「e-文藝館=湖(umi)」 小説 投稿


こさか きよゆき 1948.05.13 香川県丸亀市生まれ、同市在住。掲載作は「風跡」第36号(2010年5月)初出の小説『鴉としょんべん』を改題、加筆。




      夕映えの鴉   小阪 清行

          

 庭のバベの木で鳴く熊蝉が、今年は鼓膜が破れそうなほどうるさい。
 盆を過ぎた猛暑の昼前、クーラーもない自分の部屋に見切りをつけて、図書館に出かけた。ホームレスっぽい連中が増えている近年、特に真夏になると彼等は 図書館に屯する。涼しいうえに、柔らかなソファーで新聞・雑誌がタダで読めるのだから無理もない。
 気持ちよくミヒャエル・エンデを読んでいると、それっぽい老人が隣にどっかと座り込んだ。しょんべん臭さにムッとして思わず立ち上がり、新聞閲覧用の机 に移動した。地元紙の三面記事を開くと、「丸亀で老婆の変死体」という見出しが目に飛び込んできた。老婆の名前に驚かされた。― 朝倉ヨネ。
 記事の内容はおおむね次のようなものだった。
 前日(8月18日)の午後、丸亀市蓬莱町にある工場跡地の草ぼうぼうの広大な空き地で、女性の遺体が見つかった。きっかけは道路に転がっていた一本の骨 だった。犬など小動物の骨にしては少し大きすぎた。腐った肉片がへばりついており、野犬がどこかから持ってきたものに違いなかった。発見した造船所の従業 員は、空き地の雑草の中から異様な鳴き声とともに数羽の鴉が飛び立ち、あたりでハエが黒雲をなしているのを目撃した。腰丈ほどの草を掻き分けながら恐る恐 る近づいてみると、左腕と両脚の欠けた遺体が強烈な腐臭を放っていた。通報を受けた丸亀署の署員が草刈機で雑草を刈りながら付近を探すと、遺体はかなり広 く散乱 ― 。胴体は鴉に啄まれて内蔵が露出していたが、大量の蛆が蠢き、あたかも一塊の生体をなしていた。丸亀署の調べで、女性は捜索願が出されていた同市中津町の 無職朝倉ヨネさん(95)と判明。認知症の気があり、平素から徘徊癖もあったとの近所の証言もあり、家族や担当民生委員からより詳しい事情を聞いている。

 その日の夕方、自転車で現場に行ってみた。あたりは造船所、製材所、メッキ工場などの集まった工場地区である。「工場跡地の空き地」の遺体発見場所は、 まだ黄色いテープで囲まれ、花束と缶ジュースが手向けられていた。カァーという鳴き声に見上げると、五・六羽の黒い鳥が淡い夕陽を浴びながら、高見島の方 角に向かっていた ― あたかも鳥葬を終えた聖なる鳥が、西の空に飛び去っていくように。惨いはずの光景が、夕映えの中で美しくさえ感じられた。                                      
 ― 朝倉ヨネ。とっくに死んでいると思っていた人だった。
 ヨネさんは二十年近く家の経営する食堂で店員として働いた。我が家所有の長屋にヨネさん一家が住みついたのは、恐らく僕の生まれる前だと思う。
 僕の家は紡績工場の近くで食品・衣料・化粧品などを扱う店を営んでおり、かつては女工さんや近所の人々で店はあふれていた。道を挟んで食堂も経営してい た。出戻りの叔母と親戚のものに任せていたが、こちらも昔は行列ができるほど繁盛していた。叔母の死後は、すでに女工の数も減っていたため食堂を閉める案 もあったが、結局は当時ブラブラしていたヨネさんを雇って細々と続けることになった。
 ヨネさんは元々は財田の在所育ちだが、若くして広島に出て、三十前後で香川に戻ってきた。背中に彫物があるのを見たという人間がいるので、広島では極道 にでも嫁いでいたのだろう。何でもよく喋るのに、自分の過去についてはあまり喋りたがらなかった。ヨネさんの主人の弥七さんは、還暦を過ぎた僕の生涯の出 会いの中でも、これほどの善人はいないのではないかと思われるほど、優しくて柔和な人だった。ヨネさんが弥七さんに一方的に惚れ込み、駆け落ちして丸亀に 流れ着いたのではないかという噂を、誰もが信じていた。
