「e-文藝館=湖(umi)」 自 分史 

ふじえ もとこ  1936年生まれ。京都市内に育ち、京都大学に学んで同窓の夫君と結ばれ、良き母としても今日に至ることは、この「e-文藝館=湖 (umi)」にすでに四作展示された「自分史」が、小説の面白さすらもって精彩を放っている。なおなお書き継がれて行くと期待している。


  


      フェラーリ・ディーノ          

            藤江もと子



  * 開運なんでも鑑定団
 <開運なんでも鑑定団>というテレビの人気番組がある。昨秋のこと、亡き叔父の妻Y子さんが自分のホームページに「11月**日 の<開運なんでも鑑定団>に出演します。何を出したかはその日までお楽しみに」と書いていて、なるほどあの人らしいなあと私は苦笑した。叔父の死 後、暮らしの足しに家に残る品々をインターネットオークションで売っている、という話は聞いていたので、何か昔の書画骨董でも出すのかな? と、私の記憶 にある母の実家の品々を思い浮かべた。そしていよいよその放送日が来て、新聞のテレビ欄には ”亡夫が35年前600万円で購入! 懐かしの㊙名車”と予告されていた。同じ”懐かしの名品”でも書画骨董でなく、叔父が丹波からここ東京の姉(私の母)の家にも乗ってきたことのある ”あの車” と知り、あれもはや ”懐かしの名品” と言われるようになったのかと感慨深い。母が死んで十年、叔父が死んでからでもそろそろ七年経つ。
 放送が始まり、まずY子さんが黒のパンツスーツ・黒ブーツ姿で登場。もともと非常に背が高く、夫である叔父より大きかったのだが、司会の伸助さんよりも やはり背が高い。
 まず彼女の現在の仕事である「運転代行業」(突飛な発想で仕事を始める人で、代行業の前は植木のトリミング職人、その前は有機農業の助人)の様子が映像 で紹介され、次いでフェラーリ・ディーノの何たるかの解説の後、いよいよ叔父の愛車<フェラーリ・ディーノ246>がしずしずと登場した。番組のためにひ ときわ丁寧に磨きをかけたにちがいなく、葡萄酒色の流麗な車体は怪しいまで輝いている。

