招待席
いのうえ やすし 小説家・詩人 1907.5.6 - 1991.1.29
北海道石狩国(現・旭川市)に生まれ、静岡県田方郡に育つ。日本ペンクラブ第九代会長。文化勲章 藝術院会員。 掲載作は、昭和三十三年(1958)三月
東京創元社刊の最も著名な第一詩集。その魅力や意義の多くは作者自身によるこれも極めて著名な「あとがき」に尽くされている。編輯室は、さらにお許しを得
て拾遺詩篇より好もしい二編を得に選んで添えた。お礼申し上げる。小説家井上靖の、詩は、豊かな創意の宝函であった。 (秦 恒平)
北 国 全編
井上 靖
人 生
M博士の「地球の生成」という書物の頁を開きながら、
私は子供に解りよく説明してやる。
――物理学者は地熱から算定して地球の歴史は二千万年
から四千万年の間だと断定した。しかるに後年、地質学
者は海水の塩分から計算して八千七百万年、水成岩の生
成の原理よりして三億三千万年の数字を出した。ところ
が更に輓近(ばんきん)の科学は放射能の学説から、地球
上の最古の岩石の年齢を十四億年乃至(ないし)十六億年
であると発表している。原子力時代の今日、地球の年齢
の秘密はさらに驚異的数字をもって暴露されるかもしれ
ない。しかるに人間生活の歴史は僅か五千年、日本民族
の歴史は三千年に足らず、人生は五十年という。父は生
れて四十年、そしておまえは十三年にみたぬと。
――私は突如語るべき言葉を喪失して口を噤(つぐ)んだ。
人生への愛情が曾(かつ)てない純粋無比の清冽さで襲っ
てきたからだ。
猟 銃
なぜかその中年男は村人の顰蹙(ひんしゅく)を買い、彼
に集る不評判は子供の私の耳にさえも入っていた。
ある冬の朝、私は、その人がかたく銃弾の腰帯(バンド)
をしめ、コールテンの上衣(うわぎ)の上に猟銃を重くく
いこませ、長靴で霜柱を踏みしだきながら、天城への間
道の叢(くさむら)をゆっくりと分け登ってゆくのを見た
ことがあった。
それから二十余年、その人はとうに故人になったが、そ
の時のその人の背後(うしろ)姿は今でも私の瞼(まぶた)
から消えない。生きものの命断つ白い鋼鉄の器具で、あ
のように冷たく武装しなければならなかったものは何で
あったのか。私はいまでも都会の雑踏の中にある時、ふ
と、あの猟人(ひと)のように歩きたいと思うことがある。
ゆっくりと、静かに、冷たく――。そして、人生の白い
河床をのぞき見た中年の孤独なる精神と肉体の双方に、
同時にしみ入るような重量感を捺印(スタンプ)するもの
は、やはりあの磨き光れる一個の猟銃をおいてはないか
と思うのだ。
海 辺
土地の中学生の一団と、これは避暑に来ているらしい都
会の学生の一団とが擦れ違った。海辺は大方の涼み客も
引揚げ、暗い海面からの波の音が急に高く耳についてく
る頃であった。擦れ違った、とただそれだけの理由で、
彼らは忽(たちま)ち入り乱れて決闘を開始した。驚くべ
きこの敵意の繊細さ。浜明りの淡い照明の中でバンドが
円を描き、帽子がとび、小石が降った。三つの影が倒れ
たが、また起き上がった。そして星屑(ほしくず)のよう
な何かひどく贅沢(ぜいたく)なものを一面に撒(ま)きち
らし、一群の狼藉者(ろうぜきもの)どもは乱れた体型の
まま、松林の方へ駈けぬけて行った。すべては三分とは
かからなかった。青春無頼の演じた無意味にして無益な
る闘争の眩(まぶ)しさ。やがて海辺はまたもとの静けさ
にかえった。私は次第に深まりゆく悲哀の念に打たれな
がら、その夜ほど遠い青春への嫉妬(しっと)を烈しく感
じたことはなかった。
北 国
いかにも地殻の表面といったような瓦礫(がれき)と雑草
の焼土一帯に、粗末なバラックの都邑(とゆう)が急ピッ
チで造られつつあった。焼ける前は迷路(ラビリンス)と
薬種商の老舗(しにせ)の多い古く静かな城下町だったが、
そんな跡形はいまは微塵(みじん)も見出(みいだ)せない。
日々打つづく北の暗鬱なる初冬の空の下に、いま生れよ
うとしているものは、性格などまるでない、古くも新し
くもない不思議な町だ。それにしてもやけに酒場と喫茶
店が多い。オリオン、乙女、インデアン、孔雀、麒麟、
獅子、白鳥、カメレオン――申し合せたように星座の名
がつけられてある。宵の七時ともなると、町全体が早い
店じまいだ。三里ほど向うの日本海の波の音が聞えはじ
めるのを合図に、街の貧しい星座たちの灯も消える。そ
してその後から今度はほんものの十一月の星座が、この
時刻から急に澄み渡ってくる夜空一面にかかり、天体の
純粋透明な悲哀感が、次第に沈澱下降しながら、町全体
を押しつつむ。確かに夜だけ、北国のこのバラックの町
は、曾(かつ)て日本のいかなる都市も持たなかった不思
議な表情を持っていた。いわば、星の植民地とでも言っ
たような。
愛 情
五歳の子供の片言(かたこと)の相手をしながら、突然つ
き上げてくる抵抗し難い血の愛情を感じた。自分はおそ
らく、この子供への烈しい愛情を死ぬまで背負いつづけ
ることだろう。こう考えながら、いつか深い寂蓼の谷の
中に佇(たたず)んでいる自分を発見した。
その日一日、背はたえず白い風に洗われていた。盛り場
の人混(ひとご)みにもまれても、親しい友の豪華な書庫
で、ヒマラヤ学術踏査隊撮(うつ)す珍奇な写真集をめく
っても、所詮(しょせん)、私のこころは医(いや)すべく
もなかった。夕方、風寒い河口のきり岸にひとり立って、
無数の波頭が自分をめがけて押しよせるのを見入るまで、
その日一日、私は何ものかに烈しく復讐(ふくしゅう)さ
れつづけた。
葡萄畠
戦闘が烈しくなると、必ずちらっと鳥影のように脳裡を
かすめる思い出があった。本州の北のはしの小さい都会、
そのまた北の郊外の葡萄畠で、友と過した十数年前のあ
る日ひとときの記憶である。その時私たちは明日の試験
を棒にふって、有機化学のノートを枕にして、神と愛と
中世とギリシャについて語り合っていたのだ。蓬髪(ほう
はつ)の下の友の瞳(ひとみ)はつぶらで、頬は初々しく、
その周囲で空気は若葉にそまり、時は音をたてて水のよ
うに流れていた。怠惰で放埒(ほうらつ)で、純粋で高貴
であった一日!
