古典エッセイ 1986.1−3



     『源氏物語』への旅

        秦 恒平



     北山・小野の里

『源氏物語』に限っていわば旅寝の名どころをさぐってみても、有名な須磨明石の流されや住吉・石山・長谷などの詣で、それに宇治十帖の舞台になる宇治や小 野の里など京の郊外が見られる程度で、おおかたは十世紀後半と目される平安京の内を人はしげしげ往来している。人といってもかなりは男たちで、表白の遊女 達は別として、女は物詣でか、いま謂う葵祭つまり賀茂社の祭見くらいにしか家を出ない。
 例外的に、九州での田舎びた求婚騒動が、美しい「玉竃」をめぐってすこし書かれている、が、筋を追うだけで土地は描けていない。無理もない、作者は九州 は知らないのだから。それでもあえて書いたのは、紫式部のことに仲よかった幼な友だちが、親の赴任に伴われた先の九州ではかなくなった、その鎮魂の思いも あったからだ。華麗な仮構(フィクションに相違ない「源氏物語」には、それだけに意外に色濃く作者の実人生や人との出逢いが匂わせてあり、細部の真実感 (リアリティ)を深めている。
 それにしても「源氏物語の旅」というなら、まさしく「京都」こそ目的地であっていい。
都大路を順におっても、一条には薄命の「柏木」未亡人である「落葉の宮」の邸があり、まめ人の名を負うた故人の親友「夕霧」が、さま変りに宮を恋いこがれ てもの狂おしいまで通いつめるし、二条には、「光源氏」生みの母「桐壷更衣」の故居二条院がある。こここそはこの長大な因果物語がハッシと打ちこんだ原点 ともいうべく、光が、終生最愛の妻の「紫上」を迎え、またその死を見送った邸であるばかりか、紫上に譲られて光正系の孫「匂宮」がここに住みつき、紫上再 来ともいえる愛妻「宇治中君」に生い先めでたい男の子を生ませている。この子は将来皇太子となり天子の位につくことも期待できるというのだから、因果の糸 はいかにも太い。
 三条へ移れば、父帝には寵愛深い中宮、光君には秘密の子を生ませた理想女人の「藤壷」の里邸があり、また光君最初の妻「葵上」藤原氏の育った家があり、 葵から生まれた夕霧が幼な恋を実らせて妻の「雲居の雁」と仲よく暮していた。五条へ行くと、光源氏の乳母の家があり、その病気見舞いにおとずれた夕暮れど きにはからずも「夕顔」と逢い、愛しあう。だがその夕顔は、六条ちかい河原の院(これには角田文衛博士の傾聴に値する異説、六条の具平親王邸がある。した がうべきか。)へ光君が連れ出した闇のまぎれに、露を散らすようにはかない命を生霊に奪い去られている。生霊は、後に葵上の命をも産褥から奪いとった高貴 の女人、「六条御息所」の現身から悲しくも、もぬけて来たのだった。光源氏は、さまざまに鎮魂の思いも秘めて、この六条御息所の遺児を秘密のわが子「冷泉 帝」の「秋好む中宮」として養い、かつ奉り、結果的に政権の基盤を巨大なものに仕上げている。
 そののち光源氏は、同じ六条の地に、ひろびろと四町をしめて四季の趣もゆたかに美しい六条院を経営し、紫上はじめ「明石上」「花散る里」「末摘む花」な ど大勢の女の愛と悲しみとを一身にうけてここに住む。だが、鴨の河原はるかに、東山には清水寺のいらかや八坂の塔を抱きこんで、やがて雲隠れゆく死出の山 路の鳥辺野がひろがっていたし、遠く目を転じた西山には、まだいとけない愛娘「女三の宮」を因縁ふかき弟六条院(光君)晩年の妻として委ね、ひたすら後世 の安心を願う先帝「朱雀院」の、うらみ深い出家姿も隠れていた。
 そういえぱ、「明石中宮」として後年に光りかがやく娘を生んでまだ間もない、聡明な「明石上」が、ひっそりと明石から京へ上ってまず住みつき、たまさか の光君を待ち迎えた家も、西の嵐山にまぢかい保津の流れのしみじみ聞えるところに在った。
