作品は、改題されて慎重に推敲の手が入った。さらに工夫・改善の余地があるかも知れないが、読者の批評を問うていい段階には達
している。作のつくりに沿った適切なないし厳しい批評を得たい。 05.10.6掲載

あさき夢みし 那珂 甲子雄
一
あれは片思いだったのだろうか。
いや遊ばれたというべきか。と、来島隆治はふり返る。
同期だった医師の娘、芝原紗慧と際どいところまでいったが、すっと肩をすかされた。大学を出ると紗慧は、富豪の御曹司と早々に結婚してしまった。
「ありゃぁね、援交保険終身契約だよ」
前山はそう言い切った。ひどい言い方だ、と思ったが、半年後に紗慧の父は総合病院を退職し、自ら芝原医院を開業した。
「な!」と前山は言った。
苛立った隆治は街の女を拾った。
女は裏道りの連れ込み宿へ案内し、ここがわたし専用の部屋、と言った。薄暗く油染みした六畳だった。得体の知れぬ男どもが堪えられぬ欲望を排出した場
所。淫靡な匂いがこもつてる。そう思うと索漠とした感じしか残らなかった。
こんなものか…。
『汚れっちまった』。そんなこと言うと「中也」が怒るだろうか。
期待したこと自体が間違いだったのだ。と、隆治は合体そのものに幻滅した。
二十七才になったとき、工場の管理課長が急死し、その穴を埋めるため隆治が出向という形式で赴任することになった。が、寮に空きがなく、近くの町のアパー
トを借りて住むことになった。木造二階建て、階段口に錆びた郵便受けが並んでいたが、部屋番号だけでどれにも名前は出てなかった。
はじめて町へ案内されたとき、これが町か!、と隆治は眼をこすった。
どこまでも平らな畑地の中。県道と丁字形に交わる町道に沿って、自然発生した集落のようだった。
まばらに建つ家々は、黒塗りのトタン庇を長く突き出し、木目の浮き出た戸袋を左右に構え、近づいて眼を凝らさなければ何を商っているのか判らないほど店
内は暗かった。柱なども年代があらわれ黒味がかっている。二階の窓は大きく、どの窓も曇り硝子の格子戸になっていて、そこだけ眺めると室内の明るさを思わ
せるが、黄土色の壁や使われている板や柱の古さはどれも同じだった。
わずかに郵便局と農協の建物だけが白いペンキ塗りで、あとは軒並みすべてが半病人になって蹲くまり、江戸時代の部落がそのまま固定し、晴れ渡った書き割
りの中に貼り付いているようだった。
畑地にはビニールハウスが点在し、遠景は里山が視界を遮っていて、あとはどこまでも広い空ばかりだった。
「ま、静かといえば静かですな。もともとはあの…」と、アパートの賃貸交渉に当たった総務課長は、町道の突き当たりにある里山のいちだん高い樹を指さ
し、「浅間神社の門前町だったのですが、県道が舗装されてバスが開通すると、便利になった代わりにK市の大型店舗に客を吸い取られちまって、店は商いにな
らんようですわ」と言った。
「あの林の向こうはどうなってるんですか」
「同じです。畑・畑、ところどころに農家の屋敷林、防風林とも言いますがね、それが点々と見えるだけです。なにしろ関東平野のまっただ中ですから」
町から一キロ隔たって工場があった。広い畑地の中に四段積みのブロックと一メートルほどの金網フェンスを巡らせ、鉄骨スレート葺きの平屋工場と鍛造工
場・ボイラーの煙突、それに二階建ての社員寮、があるだけの変哲もない建物だった。が、町の佇まいに比べるとはるかに近代的に見えた。
通勤の工員はバスを使ったりバイクでやって来るのだが、町の商店で買い物する者はいなかった。みんな十キロほど隔たった私鉄駅のあるK市まで出かけ、
買ったり、食ったり、遊んだりしているようだった。
隆治は、食事と風呂は工場で済ませたが、夜は時間を持て余した。
隣のアパートが手の届きそうな位置に建っていて、窓はいつもカーテンを引いたままにしていた。テレビはあったが木造では周りの声や音の方がうるさく、隆
治の聴きたい静かな番組は味消しだった。
陸の孤島だ、島流しだな、と隆治は思った。
家主は酒屋だった。そこでウイスキーを買って飲むようになった。元々アルコールは強い方ではなく、小さなグラス一杯ですぐに酔い、睡眠薬替わりのような
ものだった。
十日ほどたった頃、隣の部屋に住む女が肉と野菜の炒めものを皿に盛って来た。ウイスキーを買うところを見ていたと言う。
美人とはいえないが、鼻筋の通った締まりのある顔立ちだった。三十才ぐらいかな、と隆治は思った。女は独り暮らしだった。
二・三日おきに総菜を持ってきたのが毎晩になり、「課長さんなんですってね」と戸口で眼を瞠った。差し出した二の腕の白さが、豊満な躰を想像させた。
「ええ、まあ」戸惑った声で隆治は答えた。工場での課長というのは本社の格付けでは係長にすぎない。
一ヶ月後に本社生産部の秦野部長が視察に来た。
「来嶋君はアメリカのIT、…、何と言ったかな」
「ITPCです」
「そう、まあ日本語で言うと工業大学だな、そこへ留学したんだ」と紹介したため、後々まで訊かれる度に、「いや、六ヶ月の短期講習に参加しただけです
よ」と訂正とも弁解ともつかないことを言わなければならなかった。
部長は工場内を一巡した後、隆治の机にやってきた。隆治は次期投入製品の工程分析表を作り、それに基づく個々の作業要領を作っていた。いままで工場では
採用したことのないものだった。
「ほう、やってるな」秦野部長は分厚い唇でにやにや笑いながら言い「来嶋君はどこに泊まってるんだ」と振り向いて言った。
「は、寮に空きがないもんですから、町のアパートを借りてます」と工場長の生田が緊張した声で答えた。
「ふぅん、アパートか。行ってみよう」
「いま、時間中ですが」
「構わん、構わん」言って部長はさっさと外に出ると、K市から雇ってきた黒塗りのハイヤーに乗り込んだ。
二週間後に、ゲストハウスの一角を改装して隆治の住居ができた。1LDKでボイラー室から配管してあるため、常時、風呂もシャワーも使え、トイレも水洗
だった。 ベッドもソファーも机も冷蔵庫も、洗濯機まで新調されていた。
だが夜はやはり退屈だった。静寂は戻ったが、テレビを観ても落ち着かなかった。CDでワグナーを聴いても、その壮大さは逆に孤独感を助長させるばかり
だった。
所詮人間は、類を求める動物なのだ。
二
「あら!」
酒屋でウイスキーを買って出たところで、アパートの隣にいた女と鉢合わせした。女は派手な花柄のワンピースに淡いグレーのカーデイガンを着ていた。胸が
ふくよかだった。
「あ、その節はいろいろと…」
「やだわ、そんな…」と女は言い「ちょっと話さない…あそこがいいわ」とT字路の角の[うどん]と書かれた提灯の店を指さした。唯一の外食店で、曇りガ
ラスの引き戸をガタリガタリと、数回力を入れて引かなければならなかった。
入ると壁一面に天丼・玉子丼・素うどん・野菜炒め・いか煮付け、などの貼り紙があり、緑と白のビニールを掛けたテーブルに、長い木製ベンチが組み合わせ
てあった。テーブルは三組あって、客は誰もいなかった。
「ビール頂戴」と女は調理場に声をかけた。
日焼けした六十がらみの男が、塗りの剥げた盆にビールとコップ二つ載せてのっそりと出てきた。
女が隆治のコップにビールを注ぐと、自分のコップを素早く満たした。隆治が手を出すひまもなかった。
コップを眼の高さに上げて乾杯の形を示すと、隆治が泡の下を舐めるようにしている間に女は一気に呑んでしまった。
「いかの煮付けを貰いましょうか」
隆治は女のコップに注ぎながら言うと、女は「しっ」と唇に指をあてる。
「イカ、っていっても、するめを水に戻して煮たの。臭くってだめ」と声を殺して言い「そういうもの食べたかったら買ってきてあげる。わたし、K市の駅前
の百貨店に勤めてるのよ。百貨店ていってもスーパーみたいなもんだけど」
そうか、道理でこの町の住人にしては少し垢抜けている。
隆治はあらためて女を見た。化粧を施しているせいかアパートの廊下で見たときとは違った印象がある。
「ねえ、部屋へ行かない。飲み直しましょうよ」
女はまたビールを一気に煽った。瓶にはまだ四分の一ほど残っている。隆治はそれを女のコップになみなみと注いだ。女は瓶を取り上げ、残りを隆治のコップ
に注ごうとして「あら、ちっとも呑んでないじゃない、来嶋さん」と言う。
「ぼくの名前、知ってるの?」
「そりゃ知ってるわよ。来嶋隆治さん。そうでしょ…」
「ほう、ぼくは、あなたの名前、まだ知らない」
「ナミコ」
「浪子…、不如帰の?…」
何のことだ、という顔でナミコは隆治を見つめる。
「千年も万年も…、の浪子さん」
反応がない。識らないんだな、と隆治は思った。余計なことを言ってしまった、と後悔する。
「あの、どういう字、書くんですか」
「奈良の奈、美人の美、子供の子」女は指にビールをつけて、市松模様の緑のところに書いてみせた。
「ああ、奈美子さんね。いい名前ですね」
「そうかしら」と投げやりな口調で言って、
「さ、飲み直し、飲み直し」コップをそのまま置くと、財布から数枚の硬貨を出し「ここに置くわよ」と立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
階段下までくると奈美子は一人で昇り、一旦部屋に入った。階段を照らす蛍光灯が、寿命間近の明滅を繰り返している。
赤いトレーナー姿で出てきた奈美子が、上から手招きした。上がってすぐの扉が奈美子の部屋である。隆治は一ヶ月前まで一つ隣に住んでいたのだ。
「まだ塞がってないの?」
隆治は沓脱ぎで隣を指さしながら言った。
「まだよ、当分空いたままでしょう。この前だって来嶋さんが来るまで、半年も空いたままだったんだから」
隆治が靴を脱いで上がると、奈美子は手を伸ばしてシリンダー錠をカチリと回し、 「こうしないとね、ひとりでに開いちゃうのよ」
奈美子は言い訳のように言った。
暗いままだった。レースのカーテンを透して向かいのアパートの灯りが射し込み、畳が油色に光っている。
ふと、昔買った女を思った。あの惨めだった初体験。
「灯り、点けませんか」
「だめ」と奈美子は言った。
「向こうから見えちゃう」
見えたって構わないだろうにな、と隆治は思った。
奈美子が、冷蔵庫から缶ビール二本とソーセージを皿に載せて出し、畳の上にじかに置いて「どうぞ、こんなものしかないけど」と隆治に並んで横坐りし、缶
の口をピチッと開けるとごくりごくりと喉を動かして呑んだ。
暗闇の酒宴だった。外からのわずかな光の中で奈美子の喉が白く動き、踊り回る肉のうごめきが何かに挑んでいるように艶めかしい。
椎名麟三に『深夜の酒宴』てのがあったな。関係ないけど…。
隆治は躰全体が熱くなり、性的な興奮が突き上がってくるのを感じる。
やばいな、と思った。
「奈美子さんは、独身主義なんですか」
判っていることを、耐えられなくなって言った。
「結婚?」奈美子は口から缶を放し、
「したわよ。でも子供ができなくて離縁になっちゃった。田舎ってね、そういうとこなの」言って顔を向け「なんだぁ、まだ開けてないの」と隆治の前の缶に
手を伸ばしてきた。隆治はその白い二の腕をそっと掴んだ。腕は冷んやりしていたが、ほどよい弾力があった。
ほんの何分の一秒か、奈美子の動きが止まった。隆治は手に力を加え引き寄せた。奈美子は腕を伸ばしたまま、隆治の組んだ脚へ倒れ込んできた。
ビールの缶が暗い六畳の隅へ転がっていった。
・・・
通り抜けるとき、「あ!」と、奈美子は圧し殺した声を挙げた。隆治の内部を、声のない喚声が身震いとともにざわざわと走り抜けた。
三
新しい製品が投入された。
隆治は用意してあった作業要領をプリントアウトし、プラスチックのケースに入れて各工程へ配った。
案の定、反発の声が挙がった。
「俺たちを、信用できねえってのか」
工場長はおろおろして、見守る姿勢だった。
「必要のない人は、戻してくれて結構です。君、要らないという人の分、回収して、まとめてくれないか」
隆治は傍らにいた若い工員に言った。
突き返してきたのは年配の工員、熟練工と称される職人気質の工員ばかりだった。全体の十%位いに当たる。
「君はどう思う」
隆治は作業要領をまとめて持ってきた若い工員に訊いた。
「ぼくは、いい、と思います。いままで解らないところはいちいち先輩に訊いてたんですけど、そのたびに面倒くさそうな顔されたり、怒鳴られたりしてたん
です。でもこれなら解り易くて…、みんなそう言ってます」
「君は、名前は」
「あ、檜山です。檜山康彦」
「檜山君か。幾つ」
「二十一です。三年になります」
「そう、よろしく頼むよ」
「はい、お願いします」
夜になると、隆治は奈美子のもとへ行った。奈美子の豊かな肉の狭間に滑り込むと、隆治は一気に昇り詰め、放出してしまう。ほの暗い六畳の薄い布団の上で
は、いやでも、初めてのときの惨憺とした経験を思わずにはいられない。だがいまは、それとは違う安らぎを思う。
帰り際には決まって「今度、いつ?」と奈美子は訊く。
隆治は少し考えて「うーん、明後日」と答える。
別に根拠があるわけではなかった。ただ「明日」と答えるのが何故か気恥ずかしく、躊躇われるのだった。
季節が移っていった。交わっていると、汗が滲み、熱気で息苦しくもなる。
風でカーテンがめくれるから、と奈美子は窓を開けない。暗く暑く、密着した肌と肌がぬるぬると滑る。
「汗が吹き出るのって、気分いい。風で冷やされたら、せっかく燃え上がったのが台無しだわ」
終わってタオルを使いながら奈美子は言う。
帰りの暗い道は、奈美子の言葉とは別の意味で、里山から畑地を渡ってくる風が爽やかで心地よかった。
四
工場の隅で、年配の工員が五人ほど集まって、図面を前に首を傾げたり指でなぞったり、何か言い合っていた。
隆治はちらっと一瞥したが、無視してパーツ部品の精度検査を見守っていた。
しばらくすると年配の二人が図面をひらひら掲げながらやってきて、
「ここはどうなってるんだい。どうも、この見取り図は解りにくいや。描き方がいい加減なんだよ。設計図と違うんじゃねえかな」と言う。
隆治は一目見て「こうして見たらどうですか」と見取り図を四十五度回転してみせた。
「え、なに…、あ、そうか。そんなら最初からその角度で描いとけばいいんだよな。だいたい本社の奴ら、学校は出てるかしらねえけど、現場のこたあ考えて
ねえんだから…」
たしかにそういう面はある。と隆治も考えていることだった。がしかし、いまそれを言うべきではない。
「そういうふうに描くとですね、ほかの工程の部分が見難くなるでしょう。だから見取り図の場合は全部の工程に分かり易く、ってわけにいかない面もあるん
ですよ」
「まあ、そう言やそうだが…」
工員はぶつぶつ言いながら戻って行った。
「檜山君、ちょっと来てくれないか」
隆治はいま視ていた検査済みのスライド部品を一個持って事務室へ戻った。
応接セットに二人の客がいる。工場長の生田が身振りを交えて話し込んでいた。労基署の役人らしい。
隆治は黙礼だけして、机の上にスライド部品の研磨面を上向きに置く。
「これはね、この面の研磨が重要なんだ。ここが全体の命とも言える。うちは精密機器を作ってる訳じゃないからそんなにうるさくは言わないが、でもプラマ
イ百分の一には抑えないとね。それと、この面に指を触れるとそこから指紋の形の錆が出やすい。そのためのパラフィン紙貼り付けだ。検査の人によく言ってく
れないか」
解りました。と檜山は部品を持って戻って行った。労基署の役人らしい人もいなくなっている。
「来嶋さん。困っちゃいましたよ。食堂の隅に出荷用の一部が積んであるでしょう。あれが基準法に触れるからすぐ撤去しろというんですよ。製品庫が満杯
で、トラックの積載量に達するまでの一時しのぎだからって言ったんですがね。駄目だ。即時撤去だ。の一点張りで…。なにね、奴らの魂胆は解ってるんです」
と、生田が指で輪を作ってみせる。
「ゲストハウスに置いたらどうですか。普段は使ってないんですから…」
「え!、とんでもない。あそこには部長や、時には社長もやってきて泊まるんですよ」
事務の女子二人も隆治の顔を振り返って見る。総務課長の席は離れているので、そこまで聞こえたかどうか。
「大丈夫ですよ。その点はぼくから話しますし。責任もとります。一時しのぎって言ったでしょう、いま…」
「え、いや…、ちょ、ちょっと。こっちへ…」
事務所の建物を出て、道一つ隔てた食堂へ工場長は先になって入った。百五十人を賄っている場所である。隆治もそこで三食摂っていた。突き出し口を挟んだ向
こうが調理場になっている。