 ヨネさんは、とにかく陽気な人間だった。そして人気者だった。しかし、肝心の料理の方は、お世辞にも良い味付けとは言えなかった。そうめんの出汁など、 みりんを入れ過ぎるせいか甘過ぎた。僕は一度食べて二度と口にしなかった。それでも客は離れなかった。料理の味よりも、楽しくそして心地よく食べることを 客達は選んだ。

 ヨネさんと近しく接し始めたのは、僕がドイツから帰って家の商売を継いでから ― つまり三十五年ほど前に遡る。
 僕は大学の四年になっても就職する気がなく、友人に誘われて何となく西ドイツへ留学する気になっていた。父がそれを許す筈が無いと予想していたが、母の 説得に折れたのは、能なしの一人息子に「箔」を付けさせておいても損はない、との気持ちだったかもしれない。当時の我が家には、それだけの経済的余裕が あった。
 テュービンゲン大学の文学部に席を置いたものの、ドイツ語の講義は全く理解不能だった。外国人留学生のための文学ゼミもあったが、これさえもかなり難し かった。ルター神学を学んでいる留学生仲間に誘われて、ルターのゼミに参加してみた。高校時代内村鑑三の本を読んでいた僕には、こちらの方が多少理解し易 かった。ルターをやるにはラテン語が必要である。ラテン語クラスで後れを取るまいと、青春の真っ直中に、単語ごとに辞書を引き、変化語尾を暗記する毎日。 日々楽しくはあったが、燃えるものがなかった。一体自分は何のために「あるずもがなの神学」を勉強しているのか、と虚しく自問した。
 そんなとき、東ドイツの「ルターの町」ヴィッテンベルクから、通訳の募集にやってきた日本人に出会った。四百人ほどの日本人がアンモニアのプラントを建 てているのだという。学問よりも、共産圏での飯場生活に気持ちが動いた。一年間にわたる労働者たちとの生活を経て、西ドイツの大学に帰ってみると、学問へ の未練はもはや残っていなかった。稼いだ金は、「世界にパンを!」という団体の口座に振込んだ。神学なんぞを学ぶよりも、数人にせよ人の命を救う方が価値 あるとの ― 行為による善を否定するルターとは全く逆の ― 考えからだったが、後味の悪さだけが残った。
 大した志もなく留学し、道半ばで四国に帰って老父母の商売を継いだ経緯は、そんなものだった。
 母が脳梗塞で倒れたのはそのほぼ一年後だった。根っからの働き者だったが、好きで働いているというよりも、生きる苦しさを紛らわすため遮二無二働いてい るように感じられた。朝五時前から起き出して、店の仕事の前に、家の掃除・洗濯・炊事をすべて済ませておくのが日課になっていた。二月のある寒い朝、僕が 起きてトイレに行くと、その前で雑巾を持ったまま倒れていた。壮絶な姿だった ― 少なくとも僕にはそう思われた。一ヶ月ほど意識の戻らぬまま命を永らえたが、痰でゴロゴロ鳴る喉の音を聞きながら、考えることはただ一つだった。生涯の大 半を、歯を食いしばり涙しながらに過ごしてきた母は、一体何のために生まれて、何のために生きてきたのだろうかと。
