招待席
いずみ きょうか 小説家。 1873.11.4 - 1939.9.7
石川県金沢市に生まれる。 帝国藝術院会員。 日本語表現の魔術的と賞賛された天才の一人で、古今独歩の美しい幻想境を歩む一方、愛憎の念と共に日本の
虚栄虚飾社会に批評の視線を鋭く刺し込み、自ら弱者との共同歩調を生涯堅持してやまなかった。その思想と姿勢とを象徴的に打ち出した世界は「海=水」であ
り、その主たる龍・蛇に置いた重みは生涯の作品に隠見して優れた課題性を示している。 掲載作は、大正二年(1913)十二月「中央公論」初出。尖鋭な寓
喩的批評を通じて鏡花のかかえた多彩で深い課題を集約した傑作戯曲である。 (秦 恒平)
海神別荘 泉 鏡花
時 現代
場所 海底の琅玕殿。
人物 公子。 沖の僧都(年老いたる海坊主)。 美女。 博士。
女房。侍女(七人)。黒潮騎士(多数)。
森厳藍碧なる琅玕殿裡(らうかんでんり)。黒影(こくえい)あり。──沖の僧都。
僧都 お腰元衆。
侍女一 (薄色の洋装したるが扉より出づ) はい、はい。これは御僧(おそう)。
僧都 や、目覚しく、美しい、異(かは)つた扮装(いでたち)でおいでなさる。
侍女一 御挨拶でございます。美しいか何(ど)うかは存じませんけれど、異(かは)つた支度(したく)には違ひないのでございます。若様、予(かね)て
のお望みが叶ひまして、今夜お輿入(こしいれ)のございます。若奥様が、島田のお髪(ぐし)、お振袖と承りましたから、私どもは、余計其のお姿のお目立ち
遊ばすやうに、皆して、恁(か)やうに申合せましたのでございます。
僧都 はあ、扨(さ)てもお似合ひなされたが、何処(いづこ)の浦の風俗ぢやらうな。
侍女一 度々(たびたび)海の上へお出でなさいますもの、よく御存じでおあんなさいませうのに。
僧都 いや、荒海を切つて影を顕(あらは)すのは暴風雨(あらし)の折から。如法(によほふ)大抵暗夜(やみ)ぢやに因(よ)つて、見えるのは墓の船
に、死骸の蠢(うごめ)く裸体(はだか)ばかり。色ある女性(によしやう)の衣(きぬ)などは睫毛(まつげ)にも掛りませぬ。さりとも小僧のみぎりはの、
蒼い炎の息を吹いても、素奴(しやつ)色の白いはないか、袖の紅いはないか、と胴の間、狭間(はざま)、帆柱の根、錨綱の下までも、あなぐり探(さが)い
たものなれども、孫子(まごこ)は措(お)け、僧都(そうづ)に於ては、久しく心にも掛けませいで、一向に不案内ぢや。
侍女一 (笑ふ)お精進(しやうじん)でおいで遊ばします。もし、これは、桜貝、蘇芳貝(すはうがひ)、いろいろの貝を蕊(しべ)にして、花の波が白く
咲きます、其の渚を、青い山、緑の小松に包まれて、大陸の婦(をんな)たちが、夏の頃、百合、桔梗、月見草、夕顔の雪の装(よそほひ)などして、旭(あさ
ひ)の光、月影に、遙(はるか)に(高濶なる碧瑠璃<へきるり>の天井を、髪艶やかに打仰ぐ)
姿を映します。あゝ、風情な。美しいと視(なが)めましたものでございますから、私ども皆が、今夜は此の服装(なり)に揃へました。
僧都 一段とお見事ぢや。が、朝ほど御機嫌伺ひに出ました節は、御殿、お腰元衆、いづれも不断の服装(なり)でおいでなされた。其の節は、今宵、あの
美女が此(これ)へ輿入(こしいれ)の儀はまだ極(きま)らなんだ。地体(ぢたい)人間は決断が遅いに因(よ)つてな。……其(それ)ぢやに、予(かね)
てのお心掛(こゝろがけ)か。弥疾(いやと)く装(なり)が間に合うたものなう。
侍女一 まあ、貴老(あなた)は。私たち此の玉のやうな皆(みんな)の膚は、白い尾花の穂を散らした、山々の秋の錦が水に映ると同(おんな)じに、恁
(か)うと思へば、つい其れなりに、思ふまゝ、身の装(よそほひ)の出来ます体で居りますものを。貴老(あなた)はお忘れなさいましたか。
貴老は。……貴老だとて違ひはしません。緋の法衣(ころも)を召さうと思へば、お思ひなさいます、と右左、峯に、一本(ひともと)燃立つやうな。
僧都 ま、ま、分つた。(腰を屈<かゞ>めつゝ、圧(おさ)ふるが如く掌(たなそこ)を挙げて制す)
何とも相済まぬ儀ぢや。海の住居(すまひ)の難有(ありがた)さに馴れて、蔭日向(かげひなた)、雲の往来(ゆきき)に、潮(うしほ)の色の変ると同様。
如意(によい)自在心のまゝ、立処(たちどころ)に身の装(よそほひ)の成る事を忘れて居ました。
なれども、僧都(そうづ)が身は、恁(か)うした墨染の暗夜(やみ)こそ可(よ)けれ、慦(なまじ)緋(ひ)の法衣(ころも)など絡(まと)はうなら、づ
ぶ濡(ぬれ)の提灯(ちやうちん)ぢや、戸惑(とまどひ)をした鱏(えひ)の魚ぢやなどと申さう。圧(おし)も石も利く事ではない。(細く丈長き鉄
<くろがね>の錨を倒(さかしま)にして携(たづさ)へたる杖を、軽(かろ)く突直す。)
いや、又忘れては成らぬ。忘れぬ前に申上げたい儀で罷出(まかりで)た。若様へお取次を頼みましよ。
侍女一 畏(かしこま)りました。唯今。……あの、丁(ちやう)ど可(よ)い折に存じます。
右の方闥(かたドア)を排(はい)して行く。
僧都 (謹みたる体<てい>にて室内を眗<みまは>す。) はあ、争はれぬ。法衣(ころも)の袖に春がそよぐ。
(錨の杖を抱きて彳<たゝづ>む。)
公子 (衝<つ>と押す、闥<ドア>を排<ひら>きて、性急に登場す。面<おも>玉の如く臈丈
<らふた>けたり。黒髪を背に捌<さば>く。青地錦の直垂<ひたゝれ>、黄金<こがね>づくりの剣
<つるぎ>を佩<は>く。上段、一階高き床<ゆか>の端に、端然として立つ。) 爺(ぢ)い、見えたか。
侍女五人、以前の一人を真先に、すらすらと従ひ出づ。いづれも洋装。第五の侍女、年最も少(わか)し。二人は床の上、公子の背後(うしろ)に。二人は床
を下りて僧都の前に。第一の侍女は其の背(うしろ)に立つ。
僧都 は。(大床<おほゆか>に跪<ひざまづ>く。控へたる侍女一、件<くだん>の錨の杖を預る)
これはこれは、御休息の処を恐入りましてござります。
公子 (親しげに) 爺い、用か。
僧都 紺青(こんじやう)、群青、白群(びやくぐん)、朱、碧(へき)の御蔵(おくら)の中より、此の度(たび)の儀に就きまして、先方へお遣はしに
成りました、品々の類(たぐひ)と、数々を、念のために申上げたうござりまして。
公子 (立ちたるまゝ) おゝ、あの女の父親に遣(や)つた、陸で結納(ゆひなう)とか云ふものの事か。
僧都 はあ、いや、御聡明なる若様。若様にはお覚違(おぼえちが)ひでござります。彼等夥間(なかま)に結納と申すは、親々が縁を結び、媒酌人(なか
うど)の手を以ち、婚約の祝儀、目録を贈りますでござります。然るに此度(このたび)は、先方の父親が、若様の御支配遊ばす、わたつみの財宝に望を掛け、
もし此の念願の届くに於ては、眉目(みめ)容色(きりやう)、世に類(たぐひ)なき一人の娘を、海底へ捧げ奉る段、しかと誓ひました。即ち、彼が望みの宝
をお遣(つかは)しに成りましたに因(よ)つて、是非に及ばず、誓言(せいごん)の通り、娘を浪に沈めましたのでござります。されば、お送り遊ばされた数
の宝は、彼等が結納と申さうより、俗に女の身代(みのしろ)と云ふものにござりますので。
公子 (軽く頷く) 可(よし)、何(なん)にしろ些少(すこし)ばかりの事を、別に知らせるには及ばんのに。
僧都 いやいや、鱗一枚、一草(ひとくさ)の空貝(うつせがひ)とは申せ、僧都が承(うけたまは)りました上は、活達なる若様、斯(か)やうな事はお
気煩(きむづ)かしうおいでなさりませうなれども、老(おい)のしやうがに、お耳に入れねば成りませぬ。お腰元衆もお執成(とりなし)。(五人の侍女に目
遣す) 平にお聞取りを願はしう。
侍女三 若様、お座へ。
公子 (顧みて) 椅子を此方(こちら)へ。
侍女三、四、両人して白き枝珊瑚の椅子を捧げ、床の端近に据う。大楕円形の白き琅玕の、沈みたる光沢を帯べる卓子(テエブル)、上段の中央にあり。枝の
まゝなる見事なる珊瑚の椅子、紅白二脚、紅きは花の如く、白きは霞の如きを、相対して置く。侍女等が捧出(さゝげい)でて位置を変へて据ゑたるは、其の白