 平安京は左京・右京を擁して規模きわめて壮大であったが、右(西)はやがて荒れ衰えて左(東)へ都市化が進み、ついには鴨川を越えて東山三十六の峰々に せまる勢いをみせたが、『源氏物語』世界ではまだそれほどでなく、しかも京洛の地内を中川、堀川、紙屋川、京極川など、北から、幾筋もの細流がそうそうと 南へ西へ流れおちていた。そのような風情に加えて、都ながらに野は七野、木立の影もそこかしこひとしお濃まやかであったさまが、それはそれはみごとな筆で 物語には描きつくされている。京の町育ちの私など、そうした描写のはしばしにさながら平安京の風光を呼吸する思いはするのだが、さりとて現在の市内に形と してのこった「平安時代」なんぞは無いも同然だから、よほどの紙数を費してこまかに本文を引きながら四季と恋との折々の風情をくわしく案内するのでなけれ ば、さて、それと目ざして訪ねて行けるような「旅」さきは紹介しにくい。ただ「春は、あけぼの」「秋は、ゆふぐれ」の山なみの色と姿ばかりは、そうそうは 往時に変るまいと想いたい。
 ところで、その山なみのなかでもひとしお奥ゆかしく昔しのばれるのは、東山、西山に優って北山、それも比叡山の西麓、物語にはしばしば小野の里などとし て登場する辺りであろうか。
 比叡山は、朝廷や貴族社会とひときわ縁の濃い延暦寺を轟然と擁している。山上にも山麓にも名僧知識が大勢暮していたのだから、世の常をいとい離れて、清 々しい、すこし寂しい空気が漂い流れていた。わけて老と病と死に逼られた者たちには、後世の安心を得る頼りは自然多くてつい慕い寄りもしただろう。おもえ ば往生浄土を願う気持が、ひとしお兆していた時代でもあった。
『源氏物語』では、だが北山の名は、まずは朝露の日ざしに散るほどの清々しさであらわれる。光源氏が義母藤壷への秘密の恋をなぐさめる、あたかも形代かの ように藤壷の姪にあたる、美しいかぎりの少女「紫」とここで初めて出逢う。作者が「紫式部」と称えられた、名高い「若紫」の巻でのはなしである。
 しつこい熱の病いを大徳の僧のちからで癒そうと「北山」の「なにがし寺といふ所」へ出向いたのは華やかな春三月の末だった。「つづら折り」といった表現 から鞍馬山寺のあたりかと想像されている、(これにも角田博士の有力な異説があり、岩倉実相寺辺というのが当たっていると思われる。)その出向いた先から まぢかに、深い山なかの目の下に清らかな庵室が見えて、そこは都でも尊ばれるある僧都の住む家だった。たまたまそこへ僧都の妹尼が母を失った孫娘すなわち 若紫をともない訪れていたのである。垣間見た源氏はひとめで宿世の愛を覚え、以後、経緯あってこの生いさき愛でたい十にも満たぬ少女を二条院の内に深く隠 まい、理想の妻に育てあげる。
 我々は『源氏物語』を端的に、幼くして母を失った光君が、母──生みの桐壷、義理ある藤壷──によく肖た最愛の妻(紫上)をえて幸せな生涯を遂げた物 語、と、理解しても決して誤解ではないのである。鞍馬の春はおおどかに静かで、深山のけしきはなやぐ紅葉の秋よりむしろ落着いていて、意表にでてさすがに うまい時期をえらぶものだと感心する。夕映えの刻限など、出町柳へ戻って行く郊外電車の車窓には、京都の北側に山隠れてもう一つこんな故京もあったかと、 なつかしい思いを誘われる小盆地がまだ残っていて、つまりは沿線の西から東の山べヘかけて一帯を小野の里と想ってみるのも、ちょうど佳いのではないか。 「北山」も「小野」も、いわば漠然と広いのであるから。