 * 丹波の家
 叔父の名は、一平。
 叔父といっても私とは干支の一巡しか年齢(とし)が違わず、「一平おじちゃん」「もとこちゃん」と言い交わして来たが、兄姉のいない私にとっては”兄” のような人であった。父親(私の祖父)は三平といい、何故かその長男を一平と名付けた。長女である私の母から女の子が三人続き、ようやく生まれた長男は双 子で今風にいえば低体重児だったらしい。当時双子は畜生腹とうとまれていて、旧家の長男が双子では世間体が悪いと、もう一人の女の子の方は名前こそT子と 付けてもらったが早々に里子に出されたという。か弱い身で実母から引き離されたT子はすぐ世を去った。一族の墓地の片隅にひときわ小さな墓石があり、それ がこの早世した叔母のものと私は疎開していた小学生のとき祖母に教えられた。
 一平叔父の方は文字どおり真綿にくるまれ、それは過保護な養育ぶりであったらしい。「年子でうまれた自分とはまるで待遇がちがった」と、続いて生まれた 次男の次平叔父はうらめしげに私たち姪っ子に語ったが、しかし放っておかれた弟はすくすくと成長して小学生の頃にはもう兄の背丈を越してしまい、大人に なってからは頭一つ上から兄を見下ろすことになった。終戦後はじめて一族の集合写真を撮ったとき、なじみの写真館のおじさんがそっと一平叔父の足下に台を 置いたのを見て、小学生の私は心が痛んだ。
 母の実家A家は造り酒屋で、「大江山」という名の酒を造っていた。酒蔵の他に広い大きな居宅があり、庭の池には裏の川から水が引かれて錦鯉が飼われてい た。用途別にいくつもの蔵があり、いろいろな道具、食器などが整理されて納まっていた。書画骨董も沢山あった。「酒造業だけにしてはお金持ちすぎるから、 きっと昔は金融業もしていたのだろう」と後年二人の叔父は憶測していたが、実際地元銀行の経営に加わっていたので、昭和大恐慌の折にはかなりの資産を失っ たらしい。
 曾祖父は弥平といい、若い頃どこかで”富岡鐵斎と机を並べていた”ということで、生涯親交があった。裕福な造り酒屋の当主になってからは、鐵斎翁に掛け 軸や屏風などを揮毫していただき、商売物の酒はもとより丹波名産の松茸や栗をお届けしていたようで、家には沢山の礼状が保管されていた。書を学んでいた母 が、祖母にせがんでもらってきた鐵斎翁の礼状数通が、今母の形見として私の手元に残されている。また大正期の京都画壇の方々にも直接揮毫をお願いしていた ようで、幼い母は曾祖父のお供で橋本関雪邸や土田麦遷邸に上げていただいた覚えがあると自慢していた。鐵斎翁の筆になる屏風や掛け軸に加えて、確かにそれ らの画家の作品が多数所蔵されていたのは私にも覚えがある。中でも祖母が大切にしていたのがいろいろな画家に描いていただいた画帖で、「あんたは絵が好き やから---」といって虫干しを兼ねてまだ子供だった私に見せてくれた。
 しかし三平祖父はまるでそういったものに興味が無く、新しい物ハイカラな物が好みだった。扇風機を各部屋に備え、頭に大きなモーターを載せた初代の東芝 冷蔵庫を置き、スコッチウイスキーとビールを飲み、葉巻やパイプタバコを楽しんだ。16ミリカメラを買って保津峡や耶馬渓で、親類、知人、家族を撮った。 そこでは初孫の私も母に抱かれてガラガラを振っている。一番の大物が自動車で、アメリカ製のダッジを買って田舎道を走ったが、下手な運転で畑に落ちるや ら、「Aさんの牛脅し」と町の人たちに笑われて自分で運転するのはあきらめ運転手さんを雇った。この忠義な運転手さんは、車がとうの昔に姿を消してしまっ ていた戦争中にも、なにかと祖母の助けになって下さっていた。
 第一次大戦後のつかのま日本がお金持ちだった頃、三平祖父はアメリカへ”洋行”した。ひたすら遊び、お土産を買うだけの浪費の旅は、祖父のアメリカかぶ れに拍車をかけた。妻や娘たちへの宝石や鰐皮のハンドバックに止まらず、ついでに悪い病気のみやげも持ち帰ったらしく、それが脳に来て太平洋戦争の頃は言 動がおかしくなってしまった。ビー玉を宝石だといって山のように集めていたのは私も知っているから、確かに頭が変だったにちがいないのだが、「あんな大き な国と戦争して勝てるはずがない」と正論を大声でわめいて祖母を困惑させていた。終戦の前年夏の始め、祖父は死んだ。

