この作者の作品は三作がすでに「e-文庫・湖(umi)」に掲載されていて、いずれも毅い平生心にかっちり支えられた文藝であることをよ く自照しているが、ことに今回のこの作は、優れて真実感に富んだ感動の好エッセイを成している。人生を「川の流れ」と歌った美空ひばりとこの作者とは全く の同世代、この人もまた川の流れを、意志的にしかも「ふつう」に、あの歌手より長く健康に生きてきた。「ふつうのくらし」とはおもしろづくの題ではない、 一期一会、作者が的確にこれを生きて辿ってきたと分かる、よく嵌ったふつうのくらし好 題である。  湖





   ふつうのくらし     藤江もと子



 序章 カミングアウ

 帰宅すると、高校卒業以来会っていない京都のMちゃんの留守電が入っていた。数ヶ月前、東京のデパートで開催された彼女の友人の染色展を、
「見に行って下さって有難う」というのが用件なのだが、今頃わざわざ電話をもらう程のことではない。不審に思い、とにかくこちらからかけ返した。

 Mちゃんとは昔一緒に絵も習っていたので、その先生の消息から、
「懐かしいわねえ」と、まず、しゃべり出した。Mちゃんは少し前、横浜に住む私達共通の友人K子ちゃん宅を訪問したらしい。
「K子ちゃんね、貴女は旅行に誘ってもちっとも出てこない、と言ってたわよ」
「私、皆さんのようには出られないのよ。お独りになられたK子ちゃんと違いまだ亭主持ちだし、それに下の子には障害があってね……」と私が切り出すと、
「うちにも障害者が居て……」とMちゃんも。びっくりした。
「どなた」
「横浜にいる娘のとこの孫が…自閉症なの」

 そこまで話の進むのに、三十分は経っていた。K子ちゃん宅では、私のうちにダウン症の息子の居ることが話題になったようで、だからMちゃんは私に電話す る気になったらしい。それからは一気に障害児の将来や、育てるについての不安などの話題になって、結局もう小一時間もしゃべった。
「また、いろいろ教えてね」とMちゃんは、最後に。
 なるほど、これが用件だったのねと私は納得した。

 娘が大学に入って同じクラスのアケミちゃんと仲良しになった。偶然家も近かったのだけれど、それだけでなく何となく始めから気が合ったらしい。二年生に なって、二人で北海道旅行をした。
「高校生の弟がいるのよ」
と言いあい二人とも弟に土産を買った。やがて旅行の写真を交換しましょうと日が決まりかけたところで、うちの娘は、ダウン症の親の会の合宿ボランティアを することになっていたのを思い出した。遠回しに言い訳するのがもう邪魔くさくって…と娘はその時の気持ちを私に説明してくれたが、
「うちの弟は障害児でね、親の会の手伝いがあるの」と掛け値無しに言った。
「えっ! うちにも居るのよ」
 アケミちゃんは驚きの声を放った。
「うちの弟自閉症でね、今、施設に入ってるの…」
「そうなんだ…。北海道で買ったお土産、どっちも、高校生のにしてはねぇ」と二人で笑ってしまったとか。
 障害のある弟の話をするのは“二人きりで、ここで”と決めた西荻窪のあんみつ屋で、
「私たち(お見合いの)書類選考では断然不利だもん、実力あるのみよ、頑張ろうね」と互いに誓い合った甲斐あって、前後して二人ともよきパートナーをゲッ トした。相手に、或いはそのご両親に、
「障害のある弟のことをどう説明する?」と相談し合ったりしたらしい。そして今も二人の友情は続いている。アケミちゃんの方は、もう二児の母親になってい る。

 家族に障害児・障害者がいますと言い出すまでには、時間がかかる。
 隠すつもりはなくても容易に言い出せない、そうですは切り出しにくい。隠したい人もいるだろうが、そうでなくても、
「えらいですね」とか
「大変ですね」と感心されることが多く、自分の苦労をひけらかすようで照れてもしまうし、或いは、そう言った瞬間、相手の「なんと言えば良いのか」と困惑 しているのがこちらに伝わって来て胸を衝かれるとか、俄にお気の毒な人だとヘンに別扱いされるのがいやとか、まあ、いろいろあるのである。だからこそ思い 切って口にして、偶然同じような立場らしいとわかったりすると、今度は一挙にお互いの距離が縮まる。

