能・平家物語 1999.11.15刊
秦
恒平

十六
はじめに
平家物語は、わたしの、最もはやくに馴染み、もっとも永く親しんできた古典のひとつである。源氏物語、徒然草、古事
記、百人一首も同じように親しんできたと言える。
古典文学として親しんだかどうかはともかく、いま一つ、観世流謡曲の稽古本というものが、少年の昔の我が家にかなりの
数揃っていて、二百冊ほどあった。詞章などめったに「読む」ことはなく、ラヂオ屋の父が抜き出してきて時折に謡をさらつているのを「聴く」だけであった
が、巻頭の梗概だけは、残りなく繰り返し幼くより読み返し返し、いつかあらまし覚えこんでいた。
父は、京観世の大江能楽堂などで、地謡の前列真中に座って、又三郎の舞台などに駆り出される程度に稽古を積んでいた。
素人の域は超えていたように思う。自慢もせずいつも悠々と謡っていた。
美しいものとして、わたしは幼い日々にすでに謡曲を知っていたのである。敗戦直後の六年生国語の教科書に「末広がり」
が出ていたのを起って読まされたとき、いきなり謡曲で聞き覚えていたふうに声を張って読み始め、教室中をびっくりさせた。わたしにすれば、つまりそういう
ものであると、自然に聴き習っていただけの話だった。中学生ごろには父の、「教えたろか」に乗せられて、「鶴亀」「東北」「花筐」の父好みの三番を仕込ま
れ、ま、その辺で腰を折った。叔母の茶室で、飲み食いと女けのある茶の湯の稽古のほうがわたしにはラクで、楽しくなっていた。
能舞台へも、おかげで、中学高校の頃には馴染んでいた。父は入場券を負担していたのだろう、余ると呉れた。「羽衣」の
ように長々しい舞のあるものでも「美しいな」と思い、心根を洗われる喜びをいつも感じていた。能を見ていて、「清まはる」気分のするのが、一番、いつも嬉
しかった。「清い」と「静か」と、それが能の、また日本の美の真髄であると感じていた。それとともに、まちがいなく「死なれ・死なせ」た人たちの不思議な
稀有の世界だと感じていた。平家物語に取材した能の多いことを、ごく当たり前に肯っていたのである。
平家物語の魅力も、また「清く」「静か」なものの、底に流れているところに在った。
ただ、平家物語に取材したという、その平家物語なるものが、実は一団の星雲にも似ていて、同じ平家物語を読んだといっ
てみても、まるでちがう記事や本文に出会う場合が多いのである。能の作者たちが、どの本のどの本文、どの異本のどんな記事に接していたのか、その辺が興味
深いし、分かりにくい。しかしそこに能の平家物語の尽きぬ興趣も生まれている。
わたしは、この本では、「平家物語と能」とか「能と平家物語」とか分別しないで、あえて「能の平家物語」と題しつつ、
各種の異本諸本の記事へ余所見を重ねながら、能舞台からは自在に漂游して、意外な、存外な、案外な平家物語の素顔や横顔や仮面を覗きこんで行こうと思う。
それが能を観る上で面白く役立てばいいが、役立たなくてもいい。
「祇王」から「大原御幸」まで二十篇、自ずと平家物語の大流れは汲み取ってある。
平成十年(一九九八)の真夏に、これは書き下ろした。
祇王 ー心に任せぬ此身の習ひー
新幹線からもよく見える近江富士、琵琶湖東の三上山(御上山)西の麓に滋賀県野洲町がある。かつては途方もない天井川
でよく溢れた野洲川が流れ、近隣は大量の銅鐸出土地で知られ、古墳や遺跡が群れている。著名な地名辞典の編者であった吉田東伍は、御上祝や安国造(やすの
くにのみやつこ)が占めていたこの「安(野洲)」の地が、けだし近江国でもっとも古く早く開けた人跡であろうかと推している。なにやら、高天原に八百万の
神々が集うた、古事記の「安の河原」の名までが思い起こされる。
平家物語の祇王・祇女らは、伝承によればこの野洲沿いにあった江辺庄中北の出で、いまも、JR野洲駅にほど近い東海道
線の西寄りに、妓王寺がある。野洲川から岐れた妓王井川も流れ、その下流は、ことさらに童子川と呼ばれている。
平清盛の寵愛をうけていた祇王が、あるとき、何なりと所望せよと問われて、言下に、用水に不便な故郷の地に、どうぞ水
路をと願い、「神にも通じた」剛の者の瀬尾太郎兼康が奉行して成ったのが、野田浦に至る紆余曲折の水路であり舟路であったという。工事は、だが、甚だ難渋
したらしい。そのおり一の童子が現れて万事をよろしく導いたといい、流域の土安神社に今も祭られている。童子川の名ののこった所以であり、ま、いい話であ
る。祇王という女人がぐっと身近に寄ってくる。だが、普通の、入手しやすい市販の平家物語には、こんな話は出てこない。
平家物語とは、時代を経てなだれ落ちるように裾野をひろげていった、莫大な「異本群」のいわば総称なのであり、「読
む」ための本も、「語る」ための本も、饒舌なのも、簡要なのも、際限がない。わたしも、以前は、南北朝ごろに整備された語り本の「覚一本」(岩波文庫)で
もっぱら源平の角逐を楽しんでいたが、今は、いろんな「本」を手に入れている。数十巻におよぶ『参考源平盛衰記』も手近に置いてある。百余部もの各種文献
を博覧博捜して関連記事を模索し編成したものだが、広く観れば近代の所産の、これもなお、いわゆる平家物語という巨大な星雲の一環ないし外延なのであり、
源平盛衰記は平家物語ではない、わけではないのである。義経記や曽我物語すらその光芒に連なっていて、その区別に境界線を引く事は容易ではない。
ともあれ平家物語は、一時期に、一人ないし数人の手で同時に企画し創作された類の書物とは、とても考えにくい。あの後
白河法皇が在世の頃にすでに兆し初め、その後少なくも鎌倉時代を経て室町時代にも及んで行く永い永い歳月と、あちこちに渦を成していた「心ある」人々に
よって、幾重にも仕立てられ、語りつがれ書きつがれていった社会的・歴史的な、ほとんど国民的な産物だというしかない。
そうはいえ、或いはそれだからなおさら、平家物語の「最初本」とは、どのような意図で、どんな人ないしどんな人たち
が、企画し取材し本文を定めていったのだろうかという、推量や考察や研究がなされねばならなかった。信濃前司行長が書いて、生仏という法師に語らせたとい
う、徒然草の一説などが盛んに論議されてきたのもそれ故であるが、それにしても、どうも学者たちの視線と視野とが、異本簇生の方へ方へもっぱら向かうよう
に素人目にも見え、これは面白くないと思えたので、ちと横槍を入れた感じに、二昔ちかく前の話になるが、「最初本平家物語」そのものをさながら主人公にす
るような、『風の奏で』(文芸春秋)という長編小説を書いたことがある。小説の題が暗示し示唆しているように、わたしは、「平家語りの台本」としての物語
編纂を大事に感じていた。文学文芸の作物というよりも、時代をこえて吹き流れてきた「芸能」の、いわば奏で・調べを即ち「風」と読みとって、王朝の郢曲か
ら、平曲や謡曲への連携をさえ推理して行きたかった。そんな素人考えを「是非」してもらう必要はないが、平家物語に登場する貴賤都鄙の大勢のなかでも、わ
たしは、いわば芸能の人たちにいつもつよい関心、ときにはなつかしい共感を懐いてきたことは、先ずここで言うておいた方がいい。祇王・祇女といい仏御前と
いい、また静御前や千手の前や、男性のなかにもひょっとして有王も与一も、景清ですらも、さらには出家して正仏と名乗ったという源資時にしても、一つは
「歌舞」一つは「語り」と性質は異にしながら、やはり切実に「芸風」を吹き起こしていた人たちだったと見るべきだろう。
読み本が先か語りが早かったか、は、必ずしも本質の問題でなく、どういう意図で平家物語が生まれ出ねばならなかったのか、断絶平家という盛者必衰の理を解
くのか、源平闘諍の経緯を戦記として示すのか、それとも鎮魂平家の切々たる追悼であったか、または厭離穢土・欣求浄土の鼓吹であったか、等々を、「諸本」
によって幾重にも読み解いて行くのが親切な態度だろうと思う。「祇王」のことも、清盛悪行のはじめと読むか、念仏往生の勧めと読むか、必ずしも簡単なこと
ではない。
平清盛が台頭の当時、白拍子ないし遊びの女たちが、芸と容色とで貴紳の召し仕えとして寵愛を得ていたことは、一種の流
行、文字通りの「今様」であった。女たちはその「今様歌」を歌い舞い世に広め、しかしそのような歌の歌詞を蒐集編纂し、歌唱の技にかかわる深切な口伝をさ
え自身で書き著したのは、一天萬乗の後白河天皇であった。皇子の頃から、今様を歌うことにかけて天才的な自負をもち、稽古も重ね、いわば家元ほどの自覚
を、「大天狗」とも「愚物」ともいわれたこの天皇は胸に深く抱いていた。源平の角逐をわが掌のうえで実演させた後白河法皇の一面に、そのような「今様」へ
の執心があったことは、つい忘却されがちであるが、清盛の祇王や仏御前への横暴な寵愛にも、院の今様好みが感化していた明かな事実は知っていたい。
清盛は、祇王・祇女を最愛し、栄耀をほしいままにさせていたが、芸者の常として敢えて清盛邸に推参した仏御前の、若やかな美しさに心を奪われ、即座に祇
王・祇女を追い放ってしまう。そればかりか時を経て強いて祇王を召し、仏御前を慰めよと歌舞の奉仕までも迫るのだった。祇王は涙をこらえ、知られた今様歌
を当座に少しく詞を改めて、神妙に、辛辣に、歌いあげた。清盛も閉口した。
ほとけも昔は凡夫なり われらもつひには仏なり
何れも佛性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
かくてはどんな屈辱がさらに加わるやも知れず、祇王たちは老母とともに深く嵯峨野に忍んで、ともに厭離穢土、欣
求浄土の念仏三昧に出精していた。
その草の庵を、いつしかに、そっと尼の姿に身をやつし訪れてきたのは、自らも平家の栄華に背いて世を厭い離れた、あの
仏御前であった。
この説話は、時勢への痛烈な批評味を帯びながらも、来世の救われを願う人々の耳に、はなはだ良くできた説法であっただ
ろう。極楽往生をひたすら祈る女人たちの、健気にものあわれな物語を、清盛悪行の初めに挿入したことで、平家物語のとじめと成る大原御幸後の建礼門院往生
浄土と、首尾照応のみごとな効果を上げていることも疑えない。
もっとも祇王や仏が、まこと実在の人であったか、これは微妙であり、むしろ琵琶法師たちの久しい唱導の経過中に、脚色
ないし創作され、挿入された一句かも知れない。
「ギオウ」の名は、本により祇王とも義王とも妓王とも分かれている。ところが滋賀県野洲の妓王屋敷にまぢかく、上古から
「行(ギオ)の森」があり、行事宮が、近隣の呪祝に当たっていた。加えて行の森一帯が「浦(占)谷」と呼ばれてきた。ミカミ山の麓にヤスの河原を控えてウ
ラを行じたこのギオウの故地は、また、ほど近く、今様歌いでも名高い遊び女たちが群れ棲んだ龍王の鏡山宿とも気息を通わせていたのである。後白河の宮廷社
会にしばしば愛顧を得ていた女たちの、ここは一巣窟であった。地祇(国つ神)を祭って歌舞に長じた遊部の末裔であったか、行業不思議の伎女であったか、と
もあれ「祇王」は、梁塵秘抄でいうならば、つまり「神歌」の世界を身に負うて、近江国から京の都へしきりに往来していたと見られるのである。
そして仏御前の歌う今様世界は概していわば法文歌であり、しかも仏御前の出は、加賀国シラ山のシラ拍子であった。シラの根は、深く遠く西海、北九州の海底
にある。世に恐ろしい安曇の磯良(イソラではない、シラと読むべきだろう。磯城をシキと読むように。)に発して、日本列島を裏から表から海沿いに北上し、
ついにオシラさま信仰にまで至っている。ホトケ・ホトキとは、そんな怖いシラ神をも祭り、また死者にも供し、乞食行にも用いた、サラキやヒラカと根の同じ
い容器、一般に祭事・凶事に備えた器の呼び名であった。例えば大仏(オサラギ)の読みも、それを教えている。
ホトケ御前を、ぜひにも仏如来に由来するかのようにのみ受け取っていては、微妙なところで、日本の「芸」「芸能」の性
根を見錯まりかねない。白拍子の「シラ」の遠景も、あまり単純に考えていると、じつは平家物語が懸命に奏でてきた、不思議の「風の奏で」をも聴き損じてし
まいかねないのである。
熊野 ーまたもや御意の変るべきー
宗盛という人物がいないと、平家物語は厚みを減じてしまう。源頼朝の子に頼家と実朝とがいて、平清盛には重盛と宗盛と知盛とがいる、と、仮に見立てれば、
父親の内蔵した魅力は、清盛のほうに分があるというのが、昔からのわたしの身贔屓である。わたしは、少年の頃から根からの平家贔屓であり、平宗盛をさえ、
なかなかの存在だと思ってきた。
宗盛に印象をえた最初の出逢いは、戦後の新制中学三年の三学期に、お年玉から岩波文庫「平家物語」上下二冊を買って読
んだあの時に相違なく、とはいえ幼稚園、国民学校の昔から、唱歌や絵本で、源平のスターたちの華麗と哀愁とには、たっぷり馴染んでいた。「赤勝て、白勝
て」の運動会の興奮をすらふくめて、そういうご時世でもあった。
平家物語の後半に、「八島大臣」と呼ばれて平総帥の地位にいた、従一位宗盛の印象は、たしかに芳しいものではなかっ
た。だが、それにもかかわらず宗盛登場の各場面は、それぞれに、ちょっとずつ興味深くはあるのだった。やや硬直した兄重盛の上出来すぎた印象よりいつも妙
に阿呆らしく、妙にまた物哀れに生き生きとして、宗盛には現実感があった。よく謂えば、印象がふっくらしていた。軽くても、薄くはなかった。
源三位頼政の嫡子伊豆守仲綱との間で、名馬をめぐって失笑ものの確執がある。驕る平家をかさに着て、仲綱秘蔵の「木の
下」を強引に召上げた宗盛は、さらに愚かしくも馬の名を「仲綱」と替え、印焼まで打って、ことごとに「仲綱」「仲綱」と、見よがしに乗り回した。この遺恨
がやがて仲綱の父源三位頼政の挙兵に繋がったのだと、平家物語は巧みに動機づけている。その際仲綱は行きがけの駄賃に、働き者渡辺競の機転で宗盛のべつの
愛馬を奪い取り、「昔は煖廷、今は平宗盛入道」とこれも馬に印焼して持主へ追返している。
こういう宗盛は、なんでこうもと、あまりに阿呆くさいのだが、奇妙なおかしみもある。愚かしい振舞いが、いつしかに
いっそ間抜けた人の良ささえ感じさせていたことに、こっちの歳が行くにつれ思い当たるのだった。誰もの遣りそうな事を宗盛は遣っていた。
「熊野」の能を観ていると、宗盛にはわがまま勝手な情け知らずと見えた一面が、ふいと哀れ知ったふうなはからいに転じ、
見所をほっとさせる。それとても今にも「御意の変わ」るおそれのある、やはり気まぐれな気ままなのである。本人は真面目なので、そこにおかしみが出る。か
るく救われる。『吾輩は猫である』の苦沙彌先生が、後架(便所)に入ると必ず「これは平の宗盛なり」と名乗って近所中の失笑を買っていたおかしみと、奇妙
に平仄があっていて、くすっとくる。よくも悪しくも裸の王様の、それなりにさすがの「風情」が宗盛という人物にはある。人徳とすらいえる。
世に「八島大臣」といわれながら、まことに厄介で難儀な時機に、宗盛は、平家落ち目の棟梁となってしまった。風当たり
はきつかった。だが、宗盛が本物の情け知らずな阿呆であったとは、わたしは思わないことにしている。父清盛が鳥羽に幽閉していた後白河法皇を、親孝行な高
倉天皇がひそかに見舞いに訪れたいと望めば、またひそかに容認していたのも宗盛だった。一門の都落ちに際し、弟知盛の勧めとはいえ、畠山、小山田、宇都宮
ら、源氏の根拠の東国に妻子をおいた武士たちを、強いて西国に伴うことも斬って捨てることもなく、「有難き御情」で、故郷へ帰れよと解き放ってやったの
も、この宗盛だった。
さらには勇将知盛が嫡子武蔵守知章を一谷の戦で身代わりに死なせ、かつがつ馬で沖の御座船へ遁れて帰って、一座を前に
声涙ともに恥じ入り、泣いて嘆くのを見守りながら、「武蔵守の父の命に替はられけるこそありがたけれ。手も利き心も剛に、好き大将軍にておはしつる人を。
清宗と同年にて、今年は十六な」と、わが子衛門督の方を見て涙ぐむのも、平宗盛だった。一見これは勝手なようでいて、じつは感じの深いすばらしく好い場面
であり、知盛のあわれはもとより、この宗盛の飾り無き情愛はほんものだと言いたい。
この宗盛と清宗親子とが、そのまま、後に壇ノ浦で、父は子を子は父を気づかうあまりに入水も人に後れ、海面でもともに
沈みかねているうち、源氏の兵に無惨に囚われてしまうことになる。父と子とは、この後も互いに偲びあいいたわり合いつつ、ついに斬られて果てる。こういう
父子の在りようを、ことに宗盛の振舞いを、怯懦とも未練とも難じるのは容易いけれど、わたしは、これもこれ、情ある優なる宗盛と受け入れてきた。たしかに
潔くはない。だが建前よりも本音で、死ぬる間際までそれらしく本性を全うした。
平家苦難の棟梁として、いちばん肝心な場面では颯爽と決断を下したこともあった。
一谷に破れた平家は八島に陣し、都では法皇らが、「内侍所」など三種神器の無事帰還に最も苦慮していた。安徳天皇と列
び立った都の後鳥羽天皇は、三種神器を欠いての異例の即位を余儀なくされていたのである。折しも一谷の敗戦で、三位中将平重衡が源氏に囚われていた。朝廷
は、この重衡自身が八島なる生母二位尼に宛てた、命乞いの書状を添え、「院宣」という重々しい出方で、三種神器と重衡の命との交換を平家に申し入れた。情
にひかれ、母尼が取引に応じてほしいと泣き叫んだのは無理もないが、その際の宗盛の言葉がいい。
「誠に宗盛もさこそは存候へども、さすが世の聞えもいふがひなう候。且は頼朝が思はん事もはづかしう候へば、左右なう内
侍所を返し入奉る事は叶ひ候まじ。其上帝王の世を保たせ給ふ御事は、偏に内侍所の御故也。子の悲しいも、様にこそ依り候へ」と。
この宗盛と、知章十六歳の戦死に涙ぐみ、同じ十六歳の清宗と生死をあくまで倶にしようと波間に喘いだ宗盛とには、何の
矛盾もない。「子の悲しい(愛しい)も様(時と場合)に依り」という言いぐさも、わたしには素直に頷いて聴ける。殊に神鏡を相手に渡しては朝廷として立つ
瀬はなくなるのだ。大方が八島方の決断を是とみたであろう、「八島大臣」という尊称も、この宗盛の決断に対して献じられたと思う。
もっとも、またしても阿呆なマネをと思うのは、院宣と重衡書状を携え来た「花方」という使いの者を、強いて「波方」と
改めさせ、あまつさえ額に印焼して追い返したことで、宗盛の愚行というしかない。実否はいかにあれ、そういう宗盛と見られていたのだ。
能「熊野」の宗盛は、これほどは乱暴ではない。だが、故郷の母が危篤のひたすらな願いに、どうか一目娘の熊野に逢いた
がっていると、はるか東国から使者が来たのを知りつつ、俄かの桜狩りを触れだして伴を強いる宗盛であった。ずいぶんな仕打ちだ。
宗盛には、ああそうかと、奇妙に素直になれない或る屈折があったようだ。
実は二位尼の実子でなく、同時に生まれたべつの町の子とすり替えて育てたという怪しい噂まで、平家物語の異本は伝えて
いる。異本が出来るとは、そうした尾鰭が付け加わって行くのでもある。逆に無駄な尾鰭をきれいに省いて行くはたらきも、実は、ある。ともあれ、あわれを知
り風情を知ることで、宗盛は決して没分暁漢ではなかった、ただ、妙なところで臍を曲げるのである。あの仲綱の愛馬を奪い取ったまでは権門の我儘なのだが、
仲綱が馬に添えて、「身に添へるかげ(影、鹿毛)をばいかが放ちやるべき」と、主が恋しければ逃げ帰ってこいよの和歌一首を詠み添えて寄越した、それが、
宗盛にはぐっときた。「あはれ馬や。馬は誠に好い馬で有けり。されども余りに主が惜みつるが憎きに、やがて主(仲綱)が名乗を印焼にせよ」とやった。名を
重んじた武士の実名を馬の名にしたのである。
故郷の母がどうぞ娘に一目と哀願するのを、宗盛は「そうか、よし」と、すぐに言わない。言えない性分で、つれなく清水
寺の花見に付き添えと強いる。熊野もまた、一人の「祇王」一人の「仏御前」に他ならなかった。男と女とのあいだに横たわる論理は、愛が第一ではなかった、
支配が優先した。だが、愛がまるで無かったとも言い切れない。かつて遠江守だった縁で、若き宗盛が若木の桜の熊野を、東海道の池田宿から根移ししていたの
だ、類まれな美女であった。簡単に帰したくない、宗盛なりに、暇を呉れるにふさわしい場面づくりがしたかったのかも知れない。かくて清水の山へ花見車は動
き出した。
「熊野、松風に米の飯」といわれてきた。微妙に含蓄があり、誉めたとばかりも言えまい、「米の飯」なみの普通のご馳走と
いう意味にもなる。欠かせないもの、普遍的なもの、それほど人気の佳いもの、というところか。「巨人、大鵬、卵焼き」ほど単純ではないようだが、「熊野」
の舞台は、道行きの所々も、少年時代のわたしには我が庭のように近しい場所だった。景色も遺跡もそのまま今も目に映る。能「融」の東山は、月光にぬれて豊
かな見晴らしだが、「熊野」の道行きは目のあたりに間近い。六波羅地蔵堂、愛宕寺跡、六道の辻、鳥辺山、そして経書堂がなつかしい。経書堂からものの三十
メートルほどの木隠れた細辻に、高校の頃の女友達がいた。だれも、わたし達が親しいと気づいてはいなかった。ひっそりと、何度も家をたずねた。母親と二人
暮らしで、堀辰雄の本などがあった。わたしが夢中で『風立ちぬ』を畳に腹這って読んでいても、静かな母子は平和に黙っていた。寂しいどころか、わたしに
は、くつろいで我に帰れるそれは嬉しい時間であった。
ちょうど、あれに似た時間を、宗盛は熊野とともに過ごしていたのかも知れない、会者定離を覚悟していたのはむしろ宗盛
ではなかったか。清水の霊験あらたかに、熊野は暴悪の宗盛から解放されたとばかり、この能を観ていては、それこそ寂しくはないか。
母親は亡くなったが、あの友達はいまもわたしを、いつでも迎えてくれる。
俊寛 ー待てよ待てよといふ聲もー
驕る平家は、世の反感の前に、いつか討つべき標的になって行く。謀反の意志は潜行して、鹿の谷の俊寛山荘が陰謀最初の
舞台になった。後白河院をまきこみ、大納言成親、法勝寺執行俊寛僧都、平判官康頼、西光法師らが集った。与力には北面の武士達が多く加わっていた。安元三
年(一一七七)初夏の頃だ。
謀反には動機が必要だった。「驕る平家」だけではなかった。公家にも受領にも寺社勢力にも、なにより己れの慾と利害の
打算があった。西光法師縁辺の加賀国にも、白山神社がらみに公事を争う熱い火種があった。飛び火して、比叡山延暦寺と三井の園城寺とにも、祇園社と清水寺
とにも対立と葛藤があり、後白河院の近辺でも、新興武家と寺社権勢との紛争が絶えず火の粉を吹き上げていた。院近臣である平清盛の威勢は、そんな渦中から
異様にすさまじく拡大していった。ついに太政大臣にまで昇り、朝廷の人事を恣にし始めた。
だが、高倉天皇とのあいだに、清盛の娘徳子が皇子を懐妊し出産して、清盛と平家一門に揺るぎない外戚の堅い足場をもた