 母は善通寺の比較的裕福な農家に生まれた。結婚後、教師をしていた酒乱の夫が浮気して、身籠もったまま実家に逃げ戻った。女の子を産んだが、世間の手 前、両親は母に冷たかった。父親は産後さっそく再婚相手を探し始めた。見つけてきた相手が僕の父である。母は、同じ過ちを繰り返せばもう家には入れないと 実父から釘を刺され、丸亀の姑からは子供を実家に置いてくることを要求された。板挟みとなった母は、泣く泣く赤子を里子に出すことに同意したのである。僕 は中学一年のとき、一度だけこの種違いの姉に会ったことがある。精神を病んでいた。何十年か振りに自分の娘を見る母の姿を、僕は今恐ろしいもののように思 い出す。丸亀に嫁いできた母は、祖母と出戻りの叔母のいびりに日々苦しめられた。父はマザコンで、母を庇うことは一切なかった。そんな中、兄弟の中で一番 出来の良かった兄が、冬山で遭難死した。まだ高校生だった。兄の死は、兄を甘やかした ― すなわち登山を許した ― 母の所為にされた。僕自身は孫として祖母から可愛がられていた筈なのだが、母を怒鳴りつける般若顔しか思い出すことができない。物陰に隠れては泣いていた 母  ― 病室で母を看病しながら、何の慰めも与えられなかったとの思いが、胸を引き裂いた。

 通夜の勤行開始は七時だったが、十五分前にはすでに、講中のほぼ全員が揃っていた。我が家の界隈には、昔ながらの村社会的しきたりがまだ生きており、少 しでも通夜の時間に遅れようものなら、冷たい視線を覚悟しなければならなかったからである。しかし肝心の信楽寺の住職が、真際になっても現れなかった。同 行たちのひそひそ話が僕の耳にも届いた。住職に対する日頃の不満・軽蔑の念が噴出し、聞こえてくるのは口汚い誹謗ばかりだった。
 「ビルマで捕虜になって、おめおめと帰ってきたら変態になってしもとった言うやないんな」
 「へぇ、だいたいあの男には、恥をさらすくらいなら死んだ方がましやいう性根がないわなあ。あれでは嫁はんが逃げて帰ってもしゃあないぜ」
 「あなな息子が産まれたんも、罰じゃわな」
 時計にちらちら目をやっていた門徒総代の父も、爆発寸前だった。
 「いやぁ、悪い悪い」
 悪びれることなく、酒臭い息を吐きながら住職が到着したとき、予定時刻はすでに十分以上も過ぎていた。
 「我が好きは、酒と肴と、碁と相撲、金と、女は言うまでもなし」を地でいくアル中の生臭坊主だった。法事の席などで、ニンニク臭を放ちながら聞かされる 話と言えば、本願寺別院裏の喜平が競艇で田圃を売ったとか、法界寺の慶応出の次男が出世して野村證券の支店長になったとか、三城呉服店の嫁が隣の喫茶店の 若い衆と駆け落ちしたとか、そんな下世話な話ばかり ―
 「ほれから昔はさんざん浮き名を流した熊太も中風じゃぁ。今ではムスコもしょんべんを垂らすだけの道具になってしもて。哀れなもんじゃ。の〜ぉ。嫁はん は苦労かけられた腹いせに、ろくに面倒もみよりゃせん。下の世話をちゃんとしちゃらんけん、盆行に行っても、しょんべん臭うてたまらんかったでぇ」
 この住職が、正信偈と白骨の御文章のあと、何を血迷ったのか突然説教を始めた。居合わせた者たちはみな顔を顰めた。クソ坊主の説教よりも、菓子と砂糖を 受け取って、早く夕餉の席に着きたいという空気が肌で感じとれた。
 「…この世の悟りなんぞ、儂ら凡夫には不可能 ― それにそななもん要りもせんのですわ。悟りは上根の人間や、暇な御仁に任せておけばよろし。儂ら下根の凡夫は、この苦界で地べたを這うように藻掻きもって 生きて、お迎えがくるまで念仏を唱えもって醜く賤しく生きる ―。悟りはお浄土でいただけばそれでえぇんです。ただ、その藻掻きがそのまんま光に包まれとるいうことは、ひょっとしたら後から見ると、言えるかもしれま せんがの」
 朴訥で偽善偽悪臭のない言葉が、心に沁みた。
 信楽寺住職の説教を聴いたのは、後にも先にも、この一回きりだった。
 (住職が亡くなったのは、彼が母の七回忌の法要を勤めてまもない頃だった。見窄らしい寺での極めて質素で寂しい葬式だった。わずかな花輪の一つに「イン パール友の会」と書かれていた。ダウン症の息子が一人いた。死期を自覚した住職には、息子のことで九腸寸断の思いがあったろうと察せられる。生前、寺の前 を通りかかった折、息子と笑いながら汗と埃だらけになって、庭で相撲を取る姿を目撃したことがある。ステテコ姿の二人が、一瞬、蓮華畑で戯れる良寛と村の 子供のように思われた。)

