「e-文藝館=湖(umi)」
きたざわ つねひこ 評論家・エッセイスト・市民活動家 昭和九年(1934)四月
滋賀県彦根市に生まれる。京都市左京区の北沢家で人となり、同志社大学卒業後、ベ平連の活動等に参加、晩年は京洛北の私立光華大学で教壇にも立った。編輯
者の父母をともにする実兄であるが稚い内にそれぞれ別の家庭にひきとられ、逢って言葉を交わしたのは数十年後であったため。略歴もまともに書く知識を持た
ない。この「思想の科学」1974.10月発表の一文は、初めて兄が弟の名を明してふれ、心籠めて贈ってくれた兄弟にとって記念碑的なもの。弟からは、こ
れより先立ち私家版の『畜生塚』など贈り、兄は感慨溢れる感想を書いてきた。その兄恒彦は、病を得て、前世紀の内、平成十一年(1999)十一月に自ら死
んだ。 (秦 恒平)
家の別れ ── 歌集『わが旅・大和路のうた』私
注
北沢 恒彦
一
これを書いている今、盛夏の催しである陶器市が京都の五条通りをにぎわしている。いろいろな地方から持ち寄られたおびただしい陶器の山から、気に入りの
色や手触りを楽しみながら人々は夕べの一刻をのどかに過ごす。
いつだったか誘われて、その流れにそって歩いていたら、陶器にはさまって子供の絵日傘を売っている店があった。ふと心引かれるものがありながら、なんと
なくやり過ごしてしまったことが悔いのように残っている。
玩具店のかど足早やに行き過ぎぬ
愛つくしむもの我れに無ければ
これはぼくの亡くなった母の歌で、晩年に残していった歌集『わが旅・大和路のうた』に収録されているものだ。ちなみにこの歌集はB6判の小さなもので、
奈良市橋本町の駸々堂書店から昭和三五年六月に発行されている。おそらく生前の友人の好意によるもので、発行部数も少なく、現在では絶版になっているもの
と思われる。著者は阿部鏡、日本歌人会所属となっている。
この母と記憶にもない幼少の頃に離されてぼくは育った。陶器市の絵日傘の横に母の歌をおくのは、こうしたこともあって、いわばぼくの供養心といってよい
だろう。歌集には「父恋草」という著者・鏡子ののどかな少女期に触れた章があって、どこかこの絵日傘と似合う趣があるのだ。そして母の現実はといえば、そ
ののどかさとははるか離れた場所で、老残の最後の気力を振りしぼって、自らの命を絶つということに示されるものであったのであるが。
奥山は暮れて子鹿の啼くならむ
大和の国へ雲流れゆく
こうした歌の調子からもうかがえるように、時代の群れとはずれた生涯を歩みながら、母はおおいがたく古風な人であった。この母について書くのは、現代の
気風とあまりに離れすぎていて、どうつらなりをつけたものかと、正直、不安である。ただ、母の残した歌には出発に無理をかかえた女のそれなりの子供の背お
い方とでもいうべきものの証言として読めるものがあるので、現代のさまざまな型の子供の背おい方とのかかわりをかすかに期待して、ぼくなりの私注を試みる
ことにしたい。
ぼくが「初めて」母と会ったのは、育った家の近くにある寺の境内でであった。小学校に入る前のことだから、現在のわが身から引き算して三四、五年も前の
ことになるであろうか。今も時おり里帰りすると、その寺に立ち寄ることがあるが、四季のたたずまいが、その風景に感じとられて、その頃と変わらぬよい感じ
の場所である。その寺に隣家のおばあさんに連れていかれた。たしかその家の孫息子もいっしょだったと思う。「若い」きれいなおばさんがどこからともなく近
づいてきて、顔をのぞきこむようにていねいに何か話しかけてきたのを覚えている。こうして初回の会見は、ずいぶんと印象のよい一抹のうずくような味わいあ
るものであったことをぼくは認める。そしてその後、再び会った日となるともはや定かではない。ただ一度めと二度めには太平洋戦争の数年が介在していること