らすには、まだ暫く間があった。鹿の谷陰謀は、平家のまだ絶頂にいたる以前の大騒ぎであった、それは、忘れていいことではない。
「陰謀」はやがて「発覚」する。「西光」は斬られ、首謀の「成親」も配所で殺され、成親の子少将成経、判官康頼、そして
俊寛僧都は、鬼界が島に「流罪」となる。孤島の四季が苛酷に、また悲惨に、巡って行く。漸くこの頃に徳子「御産」の無事が平家一門を挙げて祈り願われ、
「赦免状」が鬼界が島に届くのである。能「俊寛」は、ここから幕が開く。
鬼も出ない、幽霊も出ない、女もいない。徹して現在能であり、ツクリの巧みなこと、真に劇的なこと、三百番の能のなか
でも傑出している。白状しておくが、好んで読み、好んで能を観たとは言いにくい。傑出した表現であろうとも、全然、救いがない。俊寛という頑なな性格が、
播いた種を自業自得に取り込んだまでというにしても、哀れが過ぎた。過ぎたるは、何としても優れた感銘や感動を生まない。後味があまりに重い。
平家物語の前半をしめ、鹿の谷謀議から俊寛の悲惨な死にいたる物語は、「額打論」「清水寺炎上」さらに「御輿振」などを序幕に、「有王」「僧都死去」ま
で、圧倒的な分量になる。よほどの史実に、よほど力のこもった脚色が施されている。平家滅亡の真の序曲が奏でられ、真の原因が深く広くここに探られてい
る。そのぶん異本の異説も活躍する。
簡明簡潔に最もよく纏めた「覚一本」では、鹿の谷謀議を、後白河院も加わって俊寛の山荘でとしているけれど、院は参加
していなかった、山荘は別人のものだった、「瓶子(平氏)」の首をねじ切ったのは、半ば猿楽者のような判官康頼が独りで演じた狂言だったとした本もある。
平家物語は、繰り返して言うが異説や浮説の渦巻いた大星雲のようなもので、手堅い「史実」として鵜呑みにはできない。むしろ偉大な「脚色」「創作」であっ
た、永い永い継続や断続のなかで、大勢の喜怒哀楽や批評や祈願に根ざして積み成されてきた所産であったことを、根の深みで読者は忘れてはならないし、その
上でしかも真実真情に手をふれた心優しい「読み」を楽しまねばならないだろう。
赦免状に「なぜ」俊寛一人の名が欠けていたか、能の作者は触れていない。平家物語では、清盛の憎しみがひとしお俊寛一人に対して強かったと、もっともそう
な理由を挙げているが、要は三人の流罪も、二人だけの赦免も、俊寛への容赦ない憎しみも、これが公の処罰処断ではなくて、清盛のいわば「私刑」であったこ
とを史実は示している。赦免は、徳子御産の無事を願った清盛一人の沙汰であった。そして俊寛を峻別した無惨が、誕生した新皇子、後の安徳天皇海没の最期へ
と、因果の糸を結んで来る。平家物語は、平家滅亡に至る「道理」をいわば一つ一つ拾って行くことで「歴史」をながめ、慈円の『愚管抄』と歴史観の符節を合
わせているが、俊寛の鬼界が島へ置き去りも、大きな一つとして余りに巧みに脚色されている。
脚色は幾重にも輻輳する。成経と康頼とは熊野信仰の霊験を蒙り赦免のよろこびを得たが、謙遜な神頼みを拒絶し一乗法華への帰依をも忘れた俊寛は、自業自得
の置き去りに遭ったと、これこそがと言いたげに、平家物語はぬかりなく神徳佛恩を説いている。
信心のうすい高位の僧。たけだけしく気性のねじけた僧。余りに哀れな物語であるにもかかわらず俊寛の像には、鹿の谷謀
議のそもそもから反感を催すものがあった。道を逸れた強情我慢の坊主という感じに、例えば静賢ーー謀議に批判的で「本」によれば法皇の山荘出御を未然に阻
止したとも伝える静賢法印とは、正反対に脚色されている。静賢もふくめて明らかに平家物語を語ろうとした「或る側」の脚色者たちにとって、俊寛は終始好意
をもたれていない。
そのような俊寛に「もののあはれ」を添え、懸命に共感や同情を引きだそうとしていた「べつの或る側」の語り手たちも、
だが、明らかにいたのである。「有王」の登場がそれを思わせる。
「足摺」までは、現に平康頼のような悲劇の体験者がいて、大筋を証言できた。『宝物集』ほどの仏教説話集を著しえた人物
が、東山の双林寺辺に住まいして、鬼界が島体験を説話的に多くの人々に語るなどは、大いにあり得たことと思う。
だが「有王島下り」以降はどうか。なるほど「僧都の稚うよりふびんにして召使はれける童」があっていいし、それが有王
でもよく、彼が俊寛の娘の書状を携えてはるばる鬼界が島に渡り、再会のよろこびの後に主俊寛の最期を見届けて、また都に戻ってことの始終を世に語りひろめ
た事実があり得ても、いい。延慶本や源平盛衰記は、有王が三人兄弟の末であったとし、長門本は二人兄弟の弟として「越前国水江庄の住人黒居三郎が子」とま
で具体的に語っている。水江庄は俊寛が執行した「法勝寺の寺領」だという。
民俗学の柳田国男は、だが、有王の「アリ」とは、古事記を誦み習った稗田有礼の「アレ」や鴨神社の「みアレ」祭などと
も同じ、神霊の「顕れ」来たる不思議と関わりをもち、また祈祷や呪術判断を業としていたような、「アリマサ」なる男ら一般の名乗りであると説いて来た。有
王の「王」も、神の申し子に等しい神意の伝達者を示していると説いたのである。有王とは、俊寛に仕えた下人なのか、「アリマサ」の一人か。その双方であり
えた実在の者か、全く創作された者なのか。
白状するが、初めて「有王島下り」を岩波文庫で読んだとき、中学生の頭で、「ほんまやろか。ちがうのとちがうやろか」
と、容易にその美談じみた行動が信じにくかった。飛行機で行くのではない。京都から自分の足と舟とを頼みにはるばると、あまりにはるばると行く言語道断の
旅ではないか。あのような気難しい俊寛に仕えて、これだけの難儀を思い立つということに、凡庸で薄情な私などは息苦しいまでの驚異を感じたのだ、俊寛の娘
が父親を尋ねて行くのならまだしも、と。南海の孤島ではなかったのだから、配所の父「景清」を探し求めた娘と同列には見られないが、真実感は、平家物語の
「有王」より能の「景清娘」に今でも感じる。むろん人により逆の人も多かろう、男と女という無視できない肉体的・社会的条件もあるのだから。
問題はそんなことでなく、私が言いたいのは、あれほどの平家の栄華と滅亡を体験した同時代ないしその後の時代に、どれ
ほど多く、柳田国男のいうような「アリマサ」有王が多くの言葉を世の中へ語り伝えていただろうかという、畏怖の思いだ。平家物語の有王が実在の人であろう
となかろうと、鬼界が島に置き去りにされた俊寛の最期を、多くの人々が忘れてはしまえなかった。それではあまりに俊寛に酷く、自分たちの騒ぐ胸も収まりが
つかなかった。俊寛の鎮魂が、平家の鎮魂につながるのだ、多くの死者達の鎮魂につながるのだと思って語り始めた「有王」が現にいたように、もっともっとい
ろんな語り手たちが、もっともっと別の物語を始めつつ、実在した。そう思わなければ説明の付かないほど、いわゆる平家物語は、あまりに多彩に執拗に時代の
哀情を噴出しつづけた。
源平盛衰のあの時代ほど、戦乱に多く人の死んだ時代はかつて無かった。よくよく思えばそれは「死んだ」のではなかっ
た。多くが「死なれて」泣いたのだ。多くが「死なせて」苦しみ悶えたのだ。人は一度しか死なない。だが「死なれ・死なせ」ることは一生に幾度体験しなけれ
ばならないか数知れず、まして戦乱や天災に襲われた時代は嘆き苦しみの声に天も曇るのである。
鎮魂慰霊しなければならぬ死者は多く、だが死者達よりも生き残った大勢がなによりも傷つき汚れた己の魂と肉体とを癒さ
ねばならない。
平家物語とは、まさにそのための、世を挙って鎮魂平家の「悲哀の仕事=モゥンニングワーク」つまり追悼なのであった。
忘れてはならない、芸能は、アマテラスの死を悲しみ、蘇りを願って八百萬の神々が誠を尽くした天の岩戸前での、あの「モゥンニングワーク」なる神楽から肇
まった、日本では。その伝統を、見事に伝えているのが「能」ではないか。
能「俊寛」では誰も死なない、が、死んで命絶えるよりも残酷な、生きながらの死が描かれた。だから見所は、観客は、
「死なせた」無惨さに胸を絞られる。
平家物語でも「足摺」の置き去りで鹿の谷事件は終幕の筈であった。だが、さらに「有王」の登場を必然にした、こういう
ところに平家物語の根のモチーフが、他にも随所に紛れもない「鎮魂」のモチーフが、生きている。
小督 ー恋慕の乱れなるとかやー
「桜町」天皇という方がおられた。次の「桃園」天皇に継いで「後桜町」天皇もおられた。次が「後桃園」天皇だった。その
次の「光格」天皇でまた神武、綏靖なみの厳めしい名に戻った。二百年程前、江戸時代末期のことである、天皇さんに対する関心が薄く、痕跡だけが記録されて
いるような気がする。
だが「桜町」とはなんと優しい名乗りだろう。時代はずいぶん離れているが、平家物語の「小督」という女人を思い出すつ
ど、いつも反射的に「桜町天皇」という久々の女帝の名乗りを連想し、ついで「桜町中納言」といわれた小督の父藤原成範に思い至る。そういうヘンな回路がわ
たしの頭に出来あがっている。
桜を愛し、広い邸うちを桜木で満たしたという、だから桜町。桜より優る花なき春なればと紀貫之が歌ってこのかたの、絵
に描いたような王朝の好みであるが、驕る平家の突風の前に、花はあらけなく散らされがちであった。成範の女小督は、その、危うくも美しい花一輪であった。
手荒い嵐は、他ならぬ平清盛入道相国が吹きかけたのである。
能「小督」は、清盛に宮廷を逐われた小督が嵯峨野に隠れているのを、恋慕やみがたい高倉天皇の意をうけた使者仲国が、
小督の爪弾く「想夫恋」の琴の音をたよりに捜し当てるという話である。いまも嵐山渡月橋の畔に「琴聴」ゆかりの跡が人を集めている。
もともと小督は、清盛の女、高倉帝の正妃徳子平氏によって夫高倉天皇に進められた女であった。高倉帝はかねて葵の前と
いう女を愛されていたが、平家を憚り心ならずも遠ざけられた。女は悲しんで落命し、帝もまた悲哀に沈んでおられたのを、御慰めにもと、徳子中宮に仕えてい
たひときわ美しい小督が、帝の御側へ送り込まれたのだった。
親孝行であったが女好きも至っての高倉天皇は、小督局をまたもや熱愛され、あまりのご寵愛に中宮もいささか白け、徳子
の父清盛は大きに臍を曲げたのであった。
小督は帝の愛を受けただけではなかった。もともと藤原隆房の執拗な愛を受けていた。だが一度帝の御側に上がったからは
と、小督はかたく隆房を拒み続けた。隆房も容易には諦めなかった。隆房の妻は、高倉妃徳子とは母も同じ仲良しの姉妹であったから、清盛は小督を、可愛い娘
ふたりの婿を同時に手玉に取る女だと憎んだ。「いやいや小督があらん限りは世の中好かるまじ。召出して失はん」とまで言った。小督は漏れ聞いて「我身の事
はいかでもありなん、君の御為御心苦し」と覚悟して、「暮方に行方も知ず」失跡し、やがて嵯峨嵐山に身を潜めた。これもまた清盛悪行「驕る平家」の犠牲で
あった。平家は物語の前半で、妓王といい熊野といい、また小督といい、可憐な女たちを何人も泣かせていたのである。
高倉天皇はまたしても悲嘆に沈み、ついには病におかされ、位もすべり、若くして崩御されてしまう。平家物語では「小
督」のことは、亡くなった先帝が、どんなに心優しい御方であったかを物語る逸話の一つとして、こまやかに芝居仕立てに語られるのである。
高倉天皇は、後白河院と建春門院平滋子との間に生まれた。この女院はよほどすばらしい人であったらしい、藤原定家の姉で建春門院に仕えた建御前の日記を読
むと、衣食住そして女文化は、王朝の盛時を凌ぐほどに見える。清盛の妻二位尼時子と女院とは姉と妹だった。清盛は滋子のあるが故に高倉天皇の外戚に準じて
権勢を占めてきたのである。だが、その建春門院は安元二年(一一七六)秋に惜しまれて亡くなった。すでに清盛は高倉帝に女の徳子を娶れており、皇太子も得
ていた。強いて幼帝にも立てた。高倉上皇は父後白河法皇にもきわめて孝行であり、真実情け深い方だった。相手がいいと、心から愛された。葵の前では辛うじ
て自制されたが、小督にはそれも利きそうになくて、しかも猛烈な清盛のいやがらせが出た。それでも上皇は恋慕の余りひそかに仲国に命じられたのである、
「嵯峨の辺に片折戸とかやしたる内に在りと」人の囁く、小督を、探し出して参れよ、と。
この先は奇妙に気恥ずかしく、能舞台を再現してみようと思わない。はっきり言って能「小督」の成行きにはあまり心うた
れたことがない。
一つには弾正少弼の「仲国」が、この場面ではすてきに恰好いいのだが、この人物、世は鎌倉時代になってから、妻と共に
あやしげなカルト的言辞を弄して暗躍し、世を乱した罪で処罰を受けている。そのチグハグが響いて、琴聴の風情はかなり割引かれてしまうのである。
今ひとつに能「小督」は、あんまりいい拍子にトンと一足踏んで舞台を終えてしまうのが淡白過ぎる。一件はこの後になお
幾波瀾もあった。仲国は従者に命じ、小督がその夜のうちにも他へ遁れて尼にでもなられてはならぬと隠れ家を固めさせておいて、小督の手紙を携え宮中に帰っ
て事の次第を申し上げる。院は小督が想夫恋を弾じていたと聴くともう辛抱できずに、今夜中に密かに女を伴い帰るよう、また仲国を嵯峨へ遣わされた。清盛の
思惑を恐れながら、綸命なればと仲国は小督を御所に伴い入れた。高倉院は喜ばれ、仲らいまことに麗しくいつしかに女皇子も一人生まれた。範子内親王であ
る。
人の口に戸は立てられず、清盛はそれと知って激怒し、小督をとらえ有無をいわせず尼にして追放してしまった。本によれ
ば福原から駆け上り小督の隠れ家に乱入、「長ナル髪ヲ入道手ニカラマキテ、坪ノ中ヘ引出シテ見ラレケレバ、誠ニ君ノ思召サルルモ理ナリ、天下第一ノ美人ニ
テアリケルモノヲトテ、ナツカシゲニ思ハレタリ。アマツサヘ耳ニ差寄テ、入道ニ近ヅキタマヘ、今ノ難ヲタスケ奉ラント聞ヘケレバ」などと、きわどく言い寄
り口説いている。
歳二十三の小督は、凛として「日月イマダ天ニマシマス。玉體ニ近ヅキ進ラセナガラ、イカデカサル事ハ候ベキ。貞女ハ両夫
ニマミエザル事ハ知セ給ヘルカ」と応じない。憤然とした清盛が美女の「髪ヲ切リ尼ニナシ、耳ヲ切リ鼻ヲソギテ追放ス」とは、すさまじいが、ここまで書いて
しまうところが平家物語異本群のまた一つの興味であり、性質なのである。
覚一本ならば「主上はかやうの事どもに、御悩はつかせ給て、遂には御隠れありけるとぞ聞えし」と簡潔だが、読み本にな
ると、「主上此事聞召テ、口惜事ナリ。我萬乗ノ主ト云ナガラ是程ノ事叡慮ニ任セヌ事コソ口惜ケレ。丸ガ代ニ始テ王法尽ヌルコソ悲シケレト、御歎アリシヨリ
シテ、イトド中宮ノ御方ヘモ行幸モナラズ、深ク思召沈マセ給ヒケルガ御病ト成、終ニハカナクナラセ給ヒニケリトゾ承シ」と詞を尽くす。
小督は実は名高い信西入道の孫女に当たる。信西の縁辺には平家物語の語り広められるについて、かなりに関わりをもった
人物が何人も居たと説かれている。その語り広めの主なる狙いは、実に「清盛悪行」の唱導であった。小督は逐われ、高倉院は病に伏し再起されなかったのであ
る。小督の生んだ女子は、小督の旧主建礼門院が養女として育てたといわれている。
高倉天皇陵は京都東山の清閑寺の奥にある。殆ど同じところに兄二条天皇、その子六条天皇陵もある。京都の歴史的風景で、最も清潔に、人跡に荒らされていな
いのは、各所の天皇御陵であろうか。
青春時代、私は、思い屈すると、よく独りで御陵にひそんだ。寒々と心が洗われる。葬られている天皇さんに共感して行く
わけではない。最も日本的に簡潔な明浄処であろう、御陵とは。泉涌寺や観音寺にある御陵、粟田坂上の十楽寺陵、また鳴滝辺に散在した御陵や嵯峨山中の御陵
がそれぞれに懐かしい、が、とくべつ好きでよく忍んだのは清閑寺の高倉陵だった。何ということはない、そこは高校の女友達と、世離れた夢を見に忍びこんで
いた、淡いたわいない恋のねぐらでもあった。小督の尼は、この御陵の畔に庵をかけ、終生静かに亡き高倉天皇とともに過ごしたと伝えられる。遺跡も御陵のう
ちにあり、わたしたちは、その間近へひそと身を隠して、時を忘れてあれもこれも話し合い、夕暮れを迎えた。彼女は馬町へ、わたしは清水寺の方へと別れて帰
るのである。全山紅葉の果ては時雨にあう日もあった。小走りに家路を追いながら、
山の辺は夕暮れすぎし時雨かとかへりみがちに人ぞ恋ひしき
などとわたしは口ずさんだ。まさかに自分を高倉院だとは思わないが、時にはあの変な仲国であったり隆房のようであったり
する。そんな錯覚を強いて追い求めるように、小督という平家物語の女人をわたしは愛していた。鬱然と樹木に包まれた高倉天皇の奥津城を守って、尼生涯を終
に悔いなかった、そういう小督という女人をわたしは忘れられなかった。
その小督のやつれながら凛々しい尼姿を、わたしはちらと見た気がしたことがある。大原の里へ、かつては仕え、かつては
愛憎の劇を分かち合わねばならなかった建礼門院徳子を訪れていった小督である。徳子のもとへは、建礼門院右京大夫も訪れていた。小督のことはわたしの幻想
なのであるが、同じ女院のもとには小督と同じ信西の孫女とも娘ともいわれた阿波内侍が、身の回りのお世話をしながら仏に仕えていた。右京大夫も小督も愛す
る男に死なれて生涯をその追慕と追憶にささげたが、女院徳子平氏ほど無数に死なれ、また自身の存在故に無数に死なせた人はいなかった。しかも自分は西海の
波間に死ぬることも出来なかった。
小督はかつての国母中宮を赦していただろう、大原までもいたわりに訪ねて行ったにちがいないとわたしは想像している。
頼政 ー憂き時しもに近江路やー
鹿の谷陰謀は、与力の面々が、公家、僧、院近臣、北面などの非力な寄合い所帯では、平氏の武力勢力を凌ぐなど無理な相
談だった。しかも頼みの源氏の一角から真っ先に離反者が出、その密告で一気に事は露見した。
保元の乱では保たれた源氏の勢力も、平治の乱では平家の前に一敗地にまみれた。源三位頼政の一党だけが、遠慮がちに息
をひそめて宮廷社会に生き延びていた。清盛の子平宗盛が、名馬「木の下」を寄越せと強談に及べば、父源頼政の指示で嫡子仲綱は、愛馬を平家に送り届けねば
ならなかった。送り添えた「恋しくば来ても見よかし、身に添へるかげをばいかが放ちやるべき」の一首は、仲綱の愛着を鹿毛の愛馬に囁いた申し訳でこそあ
れ、宗盛に対しては喧嘩を売ったに等しかった。宗盛は和歌に挑発され、ついに頼政・仲綱も起たずには済まなかったのだと、挙兵の段取りを平家物語はうまく
付けている。
この喧嘩、収支決算は難しい。頼政一味は高倉宮以仁王を担いであっけなく挫折したものの、平家滅亡への飛び火はしたた
かに各地に燃えた。宗盛も洒落た返歌ぐらいで捌けばよかったのに、行く果ては「木の下」ならぬ西海の波間に源氏に囚われ、嫡子清宗とともに斬られた。平家
は滅んだ。秀逸とはいえないが、これも一首の和歌徳といえたのか。
仲綱の母は菖蒲の前といい、鳥羽院の寵愛ただならぬ美女であったと諸本が伝えている。若き日の頼政はふとした折りにこの美女を見初め、三年が程も懸想の文
を送りつづけた。だが「一筆一詞ノ返事モ」貰えなかった。よくある話だ。
院はそれと知り、しかとは女の顔も見まいものをと、同じ装束のよく似た女たちに菖蒲の前も加え、五月五日のはや黄昏時
に、「いづれが菖蒲」と列べて頼政が「眼精」の程を試された。当てたなら女は遣ろうというのである。頼政は閉口した。辞退もしにくく、うかと「ヨソノ袖ヲ
引」けば当座の恥では済まない。そこで「カク(一首を)仕」った。
五月雨に沼の石垣水こえて何れがあやめ引きぞわづらふ
「御感ノ余リニ龍眼ヨリ御涙ヲ流サセ給」うて鳥羽院は菖蒲の前を頼政に授け、夫妻は「志、水魚ノ如クシテ、無二ノ
心中」を分かち合い、嫡子仲綱を儲けた、というのである。
源三位頼政という武将は、幾つもの和歌徳説話に美々しく装われた、文武両道を絵に描いたような最初の存在だった。頼政
はともあれ「三位」の公卿に列してはいたが、不遇の歳月が長かった。昇殿を許されたのが「年たけ齢傾いて後」だった。述懐の一首にものを言わせ、和歌の威
徳でやっと昇殿した。正四位下で停滞していた時にも、ぜひにと「三位を心にかけ」て、こう詠んだ。
のぼるべき便りなき身は木の下にしいを拾ひて世をわたるかな
仲綱愛馬の名は、父が「しい」から三位に昇った、慶びの名前であったやも知れない。
平安末から鎌倉時代にかけて、和歌が、宮廷社会の巧みな恋愛社交術から、より精神的に深く「道」として求められ初め、
後拾遺、金葉、詞花、千載和歌集へと水嵩が増すように、精魂こめて和歌の「好き=数寄」を極めようとした歌人たちを輩出した。それにつれ、もとは神仏との
感応として多く伝えられた和歌徳説話が、恋にも、出世にも、時に免罪符としても、どっと世俗世間へ流れ出して多くの本に競って載り、喜んで読まれるように
なった。頼政はその流行のなかで、文武両道の栄誉をすでに「同時代」に確保した第一人者であった。平家物語も多くの和歌徳逸話に飾られ、武士も優れた歌人
であり得たと強く主張しているが、平家ならぬ源氏の頼政ほど、和歌に生涯を物語られている武人はいない。
武士は命がけで生きた。源平闘諍の時代はことに切羽詰まった「命」を抱え、奔命した。彼らの和歌は修羅の覚悟に生ま
れ、だから感銘を与えた。辞世の和歌が重みをもった。読むものに感慨を強いた点で、武士の、例えば頼政の辞世歌などは、ヤマトタケル最期の歌以来の、典型
の地位を得たと言える。頼政は、只の敗者ではなかったのである。
三位入道、渡辺長七唱をめして、「わが頸うて」との給へば、主の生首うたん事の悲 しさに、「仕ともおぼえ候
はず。御自害候はば、その後こそ給はり候はめ」と申し ければ、「まことにも」とて、西に向ひ手を合せ、高声に十念唱へ、最期の詞ぞあはれ なる。
埋木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける
これを最期の詞にて、太刀の先を腹に突き立てて、うつぶっさまに貫かってぞ失せ られける。
以来、無数のこういう場面が書きつがれ語りつがれ、浅野内匠頭にも西郷隆盛にも及んだのである。頼政の首は唱が取り、泣く泣く石に括りあわせ、敵方を紛れ
出て、宇治川の深みに沈めたと平家物語は言う。ここにも見聞きの者が終始いたに違いなく、いわばこの手の見聞集のように平家物語の取材や編集はなされて
いった。著作権という考えはなく、たとえ異なるグループでもこれぞと思う材料は踏襲し、盗作も改竄もし、尾鰭をつけていった。または尾鰭を省いて整えて
いった。
源三位頼政ほど、或る意味で生涯を全うした幸せ者は、平家物語の中でも稀なのではないか。辞世の歌はもの悲しい。挙兵
したとも言えないうちに事は露見し、肝心の以仁王をさえ守護できず、宇治まで逃走せざるをえなかった。果ては平等院の芝の上で割腹した。