 その「小野」の里が印象的に叙されているのは、前にすこし触れた「夕霧」の巻である。この巻の時分は父光源氏は太上天皇に準じられて六条院に栄華を極め ており、子の夕霧は、友栢木の未亡人落葉の宮が病いの母に付添い小野の里へ療養に出ている先へ、見舞いと称しつつ隠し切れぬ恋をうったえに、人も見あやぶ むほどしげしげ足を運んでいる。おそらくは現在の修学院離宮あたりであろうと目されている。紙数に限りがありあえて現代語訳はしないが、静かに音読してみ てほしい。
「日入りかたになりゆくに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、山の蔭は小暗きここちするに、ひぐらし鳴きしきりて、垣ほに生ふる撫子の、うちなびける色 もをかしう見ゆ。前の前栽の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音いと涼しげにて、山おろし心すごく、松の響き木深く聞こえわたされなどして、不 断経読む時(じ)かはりて、鐘うち鳴らすに、……」
 昨今なら、むしろ修学院よりやや南の山すそにひそやかな、竹の御所の曼殊院などをそのままの家居に想像しながら味わうのが、実感に添う。大比叡をまぢか に背後に負うて、西へ北へ南へ開けた高みからの眺望は四季にすばらしい。そしてこの夕霧と落葉の宮との、お互いまじめなだけにいささかピントのずれたもの 優しい恋の結末は、なかなかの風情に富んで面白いのだが、ことこまかに紹介できないのは惜しい。
「小野」の里は今いちど極めて大切に宇治十帖、物語も大団円に近い「手習」「夢の浮橋」の巻に、宇治川へ入水死したはずの美女「浮舟」が救い出され隠まわ れている住まいとして、こと濃まやかに描かれている。宇治から二十四、五キロか。比叡山の西、坂本の高野川ぞい、同じく小野とはいえ先の落葉の宮の宿りよ りはだいぶ北に入って、おそらく長谷出辺りかと推定されている。
 ここからだと本文の描写どおりに、黒谷をへて横高山の鞍部を東へ、横川の根本中堂へ至極の山道が美しくまた心細く通じている。匂宮と薫大将とにともに愛 されて身を中空にみずから死をえらんだ果ての浮舟が、奇しくも横川の高僧に救われ妹尼に亡きわが娘がよみがえったかと愛されている。
 噂を聞いた薫大将はひそかに手紙を届けて来るのだが、浮舟はこたえず、しみじみと北山小野の里は暮れてゆく。


     須磨・明石

『源氏物語』には特徴的な枠組がいくつか設けてある。その一つが、三つの大きな予言だ。
 最初の予言は巻頭の「桐壷」の巻に出る。まだいとけないほどの主人公の皇子「光君」を相して、高麗の相人が、この少年は天子の位にも上りそうでいて、そ うとも言い切れないし、人臣を極めて国の柱石となるかといえば、それだけでも終らない、はて…と首をひねる。この予言は、皇子の光君が源氏に降り、しかも のちに太上天皇に准ぜられて「六条院」と呼ばれるに至る経過に的確に触れている。
 二つめの予言は「若紫」の巻で、光源氏が、「影も覚えぬ」生みの母の「桐壷更衣」にたいそうよく肖ている義理の母、現在の父帝の女御の「藤壷」に迫って のちの「冷泉帝」を懐妊させてしまったらしいと、夢をよく解く者が光君に告げている。この秘密を知って、のちに冷泉帝は父源氏を准太上天皇にあげ、子たる 礼を尽すのである。