き方(かた)一脚なり。
僧都 真鯛大小八千枚。鰤(ぶり)、鮪(まぐろ)、ともに二万疋。鰹、真那鰹、各(おのおの)一万本。大比目魚(おほひらめ)五千枚。鱚(きす)、魴
鮄(はうぼう)、鯒(こち)、鰷身魚(あいなめ)、目張魚(めばる)、藻魚(もうお)、合せて七百籠(かご)。若布(わかめ)の其の幅六丈、長さ十五尋
(ひろ)のもの、百枚一巻九千連。鮟鱇(あんかう)五十袋。虎河豚(とらふぐ)一頭。大の鮹(たこ)一番(ひとつがひ)。さて、別に又、月の灘の桃色の枝
珊瑚一株、丈八尺。(此の分<ぶん>、手にて仕方す)
周囲(まはり)三抱(みかゝへ)の分にござりまして。えゝ、月の真珠、花の真珠、雪の真珠、いづれも一寸の珠三十三粒(りふ)、八分の珠百五粒、紅(こ
う)宝玉三十顆(くわ)、大(おほき)さ鶴の卵、粒を揃へて、此は碧(あを)瑪瑙の盆に装(かざ)り、緑(りよく)宝玉、三百顆、孔雀の尾の渦巻の数に合
せ、紫の瑠璃の台、五色に透いて輝きまする鰐の皮三十六枚、沙金(さきん)の包七十袋(たい)。量目(はかりめ)約百万両。閻浮檀金(えんぶだごん)十斤
也。緞子(どんす)、縮緬(ちりめん)、綾、錦、牡丹、芍薬、菊の花、黄金色(こんじき)の菫(すみれ)、銀覆輪(ぎんぷくりん)の、月草、露草。
侍女一 もしもし、唯今の其(それ)は、あの、残らず、其のお娘御の身の代(しろ)とかにお遣はしの分なのでございますか。
僧都 残らず身の代と? ……はあ、如何さまな。(心付く)
不重宝(ぶちようはう)。これはこれは海松(みる)ふさの袖に記して覚えのまゝ、潮(うしほ)に乗つて、颯(さつ)と読流しました。はて、何から申した事
やら、品目の多い処へ、数々のゆゑに。えゝえゝ、真鯛大小八千枚。
侍女一 鰤、鮪ともに二万疋。鰹、真那鰹各一万本。
侍女二 (僧都の前にあり) 大比目魚五千枚。鱚、魴鮄、鯒、あいなめ、目ばる、藻魚の類(たぐひ)合せて七百籠。
侍女三 (公子の背後にあり) 若布の其の幅六丈、長さ十五尋のもの百枚一巻き九千連。
侍女四 (同じく公子の背後に) 鮟鱇五十袋、虎河豚一頭、大の鮹一番(ひとつがひ)。まあ……(笑ふ。侍女皆笑ふ)
僧都 (額の汗を拭く) それそれ然(さ)やう、然やう。
公子 (微笑しつゝ)笑ふな、老人は真面目で居る。
侍女五 (最も少<わか>し。斉<ひと>しく公子の背後に附添ふ。派手に美<うるは>しき声す)
月の灘の桃色の枝珊瑚樹、対(つゐ)の一株、丈八尺、周囲(まはり)三抱(みかゝへ)の分。一寸の玉三十三粒(りふ)……雪の真珠、花の真珠。
侍女一 月の真珠。
僧都 少時(しばらく)。までじやまでじや、までにござる。……桃色の枝珊瑚樹、丈八尺、周囲(まはり)三抱の分までにござつた。(公子に)
鶴の卵ほどの紅(こう)宝玉、孔雀の渦巻の緑宝玉、青瑪瑙の盆、紫の瑠璃の台。此の分は、天なる (仰いで礼拝す)
月宮殿に貢(みつぎ)のものにござりました。
公子 私(わたし)も然(さ)うらしく思つて聞いた。僧都、それから後(のち)に言はれた、其の菫、露草などは、金銀宝玉の類(るゐ)は云ふまでもな
い、魚類ほどにも、人間が珍重しないものと聞く。が、同じく、あの方(かた)へ遣(つか)はしたものか。
僧都 綾、錦、牡丹、芍薬、縺(もつ)れも散りもいたしませぬを、老人の申条(まをしでう)、はや、又海松(みる)のやうに乱れました。えゝえゝ、其
の菫、露草は、若様、此の度の御旅行につき、白雪(はくせつ)の龍馬(りうめ)にめされ、渚を掛けて浦づたひ、朝夕の、茜、紫、雲の上を山の峰へお潜(し
の)びにてお出まの節、珍しくお手に入(い)りましたを、御(おん)姉君、乙姫様へ御進物(ごしんもつ)の分でござりました。
侍女一 姫様は、閻浮檀金(えんぶだごん)の一輪挿に、真珠の露でお活(い)け遊ばし、お手許をお離しなさいませぬさうにございます。
公子 度々(たびたび)は手に入(い)らない。私(わたし)も大方、姉上に進(あ)げた其の事であらうと思つた。
僧都 御意(ぎよい)。娘の親へ遣はしましたは、真鯛より数へまして、珊瑚一対……までに止まりました。
侍女二 海では何ほどの事でもございませんが、受取ります陸(をか)の人には、鯛も比目魚(ひらめ)も千と万、少ない数ではございますまいに、僅な日の
間(ま)に、ようお手廻し、お遣はしに成りましてございます。
僧都 然(さ)れば其の事。一国、一島、津や浦の果(はて)から果を一網にもせい、人間夥間(なかま)が、大海原(おほうなばら)から取入れます獲
(え)ものと云ふは、貝に溜つた雫ほどに聊少(いさゝか)なものでござつての、お腰元衆など思うても見られまい、鉤(はり)の尖(さき)に虫を附けて雑魚
(ざこ)一筋を釣ると云ふ仙人業(せんにんわざ)をしまするよ。此の度の娘の父は、然(さ)までにもなけれども、小船一つで網を打つが、海月(くらげ)ほ
どにしよぼりと拡げて、泡にも足らぬ小魚(こうを)を掬(しやく)ふ。入れものが小さき故に、其(それ)が希望(のぞみ)を満しますに、手間の入ること、
何ともまだるい。鰯を育てて鯨にするより歯痒い段の行止り。(公子に向ふ)
若様は御性急ぢや。早く彼が願(ねがひ)を満(み)たいて、誓(ちかひ)の美女を取れ、と御意ある。よつて、黒潮、赤潮の御手兵(ごしゆへい)を些(ち)
とばかり動かしましたわ。赤潮の剣(つるぎ)は、炎の稲妻、黒潮の黒い旗は、黒雲の峰を築(つ)いて、沖から摚(どう)と浴びせたほどに、一浦の津波と成
つて、田畑も家も山へ流いた。片隅の美女の家へ、門背戸(かどせど)かけて、畳天井、一斉(いちどき)に、屋根の上の丘の腹まで運込みました儀でござつた
よ。
侍女三 まあ、お勇ましい。
公子 (少し俯向く) 勇ましいではない。家畑を押流して、浦のもの等は迷惑をしはしないか。
僧都 否(いや)、否、黒潮と赤潮が、密(そ)と爪弾きしましたばかり。人命を断つほどではござりませなんだ。尤も迷惑を為(せ)ば、いたせ、娘の親
が人間同士の間(なか)でさへ、自分ばかりは、思ひ懸(が)けない海の幸を、黄金(こがね)の山ほど掴(つか)みましたに因つて、他の人々の難渋如きは聊
(いさゝ)か気にも留めませぬに、海のお世子(よとり)であらせられます若様。人間界の迷惑など、お心に掛けさせますには毛頭当りませぬ儀でございます。
公子 (頷く) そんなら可(よし)――僧都。
僧都 はゝ。(更<あらた>めて手を支(つ)く。)
公子 彼(あれ)の親は、此方(こちら)から遣はした、娘の身の代とか云ふものに満足をしたであらうか。
僧都 御意、満足いたしましたればこそ、当御殿、お求めに従ひ、美女を沈めました儀にござります。尤も、真鯛、鰹、真那鰹、其の金銀の魚類のみでは、
満足をしませなんだが、続いて、三抱へ一対の枝珊瑚を、夜の渚に差置きますると、山の端出(い)づる月の光に、真紫に輝きまするを夢のやうに抱きました
時、彼(あれ)の父親は白砂に領伏(ひれふ)し、波の裙(すそ)を吸ひました。あはれ龍神、一命を捧げ奉ると、御恩のほどを難有(ありがた)がりましたの
でござります。
公子 (微笑す) 親仁(おやじ)の命などは御免だな。そんな魂を引取ると、海月(くらげ)が殖えて、迷惑をするよ。
侍女五 あんな事をおつしやいます。
一同笑ふ。
公子 けれども僧都、そんな事で満足した、人間の慾は浅いものだね。
僧都 まだまだ、彼(あれ)は深い方でござります。一人娘の身に代へて、海の宝を望みましたは、慾念の逞(たくまし)い故でござりまして。……たかだ
かは人間同士、夥間(なかま)うちで、白い柔(やはらか)な膩身(あぶらみ)を、炎の燃立つ絹に包んで蒸しながら売り渡すのが、峠の関所かと心得ます。
公子 馬鹿だな。(珊瑚の椅子をすッと立つ) 恋しい女よ。望めば生命でも遣らうものを。……はゝ、はゝ。
微笑す。
侍女四 お思はれ遊ばした娘御は、天地(あめつち)かけて、お仕合せでおいで遊ばします。
侍女一 早くお着き遊せば可(よ)うございます。私どももお待遠に存じ上げます。
公子 道中の様子を見よう、旅の様子を見よう。(闥<ドア>の外に向つて呼ぶ)