昼食の片付けが終わり、夕食の準備までの短い休憩なのだろう、賄いのおばさん達は誰もいなく、がらんとした大部屋は事務所より涼しいくらいだった。夜は
娯楽室に変わるので、反対側に自動販売機と本棚とカラオケのセットなどが並び、上の棚にはテレビが載っている。
「これなんですがね」と、生田工場長は本棚に並んだ窓側の隅にあるものを手で叩いた。
「実は…、検出品なんですよ」言いにくそうに言う。
ビニールシートに覆われた高さ二b、公衆電話ボックスほどのものだ。隆治も叩いてみると、段ボール箱を積み上げたものである。
四ヶ月間見続けてきた筈だったが、気がつかなかった。寮の住人からも賄いの人達からも、苦情らしい声を聞いたことはない。
それより隆治は[検出品]という言葉にぎくりとした。
「製品は、いつのものですか」
「この前の、PN一三八七」
「どのくらいあるんですか」
「三百、はあるでしょうかね」
「三百?」と隆治は鸚鵡返しに言った。
「ぼくが本社で聞いた範囲では、歩止まり0.01%ということでしたが」
生田工場長は、目を伏せてしまった。
そういう詮索は後にして、未報告の検出品ではゲストハウスや製品庫に置くわけにはいかないだろう。
隆治は思案した。
「総務課長はこのことを知ってるんですか」
「ええ、此処に置いたのも金森総務の発案です」
「じゃ、総務課長にも相談しましょう」
隆治が前に住んでいたアパートの階段の下。つまり奈美子の部屋の斜め下を、家主と交渉して借りようということになった。家主は承諾したが、店子から異論
が出た。そこは店子の自転車置き場になっていたのだ。
「だいいち、あすこに置いとくと錆が出て値切られるなぁ」と金森総務が呟いた。
当然だが風雨に晒されることになる。ビニールシートぐらいでは、錆は防ぎ切れまい。
「値切られる?」隆治は聞き咎めた。
「回収屋にですよ」
「回収屋って…、廃品のですか」
「屑鉄ですよ。切削屑なんかと一緒に引き取って貰うんです」と生田工場長が口を挟んだ。
「馬鹿にならない金額でねえ、娯楽費に回してるんです。本だの卓球の球やバスケの球だの」
そんなものに幾らかかるのだろう。隆治は本棚を見たことがある。マンガ本や週刊誌ばかりで、アガサクリステイの文庫版セットが本といえば唯一、本らし
い。
「資材庫に入れましょう。梱包剥がして、切削して使えるものと使えないものに選別する。使えないものだけ回収屋に出せばいいでしょう」
隆治は半ば命令するような口調で言った。
生田工場長とも金森総務とも、歳の差は親子ほどの違いがあるだろう。だから初めは配慮した口の利き方をしていたが、事態がここまできては遠慮などしてい
られない。と、隆治は考えた。
「いや、こうなったのもみんな、いままでの管理方法が甘かったせいで…」
生田の言葉を隆治は無視した。死者に鞭打つ。そう思った。
奈美子は声のない悲鳴を、身体の動きで示す「だめ、だめ」、と。
が、女とはそうしたものなんだろう、と隆治は無視する。
「ねえ、ゆっくりやって」
合体してしまうと奈美子は耳元に囁く。
「え、うん」
ゆっくりとはどういう意味だろう。隆治は腰の動きを遅くした。
「そうじゃなくて」と奈美子は苛立って、
「いつも隆治さんばかり**ちゃって、あたしは置いてきぼりなんだもん」
語尾に甘えるような響きを残して訴える。
女と男の性感の違い、ということを隆治はよく知らなかった。互いに性器を弄び、欲情が頂点まで高まると、結合して終わる。それだけだった。
隆治は改めて両手を奈美子の尻に回し、大きな塊りを抱え込むようにして角度を変え、結合部を動かす。
上半身を離して見ると、眼が慣れるにしたがい、奈美子の表情が薄明りの中に浮かぶ。目を閉じ、下唇がわずかに弛緩しているようだ。
抽送のリズムに合わせて「んーっ、んーっ」とかすかな呻きを漏らしている。
隆治はいま、醒めていた。ただただ、放出だけが目的のような焦燥から、車窓の景色を楽しむ緩行列車に乗り換えたときのように、奈美子の呻きに合わせた抽
送が心地よかった。
「あ、あー」と奈美子は口を開けて声を出し始める。
抽送を早めると「だめっ、声、出したら駄目よ」
言いながら自分で声を出している。
だがまた、どうしても我慢しきれず、隆治の方が先に果ててしまう。果てても直ぐには起き上がらない。奈美子の様子を上から視る。目を閉じて息を漏らして
いる。その表情に不思議な感慨を覚える。全くの無防備というのか、この瞬間だけの信頼というのか。
雄と雌の交わりとは信頼なのか。
隆治は深く挿入したまま、胸から下腹部を密着させている。薄闇の中に時間が流れる。移り行く時間をじっと噛み締めている。
「あ、これ買って来たわ」
服装を整え終わると、奈美子はスーパーの紙袋をがさがさいわせて、パック詰めの総菜やハム・チーズといったものを出す。隆治は慌てて一万円札を出す。
「これで足りるかな。この間もいろいろ買ってもらってるし」
「お金貰うなんて、思ってないわ」
「だって、ただってわけじゃ…」
「やめてよ」
半ば怒気を含んで、奈美子は頑強に言う。娼婦じゃないんだから、と言っているように聞こえる。
「わかった。じゃ貰ってくよ。ご馳走さま」
「ふふ、フフ……」奈美子が含み笑いを漏らす。
「何んだい」隆治はきょとんとする。
「だってぇ、ご馳走さま、ってぇ…」
「……?。ん、え!、あ、そうか」
笑いたくても声は出せない。胸を押さえ、腹をよじり、苦しみながら笑う。
五
「あのー」年かさの工員が二人、おずおずと隆治の机の前に立った。本体切削初期工程の受け持ちだった。
隆治が顔を上げると「どうしても、部品と合わない箇所があるんですがね」と言う。
「どの部分ですか」
ひとりが折り畳んだ図面を拡げ「ここ」と黒い爪で指さす。畳んだ箇所が皺になり、油が滲んで汚れている。
「行ってみましょう」
隆治はコンピューターの電源を切り、先にたって現場へ向かった。
回転止めのストップピンを穿つ穴の位置を左右間違えた、という。後から正常な位置へ開け直したが、回すとクリックストップ用四ミリ径の鋼球が間違えた方
の穴へ落ちてしまう。
「何個あるの」
「九個」とアセンブラ工程の男が言う。
「中間検査は通ってるんだね」
そばに立っていた若い工員が、赤い顔で俯いた。
「君には、検査要領を渡してある筈だが、それ持って事務所へ来なさい」
なぜか、若い検査員に檜山康彦が付き添ってきた。
「課長」声を掛けたのは檜山の方である。
「西尾君は、一台目のときからちゃんと検出してるんです。でも、指摘すると先輩たちは、俺の仕事にケチつけるのかって、それで…」
「起ち上げのときはいつもそうなんですよ」と、生田工場長が離れた席から口を挟んできた。
「新製品の場合、仕方ない面もあるんです」
「仕方ない、という考えはないでしょう。十万・二十万というロットならいざ知らず、小さいロットの初期工程のロスは、命取りですよ」
「間違った穴を充填したらどうでしょう」と、今度は金森総務課長。
「そんなもの、消費者の手に渡せますか。だいいち、本社の受け入れ検査が受付けませんよ」
「ですから…」
総務課長は椅子から起って、歩み寄ってきた。
「回収屋に回せばいいんです。図面のコピーも一緒に渡せばその辺もうまくやって、何%OFFかで他社に捌いてくれる…」
「なんだと!」
隆治は憤然と起ち上がった。
いままでも不思議だと思っていたのだ。企画会議で検討を重ね、設計と試作を何度もやり直し、それこそ『丸秘』扱いで開発した新製品なんだ。それが、発売
直後に寸分違わぬ類似品が安い価格で出回る。何のことはない、こんな田舎の工場から難なく漏れていたのだ。
「PN一三八七の三百も、そんな目算でいたんですか。それで足りなくなった原材料はどうやって手当したんです。工場が常時赤字なのも、そこに原因がある
んじゃないのですか。歩止まりが本当に0.01%なら、赤字になんかならない筈なんだ。そのへんに何か、カラクリでもあるんですか。回収屋へ流した検出品
と図面は幾らになってるんです。伝票と帳簿、見せて貰いましょうか」
二人とも凍り付いたように押し黙った。おそらく、そんなものはあるまい。残しとく筈がない。
「いいですかねえ」先ほどの本体切削の男が、遠慮がちに言う。いつ来たのか、隆治は気付かなかった。いまの激論を聞いていたかもしれない。
「はい」
隆治は気を取り直し、椅子に腰を落とした。
「作業、なんとか言いましたっけ」
男は手で大きさを示す。
「作業要領ですか」
「そうそう、それです。それ、見せて貰えないでしょうか」
「ああ、いいですよ」
隆治は脇机の抽出から男の工程の分を出して渡した。
「あのー、ほかの連中のも見せて欲しいんです。俺からみんなに渡しときますから」
新しい管理体制を説明しておいたほうがいい、と生田工場長が発案したので、隆治は即座に賛成した。
本当はいまの新企画製品が投入される前にすべきで、多少とも不良品を出してしまったあとでは遅きに失したといえなくはない。だが今後のことを考えればそ
の必要は充分にある。
集合場所としては食堂しかないが、全員を収容することはできない。ラインチーフ・古参の熟練工・材料庫・製品庫・特殊工程・中間検査・最終検査などの主
だった工員に集まってもらうことにした。
食堂は寮生の三食は勿論、希望して申し込んだ者の昼食を賄う場所であるから、その邪魔にならない時間帯を設定しなければならない。
準備は金森総務の仕事となり、結果、午後二時から三時の間なら都合いいということになった。
突き出し口を背にテーブルを置き、集まった人たちに対面するかたちで生田工場長は話し始めた。が、「詳しいことは来嶋管理課長から説明があるから」と三
分も話さずテーブルを離れ、椅子に坐ってしまった。
生田工場長が主になって話し、補足説明として隆治が付け加える。という事前の打ち合わせだったので、隆治は少し慌てた。しかしもう仕方ない。
「大量生産、つまりロット数が十万とか二十万といった時代はもう終わりです。これからは多品種少量生産の時代であり、アイデアと高品質で勝負しなければ
なりません。そのために工程編成が一ヶ月とか二ヶ月という単位でくるくる変わってしまうことになります。これに対処するためには投入前の準備・段取りとい
うものが重要になります。それがこの工程分析であり作業要領という形で、今回初めて使ってみたわけです。まだ他にもしなければならないことは沢山あります
が、みなさんが今回これを実際に使ってみて、不備な点があれば躊躇なく改良してゆくつもりです。だから、これはと思ったことはどんどん、わたしのところへ
言ってきて下さい。前向きな意見は速やかに採り上げてゆきます」。大筋でそんなことを話した。
六
一度快感を味わってしまえば、斜面を転げ落ちるように、見えていなかった幕が急速に取り払われる。
「わたしはあなたのこと、好きよ。けど、このままつづけていってどうなるのかしらって思うの。こんな関係、あなたのためによくないわ。あなたは行き先が
拓けている人。これからどんどん進んでいく人。わたしはその足かせになるばかりだわ」
隆治は聞いていなかった。奈美子の白い二の腕に掌をあてがう。
奈美子は「うーっ」と半ば泣くように呻き、崩おれてくる。
抽送の間にも隆治は考える。
多分、この味わいの空間と時間を共有していることを「愛」というのではないか。バカな、「愛」なんてそんなものじゃない。いまは互いが互いの性器の違い
を求め、その違いを利用して自慰行為をし合っているに過ぎないのではないか。そんなものが愛だなんて言えるか。
奈美子が昇りつめるまで、隆治は考えに浸ったりして抽送を保ち続ける。
現に、いまそうだ。俺はまるで無限に続くかのように抽送を繰り返している。性器の違いだけが互いを必要とし、交わっている。それだけだ。
奈美子は眼を軽く閉じ唇を弛緩させ、抽送のたびに顎をがくがくと揺らせる。鼻から「んーン、んーン」と息を漏らしている。
ときどき半眼を開いて「リュージさん」という形に唇を動かす。全くの無防備だ。無防備とは信頼を意味するか。信頼が「愛」か、いやそれもちょっと…。
隆治は考え続ける。考えを停止すると忽ち昇りつめ、果ててしまうからだ。 奈美子が充溢を訴えるまで、考え続けなければならない。
奈美子の眉間に皺が現れてきた。唇を半分開いて「あーぁ、あー」と声を出しはじめる。充溢が近づいたのだ。隆治は抽送を早める。奈美子も腰を突き上げ
「声出しちゃだめよ」言いながら髪を振り乱す。
互いの性器を力のかぎり押しつけ合い、男は射出を、女は吸引をしあって絶頂をむさぼる。どっと胸を合わせ、かき抱き、嵐のように過ぎ去った一瞬の快楽の
余韻を、互いの鼓動のうちに聴いている。
汗でいっぱいだ。密着した胸の間も絡み合った太腿もぬらぬらと濡れている。互いの汗が混じり合って、粘り気さえ感じられる。
それでもまだ離れない。むしろ快い。
K市の駅前には秋の陽射しがあった。
バスを降りると、目の前に市の名前を冠したK百貨店がある。奈美子が勤めているというのは此処だろうか、三階建てのコンクリート造りは、確かに都会では
スーパーとしか言いようがない。
隆治はすぐに入るのを躊躇った。
駅の右手にあるアーケードの繁華街に足をむける。
飲食店とパチンコ屋が大半を占めていた。それらの間に挟まって申し訳なさそうに専門店が散在する。
隆治は書店を探した。活字に飢えているんだ、と気がついたからである。
やっと間口の狭い本屋を見つけた。店先に並んでいるのは週刊誌とコミック本ばかりだ。まあどこでもそんなもんだ、と隆治は店の中へ入った。
文庫本と新書類が並び、その他はペーパーバックのハウツーものが多かった。その辺りまでは立ち読みの客がいたが、そこから奥には人気がない。
隆治は少し失望したが奥へ移動した。文芸書が並んでいたが、新しすぎるものは読む気になれない。
翻訳本の並んだ棚に何故か、寺山修司の歌集があった。そしてふと、二冊隣りの本の間に、薄い背綴じの白いパンフレット状のものが埋もれているのを見つけ
た。
隆治は手を伸ばしてそれを抜き取った。英文のまま[ITPC]のロゴマークの下に[lecture on Dr. Stein]の文字がある。
こんな本がなぜ、こんなところにあるのだろう。めくると最初のページの下方に間違いなく[Silverte.Stein]の署名を刷った転写文字があ
る。
中身は読んでみないと解らないが、隆治は躊躇うことなくその本と「寺山修司」をレジへ持っていった。
レジの女性は「Steinの講演集」に奥付が無いのに当惑した顔をして、脇の机にいた店主らしい男に訊いた。男はその本を手に持つと起って来て、
「お客さんはこれをお読みになるんですか」と訊いた。
「ええ、そのつもりですが」
「それでしたら差し上げますから、無料で結構です」と言う。
「無料?、どうしてですか」
「この春、注文されて取り寄せた本の付録でして、何の間違いか同じ付録が二冊入っていたんです。これはその一冊で、わたしもとっくに忘れていました。で
すからお代は要りません」
「その、買った人はどこの人ですか」
「柏木さんといいましてね、市外のN村の酒造会社の息子さんと伺いました。学生さんで、休暇で帰っておられたようですが、大学の方へお戻りになったよう
です」
隆治が百貨店に入ったのは昼少し前だった。地階は食料品、一階は雑貨類、二階が衣料品、三階が電器製品、と、入り口の案内板に書いてある。
隆治はすぐ、二階へ上がった。奈美子は衣料品売場にいる、と言っていた。 広い店ではない、上がるとすぐ、奈美子の方が気付いて寄ってきた。
「何か、買い物?」
百貨店の制服であろうか、グレーに白い縦縞のベストと揃いのスカートを着ていた。胸ポケットに「柏木奈美子」の名札がある。
隆治はどきりとした。その名を、いま書店の主人から聞いたばかりである。
だが、農村には同姓の家は珍しくない。工場の従業員にも同姓は多い。そのためファストネームで呼び合うのが一般的になっている。
「うん、ブリーフでも、と思って」
奈美子はにやっと笑った「汚れが激しいからね」
言って、「お昼は交替でするのよ、だから十二時半に待ってて」と、レストランの名と場所を教えだ。
レストランはやはり三階建てで、幾つかの飲食店と食品店が同居するビルだった。奈美子が指定したのはその三階。エレベーターから出ると隆治は真っ直ぐ窓
際の席へ坐った。
見晴らしがいい、駅舎の屋根越しに田園が見渡せる。といって特段に美しいとか珍しいといった景色ではない。どこまでも平らな平野の中に農家の屋敷林が点
在し、軽トラックが土煙あげて農道を走っている。
のどかな…、それだけの景色だ。
制服を脱いだ奈美子がやってきた。表情が生きていた。