私が大陸から帰還すると、友は入れ違いに応召してラバ
ウルにあった。日々の新聞がその小さい南の島のきびし
い戦況を伝え始めると、私は大きい感動をもって思わず
にはいられなかった。曾(かつ)て私がそうであった如く、
友もまた、必ずや死をもって充満された時の中で、あの
北の葡萄畠の一日の思い出をあかず見入っているであろ
うと。
それから一年、終戦になってラバウルから部隊は引揚げ
てきたが、ついに友の姿はなかった。友がおそらく最後
の瞬間まで胸に抱きしめていたに違いない私と彼との共
同の、遠い青春の日のカンバスの中で、果してその日の
私の小さいしぐさや言葉は、友の灼(や)け爛(ただ)れた
想念を慰するに足るものであったか、どうか。この思い
ほど、私に取り返しのつかない青春への悔を心痛く感じ
させるものはない。
瞳(ひとみ)
七歳ごろであったろうか。明るい春の、風の強い日、私
は誰かに背後から抱いて貰って、庭の隅の古井戸を覗き
込んだことがある。苔(こけ)むした古い石組と生い茂っ
た羊歯(しだ)、ひやりとする冷たい空気、地上から落ち
込んだその方形の空洞の底には、動かぬ水が銹(さ)びた
鏡のように置かれてあった。思うに、私の生涯に大きい
関係をもつ何ものかが、初めて私の躯(からだ)の中に這
入(はい)り込んできたのはその時であった。
若し私が幼時のその春の日の一刻(ひととき)を持たなか
ったら、刺客の冷たい瞳を埋めた地中の暗処(くらみ)を
のぞかなかったら、――私は二十歳の時友の眉間を割り、
二十五歳の時思想運動に奔(はし)り、三十歳の時恋愛に
生命(いのち)をかけ、三十五歳の時絶望の思いをもって
永定河を渡り、四十歳にしてあるいは市井に名をなして
いたかも知れない。
併(しか)しすべては違っていた。あの北支永定河の川波
に乱れ散るこの世ならぬ白い陽の輝きに、ふと生命惜し
からぬ戦いの陶酔を味わった以外、あらゆることに、私
は怠惰であり、常に傍観者でしかなかったようだ。
生 涯
若いころはどうにかして黄色の菊の大輪(たいりん)を夜
空に打揚げんものと、寝食を忘れたものです。漆黒の闇
の中に一瞬ぱあっと明るく開いて消える黄菊の幻影を、
幾度夢に見て床の上に跳び起きたことでしょう。併し、
結局、花火で黄いろい色は出せませんでしたよ。
――老花火師は火薬で荒れた手を膝(ひざ)の上において、
痣(あざ)のある顔を俯向(うつむ)けて、こう言葉少く語
った。
黄菊の大輪を夜空に咲かすことはできなかったが、その
頃、その人は「早打ち」にかけては無双の花火師だった。
一分間に六十発、白熱した鉄片を底に横たえた筒の中に、
次々に火薬の玉を投げ込む手練の技術はまさに神業とい
われていた。そしていつも、頭上はるか高く己が打揚げ
る幾百の火箭(ひや)の祝祭に深く背を向け、観衆のどよ
めきから遠く、煙硝のけむりの中に、独身で過した六十
年の痩躯(そうく)を執拗(しつよう)に沈めつづけていた。
記 憶
そこはどこか駅の近くらしく、時折、機関車の蒸気の音
が間近に聞えていた。木柵(もくさく)が長く続き、電柱
には暗い電燈が灯っていた。人足は跡絶(とだ)えていた
が、跡絶えているというより人々はこの路地のあること
をもう長いこと忘れているのかも知れなかった。そんな
道ばたにしゃがんで、私はともすれば睡魔にたぐりよせ
られそうになっては、はっとして眼を見開いた。その度
に夜空いちめんに鏤(ちりば)められた星が冷たく美しか
った。
坊や睡ってはだめ、大きな包を持っている母は日頃のや
さしさに似ず邪慳(じゃけん)にそんな言葉しか投げなか
った。軈(やが)てどこからともなく父が現れた。坊や睡
ってはだめ、母と同じことをいって私の頭をこづき、そ
れから思い直したように抱き上げてまた地面へおろすと、
父はさきに立って歩き出した。
――それから私たちは家に帰ったのか、汽車に乗ったの
か、何をしたのか一切は記憶にない。ただ知っているこ
とは、その夜が父母の生涯で、最も深い悲しみがふたり
の心を埋めていた時の一つであったろうということであ
る。年々歳々、なぜか父母のその夜の不幸を星の冷たい
輝きで計量する私の確信は動かすべからざるものになっ
てくる。
元 氏
河北省南西部の元氏という小さい部落でわれわれは崩れ
かかった城壁の上にせっせと土嚢(どのう)を積んだ。や
がて何時間か後には行われるであろう敵襲に備えて、お
のおの自分の前の砦(とりで)を補強するために忙しい日
没の一刻(ひととき)を過していたのだ。その時の不思議
に静かな薄暮の訪れを、初冬の平和な村々の茂りを、遠
く地平のあたりを南下して行った烏の大群を、そして遥
か西方の山裾にしきりに打揚げられる烽火(のろし)の煙
を、あるいは又その時われわれ三人が交したひどく屈託
のない会話を、それら一切をいま思い出すことのできる
のは私ひとりである。右の友も左の友も、その翌日から
はこの世にいないのだ。あの夜にはいったい何が行われ
たと言うのか。激戦――そんな濁った騒がしいものは微
塵も起りはしなかった。運命の序列、そうだ、われわれ
が持っていてしかも知らない己(おの)が運命の序列を、
仮借(かしゃく)なくつきつけて見せるひどく冷たいもの
が、あの夜の闇の中を静かに、だが縦横に走っていたの
だ。そして硫酸のような雨が音もなく、併(しか)しこや
みなくわれわれの精神の上に降り注いでいたのだ。
カマイタチ
学校へゆく途中に犀ケ崖(さいががけ)という小さい古戦
場があった。昼でも樹木鬱蒼(うっそう)とした深い谷で、
橋の上からのぞくと、谷底にはいつも僅かな溜り水が落
葉をひたしていた。ここは日暮時にカマイタチが出ると