頼政ははや齢七十五の老木の花だった、だが、最期の一と花は咲かせた、源氏の棟梁として大きな役は果たした、と誰も思
えばこそ、頼政は平家物語の一方の雄として、大きく、「はんなり=花あり」ともて囃されている。最期は、歌を詠んでいられる状況ではなかったろう。だが
「若うよりあながちに好い(数寄)たる道なれば、最期の時もわすれ給はず」辞世の一首をのこした。割腹の場所は今も「扇の芝」として平等院にのこり、鳳凰
堂を建てた藤原頼通は忘れられても、武人頼政の最期を知らずに帰るような観光客はいない。
頼政を、だが、名将、勇将とは思ってこなかった。一源氏の棟梁として身を全うしてきたが、ひょんなことから「時代」に火を放った。火種はあっけなかったが
「飛び火」が燃えた。文字通り「埋木」の以仁王を唆し、勇ましい令旨をたくさん書かせ、健脚の伊勢義盛改め行家を以仁王の名で蔵人に任じ諸国へ走らせるな
ど、政略家としては手順を踏んで大胆だが、彼自身の武略は甘かった。根回しが不十分なまま破綻した。女装してかつがつ以仁王はきわどく自邸を遁れ、おかげ
で「信連」のような家来の武勇をわれわれは平家物語で楽しめた。彼が以仁王の置き忘れてきた名笛小枝をぬかりなく見つけて王を喜ばせたなど、読んでいても
心嬉しい。
だが頼政挙兵(治承四年・一一八0)の成行きは情けなかった。王にはことに気の毒であった。頼政も仲綱らも所詮勝つ気
ではなかったのかも知れない。扇の芝にのこした頼政辞世など、以仁王の「身の成る果」を優に代弁したようなもので、担がれた悲運の王に、頼政は「埋木」の
歌で最期に詫びを入れたていると私は読んできた。食えない男ゃな、けど、おもしろいナ、と。
頼政はもともと食えないヤツであった。安元三年、比叡山延暦寺の暴れ僧たちが「神輿振」して大挙御所に迫り、例によっ
て強訴に及ぼうとした。御所の門を固めたのは平家、源氏の武士達だが、頼政の備えはいかにも手薄で、僧兵も目をつけ押し寄せてきた。頼政は思案し、長七唱
を使者に立てて、どれより手薄な我等の陣から破ろうなど、山門の名が廃りましょうと申し入れた。僧兵たちは詮議し、豪雲という僧の説得を是として頼政の陣
を退き、他へ向かったのである。豪雲はこう説いている。
就中にこの頼政卿は、六孫王より以降、源氏嫡々の正統、弓箭をとつていまだその 不覚を聞かず、凡武芸にもかぎらず、歌道にもすぐれたり。近衛院御在位の
時、当座 の御会ありしに、「深山花」といふ題を出されたりけるを、人々よみわづらひたりしに、 この頼政卿、
深山木のそのこづえともみえざりしさくらは花にあらはれにけり
といふ名歌仕て御感にあづかるほどのやさ男に、時に臨んで、いかが情けなう恥辱をあ たふべき。この神輿かきかへし奉
れや。
競、唱、信連、豪雲、また猪早太、その他宇治橋の合戦などにも、何人もの魅力的な男たちが活躍して倦ましめない
のも、頼政一連の物語の大きな徳になっている。鹿の谷事件ではとかく気分は陰気になり、かろうじて西光法師が清盛相手に猛然と啖呵をきるあたりは痛快だ
が、頼政挙兵の、悲劇的ではあるが或るはなやぎと優しさ面白さには遠く及ばない。
これぞ和歌の徳というかのように、ちりばめられた歌の一つ一つが、よく利いている。
鵺 ー仏法王法の障とならんとー
頼政逸話の中で、白状すると、「鵺」の話は苦手である。「かしらは猿、むくろは狸、尾はくちなは(蛇)、手足は虎の姿」などという怪物とは付き合いたくな
い。目に触れやすい「覚一本」だとこの怪物は、鵺の鳴き声に似た鵺とはべつの怪獣で、此れを退治して頼政は、「獅子王」という剣を褒美にもらっている。
「折しも卯月十日余りのことなれば、」左大臣頼長が「時鳥名をも雲井にあぐるかな」と声をかけると、即座に、「弓はり月のいる(=入る=射る)にまかせ
て」と、すこぶる即妙の下句を頼政は返上した。
覚一本では、このあと、似た状況のもとで、今度は雨中の鵺を、同じ頼政がまたみごと射落としている。この時も「五月闇
名をあらはせる今宵哉」と貴人の声がかかると、「たそがれ時もすぎぬとおもふに」と下句をつけ、「弓矢を取てならびなきのみならず、歌道も勝れたりけり」
と誰もが感心したというのである。
鵺とは「トラツグミ」という鳥だといわれている。頼政に退治された怪物は、だが鵺だけでなかった、怪獣もいた。「鵺的
なヤツ」というと得体知れぬヤツの意味だが、平家物語では、能「鵺」ほど簡明な話ではなくて、似た話が二つ混線しているのである。覚一本で、「かしらは
猿、むくろは狸、尾はくちなは(蛇)、手足は虎の姿」なのは、「鵺」のように鳴くべつの化け物の方であったが、能では、これが「鵺」にされている。
なぜ、こんな、気味の悪い「鵺」が、一曲の能に仕立てられたのだろうか。
頼政の武勇。それは賞讃されている。だが弓矢をとって立つ武士は、表道具の弓矢で化け物を射るなどを、「武勇」とは考
えなかった。異本群には、頼政より前に化け物退治を辞退した何人かが居たとしてある。武士の名折れとさえ思う者が少なくなかった、頼政も、実は気が進まな
かった。だから二の矢を用意し、もし射損じたときは、こんな役を強いた憎い公家を射殺そうと物騒なことも考えていた。そう書いてある本が現に、ある。まさ
かと思うが、それぐらい気乗りしない役目であった。
頼政の文武両道を疑いはしないが、平家物語の頼政は、たしかに「武」より「文=和歌」の方で、より華やかに賞讃されて
いる。鵺退治でも、弓矢芸もさりながら神妙の和歌で名を「雲井に」あげている。
平家の忠盛が祇園社に出没した「化け物」を沈着に捉え、無用の殺生を避けた話は、いずれ清盛の誕生譚にまで展開する
が、これは武勇談であった。その場で和歌は無かった。ただし忠盛もなかなかの歌詠みであった。清盛の和歌は平家物語にはついぞ出てきた記憶がない。重盛に
も少ない。無かったかも知れず、こういうことも面白い。
能「鵺」の脚色には、或る何かを、人に読み取らせたい「背景」が、背後のアヤが、隠してあるのだろうかと、長いあいだ私
は考えてきた。すこし途方もない話を、ここで、しておこう。じつは「鵺」の話、諸本の異同も、かなり激しいのである。
能では、鵺ゆえに夜な夜な「御悩」の主とは、「近衛の院」であり、在位中「仁平(一一五一 -
五六)のころほひ」つまり保元の乱直前の話だとあるが、平家物語では「鵺(怪鳥)退治」は保元の乱より以後「二条院」の頃(一一五八 -
六五)のことと、諸本が、みな声を揃えている。延慶本という代表的な読み本、覚一本という代表的な語り本が、ともに「変化の怪獣退治」の方を、仁平頃、近
衛院の御悩としているのである。近衛天皇とは、鳥羽院と傾国の美女美福門院との間に生まれた皇子であった。二条天皇とは、後白河院の皇子で、美福門院の強
い支持で後白河の後を襲った。そのためか、後白河上皇と二条天皇との父子の仲はぎくしゃくしていた。
この辺り、皇室の人間関係は実にややこしいのだが、あらましを言えば。
白河院という強大な独裁者が院政をしき、子の堀河天皇は病に若くして死に、堀河の子の鳥羽天皇が即位した。世は白河法皇の思うままであった。この白河院
が、少女の頃から愛育した璋子藤原氏を、孫の鳥羽天皇の妻にした。璋子はやがて後の崇徳天皇を生んだが、だれもが、父鳥羽天皇でさえも、この皇子は白河法
皇が璋子に生ませた「をじご」であると疑わなかった。白河院はやがて鳥羽天皇を強引に退位させ、問題の崇徳天皇を即位させた。鳥羽が崇徳を疎み嫌う気持ち
は執拗であったから、白河法皇が死後に自ら院政を執った鳥羽法皇は、たちまち崇徳を退位させて、寵愛の美福門院腹の近衛天皇を即位させた。今度は崇徳院の
恨む番だったが、家父長制の皇室にあっては鳥羽院の力は強大だった。
そのうちに近衛天皇は病に早く死んだ。崇徳院は自分の皇子が即位するものと期待していたのに、鳥羽院の遺志と美福門院
の権勢とで、崇徳の弟の後白河天皇が攫うように即位してしまった。キレてしまった崇徳院は、保元の乱の引き金を我から引き、後白河天皇側の平清盛や源義朝
らの武力の前に完敗した。院は讃岐に流され、讃岐で無念を噛みしめて死んだ。美福門院はもともと後白河の皇子二条天皇の即位を望んでいた。後白河もやがて
譲位したのである。崇徳院の都へ帰還を願う熱望は、二条天皇の在位のさなかに繰り返し繰り返しうち砕かれていた。崇徳は凄い怨霊と化していた。
能「鵺」の作者は世阿弥元清といわれている。誰であってもいい、が、怪鳥に悩まされた天皇を、敢えて鳥羽院と美福門院
の皇子の近衛天皇と推して脚色したのは、「鵺(怪鳥)退治」に、(史実の時機は前後はするけれど、)崇徳天皇の怨霊退散といった趣向を作者は含ませていた
のだろうか。
「さてもわれ悪心外道の変化となつて、仏法王法の障とならんと、王城近く遍満して」と、能のシテの鵺は、功力の僧の前に
「救われ」を願い、頼政に射落とされた次第を切に物語る。
鵺には、「われ悪心外道の変化とな」る以前に、人間の姿があったのである。よほどの恨みがあって外道の身に変化したの
だと優に想像できる。では誰への恨みか。前身は何者であったか。鵺はなにも語っていないが、現に「仏法王法の障とならん」と脅し、時の天子の「御殿の上に
飛び下」りて玉体を悩乱させているのであれば、朝廷への恨みと見られる。さればこそ、いかほど朝廷に願ってもついに都へ帰ることを許されず、憤然、讃岐の
配所で自身を「魔道」に回向して果てたという崇徳院の瞋恚の言行と、この謡曲の表現とは、暗く悲痛に符節を合していると読みとれる。そんな気がする。
ところで、主上の意をうけ、「獅子王」を頼政に授けて「雲井」の歌を読みかけた左大臣頼長は、後に崇徳上皇と組み、保元の乱に負けて死んだ側なのである。
また、近衛院が在世のころには崇徳院はまだ都にいた。都にいて崇徳院は近衛天皇を恨み、幼い近衛を位につけて自分を退けた、ややこしい父親の鳥羽法皇や寵
愛された美福門院のことを、深く憎悪していたことだろう。その心根はさながらに怪獣か怪鳥の「鵺」さながらであったのかも知れない。崇徳院の恨みが、「仁
平のころほひ」なら美福門院と鳥羽法皇にも向けられていたに違いなく、讃岐へ流されてからは、後白河院と二条天皇に向けられて当然であった。能の作者は、
その辺の平家物語のややこしさを逆手にとり、曖昧なままに微妙に暗く、微妙に重い崇徳上皇=讃岐院の怨霊譚らしきものを能舞台に匂わせたのではないか。
この推量に深入りはしないが、頼政には鵺を射落とした褒美に「獅子王」という御剣を下されている。本によっては、この
剣が「鳥羽院」所持の名剣のように特記してあり、「鵺=崇徳怨霊」という推量とも微妙にからんで、ここにも父子対決がほの見えて面白い。
ところが頼政には、さらに意味ありげな、三種神器の宝剣がらみに不思議な逸話が、平家物語異本群に書き込まれている。
そしてそれこそが頼政の真実「武勇」を物語っているとも読めるのである。
時は平治の乱もまぢかいある日、殿上に影のように男が立ち、咎められるとかき消えて、そこに一振りの剣が置かれていた。もしや宝剣か、それなら山も岩も切
り崩せようと、権勢を誇った藤原信頼が御坪の石に切りつけると、「七重八重」に無残に歪んだので、剣はその辺に棄て置かれた。そこへ頼政が来た。信頼はか
らかい半分、剣のことは分かるかと尋ね、頼政は弓矢取る身です、分かりますと答える。信頼は棄て置いた剣を女房に取りにやらせた。頼政が剣を静かに手にす
ると剣は目の当たりにまっ直ぐに鞘に納まり、信頼は驚愕した。頼政は剣をじっと見て、実に見事な剣です、きっと朝家の守りとなりましょうと言い切り、「大
神宮ニ五ノ剣アリ、当時内裏ニオハシマス宝剣ハ第二ノ剣、是ハ第三ノ剣也」と、実は昨夜半に、天のお告げがあった、「国ヲ守ラン為ニ皇居ニ一ノ剣ヲ奉ル、
即チ宝剣是也。亡国ノ時ハ此剣又宝剣タルベシ」と言われたと、まことしやかに告げた。信頼は信ぜず、証を求め剣で御坪の石を斬れと命じた。頼政はこともな
く大石を散々に切った。人々はどよめき、信頼は畏れ、剣は大切に温明殿に蔵われた、というのである。
それでもなお頼政の言うことを、信頼も、また主上も、信じにくく思っていた。だが、元暦二年三月、安徳天皇とともに宝
剣が浪の底に沈み果てて後に、かの頼政に見出された剣が、波間から拾われた宝鏡と印璽とともに三種神器と成されたときには、みな人は、頼政がまこと「タダ
者」ではなかったのだと思い当たった、と、いうのである。時代を経て後にも「頼政程ノ者ナカリケリ。諸道ニ疎ナラズ」文武両道にわたって「威ヲ顕ハサズト
云事ナシ。花鳥風月弓箭兵杖、都テコノミト好ム事、名ヲ揚ゲ人ニ勝レタリ。就中弓矢ニ験ヲ顕ハシキ」と褒め上げて、さて平家物語の「鵺」の話が始まるので
ある。
三種神器から「剣」が海底に埋没した事件は、平家物語世界の真実一大事であった。埋め合わせに、実にいろんなことが云
われたり書かれたり説かれたりしたが、宝剣に代わる宝剣が、頼政武勇の眼鑑に叶って宮中に用意されていたというこの逸話は、頼政が、いかに世の人の印象に
深切に、大事に、彫まれていたかの、なによりの証拠ではなかろうか。
実盛 ー老い木をそれと御覧ぜよー
芭蕉の句である。
あなむざんやな冑の下のきりぎりす
去来抄に拠っているが、芭蕉は猿蓑で、初句の「あな」をはぶき捨てている。謡曲「実盛」に、「樋口参りてただ一
目見て、あなむざんやな、斎藤別当実盛にて候ひけるぞや」とある。わたしは、そのままの「あなむざんやな」の方が、調えての改作より好きである。小松市の
多太神社で、その「冑」を観てきて、やはり「あな」という実感をもった。
能「実盛」は、他にも例はあろうが、ちょっと意表に出た始まり方をする。登場の囃子が無く、ワキの遊行上人が従僧を連
れて出て、脇座で床几に腰をかける。法談が今から始まるという体である。アイが出て、常座でいきなり話し始める。加賀の国篠原に住まいする男で、他阿弥上
人の法談の座に加わろうと来たのだが、この男、妙なことを言う。上人が、正午ごろになると決まって独り言を言われる。何を言われているのか、その聞き役を
人に頼まれたので高座近くに出ようと思っている、と。
日中の刻限になると、法談の座に、俗人には見えも聞こえもしないのに、上人の心眼心耳には、一人の老人が日参してくる。そして二人は問答になる。高徳の人
のさも独り言をいうと、人の目に耳に見え聞こえるのは即ち、それであった。上人は、この篠原の戦に果てた実盛の幽霊と対話していたのだ。
能から離れて実盛を思うとき、彼が平氏でも源氏でもない斎藤、つまり武士の藤原氏であることをつい忘れている。藤原と
いうと公家のように思うが、俵藤太秀郷のように強豪をもって知られた藤原氏は、奥州藤原氏もそうだが、各地に割拠していた。あの西行法師も佐藤義清という
武勇の士であった。暴れ者の文覚すら舌を巻き、うちひしがれそうな毅さを法師西行に感じていたという。
関東平野は「八平氏」というほど平家の扶植された土地だが、足利、新田、武田のような源氏もおり、藤原氏もいた。源氏
の頼朝が、平氏である北条時政の婿として都の平政権を倒そうと起ったことに象徴されているように、「関東」の武士団のかかえた事情は、どっちに味方するか
だけでも、複雑だった。一族や家族を根拠の関東に置いて、都の平家に仕えていた武士たちは、関東で頼朝が起ちまた木曾で義仲が起つにつれ、いわば立場上微
妙に宙吊りにされていたのである。
斎藤実盛にも、源平に挟まれ、似たような事情が無くはなかった。
実盛戦死の後日のことだが、平家が木曾義仲に逐われて都落ちの際、はたと難儀な判断を迫られたのは、「大番」というい
わば公務のために都に来ていた関東武士たちを、西国に強いて引き連れて行くか、いっそ後顧の憂いなく討っておくか、関東に帰すか、だった。中には、もう以
前から厳重に「召籠」めてあった畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門尉朝綱ら一騎当千の者らがいた。中納言知盛はこう意見を具申した。
御運だに尽させ給ひなば、是等百人千人が頸を斬せ給ひたりとも、世を取らせ給はん 事難かるべし。故郷には妻
子所従等如何に歎き悲しみ候らん。若し不思議に運命開けて、 又都へ立帰らせ給はん時は、有難き御情でこそ候はんずれ。只理を枉げて、本国へ返し 遣さる
べうや候らむ。
総帥宗盛は即座に、「此義尤も然るべし」と彼らに「暇」をやる。畠山等は涙ながら「二十余年の主」の恩義に感謝
し西国への同行を誓うが、宗盛大臣は「汝等が魂は皆東国にこそあるらんに、ぬけがらばかり西国へ召具すべき様なし。急ぎ下れ」と追い放つ。こういう平家
が、わたしは好きだった。実盛も、こういう平家が好きで、最後の最期まで平家の武士として節を枉げなかったという文脈の上で、平家物語でも賛嘆され能でも
顕彰されている。
それにしても「実盛」物語には、「あなむざんやな」と一息に嘆じさせて余りあるものが、ある。何としても、ある。わた
しは苦手なのである。俊寛も景清も無惨であるが、実盛の最期は、無惨でなく無惨でなくと筋を運んであるぶん、樋口次郎の間髪をいれない「あなむざんやな」
に、すべて真実が迸リ出る。樋口次郎はいわば実盛の置かれた平家内での立場に、その武士たる意気地に、一切を代表して「共感と哀情」とを捧げたのだった。
能「実盛」には、泣かせどころが二つ用意されている。一段と有名な「髪洗い」と故郷に「錦を飾る」話で、簡潔な平家の
語り本に取材しているのだろう、盛りだくさんよりも分かりがいい。だが盛りだくさんに話を積み上げた異本も、拾い読んでいると面白い。理に落ちて説明する
きらいはあるけれど、ほろりともさせる。
実盛には武蔵の国長井に所領があった。妻子は久しくそこに置いていたかも知れない。死に場所は加賀の国江沼郡の、篠原とある。平維盛が木曾義仲に撃ち破ら
れた戦で「老武者」実盛は、身を投げ出すように木曾方の勇士手塚太郎光盛と組み打ち、討死した。この間実盛は軍陣の常に違えて、「存ずる旨ありければ」終
始名乗ろうとしなかった。「木曾殿は御覧じ知るべし、」頸はだいじにお目にかけよと、「独り武者」のままに敵中の鬼となり奮戦したのである。討った手塚の
目には「大将かと見れば続く勢もなし、また侍かと思へば錦の直垂を着」ているし、声はとても都の人とは思われない「坂東声」だった。
義仲は直感で、実盛の頸だと思った。それなら白髪頸と思われるのに、見れば鬢髪黒く、髭も黒い。呼ばれた樋口次郎は見
るなり「あなむざんやな」と呻いた、実盛に相違ないと。老いの花はなやいで討死しようという戦に、老い故によき敵と思われないのでは口惜しい。鬢も髭も染
めて出陣したいとは実盛のいわば遺言に等しかった、のを、心知った友の樋口はよく覚えていたのだった。舞台の感動をなにもかも、拙く話してしまうものでは
ない。「錦の直垂」のことは、どの平家物語にも漏れていないが、実盛の頸と知って、涙ながらに木曾義仲が斎藤別当との遠く深い縁を語っている本は少ない。
「木曾殿は御覧じ知るべし」と実盛が敢えて名乗らなかったのには、胸にしみる理由があった。
実盛が今度の戦を死出の旅と覚悟していたのには、一つには、坂東武者として平家に仕えた時代の不運を嘆く気持ちもあっ
た。過ぐる富士川の合戦に、水鳥の羽音に驚いて潰走し大敗して都に帰った無念も恥じていた。今一つに、決起した源氏一方の雄たる木曾義仲にならば、勝ち戦
をさせてやりたい密かな存念をも、実盛は身の深くに抱いていたのである。義仲はそうした背後の事情を源平盛衰記で語っている。
義仲の父「帯刀先生」の名乗りは、東宮護衛隊長に由来するが、その源義賢は、同じ源氏の甥義平に武蔵大倉の館を襲われ、殺されていた。義仲はまだ二歳だっ
た。義平は畠山重能に遺児を捜索しきっと殺せと命じていたが、畠山は稚い義仲を憐れみ、情けある斎藤別当実盛の手に預けた。実盛は七日の間預かったもの
の、周囲は義朝・義平方の源氏ばかりで剣呑を極めた。頼まれて守り切らぬも本意でなく、養い置けば早晩義仲のために危険が迫る。実盛は思案を尽くして、稚
い義仲を木曾の中原兼遠にはるばる送り届けた。兼遠は「請ケトツテ、カヒガヒシウ二十四年養育」したのである。
兼遠とは、義仲と最期まで死命を倶にした樋口兼光や今井兼平の父であった。実盛の白髪頸を眼前に、義仲に今が在るのは
みな実盛のはからいによるもので、加えては「七箇日ノ養父」でもあったと、義仲は「サメザメト泣」いて、「危キ敵ノ中ヲ計ヒ出シケル其ノ志、イカデカ忘ル
ベキナレバ、此ノ首、ヨク孝養セヨト」義仲は命じ、兵たちも袖を絞って実盛の冥福を祈ったのである。
同じことを、長門本では、二歳の義仲を「母泣く泣くいだいて、信濃の国に越えて、木曾の中三兼遠がもとへ行き、いかに
もしてこれを育て人になして見せ給へ」と頼ませているが、畠山や斎藤別当が背後で心遣いしていたことと何の矛盾もない。また吾妻鏡では、義仲の乳人だった
兼遠が、窮余、稚い主君を抱いて自分の生国木曾に連れて遁れたと記録しているけれど、これも実盛らの情けあるはからいを否定するものではない。
木曾殿義仲の、最期に至るまで、哀れは哀れとしていつもほの温かにファミリアな主従の情愛にとり包まれているのは、心
嬉しい救いであるが、背後にはこんな事情が隠れていた。実盛が「存ずるところ」を胸中に畳んで木曾の前に老いの身を擲ったのには、「七箇日ノ養父」とし
て、やがて義仲も、平家ならぬ身内の源氏の手におちて最期の命を散らす修羅の悲しみを、はや、予感していたからかも知れぬ。
源平盛衰記「実盛」を叙した結末に、面白いことが書いてある。「新豊県老翁ハ八十八、命ヲ惜ミテ臂ヲ折ル。斎藤別当実盛ハ七十三、名ヲ惜ミテ命ヲ捨ツ。猛
キモ賢キモ人ノ心トリドリ也」と。白楽天の長詩「新豊折臂翁」とは、若い昔の無謀に強いられた南征の軍役を、自ら石で臂を折り忌避して長命した老翁であっ
た。卑怯に命を惜しんだ例ではない、失政への強烈な非難の敢為だった。この対比、微妙な批評と言わねばならず、この「折臂翁」が、実はわたしの処女作の題
材になった。
経政 ー恥かしや人には見えじものをー
修羅能もいろいろだが、僧の功力に救われて終わるものの多い中で、「経政」の能では、常世の闇に、修羅の鬼のまま、また消え失せて行く凄みがある。平家物
語では経政でなく「経正」が正しい。
「俊成忠度」や「清経」と同じく一場物の修羅能である。概して、シテとワキとに特別な関係があって、ワキが名前を名乗っ
て出てくる能は、一場物になっている。僧都行慶は仁和寺守覚法親王に仕えた僧であり、修理大夫経盛の子息経正は、法親王に「八歳のとき、参りはじめ候う
て、十三にて元服つかまつり候ひしまで」は、病気の時のほかは、ひしと近侍し寵愛された公達であった。琵琶を天才的に弾じ、青山と銘された琵琶の名器を預
けられていたのを、平家一門の都落ち(寿永二年・一一八三)に際し、いま一声の別れを申したさに仁和寺にまで馳せて行った。琵琶の青山を、「余りに名残は