 母の葬式が終わると、さっそく現実が待っていた。料理と洗濯。それに化粧品などの販売。店員が夕方六時に帰ると、十時の閉店までの間、化粧品や衣料品を 売る人間は僕しかいなかった。ろくろく使い方も知らない口紅やほお紅を、中学を出たばかりの女工にも売りつけた。化粧品会社の講習を受けたが、「お客様の 美しさのために」というお題目が、白々しく響くだけだった。会社は各チェーン店を、ダイアモンドとかエメロードなどの結構な名前で格付けしてノルマを課 し、それが捌けなければ在庫は溜まる一方で、資金繰りが苦しくなる仕組みになっていた。
 食事はと言えば、僕の料理のレパートリーは、カレーと湯豆腐とすき焼きだけだった。父は数ヶ月は辛抱していたが、僕に見合いを勧め始めた。翌年の正月 は、お節も雑煮もない寂しいものだった。のみならず、二人とも風邪を引いて、三が日を熱に魘されながら布団の中で過ごした。これが父の嫁探しに拍車をかけ た。釣書と写真を鞄に詰めた仲人屋が出入りしはじめ、父は自分が気に入った話があれば、すでに七二歳になっていたが、満濃や国分寺あたりまで自転車で聞き 合わせに走った。
 ドイツで「高尚な先進的文化」を身につけて帰った僕は、総じて前世紀的な制度に反発を覚えていた。しかし、水のたまる膝で丸一日自転車を漕いで、疲れ 切って帰ってくる父を見ていると、いつまでも見合い話を断り続けることはできないと感じ始めていた。
 何度目だかの見合いで、結納が納められた。相手は茶華道が趣味だという真言の寺の娘で、短大卒業後、東京の商社で秘書として勤めていた。何ヶ月かの交際 期間中に、商売の一部として食堂をやっていることが話題になったことがある。ヨネさんという店員さんが六時に帰った後は、一・二時間は僕が後片付けなどを やっている話をすると、「サイテー。みんなに軽蔑されそう」と言った。あたかも食堂の仕事が賤しい仕事でもあるかのように。「賤しい人間はいても、賤しい 仕事なんかありはしない。ある仕事が賤しいと蔑む人間がいるなら、その人間の方が賤しいんだ」という僕の一言で、事は終りを告げた。我ながらご大層な言葉 を吐いたものである。
 婚約が破談になった理由が食堂にあるらしい、という話を耳に挟んだヨネさんが、夜家にやってきた。僕と父の前で「信ちゃんに申し訳のうて…、大将にも恥 かかせてしもて…。死んだ奥さんのこと思うたらなおのこと、辛うて辛うて…」などと同じことを繰り返して、土下座したまま半時間ばかり泣き通した。僕は、 ヨネさんに謝ってもらう筋合いは全然なくて、言っていることはすべて的が外れている(実際そうだった)、と繰り返し説明したが、泣き腫らした顔には、あた かも死んでも償えないとでもいうような悲壮感が漂っていた。もしかすると、破談の原因が、自分の背中の彫物と関係あると誤解していたのかもしれない。
 その後、十数回目の見合いで僕は結婚し、子供も生まれた。家内は主に化粧品・衣料品部門を担当し、他の売り場に関しては、僕が仕入れをして、後は父と店 員に任せておけば、ほとんどやることは残らなかった。ブラブラしている訳にもいかないので、暇な時間に翻訳の仕事を始めた。依頼がないときは全く暇なの に、一旦仕事が入ると納期が極めてタイトで、徹夜して間に合わせることもたびたびだった。