は確かであり、印象が薄いのは、その間の時間が、母の若やぎや美しさを無残なまでにそぎ落としていたからにちがいない。子供とは現金なものである。戦後か
ら晩年にいたるまで母は何かと口実をもうけては訪ねてきたが、ほとんどその都度、実に巧みに初回のおばあさんにあたる仲介者をみつけてきていることに今思
えば恐れいった感じもする。例のおばあさんにしても、生前、京都人らしくそれほどおせっかいとも見受けなかったが、ぼくの養父母との近所づきあいという点
からみれば、明らかに憎まれ役に当たることをよくも買ってでたものだと不思議な気がする。思うに母は、生得的にか、あるいは苦労して身につけたものかは判
じがたいが、ある種の政治力とでもいえるしたたかさをもっていたもののようである。わが子を攻撃するという戦略のために彼女はその持てる政治的能力をフル
回転していたのだと思える。ぼくの中にはそうした振舞に、あるいやらしさと無気味さを見てとるものがあった。ぼくの思春期はその微妙な体験と重なってい
た。
養父母は母の訪れの度ごとに、あわてたり、胸つかれるような風情をみせたりしながら、嫌な態度は一度たりとも見せたことがなかった。このことは、ぼくが
自分が育った環境によい感じをもつことに力あったと思う。ぼくにある庶民生活への親しみはこの育ての親の態度に培われたものだ。
が、いずれにせよ、この「もらい子」という微妙な位置は、ぼくの「家」や人間を結ぶ糸についての想像力を育てた。大人たちのせめぎあうかっとう(四字
に、傍点)の直中に投げこまれた「捨て子」には事実を確定する手段は限られている。わずかにもたらされる伝聞証拠をつなぎあわせて想像をたくましゅうす
る。これがぼくの幼少から思春期にかけての自己諒解の方法だったといえよう。おそらく母は、歌人としてある哀切なものを歌いながら、ついにこの少年の内面
の危機には眼をやらず去っていったと思う。これはぼくが歌に寄せる一つの批判である。
最近、瀬戸内晴美の自伝小説『いずこより』を読む中で、主人公が捨てた子に会いに行くくだりに行き当たり興味深かった。主人公の働きかけに答えて、幼女
は「ママは死んじゃった」という。主人公はここで子供の姿を切りとり深く記憶の中に沈める。この決断は尋常のものではない。育ちいくものを育たしめよ。そ
れは既に他人である。彼女は成人した娘の写真にそのこととして見入る。
以前、本誌におけるなだいなだとの対談(七一・七「積極的タブーのすすめ」)の中で、この作家は、その周囲に集まる若い女性たちに娘のおもかげを見てい
るのだろうという人のあることに触れて、自分は彼女らをそれ自身好きなのだ、とあっさりそれを拒けている。断念の中に沈められた幼いひとみと成人した娘の
他者としてのまなざしを二つの焦点としてとり込もうとする楕円的精神のありかたをこの作家が示しえているようで、母の場合と思いあわせて興味なきをえな
い。母はついにそうした芸に至りえず、ただひたすら宗教的であったように思える。
「凡そ、地球が無窮に厳しい戒律を守りつづけている間は、人の運命も、此の精巧なダイアルを征服させることはできないのだ……ということを会得したのは、
想えば遠いあの日の事……此の私が愛児への哀別という最大の死線を彷徨して、瓢然、漂泊の旅に出てから、正に二十五年に亘る永旅の行路、今日の嵐、明日の
吹雪を潜ぐり、踏み越えつ漸ようにして、此の日記が終末に向ってから……否、此の頭に真に白い霜を被ぶった今日に成ってからの事である。
蓋しあの、北山の雪、……に血を吐いた人間の母……の私であったが、その二十五年の嵐は吹雪は、幸いにも愚かしき私を如何なきまでに鍛えて呉れた。
天は此の私に、冒険と勇気と夢と、祈祷を教えて呉れたのであった。
想うに顧りみる、二十五年の苦節にさえ、此の私にとって今は、遠い美しい大和路のうたと成って、どんな時にも私の心を潤るをして呉れると同時に、この私