いうのでみなから怖(おそ)れられていた。カマイタチの
姿を見たものもない。足音を聞いたものもない。が、そ
いつは風のようにやってきていきなり鋭利な鎌で人間の
頬や腿(もも)を斬るという。私たちは受験の予習でおそ
くなると、ここを通るのが怖かった。鞄(かばん)を小腋
(こわき)にかかえて橋の上を走った。
ある時、学校で若い先生がカマイタチの話を科学的に説
明してくれた。大気中に限局的な真空層が生じた場合、
気圧の零位への突然なる転位は鋭い剃刀(かみそり)の刃
となって肉体に作用すると。そして犀ケ崖の地勢はかか
る大気現象を生起しやすい特殊な条件を持つものであろ
うと。
その時からカマイタチという不気味きわまる動物への恐
怖は私から消失したが、私が人生への絶望的な思惟の最
初の一歩を踏み出したのは、恐らくこの時なのであろう。
私はいまでも、よく、ふとカマイタチのことを思い出す
ことがある。突如、全く突如、人間の運命の途上に偶発
するカマイタチ的エア・ポケットの冷酷なる断裁! す
でに犀ケ崖は埋立てられ、何年か前から赤土の街道がま
っすぐに旧陸軍飛行場に走っているが――。
不 在
音信不通になってから七年になるが、実はその間に一度、
私は汽車にゆられ、船にのり、その人を訪ねて行った。
が、その人は学校の父兄会に出掛けて不在だった。私は
黙って気付かれぬようにしてまた帰ってきた。
神の打った終止符を、私はいつも、悲しみというよりむ
しろ讃歎の念をもって思い出す。不在というそのささや
かな運命の断層に、近代的神話の香気を放ったのは誰の
仕業であろうか。実際、私の不逞貪婪(ふていどんらん)
な視線を受ける代りに、その人は、窓越しに青葉の茂り
の見える放課後の静かな教室で、躾(しつ)けと教育につ
いてこの世で女の持つ最も清純な会話を持っていたのだ。
漆胡樽(しつこそん)
――正倉院御物展を観て――
星と月以外、何物をも持たぬ沙漠の夜、そこを大河のよ
うに移動してゆく民族の集団があった。若者の求愛の姿
態は未(いま)だ舞踊の要素を失わず、血腥(ちなまぐさ)
い争闘の意欲はなお音楽のリズムを保ち、生活は豪宕(ご
うとう)なる祭儀であった。絡繹(らくえき)とつづく駱
駝(らくだ)たちの背には、それぞれ水をいっぱい湛えた
黒漆角型の巨大な器物が、振り分けに架けられてあった。
名はなかった。なぜならそれは生活の器具というより、
まさに生活そのものてあったから。――漆胡樽、後代の
人は斯(か)く名付けたが、かかる民族学的な、いわば一
個の符牒(ふちょう)より他(ほか)に、いかなる命名もあ
り得なかったのだ。とある日、いかなる事情と理由によ
ってか、一個の漆胡樽は駱駝の背をはなれ、民族の意志
の黯(くら)い流れより逸脱し、孤独流離の道を歩みはじ
めた。ある時は速く、ある時はおそく、運命の法則に支
配されながら、東亜千年の時空をひたすらまっすぐに落
下しつづけた。そして、ふと気がついた時、彼は東方の
一小島国の王室のやわらかい掌の上に受けとめられてい
た。正倉院北庫の中の冷たい静かな、しかし微(かす)か
なはなやぎを持った静止が、そのびょうぼうたる歴程の
果てにおかれてあったのだ。
さらに二千年の長い時間が流れた。突如、扉はひらかれ、
秋の陽ざしがさし込んできた。この国のもった敗戦荒亡
の日の白いうつろな陽ざしであった。日ごと群がり集う
人々の眼眸は徒(いたず)らに乾き疲れ、悲しく何ものか
に飢えていた。傲岸(ごうがん)な形相の中に一抹(まつ)
の憂愁を沈めた漆胡樽の特異な表情は、それと並ぶ華麗
絢爛(けんらん)な数々の帝室の財宝のいずれにも増して、
なぜか人々の心にしみ入って消えなかった。巨大な夢を
燃焼しつくした一個の隕石(いんせき)の面にただよう非
情の翳(かげ)りだけが、ふしぎに悲しみをすら喪失した
この国の人々のこころに安らぎを与えるのであった。
シリア沙漠の少年
シリア沙漠のなかで、羚羊(かもしか)の群れといっしょ
に生活していた裸体の少年が発見されたと新聞は報じ、
その写真を掲げていた。蓬髪(ほうはつ)の横顔はなぜか
冷たく、時速五〇マイルを走るという美しい双脚をもつ
姿態はふしぎに悲しかった。知るべきでないものを知り、
見るべきでないものを見たような、その時の私の戸惑い
はいったいどこからきたものであろうか。
その後飢えかかった老人を見たり、あるいは心傲(おご)
れる高名な芸術家に会ったりしている時など、私はふと
どこか遠くに、その少年の眼を感じることがある。シリ
ア沙漠の一点を起点とし、羚羊の生態をトレイスし、ゆ
るやかに泉をまわり、まっすぐに星にまで伸びたその少
年の持つ運命の無双の美しさは、言いかえれば、その運
命の描いた純粋絵画的曲線の清冽(せいれつ)さは、そん
な時いつも、なべて世の人間を一様に不幸に見せるふし
ぎな悲しみをひたすら放射しているのであった。
渦
静かな初冬の日、藍青一色に凪(な)いだ南紀の海はその
一角だけが荒れ騒いでいた。波浪は鬼ケ城と呼ばれるそ
の岬の巨大な岩壁を咬(か)み、底根しらぬ岩礁のはざま
はざまに、幾つかの大きい渦をつくっていた。むかし鬼
が棲(す)んでいたと伝えられる広い岩のうてなの上に立
って、私は刻(とき)の過ぎるのも忘れて、ただ刻まれて
は崩されている渦紋の孤独傲岸(ごうがん)なマスクに心
うばわれていた。
そこの旅から帰り、都会の喧噪(けんそう)な生活の中に
立ち戻ってからも、私はよく、夜更けの冷たいベッドの
中で、そこ遠い熊野灘(なだ)の一隅の黯(くら)い潮の流
動を思いうかべることがある。そんな時きまって思うの
