日本の本もこの意味の本。本当の本物、本質、本格、本然を意味する本です。そうした本の本を備えている
書物を「本」と人は呼んで来たし、古典とは、そういう本の本、本当の本物の「本」のことです。本をたっぷり秘蔵し、しかも久しい時間に磨き抜かれた本、そ
れが古典です。私はそう思っています。
その古典中の古典の一冊である枕草子の本文に、どれを見定めるか。けっして、おろそかに考えて済むことでない。
あれもこれも等分に斟酌してという方法も穏当公正であるかと思います。そういう性質の本も可能でしょう。しかしこの本は、ご一緒にではあれ主に私がどう
読むかという本でもある。私は一読者として、そして一小説家として自分の判断をここで下しておかねばなりません。
私は、はっきり選びます。能因本ではない、三巻本をとります。無責任にではなく、たくさんの学説をとにかく読み較べて、その方が妥当と信じての撰択で
す。その経緯や理由をいちいち書き記す必要も、此処では、ないと思っています。ただ次のような点だけはどうかご記憶願いたい。
たまたま第一段のさきほど読んだ部分に限っては、じつは能因本の方が簡潔なのです。三巻本の「夏は」というところ、「やみも猶ほたるの多く飛びちがひた
る」の、「の多く」という一句が三巻本にはあって、能因本にはない。能因本は、「やみも猶ほたるとびちがひたる」となっていて、短い。とくに次の、「又、
ただ一つ二つなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし」という一文が三巻本にはあって、能因本にはない。追加でしょうか。削除でしょうか。それが解明され
れば少くもこの両者、本文として出来た前後関係が分かる。
この、「又、ただ一つ二つ」という部分は前田家本、堺本の両方に存在しています。ですから、この部分を"追加〃と見るなら、三巻本が能因本になかった本
文をあとから書き加え、前田、堺の両本は三巻本に追随したかと言えます。
しかし、最初三巻本にあったこの部分を、あとから能因本が独自の判断で削った。しかし前田、堺本は能因本の判断には随わず、より古い三巻本の本文を踏襲
しながら、さらに言葉を書き加え、書き添えたということも、言えます。
つまり、こんな限られた一部分だけで断定的なことは言えぬという話になる。
そこで枕草子の全篇を入念に較べた研究の結果からみますと、じつは、三巻本にくらべて能因本は、巻頭部分の比較とは逆に本文追加の箇処も量も多めなこ
と.がはっきりしています。言葉を微妙に言い添えている。削いでもいます。したがって、どちらかというと、能因本の方が仕上がりの文章もまるく、分かりよ
く、説明的になって、いかにも描写が行届いている印象をもち易い。一宇一句を現代語に翻訳してゆく場合など、正直のところ能因本の筆使いに乗って行く方が
作業しやすい感じなのです。
三巻本の文章は言い足りないところが多い。また能因本よりくどく言い淀んだところも見え、いずれかと言えば語句のつづき工合にムリが多い。文の脈絡が平
気で途中で逸れて行ったりしていて、逐語的に現代語に翻訳するのに奇妙に骨が折れるばかりか、馬鹿正直な訳をするととても読むに耐えない悪文になりかねま
せん。三巻本には、手におえない悪文、といっては清少納言に失礼ながら、不完全、不十分な尻切れとんぼの文章がわりに有るのです。これは、一字一句にしみ
じみ付きあって、実地に現代語訳を試みた者には、いやほど身にこたえて分かっている事実です。少くも三巻本に限っていうなら、枕草子を一概に名文集と思い
こまれては、訳者は閉口するしかない。
それでも私は断言いたします。三巻本の文章には魅力があると。生き生きと、冴え冴えと、誰かしら息づかいや声音が文章のなかから聴えてきます。極端に言
うと、それは整った「文章」であるより小気味いい「肉声」に近い突出感、迫力を備えているのですね。
三巻本と能因本のちがいは微妙というしかない。短い一段を、参考に見較べてみましょう。
慶び奏するこそ、をかしけれ。うしろをまかせて、御前の方に向かひて立てるを。拝し、舞踏し、さわぐよ。 (三巻本)
よろこび奏するこそをかしけれ。うしろをまかせて、笏取りて、御前の方に向ひて立てるを。拝し舞踏し、さわぐよ。 (能因本)
用字、送仮名、句読点のちがいをこの際は無視してください。すると能因本に見える「笏取りて」の一句だけが、ちがう。「笏」は束帯、つまり公家が公式の
衣裳を着ている際はきまりとして手にもつ物ですね、それ以上の説明は省きます。
官位のすすんだ慶びを謹んで申上げている人ほど、颯爽と、心に迫るものがあろうか、下襲の裾を長くひいて玉座に真向って立つ姿というものは──。敬礼を
し、左に、右に、はでに袖を翻えして、舞い立つばかり喜びを身いっぱいに表わして──。
まアこんなふうに三巻本本文の趣旨を汲みますと、能因本なら「下襲の裾を長くひいて笏をもち、玉座に真向って」と読めばいい。その方がより説明的です
ね。しかし枕草子と同時代人(せまい限られた宮廷社会内のことですが)なら「笏取りて」の一句は尋常な、無くもがなの説明だったかもしれません。
微妙なもう一例を挙げてみます。
月のいと明きに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などの割れたるように、水の散りたるこそ、をかしけれ。 (三巻本)
月のいと明かき夜、川をわたれば、牛の歩むままに、水晶などのわれたるやうに、水の散りたるこそをかしけれ。 (能因本)
ちがいは「いと明きに」と「いと明かき夜」だけ、「に」と「夜」の一字の差でしかありません。
月のそれは明るい夜、車で川を渡ると、牛の歩むにつれて、水晶を割ったように水玉の散ったのが、すばらしかったわ。
こうも読みますと、当然に能因本の本文を現代語訳したことになりますが、じつは三巻本の方を私は一度こう訳した覚えがあるのです。しかしそれでは「夜」
と限定しない「明きに」の「に」が十分読みとれていない。「月があまり明るいので」とも「月のそれは明るい時刻に(思わず誘い出されて)車で川を渡ると」
とも十分取れる。そう取った方が「に」が活きてくる。分かりは能因本が早いけれども、含蓄は三巻本にある。また語勢としても「明きに」の方を私なら取りま
す。「明かき夜」を「よ」「よる」いずれに読んでも、文としてのつづき工合は「明きに」に劣ります。
能因本の方にどうも文章意識がつよい。むろん微妙に相対的な話ではあるのですが、だから、削ってもいい部分と思うと、「又、ただ一つ二つなどほのかにう
ち光りて行くもをかし」といった蛍のようすなどを削るのです。しかし、総じてはむしろ逆に、状況をより分かりやす<説明し限定するための言葉を、能
因本の方が相当量付け加えている。
分かりよく言って、能因本の「文章」と三巻本の「肉声」といった比較の利くところが、この両者にあります。そうなると今後は、枕草子本来の理解として
どっちの方が、より多くもとの枕草子に近いか.が判断されねばならぬことになる。そうではありませんか。
この見極めは「枕草子」を語る際、いわば本質論ともなりましょう。私は、私なりの一つの見解をもたざるをえないわけです。
今一つ──三巻本の方がより当初の草稿に近く(だから不十分も目立ち)、能因本の方が、その草稿に手を入れたいわば仕上り原稿、と言えるのではないか。
そういった一種折合いをつける考え方も有ることは申し添えておきましょう。能因本をだいじに考える学者に多い見解なのですが、この説はやはり三巻本がもと
の姿に近いことを認めていますし、他方、手直し、手入れが本当に清少納言自身の手でされたと判明しているならば、これだと作者自身の仕事ですから、私も能
因本をとります。
余談にわたり恐縮ですが私に『慈子(あつこ)』(湖の本HI)という長篇小説があります。最も多く愛されてきた作品の一つといえますが、この例で言う
と、草稿、原稿、私家版、市販本、豪華限定本、また市販本そして文庫本さらに「湖(うみ)の本」という順序で生長してきています。もし後の人にそのどれで
『慈子』という小説を読まれるかとなれば、最後の「湖の本」版本文に拠って欲しいものです。すこしでも作者として納得できるように私自身で手を加えてある
からです。
しかし清少納言自身が、ではなく、場合によって百年、二百年あとの他人が、三巻本系統の本文に後世の合理的解釈を加えて、文章を調えて行った、というも
のなら、これはどう通りがよく文章も無難になってはいても、枕草子の原形からは遠退いている。能因本には、どうもその恐れ.が強いと私は考えました。あな
たのお持ちの本も、たいがいは、三巻本系統のどれかの本ではなかろうかと推量しています。学界の大勢も出版傾向もおよそはそう動いていそうに遠望できるか
らです。但し、同じ三巻本系統の本文であっても、一字一句ともなると存外ぱらぱらと異同があります。先ほどの例文の表記からもお分かりのように、用字、送
り仮名、句読点など本文により、また学者の判断や好みによってさまざまなのです。(そもそも私の引用文も、パソコンの制約により「オドリ」を「やうやう」
と表記していることも此処で断っておかねばなりません。)それに、むろんどうしても能因本を参照して、適切に推量せざるをえない意味不通の文章もないでは
ない。
私とて、タメ息がつけてきます。こんな前置きは感興をそぎます。
しかし早まっては結局ソンをします。