 ダウン症で生まれた息子のことを「書く」のも、私には難しかった。「障害のある子を育てて」とか「我が家の天使の**」とかいったタイトルで、親の体験 記は沢山世に出ている。「体験記を書いたらどうだい?」と夫までが冗談めかして私に言った。  
 しかし、私自身はこれまで、全くそのような気は起こさなかったのである。もし書くとしたら、ダウン症の子どもの事ではなく、「その子と共に生きた自分」 を書こう、そうはっきりと思えるようになったのが、まだ、ごく最近のことだ。
 
   1、四つ葉のクローバー

 本棚の整理をしていたら、表紙のすっかり色褪せた賛美歌集から、はらりと、褐色の四つ葉のクローバーが落ちた。
 K子ちゃんMちゃん等と一緒に私が中学高校時代を過ごしたミッション系の学校には、一面にクローバーの植わった前庭があった。天気の良い日はセーラー服 のスカートを広げてぺったりと座り、お弁当を食べた後は四つ葉のクローバー探しに熱中した。四つ葉が見つかると早速、学校で毎日の礼拝に使う聖書や賛美歌 集に、栞のように挟み込んだ。四つ葉のクローバーは幸せを招ぶと謂うし、見つけたその日は、明るい未来でも約束されたようにほくほく嬉しかった。
 しかし考えてみれば、普通は三つ葉のクローバーに混じる四つ葉とは、つまり「異形」の存在である。同じ「異形」の五つ葉になるとむしろ不吉とさえ私達は 聞かされていた。多ければ多いほど目出度い、というものではないらしい。ほんまに四つ葉は幸福を呼ぶのやろかと半信半疑ながらも、私は毎日四つ葉探しに熱 心だった。

 生まれながらに独特の風貌を持つ人たち、染色体の数が一本多い「異形」の細胞を持つ人たち、ダウン症と呼ばれる人たち。彼らは幸せを呼ぶのか、不幸を呼 ぶのか。私の三人目の子どもは、そのダウン症で生まれてきた。
「染色体が一本多いと、どうしていけないのだろう?」 
「本当に不都合なことばかり起こるのだろうか?」 
「染色体が多ければ、何か良いこともあるのではないでしょうか?」 
 そんな私の素朴な、希望的な疑問に、
「今迄のところそのような事は見つかっていません。もしあったら、早速学会で発表しなくてはなりませんな。」
 専門医の誠実そうなそんな回答がただ返ってきて、一縷の希望、夢、は消えた。
 それでも心に決めた。この子はきっと私の四つ葉のクローバーにちがいない。胸にそのまま命の栞をしっかりと挟み込んで、私は子育てを始めたのである。
 
 その子が五才の頃、私達夫婦は突然信州の蓼科に土地を買い求め、とても別荘とも呼べないつましいたった十二坪の家を建てた。地元の大工さんは、
「奥さん、いくら小さくていいと言ったって、これ以下では家とは言わないよ。それにお宅は子供が三人居るんだろ、このくらい部屋が大きくないと第一雨の日 に困るよ」
 そう言って、最低の予算ながら中央に十四畳の板の間部屋のある家を作ってくれた。友人からは、
「別荘の衝動買いなど聞いたことがない」と呆れられた。
 表向きは「山歩きが好きだから」という理由も嘘ではないのだけれども、私達のような貧乏人のサラリーマン夫婦が、そのような単純な理由だけで山に家を建 てたりするはずがない。決定的な理由には障害を持って生まれた次男への配慮があった。

 ダウン症で生まれた赤ん坊は、体温調節が巧く出来なくて、最初の夏の暑さに、数日体温が上がったままになった。あわてて、次の年は当時まだ高価だった クーラーを寝室にだけつけた。三年目の夏には涼しいところへ行こうと、夫の勤務する会社の菅平高原保養所に出かけたものの、歩き始めた彼がうろちょろと危 なくて母親の方は保養どころでなかった。年令(とし)よりなにもかも遅れていて、おむつも取れていない我が子が、同宿の会社の人たちの前で恥ずかしくも あった。

 専門用語で”多動”と謂うとは後で知ったのだが、それからの数年、我が子はとにかく勝手に動き回り、何にでもお構いなく手を出した。元気なのは嬉しいけ れど、どうにもしつけのしようがない。危ない。人目も恥ずかしい。電車の中で年輩のご婦人に、
「なんてしつけの悪い子でしょう。」
とこれ見よがしに言われ、駅の階段で泪があふれ出た。
「ああ、ここが無人島だったら良いのになあ。」
 本当に、そう思った。