 三つめの予言は「澪標」の巻に見えている。これよりずっと以前に光君のえていた予言として、彼は「三人」の子に恵まれ、男の一人は天子(冷泉帝)の位に 上り、女の一人は中宮に上り、一番劣ったものも太政大臣(夕霧)になるであろうと語られている。この予言はさまざまの面で大きく物を言ってくるのだが、一 つには、ときめく光源氏が思わぬ罪をえて須磨へ、明石へ、流されの憂き目をみることの必然性を巧みに説明してもいる。なぜかと言うと、光君は、この明石の 里で因縁も深い一人の女と出逢い女の子を生ませるのだが、その子がのちに「明石中宮」となり、予言は満たされる。ただ受身に流されたのではなかった、須磨 へ移り住み明石へ漂い流されたにも、そう在るべき約束があったのだと、物語の組立ての上の確かさをその予言は賢く補強しえているのである。
 むろんこの流されには、直接間接の原因というものが在った。光源氏が、兄「朱雀帝」の後宮に入る女人と知りつつ、「右大臣」藤原氏の娘「朧月夜」を犯し たのが直接の原因とすれば、その右大臣藤原氏と対立していた「左大臣」藤原氏の娘「葵上」を光君が妻にしていたことなどは間接の原因だろう。対立する両藤 原氏の政争に光君が巻き込まれたのだとも読めるからである。
 しかし、もっと徹底的に本文を読めば、物語における真の対立は光君が属する皇家と藤原氏との間にこそすでに深刻だったさまが、よく読み取れる。また、そ こを読み取らないで『源氏物語』の面白さはつかみ切れないのである。明石中宮を生む「明石上」との明石での出逢いは、藤原氏に責め殺された(「横ざまなる 死=横死」とある)光生みの母の桐壷更衣一族の強烈な復讐を意味していたし、その後の藤原氏に対する源氏の圧倒的な優勢を保証さえしたのである。桐壷更衣 と明石中宮とは一、二代を遡れば、ごく親しい血族関係にあった。(桐壺更衣と明石入道は従兄妹の間柄にある。)かくて光の母が果せなかった夢を、光の娘が みごと実現したことにもなっている。
 あらましかくの如くとあっては、古来、『源氏物語』といえば「須磨」の巻、「明石」の巻と喧伝されて来たにも納得が行くというもの。但しこの巻が印象に あるのは、一つには俗に「須磨がえり」と言われて、この辺りまで来て源氏読みが挫折してしまい易い事にもいわれがある。華やかだった貴公子光源氏の人生 に、にわかに暗い影がさし初めるのがこの「須磨」の巻だから、辛抱のない人ほどイや気がさすとも言える。明石の里ではまたもや色好みの文藝らしい花やぎが よみがえって来るが、須磨の浦のわび住まいには当然に色気が乏しい。しかし、それだけに作者の筆が力を籠めて文藝描写の才能をより美しく発揮しているの も、また「須磨」の巻だ。
「おはすべき所は、行平の中納言の、藻塩たれつつわびける家居、近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれに、すごげなる山なかなり。垣のさまより はじめて、珍らかに見給ふ。茅屋ども、葦ふける廊めく屋など、をかしう、しつらひなしたり。」
「須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、『関吹き越ゆる』と言ひけむ浦波、よるよるは、げに、いと近う聞えて、またな くあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。」
 都の栄華を遠くへだたる、こういう所へ光源氏は流れてきた。そこには昔流された在原行平の故事もイメージに重ねられ、また今日の我々なら謡曲「松風」の 松風村雨姉妹伝説までもうち重ねて読み込むことができる。それに比べれば、現実に今日の須磨の浦など、もはや往時を偲ばせるものとては、かすむ淡路の島影 と渚うつ波の音くらいしかない。
 源氏の須磨の暮しはわびしかった。都恋しい思いは時にたえがたいものがあった。そして年を越えて弥生上巳といえばいわゆる三月の節句、その年はちょうど 月の朔日にあたっていた。久しい日本の風習にしたがい光君は海べへ出て、みそぎに身を清まわろうとする、と、にわかに凄い波風が立ち、あやうく八重の潮合 いにさらわれそうに天候が荒れた。光はかろうじて亡き父帝の告げに導かれ、折しも「明石入道」がさし招くままに、なお西の、明石の里へかつがつ移り住む。 この辺りはもう「明石」の巻に入っている。
