「e-文藝館=湖 (umi)」 随感随想 投稿

ふるかわ じゅんこ 1977(昭和五十二年) 山梨県に生まれる。 公立高校教員。大学での専攻は日本現代文学。美術史学、博物館学などにも興味を持ち、学藝員の 資格を取得。 掲載作 は、エトセトラ「美」の体験を軽妙な筆致で実感豊かに自身の言葉で書き綴り、それはそれ、文藝の妙を成しつつある。概念的にものを観ず、知識の綴り方に陥 らず、手短かではあるが具体的な把握と表現が読み取れ、面白い。「mixi」で出会った一才能と思われ、連載を考えた。 (秦 恒平)




   繪とせとら漫遊  連載    古川 順子



 
 東京国立博物館  対決!巨匠たち の日本美術 

 2008.8.2

 昨日、お休みを取って行ってきました。
 おかげさまというのか、あれまあ! 10万人突破、らしいですね。

 ところでこの展覧会は企画がまず面白いです。
 「対決!」って、従来は私たちが勝手にそれぞれの頭の中で思い描くことはあっても 、展覧会としてはありそうでなかった。実際にやってみた、というのが面白い。
 で、当然のことながらずいぶん「浅く、広く」の展覧会になったけれども、 そのことがかえって、個人の鑑賞の域を趣味・嗜好の分野に限定せず、むしろ押し広げたとも思えるから、とてもよい展覧会だったのではないかしら。

 今まで、円空仏を「見てみたい、見てみたい」と思いながら、見たことがなかった。

 で。
 何が一番印象的だったかというと、若冲でも、蘆雪でもなくて、長次郎と光悦の茶碗なのであった。ははは。

 とはいえ、蘆雪の大虎には掛値なく圧倒されたし、心惹かれた。すごいなぁと思う。師の応挙先生をを凌ぐスケールだと思う。
 近くで見ていると何がなんだかわからないのに、遠くから見るとしっかりと虎の斑の模様になっている線。ひげの硬質な質感。

 鉄斎の富士にも、とても言葉にできない力強さを感じる。
 画面からだけでなく、描いた人の内面からほとばしる力強さと感じられて、心をわしづかみにされた。

 雪舟の「慧可断臂図」は、線の妙だ。
 幾種もの線をたくみに描き分けて、絵の奥行きと人物の存在感を出す。その画力に、引き込まれてしまう。

 で。
 長次郎の赤楽。
 「無一物」もいいけれど、「道成寺」の端正なフォルムの美しさ。手におさめたときの、ほっこりとした感覚が伝わるようでため息すらが出る。最初、私は 「チューリップのようなふくらみだ」と、その茶碗を見て思った のだけど、「道成寺」という名が、いいなあ。あの赤楽に抹茶の深い緑が泡立ったとき、道成寺の物語を思う。ひぇぇぇぇぇ〜!! 想像しただけでおもしろす ぎる!

 それから光悦の「時雨」、「七里」。
 「時雨」のざっくりとした、切りっぱなしのような口あたり。長次郎に比べると全然整ってはいないように見えて、しかしやたら藝術的で美しくて、目で見て うっとりとさせるお茶碗だ。
 「七里」の夢のような白い斑が、まるで天の川のようでございます。う、うつくしい…!! ほしいなぁ。いいなぁ。。。。

 琳派のものはいろいろと楽しく見た。
 また秋に琳派展をするようですね。

 夏休みの期間だからか、けっこう込んでいた。 人ごみを歩くと疲れます。かなり疲れました。この日、三井記念美術館にも行こうかな、なんて思っていたけれど (金曜は8時までやっているのだ。週末ってすばらしい)疲れたのでやめた。

 でも、美術館は楽しい。
 具合が悪くなっても楽しい。
 またどこかへ行きたいな〜。


 三井記念美術館 茶人のまなざし 森川如春庵の世 界 

 2008.10.13

 どうしても行こう、と思っていた展覧会が三井記念美術館であったので、東京国立博物館の琳派展とセットにして行ってきた。
 三井の美術展は題して「茶人のまなざし 森川如春庵の世界」。名古屋市博物館で春にやっていたものの巡回展として東京へきたもので。
 森川如春といえば、十代のうちに光悦の茶碗「乙御前(おとごぜ)」と「時雨」を所有していたことで有名な茶人サンで、原三渓とか益田鈍翁らとの関わりで も知られる。
 私は20歳の時に、京都旅行で出会った乙御前の「写し」に惚れていまい、購入もしたものの、以来、いつか本物を見たいなあと漠然と思ってきたのでありま した。
 今までにチャンスがなかったかと言われればそんなこともなかっただろうけれど、なぜか、今回の展覧会では「乙御前」が出る!と言うのに強い磁力を感じ、 行ってきたというわけで。