惜しう候へども、さしもの名物を、田舎の塵に成さん事口惜う候。もし不思議に運命開けて、又都へ立帰る事候はば、其時こそ猶下し預り候はめ」と、泣く泣く
返納して行ったのである。
経正は、「甲冑をよろひ、弓矢を帯して、あらぬさまの装ひにまかりなりて候へば、はばかり存じ」て、門前で去ろうとす
るのを法親王はひきとめて、親しく対面した。別れは、目睫にせまっていた。
「経正その日は、赤地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧着て、長覆輪の太刀を帯き、切斑の矢負ひ、滋藤の弓をわきばさみ、兜を脱
いで高紐にかけ、御坪の白洲にかしこまる」と、こういう際のまさに作法どおりが書かれている。
御所の人々も泣いて別れを惜しみ、経正を放さなかった。なかでも経正が幼少のとき、「小師でおはせし大納言法印行慶
は、余りに名残を惜みて、桂河の端迄打送り、さてもあるべきならねば其れより暇請うて泣々別れ」た。この行慶が、能「経政」のワキになって出る。見ず知ら
ずの「諸国一見の僧」が通りがかりに幽霊にあい、逗留して功力をもって往生の業をたすけるというのが通例だとすれば、これは異例に、シテとワキとは親しい
間柄である。長門本ではなぜか同一人の名が「行尊」になっている。語りの現場現場でなにがしか存命であったり関係者がいたりして、ちいさな配慮や錯覚がこ
ういう変更を生むのであろうか。このときに行慶=行尊と経正とは、こう歌を詠みかわしたという。
あはれなり老木若木も山桜 おくれ先だち花は残らじ 行慶
旅衣よなよな袖をかたしきて 思へば我は遠くゆきなん 経正
さて、巻て持せられたる赤旗、さと指上げたり。あそこここに控へて待奉る侍共、「あはや」と て馳集まり、其勢
百騎ばかり鞭をあげ、駒を早めて、程なく行幸に逐つき奉る。
あざやかな「語り」である。和歌にも句読点が振ってあり、語って聴かせた平家物語の呼吸が生きている。なんという美しいここの「赤旗」だろうか。送る行慶
にも先途をいそぐ経正にも、もう夢にも不思議の生還は断念されているのが、痛ましく、潔い。
経正は、経盛の嫡男であり、弟に、あの十六歳の花を散らせた敦盛がいた。経盛父子は、例えば弟教盛の子弟ともくらべて
官位官職にあまり恵まれていない。そのことも、こういうところを読んできた頭に、いつも、あった。妙に、ものあわれであった。だが騎馬の武者百騎がさっと
鞭をあげて駆け去ってゆくなど、目に映る光景は優美で雄壮で、涙ぐましい。公達の中ではむしろおとなしく地味に感じられる経正なのに、この御室の別れは、
ひときわ印象的にわたしは愛読してきた。
能では幽霊の「経政」が琵琶を弾じる。語り本にはそれがない。そんな余裕のあり得ようはずのない都落ちであった。だが読み本には、青海波、萬寿楽など五六
帖を暫く演奏して辞去したという。実際に弾いたというより、弾いて行かせたい読み手や聴き手の願望を斟酌した作意だろう、ここは、きびきびと先へ運んで行
く語り本系の緊張感が、いい。
「青山」という琵琶の名についても、簡潔を旨とした覚一本、長門本などは「夏山の峰の緑の木の間より、有明の月の出でた
るを、撥面に描かれたりけるゆえにこそ」とあっさりしているが、読み本はもっと角度を替えて説明してくれる。もとは大唐国に伝えられたこの琵琶を、廉承武
という名手が手づから弾じ、秘曲を日本人に伝えた時、感に堪えず、青山の緑の梢に天人が天降り舞い遊んだ、それで「青山」なのだと。いや、そうではなくや
はり撥面の絵からついた名であり、もし撥面絵に牧の馬を描けば琵琶に「牧馬」と名がつくようなものだと。ともあれ「青山」は、「玄上」「獅子丸」という名
器とともに、廉承武に秘曲を学んできた我が朝の男が、仁明天皇の御代に、唐からはるばる持ち帰った琵琶であった。だが「獅子丸」だけは、海路、龍神の惜し
むところとなって海没したという。
「経政」の能は、「管弦講にて弔ひ申せ」とあるように、経正追悼会、いや、いっそ経正葬儀の体をとっているとみてもいい
だろう。「弔ひ申せとの御事にて候程に、役者を集め候」と、ワキ行慶は、最初に宣言する。開式の辞のようなものである。
「役者」とある二字が、この際なにを説明していようとも、ことに目を惹く。
「役者」とは何なのか。楽器演奏上の配役であるのか。それでもいい。源氏物語の音楽の場面でも、丹念に琴はだれ、笛はだ
れと、配役している。シテといいワキというのも、能役者の役どころに相違ない。相違のないそれらの「役」を、全てひっくるめて、遠くはるかに遡れば、天の
岩戸前でエロチックに舞い遊んだウヅメの舞いは、あれこそが「役者」の「芸」の初まりに相違なかった筈である。
あれはアマテラスの蘇生を祈る、まさに葬儀であった。幸い日の女神は、ウヅメ入神の「役」に引きづられるようにして、
蘇生したのだった。
だが国譲りの交渉役に天上から出雲に遣わされたアメワカヒコの時は、「日八日夜八夜を遊」んだけれど、蘇生しなかっ
た。「遊ぶ」とは、つまり葬儀に配役して、「河雁をきさり持(うなだれて供物を持つ役)とし、鷺を掃持とし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女と
し、如此行ひ定め」て、日八日夜八夜を葬祭したのだ。使者の霊魂を鎮め慰めようと「役の者」が「遊ぶ」ことこそ、芸能の根源であった。もとより、かぶりも
ののような扮装をもしたであろう。
そのような久しい「はふり・いはひ」の伝統を踏んで、「役者」という二字が、正しくここにも用いられていることは、な
により、岩戸神楽を能の肇と世阿弥や観阿弥が言っているのだから間違いはない。経政をいままさに弔っているところへ、経政の幽霊があらわれる。蘇生でこそ
ないが、管弦にことよせた「役者」たちの「芸」が、それを実現し可能にしたのである。能「経政」の舞台は、そのように読みそのように魅入られて、より一層
みごとな効果が味わえるのである。
それにもかかわらず、「経政」作能は、じつに巧みに平家物語「青山之沙汰」にまなんでいると見える。これは長門本本文
に従ってみたいが、聖帝といわれた村上天皇が、「三五夜中の新月すさまじく、涼風颯々たりし夜半」に、清涼殿で琵琶の玄上を弾じていると、「影のごとくな
るもの、御前に参りて、興に乗じ高声に唱歌めでたく」和してきた。帝は琵琶をしばらくさし置いて、「そもそも、なんぢはいかなる者ぞ。いづくより来たれる
ぞ」と訊ねた。
影の男は、その昔、日本から訪れた貞敏に、秘曲と琵琶とを授けた「大唐の琵琶の博士廉承武」ですと名乗り、じつはあの
時三曲を授けるところを一曲を惜しんで授けなかった。その罪で「魔道」に沈淪していたが、いま帝の御琵琶の撥音のあまりに妙なるにひかれて、かくも現れ出
ましたと言い、「御前にたてられたる青山を取って、転手をひね」って、帝のためにその秘曲を、残り無く伝授したのであった。
「そののちは、君も臣もおそれさせ給ひて、この琵琶を」だれも弾奏しないまま、御室の守覚法親王に伝わっていたのを、
「最愛」のあまり、琵琶の名手であった経正にお預けになっていた。西国へ落ち行く間際に経正は、この琵琶青山を返納のために御室へと馳せ来たのであった。
管弦講に惹かれ、その経政は幽霊となって影のように能舞台に現れる。唐の琵琶の博士廉承武の亡魂と、日本国に名器青山
を弾じえた若き名手経正の幽霊とが、凄艶に一つの「影」を分かち合い、重ね合うに等しい「趣向」が生かされているのだ。
だが、かの廉承武は、村上聖帝の琵琶により魔道を脱却することが出来たというのに、あわれ経政は、「あら恥かしや、我
が姿、はや人々に見えけるぞや。あの燈火を消し給へ」と、魂消ゆるように叫ぶのである。修羅道の猛火に焼かれ苦しみながら、「恥かしや、人には見えじもの
を。あの燈火を消さんとて、その身は愚人、夏の虫の、火を消さんと飛び入りて、嵐とともに燈火を、嵐とともに燈火を吹き消して、くらまぎれより、魄霊は失
せにけり、魄霊は失せにけり」という、物凄い幕切れになる。
これほどもの哀れなもの凄い修羅能が、他にあろうか。あるかも知れない。が、わたしは、芸術家にして武者でもあらねば
ならなかった経政の、無限の怨みに、肌を焼かれる心地がする。
清経 ー偽なりつるかねことかなー
平家物語を初めて通読したのは中学三年生であったが、その時、奇異に感じ、印象的だった箇所が、少なくも二箇所、いや四箇所あった。同じ記事が、二度ずつ
別の箇所で繰り返されていた。奇異というと、変なとも思われようが、むしろ一種のつよい感銘をうけたのである。
平家の都落ち間際に、平家は当然、三種神器とともに一天萬乗の後白河法皇を安徳幼帝ともども、西国へ祭り上げて行きた
かった。徳子平氏の生んだ安徳天皇はまだほんの幼児でしかない。ぜひ院政をとる後白河をも体よく「取り奉っ」て、つまり拉致して都を去れば、去って行く先
が、そのまま院と天子との皇都となり、刃向かえば逆賊になる。
平家の思惑は戦略として自然で当然であったが、思惑を引き外そうと、平家の身勝手で拉致などされたくない老練の法皇
が、すばやく脱出を考慮したのも自然当然であった。事実法皇はかろうじて夜陰に乗じ都を抜け出して、鞍馬山に忍んでしまった。
この時に、私の読んだ岩波文庫の覚一本では、源資時という若い公家が、只一人「御伴」に随ったと書かれてある。
わたしは、この資時という人物について、当時、すこしだけ識るところが有った。わたしの買った文庫本の校注と解説をし
ていた山田孝雄博士が、この資時、出家して「正佛」といわれた人物こそが、徒然草にいわれている、平家は信濃前司行長が詞を書いて、法師「生佛」に語らせ
たとある、その生佛と「同人」であろうと説かれているのを、興深く読んでいたのだ。偶然は重なるものだが、平家物語の次に、いや先にであったと思うが、私
は徒然草の文庫本も買っていて、これはなかなか読み煩ったけれども、校訂者の西尾実博士が、有名な平家物語の成立ちに触れてある段で、「生佛」に「綾小路
資時、正佛」と脚注されているのもちゃんと記憶していたのである。
残念にも当時中学高校生の私は、まだ後白河撰の梁塵秘抄を知らなかった。資時が、今様唱いの名人であった後白河院に愛
され、歌唱の免許皆伝を享けていたような天才だったとは、まだなにも知らなかったのだ。ただ、此の二人が、ただならぬ仲ではあると、平家物語であの場面に
出会った最初から直感した。何のことはない、かかる危急の際に法皇に只一人「御伴」をするとは、さぞや資時は緊張もしていたろうが、幸福感も味わっていた
だろうなと、ま、中学生の感覚ながらそう感じて、奇異にも印象的にも受け取っていたのだった。しかも鞍馬脱出の記事は、巻第七「主上都落」半ばにも、巻第
八「山門御幸」冒頭にも、詞も同じく、ていねいに繰り返されていて、ひとしお私の感慨をそそった。
後年に、平家物語「最初本」を探索しながら、この源資時や後白河院や建礼門院徳子らを大事に働かせての、しかも現代も
の長編の『風の奏で』を、また中編『雲居寺跡=初恋』をわたしに書かせた動機が、その辺に遠く既に疼いていたのだった。これらの小説には、実はわが「清
経」も、なかなかに働いていた。大事な一人であった。
これらとは異なる『清経入水』という小説が、私を文壇に押し出した太宰治賞受賞作だったことは、幸い、知る人は広く
知ってくれている。この清経入水の記事も、平家物語では二度繰り返されていた。その二度めは、後白河院が、平家滅亡の後に、はるばる大原の庵室に建礼門院
を訪れたとき、女院みずから、六道の苦になぞらえ、西国西海での平家一門の悲しみ苦しみをつくづくと語り出すなかで、象徴的にすべて「不運不幸の初め」と
して謂われているのである。まことに清経の入水死にはその趣が色濃くて、数行の僅かな記事でありながら、強烈に印象づけられている。中学生の私もまた、清
経の死に心を奪われてしまい、「なんでやろ、なんで清経は死んでしもたんや」と、不審半分、共感も半分で胸にしっかりと抱き込んでしまった。それを吐き出
したのが、『清経入水』というこれもまた現代小説に化けて現れたのだった。
平家は一度は福原に入りまもなく九州にまで落ちて行った。北九州には、清盛が太宰大弐を勤めてこの方の、勢力の扶植が
ある。宋国との交易で多くを獲得し、文物も財貨も蓄えて平家はぐんぐんと伸びたのだ。だが、時代はいまや動いていた。強硬に対抗し、さしもの平家を九州の
地から追い立ててしまうほどの、強い、新しい地力が生まれていた。
小松殿の三男、左の中将清経は、本より何事も思入れける人なれば「都をば源氏が為に 攻落され、鎮西をば維義が
為に追出さる。網にかかれる魚の如し。何くへ行かば遁るべ きかは。長らへ果つべき身にもあらず」とて、月の夜心を澄まし舟の屋形に立出て、横 笛音取朗
詠して遊ばれけるが、閑に経読み念仏して、海にぞ沈み給ひける。男女泣き 悲しめども甲斐ぞなき。
ただこれだけの記事が私の身にしみた。この時九州の地を追われた平家は、柳ヶ浦に舟を浮かべて寄る辺を求めてい
た。やがて本州に上り、むしろ勢力を回復して東へ東へと失地を奪い返し、ついには京都をすら望める足場にまで盛り返して行ったのだが、清経は、その全てに
先立って、音も立てずに入水して果てたと謂うのである。一の谷や屋島の合戦よりも、それは、ずっと早い孤独で静寂な自殺であった。
平家には、忌まわしい、士気を萎えさせる清経入水だったことを語るのが、灌頂巻のすでに仏門に入っていた建礼門院徳子
であった。
寿永の秋の初、木曾義仲とかやに恐れて、一門の人々住馴し都をば雲井の余所に顧みて、 故郷を焼野の原と打詠
め、古は名のみ聞し須磨より明石の浦伝ひ、さすが哀れに覚え て、昼は漫々たる浪路を分て袖をぬらし、夜は洲崎の千鳥と共に泣明し、浦々島々由あ る所を
見しかども、故郷の事はわすられず。かくて寄る方無りしは、五衰必滅の悲しみ とこそおぼえ候ひしか。人間の事は、愛別離苦、怨憎会苦、共に、吾が身に知
られて候 ふ。四苦八苦一として残る所候はず。
さても筑前国太宰府と云ふ処にて、維義とかやに九国の内を追出され、山野広しといへ ども立寄り休むべき処なし。同じ
秋の末にもなりしかば、昔は九重の雲の上にて見し月 を、今は八重の塩路に詠めつつ、明し暮し候ひし程に、神無月の比ほひ、清経の中将が、 都のうちをば
源氏が為に責落され、鎮西をば維義が為に追出さる。網にかかれる魚の如 く、何くへ行かば遁るべきかは。存へ果べき身にもあらずとて、海に沈み候ひしぞ
(平 家一門にとっては、)心憂き事の始めにて候ひし。
平家の苦境を、気の毒なほど明快に語って余すところがない。
「清経」という能は、けっして身贔屓するのでなく、惹きこまれる名曲で、謡だけを繰り返し聴いても面白い。何といって
も、「音取り」という小書(演出)でのシテの出は美しい。が、そういうことにここでは触れない。平家物語で清経の入水には、要するにただこれだけの本文が
ある、覚一本の場合。だから能のように清経と妻との形見の髪をめぐってのやりとりなど、能作者の創作かと思われそうだが、これまた異本にはしっかり出てい
て、それを読むと、なぜ清経が入水死に至ったか、まことしやかに説明してあったりする。
清経は妻を西国までも伴いたかった。妻も熱望していた。だが縁辺の藤原氏の猛反対で別れ別れになり、夫は道中より形見
の髪を送り、文通は怠らないと約束した。ところが三年、「たより」が無い。むくれた妻が「一首ノ歌ヲ」添えて形見の「鬢ノ髪」を返してきた。
見ルカラニ心ツクシノカミナレバウサニゾ返ス元ノヤシロニ
能「清経」の、まさに眼目となる和歌一首である。「形見こそなかなか憂けれこれなくは忘るることもありなんと思
ふ」古歌の心を踏んで、「見ているだけで気が滅入ります。心憂さが堪りませんので、宇佐の宮ではありませんが、元の持ち主に、神ならぬ髪は、お返しします
わ」と嘆いている。その時、清経ら憂色濃き平氏は、豊後国の柳ヶ浦にいた。「左中将是ヲ見給フテハ、サコソ悲シク覚シケメ」と本の作者には大いに同情され
ている。この同情が、能では清経から妻への怨み返しになって来る。その応酬により能が冴え返る。
本によっては、この妻は、夫恋しさのあまり、先に「憂い死に」をしてしまい、使いの者が、遺言の歌のままに、形見の髪
を返しに柳ヶ浦なる平家の陣を訪れてきたとある。さてこそ清経は、悲歎にうち負け、跡を慕うように清寂の入水死を遂げたのだと謂う。
源平盛衰記など読み本系統でも似た話をしている。能「清経」は明らかに読み本系によって巧みに創作されていたのであ
る。
むろん平家物語も、誠に巧みに清経の寂しい入水死をもって、「心憂き事の始め」と一門の末路を象徴した。心幼いなりに
わたしはそこに惹かれた。
巴 ー薙刀柄長くおつとりのべー
題は忘れたが木曾義仲と、寵妾たちの確執を扱った映画が、むかし、あった。好ましい作とは観なかったので殆ど忘れてい
るが、巴を京マチ子が演じていて、適役だった。記憶はあやしいのに、頭の中でぴたりのはまり役として、まだ生きている。華やかな鎧姿の表情まで蘇る。京マ
チ子は昔も今もひいきの女優である。巴と、確執いや角逐した相手の女のことはさっぱり忘れているが、葵、山吹、朝日など、の名前が平家物語諸本に少しずつ
見えていて、関わりの、こんな思い出がある。
京都市東山区の東大路に安井金比羅宮があり、大路をまたいで鳥居前の広道をまっすぐ上って行くと、高台寺や、京都神社
もとの護国神社などへ突き当たる。突き当たる直前に右へ路を逸れて行くと清水寺の方へ行ける。
この東大路から東向きに、ものの百メートルも行った右側民家、道路から十段ほど石段を上がった玄関先に、朝日御前の墓
と称する石塔がある。朝日御前が木曾義仲の愛妾の一人という以上のことをわたしは知らなかった。そういう遺跡の遺ったことが嬉しかった。
また私の通った小学校、戦争当時は国民学校であったが、校庭の校舎寄り中央に、大きな椋の樹がそびえ立ち、根方に山吹
御前の墓とした石塔が建っていた。山吹は、木曾殿最期の際に、病でか義仲と倶に都を遁れられなかったと書いている、本がある。なんだか先の映画の題が、
「巴と山吹」だったような気がしてきた。
平家物語に、木曾義仲の書かれようほど、極端なイメージの分裂は珍しい。八島大臣の宗盛など、比較的人物像が揺らいで
その時々の言動や印象がちがって感じられる方だけれど、そして宗盛のためにはそれが人間味を添えた効果をもち得もしているのだが、大方は、することなすこ
とほぼニンというものが定まっていて、意外なと特に驚くことは少ない。
ところが義仲にかぎって、木曾に決起の頃の勇猛果敢、武将として最大限の魅力を発揮していた頃と、都に入って宮廷や公
家社会に接して以後の振舞や描写とでは、別人かのように、扱われ方も書かれ方も大差がある。そして一転して、近江の粟津松原での最期になると、また凛々と
して哀情痛切、芸術的感動に富んでいることは、平家全編の白眉といえる場面になる。義仲も哀れならば、最期まで義仲をいたわり庇って壮烈に死んで行く乳兄
弟の今井兼平のみごとさは、涙なしにおれない。
人物の幅と魅力となれば、べつの価値観を持ち出すしかないが、「書かれ方」という表現の結晶度においては、全編に無数
の人物のあるなかで、木曾義仲は図抜けて傑出している。匹敵するのは義経でも清盛でもなく、私は、後白河院と平知盛とを挙げたい。これは人それぞれの思い
入れでよいことと思う、が、こと義仲に関して一つ言えるのは、清盛や高倉院もしのぐほど「女」が好きで、いささかダラシもなかったことか。
昔も今も変わらない、この筋の噂は面白づくに飛び交い、新聞も週刊誌もないけれど、筆まめに書き留めたり囁き合うたりすることは、今以上であったろう。そ
れが説話の集にも編まれ、また多大な平家物語の異本を生む、いわば「話嚢」となった。
さしも朝日将軍義仲も、宇治川の備えを、義経率いる佐々木・梶原らの先駆けに打ち破られ、はや都は維持しかねると見
て、法皇に「最後のいとま」申して落ちようとするのだが、「六条高倉」辺に「見初めたる女房のおはしければ、それへうち入り、最後のなごりをしまんとて、
とみにも出でもやらざりけり」という按配だった。この女、「おはしければ」の言葉遣いから、たぶん「松殿入道殿下(関白基房)御娘」であろう、いや「ある
宮腹の女房」であろうと、詮索されている。基房の娘で絶世の美女を義仲が強奪した話も先の方に出ていて、都入りした「木曾冠者」は、その粗暴の故に都人士
に大いに顰蹙されていた。
しかし義仲はたいへんな美男でもあった。義経は醜男の小兵だったそうなが、義仲は鎧兜をぬいでしまうと別人のような二
枚目であったと、多くの本が口を揃えている。もとより剛勇の猛將であり、女は、結局は魅せられてしまった。そういう女を義仲も好んだ。
もうそこの河原まで東国の敵勢が「攻め入ッて」いるのに、義仲は女との別れを惜しんで出てこない。まだ新参だという家
来の武士が口を酸くして諌めても、聞かない。
「さ候ば、まづさきだちまゐらせて、死出の山でこそ待ちまゐらせ候はめ」と、癇癪を起こした家来はその場で「腹かき切ッ
て」死んでしまい、「われをすすむる自害にこそ」と、やっと木曾は女のもとを離れた。
いくらか、いらいらする。但し「英雄色を好む」のが常であるなら、或る意味では美女たちがぶらさがるのは、勲章だっ
た。義仲は勲章を同時にいくつも遠慮なくぶらさげていたわけで、なかで、最後の最期まで義仲から離れなかったのが「巴」であった。
さすが好色の木曾義仲も、最期の場に寵愛の女が同伴で、枕をならべて戦死したとあっては人聞きがわるいと、心を鬼に
し、我が菩提を弔うてくれてこそ「倶会一処」「後の世までの伴侶ぞ」と強く云い含め、強いて巴を粟津の戦場から落としてやる。巴は泣き、だが義仲はゆるさ
なかった。
さらばと、巴は最後のめざましい一働きをし、鎧を脱ぎ捨てひとり戦場を落ちていった。だが巴の魂は決して義仲の身から
離れなかったというのが、能「巴」前シテの出になる。
巴は、あの実盛の友中原兼遠の娘であり、今井兼平、樋口兼光らの妹である。義仲とはもともと乳兄妹であり、この一族を抜きに木曾義仲の生涯は語れない。至
福真実の身内であり、一心同体の主従だった。
能にも、「木曾」という能は、木曾最期を描いたものでなく、義仲挙兵を祝って神の加護をうたいあげた特殊な作であり、
かえって「巴」「兼平」の二番が、義仲戦死を、まことみごとに表現している。義仲は兼平を求め、兼平は義仲を求めて、近江路を敵の勢いからのがれのがれ幸
せにも行き会うのであり、平家物語のその辺からは、凛々しい緊張感と清らかな哀情に満たされて、読みながら感動で息も喘いでくる。その時もまだ美しい巴は
ひしと愛する義仲に付き随っていたのである。