「海のおもては、衾を張りたらむやうに光り満ちて、神、鳴りひらめく。おちかかる心地して……」と春雷のすさまじかったさまが「須磨」の巻の最後の方に描 かれている。
 目を明石へ移すまえに、ちょっとここで蕪村の有名な「春の海終日のたりのたりかな」を思い出しておこう。この句、「須磨の浦にて」という但し書きがつい ている。日本中で、一年のうちに何度か、海は「のたりのたり」「ひねもす」先祖波をうつといわれる。そう信じられている。そして三月上巳は、ことに大事な その一日とされている。人は海に出てその日の波に大切に身を清まわる。蕪村ほど古典の通が、「須磨」の海をしかも「終日のたりのたり」と眺めたとあれば、 この久しい民俗とともに光源氏「須磨」の巻のみそぎの荒れをも、併せ胸におもい描いたのは必定だろう。それでこそ、この句、いかにも蕪村の藝になる。ひと しお面白く読める。「のたりのたり」であるはずの日に海が大きく荒れたことが、そのまま光君の運命を変えて行き、予言は一つ一つ満たされて行くのだから興 深いし、『源氏物語』の世界がいかに内懐を広く蔵しているかも知れる。(そもそも源氏物語は住吉詣にも察しうるように竜宮、海宮との縁が濃く、物語は微妙 に海に支配されていることを見落としてはならない。)
 それにしても私なら、『源氏物語』のためにも、いま現実の須磨の浦へなど出向いてみようとは考えない。実際に事実須磨まで行って来たから、つくづくとよ けいにそう思う。
  一の谷のいくさやぶれ
  うたれし平家の公達あはれ
  あかつき寒き須磨のあらしに
  きこえしはこれか青葉の笛
 思わずこんな小学唱歌を思い出してしまった。源氏ならぬ、これは、『平家物語』敦盛の討たれの名場面につながる。が、ここは光源氏を語る場所、先を明石 へ急ごう。
 関西へ帰って、というのも私は京生まれ京育ちの今は久しい東京暮しの作家だからそう言うのだが、大阪方面への国電のホームに立っているとよく「明石行 き」というのが来る。あれを見る瞬間、いつもからだの中のなにか機械が急にカタ、コト、とせわしなく調整するような物のきしむような音を立てる。現代の明 石と、『源氏物語』で身にしみついている明石との、とっさのせめぎ合いが起きているのにちがいない。
 明石にはもと播磨守で今は在地の豪家になっている明石入道が妻の尼とともにただ一人の娘を大切に育てていた。この入道の親は大臣まで勤めた名門だった が、光君の生母桐壷はその大臣からは姪にあたっていた。従兄妹の仲だった。志たかく此の播磨前司の入道は娘を高貴の人にめあわせたいと願いつづけ、かなわ ぬ時はむしろ「海」の神にささげるほどの気でいた。光源氏が須磨へ落ちて来た噂は彼をはげまし、嵐にことよせて迎えの舟を明石から送ったのである。
 源氏は誘いのままについにのちに明石上とよばれる娘を愛し懐妊させる。その頃には京の事情も動き、源氏はゆるされて、「紫上」をはじめ多くの妻や愛人た ちが待ちわびている都へ帰って行く。
 明石の別れは寂しくも涙にくれた、だが一面また将来に望みも豊かな、ふしぎに心波立つものであった。たった三人の子の、それもただ一人の女の子が今は明 石上の腹には宿されているのだ。やがて女は母尼とともに都へ上り、父入道の大願は歩一歩と果されて行くだろう。即ち明石上の生んだ娘がさらに天子の子をな して、その子が位につく日が来るのである。それは、まさに光源氏が果せなかったものの成就であり、母桐壼更衣や明石大臣家が果せなかった夢の実現になる。 世に幸福な人の代表者のように、のちにはサイの目ひとつ祈り出すのにも「明石の尼上」「明石の尼上」と手をもんだのは、都へも宮中へも娘や孫娘に付添った 明石入道の妻の胸の内を想像すれば察しもっこう。
