筆者のことは自ずから筆者が語るであろう、語らなくても構わない、自然にその述懐に掬めばいい。初対面を遂げていないという意味では未知の
筆者であるが、「e-文庫・湖(umi)」では常のことである。しかし知己の思いがあり年輩の友と感じてもいる。昭和十年(1935)亥年生まれの編輯者
より、ほぼ一回り上の「甲子」さんである。それだけを紹介すれば足りよう。
「メール」ではないかと思う人も有ろう。メールに止まる人もあり、それはそれでいい。甲子さんのメールは人生の重みをうけて迸る言葉であり、それ故に聴く
に足りてあまる文藝である。「e-文庫・湖(umi)」の一角へ招き、次々に書き増してもらおうと思う。闇の向こうの大勢の読者を希望する。
(2005.8.18)

甲子述
懐
* 「この道は・・」−1 甲子 05.10.3
「この道は、いつか来た道・・・ああ、そうだよ・・・」
懐かしい、いい歌ですね。生け垣があって、白い花なんか咲いてて・・・。
薔薇垣の白き路辺よ 夕ざれて
ただ独りゆく儚さを
泣けとてきょうも 雨の降る
いいですね。そんな美しい薔薇垣なんかわたしの周囲にはなかったのに・・・。
わたしにとっての「いつか来た道」、なんて空襲で焼けて地番整理にあって、いまは不粋なコンクリートのビルの裏手、陽も当たらず、茶殻臭く、人も通らぬ
ゴミだらけの路地、なんてことになっている。
東京下町育ちのわたしは、いつもホコリっぽく、どぶ板の下からものの饐えた臭いが絶えず立ち籠め、目にする草木といえば夏の朝顔、ご隠居さんが大事にし
ていた「万年青(おもと)」の鉢、ぐらいのもの。田園の風景、といえば映画(その頃は「活動」と言った)で長塚節とか伊藤左千夫のものなどに垣間見る程度
だった。が、当時のモノクロ邦画では、実感は遠いものでしかない。
そのころ出てきた「天然色映画」は洋画ばかりで、「ジプシー男爵」「大帝の密使」などに広い草原や山道があり、同時に音楽がその映画のためのオリジナル
で、「ドンキー・セレナード」など…、それで一度に洋画ファンになった
。それからはもうフランス映画『ゆまにて』の世界とシャンソンに酔う…。
「北ホテル」「どん底」「三文オペラ」「外人部隊」「望郷」「舞踏会の手帖」「鎧なき騎士」「自由を我らに」。
それらの映像に現れるは最高の美女ダニエル・ダリユー、そしてサラ・ベルナール、マリー・ラフォレ。
・・[ジュリアン・デュヴュヴィエ][ルネ・クレール][ジャック・フエーデ]の世界…。
中卒後、飛行機製作所に配属され、同年、太平洋戦争に突入した。が、当初は連戦連勝で余裕もあり、茶の木の生け垣(実に実用的ですね)と一面の菜の花
畑、欅の並木道と多摩川から取り込んだ用水が、街道の足許をさらさら音たてて流れる豊かな環境が嬉しく、休日ごとに多摩・秩父の山々を日帰り登山。もう、
身体中が緑に染まるほど満喫していた。
話がそれてしまいますね。いつもわたしの話はあらぬ方へそれてゆく…。「いつか来た道」でした。
「いつか来た道」、があれば「いつか往く道」があるんじゃないか。という変な、ひねくれた話です。
戦後すぐのころ、丹羽文雄の「嫌がらせの年齢」という作品が出ました。「非情」と言われた丹羽文雄の代表作?、ともいえるもので、リアルな表現で有名な
作品。晩年、アルツハイマー病で文壇から姿を隠し、つい先日100歳の大寿で没した。
アルツハイマー病、といえば、アメリカの元大統領、レーガンもそうですね。音標文字のない中国では彼の在任中、情勢の変化とともに新聞の表現も様々に変
化しました。「美統・麗巌」だったり「美帝・冷頑」だったり。こうなると音標文字でないのが、伝達が直截で、かえって分かり易くなる。・・・また脱
線・・・
丹羽文雄は自分の「いつか往く道」を「嫌がらせの年齢」でサジェスチョンしていた。まさか、ねえ。いくら大文豪でも、そこまで出来るだろうか。
NHK
のドキュメンタリーでやってましたね。もう大分前です、でも十年は経ってないかな。剣道六段・柔道四段・映画俳優といってもおかしくない美男子。太宰治が
羨ましがった美丈夫が、静かな、静謐ともいえる斜め横の顔。鬼気迫る、というのではなく、妖気漂うという感じの閑かさ。見ていて覚えず涙が出ました。これ
が「嫌がらせの年齢」に出てくる婆さんだったら、眼をそむけてTV のスイッチを切ってしまうところです。だが、丹羽文雄はあまりにも美しい。
けれど、ふと考えた。ここに丹羽文雄はもう、いないんじゃないか。ここにいるのは作家・丹羽文雄の抜け殻であって、自身はどこか別の角度から、「あい
つ、抜け殻の映像見て涙なんか流してる」と、じいっと観察しているんじゃないか。
そう考えたら幾分か楽になって、番組の最期まで観ることができました。
丹羽文雄は長女が、甲斐甲斐しく、大事に大事に介護していた。その長女が先に死んでしまった。・・絶・・・また脱線・・・大脱輪・・・
戦後のフランス映画にもいいものがありました。「いとこ同士」良かったですね、あれ、「良かった」なんてそんな言葉でいいのかな?。「不条理」というの
か、どんな名探偵が登場しようと、どんなに言葉を駆使し状況を解明しようとしても、逃れられない無実の深淵、絶体絶命の状況証拠。シャーロック・ホームズ
やエルキュール・ポワロなら、救い出すかもしれない。けれどそんな手品やトリックは用意されてもいないし、そんなハッピーエンドなんか考えてもいない。観
客には判っているのに、「カミユもどき」の不条理な結末で突き放してしまう。観た者の脳髄にあとあとまで尾をひいて残る。そういう強烈なインパクトを含ん
で終わる。アッ、と終わる。それが「世の中・現世」だ、というが如く…。
「七つの大罪」というオムニバス。これも良かったですね。「いとこ同士」とはまったく次元を異にしますが…。殊に印象に残っているのが「大食いの罪」。
大食い、というのが、「女色への」、という方向へ観客を誘っておいて、見事なエスプリの一本背負い。
アメリカ映画はあまり好きにはなれなかった。観たことはいくつか観た。戦前は西部劇。荒れ野と馬と銃。勧善懲悪の世界。それも、誰の目からも善と悪が判
るのならいいかもしれないが、一方的な理屈で西部へ進出していくのはどう斟酌しても基本のところで、侵略、だ。生活習慣や基督教の信者でないから野蛮だ、
と考えるのは身勝手が過ぎやしないか。映像の面から見ても、コントラストが強すぎる。荒れ野・砂漠・未墾地、という印象を強めるのにはそういう必要があっ
たのかもしれないが、わたしには、ややフラットなヨーロッパ映画の映像の方が性に合っている。
西部劇の最高傑作、といわれたジョン・ウエインの「駅馬車」。だが、あれ、モーパッサンじゃないか、と途中で種が判ってしまって、面白くもなんともな
かった。それと銀行強盗、ギャングもの、早撃ち。・・・
戦後しばらく、アメリカ映画にもアットホームないいものがあった。ビングクロスビー、グレース・ケリー、キム・ノバク、バーブラ・ストライザンド、
ETC、ETC、忘れがたいのが、ジェームス・ギャグニーの「苺ブロンド」「汚れた顔の天使」。
イングリット・バーグマン、よかったですね。途中で不倫なんかして、評判落としたけど、そんな私生活のことより、俳優はやはり演技だ、と思う。デビュー
作「カサブランカ」が有名だが、わたしはあまり評価しない。美人をより美しく見せるため、レンズに紗を使ったんじゃないか、とわたしは疑問を持つ。美人は
美人だが、人形のような美人になってはいないか。映画はレンズを透した世界だから、そしてクローズアップという、舞台の演劇には無い特殊な世界だから、俳
優は立ち居振る舞いはもちろんだが、表情の演技に力量を発揮すべきだ。人形ではいけない。それが、「カサブランカ」ほど話題にならなかったが、「アナスタ
シア」に至って、バーグマンは最高の女優になった、と思う。物語はたいしたことではない、日本の「天一坊」と変わらないもの、それが評価を得られなかった
一因と思う。事実、中味の進行もたいしたものでなく、ユル・ブリナーの怪人物ぶりが、彼独特の持ち味を出していた、という程度か。
わたしが、バーグマンがよかった、というのは、アナスタシアを騙って登りつめたパーティの場で、化けの皮が一気に剥がれ、宝石に王冠までつけて、名も知
れず氏素性も知れぬ貧しい娘が、一躍社交界に躍り出ようとした矢先の突然の失脚。その絶望の状況を自ら嘲る嗤い。角度をやや斜めにとり、画面いっぱいに美
しい表情を捉え、声とともに頬や唇や頤を形成する筋肉の動きを克明に捉えていた。
あの頃は歌もよかった。ビングクロスビーはもともと歌手だから当たり前だが、ドロシー・ラムーアの朗々とした声。南海の蒼い海をはるかに見渡し、どこま
でも伸びてゆく豊かな歌声。歌詞は判らなくても、声だけでうっとりする。
だが、いつの間にか世はハスキーな歌声に変わってしまった。大きな唇にマイクを呑み込むほど近づけて…。あれは病人の声じゃないのか。そうして叫び声と
騒音…。
いろいろなことをとりとめなく書いていますが、実は本題に触れるのが怖いのです。
「いつか往く道」……書くと、お前はどういうふうに、と反問されそう・・。
ですからいまはここで一旦、筆を休めます。続き、次回に書きます。
が、これは、と思われた方はぜひ、思いのたけ、を書いてください。
つぎの一文、魯迅の「故郷」の一節です。
−−−−
「旦那様」
と一つハッキリ言った。わたしはぞっとして身顫いが出そうになった。なるほどわたしどもの間にはもはや悲しむべき隔てが出来たのかと思うと、わたしはも
う話も出来ない。
−−−−
甲子
* 杜甫と魯迅 甲子 5.9.28
四川省は湿潤を通り越して雨の国である。激しい雨、というのではなく絶えずしとしと細い絹糸をたらし、風景を簾越しに見るか、蚊帳の中から窺うように煙
ぶっているか。雨が止んでも重々しい曇天。日本の梅雨期が年中続いているといった感じだ。古くは「蜀」といい、三国史の劉備玄徳を興祖とあがめ、他国人
(よそもの)に誇る。人口一億
、首都、成都には武候祠があり諸葛孔明を祀る、何をおいても真っ先にそこへ案内される。次が望江楼(主流・錦川が支流を併合する地点、玄徳夫人の館)。
乞うて、浣花渓(かんかけい)のほとりに杜甫草堂を訪れた。
国破 山河在
城春 草木深
時感 花濺涙
恨別 鳥驚心
烽火 連三月
家書 抵万金
白頭 掻更短
渾欲 不勝簪
これはあまりにも有名だ。次の絶句もある。
江碧鳥逾白
山青花欲然
今春看又過
何日是帰年
劉備がいかに名君であったか、諸葛孔明がいかに聡明な軍事・政道の達人であったか、よりは、わたしは不遇・流浪の果て、竹林の深きにささやかな祠を営ん
でひそかに詠じ暮らした詩聖の生涯にはるかな思いを馳せる。参観の最中も雨水綿々細々。
さて、16・7年ほど前だったか、四川省・自貢(ツウコン)から南充(ナンチョン)へ車で移動したことがある。雨は変わらず、自貢の壇木林(タンムーリ
ン)ホテルから南充の北湖(ベイフー)賓館まで7時間。野や山はもちろん、途中の町?(部落)の中でも構わず、ランドクルーザーは泥濘を撥ね跳ばして走
る。傘をさしていた人はとっさに横へ傘を傾け、家の前にいた人は慌てて逃げ込む。だが泥はその家の中へまで跳び込んでゆく。
やっと中間の都市、南貢へ入る。そこだけは舗装が施され、小吃店(スナック)で軽食、トイレを済ませ、出発。やっと雨は上がったが重々しい曇天。舗装路
を外れるとたいへんな悪路になった。右に左に揺れて、肚(はら)が捩れるありさま。
近くに炭坑があるそうだ。掘削屑はボタ山の場合の、ボタというのだろうか。それを木枠のトラックで運んできて深い轍へ埋める作業を大勢の人でしていた。
ランドクルーザーとはいえ、徐行運転しなければならない。交通整理のおばさんが笛を吹くと作業員はいっせいに道の端へ寄る。
ふと、眉の秀でた利発そうな顔立ちの少年がいた。15・6歳。さして頑健な体格には見えない。車の通る束の間の休みに木製の鍬を杖に顔を上げ、喘ぐよう
に空を見る。表情には苦痛とも苦悶ともとれる、ひきつれたものがはっきり見てとれる。
「学校は休みなのかね」と通訳に聞いた。
「学校、行ってないないんでしょう。この辺は特に貧乏ですから」
「工場なんかで働く方がいいだろうにね、技術も身に付くし」
「山間部では無理ですね。郷鎮企業は郷鎮(最小地方組織)内の子弟を対象としたもので、足りない場合だけ他村の者を受け入れるんです。それも党書記の許
可が要る」
わたしはふと思い出した。佐多稲子の一節。
* 「誰かから何とか学資を出して貰い、小学校だけは卒業するほうがよかろう」といった内容の郷里の先生からの手紙を、住込みのチャンそば屋の暗い便所
で読み返し泣いた。 「キャラメル工場から」より