おいおい、居間の鏡を寄越せ。(闥開く。侍女六、七、二人、赤地の錦の蔽<おほひ>を掛けたる大なる姿見を捧げ出づ。) 僧都も御覧。
僧都 失礼ながら。(膝行して進む。侍女等、姿見を卓子<テエブル>の上に据ゑ、錦の蔽を展<ひら>く。侍女等、卓子の端の
一方に集る。)
公子 (姿見の面を指し、僧都を見返る) 彼(あれ)だ、彼だ。あの一点の光が其(それ)だ。お前たちも見ないか。
舞台転ず。少時(しばし)暗黒、寂寞(せきばく)として波濤の音聞ゆ。やがて一個(ひとつ)、花白く葉の青き蓮華燈籠、漂々として波に漾(たゞよ)へる
が如く顕(あらは)る。続いて花の赤き同じ燈籠、中空(なかぞら)の如き高処(かうしよ)に出づ。又出づ、やゝ低し。尚ほ見ゆ、少しく高し。其の数(す
う)五個(いつゝ)に成る時、累々(るゐるゐ)たる波の舞台を露(あらは)す。美女。毛巻島田に結ふ。白の振袖、綾の帯、紅(くれなゐ)の長襦袢、胸に水
晶の数珠をかけ、襟に両袖を占めて、波の上に、雪の如き龍馬(りうめ)に乗せらる。凡そ手綱の丈を隔てて、一人下髪(さげがみ)の女房。旅扮装(いでた
ち)。素足、小袿(こうちぎ)に棲(つま)端折(はしを)りて、片手に市女笠(いちめがさ)を携へ、片手に蓮華燈籠を提(さ)ぐ。第一点の灯(ともしび)
の影は此なり。黒潮(こくてう)騎士、美女の白龍馬(はくりうめ)を犇々(ひしひし)と囲んで両側二列を造る。凡(およそ)十人。皆崑崙奴(くろんぼ)の
形相(ぎやうさう)。手に手に、すくすくと槍を立つ。穂先白く晃々(きらきら)として、氷柱(つらゝ)倒(さかしま)に黒髪を縫ふ。或ものは燈籠を槍に結
ぶ、灯の高きは此なり。或ものは手にし、或ものは腰にす。
女房 貴女、お草臥(くたびれ)でございませう。一息、お休息(やすみ)なさいますか。
美女 (夢見るやうに其の瞳を睁<みひら>く) あゝ、(嘆息す)
もし、誰方(どなた)ですか。……私の身体は足を空に、(馬の背に裳<もすそ>を掻緊<かいし>む)
倒(さかさま)に落ちて落ちて、波に沈んで居るのでせうか。
女房 否(いゝえ)、お美しいお髪(ぐし)一筋、風にも波にもお縺(もつ)れはなさいません。何でお身体が倒などと、そんな事がございませう。
美女 何時(いつ)か、何時ですか、昨夜(ゆうべ)か、今夜か、前(さき)の世ですか。私が一人、楫(かじ)も櫓(ろ)もない、舟に、筵(むしろ)に
乗せられて、波に流されました時、父親の約束で、海の中へ捕(と)られて行く、私へ供養のためだと云つて、船の左右へ、前後(あとさき)に、波のまにまに
散つて浮く……蓮華燈籠が流れました。
女房 水に目のお馴れなさいません、貴女には道しるべ、また土産にもと存じまして、此が、(手に翳す) 其の灯籠でございます。
美女 まあ、灯(あかり)も消えずに……
女房 燃えた火の消えますのは、油の尽きる、風の吹く、陸(をか)ばかりの事でございます。一度此の国へ受取りますと、こゝには風が吹きません。たゞ
花の香の、ほんのりと通ふばかりでございます。紙の細工も珠に替つて、葉の青いのは、翡翠の琅玕、花片(はなびら)の紅白は、真玉(まだま)、白珠、紅宝
玉。燃ゆる灯(ひ)も、またゝきながら消えない星でございます。御覧遊ばせ、貴女。お召ものが濡れましたか。お髪も乱れはしますまい。何で、お身体が倒で
ございませう。
美女 最後に一目、故郷(ふるさと)の浦の近い峰に、月を見たと思ひました。其切(それぎり)、底へ引くやうに船が沈んで、私は波に落ちたのです。唯
幻に、其の燈籠の様な蒼い影を見て、胸を離れて遠くへ行く、自分の身の魂か、導く鬼火かと思ひましたが、ふと見ますと、前途(ゆくて)も、あれあれ、遙の
下と思ふ処に、月が一輪、おなじ光で見えますもの。
女房 あゝ、(望む) あの光は。否(いえ)。月影ではございません。
美女 でも、貴方、雲が見えます、雪のやうな、空が見えます、瑠璃色の。そして、真白な絹絲のやうな光が射します。
女房 其の雲は波、空は水。一輪の月と見えますのは、此から貴女がお出(いで)遊ばす、海の御殿でございます。あれへ、お迎へ申すのです。
美女 そして、参つて、私り身体は、何(ど)う成るのでございませうねえ。
女房 ほゝゝ、(笑ふ) 何事も申しますまい。唯お嬉しい事なのです。おめでたう存じます。
美女 あの、捨(すて)小舟に流されて、海の贄(にへ)に取られて行く、あの、(眗<みまは>す)
これが、嬉しい事なのでせうか。めでたい事なのでせうかねえ。
女房 (再び笑ふ)
お国では如何(いかゞ)でございませうか。私たちが故郷(ふるさと)では、最(も)う此の上ない嬉しい、めでたい事なのでございますもの。
美女 彼処(あすこ)まで、道程(みちのり)は?
女房 お国でたとへは煩(むづ)かしい。……おゝ、五十三次と承(うけたまは)ります、東海道を十度(とたび)づゝ、三百度(たび)、往還(ゆきか
へ)りを繰返して、三千度(たび)いたしますほどでございませう。
美女 えゝ、そんなに。
女房 めした龍馬(りうめ)は風よりも早し、お道筋は黄金(こがね)の欄干、白銀(しろがね)の波のお廊下、たゞ花の香りの中を、やがてお着きなさい
ます。
美女 潮風、磯の香、海松(みる)、海藻(かじめ)の、咽喉(のど)を刺す硫黄(いわう)の臭気(にほひ)と思ひのほか、真個(ほん)に、清(すゞ)
しい、佳い薫、(柔に袖を動かす)……ですが、時々、悚然(ぞつと)する、腥(なまぐさ)い香のしますのは?……
女房 人間の魂が、貴女を慕ふのでございます。海月(くらげ)が寄るのでございます。
美女 人の魂が、海月(くらげ)と云つて?
女房 海に参ります醜い人間の魂は、皆、海月に成つて、ふわふわさまようて歩行(ある)きますのでございます。
黒潮騎士 (口々に) ――煩(うるさ)い。叱々(しつしつ)。―― (と、ものなき龍馬の周囲を呵<か>す。)
美女 まあ、情ない、お恥しい。(袖を以て面<おもて>を蔽ふ。)
女房 否(いえ)、貴女は、あの御殿の若様の、新夫人(にひおくさま)でいらつしやいます、もはや人間ではありません。
美女 えゝ。(袖を落す。――舞台転ず。真暗に成る。) ――
女房 (声のみして)
急ぎませう。美しい方を見ると、黒鰐、赤鮫が襲ひます。騎馬が前後を守護しました。お憂慮(きづかひ)はありませんが、いざ参ると、斬合ひ攻合ふ、修羅の
巷をお目に懸けねば成りません。――騎馬の方々、急いで下さい。
燈籠一つ行き、続いて一つ行く。漂蕩(へうたう)する趣して、高く低く奥の方(かた)深く行く。
舞台燦然(さんぜん)として明るし、前の琅玕殿顕(あらは)る。
公子、椅子の位置を卓子(テエブル)に正しく直して掛けて、姿見の傍(かたはら)にあり。向つて右の上座(かみざ)。左の方に赤き枝珊瑚の椅子、人なく
してたゞ据ゑらる。其の椅子を斜に下(さが)りて、沖の僧都、此の度は腰掛けてあり。黒き珊瑚、小形なる椅子を用ゐる。おなじ小形の椅子に、向つて正面に
一人、略(ほゞ)唐代の儒(じゆ)の服装したる、髯(ひげ)黒き一人あり。博士なり。
侍女七人、花の如く其の間を装(よそほ)ひ立つ。
公子 博士、お呼び立てしました。
博士 (敬礼す。)
公子 此を御覧なさい。(姿見の面を示す。)
千仭(せんじん)の崕(がけ)を累(かさ)ねた、漆のやうな波の間を、幽(かすか)に蒼い灯(ともしび)に照らされて、白馬の背に手綱(たづな)したは、
此の度(たび)迎へ取るおもひものなんです。陸に獅子、虎の狙ふと同一(おなじ)に、入道鰐(にふどうわに)、坊主鮫(ばうずざめ)の一類が、美女と見れ
ば、途中に襲撃(おそひう)つて、黒髪を吸ひ、白き乳を裂き、美しい血を呑まうとするから、守備のために、旅行さきで、手にあり合せただけ、少数の黒潮
(こくてう)騎士を附添はせた、渠等(かれら)は白刃(しらは)を揃へて居る。
博士 至極のお計ひに心得まするが。
公子 処が、敵に備ふる此処(こゝ)の守備を出払はしたから不用心ぢや、危険であらう、と僧都が言はれる。……其は恐れん、私が居れば仔細ない。けれ
