講演・ 源氏物語 1995.5.13




  桐壺更衣と宇治中君
    
  ー紫のゆかり成す、愛らしき女人たちー  
                 源氏物語の美しい命脈


         秦  恒 平 
                                   

  (演者関連著書)
  『加賀少納言』『或る雲隠れ考』『夕顔』『絵巻』『源氏物語の本筋』
  『女文化の終焉』『京のわる口』『京都感覚』『春は、あけぼのあ』 等


 なぜこんな題を、こんな選び方をしたのだろう。いずれかといえば、この二人とも、たとえば紫上や、六条御息所や、明石 上や、玉鬘や、浮舟といった人にくらべると、ただ地味なというだけでなく、さほど重要とも思われない女人ではないのか…と、そうお考えの方が多いかも知れ ません。
 私は、そうは考えておりません。それどころか、遠く遠く隔たったような二人ーー源氏物語五十四帖の、最初と、最期といってよい位置を占めているのですか らーーあまり縁もなげに想像されるこの二人を、あたかも一対にして「源氏の女たち連続講演会」の幕開きに臨もうというには、それなりの理由をもっているつ もりです。
 一つには、この二人を対に眺め考えることで、『源氏物語』の大筋を、太い線でしっかり引くことができます。物語が長大であればありますほど、輻湊してお ればおりますほど、「大筋・主筋」を的確につかんでいるかどうかは、大事な「読み」の勘どころとなります。「桐壺更衣と宇治中君」とは、まさに、この勘ど ころを占めて揺るぎない女性なんです。 今一つに、女を見る・描く視線や評価において、じつはこの二人が共通して占める美点がある。源氏物語に登場する多 くの他の女性を、いわば「批評的に鑑賞」します場合に、この二人の美点が、不思議なほど、原点とも到達点とも謂える典型的な内実を帯びているんですね。そ ういうことをよく踏まえて源氏物語の女性たちと付き合っていくのが、読書としても有効である・あったと、ま、体験的に、私は考えているわけです。

「本筋」「主筋」ということで、冒頭、まず手短に申し上げておきましょう、キイになる言葉だけでも頭に入れておいていただきたい。
 源氏物語の数多い女性のなかで、物語世界に最初に登場するのは、言うまでもなく源氏の生母「桐壺更衣」であり、また、光源氏の物語世界を、夫とともに順 当に相続しまして、大きな大きな物語を、あたかも締めくくる役どころにいるのが「宇治中君」です。中君は今上天皇の第三皇子「匂宮」ー光君と紫上とが最も 愛した孫「匂宮」ーの、本妻です。いずれは日嗣の御子とさえ約束された男子を、すでに生んでいます。
 この「桐壺」から「中君」に至る太い物語の線を、しっかり辿って行きますと、そこに、「二条院物語」とでもいうべき、源氏物語のなかの「また一つ大きな 物語世界」が出現し、これがもう一つの大きな「六条院物語」と列び立ちまして、いわば壮大な源氏物語の相寄る「主筋」を成して行きます。
 前者の二条院物語は、いわば「母」の筋、後者の六条院物語は「子」の筋とも、また前者は「愛」の筋、後者は「天子=天皇へ」の筋とも謂えましょう。
 昔からよく謂われます「紫のゆかり」の筋は、「二条院」という「女=母=妻」の館を主要な場に、深い或る念願・祈願を秘めながら展開し達成されて行きま す。二条院はもともと光君が生まれた家、母桐壺の実家なのです。そしてこの二条院で中君もまた母となっています。「桐壺」と「中君」とを倶に「読み」こむ ということは、まこと『源氏物語』の「より内なる本筋」を貫通し且つ把握することになるのです。私が、特に、この愛すべく美しい二人の聡明な女人を、同時 にここへ誘いだし、またお話ししてみたいと思います所以も、そこにあります。

 いま一つ、この連続講演の皮切り役としましても、ぜひ、触れておかねばならないのが、私は、「ことば」のことだと考えております。京生まれの京育ちであ ります私に、或る意味でふさわしい役目が与えられていると思うのです。
 私は小説を書き、批評を書き、またエッセイを書いて生活しております。「ことば」が、わが生命線をなしていると申し上げていい。もとよりその「ことば」 とは「日本語」であり、私の場合、かなり根も深く「京ことば=京都の言葉」だということになります。
 私は京都をはなれ、東京で生活をしてもう随分になります。東京には、全国からたくさんな人が出て来て暮らしています。たしか荻生徂徠でしたかが喝破して おりましたように、昔から江戸は、そして現在の東京も全くそうでありますが、いわば「旅宿の境涯」つまりは「旅先の暮らし」同然の感覚で生活している者が 多い。根の思いは、みな、故郷に置いてある…と、そう荻生徂徠は見抜いていたんですね。
 そうかも知れない。そうではないのかも知れません。が、東京に永く暮らして私の感じてきましたのは、京都という「土地」に対しては根強い人気がある。し かし京都の「人間」に対しては、なんだか腹が読めない、言っている意味の白い黒いがハッキリしない、と…、だいたい、そんなふうに思っている人の多いこ と……、これは、いわゆる「京ことば」は分かりにくいという批評、ないし非難になっているんですね。しかも国会での、あの大臣や官僚らの答弁にイライラす るのと、よく似ている点にも、ご注意いただきたい。大臣もお役人も、べつに京都の人ではないんですが、物言いが、どこか、似ている。
 こういう大臣・官僚また企業や大学の上の方の人たちが外国へ出かけまして、外交や商談や対話をしてくると、おかしなことに、日本列島のなかで「京こと ば」の「京都人」が言われるのと、ちょうど同じ按配にーーなんだか腹が読めない、言っている意味の白い黒いがハッキリしない、と…、だいたい、そんなふう にヤラれて帰って来ることが多い。なにも「日本語」でやりあって来たわけじゃ、ない。それなのに、その…発想や、判断や、態度に、それらの基盤に、「日本 語の日本人」が、イヤでも露出してくるという事でしょう、それは。世界の目に、京都人と日本人の区別なんか、有りません。なんだか腹が読めない、言ってい る意味の白い黒いがハッキリしない日本語「で」、話したり、考えたり、引いたり押したりして来る日本人がいて、ま…イライラするらしい。
 割り切った物言いを致しますと、どうも、「日本語」には、そういうふうに思われがちな素質が、本来、在るんだと。その素質を、「京ことば」は、特に色濃 く、歴史的にもながく持ってきたのだと。そういう事じゃないでしょうか。少なくも古今和歌集このかた、むろん源氏物語や枕草子もふくめまして、「古典語」 というものの実在を認めると致しますと、その多くが、ま、京都を「場」に、生まれ、育ち、磨かれてきたと、そう申し上げても言い過ぎでは、ない。
 言葉は、暮らしの現場を流れ走る血潮も同然のものですから、久しい間に「京ことば」と「古典語」と、ひいては「日本語」との間に、或る抜き差しならない 相互浸透の関係がガッチリ結ばれていたと考えましても、これまた、かなり自然の成り行きであったろうと想像されます。この認識は、じつに、大事な、例えば 日本文藝を研究する上での欠かせない手続きだと思うのですが、意外にこれがなおざりにされてきた。その為に、なにかしら明治以前と明治以後とに、「日本 語」の表現は、べつものに生まれ変わったんだという程の、錯覚ーーあえて錯覚と申しますがーー錯覚が固まってしまった。そして錯覚に気付いて、日本語 「で」表現する妙味を、遥かな古典と、その表現にも学ぼうと実践したタイプの作家たちーー泉鏡花とか谷崎潤一郎とか川端康成のような人たちーーを、いささ かならず、ワキへ置いておく感じの、近代・現代の文学史が出来てきたと、私は見ております。
 大江健三郎のデビューして間もない頃に、彼のこういう日本語は、「どうにも我慢がならない」と、珍しくも谷崎潤一郎が言葉激しく批判したのは有名なこと ですが、日本語で読むより、翻訳された外国語で読むほうが実にシャンとしてよく分かる「あいまい批判」の大江さんの文学が、今や、世界に、日本を代表して よく伝わっている。谷崎も川端も世界語に翻訳されていますが、それを凌駕する勢いがある。しっかり、ある。その結果としてノーベル賞が贈られた。まことに 象徴的な事件でありました。
 日本語はーー京ことばは特にそうですがーー物ごとを明確に伝達できる言語というよりも、むしろ明確には説明しないまま、真意や本意をほのめかす言語だと 申せましょう。もともと「ことば」とは、大なり小なりそういうもので、谷崎も言っていますが、饅頭のうまさを明確に「日本語」で説明するのは、まず無理な 相談です。説明できなければこそ、表現せざるをえない。そこに文藝の「藝」が生じて、和歌・歌謡も、物語・芝居も、謡曲や俳諧も生れ育ちました。日常会話 にも自然とその「藝」は浸透したでしょう。「朧ろにものを言う」「朧化法」という表現は、「言いおおせて何かある」とする日本語の素質が洗練され行く上 で、大きな大きな感化を及ぼしたはずです。そして、この「朧化法」の最も芸術的に優れた達成こそ、いま話題の『源氏物語』だと広く言われてまいりました。