日中に奈美子に逢うのは初めてだった。
隆治の工場は日曜が休日だが、奈美子の百貨店は土日は総動員の態勢だった。その上狭い町である。人目を気にしなければならない。逢うのはいつも暗い部屋
の中に限られていた。
建物の中とはいえ、いま、昼の光で見る奈美子は、あの、初めて総菜を持って来たときの煤んだ『おばちゃん』とも、うどん屋でビールをがぶ飲みしたときの
荒んだイメージとも違っていた。
化粧のせいかな、と隆治は思った。化粧で女が変わるとすれば、まさに魔術だ。魔粧だ。
「何、買ったの」
コーヒーになったとき、奈美子はテーブルの端に置いた「寺山修司」に手を伸ばして頁を繰った。
「難しいの読むのね」俯いて歌集を眺める。
女は俯き加減の角度から見るのが最も美しい。睫が目立ち、頬のふくらみが欠点を隠してしまう。それに、肌にも艶がある。化粧のせいばかりではない。
女はSEXと共に綺麗になる、と何かの雑誌でちらりとみたように思う。
ということは…
「なにじろじろ見てんのよ。さっきから…」
「いや、いい女だな、ってさ」
「え…」
奈美子は慌ててあたりを見回し、苦笑し、はにかみながら「バカね!」と斜めに睨む。
七
冬が来た。同時にこのあたり特有の風も吹くようになった。
里山の葉もあらかた落ちてしまって。筋張った骨だけになり、埃っぽい色に変わってしまった。
帰路についた工員の一人がバイクで門を出るとすぐ、轍に転倒して大怪我をした。総務課長の車でK市の病院へ運ぶと、右下肢骨折というのが医師の見立て
だった。隆治はそれに付き添って行き、家族が駆けつけるまで待ち、あとは金森総務に任せて最終のバスに乗った。
奈美子の部屋をノックしたとき、ドアを開けると奈美子は無言で手を掴み、引きずるように隆治を入れた。
「こんな遅くに?」と、半ば咎める声で言う。
隆治が説明するとすぐ頷いて元の声に戻った。
窓の下半分に白い紙が貼ってある。
「どうしたの?」と隆治が顎で示すと、
「ゆえべね、懐中電灯、照らす奴がいたのよ。いやらしったら…。だから今日、紙買ってきて画鋲で止めたの。黒い紙にしようと思ったけど、それじゃ真っ暗
になっちゃうから…」
でも大分暗くなったな、窓は目立つようになったけど、と隆治が思った。
「もう、終わりにしましょうよ。こんなこといつまで続けても意味ないわ。あなたのためにならない」
坐ると、奈美子は並んで言う。
「結婚しよう。そうすればいいだろ」
「だめ、それはだめ、あなたのためにならない」
「どうして、ぼくは奈美子が好きなんだ。それで充分じゃないか」
「だめなのよ、あなたが進んでいく道と、わたしの立ってる場所っていうか、生き方が違うのよ」
「そんなこと…」
隆治は構わず奈美子を引き寄せる。
「だめ、だめょ…」
語尾が弱まって消えてゆき、力なく隆治の腕へ倒れ込んでくる。
躰を合わす度に、互いの持つ愉悦の局所や、それの扱いが解ってくる。
確かに、隆治の経験はまだ浅かった。男と女の歓びを、本当の意味で知っているとは言えなかった。それが奈美子によって徐々に解き放たれてゆく。行けば行
くほど未知の分野が拡がる。と隆治は苦笑を交えながら考える。
風が出てきて、窓をがたがたいわせている。低い声ならいいだろう。
「ほら、ぼくはいま、奈美子の中に居る。奈美子の中で、奈美子の宇宙を探検してる」耳元に口をつけて囁く。
「あ、あー、リュージ。リュージさん」
工場前の道路を本舗装にしてくれないか。と金森総務が町の役場に呼び出されて言われてきた、という。
もともと道路は栽培ハウスに出入りする耕耘機や軽トラック用のもので、使用権は農業組合にあったのを、町が企業誘致運動の一環として説得し、簡易舗装を
施したのだった。
だが工場に出入りするのは小さくても四トントラック、大きいときはコンテナを使用する場合がある。路面はたちまち崩れ、毎年のように砂利を埋めてはアス
ファルトで表面を繕っていた。費用はすべて工場から支出していたが、今回の工員の事故で、町議会側から問題にされそうだ、という。
工場の前から町道まで八百五十メートル。
「金が無いんですよ。工場には…」
生田工場長と金森総務は揃って隆治に眼を向けた。
本社に掛け合ってくれ、と暗に言っている。そんなことは本来、管理課長の仕事ではない、それは百も承知だろう。
隆治は秦野部長宛にFAXを送った。
折り返しのFAXは専務からだった。
『 秦野部長はいま中国に出張中で、年末には戻る。
道路の件は了承したが、拠出は落札価格の半額に抑えること。
新製品のデリバリーが順調であり、売り上げも上々である。
近く追加生産の指示が出るので宜しく。
なお、秦野部長の帰国を待って打ち合わせたいことがあるので、
年末休暇を一日繰り上げ、来嶋君一人、二十九日に出社して貰いたい』
FAXとはいえ、専務から直々に返事が来るなど異例のことだった。
それにしても、秦野部長は何の用件で中国へ行ったのだろう。売り込みなら営業部の誰かが行きそうなものだ。
工場も本社も、年末年始の休暇は暮れの三十日から正月五日までだった。一日早く本社へ行くとなれば、自身の作業日程も変えなければならない。隆治はあれこ
れ勘案し、スケデュールを組み替えた。
「二日に戻るのね?…」と奈美子は言った。
元日・二日と百貨店は休みである。同時に休める日なんて年間を通じてその日しかなかった。年内は無理でしょう、と奈美子は言ったが、二日間、温泉にでも
行こうか、と隆治は話していた。
「元日までに戻るよ。きっと戻るから」
胸を離そうとすると、奈美子は背中に組み合わせていた手を腰の位置まで下げ、力を入れて隆治を引きつける。脚も絡めたまま離すまいとしている。全身で隆
治のすべてを呑み込もうともがいている。
隆治は奈美子の眼を覗き込む。暗がりの中の瞳。微かな灯りの中できらっと光る滴。おや!、奈美子は涙を浮かべている。
そのとき女は泣く、というが、そんなのは講談本か浪花節の世界だ。
隆治は急に愛しさを感じて、また胸を合わせ、頬を擦りつける。
「元日までに戻るから。きっと戻るから」
うんうん、とかすかに頷くのが、密着した頬を伝わる。
「いいのよ、無理しなくていいのよ」
八
東京へ行くのに「帰省」と言うのもおかしなもんだな。でも実家が東京ならやはり「帰省」か「帰郷」か。
隆治は規則的に響くレールの音を聞きながら、昨夜の涙のことを考えていた。
何があろうと泣くような女ではない。
電車は空いていた。座席は殆ど埋まっていたが、正月用品を運ぶのだろうか、大きな荷物をドア脇に立てかけている人が数人いる。その他に立っている人はい
ない。だがすれ違う下り電車は満杯だった。
十ヶ月、そう、赴任してから初めての「帰京」だ。
窓からの陽射しが暖かい。後頭部が熱いくらいだ。それにしても昨夜の寒さ。 奈美子の涙に触れて熱いものが身内にこみあげたが、帰路は寒かった。ダウン
コートが身体から遊離しているようで、二の腕から背筋にかけてすうすうと冷たい風が吹き抜けた。
奈美子のあれは、何の涙だったか…。
「庸一、隆治に注いでやれよ」と父が顎をしゃくった。
「おう、お前、飲めるようになったのか」
兄が手を伸ばしてビールを注いでくれる。
両親に兄弟姉妹、姉の夫、嫂、それぞれの子に隆治を加えると十二人になる。
父が一人で始めた小さな金型工場だった。その父が心臓発作で倒れて以来、兄が継いで社長になっている。専務は姉の夫で、技倆の面では兄の先輩である。経
理は嫂が仕切っていた。一番下は弟でまだ学生。通いの工員六人を除くと、家族だけで構成しているささやかな会社だが、隆治だけが家を出ていた。
「専務さんの話って、何なんだい」
一日早く帰った訳を話すと、兄は精悍な顔を向けた。
貫禄が出てきたな、脂ぎっている、と隆治は思った。
「さあ、解らないんだよ、何のことか」
「何か、叱られることでもしでかしたか」と父。
「縁談、てことはないよね。重役さんの娘さんとか…」と姉。
ふと、あの…紗慧。大学同期の医師の娘。いまはもう子供ができて…、と隆治の頭に遠いものがかすめた。
「そんなこと、考えられないよ」
「そうよなぁ、そんな話だったら、年末なんかにしないよな」
義兄が重たい口を開き、ビールを傾ける。
「ひょっとしてさぁ」と、別にしつらえた子供達だけのテーブルから、姪の智美がかん高い声を挟んできた。兄の娘で中学二年になる「お姫様とかが懐妊とか
しちゃってさ、相手の男子が事故とかで死んじゃったとか…。そんでもってそのオハチが回ってきたとか、だったら絶対チャンスだと思う」
「何だよ。何の話だ」と弟の啓三。
「叔父さんの縁談に決まってるじゃん」
「その、お姫様って、誰なんだよ」
「社長のご令嬢、とか、だったり…」
「社長のご令嬢って、自分のことそう思ってるんか」
「違うもん、叔父さんの縁談」
「そうそう、そう言えば、隆治が来たら見せようと思って…」母が腰を浮かせかける。
「やめとけ、いま」と父が制した。
フライト・オーバーデュウで、部長の帰りが夜六時過ぎになるらしいから、出社は夕刻でいい、と、専務の言葉を女子社員の声で電話があった。
もう一つ、大学時代の前山からも電話が入った。久しぶりに逢いたい。つもる話もあるし…今夜はだめか、明日は俺の方が都合がつかないんで、じゃあ大晦日
の午後にな。それで電話は切れた。
前山は親友というほどではなかった。むしろ悪友というべきかもしれない。隆治が童貞を失うとき、行ったことのない街へ誘い出し、けしかけたのは前山だっ
た。
四時半に出社すると、もうどの部署も机の上を整理して、帰宅待機の空気だった。
専務室をノックすると、声があり、入ると大きな机の向こうから「ああ、ご苦労さん」と太い声で言って、ソファに坐れ、という形を掌で示した。
「秦野君のランディングは、どうも夜中になるらしい。こればかりはどうにもならんよ」
机に肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せて言う。まだ白髪も生えず、髪も房々している。
染めているのかもしれない、と隆治は思った。
「それでだね、大筋の話はいまわたしから言っとくが、中国に工場を建てることになったんだ。秦野君のFAXで、山西省に候補地を確保したそうだ」と
FAXの紙片を差し出す。
隆治は立って行って受け取った。そのまま見ていると、
「まあ坐りなさい」とまた掌を差し伸べた。
「建設には八ヶ月かかる。それに設備を配置するのに二ヶ月と見て。来年、あと二日で来年だが、十月にこけら落とし、というのは古いか、スタートという段
取りになる」
なるほど、歌舞伎好きなひとの言葉だ。
「そこでだね、スタート直後からの管理面を来嶋君にやってもらいたい、というのが秦野君はじめみんなの意見なんだ。わたしも、君が適任だと思うんだ
が…」
顔色を伺うようにじっと見守る。
隆治は目を伏せた。混濁したものが頭の中を駆けめぐる。最初に浮かんだのは奈美子のことだった。奈美子の眼に浮かんでいた涙が、目の前に大写しになる。
あれは、このことを予見していたのだろうか、まさか…。
「どうかね」
「……。はい、判りました。やらせて頂きます」
否とは言えなかった。そういう強い意志が、専務の口裏に秘められている気がした。
「そうか」と、満足そうな笑みを浮かべる。
「それで、詳細は秦野部長から聞いて貰いたいんだ。遅くなっても今夜中には帰ってくる。といってもう、それからっていう訳にいかんから、元日をすまして
二日、二日に大筋の計画などの打ち合わせをする、ってのはどうかな」
「え!、二日!」
隆治は悲鳴に近い声を挙げてしまった。
「不味いか…」
専務は少し憮然としたが、すぐ表情を戻し、
「やっぱり松が取れてからにするか」
奈美子のこともあるが、専務の意見を一歩でも譲歩させたことに、隆治は冷や汗をかいていた。
「それとな、道路舗装の件だが、FAXじゃ人目につくから半額と書いたが、ありゃあ努力目標とでもいうか、七割までは容認するから、君の胸にだけしまっ
ておいてくれないか」
「うーん、中国かぁー」と兄の庸一は腕を組んだ。
人ごとではない、という表情が現れていた。
「やめとけ、お前が行きたいならそれもいいが、でなかったら会社辞めて、うちで一緒にやればいいんだ」
「でもね、親父さん、いや、会長…」
「会長はやめろ。親父、でいいよ」
「Hさんとこは倒産しちゃったし、S工場はY制作に吸収合併だ。その他の仲間もみんなアップアップで…」
「うちはそんなことねえんだろ」
「いまんとこはな」
「職人てのはな、腕は勿論よくなくちゃいけねえが、大事なのは仕事に対する誠実さってことだ。千分の一、一万分の一ってえのが勝負の世界なんだから、い
い加減な仕事してりゃあ潰れるなあ当たりめえだし、競争の原理だとやら言い出して、数こなしゃあいいってもんじゃねえんだ」
「Hさんとこだって、いい加減な仕事してた訳じゃないよ」
こうなると、この二人の話は際限がなくなる。隆治はそっと座を立ち、二階の弟の部屋へ行った。
九
大晦日ともなれば、人出はあってもなぜか街は静かになる。母校の正門に通ずる石畳の道も閑散としていた。
五年ぶりだった。懐かしい店は健在だったが、古めかしい木の扉を押すと客はまばらにしか居なかった。隅の、灯りの乏しい席で前山が「ここだ」というふう
に手を挙げている。
「紗慧がな、きのうハワイに行ったんだ」と、坐るなりそのことを話題にした。そんな話をするために呼んだのか、と隆治はげんなりした。
コーヒーが運ばれてきて改めて見ると、前山は無精髭を延ばし、くすんだ顔色をしている。幾分やつれてもいるようだ。
「いま、お前、どんな仕事してるんだ」
隆治は聞こえなかったふりして話の路線を換えようとした。
紗慧のことは、思い出したくもない、と言えば嘘になる。現にいろんな場面で比較したり類似点を観たりしているのだ。しかしそれはキャンパス時代、じゃれ
あった遊びの一こまに過ぎない。ダイヤモンドに眼が眩んだお宮のその後など、聞きたくもない。
「俺か、空調設備のリース会社にいる」
「空調のリース?、どんな仕事なんだ」
「うん、会社そのものは、ビルの所有者に規模相応の空調設備を貸してるだけなんだが、俺はその設置やら保守やら、ひどいときはフィルターの交換までやら
される」
「大変そうだな」
「設置そのものはまあ、俺の専門だからいいとして、問題はフィルター交換だ。バイト雇ってはいるが、季節によって交換時期が重なる。そんなときは俺も手
伝わなきゃならない。夏なんか、狭い木柵の中だろう」と眉をひそめ、急に表情を戻すと冷めかかったコーヒーを一口飲み「紗慧がな…」。
どうしても、紗慧のことにこだわりたいらしい。噂話など聞きたくもないが、嫌になったら途中で遮って帰ってもいい、と隆治は肚を固めた。
「浮気してるんだ。相手は大学の後輩」
背もたれにどすんと身体を預け、瞼を下げて隆治の顔を伺う。前山の癖だった。
五年も経っている。紗慧がつき合っていたのは自分だけでなく、他にも何人かいた、と聞かされても、ああそうだったか、そうだろうな、としか感慨は浮かば
ない。鼻梁が高く、頬から頤へかけてのふくよかな曲線と、彫刻を想わせる彫りの深い眼窩を持つ美人だった。が、反面、華やかさの陰の冷酷さ、といったもの
を潜ませていた。と、いまにして思う。
それよりも前山はなぜ、紗慧のことに拘泥するのだ。
「その後輩の出身がな、お前がいま行ってる工場の近くらしいぞ。柏木という造り酒屋の倅で…」
「なに!、柏木!」隆治は小さく叫んだ。
「うん、お手々繋いでハワイの初日の出、ってわけだ。子供置いたままな…」
「お前、どうしてそんなこと知ってるんだ」
「ん、まあな…」前山は口を濁し、薄く嗤う。
これから工場に戻る、と言うと「どうして?」とみんな眼を丸くした。
「中国行きとなると、しなければならない用事があるんだ」と言ったが、
「大晦日だぞ」「お正月だよ」「中国へ行くったって、明日、明後日という訳じゃあるまい」と言われ、それ以上押し返す言葉はなく、隆治は悶々と除夜の鐘
を聞いた。
雨戸の隙間から強烈な光が射し込んでいた。
母が起こしに来て「みんな初参りから帰ったから、お雑煮にするよ」。
雨戸を開けると抜けるような晴天だった。
ふと、奈美子の部屋の窓からもこの強い陽光が射し込んでいるだろうか、と隆治は思った。そうして、今日は何としても帰るぞ、と考える。
茶の間へ降りると女達は着飾って坐っていた。
賑やかな食事が二時間も続いた。弟の啓三、妹の千絵、甥姪三人、若い五人は遊びを求めて弾むように出掛けた。母と嫂は片付けのためキッチンへ立った。兄
と姉の夫は「初対局」とか言って隣座敷の日溜まりへ将棋盤を持ち出した。