ども、又、僧都の言はれるには、白衣(びやくえ)に緋の襲(かさね)した女子(をなご)を馬に乗せて、黒髪を槍尖(やりさき)で縫つたのは、彼の国で引廻
しとか称(とな)へた罪人の姿に似て居る、私の手許に迎入(むかへい)るゝものを、不祥(ふしやう)ぢや、忌はしいと言ふのです。
事実不祥なれば、途中の保護は他に幾干(いくら)も手段があります。其は構はないが、私は聊(いさゝ)かも不祥と思はん、忌はしいと思はない。
此を見ないか。私の領分に入つた女の顔は、白い玉が月の光に包まれたと同一(おなじ)に、愈々(いよいよ)清い。眉は美しく、瞳は澄み、唇の紅(べに)は
冴えて、聊かも窶(やつ)れない。憂へて居らん。清らかな衣(きもの)を着、新(あらた)に梳(くしけづ)つて、花に露の点滴(したゝ)る装(よそほひ)
して、馬に騎(き)した姿は、かの国の花野の丈(たけ)を、錦の山の懐に抽(ぬ)く……歩行(あるく)より、車より、駕籠に乗つたより、一層鮮麗(あざや
か)なものだと思ふ。其の上、選抜した慓悍(へうかん)な黒潮(こくてう)騎士の精鋭等(ども)に、長槍(ながやり)を以て四辺(あたり)を払はせて通る
のです。得意思ふべしではないのですか。
僧都 (頻<しきり>に頭<つむり>を傾く。)
公子 引廻しと聞けば、恥を見せるのでせう、苦痛を与へるのであらう。槍で囲み、旗を立て、淡く清く装つた得意の人を馬に乗せて市(いち)を練つて、
やがて刑場に送つて殺した処で、――殺されるものは平凡に疾病(やまひ)で死するより愉快でせう。――其が何の刑罰に成るのですか。陸と海と、国が違ひ、
人情が違つても、まさか、そんな刑罰はあるまいと想ふ。僧都は、うろ覚えながら確に記憶に残ると言はれる。……貴下(あなた)をお呼立した次第です。一寸
お験(しら)べを願ひませうか。
博士 仰聞(おほせき)けの記憶は私にもありますで。しかし、念のために験べまするで。えゝ、陸上一切の刑法の記録でありませうか、それとも。
公子 面倒です、あとは何(ど)うでも可(い)い。たゞ女子(をなご)を馬に乗せ、槍を立てて引廻したと云ふ、そんな事があつたかと云ふ、それだけで
す。
博士 正史でなく、小説、浄瑠璃の中を見ませうで。時の人情と風俗とは、史書よりも寧(むし)ろ此の方が適当でありますので。(金光燦爛たる洋綴
<やうとぢ>の書を展く。)
公子 (卓子<テエブル>に腰を掛く) 大相気の利いた書物ですね。
博士 此は、仏国(ふつこく)の大帝奈翁(ナポレオン)が、西暦千八百八年、西班牙(スペイン)遠征の途に上(のぼ)りました時、予(かね)て世界有
数の読書家。必要によつて当時の図書館長バルビールに命じて製(つく)らせました、函入新装の、一千卷、一架(ひとたな)の内容は、宗教四十卷、叙事詩四
十卷、戯曲四十卷、其の他の詩篇六十卷。歴史六十卷、小説百卷、と申しまするデユオデシモ形と申す有名な版本の事を……お聞及びなさいまして、御姉君、乙
姫様が御工夫を遊ばしました。蓮の絲、一筋を、凡そ枚数千頁に薄く織拡げて、一万枚が一折、一百二十折を合せて一冊に綴じましたものでありまして、此の国
の微妙なる光に展きますると、森羅万象、人類をはじめ、動植物、鉱物、一切の元素が、一々(ひとつひとつ)づゝ微細なる活字と成つて、然も、各々五色の輝
きを放ち、名詞、代名詞、動詞、助動詞、主客、句読(くとう)、いづれも個々別々、七彩に照つて、恁(か)く開きました真白な枚(ページ)の上へ、自然
と、染め出さるゝのでありまして。
公子 姉上が、其を。――嘸(さぞ)、御秘蔵のものでせう。
博士 御秘藏ながら、若様の御書物蔵へも、整然(ちやん)と姫様がお備へつけでありますので。
公子 では、私の所有ですか。
博士 若様は此の冊子と同じものを、瑪瑙(めなう)に青貝の蒔絵の書棚、五百架(たな)、御所有で居(ゐ)らせられまする次第であります。
公子 姉があつて幸幅(しあはせ)です。どれ、(取つて披<ひら>く) 此は……唯白紙だね。
博士 は、恐れながら、それぞれの予備の知識がありませんでは、自然の其の色彩ある活宇は、ペエジの上には写り兼ねるのでございます。
公子 恥入るね。
博士 いやいや、若様は御勇武で居らせられます。入道鰐、黒鮫の襲ひまする節は、御訓練の黒潮(こくてう)、赤潮(せきてう)騎士、御手(おて)の剣
(つるぎ)でなうては御退けに成りまする次第には参らぬのでありまして。雖然(けれども)、姉姫様の御心づくし、節々(せつせつ)は御閲読の儀をお勧め申
まするので。
僧都 もろともに、お勧め申上げますでござります。
公子 (頷く) まあ、今の引廻しの事を見て下さい。
博士 確に。(書を披く)
手近に浄瑠璃にありました。あゝ、此(これ)にあります。……若様、此は大日本浪華の町人、大経師以春(いしゆん)の年若き女房、名だたる美女のおさん。
手代(てだい)茂右衛門と不義顕(あらは)れ、即ち引廻し磔(はりつけ)に成りまする処を、記したのでありまして。
公子 お読み。
博士 (朗読す)
――紅蓮(ぐれん)の井戸堀、焦熱の、地獄のかま塗りよしなやと、急がぬ道をいつのまに、越ゆる我身の死出の山、死出の田長(たをさ)の田がりよし、野辺
より先を見渡せば、過ぎし冬至の冬枯れの、木(こ)の間木の間にちらちらと、ぬき身の槍の恐しや、――
公子 (姿見を覗きつゝ、且つ聴きつゝ) あゝ、幾干(いくら)か似て居る。
博士 ――また冷返る夕嵐、雪の松原、此の世から、恁(かゝ)る苦患(くげん)にわう亡日(まうにち)、島田乱れてはらはらはら、顔にはいつもはんげ
しやう、縛られし手の冷たさは、我身一つの寒(かん)の入(いり)、涙ぞ指の爪とりよし、袖に氷を結びけり。……
侍女等、傾聴す。
公子 唯、いゝ姿です、美しい形です。世間は其で其の女の罪を責めたと思ふのだらうか。
博士 先(まづ)、ト見えまするので。
僧都 然(さ)やうでございます。
公子 馬に騎(の)つた女は、殺されても恋が叶ひ、思ひが届いて、嘸(さぞ)本望であらうがね。
僧都 ――袖に氷を結びけり。涙などと、嘆き悲しんだやうにござります。
公子 其は、其の引廻しを見る、見物の心ではないのか。私には分らん。 (頭を掉<ふ>る。)
博士――まだ他(ほか)に例があるのですか。
博士 (朗読す)
……世の哀(あはれ)とぞなりにける。今日は神田のくづれ橋に恥をさらし、又は四谷、芝、浅草、日本橋に人こぞりて、見るに惜まぬはなし。是を思ふに、か
りにも人は悪(あし)き事をせまじきものなり。天是を許し給はぬなり。……
公子 (眉を顰<ひそ>む。――侍女等齋<ひと>しく不審の面色<おもゝち>す。)
博士 ……此女思込みし事なれば、身の窶(やつ)るゝ事なくて、毎日ありし昔の如く、黒髪を結(ゆ)はせて美(うる)はしき風情。……
公子 (色解く。侍女等、眉をひらく。)
博士 中略をいたします。……聞く人一(ひと)しほいたはしく、其姿を見おくりけるに、限ある命のうち、入相(いりあひ)の鐘つく比(ころ)、品(し
な)かはりたる道芝の辺(ほとり)にして、其身は憂き煙となりぬ。人皆いづれの道にも煙はのがれず、殊に不便は是にぞありける。――此で、鈴ヶ森で火刑
(ひあぶり)に処せられまするまでを、確か江戸中棄札(すてふだ)に槍を立てて引廻した筈と心得まするので。
公子 分りました。其はお七と云ふ娘でせう。私は大すきな女なんです。御覧なさい。何処(どこ)に当人が歎き悲みなぞしたのですか。人に惜しまれ可哀
(あはれ)がられて、女それ自身は大満足で、自若として火に焼かれた。得意想ふべしではないのですか。何故其が刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、恵(めぐ
み)の杖(しもと)、情(なさけ)の鞭だ。実際其の罪を罰しようとするには、其のまゝ無事に置いて、平凡に愚図愚図に生存(いきなが)らへさせて、皺だら
けの婆にして、其の娘を終らせるが可いと、私は思ふ。……分けて、現在、殊に其のお七の如きは、姉上が海へお引取りに成つた。刑場の鈴ヶ森は自然海に近か