もし源氏物語を読むのであったら、私は、作者紫式部のことにはそうこだわらず、それより物語の筋、運びに乗ってとんとんと読み進んだでしょう。ところが
枕草子はノン・フィクションの、いわゆる随筆です。それだけに清少納言の生きた現実、場処、環境、人間関係.が大きくここにはとりこまれ、それそのものが
枕草子の内容と言えます。
その辺の事情をあたまから無視または軽視すると、とんでもない誤解に陥る。たとえば枕草子は一種の詩集である、その本文は各段がみごとな散文詩であると
いった贔屓のひき倒しに近い賛辞が呈される。これなど枕草子が全篇、名文の集成だと思いこんだ誤解と一対をなす錯覚にすぎないのですが、私はそう考えるも
のですが、じつはこの誤解や錯覚が従来の枕草子評価の定説に近いんですね。そしてじつは読まざる読者が、それを聞きかじりの知識として受け売りしてしま
う。
間違わないでください。私は枕草子の詩的センスは心からすばらしいと思っています。名文だなアと感嘆する文章もむろん夥しく多いことは重々認めているの
です。しかし、私は、清少納言が詩を、名文を"書く〃気でいたかどうかという根の部分へ眼を注ぎたい。すると、違うナ、というのが私の実感なのです。
これは、枕草子の成立ち論と関わる問題です。大問題です。私は思うのです。考えるのです。枕草子の背後に、生きて働いている魅力は、「会話」の、「対
話」の、「ドラマ」のそれではないかと。
思い切った一つの推測を試みてみましょう。
「春は、あけぼの」の段の、この「春は」の部分だけで試みますが、私は、ここに、一つの呼びかけ、問いかけと、それに応じて答えている幾つもの声々を聴き
とめるのです。問う人は、当然、皇后定子その人です。一条天皇の後宮にあってひときわ気高く奥床しいサロンの主人公、主宰者です。(定子は中宮から皇后に
なった人です。紫式部の仕えた中宮彰子との対比上、差支えないかぎり皇后と呼ぶことにします。)そして答えるのは、その皇后定子に仕えた数多い女房たちの
なかでも、とりわけ才藝や感覚や世智に富んだ、選ばれた何人かです。
さて今日は、四季それぞれに一等美しくも快い特長を、端的に、言葉を選んで挙げてごらん──とでも皇后が出題された。そう想像してみてください。
それでは──用意はいいか。
黙礼は共感の表現です。少納言、そなたの用意もいいか。書記役の少納言の髪がはらりと前へ動いて、では先ず──と皇后定子が口を切られます。思い思い
に、遠慮は無用。そしてそうです、こんなぐあいに、
春は──
「あけぼの」
「しずかに、ものの見えわたるころ」
「とくに山ぎわ」
「ほっと明からんで」
「山はらは紫立って」
「雲も」
「ほっそりたなびいて──。佳いわねえ」
むろん、ただこれくらいでは、なかったことでしょう。百花斉放、そして順不同、口々にもっともっといろんな春の風情が賛美され叙景されたにちがいない。
しかし大勢は、そして最後には皇后定子の選択も揺ぎなく、「春は、あけぼの」と定まったのでしょう。その余は類い稀な名書記役、清少納言の腕前に任された
──。
春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは、すこし明かりて、紫立ちたる、雲の、ほそくたなびきたる。
そして出題と応答とはまた次の、「夏は」「秋は」「冬は」と移って、その場に、想うだにとりどりに美しい四季の情景が美しい言葉で虚空に描き出されたこ
とでしょう。
そうなのです。
枕草子は、少くもそもそもは、こういう情景や状況から直かに生まれ、成立っていた。それは定子皇后主宰のサロンに於ける、いわば、すぐれて趣味豊かな知
的討議なのでした。このすぐれて美的かつ日常的ないわば学習行為をみごとに書記し、整理し、筆録したのがもともとの枕草子の発想、必要、であって、清少納
言はその衝に当っていた、のちに謂う「執筆」の役にちかい、それが専ら彼女の特技を生かした職分であった、というわけです。これが愛読の末に至りついた私
の理解であり、推定です。
「春は、あけぼの」以下の一節は、読んで美しく、想像してもじつにすばらしい。清少納言の息づかいと古代の日本語に脈打つ旋律とが息をぴたっと合わしてい
る。たしかに、さながらの詩と読めそうに、よく書き取られています。
けれど、よくよく感受性を働かせて読めば、これがひとり少納言の独創ではなく、何人かの才媛が思わず心を競いあう発言や花やかななかに緊張したその場の
雰囲気を、「執筆」役の書記者もそこに居あわせて、よく心得ながらの筆の運び、贅を削ぎ足らざるを補い整えてのよく総括された叙述、だと受取れます。行間
からはんなりと重畳して女たちの声、肉声が聴えてきます。その肉声に賢い耳を澄ませ、むろん自分もその中に加わり、そしてよく記憶している清少納言のぬか
りない目配りも想いうかびます。いいえ定子皇后の聡明な美貌までが心に浮かびます。
でも、どうかあなたは今しばらく判断を保留なさってください。ここは枕草子理解の根本に触れるところです。「春は、あけぼの」の段へ読みすすみながら、
今すこし入念に私のこの見解を敷衍してみましょう。
二
春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎはすこし明りて紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
この名高い一節に「枕草子」の魅力は尽くされているという人は多い。いかにも私もその思いを深くいたします。
さて右に挙げてみた「春は、あけぼの」の一節は、以下句読点を極力惜しんで、というより全部省いて表記してみました。試みに『枕草子』と題した市販の諸
本をご覧になれば、じつに註釈者、校訂者によってばらばらに、思い思いに句読点が打ってある実例に出会われることでしょう。その一端は前章に例示したとお
りです。むろんそれに応じて解釈なり訳読なりが揺れ動きます。とくに平安時代の古典には、そういう厄介な読みの揺れがつきまとうの.が常です。
句読点に限りません。本文そのものが、かかる名高い巻頭「春は、あけぼの」の一節ですら何種類にも分かれ、そもそも同文とは思えないくらい、異なってい
ることはすでに申しました。したがってどういう由来、系統の本文を採用するかが肝要な前提になるわけですが、私は、代表的な三巻本と能因本の一長、一短を
見ながら、結局古態に近いものとして三巻本の本文を採るとも申しました。またその選択を支持する私なりの理由として、三巻本は多少読みづらく、書きっ放し
の箇所も多いけれど、そもそも枕草子の原型は、文学作品の文章である以前に基本的に会話文・書記文と受取っているという、かなり思い切った理解を呈示した
のでした。
書記文とは熟さない言い方ですが、よく会議の席で書記役の人がいて各発言を摘録して行きます、あれに近い。少くもあれを下地にして散文に書き直された文
章、という含みをもたせたいわけです。当然にも文章の背後に何人もの発言、その声、肉声、の交錯や応酬をも聴きとろうとする理解です。
枕草子の文章を詩的という以上に、詩そのもののように考えてきた人は、いささかこの本の成立ちに疎い人だと思うのですね。清少納言はそんな文学作品を書
く気でこれを、少くも名辞羅列の類想類聚的な章段を書いてはいない。また枕草子全篇を少納言ひとりの創作かのように、その魅力の全部が彼女の個性や感受性
にのみ負うているように読んでもなるまいと、私は考えています。
枕草子とは、清少納言が敬愛をこめて仕えた定子皇后の有形無形の指導と示唆とで形造られて行った、一後宮の成員が挙げて文化と自然に対するすぐれた感覚
(センス)の集成だったのではないか。それも「枕ごと」という(のちのち言い及びます)形にしてみせた、趣向の産物ではなかったか。
じつは清少納言その人の日記や述懐に類する部分でさえ、ほぼ一つとしてそうした定子皇后のすぐれて大きな掌の外へは、はみ出ていないのです。早々と断定
的に言いすぎるきらいもありましょうが、清少納言の気稟と才能とは、皇后の意図を集約しまた増幅しながら、的確に、清明に感覚の精髄(エッセンス)を汲み
つくし、散文化しえているところに、有る。時には悪文を敢てしながらけっして駄文に陥ることなく、感覚の神妙はあまさず書きとどめている、その、すばやい
執筆の.冴えに、有る。私は、そう見ています。そしてその筆の冴えが、より三巻本の文体に光って見えると読み、それで敢て能因本を退けるのです。
書記文らしい文体を、では、どのように読むか。それが問題です。そもそも清少納.言の手で書記されるような話柄、話題が実際にとりあげられる状況とは、
どういうものだったか。前章の末尾に近く、すこし大胆に想像を加味して言い及んでおきましたね。私は、「春は、あけぼの」と成るまでを、いわば「春は」と
いう"問〃と、「あけぼの」という"答〃があっての清少納言の"書記" "まとめ" つまり執筆と推量し、理解したのでした。
ごく普通に、一条天皇の御代には相前後ないし時を同じくして、三つの有力な女文化の集団、サロン、が有ったとされています。順不同にいえば、一つが大斎
院と呼ばれた選子内親王のサロンで、和歌の贈答を中心に、すぐれて優雅な文藝的雰囲気を特長にしていました。今一つは一条天皇の中宮彰子が率い、父道長が
精一杯後見を惜しまず、言わずと知れた紫式部を中心とする源氏物語づくりで後世に評価されたサロンです。紫式部日記によれば、優雅で気の利いた男たちの楽