 と、言うことはーー源氏物語の登場人物の物言いも、物語の語りそのものも、疑いなく「朧にものを言う」「朧化法」を現に実演しているものと見て、万に一 つの間違いも無いでありましょう。
 なぜ、しかし「朧ろにものを言う」のでしょう。その方が「まるく」おさまるから。なにもハッキリ言う必要はないんだ、と。言わなくても、分かる人は分か る。分からない人は、いくら言っても分からない。そういう言語観が根づいて来た。一見言語への不信感とも受け取れるんですね、「言ったって仕方がない」 「口は重宝」「言うのは簡単」「言葉にならない」「言ってるだけさ」「無論」「勿論」「問答無用」「沈黙は金」と……。
 何かを正確に、明確に伝えるのに、言葉が、必ずしも万全の手段ではないと知り尽くして、言葉と付き合っているわけですね。ですから「うそも方便」にな る。「じょうずに、うそを、つかはる」というのが、京都では、必ずしも「わる口」でない、むしろ、褒めてさえいる。「じょうずに、うそを言う」のは、「な んでもハッキリ言う」のより、よほど高等な口の利きようとさえ、されています。うそがうそと判断できないのでは、ない。言う方でも聞く方でも、うそはうそ と承知の上で調子を合わせ、「まるく」おさまり合って行く。源氏物語の人物たちは、まさに、こういう物言いの達人たちです。
 例えば浮舟という美女をはさんで、猛烈な鞘当てをする匂宮と薫君とが、浮舟失踪後にかわす会話。また浮舟の消息を知った明石中宮ーー匂宮の母ーーが、戸 籍上の弟に当たる薫君にむかって、それともなく、相手の顔を赤くさせないようにように、仄めかし伝えてやる物言いや、まるで、よそごとを聞くか言うかのよ うに、さりげなく、それに相槌を打っている薫君の物言いなど。感嘆もしますけれど、ウズウズもイライラもする。絵に描いたような「京の物言い」であり「日 本語」の表現でして、それが、素質として現代へも紛れなく伝えられています。ハッキリ言うくらいなら、ウソにして上手に言う。ものごとを明確にするために 言葉が在るわけではない…というわけです。説明の手段としてよりも、人間関係がうまく作動すればいいという、「ことば」観なんですね。
 しかし人間の関係は、ただ「まるく」おさまれば済むといった簡単なものでは、ない。もっと闘争に近い。「位」を張りあい取りあい、少なくも人より下めに 立たずに済むように生きて行かねばと、とくに、律令の「位」社会に生きた源氏物語や枕草子の世界の人らは必死でした。その際の武器はといえば、けっして刀 でも弓でも、ない。「ことば」です。日々の「位取り」を「ことば」で達成して行く。その為にも、じつは、ハッキリものを言い過ぎるのはたいへん危険なんで す。さぐり、まさぐり、朧ろに仄めかしながら、出るか退くか、いつも微妙な判断を強いられます。そして知らず知らずに相手を、他者を、凌いでいたいわけで す。源氏物語の語り口も、人の物言いも、これを、実践して実践して実践しぬいています。

 ここで、「桐壺」の巻書きだしのところを、岩波文庫の原文で、読んでみます。

 いづれの御時にか。女御・更衣、あまたさぶらひ給ひけるなかに、いと、やむごとな き際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。
 はじめより、「われは」と、思ひあがり給へる御かたがた、めざましき者に、おとしめ 嫉み給ふ。おなじ程、それより下臈の更衣たちは、まして、安から ず。朝夕の宮仕へに つけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけむ、いと、あつしくなり ゆき、物心細げに里がちなるを、いよいよ、「あ かずあはれなるもの」に、思ほして、 人の謗りをも、え憚らせ給はず、世の例にもなりぬべき、御もてなしなり。

 これを今度は、谷崎潤一郎の、有名な現代語の決定訳で聴いていただきます。

 何という帝の御代のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候していました中に、たいして 重い身分では無くて、誰よりも時めいている方がありました。最初か ら自分こそはと思 い上っていたおん方々は、心外なことに思って蔑んだり、嫉んだりします。その人と同 じくらいの身分、またはそれより低い地位の更衣た ちは、まして気が気ではありません。 そんなことから、朝夕の宮仕えにつけても、朋輩方の感情を一途に害したり、恨みを買 ったりしましたのが積り積った せいでしょうか、ひどく病身になって行って、何となく 心細そうに、ともすると里へ退って暮すようになりましたが、帝はいよいよたまらなく いとしいもの に思し召して、人の非難をもお構いにならず、世の語り草にもなりそうな 扱いをなされます。

 源氏物語は言うまでもなく「語り・語る」建前で書かれています。つまり語り手がいる。そう思ってこの谷崎訳を聞いていますと、やや客観中立といった冷静 な口調です。腹に一物の人間が喋っているようには思われず、なんだか冷たい機械の声を聞いているような気になる。
 で…、今度は、私が、かりに今日の京の物言いに直してみますので、お聴きください。

 どなたさんのご時世やったンやろか。女御さんャ更衣さんの、たんと、お仕へしとゐや したいふなかで。えろ、まぶしいほどなお家の出ェやないのンに、人 一倍なご寵愛、受 けとゐやすお人が、をしたんや。
 御所さんへ、お上がりやすまへから、「あてこそ」と思て、なにかにお高ゥ出てはった お人らは、気にさはる無礼な女やて、わるゥも言ははる、嫉まはりま す、のやわ。同し ほどなお家柄のお人とか、もつと下々の出ェの更衣さんらは、まして笑てなんか見てら れへん。朝に晩にてお側近うィ上がらはりますのン を、見せつけはるにつけて、お仲間 に、憎い妬ましいて思はせつづけはつた。その恨みを、いつぱい身に負うたンが積もり 積もつたンやろかいなァ、なんャ 病ひが重りぎみになつてしまははつて。もの心細さう ォに、つひ、お里ィ下がりがちにしてはるのンを、ますます、「片時かて離れてとない 人や」なンや て、きつう、お思ひこみにおなりやすばつかりで。はたの者がどないに悪 言はうも、お気になさるいふことかッて、よォ、おしやさらへん。まァ、のちのちの 語 りぐさにも成りかねへんよな、お大事に、なさり様、どすのンや。