 で、乙御前見たさに展覧会に行ってきたのだったが、もうもう!! 実によいものがたいへん出展されていて、大興奮の展覧会でありました。
 お茶碗では念願かなって見た乙御前、琥珀や瑪瑙のような深みを持つ朱色で、つやつやと美しい。
 所持しています写しは、かなり大ぶりで厚みのある茶碗なのだが、本物は薄い。小ぶり。
 きめの細かい赤肌の、なんと、色っぽい。
 よく志野の肌を女性の肌に比することがあるが、赤楽のあの年月を経た美しさはまた全然ちがった色艶である。高台のつぶれているところから優雅に立ちの ぼってくる線の、なんとも見事な女性的丸み。「時雨」の持つ男性的なシャープさとは対照的である。
 のぞきこんだ茶碗のうちに、吸い込まれる赤みの傾れがあって、どこまでも完璧にうつくしい茶碗でした。ウットリ。
 時雨も相変わらず切りっぱなしのような口のあたり。潔い線。
 あと、ととや茶碗「小倉山」というのが出ていて、これがまた、もう、涎が出るほど、すッごいようなお茶碗で。白緑というのか、うす〜い上品な色目にぽつ ぽつとまあるい斑があり、そのぽつぽつとしたけしきを、紅葉に見立てたらしい。これと、「乙御前」だけでも、もう一回見たいほどすばらしくて、これは朝鮮 のお茶碗でした。
 志野もかなりの数が出ていた。
 昔は志野のぽってりとした肌が好きで、ほっこりと赤みを持つ白い肌がなんとも色っぽいなぁなどと思っていた。今は少しつくりが大きいなあと感じる。あの 肌合いを堪能できるのには、若干大きめの作でないと…かもしれない。
 卯花墻、亀のをの山、大海老。
 あれは女性の肌というより、大地そのものだったなあと感じる。
 黄瀬戸もよかった。
 青磁や白磁の冷たく完璧な美しさも好きだが、一方であたたかい土の匂いのする器に心惹かれる。作り手の「手」が感じられるあたたかさが佳い。

 お茶碗だけでなく、お軸などもなかなか見られないものばかりで、やっぱり違うなあ。集まるところに集まるのだな。
 藤原佐理はあるわ、西行はあるわ、石山切はあるわ、やめてよ! イエうそうそ。すばらしいのです。

 あと特筆すべきは伝羽田五郎の黒漆の小棗「五郎棗」で、これがやはり、もう心から、マッタク! 美しい。そもそもが漆って美しいんだけれど、この小棗は かたちもよいし、これももう一度見たいものの一つ。




 山梨県立美術館  美しきアジアの 玉手箱 

   2010.1.10

  昨夏、サントリー美術館で開催していたので、観に行こうと思っていた展覧会。調べてみて、この展覧会、巡回展であると。現在は山梨県立美術館で開催中でし た。
 シアトル美術館の東洋コレクション、約100点を展示。東洋のコレクションとは云っても、今回展示されている半分は日本美術で。

 眼目は宗達と光悦による「鹿下絵図和歌巻」と、作者不詳の「鳥図」屏風。特に後者はすばらしい。圧巻。
 普通、烏(カラス)の群れなんて描きたいとか、見たいとか思わないだろう。それを金箔の背景と、真っ黒な烏の 一見無秩序な群れの姿とを、絢爛の色彩対照で見せている。しかもよくよく見れば、烏の目にきちんと目玉が描き入れられている。
 大胆かつ細部をもらさず。うつくしい屏風である。
 かつて巨匠たちの対決展(2008年8月)で宗達の「蔦の細道図」屏風を見たとき、あまりのモダンデザインに唸ってしまったことがあったけれど、今回の 「烏図」もまた、空間遣いの新鮮さに脱帽です。

