「e-文藝館=湖(umi)」 小 説

かわなみ はるか 作家・詩人 1951.5.26 北海道に生まれる。 詩「木津川三題」(「関西文学」掲載)で第16回関西文学賞。 掲載作は、平成四年 (1992)四月「樹林」第三二八号初出。日本ペンクラブ会員 尾形光琳を書いて顕彰されるなど活躍。 「湖の本」の久しい読者である。 (秦 恒平)




    妖妄譚
      川浪 春香



 女は仁和寺の門前に立っている。
 椋鳥(むくどり)が赤松の梢でひとしきり蹄いた。もう陽が山の端に傾きかかっている。うるんだような眸の中を、西日が赫々と照らしている。女は左右を見 つめ、背伸びをしながら街道を見はるかした。
 さっきから、いくたび彼方此方を見つめたことだろう。牛車(ぎっしゃ)も通った。長烏帽子(ながえぼし)の男も通った。馬に揺られた、枲(むし)の垂絹 (たれぎぬ)の女も通った。半尻の童も駈けて行った。しかし、誰も振り返るものはなかった。
(まだ、陽のあるうちは諦めてはならぬ)
 念ずるように、己にそういいきかせて立っているのだが、ひだるさも募った。はじめのうちは、ここに待っていれば吉兆が掴めると意気込んでい た。だが、黄昏時のうら寂しさは、心の張りを押し流している。熱を帯びた瞳にも疲労の色が濃かった。
 女はさる大臣(おとど)の末に仕えていた水仕女(みずしめ)だった。端女である。その大臣が霜月の五節の淵酔(えんすい)も終わらぬうちに、西国へ下る ことになり、この端女は暇を出されたのである。
 俗縁の者が死に絶えていた女には、行くあてがなかった。そこでふと以前に聞いた、三条東洞院の名高い陰陽師(おんみょうじ)に占ってもらおうと思いつい たのである。その占師は亀ト(きぼく)や太占(ふとまに)で名聞(みょうもん)を得ていた。女にはその験があらたかなもののように思われた。
 早朝、女はその陰陽師を訪ねた。
「何を占ってしんぜよう」
 几帳のむこうに、祭壇のようなものがあった。ひとかかえもありそうな唐金の鼎(かなえ)から、香煙が昇っている。
 煙の向こうに見える男は、年齢がわからなかった。麻の法服を身にまとい刺高数珠(いらたかじゅず)を持っている。僧侶かと思えば頭は剃(そ)り毀(こ ぼ)っていない。
 女は首をかしげた。
 男の顔つきは尋常ではなかった。色黒の引き締った表情に、眼窩が大きく窪んでいる。鼻はいやに高い。人を威圧するような眸は、炯々(けいけい)としてい る。ひとつひとつを挙げると恐ろしいのだが、一緒にすると才気にあふれてみえる。唇が赤かった。
 しばらく数珠を爪繰っていた男は、波々迦(ははか)を燻べた埋火の中から甲羅を出し、ザブリと水に落とし込んだ。今度はそれをゆっくり手にとり、連子 (れんじ)からもれるあわあわとした陽の光に、眇(すがめ)のようにすかして見た。
「ほう」
 赤い唇が開いた。
 眸は甲羅に浮き出た幾筋ものひび割れを追っている。
「兌(だ)と出ておる」
「兌 ?」
「つまり、西じゃな」
「………」
「西の方、大内山仁和寺あたりで待ってみることだ」
 女は暇を出されるときにもらった、なけなしの餅を数個、陰陽師に礼として置いた。
 言われたとおり、女はさっきから門前に佇んでいる。やがて陽が落ちた。あたりを闇が包みはじめ、物の影が黒々と大きくなった。女は初めてたじろぎの色を みせた。一心に張り詰めていた気根が思わず跡切れ、女は弱くなった。
「どうしたものか」
 今宵の宿すらないのである。
 と、不意に鐘楼の壁から黒い影がひとつ吐き出された。
「ついて参れ」
 影が呼んだ。有無を言わせぬ口調である。
 もう歩き出している。女は後に従った。影は双ケ丘(ならびがおか)に向かって進んだ。細い道である。茅や蓬の茫々と生い茂った野道を、二人は黙って歩い た。東に月がある。
 やがて、山裾の板葺切妻の家に入って行った。火打金を打つ音がして、漆を刷(は)いたような闇の中から覚えのある顔が現れた。
「あっ」
 女が驚きの声を上げた。
「おまえさまは……」