をしてすでに、骨肉の繋りというものを乗り切って、幸わいなる哉、私は凡べて、社会の子のために、ためらうことなく、ひたすら、母像の灯……を点もす事が
できる倖せを見出すことができたのである。
茲に私は、此のおおらかな戒律の前に、静かに頭を垂れつつ最後の言葉とする。昭和三十四年、夏盛」(歌集一五六頁「著者のことば」)
二
阿部鏡子はどうして子供を捨てたのか。このことについてはついに今日までぼくはごく輪郭的なこと以上に知らない。比戟的はっきりとその間の事情を口にし
たのは、ぼくが中学生のとき世話になった医者である。その医者は、ぼくの父の従兄弟に自分はあたること、ぼくが病気にかかるなど非常のときには力になって
くれるよう父から依頼されており、そのことはぼくの「今の両親」も諒解していること等を前置きして、次のように語ったように覚えている。彼の病院での話
だ。
「君も、もうすぐ大人になるのだから、こうしたことも知っておいてよいでしょう。君の両親は、君ともうー人弟さんがいるのだが、二人が生まれてまもなく別
れることになったのです。お互いの将来のためにやむをえぬことだったと思います。君のお父さんは学生のとき、未亡人だったお母さんの家に下宿していて、な
んというのかな、いわばお母さんから誘惑されるようなかっこうで、一緒になってしまったのです。それがどんなにまずいことかは、お母さんにはすでに君のお
父さんの年齢に近い子供までいたことを考えれば君にもわかるでしょう。そのままズルズルいけは大変なことになると思い、わたしのおやじなどが中心になり、
二人を説得し別れるようにしたのです。君のお父さんは人が良くて坊っちゃんだから始めは、なかなか言うことをきかなかったらしいですがね。お母さんはまだ
恨んでいる様子ですが、まあひとことでいって非常識な人ということです」
これをきくぼくには、緊張したものと同時になにか消しがたく冷淡なものがあったと思う。ともあれ、肝臓膿瘍という子供らしくもない病気から、ぼくはこの
医者の手により救われたのだ。それにしても、母にすでにぼくら以外の子供がいたということは、いかにぼくの想像力をもってしても補いえない事実であった。
これではまるではい上がるあてもない泥沼を蓮にでもすがってただよっているが如き世界ではないか。まだ垣間見たこともない向こう側の世界がぽっかりと穴を
あけているような気がした。
後年、人づてに母の葬儀に立ち会ったという牧師のあることをきき、訪ねていったことがある。「変なものでしたよ」というのがこの牧師の第一声であった。
「参列者が、まるで互いに他人のように口をきかないんです。それが全て故人の子供とか親族なんですからね。出棺のときにさすが唯一人だけ、ワッと泣き伏し
た人がいました。娘さんだったのでしょう。葬儀らしいといえば、それだけでした」
いや、それこそ最も故人にふさわしい葬儀だったというべきかも知れない。立ち会った人々は今見送っている人(が)かつて己れの心深く刻みこんでいった傷
に誠実であっただけである。こうして母はその郷里に葬られたのだ。
母の歌集には、なぜか不思議にも、自分が郷里に残してきた子供たちに直接触れる歌が含まれていない。「愛児との哀別」というときにも、少なくとも素直に
読む限り、ぼくと弟のことである。そしていささかこの不気味な空白から立ちのぼってくるのは、おそらく母を形容するに最もふさわしい「狂」のテーマであ
る。
君乞食と称ばれ給いそ
.われ狂女と囃やされて来し道一すじに
わが影
ねえ……
何か一言、言っておくれよ
あんた丈けは何も彼も
識ってくれる筈だわ
ええ……
あんたとわたしの他は
大丈夫
鼠一疋居やしないわ
四時間は正気失なう嬉しいなあ
一滴のモルヒネが私の救世主だ
天井と睨めっこして一時間
カカラカラカラカカラカラカラ
狂人の真似して居ればその内に