 * 叔父の闘病
 昭和18年秋から21年夏までは父が出征中で、私は母の実家に居候していたから祖父の死んだ日のことははっきり記憶しているが、庭から窓越しに背伸びし て覗いた祖父の臨終の場に二人の叔父はいなかった気がする。四年修了で力試しにと受験した七高にあっさり合格してしまった一平叔父は、まだ鹿児島だったの ではないか。男らしさが尊ばれる鹿児島の気風が合わない上に、軍事訓練まであった旧制高校時代を一平叔父は思い出したくないようだった。兄に続いて戦時下 でも食糧事情が良いからと同じ七高を選んだ次平叔父は、六尺を越す身長にマントをなびかせ”よかにせ(鹿児島弁でいい男の意)”とチヤホヤされて、それは 楽しい思い出ばかりだったらしく(といっても爆撃の後始末などさされたそうだが)晩年までずっと七高同窓会の主要メンバーであった。
 京大法学部に進学した叔父はすぐに招集され伊勢湾の辺りで終戦を迎えた。あんなひ弱で最も兵隊に向かぬ人まで招集したのだから日本もおしまいだったはず だ。戦後すぐ京大を出たときは空前の就職難、そんな中で新聞記者を志望した叔父は、第一志望のA新聞は落ちたが大阪のM新聞に合格し、社会部記者としてス タートを切った。始めて自分が書いた記事、たった三行の昼火事の記事を、姪の私にまで自慢して見せてくれた。先の神戸大震災の折り、母が新聞記事を見なが ら「あの子は福井地震の取材の無理がたたって発病したんや」と突然言いだのには驚いたが、就職して程なく叔父は結核を発病していた。いやがる本人を青年団 で顔見知りの看護婦さんが医者に連れて行ったときには、もう肺は大きな影に占められ、結核菌は咳からも痰からも吐き出されて、紛う方なき重症の開放性肺結 核であった。
 絶対安静を命じられた叔父は、自宅の離れ座敷と次の間が、良い具合に母屋と廊下一つでしか繋がっていなかったのでそこを療養の場所とし、あの無理矢理病 院 へ連れて行ってくれた近所の若い看護婦さんが住み込みで看護に当たることになった。E子ちゃんというこの保健所勤めの看護婦さんは、戦後急に盛り上がった 街の青年団活動の中で大いに**家の兄弟には関心があったらしく、あっさりこの役目を承諾してくれた。「引き受けはったのは、背が高くて男前の次平ちゃん に気があったしや」と母達は噂していた。
 こうして絶対安静の病人と看護婦という立場ではあっても、隔離された部屋で20代の男女二人の”同棲”が始まったのである。始めは死ぬか生きるかの重病 人であったから、毎日専ら病人と看護人で明け暮れていたようだが、ストレプトマイシンの威力で叔父が快復に向かってくるに従い、二人は異性としてお互いを 意識し出したのではないだろうか。最初の頃は夏休みなどに遊びに行っても、祖母は私たち孫を決して離れへは近寄らせなかった。どのくらいしてからだったろ うか、少しずつ子どもも離れの様子がうかがえるようになり、その頃もう二人は若夫婦のようにとても楽しそうで、E子ちゃんはやさしく私たち子どもの相手を してくれた。
 京都の丸善から取り寄せたライフなどのアメリカ雑誌や沢山の書物だけが情報源だった叔父に、ついに画期的な変化が起こった。テレビ放送が始まったのであ る。庭に高々とアンテナを掲げ、高価な外国製の大型テレビが早に病室に設置された。新聞記者だった叔父にとってこれはどんなにうれしかった事だろう。ま だマスコミという言葉もない時分から叔父はベッドの上でアメリカのテレビ放送に関心を持っていたようで、むさぼるように何にも優先してテレビを見るので、 周囲の顰蹙さえ買う有様だった。その間に次平叔父は兄に勧められてアメリカでマスコミを学び、創生期の日本のテレビ界に飛び込んで行くのだが、一平叔父は 相変わらず田舎の町で、テレビだけで世間と繋がっている暮らしを余儀なくされていた。兄として弟を応援しその成功を喜びながらも、一平叔父の口惜しさはど んなものであったか、生前その事について本人は何一つ口にしなかったから、叔父の思いの深さが一層私の心にひびく。