 今朝の陰陽師である。男は咽で笑った。
「やはり待っていたな」
「わたくしをなぶったのか」
「なぶりはせぬ。まずそのように怖がらずとも、ここへおじゃ。それ黒酒(くろき)でもつがぬか」
 いつの間に用意したのか、折敷(おしき)の上に土器(かわらけ)が二つ並べてある。男は瓢を懐から取り出すと促すようにした。女はためらったものの、す ぐにその瓢を拾い上げて、伏目がちのまま酌をした。争(あらが)っても無駄のような気がしたのである。
「すまぬが遣戸(やりど)を開けて、厨子棚(ずしだな)の下から味噌でも探して来てくりゃれ」
 女は素直にいいつけに従った。それから女も勧められて、その黒酒を呑んだ。打火皿の火はすぐ消えた。
 ほどなく、女は楓の梢をわたる鵺子鳥(ぬえこどり)の声を聞きながら、男の腕の中にいた。
 石炉にくべ足した沈香が立ち籠めている。
「命数(さだめ)とはわからぬものよ。今日もしそなたに遇わねば、わしもこのように仏法を犯すことはせなんだかも知れぬ」
 存外、男は情がこまやかだった。
 女はあくる日からこの庵に居所を定めた。男は時折、忘れぬほどに忍んで来た。
「やはり、わしの目に狂いはない」
 と、男はつぶやいた。
(思ったとおり、淫薬のような躯じゃ。このようなおなごは、みやこ広しといえども、そうそう巡り逢えるものではない)
 男は童子のように眼をかがやかせた。
「変わったの」
 辞色をあらためて反問したほどに、女は瑞々しくなった。
「はて、それは」
 女は、ほろほろと笑った。その顔に匂うような艶がある。二人は日ごとに狎(な)れた。
 女はおのれの躯の変化に驚いたものだ。乳房が片手でたわむほどはちきれた。湯巻の上から臀のまろみがあきらかに透けている。爪紅草とカタバミをつかって 染めた爪は、陽の光に瞬いた。
 無論、女もはじめからその気になったのではない。あの夜、陰陽師の命婦(めょうぶ)になったものの、一番鶏を合図に逃げ出そうと思ったのである。考えが 変わったのは朝のことである。
「もう、ゆくか」
 先に目覚めていた男は、女の小袖をくるくるとぬがせた。襟をひろげた。
「なにをなさる」
「こうつかまつる」
 と、薄衣の縫い目に潜む虱を丹念に潰してくれたのである。
 女は目を伏せ、当惑していた。
 欲望を吐き出すだけの男は、女の上を幾たりも過(よぎ)っていった。けれど、このように邪気のない男は初めてである。
 急に気が萎えていった。
「これが前世からのさだめか……」
 と気を取り直してみると、満更いやな苦行をしているのではない。ゆらい夫婦のえにしとはこういうものかも知れぬ。
 女は男の出自も来歴も聞かされていない。男も好んで語ろうとはしなかった。ただ、名を尋ねたことはある。
 男はちょっと鼻白んだ。
「自然居士(じねんこじ)」
 そう人は呼ぶという。




 この年、京洛は旱魃が続き、各地で雨乞の祈祷がおこなわれた。しかし、さっぱりその効目は現れず、ついに都中の井戸が枯渇した。
 鳰の海の竹生島へ徒渉できるとか、満月寺あたりでは行斃(ゆきだおれ)が投げ込まれて、腐臭がする、といわれたのはこの頃のことである。
 わずかに神泉苑の泉池だけが残った。この泉水は、平安京大内裏の禁苑である。けれども、さすがに群れ立って水を乞う民草には勝てず、その四門を開いて通 用を許した。さらに勅命により、その苑において大がかりな雨乞祈願を執り行った。護摩壇の煙は曳々と立ちのぼり、請雨経の修法が地を這ったものである。
 しかし、雨はついに降らなかった。三日三晩続いたその祈濤も徒労に帰した。民草の顔は、どれも蒼くしぼみ死人のようにみえた。
 陽は嘲笑うかのように三竿に昇り、峻烈な熱気を降り注いでいる。
「そうじや、竜神はことのほか楽の音色に惹かれるという。御幣を振り、この地で舞楽を奏してみてはいかがでござりましょう」