炬燵に残ったのは父・姉・隆治の三人になった。父は新聞を拡げ、姉は蜜柑の皮を剥く。
もう昼になるな、行かなければ、と隆治は思った。その時来客があった。
姉が玄関へ起った。年始の客だろうか、これを機に、と隆治は腰を浮かせた。
「お父さん、古谷のおじさん」言って姉は戻ってきた。姉に連なるように、古谷のおじさんが従いてきた。
「おう隆治くん、中国へ行くんだって。いま千絵ちゃんから聞いたよ。今日戻るかもしれないってんで、慌てて来たんだ」
父の古くからの友人だった。町内で洋服屋をしていたが、途中から洋服のメーカーに勤務し、工場長にまで昇りつめた人だった。定年後はボランティアで毎年
二ヶ月ほど中国へ技術指導に行っている、と聞いていた。
「元日から工場に戻るこたあないよ。ゆっくり話でもしようじゃないか」
ゆっくりじゃ困るんだが、と隆治は肚の中。
「そうだ、どうせ門番ぐらいしかいないんだろ」と父も独り言のように言う。
門番とは古いな、と隆三は苦笑した。
「おじさんは若いですね。父と同い年なんでしょう」
「いやいやもう駄目さ。頭は薄い、歯は入れ歯、眼鏡なしでは新聞も読めん」
「でも、お顔の色なんか艶々してらっしゃる」と姉。
「うん、何しろ行く先が縫製工場だろう。若い女の子大勢に囲まれての作業だ。まあ、その点では恵まれてるかなあ」
中国には音標文字がない、隆治君、ミニスカートのことをどう書くと思う。スカートは「裙子」で昔からあるが、問題は「ミニ」だ。『迷』う、という字に
『ニンベンに尓』ニーハオのニ、つまり『貴方』ということだ。ということは『貴方を迷わすスカート』ってことになる。
兄達も将棋をやめ声立てて笑う。
「おい、酒にしないか」と兄の庸一は嫂に言い、
「いや、もうわたしは、酒は入ってるから」
「正月なんだから、まあ…そう言わず…」
隆治はそっと時計を覗く、庸一が父との間に割り込んできて、
「明日にしろ、明日に」と見咎めて小声に鋭く言う。
「隆治君、中国人は面子を重んじる、と言うだろう」と古谷のおじさんは顔を向けてきた。
「むろん、日本人にも面子というものはある。日本の場合は何日の何時までと約束すると必ずやる。徹夜してもやる。どうしても間に合いそうにないときは同
業者に手伝ってもらってでもやる。そのために損が出てもやる。それが日本人の面子だ」
近頃はそうでもないが、と隆治は思った。
「ところが、中国でいう面子ってのは違うんだな。引き受けておいてもやらない。できるかって訊くと、できるって答える。できないとは絶対に言わない。そ
れでその日になって、できたか、って訊くと、子供が熱を出したとか、友達が訪ねてきた、とか言い訳を並べて、挙げ句は『大体これは、はじめから無理な話
だった』と逆襲してくる。どんな場合でも『自分が悪かった。忘れた。間違った』などとは口が裂けても言わない。知ってるか、と訊くと『知ってる』と言う。
じゃあやってみせろと言うと、何もできない。つまり、人前で『できない』とか『知らない』ということを口にするのを『恥』だと思う。これが中国人の面子と
いうやつだ」
「へーえ、ところ変われば品変わる、っていうけど、同じ字、使ってても随分違うもんですね」と母が相槌を入れる。
隆治はまた時計を見た。いまなら最終のバスに間に合う、と思ったが、立つことはできなかった。
十
アーケードの通りには着飾った女達がそれぞれ二・三人のグループを作って行き交っていた。
パチンコ屋から派手な音楽が喚くように流れ出している。飲食店も満員のようだ。食料品店などの専門店はシャッターを下ろしていた。
隆治は買い物を諦めて広場のバス停へ向かった。バスがエンジンを噴かしていて、いまにも発車しそうだった。
乗客は半分ぐらいしかいない。隆治が飛び乗るとすぐ動き出して、大きくカーブを切った。隆治はよろよろと乗車口に近い座席へ転げこみ、そのまま腰を落と
した。
ときどき頭の中を、小さな槌で叩かれているような痛みが走る。無理強いされて飲んだが、やはり日本酒は苦手だ、と隆治は思う。
朝寝している家族の間をそっと抜け出してきた。キッチンでコップ一杯の水を飲んだだけだった。
バスがカーブを繰り返すたび、窓からの陽射しが大きく移動し迂回する。十一時だ、いまから二人でどこへ出掛けられるだろう。奈美子に逢ったら中国へ行く
ことを話さなければならない。奈美子はどう反応するだろう。一緒に行くと言うだろうか。できれば一緒に行ってほしい。そのために結婚してもいい。
家族は、勿論反対するだろう。年上だし、離婚歴はあるし、子供のできない体質だという。
特に両親が許してはくれまい。
バスの揺れと共に隆治の心も揺れた。
バス停に降り立ったのは隆治ひとりだった。
町はひっそりしている。どの店も雨戸を閉ざし、風の中で陽光をいっぱいに浴びている。路地を入り、靴音を忍ばせて階段を昇る。
扉が五センチほど開いていて、風でわずかに揺れている。隆治は扉を引いた。
奈美子はいなかった。
きれいに片づいている。いつも壁にへばりついていたハンガーがない。掛かっていたコートもジャケットもない。出掛けたのか、と一瞬思ったが。押入の襖が
開いていて、中には何もない。いや、すぐ右にあった冷蔵庫も見えない。
隆治は混乱して廊下へ出た。どたり、とはじめて靴音をたてた。
三部屋さきの扉が音立てて開き、顔が覗く。隆治を認めるとすぐ引っ込み、再び出てきた。
「ナミちゃんは引っ越しただよ。あんた来嶋さんかね」
小太りで背が低く、頬肉のたるんだおばさんである。
白いビニール袋を提げていた。
「これ、来嶋さん来たら渡してくれって」
K百貨店の袋だった。手応えのある重みだった。
「え!、はい、有り難うございます。で、どこえ引っ越し?…」
「……。あ、ナミちゃんかね、さあ、訊いたけんど、笑ってばっかで、なんも言わんかった」
「いつ?…、いつ引っ越したんですか」
「えっと、三十ン日の夜じゃったなあ。小っちゃなトラックでな。んで、そん中に手紙入れたとか言ってたけんど…」
包装紙にきっちりと包まれた長方形のものが三個あり、横に白い封筒があった。
普段は閉めたことないのだが、連休中だけ鉄扉を閉めている。揺すると、警備小屋から細君が不機嫌な表情で出てきた。夫は警備員、細君は賄いをしている杉
田夫妻。
「あら!、もう帰ったんですか」
隆治の顔を見ると急ににこりとした。
「杉田さんは、お出かけですか」
「いえね、朝っからお酒で、寝てるんですよ。それより課長さん、何か急な用事でも?」
「いえ、別に…」
隆治は部屋に入ると、もどかしく封を切った。
『隆治さん、いろいろありがとう。貴方のお仕事に打ち込む姿、見たことはありませんが想像はできます。工場での日々のことはある筋から聞いてよく知って
います。男の人の美しさは仕事に打ち込んでいるときの姿だと前から思っていました。このまま進めばきっと成功し、工場にも、会社にも、そして世間にも、無
くてはならない人になると思います。けれどこのままでは、私との関係が足かせになるときがきっと来ると思います。貴方のことは、聞けば聞くほど好きになっ
てゆきます。好きだから、だから貴方の進む道の「つまずきの石」にはなりたくありません。お会いするといつも、私の方からのめりこんでしまって、言葉で言
うことができません。ですから手紙にしました。夢なのです。いつか必ず覚める夢。夢は夢のままでお別れした方がいいと思います。お許し下さい。行き先は探
さないで下さい。ほんとに、ほんとに、ありがとう。お幸せを心から祈っています。 奈美子』
何故?、どうしてだ。
隆治はソファーにどっかりと尻を落とした。
便箋は二枚だったが一枚は白紙だった。しばらく放心していたが、気付いてビニール袋から包みを取り出し、包装を開けた。
ウイスキーが二本、普段、隆治が呑んでいたものよりずっと上等のものだった。もう一つはチーズが二箱。
K百貨店の前には人だかりができていた。若い女性もいたが、中年のおばさん連が圧倒的に多かった。
男も四・五人いたが、若い女性とのカップルらしく、手を繋いだり、肩を組んだりしている。
隆治は少し離れた位置に立って、開店をまっていた。
十時丁度、シャッターがのろのろと上がり始めた。
人々は色めき立って、正面へ集まってきた。総ガラスの扉が左右に開く。ロートの口へ吸い寄せられるように、右から左から、勿論正面からも人が押し寄せて
行った。
隆治は人波がおさまってから、と考えていたが、後ろの新たな群れに突き出される格好で、人波に呑まれ、半ば宙に浮いたように店内へ入った。
人々は階段を掛け昇り『初売り・福袋』と大きく書かれた売場へ殺到して行く。勢いで隆治も階段を上がった。
隆治は流れに抵抗する格好でやっと人波を抜け出し、群れとは逆の隅に身を置いた。
見ていると階段から雑然と押し寄せる群衆を屈強の男性店員が両手を拡げて四列から三列、そして二列へと幅を制し、あとは女子店員の誘導のまま、売場の中
をSの字状に、客は温和な羊の群れとなって流れてゆく。
見事なもんだ、と隆治はその客扱いに見惚れた。長い台の片側に福袋が山積みされ、客は一つづつ手にすると先へ進み、福袋の山が低くなると、係りが後からど
んどん積み上げ、豊富な在庫を後ろに並んだ客に示すようにしている。
レジで支払い済みのシールを貼られた福袋を提げた客は、その先の裏階段へ進む。最短のコースを辿っても一階の売場を通ることになる。そのまま三階へ上
がったり、地階へまで足を伸ばす客もいるだろう。
工程配置、フローチャートと物流。むろん設備配置や人員配置の課題もある。
「あの、お買い物でしたらどうぞ、列にお並び下さい」
不意に、後ろから声を掛けられた。振り向くと、眼鏡を掛けた四十過ぎの女店員である。
口紅の色が濃すぎる、と隆治は思った。名札に『主任』と朱書してある。
「いや」言ってから「柏木奈美子…さん、いますでしょうか」
「柏木は…、暮れのうちに辞めましたけど…」にこやかだった口元が急にピチリと締まり、眼鏡の奥から注視するような眼を向ける。
「どこへ行ったのか、ご存じでしょうか」
「さあ…、わたしは聞いていませんけれど、縁故の方ですか?」
「ええ、まあ…」
「それでしたら事務所でお聞きになる方がいいと思います。事務所は一階の一番奥、左側の扉を開けますと搬入庫がありますから、その突き当たりの扉に庶務
課と書いてあります」
「ボーナスを支給すると、とたんに辞めるのがいるんで困るんだな。特に柏木の場合は歳暮売り出しの最中だったろう。慌ててパート三人増員したんだが、商
品知識がないからねー、苦労させられた。最…悪質と言うかなあ」
「で、柏木さんの実家、というのは…」
「ん…」と庶務の男は眼鏡を外して隆治を見つめた。
「貸金業者かなんかですか。柏木に貸しがあるとか…」
「いいえ、違います」
「土地の人じゃないねえ、あんた。どういう関係なんだい。柏木と…」
「……」
「プライバシーの問題だからね、これ以上のことは言えないよ。さぁ、帰ってくれないかな」
「実家の住所だけでも教えて頂けないでしょうか…」
「しつこいなあ。警察呼ぶよ…」
隆治はアパートの階段を上がった。奈美子がいた部屋の扉を開ける。奈美子が住んでいたという痕跡は何もない。いや、一つだけあった。窓の下半分に貼った
白い紙。それだけだ。
もう一度あのおばさんに聞いてみようか。隆治は廊下に出て三つ先の扉をノックした。
頬肉のたるんだおばさんが顔を出した。
「奈美、いや、柏木さんの実家をご存じありませんか」
「ナミちゃんのかね、いやあ」と首を振る。
「あ、それ!」隆治は小さく叫んだ。
扉の中、すぐ左に背の低い冷蔵庫がある。いまどき珍しいワンドアで、色も薄茶の…、まぎれもなく奈美子が使っていたものだ。
「これはな、ナミちゃんが要らないから使ってくれって置いてったんだ。でもただじゃないよ。ただじゃ貰えないから…」
「なんだ。どうした」と、痰が絡んだような男の声がした。
「何でもねえよ」おばさんは振り向いて声をかけると、草履を突っかけて廊下へ出た。
「酒癖悪りいからね」と扉を顎でしゃくると向き直って、
「ナミちゃんが、お金は要らないと言うんで、餞別ってことで、五千円包んで渡したんだ。だから買ったのとおんなじ…」
「実家の住所、知りませんか」
「それがねぇ、どっから来たんか何処へ行ったんか、なんも聞いてねえからね。K百貨店に勤めてるってこたあ聞いたが、あとは何にも…。だいいちつき合っ
てたわけじゃねかったかんな。顔合ったとき、挨拶したぐれえで」
家主のところへも行ったが、同じような返事だった。
万策尽きた、と言うにはまだ早いのかもしれない。隆治は部屋に戻ると奈美子の手紙をもう一度拡げた。
何度読んでも同じことだった。どうしてだ?、どういうことなんだ。
隆治は乱暴に紙片を丸めて屑籠へ投げ込んだ。手を頭の後ろへ組み、背中からソファーへ倒れ込む。疲れた、という感覚を初めて知ったように思った。そうだ
ウイスキーを飲もう。奈美子の贈り物の…。
どのくらい寝たろう。扉を叩く音がする。
「課長さん、課長さん。電話ですよ」
隆治ははね起きた。警備員の細君だった。事務所の方を指差し、
「昼間にも電話があったんですよ、そのときは、駆けつけるのが遅くて切れちゃったんです」
生田工場長の机の上に、外されたままの受話器が置いてある。
「ああ、隆治か、お前、どこ行ってたんだ。何度も電話したんだぞ」
兄の声だった。隆治が返事すると「お前、声が変だな、風邪ひいたか、それとも」と言って声を低め「女か!」と言う。
秦野部長から連絡があって、打ち合わせを六日にしたいがどうか、と言ってきている。
「判った。明日帰るよ」
部屋に戻った隆治は、アタッシュケースの中身を調べ。メモ書きの失敗などを破いて屑籠へ捨てた。そうして、奈美子の便箋を拾い上げると、机の上で皺を伸
ばした。
十一
何という違いだろう。まるで別天地。と隆治は思った。
ウォーターフロントというのか、新橋から「ゆりかもめ」で来た都心(と言うには抵抗がある)の、ホテルの最上階にあるレストラン。そのスペシャルルー
ム。総ガラスの窓を背に、専務が坐っている。
隆治が目を奪われているのは窓外に展がる景観だった。冬の夜空に黒々としたビルが建ち並び、あちこちで二個一対の標識灯が交互に点滅している。
点滅というのではなく一定の間隔を行き来するメトロノームのように見える。ビルの窓に灯りがないのはまだ正月のせいだろうか。
遠くに電飾をつけた橋桁があり、水に反射している。その先は海なのか。この部屋だけが、宙に浮かんでいる豪華客船の一室のようだ。
急行で僅か四時間隔たっただけの、工場のある鄙びた町とは、何という違いだろう。
「刻舟求剣という諺がある。中国の故事だが」と専務はワイングラスを置きナプキンを使いながら言う。
事務的な話は暮れに専務室で聞いたのとたいした違いはなかった。
テーブルに置かれたグラスの中で残りのワインが揺れている。標識灯の色と同じだな、と隆治はもう一度遠くへ眼を移した。
「小舟から剣を落とした人が、その場所を覚えておこうと舟べりに印をつけた、というのだ。刻々と舟、いや自分が流されているのに気付かない。言い換えれ
ば、時代の底流が変わって行くのを読みとれない。ということだな」
「うーん」「なるほど」というように秦野部長は頷いている。普段の部長からは想像できない神妙さに、隆治は笑いをこらえた。
専務の風貌と秦野部長のそれとはよく似ている。だが間近に並ぶと、年齢差もあるが、豪放さという点では専務の方が一枚も二枚も勝っているようだ。
「とにかく、片仮名で書く『アイデア』というのはいかんな、本物でなけりゃこれからの消費者は納得せんよ」
細かいことは君らに任せる、決まったことは後で報告してくれ。
「ところで」と専務は残りのワインを口に含む。
脇から注ごうとするウエイターに指先を振って断り、
「来嶋君の後任だが、誰がいいか、相談して決めてくれないか」
「専務は結局、具体的なことは全部押しつけだなあ」
部長が行きつけのバーだった。隆治がウイスキーを嗜むようになったと聞いて連れて来られた。
「3Kとかいったなあ、キツイ・キタナイ・あと一つはなんだっけ…」と秦野部長はウイスキーを含むと、グラスの氷をカラカラ回して口の中を洗いながら言
う。
生産部は設計課と生産管理課に別れている。隆治が工場出向になったため、生産管理課の仕事は下請け企業への発注と管理が専門のようになっていた。どの顔を
思い浮かべても、ホワイトカラーの域を出ない。
「工場に一人、教育すればできそうなのがいますが…」
隆治は、檜山康彦のことを考えていた。