 そんなとき、子供は父に預けることにしていたが、父の戦友会と僕の翻訳の仕事が重なったことがある。ヨネさんが気を利かせてくれて、弥七さんに子供の面 倒を見てもらい、なんとか仕事を間に合わせることができた。弥七さんは父とほぼ同い年だった。それまでは僕の子供時代の印象しか頭になかった。長屋のドブ に釣り餌のミミズを掘りに行ったときのこと。普通の大人は汚れるので鬱陶しがるのに、ニコニコ笑いながら「ボクよ、こっちの方が沢山とれるぜ」と自分の家 の排水枡へ手招きしてもらった。
 優しい人なので、小うるさくてケチな父よりも、息子はすっかり弥七さんが気に入って、何かにつけて弥七さんのところへ行きたがった。僕の家にまだビデオ デッキが無かった頃、「おかあさんといっしょ」を録画して、繰り返し観ては歌ったり踊ったり、庭に作った池の金魚や鯉に餌をやったり、しばらくすると夕食 を食べさせてもらったりもした。弥七さんのそばで、息子は生き生きしていた。
 他家で、しかも使用人の家で、「跡取り」に食事をさせることに父は苛立った。「乞食みたいなことさせるな」と言った。その辺の感覚が僕には全く理解でき なかった。もしかすると、弥七さんに対して、孫を奪われた嫉妬心のようなものもあったのかもしれない。
 それに父とヨネさんの関係も、ヨネさんが不精者で野放図だったため、必ずしも良好ではなかった。ヨネさんは、体を動かして働くよりも、座り込んで客と話 す時間の方が、ずっと長かった。父は「口ばっかし動かっしょる」と、よくぼやいていた。当てつけがましく、傍へ行ってテーブルを拭いたり、食器洗いをする こともあった。
 「大将、あくせくしても、どっちみち私も大将も、もう長うはないがな。そなに溜め込んでもあっちまで持っていけやせんで」
 おちょくったような呑気な言葉がまた父の癇に障った。
 ともかく、保育所に行くまで、息子のことでは弥七さんの世話になりっぱなしだった。保育所に行きだしてからも、帰ってくると息子は「朝倉のじいちゃん」 のところへ行きたがった。
 ヨネさんと弥七さん夫婦などが住んでいた四棟並びの長屋は、当時すでに築六十年にもなり、ある棟など、柱がかなり傾いていた。一度借家人が転出すると、 次の入居者が決まるまで、数ヶ月あるいは一年近くかかることさえあった。父は常々、僕の提案に耳を貸すような人間ではなかった。が、あるとき僕が、これか らは車社会になるから、空いた棟は取り壊して車庫にした方がいいのではないか、と言ったことがある。驚いたことに、間髪入れずにこれを実行に移し始めた。 たまたま家内の実家がトラックのシート工場を経営していたので、鉄骨にシートを張って、安上がりの屋根付き車庫が出来上がった。十車ほど収められる車庫 は、完成前から予約で塞がった。さらに、棟全体が空いていなくても、一部が空いているところも、屋根を残したまま潰して車庫にしていったが、それもすぐに 借り手がついた。期待以上に効率の良い土地活用だった。当時すでに居住権の問題などが取りざたされており、いざ立ち退きということになった場合、車庫の方 が処理しやすいとの計算も、父の頭の中にはあったと思う。
 弥七さんは、崩れかけの長屋に囲まれた空き地を庭に作りかえ、大きなポリの水槽を埋め込んで池にして金魚や鯉を飼っていた。周囲には金木犀や沈丁花、バ ラや紫陽花などの灌木を植え、四季折々の花が咲き匂っていた。
 ある日突然父が「弥七は家の土地を不法に占拠しとる」と言い出した。そして翌日、弥七さんの庭を、弥七さんに何の断りもなく潰し始めた。そして僕にも手 伝えと言った。
 「大将、それはあんまりじゃわな」
 ヨネさんが父に抗議した。
 「わがの土地をどなに使おうと勝手じゃろが」
 「ほんだら、十年も放っといて、なんで今まで何も言わなんだんな。うちの亭主が丹精してこっさえたもんを、あんまりじゃがな。せめて何日か前に言うてく れんといかんじゃろ」
 父は相手にしなかった。