 治部省の学生(がくしょう)の具申で、神奈備山の雨乞岩を運び込み、舞楽の演奏もおこなってみた。雨を得るためには、できるだけ派手な楽曲がよろしかろ うというので、竜笛、篳篥(ひちりき)、笙、和琴(わごん)、太鼓、鉦鼓、鞨鼓(かっこ)、笏拍子(さくほうし)などがたちまち揃えられ、都でその名も知 られている名人上手が雅楽寮から呼び集められた。総勢百人余りの管弦に華婉な歌と舞を加添した「堂下楽懸(がくけん)」が合奏された。楽の音は地鳴りのよ うに天に響き、民草は呼応して細波のように御幣を振った。壮観といっていい。
 楽の余韻は西山、北山、東山の尾根から渓谷に谺し響震した。ところが、今度こそは小雨でも招引できるであろうと思われたのに、また当が外れた。
 天はぴくりとも動かない。
 固唾を呑んで見守っていた民草も、やがてその場にへたりこんでしまった。
「竜神はわれらを見放したか。御幣をこれだけ振ってもかなわぬものとは」
「もうわしらは干物になるしかないの」
 ある者は白く燥いた地面を叩き、ある者は水を求めて掘り起こした指先を血に染めている。埃にむせびながら、人々は口々に怨訴の声を上げた。
 空は雲を孕むことを忘れたように、熱風を吹き上げている。
 群衆の一角から一人の男がゆらぎ出たのはその時である。麻の破衣(やれごろも)をまとい、刺高数珠を手にしている。
 つとひれ伏すと、上(かみ)に向かって男は静かに言上した。
「されば、申し上げまする。真偽のほどはわかりませぬが、水神や竜神を冒涜すると、雨が降るようでございます。水神を怒らせ大いに暴れていただくのでござ る。たとえば、御井寺(みいでら)の釣鐘を鳰の海に投げ込んでみてはいかがでござりましょう。さらに、黒毛の尺の牛を百頭ばかり集めていただきたい」
「牛をどうする」
「贄でござります。積み上げて焚灼(ひあぶり)にいたしまする。臓物(はらわた)を池に投じ、焼け残りは御下がりとして皆に分け与えて下さりませ」
 このような非常の際である。効目のありそうなことはすぐ始められた。釣鐘を引き出す縄がないというので、女たちは緑髪を切ったものだ。梵鐘は渓谷を転 がっていった。
 集められた都中の牛も屠られた。祭壇からは芬香(ふんこう)が立ち昇っている。天空にはまだ一朶の雲さえ見い出せなかった。熾烈な陽光は容赦なく大地を ねめまわしている。この旱天から雨が降り出すのは難中之難のように思われた。
 ところが西山の彼方にぽつりと黒い点が見えた。ずんずん巨きくなる。黒雲はまたたく間に広がっていった。人々はどよめきの叫びを上げ、手を握り合った。
 やがて厖大な雨雲は、ついに天を覆い、待望の雨が沛然と地を叩いた。歓喜の声が都中に溢れていった。男の姿はその声に紛れて消えた。
「あれは狐狸妖怪ではない。自然居士という修験僧よ」
 誰ともなく囁かれた自然の名は、たちまち京洛の人口(ひとのくち)にのぼっていった。

 女は吟(うた)いながら、機を織っていた。右から左へ、左から右へ、流れるように杼(ひ)が動く。背戸の棟(おうち)の木がザワザワと鳴った。
 ――白珠は 人に知らえず 知らずともよし知らずとも
     われし知れらば 知らずともよし
 細い声である。どこかしら潤(ちや)めいて聞こえる。歌に合わせて両手がくりくりと動き、布が織られていった。
「―――」
 女を呼ぶ声がした。
「わしじゃ……」
「あっ」
 既に躯を抱き竦められている。ことりと杼が落ちた。
「お待ち下さりませ」
 女は初めて諍(あらが)った。
 (なんということ)
 うろたえてかぶりを振った。
 躯は火照ってゆくが、このまま男のなすがままにされてよいものだろうか。昨日も、あれはこの世のものではない化生の者よ、という取沙汰を聞いたばかりで ある。
 女はかすかな声で訊ねた。
「竜神を差し招くとは、生身のお人とも思われませぬ」
「なんの、しさいはない」
 男は鼻で嗤った。
「あれはの、ただ潮時と見ただけのことよ」
「潮時 ?」
「そうじゃ、よいか、千変万化この世の移り変わり、すべて末がある。花に三春の約あり、
 月盈(みつ)ればすなわち虧(か)く。これすべて世の貫(ならい)ではないか。さすれば日照りが続けば、やがて雨も降ろう。その頃合いを見はからったま でのこと」