 源氏が明石の女へ通い初める辺りを、余韻おもしろく、あえて原文で引いておく。女は岡べの家にいる。
「……つくれるさま、木深く、いたく所まさりて、見所ある住まひなり。海のつらは、いかめしうおもしろく、これは、心細く住みたるさま、『ここにゐて、思 ひ残す事はあらじとすらむ』と思ひやらるるに、ものあはれなり。三昧堂ちかく、鐘の声、松風に響きあひて、物悲しう、岩に生ひたる松の根ざしも、心ばへあ るさまなり。前栽どもに、虫の声をつくしたり。ここかしこの有様、御覧ず。女住ませたるかたは、心殊に磨きて、月入れたる槙の戸口、けしきばかり押しあけ たり。うちやすらひ、なにかとのたまふにも、(女は)『かうまでは、見えたてまつらじ』とふかう思ふに、ものなげかしうて……」
などとある。明石の上には紫式部の聡明と願望とが虚実を兼ねて重ねられている。


    宇治の里

 もう昔…といっても戦後のはなしだが、ある新聞社が日本列島の名山名川を読者の人気投票で上位十まで選んでいた、その時の「川の部」の断然一位が宇治川 だったのには、まず驚き、そして納得した。高校を出るか出ぬかの時分だった、というより私が初めて源氏物語を岩波文庫の原文で読みとおした頃の、なかなか 心にくい企画でもあった。
 最初驚いたには、理由が二つある。京生まれの京育ち、宇治川はあんまり身近でつい笑えてしまったのである。日ごろ間近に見なれていた人が、ある日ふいに 偉い人であったと知ってとまどう、あんな心地のしたのが一つ。同時に、たかが新聞の読者が(と思ったのだから正直に言うが)、よう見とるもンや、と感じ 入ったのが、その二つ。ほんまに宇治川は佳え川やと今でも思うが、まして宇治十帖を読み終えたような時だったから、身にしみて宇治川の一位が納得できた し、心嬉しかった。
 ふつう宇治川で思い出される古典というと、むしろ名馬生食(いけづき)摺墨先陣争いの平家物語の方かも知れない。そればかりではな勇壮無比、源平の橋合 戦があり、歌にすぐれた源三位頼政が平等院の庭に最期を遂げた哀れも、『平家物語』きわめつけの名場面になっている。
「小倉百人一首」には権中納言定頼の「あさぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木」もあれば、喜撰法師の「わが庵は都のたつみしかぞ住む よをうじ山と人はいふなり」というのもある。「万葉集」にも宇治の歌は多いが、柿本人麻呂による「もののふの八十宇治川の網代木にいざよふ波の行方知らず も」が、やはり図抜けている。
『源氏物語』は「桐壷」から「藤裏葉」までを第一部、「若菜」上から「幻」までを第二部とみて、次ぎに題は有って本文を欠いた「雲隠」の巻が来る。光源氏 の退隠と死とが暗示されており、第三部は光君の子孫、ことに「薫る大将」と「匂う兵部卿」が主人公となって物語はかなり様がわりに展開して行く。その主要 な舞台が、宇治である。断っておくが、この頃にはまだあの宇治平等院の鳳凰堂は出来ていない。
 宇治には、なき桐壷帝の「八の宮」つまり光源氏の弟にあたる親王が、ひっそりと世に背いて住んでいた。光君が須磨に流されていた頃、光の政敵にかっが れ、当時皇太子であったのちの冷泉帝(実は藤壺女御と光君との罪の子)を追い落す策謀に利用された宮であったため、その後を不遇に暮さねばならなくなり、 北の方にも早く死なれて忘れがたみの「大君(おおいきみ)]「中君(なかのきみ)]といわれる二人の女宮を大切に、しかし心細く宇治の里で育てていた。仏 の教えに心を入れて出家の志深い人だったが、娘たちの身の上を案じて思うにまかせぬまま、老いは加わるばかり。