 「うちの亭主を馬鹿にしとんか、この欲惚けジジイが!」
 最後にはそんなヒステリックな啖呵さえ切った。
 今まであれほど世話になり、そして今もこれほど世話になっておりながら、よくもまあこんな仕打ちができるものだ、と憤りながら、僕自身も奴隷のごとくこ き使われた。金魚と鯉が泳いでいたポリの池は、鍬でバリバリと潰されていった。
 一度として弥七さんの怒った顔を見たことはないが、あの時の悲しそうな顔を、三十年近く経った今も忘れることができない。
 その日から数日間、ヨネさんは何かと僕に気を遣ってくれたが、やはり気まずかった。息子を弥七さんに預けることも、一切できなくなった。弥七さんは「寂 しいから、ボクをよこしておくれな」と言って頼んできたが、父はガンとして受け入れず、僕ももう頼めた義理ではないと感じていた。
 息子は「朝倉のじいちゃん」のところへ行きたい、と愚図った。父はその孫に怒鳴り散らした。息子は泣き喚きながら言った。
 「じいちゃんや好かんわ」
 庭の跡地には四車分の車庫ができ、我が家は労せずして月二万円前後の増収となった。
 現在、僕の家族は僕の稼ぎだけでは到底食べてはいけず、辛うじて人並みの生活を営むことができるのは、偏に父の流した血のような汗と、このような阿漕な やり方で僕に残してくれた財のお陰である。死んでもなお、自分の悪によって、子と孫を生かす男が巨人に見えることもあれば、中途半端な悪人かつ善人として の自分が、いかにもちっぽけな人間に思われるときもある。家内から「あんた、最近お父さんに似てきたよ」と蔑むような言葉を浴びせられるとき、「俺も成長 したなぁ」と自らを褒めてやりたくなるのである。

 その後もヨネさんは、何年か食堂で働いてくれた。しかし、そうこうするうちに、丸亀にもいくつかのスーパーが進出し、店の売り上げは日増しに減っていっ た。食品は賞味期限を過ぎ、パンや生菓子にカビが生え、玉子が腐るようになった。いずれ立ちゆかなくなるのは目に見えていた。今ならまだ借金なしで処理で きると感じたとき、父に、店を閉めて翻訳と英語塾でやっていきたいと伝えた。老いても、まだしっかり先を見る目を持っていた父は、拍子抜けするほどすんな りと僕の意見に同意した。
 ヨネさんともう一人の店員には、辞めてもらった。
 五・六年して、弥七さんが亡くなった。弥七さんは、ヨネさんが食堂で働いている間、炊事・洗濯など家事のすべてを切り盛りしていた。小まめに働く弥七さ んは、ボロ長屋ながら、どの部屋も小綺麗に整理して清潔感が感じられた。ヨネさんが食堂の仕事を辞めた後もこの事情は変わらなかった。不精者のヨネさんは 家事のすべてを弥七さんに任せっきりで、自分では何一つやらなかった。
 弥七さんの四十九日が終わってしばらくしてのこと。ヨネさんの様子がおかしいという噂を聞いて、家に上がったことがある。ともかく臭かった。尿を垂れ流 しにしているのではないかと思うほど、臭かった。畳の上にはホカ弁のトレーが大量に散乱しており、残ったご飯やおかずがそのままで、中には腐ったり、カビ が生えているものもあった。部屋の隅では、仔猫が死んでミイラ化していた。
 「ヨネさん、純さんのとこへ行った方がええことないんな?」
 嘔吐を堪えながら、僕は訊いた。
 はっきりした返事はなかった。とろんとした目つきから、認知症の初期症状ではないかと推測した。
 ヨネさんと弥七さんには息子が一人いた。純さんはなかなか頭脳明晰な人間で、大学を出て勤務先の銀行では当時確か副支店長だった。結婚して丸亀の中津町 に住んでいた。弥七さんが死んで以来、借家の家賃は純さんが口座に振り込んできていた。純さんに電話して、あのままでは何かと危ないから、引き取る気はな いかと訊いてみた。