 源氏物語の本文がイコール京言葉だなどと言う気もなし、現在の京言葉でも、市内の地域によってかなり調子は違うんです。そんなことはみな承知で、ほぼ逐 字的にこう訳してみますと、いかにも、宮廷や周辺に巣くう「わる御達」つまり情報通の女たちの物言いが、耳立って来ないでしょうか。原文の端々・隈々が畳 み込んでいた、語り手(たち)の、なんとも微妙に「イヤぁ味な」位取りのキツさが聞こえてきます。読み取れてきます。
 例えば「桐壺更衣」に対し、この語り手が、ひどく、敬意の出し惜しみをしていますことが、「ありけり」「恨みを負ふつもりにやありけむ」「あつしくなり ゆき」「里がちなるを」等の、突き放した乾いた物言いに察しられます。けっして「おはす」とも「御宮仕へ」とも「負ひ給ふ」とも語ってはいないんですね。 その辺の、女同士らしい、陰に籠もり気味に意地を張りあった感じは、こうして京言葉で読み込んでみた方が、谷崎さんふうの取り澄ました現代語訳よりも、 ずっとこまやかに把握しやすいんじゃないか。どうでしょうか。
 もう一度ここで、「ものがたり」という意味を考え直しておくことは、無意味ではないでしょう。漢字で書けば「物=物質」の語り、せいぜい広げて「物事= 物や事」に関わる語りのようですが、「モノすごい」「モノモノしい」「モノ哀れ」「モノ淋しい」「モノ忌み」「化けモノ」などという言葉から推しまして、 この「モノ」が、物質的なものであるより、心的・霊的なものらしいことは優に察しられます。「モノの部=物部」という古代氏族の名も、また「大モノ主の神 =大物主神」という神様の名も、むしろ心的で霊的な威力・能力と関係した、モノ畏ろしげな名前であったらしいことが察しられます。なにかしら、やむにやま れず、暗い背後から、根の深みから、語り出されてくる、そういう語りを、おそらくは根源のところで「物語」と思ってきた久しい歴史があり、そして「語り 部」のような職能・職掌が、活躍もしたのでありましょう。
 ま、紫式部の時代は、そういう根深くも遥かな時代からすれば、うんと開化していましたから、そうも陰に籠った解釈は無用でしょう、が、それにしても、源 氏物語を読んでいますと、明らかに高貴の内幕によくよく通じた、それも複数の、「影」のような人物たちの「語り」であることが、分かります。
「影」たちは、高貴の内幕にいて、自身はけっして口を挟んだり干渉したりできる立場にいない。けれども、と言いますか、だからと言いますか、黙って、時に は頬でだけ笑って、つまり頬笑んで、そして凝ぃッと、何ごとも見たり、聞いたりして、黙って胸に畳んできた。それを機をえて、内緒の話として、お互い似た 立場の差し障りの無さを確認しあった上で、堰を切ったように「語って」いるのが、こういう上つ方に関わる物語の、ひとつの枠組みなんですね。源氏物語のよ うなお話を、光源氏や紫上が自身で語っているなんてことは有り得ないんでして、必ずや間近に仕えていた情報通、つまり「わる御達」、時には似た立場の 「男」たちも混じりまして、次から次へ、お互いに知っている内緒ばなしを伝え合い、また興じ合っている。時々、ぽろりと「草子地」と申しますが、地声のよ うなものが現れる。そこが、ちょうど作者による地の文の露出のようにも読めて、なんだか、じつに生々しいリアリティーが伝わって来たり致します。
 いわば従者たちの「眼」や「耳」や「口」が活躍して、「源氏物語」というものは実現している。そういう建て前、つくり、なんだと考えていいのでありま す。
 そのての人物は、さりげなく、生き生きと、大勢、じつは物語に登場しています。光君の側近には「惟光」のような訳知りや、「中将」「中務」などという女 房がいます。紫上には「少納言」、桐壺院には「靭負命婦」、藤壺には「王命婦」「夜居の僧」、明石上には「宣旨の娘」、夕顔や玉鬘には「右近」、柏木には 「弁の尼」、女三宮には「小侍従」などと、際どいところまでよくよく見知ったのが付いていまして、枚挙にいとまもない。いわば作者紫式部がこういう人物た ちをインタビューし、取材すれば成り立つ作品なんだとさえ申せます。こういう人達が自身を「影」に成して、いろんな秘密の話を物語ってくれていると想像す れば、源氏物語、甚だ分かりがいいわけです。そして、彼女らや彼らが物語る物言いは、いきおい、断定的ではありえません。仄めかしに終始します。信じても いい、信じなくてもいいんですよ、という口つきになります。
 こういう「影」たちの立場は、いつも微妙でした。露骨には振る舞えなかった。表立った場所であればある程、いつも自分を押さえまた殺して、じっとものを 見たり聞いたりして来たでしょう。黙って批判もしていた、冷笑もしていた、羨望も嫉妬もして来たでしょう。そういう人物たちの言葉が、無条件に優しくて親 切なものであるわけがない。辛辣です。底意地もわるいでしょう。しかし下品にはなれない。独特の含んだ物言い、持って回った物言いになります。私の訳して みた京言葉の源氏物語を、ちょっと思い直してみて下さい。
「いづれの御時にか」というのが、源氏物語の有名な語り出しですが、これは、そのまま京言葉の基本になったとすら言えます。なぜなら、これは「どなたさん のご時世やつたンやろか」と人に質問をしているわけではない。質問の形をかりて、そのあとへ、「あては=わたしは、知りまへんえ」と、いわば言い逃れが付 け加わっているんですね。「いづれの」「御時にか」と疑問の語を二つ重ねてみせ、自分はこの話ぜんたいに責任はとらない、あんたさんは信じても信じなくて も宜しいが、こっちも責任は取らないという姿勢を打ち出している。これが、京言葉の基本であり、じつは日本語「で」発想し、態度を決める、大方の日本人 の、基本の姿勢・処世のように思われるのです、ちょっと、キツいかな。
 ずいぶん長い「枕」をふるものだ、源氏物語なんだぞ、枕草子の話じゃないんだぞと、お叱りを受けそうです。しかし、無駄話をしているわけではない。言葉 と物言いとについて基本の理解をもつのは、事が「物語」であればこそ、肝心かなめの手続きというもの。敢えて長々と申し上げたのも、そもそも「桐壺」を語 る私の役目の一つだと思うからです。
 で、いよいよ本題に入りますが、まず「桐壺」の巻、源氏物語の首巻そのものから話題をくつろげて行きましょう。

 言うまでもなく「桐壺帝=のちに、院」がおられ「桐壺更衣」がいての「桐壺」の巻ですが、もともと、この帝の寵愛あつい更衣の居場所が、後宮の「桐壺」 なんですね。一人の更衣=やや下級の妃が、この際桐壺の女主人なので桐壺の更衣と呼ばれ、その更衣を愛するあまりに本意なく死なせた帝なので、桐壺の帝な いし院とお呼びするようになっている。そして別の一対のいわばご夫婦をさして、同じく「桐壺」というふうに「ひとつもの」に呼んだ呼び名は、源氏物語五十 四帖で、他に一例もありません。それだけでも「桐壺」の帝と更衣とは一対に、よほど「重大な意義」を作者によって用意されたものと見ることができます。
 それは何か。それを「読む」ことから、源氏物語は真に始まるのです。
 ことは「桐壺」の巻だけの問題ではない。物語全編の「本筋」をつよく示唆するものがある。また単に、ひとり桐壺更衣の人柄を問うにとどまらない、物語を 貫く「運命劇」の具現と予言とを、読み取ることにも繋がります。
『無名草子』という、最初の源氏物語評論の本は、こう書いています、「巻々の中に、いづれか、すぐれて心にしみてめでたく覚ゆる、と言へば、桐壺にすぎた る巻やは侍るべき」と。
 では、この巻から、何が「読み取られる」べきなのでしょう。大きく言って、二つ、あります。
 先ず1 光源氏が、一度は失ったかに見えた,天子ないし天皇の位を「超えるほど」のものと成って行く物語の本筋が、ここに用意されています。それにも二 つ,筋がある。
 一つは藤壺=紫上=宇治中君を通じて、皇胤=宮筋が、天子の位=王権を回復して行く筋で、いわば「二条院物語のA」を形成して行きます。
 今一つは桐壺=明石の一族が、如実に天皇の位=皇権を達成して行く筋で、「六条院物語」を形成して行きます。
 次に2 不本意に母を喪った光君が、母に肖た理想の妻と添い遂げる本筋も、この首巻できっちり用意されています。いわば「二条院物語のB」が形成されて 行く動因も発端も、この「桐壺」の巻に明記されてある。それについて、ざっと申し上げておきますので、お聞きを願います。
 さきにも読みましたように、桐壺帝の度外れて底知れない愛欲が、桐壺更衣をあたかも「よこざまに」に死なせて、幼い光君から母親を奪いとることになるの が、源氏物語世界の発端であり、動因です。「初めに、父帝の(世のそしりを受けるほどの)愛欲ありき」なのです。だから後に、この子は、この父の愛妃であ る義母の「藤壺」を犯して「冷泉の帝」を生ませてしまう。藤壺は桐壺更衣に生き写しであったために、更衣の死後に、帝に強く望まれ迎えられた妃でした。光 君は藤壺に母を感じつつ、男としても恋したのであり、父帝は、母親を死なせた償いに、運命の埋め合わせに、事実上妻の藤壺を子の光君に与えた、というに等 しい成り行きを示しています。
 母桐壺更衣の里は、前にも申しましたが、都の二条にありました。更衣も、その老母もそこで亡くなりました。光君は、成人してすでに正妻葵上を得ましてか らも、我一人の落ち着いた本宅として、この、亡き「母」方の里を立派に調え、そして、このような重大な、意味深長な述懐をしています、「『かかる所に、思 ふやうならむ人をすゑて住まばや』とのみ、嘆かしう思しわたる」と。彼の頭には、この当時、藤壺のことしかありません。亡き母のこの懐かしい家に、「思ふ やうならむ人=藤壺をすゑて」一緒に住みたい、と。「二条院」とは光君にとって、そういう邸であったのです。「桐」や「藤」の、紫に咲き匂う、花のような 「母」の面影に、占められた根源の家屋敷であったわけです。それにしても藤壺は、現実に父帝の中宮でした、妻でした。決して光君の妻とはなり得ない女人で した。
 そこでこの二条院へ、光君は、藤壺がかなわぬならばと、藤壺の姪にあたる「若紫」を、
あたかも奪うように隠し据えまして、こよなき「紫のゆかり」として愛します。後の正妻「紫上」であり、理想的な妻としてあまりにも有名なので、なにも申し 上げません、が、この紫上は、亡くなります直前には、この世の極楽かのような光君の六条院から出まして、望んで、懐かしい二条院に立ち帰りまして、わたく しの死んだあとには、きっとここへお住みなさいよ、あの庭の紅梅と樺桜の木とを、この「はは」だと思い、大事になさって下さいねと、さも遺言のようにし て、まだ幼かった「匂宮」に「二条院」を譲るのです。生母桐壺更衣がそこで死に、義母藤壺とこそここで一緒に住みたいと光君が願い、その願いをさも実現し たかのように最愛の妻紫上とここに久しく住んで、その死を見送った邸、それが「二条院」なのです。その二条院をば、光君の死後も我が住まいとした「匂宮」 こそは、真実、光君と紫上との「愛」の相続者なのでした。
 匂宮は、「紫上」のことを「はは」と呼んでいたようです、事実は「ばば」に相当していましたが。この紫上ほど完備した人徳の持ち主にも残念ながら欠けて いたのが、「子」でした。「子」を産まなかった。だれにもだれにも、それは無念なことであったのです。匂宮は、紫上が心して愛育した光君の娘「明石女御= 中宮」の生んだ皇子の一人でした。桐壺更衣は光君を産むと育てるひまなく早く死に、藤壺は罪の子冷泉帝を生んで尼になり、紫は出家もならず子ももてずに亡 くなりました。そういう「二条院」の女主人たちの思いを、幸せに「成就」すべく登場する女人が、すなわち表題の「宇治中君」でした。彼女の聡明に美しいと りなしは、匂宮の愛を深く得て、玉の男の子をこの「二条院」にみごともたらしたのです。匂宮は次の皇太子にとも目されています。更にその次の皇太子には、 この中君の生んだ若宮がなる可能性はたいへん高いと、物語のなかでも、すでに噂されています。まさに「紫のゆかり」が多年の思いを遂げてゆく「二条院物 語」と、私の申す意味も、かくて、大きな筋が通ったわけです。
 この大筋に、常に企図され、願望されてきたのは、言うまでもない「天子」の位です。「二条院」も「六条院」も、この「皇位」なる尊位を芯に形成されてい た世界なのですが、まず「六条院」の筋から見て参ります。