「工場にいるか。工場に居ればそれにこしたことはない。幾つだ、歳は」
「たしか、二十二才になると思います」
「うーん、二十二ね、ちょっと若すぎじゃないかな…」
二十二才では、本社にとっては新入社員である。
「大丈夫と思いますよ。しっかりしてますから」
「判った。明後日あたり工場へ行ってみよう」
隆治はそのあと、わだかまっていたことを口にした。
工場の経理は本社で行っている。だから工場側で経理の不正があるとは考えられないが、事務の女性から見せてもらった原材料受け入れ簿の数量は、隆治の弾
き出した量よりも五%から十%は多いように思う。
「例えばだな」と部長はまたウイスキーを口に含んで、
「リベートということを考えてみたまえ。一トンにつき幾らという還付金がプールという形か、あるいは誰かの懐か…、それで十%多く入れればリベートもそ
れだけ多くなる」
「そんなことがあるんですか」
「ないとは言えんだろう。いまの組織のあり方では」
「どういうことですか」
「うん、原材料の算定と買い付けは資材部でやっている。本来なら算定だけは生産部でやるべきなんだと俺は思う」
「そういう主張はなさらないんですか」
「俺の立場では主張という訳にはいかない。創業当時からの慣習だからな。だから具申だ、専務には何度も具申した」
常任の常務は四人いる。それぞれが総務・財務・資材・営業を分担している。不思議なことに、生産部だけは秦野部長が仕切っていて常務は関与していない。
強いて言えば専務がバックアップしていると言えなくはない。
「営業至上主義でな、旧態依然としている」
企業経営者は技術や生産や労働といったことを解っていない。解ろうとしない。技術や生産に関わっている人間を一段下の階級だと考えている。売り上げが伸
びると『販売戦略の成果』を誇示し、落ち込むと『品質がよくない、デザインが悪い』とこきおろす。そこをどうやって動かすか。
「まあ、昔ほどではなくなったが…」
どんなふうに具申したのだろう。と隆治は一瞬考えた。
「売りの買い、って方法はどうでしょうか」
隆治は『古谷のおじさん』から聞いた話を要約して部長に話した。
中国に、日本の商社からの委託加工を専門にしている工場がある。素材はすべて日本から支給していた。技術さえ向上すれば日本製と遜色ない商品ができる、と
商社は考えた。工場側では営業・企画・仕入れ・といった間接人員を抱えなくて済むし『リスク負担無し』というのが何より魅力だった。
ところが、実際の生産量が、素材の支給量から割り出した予想生産量より低い、という数字が常に出る。検出の歩止まりは当初予想のパーセンテイジを維持し
ているにも拘わらず、である。そこで考え出されたのが『売りの買い』という方式だった。つまり、素材は支給をやめて工場側に売り渡す。商社はでき上がった
製品を買い取る。その結果、工場ではマーキングをはじめラインでの無駄の排除に努力し始めた。
「うーん、一種の独立採算ってことか」
ちょっと違うんだが、と隆治は思った。
もう一つ、生田工場長と金森総務については、
「生田工場長は飾りさ。書類その他すべて、工場長が眼を通して判をつく、もともと経理畑の人間だからな。まあ、チェック機能さえあれば足りる。総務とい
うのは土地勘が第一なんだ。役場その他の折衝とか、地域特有の問題とか…。土地の人間でないとうまくいかない面が多いからな」
家に帰って歓談し、もう遅いから寝よう。言って座敷を出ると、兄の庸一が階段の手前まで追ってきた。
「隆治、女が欲しいときは金で済む相手にしろよ。田舎娘なんかにうっかり手出して、蛸に吸いつかれるようなことになったらあとが面倒だ」と圧し殺した声
で言う。
「うん」隆治は笑顔で答えた。
奈美子が田舎娘かどうか、それとはほど遠い気がするんだが、と肚のなかで思った。が、兄ならではの忠告には、涙が出るほど嬉しかった。
十二
薄日が射していたのは午前中だけで、午後にはどんよりと重い雲が空を覆って寒い日になった。
もう来ないのか、と思う時間に秦野部長から電話が入り、K駅からタクシーで来る、と言う。終業まで一時間を切っていた。
生田工場長・金森総務課長は当然だが、檜山康彦にも残るように伝えた。
この時間に来るということはこちらへ泊まるということだろう。普段使っていないゲストハウスは冷え込んでいたので、すぐに暖房を入れ、風呂のコックを
捻ってドレンパイプの汚れが出切るまで流した。
部長が到着した時はすでに薄闇がかかっていて、夜といってもよいほど暗かった。五分も経たないうちに終業のベルが鳴り、タイムカードを押す音、徒歩の群
れの話し声、バイクの騒音、がひとしきり重なり合っていたが、二十分ほどで静かになった。
「じゃあまず、檜山康彦くんと話そうか」と部長は言い、待機していた檜山を伴ってゲストハウスへ入った。
三十分ほどで面接は終わり、檜山を帰すと、部長は生田工場長と金森総務に、檜山に対して生産管理に関する教育を隆治が行う旨を伝え、事務用具一式とコン
ピューターを購入するよう命じた。
「若いからな、係長というのも中途半端だから…、主任、というのはどうだ」
主任も中途半端だ、と隆治は思ったが他に名案はない。
外は雨になったようだ。生田工場長と金森総務がそれぞれの車を始動させ、カーテン越しの窓にぐるりとライトを照射させながら帰っていった。
「どうだ、六ヶ月で仕込めるか」と部長は言った。
『六ヶ月』と隆治は反芻した。
形だけならできないことはない。あとは本人の努力次第だ。頭の回転というよりは、問題になりそうな箇所を事前に発見することと、対処の仕方を身につける
能力なのだ。それもまた、頭の回転のうちだろうか。
「できると思います。いえ、できます」
部長が促したので隆治も一口舐めてみた。
驚いた。これが同じウイスキーなのか!。部長が持参したものだった。スコッチ、と部長は言った。
舌に乗せたときの重量感がまるで違う。口の中一杯に拡がる芳香が、ふんわりと膨らんで歯茎や頬の内側を押し広げる感じだ。
賄いの杉田さんが大根の煮付けを皿に載せて持ってきた。これはいい、これはいい、と部長は喜んで食べた。
「この間の話だが…」と部長は箸を置き隆治に眼を向けた。
「事態を静観しよう、と専務は言うんだ」
「何のことですか?」
「独立採算、いや、君の言う『売りの買い』ってことだ」
「そうですか。ただ、現状のまま進行して行って不良品が出なくなり、カットマーキングまで手をつけて合理化してゆくと、原材料に余剰が出ると思うんで
す。その場合ですね…」
隆治は回収屋の話をした。
「本社資材部と金森総務の関係だろ、それは専務も感ずいてるよ。薄々だけどな」
「でしたら、どうして…」
「うん」部長はグラスを煽って注ぎ、隆治にも注ぎ足した。
「君も知ってるだろう。本社の中に派閥がある」
隆治も聞いたことはある。若い社員の間では最大の関心事であるらしく、昼食を社外で摂るときなどよく噂になった。
隆治はその種の話題を好まなかった。意見を求められそうになると場を外すことが多かった。しかし耳には入ってくる。
「社長派と専務派だ。社長派には資材部の常務がべったりだ。それに財務部。専務派は営業部を抑えている。残るのは総務部だが、これはまあ様子見だな、旗
色のいい方になびく構えだ。そこで、いま君の調査結果を公表すれば専務の方が圧倒的に有利なのは判っている。だが時期が悪い。株主総会が近いんだ。総会で
紛糾すれば、会社そのものの存亡か、役員の総入れ替え、なんてことに発展しかねない。そうなっては元も子もない。だから戦いはその後、ということになる」
部長はどちら派なんですか、と隆治は訊きたかった。
「ぼくの心配しているのは、中国の工場のことですが、やはり資材部が…」
「あ、それは心配ない。あと一・二年で中国もWTOに正式参加するだろう。それまでは現地で資材調達することになる」
「品質は大丈夫でしょうか」
「まあ、強度や粘度に問題はあるかもしれんが、外国の技術者を招聘するなど、それなりの努力はしている。うっかりしてると、数年で日本よりいい物ができ
るようになるかもしれんぞ。問題は電力だよ。エネルギーは百%石炭だ。北京から高速バスで六時間だが、途中の山脈を越えととたんに空の色が変わってしま
う。スモッグだな。加えて水不足だ。飲料水はペットボトルで売ってるから心配ないが、乾燥地帯だからたまに雨が降ると『いいお天気だ』と言って住民は喜
ぶ。水源は黄河だが、最近は水量が低下しているそうだ。水質も悪い。そうだ、浄水器を安く作れれば向こうで売れるかもしれん。しかし、沿岸地域と違って貧
しい地域だからな。…現状の品質ではそれに見合った製品企画をたてればいい。一年間は試運転だと思ってかからなくちゃ」
十三
コンピューターを買いに行くので、一緒に来てくれませんか、と金森総務が言う。
「どこで買うんですか」と隆治は訊いた。
「この辺じゃK百貨店しかありませんね」
急に、隆治は奈美子のことを思った。忘れていたわけではないが、数日間の慌ただしさに、思い出すひまがなかった。
「いや、ちょっと準備しなくちゃならないことがあるので…」
CPUとHDに余裕さえあれば、あとの機能は必要に応じて殖やせばいい。OSはウインドウズにしワードソフトが入っていれば余分なソフトは必要ない。で
きれば、いま使っているのと同じメーカーのものがいいだろう。
隆治は要点だけを書いて金森総務に託した。あのときの、庶務課という部屋の男の疑わしげな表情を思い出す。
「課長さん、電話です」
金森総務が出掛けて一時間後のことだ。コンピューターの選定のことかと隆治は思った。
「女の人ですよ」と受話器を渡しながら、女子事務員は小声で意味ありげな笑いを投げかけた。
「あ、隆治さん…」奈美子の声だった。
「うん」
「ごめんね。ごめん…」
「もしもし、いまどこ?」
「ごめん、それだけ。それだけ言いたかったの」
「どこにいるんだい。どこから掛けてるの?」
「じゃ、元気でね、さよなら」
「もしもし、もしもし…」
電話は切れた。奈美子の名前を口に出して言えないのがもどかしかったが、電話は切れてしまった。
その夜、隆治は悶々とした。
CDを回したが、ショパンの繊細さも、ドビュッシーの深淵も、索漠として砂を噛むようにしか感じ取れなかった。
自慰にも快感はある。だがそれは、衝動からの逃亡だけで、点と点を結ぶ短絡的な行為でしかない。あのゆったりとした、互いの愉悦を誘い合うという心遣い
が伴わない分、寂寥感だけが残る。
ウイスキーを飲むしかない。そして、酔って、ベッドに入る。眠りだけが唯一の救いだが、眠れれば、の話だ。
そんな繰り返しに、隆治は虚ろになる。所在なく、やりきれなさだけが募る。
昼間仕事に打ち込めば、次から次へと新たな発見があり、時間の経過も忘れるほどだが、夜には暗鬱が襲いかかってくる。
机もコンピューターも揃って、檜山康彦への特訓が始まった。康彦はすでにコンピューターの操作は知っていて、その面での負担はなかった。
隆治が作った作業要領の書式に、新しく投入する製品の仕様とデータを打ち込めば、当面の作業は消化できる。投入予定日から逆算すれば一日何枚消化すれば
よいか計算し、余った時間を生産管理の基本教育に回せばよい。
手の働きを分解すれば、指を、伸ばす・曲げる・突く・摘む・引き寄せる・上げる・下げる・押す・掴む・捻る・掌に載せる、など、十七になる。これを
『サーブリック』と言い。要素動作と訳す。
これらの『要素動作』を幾つか組み合わせると『作業動作』となる。例えばある作業をするために作業員は脇にある材料を作業台に持ってくるとする。これは
一つの完全な『作業動作』であって、この中には幾つかの『要素動作』が含まれ、組み合わさっている。この『作業動作』を更に幾つか組合わせていって、一つ
の作業を終わらせるまでの過程を『工程』と言う。
作業要領というのは、その『工程』を余すところなく記述したもの、ということになる。
もちろん、一枚の書式の中に記述するのだから、文章では書ききれない。記号を用いることになる。記号だから知らない人には訳が判らないものになる。それ
では困るから、記号解読書を作って予め配っておく。
隆治は、人にものを教え、ひとつひとつ確実に理解されて行くことが、こんなに面白い、ということを初めて知った。
小正月という地域の行事がすんだ頃から、工場前の道路の舗装工事が始まった。大きな砕石をローラー車で埋め込み、その上に砂利を敷いて更にローラーをか
ける。その間、町道までバイクは手押しで出なければならず、徒歩の人達も足下に気を配らなければならなかった。
雪が降り、二・三日たって消えたと思うとまた降り、寒い日が幾日も過ぎた。
ようやく陽射しが伸びてきて、舗装工事も再開された。
隆治が赴任してきて一年になる。奈美子と知り合ったのもいま頃だった。
ラベルのボレロのようだ。と、隆治は思った。
繰り返し繰り返し、だが単なる繰り返しではなく、次第に高まっていって、絶頂に達する直前、突如として断ち切られる。奈美子はどこに消えたのか。
夜、ときどき食堂からカラオケの音声が聞こえることがある。歌うこと自体に酔っているような声だ。
そんなとき隆治はCDを停めてしまう。月光に鎮められた清澄な海に、汚れた水が流れ込んでくるように感ずるからだ。
女が男に恋い焦がれ、必死になって追い縋ろうとする。そんな歌詞を思い入れたっぷりな節をつけて酔っている。酔わせている。
本社からの新製品は次第にロットが小さくなってきている。生産効率が高まってきているので、ひどいときは一ロットで一ヶ月に充たない場合がある。
多くは簡単なデザインの変更かアイデアの付け足しに過ぎないのだが、営業のあせりが目に見えるようだ。
決定打が打てる自信もないのに、決定打ばかりを狙っている。なぜもっと、従来品の質を高めて、着実に伸ばしてゆこうとしないのだろう。そんな考えは古い
のだろうか。他社がヒット商品を出したからといって、右往左往することはないのに…。
隆治はそんなふうに考えたが、目の前の作業は消化しなければならない。
手慣れてきた康彦に手伝わせれば、工程分析も作業要領の作成も滞るということはないが、康彦に対するレクチャーの時間が取れなくなった。
「毎晩二時間づつぼくの部屋で勉強しないか。残業という訳にはいかないけど」
「はい、結構です。お願いします」
十四
工程分析を作ってみれば設備配置図も考えられる。
ところが設備は簡単には動かせない。現在の設備は工場の発足当時に生産されたものが半永久的に続くという想定から計画された配置なのだ。
だが当然、生産されるものが変わってくると生産の流れも変わってくる。といってロットが変わるたびに設備配置を換えるというわけにはいかない。
そこで物の流れの方を考えてみる。Aという部品とBという部品をCという工程で組み合わせる場合、AとBとが近くにあることもあるし遠いこともある。
この場合AかBか、どちらかの作業員が運ぶか、Cの組み立て工程が取りに行くか、しなければならない。するとその時間だけ機械の方は稼働していないこと
になる、明らかなロスタイムだ。そこで運搬員が必要になる。
部品の運搬は台車を使えば未経験な女子にでもできる。これをアメリカなどではフロアーガールとよんでいるが、ただ、どの時点でどの道を通り、どこへ運ぶ
か、ということを予め指示しておかなければならない。
それが物流経路図だ。
檜山康彦は熱心にノートし、一区切りつくとバイクに跨って帰って行く。
二時間という約束だったが、内容によって一時間半だったり二時間をオーバーしたりする。
康彦が帰ると、隆治はウイスキーを舐め、充実した気分でベッドに入る。
里山の木に白い花が咲き始めた。訊くと、杏だと言う。遠くて判らなかったが、言われてみればそんな季節になっていたかと気付く。
工場前の道路が完成した。二十センチほど高いコンクリート枠で畑と道路を仕切り、土の流れ込みを防いでいる。暗渠式の排水溝は工場の用水槽に合流してい
た。
雨水が流れ込めば、地下水の汲み上げが少なくて済む、と金森総務は言う。
ふと、工場の排水はどう処理しているのか、と隆治は訊いてみた。処理槽で科学処理し、U字溝を使って二キロ先の用水路に流している、と言う。
「もう限界なんですよ。これ以上生産規模が上がると、処理し切れません。未処理のものを流すと問題が起こるし。水で薄めるとU字溝が溢れますしね」と生
田工場長。
生産規模は何も変わっていないが、隆治が就任してから生産は確実に上向いてきていた。
隆治はそれを、工場の能力が本来の状態に復帰した、と捉えていたが、工場長や総務課長は派生する問題に明らかな困惑の表情を示している。