しませかたでは、大斎院のサロンに一目置いたらしい。
そしてもう一つが、皇后定子のサロンなのはむろんで、道長および彰子中宮のサロンが賑わう時分には或る政変の渦に巻かれて、定子の兄伊周さらに亡父の関
白道隆の勢威はほぼ地におちていました。
清少納言はその栄華と凋落とを時期的にまたいだ約十年をこの定子皇后のサロンに身を置き、皇后への以心伝心のみごとな奉仕の結果として枕草子を世に遺し
たということになります。枕草子はいわば定子のサロンが他に誇ることのできた特長を、さながらに体していた、表現しえていた、産物なのですね。
ではそのそもそもの特長とは何だったでしょうか。機智と感覚にすぐれて秀抜な日常の挙措、言動、応対に、女文化の気稟の清質を十分発揮できるよう、そう
した躾の質の佳さで、参集する宮廷の男たちを感じ入らせてその敬愛を自然当然に受けるちから、とでも言いましょうか。身についた文化の魅力と言いましょう
か。定子皇后の気品と教養がよくよく本物の深さを備えていた証拠として"文化〃が"暮し〃に溶けこむことこそ大切という、高度の貴族的認識がこのサロンに
は生きていました。
むろんそのためにもそのような日常は、実績として、また規範として、また備要としても適宜に記録され、構成員誰しもがいつでも参照できるといった用意が
必要だったでしょう。さらにはふだんに内輪の話し合いを通して、よりよく深められ、よりよく選択され洗練されつづけていることも必要だったでしょう。
センスに恵まれた幾人もの女房が、折にふれて定子の御前に集い、四季自然の風光を戸外の風のそよぎや光の動きに微妙に肌に感じながら、さまざまないわば
皇后"提出題〃に対し答えつづけていた情景を、私たちは想像してみたいものです。「山」なら、「虫」なら、「花」なら、「物語」なら。おのずと歌や物語の
「枕ごと」を蒐集するかのようでありながら、他方、人に指をさされまいふだんの躾につながる会話術への、それはまことに周到な用意でした。交際術への丹念
な訓練でした。その用意、その訓練の積み上げ──それが彼女らの文化、まさに「女文化」でした。
ここが、だいじな場面です。繰返すのをお許し願います。正暦(九九O─九九五)、長徳(九九五─九九九)、にわたる某年某月の某日、その日もまた皇后坐
所のまぢかにお気に入りの女房が何人も参仕し、清少納言もまじって、定子の今日の"出題"を心待ちにしていた──そういう情景を想像してほしいのです。
それは勉強でもあり遊戯でもあり、それ以上に誇り高い楽しみでした。出題にみごとに応じることが、さながら文化を、私のいわゆる「女文化」を、みずから
創り出すことを彼女らは無意識にもよく承知していました。定子のサロンは、そういう雰囲気で以て秀れた公卿たちの熱い尊敬をかちえていたのですから。
今日は、四季それぞれに、一等美しくもこころよい時刻を、刻限を、ごく端的に、ことばをえらんで挙げてごらんなさい──とでも皇后は仰言ったにちがいな
い。
それでは──。
春は──
「あけぼの」と、一人がすぱッと口を切ります。すると、
「しずかに、ものの見え渡るころ」と、受ける者がある──。
「とくに山ぎわ──」と誰かが一歩を踏みこみます。そして次々に、
「ほっと明からんで」
「山はらは紫立って」
「雲も」
「ほっそりたなびいて──佳いわねえ」
共感の嘆息がおのずと一座を美しくも幸せな空気で満たします。皇后と、書記役清少納言の視線が光を放って交叉する一瞬があり、──次へ、今度は「夏は」
と問いかけの声が響きます。
前章でも申しましたが、むろん一度で右のようなぐあいにまとまったとは考えられません。一種のブレーン・ストーミングです、口々にもっともっと多彩な春
の風情が賛美され、叙景され、その中から主に"時刻〃を枠組にして厳しい選択、陶汰がなされた末に、結局は一座の誰もが、とくに皇后定子がすぐれて象徴的
に「春は、あけぼの」に極めをつける。と、その線で清少納言が簡潔に文章にとりまとめたのでありましょう。
春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこし明りて、紫立ちたる、雲の、ほそく、たなびきたる。
みごとなものです、が、このみごとさ、清少納言ひとりのみごとさではない。清少納言にこうも書き表わさせた、定子と女房たちの息の合った、のびのびと遠
慮のない会話、対話のみごとさ、優しさ、美しさが分厚い下地に、リアルな背景に、なっている。
枕草子には、こういう理解をもって接しませんと、とてもその面白さが十分受取れそうにない、ただ名辞の羅列としか見えない段、類想類聚的なといわれる段
がいっぱい有るのです。これまでそういう各段は、本当のところどう受取りどう読めばいいのか、よくつかめないまま、あいまいな評釈や煩わしい語釈ばかりが
なされて来た。
ところが、それらを定子皇后の「……は」「……のものは」という「出題」に対し、女房たちが簡潔に、打てば響いて答える声、肉声と聴きとりますと、一見
味気なかった名辞の羅列が、たちまち生き生きした応答となり、さまざまに奥ゆかしい情景を甦えらせてくれます。
試みに岩波文庫『枕草子』の第二五〇段を書き抜いてみましょう。
降るものは 雪。霰。霙はにくけれど、白き雪のまじりて降る、をかし。
これを私は、右の理解に則して「降るものは、(と仰せに)」という気味に、皇后定子の出題と読むのです。すると続く名辞は、間髪を容れない答えになる。
「降るものは」と仰せに、
「雪」と誰かが答えます。と、
「霰──」とまた誰かが言います。
「霙は気に入らないけれど、白い雪のまじって降る感じは、おもしろいわ」
答え方の短い人がある。長い人がある。上手に註釈もつけ感想もつけ加え、時には議論にも及ぶ人もある。そしてその一つ一つが仲間同士の批評の対象にな
り、優劣が比較され、最後に、皇后が選択され、結論めいたものが出る。出ない時もある。
いずれにしても、文章へのとりまとめ役は清少納言であったのです。こう分かち書きしてみてもよかったわけですね、
降るものは。
雪。
霰。
霙は憎けれど、しろき雪のまじりて降る、をかし。
これが、彼女たちの、或いは定子の、或いは清少納言のえらんだ、空から降ってくるもので感覚的におもしろく、美しく、心にしみるもの──であったわけで
す。
二た組に分かれて競い合う競技などではなかったと思います。むしろかように学習ともいえる機会は、ひっそりと、心知った同士での秘密会議めいた検討会、
合評会ででもあったはず、これを私は、一種、きらめく感覚を競い合った響宴(シンポジウム)──歌合せや絵合せならぬセンス合せだったと想う。言いかえれ
ば即ち、「枕」合せ──。
「枕」合せとは、妙な言いようですね。しかし、それならそもそも「枕草子」というこの題にも疑問をもたねばならない。
事実、枕草子が源氏物語と竝んで、ふしぎに日本人に親しまれる古典の題目であるのには、この「枕」という、ごく日常的に馴染んだ単語がいくらか役割を果た
してきたはずです。私もまた枕の代りにもすればいい草子、本、というくらいに謙遜った書名なのだろうかと、思ったこともありました。本を何冊か積んで枕に
することは、白状しますと、今も、仕事の合間につい有ることでして。ですから、枕草子の「枕」と寝む時の「枕」とは、まんざら無関係でもないでしょう、
が。「枕合せ」という時には、寝む時の「枕」でなく、ちょっと熟しませんがつまり言葉としての「枕」──事実「枕ごと」という言葉がある、それを考えねば
なりません。
「枕」は、さすが人が頭をあずけて安んじて寝るものゆえ、かなり含蓄に富んでいろいろの意味に転用され熟語化される言葉ですが、「まくらごと」にも漢字を
あてて「枕事」と書けば日常茶飯事、ないし話の種を意味するし、「枕言」と書けば、常々に口にする言葉、口ぐせに言う言葉、ないし何かの際に引合いに出し
根拠としてよりかかる言葉を意味します。何かというと「神さまだけがご存じさ」と片付けてみたり、「此処だけの話だがね」と声をひそめたり、「捨てる神あ
れば拾う神もあるというぜ」と引合いに出すのは、つまり枕言が利用されていることになる。
これとは別に「枕言葉」ともいいますが、これにも学校で習います「久方の(光)」「ちはやぶる(神)」「あしびきの(山)」など、特定の言葉を引き出し
ますためのいわゆる冠辞のほかに、寝物語のことも、またたんに前置きの言葉をも意味します。
「枕合せ」とはつまり「枕事」「枕言」「枕言葉」のいずれの語感をも重ね持ちながらの言葉合せでもある。
そこで、もう一度「降るものは」をとりあげましょう。三巻本系統の本で、私が一等良いと考えて使っておりますのは新潮日本古典集成『枕草子』です.が、
それだと第二三二段に当ります。
この、段の分け方も、岩波文庫ですと同じ系統の本なのに、さっきも申しましたように第二五〇段になっている。本文の異同と同様これまた校注している学者
の見解で、まことにバラバラなのです。手近な或る学者の三巻本では第二三九段になっています。また成る能因本では第二二六段です。同様につづく「雪は」の
段まで含めて第二三五段にしたものもある。第二四〇段という本もある。手当り次第に市販の諸本を手にしてこの為体です。ご存じの「徒然草」も各段に後世の
学者が区分していまナが、それは現在二四三段に分かち、どの本でも共通しています。「枕草子」研究がまだ不十分なのだといえばそれまでですが、学者同士の