 * E子ちゃん
 ところで、叔父のそばで、E子ちゃんがどんどん美しくなって行くのは誰の目にもわかった。「来たときは銘仙の着物を着たほんの田舎娘だったのに」と母達 は驚 いた。顔だちはともかく、もともとスタイルも頭も良い人だった。なによりも良く気が付く優しい人だった。しかし、病院の住み込みしながら看護婦の資格を とったらしく学歴らしいものはなく、もちろん英語などまるで出来なかった。元気が出てきた叔父がそのE子ちゃんに英語やもろもろの事を教えてみると、これ が乾いた大地が水を吸う如くに飲み込みが良くて、どうやら彼女へのレクチャーは最初は叔父の良い退屈しのぎだったようだ。アメリカ雑誌で仕入れた知識で、 E子ちゃんにモデルのような姿勢や歩き方を指南し、ベッドの周りを歩かせていたのは私だって見て知っている。
 E子ちゃんはどんどん魅力的な女性に成長して いった。叔父好みの女性に教育され、仕立て上げられていった。もうその頃には、周囲の者は誰しも二人の親密な間柄を疑いはしなかったし、病身の叔父に とって二人が結婚すればこの上もなく安心、もってこいだと思った人は多かったのだが、祖母はがんとして結婚だけは許そうとしなかった。
 というのも(E子ちゃん本人には責任のないことなのだけれども)彼女の出自が複雑だったからである。表向き同じ街に住む老夫婦の一人娘となってはいた が、この夫婦は隣村の養子先を出奔した男が田舎芸者と所帯を持った正式ではない関係で、E子ちゃんがお母さんと呼んでいるこの芸者さんは実の母ではなく、 E子ちゃんは姉芸者の子であり、実の父親には北陸の街に妻と何人もの子がいるのだと、そこは小さな田舎町のこと、何処からともなく伝わって来ていた。街有 数の旧家の跡取り息子の嫁には「とても、とても、そらあかんわなあ」ということなのだった。「民主主義の世の中になったんやから、許してあげはったらええ のちゃいますか」という人もあったが、明治生まれの、良妻賢母の誉れ高い祖母には、ご先祖さまへの責任感からも、到底許せるものではなかったようだ。
 ストレプトマイシンの威力はすさまじく叔父はますます回復してきて、祖母だけでも世話が足りるようになったのをしをに、結局E子ちゃんは退職して田舎の 町を離れた。そして叔父が仕込んだ英語を活かして看護婦より収入の良い米軍の住み込みメイドに転身し、間なしにGIさんと結婚することになったと、突然田 舎の家にダンという軍服の若い男を連れて現れた。ダンはドイツ系だということで、アメリカ人にしては上背はなかったが鼻梁がくっきりとタイロンパワーばり の美男だった。当時京都岡崎の米軍キャンプは金網が張り巡らされて一般日本人は立ち入り禁止だったが、その中の教会でのダンとE子ちゃんの結婚式に、祖母 と母と一緒に中学生の私までが何故招待されたのか、今になっては事情はよくわからない。結婚式の引き出物が当時の超貴重品のナビスコビスケットの詰め合わ せだったのははっきり憶えている。
 叔父とE子ちゃんの間柄が結局どうだったのかは、子どもだった私には今もよくわかってはいない。しかし、喧嘩別れではな かったようで、五条の私たちの家に「お姉さん、お姉さん」と言ってE子ちゃんはダンとの結婚後も出入りし、進駐軍のPXの物資を持ってきてくれたりした。 しばらくしてダンに帰国命令が下り、大勢の戦争花嫁達と一緒にE子ちゃんは船でアメリカへ渡って行った。