「光源氏=光君」という人物は、そもそもの初めに、皇位から絶対的に遠ざけられた存在として、運命づけられています。「源氏」という、臣下の地位に、父帝 の配慮でおろされています。光源氏の物語は、皇位に関するかぎり「喪失からの出発」の物語なんですね。皇位は、一の皇子の朱雀帝へ渡され、その代わり、と 言ってもいいと思いますが、光君には、半ばは神かと思われるほどの、美貌と才知とが授けられています。現世の天皇たりえないその代わりに、「真の王」にも ふさわしい力量が与えられ、尊敬される。まさに「光る君」なのであり、「輝く日の宮」と称えられた藤壺との間に、のちの天子、冷泉帝を儲けるにふさわし い、理想化の設定が成されています。この冷泉帝誕生のおり、「おなじ光にてさし出で給へれば」と言われていますのも、桐壺帝を同じ父とする兄と弟なのだか らと謂うようでいて、じつは、実の父親が「光君」であることを示唆しています。また「月日の光の空に通ひたるやう」によく似ているとありますのも、同様で す。また生母藤壺が「玉の、光輝きて、たぐひなき御覚え」と、真相をご存じであれ、また無かれ、桐壺帝のご寵愛はまことに深かったとしてありますのも、意 味、まことに深長と読めます。

 さように「桐壺」とは、ものの初めに、揺るぎない礎のように据えられた巻の名であり、また女人の名であったわけですね。そして「光」や「日・月」に飾ら れまして、光源氏の物語は、着実に、半神半人ふうの「真の王」にふさわしい栄華と権勢の実現へ、つまりはこの世の極楽にもひとしい「六条院世界」の完成へ と向かって行くことになります。
 一人の源氏から、「六条院」という上皇に准じた地位へ光君は上り、時の帝は実子冷泉天皇であり、次代の帝の妃には実の娘が上って、次々の皇太子たるべき 男宮が、もう二人も三人も生まれているのですから、いかに「六条院物語」がめでたい成り行きを得ているかは、言うまでもありません。
 とはいえ「六条院」の栄華と全盛も、たやすく成ったものではありませんでした。「須磨」「明石」の流謫といった試練が、光源氏にもありました。が、それ さえも「本筋」を成就すべく運命が仕組んで導いたものかのように、光君は、生母桐壺の従兄弟にあたります「明石入道」の娘を愛し、のちに明石女御=中宮と なり、匂宮たちの母親となる娘を儲けています。
 でも、何と言っても、権勢を競う世界のことです。確執は、皇胤・宮筋と藤原氏との、陰に陽に、激しい闘争のかたちで随所に表れています。葵上と六条御息 所との「車争い」もそうなら、「須磨」への流されも、「絵合」はじめ後宮の優美な競いも、匂宮と薫君とが中君や浮舟を争うのも、みな象徴的な皇家・藤家の 確執の例であります。全編にそれが見られ、それを乗り越え乗り越えして、光源氏と子孫とが、満開に花ひらく物語であったのだということを、忘れるわけには 行かない。何故かそれは、作者紫式部の生きた、現実の藤原摂関時代とは、ちょうど逆様のありさまが語られ、書かれているのでした。
 ついでながら、「いづれの御時にか」とありますけれども、源氏物語の時代設定は、いろんな本文・内証から致しまして、宇多法皇につづく、醍醐帝を桐壺帝 に、そして朱雀天皇の御代についで、現実には村上天皇・天暦の聖代を、物語では、光君と藤壺の子の冷泉帝の御代に宛てたかに、巧妙に設らえてあります。 「物語」というのは、過去に、さも実際に有ったことかのように語るのが、一つの約束事になっています。その約束をうけて読者ないし聞き手は、いろいろ想像 をはたらかせる楽しみや面白みを共有するわけですね。

 さて今すこし本筋の女主人公というべき「紫上」から「宇治中君」へと繋がる線について、納得しておきましょう。
 紫上は式部卿宮の娘であり、中君は宇治八宮の娘です。ともに皇胤=宮筋の女人たちです。そして繰返し申しましたが、紫上が愛育致しました明石中宮の皇子 の匂宮と、中君とは、夫婦になりまして男子を、ほかでもない紫上の里屋敷の「二条院」で儲けております。前にも申しましたが、その男宮は、いずれ皇太子に も天子の位にもつく可能性を、すでに噂されています。藤原氏ならぬ、皇胤=宮筋の、皇位への接近が、またも濃厚にここで成就の兆しを見せている。紫上に子 の無かった無念も、代わって中君がはらしています。謂うなれば、皇位をめぐる「桐壺=明石」の系譜と「紫上=宇治中君」の系譜の、二系統に「共通した願 望」がここで充足されて行くという、物語の太い本筋がかくて確立されるという、ことになるわけです。
「桐壺更衣」の父親は「按察使大納言」でした、が、娘に高い望みを託しつつ、早くに亡くなりました。娘は「光君」を生みます、が、時に利あらず「源氏」に 降ろされてしまう。他方、按察使大納言の兄弟に、「大臣」にまで成った人がいました、が、その子は不遇のまま、明石に隠れ住み「明石入道」と呼ばれて、一 人娘の「明石」に、これまた高い望みを託していました。この「明石」と「光君」とが出逢いを遂げまして、後に中宮=皇后ともなる娘を儲けますのが、まさし く匂宮の母親に当るのでありますから、「六条院物語」も「二条院物語」も、文字どおり「桐壺更衣」を起点に始まり、中君の生んだ「男若宮」によって大きな 「環」が結ばれている…と、そう謂うことになる。この全体を「紫のゆかりの物語」と呼んでいい…、いやそう呼ぶのが最も妥当ということになります。
「桐壺」の桐…この花は、五、六月ごろ、大形の淡い紅紫色の円錐花序をもち、甘い匂いを放って、五裂した釣鐘形の花を咲かせます。「藤壺」の藤の花はまさ に紫色に美しく咲く。この二人の、あたかも「母」なる思いを体しまして、「若紫=紫上」は「光君」の生涯を彩るすばらしい妻になります。「宇治中君」は、 それほどの「紫のゆかり」に見守られた、まさに「幸ひ人」として、「おいらかに」に、「二条院」の女あるじと成りきっています。源氏物語、女系の正統が、 はっきりここに見えています。
 ここで断っておく必要が、ありそうです。と言うのは、源氏物語の正統は、宇治十帖の「薫大将」によって受け継がれたのだと読んで来た人が、少なくないか らです。
 物語の「筋」を追って眺めますと、「夢の浮橋」最期の述懐を胸のうちにつぶやく薫君こそ、確かに主役めいて思われるのですが、物語の主役であることと、 光源氏世界の相続ということとは、全く意味がちがいます。
 薫は光の跡取りではないと、断定すらできそうな手掛かりが、一つあります。それは「薫る」「匂ふ」という二人の貴公子たちの呼び名です。一人は光君の表 向きの次男ですが、じつはその薫君は、光の実子ではない。光の妻の女三宮と、左大臣系の藤原氏柏木との間に生まれた、罪の子=不倫の子なんです。女三宮 は、光君=六条院の正妻でありながら、柏木と密通してしまいます。この女三宮の祖母の弘徽殿皇后は、光君には宿敵である、右大臣系の藤原氏の出でした。一 方匂宮は繰り返し申しますように、光君の、はっきり血統を得た孫宮であります。その関係が巧みに薫、匂という呼び名に託され説明されているんですね、お聞 き下さい。
「色」は「光」なしには見えません。そして匂いはもともと、紅や紫の色に出て、目にうったえる香気です。光と匂いとは、切っても切れない縁のものなのです ね。ところが薫るものは、もともと光を必要とせず、直接嗅覚にうったえます。「春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる」という古今集の 和歌が、よくそれを教えてくれます。薫君は闇に咲く白梅の花のように、光をまたず、色にも出ずに、香りを伝えうる存在なのでした。光君と薫君とは直接の血 縁を持たず、匂宮の方は、まさに「紫のゆかり」豊かに「光」添うて、色めく色好みの相続者なのでありました。