「まあ、では……」
「あのとき、鐘など放り込まずとも、牛など屠らずとも雨は降ったわ。このわしが竜神を喚(よ)べるものか」
 自然の手は女の据をわった。震える口もとから唾液を吸った。ほのかに汗ばんだ胸からは、のめりこむような香がたちこめている。鼻腔に深々と余薫を吸い込 みながら、あざやかな裸体を確かめてゆく。この女となら今日の今宵も、臥所の絵は極彩色になるであろう。含み笑いを浮かべながら、自然は女の肩を引き寄せ た。音もな羅(うすぎぬ)が落ちた。




 大内裏の西北、一条大路を越えたあたりを北野という。古くから雷神が祭られていたが今日では菅原道真の霊を祀って、天満大自在天神などといわれている。 五日ごとに市が立ち、たいそうな賑いをみせていた。午(うま)の時から日没までという定めで、田下駄を並べるものがあり、塩を売るもの、炒豆に零余子(む かご)を売る横では、針、絲、麻布などを並べ立てている。乞食に猿引に鉢叩の姿もみえて、人垣が揺れている。
 冬というのに都の空は巻雲がかかり、そのせいか天が一段と高くみえていた。
 市のなかほどに、小袖に半袴の男が柑子(こうじ)を商っていた。見るからにうまそうな柑子蜜柑である。黄赤色の果実が目に染みるような輝きを放ってい る。
 そのとき、目刺髪(めざしがみ)の童が走り寄って、その柑子に手を出した。掴んで逃げようとする童の手を商人は素早く捕まえた。赤鼻の頬骨の張った男は 叱咤した。童はねじ伏せられて、柑子をもぎ取られた。商人は童の頭をしたたかに殴った。
 童は火のついたように泣き出す。
 あたりの人々はたちまち人垣を作って、このありさまを遠巻きにした。赤鼻の商人は猶も懲らしめようと拳を振り上げて、童を打とうとした。
 その手を取った男がある。
「やめなされ、その童にも罪はあろうが、もう好い加減にしておきなされ。なんぼう仏罰があたりますぞ」
 手にした刺高数珠をジャラジャラと押し揉んで、男は喩教(ゆきょう)した。赤鼻の男は仕方なく、いまいましそうに童を放した。
「のう、商人(あきゅうど)どの」
 男は続けた。
「仏の功徳のためじゃ、その柑子ひとつ、童にくれてやらぬか。それ、まだ柑子は笊にいっぱい、溢れるほどあるではないか」
「あきれたことをぬかす坊主じゃ。たかがひとつというが、これは飯のたねじゃ。欲しければ銭を出すがよいわ」
 商人は憎体に言って横を向いた。
 男はそうか止むを得ずと頷いて、懐から銭を出した。商人からその柑子をひとつ受け取ると、振り返って言った。
「こう童、面白いものを見せてやろう」
 その男は人垣を前に、見せびらかすように柑子の皮をむき、ほつほつひとりで食べ始めた。
「ほう、酸い味じゃがうまいぞ」
 食べ終わると何やら手に小さい物が残った。
 種子である。男は傍らにしゃがんで、ひそひそとその種子を土に埋めた。終わると、
「誰ぞ水を汲んで来てくだされ」
 と声を上げた。気働きのよい女が、柄杓に一杯の水を差し出した。礼を言って男は受け取ると、種子を蒔いた土にびたびたと注いだ。
 それから手の数珠を押し揉んで、滑らかに真言を唱え始めた。
 たれもかれも息を殺して、じっと土の上を見つめている。すると、何やらもぞもぞと動き出して、苗色の芽が出た。ゆるゆる動いて双葉が出る。次第に大きく なって艶のよい葉を繁らせた。真言はまだ続いている。
 赤鼻の商人も人垣をわけて、その様子を窺っていた。簓摺(ささらずり)は歩みを止め、鉢叩は念仏を忘れ、衣被(きぬかずき)の女たちは顔もあらわに頷き 合っている。すでに自然居士の術中に陥っているらしい。それぞれに目が据わっていた。
 じわじわ柑子の木は高くなっていく。やがて一丈ほどにもなったころ、こぼれるような白い花をつけた。芳香がする。と思うまもなく今度は散りはじめ、たさ まち青い実をつけた。たふたふと大きくなった柑子はやがて色づき、枝もたわわに垂れ下がった。
 その間、誰も声をあげるものはなかった。ただもう驚き呆れて、息を吐くのも忘れている。猿引などは口をあんぐりと開けたまま涎を垂らしていた。