 「鹿下絵図和歌巻」は「鶴下絵和歌巻」などと同じ趣向。私はこの一部を、三井とか、どこかの美術館で見ているはずだが、今回は巻物全体のほぼ半分を見せ ている。シアトル美術館が持っている、その事実に驚く。
 ちなみに図録を買うと、巻物全体のどの部分がどの美術館に所蔵されているかがわかる。なかなかよい図録です。
 奔放に鹿の跳ねる様子や、鹿の群像が、宗達によってのびのびと描かれる。歌を添える光悦の筆の運びのうつくしさ。日本の仮名書きの流れるような美のセン ス、独特な優美さ。ウーン。納得。
 やはり「蔦の細道図」屏風で、濃淡のある文字の連ねが蔦の葉の喩として描かれていたのだけれど、ともすると仮名文字って、なにかしら佳い模様のようでも ある。

 ほかにも、すばらしいがたくさん。
 私が感動したのはやはり、焼き物。
 すみませんね、焼き物が好物です。

 志野の鉢と花入れ。
 小ぶりだがやわらかな肌のきめ細かさが垂涎ものの、鉢。すっと伸びやかに描かれた花の模様が景色になる。口辺が花びらのように削られており、そうした部 分が、少し変わっている。
 花いれはやや大きい。ずっしりとした重量感を備えながら、あたたかみのある乳白色の筒型。ため息が出る。
 織部の四方鉢。とても変だった。絵が。笑える。これぞ織部。

 中国、朝鮮の陶器も数点出ている。
 天目茶碗(中国)が、本当! ちょっとこわいくらい美しい。
 切り紙で龍の文様を出しているのだが、ざああっと雨を散らしたような水滴(釉)の作り出す背景の色が、色の重なりからくる深みが、目を捉えてはなさな い。
 朝鮮のあっさりとシンプルで、しかし掻き落しの大胆な陶器にも心ひかれる。

 他にも[石山切」とか、「駿牛図」とか、「蜻蛉・蝶図」とか、「山水図」とか、語るべきよい展示品がたくさんあります。

 「美しきアジアの玉手箱」今後の巡回予定はこちら↓
 2010年3月13日−5月9日 静岡・MOA美術館
 2010年5月23日−7月19日福岡市美術館



 出光美術館 麗しのうつわ展
 2010年03月28日

 美術館に行くのは全然苦にならないのです。
 仕事をするのはイヤなんだけど。

 とりあえず腹ごしらえをしてから、と思って、池の端 藪蕎麦へ行く。
 風情のある店構えに、さっぱりと気持ちのよい接客で、蕎麦好きが集まってくるお店らしかった。
 男性の一人客があちらにもこちらにも座っている。
 だいたいお酒を飲んでいるのだ。
 一品料理をいくつか頼んで、自分の好きなペースで杯を重ねる。
 おもむろに最後の〆として、ざる蕎麦を頼むのがツウらしい。
 ・・・でもね、私は普通に食べますよ。
 昔から自分の嗜好は若者らしくないと感じてきたけれど、そろそろ脱若者ができそうな年になってきたのが嬉しくもあり、悩ましくもあり。
 微妙なおとしごろなのである。
 蕎麦はおいしかった。

 出光美術館は学生時代からお世話になっている。
 出光だったか、サントリーだったか、かつて青い陶磁器を集めた展覧会をしたことがあった。
 あのとき出品されていた日本の江戸時代の酒器(お酒を入れて持ち歩くもの、コルク様のふたをする)の美しさが、10年(以上)経った今でも眼に焼きつい ている。
 トルコの焼き物などもあの時初めて眼にして、「ずいぶん美しいものなのだな……」とウットリしたのだった。

 今回は収蔵作品を「日本やきもの名品展」と題して、セレクト。
 あらためてこの館が保有するコレクションの質の高さに驚かされるわけです。

 乾山の和歌のお皿。
 定家の歌を十二ヶ月の季節になぞりつつ、モチーフを絵にしている。鳥がいつも描かれており、静止画のなかに小さな生命があることで、少し変化が生まれる ようだ。
 百人一首の和歌皿も。
 一首につき、2枚一組。全部で10客。
 特に小野小町の「花の色は・・・・」のお皿が印象的だった。ただ山と桜だけ、描かれている。
 それだけだけれど、じっとお皿を見ていると景が広がってゆくような感覚がある。おもしろいものです。
 兄である光琳とコラボレートした絵皿も、すてき。
 光琳の描いた竹の葉の、今、筆をおいたような鮮やかさ。まだ湿っているようにも見える艶やかな筆跡がうつくしい。
 重文「錆絵染付金銀白彩松波文蓋物」。
 何がすごいって、その解説のキャプションが。 笑
 「金銀に染付け、まばゆい白彩を重ね、打ち寄せる波、風にゆれる松林とともに、うつわのかたちに昇華させた松風の音や、その清清しい香り、砂浜の手触り を思わせて、五感に響く傑作である。」
 ポエムだな〜。詩人だな〜。
 こうした感性豊かなキャプションが随所にあって、読んでいるだけで面白かったです。
 残念ながら図録の解説はここまで詩的じゃないんだな。