本物と成りて救われもせむ
蝮蛇酒(まむしざけ)飲めば忘ると教えられ
唇よせぬ乙女のごとく
いいえ 矢っ張り
此のわたしは
お前達より
遙るかに憂愁である
狂気にはどこか掟を犯すものの孤独の影がある。もし社会的階級を生活文化としてとらえれば、ある基盤を同じくするものの共通の感情ということができよ
う。会釈には会釈を返す自然な交流、食事や行事において示される立居振舞のほとんど意識されることなき総和である。階級の掟に背反しない限り、人々はそこ
にもたらされる調和を呼吸して生きる。狂気はこの総和から断ち切られるものの呼吸困難の意識だ。昨日手近にあったものが、今は無限の距離をもって、しかも
そこにある。自分を作ってきたものから今日の自分はへだてられる。愛するものは背を向け、しかも今日ほどそれをいとおしんだことはない。
「私の十一歳の年になぜか父は、東洋紡績から退陣することとなった。
父のあとを継いだのは後年財界の覇者として識られた当時の青年層、F・A氏(阿部房次郎氏)であった。退陣した父はやがて、韓国へ赴く事となった。晩春
の夕辺、荷物に同乗した私は、住み馴れた煉瓦塀の裏岸から、舟に乗せられ、淀川の流れに逆ろうて桜の宮の方へと上って行った」(歌集一〇八頁「斜陽」)
この生家の経済的没落の過程の末に母は自らのトータルな没落をその「道ならぬ恋」によって決定したといえる。終生母についてまわった狂気の一種は、この
ブルジョア的安定から終局的排除をこうむったものの、対極にむいて新たな調和と立命を得ようとする不安定な試みであった。それは「階級を選び直す」ものの
ほとんど必死の苦闘である。彼女が自ら「漂泊」というものは、奈良と京都の寄るべない子供たちの施設を行ききすることがほぼその全内容である。それがどれ
ほど全身全霊を込めたものであったかについてはいくつかの証言があるし、ぼく自身のある苦い体験からおしてもその気迫を推しはかることができる。
母が京都の平安徳義会という乳児院にいたとき、ぼくはそこを訪れる約束をしてスッポカしたことがあった。もう少し正確にいうと偶然の機会からぼくの家に
下宿していた学生が母と口をきくことになり、妙に熱っぽく母に共感してしまったことにかかわりがある。徳義会を訪ねてみようというのはむしろ彼の意見の方
が強く働いていたと思う。中学生的甘えで、当日になってぼくがグズグズとその約束をやり過ごしてしまったことから事がおこった。
深夜近く、ぼくらはたたき起こされた。例の初回会見を手引きしたおばあさんがあわを食って立っていた。今お母さんが半狂乱で隣家にきているというのだ。
ぼくと学生は改めて事の重大性におののきながら母の前に立たされることになった。母が何をいったのかぼくはほとんどおぼえていない。ただ、形相がすさまじ
かった。特にその指弾の矢面に立ったかっこうでぶっ倒れんばかりになっている学生に、母が投げつけた言葉は耳に残っている。「あなたの学問とは何ですか。
大学生など今日かぎりやめなさい」。ぼくにも最後の方でこういったと思う。「恒彦、今からそんないいかげんな、傲慢な心でどうしますか」。
だが、同時になによりも日を追ってこたえてくるのは、その家の主婦が後日、ふともらした一言である。「すき焼の前で、もうじきですよ、もうじき大好きな
お兄さんが来ますよ、といわれて、子供らは膝をそろえて待ってたというそうやからなあ」。
父母なくて預けられ来し一人寝の
乳児院の児がミルク吸う音
人工の乳房放してようように
眠りつきたり、そっと夜具掛く
寄り添いて保母が唄える子守唄に
昨夜来し児は安く眠ぬめり
雛壇に保母もはしゃぐ養育院
(京都市岡崎、平安徳義会にて)
子らよ、われらを許したまえ、われらその愛すところ、知らざればなり。
母は独学の人であった。時にふれぼくにくれた手紙のここそこには、そのための血のにじむ努力が誇らしく、またこちらの志気を喚起するがごとく、書き込ま