つた。姉上は御覧に成つた。鉄の鎖は手足を繋いだ、燃草は夕霜を置残して其の肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は緋鹿子(ひがのこ)を燃え抜いた。
緋の牡丹が崩れるより、虹が燃えるより美しかつた。恋の火の白熱は、凝つて白玉(はくぎよく)と成る、其の膚(はだえ)を、氷つた雛芥子(ひなげし)の花
に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして注(そゝ)いだのだつた。其のまゝ海の底へお引取りに成つて、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、紅(くれなゐ)の珊
瑚の中に、結綿(ゆひわた)の花を咲かせて居るのではないか。
男は死ななかつた。存命(ながら)へて坊主に成つて老い朽ちた。娘のために、姉上は其さへお引取りに成つた。けれども、其の魂は、途中で牡(をす)の海月
(くらげ)に成つた。――時々未練に娘を覗いて、赤潮に追払はれて、醜く、ふらふらと生白く漾(たゞよ)うて失(う)する。あはれなものだ。
娘は幸福(しあはせ)ではないのですか。火も水も、火は虹と成り、水は瀧と成つて、彼の生命を飾つたのです。抜身の槍の刑罰が馬の左右に、其の誉(ほま
れ)を輝かすと同一(おんなじ)に。――博士如何(いかゞ)ですか。僧都。
博士 しかし、しかし若様、私は愼重にお答へをいたしまする。身は此の職にありながら、事実、人間界の心も情(じやう)も、まだ聊(いさゝ)かも分ら
ぬのでありまして。若様、唯今の仰せは、其は、すべて海の中にのみ留まりまするが。
公子 (穏和に頷く)
姉上も、以前お分りに成らぬと言はれた。其の上、貴下(あなた)がお分りにならなければ此は誰にも分らないのです。私にも分らない。しかし事情も違ふ。彼
を迎へる、道中の此の (又姿見を指す) 馬上の姿は、別に不祥ではあるまいと思ふ。
僧都 唯今、仰せ聞けられ承りまする内に、条理(すぢみち)は弁(わきま)へず、僧都にも分らぬことのみではござりますが、唯、黒潮の抜身で囲みまし
た段は、別に忌はしい事ではござりませんやうに、老人にも、其の合点参りましてござります。
公子 可(よし)、しかし僧都、こゝに蓮華燈籠の意味も分つた。が、一つ見馴れないものが見えるぞ。女が、黒髪と、あの雪の襟との間に――胸に珠を掛
けた、彼(あれ)は何かね。
僧都 はあ。(卓子<テエブル>に伸上る)
はゝ、いかさま、いや、若様。あれは水晶の数珠(じゆず)にございます。海に沈みまする覚悟につき、冥土(めいど)に参る心得のため、檀那寺(だんなで
ら)の和尚が授けましたのでござります。
公子 冥土とは?……其こそ不将(ふらち)だ。そして仇光(あだびか)りがする、あれは……水晶か。
博士 水晶とは申す条、近頃は専ら硝子(ビイドロ)を用ゐますので。
公子 (一笑す)
私の恋人ともあらうものが、無ければ可(い)い。が、硝子(ビイドロ)とは何事ですか。金剛石、また真珠の揃うたのが可い。……博士、贈つて然るべき頸飾
(えりかざり)をお検(しら)べ下さい。
博士 畏(かしこま)りました。
公子 そして指環の珠の色も怪しい、お前たち何(ど)う見たか。
侍女一 近頃は、かんてらの灯の露店(ほしみせ)に、紅宝玉(ルビイ)、緑宝玉(エメラルド)と申して、貝を鬻(ひさ)ぐと承ります。
公子 お前たちの化粧の泡が、波に流れて渚に散つた、あの貝が宝石か。
侍女二 錦襴(きんらん)の服を着けて、青い頭巾を被りました、立派な玉商人(たまあきんど)の売りますものも、擬(にせ)が多いさうにございます。
公子 博士、次手(ついで)に指環を贈らう。僧都、すぐに出向(でむか)うて、遠路であるが、途中、早速、硝子(ビイドロ)と其の擬(まが)ひ珠(た
ま)を取棄てさして下さい。お老寄(としより)に、御苦労ながら。
僧都 (苦笑す)
若様には、新夫人(にひおくさま)の、まだ、海にお馴れなさらず、御到着の遅いばかり気になされて、老人が、こゝに形を消せば、瞬く間もなう、お姿見の中
の御馬の前に映りまする神通(じんづう)を、お忘れなされて、老寄に苦労などと、心外な御意を蒙(かうむ)りまするわ。
公子 はゝは、(無邪気に笑ふ) 失礼をしました。
博士、僧都、一揖(いちいふ)して廻廊より退場す。侍女等慇懃に見送る。
公子 少し窮屈であつたげな。
侍女等親しげに皆其の前後に斉眉(かしづ)き寄る。
公子 性急な私だ。――女を待つ間の心遣(こゝろやり)にしたい。誰か、あの国の歌を知つて居(を)らんか。
侍女三 存じて居ります。浪花津(なにはづ)に咲くや此花(このはな)冬籠(ふゆごもり)、今を春へと咲くや此花。
侍女四 若様、私も存じて居ります。淺香山を。
公子 いや、そんなのではない。(博士がおきたる書を披<ひら>きつゝ)
女の国の東海道、道中の唄だ。何とか云ふのだつた。此の書はいくらか覚えがないと、文字が見えないのださうだ。(呟く)
姉上は貴重な、しかし、少しあてつこすりの書をお拵(こしら)へに成つたよ。あゝ、何とか云つた、東海道の。
侍女五 五十三次のでございませう、私が少し存じて居ります。
公子 歌うて見ないか。
侍女五 はい。(朗かに優しくあはれに唄ふ。)
都路は五十路(いそじ)あまりの三つの宿、……
公子 おゝ、其だ、字書(じしよ)のやうに、江戸紫で、都路と標目(みだし)が出た。(展く) あとを。
侍女五 ……時得て咲くや江戸の花、浪静なる品川や、やがて越来る川崎の、軒端ならぶる紳奈川は、早や程ケ谷に程もなく、暮れて戸塚に宿るらむ。紫匂ふ
藤沢の、野面(のおも)に続く平塚も、もとのあはれは大磯か。蛙(かはづ)鳴くなる小田原は。……(極<きまり>悪げに)……もうあとは忘れ
ました。
公子 可(よし)、こゝに緑の活字が、白い雲の枚(ペエジ)に出た。――箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や――さあ、忘れた所は教へて遣らう。
此の歌で、五十三次の宿(しゆく)を覚えて、お前たち、あの道中雙六(すごろく)と云ふものを遊んで見ないか。上(あが)りは京都だ。姉の御殿に近い。誰
か一人上(あが)つて、雙六の済む時分、丁度、此の女は (姿見を見つゝ)
着くであらう。一番上りのものには、瑪瑙(めのう)の莢(さや)に、紅宝玉の実を装(かざ)つた、あの造りものの吉祥果(きつしやうくわ)を遣る。絵は直
ぐに間に合(あは)ぬ。此の室(へや)を五十三に割つて雙六の目に合せて、一人づゝ身体を進めるが可からう。……賽が要る、持つて来い。(侍女六七、うつ
むいてともに微笑す) ――何うした。
侍女六 姿見をお取寄せ遊ばしました時。
侍女七 二人して盤の雙六をして居りましたので、賽は持つて居りますのでございます。
公子 おもしろい。向うの廻廊の端へ集まれ。そして順に成つて始めるが可い。
侍女七 床(ゆか)へ振りませうでございますか。
公子 心あつて招かないのに来た、賽にも魂がある、寄越せ。(受取る)
卓子(テエブル)の上へ私が投げよう。お前たち一から七まで、目に従うて順に動くが可い。さあ、集れ。(侍女七人、いそいそと、続いて廻廊のはづれに集
り、貴女は一。私は二。恁<か>う口々に楽しげに取定め、勇みて賽を待つ。)
可いか、(片手に書を持ち、片手に賽を投ぐ)――一は三、かな川へ。(侍女一人進む) 二は一、品川まで。(侍女一人また進む)
三は五だ、戸塚へ行け。(恁<か>くして順々に繰返し次第に進む。第五の侍女、年最も少きが一人衆を離れて賽の目に乗り、正面突当りなる窓際
に進み、他と、間<あはひ>隔る。公子。これより前<さき>、姿見を見詰めて、賽の目と宿の数を算へ淀む。……此の時、うかとし
たる体<てい>に書を落す。) まだ、誰も上らないか。
侍女一 漸(やつ)と一人天龍川まで参りました。
公子 あゝ、まだるつこい。賽を二つ一所に振らうか。(手にしながら姿見に見入る。侍女等、等く其方<そなた>を凝視す。)
侍女五 きやつ。(叫ぶ。隙<ひま>なし。其の姿、窓の外へ裳<もすそ>を引いて颯<さつ>と消ゆ) あゝれえ。