 * 車を手に入れる
 少し年月が流れて、一平叔父はそこそこ普通の生活が送れるようになっていた。次平叔父もアメリカ留学から帰りテレビの仕事についた。落ち着いたところで この兄弟が手に入れたいと考えたのが自動車である。
 その頃E子ちゃんは、除隊したらただの能なしバクチ好きとわかったダンとは離婚し、オハイオ州の小さな 街で看護婦として働きながら、律儀にも郷里の養父母に仕送りしていた。叔父達はここに目を付けて、E子ちゃんにアメリカで車を買って日本へ持ち帰っても らい、それを借りて(実質的には譲ってもらって)その代金を日本円で養父母に叔父達が支払う、という便法を考え出した。そうでもしなければ、外貨不足の日 本で外車を買うなんて夢のような話だったのだ。E子ちゃんも気の良いところがあるうえに、日本の養父母には割の良い話だと思ったようで、しぶしぶこの企み に加担してくれて、叔父二人は新車のフォルクスワーゲンを自由に乗りまわすことに成功したのである。母などはそのやり口を「昔のA家なら、そんなじじむさ い事はせえへんのに」と恥じていた。昭和30年代始め、まだ国道一号線でさえ多くの部分が未舗装だった時代に、カブトムシ型のワーゲンは丹波路を独特のエ ンジン音を響かせながら砂塵を巻き上げ走り始めた。
 このE子ちゃんのその後の人生はまだまだ意外な展開をする。
 結局はその後日本へ帰って来たのだが、報酬の少ない看護婦業にはもう見切りをつけて、京都の 某新興ホテルに外人向け専属ガイドとして就職した。英語が出来て何かと細かい心遣いをしてくれるこの元看護婦のガイドさんは外人観光客に大好評、どんどん 出世しマネージャーまでなったところで年下のこのホテルの跡取り息子にプロポーズされて結婚、この頃にはとうに30才を過ぎていたが、二女をもうけた。そ の後東山の中腹に外人向きの骨董店を併設したレストランH山荘を開いて大成功、ところが年下だった連れ合が先に亡くなってしまった。それでも今もE子ちゃ んは、不死鳥の如くH山莊のマダムとして京都に健在である。叔父の葬儀で顔を見ることは、もうなかった。
 子どもの時から体力的にいつもひけを取っていた叔父にとって、他に先駆けて思う存分疾駆できる快感(機械の力を借りてではあるが)は生まれて始めてのも のだったにちがいなかった。外国との貿易が自由に出来る世になると、叔父はワーゲンでは満足出来ずスポーツカーにあこがれ、とうとう銀色の中古のポルシェ を手に入れてポルシェクラブという愛好家の集まりに加わり、大得意だった。このポルシェは酒屋の納屋を改造したガレージに納めて普段は乗り回すようなこと はなかった。いつの間にか日常の移動には中古のベンツを手に入れてもいた。ポルシェは姿こそ美しかったがご老体だったから、メインテナンスに相当手間 とお金がかかったようだ。そしてとうとう、いよいよ、叔父は新車でフェラーリ・ディーノを手に入れようと志した。得意の語学力でカタログや雑誌を集め て情報収集し、自分でイタリアまであこがれの車の買い付けに出向いて行ったのである。しかし、その費用、一体どこから捻出されたのだろうか。
 家業の造り酒屋は戦争中の企業整備で近くの同業三軒と合併し、戦後も細々と醸造を続けていた。小僧の時代から居る支配人が祖父や叔父に代わってずっと頑 張ってくれていたので、酒屋の収入と土地や畑の切り売りで戦後の家計と叔父の療養費はなんとかまかなえていたようだ。しかし、そこへ加わった自動車への出 費に当てるものはもう売り食い以外にあるはずもなく、どうやら座敷や蔵の品が次々、どんどん、姿を消していったらしい。先祖伝来の田圃や山林、私が戦時中 祖母に連れられて行っていた松茸山も、買い手が見つかれば大喜びで手放したようだ。家の周りの土地も求められれば切り売りした。叔父の自動車趣味はもう常 軌を逸していて、しまいに母にも実家の経済状態がどうなっているのやらわからなくなっていて、ついには祖母が小遣いにも不自由しているようだと、母がとき どき用立てていた気配がある。(橋本関雪の軸物を母がもらったのもどうやらその見返りらしく、母亡き後私が床の間に掛けて眺めているが、とても良い絵)。 叔父はこのディーノのために、何を、どれだけ、売り払ったのだろう。
 ともあれ、その結果酒蔵横の納屋のポルシェ老とオンボロベンツ君の横に、葡萄色のドレスのフェラーリ・ディーノ嬢(ディーノは男名前らしいがこの車は私 には女に見える)が住むことになった。それから30余年経って、今こうしてテレビ画面でみても、このディーノ嬢の美しさはただごとではない。きっと叔父 は”絶世のイタリア美女”を自分のものにした気分だったのだろう。誰にもさわらせるものか、と思っていたに違いない。