隆治は、部長への月例報告に排水浄化の問題を書き加えた。
ダイアゴナル・スルー。
「傾斜投入、とでも訳すかね。変な訳だけど」
工程ラインを大別すると、本体の加工、付属部品の加工、中間組立、本体組立、になる。ものによっては本体加工が二本の線に別れて、最終組立段階で合流す
るという場合もある。
川の流れと同じだ。源流というか、主流というか、どっちでもいいが、とにかく本流があって、途中で支流が幾つも加わって大きな川に成長して海へ出る。
工程ラインも本体加工から始まって小さな部品の取り付け、大きな部品を加え、そして最終の組立に入る。この流れが本流、これに部品を供給するのが支流、
これは言わなくても判るね。
ただ、流れがスムーズに行くためには、組立段階で必要なパーツが全部揃っていることが条件だ。
どんなに小さな部品でも、加工には機械を使う。機械は、前のロットの時の調整とは違った調整に直さなければならない場合もあるし、故障することだってあ
る。
作業員が急な都合で休むということもある。そんなことが原因で部品が間に合わなかったりすると、工場全体の足並みが大きく乱れる。だから組立ラインに本
体が流れてきたときには、検査済みの部品が揃っていなければならない。
そこで『傾斜投入』だ。
つまり、全工程を一斉に投入するのではなく小さい部品を先に投入し、中間の部品、大きな部品、そして本体、というふうに時間差をつけて投入してゆく。
ものにもよるが、大体、一日づつずらせばいいだろう。そうすれば中間検査を通った部品が組み立てラインに待機していて、アセンブラが滞るというトラブル
を回避できる。
十五
五月の連休に、隆治は東京へ戻った。
連休中は寮に入っている者たちもそれぞれの実家に帰って、工場の食堂は休みになる。去年は自炊して昼間はごろごろし、夜、奈美子のもとへ通ったが、いま
はそれもできない。
家では兄夫婦が子供連れで海外旅行に出掛け、姉一家は夫の実家を訪問し、弟はサーフィンの合宿で湘南へ行った。
家には父・母・妹の三人だけがいた。
隆治は二階の弟の部屋に横になり、片肘突いてテレビを点けたが、どのチャンネルも子供向けのものだったり、スポーツ中継ばかりで面白くなかった。
それでも大の字に手足をのばすと、やはり畳の部屋はいいな、などと思った。
弟のCDを掛けてみた。どれも騒音に近い音と叫び声のような歌ばかりで、趣味ではなかった。
本棚の隅にカセットテープがあった。何かからダビングしたものらしく、ボールペンで細かく書いてあったが、擦れていて判読できない。
筆跡は自分のだった。掛けてみると『耳に残る君の歌声』『サマータイム』『ハバネラ』『イエスタデイ・ワンスモア』などを寄せ集めたものだった。
あの頃、音楽ファンにも派閥があった。ジャズ派、ビートルズ派、ローリングストン・ベンチャーズ・そしてクラシック。自分たちでバンドまで作った連中も
いた。
「古いよ、古いよそんなの、お兄ちゃん」
振り向くと、妹が立っていた。
「そうか」
昔だったらうるさい!、と怒鳴っていたかもしれない。
「あ、お客さんだよ」
「俺に?」誰だろう?。
玄関に、総髪で、髭を顎の下まで伸ばした、紺色のトレーナー姿の男が立っていた。
隆治を見ると「悪いな、前触れなしで…」と、髭の間から白い歯で言う。
「なんだ前山か。髭なんか伸ばして、判らなかったよ」
上がれ、と言おうかと思ってやめた。歓迎するような相手ではないし、母・妹に気を遣わせるのも嫌だった。
「出掛けてくるよ」家の中に声を掛け、隆治は靴を履いた。
外へ出たものの、さて、どこへ行こうか、と隆治は思案した。
幼いときから飽きるほど見慣れた街で、一向に面白くもない通りだったが、ともかく歩いた。前山は手をポケットに突っ込み、黙って着いてくる。家に上がれ
と言わなかったのが、面白くないのかもしれない。
大通りを渡って隣町まで来た。ここまで来れば近所の人と顔を合わせなくてすむ。
「コーヒーでいいか」と隆治は前山に言った。
「ああ」
裏通りの店に入った。入り口のカウンターにコーヒー豆を詰め、銘柄を記したガラス瓶がずらりと並べてある。二人はカウンターからいちばん遠い隅の席を選
んだ。
「何で、髭なんか伸ばしたんだ。急に…」
「ああ、ちょっとな…」
「勤めは、空調のリース、だったな…」
「辞めた」と前山は隆治の言葉を遮るように言った。
「辞めた?…で、どこかに替わったのか」
「いや、フリーター、と言うのか…」
前山は、コーヒーをすすり、どん、という調子で背凭れへ身体を押しつけ、瞼を下げて「汝らのうち罪なきもの石を擲て。って知ってるだろ」。
言って隆治を見つめる。
「何だ急に、クリスチャンになったのか」
「違う、その反対だ」
でもその髪型と髭は、聖画の真似したとしか思えない。
「『すると一人去り、二人去りして、遂に誰もいなくなった』。俺はな、もしそれが俺達だったらどうしただろうと考えるんだ。俺は悪いことしていない、俺
には罪がない、だから石を投げる、自分の無罪を証明するために石を投げる。え、そうだろ。そう考えると、当時のユダヤ人ってのは偉かったんだなと思うん
だ。『罪なきもの石を擲て』、なんてちょっと気の利く奴なら誰でも言える。けど『一人去り二人去り』ってのは自分の罪をみとめたってことだ。身に覚えが
あって、恥を知ってたってことだ。もし現在にキリストがいて、みんなが争って石を投げたら、何と言うだろう」
「お前、会社で何かあったのか」
「何もありゃしないさ。気がついただけなんだ」
何に気がついたのか、隆治は黙ってコーヒーを飲む。
「〈荒地〉に『立棺』てのがあったな」
前山は急に話の矛先を変えてきた。
〈荒地〉は高校のころ読んで、『サルトル』と共によく議論し合ったものだ。むろん高校時代だつたから前山はいなかった。黒田三郎とか鮎川信夫という名前は
記憶しているが『立棺』がだれの作だったかもう覚えていない。
『わたしの屍は立棺におさめよ』たしかそんな詩だった。
思えばあの頃が懐かしい。
口角泡を飛ばすと言うが、スポーツのような感覚で無責任に議論そのものを楽しんでいた。そういえば、無責任時代、なんて言葉が流行ってたなあ。
「俺は『立棺』の詩の内容をどうこう言うんじゃない『立棺』という字面からくる俺のイメージのことを言いたいんだ」
どうぞ、勝手に何でも喋ってくれ、と隆治は目の前の髭面を見ながら思った。揉み上げから鼻下から頤を覆いつくす髭の途中が、話すたびにパカパカと割れ
て、薄い唇が横を向いた陰唇みたいに動く、いや蠢く。やはり陰唇に白い歯は似合わない。
「動柩、と言い換えてもいい」と、陰唇が声を出す。
「きのう俺は、新幹線の改札口まで行ったんだ。多勢いたよ、身動きできないほどだった。服装もまちまちだが、背広にネクタイをきちっと結んだのも結構い
た。そんなのはきまって肩にショルダーバッグ一方の手にボストン、従う女房は瀟洒な身姿りで子供の手を引き、片手にはデパートの紙袋だ。幸せそうな笑顔浮
かべてな」
「お前、たしか鳥取だったな。今年は帰らないのか」
「うん、そりゃまあどうでもいい。俺がその時見えていたのは、帰りの風景だ。荷物振り分けにして肩に掛け、眠りこけた子供片手に抱き、背広はよれよれ、
ネクタイ半分ほどけ、シャツの襟は汚れたまま。髪は乱れ、額には汗が噴き出し、無精ひげ生やした顔は疲れで歪んでる。女房は往きに亭主が持ってたショル
ダーとボストン提げて、重い脚引きずり、満員の車両から押し合いへしあい、よろけながら出てくる」
「いったい、何の話だ」
「まあ、聞けよ。みんなそうなんだ。明日から会社があるから、どうしてもその日帰って来なけりゃならない。会社の仕事考えると気は重いが、仕方ない。誰
も面白くて会社行ってる訳じゃない。できればもう一日でも二日でも、故郷の家でのんびり過ごしたかった。あるいはその逆に、田舎の家なんて真っ平だ、やっ
ぱり、建て込んでいても我が家が一番。そんな思いが顔に描いてある。だから、それはもう魂の抜け殻だ。動いているだけ、動く柩だ。俺は何も、その日のこと
だけ言ってるんじゃない。毎日がそうなのさ。サラリーマンだけじゃない。自分で選んで、自営してると思ってる奴も、結局は何かに動かされてる。一人で生き
てるって思っても、所詮何かに繋がらなくちゃ生きられない」
判りきったこと言うな、と隆治は思った。
「高校生程度の考えだ、と思ってるだろう。いま」
「うん、まあな」
「原発反対とか言っても、火力発電に切り替えれば、大気汚染だダイオキシンだ、と騒ぐんだろ。水力にすれば自然破壊だと言うし、風力じゃ多寡がしれて
る。塵埃焼却場にも反対だ。だが、そう言ってる本人は電気使ってねえか。ゴミ出してねえか。そのほかいろいろある。人間自身の矛盾てのがな。いまこの現状
にキリストが降臨してきたら何と言うだろう『罪なき者、石を擲て』なんて言ったら、みんな争って投げるんじゃねえか『一人去り、二人去り』なんてしたら、
変わり者、裏切り者、って非難を浴びる。そういう世の中になったんだ。二千年前のユダヤ人には心というものがあった。現代人はどうだ、エゴばかりで心がな
い。食物連鎖の頂点に立つ人間は、あらゆるものを食い尽くし、地球は人間だけになって、やがて滅びる。いや、もう滅びちゃってる。いま蠢いてるのは、一人
去り、二人去りした、あの人間じゃない。魂の抜けた、『立棺』だ。『動柩』だ。姿かたちが人間と同じだから始末悪い。そうして俺達旧人類は駆逐されてい
く」
前山は冷めたコーヒーを啜って、唇の周りを掌で拭う。
「俺はな、空調の設備なんかやってたろう。フィルター交換しながら思ったんだ。冬の午後、日が翳ってくると寒いんだ。狭いブラインド柵の中で震えなが
ら、隙間からふと覗く。斜め下に隣のホテルの部屋が見えた。北側の部屋だったので、窓のカーテン開けて灯り点けたまま、ベッドで真っ最中だった。そのホテ
ルにも空調あって、暖房が効いてる。それで素っ裸でな、二人で燃え上がってやがんだ。こっちはぶるぶる、歯の根も合わねえ思いしてんのに、やってらんねえ
な、って気がした。マイホームってのも生殖のための巣箱だろ。それでもいいよ、生殖が伴えばまだまっとうだ。いまはそれさえ無くなってきてる。快楽追求の
密室以外のなにものでもないんだ。メフィスト博士の子孫みてえにな。いまはもう、みんな一様に食えるようになった。貧しいと言っても餓死するわけじゃね
え。グルメとか言って、贅沢ができないから貧しいって言ってる。それでヒートアイランドとか地球温暖化とか言って、真顔で心配してるってわけだ。自然保護
とか叫んでるの聞くと、自然と人間が対峙してるように聞こえる。まるで、人間も自然の一部だってこと、忘れてるみたいだ」
「大晦日に会ったときは、そんなこと一言も言わなかったじゃないか」
「ああ、あのとき俺はまだ、もやもやしてたんだ。いまでもそうだが…」
「そんな理由で、空調の会社、辞めたのか」
「ああ、それもある。だいたい空調ってもの自体がおかしいだろ。自分で空気汚しときながら、その空気を密室の外へ排出してるだけだろ。じつにくだらない
発想だよ。だから俺は現代人の、いや『動柩』の社会ってものから決別したいと思ったんだ。でも、それができねえんだなあ。どこへ逃げても、『動柩』と関係
ない場所なんてありゃしねえ。逃げられねえ。人間が人間によって虜にされてる。自立なんてことはあり得ない。煉獄なんだこれは…」
「ちょっと、考え過ぎじゃないのか」
「そう見えるか、やっぱりな。そう見えるってことは、お前も『立棺』に片足突っ込んでる証拠だぞ。だが、友人として警告しとくが、これからは物は買う
な、塵埃を集めるようなもんだ。デフレもはじまる。いやもう、その渦中にいる。電化製品だ車だ、と快楽の道具を揃えても、物の価値は下がるばかりだ。本物
の快楽が欲しかったら、安酒飲んで、歌、唄って、踊って、狂う…」
「それこそ、魂が抜けてるんじゃないのか」
「いや、俺が言ってるのは、搾取したりされたり、顔ゆがめて働いて、子供も満足に作らず、作れば作ったで受験だ教育だ、環境汚染だ、自然破壊だ、っ
て…。自然にはな、摂理ってものがあるんだ。二酸化炭素なんて、条件的推論に過ぎないんじゃないのか、人間のやってることも自然の一部だし、あるいは、地
球自体がいま、氷河期と逆に、上昇過程にあるのかもしれない…人間自体も急激に変わって行く…」
「判ったよ。もう…」隆治は残ったコーヒーを飲み干した。
「そうか…。……。所詮、言葉なんて無力だよな…」
前山は憮然とした面もちで立つと「お前な、紗慧には気をつけろよ。ありゃあ魔女だぜ」と言う。
なんだ、結局それが言いたかったのかと隆治は思った。
横断歩道を渡ると、俺はこっちだから、と前山はポケットに手を突っ込んで隆治とは反対の方へ歩いて行く。前に会ったときより、少し肩が下がったようだ、と
隆治は遠去かる前山の後ろ姿を見送った。
「何だい、素通りするのかい」と古谷のおじさんに声をかけられた。
看板は外してあるが、店の構えは昔のままである。
「いえ、そんなつもりじゃ…」
「でも、声かけなきゃ、行っちゃうつもりだったろう」
「お邪魔しちゃ悪いと思って…」
「何を言ってるんだい。水くさいなあ。ささ入んなよ」
店のコンクリート床に縁台があり、松の盆栽が並んでいた。
十六
五月の風の中で、遠い里山に緑が蘇り、爽やかな日が続いた。工場前の道路を、軽トラックや耕耘機の往復が頻繁になった。
促成栽培の野菜の出荷です。と金森総務が話した。
「昔は、去年茄子が高値だった、ということで一斉に茄子を作って、市場に茄子が溢れ、暴落し、胡瓜が高かったりするんです。すると翌年、こんどは一斉に
胡瓜を植える。そうしてまた暴落。そんなことの繰り返しだったんですわ。それで農協が指導に乗り出し、生産調整してやっと息がつけるようになったんです。
いまではハウスで促成栽培などしましてね、近隣の農村に先駆けて出荷。東京の新し好きに売り込んでるわけです」
道路を改修したので、他の道を通っていた車までこの道を使うようになったのだ、と言う。
工場の生産は順調に伸びていった。檜山康彦も連休中に自宅で学習したらしく、作業要領の作成も康彦ひとりで充分なほどになっていた。
ただ、それらは隆治が考案した書式に記述することに熟達した。という段階にとどまっていて、現行の作業には充分に対応できるが、隆治が去った後、どんな
難しい製品が持ち込まれるか解らない。それに対処できるようになるためには基礎的なことで、まだ覚えておかなければならないことがある。
夜のレクチャーを再開した。
「motion study observation」
動作研究というか観察というか。まあその両方の意味があるんだが、作業要領を作ってその製品が投入されたら現場へ行ってみて作業要領のとおりの動作が実
行されているかどうか、確かめてみなければならない。実行されていない場合、なぜ実行されないのか考える必要がある。叱るのはだめだ。叱るってのは管理と
して最低。こちらが考えなくてはいけない。通常は右利きであることを前提として作業要領を作っているわけだが、その人はたまたま左利きだったかもしれな
い。そうすると作業要領に描かれた動作は非常にやりにくい。だから作業要領のとおりにはやらない、動作を守らないということになる。あるいは、やりにくい
のを我慢してやっている人もいる。そういうときは動作そのものが非常にぎごちない。作業も緩慢になる。それは観察していればすぐに解る。そのときは作業要
領そのものを左利き用に描き直してやらなければならない。
小さい部品を取り付ける中間組立のような工程では手の長さと部品を置く場所との位置関係が重要だ。遠い位置に部品があるといちいち身体を傾けて手を伸ば
さなければならない。この場合は部品を載せる台なりトレーなりを手の長さを半径にした内側に置けるよう工夫する。部品が後方にあると身体を捻らなければ取
れない。この場合は正面を向いたときの九十度以内に置くようにする。
また身長の低い人の場合、目の前の機械なり大型の部品に隠れて、向こう側が見えない、ということがある。そのため、その都度つま先立ちしている光景を見
かける。そんなときは身長に応じた踏み台などを作ってやる。
順調にいっているようでも、問題が隠れていることがある。それには時間測定が必要だ。
スタートから終了までの一セットごとの作業時間を測定するのではなく、エレメントに分解して測定する「右手で工具を握った。左手で部品を掴んだ。本体に
部品をあてがった。右手の工具で部品のあたまを回した。工具を置いてスイッチを押した」という具合に、右手・左手・機械の運転、という風に動きを分解して