30分ほど走ると、今度はせっかく埋めた「ボタ」を掘り返している集団がいた。
頬被りした中年のおばさんが石を選り分けて、ざるへ拾っている。
「中にね、まだ燃える石炭屑が残ってるんですよ」 聞くと通訳はそう答える。
「まだ燃える石炭が混じってたら危ないだろう、道が燃え上がったりして…」
「燃えるって言ってもですね、火、近ずけたぐらいじゃ燃えないんです。燃えさかってる竈へ放り込んで、やっと燃えるんです」
その頃中国には「都市籍」と「農村籍」の二種類があって、農村の者は簡単に都市へ出られない仕組みになっていた。
五年ほど後です。山東省の工場へ行きました。その工場は管理そのものに熱心で、三年連続してわたしを招聘し、工程編成や品質管理など実施して成果を挙げ
ていた。年一回一ヶ月では物足りない。もっと長期間の指導を、と、省政府もレジデンス・ビザを取得するよう薦めた。その工場の一室に省単位の研究所を設立
し、わたしに所長就任を、と、言った。わたしは常駐はできないし、野心もないので固辞した。が、名前だけでいいから、と言われ、了承した。実は、裏があっ
たのだ。
当時、輸入品の関税は100%だった。だから日本で350万の日本車を、中国人が購入する場合700万払わなければならない。だが、常駐する外国人が購
入する場合は関税が免除される。研究所としてわたしのレジデンス・ビザを申請、認可されると同時に「クラウン3000」「日産のトラック」「フォード9人
乗りWB」などを購入申請をした。無論、わたしの名前で、である。
その晩、祝宴会を開いた。省進口局(貿易)・専家局・税務局・公安局・郷鎮企業書記・ETC。女性を含む11名。捜査当局まで招いた、おおっぴらな饗応
である。
公司総経理(社長)が挨拶して乾杯になった。わたしは中国の白酒(バイジュオ)は苦手なので、わたしだけワインにしてもらった。
「甲子さんは、お子さんは?」と、進口局の女性主任が声をかけてきた。
「子供三人、孫五人です」
「一緒に住んでるんですか」と、専家局の担当。
「いえ、みんな独立して出てますから、うちは夫婦だけですわ」
レクチャーなどでは専門語が入るため通訳も苦労多く、辞書など調べながら訳すのだが、この種の話は得意なのだろう、すらすら訳す。
「じゃ、いっそこちらへ住みませんか、奥さんといっしょに、家は用意しますよ」
「家内はねえ、もう歳ですしね、その上言葉ができないでしょう。わたしが仕事で出ると、昼間は軟禁状態になりますから…」
「じゃ、甲子さん一人でもいい、ときどき、好きなとき日本へ帰ればいいんです」
「うーん、それも淋しいですね…、夜が…」
「女性ですか?」と、こんどは布袋のように肚の出た税務局長。
「そう、若い嫁さんがほしいですね」
「そんなこと、お安いご用です。お好きなタイプを世話します。日本語ができる女子大生もいますし、本人も喜びます。上海にはそういう例が何件かあります
から」
「そうなれば、また、子供三人、孫五人」言うと、
「いや、それはだめだ」と、公安局長がいかめしく言う。
「中国はね、一人っ子政策とってるんだ」
みな、しん、となった。いちばん怖い人で、制服姿だ。
「自分だけ、三人も作るだなんて、ずるい!」
一瞬の後、その公安局長自身「ぷっ」と吹き出した。それがきっかけ、一座は肚を抱え、円卓の周りに笑いの渦が転げ回る。そうして、乾杯(カンペイ)乾杯
と夜が更けていく。
どこへ行っても、ひとりひとりはみんないい人なのだ。一人っ子政策も、都市籍・農村籍の問題も、輸入品100%の関税も、やむを得ない事情があってのこ
とだろう。
自由と民主化を求めた学生のデモに、警察ではなく、軍隊が戦車まで繰り出して鎮圧した天安門。その軍隊の名が「解放軍」とは、何という皮肉だろう。少数
民族保護の名のもとに居住区を決め監視を強めるのは、アメリカが原住民の居住区を設けたり、オーストラリアが同じことをしているのと同列だ。誰にも、他者
を非難する資格はない。
「国破 山河在」と、杜甫は言うが、「国」とは何だろう、「国益」とは。
わたしはふと、五年前に見た南貢郊外の道路改修工事現場で見た眉の秀でた少年のその後を、ワインで火照った頭に思う。五年経つといまは20か21歳か。
魯迅の「故郷」の中にあった「閏土(ジュンド)」のようになってはいないか。
魯迅はまた次のようにも書いている。
* 四千年間、人食いの歴史があるとは、初めわたしは知らなかったが、今わかった。 真の人間は見出し難い。人を食わずにいる子供は、あるいはあるかも
しれない。救えよ救え。子供…… 「狂人日記」より
日本がどうなるのか、中国がどうするか、アメリカはどうだ、ロシアがヨーロッパが、という時代は無くなって「人類がどうなるのか」、という問題に直面す
る時がもうすぐそこに来ている気がする。
何十年後か何百年後かわからないが…。そうなってから慌てても、手遅れでないよう祈る。
わたしはそのとき、生きてはいまいが…。 甲子 e-OLD
* 「姉」 甲子 5.9.23
吉田優子作「姉」 読ませていただきました。一読は流し読み、二度目にある程度の精読? ほんとうは、もう一度読んでみないといけないのかもしれませ
ん。
他人(ひと)の作品を批評する、ということは、その批評によって自己を曝し、束縛さえ感じますので、怖ろしく、近寄りたくない分野なのですが、同じ「e
-文庫・湖(umi)」に同席させていただいた、という因縁から、蛮勇をふるって試みてみます。
この作品の世界は、わたしの棲息地帯とはまったくの別世界。とくにモノクロームで語る世界となると、女性、特に少女の、閉ざされた空間、を感じます。男
性には、窺い識りようもない。太宰治に「女生徒」という作品があります。作者は当然読んでいると思いますが、それとてやはり男性の視点からしか書けない、
という典型でしょう。そういう意味で、貴重な内発的な吐露を含むものとして成功している、と思います。
「どうしてあんな風になったのかなあ、」という述懐が、映写中にトラブルがあった、そのことと「上映が終わって明るくなると、無言なのよね、両隣が。
あっというまに現実に引き戻されちゃった。」ということの、双方にかかった一種の「メタファー(=隠喩)」になっているでしょうか。それがもっとはっきり
「メタファー」と感じ取れるように書かれていれば、一層深みが増すのではないでしょうか。
作者はそれを意図していて、だがわたしにはそうと受け取れなかった、とすれば、わたしの読み込みの浅さになるのですが。
「不気味だった」にも、そのことが言えると思います。離婚、という事情を不気味な現象と受け止めていたから「不気味だった」と感じて、構わないと思いま
すが、上の「現実」という生硬な言葉と対をなして、「不気味」という2@yd)4
(=フレーズ)をもっと違った、ひとひねりした表現にすれば、更によい効果が期待できるのですが。
「石野君の声が、兄と緋絽ちゃんについて言っているようには聴こえず、運転席の横顔を見ました。」
これはいいですね。こうならなくちゃいけない。
「 眼の潤んでいるのは、酸味ゆえと言わんばかりに、顔を顰めながら。」
これもいい。
敗戦直後ですから60年弱も昔に、アメリカの唄で、「煙が眼にしみる」というのがありました。あまり流行せずすぐに聴かれなくなりましたが、「煙が眼に
しみる」という題名だけは覚えています。レコードのジャケットも歌詞も見たわけではありませんから、正確な内容はわかりません。「スモーキン・ゲッツ・
ニュア・ライズ」と歌詞の一部が聞こえます。歌詞なんかどうでもいい。「煙が眼にしみる」。誰がこんな素敵な日本語の題を付けたんでしょう。わたしは想像
します。
二人は別れなければならない。戦争か、仕事か、不倫のためだったか。そんなことどれだっていいです。改札か、空港か、港か、バスストップか。どこでもい
いです。「その煙草、眼にしみるわ」と女はハンケチをそっと目にあてる。
クラシック音楽にもありますね。ビゼーの交響曲第一番。ビゼー、十七・八歳の作品で、一般にはあまり評価されていません。わたしは皮肉者で、売れなかっ
たり評価されなかったりするものの中に、自分なりの解釈をし、価値を見つけて楽しんでいるのです。逆にみんながいい、いい、というものに背を向けたりする
拗ね者です。ですからわた
しの批評なんか当てにはなりません。
そう、酸っぱいんです。ビゼーの第一番。若さ、青春のあをあをした酸っぱさ。
どうでしょうか、音楽で「酸っぱさ」が出るんですから、文章でも・・。
おっ、と。これはわたし自身に言ってることなんです。失礼… 甲子
* スーパーインポーズ 甲子 05.9.19
お初にお目にかかります。いえ、きのう「私語」を開き、冒頭の大きなお姿。
ははあ、これが「慈子」を書き「無明抄」をお書きになった先生かと感慨しばし。
他のPC ではとうに取得、写映されていたのでしょうか。わたしのPC
ではこれが初対面となります。対面ではありませんね、一方的に拝見するのですから、覗き見、というのでしょう。
なるほど、お書きになる文体そのまま、ふくよかなお面相であられる、と思いました。
「一文字日本史」「わが無明抄」繰り返し読ませていただいております。わたくしは、あるがままの心根をそっくりそのまま、文章に移された、その力に圧倒
され、思いのうちにただもう、じぃっと耳をすます。そんな反応、としか申し上げられません。しいて申せば、闇の深みへ、奥へ奥へと導かれてゆく、怖ろしい
のではなく、心地よい。これぞわが褥。
元来わたしは、見る・聴く・読む、まだ他にもありますが、その中へ没入してしまうたち(性向)です。たとえば30年ちかくN響の定期会員でしたが、毎
回、演奏が終わると間髪入れず、「ウオー」と叫んで拍手に先駆ける人がいました。聴いているというより終わるのを待っていた、というかのよう…。饒舌の果
ての絶句。その沈黙の中に、音響によって提示された大いなる言霊を、その人達は聴こうとしないのでしょうか、あるいは聴こえないのでしょうか。いずれにし
ても味(つや)消しな、にがにがしい、ことでした。
十何年か前、フィルム・ライブラリーが火災で、過去上映されたフランス映画のフィルムすべてが焼失したということがありました。ああ、あの懐かしき「パ
リ祭」「ペペル・モコ」「カスバ」「大いなる幻影」・・・ルイ・ジュベよ、アリー・ボールよ、ジャン・ギャバン、クロード・フランセス、シモール・シニョ
レ、シャルル・ボアイエ、その他・その他・その他。と嘆いていたところ、なんと、フランス政府からそれらすべてのプリント版を寄贈する。と申し出があった
そうです。ああよかった、もう一度見たい。などと思ったわけではありませんが、そしてそんな機会があっても出掛ける余裕が
あるわけでもありませんが、在る、という事実だけでこんなにも心安らぐものか・・。
ところが、映画評論家の一言がわたしの喜びの灯を一気に吹き消してしまいました。
「フィルムは戻ったけど、スーパーインポーズは永遠に戻らない。いまの人達で直訳はできる。が、意訳は、時代を踏まえた者でなければ出来ない」
お姿を拝見できて、ある意味、安らぎをおぼえます。いつまでもご健康で、喰い、呑み、且つ心おきなく遊んでください。わたしもその方向で残りの時を遊び
暮らします。
彼岸、季節の推移、東南アジアなど熱帯地域は夏が年二回あります。春と秋の彼岸です。日本の四季、なんと恵まれた桃源郷でしょう…。
お
写真を見ていると、「そこはそう書くのではなく…」、など、厳しく、いえ、優しくお叱りくださっていただいているようで…、 お大事に… 甲
子
* 出自 甲子 05.9.15
「e-文庫
湖」にお取り上げいただき、ありがとうございます。なんとも晴れがましい気分、横溢しております。連載物ご計画中の貴重な時間をお割きいただき、まことに
申し訳なく、逆に申せばわたしにとって、これにすぐる幸せはありません。
作品がわたくしなりに一応のまとまりをもち得られましたのも、ひとえに先生のご助言あったればこそ、と思っております。
歌舞伎に深い知識など持ち合わせませんが、悲嘆・悲痛の場面で、下座では楽しげな囃子を流す、と聞いたことがあります。それこそ表現の極致、と思いまし
た。
人は哀しいとき、悲嘆を訴え、泣きわめいたりしますが、そうして、もらい泣きしたりする人もいますが、覚めたひとの眼には喜劇に写る、のではないでしょ
うか。
もっとも深刻な悲劇はピエロの仮面を被り、あくまでも観客の笑いを誘う心のうちに宿る、と思います。日本の狂言にも、詩にも、訳詩にも、オペラにも、
チャップリンにも・・・
「文七元結」の深川・相川町。地番改正により今は、永代1丁目、となっております。そこがわたしの「出自」です。家業は艀屋(はしけや)、今風に申しま
