「e-文藝館=湖(umi)」 論
説 招待席
じゅがく ぶんしょう 英文学者 招待作は、平成三年十二月法蔵館
の刊、季刊「仏教」編『私にとっての『仏教』」
に収録の一文で、昭和六十三年一月「仏教」初出。本編は、私も含む各界36人が順次執筆している中で、仏教に触れて極めて印象ふかい且つ本質的な言及と受
け取った。ぜひ、ひろく
伝えたい、読まれたいと願っている。 秦 恒平
佛教に関して、
言っておかねばならぬこと
寿岳文章
季刊『仏教』創刊号は、@ 現代における仏教の役割、A いま仏教者(宗教者)は何をなすべきかのニ設問に対し、「各界の指導的立場にある人々」の意見
を求めた。設問Aへの答えを見るに、「天皇制と完全に絶縁すること」と言ったのは、私だけである。明らかに仏寺出身と考えられる人もまじっていてのこの結
果は、少なからず意外であった。いつ、どこでこの設問を受けても、私の答えは常に同じだろう。しかしそれを不審に思う人もあろう。なぜそういうことになっ
たかの、言わば「わが心の自叙伝」の重要な一節をここに開陳して、諸賢の批判を乞いたい。
最近私は、明治維新直後、北米マサチューセッツ州のアマースト・カレッジに留学し、帰国後、日本の文化に大きな影響を与えた新島襄・内村鑑三・神田乃武
の、それぞれに異なる西洋受容の態度に興味をそそられ、比較してみる機会にめぐまれた。この三人に共通しているのは、英本国から離脱してニュー・イングラ
ンドを建設した人たちの気魂を、日本に持ち帰って、新しい日本のこやしにしようとする若々しい熱情である。内村の「不敬事件」も、言わばその熱情の迸りに
ほかならなかったのだが、一八六八年三月十三日布告の神仏分離令、いわゆる廃仏毀釈運動に際しては、アマーストーカレッジ出身のこれら三人に共通する気魄
が、同世代の若い日本の仏教徒青年には見られなかったのではあるまいか。それが今もなお日本仏教界の風土であるのを私はおそれる。
明治政府が強行したのは、平田篤胤に代表される国学思想をよりどころとする祭政一致・神祇官再興であった。天台宗系の山王一実神道や、真言宗系の両部習
合神道にまで教理化した本地垂迹観を解体して、古神道の姿に立ち帰ろうとする動きそれ自体は当然であり、批難さるべきではないが、同時に、アニミズム的な
要素の多い神道を自家薬籠にとり入れ、理論づけようとした仏教徒の試みも、宗教社会学的な視点に立てばこれもまた許容されるだろう。人間の生き方や習俗と
根深くかかわっている宗教を、あまりにも短兵急に整理しようとして失敗した実例を、政治的な革命では成功したソ連や中国に、私たちは見ている。長い年月が
築きあげた宗教的文物は、そう簡単に崩れはせず、また崩さるべきではない。
ところが明治維新の神仏分離政策の結果、神社の社僧や別当は還俗させられ、神社や神官は仏教の支配を離れて神祇官の指揮下におかれ、仏くさいものはすべ
て神社から放逐されたり、焼きすてられたりした。その傷あとがいかに深いかを奈良県三輪山の大神(おおみわ)神社と私のかかわりをあげて説明しよう。
十五年戦争が最後の段階にのめりこんでから、私は折あるごとに学生たちをつれて大和の古寺に出かけた。学徒出陣が現実となる前に、戦争を全面的に否定す
る世界のあることを、寺院のたたずまいや仏像をよすがとして体感させておきたかったからである。その日の思い出を戦地から書いてよこし、南海の藻屑と消え
た若いいのちも一、二にとどまらない。そういう悲しい思い出のまだ生々しい戦後、私は一年間、週一回奈良女子大学で文学概論の講義をうけもつことになった
ので、午前中に二時間の講義をすませると、午後は切ない戦前の思い出を整理し、戦没学徒への供養にもと考え、極めて私的な古寺巡礼を実践した。
天平末期の名作と伝えられる聖林寺の十一面観音立像が、実は、明治初年の神仏分離令により、三輪山の大神神社神宮寺・大御輪寺廃棄の結果、難を避けて身
を寄せたとりあえずの流され本尊、という当時の事情も、想像に余るものがある。復古神道は神武創業の伝説と直結するだけに、奈良県下での廃仏毀釈運動は徹