計測し、記録する。そうするとその中に、無理な動きや、無駄な動きがあることが解ってくる。そこを訂正してやってみてもらう。
やってみたら結構面白くて…となればしめたものだ。もし結果がよければ、誉める。誉めることが大切だ。新しいやりかたや方法はその人が考案したことに
し、手柄にしてあげる。
「無理や無駄を訂正するのは解りますが、基本的にどういう方向、といいますか、どういうことを念頭においてやればよいのでしょうか」と康彦は鉛筆の手を
置いて質問した。
「うん、そうね、それは大事なことだ。まず安全ということが第一だね。次ぎに疲労負担の軽減かな。能率が上がるというのは結果であって、その前に品質の
保持と向上がこなければならない。そうして、自然体の状態で作業に集中してもらう。向日性というかね、ひまわりの花は常に太陽の方を向いている、というの
で向日葵と名付けられたというが、実際に向日葵の花はそんなふうには動かないらしい。それはともかく、余計なことを考えなくて済むようにしてやる。単純
に、目先の作業だけに没頭できるようにしてやる」
隆治はそこで一息ついた。固い話ばかりした、と反省する。
「仕事を、面白がらせる。面白がってやるように仕向ける。と、まあこれは表の話でね…『女と猫は呼ぶと来ないで、呼ばないと来る』ってメリメという作家
の有名な言葉があるが、実のところは作業員を『機械を操作するための機械』にしてしまおう、という魂胆…」
言ったとき、ノートに向かっていた康彦が、キクッと顔を上げて、まじまじと隆治の顔を見据えた。
「課長は」。言っていったん唇を結び、唾を呑みこむ。
「奈美子のことも、そう思ってたんですか」
「奈美子?、何のことだい」
「奈美子は…」。康彦は急に涙を流し、
「奈美子はぼくの姉なんです」
「え?。奈美子は…だって、柏木奈美子って…」
「柏木は、姉の嫁ぎ先です。N村の酒造会社」
「あっ」
隆治は声を呑んだ。
「姉は、柏木の家では子供を産むための道具として扱われ、そして…、そして課長には…」
「違う。誤解だ。それは違う」
康彦は忙しく筆記具を鞄に入れ、一礼してドアへ向かった。
「誤解だよそれは、檜山君」
康彦は振り返りもせずドアを後ろ手に閉めて出て行った。
追いかけようと靴を履きかけたが、隆治は諦めた。バイクが駆け抜け、走り去る音がしたからである。
翌日、康彦は何事もなかったかのように出勤してきた。しかし、自分のやるべきことをやると、定時にはさっさと帰ってしまい、隆治のレクチャーを受けるこ
とはしなかった。
誤解を解かなければならない、と隆治は焦ったが、康彦は仕事で必要なこと以外は話しをしなくなり、また、事務所や食堂など、人に聞かれる場所で奈美子の
名前を口にすることもできなかった。
だいいち、どのように話せばいいのだろう。
『愛している』などと歯の浮くような言葉で言えばいいのだろうか『結婚』と具体的な言葉を使えばいいのだろうか。
せめて奈美子の所在だけでも知りたい。
可能性としては実家、康彦の家にいる、と考えるのが自然だろう。実家にいないとしてもその所在は知っている筈だ。
五月の風は長続きしなかった。季節は梅雨に入り、細いいぶし銀の糸を垂らしたような雨が連日続き、毎日湿っぽく、身体の中にまで黴が生えるのではないか
と思える日が続いた。
「檜山君」帰りかけた康彦に隆治は思いきって声をかけた。
康彦に返事はなく、合羽を着る手を止めてじっと見入る。だがやはり、事務所で奈美子の名を口にすることは出来なかった。
「ちょっと、部屋へ来てくれないか」
部屋へ入ると、隆治は奈美子の置き手紙を黙って康彦に渡した。丸めて屑籠へ投げ込んだときの皺が残っている。長い文章ではない。だが康彦は長い時間それ
を見ていた。
「そこに書いてある(ある筋)っていうのは君のことかい」
康彦は無言のまま、まだ手紙を見ている。
「君の家にいるのかい」と隆治は重ねて訊いた。
「いえ、家にはいません」
「じゃあ何処にいるのだろう。教えてくれないか」
「解りません。何の連絡もないんです。家の者もみんな心配してるんです」
見ると、康彦の瞼に光るものが浮いている。隆治には言葉がなかった。本当だろうか、と考え、嘘をつくような男ではない、と目の前の康彦を見る。
でも本当に本当だろうか。口止めされている、ということはないだろうか。
『所詮、言葉なんて無力だよな…』
前山の表情が浮かんだ。言葉が無力なのは解っている。だが何かを伝えようとするとき、言葉以外に方法はない。
「失礼します」と康彦が一礼して出ていった。 確かめてみなければ本当のことは判らない。そんな疑心暗鬼が、隆治の心にはびこっていった。
十七
梅雨が明けると、猛暑がやってきた。
工場前の道路は、朝早くから夏野菜を積んだ軽トラックや耕耘機の往来が頻繁になった。そのうちの一台を止めて金森総務が西瓜を二個買った。それを事務所
のみんなで昼食後に食べた。
それがきっかけだった。
昼の休憩を狙って西瓜をリアカーに積んだ耕耘機が工場の門前に停まるようになった。工場の従業員が三人か四人で一個の西瓜を買い、その場で割って食べ
る。西瓜はたちまち売り切れた。
三・四日経った頃、門前の畑の持ち主が道路沿いに四本の柱を立て、日除けのシートを張ると戸板状の板に西瓜を並べた。
翌日には五十メートルほど隔たったところに別の農家が板屋根の小屋を建て、包丁や食べ滓を入れる段ボールなどを用意した。すると最初に小屋を作った農家
はすぐ隣にもっと大きい小屋を作り、葦簀(よしず)を回して中にベンチを置き、完熟のトマトやプリンスメロンなども並べた。
工場前の道路と町道が交わる角の食品店が取り壊され、新しく建て替えることになったという。
食品店といっても干した魚や昆布・缶詰・瓶詰といった類いのものを平らに並べただけの貧相な店だったが、西瓜やトマトの売れ行きをみて、改装する気に
なったらしい。と農協の事務員が食堂用野菜の納入について打ち合わせに来たときに話した。
「競争の原理っていうのは判りますが、こうなると困ったもんですな。道路沿いでない農家が金を出し合って共同経営するらしいんです」
少ない客を取り合う形になる。様々な敵愾心が生じて、昔ながらの共同体意識が崩れる。
「弁当とか、清涼飲料とか、軽食とか、そういったものをやればいいんじないですかね」と生田工場長が口をはさむ。
「あ、なるほど、それはいいですな…」
秦野部長が来るという。電話では「緊急事態でな!」とだけ言った。
この前と同じように、夕方遅く来ると、用件は明日話す、と言って生田工場長と金森総務を帰し、ゲストハウスにクーラーを効かせてウイスキーになった。
中国行きが一ヶ月早まり、九月半ばから試験操業に入る。だから来嶋君は夏の連休前に本社へ戻り、企画や設計との打ち合わせに入って貰いたい。
「それとな…」部長はウイスキーでごくりと喉を動かして「ここの管理課長に新しい社員が来る」と言った。
「でも管理には檜山が…」
「いや、それが社長命令なんだ」
「社長の…」
「うん、裏で菅谷常務が糸を引いている」
「資材部ですか」
「資材部の中に生産課というのを作って、此処を管理することになった。二頭立ての馬車ってわけだよ。こうなれば戦いだ『負けるわけにはいかん、絶対勝
て』と専務は檄を飛ばすが、勝つか負けるかは判らん」
「そんなことができるんですか。会社には規定ってものがあるのでしょう。服務規定とか、業務規約とか、社内法律みたいなものが」
「真っ先に法を破るのは誰だと思う…。その法を作った人間だ。政治家をみれば判るだろう。相手は友倉実業だからな、菅谷常務を経由してきた」
友倉、どこかで聞いたことがある、と隆治は思った。
「その友倉から柏木浩之という若造が送り込まれて、管理課長だ」
「柏木?」
「知ってるのか」
「多分…、大学の後輩です」
「そうか。後輩か。それじゃ経験はないのだな。秀才というふれ込みだが」
上げ潮のときはいいさ、誰がやってもどんどん進む。問題があれば引き潮のときだ。引いてゆく渦をどう乗りきるか。製品の傾向が劇的に変化するときが勝負
だな。
最も危険なのは、自社の恥部を排除する役割を、社外の者に委せようとすることだ。下手をすると傷口が拡がり、命取りになりかねん。
自分だけが正義だと思ってはいかん。評価というものは時代の流れというものを根拠に、左右されがちだ。正しいと信じて行うことも、見る角度によれば悪と
みなされる。我々の仕事も結果がすべてだが、時流をしっかり見極めてかからんと、真価を認めては貰えん。
稼ぎたい奴は稼ぎたいだけ稼げばいい。世間の喝采を浴び、そしてあっという間に厭きられ、消えてしまう、沢山の在庫抱えてな…。
専務が言ってた『片仮名のアイデアはいかん』というのはそのことだ。つまらんルールなんてものはなくせばいいんだ。何が本物か最終的には消費者が審判を
下す。
中国で、言葉も習慣も考え方も異なる環境だ。圧倒的に不利なのは解ってる。負けるかもしれんよ。負けるかもしれんが、負けることより、その負け方のほうに
問題がある。負けるときは、悔いを残さぬようにせんとな。
ふと、隆治は五月の連休のとき呼び止められて聞いた、古谷のおじさんの言葉を思い出した。
「ときどき『この国に生まれたから罪人なのか』って考えることがある。赴任中に『靖国参拝だの大臣クラスの失言』があったりすると、新聞を突きつけられ
て言われる『お前たち、五十年前にこの土地で何をしたか』五十年前は小学生だったんだが…「まあ、全部が全部、そんなことを言うわけじゃないよ。でも一人
に言われると、『言わないでいる人たちも、腹の中ではどう思ってるんだろう』って、どうしても勘ぐってしまう」
翌日、部長は事務所にラインチーフを集め、この工場が資材部の管理下におかれること、管理課長に柏木浩之が就任すること、自分と来嶋は九月から中国の工
場へ赴任すること、などを正式に話して挨拶し、生田工場長に送られて帰っていった。
十八
翌朝、檜山康彦は出勤すると自分の机に向かう前に、金森総務に封書を渡し、そのまま足早に帰ってしまった。
「辞表ですよ」生田工場長にとも隆治へともなく、呟くように金森総務は言った。
「辞表?」隆治は怪訝な気持ちを声に出した。柏木が来るとしたら、何らかの処遇をお願いしたいと話したとき、考えよう、と部長も言っていたのだ。
「まあ、そうだろうと思ってましたが」と金森総務は言う。
「どうしてですか」
「柏木浩之と檜山康彦は高校の同級だったんですよ。同級生が上役じゃ、やりにくいのでしょう。それに…」と金森総務は言葉を切り、女子事務員の机をち
らっと見て「いろいろと、家庭の事情があるんですよ」と、言葉を濁した。
家庭の事情というのが奈美子のことをさしている、と隆治にはすぐに判った。
「部長も、別な処遇を考える、と言っていたんですがね」言いながら隆治は、そうだ、一緒に中国へ連れていくってのはどうだろう、これなら支障なく実現し
そうだ、と考えた。
二日後に、康彦が給料の残額と今期の賞与を受け取りに来る、と金森総務が言う。慰留はしないのか、と隆治は思ったが、そのことは深く考えないことにし
た。
町に異変が起こっていた。昔ながらの店を取り壊し、建て替える動きが出てきたのだ。金森総務が指折り数えて、四軒が取り壊して新築、五軒が改築だとい
う。工場前の道と町道との角にできた店が、思惑以上に繁盛しているのが刺激になったらしい。
四年に一度という浅間神社の祭礼に「応分の寄付を」と言って来た氏子総代という、皺の間にわずかにのぞく小さな眼を間断なくしばたたかせる老人が、「お
陰で町が眼を覚ましたようですわ。競争時代ですからな、来年あたりは町並みも一新することじゃろ。活気が出てきて結構なことですわ。祭りも盛り上げなくて
は」と農協の職員とは正反対なことを言った。
康彦の代わり、と言って康彦の兄が給料と賞与を受け取りに来た。
乗ってきたバイクも被ってきたヘルメットも康彦のものだった。隆治と同じ年格好である。
生田工場長に一礼すると「お世話になりまして…」と受領書に捺印し、応接のセットに金森総務と向かい合って雑談した。話の様子から、金森総務とは顔見知
りのようだった。
「檜山君はどうしているんですか」
たまりかねて隆治が声をかけた。
「東京へ行ったそうです」と金森総務が言う。
「東京?」
奈美子のところだな、と隆治は瞬時に思った。奈美子は東京へ行ったのか…、
「東京の、どこですか」
「高校の同級生が会社勤めしてましてね、前から誘われていたらしいですよ」とまた、金森総務が代弁した。
親父さんはどうしていますか、とか、誰々さんはなにしていますか、といった短い世間話が済むと、お世話になりました、と、はじめと同じ言葉の挨拶を繰り
返して、康彦の兄は事務所を出た。
隆治は後を追い、バイクのそばでヘルメットを着けているところへ追いつき、
「お姉さんがいましたね、奈美子さんという」と声をかけた。
「はあ」と兄は実直そうな調子で答える。
「いま、どこにいるんですか」
「判らないんです。連絡がなくて…」
「東京、ってことは…、ないですか」
水商売、と隆治は考えた。すると急に、自分が童貞を失ったときの薄暗く油光りした畳の部屋を連想した。
「さあ、それはないと思いますが…」
「檜山の家は代々続く樽屋なんですよ。大きな樽屋でしてね、柏木酒造の酒樽を一手に引き受けていたんです」
昼の休憩で隆治と二人きりになった事務所で、金森総務はそう隆治に話しかけた。
「昔は仕込み用の大樽も作ってたんですが、いまは金属製のタンクに換わっちゃいましたからね、四斗樽だの祝儀用の角樽だのが専門のようです。それでもこ
の頃は殆ど瓶詰めですから、需要は少ないんじゃないですか」
「先細り、ということですか」
「まあ、そういうことですかね。でも、他村の作り酒屋からも依頼があるらしいですよ。親父と、さっき来たのが長男ですが、それと妹の連れ合いの職人と、
三人でやってるんです。昔は十人近くもいたんですよ。仕込み樽は大きいですからね、仕事場も広くて天井も高いんですわ。そこに三人ですから、がらんとして
る」
家族構成が、自分の場合とよく似ている、と隆治は思った。
「康彦君は末っ子ですか」
「そうです。康彦だけが高校へ通ったんです。一番上にナミコという姉さんがいましてね。これが評判の美人だったんです。それで柏木の長男に望まれて嫁に
行ったんです。初めはナミコの方が嫌がってたらしいですが、周りから説得されて仕方なく、ってことですかね。十年も前のことです…それが、六年経って離婚
ですわ。子供が出来なかった。石女(うまずめ)と言いましてね、この地方での昔からの習慣なんです。役所の届けは協議離婚てことらしいですが、そのときナ
ミコが柏木から受け取った、慰謝料っていうんですか、幾らぐらいか知りませんがね、その金で康彦は高校へ上がることができた…」
ああそうか、と隆治は、康彦がむきになった理由を悟った。
「それで柏木の家では後添えと言うんですか、次の嫁さんは貰ったんですか」
「ナミコと別れるとすぐ貰いました。前から出来てたって噂ですがね。ところがです、もう四年になりますが、それにも子供は出来ないんですよ。だから、子
供が出来ない原因がどっちにあるのかって話で…、ナミコのときだって病院で検査してもらったわけじゃありませんでしたからね」
「で、その奈美子…さんは、いまどこにいるんですか」
「ついこないだ、ほら来嶋さんがここへ来たばかりの頃アパートにいたでしょう。あのアパートに住んでたんですよ。あすこからK百貨店に勤めてたんですが
ね、去年の暮れに突然辞めて、その後、正月の初売り出しに東京者らしい若い男がK百貨店に尋ねてきたそうですよ。それっきり、行方は判らないらしいです」
十九
隆治はコンピューターに入っている資料の整理をはじめた。工程ごとの測定時間は貴重なデータだった。これを項目別に仕訳し、工程順に並べ替え、ファイル
に収め、まとめてフォルダーにする。一年半の記録は膨大だった。中国の工場へ持って行けばすぐに使える。次々とCDに焼き付けた。焼き付けた後、HDにあ
る痕跡は一つ残らず消してゆく。
康彦が使っていたコンピューターも同じ処置をした。記録の影も残さない。
夜になると隆治はウイスキーを飲んだ。もう奈美子のことは諦めるしかないのだろうか。遠くから祭り囃子の練習の音が聞こえる。笛も混じっているらしいの
だが風の加減で太鼓の音ばかりが響いてくる。
隆治は「寺山修司」の歌集をめくってみた。
夢でない現実などあるものか!
現実でない夢があるものか!