協調もまるでできていない。
そんなわけで私が第何段と申上げてもあまり意味がない。仕方なく、新潮社本をもとに、ともあれ岩波文庫本の段数も二五〇段というふうにとり添えて申しま
す。
まったく煩わしい。たしかに同じ三巻本系統でもまた一類二類三類と微妙に本文の違う異本がたくさん伝わっていることは分かります。が、せめて同系統の本
では、段の分け方くらい学者間で申合わせてもらえないか「徒然草」のように、と、一読者として注文をつけておきます。
さて第二三二段(岩波文庫第二五〇段)を今一度私はこう訳してみます。
降るものは(と、仰せに)
雪。
霰。
霙は気に入らないけれど、白い雪のまじって降る感じが、おもしろい。
降るものとしてはふつう「雨」が先ず考えられますが、雨は採っていない。霙には雨の感じがまじりますので、それで「憎けれど」と半分否定しています。し
かし雨気ばかりでなく雪のまじって白く見えるのも霙なんですね。で、その雪の感じを引き寄せて「をかし」おもしろいとも評価する。やはり「雪」が何かにつ
けて風情よく、佳いと感じているわけです、降るものの中では。
しかし次のようなことも読みとってみたいものです。「ふる」と読んでも聞いても当然のように降雨、降雪の降という漢字をあて、「降るもの」をまず考えま
すが、物事が古くなる、古くさくなる、また、年をとる、老いる意味の「古る」ということも、清少納言の昔なら人は考えずにいなかったでしょう。
すると彼女たちの思いには、あの小野小町の、「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」という秀歌など.がきっと甦ったことで
しょう。「世にふるながめ」には、降る長雨と、ぼうやりたゞ年をとって古びて行く自分という、二つの意味が重ねられています。「花の色」とは咲いた花の色
香であり、また女としての若い身空をも謂っています。
つまり、雨が降る、我が身が古りゆく、という連想の型がつくられてしまっていたのですね。だから「雨」は気重くて、挙げたくないのです。そこまできちん
と押えているところが、彼女らにすれば教養であり、素養であり、つまりモノが分かっているということであるのです。
そして、自然の勢い、話題は「降るもの」の中でも特に好ましいとされた「雪」へ集中します。岩波文庫ですと第二五一段、古典集成本では第二三三段へ移り
ます。
雪は、檜皮葺、いとめでたし。すこし消えがたになりたるほど。まだいと多うも降らぬが、瓦の目毎に入りて、黒う丸に見えたる、いとをかし。
時雨・霰は、板屋。
霜も、板屋、庭。
文庫本では改行もなく、ただつづけて組んであります。おそらく原文でもそうだったでしょう。
清少納言はこんなふうにまとめた、と、すこし語を補って私は訳してみました。
雪は(と、仰せに)
檜皮葺の屋根に降ったのが、とてもいい。
(その場合)すこし消えがたになったころがいい。
まだそうたくさんも降らない雪が、瓦の目かどに吹き溜って、黒う丸く見えたのが、とてもおも しろい。
時雨、霰は、板葺きに。
霜も板葺きに。
そして庭に。
板葺きとは板そのものを葺いて、石などでただ押えた質素な屋根ですね。
ところでこの一段、同じ一つのことだけをつづけて言ってはいない。雪は檜皮葺きに降った風情がいい、と言い、次にはあの黒い瓦のかどかどに翳のように
なって雪がちいさく丸く吹き溜っているのがいいとも言っている。こういう、趣旨の違ういわば発言が一つの文中に何の説明もなく居竝んでいるのは、そのうし
ろに、「雪は」ないし「降るものとしての雪の面白さは」と出題し、質問した人へ、幾通りもの答えが集中しているからと理解して、すらりと納得できる話では
ないでしょうか。
また、はなやかな、優美な、奥ゆかしい後宮の一室で、このように出題が試みられ、美しくも才もある女たちが思い思いに洗練された感覚を、適切な表現にか
えて口にしあい、批評しあっている情景、自身それに参加しながら、その応答を的確に記録し、整理して要領をえた文章におきかえて行く清少納言の執筆者とし
ての大きな存在──そんな経緯を想像しながら、かように読んでこそ、平安王朝女文化の奥へまで、今日の我々も踏み入って行けるのではないでしょうか。
ところがそこまで踏みこんで想像し推察しないできたため、ただ清少納言ひとりの才能にすべてを負うたこれを一の文藝作品とのみ、久しく誤解して来たので
はなかったでしょうか。
文藝にはなるほど違いないが、枕草子の、ことにこの「──は」「──の物は」といった、いわゆる類想的章段では、後世の連句、連歌に先立つような、一座
あっての清少納言の文藝文才が生きていることを忘れてはいけないでしょう。名書記役と私が言うのはその意味なのです。
さて──雪は音なく降るもの。それが檜皮や瓦に、しっとり吸われて降り積む風情を佳いと見ている。まだ嵩が降らぬうちの瓦の目かどに白う溜った雪を、
「黒う丸く」と見る心持のこまかさ、たしかさ。「白う」と眺めては「目かど」のかげが映し出せずに平凡になりますね。瓦の黒さをさながら吸いとっている雪
の透明な柔らかさが、美しく生きて表現されています。
そして、時雨、霰がほんの暫くのあいだ、ぱらぱらっと板葺きの屋根を打つ音が佳い。長くては騒がしくていやなんですね。だから、長雨でなく、時雨と言っ
ている。
霜の白さは、黒い瓦や黒ずんだ檜皮屋根でより、堅くかつさつぱりした板の上で光る方が佳いと見えているのも面白いですね。そして、庭の霜は庭木や庭土の
色を引き立てる、と言う。
霜は置くもので、降るものではない。だからこの段と先の「降るものは」の段とは、分けたほうがいいという古典集成本の校註者萩谷朴氏の見解に私は賛成な
のです。
ところで、ここの、
時雨・霰は、板屋。
霜も、板屋、庭。
などというあたり、書きっ放しの感じですね。「霜も、板屋、庭」など、とくに。
それででしょうか、能因本はここの「庭」一宇を落ちつかないものにして削除しています。さらに、前段の「降るものは」からひっくるめて、文章も次のよう
に変えてしまっています。
降るものは雪。にくけれど、みぞれの降るに、.霰、雪の真白にてまじりたるをかし。
檜皮葺、いとめでたし。すこし消えがたになるほど。
おほくは降らぬ.が、瓦の目ごとに入りて、黒うまろに見えたる、いとをかし。
時雨、霰は板屋。霜も板屋。
まるく、うまく、「降るものは」と「雪は」の両方を折衷しています。手を入れた感じに、全体に説明的な文章になっている。三巻本の方が、さっぱりしてい
ますがかなり書きっ放しで、どこか荒っぽく、よく言って簡潔、わるく言えば舌足らずなのと、いい対照と申せます。
しかし、どっちが枕単子本来の雰囲気に近いか、清少納言本来の筆づかいに近いかとなると、確証こそありませんけれど、三巻本の方に私はきりっと光る気稟
の清質を感じとっています。悪文めいてはいても、悪文即ち駄文と言い切れない筆の冴えを、そこに私は感じとっています。
と同時に、たったこの一段をとっても、そこに清少納言ひとりの感覚を超えた何人もの女房たちの精一杯の肉声が響いている、そういう文章に三巻本の本文は
なっているなと私は読みます。しかもこの読みの真の要に位置し統合している主宰者は、言うまでもない定子皇后その人でなくて誰でありえたでしょう。
一条天皇のこの皇后は、清少納言によれば、完壁の教養と人格を備えた、すぐれて理想的な女人でした。しかも貞元二年(九七七)の生まれですから、清少納
言より十以上も年は若い。これも、しっかり頭に入れておく必要があります。清少納言ほどの才能が、それほど若い定子に全人格的に敬意を払い感嘆しているの
ですから、話半分にしてもたいした女性でした。
一条天皇の御代は、寛和二年(九八六)から寛弘八年(一〇一一)まで続きます。
ところが前にも言うように、定子皇后はちょうど西暦一〇〇〇年の暮に亡くなっている。つまり皇后定子と中宮彰子とが一条の後宮に並び立っていたのは、長
保二年(一〇〇〇)のたった十ケ月間でした。それさえ定子方は昔日のはなやかさを失い、よほど寂しい空気にうち沈んでいました。そのあげく二十五歳で皇女
を出産のあと定子は亡くなった。二十五歳というこの若さは銘記すべきものです。
かくて定子サロンの絶頂と彰子サロンの栄華とは、したがってまた清少納言と紫式部の活躍とは、時期的にちょうどスレ違っていました。これには時のめまぐ
るしい政権交替の渦巻が関係し
ています。枕草子の上にもそれは深刻に反映しているのですが、そのあたり今は措いて。試みに、或る本の、或る方の、「奉は、あけぼの」の現代語訳を読んで
みましょう。
春は、あけぼの。だんだんあたりも白んでゆき、山の稜線をきわ立たせてほんのり明るくなった空に、紫がかった雲の細くたなびいた風情。
これでは、どうも──というしかない。これでもいいのか、悪いのか。いったい何が何だというのか。要するに感心しようのない文章です。が、逐語的に現代
語訳すれば、誰の手にかかってもこうなるしかない。むろん私がするにしても、同じです。つまり「春は、あけぼの」も、「夏は、夜」も、「秋は、夕ぐれ」
も、「冬は、つとめて(翌る朝早く)」も、じつは現代語訳という作業を厳しく拒否していると言っていい。人は、これをぜひとも原文でくりかえし音読し、黙
読し、また音読して、独特の発見に富んだ自然観照のすばらしさに、直接に、参加するしかない。その代りに、私は、かって言われたことのない発想で、この