侍女等、口々に、あれ、あれ、鮫が、鮫が、入道鮫が、と立乱れ騒ぎ狂ふ。
公子 入道鮫が、何、(窓に衝<つ>と寄る。)
侍女一 あゝ、黒鮫が三百ばかり。
侍女二 取巻いて、群りかゝつて。
侍女三 あれ、入道が口に銜(くは)へた。
公子 外道(げどう)、外道、其の女を返せ、外道。(叱曹オつゝ、窓より出でんとす。)
侍女等縋(すが)り留む。
侍女四 軽々しい、若様。
公子 放せ。あれ見い。外道の口の間から、女の髪が溢(こぼ)れて落ちる。やあ、胸へ、乳へ、牙が喰入る。えゝ、油断した。……骨も筋も断(き)れよ
うな。あゝ、手を悶える、裳(もすそ)を煽(あふ)る。
侍女六 否(いゝえ)、若様、私たち御殿の女は、身(からだ)は綿よりも柔かです。
侍女七 蓮の絲を束(つか)ねましたやうですから、鰐の牙が、背筋と鳩尾(みづおち)へ噛合ひましても、薄紙一重透きます内は、血にも肉にも障りませ
ん。
侍女三 入道も、一類も、色を漁るのでございます。生命(いのち)は頃刻(しばらく)助りませう。
侍女四 其の中(うち)に、其の中に。まあ、お静まり遊ばして。
公子 いや、俺の力は弱いもののためだ。生命(いのち)に掛けて取返す。――鎧(よろひ)を寄越せ。
侍女二人衝(つ)と出で、引返して、二人して、一領の鎧を捧げ、背後(うしろ)より颯(さつ)と肩に投掛く。
公子、上へ引いて、頚(うなじ)よりつらなりたる兜を頂く。角(つの)ある毒龍、凄(すさま)じき頭(かしら)と成る。其の頭を頂く時に、侍女等、鎧の
裾を捌(さば)く。外套の如く背より垂れて、紫の鱗、金色(こんじき)の斑点連り輝く。
公子、又袖を取つて肩よりして自ら喉(のど)に結ぶ、此の結びめ、左右一雙の毒龍の爪なり。迅速に一縮(いつしゆく)す。立直るや否や、剣を抜いて、頭
上に翳(かざ)し、ハタと窓外を睨(にら)む。
侍女六人、斉しく其の左右に折敷き、手に手に匕首(あひくち)を抜連れて、晃々(きらきら)と敵に構ふ。
公子 外道、退(ひ)くな。(凝<じつ>と視て、剣<つるぎ>の刃を下に引く) 虜(とりこ)を離した。受取れ。
侍女一 鎧をめしたばつかりで、御威徳(ごいとく)を恐れて引きました。
侍女二 長う太く、数百の鮫のかさなつて、蜈蚣(むかで)のやうに見えたのか、あゝ、ちりぢりに、ちりぢりに。
侍女三 めだかのやうに遁げて行きます。
公子 おゝ、丁度黒潮等が帰つて来た、帰つた。
侍女四 真個(ほん)に、おつかひ帰りの姊(ねえ)さんが、とりこを抱取つて下すつた。
公子 介抱してやれ。お前たちは出迎へ。
侍女三人づゝ、一方は闥(とびら)のうちへ。一方は廻廊に退場。
公子、真中に、すつくと立ち、静かに剣を納めて、右手(めて)なる白珊瑚の椅子に凭(よ)る。騎士五人廻廊まで登場。
騎士一同 (槍を伏せて、踞<うづくま>り、同音に呼ぶ) 若様。
公子 おゝ、帰つたか。
騎士一 以ての外な、今ほどは。
公子 何でもない、私(わたし)は無事だ、皆御苦労だつたな。
騎士一同 はツ。
公子 途中まで出向つたらう、僧都は何(ど)うしたか。
騎士一 あとの我ら夥間(なかま)を率(ひき)ゐて、入道鮫を追掛けて参りました。
公子 よい相手だ、戦闘は観ものであらう。――皆は休むが可い。
騎士 槍は鞘に納めますまい、此のまゝ御門を堅めまするわ。
公子 然(さ)までにせずとも大事ない、休め。
騎士等、礼拝して退場。侍女一、登場。
侍女一 御安心遊ばしまし、疵(きず)を受けましたほどでもございません。唯、酷(ひど)く驚きまして。
公子 可愛相に、よく介抱して遣れ。
侍女一 二人が附添つて居ります、(廻廊を見込む)
あゝ、最(も)う御廊下まで。(公子のさしづにより、姿見に錦の蔽<おほひ>を掛け、闥<とびら>に入<い>る。)
美女。先達の女房に、片手、手を曳かれて登場。姿を粛(しづか)に、深く差俯向(さしうつむ)き、面影やゝやつれたれども、然(さ)まで悪怯(わるび)
れざる態度、徐(おもむろ)に廻廊を進みて、床(ゆか)を上段に昇る。昇る時も、裾捌き静なり。
侍女三人、灯籠二個(ふたつ)づゝ二人、一つを一人、五個(いつゝ)を提げて附添ひ出で、一人一人、廻廊の廂(ひさし)に架け、其のまゝ引返す。燈籠を
侍女等の差置き果つるまでに、女房は、美女を其の上段、紅き枝珊瑚の椅子まで導く順にてありたし。女房、謹んで公子に礼して、美女に椅子を教ふ。
女房 お掛け遊ばしまし。
美女、据置かるゝ状(さま)に椅子に掛く。女房は其の裳(もすそ)に跪居(ついゐ)る。
美女、うつむきたるまゝ少時(しばし)、皆無言。やがて顔を上げて、正しく公子と見向ふ。瞳を据ゑて瞬きせず。――間(ま)。
公子 よく見えた。(無造作に、座を立つて、卓子<テエブル>の周囲<まわり>に近づき、手を取らんと衝<つ>
と腕<かひな>を伸ばす。美女、崩るゝが如くに椅子をはづれ、床<ゆか>に伏す。)
女房 何うなさいました、貴女、何うなさいました。
美女 (声細く、然<さ>れども判然) はい、……覚悟しては来ましたけれど、余りと言へば、可恐(おそろし)うございますもの。
女房 (心付く) おゝ、若様。其の鎧をお解き遊ばせ。お驚きなさいますのも御尤もでございます。
公子 解いても可い、(結び目に手を掛け、思慮す) が、解かんでも可(よ)からう。……最初に見た目は何処までも附絡(つきまと)ふ。(美女に)
貴女(あなた)、おい、貴女、此(これ)を恐れては不可(いか)ん、私(わたし)は此あるがために、強い。此あるがために力があり威がある。今も既に此に
因つて、めしつかふ女の、入道鮫に噛まれたのを助けたのです。
美女 (やゝ面<おもて>を上ぐ) お召使が鮫の口に、矢張り、そんな可恐(おそろし)い処なんでございますか。
公子 はゝはゝ、(笑ふ)
貴女、敵のない国が、世界の何処にあるんですか。仇(あだ)は至る処に満ちて居る――唯一人(いちにん)の娘を捧ぐ、……海の幸(さち)を賜はれ――貴女
の親は、既に貴女の仇(あだ)なのではないか。唯其敵に勝てば可いのだ。私は、此の強さ、力、威あるがために勝つ。閨(ねや)に唯二人ある時でも私は此を
脱ぐまいと思ふ。私の心は貴女を愛して、私の鎧は、敵から、仇(あだ)から、世界から貴女を守護する。弱いものの為に強いんです。毒龍の鱗は絡(まと)
ひ、爪は抱(いだ)き、角は枕しても聊(いさゝか)も貴女の身は傷けない。ともに此の鎧に包まるゝ内は、貴女は海の女王なんだ。放縦(はうじう)に大胆
に、不羈(ふき)、専横(せんわう)に、心のまゝにして差支へない。鱗に、爪に、角に、一絲掛けない白身(はくしん)を抱(いだ)かれ包まれて、渡津海
(わたつみ)の広さを散歩しても、敢て世に憚る事はない。誰の目にも触れない。人は指(ゆびさし)をせん。時として見るものは、沖の其の影を、真珠の光と
見る。指(ゆびさ)すものは、喜見城(きけんじやう)の幻影(まぼろし)に迷ふのです。
女の身として、優しいもの、媚(こび)あるもの、從ふものに慕はれて、其(それ)が何の本懐です。私は鱗を以て、角を以て、爪を以て愛するんだ。……鎧は
脱ぐまい、と思ふ。(従容<しようよう>として椅子に戻る。)
美女 (起直り、会釈す)
……父へ、海の幸をお授け下さいました、津波のお強さ、船を覆(くつがへ)して、此処へ、遠い海の中をお連れなすつた、お力。道すがらは又お使者(つか
ひ)で、金剛石の此の襟飾、宝玉の此の指環、(嬉しげに見ゆ) 貴方の御威徳はよく分りましたのでございます。
公子 津波位(しき)、家来どもが些細(ささい)な事を。さあ、其処へお掛け。
女房、介抱して、美女、椅子に直る。
公子 頚飾(くびがざり)なんぞ、珠なんぞ。貴女の腰掛けて居る、其は珊瑚だ。
美女 まあ、父に下さいました枝よりは、幾倍とも。
公子 あれは草です。較ぶれば此処のは大樹だ。椅子の丈は陸(くが)の山よりも高い。然(そ)うして居る貴女の姿は、夕日影の峰に、雪の消残つたやう
であらう。少しく離れた私の兜の龍頭(たつがしら)は、城の天守の棟に飾つた黄金の鯱(しやち)ほどに見えようと思ふ。
美女 あの、人の目に、それが、貴方?