 * 突然の結婚
 そんななかで祖母は日々老いてゆき、とうとう死んでしまった。荒れた広い田舎の家に一人残された叔父はこの先どうするのかと思ったら、祖母の一周忌の席 上でY子さんとの結婚を発表したのである。有無をいわさぬ事後承諾で、母達は声を失った。遠縁のおじさんが「そやけど、この家で一人は、冬は寒うおっせ。 ええやおへんか」といって、なるほどとみんなしぶしぶ納得したらしい。
 叔父はY子さんと外車スポーツカーの同好会のようなところで知り合ったという。一平 叔父60才、E子さん29才。親子ともいえる年の差に「フェラーリやポルシェを持っているから、大金持ちと勘違いしたのかなあ」とか、みんな首を傾げるば かりであった。女ながらにカーレースに出ていたとか、いやレースクイーンだったとか、バツイチらしいとか、Y子さんの経歴はよくわからなかったが、モデル みたいに上背があり、出身地の河内訛の大阪弁を話した。当時48才だった私を筆頭に一才ずつ年下の従姉妹たち三人で、
 「あのしょぼくれた、背の低い、60才 のおじちゃんと、なんで私たちより若い人が結婚しはる気にならはったんやろう。おかしい。さっぱりわからへんねえ。財産目当てやろか?」
 「それやったら、 財産減っていてがっかりやで。そうとわかって、おじちゃん、捨てられはったらかわいそうやなあ」などと不思議がったが、これは誰にとっても謎。その謎が一 向に解けぬ間に女の子が二人生まれて、叔父は本当にうれしそうで、なんやかや言うても「おじちゃん、結婚しはって良かったね」と丸く収まったのである。
 子どもが生まれても、とっくに普通のくらしに耐える健康状態だったにもかかわらず、叔父は車の運転とテレビと読書しかない無為徒食の日々を送っていた。 相変わらず家計は何かを売ることで支えられていたようだ。大病から回復した身であるにもかかわらず、誠に不摂生な人で、タバコは吸う、食べ物の好き嫌いは 多い、生活時間は不規則、身体に良いことなどなにもしない生活態度のつけがきて、70才を過ぎて肺活量が低下し、慢性的な呼吸不全を起こし、ついには肺炎 を起こして高校生と中学生の娘を残して76才で死んでしまった。秋の丹波の菩提寺での葬式に、Y子さんは叔父のお棺に愛車ポルシェのハンドルをはずして入 れて焼いてしまった。
 叔父亡き後のY子さんは、ますます八方破れの無鉄砲と私の目には映る。生前から叔父も、いささかY子さんの周囲を無視したエネルギーの噴出にはたじろい で いたフシがあった。最後となった入院の数日前に、叔父は特段の用もないのに私に電話してきて、ポツンと、「女の子が大学へ行くいうことは、世の中にはいろ いろな考え方がある、ということがわかるようになることなんやなあ」と言って電話を切ってしまった。上の娘ははや進路を決める年齢になっていたから、娘の 将来への述懐だったのだろうが、私は叔父の私への遺言のような気がする。叔父の死後、長女も次女もまずはちゃんとした大学生になった。良かった。変わらな い、というより一層不可解なのは、Y子さんのやること。
 <開運なんでも鑑定団>のテレビ画面に出てきたフェラーリ・ディーノを見たとたん、「なんで30才もの年の差を超えてY子さんは結婚したの?」という長 年の謎が、ハラリと解けた。そうなのだ、この”ディーノに乗っている一平叔父”にY子さんはホレたのだ。なんのことはない、ディーノにホレたのだ。ディー ノのこの怪しい魅力がY子さんを捉えたにちがいない。Y子さんは叔父とではなく、この車と結婚したのかも知れない。この車を得るためには、Y子さんにとっ て叔父は”おまけ”だったのかも知れない。でも、たとえ車の”おまけ”だったとしても、叔父は二人の娘に恵まれて十二分に幸せだったのだから、まあ良い か。それで十分だろう。