 この八の宮の高徳の噂にひかれて宇治へしばしば教えを請いに出かけていたのが、光源氏の表向き次男(実は光正妻「女三の宮」と藤原氏「栢木」との間に生 まれていた罪の子)である「薫」であった。薫と八の宮との接近は、光源氏をはさんで微妙なもののあるのを、読み落とさないこと。
 薫には宇治の八の宮を訪ねる行為が幾重にも重要な意味をもつ。もともと薫が世を「うし=憂し・宇治」山へ心ひかれたのは、自分の出生の秘密をおぼろに察 して、隠遁の暮しにあこがれ初めていたからだが、八の宮を訪れ寄るうちに、この家に身をよせていた「弁」という、わけ知りの老女の口から、健在の母、女三 の宮となき父柏木との苦しい恋の秘密をまぎれもなく告げ知らされてしまう。その一方で、薫は八の宮の信頼をえて二人の女君たちの後見をそれとなく依頼され るようにもなり、姉の大君をひたすら愛してしまう。
 八の宮の家は、京都からは木幡山を経て、むしろ現在の平等院の向う岸にちかい辺りにあったかと想像されている。木幡には道長を始め藤原氏の大きな大きな 墓地がいまも残っている。そういう土地を、わずかな供で都からはるばる通って行く道中の難儀は、想像にあまるものがあった。「橋姫」から「夢の浮橋」まで いわゆる宇治十帖には、随所に、その露けくも草深く木深い心細いさまが、印象的な筆で活写されてある。いまは途中に巨椋池なく、かわりに黄檗山万福寺があ る。門前には感じのいい精進料理の風雅な料亭がある。
 八の宮は、やがて死ぬ。薫は、宮の遺託があったとして大君への愛を、求婚へと進めるのだが、大君は、父宮の本意は不幸な結婚などを戒めていたのだとし て、かたくなに諾けない。むしろ妹の中君を妻にと薫につよく勧める。姉妹をともに妻にしていいほどの己れと、薫が事実意識していたことは注目されるが、大 君への熱愛を表現すべく、彼は、親友で、表向き甥にも当る匂宮をひそかに宇治へ伴い、自分より先に中君との「世」の仲を遂げさせてしまう。しかし今上の帝 と「明石の中宮」との類いない愛子である匂宮の辺鄙な宇治通いは容易でなく、夜離れの日々が重なると、妹は嘆き、姉はうらむようにして薫を拒みとおしたま ま、はかない命を終る。薫はかくて八の宮に死なれ恋い慕う大君をも死なせて、一度は空しいながらも一夜をともにした仲の中君をさえ、ついには匂宮の二条院 へ連れ去られてしまう。
 この邸は光源氏の生みの母「桐壷」以来の因縁深い根拠地であり、光終生の妻「紫の上」もここで少女から女となり、また六条院からわざわざここへ戻って死 んで行った。匂宮は、この邸を「はは」とも呼び慕っていた祖母紫上から直接譲られていたのである。
 このことはあまりにも重要な事実というべきで、この此処へ、匂宮が宇治の中君を妻として迎えて子を生ませたのは、まさに桐壷更衣と紫上との望みを、みご と成就させたほどの象徴的な意義をもっている。匂宮の第一子とあれば、その子はのちに東宮にも天子の位にも達しうるのであるから。
 薫は、失意の底にあって、いまは人妻の中君にまつわりつくのだが、中君はそんな彼に、よそで育った異腹の妹の「浮舟」が、なき姉の大君に生きうつしだと 告げる。源氏物語最後のヒロインが、かくて登場する。薫は案の定、浮舟をなき人の忘れがたみのように深く愛し、宇治の八の宮故居に隠れ住まわせるのだ が……。