れていた。女一人生きていくことが、いかに狂気をはらむこととはいえ、それは生活上の自立と職業上の修練を免除しない。大阪厚生学院でマッサージと看護上
のいくつかの技術をマスターした母は、そうしたギルド上の人脈に支えられていたふしがある。隣のおばあさんもそうしたネットワークによって獲得されたもの
らしい。また、自らの労働で自らの生活を支えるものの意識によって、母は「社会主義」を支持していたのかも知れない。
そうだ信念ができている
私にはそれがわかる
その朝、私は籬の白い花に頻を寄せて
そんなに私語いて
最う一度、そーっと
懐ころの封筒へ
触れてみて……
白い花盛るあしたペン執れば
ただに祈りて終るこの朝
いよよ背丈延びしわが子に書く文は
うれしも既に同志への文
これは学生運動としてあったぼくの高校生活への一種の支持表明である。昔の女学生はこんなラブレターを書いたのだろうか。
高校入学が決まったある日、ぼくは養父に伴われて、いかにも歌人の住まいらしい奈良の庵に母を訪れたことがある。ことさら訪問の用件についてぼくは知ら
されていなかったが、その時まで母はぼくの親権を放棄していなかったことが後になって思いあわされた。母はぼくの顔をみるなりいそいそと食事の支度にかか
り、養父が遠慮がちに差し出した書類に、既定のことのようにあっさりと印を押した。そういえば、小学校以来、不可解なことが何度かあった。通知票の姓がい
つも見知らぬ姓から訂正されているのだ。一度などは教師が「ああこれか。めんどうやな」といいながら、わざわざ線を引いてゴム印を押してから、空白の部分
に現在の姓のを書き込むのをみて、なんとも不思議なことをするものだと感じたことがある。そうしたことのために養父母が陰で費やした気苦労を思えばなんと
なく気の毒な気がする。そうしたこともこの日をもって打ち止めとなった。この運命への和解を母に促したものが、ぼくが当時、二度か三度、なんの気なしに母
にしたためた手紙であったことが歌集を読んで初めて諒解できた。おそらく母はそれにどうしようもないわが子の成長を読みとったのであろう。育つということ
は恐ろしいことだ。
夢か否夢にはあらず玄関に
投げて置かれし封筒の文字
飛んで来た青い小鳥よ夢ならば
醍むなとねがう現実の身に
稚とけなき此の文字抱いていねし夜よ
乳ぶさに伝うこの体温は
かかるとき独り居なればふみ抱いて
まころび転ろび哭き放つなり
万巻の経文宜べなわぬわれにして
安きを得たり一行の文字
この和解によって母は十数年の苦節に一区切りつけたという思いに一刻、稀有のやわらぎをえていたのだと思う。「わが子の帰還」としてとらえられたこの平
安は、ぼくの側からとらえれば、一つの離陸、青年期への不安の出発だった。朝鮮戦争。その渦中での行動と敗北。内部問争。どうしようもない方向模索。それ
は歌になじむことなきぼく自身の闘いの孤独に他ならぬ。ぼくは母の支配せぬ領域へと一歩進みでていたのである。ともあれ、母に訪れたつかの間の平安に祝福
あれ。
母はぼくらとの離別について、どこか、だまされた、裏切られたという熾烈な感情をもちつづけていたことにはまちがいはない。先の医者の病院に世話になっ
ていた機にも、彼がまことにうんざりした口調でそのことに触れたことがあった。
「あなたのお母さんは、ほんとに異常な人ですよ。昨晩もわたしのところに怒鳴りこんできましてね。お前は恒彦を殺すつもりだろう。もしそんなことをすれ
ば、わたしはお前を殺して死ぬ、というんですよ」
この狂気の沙汰の背後には、医者の父、すなわち父の叔父に当たる人物を中心とした「事件処理」に対する母の抜き難い不信と憎悪のあることはほぼまちがい
がない。事柄の深刻さに応ずるかなり強引で官僚的処置がそこにあったとしても、昭和十年当時の、地方素封家の家庭をとらえた恐慌状態からおして特に変わっ