 いよいよ「桐壺更衣」を、一人の女人として見て参りましょう。
 この女人こそ、六条・二条両院の物語の、根源的位置に在る。物語は光源氏「誕生」と事実上表裏して、この、桐壺更衣の「死」からも、始まって行きます。 遺児光君が「源氏」を賜り、皇位を断念せざるをえないという、大きないわば「挫折」も、母の、また祖母の「よこざま」な死によって「うしろみ」を喪失して しまった皇子の「非運」と直結していました。
 その光君が、母恋いの気持ちもあって、「輝く日の宮」と美しさをたたえられた藤壺に接近し、ひそかに罪を犯し、なお飽き足らずに、藤壺の姪の若紫をさ らって、亡き母桐壺の里の、二条院の内懐にかくまい育てます。そしてついには理想的な妻にする。いわば母に死なれて、母に似た妻をえて添い遂げるという光 源氏の物語は、まさに桐壺更衣の死に始まっています。その「桐壺の死」と「皇位排除」との、二つの挫折から、いかにして回復へと動いて行くか、源氏物語と は、そういう物語でもある。
 謂うなれば源氏物語の根底に、故按察使大納言家(桐壺更衣の生家)と故大臣家(明石上の生家)という、もともとは兄弟であった、しかも、おそらくは非藤 原氏であった家系の、「天子の外戚(げさく・がいせき)」願望というものが、先ず、強烈に在った。あの桐壺帝の度外れた愛欲も、おそらくこの願望の強烈さ と深く呼応する衝動であったんじゃないか。しかし、それは、今謂う、ふたつの「死」と「排除」という挫折によって先ずは不可能と化した。拒絶された。少な くも、いったん断念に追い込まれた。だがその無念を、執拗な物語根源の要請によって、乗り越え乗り越え、逆転し、宿願を達成して行くわけです。まさに宿執 を遂げて行く源氏物語であり、そこに、常に、「母」なる者らの系譜として、「紫のゆかり」が、断乎として、ものを言っている。

 こういうことを、じつは効果的に、効果的すぎるぐらいに、物語は「予言」という形で、聞き手=読者のまえへ、差し出してくれています。大長編小説の興味 を維持し、かつ盛り上げて行く巧妙な工夫として、この「予言」がなかなかに功を奏してるんですね、「予言」は、三度されています。
 先ず「桐壺」の巻で、あたかも臣下の子弟かのように装って、それとなしに高麗の相人に、光少年を見せるわけです。相人は、躊躇なく、光君の将来を、こう 予言したのです。「国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。おほやけのかためとなりて 天下を輔くるかたにて見れば、またその相、違ふべし」と。天皇には成らなかった、けれど准太上天皇、上皇なみの「六条院」ということに成って行った光君の 運命を、きっちり言い当てているわけです。
 次の予言は「若紫」の巻に出てきます。光君との、罪深き成り行きに悩む、桐壺帝の妃藤壺が、たまりかねて或る夢を見た、その夢解きを、ひそかに人に依頼 します。ところが、有ろうことか、光源氏が将来「天子の父」となることを夢は告げていて、けれども「その中に違ひめありて、慎ませたまふべきことなむはべ る」と、光源氏の行く手に大事、おそらくは須磨・明石への流されといった事件が起きるでありましょうと、予言をしているのですね。夢を解かせているのは藤 壺です。ここで「天子の父となる」というのは、畏れ多くも義理の子の源氏との間に、のちのち天皇になる男子を産むという、戦慄すべきこと・事実そうなった こと、を言われているのは、明かです。
 そして「澪標」の巻では、また、宿曜が「勘へ申」したこととして、こんな予言がなされています。光源氏からは、「御子三人、帝、后、かならず並びて生ま れたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし」と。この予言は、明石上に生まれる光源氏の娘が、将来、確実に中宮の地位に上がるであろうことを言 うのが、主なる目的なのですが、一方「帝」には、藤壺に生ませた冷泉帝が、そして「太政大臣」には亡き正妻葵上の遺児夕霧が、確かに成って行くわけですか ら、まことみごとに、みごと過ぎるほどに「六条院物語」の本筋がここに予言されている。挫折の無念は、必ず晴らされるという期待をわれわれにしっかり持た せておいて、物語は、幾重もの山や谷を越えて行くわけです。
 この予言一つを見ましても、あの「薫」という貴公子、光源氏の戸籍上の次男が、光の正統からは排除されている事実は明かです。薫君は源氏でなく、藤原氏 なんです。それに対して匂宮は、明石皇后の愛児であり紫上のこよない養育を受けていた。その匂宮の妻となり、男子の母ともなったのが「宇治中君」だという 意義深さには、まこと言い尽くせぬほどのものがあり、そこに「二条院物語」なる「母の物語・女の物語」の、必然の帰結が認められます。「中君」は、筋書き の自然からすれば、「薫君」の妻に成ってしかるべき人でありながら、そうはならなかった。ならなかった運命の重さに、よく注意すべきでありましょう。