だ、あそこには鬼が棲んでいたのではない、棲んでいた
人間が鬼になったのだと。そしていまこの瞬間もまた、
あの暗褐色の濡れた肌へに息づき、くろい潮のおもてに
隠見しているに違いない名知らぬ藻(も)の、この世なら
ぬ碧(みど)りの切なさを見つめていると、真実、いつか
鬼以外の何ものでもなくなっている己(おの)が心に冷た
く思い当るのであった。
流 星
高等学校の学生のころ、日本海の砂丘の上で、ひとりマ
ントに身を包み、仰向(あおむ)けに横たわって、星の流
れるのを見たことがある。十一月の凍った星座から、一
条の青光をひらめかし忽焉(こつえん)とかき消えたその
星の孤独な所行ほど、強く私の青春の魂をゆり動かした
ものはなかった。私はいつまでも砂丘の上に横たわって
いた。自分こそ、やがて落ちてくるその星を己が額に受
けとめる、地上におけるただ一人の人間であることを、
私はいささかも疑わなかった。
それから今日までに十数年の歳月がたった。今宵、この
国の多恨なる青春の亡骸(なきがら)――鉄屑(てつくず)
と瓦礫(がれき)の荒涼たる都会の風景の上に、長く尾を
ひいて疾走する一個の星を見た。眼をとじ煉瓦を枕にし
ている私の額には、もはや何ものも落ちてこようとは思
われなかった。その一瞬の小さい祭典の無縁さ。戦乱荒
亡の中に喪失した己が青春に似て、その星の行方は知る
べくもない。ただ、いつまでも私の瞼(まぶた)から消え
ないものは、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する
星というものの終焉のおどろくべき清潔さだけであった。
半 生
亡き将棋の坂田八段は、どうにも出来ぬ一角につい打っ
てしまった己(おの)が不運な"銀"を見て言った。「ああ、
銀が泣いてる!」と。
生涯をひたすら燐光(りんこう)のごとき戦意もてつらぬ
き、不逞傲岸(ふていごうがん)の反逆の棋風の中に、常
に孤独の灯をかざしつづけたこの天才棋士の小さいエピ
ソードを、これも今は亡き織田作之助の短い文章で読ん
だ時、私は絶えて覚えたことのない烈しい不安を感じて、
つと暗い夜のひらく北の窓に立った。
今にして思えば、この瞬間、私は過去半生から復讐の鋭
い銛(もり)を身内深く打ちこまれたのであった。びょう
ぼう磧(かわら)のごとき過ぎし歳月、そのおちこちに散
乱する私の愚かな所行の数々が、その時ほど鮮やかに私
の悔恨を拒否し、過失たることを否定し、私に冷たく背
(そ)びらを向けて見えたことはなかった。私は己が人生
が打ち出した不幸な"銀"たちの慟哭(どうこく)を、遠く
に郊外電車の青いスパークを沈めた二月の夜の底に、一
種痛烈な自虐の思いの中で聞いていたのだ。
比良(ひら)のシャクナゲ
むかし「写真画報」という雑誌で"比良のシャクナゲ"の
写真をみたことがある。そこははるか眼下に鏡のような
湖面の一部が望まれる比良山系の頂きで、あの香り高く
白い高山植物の群落が、その急峻(きゅうしゅん)な斜面
を美しくおおっていた。
その写真を見た時、私はいつか自分が、人の世の生活の
疲労と悲しみをリュックいっぱいに詰め、まなかいに立
つ比良の稜線(りょうせん)を仰ぎながら、湖畔の小さい
軽便鉄道にゆられ、この美しい山巓(さんてん)の一角に
辿(たど)りつく日があるであろうことを、ひそかに心に
期して疑わなかった。絶望と孤独の日、必ずや自分はこ
の山に登るであろうと――。
それからおそらく十年になるだろうが、私はいまだに比
良のシャクナゲを知らない。忘れていたわけではない。
年々歳々、その高い峰の白い花を瞼(まぶた)に描く機会
は私に多くなっている。ただあの比良の峰の頂き、香り
高い花の群落のもとで、星に顔を向けて眠る己が睡りを
想うと、その時の自分の姿の持つ、幸とか不幸とかに無
縁な、ひたすらなる悲しみのようなものに触れると、な
ぜか、下界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なお猥
雑(わいざつ)なくだらぬものに思えてくるのであった。
高 原
深夜二時、空襲警報下の大阪のある新聞社の地下編輯室
で、やがて五分後には正確に市の上空を覆いつくすであ
ろうB29の、重厚な機械音の出現を待つ退屈極まる怠惰
な時間の一刻、私はつい二、三日前、妻と子供たちを疎
開させてきたばかりの、中国山脈の尾根にある小さい山
村を思い浮かべていた。そこは山奥というより、天に近
いといった感じの部落で、そこでは風が常に北西から吹
き、名知らぬ青い花をつけた雑草がやたらに多かった。
いかなる時代が来ようと、その高原の一角には、年々歳
歳、静かな白い夏雲は浮かび、雪深い冬の夜々は音もな
くめくられてゆくことであろう。こう思って、ふと、私
はむなしい淋しさに突き落された。安堵でもなかった。
孤独感でもなかった。それは、あの、雌を山の穴に匿し
てきた生き物の、暗紫色の瞳の底にただよう、いのちの
悲しみとでもいったものに似ていた。
輸送船
初冬の海峡におそい月が出た。刃のような三角波がくろ
い海面を埋め、くらげの息をひそめた眼が、時折、波間
から月をうかがっていた。その中を燈火管制した輸送船
は動くともなく動いて行った。満載した兵隊の一人をも
零(こぼ)すまいとするかのように――。
いったい、いつ、どこへ上陸するのか――誰一人知って
いる者はなかった。内地の最後の灯だというどこかの燈
台を、右舷(うげん)はるかに見送ってしまうと、兵隊た
ちは申し合せたように船底に降りて、愕(おどろ)くほど
深い睡りに落ちた。潮流のそこここに無数の花が開き、