「春は、あけぼの」等の背後に、前にも言った後宮女文化の誇らかな肉声を聴きとろうとしたのです。
改めて第一段をよく読んでみましょう。声に出して、ゆっくり、それも極力文節に句切って音読してみて下さい。なぜかと言うと、これも難儀なことに、古典
の原本写本に便利に句読点がついていることは、むしろ寡いんですね。お持ちの本にかりにきちんと句読点がついていても、それはその本の編者、校訂者の見識
や解釈で便宜につけてあると見ねばならぬ。自然、人が変れば句読点にも違いが生じます。その違いは、意味の違いにさえなってあらわれる。句点や読点の打ち
どころひとつで散文の意味や文脈がこまかに揺れる。
それならいっそ、句切れるだけこまかに句切って、読み、その一句一句に、例の"出題"に対し"返答"している、一人一人、一つ一つの声を聴きとろうかと
いうわけです。
春は あけぼの やうやう 白く なりゆく 山ぎは すこし 明りて 紫だちたる 雲の ほそくたなびきたる
夏は 夜 月の ころは さらなり 闇も なほ 蛍の 多く 飛び ちがひたる また ただ 一つ 二つなど ほのかに うち光りて 行くも をかし
雨など 降るも をかし
秋は 夕ぐれ 夕日の さして 山の端 いと 近う なりたるに 烏の 寝どころへ 行くとて 三つ 四つ 二つ 三つなど とび 急ぐさへ あはれな
り まいて 雁などの つらねたるが いと 小さく 見ゆるは いと をかし 日 入り 果てて 風の音 虫の音など はた 言ふべきに あらず
冬は 早朝 雪の 降りたるは 言ふべきにも あらず 霜の いと 白きも また さらでも いと 寒きに 火など 急ぎ おこして 炭 持て わたる
も いと つきづきし 昼になりて ぬるく ゆるびもていけば 火桶の 火も 白き 灰がちに なりて わろし
今度はいっさい句切らずの、もと通りに、それを自分なりの呼吸で読んでみましょう。
春はあけぼのやうやう白くなりゆく山ぎはすこし明りて紫だちたる雲のほそくたなびきたる
とくべつ難解な表現ではない。意味も、あなたが今ざっと印象をもたれた、想像された、たぶんそのままでいいのだと思う。夏、秋、冬とも、厄介なことばは
一つもない。一つ二つは有ったにしても、そう躓くことはない。むしろ自身の想像力を信じて分かったという気でいていいのです。そして何度も読む、読み返
す、それがこの第一段のためには最上乗の鑑賞方法であると私は申します。
「春」は、どの時刻が一番趣深いかしらね、これが出題。そしていつか、誰からか「あけぼの」と答が出た、この、すばらしさ。
私たちはもういろいろ物を知っていますから、今、とくにこれをどうとも思いません。そうか。なるほど。けれども春という季節で、その一日で、一等みごと
な瞬間をすかっと「あけぼの」と言ってみせたのは枕草子が最初で、その後この撰択の与えた感化は決定的でした。この発見はじつに枕草子の独創であって、万
葉集にも古今集にも、漢詩にもなかったと云われています。はじめて春の曙の美しさ、趣の佳さにここで見極めがついた。定子皇后はさてこそ、これを最も佳し
と定められ、清少納言も枕草子巻頭を飾るにふさわしい第一声と見て、すばらしい文藝の冴えを見せました。
春は、あけぼの
それは定子サロンならではの趣味の佳さとして貴族社会に喧伝されることになったのですね。
どうかこの「春は、あけぼの」の一節を重ねて句読点抜きで読み、あなたの判断で、どこへ句切れをつけるべきか、試みてごらんになるといい。変化も可能で
す。そして句読点のないのが結局ふさわしいのかなアとお思いになったのではないか。それほど言葉と言葉とのつづきぐあいに微妙に前後重なり流れる快適な調
子があります。幾らでも句切れて、しかしまるで句切らない方がいい、そこに──清少納言なりの名調子が生きている。夏、秋、冬、みな同じことが言えます。
「夏は」「夜──」という端的な撰択に、月のある時分がひときわ佳い、と誰かの声が強調します。と、また、いいえ闇ですともっと佳いわ、と別の声が押しか
えす。「闇もなほ」の「なほ」を具体化するように、蛍がいっぱいの時なんか佳いわね、それも、無数に光の筋を描いていたりするとね、と、次から次へ。とこ
ろが、これに対しても、いいえ、ただ一つ二つくらいが「ほのかに」光ってすっと闇に消え入って行くのもすばらしいことよという、味な感想が加わります。そ
して一転、夏の夜を雨の降りつづく風情も大好き──と、聞けば、さもと頷ける、面白い展開。
これらを全部少納言ひとりの感覚に帰してしまっては、かえって無責任そうな雑駁な思いつきの羅列と見えかねない。ここは何人もが銘々にこれだけのこと
を、いやこの何倍ものことを言い合ったうえ清少納言の筆の力でこう整理されたというのであってこそ、その一つ一つが生き生きと、こまやかで、美しくなる。
それぞれに佳いなという気になれる。
言うまでもなくここの「雨」は、「夏は、夜」と冒頭ぴしりと定められた中の雨でして、季節ぬきに一般に夜の雨をさしているのではない。
そして「秋は──夕ぐれ」とつづくのですね。言葉数は四季のうち一番多いけれど、難しくはない。むしろやさしい言葉で言われていること、を、脳裡によく
追体験し翫味したいものです。
たとえば夕日がさして、「山の端いと近うなりたるに」──これは、映える夕日が山の端にぐっと接近したというだけでなく、夕日のさすにつれて山の端も山
はらの色濃さもふだんより眼近に迫って見える現象を的確に捉えているのですね。じつに、よくものを見ている。「あはれなり」とあるのも、へんにひねくら
ず、「ほんと、佳いのよねえぇ」と口々に感嘆した声をすばやく、簡潔にとらえたものと読みたい。
「まいて」は、「ましてや」です。「はた」というのも「むろん」「まして」「これはもう」といった強調ですね。
この秋の一節は一直線に話題が運ばれながらも、からすの近さと雁の遠さが、山の端と高い秋空との対比を引き立てて絵画的に巧みに言われています。そのう
え「夕ぐれ」から「日入り果てて」と、つるべおとしに早い時間の推移もうまく持ち出している。秋の季節感に漂う澄んで静かな、いい意味の寂しさを「風の
音」「虫の音」など音色で深めてもいる。心憎い観察、そして巧みな筆づかいですね。
「冬は、つとめて」
前夜からみて翌る朝早く、そういう刻限を「つとめて」と謂っています。春の曙に対して、冬は早朝、それも寝て起きての翌る朝早い刻限が佳いという。いや
が上に寒い時刻です。凛烈の寒気がそのまま美しいと感受されている。夏の夜、秋の夕暮の対比以上に、この春と冬、刻限としては前後そう違いのない朝明けの
時点を捉えながらのみごとな対照に、思わず息をのみます。
この一段、春をはじめに冬でとじめた、というのではありません。当然にも冬のあとへまた春が来る。「冬は、つとめて」と読みつつもまた更に「春は、あけ
ぼの」へ立ち返って行く予感と期待とを抱いていたい。すると冬の朝の寒さの魅力がひときわ冴えます。清少納言の言葉が生きて来ます。「霜のいと白きも、ま
た、さらでも」どっちにしても「いと寒」いのが冬の朝早なわけですね。そこへ火、炭と、白さに対する赤さ、黒さ、熱さ、温かさを人の身動きに乗せてきびき
び筆を執り表現して行く。
「いと、つきづきし」とは、季節にも状況にも至極ふさわしい、似合っているというのです。それも「昼になりて」すこし暖かになるにつれて「火桶の火も」白
い灰になりやがて崩れてゆく、その「ぬるさ」「ゆるさ」は感心しないという。颯爽としている。
何度読んでも一つとして余分な口をはさめない、みごとな感覚の冴え、筆の冴え。枕草子の魅力はこの第一段にたしかに尽くされています。
古典を現代語に置きかえる、ことに詩歌やこの枕草子ふうの文章を現代語訳することに、私は、主義主張としても本当は冷淡なのです。反対ですらある。原文
を何度もくりかえし声に出して読む。すると分かってくる。それが決して不可能でないと幼来承知しているからです。「春は、あけぼの」「秋は、夕ぐれ」とど
うか口遊んで、音読して、下さい。読書百遍、意は自ら通じるものと訓えた古人の言葉を、私は信じています。
追記 枕草子には随想的また回想的といわれる多くの
章段が別に含まれていますが、類聚類想的な章段こそ、定子皇后の意志に根ざした本来の執筆と考え、あえて「春は、あけぼの」を独立させました。いずれ拡げ
て、『枕草子を読む』予定ですが。
本稿はラジオ放送をもとに書きおろしました。 秦 恒平
一つな落としそ 枕草子を読む
「解説」とはいえ、専門家.がよくやる国文学史ふうの紹介や位置づけは、敢えて避けたい。作者について、作品について、例えば私が信頼してここにも用い
ている新潮日本古典集成『枕草子』には、萩谷朴氏の詳細な「解説」が付いている。必要なら、そういうものに即いて見てほしい。
私は、ここでは、一読者でもある自分がどう『枕草子』を受け入れて来たか、話題を絞りかつ補足的に語って、.こ参考に供したい。
一
確実に言えること、まだ不確実なこと=推量の利くこと、確証の不可能なこと=推量も利かぬこと。およそ歴史的な事象のすべてが、こういう三つの部分をだ
きこんでいる。古典と称される文学作品も例外ではない。『枕草子』の場合は、ことに確実に言えることがすくなくて、かなり大事な点で確証の不可能な、推量
も利かぬことが多い。
『枕草子』については、ほぼ十・十一世紀の交に、一条天皇の後宮定子藤原氏とその女房清少納言が深く関係して成った、いわゆる随筆風の文集である……と、