いきなり、そんな言葉が跳び込んでくる。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
身捨つるほどの祖国はありや
ほおーっ、隆治は溜息とともに眼を宙に漂わせた。
身捨つるほどの会社はありや
身捨つるほどの仕事はありや
身捨つるほどの女はありや
本社からFAXが入り、八日に友倉実業の会長夫人が柏木浩之を伴い、菅谷常務が案内して来るという。金森総務の指揮でゲストハウスは隅々まで清掃され、大
わらわで足りないものも補充した。
「会長夫人ということになると、一つの部屋ってわけにはいきませんね」と金森総務は隆治に眼を向けた。
「泊まらないんじゃないんですか、此処には」
「そうでしょうかね、そうだといいんですが」
「もし、泊まることになったら、男どもは僕の部屋へ寝かせればいい。僕は寮の誰かの部屋へ潜り込みますよ」
「そうですか、それなら助かります」
夏休みは八月十三日からだった。隆治は十日に本社へ戻る、と生田工場長や金森総務に伝えた。それなら九日の晩に送別会をしなければと生田工場長は言い、
そんな心配は無用です。と隆治は言った。
午後だった。輸入車というのだろうか、隆治にはその方面に関心も知識もなかったが、この工場には、いや、この町にはふさわしくない派手な色のスポーツ車
が事務所の前に停まった。
白いスーツ姿にサングラスの女と、同じく白い背広の若い男が下り、向こう側のドアーから菅谷常務が現れた。
生田工場長と金森総務が腰を低くして出迎え、ゲストハウスへ導こうとしたが、女が指差しして事務所の中へ入ってきた。応接セットと隆治の机の間は布張り
の衝立で仕切ってある。
「先に工場の中を見せてもらいましょうよ」
聞き覚えのある声だった。
また工場長を先頭にぞろぞろと出ていった。窓越しに女の横顔を見て、あっ!と隆治は心のうちに叫んだ。
紗慧だった。紗慧の嫁ぎ先が友倉だったと、あのとき聞いていた筈だった。迂闊だった。
急に前山の言葉が隆治の頭をよぎった。
『ありゃあ魔女だぜ』
冷え冷えとしたものが胸の底に涌いていた。
中腰で案内する生田工場長の後から、夏の陽光をまともに浴びた紗慧が胸を張って歩いて行く。並んで歩く白服の男が柏木浩之なのだろう、華奢な体格で、優
さ男、といった感じだ。菅谷常務と金森総務が後尾に従う。
それにしても前山はなぜ、こんなにも紗慧に関する情報を知っているのだろう。
「課長さん」と女子事務員の一人が声をかけた「コーヒー、手をつけてないんですけど、どうしましょうか」
「捨てちゃっていいよ」
「捨てるんですか?」
「インスタントだろう。飲みやしないよ、やつら」
隆治は机の中、脇机の抽出し、と順に整理していった。束ねた書類は全部焼却炉へ運ぶつもりだ。必要なものは全部CDに収めてある。
三十分ほどで一行は戻ってきた。
「あちらの方がくつろげると存じますが」
生田工場長が事務所の前で使い慣れない言葉を使う。
「いいえ、ここで結構」
紗慧が先頭に立って応接セットの奥に坐った。布張りの衝立一枚隔てた隆治の耳に、身を動かす気配や息遣いまで聞こえる。
「きみ、お茶か、ジュースか、早く」
「何も要りませんよ」
紗慧が金森総務に言う。
「古いですねやり方が。あんな設備じゃ、新開発の製品に対応出来ませんよ」
これは柏木浩之の声であろう。何を言い出すのか、隆治は耳をすます。
「何が必要」と紗慧。
「まず、主要工程をセンサー制御付きのマシン、数値制御工作機に入れ替える。それ用のCADとCAMプログラム作成用のアプリケーションソフト。半自動
化して人員整理ですね、不満分子から順に整理していく」
「そのCAM ってどういうものですか」と、菅谷常務の声。
「Computer Aided Manufacturing
一口で言うと半ロボット化と言うか、生産そのものをプログラムで動かす。設計はCADでやり、生産はCAMでやる。これからは職人の勘に頼るんじゃなく、
すべての動きを数値化して、機械駆動の自動化ですよ。そうしておいて人員整理。半数は減らせるでしょう。人件費も半減できる。そして生産は倍増です」
「そんなことが出来るんですか」と生田工場長がおずおずした声で聞く。
「出来るも出来ないも、よその工場ではとっくにやってることなんだ。そのくらい思い切った改革をしないと、生き残れませんよ」
「柏木君、自信あるの?」
紗慧は横向きに、柏木の方を向いて話しているようだ。
「もちろん自信があるから言ってるんです」
「ご尤もですな。後ほど必要な設備を書き出して頂けませんか、稟議書を作成いたしまして、役員会議で検討しますので」と菅谷常務が言う。
「それがおかしいんですよ。生産そのものを知りもしない連中が、何を検討するんですか」
それこそおかしな論理だ、と隆治は思う。設備投資は販売計画と表裏の関係にある。それとも本社から切り離して、工場を独立させようというのか。
「じゃ、その辺が結論ね。必要な資金は用意しますから…」
立ち上がったようだ。柏木浩之が事務所を出て車の方へゆっくり歩いてゆく。
「来嶋君」
衝立の端まで来て紗慧が呼びかけた。
「K市のホテルにディナーを予約してあるの、あなたの分もよ。そのあと柏木君は実家の方へ帰るんですって。ご一緒しません。部屋も取ってあるし…、いか
が…」
「遠慮しとくぜ。俺は…」
隆治は意識して乱暴な言葉を使った。
短い沈黙。凍ったような瞬間だった。
「そう、仕方ないわね」
紗慧は靴音たてて事務所を出る。
「何てことを言うんだ君は。あの方は…」
「関係ねえだろ。行きたくねえから行きたくねえって言ってるんだ。友倉の色気違いなんかに付き合っちゃいらんねぇ。肚減ってる犬はチンチンでもなんでも
して、しっぽ振り振り従いてきゃあいいんだ」
「なにっ!、君は会社の方針を…」
クラクションが鳴った。
「君」と菅谷常務は金森総務に首を回した。
「君が、ご一緒したまえ」
「ハッ、ハイ」
はじかれたように金森総務が起った。
「来島さんは強いんですねえ」
一行が去って閑かになると、生田工場長は溜息つくような声で言った。
「なに、強がり言っただけですよ。あの女は大学の同期生で、一緒に遊んでた仲間だったんです」
「あっ、そうなんですか。だから来島さんのこと知ってて声かけたんですね」
「君たち、ぼくの部屋へ行ってコーヒーメーカー持ってこないか。それとコーヒーの缶と砂糖壺とクリーム」と、隆治は女子事務員に言った。君枝と静子、と
紹介されたがいまだにどちらが君枝か静子か判らない。
「コーヒーメーカーって何ですか」
「うーん、この位いのね・・・」隆一は手振りを交えて説明した。
「ひとりじゃ一度に運べないから、二人で行く方がいい。食器棚に全部揃ってるから」
「この件、工場長はどうお考えですか」
二人が出て行くのを見て、隆治は訊いた。
「どうなるんでしょう。一つだけ気になるのは、新しい設備を導入して、従業員を減らすってことです。町がここへ工場を誘致したのは、雇傭をあてにしての
ことなんですよ。それが逆に、減らすってことになると…」
「当面、その風当たりは総務課長に押しつけることですね。問題の根はもっと深いところにあると思いますよ」
「どういうことですか」
「多分、工場だけの別会社を創って独立することになると思いますよ。友倉で金を出すといっても、ただ出すわけはない。担保権を質にとるか、友倉系の傘下
に入るか、まあ友倉の傘下にはならないでしょう。傘下になるとしたら紗慧、あ、いまの女のことですが、紗慧だけが来る、というのはおかしい。友倉の役員ク
ラスが一緒に来るはずです」
「そうですね。するとどういう…」
「工場長は経理畑の出身と聞きましたが…」
「まあ、そうですが」
「じゃお判りでしょう。別会社にして社長は本社の役員の誰かが兼任する」
「菅谷常務あたりが…」
「さあ判りません。多分その辺でしょう。企業というのはですね…、大先輩の工場長に言うのは変ですが…」
「いえとんでもない。先が見えるって点では来島さんの方がずっと上ですよ」
「どうも、何か言いにくいなあ…、そういうふうにおだてられると」
「おだてじゃありません。わたしも真剣なんです」
「そうですか、それじゃ言いますけど企業というのは何を作る会社であっても本丸は営業なんです。金を稼ぐための企業ですからね。会社にとっては工場なん
て『こぶとりぢいさん』の瘤みたいなものなんですよ。営業の利益が上がらなければいつでも切れる状態にしておく方が世話なくていいんです。下請けで充分ま
かなえるんですから…。今でもこの工場の製品は、営業で扱ってる品目の30%に過ぎないですからねぇ。ここから出荷する量の倍は下請け企業から納入されて
いるんです。販売計画に副わないかたちで設備を増強しても、営業にそっぽ向かれるたらだめなんですよ。これだけ言えばもうお判りでしょう」
生田工場長はじぃっと隆治の顔を見ている。
「それにですね、資材ですが、誰が社長になってもいままでのようにルーズな投入は出来なくなる。というより一転して厳しいことになると思いますよ。別会
社にして独立採算の工場となれば、工場独自で利益を挙げなければなりませんからね。その利益にしても、何パーセントかは友倉のほうへ吸い取られるでしょ
う、直ぐではありませんが。CAM
なんて言ってますが、多品種少量生産ではプログラムを作るのが間に合わないでしょう。そうなれば混乱するばかりです。CAM
なんてのはもっと大規模な工場なら成果は期待できますが、この工場にはねえ。そうして、新しい設備を導入すれば翌年から減価償却分の積み立てをしなければ
ならない。その上保守や整備にお金がかかる。それが辛くて帳簿操作なんかすると、一種の粉飾決算…」
「わたしはもう、あと二年で定年ですから…」
ああ、この人はだめだな、と隆治は思った。
二人が戻ってきた。隆治は口に指をあてて生田に話を中断する意思を示した。
フィルターにコーヒーを入れ、タンクに入れる水の量を指示してスイッチを入れた。
「課長、あの音楽、素敵ですね」と君枝だか静子だかが言う。
「何?」
「ステレオのスイッチ入れてみたんです。しずかーな音が流れてたら、急にダンダーン、て、すごい大きな音がして跳び上がっちゃいました。でも全体、すご
くいい。なんていう曲ですか」
ワーグナーのCDが入ったままだった。頭出しは4番。
「ああ、ジークフリートの葬送、だろう」
「そーそーって何ですか」
「お葬式のことだよ」
「えーっ、お葬式の音楽なんですかー?」
「うん、人生はね、一生という時間をかけた自分のためのお葬式なんだ」
言って、余計なことを言った、と隆治は悔やんだ。高校出てまだ一・二年の田舎娘に言う言葉ではない。
「わっ!、いい匂い…」
二十
金森総務の司会で生田工場長が挨拶し、隆治がお別れの話をした。
ラインチーフの一人が乾杯の音頭をとって、あとは自由に飲みはじめた。
作業員の有志、女子事務員、賄いのおばさん、警備員、合わせると八十人は越えていた。
殆どはビールを飲んでいたが酒の好きな連中もいた。それで自然にビール党、酒党、ジュース党に別れ、グループを作っていた。
グループから離れて、生田工場長、金森総務、隆治がいた。
金森総務が隆治のためにウイスキーを用意してくれた。
隆治が挨拶しているとき女子事務員の一人、君枝だったか静子だったか、が眼を泣き腫らしていて、おや!、と胸の詰まる思いをした。が、無視することにし
た。
一時間も経つと座が乱れてきた。様々な話が左右から流れたり押し寄せたり、覆い被さったりしてきた。
「あの酒屋ですがね、ほら、来嶋さんがいたアパートの…」と金森総務が隆治に話しかけてきた。
「スーパーを始めるらしいですわ」
「ほう、スーパーをね、あの場所にですか」
「いや、来嶋さんがいたアパートを壊して、あの場所に建てるらしいですよ。いまの店壊して、駐車場にして」
「でもまだ住んでる人がいるんでしょう」
「下に二組、二階に一組いたそうですが、南隣りのアパートの方へ移ってもらったそうです。だから二・三日のうちに取り壊しがはじまるらしいですよ。町が
どんどん変わって行きますな」
若い寮生がカラオケセットの電源を入れ、マイクのメッシュを叩いた。
「課長、課長」マイクを使わなくても聞こえる距離なのに、と隆治は思った。
「課長からお願いします」
一人が拍手すると、たちまち全員の拍手に拡がった。隆治は困惑しながら起ち上がった。さて、自分には何が歌えるのだろう。
戸惑いつつマイクに近づき「月影のワルツ」と言った。
「えっ?」若者は索引の頁に指を走らせ、
「そういうのはありませんよ」と言い、
「おい月影のワルツってあったか」と脇の一人に訊く。
「星影のワルツならあるけどな」
「あ、そうそう、星影のワルツだった、失礼」
みんなが一斉に、どっと笑い崩れた。
♪別れることは、辛いけど……………
……………いまでもぉ好きだ………♪
歌い終わると、また拍手が湧いた。次ぎに生田工場長が指名された。
隆治は席に戻ると、トイレに行ってきますと金森総務に言って扉に向かった。
扉の上の壁にスピーカーがある。マイクを持っている生田工場長とは別人のような声が、スピーカーから流れ出していた。
♪…逢ーわなきゃー、夜ーるぅがぁ……♪
隆治は自分の部屋に戻ると灯りをつけた。そうして工場の門をそっと出た。
道には人影が無かった。
背中の方からお囃子の練習の音が追って来る。改装したばかりの店では真新しいシャッターを下ろし、昔ながらの店はみな雨戸をたてきっていたが、どの店に
もしめ縄がはられ、祭礼の提灯が提がっていた。二階の窓からはテレビの青白い瞬きが音と共に漏れている。それすらも慶祝ムードの中に浸っているように思え
る。皓々と灯りをつけたままの家もあるが、窓は閉まっていて、家人はみなクーラーの動きの中に籠もっているのだろう。
ところどころに建築中の屋根と柱だけが骸骨のように暗い空に聳えている。
この町ともお別れだな、これが最後なんだ、と隆治はひとりごちた。
急速に町は変わって行く。近代的な、しかし薄っぺらな街へと変貌して行くのだろう。あの鄙びた佇まいが消えてなくなるのだ。人々はむしろ喜んでいる。
だが、賄いや警備や廃水処理や敷地内の草取り・清掃まで含めると四百六十人。この町の人口と匹敵する従業員の、半数が整理されたりしたら町はどうなるの
だろう。人々は知らず、先行きの景気を予測しての祝賀モードだが…。
夢はいつまでも覚めないほうがいいにきまっている。映画を観るのは暗い箱の中がいい、映像と音楽と、涙にせよ笑いにせよフィクションの世界は夢で溢れて
いる。二時間前後、どっぷりと浸かる、とろけるような心地よさ。
そうしてあの、終わって灯りがついて街中へ掃き出されたとき、夏のさなかでもたちまち巷の寒風に曝される。ああよかった、と過去形でしか感じられなく
なっていくのが、たまらなく口惜しく、哀しく、恨めしくなる。
それにしても、ほんの遊び心で金を出し、飼い犬の綱を離してやる。そのことで多数の人が傷つき、夢を失う。紗慧はそんなことは考えてもいまい。判っても
動じるような女ではない。まさしく魔女だ。
魔性の女が一度魔法を使ってしまえば、魅力は失われ、まがまがしい魔女に堕ちる。少なくとも俺はそう思う。魔女なんかに負けてたまるか。
酒屋の横から路地に入った。ゆるい坂を少し下るとすぐ左手に、向き合った二棟の木造アパートがある。
南側の棟の窓は揃って灯りが点いているが、隆治が住んでいた棟は真っ暗だった。隆治は手探りで階段を上がった。すぐ右手の奈美子のいた部屋は扉が開け放
たれたままだ。それは八ヶ月前に衝撃を受けたときと全く変わらなかった。あのまま時間が凍結しているかのようだ。
暗い室内の畳に、向かいのアパートの灯りが射し込んでいる。演歌というのか何とかソングというのか、いま流行りのテレビ音楽がどこからか流れ込んでい
る。あれは音楽なのか、ただの騒音じゃないのか。
「だってぇ、ご馳走さま、ってぇ…」
騒音の隙間から奈美子の声を聞いたような気がした。あの時は声を出すまいと苦しみながら笑ったが、いまはもうそれも遠い記憶の一部でしかない。
思えば奈美子との交わりはこの暗い部屋の中に限られていた。奈美子を楽しませることなど一度もできなかった。闇の中で黒い瞳の奥を懸命に覗き込むばかり
だった。
隆治はわずかに明るむ窓に眼を向けた。奈美子が貼った白い紙がそのまま残っている。
奈美子はどこへ消えたのだろう。
立ちつくす隆治の眼に熱いものが沸き上がった。四角い筈の窓が水底に沈んでゆき、ゆらゆら揺らめきながら形を崩してゆく。
瞼に膨らんだものが、滂沱と畳へ落ちた。
─ 了 ─
…対愛覚醒的時候,人也知道如何去憐憫 劉穎
…愛に目覚めたとき、人は哀しみを識る
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