祝祭にも似た異様な明るさが、この不思議な船に立てこ
め始めたのは、確かにその頃からだった
野 分(一)
漂泊の果てについに行きついた秋の落莫たるこころが、
どうして冬のきびしい静けさに移りゆけるであろう。秋
と冬の間の、どうにも出来ぬ谷の底から吹き上げてくる、
いわば季節の慟哭(どうこく)とでも名付くべき風があっ
た。
それは日に何回となく、ここ中国山脈の尾根一帯の村々
を二つに割り、満目(まんもく)のくま笹をゆるがせ、美
作(みまさか)より伯耆(ほうき)へと吹き渡って行った。
風道にひそむ猪(いのしし)の群れ群れが、牙(きば)をた
め地にひれ伏して耐えるのは、石をもそうけ立たせるそ
の風の非常の凄(すさま)じさではなく、それが遠のいて
行った後の、うつろな十一月の陽の白い輝きであった。
野 分(二)
丈高い草、いっせいに靡(なび)き伏し、石らことごとく
そうけ、遠い山腹のあか土の崖(がけ)は、昼の月をかざ
してふしぎに傾いて見えた。
ああ、いまもまた、私から遠く去り、いちじんの疾風(は
やて)とともに、みはるかす野面の涯に駈けぬけて行った
ものよ。私はその面影と跫音(あしおと)を、むなしく、
いつまでも追い求めていた。ついに、再び相会うなき悲
しみと、別離の言葉さえ交さなかった悔恨に、冷たく、
背を打たせ、おもてを打たせ。
石 庭
――亡き高安敬義君に――
むかし、白い砂の上に十四個の石を運び、きびしい布石
を考えた人間があった。老人か若い庭師か、その人の生
活も人となりも知らない。
だが、草を、樹を、苔(こけ)を否定し、冷たい石のおも
てばかり見つめて立った、ああその落莫たる精神。ここ
龍安寺の庭を美しいとは、そも誰がいい始めたのであろ
う。ひとはいつもここに来て、ただ自己の苦悩の余りに
も小さきを思わされ、慰められ、暖められ、そして美し
いと錯覚して帰るだけだ。
友
どうしてこんな解りきったことが
いままで思いつかなかったろう。
敗戦の祖国へ
君にはほかにどんな帰り方もなかったのだ。
――海峡の底を歩いて帰る以外。
聖降誕祭前夜
去年のように、又一昨年のように、今年も亦(また)選ば
れたる今宵、私たち三人は街角で落ち合った。誰もが互
いに何処からやって来たか知らなかった。そして何処へ
去るかも知らなかった。只知っているのは三人が曾て一
つ家に起き伏した遠い過去だけであった。女は私から背
き去った幾年か前の妻であった。又、少年は怯(おび)え
た瞳(ひとみ)を光らせて家庭から感化院へ、そして感化
院から何処ともなく姿を消した私と彼女との、今は只一
つ残された過ぎ去りし明暮の記念(かたみ)であった。
星の見える空のどこからか雪がおち、その雪の一片一片
を、彼女は白い絹手袋の上に受けながら、彼女の犯した
数々の情事の登録番号とその明細書をば、私の曾て愛し
た黒い瞳を伏せながら静かに読み上げていた。そしてそ
の合間合間に少年は私たちの顔色を窺(うかが)いながら、
脱走と窃盗への憧憬を、夢みるようにませた口調で訴え
ているのであった。街は静かな祝祭だった。私は淡く雪
を敷いた舗道の上に立ちつくしたまま、何回か腕時計に
眼を当てていた。刻(とき)は近づきつつあった。彼ら二
人に背を向けて歩き出す聖なる刻が。
さくら散る
――四月の夜の抒情――
薄暮の坂街は後から後から続く興奮した人波で埋まって
いた。私も亦(また)、今宵、何者かに殺害された若く美
しい人妻の屍体(したい)を、此の町の人々に慣って、犇
(ひしめ)き合う群衆の間から垣間(かいま)見ようとする
一人であった。人々はその女の死によって数多き醜聞(ス
キャンダル)の後を断つ喜びを口々に語りながらも、なぜ
か、この東北の小都会、只一人の乗馬服の、その女人の
屍(しかばね)を見ずには居られなかった。
小高い丘の上に夜露を浴びて、星と対(む)かい合ってい
る塑像の如き白い屍体。三十分前に途中下車でこの町に
降り立った旅行者の私には一切が無関係であった。その
雪白の皮膚(はだへ)から瞳(ひとみ)を夜空に移そうとし
た時、燐光(りんこう)の如く私の瞳を凍らせたものがあ
った。右腕の付根に私を窺(うかが)って息づいている蝶
型の刺青(いれずみ)、それは紛うかたなき私自身のイニ
シアルであった。冷たい夜気と群衆の瞳に曝(さら)され
ている血の気を失った唇を凝視しながら、私は喪われた
遠い日の記憶を立ち返らせることにいつか夢中になって
いた。今は顔容(かおかたち)すら記憶にないその少女の
唇によって、私は初めて、人間の営みの味気なさと、情
欲の退屈さを知ったのであった。
私は煙草に火をつけ、群衆に逆らって坂街を降りて行っ
た。近くに海があるのであろうか。潮をふくんだ風が私
の頬を洗っては、上気した犇き合う人波の上を吹いてい
た。
夜 霧
今やこの世において、私は只一人であった。今宵ビルデ
ィングの壁面と衝突してばらばらに解体したバスの中で、
妹は一冊のリーダーを冷たい舗道に投げ出したまま昇天
した。侏儒(しゅじゅ)とのみ談合し、昼を起きて夜をほ
っつき歩く私の悲しい性癖、それを憂えて、妹は私を諌
(いさ)めるべく、今宵も亦(また)、毎夜のならわしの如
く、私を追って家を出たのであろう。
私は青い信号燈の下で、彼女が残した一冊のリーダーの
頁を不思議としらじらとした気持でめくりながら、不図
はしなくも、そこに幾頁かの落丁を見出(みいだ)したの
であった。そしてそれを凝視しながら、私はいつか私自
身の過去幾年かの落丁を、藍青の花々の如く思い浮かべ
ていたのであった。妹の死に私は罪を負うべきであろう
か。彼女が夜毎私を追うて、幾つもの陸橋の上をさすら
った如く、私は今や、彼女に彼女のリーダーの落丁を報