 そんなとき、中野のマンション住まいの友人が、
「蓼科に土地を買ったの。値段も手頃、良いところよ。貴女も見てくれば」と誘ってくれた。
 梅雨が明けたばかりの日曜日、夫と二人で不動産会社の人に高原別荘地の区画をいくつか案内してもらった。その一つ、敷地の道路沿いの角で私は、一つ四つ 葉のクローバーを偶然見つけた。
「ここに家を建てましょう。ここはこの子の“約束の地”よ……」 
 幸い、管理薬剤師のバイトをした貯金が少しあった。それに足らずを工面して土地を買ってしまった。土地だけを眺めてても役に立たないので、翌夏、親に少 し応援してもらってなんとか小さい家を建てた。

 原野にポツポツと家が見えるだけの別荘地で、滅多に車も通らない、人にも会わない。想い描いた「無人の島」に限りなく近かったし、人間が隠れてしまいそ うに下草の繁った中に建った我等が家は、当時の私にすれば唯一、ほっ…と自分の取り戻せる場所になった。
 息子はまるで放し飼いの動物のように、その辺りを思いっきり駆けめぐって年ごとにたくましさを身につけ育っていった。上の子供たちとも共に、春休み、五 月の連休、長い夏休み、秋の祭日、冬休みと、沢山の沢山の時間をここで過ごした。

 出入りに邪魔な草しか刈ってもいられなかった、が、敷地の自然は絶えず変遷を重ねていた。子供たちの背丈が伸びたと同じに、木も大きく、太くなった。 ひょろひょろで薄茶の木肌だった数本の白樺が、名に恥じずすっかり白い幹になってひときわ目を惹いている。木が大きくなった分陽当たりは悪く下草が減った ものの、イチャクソウの群落はあるし、秋にはハゼが色づくし、オミナエシやつるリンドウも到る処に見つかる。S郎がいなかったら、私とこの草ぐさや木々と の語らいはなかったのだ、
「あなたは、やっぱり私の四つ葉のクローバーかもしれないわね。」

   2、なんでもないひと

 知的障害のある子供と暮らすのは、とは云え、矢張りなにかと大変だった。物事にみな優先順位をつけて、あきらめのつく事はみなあきらめ、この子を育てる のにただもう専念した時期もある。
 その頃の一番の楽しみは、たまに一人でお風呂に入れる時で。
「…こんな簡単なことで、これほどに幸せになれる…。私って、とても幸せな境遇なのね」
 そう思い、じいっと湯に自分の身を沈めていた。
 そのうち子供が一人でお風呂に入れるようになった、私も毎回一人で入れるようになったら、それはもうごくふつうの時間、ただ心安まる時間でしかなくなっ た。いやいや、それこそは矢張り幸せなのであった。 

 息子が高校生になった頃、面白い講演を聴いた。
 当時私は息子の在学する養護学校でPTA会長をしていたが、あるとき全国精神薄弱者養護学校(当時の呼称)PTA連合会の会長さんに、
「総会あとの講演会に、厚生省の障害福祉課長を呼んだのよ。この人の話、面白いからね。是非聞きに来てくださいよ」と言われた。枯れ木も山の、にぎわい役 だ。
「厚生省のお役人の話が、面白いモンかしら」と疑いつつ、会長に折角頼まれてしまったからは、半ば”さくら”気分で聞くことにした。
 さて、当日。抱いていた本庁エリート役人への先入主はいきなり訂正を強いられて、いっそそれは愉快な衝撃であった。丸顔の小柄な男性が演壇にシャカシャ カっと走り出て来て、
「さあ、話しますよぉ」と上着を脱ぎすてた。
 彼は、こう言った。
「”可哀相な人に何かして上げる”のが福祉と考えてるなら、そんなのは駄目だあ。可哀相の発想では、限界があります。そのような発想の人は、”福祉は大切 ですとも。でも、障害者が、この私よりも幸せになんかならないで”と、無意識に考えている。そういうもんなんです」
 ……おやっ、面白いこと言うわ、この人…。
「美談にだまされてはいけませんな。一年に一度、一度ね、障害者にラーメンを無料で振舞うラーメン店があって、美談として報道されている。でも、私は、年 に一度が二度三度でも、そんなタダ振舞いよりも、一人でも良いからその店で障害者を雇用して欲しい。」
 ……全くそうだわ、そうだよ…と、うなずく話が速射砲のように連続した。びっくりした。お役人にもセンスの良い人、いるじゃないのよぅ。ここはこの人を うんと褒めて、もっと頑張ってもらおう……。
 そう考えた私はそのAという課長さんに「感想」の手紙を書くことにした。