木曾殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹は痛はり有て、 都に留りぬ。中にも巴は色白く髪
長く、容顔誠に勝れたり。ありがたき強弓、精兵、 馬の上、歩立ち、打物持ては鬼にも神にも逢はうと云ふ一人当千の兵也。究竟の荒馬 乗り、悪所落し、軍
と云へば、実よき鎧著せ、大太刀強弓持せて、先づ一方の大将には向けら れけり。度々の高名肩を並ぶる者なし。されば今度も多くの者ども落行き討れける中
に、七 騎が中まで、巴は討れざりけり。
巴は、女ながら、一騎当千の強者をすら一時に二人もとりひしいで頸をねじきってしまうような無類の強豪であり、戦の場に出て負けたことなど一度もなかっ
た。兼平は、義仲とただ二人になったときに、自分一人で兵の千人には当たります、気弱になられるなと励ましていたが、巴でも、必ずそう言ったにちがいな
い。
我が国の説話の世界には、女ながらに桁はずれな力持ちがときどき現れる。神の申し子のような、とんでもなく強い女であ
るが、この巴は、美貌と強力とを兼ねもった女として、史上第一位の名声と人気を保ってきた。義仲は、女に気の多い男であったけれど、一番深い心の底では、
巴を、我が身と同然に熱愛し親愛していたに、頼んでいたに、違いないとわたしは思う。いっしょに死のうとしなかったのは、薄情であったとか、武士の意気地
で見栄をはったとかではあるまい、愛情であったろうと思いたい。
寿永三年一月(一一八四)、粟津の別離はどのような平家物語異本でも洩れなく読めるが、その後の「巴」を書いているのは、例によって読み本であり、盛衰記
などである。義仲と別れるまでの戦で巴は目立つ活躍をしつづけたので、国中に知らぬものはなかった。中には女ごときにと、好色を下心に秘めて、言挙げして
巴にわざと組み付いて行った武者も何人もいた。だが例外なく巴の手に命を落とすか赤恥をかいた。それほどの巴であれば、元の木曾に落ち延びたにしても、鎌
倉の頼朝が見逃しては置かない、ついには鎌倉に呼び出された。
一目見合って、もとよりうち解けうる二人では、ない。頼朝は森五郎に預けて、斬らせようとしたが、武勇の和田小太郎義
盛がつよく願って出て、巴を貰い受けた。見たところわるびれもせず落ち着いて、なかなかの者、あれほどの女に我が子を産ませたい、頂戴したいと。用心深い
頼朝は、親の敵で主の敵である鎌倉の侍に、隙あらば寝首もかこうとするに相違ない、よせよせと諾かないのを、強って申し受けた。
「即チ妻トタノミテ男子ヲ生ム。朝比奈三郎義秀トハ是ナリケリ。母ガ力ヲ継タリケルニヤ,剛モ力モ双ナシトゾ聞ヘケル。
和田合戦ノ時、朝比奈討レテ後、巴ハ泣々越中ニ越エ、石黒ハ親シカリケレバ、ココニシテ出家シテ、巴尼トテ、仏ニ花香ヲ奉リ、主(義仲)親(兼遠)朝比奈
ガ後世弔ヒケルガ、九十一マデ持テ、臨終目出度クシテ終リニケルトゾ。」
巴ほどの女を永く末あらしめよと願う人の多かったことが想われ、何となく私は嬉しい。
忠度 ーただ世の常によもあらじー
「薩摩守タダ乗リ」と、気の毒な駄洒落のたねにされているが、平忠度は地味な印象の底に渋く光る魅力があり、一人の人気
者、平家の悪逆をほとんど担わないままに人の心に影像を置くことの出来た、或る意味で幸せな公達であった。
歌を詠むとなると、その場を逃げ出す平家の公達もいた。清盛や重盛の和歌を急には誰も思い出せまい。知盛でも宗盛でも
辞世の和歌はない。南都奈良の寺々を焼き払った重衡にはしみじみとした辞世歌があるけれど、およそ平家の和歌を一手に引き受けていたかに見えるのが、平忠
度であった。薩摩守忠度には「俊成忠度」「忠度」と二つの能があり、一つの能に編集できそうなほど、一連の、即ち和歌徳の能になっている。いや、和歌道に
執心執着の能になっている。
平家では、忠度や清盛の父忠盛が、機転の利いた、文字通り「和する歌」の達者であった。古代の素養を新興の武家として
巧みに身につけ、幾分はその徳を一門の徳に結びつけたのが平忠盛であった。忠度は、すこし違う。和歌の歴史でいうと、確実に父忠盛の一歩先を歩いており、
歌は即興味よりも、真実を尽くして自然と境涯とをいわば写生していたと見受ける。清新な詠みくちで、真剣だった。和歌の道にしんから出精していた。そうい
う時代であった。
武将としての忠度は剛強武勇の士であった。最期の力戦はみごとで、死にざまも美しかった。ここでそれを繰り返すのはやめよう。忠度は粋な人でもあった。王
朝の女文化に対する素養も確かで、敬意も払った。諸本の中には、こんな逸話を伝えた本文もある。
宮廷社会に、才色兼備をもってその頃ひときわ評判の女性がいて、忠度との親愛には濃やかなものがあった。ところが、い
い女というと目のない高倉院も、評判にひかれて時折りに訪れておられた。ある秋の夜長に忠度が訪ねて行くと、先客がある。忠度は院とも知らず、庭面を徘徊
して客の帰るのを待ちわびていたが、なかなか腰をあげそうにない。すこしく焦れて、忠度は扇を鳴らしてそれとなく催促した。
女には忠度とわかり、気の毒には思うものの、院に、ぶしつけに振舞うわけに行かなかった。また扇の骨をきしませるらし
い音がする、院も不審げにされたときに、女は、さりげなく「野もせ」とだけ、呟いた。忠度はそれと聴きとめると、そのまますっと帰っていったのである。類
話も多いのだが、源氏物語の夕顔の巻に、「かしがまし野もせにすだく虫の音よ我だにものを言はでこそ思へ」と出ている歌を、忠度は心得ていた。忠度の扇を
鳴らすのを女は蟲の音に譬えながら、一方歌の下句に情深い忠度への思いも託した。それも忠度はきちんと汲み取ったのである。二人の仲らいは、また一入深
まったと謂う。
こういう忠度が、誰を歌の師としていたのか、本当に俊成卿であったのか。
更くる夜半に門を敲き わが師に託せし言の葉あはれ
いまはの際までもちし箙に 遺せしは花や今宵のうた
わずか唱歌の四句に能「俊成忠度」や「忠度」の全部が唄われていて感心するが、この美談にひとしい理解に対し、必ずしも賛成ではない人が、わたし自身もそ
うなのだが、わたしだけでなく、昔から、いた。いたらしい。平家物語が語り伝えられた時分から、実は少なからずいたのである。能「忠度」の作者、たぶん世
阿弥もその強硬な一人であった。
忠度に取材した能は、「俊成忠度」はもとより、ことに能「忠度」は、源氏の勇士岡部との最期の決闘を語るための修羅能
では、ない。「生前の面目」を賭けた和歌への執心、それによるいわば無念怨念が忠度を幽霊にしているのである。忠度は俊成の弟子ではなく、歌風からも、俊
恵らの歌林苑に筋を引いた歌人であった気が、わたしは、している。
藤原俊成はいずれ勅撰の和歌集、のちの千載和歌集を撰するであろうことは宮廷社会に知れ渡っていた。だから「門を敲」
いて、書き溜めた家集を辛うじて忠度は届け終え、心おきなく都を落ちて一門の悲運に殉じた。
師弟と見るには、この際の俊成の迎え方が硬かった。琵琶の「青山」を持参の経正を招じ入れた、御室の法親王や行慶らと
比較しても分かるし、平家物語の本に依っては、門前に忠度が来たと知って俊成邸は周章狼狽し、俊成は「ワナナキ、ワナナキ」門の陰まで出て、門を開けるこ
と無く忠度と応対した、余儀なく忠度はだいじな歌巻物を門内に「投入レ」て行ったとまで書いている。少なくも門の内へ俊成は終始迎え入れなかった。「勅
勘」の平家で、無理もない。それを咎めはしない、が、師弟の情があったとは思わないのである。
知られているように俊成は、千載和歌集に忠度の「故郷花」と題する一首を、「勅勘」の朝敵であった平家の身分を憚り、
単に「読人しらず」として撰し、採った。
さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな 読人しらず
近江大津京にほどちかい「長等」の地名もよみこんで、温和に懐かしい秀歌である。そして忠度が最期まで身に帯び
ていた有名な一首は、先に挙げた唱歌「敦盛と忠度」にも唄われた、
行きくれて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし 平忠度
能ではこの「花や今宵」の歌を「読人しらず」と脚色しているが、岡部に最期の手柄を授ける段取りからも、これ
は、頷ける。それは、この際はどっちでもいいのである。
平家物語では、ある本は、千載集に採られたことを、忠度の「亡魂イカニ嬉シク思ヒケン」と前向きに評価している。
だが覚一本をはじめ幾つもの本は、「読人しらず」とされたことに、「其身朝敵と成ぬる上は仔細に及ばずと云ながら、恨
めしかりし事ども」だと明記し、憚らない。世阿弥もその怨執の念を主題に能を作り書き、どれほど和歌の道に「生前の面目」を賭して忠度が生きたか、その無
念を代弁している。能「忠度」のワキは、今は亡き俊成の身近にいた僧だが、忠度の幽霊は、俊成子息の名誉の歌人、藤原定家がやがて勅撰集を編まれる時に
は、どうぞ「忠度」の名を顕わして一首なりと採っていただけまいか、お口添えが願わしいと切望しているのである。岡部に討たれた修羅の無念ゆえに、忠度は
迷い出たのではない。勅撰の歌人たる名誉が、「忠度」の「名」に与えられなかったのを、俊成に対しても、恨めしく思っている、そこが肝心なのである。そこ
に世阿弥の批評がある。
ここに「定家」の名の見えるところが、興味深い。世阿弥は、能の作者は、平家物語の或る本に書かれたこんな記事を、確
実に踏まえていたに違いないからである。
清盛の子の基盛は早くに死に、遺児に左馬頭行盛がいた。彼は和歌の道を、俊成の子の定家について出精していた。明かな
師と弟子とであった。
都落ちに、もとより平家の一門の行盛も運命を倶にしたが、怱忙の間に行盛は師の定家に別れを告げ、定家も懇ろに迎えて
薄き縁を惜しんだ。行盛は師の手元に、日ごろ心に入れて書きとめた歌百首の巻物と、手紙とを遺し、都を離れて行った。見ると、巻物の端に、自作の和歌一首
がそれとなく書き入れてあった。
流れての名だにもとまれ行く水のあはれはかなき身は消えぬとも
若き定家は感動し、心に期するところがあった。父俊成が忠度の和歌を「読人しらず」として撰した時も、子息定家
はそれを「本意ナキ」こと、「忠度朝家ノ重臣トシテ雲客ノ座ニ連ナレリ。名ヲ埋ム事口惜し」いことと思い、自分はきっとあの「行盛」の名を顕わしてやりた
いと、心にまた誓った。それでも定家は三代の御代をやり過ごし、ついに後堀河院の頃、新勅撰和歌集を苦心して編み、宿願の行盛の歌を「左馬頭平行盛」と明
記して入れたのであった。
「寿永二年大かたの世しづかならず侍りし比、読置きて侍りける歌を、定家がもとへつかはすとて、つつみ紙に書附て侍り
し」という題詞も、定家が自身で書き添えたのであろう、「亡魂イカニ嬉シト思フラント、アハレナリ」とは、其の通りである。
それにしても、この行盛と定家、忠度と俊成の二つの話は、対照が利きすぎていて、意図的な脚色とすら読める。忠度の
「無念」を、ぜひに代弁して遣りたくて堪らなかった人たちが事実いたのだろうと想像させる。忠度の幽霊が、俊成縁者のワキ僧に向かい、定家に頼んで欲しい
と懇望するところに、能の意図は、とても面白く、とても哀れに、露出している。
世阿弥が、この対照的な平家物語の話柄に取り付いて能を作ったのは、ほぼ確かではないかと、わたしは考えている。
敦盛 ー跡弔ひてたび給へー
熊谷直実が、心ならずものしかかり頚を掻かねばならなかったとき、少年敦盛は、どんな顔をして直実の目を見上げていたか。そういう課題が、永らくわたしの
頭にあった。
直実が躊躇したのは何故だろうとも思った。気の毒…。そういうものだろうか。手柄首をそんな感情で擲てるようには、武
士の神経は出来ていない。熊谷は名誉欲も強ければ、恩賞に対する貪欲も人一倍であった。訴訟が思うに任せなくて出家したのだという俗説すら囁かれた熊谷直
実である。
敦盛が、わが子の小次郎と肖ていたか。年齢は同じ十六歳でもいいが、首実検で人を欺けるほど肖ていたというのでは、い
かにも歌舞伎で、話が出来すぎている。熊谷直実は関東のむしろ荒武者であった。敦盛を渚から呼び返したときにも「日本第一の剛の者」と名乗っている。小次
郎にしても、荒い気概では父に負けていなかった。一谷での、熊谷平山「一二之懸」「二度之懸」を読めば分かる。どうにも手柄をあげたい武骨な父子であり、
またそれでこそ武士なのであり、「現ニ組タリシ敵ヲ逃シテ、人ニトラレタリトイハレン事、子孫ニ伝ヘテ弓矢ノ名ヲ折ベシ」と思い返して、直実は敦盛を逃が
し放ちはしなかったのだ。陣中で、心澄まして名笛小枝を吹いていた敦盛とは、もともとモノが異っている。その自覚の上で、さすがに息子小次郎に向っては、
敦盛最期は痛わしかったと、ほろりと、告白している。本によれば、「後ハ、軍ハセザリケリ」とも記事が結んである。根からの武士が、ふっと無常の風に誘わ
れた。それは否定しない。だが、それだけのことであったろうか。
直実は、組み敷いた実感において、一瞬、女を、すこぶる上等の異性…を、感じたのではないか。そうわたしは想って来
た、それなら、わかる…と。
遂に熊谷は上になりのしかかり、左右の膝で、敦盛の鎧の袖をむずと押さえたとある。これぞ手籠である。敦盛は身動きも
ならなかった、いやいや「少シモ働キ給ハズ」と本文にある。手籠にあいながら動いて逆らおうとは、ちっとも、しなかったのである。熊谷は腰の「刀」を抜
き、「兜の内」をのぞいた。なんと、エロチックな表現。「十五六ノ若上臈、薄化粧ニ金黒也、ニコト笑ミテ見ヘ給フ」たとは。女か……。熊谷は、胸を轟かし
た。
穴無慙ヤ。弓矢取身ハ、是程若クウツクシキ上臈ニ、イツコニ刀ヲ立ツベキゾト、心弱
ク思ヒケル。
平家物語の敦盛も、能の「敦盛」も、むろん少年である、が、女とみまがうほどに優しいその公達が、わが頚を斬っ
た当の熊谷蓮生坊により、修羅道の苦患から救われたい、救うて給われと幽霊で現れる、そこに、この能の奇抜で奇妙な色気がある。倒錯の魅力が、あまい風の
ように匂うのである。稚児にも似た敦盛が、どうかすると、昔愛された今は出家の男によって救われたがっている女に、見えてくる。女ではない、少年だ敦盛
だ、あれは男同士だと思い直して行けば行くほど、それでよけいに、とほうもなく能の舞台がセクシィになる。むろん、いやらしくも何ともない。美しく「あは
れ」なのである。
「十六」という能面が、「敦盛」の専用面のようになっている。同い年の「知章」にも用いられる。もう一人同い年の公達が
いて、宗盛の嫡男清宗がもしシテを演じても「十六」の面をつけただろう。シテがつけるといい面だが、面だけを写真にしたもので見ると、ふっくらした頬で、
妙に栄養が足りていて、「あはれ」味が薄い。あれでは少女とは見えない、年増にも見えないと、これまた永いあいだ物足りなかった。ちがうのとちがうやろ
か…と、持って行き場のない気分でいた。
ある年、能の題を小説の題に、いろんな古美術の名品の写真と競い合うように、現代モノの短編を連載してくれと、茶の湯
の雑誌から、凝った注文がきた。頼み込んで一回目だけ、「十六」という題で敦盛を書きたいと言い、むろん題だけが「敦盛」の、現代小説ではあったのだが、
美術の写真には、三井永青文庫所蔵の能面「十六」を撮影してもらった。私も現場で撮影を見せてもらった。
カメラマンは、能面は正面から素直に撮りたいと言ったが、わたしは、角度をつけて、能面十六にべつの顔が見えてこない
か、ぜひ探ってほしいと注文をつけた。写真家は何度も根気よく試みてくれて、その都度わたしもファインダーを覗かせてもらううち、総身に電気の走るような
戦慄を覚える「女」の顔に、ついに出会った。凄艶な女の顔だった。少年だけが隠し持っている、それは、うら若い母か姉かの顔に見えた。これだと思った。熊
谷直実は組み敷いた少年の、己れを見上げてくる表情に、この顔を見たのに違いない。理屈を超越し、わたしはそれを信じた。
「これを撮って下さい」と、わたしは躊躇なく叫んだ。その写真が連載の一回目を飾り、わたしは幻想的な短編で、古傷の少
年の恋を書いた。写真は、これがあの永青文庫の「十六」かと驚かれた、冴えて、悩ましい、凄いほど美女の横顔だった。連載を終え、単行本になった『修羅』
の表紙や函も、その「十六」のカラー写真が飾った。
「あはれ」であった。
一の谷の戦やぶれ 討たれし平家の公達あはれ
暁寒き須磨の嵐に きこえしはこれか青葉の笛
わたしぐらいな六十過ぎた年輩なら、この唱歌を知らないものは少ない。いまはなぜか「青葉の笛」と題してあるよ
うだが、昔はずばり「敦盛と忠度」だった。歌詞の一番には敦盛を、二番は忠度を歌っていた。源氏より平家が贔屓だったわたしは、愛唱に愛唱した。同じよう
に南北朝の時代、「青葉茂れる桜井の」駅の、楠木正成正行父子が訣別の歌も熱唱した。そういう時代であり、そういうタチの少年だった、わたしは。敗者に涙
した。
平家物語を読むようになったのは、戦後、新制中学をそろそろ卒業という頃だった。能楽堂へ出かけ、主に京観世の舞台で
「清経」や「八島」を観たのも、顔見世の南座で市川寿海の盛綱を観たり、人形浄瑠璃の「熊谷陣屋」を聴いたりしたのも、高校一年頃からのことだった。そん
な時もあの唱歌の哀調はわたしの中でいつもたゆたっていたし、そうでなくては、能にせよ歌舞伎にせよ、そうそう親しめる芸能ではなかったかも知れない。
だから平家物語をはじめて文庫本で買って、頭からどんどん読み進んで「敦盛最期」に来た時、「きこえしはこれか」と
唄ったはずの「青葉の笛」などという笛の名が、本文に全然出ていないのに、文学少年、大発見の面持ちを隠すことができなかったのである。
事実「青葉の笛」と書いた本文は無く、大方が父経盛より伝領の名笛の銘は「小枝」としてある。頼政に担がれた無品の宮
以仁王が「御秘蔵ありける」名笛も、「小枝」と呼ばれていた。両者になにの交通もなげであるからは、奇妙というしかないが、実は「青葉の笛」を世に広く流
布した張本は、能の「敦盛」であった。本説正しきを尚ぶ世阿弥ないしは当時の作者であるから、どこかに典拠のあることと思いたいが、例えば十訓抄に「笛の
最物」つまり横笛の名器「青葉」の名は出ているのだが、創作であっても面白い。とにかく小謡にもなっている、こんな「敦盛」の詞章に、めざす笛の名は紛れ
もない。
身の業の。すける心により竹の。小枝蝉折様々に。笛の名は多けれども。草刈の吹く笛
ならばこれも名は。青葉の笛と思し召せ。
「敦盛」のワキは、熊谷直実出家して蓮生法師で、往年討ち果たした平家公達の菩提を弔うべく、一の谷に登場したと
ころで、前シテの草刈男の笛を吹くのに出逢う。あまりの優しさに笛の名を問い掛けた、その答が「青葉の笛」であった。この少し前、蓮生は草刈る男の笛を、
物珍しく「その身にも応ぜぬ業」に思い、かえって男から「それ勝るをも羨まざれ。劣るをも卑しむなとこそ、承れ。其の上、樵歌牧笛とて。草刈の笛樵の歌
は。歌人の詠にも詠み置かれて、世に聞こえたる笛竹の。不審はなさせ給ひそとよ」と窘められている。笛を吹く草刈男に、例えば「小枝」「蝉折」のような伝
来の品の銘を期待して聞くものはいない。珍しい音色、珍しい形の、見慣れず聴きなれないものだったから、「それは何の笛か」と尋ねたのだ。他ならぬこの草
刈る男こそ、後シテの敦盛その人と思えば、いよいよ義経や熊谷の涙を誘ったという、うら若い「上臈」の鎧の袖に隠されていた笛を、草刈の青葉の笛に重ねて
は想像しづらい。
「山路に日落ちぬ 耳に満てるものは樵歌牧笛の声。澗戸に鳥帰る 眼に遮るものは竹煙松霧の色」とも、朗詠集に謂う。そ
して明らかに蓮生法師が須磨の浦一の谷の夕まぐれに聴いたのは「草刈笛の声添へて吹くこそ野風」と謡われている、牧笛の哀調なのであった。草笛、葉笛で
あった。
通盛 ー討死せんと待つところにー
もし小宰相という愛妾をもたなかったら、一の谷の合戦(寿永二年・一一八四)で討たれた、能「通盛」のシテは、平家一門の中で目立つ存在とは謂えなかっ
た。平家物語では、北国に木曽義仲が起った頃から、追討軍の大将格で名前が何度か見え初めるが、忠度とほぼ同時に源氏に討たれた記事以外にはさしたる問題
のない人物であった。恋女房の小宰相に、妊娠していたこの愛人に、哀切無比、後追いの入水自死をさせた男こそ、通盛、といえば全ては尽くされる。
武将としては、弟の能登守教経が平家では抜群だった。終始豪快に闘いぬいて、しばしば「高名」を馳せた。「討つべき敵
なし」というほどに、都落ちの後も一時平家挽回の立役者になったのが、能登殿だった。のちには、あわや源氏の義経を追い詰め、手もかけんばかりに派手に活
躍して、壮烈に壇ノ浦で戦死した。
通盛もそこそこに力強くはあったようだが、敵を組み敷き首を掻くのに、鞘のまま刀を使っているうちに、たばかられた感
じに、下から眉間を刺し貫かれて果てたらしい。
通盛は、一門総帥の八島大臣、従二位宗盛の婿であったという、が、この北方は年端もゆかぬ少女であったため、藤原憲方
の娘で小宰相局という女房を西国へ伴っていた。けれど、妻の座にはなく、乗る船も別であった。だが二人は人目を忍んでしばしば逢う瀬を語らい、この上もな
いアツアツぶりは、知らぬ人もなかった。
小宰相はかつて宮仕えしていて、「心懸ケヌ人ハナ」いほど、「心ハ情深ク形人ニ勝レ」ていた。ある春の一日、高貴の人
の北野参詣にこの女房の付き添っているのを「通盛ホノ見給ヒテ、宿所ニ帰テ忘レントスレドモ忘ラレズ、」人を介して、文と歌とを送った。
吹送る風のたよりに見てしより雲間の月に物思ふかな
うまい歌ではない。小宰相は返事をくれなかった。「三年ガ程、書尽キヌ水茎ノ数積モレドモ、終ニ返事」は無いま
まであった。とうどう、死ぬとまで書いて、小宰相が朋輩らと同車の中へ恋文を投げ込んだ。大路に捨てるのも流石に憚られ、車中に放置もならず、仕方なく
「袴ノ腰ニ挟」んだまま建礼門院の御用を務めているうちに、ふと取り紛れ、文を落として気づかなかった。
女院は衣の袂にそっと伏せ隠し、懐中し、御遊の後に、女房達の中でこのような文を拾ったが誰のものかと聞いた。「我も
我も知ら」ないと言う中で、ひとり小宰相局は身の置き所もなげに俯いていた。文には香がたきしめてあり、「手跡モナベテナラズ美シク、筆ノ立チドモメヅラ
カ」であった。文の端には思いのたけを、
我が恋は細谷川の丸木橋ふみ返されてぬるる袖かな
踏みかへす谷の浮き橋浮き世ぞと思ひしよりもぬるる袖かな
「つれなき御心も今はなかなか嬉しくて」などと「文返し」続けられて「逢はぬ恋を恨」みがちに、しみじみと恋慕の
気持ちが書き連ねてあった。
女院は、一門の通盛が執心している噂はほのかに聞いていたが、細かな経緯は知らなかった。こういうことであったのかと
女院は小宰相に、「アマリニ人ノ心ツヨキモ讐トナル」と諭し、これほど思う男との「一夜ノ契リ、何カサホド苦シカルベキ」と、女院自ら硯を引き寄せて返事