およそこの程度しか確実には言えない。
まず伝世の本文が大きく分けて四系統ほどある、その中でも、ことに三巻本系統と能因本系統の本文のどちらがより原本に近いかの議論なども、サッパリ決着
はついていない。他の二つは、明らかに、より後年のものらしい。極端にいえば、四系統の本文それぞれは、まるで別の作品かのように相当程度ことなってい
て、どの本文で読むかが無視しがたい選択になる。私自身は熟考の結果、三巻本をよく校訂されたと思われる、前記、萩谷朴氏の「新潮日本古典集成」本に主に
拠った。
清少納言が『枕草子』の著者ないし作者であるとは、今では疑問をさしはさむ人は無い。しかし「著者」「作者」なる二字の示している意味が、『枕草子』の
場合は微妙なものがあり、その辺りから『枕草子』観に或いは大きな岐れが生じて来よう。例えばこれを「編者」の二字に置き換えたならどうか、大きな違いに
なる。むろん清少納言が『枕草子』の純然「編者」だとは所詮言い切れず、ごく私的な清少納言自身の記事も相当量含んでいるのは確かなことではある。が、そ
ういう内容も含めてこれが清少納言の「編著」というべきものだったかも知れぬ余地も、歴然と目に見えている。もし言われているように、類想的、随想的、回
想的と三種に『枕草子』の内容を大別した場合、最初の部分、即ち「……のものは」「……は」という問いかけ、ないし呈示、ではじまる段々には、ことに、素
直に読めば読むほどすべて清少納言一人の独自の感性・観察というより、より広い、より多くの、目や耳や感性がさぐり当ててきた多彩な観察と肉声の魅力、ま
た多彩ゆえの多方面へのバラつきがあると読みたい、また読める、気味がある。
おそらく、『枕草子』の従来の読者がある意味で、と言うのも表記上の単調さの故に一等「読み」に閉口したか知れない、いわゆる名辞列挙ふうの段々にこ
そ、実は『枕草子』本来の意図なり成立への動機なりがあったのではないか……との、推量が利く。私は、それを、大事に思うのである。
人にあなづらるるもの。
築土の崩れ。
あまり心善しと、人に知られぬる人。 (第二十四段)
集は、
古万葉。
古今。
(第六十五段)
類想的な、「もの」型章段、「は」型章段はおよそ半々、都合(数えかたにもよるが)百五十五段ばかり、ある。全体の約半分の段数に相当し、相
当な分量だと言わねばならぬ。そして残りの内、約百段ほどが随想・感想的な章段に当たる。
慶び奏するこそ、をかしけれ。うしろをまかせて、御前の方に向かひて立てるを。拝し、舞踏し、さわぐよ。 (第八段)
月のいと明きに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などの割れたるやうに、水の散りたるこそ、をかしけれ。 (第二百十五段)
必ずしも前の類想的章段との間に質的に一線は画せない。「想」の上で互いに融通している。と言うより、概して「は型」「もの型」の発想に自然に混入して
いた感想が、定着し成長して行くと、そのまま随想的な章段に自立して行く気味気脈がある。そして、更にその随想なり感想なりが、自身の体験に絡んで、より
批評的に人事や生活や事件に及び、当座ないしは回想的に記録されて行くと、即ち日記的ともいわれる章段へ展開すると見られる。例の「簾をかかげて看る」式
の段々であるが、日々の感想や随想のより日録的な変容発展とみれば、たしかに理解しやすい。理解に、無理や不自然がない。
『枕草子』は段階を踏んで趣致を深めて行った、だからそれなりにかなり期間をかけて成った所産と思うしかない。しかもなお日記日録風の段々にしても、必ず
しも言われているようには、往時を回想した書きぶりばかりではない。たしかにその日その日のいわゆる日記でない記事が多い。明らかに西暦一〇〇〇年に二十
五歳という若さで逝去された定子皇后への熱い思いが下にあって回想されている記事は多いだろう。その意味でも、いかに清少納言自身のいわば自負や自賛の文
章とて、皇后のサロンという「場」なしに在りうべくもなかったという自覚に貫かれている。
どういう点にそれがうかがえるか、まず、考えてみたい。
回想的な章段ではことに、書かれている十世紀の「内容」と書かれたであろう十一世紀という「執筆時点」とに、無残なまで歴史的な裂け目があり、裂け目を
覗きこむ「著者」の目には、強い意地.が光っている。裂け目などまったく無いかのように筆を遣る意地である。栄華の絶頂から、天人の五衰もかくやと失意の
底に堕ちた皇后定子のいたましい体験と死は拭ったように影もとどめず、いかにも理想的な麗しい姿や声、言葉だけが出入りの公家や仕える女房たちの宮廷生活
とともに、生き生きと、晴れやかに優しく描かれている。あたかも現在進行形で書かれている。すべて苛酷な政変等の経過をつぶさに承知の上で、しかもそのよ
うに快活そうに書かれている回想であり描写なのだという事を、やはり、我々はよく知っていた方がいい。そこに、「著者」ならではの「批評」が生きている。
言うまでもない、皇后定子は中関白藤原道隆の女であっ.た。のちに「この世をば我が世とぞ思」った道長は、道隆の弟だった。道隆の死後、道長は道隆の子
の伊周や隆家を追い落として政権を握り、女の彰子を一条天皇の中宮に納れて皇后定子を追い落とした。簡単に書けばおよそこのような「政変」があった時期に
清少納言は定子に仕え、愛し愛され、その不運な死を見送った。先にもいうように西暦一〇〇〇年(長保二年)の暮れの死であった。
では『枕草子』はすべてがその以後、つまり十一世紀に入って以後の執筆であったか。もし、そうであるならば『枕草子』は清少納言一人を純然「著者」とし
て持っていいのである。
だが、いろいろな理由からすべてが十一世紀に入っての執筆などとは考えられず、かりに随想的章段はしばらく措くとも、すくなくも「は型」「もの型」の類
想的章段は、おおかた皇后存命中の所産でなくてはならぬ内証が、多々、ある。『枕草子』成立の動機が、そこに、ある。
二
第九十七段に、ふつう回想的章段と目されているこんな記事がある。
中納言隆家が姉中宮(当時)のもとへ来て、すばらしい扇の骨を手に入れたので佳い紙を求めて張らせ、進呈したいと言う。どんな骨かしらと中宮が問われて
も、弟は、ただもう、すばらしいんです、見たこともないみごとさですと言うばかり。その場に居合わせた清少納言が、思わず、それじゃそれはきっと海月の骨
なんでしょうよと口を挟んだ。海月に、骨はない。見たこともない道理であり、隆家は手を打って、
「これは、隆家が言にしてむ」
と、よろこんだという。この発言が、意味深い。それについてもすぐ触れるとして、その前に、もう一つ無視できない文章の続くことに言い及んでおきたい。
かやうの事こそは、かたはらいたき事のうちに入れつべけれど、「一つな落しそ」といへば、いかがはせむ。
上に語ったような(「扇の骨」を「海月の骨」に謂い換えたような)事こそ、こう言えば(こう書けば)、いっそ「かたはらいたきもの……は」の内に、「に
がにがしい自慢ばなし」としてなり挙げねば済まぬ類いなのだが、しかしこんな話題も「一つとして抜かさぬように」というご希望があっては、仕方がない……
と、そう、この「筆者」は書いているのである。
これを読んで察しのつくことが、一つは、ある。書いている清少納言が「執筆者」には相違ないものの、書く内容に関して、必ずしも「著者」たる絶対の自由
意志を行使していない事である。読者ないし他者の制約を受けるか希望を容れるかしているのである。
参考までに第九十一段に「かたはらいたきもの」が挙げてあるのを見よう、何項目かある最後に、こういう一例を「筆者」は記録している。
「殊によし」ともおぼえぬ我が歌を人に語りて、人の褒めなどしたる由いふも、かたはらいたし。
さしたる作ともみえぬ自作の「和歌」を他人に聞かせては、これを、どこの誰それが褒めたなどととかくうるさく言いたがる手合いは、男でも女でも「かたは
らいたい」と言っている。そしてここの「我が歌」を、「我が事」とか「我が上」とかに置き直せば、さきの「海月の骨」一件を叙する清少納言の筆つきが、ま
さに絵に描いたほど「かたはらいた」い感じ……なのである。
と言うことは、つまり第九十七段を書いている「筆者」の意識にもたぶん「読者」の意識にも、ここですでに第九十一段ふうの「もの型」ないし「は型」類想
の事例が、少なくとも『枕草子』の原型を成す目前の材料として、すでに意識され取材されていたらしい事情が想像されるのである。つまりこういう著述が、一
種の取材物または編集物としていわば関係者の間では互いに承知されていて、「恰好の話題」なら少々のキズに目をつむっても、一つも「洩らすな」「落とす
な」と「筆者」は、要望または命令されていたらしい事が、また、明らかに看てとれるのである。
では、その記録ないし叙述を「一つ」とて大切にし、書き「落とすな」とされている事柄とは、いったい何であったか。
文脈からして「これは、隆家が言にしてむ」つまり隆家が自分で言ったことにし、他人に誇りたいという「その事」こそそうであろう。要は、隆家が「さらに
まだ見ぬ、骨のさまなり」と言ったのを、それなら「海月の(骨)ななり」と澄ました顔して清少納言が中宮に申し上げたという「その言葉」が、それに相当す
る……だろう。