せるべく、幾つもの街角を摸索しなければならなかった。
夜はとこしなえに続くであろう。私が妹に追いつくまで。
落 魄
しっぽに旗を立てて故里(ふるさと)に帰った。
故里は白い砂塵(さじん)の中に昏(く)れかけていた。
二 月
父と私を棄てた母、その母が今宵、背戸のくぬぎ林の中
に一人俯向いて立っている。曾て犯せし過誤(あやまち)
の如く、母の面(おもて)は今も尚、若く美しいに違いな
い。
私は時折そっと暗い窓外を見遣(みや)りながら、父に聞
かせるために、さむざむと書物の頁をめくるのであった。
父はもう長いこと病床に横たわって、毎夜の如く、私の
読む書物に耳を傾けながら、いつか眠りにおちる習慣だ
った。
深夜、私は父の寝息をうかがって、そっと窓から忍び出
た。渓合(たにあい)の道を降りて行くと、くぬぎ林のあ
ちこちに、梅の花が白々と開いていた。併(しか)し母の
姿はどこにも見えず、只刺客の息をひそめた幾つもの眼
が、冷たい夜気の底からじっと私を窺(うかが)っている
のであった。
破 倫
夜ごと熊笹の藪を踏みしだいて帰った。樹々の茂みを梳
(す)いて沼はいつもそのふてぶてとした面(おもて)を遠
く行手に曝(さら)していた。時折、蝙蝠(こうもり)が肩
を掠(かす)め足を浚(さら)って行った。
――気が付くといつも老樹の湿った樹肌に頬を押しあて
ていた。かっと眼を見開き息を凝らして、切ない憩を憩
うていた。俺の母は火焙(ひあぶ)りになったのだ。舌を
出して再び肩をそびやかして立ち上がると、きまって暗
い沼の面には、月が血を滾(たぎ)らして漾(ただよ)って
いるのであった。
梅ひらく
北海道で不幸な姉は凍死したと言う。その報せが今宵私
の所へやって来た。私はドスをのんで灯のついた坂街を
降りた。街衢(がいく)は森閑として人影なく、どこか遠
くから微(かす)かに饗宴(きょうえん)のさざめきが花の
如く匂っていた。復讐(ふくしゅう)すべき仇敵は誰であ
ろうか。私は冷たい地べたに坐って星空を窺(うかが)っ
た。私は十六の少年であった。
裸梢園
梢(こずえ)と梢とは、刃の如く噛み合って、底知れない
谷を拡げていた。そこはいつも冷たい爽昧時(あけがた)
であった。そこには、鴉(からす)の骨があちこちに散ら
ばって、時折、その上を氷雨がぱらぱらと過ぎて行った。
耳をすますと、いつも、乱れた幾多の跫音(あしおと)が
遠のいて行った。破れ傷ついた二月の隊列が、あてどな
く落ちて行くのだ。
十月の詩
はるか南の珊瑚礁(さんごしょう)の中で、今年二十何番
目かの颱風(たいふう)の子供たちが孵化(ふか)していま
す。
やがて彼等は、石灰質の砲身から北に向って発射される
でしょう。
そのころ、日本列島はおおむね月明です。刻一刻秋は深
まり、どこかで、謙譲という文字を少年が書いています。
六 月
海の青が薄くなると、それだけ、空の青が濃くなってゆ
く。
街に青のスーツが目立ってくる。それに従って、山野の
青が消えてゆくのだ。
六月――、移動する青の一族。その隊列を横切るために、
私は旅に出なければならぬ。
夏の終り
颱風(たいふう)がどこかで潰(つぶ)れたのだろう、風船
のように。とにかく、ひどく冷や冷やしたものが、半島
を南から北へと流れて来た。
そのためかどうか、三組の渡り鳥が山の稜線を掠(かす)
め、雲という雲がごく僅かずつ動き始めた。やがて、あ
たりが暗くなると、今年始めての清澄な月が顔を出し、
何億という虫がいっせいに騒ぎ立てた。
その夜、天城の山中で、私のまだ会ったことのない年下
の従弟は、神代杉(じんだいすぎ)の穴の中におちて死ん
だ。詳しくは九時四十分から十時の間。不慮の事件には
違いなかったが、どこかに正確なものがあった。
その日そんな時刻
その日の、山の湖の青さも、静けさも、今から私には、
はっきりと眼に見えるようだ。残照は、西の空からいつ
までも消えず、私が籐椅子(とういす)から身動きしない
限り、薄暮は、いつまでも、より濃くも、より淡くもな
らぬだろう。風は吹いているだろう。山肌から天に向う
高原特有の風が。その日は、夏の終わりか、若(も)しか
すると、秋の首(はじ)めかも知れない。
その日、そんな時刻、一人の男の子と一人の女の子は、
私のもとからと翔(と)び去って行く。父が富豪でなかっ
たことに呆(あき)れ、常に不運と共にあったことを蔑み、
徒(いたず)らにその容貌と性格が己れたちに似通う愚か
さを審判し、美しい光の如く、遠く翔び去って再び帰っ
て来ない。夜が刃を研いで私に忍び寄って来るのは、そ
れから間もなくだ。曾(かつ)て、私が私自身の父に残し
たような、あの、あらゆるものが透明に見えて来る、夜
の時間が。
ある旅立ち
花束が投げこまれたように、夕闇のたてこめた車内は急
に明るくなった。紀伊の南端の小さい漁村の駅から、三
人の姉弟が乗りこんできた。姉は二十ぐらい、妹は十五、
六、末の弟は中学一年生か。三人は七個の荷物をリレー
式に手渡して、網棚に載せ終ると、走り出した汽車の窓
を開け、三つの顔をつき出して、母ちゃん、母ちゃん、
と声を上げて手を振った。富裕そうな白壁の家を背後に
抱いた堤の上に、母であろう、夕闇の中に白い人影が立
って、手を挙げて、それに応えていた。
やがて三人は窓を閉め、席に坐ると、顔を見合せて、く
っくっと笑い、さて、姉は屈託なさそうに岩波文庫を取
り出し、妹はただ憂い深い美しい面を伏せ、弟は林檎(り
んご)を出してズボンでこすった。
二十年後、この花のような姉弟たちはどんな日を迎えて
いるだろうか。突如、私は不吉な予感に怯(おび)えた。