すと水上運送業ということになりましょうか。永代橋を150メートルほど河口へ下ったところにありました。
家は隅田川に面し、一間巾の木造(バルコニーというのでしょうかベランダでしょうか)が直接、川の中へ脚を突き立てたかたちの(川へ立てたのですから土
台というのはおかしい)丸太のうえに建ててありました。川の対面は日本橋新川町、全国の銘酒を扱う酒問屋の並ぶ街でした。
ベランダに立ちますと右に永代橋、左は石川島の造船所の巨大な(今から見れば小さいものですが)クレーンがありました。今の石川島播磨造船の前身です。
今の鉄製の永代橋は、わたしが物心ついた頃、すでにありましたが、そこから50メートルほど下流に昔の木製時代の橋脚、と聞かされた杭を数本束ねた櫓の
跡のようなものが流れの中にありました。いつ取り除かれたのか、中学へ通う頃にはありませんでした。元禄の昔からのものだったのか、その後に掛け替えが
あったのか調べもしませんので、はきとは判りません。昔のままだったらわたしの生家から100メートルの地点を赤穂義士が吉良の首級を持って渡ったことに
なります。当時だったら跫音が枕に響いたかもしれません。
家系はそういった水運に関係があったのか、祖父は一等航海士で、わたしが中学三年のとき、言い換えますと日中戦争と太平洋戦争の中間に「召集令状」がき
まして、新聞の一面に大きく取り上げられました「80歳に召集令」「これぞ不惜身命・80にして赤紙」など。
当時、小倉石油という会社がありまして、そこの船でボルネオ(ブルネイ)まで行き、石油搬送の船長を務めたのでした。そのころ相川町は、軍用物資集積所
ということで(人も恐るる)内務省からの通達一本で立ち退きを命じられ、深川・森下に移居、同時に回船業も廃業しました。
戦後、相川へ行ったとき、その跡地は窓というもののない巨大なコンクリートの倉庫になっていました。車を運転していたので詳しく観る、ということは出来
ませんでしたが・・・ こんな話を連々とつづけてもきりがありません。
三つ子の魂、といいますか、振り返ればわたしが下町に住んだのは中学卒業まで17年の短いものだったのですが、いまでもときによって「べらんめえ」な口
調が出ることがあります。
名前は伏せますが、三十五六歳のころ管理職につき、人との折衝の煩わしさに胃潰瘍を発して大きな総合病院にかかったことがあり、十年ほど外来で通いまし
た。その病院は特定の大学卒業生の受け入れ機関をしているらしく、インターン期間を過ぎた初心医師が外来を受け持ち、一年ごとに担当が変わりました。ま
あ、どうせ処方箋をもらうだけに行くのですから誰が担当になっても構わないようなものですが。ある時点で、はじめて担当する若年医師が「薬の種類を変えま
す」というのです。
「前にもそういうことで薬を変えたとき、胃にチクチクした痛みを覚えて元に戻していただいたことがあります。いまのこの薬でわたしは安定しているのです
が」
「いや、同じ処方ばかり書いてると、ほんとに診察してるのか、と疑って、組合がうるさいのですよ」
「バァヤロー。てめえそれでも医者か、てめぇーがな、医者としての見解から薬の種類を変えると言うなら、はいそうですか、と聞く耳もあろうってもんだ。
だが何だと、組合が煩いからだ、何をぬかしゃーがんでぇ、この筍のチンピラ、そんなに組合が怖い
んけ、患者の身体なんか診ねえで組合の方に聴診器あてたらどうだ。こんな薬呑むとけ
ぇって病気が重くなろぅってもんだ」
目の前で処方箋やぶり、丸めて医師の机に抛り出し、半ば口開けて見守る医師と看護婦尻目にカーテン開けると、順番待ちの患者が脚を引き、通りやすく道を
あけてくれました。二度とその病院へは行かず、かかりつけを変えました。 ご憫笑ください。
次なる作にかかりました、と言いましたが、たいした意気込みのものではありません。そうでもしないと、生まれたての仔を嘗めまわす母猫のように、手放し
たはずの作品にいつまでも恋々執着し、あちこちいじくりまわす思い切り悪い性格です。
ありがとうございました。深く深く感謝いたします。あとが怖いのですが・・・
体調、充分にお気をつけください。 甲子
* 似て非なる野党よ 甲子 05.9.13
わたしから「総括」なんて変な話ですが・・・
小泉が「郵政民営化」を旗印にして総選挙にうって出た。民主党が二大政党を掲げて迎撃するなら、なぜはっきりと「郵政民営化・反対」を真正面から打ち出
さなかったのか。民主党の根の部分には「反対」を言えないものがあったのだろう、と、推測する。
だいたい民主党というのは寄り合い所帯で、自民の寄り合い具合よりもっとひどい。ずいぶん昔のことになるが、社会党が右派と左派に分裂して、
右派は衰退の一途を辿る。右派には芯になる、はきとした政治理念が見いだせなかったからだ。それと、自民からはみだした異端衆が議会での発言権確立のため
苦渋の選択の結果の大同団結だった。だから歯切れのいい言葉が生まれる基盤がない。
今回の選挙では、小泉は農村の票を切ってでも都市票をはっきり意識した作戦に出た。それが民主党には見抜けなかったのだろうか・・・。
40年の昔、社会党左派は総評をバックに奔流の勢いで伸び、砂川闘争・60年安保・成田抗争、その間に学生運動があり、安田講堂事件などがあった。
わたしもその頃、定時制高校生などを含む読書会などに関わっていた関係で、砂川・60年、などに誘われたが、当時の社・左派は共産党よりもっと過激な超
左翼ともいえる Bolsheviki の武闘派で、権力奪取の臭気芬々。それを感じて身を離した。
政治革新は必要だと思う、何でもかでもアメリカの言うなりではこの国の存在理由があやしくなる。が、それは選挙を通じて行うべきで、デモは結構だが、角
材にヘルメットでは賛成しかねる。大部分の民衆は行動に参加せず、たとえば砂川では最大の労組であった基地従業員組合は抜け落ちていた。それはそうでしょ
う、基地依存の体質はそのまま、闘争には参加しろと言われても、二の足踏むのは目に見えている。
その後、成田抗争を経て内部分裂、内ゲバという暴走族・悪ガキの喧嘩みたいになっていった。権力奪取闘争の断末魔とでもいう様相だ。そして総評の解体、
社・左(社会党)の凋落。そして今や連合からも三下り半。
社会党は社民党となり、自衛隊容認の姿勢に変わった。国民を、国民は、とおたかさんは絶叫し九条を守る、と言い切るが、自衛隊容認とは何だ。既成事実を
認めただけだと言うなら、憲法が改悪されたら、それも既成事実になってしまうではないか。
だいたい共産党以外の現野党は、地域社会への浸透の努力が足りない。国民は、国民はと絶叫しても、「国民とは俺のことか?」と、有権者は思うのではない
のか。
地域社会への浸透には金が要る、と言うかもしれない。だからパチンコ屋の献金を受け取るのか、パチンコ屋組合(当時)の裏で誰が糸を引いているのか判ら
なかったのか、拉致問題が表面に出て、慌てて声明を出す。それが理論の秀才おたかさん率いる党の実態であった。
わたしは発足当時の、佐々木更三や江田三郎や浅沼稲二郎が好きだった。それだけになんとも口惜しい。
野党よ、もっと腰を延ばして、しっかりしてくれ。議会外の青二才になどに振り回されぬ、しっかりした地盤を創れ。二大政党はそれなくしては生まれようも
ない。
ま、どうでもいいけど・・・ 甲子
* 月と星 甲子 05.9.6
仕事でエジプトのカイロへ行った。
一行三人。二人は若く、同じ機械メーカーの社員で、一人は三十すぎのメカニカ。一人は二十三か四か、事務折衝を担当。わたしは別の会社なのだが、取引先の
商社の要請で参加し、建物と機械と希望生産品目の関係を勘案して、設備配置・人員配置・品質管理など、生産管理者へのレクチャーをする役目だった。わたし
達の作業が終われば実作業トレーナーとしての熟練工後任者グループへバトンタッチの予定で、期間は二ヶ月。もちろん、カイロ大学の日本人女子留学生に通訳
を頼んだ。 (仕事の話は省きます。)
観光客はタヒリール広場(エジプト博物館がある)に面したヒルトンホテルに一泊し、そこからバスでギーザのピラミッドを見学して、すぐ空港へ直行する
が。わたし達はソリマンパシャという市中の繁華街にある、観光客、わけても日本人など近寄らない、ギリシャ人経営の安宿に逗留した。
昔風のホテルで、階段にはアラバスタ石が組み込まれていて前近代風の格調の片鱗を思わせるものだった。
「不潔だ。汚い。だらしない」と若い二人は口を歪めて街行く人や住民に不快感しきり。
投宿一月後ぐらいに、二人連れの若いアメリカ女性が投宿した。女性というより少女?。目が合うと片目をつぶって挨拶する愛くるしい娘さんだった。安宿に
は違いないが、それでも一応、ディナーはテーブルチャージになっている。二日後だったか、
「May I
talk?」と声をかけてきた。わたしは事務折衝をしている若い社員に目を向けた。彼は、われわれの英語通訳も兼ねているはずだが、下を向いたままだっ
た。
「Please」とわたしは言った。すると二人は椅子を持って私たちのテーブルへ来た。テーブルは円卓なので二三人の融通は自由だった。
堰を切ったように話し始めた。
「今日ね、コプト教会の街へ行ったの、半地下になってて、薄暗かったけど、昔の絵、聖母が赤子のイエス抱いてるイコン、見たわ。水彩画みたいな、なんか
ペンキ絵みたいな。ムスリムが攻めてきたとき、それを地下道通って、ナイル川の岸のパピルスの茂みに隠したんですって。そんな話聞いて、もう、胸がいっぱ
い。そして、おそろしく原
始的なコインの鋳造機があって、手でハンドル回して重石上げて、レバー引くと重石が一気に落ちて、どすんとすごい地響きして、たった一個の銀貨作るのよ。
それがそのイコンの図柄」
もちろんわたしの英語の知識では、全部が判ったとはいえない、が、彼女らは身振り大きく、表情も豊かに交えて話すので、伝えようとする大意はよく判る。
彼女が差し出したそのコインを手にとって見た。イコンの図柄の彫りも浅く、周りも潰れていて、決して上等とは言えない。銀であるのは本当のようだ。
「Oh it was good」
翌晩だった。
「それでね、コプト教派の修道院があるって聞いて、きょうそこへ行ってきたのよ。ワジ・ナトレームっていうの。オアシスって言ってたから、なんかロマン
チックな風景、期待してたんだけど、ドライバーが
「ここだ」って言った場所、砂漠の真ん中なのよ、椰子の木とか草むらとか、何にも見えない。見渡す限りの砂地。「どこなのよ」って怒鳴っちゃった。そした
ら
「500メートルぐらい行くとある。崩れるといけないから、ジープはこれ以上近づけない」って指さすのよ。「待っててね」って言って、そこから歩いたわ。
そしたら、オアシスって、穴ぼこじゃない。砂漠の、砂の穴。杭が立
っててね、そこに梯子があるの、長細い、そうね、楕円形の穴の谷底。椰子はなかったけど、草は生えてたわ。何ていう草か、名前は知らない。水があったわ、
ナイルから遠く離れて、地下水なんだけど、ナイルの水だろうって言ってたわ。それで両側の壁がsait---neutrale
saltの塊り。そのsalt に横穴掘って、木の枠で作った礼拝堂があって・・・・」…。
……
「You are what years old.」
「for me, eighteen years old and she are seventeen years old、coming out
--you -- ?」
「and fifty years old」
「-- lie -!! 」「-- lie -!! 」二人同時に声を出す。
「-- it is true -- fifty years-old」
「they being about forty years old, however it may see」
「it being thank you somehow」
寒い期間、街角でホットミルクを売るアルバイトをしてお金を貯め、この旅行を決行した。帰ったら学校にレポートを出す、ということである。
「甲子さんて、英語できるんじゃないですか」
「いや、できやしないよ。聴いてただけさ」
「ヒアリングOK なら、話すことは簡単でしょう」
「いや、ヒアリングというのとちょっと違うんだが…」
何と説明すればいいだろう。わたしが「聴く」と言っているのは「言葉を、聞く」のではなく、「意、を聴く」ということなのだが…、日常の生活習慣と比較
して現地の人の生活を「不潔だ。汚い。だらしない」という感覚で見ている若者に説明しようもない。それらの不潔さや汚さやだらしなさは、彼らが生まれる寸
前まで日本にも日常的にあったことなのだ…。
一週間後の朝、わたし達がシェリカ(企業)の迎えの車に乗るためフロントへ下りると、明日は帰る、と言っていた二人の娘がチェックアウトして出るところ