だが前後の話から推して、「その言葉」といったのでは意味も筋も通るまい。「その物言い」または「その受け応え」と読んでこそ、意味も筋も、よく通る。
中宮や隆家が思わず笑って清少納言を褒めたのは、いわば隆家のおおげさな「見たこともない(扇の)骨」との売り言葉を、ほとんど直訳にひとしい物言いでし
かも軽妙にからかって見せ、当座の笑いを明るく誘い出した「気の利いた」受け応えが、いたく受けているのである。隆家のごときは、世にめずらしく有り難い
「(扇の)骨」を、自身の発明として「海月の骨」のようだとよそで吹聴してまわる権利まで、嬉々として求めている。
「一つも落とすな」という中身が実にこういう物言いや受け応えの類いであるとすると、それにどんな意義や価値があったのか、そして、いったい誰が「一つな
落しそ」と意志表示していたのかが、問われねばならぬ順番になる。必然、そう、なる。
ここで断っておきたい、この段の地の文に、過去形の用言は一つも用いられていない。今日あった事を今日書いた……と読んですこしも差し支えない筆づかい
になっている。なぜ断るかというと、本当に今日あった事を今日書いた場合と、はるかな後日後年に回想しているのだとした場合とでは、「一つな落しそ」の発
言主体が大きく変わるからである。後者だと単純に当時十一世紀の「読者」の要望と読める。前者だとすると、もうすこし内輪な、当時十世紀の「仲間ないし協
同作業者」との申し合わせのように受け取れる。前者の場合、具体的には、主宰者中宮定子をも含む所属サロンの女房たちの表情や肉声が、ありあり目に耳によ
みがえってくる。
ここで念のために問題の第九十七段の本文を、萩谷本にしたがい、通して挙げてみる。一部、話者が分かりいいように括弧に入れておくので、どうか虚心に、
この一段.が、とうに中宮も逝去されて年を経ての「回想」と読めるのか、ほぼ現在時点での「日録ふう」の執筆と読めるのか、考えてみて欲しい。
中納言(隆家)まゐりたまひて、(中宮に)御扇たてまつらせたまふに、
「隆家こそ、いみじき骨は得てはべれ。それを張らせて、進らせむとするに、おぼろけの紙は、得張るまじければ、もとめはべるなり」
と申したまふ。
(中宮)「いかやうにかある」
と、問ひきこえさせたまへば、
(隆家)「すべて、いみじうはべり。『さらにまだ見ぬ、骨のさまなり』となむ、人々申す。まことに、かばかりのは見えざりつ」
と、言高くのたまへば、
(清少納言)「さては、扇のにはあらで、海月のな(ん)なり」
と(二人に)きこゆれば、
(隆家)「これは、隆家が言にしてむ」
とて、笑ひたまふ。
かやうの事こそは、かたはらいたき事のうちに入れつぺけれど、「一つな落しそ」といへば、いかがはせむ。
新潮社刊の萩谷本では、この「一つな落しそ」に、(人が)と、特定を避けて話者につき傍註がしてある。巻末の解説で読むかぎり氏は、この「人が」を、ほ
ぼ十一世紀の「読者が」の意味に読んでいるのだが、果たして、どうか。少なくもそう簡単に決めてしまっては、この興味深い一段の価値を下げてしまいはしな
いだろうか。
上の本文を素直に読む人が、これを、一議に及ばず後年の「回想」であると言い切れるわけがない。文字どおり今日あった事を今日書いた「日録」風とまずは
受け取り、その後に果たしてそうかと、腰を据え考え直してみることも出来る……といった所が、自然当然の読みではないだろうか。なぜ考え直せるか……とな
らば、筆者ないし著者というものは、「そういう風に」書こうと思えば何年後にでも「そう」書けるからである。六十歳の作家が十代の体験を現在かのように表
現し創作することは、十分に可能なのは云うまでもあるまい。
第九十七段は、果たして「そういう風に」書かれた文章だろうか。
私は、この問いに今、確実な答えは出せない。当面、出す必要もないと考えている。なぜなら、執筆意図は「今が今」か「昔の今」か、どっちにせよ「今」を
見込まれて文章表現が成り立っている以上、「これは、隆家が言にしてむ」という発言と「一つな落しそ」という要望との位置している時点は、時も同じ「今」
なる次元で繋がれていると読むしかないからだ。つまり隆家のは「昔」の発言で、「一つも落とさないように」の方はかけ離れた「今」の言葉と聞くなどは、
「今」にしぼった執筆の原則を弁えない勝手読みになってしまうからである。二つの発言は同じ次元で連帯しているのである。
例えば、「とて、笑ひたまふ」までが「とて、笑ひたまひき」とでも過去形で語られ、その後に、「今」の書き添えの体で「かやうの事こそは」とでも「こと
わり」がしてあるなら別だが、そうは書かれていない。「いかがはせむ」という「ことわり」かたは、「昔」のことを「今」の人にことわっているのではなく、
「今」のことを「今」の人にことわっているという形と意図とを正確に守っている。もう一度言おう、「隆家が言に」と「一つな落しそ」とは、同じ「時点」を
執筆心理や態度に支えられて、つまり方法に支えられて、共有している。「一つな落しそ」と「筆者」清少納言に対し望みかつ命じているのは、けっして「後世
の読者」でなく、同じ読者でも中宮ご在世時のごく身近で内輪な「初原の読者」であったろうと、十分妥当に推量が利く。その推量に立って、次には、隆家の言
葉とその内輪の声とが関連し意味する所を問い直さねばならないのである。私が確認したいのははっきりとその事であり、それが問題の呈示として自然に納得で
きるなら、この段の実際の執筆時期がいつかは押し超えて、その詮議に自在に進み入れる。そして、それこそが『枕草子』理解の眼目になって来る。そう思う。
三
では、さて、気.が利いて、面白い受け応えや物言いを「一つとして落とすな」とはどういう意味か。
素直に聞いて、そして状況から察して、そういう応答や物言いの実例・事例を収拾し編集しているらしい……といった事になるだろう。事実『枕草子』にはそ
ういう例.がかなり多く、回想的章段といわれる大部分がそれと言ってもいい位だ。「香炉峯の雪」も「草の庵」も「鳥のそら音」も「此の君」も、みなそう
だ。
ないしはこの第九十七段の場合なども、例えば「かたはらいたき……もの型」類想の具体的な一例として、筆者の自慢ばなしというより先に、中納言隆家その
人の、「殊によしともおぼえぬ我が『持ち物』を人に語りて、人の褒めなどしたる由いふ」例が批評され採集されている……と読んでいいのかも知れない。
それにしても、そんな受け応えの例など拾い集めてどんな意味があるのか。その疑問に対し、ここで『枕草子』の「枕」という言葉を詮議してみたい。
『枕草子』のなかで「枕」に関連してものを言っているのは「跋文」だが、一読、話がちと面白過ぎる気味はある。しかし、だからと言って右から左へ全否定
もならぬ、これはこれで大切な証言に相違なく、私には読めている。
書かれている要点は、こうだ。佳い紙が沢山に贈られて来た。天皇方ではその紙に『史記』を書かれるそうだが、わが中宮方としては何を書こうかという段に
なって、清少納言は、即座に「まくらにこそは、はべらめ」と提案したという。それは佳い、それならばお前に取らせようと、その料紙は中宮から彼女に託され
た……というのである。
「しき=史記」に対して「まくら」につき、こういう説がある。「しき」は「鞍褥」、「まくら」は「馬鞍」で、縁の言葉であると。
これを清少納言の機知頓智とかりに読むにせよ、「馬鞍」は「鞍褥=しき」より「上」に置くものゆえ天皇方に対し礼を欠くことになる、だからこの解釈は穏
当でないと言う学者もある。しかしである、「しき」の正体が『史記』と分かっている以上、もし縁を読み対を読むのに馬具のそれで話が済む道理もない。たと
え馬具に絡めたのが気が利き面白くはあれ、なおその上に、向うが『史記』ならこっちは『枕』と言ったその意味が誰に対しても十分面白く通るのでなければな
らぬ。十分通ったからこそ、定子はその紙を清少納言に与えるか預けるかしたのである。
「歌枕」ということが盛んに言われ出した、それも『枕草子』の時代とほぼ重なっていた。和歌に詠みこまれた名所を「歌枕」という少なくもそれと同等に、
そういう名所を書き集めた本、書物、をも「歌枕」といった。
「枕言葉」というおおかた和歌に関連して用いられる言葉は、今も中学生くらいが教室で習っている。では「枕ごと(事・言)」はどうか。あまり耳なれない
が、日常茶飯の話題・話柄、ないし常々に用い馴れた常套の言葉・物言い・受け応え、さらには引用などの際に根拠として用いうる言葉を謂う。清少納言が
「枕」と口にした時には、実にこういう「枕ごと」を集めた本にしてはどうかと提案していたのであり、それでこそ、天皇方の趣向が中国正史の『史記』を写す
料紙にというのに対し、中宮方では女らしくごく日常の「枕ごと」にと、みごと好対照を成しえたし、『枕草子』成立への、動機としても成果からしても、間然
するところない説明がここに、ある。「山は」「市は」「原は」「海は」など歌枕系統の「は型」類想、「むつかしげなるもの」「たのもしげなきもの」「心に
くきもの」など枕ごと系統の「もの型」類想など、まさに「枕」収集のおそらく初原の計画そのままを、内容・形式両面で体現しているのであろう。「一つな落
しそ」とは、適例ならば一つも落とすことなく拾い集めておきましょうという意志表示なのであり、まして「海月の骨なんでございましょうよ、それは」といっ
た即妙は、たとえたまたま「筆者」の自慢ばなしに類するいやみはいやみとしても、なお、記録に値すると見たのである。