 浮舟を、妻の中君のもとであらわに見知っていた色好みの匂宮が、宇治にと知ってひそかに浮舟に通い初め、惑溺の愛欲に二人は行方も知らず流されることに なる。ある時は宮は女を小舟にみずからかき抱いて乗せ、宇治川を向う岸の隠れ家へはこんで、夢ともうつつともなく終日過ごすこともあった。だが薫がそれを 知る日は、はや、来た。
 宇治の橋は名にしおう急流にしばしぱ流された。ただし物語の頃に、宇治の橋が架かっていたのかいないのか、叙述がない。それにしても匂宮が浮舟のために 描いて与えたという、あら波の川背を一葉の舟にひしと抱き合うてわたる男女の絵は、あてどない二人の恋を押し流した宇治川の「憂しのあはれ」をしのばせる に足る。
 二人の貴公子に愛された板ばさみに負けて、浮舟は、身をいたずらに宇治川に沈めようと思いしみ、そしてある日、彼女の姿は人々のまえから姿を消してしま う。薫も匂宮も、こもごも身を絞るばかりに嘆いたが、浮舟の行方は知れず屍骸も見つからなかった。
 急ぎ足に「橋姫」から「蜻蛉」の巻まで、宇治十帖の内八帖を紹介した。
 つづく「手習」と大尾「夢の浮橋」の巻とは、先述の「北山・小野の里」の項へ譲る。北山から北山へ、京の市内をのぞけば、源氏物語の舞台は大きな円環を 成してもいる。
 それはともあれ宇治の八の宮や女君二人を慕って薫らが通ったのは、いまは道元禅師を開山の興聖寺のある辺りだったろうか。山みずの、音も清々しくて琴坂 ときく参道を寺中ふかく歩み入る風情は、いつ出かけても身も心もしみじみ洗ってくれる。
 そして、浮舟がものにさらわれたまま、川べに繁る木叢から「北山の僧都」らの手に救いとられたのも、やや下流、今もひそやかに木蔭に多く恵まれた恵心院 のある辺りであったようだ。名高い横川の恵心僧都こそは、美女浮舟を平静に導いて物語のはてをとじめている北山の僧都のモデルか…とも、古来推量されてい る。
 さらに今ひとつ、八の宮がいとしい女君二人に心をのこしつつも最期の地として入山を遂げた山寺とは、興聖寺や恵心院からは真北へ朝日山を大きく越えた、 奈良時代末の創建と伝えて杉木立ちも奥深い明星山の中腹に、森閑としずまる三室戸寺ではなかったか。
 架空の物語の舞台を現実の地名や建築に擬してみたいのは、読者心理として自然なものだろう。が、それも過ぎれば、白けたはなしになりかねぬ。
 こういう読みものの場合、私がいつも願うのはこれだけで満足してしまわないで、古典に、この場合ならば『源氏物語』に、じかに触れてほしい…という事。 ただしこの物語、たとえ現代語訳であれ、なみなみの気向けでは読み切れない。なにしろ長い。長いにもかかわらず、じつは『源氏物語』ほど面白く創られた小 説、けっして世界中にも数あるわけではない。現代の我々の暮しなどとは、あまりにもかけ離れた絵空事かのように、読む前からかたくなに誤解し腰を引いてい るから読めなくなりがちなだけで、本当は、「人間」を、こうまで生き生きと深く観て、現代の男にも女にも、まざまざと多くを問いかけて来る物語は、世界文 学にもそうは多くない。
 「古典の旅」とは、その古典に書かれているらしい場所をただ訪れてみる、そして何かを分ったような気になる……それしきの事では、あるまい。そんなこと では、かえって罪深い。だからこの稿を書くに当たって、『源氏物語』に、なるべく興味をひかれて読みたくなるようにと、あらまし紹介しようとした。興味を もって読み出せば、なにほどの長さでもないのだ。私は、少なくももう二十度ちかくは読んでいる、が、いまもって、ふーン、ふーン……と、初めて読むような 発見や感動をいつも新たにしつづけている。真実の古典とは、そういう「旅」をこそ楽しむものに相違ない。
 自身の「所有」として、幾重にも慾深く「読んで」ほしい。