 * ミラノにて
 ついこの間、南フランスとイタリア・ミラノの旅という団体ツアーに参加して、ミラノ市内を見物した。
 まず案内されたスコルフツア城は全体がルネッサンス イタリアの色に満ちていて、ここでダビンチが製作に励んだというのが昨日のことのように感じられる。中庭の一角にある門についている紋章を指さして、慶応 大学の三田で学んだというイタリア人ガイドのおじさんは「あれを見て何か思い出しませんか?」と流ちょうな日本語で私たちに問うた。
 だれかが「フェラーリ のマーク!」と答える。
 「正解です」。
 そうなのだ、ここはフェラーリを産んだところなのだ。そう思った途端に、ディーノを注文するためにイタリアにまで来 た一平叔父の姿が目に浮かんだ。どんなにうれしかっただろう、胸がきゅっと締め付けられるような感激だったろう。熱い物が、涙がこみ上げてきたにちがいな い。私も熱いものがこみ上げてきた。
 私が少女小説を卒業してちょっとなまいきになった頃、丹波の母の実家へ行った折り、もうかなり健康を回復して家の中をうろうろしていた一平叔父に、「お じちゃんは沢山本を持ってはるから、私が読んで面白そうなものを貸してくれへん?」と頼んだ。叔父は早速旧座敷と呼んでいた部屋の二階に私を連れて上がっ てくれた。田舎の大きな家は基本的には平屋で、二階は物置というか屋根裏部屋に近い。母の実家にはそんな部屋が二箇所あり、居間の二階はあれこれと雑物が 保管されていたようだが、この旧座敷の上は書庫に使われていた。しかし私が疎開していた小学生の頃には二階に部屋はあることも知らなかったし、上がったこ ともなかった。昔の家がみなそうであるように、二階への階段は押入の中に隠されていたから。
 叔父はその書庫の棚から二冊の本を選んでくれた。もう一方の本 が何だったかは忘れてしまったのだが、一つはレイモンド・ラディゲの『肉体の悪魔』だった。この「肉体の悪魔」はおくての女子高生にはいささか手に余っ て、「おじちゃんの本は、なんやようわからんわ」と、それ以来借りるのは止めてしまったのだが、いわゆる文学青年であり、語学の才に恵まれていた叔父が、 どれほど沢山の欧米文学を読んでいたかは、あの書棚から想像がつく。あの暗い、ヨーロッパやアメリカへ行くなんて夢想も出来ない戦時下に、叔父は本を読む ことでパリをロンドンをローマをニューヨークを歩き回り、旅していたに違いない。
 小学生の私の描く絵を最初に評価してくれたのは一平叔父だった。お兄ちゃんと呼んでなついていた私に「僕はね、お兄ちゃんではなくて”おじさん”なので す。これからはおじさんと呼びなさい」いったのもその頃か。私が中学へ入った時、病床から「なんでも一度ノートに書いてみると頭に入るよ、よく憶えられる からそうすると良い」とアドバイスしてくれたのも一平叔父だった。母校の京都大学に私が入ったことを大層喜んでくれた。干支でいえば叔父と私はひとまわり ちがいの丑年である。丑年は家を跡取ると昔聞いたことがあるが、結局二人とも家を壊してしまった。ものぐさで、片づけものが不得手で、理屈っぽくて、意見 は言うけれど実行力がないところも、なんとなく似ている。叔父はお世辞は言えないけど、心根のやさしい人だった。
 もう二度と「もとこちゃん」と言って一平叔父から電話はかかって来ない。
 「おじちゃん、私もミラノへ行って来たよ」と、早速電話をしたいが、それも叶わ ない。
 先の番組では、叔父の愛車に1,400万円の値段が付き、Y子さんは「いや〜うれしいわぁ」とはしゃいだ。私は、叔父が全てをかけたこの車に、値段 なんか付けて欲しくないと思った。

 * 追記
 叔父の死後、母の実家は園部町旧市街の再開発事業で道路に面した部屋や蔵が数メートルの幅で削られることになった。奥の座敷や、叔父が療養した離れなど は削られる部分には入っていなかったのに、Y子さんは思いっきり良く全部壊してしまった。その補償金で自分達母子用の家を建てる前に、Y子さんはまずガ レージを造った。新築のガレージの前にポーンと、くだんのフェラーリ・ディーノが止められている写真が最近ホームページに掲載されている。
 老フェラーリ・ ディーノ嬢はますますとんでもない余生を送ることになりそうだ。


                                  おわり