公子 譬喩(たとへ)です、人間の目には何にも見えん。
美女 あゝ、見えはいたしますまい。お恥かしい、人間の小さな心には、此処に、見ますれば私が裳(すそ)を曳きます床(ゆか)も、琅玕の一枚石。恁
(か)うした御殿のある事は、夢にも知らないのでございますもの、情なう存じます。
公子 否(いや)、そんなに謙遜をするには当らん。陸(くが)には名山、佳水(かすい)がある。峻嶽、大河がある。
美女 でも、こんな御殿はないのです。
公子 あるのを知らないのです。海底の琅玕の宮殿に、宝蔵の珠玉金銀が、虹に透いて見えるのに、更科(さらしな)の秋の月、錦を染めた木曽の山々は劣
りはしない。……峰には、其の錦葉(もみぢ)を織る龍田姫がおいでなんだ。人間は知らんのか、知つても知らないふりをするのだらう。知らない振をして見な
いんだらう。――陸(くが)は尊い、景色は得難い。今も、道中雙六をして遊ぶのに、五十三次の一枚絵さへ手許にはなかつたのだ。絵も貴い。
美女 あんな事をおつしやつて、絵には活きたものは住んで居りませんではありませんか。
公子 いや、住居(すまひ)をして居る。色彩は皆活きて動く。けれども、人は知らないのだ。人は見ないのだ。見ても見ない振をして居るんだから、決し
て人間の凡てを貴いとは言はない、美いとは言はない。唯陸(くが)は貴い。けれども、我が海は、此の水は、一畝(ひとうね)りの波を起して、其の陸を浸す
事が出来るんだ。たゞ貴く、美しいものは亡びない。……中にも貴女は美しい。だから、陸の一浦を亡ぼして、こゝへ迎へ取つたのです。亡ぼす力のあるもの
が、亡びないものを迎へ入れて、且つ愛し且つ守護するのです。貴女は、喜ばねば不可(いけな)い、嬉しがらなければならない、悲しんでは成りません。
女房 貴女、おつしやる通りでございます。途中でも私が、お喜ばしい、おめでたい儀と申しました。決してお歎きなさいます事はありません。
美女 否(いゝえ)、歎きはいたしません。悲しみはいたしません。唯歎きますもの、悲しみますものに、私の、此の容子(ようす)を見せて遣りたいと思
ふのです。
女房 人間の目には見えません。
美女 故郷(ふるさと)の人たちには。
公子 見えるものか。
美女 (やゝ意気ぐむ) あの、私の親には。
公子 貴女は見えると思ふのか。
美女 恁(か)うして、活きて居りますもの。
公子 (屹<きつ>としたる音調) 無論、活きて居る。しかし、船から沈む時、此処へ来るに何(ど)う云ふ決心を為(し)たのですか。
美女 それは死ぬ事と思ひました。故郷(ふるさと)の人も皆然(さ)う思つて、分けて親は歎き悲しみました。
公子 貴女の親は悲しむ事は少しもなからう。はじめから其のつもりで、約束の財を得た。然も満足だと云つた。其の代りに娘を波に沈めるのに、少しも歎
くことはないではないか。
美女 けれども、父娘(おやこ)の情愛でございます。
公子 勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん。(頭<かぶり>を掉<ふ>る)
が、まあ、情愛として置く、其(それ)で。
美女 父は涙にくれました。小船が波に放たれます時、渚の砂に、父の倒伏(たふれふ)しました処は、あの、丁(ちやう)ど夕月に紫の枝珊瑚を抱きまし
た処なのです。そして、後(あと)の歎(なげき)は、前の喜びにくらべまして、幾十層倍だつたでございませう。
公子 ぢや、其の枝珊瑚を波に返して、約束を戻せば可(よ)かつた。
美女 否(いゝえ)、ですが、最(も)う、海の幸も、枝珊瑚も、金銀に代り、家蔵(いへくら)に代つて居たのでございます。
公子 可(よし)、其の金銀を散らし、施し、棄て、蔵を毀(こぼ)ち、家を焼いて、もとの破蓑(やれみの)一領、網一具の漁民と成つて、娘の命乞(い
のちごひ)をすれば可かつた。
美女 それでも、約束の女を寄越せと、海坊主のやうな黒い人が、夜ごと夜ごと天井を覗き、屏風を見越し、壁襖に立つて、責めたり、催促をなさいます。
今更、家蔵に替へましたツて、と然う思つたのでございます。
公子 貴女の父は、もとの貧民になり下(さが)るから娘を許して下さい、と、其の海坊主に掛合つて見たのですか。見はしなからう。そして、貴女を船に
送出す時、磯に倒れて悲しまうが、新しい白壁、艶(つや)ある甍(いらか)を、山際の月に照らさして、夥多(あまた)の奴婢(ぬひ)に取巻かせて、近頃呼
入れた、若い妾に介抱されて居たではないのか。何故(なぜ)、其が情愛なんです。
美女 はい。…… (恥ぢて首低<うなだ>る。)
公子 貴女を責(せむ)るのではない。よし其が人間の情愛なれば情愛で可い、私とは何の係はりもないから。些(ちつ)とも構はん。が、私の愛する、こ
の宮殿にある貴女が、そんな故郷(ふるさと)を思うて、歎いては不可(いか)ん。悲しんでは不可んと云ふのです。
美女 貴方。(向直る。声に力を帯ぶ)
私は始めから、決して歎いては居ないのです。父は悲しみました。浦人は可哀(あはれ)がりました。ですが私は――約束に応じて宝を与へ、其の約束を責めて
女を取る、――それが夢なれば、船に乗つても沈みはしまい。もし事実として、浪に引入るゝものがあれば、其(それ)は生(しやう)あるもの、形あるもの、
云ふまでもありません、心あり魂あり、声あるものに違ひない。其の上、威があり力があり、栄(さかえ)と光とあるものに違ひないと思ひました。ですから、
人は然うして歎いても、私は小船で流されますのを、然(さ)まで、慌(あわて)騒ぎも、泣悲しみも、落着過ぎもしなかつたんです。もしか、船が沈まなけれ
ば無事なんです。生命はあるんですもの。覆(くつがへ)す手があれば、それは活きて居る手なんです。其の手に縋(すが)つて、海の中に活きられると思つた
のです。
公子 (聞きつゝ莞爾<くわんじ>とす) やあ、(女房に)
……此の女は豪(えら)いぞ! はじめから歎いて居らん、慰め賺(すか)す要はない。私はしをらしい、あはれな花を手活(ていけ)にしてながめようと思つ
た。違ふ! 此は楽く歌ふ鳥だ、面白い。それも愉快だ。おい、酒を寄越せ。
手を挙ぐ。忽ち闥(ドア)開けて、三人の侍女、二罎の酒と、白金(はくきん)の皿に一対の玉盞(たまのさかづき)を捧げて出づ。女房盞(さかづき)を取
つて、公子と美女の前に置く。侍女退場す。女房酒を両方に注(つ)ぐ。
女房 めし上りまし。
美女 (辞宜す) 私は、些(ちつ)とも。
公子 (品よく盞を含みながら) 貴女、少しも辛(から)うない。
女房 貴女の薄紅(うすべに)なは桃の露、あちらは菊花の雫です。お国では御存じありませんか。海には最上の飲料(のみしろ)です。お気が清(すゞ)
しくなります、召あがれ。
美女 あの、桃の露、(見物席の方へ、半ば片袖を蔽うて、うつむき飲む) は。(と小さき呼吸す)
何と云ふ涼しい、爽(さわ)やいだ――蘇生(よみがへ)つたやうな気がします。
公子 蘇生つたのではないでせう。更に新しい生命(いのち)を得たんだ。
美女 嬉しい、嬉しい、嬉しい、貴方。私が恁(か)うして活きて居ますのを、見せて遣りたう存じます。
公子 別に見せる要はありますまい。
美女 でも、人は私が死んだと思つて居ります。
公子 勝手に思はせて置いて可いではないか。
美女 ですけれども、ですけれども。
公子 其の情愛、とかで、貴女の親に見せたいのか。
美女 えゝ、父をはじめ、浦のもの、それから皆(みんな)に知らせなければ残念です。
公子 (卓子<テエブル>に胸を凭出<よせいだ>す) 帰りたいか、故郷(こきやう)へ。
美女 否(いゝえ)、此の宮殿、此の宝玉、此の指環、此の酒、此の栄華、私は故郷(こきやう)へなぞ帰りたくはないのです。
公子 では、何が知らせたいのです。
美女 だつて、貴方、人に知られないで活きて居るのは、活きて居るのぢやないんですもの。
公子 (色はじめて鬱す) むゝ。
美女 (微酔の瞼花やかに)
誰も知らない命は、生命(いのち)ではありません。此の宝玉も、此の指環も、人が見ないでは、些(ちつ)とも価値がないのです。
公子 それは不可(いか)ん。(卓子を軽く打つて立つ)
貴女は栄耀(ええう)が見せびらかしたいんだな。そりや不可ん。人は自己、自分で満足をせねばならん。人に価値(ねうち)をつけさせて、其に従ふべきもの
ぢやない。(近寄る)
人は自分で活きれば可い、生命(いのち)を保てば可い。然(しか)も愛するものとともに活きれば、少しも不足はなからうと思ふ。宝玉とても其の通り、手箱
に此を蔵すれば、宝玉其のものだけの価値を保つ。人に与ふる時、十倍の光を放つ。唯、人に見せびらかす時、其の艶は黒く成り、其の質は醜く成る。
美女 えゝ、ですから……来るお庭にも敷詰めてありました、あの宝玉一つも、此の上お許し下さいますなら、屹(きつ)と慈善に施(ほどこ)して参りま
す。
公子 こゝに、用意の宝蔵(はうざう)がある。皆、貴女のものです。施すは可い。が、人知れずでなければ出来ない、貴女の名を顕(あらは)し、姿を見
せては施すことはならないんです。