だった。半袖・半パンツ・大きめのリュックで両手は手ぶら。タヒリイル広場からバスで空港に向かう、という。
「バァイ・オンリィナウ」「シー・ユウ」。手を上げ、中の三指を交互にピラピラ動かし足取り軽く、まだまばらにしかあいていない商店街の涼しい朝の道を
遠ざかって行った。
もう、三十年も昔のことだ。「オンリィナウ」と言っていたが、会うことも連絡したこともない。名前も所も聞いていないしこちらからも言ってない。三十年
経てば彼女らも五十に手の届く年齢だ。キャリアウーマンとして活躍しているか普通の主婦になっているか、子供もいるだろう。
わたしは思う。きっと、よい家庭を作り、よい子育てをしているに違いない。あのとき彼女らの眼は輝いていた。咳き込むように話していた唇からは「驚き」
に満ちた言葉が溢れていた。わたしはただ「それで…」「それから…」「oh
」と相づちをうっていただけだ。
彼女らはとにかく「驚き」を誰かに話したかった。相づちを打つ人がいた。言葉が奔流のように流れ出した。それだけだ。飛行機に乗り、家まで帰り着き、親
や友達に話すとき、時間が経過している分、ややトーンが低下していたかもしれない。レポートを書く段になると、どう表現すればよいか考えるだろう。そうす
るとまた、一段とトーンが下がったものにならざるを得ない。
日常の煩雑に追われて、「驚き」は半減し、だが、思い出すことはあるだろう。日焼けにもめげず、靴の中に忍び込む砂で足裏がむずむずするのにもめげずに
行った、コプトの修道院。そのたび「驚き」は常に新鮮だ。あのとき彼女の眼は輝きに満ちていた。それこそ「ガゥハル・サハリ」(砂漠の宝石)だった。
絵葉書に見るギイザのピラミッドを背景にして、二本指でVサインした写真だけ持って、ホテルのスーベニアで買い物して家に帰り、「なんだこれ、made
in Japan じゃないか」などと息子に言われてるツアーの中年おばさんの眼には「ガゥハル・サハリ」は宿りようもない。
それから一二年のうちに、サダム大統領は暗殺され、古都テーベで観光客がテロ攻撃に遭った。いま中東は騒然としている。近寄るすべもない。
はてさて、三十年も昔のことを、わたしはなぜ思い出したか。選挙です。きょう選挙公報が舞い込みました。字数に制限でもあるのか、形式に枠でもあるの
か、なべて同じ結構づくめのスローガン。詳細は字づらの間から読め、とでも言うのだろうか。これだ、と訴えてくるものがない。
わたしが「聴く」と言っているのは「言葉を、聞く」のではなく、「意、を聴く」ということなのだが…
カイロ大学の日本人女子留学生は、バイトとして旅行社のガイドをしていた。日本では花の盛りの四月始め、頼んで、グマア(金曜日、イスラムの休息日)に
サッカラへ行った。カイロからナイルを100キロほど遡ったところの階段状ピラミッドのあるところ。
ナイル河畔には緑多く、椰子の林もあるが、草木がだんだん少なくなっていって、砂地が増え、そうして砂漠になる、と考えていたのだが…。事実は全く予想
を裏切るものだった。椰子の林を抜けると、突如、高さ十メートルほどの断崖があり、人工で作った路を旅行社のランドクルーザーで上る。と、そこからが砂漠
だった。
ギーザなど観光地ではなだらかな坂にして道路も舗装してあったが、ここは路こそ作ってはあるものの、原史そのものの光景である。他に観光客はいない。遺
跡もたいへん興味深く観たが、隊商宿の跡、というのがあった。椰子の木で柵を巡らし、そこに駱駝をつなぎ、到着した隊商から荷を下ろし、出発する隊商には
商いの荷はもちろん食糧その他の旅支度を調える店が並んでいた、と言う。
「わあ、西部劇に出てくる砦みたいだ」と若い二人は通訳(ガイド)と共に建物の跡へ入って行った。
わたしは運転手とともにピラミッドの裏?(西)まで砂の上を歩いた。地平線を見たいと思ったのだ。地平線とは空と陸の境にある、横一線の、いわば地球の
輪郭、と思っていたが、そしておぼろに、あれが地平線、と思えば思えるのだが、砂の色と空の色は渾然としていてはっきりとは分からない。
運転手は英語が話せる。聞くと、彼は布鞄から双眼鏡を出してくれた。
炎が燃えさかる野焼き、いや、そんななまやさしいものではない。横一線がみな燃えさかって、生けるもののすべてを焼き尽くし、近寄るすべてを拒む劫火の
様相だ。地平線どころか、空と陸の境を溶解して、どこまでが陸で、どこから空になるのか、混沌・渦を巻く、の状態だった。
「いつもこんなふうなんですか」
「ああ、昼間はだめだね」と、エジプト人の運転手は言う。
「季節によるけど、砂嵐で、とにかく昼間はこんなふうなんだ。いまは東風だから砂は向こうへ吹き流れている。が、月末から来月になると太陽の影響で西風
に変わる。そうなるとカイロも砂嵐の中だ」 そしてごくりと唾を呑み、
「ヤアバン(日本)の旗は太陽だって聞いたが、ほんとうかね」
「そうだけど…」
「だったらサハラの人たちには見せないほうがいいね。サハラの民は、太陽は悪魔だと思ってるから」
「………?」
「だから、サハラの国の旗は、月と星の図柄が多い」
(サハラ、はアラビア語で砂漠を意味します)
ホテルへ戻って地図を見ると、ナイルの川岸からリビア砂漠の入り口を垣間見たにすぎない。クルト・ユルゲンス主演の映画「眼には眼を」をだいぶ昔に観た
が、あれはアルジェリアの砂漠が舞台だった。ラストは、凄い砂丘の連なりへ徒歩で迷い込む、というシーンだった。クルト・ユルゲンスはいつも絶望の彼方を
みつめているような険しい
眼差しをしているが、地図ではサハラ砂漠のほんの入り口だ。砂漠の中央は、どんなふうなのだろう。
台風はこれからが本番のようです。ご用心… 甲子
* 象の墓 甲子 05.8.30
お仕事に、観劇・展観、と連日お出かけのご様子、楽しみ多きこととは存じあげますものの、お身体に障りはせぬかと、余計な心配をしております。
わたしは過去十五年、定年退職してから休むことなく、春と秋の二回、約二ヶ月づつ、ボランティアとして海外技術交流(指導)をして参りました。その半分
は中国でした。
国を離れて、面白い、楽しいことも数々ありましたが、そのうちの一つに、国内のニュースから遮断される、ということがありました。変なことを言うようで
すが、外国で見る、あるいは読むニュースの「日本に関する記事」はごく限られたものであり、日本で見聞きする、眼を覆い耳を塞ぎたくなるような話題は、余
程重大なものでないかぎり、接することはありません。それだけでも、肩にかかるもののない軽々した気分が味わえます。
ただ、主に「中国で」の話ですが、日本の大臣クラスの失言・放言などがあると、TVのトップ、新聞の一面に大きく載り、あるときなど、若者がわたしの胸
倉をとり、掴みかかる、という恐怖の体験もありました。都度、窓口である地域政府専家局や科学技術交流中心の担当者がその場で若者を取り押さえ、ことなき
を得ました。
が、「なぜ、あんな失言、放言を繰り返すのだろう」とわたしは不思議でなりません。そんなことは多少とも事情の判っている者は承知していて、ふだん口に
しないだけのことなのに、そうして、ほんとうに言わなければならないことには言及せず、些末なことで世論を刺激する「偉い」といわれる人の知性とは、その
程度のものかと慨嘆したくもなります。
友にも死なれ、妻とも永訣。が、それはひとの定め、所詮人間は孤独だ、と自らを慰めるてだてもありましたが、二三年前から、中国の、唐突な居丈高・態度、
「眠れる獅子」と久しく言われてきましたが、あれは「狸寝の獅子」だったのでしょうか。江沢民・朱鎔基時代とはうって変わった、いや、そのころ既に、内心
では含んでいるものがあった
のかもしれません。わたしは十二億の内たかだか四百人ぐらいにレクチャーを施したにすぎませんが、それでも初期には、C言語、次いで
VisualBasic、最終的にはAUTO・CADのソフトまで、自費を注ぎ込んで尽くしたつもりでした。一つには戦時の罪障の負い目があり、友の鎮
魂、そして何より友好の志、きれいごとを並べましたが、もっとも嬉しかったのは識らない人が識るようになってゆく過程を観る、ということでした。
しかし、「もう判った。日本・日本人から吸収すべきものはもうなくなった。」と言うことでしょうか。いま、隣大国と共同の軍事演習など、着々、あらぬ方
角へ矛を向けているようです。
ああ、わたしは何をしてきたのでしょう。平和のため、繁栄のため、と思ってきたものが、オセロの一齣で逆転してしまった。十五年の矛盾、いえ、その前も
あります。思えばわたしの五十年はすべて裏目になってしまった。友や妻の死よりももっと深い悔恨がわたしの人生には用意されていました。もう、わたしには
時間は残されていません。
再出発とか余生とかいう言葉も空しい。過ぎゆくときを見守るばかりです。
鴉の挽歌
一日中鵜のまねして
獲物漁ってみたのだが
やっぱ本物にゃ敵わない
それでも精一杯頑張って
数十尾は漁ったのに
ご褒美はただ一尾
夕方ともなるとクタクタだ
だからヤキトリ屋なんぞに寄り
ノドチンコがヒリヒリする酒を呑む
たちまち本性現れて
同じ仲間肩組んで
奇声あげて歌唄う
カンバンですよと声かけられ
ご近所に悪いとたしなめられ
仕方なくなく家路を辿る
だが明日になるとまた
僕はもうひとりの僕を殺し
鵜のまねして出掛けねばならない
これが黙っていられよか
暗い街に奇声発し
僕は僕のため歌唄い
お巡りさんなんかににらまれる 195?-?-? 甲子
これはわたしがまだ平社員として勤めていたころの詩? です。当時はPC
などいう便利なノリキ(文明の利器)はなく、大学ノートに鉛筆書きでした。仲間に回し読みしたため手垢・食べ物を零した染み、酒かビールかの跡、などで汚
れ、紙の風化も手伝い、作詞の日時など判読できません。
中也の詩に、
吹き来る風がわたしに言う
おまえは何をしてきのだ
と 中原中也 「帰郷」より
こんな短い詩句のなかに、たとえ短命であったにせよ、中也のすべての沈黙が隠されている。多く語って「沈黙」どころか、駄弁のみ後味悪く残るわたしのも
のなど、詩にして詩にあらず、詩の真似事の域にも達していない。その真似事をもうひとつ…。
象の墓
じょうじょうと風吹く蘆原に歩みより
よろよろと歩みより
過ぎ去りし膨大の愚昧を悔恨する
泪とともに仰ぐ虚空(むなぞら)に
ぴよるらぴよるらと鳶は輪を描き
老いの懺悔をあざ嗤う
流るる星は天空を飛翔し
消えることなき軌跡を追う
闇は光の果てに吸われ
死の中に生は息吹く
小鳥たちは何処へ行った
野の生き物たちは何処(いずく)へ身をひそめた
お前達には墓があるのか
自らを葬る儀式はあるのか
真理は虚妄の奏で
唄は魂の慟哭
ああ友よ霊魂(みたま)よ
浮き上がり舞い下って
饒舌の果ての沈黙をこそ語れかし
ぴょるらぴょるらと輪を描き
滑空する猛禽の友よ
いつまでもじらさないで
懺悔の着衣をついばんでおくれ
どうせ悔恨の包み紙だ
ああもし天に心あらば
ぴょるらぴょるらとじらさないで
この腐れきった肉体(からだ)を昇華し給え
屍(かばね)を晒すのだけは耐え難い
それでもまだ飽き足らなく
疲れの果ての眠り頬叩き
ぼろぼろの肉体(からだ)鞭打って
尽きることなき流星の
楕円の軌道を追い回すのか
シジュホスの罪を償えというか
わたしは錯覚のピエロ
綱から落ちたピエロで
もう充分にわかりました
充分という言葉はないのかもしれない
どこまで行っても悔恨はつきまとう
こんな腐れきった肉体(からだ)ですが
わたしにはこれ以外にさしだすものがない
ああ天よ極北の星よ心あらば
象の墓の在所(ありか)示し給え
よろよろと身をば運ばむ
這い蹲ってでも辿り着かむ
この老醜より逃れ出でて
腐れはてた魂の弔いせむ
腐れはてた魂の弔いせむ 05-08-30 甲子
陽気の変わり目、ご休息だいいちに …。 甲子
* 湿度計 甲子
05.8.27
早起きの習性があります。寐るのが遅かったときでも、夏は五時、冬は六時には目が覚めて、コーヒーを淹れ、ソファーで30分以上、ぼんやり外の景色を眺
めます。
身体も動かさず、何も考えません。と言うと嘘になるか…。脳が停止しているなんてことはあり得ない。ただ、とりとめなく、記憶、なんて機能を排除してそ
こにぼーっと坐り、欅の梢を眺めているのです。
これが何とも心地よい。わたしにとって、至福のひとときと言えます。
だがふと、今朝見て気づいた、欅の若枝が45度の高さに南の天を指している。もちろん直線ではありません。葉の群れが枝先に密集しているぶん、重みでた
わっています。弦を外した弓、といった程度でしょうか。いつも見るたわみ方とは違います。
どうして?