 さて、女人「桐壺更衣」の人柄については、本文に多くの言及がありますが、それも、「なつかしう、らうたげなりし人」という、帝をはじめ大勢の人の追憶 に、ほぼ言い尽くされていると思われます。玉上琢弥という、岩波文庫『源氏物語』でみごとな本文を校訂し提供した学者に、こんな述懐があります。
「わが桐壺は、やさしい心のだきしめたい感じのする人であった。愛することのできる人、
日本人であった。その人は、太液の芙蓉や未央の柳にたとえられない。いな、ありとあらゆる鳥のねにも、あれを思わすものはない。作者はからえの限界を指摘 し、日本人には日本人の美のあることを強調する。日本式文化の独立を主張するのである。」
 どうやら「桐壺」こそは、物語世界に登場した「真に日本の女」であるといった意味をこめて、日本の文化や女人の理想像が、彼女の表現において達成されて いると、賛美されている。
 すこし丁寧に、本文によって、「桐壺更衣」を見直してみましょうか。
「いとやむごとなき際にはあらぬ」という表現により、時の権門勢家の出でもなく、まぢかに皇室に縁の濃い娘でもないと、紹介されています。「父の大納言は 亡くなりて、母北の方なむ、いにしへ人の、由ある」志は見られても、何といっても母一人の女の身、「とりたてて、はかばかしき後見しなければ、事ある時 は、より所なく心細げなり」と。
 それにもかかわらず、「すぐれてときめき給ふ」と、帝の寵愛の篤さも、女の人柄の魅力も簡潔に示唆されています。ただ、帝の、度はずれた寵愛の故に、 「朝夕の宮仕へにつけても」「人の心をのみ動かし、恨みを負」い、その結果、「物心細げに、里がち」にならざるをえなかった事情もちゃんと語られていま す。
 そもそも桐壺は、入内した「はじめより、おしなべての上宮仕へし給ふべき際にはあらざりき」と、けっして日常のお世話を事とするような軽々しい身分の女 ではなかったことが、断言されている。けれど帝の寵愛は、女人桐壺の評判を、低めかねないほど、辺り憚らぬものでした。女の方では、「いとやむごとなく、 上衆めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、」「事のふしぶしには、まづ、まう上らせ給ひ、」「ある時には、大殿ごもり過ぐし、」「あながちに、 お前さらず、もてなさせ給ふ程に、おのづから、軽き方にも見えしを」と、帝の度外れたもてなし故に、事実に反して、桐壺更衣が、軽々しげに見られかねな かったと、本文は、きちんと証言しているのです。宮廷における更衣不評判の原因は、みな帝にこそあれ、桐壺その人は、全くまともな淑やかな女性であったの です。
「心細げ」と何度も言われていますように、さぞ心苦しい後宮の生活でありながら、それでも、「桐壺」という人は、帝の「かたじけなき御心ばへの、類なきを 頼みにて、まじらひたまふ」と、帝の愛をご信頼申し上げていたんですね、終始。
「かしこき御蔭をば、たのみ聞えながら、」「わが身は、か弱く、物はかなき有様にて、なかなかなる物思ひをぞし給ふ」とありますし、「事にふれて、数知ら ず苦しきことのみまされば、いといたう思ひ侘び」たそんな桐壺更衣の様子は、それまた、帝の眼に、「いとあはれ」と映る、女の魅力でありました。たしか に、総じては「なつかしう、らうたげなりし人」といわれる性質のよさが認められますし、後に「宇治中君」の置かれた事情や、彼女が、夫「匂宮」の愛を信 じ、頼みにして生きた日々と、遥かに照応しています。
 そして匂宮も、中君が男子を出生後は、ことに大事に「妻」たる体面を考慮したように、「桐壺帝」も、「桐壺更衣」に「御子生まれ給ひて後」は、更衣の待 遇を「いと心ことにおもほし掟て」るように変わるのですね、それも手後れでしたが…。
 しかし、桐壺しかり、中君においてしかり、「母」で在り得たことが、この二人の女人の、夫との関わりを重々しくするのに、たいへん物を言った事情には、 よくよく注目し、大事に認めなければなりません。
 さて、一見ひよわに優しいだけと思われる、こういう「桐壺」から生まれ出た「光君」のめでたさといったら、無かった。そのことがまた、外見は弱々しげな 桐壺という女の、母親の、内的容量の大きいことを、逆に証言しています。生まれたばかりの光の素晴らしさは、普通の人が褒めそやすのはもとよりとして、 「物の心知り給ふ人は、かかる人も、世に出でおはするものなりけりと、あさましき迄、目を驚かし給ふ」というのですから、生んだ「母」も並みの人じゃ、な い。後宮の針の筵と病弱とに耐え兼ね、里へ下がる際にも、情にまかせて、母親が子供を同伴するようなことをしては、噂にも軽々しく、だれより若宮の将来に 「あるまじき恥もこそ」と、心遣いを怠らない母親です。連れて行きたいのは山々でも、あえて内裏に「御子をば、とどめたてまつりて、忍びてぞ」里下がりす る桐壺更衣です。「忍びてぞ」という物言いには、ひっそりとというばかりでなく、愛する幼な子との、もし生き別れに耐えても、という強い意味が含まれてい ましょう。その様は、「いと匂ひやかに、うつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれと物を思ひしみながら、」しかも、帝を煩わせることなど、「言に 出でてもきこえやらず、あるかなきかに、消え入りつつ、物し給ふ」のですが、こういうところに、思慮も配慮も愛情もゆたかな、聡明な女の「あはれ」を、に じませています。帝がなにかと言い寄られても、「御いらへも、え聞え給はず、まみなども、いとたゆげにて、いとど、なよなよと、我かの気色にて臥し」てい る状態では、ふつうなら病気療養なり慰安休息なりを勧めるるところでしょう。しかし帝は、かえって手放すに忍びなくて、更衣の退出をなかなか「許させ給は ず、」遂に切羽つまるに至るのですが、こういうところに、帝と更衣と、二人が同じ「桐壺」と呼ばれる夫婦としての、運命の、避け難さが、はっきり出ていま して、その運命の申し子としての「光君」の、異様なまでに素晴らしい「誕生の必然」が、下支えられているわけなんですね。
 後宮を最期に立ち去るときの更衣の歌は、こうです、…「かぎりとて別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり」と…。帝と別れ、愛子とも別れてゆく わけですが、その道を「行かまほし=行きたい・行きます」というようでいて、本音は、「生かまほし=生きていたい」と聞えてくる、悲痛な述懐です。そして この歌ひとつを残して、その「夜中、うち過ぐるほどになむ、絶え果て給ひぬる」とあり、桐壺更衣は、死んでしまうのです。「女御とだに言はせずなりぬる が、あかず、口惜し」と、帝は悲嘆にくれ、「三位の位おくり給ふよし」の勅使が、桐壺の里、後に二条院と呼ばれる邸へ遣わされますが、「これにつけても、 にくみ給ふ人々、多かり」とあるのは、主に弘徽殿方とその背後の藤原氏であろうことが、後々の展開から察しられます。
 しかし、亡くなった「桐壺更衣」に対する、没後の再評価は、かえって落ち着いたものになりました。「物思ひ知り給ふ」程の人であればあるほど、「さま、 かたち、などの、めでたかりしこと、」つまり目に見えた美しさももとよりですが、「心ばせの、なだらかに、めやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ、思し 出づる」ようになる。そして、生前やや軽々しげに見えたのも、それは帝の「さまあしき御もてなしの故にこそ、すげなう嫉」まれたのであって、桐壺更衣の 「人がらの、あはれに情ありし御心を、上の女房なども、恋ひ、しのびあへり」と、文字どおり「なくてぞ人の恋しかりける」とは「かかる折りにやと見えた り」と、古歌まで引いて、ここに、草子地が露われて来たり致します。
「心ばせ」だけでは、ない。音楽などの「御遊びなどせさせ給ひしに、心ことなる物の音をかき鳴らし、はかなく聞え出でつる言の葉も、人よりは殊なりし、け はひ、かたちの、面影につと添ひて、」帝の哀しみは、増すばかり。そして、母の死後、二条の祖母の方へ引き取られていた若宮への愛情もあり、帝は再々、娘 の更衣に死なれた母北の方を、勅使をもって見舞われます。
 ここで、この、光君のお祖母さんが、聞き漏らせぬことを、泣いてかきくどいています。
「身にあまる迄の御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥をかくしつつ、まじらひ給ふめるを、人の嫉み深く、安からぬこと多くなり添ひ侍るに、よ こざまなるやうにて、遂に、かくなり侍りぬれば、かへりては、つらくなむ、かしこき御心ざしを、思ひ給へ侍る。これも、わりなき心の闇」と。
 こういうことです。帝のご寵愛は有り難かったが、度が過ぎて、無用の人の恨みを負ってしまって、あたかも横様の死=横死を遂げるようにして,娘は亡くな りました。ご寵愛が、かえってつらい結果になりました、と。この「横様の死=横死」とある過激な物言いに、「桐壺」の巻の、また源氏物語全編の、モチーフ が露出しています。おさえることのどうしても出来なかった「桐壺帝」の根源の愛欲が、物語世界を先ず突き動かしていたと言うより他にない、完全な「動機づ け」がここに一つ現れているのです。
 それはおそらくは、桐壺の家系に内在した「外戚願望」の強烈さと交錯し、相呼応していたのでありましょうが、帝は、北の方の愁嘆に対し、こう己れを顧み て、頷いています。「わが御心ながら、あながちに、人目驚くばかり(更衣のことが)思されしも、『長かるまじきなりけり』と、今は、辛かりける、人の契り になむ。『世に、いささかも人の心をまげたることはあらじ』と思ふを、ただこの人の故にて、あまた、さるまじき人の恨みを負ひし、果て果ては、かう、うち 捨てられて心納めむ方なきに、いとど人悪う、かたくなになり果つるも、前の世、ゆかしうなむ」と。宿業、宿執、必然の愛欲、人為を超えた業執を自覚した、 痛切な嘆きでありまして、これあればこそ、父帝は、子の光君に対して、母を死の手に奪わせた「贖罪の思い」を無意識にも持たれたのでありましょう、さてこ そ後の、我が子による「事のまぎれ」「藤壺の犯し」をすら、帝は、結果的に看過されたのです。
「なつかしう、らうたげなりしをおぼし出づるに、花・鳥の、色にも音にも、よそふべき方ぞなき」と、帝は、深く故人となった更衣を哀悼され、かの楊貴妃の 美貌を、絵にしたものを御覧になっても、「匂ひなし」と目を背けられたのです。玉上博士の、「桐壺更衣は、日本の女の理想」という評価も、ここに発したも のでしょう。
 我のつよい人では、ない。しかし、芯の弱い人でも、けっしてない。惚れ惚れするほど愛らしい魅力があり、もの静かに優しいとりなしで、苦痛にも耐えに耐 えつつ、帝の愛、また子への慈愛といった大事なものへの信頼を守り抜いています、死ぬその日まで。ただなよなよと、頼りない女ではなかったのです。むし ろ、心づかいの行き届いた、知的にも聡明な女人であったと十分読み取れる。
 大事なのは、そういう現世の女としての魅力を超えて、光君という、半ばは神のような超人的な子を生んだ、あたかも聖母マリアにも似たその役割に、源氏物 語の全容とかかわる不思議も、間違いなく読み取る必要のある、そういう女人であるということです。ただ人物論をすれば足るといった女性では、ないんです ね、「桐壺更衣」という母親は。

 そのような「桐壺更衣」の意義の重さを、源氏物語の最後の最期で、もう一度しっかりと確認させてくれるのが、いよいよ、「宇治中君」です。一見縁の遠そ うな二人でありながら、どう、繋がった二人であるかは、もう、何度も申しました。その「宇治中君」を、本文の表現に寄り添いながら、確かめて行きましょ う。