美女 それでは何にもなりません。何の効(かひ)もありません。
公子 (色やゝ嶮し)
随分、勝手を云ふ。が、貴女の美しさに免じて許す。歌ふ鳥が囀るんだ、雲雀は星を凌(しの)ぐ。星は蹴落さない。声が可愛らしいからなんです。(女房に)
おい、注げ。
女房酌す。
美女 (怯<おく>れたる内輪な態度)
もうもう、決して、虚飾(みえ)、栄耀(ええう)を見せようと思ひません。あの、唯活きて居る事だけを知らせたう存じます。
公子 (冷かに) 止したが可からう。
美女 否(いゝえ)、唯今も申します通り、故郷(くに)へ帰つて、其処に留まります気は露ほどもないのです。一寸(ちよつと)お許しを受けまして生命
(いのち)のあります事だけを。
公子、無言にして頭(かぶり)掉(ふ)る。美女、縋るが如くす。
美女 あの、お許しは下さいませんか。些(ちつ)との外出(そとで)もなりませんか。
公子 (爽<さわやか>に)
獄屋(ごくや)ではない、大自由、大自在な領分だ。歎くもの悲しむものは無論の事、僅少(きんせう)の憂(うれひ)あり、不平あるものさへ一日も一個(ひ
とり)たりとも国に置かない。が、貴女には既に心を許して、秘蔵の酒を飲ませた。海の果(はて)、陸の終(をはり)、思つて行かれない処はない。故郷(ふ
るさと)如きは唯一飛、瞬きをする間(ま)に行かれる。(愍<あはれ>む如く染々<しみじみ>と顔を覗る) が、気の毒です。
貴女に、其の驕(おごり)と、虚飾(みえ)の心さへなかつたら、一生聞かなくとも済む、また聞かせたくない事だつた。貴女、これ。
(美女顔を上ぐ。其の肩に手を掛く) こゝに来た、貴女は最(も)う人間ではない。
美女 えゝ。(驚く。)
公子 蛇身に成つた、美しい蛇に成つたんだ。
美女、瞳を睁(みは)る。
公子 其の貴女の身に輝く、宝玉も、指環も、紅、紫の鱗の光と、人間の目に輝くのみです。
美女 あれ。(椅子を落つ。侍女の膝にて、袖を見、背を見、手を見つゝ、わなゝき震ふ。雪の指尖<ゆびさき>、思はず鬢を取つて衝
<つ>と立ちつゝ) 否(いゝえ)、否、否。何処も蛇(じや)には成りません。一(い)、一枚も鱗はない。
公子 一枚も鱗はない、無論何処も蛇には成らない。貴女は美しい女です。けれども、人間の眼(まなこ)だ。人の見る目だ。故郷に姿を顕(あらは)す
時、貴女の父、貴女の友、貴女の村、浦、貴女の全国の、貴女を見る目は、誰も残らず大蛇と見る。ものを云ふ声はたゞ、炎の舌が閃(ひらめ)く。吐(つ)く
息は煙を渦巻く。悲歎の涙は、硫黄を流して草を爛(たゞ)らす。長い袖は、腥(なまぐさ)い風を起して樹を枯らす。悶ゆる膚は鱗を鳴してのたうち蜿(う
ね)る。不図(ふと)、肉身のものの目に、其の丈より長い黒髪の、三筋、五筋(いつすぢ)、筋を透して、大蛇の背に黒く引くのを見る、それがなごりと思ふ
が可い。
美女 (髪みだるゝまでかぶりを掉<ふ>る)
嘘です、嘘です。人を呪(のろ)つて、人を詛(のろ)つて、貴方こそ、其の毒蛇です。親のために沈んだ身が蛇体に成らう筈がない。遣(や)つて下さい。故
郷(くに)へ帰して下さい。親の、人の、友だちの目を借りて、尾のない鱗のない私(わたし)の身が験(ため)したい。遣つて下さい。故郷へ帰して下さい。
公子 大自在の国だ。勝手に行くが可い、そして試(ため)すが可からう。
美女 何処に、故郷(ふるさと)の浦は……何処に。
女房 あれ彼処(あすこ)に。(廻廊の燈籠を指<ゆびさ>す。)
美女 おゝ、(身震す)
船の沈んだ浦が見える。(飜然<ひらり>と飛ぶ。……乱るゝ紅<くれなゐ>、炎の如く、トンと床<ゆか>を下りる
や、颯<さつ>と廻廊を突切る。途端に、五個の燈籠斉<ひと>しく消ゆ。廻廊暗し。美女、其の暗中に消ゆ。舞台の上段のみ、やゝ
明く残る。)
公子 おい、其の姿見の蔽(おほひ)を取れ。陸(くが)を見よう。
女房 困つた御婦人です。しかしお可哀相なものでございます。(立つ。舞台暗く成る。――やがて明く成る時、花やかに侍女皆あり。)
公子。椅子に凭(よ)る。――其足許に、美女倒れ伏す――疾(と)く既に帰り来(きた)れる趣。髪すべて乱れ、袂(たもと)裂け帯崩る。
公子 (玉盞<ぎょくさん>を含みつゝ悠然として)
故郷は何(ど)うでした。……何うした、私が云つた通だらう。貴女の父の少(わか)い妾(めかけ)は、貴女の其の恐しい蛇の姿を見て気絶した。貴女の父
は、下男とともに、鉄砲を以つて其の蛇を狙つたではありませんか。渠等(かれら)は第一、私を見てさへ蛇体だと思ふ。人間の目は然う云ふものだ。そんな処
に用はあるまい。泣いて居ては不可(いか)ん。
美女悲泣す。
公子 不可(いか)ん、おい、泣くのは不可ん。(眉を顰む。)
女房 (背を擦<さす>る)
若様は、歎悲(かなし)むのがお嫌(きらひ)です。御性急で在(い)らつしやいますから、御機嫌に障ると悪い。こゝは、楽しむ処、歌ふ処、舞ふ処、喜び、
遊ぶ処ですよ。
美女 えゝ、貴女方は楽しいでせう、嬉しいでせう、お舞ひなさい、お唄ひなさい、私(わたし)、私は泣死(なきじに)に死ぬんです。
公子 死ぬまで泣かれて堪るものか。あんな故郷(くに)に何の未練がある。さあ、機嫌を直せ。こゝには悲哀のあることを許さんぞ。
美女 お許しなくば、何うなりと。えゝ、故郷(ふるさと)の事も、私の身体(からだ)も、皆(みんな)、貴方の魔法です。
公子 何処まで疑ふ。(忿怒<ふんぬ>の形相)
お前を蛇体と思ふのは、人間の目だと云ふに。俺の……魔……法。許さんぞ。女、悲しむものは殺す。
美女 えゝ、えゝ、お殺しなさいまし。活きられる身体ではないのです。
公子 (憤然として立つ) 黒潮等は居らんか。此の女を処置しろ。
言下に、床板を跳ね、其穴より黒潮(こくてう)騎士、大錨をかついで顕(あらは)る。騎士二三、続いて飛出づ。美女を引立て、一の騎士が倒(さかしま)
に押立てたる錨に縛(いまし)む。錨の刃越に、黒髪の乱るゝを掻掴(かいつか)んで、押仰向(おしあをむ)かす。長槍(ながやり)の刃、鋭く其の頤(あぎ
と)に臨む。
女房 あゝ、若様。
公子 止めるのか。
女房 お床(ゆか)が血に汚れはいたしませんか。
公子 美しい女だ。花を挘(むし)るも同じ事よ、花片(はなびら)と蕊(しべ)と、ばらばらに分れるばかりだ。あとは手箱に蔵つて置かう。――殺せ。
(騎士、槍を取直す。)
美女 貴方、こんな悪魚の牙は可厭(いや)です。御卑怯(おひけふ)な。見て居ないで、御自分でお殺しなさいまし。(公子、頷き、無言にてつかつかと
寄り、猶予<ためら>はず剣<つるぎ>を抜き、颯と目に翳<かざ>し、衝<つ>と引いて斜に構ふ。面
<おもて>を見合す。)
あゝ、貴方。私を斬る、私を殺す、其の、顔のお綺麗さ、気高さ、美しさ、目の清(すゞ)しさ、眉の勇ましさ。はじめて見ました、位の高さ、品の可さ。最
(も)う、故郷も何も忘れました。早く殺して。あゝ、嬉しい。(莞爾<につこり>する。)
公子 解け。
騎士等、美女を助けて、片隅に退(の)く。公子、剣(つるぎ)を提(ひつさ)げたるまゝ、
公子 此方(こちら)へおいで。(美女、手を曳かる。ともに床<ゆか>に上る。公子剣を軽く取る。)
終生を盟(ちか)はう。手を出せ。(手首を取つて刃を腕<かひな>に引く、一線の紅血、玉盞<ぎよくさん>に滴<したゝ
>る。公子返す切尖<きつさき>に自から腕を引く、紫の血、玉盞に滴る。) 飲め、呑まう。
盞(さかづき)をかはして、仰いで飲む。廻廊の燈籠一斉に点(とも)り輝く。
公子 あれ見い、血を取かはして、飲んだと思ふと、お前の故郷(くに)の、浦の磯に、岩に、紫と紅(あか)の花が咲いた。それとも、星か。(一同打見
る。)彼(あれ)は何だ。
美女 見覚えました花ですが、私はもう忘れました。
公子 (書を見つゝ) 博士、博士。
博士 (登場)……お召。
公子 (指す) あの花は何ですか。(書を渡さむとす。)
博士 存じて居ります。竜胆(りんだう)と撫子(とこなつ)でございます。新夫人(にひおくさま)の、お心が通ひまして、折からの霜に、一際(ひとき
は)色が冴えました。若様と奥様の血の俤(おもかげ)でございます。
公子 人間に其(それ)が分るか。
博士 心ないものには知れますまい。詩人、画家が、しかし認めますでございませう。
公子 お前、私の悪意ある呪誼(のろひ)でないのが知れたらう。
美女 (うなだる) お見棄なう、幾久しく。
一同 ――万歳を申上げます。――
公子 皆、休息をなさい。(一同退場。)
公子、美女と手を携(たづさ)へて一歩す。美しき花降る。二歩す、フト立停まる。三歩を動かす時、音楽聞ゆ。
美女 一歩(ひとあし)に花が降り、二歩(ふたあし)には微妙の薫(かをり)、いま三あしめに、ひとりでに、楽しい音楽の聞えます。此処は極楽でござ
いますか。
公子 はゝゝ、そんな処と一所にされて堪るものか。おい、女の行く極楽に男は居らんぞ。(鎧の結目を解きかけて、音楽につれて徐<おもむ
>ろに、やゝ、なゝめに立ちつゝ、其の龍の爪を美女の背にかく。雪の振袖、紫の鱗の端に仄<ほのか>に見ゆ)
男の行く極楽に女は居ない。
――幕――