そして、真実、私は祈った。曾(かつ)て肉親にも捧げた
ことのない敬虔さで、この明るい姉弟たちの倖(しあわ)
せを祈った。今宵、この一束の花たちにとって、もはや
不幸に向う以外、いかなる旅立ちも考えられなかったか
らだ。
元旦に
門松をたてることも、雑煮をたべることも、賀状を出す
ことも、実は、本当を言えば、なにを意味しているかよ
くは判らない。しかし、これだけは判っている、人間の
一生が少々長すぎるので、神さまが、それを、三百六十
五日ずつに区切ったのだ。そして、その区切り、区切り
の階段で、人間がひと休みするということだ。
私は神さまが作ったその階段を、ずいぶんたくさん上が
って来た。今年はその五十段目だ。昭和三十二年の明る
い陽の光を浴びて、私はいまひと休みしている。はるか
下の方の段で、私の四人の子供たちも、それぞれ新しい
着物を着て、いまひと休みしている。
『北国』あとがき
私は中学時代から詩を読んだり、詩を書いたりして来ているが、自分の作った詩というものは全部で知れた数である。現在ノートに収められているものは、片
々たるものを入れても五十篇程で、昭和五、六年頃から約二十年間に書いたものである。勿論それ以前に書いた作品も何篇かあった筈だが、ノートには収めてな
い。自分で破り棄てたくらいだから、詩として形をなしていないものだったに違いない。
私が小説を書き出した直後昭和二十五年の夏、詩人緒方昇氏から詩誌「日本未来派」へ今まで書いた作品をかためて発表してみないかという話があったので、
私は手許(てもと)にある五十篇程の作品の中から三十四篇を選んで緒方氏に渡した。それが「日本未来派」三十七号に「井上靖詩抄」として掲載された。三段
組にして十頁程の分量があった。
私はその時ひどくさっぱりした気持になった。これで一応過去の詩の仕事にピリオドが打てた気持だった。そして私は、中学時代に、藤井寿雄君という詩を書
く友人がいたお蔭で、到頭四十過ぎまで、この十頁程の詩のために苦労したなと思った。多少の感慨があった。
中学の二年の時だったと思う。
カチリ
石英の音
秋
私はその友達からそんな短い三行の詩を見せられ、ひどく感心した。この詩を見たことが、私の詩との結びつきであった。これを見たお蔭で、私は詩に取り憑
(つ)かれ、小説を書き出すまで、約二十年間、五十篇の詩のために苦労する仕儀となってしまったのである。現在でも、秋になって澄み渡った青い空を見る
と、石英のぶつかる音がしているという、この短い詩を思い出す。藤井寿雄君は現在沼津の紙問屋の主人であるが、この詩を覚えているかどうか。
それから、もう一度「婦人画報」へ「井上靖詩ノート」と題して二十篇ほどの作品を掲載したことがある。その話があった時、私は自分の詩の何篇かがもう一
度活字になる運命を持ったことに驚いた。そしてそれと同時に、多勢の読者を持つ雑誌に掲載されるなんらかの意味を自分の作品が持つかどうか、考えてちょっ
と躊躇(ちゅうちょ)せざるを得なかった。詩人の多くがそうであるように、私もまた自分自身と、少数の自分を理解してくれるかも知れない人のためにだけ書
いて来たのである。
私は自分の作品がいいものか悪いものか知らない。自分流の書き方で書いたものである。現代詩のきびしい資格審査を受けると、何篇かは詩としてパスし、何
篇かは詩としては通用しないものかも知れない。
併(しか)し、どの作品も、どこかに詩と関聯を持っている文章だということは言える。これらのそれぞれ独立して一つの題名を持っている短い文章は、いろ
いろな関係の仕方で詩と関聯を持っているものであることには間違いはない。
私はこんど改めてノートを読み返してみて、自分の作品が詩というより、詩を逃げないように閉じ込めてある小さい箱のような気がした。これらの文章を書か
なかったら、とうにこれらの詩は、私の手許から飛び去って行方も知らなくなっていたに違いない。併し、こうしたものを書いておいたお蔭で、一篇ずつ読んで
行くと、曾(かつ)て私を訪れた詩の一つ一つが――ふと私の心にひらめいた影のようなものや、私が自分で外界の事象の中に発見した小さな秘密の意味が、ど
こへも逃げ出さないで、言葉の漆喰塗(しっくいぬ)りの箱の中の隅の方に、昔のままで閉じ込められてあるのを感じた。
そういう意味では、私にとっては、これらの文章は、詩というより、非常に便利調法な詩の保存器であり、多少面倒臭い操作を施した詩の覚え書きである。覚
え書きなら、二、三行に書きつけておいてもいいわけだが、私はその何倍かの言葉を使って、詩の覚え書きを、比較的堅固頑丈なものにしたわけであった。
従って、私の詩のノートに収められてある短い文章は、何らかの呪術(じゅじゅつ)をかければ、それぞれそこから一つの詩が生れるといった態(てい)のも
のである。
詩とは、厳しく言えば、恐らくその呪術であろう。呪術そのものに違いない。そして私はついにその呪術を発見できなかった詩人ということになるのであろ
う。
私は小説を書き出してから、自分の詩のノートに収めてある作品から、何篇かの小説を書いている。詩としての優れた生命を持ち得なかった文章の幾つかは、
私の小説の発想の母体となっている。それからまた全く形を変えて、それらが小説のある部分に使われているものもある。こうなってくると、私の持っている
ノートは、「詩のノート」ではなくて、「ある小説家のノート」とでも言った方がいいものかも知れない。
*
私の詩のノートの中の短い文章から、若(も)し読者が何ものかを受け取って下さるなら、それはやはり詩であるに違いないと思う。なぜなら、そこに仕舞わ