 その手紙で、わたしは春に蓼科のスキー場で味わった体験を語った。
「スキーウェアを身にまといゴーグルを付け、ファミリーゲレンデを他のスキーヤーに混じってボーゲンで滑り降りてくる息子は、もう一目でそれとわかる障害 者、ダウン症の少年、ではありませんでした。なんでもないふつうの少年が私の目の前に滑り降りてきた、その瞬間こそ、この子が生まれて始めて感じた”至福 の時”でした。」
 その後へ、私は書き添えていた。
「我が将来の理想の一つは、この息子が”なんでもない一人”として、住み慣れた自分の街でふつうに暮らすことです。――」
 こんな手紙を出していいものか、と、数日投函を逡巡した。幾度も読み返し、折角書いたんだもの、「えいっ!」と投函した。

 なんの反応もなく数ヶ月がたち、やはりあの手紙は厚生省の屑籠に入って燃されたのだろうと思っていた。
「厚生省のAです!」と、突如、威勢のいい声の電話が私に掛かってきた。思いがけなさに、電話口に出は出たが私はしどろもどろ。電話の声は続く。
「貴女の手紙が面白かったので、無断で悪かったけれど、今度出す私の本に入れてしまったの。出版記念のパーティをやるから、来ませんか?」
「はい、出席させてもらいます」と答えてしまった。むらむらッと好奇心が持ち上がった。


 その夜の出版記念パーティは楽しかった。
『豊かな福祉社会への助走』(ぶどう社刊)と題した本の57ページには、「あるPTA会長からの手紙」という形で私の書いた「なんでもない一人」のくだり が引用されていた。そして会場に集まった多方面の福祉関係者の前で、
「この人が57ページのPTA会長さんです」と著者のAさんから紹介された。
 これがきっかけで、理論も実践の実績もろくにない私が、福祉の世界では一家言ある専門家やジャーナリストとともにA課長が主宰の「人権懇(障害者の人権 に関する懇談会)」のメンバーに加えられ、沢山の情報と知識とを学ぶ幸運を得ることになる。懇談会のあとには虎ノ門の「ひな菊」という焼鳥屋で会費 2000円の二次会が付属していて、仕事帰りのサラリーマン客に混じって、喧噪の中で文字通り声高に、私達は「障害者福祉の理想」を語り合った。

 このA課長が、またも突然にM県知事選挙に出馬し、福祉先進県の実現をスローガンに大方の予想を覆す勝利をおさめた顛末は文庫本にもなっている。「人権 懇」の人たちと一緒に、私も生まれて始めて積極的に選挙の応援をした。と言っても、M県在住の知人に心を込めてA氏の人となりを書き送っただけではあった けれど。
 新知事就任のニュースを新聞で見て間もなく、またまたA氏ご本人からいつもの元気良い声で電話が掛かってきた。
「藤江さんはS市まで出て来られますか?」
「はあ…? 日帰りで良ければ行けますが……」
「じゃあ良かった。M県の、<福祉を考える100人委員会>というのをやります。メンバーになってくれるね。後日担当から連絡が行くから、よろしく」
 こうして、障害ある子をもつ一母親の私が、それからの一年間、M県の県庁会議室に五度も出向き、委員として発言する機会を与えられた。

 この委員会にはいろいろな工夫というか、新機軸が取り入れてあった。その一つに公募した県民が委員会を間近に傍聴する、というのがあった。私の属した障 害者福祉の小委員会でも、三十人くらいがいつも熱心に耳を傾けてくれていた。
 最後の日に、傍聴の方達から感想を聞くことになり、一人の、私よりやや年輩に見える女性が立ち上がってこんなふう言った。
「私は今回傍聴して、目から鱗が落ちました。私の所にも知的障害の子供がいます。私はこれまでその事を恥じて来ました。でもこの席で、障害のある我が子の ことを恥ずかしがらず話す人のいるのを私は知りました。私も、これからは恥ずかしがらずに話します。」
 どうも、私のことを指して話しているらしい。驚いた。突き動かされ、そして、嬉しくなった。私は息子の障害を、困ったなとは思った事があっても、恥ずか しいなどと一度も思ったことはない。どうして恥ずかしいことなどであろうか。もし私がそんな事を言ったら、子どもに申し訳が立たない。
 私のそんな心意気がきっとこのお母さんに伝わったのだろう。この一言が聴けただけで、私はお役に立てたと嬉しかった。感謝した。