たことということはできない。恐ろしいことが二人の男女とその子供たちにおこったのだ。歌の文句は曖昧だが「山城のあの道から大和路へのたび」というよう
な表現を母がとるとき、「山城」とは父の郷里をさす。父の家は祖父が視学官であったような教育一家である。
かりそめの台詞なりともよも知らず
膝を正して額づきし夜や
苦しいよ、口惜しいよ
だが、此の道は
偉い……と言われる人間が
一度は越えた道なんだ
恩讐の岡ふみ越えむ瞬間の
われを抱きて泣かむ人あれ
母が医者に怒鳴りこんだという時からしばらくして、父が初めて手紙をくれた。事情の説明としては繰り返しになるが、文体に独自のものがあるので一部を引
用しておこう。
「君がまだほんとに幼かつた頃、君の父母は余儀ない事情のために別離の非運に会いました。父母の余りの状況の相違のために悲痛な結果になりました。君が今
少し年齢を加えたら賢明な恒彦には判つて貰えると信じています。
当時やむをえず人を介して君の御養育をお願ひしたのが北沢の御両親です。その後長年月御世活になつている間に北沢御両親が子供さんがないので是非君を貰
ひたいとの切なる懇望によつて今日まで来た訳です。
父と母との間には君の弟の恒平と二人が生れました。これはお母さんから聞いているでせう。お母さんが父のことをどんな風に君に伝えているか知りません
が、私からお母さんのことは言いません。君を生んだお母さんですから君が自分で判断して下さい。
父の私は常日頃、一度君に会いたいと思ひ乍ら君が北沢の子供として暮している気持を乱したくなかつたのです。父母が余儀ない事情で到底一緒に住めない処
では君が幸福に大きくなれないと考えたからです。
お母さんは一途に女の愛情から君が可哀想だと言ふのです。然しお母さんには君達兄弟以外に四人の子供があります。このことを考えるとお母さんの立場がわ
かると思ひます。私は君を利己的な愛情で接したくありません、君の両親に落度はあつても君に何の罪もありません。父は君が苦痛を乗越えて立派に成人するこ
とのみ願つています。時期が来ればかならず理解できるでしょう。父はその時を期待しています。
やわらかな優しい言葉をかけることだけが愛情ではありません。君の父母は世間の常道に叛いた結果、今日まで共に苦労して来ました。君も父母の余儀ない事
情から淋しい思ひをしたと恩ひます。時にはつらいこともあつたでせう。父はこの点、君に済まなく思つています」
母の葬儀に立ち会った牧師が先の話に嘆声をあげながらもうーつの話を加えたことを書かねはなるまい。
「それからしばらくしてある家の内輪の出版記念会に呼ばれて話してくれと言われて話したんです。ところが、その中にほんとに変な人がいるんですね。なんと
いうかものすごく熱心で、ほんとうに悔い改めたという格好の紳士なんです。それが、なんとあなたのお父さんだったんですよ」
神のおぼし召しとは言いたくないが、事実は創作より奇なりとは言える。
三
これも陶器市の季節のことだったと思う。「雪女」という映画をウィルヘルム・ライヒ『性と文化の革命』の訳者である中尾ハジメと一緒に彼の住まいのテレ
ビで観ていたことがある。中尾ハジメたちの出したパンフレット『空想から科学へ(─だから身体からだ─)』は一種の醒めた性解放のバイブルとして苦い世代
の陰然たるベストセラ─となったが、このパンフレヅトの終章は避妊法の水増しのない解説に当てられている。カラダへの偽善的で曖昧な態度がこの世界の抑圧
の根元にあるというのが、中尾の立場だ。
ところで、雪女だが、木彫り職人とふとしたことで恋に落ち、子供までもうけて、男がある一つの約束を守るという條件で平和に暮らす。その内、これまたふ
とした動機で男が約束を破る。たちまち雪女は自らの本性に立ちもどり、男を凍らそうとする時やよし、子供の泣き声がきこえ、雪女は哀切な余韻を残して自ら