 「こっちにその気があっても、オフクロがどうしても儂の言うこと聞っきょれへんのやわ。信ちゃんの方で、よろしゅう頼んますわ」
 近所からは暗に、火事が怖いから追い出せ、という意味のことを言う者も出てきた。それが、常々ヨネさんといとも楽しそうに話をしていた人間であったた め、つくづく世間というものの冷たさを感じさせられた。その同じ冷たさが自分の中にもあることを予感したとき、暗澹たる気持ちは一層高まった。
 民生委員に相談すると、本人や家族の意思を尊重しなければならず、医学的にまだ第三者が強制的に措置できるほど、認知症は進んでいないとのことだった。 実際、ヨネさんの場合、症状が強まったり弱まったりで起伏があり、いわゆるまだらボケの状態だった。
 その後、父が脳梗塞で倒れた。ICUから出てくると、毎夜の付き添いで、ヨネさんのことどころではなくなった。その父も三年間の長い闘病生活の後、植物 人間のまま逝ってしまった。
 その間に、都市計画の道路拡張路線に引っかかっていた長屋が、市によって買収されることになった。売り手である僕と市との間の交渉は譲渡金額に関しての みで、借家人の立ち退き交渉や引越など諸経費の支払は、すべて市がやることになっていた。
 ヨネさんの場合、交渉はすべて純さんがやった。伝え聞いたところでは、彼は銀行マンとして「ごね得」の旨味を熟知しており、かなり粘ったけれども、結 局、市が彼の勤め先の銀行に暗黙の圧力をかけて、却って虻蜂的な結末に終わったとのことだった。
 これは、僕だけの思いではなく、近所の人間のほとんどが言っていたことだ ― どうして弥七さんやヨネさんのような人間から、純さんのようなあんな冷血な息子が生まれたのだろうかと。彼はヨネさんの連れ子だった可能性もある。が、も しそうだったとしても、とどのつまり、どういう環境で、どう育てれば、どう育つなんてこと、言えっこないのだと僕は思う。言えたとしても、それが一体何の 意味を持つのだろう。全知全能の創造主からルシファーが誕生したことを、一体どう説明できるのだろう。
 純さんは中津町にかなり大きな邸宅を新築していた。子供も一人いた。しかし、葬式のときに聞こえてきたヒソヒソ話によれば、自分の母親を決して自宅には 入れず、自分の家から数キロ離れたところにある、一戸建ちのボロ借家を借りて住まわせた。彼の奥さんはヨネさんとは一切接触しなかったようである。
 驚くべきことに、ヨネさんは十数年前にアルツハイマーの兆候を示しながら、今日まで一人で生き延びた。民生委員が措置できなかったということは、恐ら く、あの頃の症状のレベルが、さほど進行もせず続いていたのではないかと推測される。
 純さんに対しては世間の非難はあるだろう。けれども、彼ももう随分前に定年を迎えており、あの性格ではどのみち世間がどう言おうと、知ったことではない だろう。
 冷血さに関しては僕だって純さんと同じことだ。去る者は日々に疎し。あの記事を読むまで ― 恐らくは、後ろめたさを消さんとする無意識が、ヨネさんにかかわる記憶を抑え込んでいたためだろう ― ほとんど思い出すこともなかった。とっくの昔に死んでいるのだろうと思い込んでいた。
 そのヨネさんが、あんな無惨な死に方をしたことで、僕は言葉を失った。
 来る日も来る日も、しばらくはヨネさんのことばかり考えていた。そんなとき何故か、通夜の席で住職が言った言葉がしきりと蘇ってきた。
 そしてその度に、惨い死に方をしたヨネさんも、優しかった弥七さんも、その弥七さんの庭を鍬で叩き潰した父も、苦労ばかりで一生を終えた母も、そしてイ ンパール作戦の生き残りだった住職自身も、みんな同じ淡い光を浴びているのではないか ― そんな気持ちにさせられたのである。