れてあるものは、前述したように、私が曾て捉(とら)えた詩であるからである。その意味ではこれは正しく私の詩である。
併し、厳しく言って、現在新しい詩人たちが取りかかっている作業は、これから先の部分であるし、またそうでなければならないと思う。それは読者が私の短
い文章から受け取ったもの、そのものをもう一度言葉に依って構築しようという仕事である。私は長年かかったが、その構築法が判らなかった余り腕のよくない
建築師ということになりそうである。そこでは、詩語と日常語は厳しく分けられなければならないし、文章法も全く違ったものが採用されなければならない。言
葉の持っている音楽性というものも重要なものになってくるが、日本語の場合はこれがまた厄介なことになって来る。
現在、沢山の詩の同人雑誌が出版され、多勢の若い詩人たちが詩を書いている。こうした詩に対して、一般に語られるのをきくと、必ず判らないということが
決まり文句のように言われる。実際に判らないだろうと思うし、判らなくて当然だと思う。私自身、長年詩を読んだり書いたりしている者にも、判らない詩が多
く、判る詩の方がずっと少い。併し、みんな、それぞれの方式で、自分の詩的な想念を言葉の建築で打ち出そうとしているのである。ただ、天才の力か、あるい
は偶然の力を俟(ま)つ以外に、それが容易にできないであろうというだけのことである。詩を書くということは天才の仕事であると言われるが、確かにこの精
神の奥底に設けられる秘密工場の作業は、特殊な才能の仕事であるに違いない。
既に何冊かの高名な詩集を持っている詩人たちの仕事にしても、いい作品というものは極めて少いのではないか。一生のうちに何篇かの立派な詩が書けたら、
その人は立派な詩人であるに違いない。
私は自分の周囲に何人かの尊敬している詩人を持っているが、尊敬しているのは、彼等が作った何篇かの、自分も理解できた秀(すぐ)れた少数の作品のため
である。自分に理解できない、また自分に無縁な作品というものは、そうした尊敬している詩人の詩集の中にも沢山ある。
私も小説を書かないで、若し詩と取り組んでいたら、一生の間に何篇かの詩が書けたかも知れない。併し、書けなかったかも知れない。詩とはそうしたもので
あろう。
詩の座談会に行って殆ど例外なく感ずることは、出席者の数だけの全く異った言葉が、お互いに無関係に飛び交うていることである。自分の言葉も他人に依っ
て理解されないし、他人の言葉も自分にはそのまま理解できない。お互いの言葉はそれぞれ相手には受け留められないで、各自のところへ戻って行く。
併し、これは語る者の罪ではなく、詩というものが各人にとってそれほど特殊なものであるからであろう。お互いに、お互いが持っている秘密工場の作業は結
局は覗(のぞ)くことはできないのである。若しそこから強烈な爆弾が作られた時、初めて人々は一様に、その威力に驚嘆することで一致するだけである。私は
詩とはそのようなものだと考えている。
(昭和三十三年二月)
* 拾遺詩篇より
そんな少年よ
―元日に―
これといって遊ぶものはなかった。私たちはただ村の辻
に屯(たむ)ろして、棒杭のように寒風に鳴っていたのだ。
それでも楽しかった。正月だから何か素晴らしいものが
やって来るに違いないと信じていた。ひたすら信じ続け
ていた。私は七歳だった。あの頃の私のように、寒さに
身を縮め、何ものかを期待する心を寒風に曝している少
年はいまもいるだろうか。いるに違いない。そんな少年
よ、おめでとう。
俺には正月はないのだと自分に言いきかせていた。入学
試験に合格するまでは、自分のところだけには正月はや
って来ないのだ。そして一人だけ部屋にこもって代数の
方程式を解いていた。私は十三歳だった。あの頃の私の
ように、ひとり正月に背を向けて、くろずんだ潮の中で
机に向っている少年はいまもいるだろうか。いるに違い
ない。そんな少年よ、おめでとう。
私は何回もポストを覗きに行った。私宛ての賀状は三枚
だけだった。三枚とは少なすぎると思った。自分のこと
を思い出してくれた人はこの世に三人しかなかったので
あろうか。正月の日の明るい陽光の中で、私は妙に怠惰
であり、空虚であった。私は十五歳だった。あの日の私
のように、人生の最初の一歩を踏み出そうとして、小さ
な不安にたじろいでいる少年はいまもいるだろうか。い
るに違いない。そんな少年よ、おめでとう。
私は初日の出を日本海に沿って走っている汽車の中で拝
んだ。前夜一睡もできなかった寝不足の私の目に、荒磯
が、そこに砕ける白い波が、その向うの早朝の暗い海面
が冷たくしみ入っていた。私は父や母や妹のことを考え
ていた。ひと晩中考えた。なぜあんなに考えたのだろう。
私は十九歳だった。あの朝の私のように、家へ帰る汽車
の中で、元日の日本海の海面を見入っている少年はいま
もいるだろうか。いるに違いない。そんな少年よ、おめ
でとう。
愛する人に
洪水のように、
大きく、烈しく、
生きなくてもいい。
清水のように、あの岩蔭の、
人目につかぬ滴(したた)りのように、
清らかに、ひそやかに、自ら耀(かがや)いて、
生きて貰いたい。
さくらの花のように、
万朶(ばんだ)を飾らなくてもいい。
梅のように、
あの白い五枚の花弁のように、
香ぐわしく、きびしく、
まなこ見張り、
寒夜、なおひらくがいい。
壮大な天の曲、神の声は、
よし聞けなくとも、
風の音に、
あの木々をゆるがせ、
野をわたり、
村を二つに割るものの音に、
耳を傾けよ。
愛する人よ、
夢みなくてもいい。
去年のように、
また来年そうであるように、
この新しき春の陽の中に、
醒(さ)めてあれ。
白き石のおもてのように醒めてあれ。