 光君が雲隠れてのちの、まとまった「次世代物語」が、世に言う「宇治十帖」ですね。ヒロインが三人いまして、三人とも「宇治八宮」の娘です。正腹の姉と 妹とが「大君」と「中君」で、異腹の妹が「浮舟」です。そしてその三人に「薫君」「匂宮」がからみます。繰返しますが薫は、光源氏即ち六条院の表向き次男 ですが、じつは藤原氏の柏木と院の妻女三宮との仲に生まれた不倫の子です。しかし世間はこれを知らない。わずかに光源氏の長男の夕霧などが察しています。 一方の匂は、まさに光君の孫です。表向き叔父と甥ながら、薫と匂とは年もさほど違わず、兄弟同然の遊び仲間で、なにかにつけ好敵手でもあります。
 薫が、先ず宇治八宮に心引かれて宇治へ通います。そこで大君と中君とに引き合わされ、彼は姉の大君を深く愛します。父八宮も薫の人柄を深く頼みに、娘二 人の後ろ見を心から依頼して、出家をしてしまう。そして亡くなります。
「八宮」という方についても、はっきり知っていた方がいい。この人は桐壺院の八番目の皇子で、二番目の皇子であった光君の、腹違いですが裾の方の弟に当た ります。そして一時期、藤壺の生んだ皇太子に代えて、皇位に推そうとする右大臣系藤原氏の策謀に担がれたということがあり、冷泉天皇と光君との時代には、 ま、逼塞を余儀なくされて、早くに宇治に隠遁してしまいました。宇治十帖のヒロインたちは、いわば光君の血筋には、一時的とは言え敵対関係にあった人の娘 たちなんですね。
 しかし八宮は、そういう過去はすっかり払拭していましたから、六条院の子の薫君をも、胸をひらいて受け入れ、信頼し、愛していました。
 八宮が亡くなると、父宮のゆるしも得ていた薫は、大君に求婚します。しかし禁欲的な大君は、薫の愛に心を揺らしながらも、頑強に拒んで、いっそ愛らしい 妹の中君を、薫に勧めます。あわやといった場面もあるのですが、それでも薫は、大君への愛に操をたてて、妹には触れなかった。それのみか、色好みの匂宮を 宇治へ誘い込み、中君と結ばしめます。そうでもすれば、大君も自分を受け入れると踏んだ浅はかな行為でしたが、大君は愛しい妹と匂宮との成り行きにも心を 破られ、死んでしまいます。薫は、宇治の姉妹を、一度に手元から奪い去られたのでした。しかも中君を押し付けた匂宮は、八宮も生前見通していたように、 「いと好き給へる皇子」でした。なかなか宇治にまで気軽には通って来れない高貴の皇子でもありました。
 薫は、今となって、中君を匂宮に譲ったのを後悔するのですが、中君その人は、一度び結ばれた夫匂宮を心頼みに慕う気持ちを失うことなく、今更に言い寄る 薫を、気の毒には思いつつ受け入れることはなかった。とは言え、亡き父宮が、中君の夢に立って嘆くほど、匂と中君との結婚は、危うい、頼りない出発であっ たのです。事実無残に終わっていても、嘆くのは中君と、取り持った薫君くらいで、だれも関心を払わなかったでしょう。
 こういうことが、「中君」という女人への、懸念ないしは批評として言われています、「故郷離るる中君」と。中君は、結局は宇治を離れ、都の二条院=夫匂 宮の本宅に引き取られます。結婚した女は、自分の本拠へこそ夫を通わせていた時代でした。本拠=故郷(自宅)を離れて女の身がさすらうのは、宮中に入るの はともかく、一般には軽々しくも不幸不運の証明のように言われたものでした。しかし源氏物語では、その例がいくらも見えています。若紫=紫上にして、そう でした。明石上にしても、そうでした。それどころか本当は夫の家に倶に住んだ女の方が、じつは幸せであったとも言えるような、ある境界の時期・時代に、こ の物語自体の意識が、さしかかっていたように思われます。
 宇治を離れ、都に移り、出産し、本妻として待遇されて、結果は中君にとって悪くなかった。むしろ「幸ひ人」という評判もおいおいに現れて来たのです。匂 宮は、この妻を、けっして宇治に置き去りに、見捨ててはしまわなかったんです。
「宇治中君」の運命は、「総角」の巻と「宿木」の巻との間で、顕著に変化します。だれもが中君の上に案じた女の不幸は、その後、「浮舟」という美しい異母 妹が登場しまして、すっかり身代わりに不幸を引き受けたような展開になります。恋敵の薫君にして、なお、匂宮と中君との結婚が、思うさまに満たされて在る のを、認めざるをえなかった。中君は不幸に陥らずに、かえって幸福になって行った。これは、源氏物語の大構想に沿って、「中君」が担う「意義」をつよめる 方向へ「作意」が働いていたことを感じさせる、重要な事実です。
 その決定的な証明に、「中君」の男子出産が、ある。現在の東宮がいずれ即位すれば、弟の匂宮が次の東宮になり、いつかは「中君腹の若宮」も皇太子に、天 子に、成るであろうと、物語は、すでに噂以上の段階にまで到達しています。「紫のゆかり」人たちの挙げて待ち望んだ願いが、冷泉院の場合以上に、まさに晴 れ晴れと実現するというわけです。「六条院物語」の凱歌はもとよりとして、根深い因縁と経過とを経て来た「二条院物語」の大団円も、また、まぢかに見られ るわけです。「中君」の上に託された、遥かな「桐壺更衣」の、また「紫上」の、むろん「光源氏」その人の期待に、この女人は、りっぱに応えたという結末 が、もう、そこに見えている。少なくも匂宮に寄り添って現に「母」となっている事実は、あまりにも『源氏物語』全篇にとって、意義深いと言わざるを得な い。

 それにつけて、「匂宮」評価というものが、少し新ためられていいのではないか。宇治十帖での人気は、従来、当然のように「薫君」の方が高いでしょう。生 い立ちにまつわる根の哀しみも、そこから来る落ち着いた人柄も、大君や中君への一貫した誠意や愛情も、「浮舟」を匂宮に奪われて以後のなかなかの頑張りに しても、小説の主人公には薫君こそ相応しいと言えましょう、それには何の異存もない。
 これに対して「匂宮」は文字どおり色好みの貴公子です。中君との出会い以後、かなり宇治姉妹や薫君をやきもきさせ、大君は心痛のあまり死んでしまうので すから、読者としても、いくらなんでも匂宮はけしからんという気にさせられます。さらに理不尽に、宇治姉妹への愛の身代わりとして、中君につよく勧められ て薫大将が愛した美少女「浮舟」を、強引に匂宮は横からさらいます。女も、いっそこの宮にと、心を引かれています。どうも匂宮の役どころは、薫君に対し て、呵責ない敵役です。が、それとて、源氏物語の大きな「筋」に乗った、ある種の必然なんですね。皇家と藤家とのこれもひとつの顕著な競合関係なのです。
 では匂宮の、妻中君に対する夫としての態度はどうであったか。これが、丁寧に見ていますと、総じて、意外にまとも、「まめ」真面目なんです。将来皇太子 や天子の位についたなら、きっと中君のことを、「人より、高きさまにこそ、なさめ」という匂宮の気持ちに、嘘はないようなんです。伯父の夕霧から望まれて いる縁談にもしきりに躊躇します。その理由にも、中君に対し、「まことに辛き目は、いかでか見せむ」との配慮がある。
 前にも申しましたが、今上天皇の愛子匂宮と、宇治八宮の遺児中君とでは、当時の宮廷社会の力学からしまして、今日の読者が感じる、何倍もの格の違いが あったのは事実で、見ようによっては、「中君」程度の女性ならいわば側妻の一人として、ま、上臈=上等の女房なみ、また召人なみに待遇したとしても、少な くも世間は不思議に感じない。現に、匂宮の母である明石中宮もそういう見方で、そのように暗に勧めてさえいたのです。が、匂宮は、結果としてそんなふうに 軽くは中君を待遇せず、動かぬ本妻として、嫡男の生母として、格高く大切に執り成しています。姉の大君は妹の夫となった匂宮が信頼できず、恨むようにして 死にますが、妹の中君は、夫を頼みに、愛を信じるしかないという決意を貫き、そして母親に成る。こういうところが、あの「桐壺更衣」と、芯のところでたい へん似ています。しかも中君は、桐壺更衣のように、死の哀しみへ、崩折れて去って行くこともない。
 中君が宇治の故郷を離れ、二条院に迎えられるのは「早蕨」の巻でですが、そのころ、夫の匂宮はたとえ内裏に行っても、「夜とまることは、し給はず、」新 婚時代をともあれ無事につまのそばで維持しています。
 しかし、こういう現実も有った。匂宮ほどの人に、中君程度の出のお妃がただ一人では、
なんとしても宮廷社会でのバランスがとれないんです。故六条院の跡取の夕霧太政大臣は、
匂宮には伯父さんです。その夕霧の娘の六の君との縁組は、事実上、避けて通れないこの社会での、ま、黙約ですらあったものですから、匂宮は、その辺の成り 行きもよく考慮して、必ずしも中君と毎夜を倶にすることはあえてせず、六の君との結婚後は、半々になるようにと、適当に中君を、「かねてより、ならはし聞 え給ふ」ような「夜がれ」浮気もしていたのですね。今日のモラルでとやかく言ってみても始まらず、中君も承知で、さりげなく夫を頼みにする姿勢を崩さな い、そういう夫婦生活ではあったんですね。ある人が、こんなことを言っています。宇治中君は、夫匂宮の、好色ゆえに不幸なのではなかったんだ、匂宮の、地 位の高貴さゆえに、つらい思いをせざるを得なかったのだと。その通りでした。