そう、湿度に関係ありはしないか、湿度が低いと葉も乾き、何よりも枝そのものが柔軟性を失って、親枝から生えた角度に忠実になるのではないか。湿度が高
まると弦張った弓に戻る。小雨が降ると葉が重く、岸辺から垂れた釣り竿の曲線になり、本降りになると葉先の滴が溜まったり落ちたりして、魚がかかり極限ま
でたわんで急に戻るという動きを繰り返す。
湿度なんて、ときたまTVの予報で見る程度で、大して関心はありませんでしたが、これは面白い発見だぞと思いました。誰かしら人がいると、どんなに気の
おけない仲であっても意識のどこかに「いる」という気持ちがあって、全き自由ということはあり得ない。独り暮らしだからこその発見かも知れません。
いまは葉が繁っているからそうだが、冬、落葉のあとはどうなるのだろう。朔太郎の詩にそんなのがあったな、と思い、詩集を開きました。
「巣」でした。欅もあったと思いましたが、勘違いかもしれません。
竹の節はほそくなりゆき
竹の根はほそくなりゆき
竹の纖毛は地下にのびゆき
錐のごとくなりゆき
絹絲のごとくかすれゆき
けぶりのやうに消えさりゆき。
ああ髮の毛もみだれみだれし
暗い土壤に罪びとは
懺悔の巣をぞかけそめし。
萩原朔太郎「巣」より
天上に伸びる欅の枝と、地下にのびゆく繊毛とでは、それこそ雲泥の差ですが、
吹きすさぶ風ものともせず
堅き青空目がけ突き上げてゆく
白骨の錐の如きもの
なんて光景が見られるだろうか。寒いのは嫌ですが、そんなコーヒータイムも楽しからずや…なんて考えると楽しみです。ようやく、独居生活にも慣れてきまし
た。幼時、新しい遊びを考え出して友達呼んで遊び、鼻うごめかして自慢した頃を思いだします。
詩集をぱらぱら繰っていたら次の詩句にであいました。
おれらは逃走する
どうせやけくその監獄やぶりだ
規則はおれらを捕縛するだらう
おれらは正直な無頼漢で
神樣だつて信じはしない、何だつて信ずるものか
良心だつてその通り
おれらは絶望の逃走人だ。
萩原朔太郎「絶望の逃走」より
たとえ一節とはいえ、先達の詩を書き写すなんて許されるのでしょうか。
吹いたり揺れたり、乾いたり湿ったり、暑いと思えば急に涼しくなる。変わり目早い季節です。充分にお気をつけを…。 甲子
* 暑苦しい夏 甲子
05.8.25
高校野球が終わると夏も終わり、とよく言われますが、昼間暑くても朝晩は涼しくなりました。暑いのは嫌ですが、寒くなるのはもっと嫌で
す。
その高校野球、夏連覇の駒大苫小牧に不祥事発覚なんてニュースが、連日繰り返され…。まるでマスコミ
が事件を作っているようなもの。
ところで、選挙のたびに問題になるのが、無党派層の動向ですね。
無党派層と一括りにいうが、個人にはいろいろな意見がある。五色か六色
のカードを示されて、どれか選べ、どれでもいいから選べと言われ、仕方なく右から三番目を選ぶと、だからX党派。何も選ばなかったら、無党派。そんな単純
な識別で何が言いいたいのか。
わたしは何を隠そう、無党派であります。だから投票しない、ではなく、投票はきちんとします。
各党の「マニフェスト」
もおおまかな、どの党も、同じようなものですね。
もっと問題なのは、政策決定の最終段階へくると、
議員の賛否を党議・党則で縛ること。みんな多少の異議・意見を押し殺して、党論に従ってしまう。何のために。選挙のために。党公認を得られないと当選の自
信がないからでしょうよ。公認が欲しさに苦渋の党論をごくりと飲むわけ。
無党派層、賛成。
もう一歩進めて、国会の中の党派を禁止すべきです。提出された案件に議員個人の信念を通して、個人の議決権を行使すべきです。去勢された羊たちの選挙公
報なんか見せられ、どれかに投票しなければならない、そんな選挙はまっぴらご免。投票
には行きますよ。だが、気に入った候補者がいないときはどうします。「無党派層には寐ててもらう」と言った前だか元だかの総理大臣がいましたっけ、そんな
党には絶対投票しない。その反対党に、目をつぶって、投票します。
政治の話はしたくはないのですが、あまりの態たらくについ…。
季節が推移してゆきます。まだ暑い日があると思いますが、朝夕は冷えるでしょう。
どうぞお大事に、 甲子
* 今浦島 甲子 05.8.19
今朝、メールを開き、お便りをあけて、腰が抜けるほどびっくりしました。仰せのとおり「umi」を開いて二度びっくり。とてもとても、こんな錚々とした
先生方と目次を共にするなど、思いもよりません。昨日(05-08-18)、詩、とも言えない拙文をお送りした直後、このごろ調子にのり、饒舌になり過ぎ
てはいまいか、以後、すこし慎まなければ、と自戒していたところでしたのに…。
正直に申して、嬉しいです。こんな嬉しいことはありません。ですが、わたしでいいのでしょうか、「私語」を拝見していますと、はるかに優れたお考えの方
が数多くいらっしゃると思うのですが…。それとも、わたしの特異性を買おう、ということなのでしょうか。それなら解る気もしないではありません。
わたしの友は、二人はすでに逝き、一人は永く病床にあります。
互いに元気だったころ、よく酒を呑みました。広島へ単身赴任していたころは「賀茂鶴」の特級2本と生牡蠣の樽詰めを持って空港に降り立つと、誰か一人が
迎えに来ていて、会社の迎えと鉢合わせしたりするとそいつに酒と樽を渡して、夜、行きつけのやきとり屋に集まって呑みました。やきとり屋も心得ていてくれ
て、酒・食い物持参の不届きな客を嫌な顔せず、部屋をあけてくれました。話すのは、猥談とパロデイと駄洒落ばかり、みんな心に疵を持っていて、それに触れ
るのは哀しく、あまりに哀しく、だからそこから遠く離れて、猥談とパロデイと駄洒落、大笑いし、笑って笑って、その裏側の胸のうちにふっと沸き上がる泪。
敏感にそれを感じとると、それを吹き飛ばすように別な仲間から新しい駄洒落が飛びだし、笑いとばして、コップの中身をそっと舌にのせる。
いい友でした。心あくまでやさしく、わたしはそんな友に囲まれて幸せでした。それが、ふっと消えて、今浦島。「源蔵どの、お許しあれ」と言って目に手あ
てても、源蔵さんがいないでは、笑い話にもなりません。
妻にも死なれました。妻は生前、心は優しいのですが、たいへんな皮肉屋でした。ふだん何か言うにも「でしょう」と言うところを、「じゃない」と否定語を
多用する性格でした。死の前日、細い声で「幸せだったよ」とそれだけ言いました。あまりにかすかな声だったので、「え、」と聞き返しましたが、もう答えは
ありません。それが最後の努力、最後の「皮肉」であったと思います。幸せどころか、苦労のかけどうしだったのです、のに。
すべては夢と消えて茫然自失。そんな寂しさの中からお声を掛けていただき、おそるおそる、「私語」のお仲間入りし、メールをさし上げたのでした。
秦恒平の眼鏡違い、と言われぬように努力します。が、あまりごしごし磨いてしまうと、メッキが剥げてしまいます。
いま、わたしは柄でもないのですが、こつこつと創作のまねごとをしています。あまり身体を動かさぬぶん、時間だけはたっぷりあります。残り時間ではあり
ません、残り時間のほうはとっくに黄信号、いや橙信号、ピンク信号。
ただ、わたしの文章は性急なもの言いになってしまいます。いつもいつもラストスパートのような、いきせききった文体です。主題がきまっていて、それへの
思いが文節の一葉一葉に雨後の塵のようにまとわりついてゆくからでしょう。それだけ解っていたら、そのようにしたらいい、と、それはそうなのです、が、難
しい。
もっとゆったりして、景色は歩きながら楽しめばいい、とは思いますが、それが出来ません。どうしても立ち停まって、じいっと見てしまう。見つめてしま
う。わたしの性格なのでしょう。「私語」で仰っおられる fascination 是非、わたしも欲しい。知りたい。
大変失礼しました。あまりの驚愕に、度を失っております。
三平ではありませんが、頭掻きつつ、身体だけは気をつけて下さい… 甲子
* みづく屍 甲子 05.8.18
恥ずかしながら、とさきにおことわりしておきます。
みづく屍
舷(ふなばた)に蒼き影は佇ち
君が無念の浪の底
舷に蒼き影は佇つ
浪底にいま杭打たれ
君が墓暴かれんとす
舷に蒼き影は見る
白きパイプは打ち込まれ
君が生き血吸はれゆく
舷に蒼き炎ゆれ
燃え裂かれる君が魂
昇華するかくすぶるか
舷に蒼き煙立ち
君はいづくに行かむとす
荒浪かしら逆立てて
白き歯むき出しつつ
遠く海原(うなばら)彷徨(さすら)ふか
舷に蒼き影は佇ち
舷に蒼き影は佇ち
ああ
君やいづくに行かむとする
荒浪底こそ栖(すみか)なるに
05-08-17 甲子
詩が好きで、若い頃よく読みました。読むだけでは物足りなく、周囲の、ごく限られた友人とともに anthology
と自称して、当時はガリ版を自分で刻み、公民館の刷り器を借りて詩集ともいえないチャチなものを作りました。外部へは出さず、マスみたいなものでした。結
社へ入るとか投稿する、という意思は全くありませんでした。同人を作っていた若い人たちの作品を、「読んでくれ」とよく渡されましたが、何の影響かやたら
漢字を羅列して、意味不明な造語ばかりを並べ、「判らない」と言うと「これが判らないの? へぇー、てことは、詩が判らないってことだ」なんて言われたも
のです。
上記がはたして「詩」と言われるのかどうか、増長もいいところです。
東支那海の海底ガス田の問題でも、権利意識とか利益などのことより、わたしには鎮魂の思いが先にたちます。だから年寄りはだめなんだ、と言われそうです
が…。
今年の夏はカッと照りつけ、ものみなはじける、といった陽気さがありませんね。
でもまだ、油断はなりません。 どうぞお大事に。 甲子
* 帰還… 甲子 05.8.14
今年も、敗戦の日がきました。敗戦は日本人の進路を変え、同時に、わたし自身の生き方を大きな斜行曲線を描いて変えてしまった、運命の日でもあります。
わたしの同期生の多くは春を待たずにつぎつぎ入営し、故郷、東京下町の大空襲も知らず、輸送船で目的地に着港することもなく、海中に沈んでしまった者が
多数です。彼らは射撃の訓練は受けたものの、一度も実弾を放つことなく死んでいった、それが口惜しいとか哀れとかいうのではなく、ただの弾除け、おとり船
に使われた、ということが
無念でなりません。
わたしの接した人々の中に、特攻隊員もいました。友人とは言えません。わたしはただ、彼らの求めに応じて写真を撮っただけです。わたしと同年か一歳年下
ぐらいの年代でした。死ぬことだけを徹底的にたたき込まれた、いわば軍神「あらひとがみ」です。
だが、その頃すでに、彼らの乗るべき飛行機はなかったのです。翼のない鳥、「鶏」と陰口されていました。笑うべきでしょうか、泣くべきでしょうか。死ぬ
ことだけを教えられて、敗戦になって、生きるすべを知らぬまま、混濁の巷へ放り出されたのです。彼らはどうしたのでしょう。「特攻くずれ」なんて見出しが
新聞の三面に出たことがありました。
わたしの所属していた飛行機製作所の写真室には、二人の先輩技術者がいました。四十代、いずれもスタジオ写真(当時の言葉では写真館)が専門で、四つ切
りの乾板や四の五(4吋X5吋)パックフィルム版の据え置き型撮影が得意で、修整技術に優れていました。したがって、取り扱い説明書作成のために、機内の
狭い箇所に潜り込んで撮影したり、荷重実験・歪み弾層・流体動向・破断断面、など、体力を要し、鮮明を専らとする小型カメラによる撮影は、ほとんどわたし
一人が行(や)ってきました。扱っていたカメラも「コンタックス・ゾナーF2」「ローライフレックス・テッサーF2.8」といった、当時世界最高最新のド