 仁阿弥道八の「桐一葉形皿」。
 蒔絵の十種香道具。
 衝撃的な美しさ、造形美であります。
 この間、魯山人の展覧会を見てきましたが、彼はこういう旧くてうつくしいうつわをかなり模しているのだろうと思う。

 猿投窯からはじまって、瀬戸、美濃、唐津。
 やはり私は黄瀬戸のやわらかな肌合いが好き。
 美濃の志野。鼠志野のあたたかくも渋い味わい。
 ほっこりと造りっぱなしたようなぬくみの、丸みのまさる造作。
 唐津の厚み。
 みんなみんないい。

 肥前、鍋島、古久谷、柿右衛門。
 古久谷の、びっくりするほど濃い緑。くねくねと不可思議に繰り返されるパターンに、イラストのようなポップな動物の絵。かと思えば、余白の美しい、一幅 の絵のような絵皿もある。
 大胆で、けれど飽かずいつまでも眺めていたい色彩の遊びが印象的である。

 板谷波山の彩磁。
 うすい透明なヴェールで包んだような、手の届きそうで届かない、そんな味わいの釉の、けれど形はあくでも芸術的に美しいうつわものが数点。
 のどから手が出るほど「欲しい!!」と思うけれど、かなわぬことである。
 この方の天目茶碗も2点ほど出ていて、なんとまあ、うつくしいこと。
 ぽつぽつと出る斑の小さな上品さ。

 長次郎「黒面翁」。「僧正」。
 導入「酒呑童子」←銘がイイ!! 笑 「此花」。
 こういうものを見ていると、まあ、時代も違うけれど、光悦の茶碗がいかに藝術的か、ということがわかるようにも思うのです。形が全然違うのね。

 ほかに目玉の重文「色絵芥子文茶壷」。
 正月に見たシアトル美術館蔵の「竹に芥子図」(狩野重信)を思い出す。




  春 の旅 

 
 
その1    2010年04月03日12:13

  古い写真を整理していたら、去年の春の旅は3月22日であった。
 前日に旧友と10年ぶりくらいに会って、「変わっていないねえ」なんて話をして、その翌日、MOA美術館へ行ったのだった。見たかったのは「紅白梅図屏 風」で、しかしそれ以外にもたくさんの展示物に心動かされ、嬉しい旅だった。
 春の列車はなるべくゆっくり進むのがいい。更にその前の年は高尾山に行ったのではなかったか。列車の窓から、春めいてくる山並みや町の様子を眺めるの が、楽しい。