 男は眉毛も動かさず真言を終えた。
 そしてしごく当然のことのように、柑子をもぎ取って人々に与えた。もちろん、童の手にもしっかりと載せてやったのである。
 人垣は大きく崩れ、喜色を湛えた人々は去っていった。道端には、一木が残っているばかりである。男は斧(よき)を借りてくると、こともなげに打(ちょ う)と伐り倒し、いつの間にか消えた。
 赤鼻の商人は、まだ熱に浮かされたように、ぼんやり立っている。とつぜん跳び上がった。我に返って笊を見ると、山盛りの柑子が見当たらない。箒で掃いた ように悉皆、消え失せていた。

「なに、あれは幻術(めくらまし)よ」
 女は男の羽掻のなかにいる。懼(おそ)ろしさにふるえている。
 自然は頬に若々しい血をさしのぼらせた。人を蕩(たら)すことの術をすべて心得ている顔だった。
 女は聞きとれぬほどの声で訊ねたものだ。
「こなたさまは、まことに人間でござりまするか」 
 男は呵々と嗤(わら)った。
「狐狸狐貉(こりこかく)がこのようなことをするのか」
「あれ」
 妖婉な声を上げた。女の躯は自然の左手に弄ばれている。
 男は唇で耳を塞ぎ、右手で乳房を掴んでいた。指先を深く肉の奥に入れ、女の震えを感じている。すると闇の中の一穂(いっすい)の燭を目指して、陽道が目 覚めていく。
 快楽に沈もうとする躯を、いくたびも波打たせて、ふたりは折り重なった。貪るのは跡切れ跡切れの声ばかりではない。男は瞼を開けて、女の鼻梁から肩へ、 さらに腰から阜(おか)を這って秘所までの曲線を吸い尽した。女は陽物を呑み込んだ。
 自然は目のさめるような思いで、この女を見ている。悶えながら声をあげ、にわかに躯の奥を溶かしたように、女は半身を鋭く反らせた。自然は小鼻をふくら ませ、その声に聞き惚れていた。




 京洛も水温む頃となり、吉野の花の噂も、ちらほら聞かれる麗らかな春の日のことである。如意ヶ岳には雲烟がかかり、山の麓では静かに陽炎がのぼってい る。
 清水寺あたりは、花を愛でる善男善女で埋まっていた。
 白張の仕丁もいれば手無し姿の女もいる。立烏帽子に水干の男は、蒸し暑いのかしきりに蝙蝠扇(かわほりおおぎ)であおいでいる。藤蔓の杖にすがった老女 もいれば、派手な臙脂色の袴をつけた伊達男もいる。市女笠の女はこどもの手を引き、小袖に被衣(かずき)の女は猫を抱いていた。
 この清水は観音の霊場として老若貴賎の信仰も篤かった。常から人出がある。古来、観世音菩薩を本尊とした寺には滝が多いようである。この清水にも音羽の 滝があった。
 その滝を見下ろす岩かげに、男は立っていた。麻の衣をまとい刺高数珠を持っている。横の松の木には、どういうわけか一幅の画が掲げられている。
 参詣の群衆は面白そうに、近寄ってそれを見た。そこには鳩が一羽、描かれてあった。ただそれだけである。しかし、人々がなおもそこを立ち去らないのは、 その鳩が活脱(かつだつ)していたからである。
 色彩は華麗といっていい.、浅葱色の頭に、葡萄色の目、胸から腹にかかる瑠璃色、そして漆黒の尾羽が淡い朽葉の絹地に浮かんでいる。半幅ながら、毫光 (ごうこう)のさすように揮然一体を成している。その上、細緻な筆勢には凛とした気品が具わっている。
 当代どこを探しても、これ程の品は見つからなかったに違いない。落款はと見ると呉元瑜(ごげんゆ)とある。おそらく、震旦(しんたん)あたりの請来もの であろう。その嘴(くちばし)は今にも餌をついばむかと思え、翼は濡いを帯びて耀々(きらきら)としていた。
「ほう」
 冷やかし半分に覗きに来た者は、きまってその一軸ので吁々(くく)の声を上げた。
「あっ、動いた」
 白張の仕丁が頓狂な声を発した。
「えっ」
「ほら、たしかに」
「まさか」
 指さした老人が口火を切り、やがて居合わせた人々が次第に垣根を作った。口角に沫を飛ばして、見えた見えぬ、動いた動かぬ、などと言い立てる。なかには 掛軸に触らせてくれという者もいた。撫でてみて、画だということを納得しても、容易に立ち去る気配がない。一軸の前には筵が敷かれていたが、次々と投げら れる銭で表も見えないほど埋まっていた。