イツ製でした。その時点で、わたしは中学時代の倶楽部活動を加算すると、経験5年になっていましたし、会社からは兵役猶予の嘆願書が出されていました。
兵役猶予は、軍が認めた重要工場の重要職種のみが対象で、期間は三年でしたが一年に短縮され、戦局の急迫とともに六ヶ月になりました。その間に後継者を
作れ、ということらしいです。三月だった入営が、九月末に延ばされました。九月に兵役に就く、これが八月十五日の敗戦で突然中断された。紙一重とはまさに
このこと、と、いまでも思います。だからその後60年は拾ったもの、「晩年」と言えば言えるかもしれません。
敗戦の二年前に、設計課の課長補佐をしていた若い技師(出身校が高専であったため大学出の技師のように課長職になれず、万年補佐)が、ドイツから送られ
てきた研究誌? を持ってきて、「シュナイダー・スクリュー」のギアボックスの解説図を大きく複写してくれ、と頼みにきました。シュナイダー・スクリュー
のことはここでは省きます。
その本の先頭の頁、目次の前に、全面一葉の写真が載っていました。横長の画面なので本そのものを横にして見なければなりません。三人の人物が写っていま
す。左端にドイツ将校の外套をきちっと身につけたお父さんが、やや前傾姿勢で両手を拡げて待ち構えています。右端には襟と袖口に毛皮をあしらったスエード
と思われるオーバーコートを着た母親が、いま、子供を離した、というふうに手を前方に出しています。中央に子供。二三歳の女の子。ボアと思われる素材のマ
ントを着ていて、マントの裾巾は背丈とほぼ同じほど広く、手を伸ばしてお父さんの方へ駆けています。前傾30度、いや、もっとありそうです。場所はプラッ
トフォームでしょう。背景に軍用列車が停まっていますが、ボケが効いて定かではありません。
「パパァ」 ドイツ語では何というのでしょう。
女の子の嬉しそうな満面の表情から、そんな声が聞こえてきます。パパもママも嬉しそうです。ですが、見ているわたしは、「あ、危ない」と感じました。女
の子の前傾角度が深すぎるのです。小さな靴の片方は後ろに跳ね上がり、小さい手を精一杯伸ばしているので、重力が前にかかりすぎているようです。速く後ろ
の足を前に出さないと、とそ
んなふうに思いました。
ドイツ文字はまあローマ字と大して違わないので、それでもわからない字があります。ドイツ語になるとまったくわかりません。技師に聞きました。万年補佐
は親切でした。
データは、カメラ・コンタックス。常時二台所持し、グリースの凍結を避けるため、一台は常に服の中へ入れ、肌の体温で保持している。ゾナーF2開放。
1/1250秒。増感、
「増感、てなんだい」 と技師は訊きました。
「ああ、露出が足りない、と思った時にですね、現像時間を延ばしてコントラストを強める操作のことです」
撮影、カール・マイダンス、場所、ドイツ国内北部戦線の基地、題名は「帰還」。
「コメントがあるよ。シャッターを押した直後、わぁーっ、と幼児の泣き声がした。女の子はフォームに転んでいた。急いで暗箱で現像したが、転ぶ直前を撮
すことができた」
以後、先輩たちの技術に疑問を持ちました。お見合いの写真、出征兵士の写真、社長や偉い人の肖像写真。それらはわたしの担当ではありません。先輩の得意
分野です。ガラスの乾板に4Bぐらいの鉛筆で修整を施します。こけた頬をふっくらさせ、陰の部分を白くし、小皺やしみを取り除きます。焼き上がった写真は
実物よりはるかに美人に、あるいは若く凛々しくなっています。そんな写真を見て、あの写真屋は腕がいい、などと言う。
ドイツが降伏したとき、真っ先に思ったのは、カール・マイダンスのことでした。どうなっただろう。死んだか、逃亡したか。彼の写真には、1/1250の
世界に「平和への帰還」というメッセージが籠められていた、と今でも思います。
わたしは、敗戦の日を境にカメラマンへの道を絶たれて、まったく違った世界へ進むことになってしまいました。そのわけは、いまここでは触れま
すまい。翼のない鳥、ならぬ、瞳を持たぬカメラマン…。
敗戦を終戦、占領軍を進駐軍、などと日本人はどこまで体面主義なのでしょう。素直に、なぜ「敗戦」「占領」と言えないのでしょう。
原爆の跡地にも草は萌え、花も咲きます。湿潤な日本は恵まれた地です。草木は逞しく、人間は脆い。いまから文字どおりの、ほんとうの意味での「終戦」を
迎えたいものですが…。
だがまた性懲りもなく、同じ過ちの道へ近づこうとしているような気がしてなりません。
ますます、お元気であられますように… 甲子
* いきれ雨・・・ 甲子 05.8.10
残暑、炎暑、猛暑、いかがおすごしでしょうか。
「私語」は欠かさず拝読しております。脚、回復のご様子。乾杯(350ml)缶。
ただし、寝不足はいけません。といって、どうすればよいか、など、考えがあるわけではありませんので、これも「バグワン」の第一層にあたるのでしょう
か。わたしは(350ml)で爆睡してしまうたちなので、いわゆる神経の鋭い知識層のお仲間にはなれそうにありません。
メール、何度も書いては消しています。歳をとると行動範囲も狭く、人付き合いも限られたものになり、新鮮な話題の生まれる余地がありません。クーラーだ
けを効かせて、ぐったりとソファーに掛け、窓越しの欅の梢をぼんやり眺めているばかり…。
クーラーはどうも好きではありません。なんとなく空気が室内を循環しているばかりで、窒息しそうな感覚に襲われます。杞憂とはこういうことでしょうね、
多分。
先日、かっと照りつける暑い午後、急に曇ってきて大粒の雨が勢いよく降り、若いお母さんが遊んでいた子供を抱えて建物へ逃げ込んだり、通りがかりの人が
買い物の袋を頭に載せて走っていったりする光景を見ました。十五分ほどで雨はさっとやみ、また元の陽射しが戻って、何事もなかったような午後の風景になり
ました。ただ、道路や植え込みに水分がたっぷりゆきわたり、涼しくなりました。「通り雨」というのでしょうか。
そんな、人の動きをベランダから見ていると、昔懐かしい、無声映画を観ているようで、心和みます。年寄りは(わたしの口からそういうのはおか
しいです
ね。昔の年寄りは≠ニ訂正します) こういう雨を「いきれ雨」と言っていたのを思い出します。音もなく、戸を開けて外へ出て始めて気がつく、といった雨
を「こそ雨」と言っていました。下町言葉です。今でもそんな言葉が残っているでしょうか。大空襲以後、用事で訪れる以外に行ったことがありませんので分か
りません。そんな辛気くさい話ならこと欠きませんが…。
八月は死者の月。ヒロシマ・ナガサキ、も過ぎました。連休は、お盆というより民族移動と言った方がふさわしいこのごろです。
現役の頃、わたしは岩国で工場長を四年間勤めました。それで商用でも遊び(遊びでは宮島・三段峡など)でもたびたび広島へ行きました。当然、平和公園も何
度か訪れ、そのたび首を傾げることがありました。ありました、と過去形で書きましたが、今でも不思議でならないのです。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
これは誰が誰に言っているのでしょう。原爆を落とした側が、犠牲者を悼むために建てた記念碑ならば判りますが、日本人が建てた碑銘とすれば、なんとも不
可解な文言です。
あの時点では、日本の軍事力は壊滅状態、ゆうゆうと飛来するB29を迎撃する能力は皆無だったのです。当時わたしが動員されていた工場でも、電力不足、
原材不足、厭戦気分が蔓延していて、生産そのものは停止していました。ほっておいても軍の内部崩壊は免れなかったでしょう。一部、少壮青年将校らの蹶起は
あったにしても、大勢は決していたと思います。いままでもこのことは何度か話し合いましたが、いまここでまた言いたい。
なぜ、滑走路を持つ主要軍事空港は爆撃せず、東京下町のような非戦闘員の密集地を、あれほど徹底して絨毯爆撃したのだろうか。多分、多分ですが、その時
点ですでに占領計画は出来上がっていて、戦後に使う滑走路を無傷で残す計画ではなかったか。
だとすれば、ヒロシマ・ナガサキ・は何だったのでしょう……。
「過ちは繰り返しませんから」と日本人が自ら言うのなら、ヒロシマではなく、もっと別な場所で、別な方角を向いて言うべきです。「非戦と平和のため」と
称して靖国詣でをする。そんな神経と同次元のような気がするのですが…。
先日、七月三十一日だったと思います。「私語」の中の花火のことに触れてメールを作ろうとし、いずれにしてもわたしの話は古く、辛気くさい、と思って消
してしまい、ソファーに坐ってTV
のスイッチを入れました。午後三時すぎだったと思います。NHKのオムニバス形式のドキュメンタリーでした。何というタイトルだったか分かりません。
いきなり、「◯◯を目の前で殺されました」。
◯◯の部分が、父と言ったのか、兄と言ったのか、夫と言ったのか分かりません。文脈(話し言葉を文脈といってよいのでしょうか)
から考えて「夫」だろうと思います。鼻柱の太い、顔中が堅肥りした、60前後のカンボジア人女性。感じから、農民ではありません。プノンペンかどこか、都
会の人です。
「そのことを息子には話しません。息子が聞けば、息子の心に憎しみが生まれます。憎しみを持って生きてゆくのは、不幸なことです」
なんという立派な、逞しさでしょう。「肝っ玉母さん」とはこのことではないか、と思いました。それだけで、番組はすぐ別の人へのインタビューに変わって
しまいました。
肝っ玉母さんというドラマをわたしは観たことがありません。新聞の番組欄で字面だけ記憶していました。内戦、テロ、憎しみの連鎖はどこかで断ち切らねば
なりません。
「憎しみを持って生きてゆくのは、不幸なことです」と、当然すぎることを世界中の人が考えれば、悲惨な、人間のみがかかえる愚かしさは解消できる、と思
うのですが…。
ですがもう、どうでもいい、とも思います。自然保護などと、人は、人の行為と自然を切り離して考えがちです。大きな自然は、そういうちいさな人間の営
み、浅はかさをも底知れず織りこんでいて、どこかで「人間って動物は、バカだなあ」と笑っているのではないでしょうか。
涼しくなったようですが、まだまだ暑さは去らないでしょう。
選挙ですね。今度こそ、という思いはありますが、わたしは転居したばかり、投票権はあるのでしょうか。どうぞ、投票率が上がりますように、そんな他力頼
りな思いです。
あぶら照りのなかをお出かけの際は、充分にお気を付けください。とくに後頭部を焼かれるのがいちばん危険です。お大事に。 甲子
* 同窓会 甲子 05.8.30
先日の「私語」文中に、「もうみな同級生は七十になるわけですから、もうさきざき同期同窓会もできるかどうか分かりませんので、と聴いた。」という近況
記述がありました。
私事を申し上げて失礼なのですが、わたしはついぞ、一度も、「同窓会」というものを経験したことがありません。
亡き妻は、手術直前の74才まで、毎年欠かさず「同窓会」を持ち、したがって年一度は生まれ故郷へ帰省していたことになります。それも、藤棚で近在に知
られた神社が氏神であり、五月初めの「藤祭り」という催しに合わせた日時に行なっていました。「ハイ、チーズ」なんて写真がアルバム六冊、整理しきれず袋
や封筒詰めのものを合わせると段ボール半分ほどもありました。
都度、多少はうとましく、多少は妬ましく、わたしは妻を送り出していました。
死亡通知のときも、数えてみれば36通が同窓生、同級生でした。78歳にして、です。
ご存じのようにわたしどもの幼少年期は男女別学でしたから、妻の同窓会はすべて女性。わたしにもし同窓会があったとすれば、すべてが男性のはずです。
もう十何年も前に、年齢別人口統計表、というのがTV