 今年は年度末に京都へ行ってきた。3月29日から3日間。
 職場の人々に何も言わずトンズラしたので、土曜から数えると5日間にもわたって行方をくらましていた私に、みなさま親切にも
 「どこかへ行ってきたの?」とたずねてくれる。
 けれど、年度末の忙しい時期に、黙って仕事を何もしなかった私は心苦しくて、
 「いや〜花粉症もすごかったし、なかなかどこへ行くにしても、むにゃむにゃ」みたいなことを言って誤魔化す。
 みな、変な顔をする。ごめんなさい。
 実際、薬を飲んでいなかった3日間だったので、花粉症で苦しくて、微熱もあったのは確かでは、ある。(しかも京都へ行くことを決めたのは前日の昼過ぎ で、たまたまじゃらんで1件だけ、検索にヒットした宿があったから。)
 毎年年末に行っていた京都では美術館が常に休館中なのが、これまで残念に思っていたところ。ただ、年末は年末で、錦市場でお買い物をしたり、冬の京都の おいしいものがたくさん食べられたり、楽しいことはたくさんある。
 今回は春の観光シーズンなので、(桜を見に行けばいいのに)美術館を中心に予定を立ててみた。
 29日は京都駅到着後、相国寺へ。
 有名な承天閣美術館があるのだけれど、残念ながら今回は展示替え期間中で、見たかった若冲の障壁画とか、宗達の屏風は見られず。
 その代わり、春の特別拝観で「方丈」「法堂」「浴室」が見られる。
 「特別」とは言っても、それほど拝観期間が限られているわけでもなくて、春と秋の二期の公開。
 「法堂」の天井の鳴き龍が、ものすごい。圧倒的。
 年々人間が素直になっている? 私は法堂に入ってその龍を見上げたとたん、「わあ・・・・」と声を放って、しばし呆然と。どの角度から見ても、龍が、そ れを見る人のほうを向いている。不思議。なにか仕掛けがあるのではないかしらん。
 須弥檀の近くで手をたたくと、その反響でぶるぶるとした空気の振動が返ってくる。「鳴き龍」の通称の由来で。本来は「蟠龍(ばんりゅう)」という。狩野 光信ですって。
 「方丈」を見に行くと、庭には雪のちらつくさむざむしさ。襖絵もみな面白いけれど、とにかく寒い。もはや暦は春なのに、これだけ雪がゴージャスに降ると いうのもないものだ。
 結局寒さに負けて、他のお寺などを回る気力が失せ(もともとあまり精力的なタイプではないのであった・・・)、前から行きたかった三月書房へ行く。
 人文系・短歌俳句関連の書籍が充実している。
 小さな店舗にぎっしりと本が収められており、印象としては神保町の古本屋さんの店構えによく似ている。ただ、外見が似通っていても商っている本は新刊 本。
 本棚の本の並びを見ているだけで楽しくて、結局2時間近くもお店に居座ってしまった。
 いくらか気になった本を買う。買おうかどうしようか迷った本は、結局買わなかった。それだけでも、私は相当努力しているのだ。旅行者として。
 本、重いからね。

  その2  2010年04月04日11:27  

  ぼたん雪が激しく降るさまを眺めつつ、夜半、ホテルの部屋でぬくぬくと本を読む。何もしていないようでいて、寒さにさらされた身というのは疲れているよう だった。読みながらうとうとしてしまう。

 翌日は朝一番で光悦寺へ。
 鷹ヶ峰を望む景勝地にあるこの寺は、かつて家康が与えた土地に、光悦が工芸関係の職人をともに住まわせた屋敷跡にある。
 昨夜の雪がまだお寺の屋根や、木々に残っており、朝日に雪解けの水がしたたるさまなど、えもいわれぬ爽やかさ。
 光悦さんのお墓に手を合わせ、庭先から鷹ヶ峰を眺める。

 近くの源光庵も拝観。
 光悦寺もそうだが、ここらあたりは紅葉の時期にはたいへん混むのだろうと思う。実にうつくしい場所に、美しい庭がある。
 ちなみに源光庵の本堂の天井は伏見城の床板である。と言えば分かる方もおられるだろうが、つまりは血天井。
 10年ほど前、友人とともに訪れた養源院も同じ床板を使った血天井で、住職さんは細長い棒を使ってわれわれ観光客にその説明をしてくださった。
 今回は観光客もほとんどおらず、ただ一人本堂に座って天井を眺める。
 じっと座っていると、朝の静けさの中を当時の人々の声が迫ってくるようで、なんだか落ち着かず、ひたすら自刃した武士たちの魂の安寧を願う。

 鷹ヶ峰はそれだけで終わりにし、周囲の散策もせず、大徳寺にも行かず、以前から行きたかった楽美術館へ行く。
 ピンポイントで行きたい所を攻めた旅なんです。
 楽美術館、本当によかった。
 すばらしかった。
 光悦の「立峯」という赤楽が出ており、感動。
 キャプションには「乙御前」との類似点が指摘されており、光悦が「自分の思い浮かべる茶器の形を執拗に追求した」のではないか、とあった。それほど、 「乙御前」とよく似ている。
 楽家代々のお茶碗が展示されていて、それぞれの代の特色がよくわかる。受付の紳士が、展示室に飾られた生け花に霧吹きで水滴をつけている。 女性用トイレには真紅のバラが活けてあったが、バラの花弁にもしっとりと吹かれた、露。日本料理でもこういう霧吹きの使い方をしますね。
 「おもてなしのこころ」というか、いかに見るものを楽しませるか、という心意気なんだろうと思う。さすがだなあ。
 その、受付の紳士にお昼ご飯のおいしいお店を紹介してもらって、少し遅い昼食。