を遣った。
ただたのめ細谷川の丸木橋ふみ返しては落つる習ひぞ
こうまで女院の仲立ちがあっては、小宰相も「力及バデ終ニ靡」いた。傍目もまばゆい仲の好さで、もとより通盛が
通いつめた。日ごろを経て、それほどの小宰相から一時通盛は他の女に心をうつし、「離レ離レニ成」ったが、小宰相はこんな歌を通盛に送った。
呉竹の本は逢夜も近かりき末こそ節は遠ざかりけれ
竹は、根元ほど節から節が短くて、末になると広がるのを、通盛との「逢夜」から「逢夜」までの長さに巧みに譬
え、優しく恨んでいる。「モトヨリ悪シカラザリケル仲ナレバ、通盛」は小宰相のこの歌に愛で、また「互ヒニ志浅カラズシテ年ゴロニモ」なっていた。。
正室在る通盛と小宰相とは、世間には「仮初ノ」仲と見られていたから、「一ツ御船ニハ住ミ給ハデ別ノ舟ニ宿シ置キ奉
リ、三年ノ程波ノ上ニ漂ヒ、時々事ヲ問ヒ給ヘリ。中々情ゾ深カリケル」と平家物語は伝えている。一人の「妾」への記述に敬語が頻繁に用いられているのは、
小宰相には同情や称賛が集っていたのであろう。そして通盛最期の前夜にも、男は女を陣屋に呼び寄せ、尽きぬあわれを夜をこめて交し合い、ついには弟能登殿
に窘められている。ようやく通盛も、「今コソ最後ト知給へ」と覚悟も堅く、小宰相を舟に返し送って、自らは急ぎ「物具シテ」戦陣に備えたのであった。
一の谷の合戦は、だが、平家散々の負け軍に終わった。弱冠十六の敦盛の「討たれ」に象徴されるように、まさに「一の谷
のいくさ敗れ 討たれし平家の公達あはれ」であった。重衡は捕えられ、大将軍の忠度や通盛や、また若い敦盛や知章らが次々に討ち取られた。知盛は愛する子
を身代わりにかつがつ沖の船に逃げもどり、ふがいなさに号泣した。
通盛が弟能登守と赴いていた戦場は、山の手であった。「此ノ山ノ手ト申スハ一谷ノ後、鵯越ノ麓ナリ」というから、逆落
としに源氏の義経に攻め落とされたのである。あそこに討たれここに討たれ、通盛も、多くいた従者はみな散り散りに、身一人となって落ち延びて行くのを、源
氏の兵も「追懸」けていた。そして運も尽きたか通盛は、「馬ヲ逆マニ倒シテ首ヘ抜ケテゾ」前のめりに落馬してしまう。後ろからは児玉党の七騎が追い、そこ
では「近江国佐々木荘ノ住人」源三成綱が落ち合うて、落馬の通盛にむずと組み付いた。
三位通盛は、だが忽ち上になり、佐々木を組み敷いた。佐々木は撥ね返そう返そうとしたが通盛は力勝りの人で、押さえ込んで佐々木に働かせず、刀を抜いて源
三の頚を掻こうとした。ところが「掻ケドモ掻ケドモ」頚が落ちない。見ると鞘のまま斬りつけていた。
この際どいところで佐々木は、この敵が、かつて主筋であった越前三位通盛卿であると気づいて、「成綱叶ハジト思ヒケレ
バ、下ニ臥ナガラ、誰ヤラント思奉リ候ヘバ君ニテ渡ラセ給ヒケリ。知リ参ラセテ候ハンニハ、イカデカ近ク参リ寄ルベケン。年ゴロ平家ニ奉公ノ身ナレバ御方
ヘコソ参ルベキニテ侍リツルニ、心ナラズ親シム者ドモニスカシ下ラレテ、今戦場ニ馳セ向ケラレタリ。イヅレノ御方モオロソカノ御事ハ候ハネドモ、殊ニ見馴
レ参ラセテ御懐シク思ヒ奉ル。只今カク組マレ参ラセヌルコトヨ。同ジクハ人手ニ懸カリナンヨリ嬉シクコソ」などと言い掛けた。宇治川の高綱といい、藤戸の
盛綱といい、この成綱もしかり、佐々木一族の口のうまさよ、後には佐々木道誉のようなバサラも現れる。
通盛は、一瞬ためらってしまった、その隙に下の成綱は、兜の隙間へ抜いた刀を二度まで深く刺し入れた。「刺シテ弱リ給
ヒケルヲ、力ヲ入レテ跳ネ返シ、起シモ立テズ、ヤガテ三位ノ頚ヲ取ル。」覚悟の上とはいえ、通盛はあわれここで命絶えた。
源三もひどい手負いで、通盛の刀を見ると、鞘尻の二寸ほどが砕け、刀の峰が二寸ほど源三の首を切りつけていた。「源三
成綱ハ左手ニテ(自分の)頚ササヘ、右ノ手ニ(通盛の)首ヲ捧ゲテ陣ニ帰ル。ユユシクゾ見エタリケル」と異本の一つは書き、また別の本は、佐々木の獲た通
盛の頚を、梶原景時が横取りしようとした凄まじい話も書いてある。さまざまな位相で見聞や伝聞が入り混じり、いろんな本を生んでいるのだが、小宰相のもと
へ、通盛最期をこまかに伝えたという通盛家来の一人は、いったい、組打ちの時にどこにいて、どのように主の討たれるのを見届けていたのかと、小説家は、そ
ういうところに興味を感じてしまう。
ともあれ夫通盛の死を告げられた小宰相は、愛した男の子を身に宿したまま、悲歎の余りに沖波の底の藻屑と身を投げ果て
てしまうのである。わたしが初めて平曲の語りを聴いたのはこの「小宰相」入水の一句であった。今日、平曲の正統を語れる事実上只一人ともいえる橋本敏江の
演奏だったが、震えるほどの感動があった。
ありそうで少ないのが男の跡を慕って女も死ぬということで、逆に男のほうに、それが有る。平家物語でも小宰相はわたし
の記憶する限り唯一の例であり、よほどの感銘を与えたのではないか。信じられないと思った人も、死なせたくないと願った人も多かったのではないか。小宰相
は死ななかった、壇ノ浦から安徳天皇を奉じて山陰の海づたいに逃れた、一行を率いていたのは門脇中納言教盛だったという伝説が、現に二十一世紀まぢかい今
日にも、山陰地方に実在している。教盛は通盛や教経の父であり、小宰相には舅に当たっている。
千手 ー目もあてられぬ気色かなー
いい能で、いつ観てもふと涙ぐむ。重衡は平家の公達のなかで、花なら「牡丹」と譬えられていた。しかも罪深い南都焼討
ち(治承四年・一一八0)を敢えてした張本人であり、国家的な大罪人であった。おごる平家の代表者とまで言う気はないが、南都を焼き払ったのにも、余儀な
い一門の強要があったからというより、また当人が頼朝に弁明していた不慮の成行きなどというより、図に乗って自ら奈良の大寺憎しと踏み込んだ向意気の強さ
は、否めまい。そういう重衡であった、跳ね返ったとも出過ぎたとも言わば言えた。そういう重衡にくらべれば、同じなら能登殿教経のような、源氏の義経を追
いかけ追いつめ、最後は颯爽と自決して果てた敢闘の勇者の方が、誰の思いにもはるかに好ましかったろう。
平家物語はおもしろい。そういう罪業深重の平重衡を、それが「けじめ」で「はからい」でもあったとばかり、数ある公達
のなかでいちはやく源氏の手に捕縛させた。みじめに都へ追い上げ、厳しい恥をみせつけた。だが、さてその後はというと、最期の間際まで、哀切きわまって譬
えようもないもの哀れな幾場面を重衡に演じさせて、これぞ平家物語と言わんばかりに情深い物語を優に繰り広げるのである。
囚われる以前の重衡の書き方と、囚われてからの重衡に対する平家物語の静かに優しい扱い方には、まるで視線の当て方が
ちがっている。別人の観がある。おそらく、重衡その人の打って変わりようもさりながら、実際に重衡を観察していた眼の持ち主も、微妙に、前後交替している
のではないか。驕る平家の重衡を見ていた白い眼と、囚われて後の重衡を見ていた温情の眼とは、別の人ないし別集団のものであった。考えれば、当たり前のこ
とであった。
平家物語とは、まさにそのような複眼による複雑で微妙な所産であった筈だ。わたしは、いつも後段の重衡を叙した筆にも
語りにも、何ともいえぬ感謝に似た嬉しいものを覚えて読んだ。なぜこうもと訝しいほど、重衡の、京から鎌倉へ、そして最期の奈良南都に至るまでが、いかに
も心優しく扱われていて、いわば「重衡物語」とも纏めて読めるほど結構の宜しさと良質な表現とに満ちている。おそらくは、影のように付き添うて重衡最期の
物語を専ら語り伝えた存在が、愛情深き存在が、前半部とは別に実在したのであろう、例えば重衡没後の、千手の前、伊王の前のような。わたしは、そう想って
いる。
能の「千手」も、平家物語の哀調を湛えた心のぬくもりを素直に踏襲し、しみじみと美しい鬘能になっている。まるで流謫
の光源氏のように罪科深重の重衡がそこにいる。そんなように創ってある。
ところで、である。
能の「千手」は、最後にいたり、「何なかなかの憂き契り。はやきぬぎぬに。引き離るる袖と袖との露涙」とある。男女に
実事ありきという表現である。二人はともに寝たと理解してある。その上で、それゆえに、美貌の千手と後朝の心も露けく引き放たれた「重衡の有様、目もあて
られぬ気色かな、目もあてられぬ気色かな」という異彩を放つトメに入る。勘ぐれば、このような情緒纏綿の生き別れの悲しみのほうが、やがて訪れ来る南都奈
良坂での怨みを負うた刑死よりも更に辛かったろうとすることで、重衡のためにも大方の世人のためにも、悲惨の色合いを峻烈から優情へとそっと転調させた趣
をすら、「千手」という能は感じさせてくれる。ありがたい、功徳供養の能である。
だが「能」と違い「平家物語」には、重衡と千手の前とは寝ていない、性的な関係はついに無かったのだとする、かなり強
硬な意思が働いていて、これがまた、重衡に死なれ先立たれた千手や、身辺の者たちの意向を反映しているようで興深い。面白い。「寝た」といい「寝ぬ」とい
う。どちらも「あはれ」に趣深く、しかもわたしは、平家物語の諸本が多くにじませている、「寝ぬ」説を、殊に捨て果てるに忍びない。
覚一本を読み返すと、ほんとうに、これは善い整理の行き届いた本だと、台本だと、感嘆する。と同時に、その簡潔で要領
をえた叙事の、もう少し先、もう一寸先、そこは、ここはと知りたがる聞きたがる向きへ、親切過ぎて委細を尽くして行く尾鰭の面白さというものが、他の詳し
い読み本には満載されている。苦笑いしてしまうことも多いが、凡俗の読者としては面白くないなどとは言えない。うんうんと頷いて読んでしまう。
こと「千手」に関して、そんな平家物語の簡潔派も詳細派も「寝た」「寝ぬ」に関しては、まずは一致で「寝ぬ」に、思い
も声も揃えている。能とは違っている。こだわるようだが、まだ心身ともに幼かった昔に初めて読み、また若い盛りに初めて能「千手」を観て、あの二人は、ど
やったんゃ、寝た、ちがうのとちがうやろか。寝ん。ほんまかいな。きまじめな愛好者には申し訳ないが、気になった。気になるだけでなく、大事な見どころに
思われた。比較になるのは、だが、当時は例の覚一本と、謡曲「千手」の稽古本としか手元に無かった。
重衡は、囚われのまま鎌倉に送られて頼朝に見参した。一通りの応対で重衡もけっして臆してはいなかった。ただ出家する
ことは許されなかった。いつかは南都の手に引き渡して処断を委ねざるを得ない。頼朝は重衡の身柄を狩野介宗茂に預け、「相構へてよくよく慰め参らせよ」と
命じている。宗茂も情けある武士で、気を配って種々もてなそうとするのだが、千手の前ほどの美女、それも頼朝の意をうけて湯殿の世話にまで訪れてくる女を
も、重衡は快くは受け入れる気になれない。
古来湯殿の女は、すなわちそこで性的に奉仕する女でもあったことは、神々しき民俗としても一の伝統であった。湯巻はそ
のまま一時の褥ともなったのである。頼朝はそのために寵愛さえしていた千手を送り入れ、「何事でも思召さん御事をば、承はて、申せ」報告せよと命じていた
のだし、狩野介も言葉を添えていた。実は頼朝は、重衡の望みを聞いて報せよと言っていたのではなかった。男女の仲にもしなれば正直に申せよと、いささか男
臭い下がかった興味をもっていたことが、語り本などでも分かる。だが、千手の言葉によれば重衡は率直に出家させて欲しいと答え、いわば頼朝の覗き趣味をか
わしたのだった。むろん、本音だったろう、そんな本音の重衡は、千手がどういう女かと宗茂に聞いているほどの興味こそあれ、湯殿でも、女には我から肌は触
れなかったのである。
今度は、酒と音楽で千手と宗茂は重衡を慰めようとした。これにも重衡は「いと興なげに」少し杯を傾けるだけであった。
行儀のいい覚一本にさえ、これも頼朝のはからいで、彼は重衡の音楽の才を聴き知りたさに立ち聞きの挙に出ていたことを明かしている。他の本ではもっと露骨
にそれを面白おかしく言い囃している。
重衡は知るや知らずや容易に興に乗ってこないのを、千手は懸命に手をかえ品を尽くす。先ず菅公が配所にいた頃の詩句を
一両返、しみじみと朗詠したのが巧みな誘導であった。「手越の長者が娘」千手は、さすが「眉目形、心ざま優に」すぐれた才媛であった。詩句は菅原道真の自
信作で、これを朗詠する人を心にかけて守護したいとまで言い遺していた。重衡は初めて、自分は菅公と同じくこの世では捨てられた存在、千手に和してその詩
句を朗詠しても詮無いこと、もしも「罪障軽みぬべき事」ならば声を添えるのだがと述懐した。千手はすかさず「十悪といへども引摂す」と西方教主の弘誓本願
を朗詠して、さらに「極楽願はん人は、皆弥陀の名号唱ふべし」と繰り返し繰り返し心こめて唄い澄ました。重衡
は静かに盃を傾けて千手の情けに感動を隠さなかった。重衡が宗茂と酌み交わしているうちにも千手は琴を持ち出し、重衡が
得手の、頼朝がものかげで期待している琵琶をそれとなく薦めた。千手が琴をかき鳴らすと、それは「五常楽」という曲だが、いまわたしには「後生楽」と聞こ
えて有りがたいと重衡はあわれを催し、されば「往生の急」ならんことを願おうよと遂に琵琶を手にして「皇?」という秘曲の急、つまりおしまいの方を、みご
とに演奏した。
夜やうやう更けて、萬づ心の澄むままに重衡は、「あら思はずや、吾妻にも是程優なる人の有けるよ。何事にても今一声」
と所望すれば千手の前また、「一樹の陰に宿り合ひ、同じ流を掬ぶも、皆是前世の契」と云ふ白拍子を、歌いかつ舞った。言うこと為すことソツがない。ただの
挨拶とは思われぬ情け深さに重衡は涙ぐんで、「燈暗うしては数行虞氏の涙」と朗詠した。四面楚歌のさなかに皇帝項羽の虞后に別れるのを悲しんだ詩句であっ
た。そのうちに夜も明けた。「武士ども暇申して罷り出づ。千手の前も帰にけり」とある。
覚一本はおとなしいが、頼朝は千手のためによい仲人を自分はしてやったぞと千手をからかい、千手は顔を赤くしてほんと
うに何事もなかったことをしきりに言う。
二人の会うのは一夜ではなかったから、男も女も情けの前にさぞ得堪えかねたであろうけれど、ガンとして千手は寝ぬとい
い、同じく送り込まれた伊王の前という女も、重衡は共寝はしなかったと言い張るのだった。
いずれにしても別れの日は来た。重衡は奈良で無惨に死に果て、千手も伊王もともに手を携え、強いて頼朝のゆるしを得て
尼になり重衡の菩提を願う日々を過ごしたのである。「寝て」の哀れよりも、ついに「寝なかった」男に殉じた千手らの哀れに、心を惹かれる。
藤戸 ー思へば三途の瀬踏なりー
一の谷と八島とに挟まれ、平家物語のなかでの児島合戦は、引き沈んだ窪みのようにあまり思い出されることがない。
一の谷を追われた平家は四国讃岐の屋島に陣を張り、安徳天皇と三種神器を奉じて正統の朝廷であることを誇示していた。
これは京都の後白河院にも、その支持で即位しようとする後鳥羽天皇の周囲でも悩みの種であった。安徳天皇のことはまだしも、三種神器は是が非でも奪回しな
いでは済まない、至上の課題であり難題であった。源氏に対する平氏討つべしの至上命令も、言い換えれば鏡と玉璽と剣とを無事に是非に都へ戻し奉れとの意味
であった。神器を身に負う事なくして即位した、後鳥羽天皇は史上に例をほとんど見ない天子たらざるを得なかったのである。
そしてこの頃の平家は、あわよくば都を窺いうるかと思われる勢いを徐に蓄えていたとも、言えば言えた。ひとつの現れと
して平家は西から山陽道をもほぼ制圧しながら、四国の屋島からは瀬戸内海を隔てた対岸備前の国の児島にも一根拠を構えて、西下してくる源氏に対抗してい
た。さりとても、児島は海上に浮かぶ一つの島にすぎない。源氏は頼朝の弟範頼を大将に藤戸の渡しまで迫っていた。言うまでもないが頼朝のもう一人の弟義経
は、屋島の背後を衝こうと嵐をおかして阿波国へめざしていた。
児島へ二千余艘もの船で押し渡っていた左馬頭平行盛らの平家方は、結果から言うと呆気なく源氏の軍勢に攻め込まれて、
あたふたとまた船で屋島に逃げ戻って行った。源氏の大勝利には奇襲が何度もあるが、児島攻めもまた平家にはまさかと思われた海を馬で渡るという、稀有の奇
襲であった。佐々木三郎盛綱の大手柄であった。
ことわっておきたい、わたしは、いわゆる「藤戸」のことは好きでない。初めて文庫本で読んだときも、能の「藤戸」を観
たときも、いやな話だと思った。歌舞伎の「近江源氏先陣館」で盛綱を観ても、歌舞伎にはそれなりの趣向があり面白くも哀れにも出来ているとして、それでも
能の、また平家物語覚一本の印象に、よほど妨げられていた。
盛綱は、あの宇治川の先陣を切った佐々木四郎高綱の兄であり、藤戸の馬の渡しでは高綱のあの手柄を凌ぐほどの絶賛をあ
びまた重い恩賞にも与ったのであるが、それほどの大功名を授けてくれた藤戸の土地の男を、口封じに無残に斬って捨てていた。わたしは、そういう盛綱にいつ
までも拘った。不快で仕方なかった。
不快に感じた人が昔にもいたからであろう、能の作者は「藤戸」を作った。能の中でもなお盛綱は男を殺された怨みを告げ
てきた女にむかい、一度は事実を否認し、その上で殺したことを認めている。そんな盛綱の追悼をうけて、怨みゆえに悪道に落ちていた男の幽霊は盛綱をゆるし
追悼を謝してまた冥土に沈んで行くのであるが、さほどはわたしの心地は良くは改まらないのである。
武士であるから、源氏の兵たちが、功名手柄に目の色を変えるのは、ま、仕方がない。その点、平家の方には、そういう武
士がもともと数すくない。名を重んじる点は源平変わりはないとして、源氏には、佐々木も熊谷も梶原も畠山もみな個人プレーの抜け駆けや駆け引きに精魂を用
いている。平家の侍は、もともとの「侍」の意義である、地にひざまづいて主君の命に信義を尽くす。どっちがどっちという事は言わないけれど、手柄のためな
ら他を出し抜いてもというのは、あの高綱の「腹帯が緩んでいるぞ」と先駆する梶原をたぶらかしたのなども、あの場合はまだからっとしていて幾らか笑って見
過ごしていたが、盛綱のようにそのために無辜の人を殺めてまで手柄をという、手のこんだ知恵の働かせ方は、わる智恵としか言いようがない。平家物語の諸本
を調べて行くと、たしかに「手のこんだ」やり方を盛綱はしている。事実、したかどうかは、確かめられないが、そういう風にいわば表現されてしまう盛綱のい
やらしさが「批評」「批判」されていたのだと受け取れば、分かる気がする。
児島と藤戸とは指呼の間とはいえ間は瀬の早い海原であった。川ならば高綱景時の宇治川のためしもあるが、海は馬では渡
せない。軍船の数でも平家は源氏を圧していたから、こういうところが後に那須与一の例もあり平氏のへんにしどけないところだが、図に乗って舟を漕ぎ出して
源氏に向かい「ここまでおいで」をやってしまった。源氏は悔しいだけでなく、無為に日々を過ごさねばならなくて二重にいらいらしていた。だが馬では海は渡
れないはずだ。
佐々木盛綱はなにがな手立ての無いことがあろうか、平家がああも招くのは「渡す淵瀬」の在るのを知っていてからかうの
ではないかと、夜分汀に出てしみじみ思案のあげく「浦人」の一人にふと白鞘巻の太刀を遣り、意を迎えて、「ヤ、殿」と語らい寄ったのである。この呼びかけ
が憎い。気色がわるい。礼ははずむ、向こうの島に渡す瀬はないか「教ヘ給ヘ」といと懇ろに頭を下げた。
高綱の名誉にかかるところゆえ私も慎重に断っておくと、藤戸の高綱については、実は浦人を口封じに殺してしまう筋書き
と、殺すことになどちっとも触れていない筋書きとが平家物語の異本群でも相半ばしているのである。
殺さなかったのなら、後味はわるくない。ただの功名譚でありなかなかのものだと思う。世人にはここでも「殺した」「殺
さぬ」の相反する立場から盛綱の功名を是非したとみえ、仲間内の武士の嫉妬心が働いて由無い中傷を鬱憤に任せて腹癒せしたのかも知れない。途方もない競争
の社会であったし、人の功を盗んででもという恩賞や名誉心は露骨なほどの武士たちであった。殺していない方を紹介しよう。
浦人答ヘテ云フ。瀬ハ二ツ候。月頭ニハ東ガ瀬ニナリ候、是ヲバ大根渡ト申ス。月尻 ニハ西ガ瀬ニ成候、是ヲバ藤
戸ノ渡ト申ス。当時ハ西コソ瀬ニテ候ヘ。東西ノ瀬ノ間ハ 二町バカリ、ソノ瀬ノ広サハ二段ハ侍ラン。ソノ内一所ハ深ク候ト云ヒケレバ、佐々木 重ネテ、浅
サ深サヲバイカデカ知ルベキト問ヘバ、浦人、浅キ所ハ浪ノ音高ク侍ルト申 ス。サラバ和殿ヲ深ク憑ム也。盛綱ヲ具シテ瀬踏シテ見セ給ヘト懇ロニ語リケレ
バ、 彼ノ男裸ニナリ先ニ立チテ佐々木ヲ具シテ渡リケリ。膝ニ立ツ所モアリ、腰ニ立ツ所モ アリ、脇ニ立ツ所モアリ。深キ所ト覚ユルハ鬢鬚ヲヌラス。誠ニ
中二段バカリゾ深カリ ケル。向ノ島ヘハ浅ク候也ト申シテソレヨリ返ル。
佐々木陸ニ上ツテ申シケルハ、ヤ殿、暗サハ闇シ、海ノ中ニテハアリ、明日先陣ヲ懸ケ バヤト思フニ、如何シテ只今ノト
ヲリヲバ知ルベキ。然ルベクハ和殿人にアヤメラレヌ 程ニ澪注ヲ立テ得サセヨトテ、又直垂ヲ一具タビタリケレバ、浦人カカル幸ヒニアハ ズト悦ビテ、小竹
ヲ切集メテ、水ノ面ヨリチト引入レテ立テ、帰テカクト申ス。佐々 木悦ビテ、明ルヲ遅シト待ツ。平家是ヲバイカデカ知ルベキナレバ、二十六日辰刻ニ、 平
家ノ陣ヨリ又扇ヲ挙ゲテゾ招イタル。
この記事の通りならば佐々木は先陣を懸けんためと浦人に告げていて、しかも男の頚を掻き切るような真似はしてい
ない。事実はこうであった可能性が高く、殺したと言い触らしたのはまんまと先陣を目と鼻の前で派手に演じられた「土肥梶原千葉畠山」の連中であったやも知
れない、それは考えられる。しかし、「下臈ハコトモナキ者ニテ、又人ニモ語ラハレテ案内モヤ教ヘンズラン。我ガ計コソ知ルラメトテ、カノ男ヲ差殺シ、頚掻
切テゾ捨テテケル」とも、「思フヤウ、明日ハココヲ盛綱ガ先陣渡サンズルニ、下臈ノニクサニハ又人ニヤ知ラセンズラント思ヒケルカ。ヤ殿、コナタヘヨレト
テ、物云ハンズル様ニテ、取テ引寄セ頚カキ切テステテケリ」とも、明記した本も多い。盛綱の家来が主の意を受けて「六十有余」の夫婦者から教わってきたと
いう本もあるし、土肥の郎党にも佐々木の先陣を察して主に告げていた者もあった。
もっと手のこんだ話もあり、面白い。何としても佐々木は先陣の秘密も知られまい、それと疑われたくもないと、わざと梶
原の目の前で無謀に言挙げしてみせ、いきなりざっと海に馬を馳せ入れてすごすごと引き返す芝居までしている。これを見た梶原以下の面々は、「山ヲ落シ河ヲ
渡スノ例アリトイヘドモ、大海ヲ渡ス、思ヒ寄ラズ思ヒ寄ラズ」と大笑いし、盛綱は「人々ヲ謀リオホセテ」おいて、ひそかに我が手の者共に「約束シテ、一度
ニ打出テ、カノ浦人を先立テテ渡リケルニ」と、この本では殺した筈の男がちゃんと途中まで間違いのない案内役を勤め、いいところへ行きつくと、あとは「島