なぜ、しかし、そんなものを収集する必要があったか。
後宮は、「女」の世界である。直接に政治に係わることはないが、「男」を迎え入れ楽しませうる魅力なり能力なりにより、間接に政権の行方に連動しても行
かねば済まない世界ではある。そういう小世界が宮廷社会には鼎立していた。そして私のいわゆる「女文化」の魅力や能力を熾烈に競いあっていた。具体的に
は、定子皇后なら皇后が主宰している女房総員が挙げて持たねばならぬ、集団としての「文化的個性」が、いつも男の興味と賛嘆の思いを惹くべく、念入りに用
意され日々に洗練されていなければならなかった。それが後宮の後宮たる要件であり、その魅力能力に男たちが寄りつかねばただ恥では済まない、集団としての
死活に繋がった。
その頃、後宮ではないが大斎院選子内親王のサロンが、もっぱら和歌を巧みに読みかわすセンスの佳さで貴紳の人気を集めていた。これに対し中宮定子のサロ
ンでは、女房たちの躾けの佳さが看板であったらしい。躾けの佳さとは、何か。行儀の佳さもあったろう、衣裳や化粧の佳さもあったろう。しかし何よりも、清
少納言その人に典型的に見られたような、水準の高い物言いや受け応えの、気が利いて洒落た面白さ・賢さ・優しさが公家たちにはことに大評判であった。日常
生活がそのまま美であり機知であり配慮である、そのような女の性質にふさわしい濃やかな感性を、定子率いる女房たちは挙げて「ことば」に託して表現した。
表現できるよう躾けられていた。
一朝一夕にしかし躾けは成らない。日々の用意と洗練とを怠るわけに行かない。なにらかの「事」が、その「用意と洗練」のために成されていたとして、考え
られるのは内輪でその気で話しあうというふだんの学習、および話しあいのなかから得た創見や発見の「記録」「書記」である。佳い受け応え・佳い物言いのた
めの討議を経たいわばマニュアルづくりである。少なくも初原初発の狭本『枕草子』は、まさにかかるマニュアルとしての「枕ごと」集成として、所属集団の誇
りをかけて企画し実現されたものではなかったか。むろん「執筆編集者」は清少納言であったろう、が、「企画監修者」は定子であった。『枕草子』はおそらく
そういうものとして初動したに違いない。が、定子の不運が結果的にわるく響いて十分に仕上げて撰上される以前、すでに一清少納言の私有に帰するような、彼
女にすれば悲しい時勢の成り行きを見たものであろう。
私独自のこの推量を、たとえば『枕草子』各段の雑然とした編集ぶりから否定したくなる人は多いかも知れない。しかし、同じそのことが私の推量を支持する
とも言えなくはない。清少納言を「書記者」に類想的章段を主とした、いわゆる随筆というより記録・筆録といいたい原『枕草子』は、ひとまずすでにマニュア
ル化を遂げていて、それへ定子皇后没後の「著者」清少納言の書き加えが増すにつれ、幾度幾種にも内容や配列の異なる「冊子」が出来かつ流布しながら、順序
もない止めどもない異本増殖を結果したことが、十分に考えられるからである。
それにもかかわらず、あらゆる異本の序段は、あの「春は、あけぼの」であった。春という季節の、一等佳い刻限はいつ時分であろう……。定子の問いかけに
対し、「あけぼの」という古今に絶した答えを返して中宮をよろこばせたのは、おそらくは清少納言その人であったに相違ない。それとても、だが、我々はその
背後に、すぐれた「女文化」それ自体の豊かな基盤がすでに用意されていた事実を忘れてはならない。『枕草子』を、ひとり清少納言の才能や個性にのみ引きつ
けて過大に思うのは、彼女のためにも、ひいきの引き倒しであることを知っていたい。
いはで思ふぞ
『枕草子』を訳してみないかと持ちかけられた時は、おどろいた。そもそもどの本文を採用するか、三巻本か、能因本か、前田家本か、堺本か、よほど肚を決
めてかからねば済まない。有名な、巻頭の「春は、あけぼの」の第一段からして、右の四系統の本文はみな異っている。
段の分けかたにしても首段と跋文のほかは、手近な『枕草子』諸刊本、極端にいえば一つとして同じのが無いほどばらばらで、どの本に拠って訳せばよいの
か、しごく難儀な判断になる。それでも私は引き受けた。
『枕草子』はもともと好きな古典だし、萩谷朴教授の周到な註釈(新潮社版)とも出会っていた。
それに、自分なりの理解を訳文に反映させてみたい気もあった。
定子皇后はわずか二十五歳で亡くなっている。西暦、ちょうど一〇〇〇年の暮れに当る。
清少納言の方は、諸説勘案してなお十歳の余も年長であったろう、はじめて宮仕えに出たのが九九三年の冬と考えられるから、九九五年四月の関白道隆死、五
月道長内覧という、いわば定子方に目立って衰運が訪れるまで、せいぜい一年半しか主君の絶頂期を見知っていないことになる。その栄枯盛衰の落差は思いのほ
か大きく、『枕草子』の、ことに回想的章段には寂しい翳が漂っている。
『枕草子』を読んで清少納言の個性に惹かれる(或いは反撥を覚える)のは当然として、高校時代にはじめて教室で習ってこのかた、清少納言より、いつも定
子中宮(皇后)寄りにこれを思い入れて読む習慣、性癖を私はもちつづけてきた。定子の掌の内から出る気のない清少納言、という建前を意識してきた。清少納
言の晩年がよほど不遇かつ悲惨なものだったらしいことは十分察しられる。関白道隆、その子伊周、その女定子らへの熱い讃嘆、切ない追悼とちょうどそれは釣
合ってもいた。
定子との関わりは、余人の忖度をゆるさぬみごとな緊張を保っていたに相違ないとして、積んだ雪山がいつ溶け失せるかを争い合った逸話にも見られる、かな
り際どい線にまで二人の間柄がよじれて行くこともあった。それは、見落せないことだ。笑談にせよ一条天皇の限にも、「これまで(中宮)御寵愛の女房らしく
見て来たが、この様子ではあやしいものと思うぞ」と映じたくらい、この賭けの場合の定子の突っ張りは烈しかった。たんに清少納言に「勝たせまいとお思いに
なったのであろう」程度を超える、或るむごさをすらはらんだ対抗ぶりだった。
それにもかかわらず、この段(萩谷本第八十二段)などをむしろ例外に、中宮定子と女房清少納言との間柄はまことうるわしく、稀有の感動でりっぱに装われ
ている。
名高い「香炉峰の雪」(第二百八十段)「草の庵」(第七十七段)「此の君」(第百三十段)などの逸話を介して、私には清少納言の活躍ぶりより、それをい
つも悦んで眺め、頷き、愛している定子の存在の大きさが感動的だった。すぐれた女房たち(とりわけ清少納言を、と言い切ってむろん構わない)を身の傍へ寄
せては女の素養を説ききかせたり、機会ごとにそれを試み(心見)ている定子の、いわば〃躾け"のよさに惹かれてきた。
その挙句といおうか結果といおうか、『枕草子』を清少納言の手になる著述と私は認めながら、その成立を命じ、促し、進めた直接の指導者、主宰者はそもそ
も定子中宮であり、そのことを『枕草子』本文からあやまりなく読みとろうと努める読みかたへ、いつか自分の姿勢や視線を定めてもきたのだった。
私は「女文化」、その本質や実体、ということをもう長く、大事に考えつづけてきた。平安朝貴族社会の中で、男そして女の関わり様をそのまま「文化」と推
定し、鍛錬しようという態度を最も自覚的に日常生活の中で持ちつづけた人物として、私は、紫式部や清少納言以上にこの定子中宮といううら若い貴女を想って
きた。もし『枕草子』という著述が定子のサロンを母胎に誕生していなかったら、私のいわゆる「女文化」という理解は定まりようがなかった。その『枕草子』
の存在の大いさに根ざすことなく、ひとり清少納言の個性と才能によってこうも結実したなどと、私は夢にも思いたくなかった。
清少納言は、定子皇后のサロンにおけるいわば「枕合せ」の卓抜な書記者として才能を発揮しながら、狭本『枕草子』を、広本『枕草子』へ充実かつ変容させ
て行った人と私は推察している。ことに類想的章段からは、定子指導下における女房たちの感性、素養、判断を反映した多くの"肉声"が生き生き聴こえるし、
そう聴きとめて、格段に『枕草子』が面白く読めてくる。そう思う。
引き受けた訳の文体には、きびきびと男まさりな清少納言の筆致を再現すべく、しかも音律に流露感の添うようにと、心がけ、意訳はもとより、逐語的直訳の
愚もつとめて避けた。
「此の君」の逸話の末に、どの女房のことにしても、「殿上人がほめていた」と「お聞きになるのを、そう評判される人の分までおよろこびになる、そんなお人
柄」と清少納言は中宮のことを捉えている。そう承知の上で彼女は活躍し、定子も「何もかも合点」の上でいつも「頷かれ」「にっこり」「お笑いになる」。
清少納言が仲間のなかで苦境に立ち、中宮としても表立って庇ってやれぬ折の消息にも、ただ一と言「いはで思ふぞ」と書いてやれば、楽しめない里住みの日
々を鬱々と過ごしている清少納言は、「悲しかったのもみな慰められ、嬉しくて嬉しくて」と述懐せずに居れない。
清少納言には言いたいだけ、したいだけを言わせておいて、中宮定子は「いはで思ふ」という、より大きな愛情と信頼を示しつづけた。『枕草子』の魅力は、
すべてこの一句にかかっていたと言える。まして道隆政権から弟の道長政権へと渦巻く政変を背景にありあり感じとる時、「いはで思ふ」とは万感寵もる生きか
ただった。王朝女文化の、或いはそれこそ熱く切ない芯であったと言えるのかもしれない。