だったか新聞だったかに表示されたことがありました。横軸に数を表し、下を0才として年齢順に積み上げてある表でした。中央から左が女性、右が男性です。
驚くことに、いや、当たり前なのですが、男性側のわたしの年齢、その一つ上、二つ上、の年代は、瓢箪のくびれのようにがっくりと少なくなっていました。
殆どが戦死、生きていてもどこかに傷害を受け、または虚弱体質で兵役を免れた者ばかりです。
戦後二十年のとき、わたしの同級生は、尋常小学校、旧制中学を通じて「四人」でした。「おい、呑むか」と言って集まるのが同窓会といえば同窓会だったで
しょうか。それも一人はいわゆる病身で、集まれたのは「三人だけ」でし
た。五十年後にいたると、「わたし一人」がのこるだけとなりました。
結婚適齢の男女の年齢差を何歳、と推測するのは困難でしょうが、敗戦直後に適齢女性が結婚難であったのは事実のようです。比例して、二号・三号・風俗
嬢・オジサマ・ロマンスグレー、などという言葉が流行った、という言い方は、うがちすぎでしょうか。パンパンにしても、彼女らが好んでそのみちに入ったと
ばかりは言えない、と思いま
す。
とき、ところ、ひと、と言います。兵学の三要素…、ではありませ
ん。人の運命、のことを言いたいのです。
とりわけ「とき」が、決定的な運命の要素、かなめである、と思います。「ところ、と、ひと」からは、逃れようと思えばできないことではないでしょう。蒸
発、ヒッピー、など、「ところ」を離れた境遇に身を置くことができると思います。「ひと」もまた、古くは「姥捨て」などという風習もありました。
が、「とき」からは、どんなことをしても逃れられません。学歴詐称のように年齢詐称はできるかもしれません。が、それはあくまで他人を欺くことであっ
て、天知る、地知る、我れが知る。どんな手段も方法も、科学も宗教も権力も、これには全く無力です。
「とき・時代・世代」。体制に順応するも運命。反体制に走るも運命です。
わたしの世代は、「最後の英霊」の世代でした。わたしは、「最後の英霊」になりそこなっただけです。
(兵役召集の=)赤紙が来ると、「来たか」と、ひとりが言います。特配された特級酒を茶碗に注いで、のどに押し込みます。味わうのではありません、味な
んか感じません。ひたすら呑んで、神経を麻痺させて、早く酔いたいのです。「来たか」、は、言葉ではありません。うめきです。甲種合格とか乙種合格とか言
われた瞬間に来るのはわかっ
ていて、ただ、かける言葉がなくて、ほかに言いようがなくて、言っただけです。
当人も、お国のため、正義のため、などとは言いません。お国のためにも正義のためにもならないことを、みんなは知っていた。いや、感じていたのです。涙
は目の外へは出さず。喉元を通して直接胸の底へしたたらせます。そうして話す声はひきつったものになります。高笑いなどすると余計にひきつれが目立ちま
す。同窓生の前だからこその
「ひきつれ」かもしれません。わたしの「同窓会」といえば、それが「同窓会」だったかもしれません。それが「同窓会」なら、わたしは三日おき、四日おきぐ
らいに「同窓会」を開き、その年だけで二三十回も「同窓会」をしたことになります。
わたしが思い描くのは、ある人は社長になり・学者になり・先生になり、またある人は職人で、平社員のままで、だが会ったとたんに社長ではなく学者ではな
く先生でもなく、職人でもなく平社員でもなく、青春を共有したという懐かしさだけが沸騰して、肩を組んで昔の唄をうたい、互いの肚(はら)が突き出してき
たり、髪が薄くなったと言って冷や
かしあう、「このごろはすっかり衰えて、長いご無沙汰だよ」などとにやにや述懐する。…
「同窓会」、と聞いて、悔しいとか喜ばしいとか、そんな感覚はもう麻痺してしまいましたが、うらやましい、とだけは、いまでも思います。これも運命なの
でしょう。
戦後すぐのころ、ラジオでタレントが、「アトミックふとん」という言葉を使っていました。GHQか、その御用学者の造語のようです。いわゆる団塊の世代
の急激な繁殖を憂えた、あるいは皮肉った…つもりなのでしょう。憂えても皮肉っても、人口はどんどん殖えました。欲求不足の妻のもとへ、欲求不足の夫が
戻ってきたのです。折からの物資不足、電力不足で、夜ごとの停電でした。蝋燭の灯はあってもラジオは聴けません。酒もなく、娯楽もなく、笑いもありませ
ん。寒ければふとんに入ろうというのは貧しき者の知恵です。暗い中の同衾で、男女の行うことは定まっているではありませんか。
言った方は容易に忘れてしまいますが、言われた方はなかなか忘れないものです。
いま、少子化を憂える声があがっていますが、憂いの根源を訊くと、ある財界のお偉いさんは「将来的な労働力不足」だ。と、人を何だと思っているのでしょ
う。
物を作って作って、世界中に売って売りまくって、もう充分です、要りません。と言われる時代が来るかも知れません。そのとき、余剰な設備はどうなるので
しょう。いくらあっても足りない物、の生産に向かう、という恐れはないでしょうか。平和目的、とさえ言えばいいのです。ミサイルの先端にレンズをつけれ
ば、100%の確立で命中する、という映像をわたしたちは見ました。あのレンズは、兵器用と言いさえしなければ、いくらでも作れます。親指を立てれば政府
側、下げれば反政府側、と事前に打ち合わせておけば、談合などとややこしい交渉も必要ありません。盗聴のおそれもなく、暗号の必要もありません。かくてA
国は政府軍に武器を売り、B国は反政府軍に地雷や自動小銃を売るのです。
時代が人間をつくり、時代が人間を殺してしまう。「とき」こそは運命のみなもと。
いま、いま、この時代の原動力になっている団塊族、「アトミックふとん」と揶揄された階層に望みたい。よき時代を作って下さい。カラオケで握るマイク
で、演歌の代わりに、いや、演歌の合間で結構ですから、「われわれの孫・曾孫・その子から(最後の英霊)は出すな、(アトミック
ベッド)なんか作るな」、と叫んでください。そしてみんなが、たのしいたのしい「同窓会」を持ち得ますように。
「最後の英霊」のなりそこないからの祈りです。
たいへん武張った言いようになってしまいました。
くれぐれも御身おたいせつに、これも祈りです。 甲子
* 「私語」御中 甲子 05.8.27
台風一過、強い陽射しがベランダ越しの梢を照らしています。今朝五時に起きてカーテンを開けたときは、まだ陽は射しておらず、吹き返しというのか、強い
風がありました。若枝が精一杯伸び上がったり、急に下へ落ち込んだり、マンモスが鼻で天を示し地を指して咆哮するときはかくや、と思わせる光景でした。い
まは無風です。
先便で、「老師」と書くべきところを「老子」と打ち込んでしまいました。こんなことでたとえ800字とはいえ、原稿が書けるのでしょうか。一字一字に
もっときびしくならねば、と自戒しております。
小心な小鳥は枝から枝へ移り、絶えず身を動かしています。天空に輪を描き、ゆうゆうと滑空する猛禽類をあこがれますが…。
これから暑くなりそうです。なにとぞ、ご自愛くださいますよう。 甲子
* 秦恒平様 甲子 05.8.25
メール、ありがとうございます。少し沈んでいたところでしたので、とび上がるほどの喜びを感じております。
07.06
の日付でメールをさし上げました。その四五日あとに何気なく「送信記録」というフォルダーを開きましたところ、私はとんでもない文章をメール文としてお送
りしてしまったことに気づき、愕然としました。初歩も初歩、なぜこんな事態になったのか、見当もつきません。
その何日か前、土地のボランティア、という方が訪ねてみえて、「あなたのことは東京新聞のインタビュー記事で知っている、当クラブで月刊の広報を出して
いるが、一年間、外国へ行ったときの経験談など、面白い話をコラムとして書いてみてくれないか」という話でした。800字程度、ということで、これは難し
いぞ、と思いました。が、初めて住む土地で、親しく話す知己もなく、人の声といえばTV
の音ばかり、自分から声を出すのはスーパーでの買い物のときぐらい。知己を得るによいチャンス、と思いました。
若い頃、(50年も前)散文に挑戦したことがあります。平易な言葉で「深い思い」を顕す。という基本の姿勢はわかりますが、これは一筋縄ではゆきませ
ん。チャイコフスキーとショパンの哀しみの違いを文章で書け、と言われてるようなものです。
丹羽文雄の主催する「文学者」の会が東中野の喫茶店(名前は覚えておりません)であり、そこで以前のメールで申し上げました石川利光先生とお近づきにな
れました。同じ席に津村節子さんもおられました。
きりがありませんのでこんな話ははしょります。とにかく少し書いてはあきらめ、書きかけては頓挫し、十何編もの習作(とまでもいえないもの)が段ボール
二杯にもなりました。(それも転居に際しすべて捨てました)が、結局、才能というのは生得の部分が多くを占め、努力で築かれる部分は(己れの勉強不足は棚
に上げ)ごく僅かでしかない。と
悟り、山之口獏の「転んだら 転んだままでいたいのである」という詩に接し、「ああそうだそうだ、そうそう」とばかりにあきらめ、折からの経済上昇の波に
乗せられ、demonically な風潮のただ中へみずから入り込んでしまいました。
南米、ペルーへ行ったとき。
当時は直行便がなく、ロスでVARIG 航空にtransit
となり、往きはロスまで英語(日本人スチュワーデスもいましたが)、VARIG機内ではポルトガル語、リマに着いたとたんにスペイン語。もちろん日本語
と、かすかに英語が判る程
度で、ロスの構内宿泊で豊満な黒人メイドのbreakfastという言葉をブラックバス、と聞いてしまい、ノーサンキュー、と言ってしまった。と話すと、
「それそれ、そういう話をぜひ…」ということで、一応12話まで、と断って引き受けることにしました。その第一作が、(先生という言葉はお嫌いでしょう
か。中国語で先生はMrを意味し、日本で言う先生に
あたる言葉は「老子」と言います。わたしは定年後15年、毎年約2ヶ月ほど中国へ赴き、西はウルムチ・トルファン、
四川・成都・自貢・南充、内蒙古、南は海南島など30ほどの地方都市へ行きましたが、地方ごとに発音が異なるため単語は覚えても会話の役には立ちませんで
した。先生は「しぇぬしぇえ」と聞こえます。)
と、書き出したところで「私語」の中の、「脚を痛められた」、という文章に接し、急遽、、メールをさし上げたのでした。文の中に書きかけの上記( )
内の文章が挟まっていようなど、確かめもせず、送信ボタンをクリックしたものと思われます。粗忽、粗末、言い訳無用。まだまだメールを扱うのは未熟。少し
謹慎して…などと考えておりました。
因みに、上記の落ちを申し上げますと、
(「先生は此処を終わって、次、何処へ行きますか」
「九月から、ラオスの予定です」
「えぇーっ。老子が、老子に行くってどういうことですか」「いや、雲南省の南にあるでしょう。あのラオス」「ああ、あそこはラオスじゃなくて、ロオ
ツ≠ナすよ」)
せっかくいただいたメールですが、まだ答えにはなっていないと思います。長くなりますので、次回に書かせていただきます。
もう夕食の支度、スーパーまで買い出しにゆかねばなりません。日々のこと、まことに面倒、からだなんてなければいい、と思うことがあります。医者から
は、アルコールだめ、塩分抜き、糖分抜き、蛋白も刺身・牛肉はだめ、豆腐は結構だが醤油はつけないで、などと言われています。いっそ「生きているから、だ
め」と言ってくれたらいいのに… こんな駄洒落を言って酒を酌み交わした友も、もういません。
台風が来るようです。昔、長女が好きだった クボタサキ?