 するとそこへ、萌葱の水干に長烏帽子の若い男がやって来た。腰には黒漆太刀を佩びている。検非違使の火長(かちょう)らしい。暫くその掛軸を見つめてい た男は、尊大な笑みを浮べた。
やがて、横柄な口調で声をかけた。
「この一軸はおぬしがものか」
「いかにも、さようでござる」
 数珠の男はかすかに頷いた。
 検非違使は朗々と言った。
「気に入った。購(あがな)ってとらせよう。売値を申せ」
 群衆のざわめきが、驚きの声に変わっている。見物の目は検非違使に集まった。
「ほほう、これは味なことを申される」
 数珠の男は大仰に驚いてみせた。顔には嗤いがある。眸を細めながら、寂のある声で続けた。
「お言葉ではござるが、これは売り物ではない。眺矚(ちょうしょく)の功徳でござるよ」
 と、取り付く島もない。
 検非違使は気圧(けお)されたものの、二呼吸ほどで気を取り直すと声を荒らげた。
「わが別当殿への献上品にいたしたい。誉れであろう。売価はいかほどか」
「耳がござらぬのかの。見世商人ではないと申しておる」
 半分、揶揄している。
 不穏な雲行きを感じ取った群衆が後ずさりしはじめた。二人を遠巻きにする。
 検非違使は、それでも諦めずに食い下がった。しつこく価を申せと、言い募ったのである。
 数珠の男は根負けしたように顔を上げた。
「されば、曲げてお譲りいたそう。ただし、価は黄金一包。いかがかな」
「な、なんと、黄金一包とな。途方もないことをぬかす」
 この日、検非違使は憤懣やるかたなく去った。けれど納まらないのは胸のうちである。酔いに任せて別当の屋敷に参上し、ついこの一件を物語った。別当は面 白そうに終わりまで聴くと、眉宇をひそめた。妙案を練っていたのである。やがて検非違使に何やらぼそぼそと耳打ちした。
 犬榧(いぬがや)の油は嫌なにおいがする。男たちの影が灯火に怪しく揺れた。
 翌朝、検非違使は何喰わぬ顔で、黄金一包を差し出してその一軸を買った。
 西山の峰には靄がかかっている。
 数珠の男が黄金を懐に歩き出すと、いつの間にか一人の放免がその後をつけはじめた。これは検非違使の手先である。
 数珠の男は気付かぬままに、七条大路を西へ歩いていった。ひたひたと、歩調も乱れない。やがて鴨川を渡り高瀬川を過ぎると、鬱蒼とした竹林にさしかかっ た。この道は陽もささぬほど暗く、人馬の往来も稀である。
 ここぞと思った放免はあたりを窺うや、太刀を引き抜いた。相手は丸腰である。叫喚(やごえ)を上げながら体当たりを食らわせ、怯(ひる)むところを、刃 を背中から胸へ貫き通した。数珠の男はのけ反って空を掴み苦悶していたが、やがて息絶えた。放免はその懐から、黄金の包を抜き取ることを忘れなかった。
 袖括(そでくくり)を解き、放免は急いで屋敷へ立ち帰った。
「祝着至極。よい手並じゃ」
 検非違使は黄金の重さを確かめると、放免をねぎらった。
「ひまどらぬうち、この一軸を別当殿に奉ることにしよう」
 立ち上がったが、念のためにとその掛物をするするとひろげた。その途端である。バサバサと羽音が聞こえたと思うやいなや、一羽の鳩が検非違使の袖の下を すり抜けた。須臾(しゅゆ)の間に勾欄(こうらん)に止まり、玉のような姿を輝かせると、小柴垣を越えて碧天(あおぞら)へ飛び去った。
「ああっ」
 驚いて一軸を広げると、絹本の上には何ひとつ、丹青(えのぐ)の染みすら残っていない。
 検非違使は思わず知らず、軸を取り落とした。激しく震えている。放免はあわてて太刀を抜き、しげしげと見つめたが、確かに仕留めたはずの刃には血のくも りがない。
「魑魅(すだま)か」
 放免の顔から血の気が引いている。二人はあたりをはばからず怖気立った。
 あくる朝、検非違使は巡邏の一行から注進を受けた。花の盛りの清水に、またあの見世物が立っているという。半信半疑の検非違使は、放免を従えて恐る恐る 覗きに行った。