ノ方ヘハ浅ク候ト教ヘ捨テテゾ帰リケル」と書いてある。なかなか男もさる者と見てよく、こういうものが戦場にはきっといて、取りたてられてひとかどの武士
になったりしたのではないか、義経に屋島への道案内を勤めた鷲津だか鷲尾だかも、まさにその例であった。
能「藤戸」の作者は「殺した」という立場から舞台を創作している。それも一曲であったが、わたしは、「殺す」盛綱を好
かないことは最初に言った。「殺さなく」ても、なんとなくわたしは弟四郎高綱の先陣ほどは、兄三郎盛綱の功名を喜ばない。
八島 ー源平互に矢先を揃へー
屋島と謡本にもある、題だけが「八島」のようで、この文字センスが好ましい。実の地名から、創造の世界へのりかえるは
からいが利いている。らちもないが、そんなことを思いながらこの能は観てきた。これは平家物語の能としては珍しい「勝ち修羅」と謂ってよかろうか、九郎義
経への賛歌である。哀れよりも勇壮な合戦の幾場面をも彷彿とさせる。
屋島壇ノ浦と続けていうぐらい、平家にとっては滅亡へ一続きの悲壮な負け戦であった、義経の働きが目立った。義経の働
きはいわゆる政治的ではない、軍事の智謀において本能的に優れていた。屋島の背後を襲って平家をまたしても海の上へ追い立てたのが、結果的に壇ノ浦の決勝
に結びついた。脚が地につかなかった平家は、海戦に長じていた筈なのに戦機に見放された。勝ち運を招いて効果抜群なところが源義経の横溢の魅力であった。
むろん義経も義仲もわたしは愛した。そのぶん頼朝はうとましく、その政治力の抜群なところまでうとましいと思った。そ
れは京都生まれ京都育ちの人間の鎌倉幕府に親愛感をもちにくい感情と結びついていた。少年というのは、そういうふうにも古典を読むのである。それは大人に
なっても完全には払拭されないのである。
継信最期、那須与一、錏引、弓流、と、見所に飽かせない屋島合戦であったが、とりわけて誰にも印象の残るのが扇の的を
はるかに射抜いて見せた那須与一の遠矢の冴えであった。なぜか能の「八島」にこの話が出ない。狂言の替間で「那須」の与一の語りを聴かせてもらえるとこの
能は満点のサービスになると思い、自分の小説の『八島』では気ままにそのように書いてみた。わたしの頭の中では、以来、能「八島」のアイは「那須」と決め
てしまっている。それほど、あれは気分のいい狂言語りの名作である。
それはもう余談というよりないが、余談のままもう少し話したい先がある。その短編小説『八島』では妙な家庭に出くわ
す。京都の街なかの、ま、骨董屋で苗字が「平内」という。通りすがりにひょんな間違いから店に入って品物を買うはめになり、店の主人と話しているうちに、
変なことを聞くのである。あの那須与一に扇を射抜かれたあと、ほめそやす体にまた平家方から武者が出て舟の上で舞い遊んで見せた、のを、あれも射て落とせ
と命じられ、与一は容赦なく「しや頸の骨をひやうふつと射て船底へまさかさまに射倒し」た。「あ、射たり」と言う者もいたし、「情なし」と言う者もいた。
骨董屋の「平内」さんはその情けなく殺された武者の子孫だというのである。
京都という街はその程度の内懐の底知れないものはもっていて、あながち、荒唐無稽には思われないのでわたしは書いたの
であるが、これにまた、小説ならぬ現実のおもしろい後日談があった。
殺された武士は平家の名将知盛の乳兄弟であったといわれる伊賀平内左衛門家長の弟で、十郎兵衛家員であった。どうも平
家にはこの手の挑発行動がめだち、それが因となって源氏を勢いづかせてしまうことがまま有った。児島の陣を藤戸の渡しを馬で駆けられて敗走したのもそれで
あった。十郎兵衛のは無惨なほどの犬死にであり、「情なし」の声には必ずしも射た与一だけを責めてはいないだろう。わたしはこの男にひそかに久しく興味を
抱いていた。どういう奴なんや。あんな死に様では後に残った身寄りのものが、どんなに肩身も狭う、泣き嘆いたやら。むろんそういう男にも妻子がいたであろ
う、ああいう男の子孫ほど、えてして、ひっそりと巷の波間に身を沈めたまま、まことほそぼそと世に永らえて幾世代もを生き続けているのではないか。八百年
後にもなお京のような懐深い町なかに、ひょっとして十郎兵衛家員が最期の鎧や薙刀を無念の家の宝に秘蔵しながら、代々子孫の家系が意外な家業と家族とで、
めずらかに暮らしていたりはせぬものか、と、まあ、そんな想像から私の小説『八島』は出来たのだった。
ところへ、同じように思った人が小説の読者にいて、その「平内」という家は、必ずや我が親族に当たると思われるので、
どうか仲介の労を願いたいと丁重な依頼が舞い込んだからわたしは呆気にとられた。手紙の差し出しが、冗談ではないらしい、きちんと活字印刷した「伊賀平内
左衛門」さんだったから、仰天したのである。娘さんが明石のほうに嫁がれていて、たまたま掲載号を読まれ、すぐ父上に連絡されたらしい。
で、ご当人のお手紙にいわく、自分はまぎれもない「伊賀平内左衛門家長」直接の子孫であり、自分たちの現に暮らしてい
るあたりは、かつて陸の孤島といわれた日本海に臨んだ秘境で、かしこくも安徳天皇を奉じて門脇中納言教盛はじめ与党の多くがこの地にのがれ住み、由緒正し
い遺跡は今でもたくさん残っています、ぜひぜひお訪ね下さいと、兵庫県城崎郡の正確な現存の地名が、現住所として封書の裏に印刷されていた。
氏によれば、「門脇宰相教盛、伊賀平内左衛門家長らの一隊は御座船を護って虎口を脱し、幼帝安徳を奉じ日本海岸沿いに
東進、ひとまず鳥取付近に上陸して戦塵を洗い、態勢を整えて更に東進を続け、但馬の国御崎の海岸にたどり着」いた。地形的にも、三百メートルの断崖絶壁の
下は眺望のひらけた荒海で、「陸からの探索も容易でない」という。嬉しいことに、夫通盛の戦死のあとを追い入水死したはずの小宰相局も生きながらえ、この
地にあって、安徳帝のお世話をしていたとか。寿永の平内左衛門らはその幼帝を守護してもっと奥地に深く隠れ住み、昭和平成の平内左衛門氏もまたその香住町
畑に住み着かれて年久しいのである。
要は数ある落人なごりの地の一つであるらしいが、眉に唾どころか、こういう事は、すぐ、心からよろこんで信じたくなる
タチのわたしは、勝手な想像で伊賀さんに迷惑をかけたこともけろりと忘れて、さあ行ってみたい行ってみたいは山々なのだが、なかなか、東京という街は人を
釘づけにして動かせてくれぬ。だが、この世間には実にこのような出逢いがまだ遺されているのだった。
屋島の戦は平家にも勝ち味があった。屋島の内裏の背後へまわりこんできた義経らの先陣は想像以上に小勢であった。だ
が、火を放って平家を心理的に脅かした。平家は幼い帝や総大将の宗盛らを夥しい軍船に乗せて沖へ退かせ、教経ら強豪が内裏にこもって、陸と海で源氏を迎え
たのである。一気に源氏を囲んで行けば勝敗は平家に利有りと、源氏の大将義経のほうが先に読んで、館に一時に火をかけさせ、向かい風に煽られて難なく内裏
も焼け落ちてしまった。仕方なく多くの陸に隠れた平家も船にのがれ、口合戦や矢合わせがしきりに為されたものの戦機は一時膠着した。その時だった、美しい
女をのせた小舟が、棹の先に皆紅の日輪をくっきりと描いた扇をたてて、源氏に、射よと誘ったのは。
どうしてこんなことをしたのだろうと、一度は誰もがいぶかしみ、戦陣の遊び心かと思って詮索もしない。覚一本など、普
通に読める本にはなにも書いてない。
だが諸本のうちには、そういう痒いところへちゃんと手を届かせたものがあり、あそうかと頷けることも多い。源氏を差し
招いた美女が、名は玉虫といい建礼門院に仕えたすばらしい美女であったことも、本によれば玉虫は後日に那須与一に与えられたとも、二人はもとから知己の仲
であったなどとも、だんだんに怪しげなことも出てくる。
だが、それよりも扇の的のことが問題であり、これは勝敗を占う平家としては祈願のこもった賭けであったらしい。この扇
はもともと厳島に奉納された由来正しい宝物の一種であった。それをわざわざ的にしたのは、もし源氏が射損じたなら平家が勝ち、射落とされれば源氏が勝つ
と、運勢を見ようとしたのだ。ばかばかしいと感じるのは現代の感覚であり、こういうことは類似の例が戦の前によくなされる。紅白の鶏を蹴合わせたりして
占ったり、言葉合戦をしたり、遠矢を競ったりするのも似た話なのである。言葉合戦などは、アイヌがよくしたチャーラケという口争いとも繋がっているだろ
う、中途半端に終わるのを半チャラケというのも、そうなのだろうとわたしは想っている。
平家はまさか射落とせまいと風波の季節にも頼む気持ちがあったろうが、那須与一の祈願の力が勝った。与一にしても、な
にも、只の射芸を披露したのではなく、源平の戦を左右する賭けに勝ったのであった。玉虫を貰いうけるぐらいは当然であった。
よく読めば分かるが、この手の占いや賭けの競いに、源氏は悉く平家を圧倒していたと言える。都落ちして行く公達の誰も
が、二度と都には戻れまいと諦念を抱いていた運命のほどが、なにかにつけ露表していたところにも平家物語の哀れがある。
義経についていえば能の「八島」では弓流が感動的に取り上げられている。源氏の大将の名を惜しんで、誇るにたるとはい
えない取り落とした弓を、危険を敢えてしても敵に渡さなかったという話だが、小さい頃からそんなに感動しては読まなかった。八艘飛びというのも義経を装飾
する話題だが、わたしは、義経を追いかけまわした平家の教経の方がよほど印象にも残り感銘深かった。『源義経』という大河ドラマで、一等美しかった頃の尾
上菊五郎が義経を、緒形拳が弁慶を演じたときの、教経役はすばらしくカッコよかった。燃え熾る火の柱のようだった。俳優の顔はよく憶えているのに名前は忘
れてしまった、山口崇であったか。
正尊 ー鞍馬は判官の故山なりー
まずは歌舞伎の二幕物にちかいにぎやかな現世能で、楽しもうと思えばそれなりに楽しめる。こまやかなものではなく、部
外者の新作能かと見ればそのような才気も粗さもあり面白い。
早くに、土佐房「正俊」と名を覚えていたので、「正尊」の名に、なかなか馴染めなかった。どっちかが間違い。いやいや
どっちも間違っているかも知れない、「昌俊」「性俊」などと書いた本もあるのである。
こんなことは、浩瀚にして奔放な異本の集合体である平家物語では少しも珍しいことではない。一人の同人物とおぼしき者
が、本によって三人四人分の紛らわしい別の名前、別の表記で現れる。音での聞き違いもあれば、漢字表記のあてずっぽうもすさまじく、自然の成り行きであ
る。又聞きの又聞きを、時間と距離をおいていろんな人たちが話にして行けば、自然そうなる。今日の我々にしても、人の名を耳に聞いて、正確に漢字に換えら
れる人はいないと言うほうが正しかろう。また漢字で書かれた氏名が正しく読めないこともままある。「角田」と書く苗字の、早稲田出の教え子が作家になって
いるが、「かどた」「つのだ」「すみた」「かくた」のどれで呼ぶか、たとえ読み当ててもそれは、知っているからか、あてずっぽうでしかない。この点では我
々の国には、ひらがなはともかく、正書法も正読法も無いに等しいのが、実情である。「しょうしゅん」と聞いた者が、正俊とあて、「しょうそん」と聞こえた
人は正尊とあてた、のかも知れない。
平家物語と限りはしないが、ことにこの「本」では、いろいろに書かれてあるどれが本当やら判然とは分からない按配で、
聞きこんだ面白い話にさらに潤色が加わったり、過剰に趣向されたりする。巷談とはそんなものである。
そんな頼りないものかと嘆くのも、だが、どんなものか。
こと事実というものに、どこまでの裏づけが可能だろうか。今日のように情報収集に精度高げなマスコミですら、突き合わ
せて吟味するとずいぶんマチマチなことを書いたり伝えたりしている。同時代同時節の資料こそ歴史的には一等資料などと、そんな簡単なことは言ってもらって
は困るのであり、何百年もしてやっと真相らしきものが見えてきたということは、現に在る。
それに、事実とは、そんなに価値高いものかどうかという、かなり難儀な本質論も考慮しなければならない。「かく在り
し」と正確に言い難い事のほうが圧倒的に多い以上、むしろ「かく在るべかりし」記述を通して真相を示唆しなければならぬとも言える。正史をすら不充分だと
して、狂言綺語に類した物語の叙事に重きをあえて置いた紫式部の思想は、けっして今日まで軽んじられたことは無い。事実事実とそれのみの追求により真実の
妙味を取り落としてしまっている味気ない俗な小説もけっこう数在る。平家物語を「事実」として信頼しきれないといって、その感銘深い表現を拒絶していたな
ら、大きな損失をわが身に蒙るだけである。昌俊かもしれず正尊かもしれなくても、それを超えた奥や深みへ思いの届いて行くことを「表現」は命にしている。
土佐房という人物は、魅力も乏しく、肌触りのざらついた面白くもない男で、例えば鹿の谷の事件で捕えられても清盛を面
罵して退かなかった西光法師のようにすかっとしたところがない。「あはれ」という美的要素のしずくも無い男に造形されていて、際立って弁慶や義経が良く見
える仕掛けを担っている。
彼らが出会うのは、もう壇ノ浦で平家が滅亡(元暦二年・一一八五)後になる。義経が悲劇的に兄頼朝の忌避に遭い追討の
手に追われ始めるときに当たっている。それはまた源氏の頼朝の鎌倉幕府が衰弱していずれ平氏の北条氏に実権を奪われて行く始まりでもあった。弟三河守範頼
も、また弟伊予守義経も、いわば平家追討の実戦を勝ち進んだ大将であり、頼朝は終始鎌倉にいて二人を督励していたのだが、平家が海の藻屑と消えうせるや程
も無く兄頼朝は弟二人を受け入れがたい気持ちになり、大功をあげた義経が、平家の頭領宗盛父子を囚われ人として引き連れ、謙虚にはるばる帰参してきても、
頑として鎌倉に迎え入れず、腰越からまことにつれなく都へ追い返している。
一つには後白河院ら京都の朝廷の辣腕も働いていて、義経に官位を与え、鎌倉の方針に事実上背かせてしまうということを
している。父子の仲とも誓い合ったほどの頼朝の弟とはいえ、あえて御家人なみに遇して他の武士団との折り合いをつけていた頼朝としては、鎌倉の頭越しの任
官は迷惑であり、それを一義経が気ままに受け入れたのを鎌倉への異心と見るいわれはあったのである。加えて公家とはいえ平家一門に大きな力をもっていた平
時忠の女を娶るというようなこともしたらしく、義経にも甘えがあった。義経への人気も高かった。木曽の義仲のようには無作法でもなかった。検非違使として
よく都を守護もしていたのである。だが梶原景時をはじめ、手柄を争ってしきりに頼朝に讒言した武将もいた。いたに相違なかった。すこしくどいが、分かり良
く長門本などから要約しておこう。
伊予守義経、源二位頼朝を背く由、ここかしこに囁きあ合へり。兄弟なる上に父子の契 にて殊にその好み深し。是
によつて去年正月に木曽義仲を追討せしより、命を重んじ身 を捨てて、度々平家を攻落して、今年終に亡し果てぬ。一天四海澄みぬ。勲功類なく 恩賞深くす
べき處に、如何なる仔細にてかかるらんと上下怪しみをなす。
此事は去年八月に院使の宣旨を蒙り、同九月に五位大夫に成りけるを、源二位に申合は する事なし。何事も頼朝の計にこ
そ依るべきに、院の仰せなればとて申合はざる条、 自由なり。また壇ノ浦の軍敗れて後、女院の御船に参会の条も狼藉也。また平大納言の 娘に相親しむ事謂
われなし。かたがた心得ずと宣ひ打解けまじき者也と思はれけるに、 梶原平三景時が渡辺の船沙汰の時、逆櫓の口論を深く遺恨と思ひければ、折々に讒言す。
平家は皆亡びぬ。天下は君頼朝の御進退なるべし、但し九郎大夫判官殿ばかりや世に立 たんと思召し候らん。義経、御心剛に、謀勝れ給へり。一谷落さるる
事鬼神の所為 と覚えき。川尻の大風に船出し給ひし事人の所行と覚えず。敵には向ふとは知りて、一 足も退かず。誠に大将軍哉と怖しき人にまします。もつ
とも心得あるべし。一定御敵 とも成り給ひぬと存ずと申しければ、頼朝も、後いぶせく思ふなりとて、追討の心を挟 み給へり。
ここに「自由」の二字は至って興深い。これは勝手気侭、放埓の意味で、精神の自由などと近代現代が尊重してきた
自由とは違っている。狂言などにも用例があり、みなここにいう意味で多用された。この「自由」はいつの時代にもあった。どんな世間でも見られた。今日の日
本もおおかたこの「自由」によって混乱もまた活気も生じている。
これで、だが、「頼朝義経仲違」いの事情は分かる。秩序と自由との齟齬であり、そこに付け入る人間心理の「すすどさ」
である。梶原景時が遺恨を含んだ「逆櫓」事件とは、屋島の攻めに四国へ押しわたった時が大暴風雨で、義経は風雨を冒して突進を言い、義経目付け役であった
梶原は、せめて後戻りの利くように逆櫓の備えをと言い、烈しい喧嘩になり、義経は梶原を置いてけぼりに渡海を決行したのを言う。義経にはたしかに鬼神が憑
いていた。
戦が済んで見ると、戦略の段階でなく政略の段階になる。義経はとうてい頼朝の敵たる政治の素質は持たぬ、安心な善男子
でしかなかったのを、頼朝ほどの者が猜疑心を梶原に煽られてしまったというしかない。しかも梶原は自ら義経討手を引き受けるのは憚りありと、土佐房正尊に
お鉢を回したのであった。
腰越から追い返されて都に戻った義経には、まちがいなく兄の手で追討の憂き目を見るであろうと分かっていた。頼朝も義
経はぜひ討たねばなるまいと腹をくくっていた。緊迫した関係に世間も目を向けていたし、朝廷も困惑しながら、まぢかな義経と遠い鎌倉の頼朝とに、等分に目
配りし心配りしていた。頼朝が義経に付き添わせ上洛させた十人もの大名衆も、保身のために一人抜け二人抜けてみな鎌倉に帰っていった。文治元年秋(一一八
五)そういう都へ、頼朝による討つべしの密命を受け、奈良七大寺詣でに言寄せて土佐房正尊はひそとして乗り込んできたのであった。
もと奈良法師の土佐房には、どこか無頼の、だが小才の利いたところもあった。いわゆる流布本では見えにくいが、正尊は
根が大和国の奈良法師で、東大寺と興福寺との争いに乗じて春日社の神木を伐り捨てるという乱暴が咎められ、土肥実平に預けられているうちに巧みに土肥を篭
絡のあげく、頼朝に仕えようと鎌倉に来ていたのである。
名の知れた武将を遣わせば義経はすぐさま用心するに違いないと、これも梶原の口車に土佐房も乗せられた。あげく義経が
牛若の昔から誼み厚い鞍馬山に逃げ込んで囚われ、空しく命を落とした。
船弁慶 ー潮を蹴立て悪風を吹きかけー
歌舞伎座で「船弁慶」を観ていて、となりで妻が泣き出したのにびっくりした。菊五郎の演じる平知盛の幽霊が、ずうっと
黒い装束で蒼隈の顔をしていたのに、団十郎の弁慶に祈り伏せられ、ついに、ただ一度くわっと真っ赤な大口をあいて、舌を巻く。黒くて蒼い知盛がその一回だ
け真っ赤に口をあけた痛烈な悲しみに胸うたれ、可哀想で可哀想でと妻は泣くのだったが、私も同感だった。
「葵上」の御息所でも「道成寺」の清姫でもそうだが、祈り倒されて行くモノはどこか哀れでならない。赤い口をあくのは威
嚇ではなく、無念の思いで舌を巻くのである。演出だといえばつまり旨い演出だが、そんなことは通り越して、知盛の幽霊には壮絶な哀感哀情が横溢する。
「船弁慶」は能も歌舞伎でも主役はむろん知盛である。もう一人は弁慶で、英雄義経はすでに著しく矮小化され、弁慶の庇護
のもとにある。能では子役が演じる。
土佐房は討ち果たしたが、義経は兄頼朝を怖れ、朝廷に対し、朝敵にならずにすむ手立てを懇請する。もとより朝廷は鎌倉
の頼朝を憚っているが、現在都に兵を蓄えているのは義経の方で、すげないことはしにくい。院の下問をうけた公卿たちは、難儀な相手にその場限りの宣旨を与
えて置き、すぐまた逆の手を打つなどは、何度も過去にしてきたことで、いまは義経の請いを受け入れ、次には頼朝の顔を立てればよろしいと、まさに「政治」
的なチャランポランを平気で言うのだった。それが公家社会の源平武家をあやつってきた、たしかに常套手段だった。文治元年十月(一一八五)頼朝追討と日本
国の西半分を義経の沙汰に任せるといった院宣を手に、都へ攻め上るかと見えていた鎌倉の軍勢を迎え撃つことなく、義経らは西をめざして落ちて行く。そうい
う義経への都人の視線はなかなか暖かく、だが判官贔屓が始まれば始まるほど、もう義経には去年までの勢いはしぼんでいる。鬼神も避けたような義経ではもう
なかった証拠に、海に出たとたんに「平家の怨霊」に船は襲い掛かられている。以降、吉野の義経も、安宅の義経も、終始武蔵房弁慶の手厚い庇護なしには道中
もならなかった。
能の「船弁慶」は奇妙に前段と後半とに分断されていて、ふつうは関係の無い二幕物の狂言仕立てに出来ていると見られ
る。前シテは静御前で、弁慶により義経との同船をすげなく拒まれる。後シテは知盛の幽霊で、弁慶の功力の前に海底に退散する。しいて理屈をつければ、船上
でさような危機の迫った時に、女連れは「何とやらん似合はぬ様」であり、主君義経の闘う気力をそぐ怖れがあると、女の同船を足手纏いに忌避したといえる。
歌舞伎ではそれらしいことを、弁慶が主君にも静にも言い渡している。男女の仲を阻んで、静ははっきり弁慶に押し返されている。能の作者は賢しくも、「静
か」を拒めば海は「荒れ」ようという、ものの因果も探っている。
海は、事実、荒れた。平家の怨霊は凄まじく弁慶らの船に迫り、「あら珍しやいかに義経」と呼びかけ、ひときわの執念で
義経を何としても海に引き入れようと、「薙刀取り直し」「あたりを払ひ、潮を蹴立て、悪風を吹き掛け、眼もくらみ、心も乱れて、前後を忘ずる」ばかりに襲
いかかったのが、知盛の亡霊だった。
なぜ、知盛か。それが一つの問題である。
宗盛父子は海には沈まなかった。重盛ははやくに病死している。瀬戸内の波間に沈み果てた平家の、知盛は事実首領であっ
た。いや、壇ノ浦での決戦の時すでに知盛こそが平家の主将であり全軍の指揮官であった。指揮官の作戦に従い指揮官の指示にそのまま従っていたなら、平家に
は勝つ機会が、事実あったのである。
むしろ優勢であった平家の敗戦と全滅の原因が、少なくも一つあったことでは、諸本が一致している。阿波民部大夫重能
(成良)の裏切りであり、これで水軍の勢いが逆になった。また寝返りに際して重能は平家必勝の秘策を、源氏方に通報してしまい、源氏は、一気に平家の芯の
ところへ攻勢をあつめて、撃滅できた。
知盛は、阿波民部大夫の裏切りを予知して斬ろうと図っていた、が、総帥宗盛は首を縦に振らなかった。大きな失策だった
ことはやがて知れて、宗盛は大いに悔いたが遅かった。秘策は知盛の、義経に対する並外れた敵愾心に発していて、ほとんど私憤にも近い敵意であったけれど、
かなりに有効な、成功すれば決定的勝ちに繋がる名案であったのである。