 昼食後は細見美術館。

 楽しかったです。ふふふふふ。



  小野竹喬


 
2010年05月08日23:36
 
 小野竹喬の展覧会に行きたかったのに行けず終い だったので、作品集を図書館で借りてきた。
 展覧会は3月から4月にかけ、東京国立近代美術館で開催されていたのだが、そのポスターがあんまりかわいらしく、チラシを部屋の机の周りに置いてはちら と眺め、あらと眺めて、どうしても行きたいと思っていた。そのうち朝日新聞なんかに、展覧会のことも竹喬さんのこともいろいろ紹介してしまわれ、「ああ あ…」と慨嘆の声をあげ、これでは会場は混み始めるに違いない、一体いつ行けばいいの、歌舞伎と抱き合わせにしましょか、でも別の展覧会にも行きたいし… などと逡巡しているうち、機会を逸した。無念。

 借りてきたのは、『現代の日本画』シリーズの一冊。
 装丁のカバーになった画が「京の灯」で。「えっ!」と驚いてしまうくらい(ダジャレではなくってよ)シンプルでメルヘンな雰囲気なのです。
 童話の絵本のよう。
 山はらを遠く越えた宵闇に京都の街が静かに身を沈めて、その盆景の底に綺羅星のように家々の灯が瞬いている。まるで暮色の中にぱっと散った、色とりどり の金平糖のようにも見えて、どこか郷愁を誘う。
 私は盆地に生まれ、そしていつも盆地の底を眺めながら暮らしてきたので、こういう景色が、実に身にしみます。この数多の星たちのひとつが自分だ、と、き らめく灯から少し遠いところにいて想う不思議な、浮遊感。
 盆地って、ちょっと特殊な地形だと思うのですね。
 なんというか、小さくて狭い土地が山々に囲まれていて、その山の先は、空。だから空は天蓋のように感じられるし、空にまるく蓋をされた閉じた空間に、わ たしたちはすっぽりとおさまっている、という気がしてくる。
 京都とは同じ盆地でも山の高さがちがうので、ここまでの小宇宙的な感覚というのはないかもしれないですが、この、「闇に沈んで灯の瞬く夜景」って、本当 にうつくしいです。

 閑話休題。
 作品集の話である。
 竹喬の初期の作品から晩年の作品まで順を追って並べられており、そのどれもが実にポップで色彩豊か、鮮やかな印象をもたらすものばかり。
 特に初期作品には、まるでゴーギャンのタヒチの絵じゃん! と驚愕するほどに、配色の仕方、人物の素朴さと圧倒的な存在感、力強さ、という点で共通する ものを感じ、ある種感動を覚えるものも。
 解説を読むと影響を受けた画家としてゴーギャンの名前が挙がっていたので、意図的に描いていたのなら、似るよなあ・・・と納得する。おそらく多くの絵に 学んで、多くの絵から受け取ったものを、じょじょに自分のスタイルへと収斂して行ったのだろう。
 画集のページをめくればめくるほど、やわらかく、やさしく、鮮やかで、しかし静謐な趣の作品が多くなってゆく。

 西洋画から受けた衝撃が大きかったとか、西洋へ行って大きな敗北感を感じたというような解説があったけれど、日本画のデザイン性の高さとか、配色の妙な んかは、なかなか真似のできないものだろうと私は思っているのだけどなあ〜
 かつてゴッホとかセザンヌ、ロートレックに代表される後期印象派が好きで、それをきっかけに少しずつ西洋画の歴史を遡って行ってみたり、現代アートの世 界にも触れたこともあったけれど、日本画は日本画で、今の時点では一番好きかもしれない。絢爛豪華な様式美がある一方で、空間の使い方をぎりぎりまで試行 し、溢れ出る饒舌さではなく、静けさの中にある種の緊張を読ませるところとか。 日本人的な侘び寂び、とか花鳥風月の雅、などと言ってしまえばそれまでだけれど。
 ただ、ゴッホは今でも好きだし、ロートレックの寂しさというか哀切も、「もうお腹いっぱい」には到底ならないだろうから、何がいい、とか何が好き、なん て結局一概には言えなのか。

 ええと、そんなわけで、竹喬の画集をしばらくは楽しみたいと思います。 では、また。