 あの男がいる。
 同じ場所に、同じ光景が繰り広げられている。数珠の男は平然と顔を上げていた。二人を見つけると、にたりと嗤った。
「これ、そこのお方たち、この一軸はいかがでござるかな。黄金一包みならば、お譲りいたしてもようござるよ。ただし、鉄(くろがね)の太刀の御馳走は御遠 慮いたそう」
 その声はまさしくあの男である。
 検非違使達は蒼白になって逃げ帰った。




 自然居士が、あれは西京極あたりに夜な夜な出る魍魎(ばけもの)であろう、と噂されたのは、王城の翠が天を染め上げた首夏の頃である。
 天に口なし、人をもって言わせよ、と誰かがしむけたのだろうか。あるいは面目を失った放免が、密かに浮説を流したのかもしれない。風聞が広まるにつれて 治安を預かる別当としても捨ててはおかれず、検非違使を呼びいだし、見つけ次第とらえることを命じた。
 自然居士は、逃げも隠れもしない。たちまち縄をかけられ、別当の御前に引き据えられた。
「名を申せ」
「自然居士」
 べつに恐れるふうもない。
 別当はいましめを解かせた。内心その妖術(めくらまし)とやらを見たいと思ったに外ならない。言辞をあらためた。
「おいでいただいたのは、願いの筋がござってな」
 別当が促すところに、衝立が置かれてあった。絵の中に一頭の馬がいる。柔毛(にこげ)の一本一本に至るまで、生きるが如く巧みな筆致である。天に高く嘶 (いなな)いているさまは悍馬のようにみえた。
 一瞥して、自然が言った。
「この馬、さては衝立を抜け出るのでござろう」
「ほう」
 驚いた。
「なぜわかる」
「よう御覧じろ。馬の蹄が泥に汚れておりましょう。おおかた夜中に青田でも荒らしているに違いござらぬ」
「では、この馬を静めてもらえぬか」
「いと易いこと。まず筆と墨を給れ。ふむ、出来れば硯は歙州(きゅうじゅう)、墨は陳(ひ)ねた唐墨、筆は狸毛の長鋒筆を所望したい」
 そんな逸品が揃うはずもない。しかたなく舎人は有り合わせの文房具を並べた。
「やれやれ、金殿玉楼に起き臥しされて、このていたらくでござるか。さぞや目もあやな尤物(ゆうぶつ)を並べおるかと思いましたに、情けないかぎりでござ るよな」
 自然は苦笑した。別当は顔をひきつらせている。
「このような茶墨は駄墨と申して、乾くと下品(げぼん)に映るゆえ、青墨に限るのじゃが、やむをえまい」
 咳払いをした。
 徐(しず)かに墨を磨り終えると、自然の手は見る間にくるくると動いた。
 大きな棟の木を描いた。それから馬に縛(いましめ)をかけ、木のもとにしっかりと繋ぎ止めた。
「いかがでござる。これで最早いつぞやの鳩のように消ゆることもござるまい」
 自然は上目遣いに別当を見た。
「ほう、おぬしは画法にも明るいとみえる」
 と別当は言ったが、その顔は苦虫を噛みつぶしたように歪んでいる。胸の奥ではふつふつと恐怖心が沸き上がっていた。
(これは生かしてはおけまい)
 さあらぬ態で、別当は慇懃に続けた。
「自然居士殿、話には聴くが、仏の行法のなかに真言の呪術というものがあるそうな。是非それをここで観照させてもらいたいが、いかがでござる」
 自然は坐りなおした。なかば得意である。
「されば何をいたそう」
「ふむ。では、あの遣水(やりみず)の脇にある老木に、花を咲かせられぬものか」
 頃は初夏である。しかも別当が指さしたその桜は、朽ちているのか幹に精気うすく、青葉若葉の影もない。自然は頤(おとがい)をかすかに動かした。やがて 刺高数珠を握り直すと、ボソボソと真言を唱え始めた。いつの間にか脇机には香が燻べてある。
 居並ぶものは目を凝らし、息を呑んでいた。張り詰めた雰囲気が、玻璃(はり)のように軋みはじめている。自然は一段と真言の声を上げた。香煙は鼻腔をく すぐり、妙なる景色を漂わせている。芳香は娑婆の世の汚濁を昇華させるとみえた。
 自然は己の姿に酔っている。
 ところが、その屋敷の南の篝屋(かがりや)には武具を携えた屈強の男達が忍ばせてあった。別当の手のものである。その中に検非違使のなかでも剛の者と呼 ばれた、和田の某という男がいた。