底しており、開宗初期の創価学会そこのけに、全村あげて仏壇を一かけらも残さずとりこぼった所もある。天皇制との結びつきが当初から極めて濃厚であった大
神神社の神宮寺として、鎌倉時代の文化遺産を数多く蔵していた大御輪寺は、恐らく県下でイの一番に廃寺となり、今は一片の遺構も見られない。しかし毎日放
送番組審議会が同神社を訪れた時、審議会委員の中に、正倉院蔵古紙調査にたずさわっている私がいるのを知った中山宮司は、次回、われら夫婦が大和路行脚の
途次同神社に詣したとき、われらを客室に招じ入れ、礼をあつく辞をひくうして、依頼に応じてほしいと言う。大
御輪寺旧蔵の鎌倉時代所造大般若経六百巻は、同寺とりこわしの際ひそかにこれを安全な場所へ移し匿した神官があり、爾来代々神社宝庫に護持している。ただ
しあの騒動の際ゆえ、ゆくえ不明の経巻もある。当社所蔵の古文書・古記録の類の調査活字化も緒についた今日、私としてはこの際大般若経も旧に復したい。写
経作業も適当な書家に依頼する所存である。ついては、旧蔵のにまさるとも劣らぬ同質の紙を世話してもらえまいか。われら夫婦が、この奇特な依頼に応じたの
は勿論である。実物を見た上で、江州の成子紙匠を適格者と断じ、正倉院蔵の同質紙にもひけをとらぬ斐紙を特漉(とくすき)してもらった。
戦争が文化遺産にとって、一網打尽的に加害する最大の敵であることは、世界規模の大戦を二度もこの目で見た私たちもこれをよく知る。しかし明治維新の廃
仏運動は、人間の生き方までを否定するイデオロギーと脈絡するゆえ、一層陰湿で、悲惨で、影響するところも深い。私は、その被害者である唐招提寺や法隆寺
の、歴代の貫首と親しいが、唐招提寺の現森本長老は、先代からの聞き伝えとして、今は鑑真和上の墓所となっている聖域が、養豚所化され、僧侶は肉食妻帯を
強いられたと語る。私がまだ四肢健常で、めぼしい古書展の下見など欠かさなかった頃、唐招提寺旧蔵の捺印ある経巻残片も時折見かけたが、捺印のあるなしに
かかわらず、長老はそのたぐいの古経巻を求めあつめ、同寺の経蔵を復旧するのに余念がない。また、既に故人となった清水寺の大西良慶師も、廃仏毀釈で荒廃
を極めた興福寺再興の使命を帯びて、明治二十三年(一八九〇)に入寺得度したという。
良慶師は法隆寺勧学院第一期生として、佐伯定胤から法相の宗義を学んだが、定胤亡きあと、法隆寺の貫首となった佐伯良謙(良慶の相弟子)への追憶から、
私の主題に入りたい。奈良や京都などの古都に、戦禍が及ばぬようにとアメリカ軍当局の長官に進言したラングドン・ウォーナーの記念碑が、法隆寺西側の空地
に安置された時、ウォーナーの弟子プラマーも同席しての面晤その他、知日外人もからまる私の良謙追憶はつきないのだが、忘れられないのは英国カンタベリ大
主教フィッシャー博士を、法隆寺へ案内した時の思い出である。その日は、英国総領事の車で、午前中に大阪を出、昼食は奈良ホテルで摂り、夕景新人阪ホテル
に帰るという長丁場だったが、あまり疲れた記憶は私にない。楽しかったからであろう。
対話の通訳は私がつとめたが、建造物の古さくらべになると彼此の桁が違う。対話の場面となっている貫首の住房「新堂」は、名の通り法隆寺境内では最も新
しい建物だし、国家元首の即位式では元首のエンブレムである冠を頭上にのせる権能は、カンタベリ大主教だけが持つのに対し、聖徳太子と最も濃密な関係にあ
る法隆寺貫首には、そのたぐいの歴史的な行事とのかかわりが全く無い。その事実を私はむしろ喜んだ。しかし明治以後、天皇即位の式典の中核となっているの
は、廃仏の原動力となった神ながらの道のイデオロギーであることに想い到ると、私は身の毛もよだつ。明治の初めに、あのような目にあわされながら、天皇制
イデオロギーを許容しているかに見える仏教者のあり方を、私は断じて採らない。地球はどのようにして破局を避くべきかが、全世界最大の緊急問題となりつつ
ある今こそ、仏教は極めて厳密な意味でその本来の姿に立ちかえり、もともとかかわるべきでは無かっか天皇制と絶縁し、王法為本などというスローガンは一切
消去すべきであろう。日本だけでなく、全世界の生きとし生けるもののために。
(1988・1 英文学者)