 源氏物語の女性のなかで、女として、人として、その表現の推移において「内面の成長」の描かれたのは、「紫上」「明石上」とならんで、この「宇治中君」 を挙げることが出来ます。この三人とも、「故郷を離れ」て、光君や匂宮という夫と、運命をともにする人生を選択した女たちです。そこが共通しています。ま た優れた内実をもっています。
 なにより、宇治中君には、「思ひ直す心」というものが認められる。どんな際も、表面は平気に、平然と「つくろひ」「もの思ふべきさまも、し給へらず」 「心のうちに思ひなぐさめ給ふ」とか、「さりとも、いと、かくてはやまじと、思ひ直す心ぞ、常に添ひ給ひける」などと語られています。大きな特徴です。作 者紫式部その人の性格の反映かも知れませんし、これが、桐壺、紫上、明石ら、物語の本筋にとって特に重要で主要な女性に、やはり共通して見えている美徳で しょう。生霊にもならず、死霊にもなりはしなかった。
 また中君は、「おいらか」で「らうたげ」だと、物語のなかで何度も批評されています。
「おいらか」は、ま、のんびりとも、おおらかとでも、取れるのですが、この言葉には、あの紫上が「おいらか」とされる際の、或る種の聡明な態度に相当する ものと、「女三宮」がそう批評された際の、「至らない未熟さ」の意味と、両面があります。むろん「中君」の「おいらか」は、明かに「紫上」のと同じで、肯 定され、褒められています。中君には、加えて、意志的・処世的に「おいらか」を演じ得て、その結果として夫の目にも「らうたげ」愛らしいと映る、そういう 賢さ、聡さがありました。匂宮との間には、何度もの危機がありましたし、宇治へ帰りたいと、密かに薫君に頼むような、薫君の求愛を受けてしまおうかとあわ や惑いかねないような、危うい時も、有ったことは有った。しかし、それを、まさに「おいらかに」「らうたげに」彼女はすべて克服してあやまちせず、結句、 妊娠という女の充実・成果に恵まれたのです。「運命を活かした女」と、そう言い切れる、知的にも情的にも、優れた力・性質の持ち主でした。だからこそ薫君 は、中君を匂宮に譲ったことを、心から後悔して、いつまでも中君を慕います。それがまた中君の女の魅力を倍加して、夫の匂宮を、おかしいほどのやきもち焼 きにし、これがまた、中君もちまえの愛しい魅力として、その人柄に、加算されるのです。

 ところで宇治十帖の中でも、「早蕨」の巻は、「二条院物語」の結着へ明るい雰囲気をもたらす、展開に富んだ巻です。一方「浮舟」も登場して来まして、彼 女にすれば、ここが悲劇の幕開きでも、ある。姉の「中君」が身に負うた、もの悲しいものを、ここからは異母妹の「浮舟」が、あたかも肩代わりし、「中君」 の方には、一転「幸ひ人」と人に噂もされて行くイメージが、初めて添うてきます。
 そもそも源氏物語の中で、「幸ひ人」と評判されている女性は、四人います。「明石上」と、その母の「明石尼上」が、そうです。明石で、明石入道と一緒に 暮していた母と娘が、いいえ誕生間もない孫娘もが、光源氏により都へ引き取られまして、女の子は、おいおいに明石女御から中宮へ、国母へと登って行くので すから、これは、当然でしょう。この「明石(入道)」の家系が「桐壺更衣」の家系と、ごく近い親族であったことは、以前に申し上げたとおりです。
 さて、もう一人の「幸ひ人」は、むろん、光君の正妻「紫上」です。この人は式部卿宮の娘であり「藤壺中宮」の姪でもありましたから、「明石上」のような 中どころの身分ではない。しかし幼くに、母を失っていた。「若紫」の少女時代に、まるで掠われるように、侍女と二人、光源氏の二条院に、いわば隠匿されて います。そういう「故郷離れ」を強いられた不幸は不幸ながら、もちまえの聡明さで、まことに理想的な光君の妻として、生涯を輝いた。この人が「幸ひ人」と いわれる意味には、光源氏との一体感の深さ強さへの、賞賛の気持ちも含まれています。
 そしてこの紫上が、「はは」とも呼ばれつつ、最期の時まで愛し、二条院を相続せしめた「匂宮」の、その愛妻の「中君」も、また、「幸ひ人」と人に言われ ているわけです。紫上も中君も、同じく「宮筋」の人であります。ひとつ間違えば「召人」として軽く遇されたかも知れない、危うい身の上であった点でも、 「紫上」と「宇治中宮」は似ています。しかも二人とも、夫の愛をふかく享けまして、「正しき妻」として重く待遇されました。違うのは、「紫上」が、ついに 実子を出産できなかったのに比べ、「中君」は、母として、因縁の「二条院」に、男の子をもたらしている事です。「桐壺」や「紫上」の願いを、遂に「中君」 が、この邸に、もたらしたのです。
 むろん、紫、明石、中君ともども、「幸ひ人」には、「意外な幸せ」ゆえに、また、苦しみや悲しみも背負うという一面が、避け難いんですね。この源氏物語 を物語る者たちの意識に、彼女らの「幸ひ」を、「意外な」と見る気持ちが有る。そしてそんな風に見られている以上、とうていこの社会で、のほほんと「幸 せ」でばかりは居られない。さまざまな苦労を、苦痛を、三人とも体験しています。
 それでも、今は「中君」に限って申しますなら、「(匂)宮の上こそ、いとめでたき御幸ひなれ」と、はっきり言われています。「若君生まれたまひて後は、 こよなくぞ、おはしますなる」と、いかに、「男子」を宮家にもたらしたことの、大きく、重いかが、言われています。そして日々に「御心のどかに、かしこ う、もてなしておはしますにこそは、あめれ」と噂されるほど、中君は、すくなくも表面、「おいらかに」「らうたげに」「宮の上」としての貫禄をしめして、 動揺しない。黙って座っていても、夫の匂宮に、立太子の、また即位の望みは見えて来ています。「若宮」にすら、それが見えて来ています。まさしく、「意外 な幸ひ」に中君は恵まれつつあるわけで、その落ち着きには、丁度この頃の匂宮の母親、「六条院物語」を宇治十帖の世界で、立派に完成させつつある光源氏の 娘の「明石中宮」の貫禄を、あたかも、後追っているかにさえ、読み取れて来るほどです。

 さよう、桐壺更衣に始まって明石中宮に至りつく「六条院物語」と、同じく桐壺更衣に始まって宇治中君により願望成就の「二条院物語」と、この「二つの大 筋」を、しっかり掴んでいれば、『源氏物語』は、限りなく大きく面白く読める、少なくも読んで甚だしく脱線するということは、ない。
 注目すべきは、ともに二つの大筋が、「女の運命」と共に「皇位」と深く関わり、そこに喜怒哀楽が集約されるかのごとき観を呈していることです。外戚たら んと奔命した人達の、幾代もをかけての、厳しい競合社会。桐壺も明石も中君もそういう社会に身をおいて、しかも女の幸と不幸とを、したたかに嘗めていま す。ただ、紫上も含めまして総じて彼女たちは、夫の誠を頼み、また信じ、そして大きくは、致命的には背かれることのなかった「幸ひ人」たちでありました。 よかれあしかれ、そういう「女」たちでありました。
 しかし、この人たちから「現代」は何を学び、受けとるべきかとなると、正直、私は、明言を敢えて避けたい気持ちです。現代の美智子皇后さん、雅子皇太子 妃の、ご心中を、うかがってみたいものだと思っています。
 申せることは、私は「宇治中君」が好き、好きなタイプだということです、「紫上」や「明石上」とならんで。そして「桐壺更衣」も含めまして、彼女らこ そ、『源氏物語』の本筋・本当の女主人公であったという、紛れもないその意義について、物語の組み立てに即してお話を致しました。ご静聴、有り難うござい ました。