この案を延慶本というじつに個性味豊かな読み本が、たぶんこの本だけが伝えていて、荒唐無稽とも思われぬ真実感に満ち
ている。知盛の奇策は「唐船カラクリ」と称されているが、早い話、安徳天皇や母后をはじめ宗盛父子や二位の尼らを、御座船の唐船から、いかにも兵士たちの
兵船と見える小さな船に御移しして、御座船には能登殿ら勇士を隠し置こうというのである。何が何でも三種の神器の欲しい義経は、御座船をめがけて自身で
迫ってくるに違いなく、そのとき多数の兵船をもって義経を取り包むようにすれば、味方の船は数も多く、必ず義経を討ち取れるに違いない、と。
たわいないが、海の上の事であり、海戦は平家のほうが源氏よりも習熟している事は誰もが認めている。事実、かなり平家
に優位に壇ノ浦の海戦は始まったのであった。内心は知盛は「今ハ運命尽キヌレバ、軍ニ勝ツベシトハ」思っていなかった。天竺震旦日本の別なく、並びなき名
将勇士といえども、運命が尽きてしまえば今も昔も力及ばぬことである、ただ名こそは惜しい。その「名」にかけても「度々ノ軍ニ九郎一人ニ責メ落サレヌルコ
ソ安カラネ」と思い染みていたのだ。「何ニモシテ九郎一人ヲ取テ海ニ入レヨ」「何ニモシテ九郎冠者ヲ取ッテ海ニ入レヨ。今ハソレノミゾ思フ事」というの
が、知盛必死の司令であった。執念は凄まじかった。
唐船カラクリシツラヒテ、然ルベキ人々ヲバ唐船ニ乗タル気色シテ、大臣殿以下宗トノ 人々ハ二百余艘ノ兵船ニ乗
テ、唐船ヲ押シカコメテ指シ浮カメテ待ツモノナラバ、定メ テ彼ノ唐船ニゾ大将軍ハ乗リタルラント、九郎進ミ寄ラン所を後ロヨリ押巻キテ中ニ取 リ籠メ
テ、ナジカハ九郎一人討タザルベキ。
わたしはこれを読んだとき、お、いけるかも知れないと本気で思い、鳥肌立った。この時である、知盛は阿波民部大
夫の裏切りを察知していて斬ろうと強く主張したのは。宗盛はだが聴かなかった。結果「唐船カラクリ」のことは裏切り者の口から源氏に伝えられ、平家の船は
算を乱して崩れていった。その後の凄惨な成り行きは、ここで拙くまねぶことは避けよう、平家物語をつぶさに読まれたい。知盛は「見るべきものはすべて見
つ」と、一族のなれの果てを見納めて乳兄弟の伊賀平内左衛門家長と、抱き合って壇ノ浦の水底に沈んで行った。
その知盛の幽霊が、風を巻き波に乗って落ち行く義経主従の船に襲いかかったのである、それが能「船弁慶」の後シテであ
る。
知盛といい教経といい、義経を追いに追い詰めて海に引き込もうとしたが壇ノ浦では果たせなかった。この大物浦では何と
してもと、勇猛の教経でなく知盛の現れたところに執念の凄さがある。逆にいえば義経一人、九郎一人に亡ぼされた平家という印象の強化法が平家物語にも、読
者たち享受者たちにも共通していた。それが義経の末期の哀れをまた強め得て、ついには「義経記」のような平家物語の傍流末流物語成立へまで行く。
それにしても能「船弁慶」の前半と後半とのアンバランスは目立つ。手持ちの謡本でみれば前シテ静の十九頁分に対して、
後シテ知盛幽霊は九頁にも満たない。しかも印象は圧倒的に幽霊知盛の挑みと屈服とに傾く。能でこそ静の舞姿が美しいが、歌舞伎では終幕後にまで静の印象は
殆ど残らず、弁慶ののさばりだけが異様に印象に残る。静は奇妙に前座めく。
なぜこんな作りが必要だったのか、弁慶の配慮と功力の大いさを表現すれば「船弁慶」は事足りているからか。いやいや、
今一度、何故に弁慶はああも靜の乗船を忌避したのかを考えて見たくなる。弁慶の不思議な直感に、どこかで、靜という女人と知盛の怨霊とを繋いで「危うい」
とみるものが忍び入っていなかったか。
夫婦で見て妻が泣き出し、わたしもふと引き込まれた歌舞伎の舞台では、菊五郎が靜と知盛とを前後二役で演じた。能では
当たり前だが歌舞伎では必ずしも当たり前ではない。菊五郎だから静も、靜以上に知盛もよかった、泣かされた。
そして感じるところが有った、この芝居や能の作者には、もともと論理整合的にとは行かなくても、靜と知盛とを根深いと
ころで「同じ側」に眺める視線を秘め持っていたのではないかと。弁慶にすでにそれが在り、静を主君義経と乗船させることに決定的な危険と不安と憂慮を覚え
ていたのではなかろうかと。
これは直ちには説明しきれない。しかし手がかりがまるで無いのではない。知盛ら平家の怨霊らは間違いなく今は海底の住
人、陸に住む者らへの怨念に生きる海の霊である。平家物語は住吉や厳島を芯に、実は想像を超えて「海の神意」に深く導かれた物語である点で、あの源氏物語
とも臍の緒をしっかり繋いでいるのだが、シラ拍子の靜、母の「磯」は、もともとは海方の芸能に生きていた女たちであった。弁慶の怖れは、謂われなくは有り
得ない深い根拠をもっていたとわたしは考えたい。
景清 ー面影を見ぬ盲目ぞ悲しきー
この能を、平家物語の流れで謂えば「八島」の頃に並べても可笑しくはない。だが「現在」の景清に力点をおけば、時節は
はるかに後れている。景清は鎌倉の頼朝をつけ狙って囚われ、日向に流されている。盲目になっている。境遇は「俊寛」と似ているようでちがう。感銘もちが
う。ヒタ面でも見せてほしい能である。
平家物語は、結果的に見ればあの「史記」と似た叙事をそれとなく実現していた。厳密な事はともかく、平家の直系を「六
代被斬」まで書いて断絶平家という縦軸を通しながら、これぐらい生き生きと下級の武士たちまでも主人公なみに活写しえた文芸ないし芸能はそう類がない。平
家方にも源氏方にも、なに遠慮も無く見出し付で大勢の武士たちの活躍や生死が語られている。景清もその一人として幾場面もに登場し印象に刻まれてきた。俊
寛に好感を持った人はそう多くは無かろうけれど、実盛にしても景清にしても平家方武士を代表して源氏の熊谷や佐々木と優に匹敵している。人間的にはより魅
力的にすら感じている。
もっとも景清はいたって武辺の人であった。実盛なみの哀感を湛えて彼がわれわれに迫るのは、まさに能の「景清」なの
で、平家物語の景清は一途に武勇の人物でしかない。
何度も何度も景清は「上総悪七兵衛」として陣揃えの侍大将の一人として現われる。具体的な記事が出るのは、だが、熊谷
直実とのわずかな接触、戦いそうで戦わず仕舞いに退くところが最初で、次いで屋島の合戦に豪勇ぶりを見せる。それが名高い三穂屋十郎との兜の錏引きだが、
それとても那須与一の扇の的の後産程度にしか語られていない。
平家は那須与一に名を成させ、あまつさえ伊賀十郎兵衛家員までむざと死なせてしまい、本意なしとばかり、三人の武士が
陸に上がり、「楯を衝いて、敵寄せよ」と源氏を手招いた。平家はよくよく「手招く」のが好きであった。
判官、「あれ馬強ならん若党ども、馳寄せて蹴散らせ」と宣へば、武蔵国の住人、三穂 屋四郎、同藤七、同十郎、
上野国の住人、丹生の四郎、信濃国の住人、木曽の中次、 五騎連れて、をめいて駈く。楯の影より、塗箆に、黒ほろ矧いだる大の矢をもて、真っ 先に進んだ
る三穂屋の十郎が馬の左の胸懸づくしを、ひやうづばと射て筈の隠る程ぞ、 射籠うだる。屏風を返すやうに馬はどうと倒るれば、主は馬手の足をこえ弓手の方
へ下 り立つて、やがて太刀をぞ抜いだりける。楯の陰より、大長刀打振て懸りければ、三穂 屋の十郎、小太刀大長刀に叶はじとや思ひけむ、掻い伏いて迯け
れば、やがて続いて追 懸けたり。長刀で薙がんずるかと見る処に、さはなくして、長刀をば左の脇にかい挟み、 右の手を差し延べて、三穂屋十郎が甲のしこ
ろをつかまむとす。つかまれじとはしる。 三度つかみはづいて、四度の度むずとつかむ。暫したまつて見えし、鉢附の板よりふつ と引切てぞ迯げたりける。
残四騎は馬を惜しうで駈けず、見物してこそ居たりけれ。 三穂屋十郎は、御方の馬の陰に逃入て、息続ぎ居たり。敵は追うても来で長刀杖につき、 甲のしこ
ろを指上げ、大音声を上て、「日頃は音にも聞きつらん。今は目にも見給へ。 是こそ京童部の喚ぶなる上総悪七兵衛景清よ」と、名乗棄てぞ帰りける。
これで平家方はちょっと気をよくしたとある。独り働きでは格好いいが、景清が侍大将として参加した勝ち戦は、せ
いぜい以仁王を追いつめていた時ぐらいで、たいていは平家方の分はわるい。ただ景清は、武運の有る方であったというか、あの壇ノ浦でも、「その中に、越中
次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛は、何としてか逃れたりけん、そこをも又落ちにけり」とあるように、源氏の手に囚われることなく、戦場を
落ち延びた。源氏にすれば一騎当千のうるさい猛者ばかりであった、事実、彼らはしぶとく抵抗を続け、とりわけ、景清最後の奮戦の偲ばれるのは、壇ノ浦合戦
もとうに過ぎて、平家の残党が容赦なく追討されていた時分に、小松大臣重盛の遺児丹後侍従忠房を奉じて紀伊国湯浅城で頑強に熊野別当らの源氏方を悩ませた
時であった。
小松殿の御子丹後侍従忠房は八島の軍より落て行方も知らずおはせしが、紀伊国の住 人湯浅権守宗重を憑んで湯浅の城に
ぞ籠られける。是を聞いて平家に志思ひける越中次 郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛以下の兵共著き奉る由聞えしかば、 伊賀伊勢両国の住人
ら、我も我もと馳せ集る。熊野別当、鎌倉殿より仰せを蒙つて両三 月が間、八箇度寄せて責め戦ふ。城の内の兵共命を惜まず防ぎければ、毎度に御方は追 散
され、熊野法師数をつくいて討たれにけり。
景清の名をさしては語っていないが、頑強な平家の根力の一つで景清がいたことは分かる。そればかりか、おおかた
平家は掃滅されるにかかわらず景清が捕まった確証はない。
頼朝の洞察と指示とで湯浅の城攻めはことなく、平家方すべてが城から姿をくらまして収まってしまうが、これに懲りたか頼
朝は甘言を用いて忠房を自首させ、殺してしまう。さらに徹して残党狩りに力を入れる。だが、上総悪七兵衛景清にかぎって、平家物語流布本に、囚えられた形
跡は全く無い。能「景清」に謂う日向遠流と定まるような頼朝暗殺事件などは平家物語には見当たらないのである。
これはあらゆる「作者」には有り難い、脚色自由な前提ができている。歌舞伎の熊谷陣屋に突如として現れる弥陀六実は悪
七兵衛景清は、義経の面前から黙契を得て熊谷に討たれた筈の公達敦盛を櫃に負うて立ち去って行く。見えない共通の敵の頼朝の影を察しながら歌舞伎の舞台を
見ている人も多かろう。記憶違いでは恥じ入るが、琴責めで鎌倉の詮議を受ける遊女阿古屋は行方をくらまして久しい景清の妻ではなかったか。
末始終が分からない人物は、魅力が在ればあるほど奥ゆかしさに想像力が鼓舞され刺激される。弁慶の立ち往生に救われた
源義経が、蝦夷から蒙古に渡ってジンギスカンになったという伝説もそれなら、源為朝が琉球王になったという伝説もその類であり、景清にもそれだけの資格が
生まれていたのである。能「景清」の娘人丸にせよ傾城阿古屋にせよ、それらしい縁者が生き長らえて景清の物語をいろいろに流布させた役回りを想像して見る
余地はいかようにも否定しきれない。潤色し脚色するに値した他の逸話や事件にもこと欠くことは無かったろう。景清と頼朝とのことなどは、平家物語が語って
いる越中次郎兵衛盛嗣の最期が利用されたのではなかろうか。この平家の猛将は、多くの場合悪七兵衛ら一群の侍大将の常に筆頭に位置していたし、その最期も
なかなか物語りに富んでいる。
平家の侍越中次郎兵衛盛嗣は但馬国にまで落ちて行き、気比四郎道弘という在地の豪の婿におさまっていた。道弘はまさか
に越中次郎兵衛とは気づかなかったが、嚢中の錐の譬えもあり、ありあまる威勢の盛嗣は夜になると舅の馬を引き出しては馳せまわっていた。馬で海の底を十四
五町も潜ってくるようなことまで出来るのは、龍神にもゆるされた豪強の武士としか思われず、ついに鎌倉殿の守護地頭も怪しんでいるうち、鎌倉でも漏れ聞い
てのことか、但馬の朝倉高清に捕らえて鎌倉へと命令が届いた。朝倉の婿がさきの気比四郎であったから、両人は驚いて、だがどうして搦め取ろうかと相談も慎
重であった。
湯屋にて搦むべしとて湯に入れて、したたかなる者五六人おろし合はせて搦めんとする に、取つけば投倒され、起
上れば蹴倒さる。互に身は湿れたり、取りもためず。されど も衆力に強力叶はぬ事なれば、二三十人、はと寄て太刀のみね長刀の柄にて打ち悩ま して搦捕
り、やがて関東へ参らせたりければ、御前に引据させて事の子細を召問はる。
「いかに汝は同じき平家の侍と云ながら、故親にてあんなるに、何とて死なざりけるぞ」
「それはあまりに平家の脆く滅てましましし候間、もしやと狙ひ参らせ候ひつるなり。 太刀の身の好きをも、征矢の尻の鉄
好きをも鎌倉殿の御為とこそ拵へ持て候ひつれど も、是程に運命尽果候ひぬる上は、とかう申すに及び候はず」
「志の程はゆゆしかりけり。頼朝を憑まば助けて仕はんには如何に」と仰せければ、
「勇士二主に仕へず。盛嗣程の者に御心許し給ひては必ず御後悔候べし。只御恩には疾疾 頸を召され候へ」と申しければ、
「さらば切れ」とて由井の浜に引出いて切てんげり。ほめぬ者こそなかりけれ。
平家物語の気持ちよいのは、誉めるところは敵味方なく誉めてくれるところで、自ずから聴いたり読んだりした者へ
の価値観教育、つまり啓蒙的な指導性をもちえただろうと思う。何をすれば人は誉め、何をすれば人は嗤うか。それが分かるということが社会の教育であった。
越中次郎兵衛盛嗣のこの潔さも逞しさも、うまく能「景清」に収斂され、いわば虚像の魅力に実像の景清はきれいに潜り込み、いまなお生き延びてものを訓えて
くれている。
大原御幸 ーその有様申すにつけて恨めしー
行幸と御幸とがある。天皇の出御、というよりも他出や訪問は行幸であり、皇后や親王方だと行啓である。御幸は上皇の場
合に用いている。そういうことを知っていれば、この題が、上皇、院の大原行きを意味していると分かる。
大原が、都よりよほど草深く木深き田舎であることを、昔の人は、京に近い人々は、今日のわれわれより遥かに実感してい
たから、この題にはそれなりの意義があった。歴史的な事件といえば大げさなようで、じつは幾重にも歴史にかかわる事件であった。後白河院が、いわば嫁にあ
たるかつての国母の建礼門院徳子平氏を、わざわざ大原の里へ訪問された。それ自体が在るべかりし史実であった。まったくの虚構ではないのである。
女院は壇ノ浦の波間から源氏の兵士たちにまさに掬い取られ、泣きの涙で都へ連れ戻されたお人であった。言うまでもなく
平清盛の女と生まれ、高倉天皇の女御となり、中宮となり、安徳天皇の生母となって父清盛に外戚の権をもたらした当の女人であった。目の前で我が子の海底に
沈み行くのを空しく見送ってきた母親であった。ありとあらゆる平氏の身内の、討たれ、また入水して果てて行くのを目の当たりに見てきた人であった。この建
礼門院こそ、真実「見るべきほどは見つ」と言うことのできた平家滅亡の生き証人であり、この人ほど多くに「死なれた」人は珍しく、また実に、この人ほど多
くを「死なせた」存在も少ないのである。
そこから、二つの、少なくも二つの目立った配慮が平家物語に加えられた。建礼門院の上に加えられた。
一つは、「断絶平家」を告げたいわば平家物語大尾のまだ外に、いわゆる「潅頂巻」が特別に立てられ、「大原御幸」の首
尾がしみじみと語り終えられるとともに、二つは、史実に背いてまで、まだ若き建礼門院の「死去」が語られることになった。
平家物語には「潅頂巻」を立てた本と立てない本とがあり、読み本だから立てない、語り本だから立てるとも言いきれな
い。が、概して覚一本など平曲の台本には「潅頂巻」を立てて「大原御幸」と「女院死去」とを特別視したものが多いとは言えよう。
一つには「潅頂巻」とは斯道免許皆伝ぐらいな意義を持つ事があり、琵琶法師らの当道においてもそれほどの意義をもたせ
て特にこれを立てたという事情が察せられる。
今一つには、「潅頂」とは早い話が洗礼にも類した一種の聖儀礼でもあり、また独特の水死者に対する鎮魂慰霊の営みでも
あった。「流れ潅頂」のように河の流れに交わって水死霊をいたわり慰めることは、今日の鴨川でもしばしば行われていた。
安徳天皇をはじめ、平家一族はもとより多くの者の西海に沈んで果てた稀代の戦禍は、いわば日本中の全ての人に重くのし
かかり、「悲哀の仕事=モゥンニングワーク」を迫っていた。「潅頂巻」を物語りの大尾に心をこめて据えることにより、明かに平家物語なる国民的な営為自体
を、ただに「断絶平家」を語るだけでなく、いわば深甚の「追悼平家」を行じるものに仕立てようとの意思が働いた。「大原御幸」と「女院死去」とはその実現
であると考えられた時に、そこに働いていたであろう後白河法皇の意向は限りも無く大きかったのではないかと、私は、いまも、その考えを捨てきれない。この
帝王の胸中にこそ真っ先に「平家物語最初本」への意思が宿ったのではないかと。「大原御幸」とはその意向の実現であり、意図的ないわば場面作りですら有り
得なかったろうかと。
壇ノ浦の後始末で、何が一大事であったか。平家の総大将である宗盛以下の虜囚を都にもたらすこと、平家が事実上滅亡し
たこと。それよりも朝廷にとって大事なのは三種の神器の無事奪回であったが、神鏡と玉璽は取り戻せたにもかかわらず、遂に宝剣は海底に沈んだ。必死の捜索
はされたものの海流は激しく速く、要するに神剣喪失の「説明」が是非にも必要だった。奇怪な伝説もできたし議論もされた。
例えば歴史学者でもあった延暦寺の座主慈円は、武の象徴たる剣の代わりに鎌倉に武家の幕府が必要となり、京の公家――
慈円の場合は彼の出た九条家の摂政道家――による執政と、頼朝に基づく武家の権威とが、相俟って朝家を補弼すべき歴史の道理が、「神剣喪失」により即ち実
現したと説いた。その朝家の天子もまた九条家が外戚の仲恭幼帝であり、鎌倉の将軍と謂うのも九条家から実朝横死後に送り込んだ頼経を指していたのだから、
あまりにも我が田に水を引くものであった。この議論では目睫の危機とせまった承久の乱を回避することは遂に不可能であった。
海女の一人は壇ノ浦の海底に潜って捜索の上、龍宮に招じられ、安徳天皇を抱き込んだ身の毛もよだつ大蛇が、かの剣はも
ともと我らが所有であったものを、さまざまに策を用いて遂に奪回したのであって、二度とは渡すまじと言い切るのを聴いて戻ったと謂われ、これよりして宝剣
の捜索は断念されたとの奇怪な説話を語る平家物語異本も実在する。清盛をはじめとする平家の一門がさも「本来の家」かのごとく龍宮に帰って安居しているさ
まをさえ、その海女は、実際に見てきたように後白河院らを前に語り聴かせている。
「喪われた理由」からみれば、今や宗盛らの運命など、朝廷にはさまで大事ではなく、また建礼門院の処置にも源氏は大きく
はこだわらなかった。吉田の仮り居で髪をおろし、大原寂光院に隠れ棲み、たしかにここへは法皇も、またかつての女官たちもたまさか訪れないではなかった。
だが、平家物語の流布本がたいてい語っているようには、建久二年(一一九一)に女院は死んではいなかった。ただもう平家物語の最終場面に必然の脚色であっ
た。だが真実は以下に要点を引くこの記事にあった。
建久三年三月十三日に(後白河)法皇隠れさせ給ひぬ。その後主上(後鳥羽)、代をしろし めす。おり居(上皇)になら
せ給ひて、承久三年に思召し立つ御事の有りけるか、御謀 反の事顕れて(承久の変)、院は隠岐国へ流されましまし、宮々は国々に遷され給ひぬ。 雲客卿相
或ひは浮島が草の原にて露の命を消し、或ひは菊河の早き流れに憂き名を流 すなど(お側の者から)披露有りければ、女院(建礼門院)聞こし召して今更又悲
しくぞ 思召しける。此の(後鳥羽)院は高倉院御子にておはしまししかば、女院には御継子にて 安徳天皇の御弟にましまししかば、よその御事とも思召さ
ず。配流の後は隠岐院とぞ申 しける。又は後鳥羽院とも名付け奉る。
平家都を落ちて西海の浪に漂ひ、先帝海中に沈み給ふ。百官悉く亡びし事只今の様に覚 えて、その愁ひ未だやすまらせ給
はず。如何なる罪の報ひにて露の命の消えやらで、又 かかる事を聞し召すらんと、尽きせぬ御歎き打続かせ給ひけるに附けても、朝夕の行業 怠らせ給はざり
けるが、御年六十八と申しし貞応三年春の頃、五色の糸を御手にひか へ、南無西方極楽教主阿弥陀如来、本願誤ち給はずは必ず引摂し給へと祈誓して、高声
に念仏申させ給ひて引き入らせ給ひければ、紫雲空に靉靆、異香空に薫じつつ音楽雲に 聞ゆ。光明窓を照して往生の素懐を遂げさせ給ひけるこそ貴けれ。
まこと「見るべき程は見」切って建礼門院徳子は老いの命を果てたのであり、平家の一門は多く命脈を絶たれ、源氏
も、義経も頼朝も、それどころか三代将軍実朝もすでに死んで、源氏将軍は早や跡を絶えていた。三種神器なしに皇位に即いて屋島の安徳帝と並び立った後鳥羽
天皇も今は遙かな沖の島に流され果て、天下の成敗はすでに陪臣北条の執権にしっかと握られていた。そこまでを見て死のうと、後白河よりも先だって若くして
死んだことにされようと、もはや建礼門院にはなにごととも思い分くことはなかったであろうが、平家物語を支えた多くの日本人が、女院の若い命を、大原寂光
院で御仏の来迎摂取に委ねよう、委ねたいと思ったのも、一つの大きな追悼の行為であった。
或る本が謂うように「妙音菩薩ノ化身」で女院があったかどうかはともかく、よほど強靱な神経の持ち主でなければ生きな
がらえにくい永すぎる生涯を建礼門院は生きた。それもあの大原の里に棲み果てたのではなかった。小督局を愛して舅清盛をやきもきさせた藤原隆房の妻は建礼
門院と姉妹であった。隆房夫婦は寒さの厳しい大原の里から、いつしかに姉の女院を、ちょうど今の平安神宮大鳥居にまぢかい邸宅に引き取り世話をしていた。
そこが火事で焼けると、また山沿いに南へ、ちょうど現在の高台寺の山に実在した金仙院という別邸とも私寺ともいえる場所へ移り住まわせた。角田文衛博士の
研究によれば、建礼門院のお墓は、あの豊臣秀吉の未亡人おねが入定死したかといわれる現在の高台寺御霊屋をそうは離れない辺りであったと謂う。
「百二十句本」では、鎌倉の六浦坂で平家正嫡の六代御前が斬られ、「それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり」と結ばれ
る。まさに「断絶平家」の終末だが、の第百十九句に据えられた「大原御幸」が、「覚一本」などでは「女院御往生」を結びにした灌頂巻で終えている。覚一本
は十二世紀末の「建久二年きさらぎの中旬」といい、延慶本などは十三世紀の「貞応三年(一二二四)春の頃」という。それとても、もろともに「追悼平家」の
祈念も深い、大団円であった。 (完)
ーー 朝日ソノラマ 刊 1999年
11月 ーー