小野竹喬の展覧会に行きたかったのに行けず終い
だったので、作品集を図書館で借りてきた。
展覧会は3月から4月にかけ、東京国立近代美術館で開催されていたのだが、そのポスターがあんまりかわいらしく、チラシを部屋の机の周りに置いてはちら
と眺め、あらと眺めて、どうしても行きたいと思っていた。そのうち朝日新聞なんかに、展覧会のことも竹喬さんのこともいろいろ紹介してしまわれ、「ああ
あ…」と慨嘆の声をあげ、これでは会場は混み始めるに違いない、一体いつ行けばいいの、歌舞伎と抱き合わせにしましょか、でも別の展覧会にも行きたいし…
などと逡巡しているうち、機会を逸した。無念。
借りてきたのは、『現代の日本画』シリーズの一冊。
装丁のカバーになった画が「京の灯」で。「えっ!」と驚いてしまうくらい(ダジャレではなくってよ)シンプルでメルヘンな雰囲気なのです。
童話の絵本のよう。
山はらを遠く越えた宵闇に京都の街が静かに身を沈めて、その盆景の底に綺羅星のように家々の灯が瞬いている。まるで暮色の中にぱっと散った、色とりどり
の金平糖のようにも見えて、どこか郷愁を誘う。
私は盆地に生まれ、そしていつも盆地の底を眺めながら暮らしてきたので、こういう景色が、実に身にしみます。この数多の星たちのひとつが自分だ、と、き
らめく灯から少し遠いところにいて想う不思議な、浮遊感。
盆地って、ちょっと特殊な地形だと思うのですね。
なんというか、小さくて狭い土地が山々に囲まれていて、その山の先は、空。だから空は天蓋のように感じられるし、空にまるく蓋をされた閉じた空間に、わ
たしたちはすっぽりとおさまっている、という気がしてくる。
京都とは同じ盆地でも山の高さがちがうので、ここまでの小宇宙的な感覚というのはないかもしれないですが、この、「闇に沈んで灯の瞬く夜景」って、本当
にうつくしいです。
閑話休題。
作品集の話である。
竹喬の初期の作品から晩年の作品まで順を追って並べられており、そのどれもが実にポップで色彩豊か、鮮やかな印象をもたらすものばかり。
特に初期作品には、まるでゴーギャンのタヒチの絵じゃん! と驚愕するほどに、配色の仕方、人物の素朴さと圧倒的な存在感、力強さ、という点で共通する
ものを感じ、ある種感動を覚えるものも。
解説を読むと影響を受けた画家としてゴーギャンの名前が挙がっていたので、意図的に描いていたのなら、似るよなあ・・・と納得する。おそらく多くの絵に
学んで、多くの絵から受け取ったものを、じょじょに自分のスタイルへと収斂して行ったのだろう。
画集のページをめくればめくるほど、やわらかく、やさしく、鮮やかで、しかし静謐な趣の作品が多くなってゆく。
西洋画から受けた衝撃が大きかったとか、西洋へ行って大きな敗北感を感じたというような解説があったけれど、日本画のデザイン性の高さとか、配色の妙な
んかは、なかなか真似のできないものだろうと私は思っているのだけどなあ〜
かつてゴッホとかセザンヌ、ロートレックに代表される後期印象派が好きで、それをきっかけに少しずつ西洋画の歴史を遡って行ってみたり、現代アートの世
界にも触れたこともあったけれど、日本画は日本画で、今の時点では一番好きかもしれない。絢爛豪華な様式美がある一方で、空間の使い方をぎりぎりまで試行
し、溢れ出る饒舌さではなく、静けさの中にある種の緊張を読ませるところとか。
日本人的な侘び寂び、とか花鳥風月の雅、などと言ってしまえばそれまでだけれど。
ただ、ゴッホは今でも好きだし、ロートレックの寂しさというか哀切も、「もうお腹いっぱい」には到底ならないだろうから、何がいい、とか何が好き、なん
て結局一概には言えなのか。
ええと、そんなわけで、竹喬の画集をしばらくは楽しみたいと思います。 では、また。