 和田は先程から、自然居士の息差(こきゅう)をはかろうと集注していたのだが、一向に正体が見えない。
(面妖な。はて、どうしたわけか)
 雲を掴むが如く、足掻けば足掻くほど、ますます相手の術中に陥っていく。焦りが焦りを呼んだ。
 やがて、ものの半時もたたぬ間に、老木は甦った。木肌が潤い、萌葱の花芽がつきはじめる。しばらくするうち、莟がふくらみ出した。衆人は色め きたった。ひとひら、またひとひら桜の花がひらいていく。まさに春のながめである。
 しかし、この呪術はついにこれ以上すすまなかった。驕りの心が、自然の無想を乱したのかもしれない。真言を誦しながら、ほんのひとときの間に、女を想っ た。
(今夜あたり、訪ねてやらねばなるまい)
 双ケ丘の麓に囲っているあの女である。
(あの肉置(ししおき)の柔らかさ、華やかな声……)
 どれをとっても自然の官能(こころ)を刺激するのに充分であった。
(あれは、わしの女(もの)じゃ。……)
 これが、自然居士の不幸につながった。
 まさにその同じ時、和田は刺刀(さすが)を抜いて、己の膝を突き刺している。
 急に胸苦しさが失せた。自然居士の幻惑が落ちたのだろう。
 聖柄(ひじりづか)を握り直すと、躍り込んで太刀を一閃した。腰を充分に沈めている。
「喝」
 骨を截つ鈍い音が響き、自然居士の首は落ちた。
 ほどなく、自然居士が別当殿の御勘気にふれ、ついに討ち止められたという風聞が流れた。双ケ丘に住む女の耳にも、当然ながら聞こえた。
 それからしばらくして、女の姿も消えた。西国へ旅立ったというが詳らかではない。




 その年の初冬、二条大路を東に向かって歩いている一人の女があった。無紋の小袖に市女笠を冠っている。供の者はなかった。よく見ると衣は色褪せて挨にま みれている。眼はくぼみ頬はこけ、顔には水庖(あばた)ができている。息も絶え絶えで、杖にすがってやっと歩いているありさまだった。
 女は脂汗を滲ませながら、それでも歯を食いしばって歩き続けた。やがて西大宮大路も過ぎ、大内裏の朱雀町の前で、枯れ木のように倒れ伏した。事切れたの だろう。ついに起き上がらなかった。
 京洛が疫病の巣窟と化したのは、それからひと月もたたぬうちだった。
 真先にやられたのは、朱雀門にほど近い別当の屋敷である。知らずに別当は門前の行斃の死骸を、放免に命じて蓮台野に捨てさせたのである。放免が悪寒に震 え出したのはまもなくのことだった。高熱と共に総身に発疹を生じ、やがて膿をもつ。放免はそのなかばで死んだ。
 おそらく天然痘であろう。
 筑紫太宰府を軸に蔓延した、痘瘡が、都にまで飛散したのは、ただこの一人の女によってである。女が流行病(はやりやまい)のことを人伝に知り、思い立っ て西国へ旅立ったのも、そういう思惑があったからかもしれず、女の命を賭した博打(かけ)は巧く当たったとも言える。
 別当のみならず、蔵人所の下役から検非違使、衛円府官人、舎人、放免に至るまで、悉く死に絶えた。女は自然居士の仇怨(あだ)を結んだつもりでもあった ろうか。
 とまれ、疫病は止まるところを知らない。瞬く間に一条から九条、東京極、西京極と都大路を駆け巡り、その猛威を存分に奮った。
 日没の鼓(たいこ)の音さえ跡切れがちで、市場にも人影がみえない。干魚を売る商人も洗濯女も念仏踊りも消え失せている。往き交う人も、さざめく人も、 歌う人もいない。みな暗い顔で、網代の壁を見つめながら、一時も早く疫病神が行き過ぎてくれることを願った。
 宮中では、霊験ある諸神社仏閣に幣帛(へいはく)を献げ、七百人の僧侶を集めて大般若経を連日連夜、読経させたが効き目はさらになかった。
 悪疫の猖獗は果てしなく続き、京洛は鳥辺野、蓮台野、化野(あだしの)に打ち捨てられた屍骸から発する怖気立つ臭腐に、玄(くろ)く染まるかと思われ た。
 かつて女が佇んでいた仁和寺も人影は見えず、荒廃した堂宇に蔓(はびこ)った葛のつるが、西山の残照に赫々と輝いているばかりである。

(了)