という歌手のテープに「水色の雨」というのがありました。雨の色が水色だなんて、当たり前すぎて面白くもない、と思っていましたが、聴いてみると二番の歌
詞の冒頭に
ああー、壊れてしまえー、何もかもー …
というのがありました。ほんと、そうだなあ、なんて思うことがあります。
厳しい季節の到来です。何はさておき、御身だいいちにお過ごし下さいますよう。
「わが無名抄」に入りました。素晴らしい語り口と発想。魅入られます。 甲子
* にがい ジャム
甲子 05.6.26
「私語」の上では清酒党のようにお見受けし、お口にするものも日本食が多いようですので、さすがは京風、わたしのような雑食民とはちがうわい、と思いつ
つ、お送りしました。トーストなど召し上がるのか、ジャムなど口にされるだろうか、と鳴りを潜めておりましたところ、ご返信をいただきやっと安堵いたしま
した。
やがて三十にもなろうという孫が、どういう考えなのか、大学を出るとすぐ信州・菅平に根を下ろし、冬はスキーのインストラクター、夏は高校・大学など運
動部合宿の「賄い方?」みたいなことをしております。将来をどう計画しているのだろう、と心配するのはわたしばかりで、親が黙認しているものを口出しもな
らず、黙って視ております。
その孫の知り合いが地場産の果実を使ったジェリー飴を作っておりましたが、五年ほど前からジャムを作るようになりました。地場産だけを扱っていますから
季節により、あるいは材料の出来不出来によって扱う果実も違ってくるようです。
子や孫や曾孫などの出来不出来と同じようなものでしょうか・・・
今回のご本、たいへん楽しく読ませていただいております。いま、「葬」の章を読み終わりました。たいへんな遅読ですが、わたしはどの場合も二三ページ読
んでは戻って読み返します。自分なりに納得してからでないと先に進めません。
読書の楽しみを初めて知ったのは、同じ東京の下町に住んでいた豊田正子という少女の書いた「綴り方教室」という本の版権に問題が発生し、新聞種にもなり
ました。その経緯を説明してくれた小学校の先生から、オーヘンリーの「賢者の贈り物」を読んでみなさい、と教えられ、正月のお年玉で買ったのがはじまりで
す。
一度読んで大笑いし、二度目に「はてな」と感じ、三度目のときは鼻の先が急に痛くなって、涙がとまりませんでした。ああ、これが愛、これが人生なんだ、
と教えられました。(その年、二.二.六事変がありました)。以来、一度通読したぐらいで、感想など手軽に述べるべきではない、作者の真意、狙い、といっ
たものをじぃっと深く見極めるべきだ、と思うようになりました。
ただ、今回の「葬」のなかに、《「生きて生きている」ものと「死んで生きている」もの》という言葉がありました。はて、わたしはそのどちらに属するのだ
ろう、と考えてしまいます。
戦後すぐのころ、田村隆一の詩に、
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ (うろ覚えです、失礼します。)
詩そのものもさりながら、そのときわたしは「立棺」という文字に凍り付いてしまいました。「立棺」というものが実際にあったのだろうか、当時、辞書など
というものはなく、図書館もありせんでした。新刊本は茶色がかったザラ紙だったし新聞もタブロイド版だったと記憶しています。確かめ、調べることもなく、
わたしは考えました。
わたしの父が死んだときは「坐り棺」というのでしたし、母の場合も、昨年失った妻のときも寐棺を使いました。四千年昔のエジプトの墓から出るものもすべ
て寐棺です。(新たに発見されるものの中には寐棺でないものもあるかもしれませんが。)
「立棺」というのは、田村隆一の造語かもしれない。もしそうだとすれば、なんと凄いことだろう。言うまでもありませんが、棺というものは屍体を収める器
のことです。それが立っている。
・・・ひょっとするとそれは、現にいま立って、動いている、この肉体のことを示して言っているのではないか・・・
わたしの考えは間違っているかもしれません。ですが、わたしはその考えに囚われ、慄然としました。わたしはそれまでも、それからも、そしてこれからも、迂
闊に過ごす時があるかもしれない、そのとき、わたしは生きて、しかし実は死んでいるのです。
棺を装って、きらびやかに装って、しかし中身は腐臭激しい屍体なのです。
ああ、あのころ、(ときとして今でも)、民主主義、いや民主主義者と自称するやからが何とも許せなかった。きのうまで一億玉砕と叫んでいたおなじ唇で、
今日は一億総懺悔などとうそぶき、A級戦犯を裁いたのだから禊ぎが済んだ、などと厚顔な口をきく。
そう、棺を覆って終わるのではない、武田泰淳の「ひかりごけ」のように、人肉食で命をつないだのかどうかを裁く権力は、人々の汗でのどを潤し、血を啜っ
ている。
とんだ辛口のジャムになってしまいました。お許しください。
肉体労働が続くようで、しかしお躰のほうが大事です。おいといください。 甲子
* 振り込みました 甲子 05.6.6
エッセイ34号、拝受いたしました。下巻が続くようですので、その分の代金も一緒に振り込みました。
先日のメールで、ご返事がいただけるなどつゆほども思っておりませんでしたので、たいへんに感激しております。めげずに、精一杯生きて行こう、と思いま
す。
あと一週間ほどで、移居して一ヶ月になります。集合住宅に住むのは初めてですので、環境の変化はまさに「劇的」です。一フロア六所帯の八階建てですが、
両隣と真下の部屋へは挨拶におもむきましたものの、どういう仕事をしていてどんな生活をしている人々なのか、皆目見当もつきせん。わずか十五センチほどの
壁ひとえが「隣は何をする人ぞ」とうたった先達の言葉そのものです。
今までは縁側の雨戸を開けたり玄関の扉を開けば、「おはよう・こんにちは」という挨拶が跳び込んできたものでしたが、ここでは狭いエレベーターで一緒に
なった人に挨拶の言葉をかけても、目顔だけの返事しかなく、妙な警戒感を持たれてしまうようなので、それ以上には話すきっかけもなく、季節とは関係のない
寒さが心をざらざらと撫で擦るのを感じます。
ベランダから見る樹の梢が揺れています。私には無風と感じられるのですが、実際は風があって、それを感じるはずの私の知覚が衰えているのでしょうか。あ
るいは無風なのに樹木自身がその先端で細かく震えているのでしょうか。
うろ覚えなので引用は避けますが、「深夜 樹木は出発の準備する」という高見順の詩を思い出します。
ああ、わたしは何というばかなことをしてしまったのでしょう。
「荒地」同人をはじめとする青春の血とともにあった詩集のかずかずを手放してしまった。
いま、もはや語るに友は亡く、あるいは臥して久しい。唯一の友は書物であったのに・・・・ 老いたわごと、お聞き流し下さい。
おん身、おいといくださるように、 甲子
* 転居しました 甲子 05.5.20
季節のうつろうとき、お加減のほどは「私語」にて拝聴いたしております。
わたくし今回、下記のところに転居いたしました。以後の送本・通信など新住所の方へお願いいたします。
思えば、亡妻とふたりで「**」に小さな家を建ててから五十年になりました。以来、子供の成長に合わせて建て増しを繰り返し、7DKもの野放図な家に
なってしまいました。が、子供達はそれぞれにパートナーを作ると、積み木細工のような家を建てたり、瀟洒なマンションを購入したりして出て行き、近年は夫
婦だけの住まいになっておりました。
昨年、その妻にも死なれてみると、荒れた庭と、瓦礫のような家具の堆積が重荷になり、生活自体を簡素化しなければならない、と考え「おやじは子の抜け
殻」という落語の枕が実感されるようになりました。笑うに笑えない心境です。
一大決心の末、1LDKの団地住まいを決意、家は売り払い、家具の九割は廃棄。
最も悩んだのは蔵書三千冊でしたが、馴染みの古本屋に相談すると、
「幾らで?」
「いや、金はいらない、読みたいひとに読んでもらえれば・・」
翌日、金髪(黄髪)と茶髪のアルバイト二人が小型トラックで来て、段ボールに無造作に詰め込みながら、「いまどき文藝書なんて買うやついるかなぁ」など
と会話し、タナフサギ、という言葉が耳に入って、悲しさを通りこして憤りを感じました。が、私は何に憤っているのだろう、世間か、自分か、間違っても髪を
染めた若者のことではない。トラックに積み終わると若者は、「はいっ」と、尻のポケットから封筒を抜いて差し出す。
「金はいらないんだ」
「いえ、お金じゃないんです」
開けてみるとビール券。戦前
(といっても潜在的には戦争はしていたのだが)、小学校五年生のときにはじめて買った「オー・ヘンリー」以来の蔵書は、ビール二十本になった。
こうして私はいま、どうしても手放せない本、五十冊と、PC だけの生活になりました。
PC
に疲れた眼をベランダに向けると、いままで出会ったことのない光景が眼に入ります。風が見えるのです。四階は樹木の梢の高さであり、あるかなしかの僅かな
風に梢が揺れるのです。
五十メートルほどの近さに多摩川の堤防があり、桜の大樹並木と遊歩道があります。環境は絶好です。ここでわたしは本を読み、ひとには読まれることのない
作文をして過ごします。これがわたしの「終(つい)の棲家」となることでしょう。
余計なことを長々と書いてしまいました。御身、おいといください。
新住所 電話 旧住所 (略)
* 初のメール 甲子 04.6.28
はじめて通信させていただきます。本日、郵便振替で \4,000
振り込みました。「湖の本」48−49(「お父さん、繪を描いてください』)の代金です。お忙しく、またお疲れとは存じますが、お送りくださるよう、お願
いいたします。
先生の作品の大部分は WEB からダウンロードして読ませていただいていましたが、なにか盗み読みしているような後ろ暗い気分でした。
それも、妻の介護が始まってモニターの前に坐る余裕がなくなり、慌ただしい日々に埋没して、自分のためのことは何一つできない状態へ押し流されてしまい
ました。
そんな日常からやっと解放された、と思ったとき、無限孤独のただなかへ突き落とされている自身を発見し、そうか、こういうことだったのか、と、哀しさ・
寂しさ・ということの意味をはじめて悟り、その極みを身にしみて味わっています。
余計なことを書いてしまいました。世の中にはもっともっと悲惨な人たちが溢れている、というのに・・
おからだ、おいといください。 甲子