を溶かしていく。とまあ、伝統的というか、単純からたわいない怪談ばなしというべきかも知れないが、二人の男は一瞬声を飲むようにして雪女の最後に観入っ
ていたのである。「雪女は避妊すべきではなかったのかな」とぼくがいえば、「男が芸術家だったことにも原因があるな」と、中尾は深遠なようで、めずらしく
意味不明瞭なことを妙に優しい目付でつぶやくという有様である。この頃、ぼくらはなにかうまくいかないという思いに取りつかれていた。いずれにせよ、二人
はシンミリし、このことを今までの手持の材料で処理しかねていた。
不用意に子供を生むべきではない、ということはできる。それは様々な改良のプログラムによって接木できないぼく自身の実感だ。だが、同時に、生まれるこ
とはなべて不用意ではないのか、という否みがたい思いもまたある。人類は、全ての生物は用意されて生まれてきたのか。ぼくらはこの間の事情に決着をつけぬ
ままに生きる。いや決着をつけぬままに生きる思想を選ぶ。ぼくの社会主義も革命もこの決着のつかぬものの悲哀を排除しない。ぼくらはいかなるプログラム、
いかなる歓喜の中にあっても無限に悲しい。
不用意であれ、なんであれ、生まれてくる子供はこの宇宙の悲哀を苦にする一員だ。ここにある精根こめて立ち上がろうとする断乎たる試み、成功したときの
あの無償の笑い顔。これらを前にして、ぼくらは「お前は何の根拠をもって生まれてきたのか」と問う声を奪われる。あるいはせいぜい、その問を一滴の涙にま
ぶして徒労の子守り歌とすることはあるにせよだ。遊びをせむとや生まれけむ、戯れせむとや生まれけむ、遊ぶ子供の声きけば、我身さえこそ動(ゆるが)る
れ。
この四月二五日の午後、京郁の鞍馬口病院の屋上から小学生の少年が飛び降りて死んだ。その手には「このまま病院へはこばないで、地図の家へはこんで下さ
い。ぜったいに、母は家で死んでいます」と書かれた紙片がにぎられており、克明な地図まで書き添えられていた。少年の家庭はいわゆる母子家庭で、むつまじ
い日常だったという。また家には「こういうことになったのは、みながぼくらに親切にしてくれへんかったからや」と書かれた遺書があったともきく。
母と子がむつまじく生き、子は母の死に世間に対して強烈な抗議を放って殉じるというこの姿は、「お前たちと共にある」というぼくの母終生の幻が、もし幻
でなく、しかも人間の品位な保ちつつむくいられるとしたら、この現実にとりうる一つの直截な、有無を言わさぬ帰結を示している。現実は持ちこされている。
この眼をくり抜かぬ限りこの現実を回避することはできない。
昭和三六年の春先のことだったと思う。「さようなら──鏡子」と表書きのある母の辞世が見知らぬ人の手で届けられた。死因が自殺であることをぼくはすで
に知っていた。
月見草髪にかざして十四の
乙女の如く散りたくあるかな
此の夕べしづかにきかむ城山の
堀啼きわたる 五位さぎの声
盲孤児の手とり霜踏み京大眼科の
門くぐりしも幻ろしなりしや
此の角膜の再び生きむ願いもて
今日も祈りぬ日課の如とく
悩みある人に献げむ遂いに及ばず
病苦がゆえに散るはかなしき
穢れ多き褥に悶え伏せむよりも
あま照る星に抱かれ度きかな
十字架に流したまいし血しぶきの
一滴を浴びて生きたかりしに
ぼくとは全く無関係に、また別のところで育った弟、秦恒平は最近一人の作家として少年期に「フクザツ」な思いで避け通したこの「女の人」への思いと、そ
の作品『廬山』の「父が輝く大きな鶴になり母がその背に乗って劉という少年のまわりを、虚空に波打つように幾度も幾度も舞い翔る場面」とがかかわるいくつ
か反転していく動機に触れている(【波】一九七四・六、新潮社)。
母の悲願はこの作家の手で一つの芸術的結実をみたというべきかも知れない。
母の歌碑は郷里の線路わきに樹つときくが、ぼくはまだ行ったことがない。