   3、共生の樹

 一年間にわたった「M県の福祉を考える100人委員会」の終了後、記念誌を出版するから、各委員見開き二頁分の原稿を書くようにと、連絡が来た。ちょう ど息子が養護学校高等部を卒業して、或るファミリーレストランで働きはじめた頃であった。社会へ一歩踏み出したばかりの息子の将来へ、理想や願いをこめて 私は一所懸命に原稿を書いた。それと、「共生の樹」と題をつけてみたペン画を描き添えた。出来上がった二百頁余の思い出多い本の中で、私の書いた箇所だけ がカット絵入りになった。

 「共生」 理想は普通の生活     藤江もと子

 南の国に旅をして、不思議な樹に出会いました。10メートルもあろうかと思われる堂々たるそれを、何の樹といえばよいのでしょうか。樹のあちこちに別の 植物が巻き付いていたり、乗っていたり、途中から突き出ていたりします。ちょっと数えただけでも五、六種類の形の異なる葉が、輝く陽の光を浴び、地の恵み を吸い上げて生い茂り、大樹はそれらの植物を支えて悠然と立っていました。彼らはおおらかに「共生」しているのでした。

 ごく普通の私達家族の生活は、20年前ダウン症の子供が誕生したことで激しく揺さぶられました。子供に深刻な障害があると知ると、どの家族もまず「自分 達のこれからの人生はどうなってしまうのだろう」と言う不安に陥ります。だんだん様子がわかって来ると、障害者のために種々の福祉施策があること、養護学 校とか作業所とか施設が用意されている(あるいは不足している)ことを知ります。そして同時に、障害を持って生まれたその子は、「普通のところ」で「普通 の暮らし」が出来ないらしいことを知り、形容し難い悲しみを味わうのです。
 周囲から掛けられる「かわいそうに」「お気の毒に」という慰めの言葉からも、急に自分達が皆とは別世界の人になっていることを悟らされるのでした。「ど こか、何か、変なのではないか?」それが一番はじめに私が感じた疑問でした。

 障害者に偏見を持ったり、いじめたり、あからさまな差別をしたりするのがいけないことだとは、よく知られています。しかし、かわいそうな人達なのだから 大切にしてあげようと、特別の場所に特別の物を作って「あなた達はここに居さえすれば幸せですよ」と隔離してしまうのは間違っています。
 勿論目の前の社会は決して障害者が生活しやすいものではありません。特別の配慮が必要な場面はたくさんあります。また、日頃、障害者と接した経験のない 大多数の人々にとっては、共に何かをやるにしても、戸惑うことばかりだと思います。障害者の家族だって最初は皆そうだったのですから。
 では、どこから手を付ければよいのでしょうか。とにかく一緒にやってみて、互いに経験を重ねて、慣れて行きましょう。障害者サイドは勇気を持って社会へ 出て行きましょう。障害者本人の意思とは別に、親はかわいい子供にあまり苦労をさせたくないと、何事にも安全志向に走りがちなので、自戒せねばなりませ ん。
 そして地域の皆さん、特別席に招待するようなやりかたでなく、ごく普通に仲間に入れて下さい。その際生じるかもしれない不都合は、お互いに率直に話し 合って解決して行きましょう。
 どうか働く仲間に加えてください。自分が働いて人の役に立つ、働きが評価され報酬が得られる。これは人として当たり前の喜びであり、生き甲斐なのですか ら。

 小さいとき保育所や幼稚園、学校で一緒に過ごした障害のある友達と、大人になって職場や街で再会する。ふと気がつけば貴方の傍に顔見知りの障害者がい て、「元気にしてる?」「うん」、と気軽に言葉をかわす。そんなところが、いろいろな人の「共生」している社会なのです。
 大きな、立派な福祉施設のあることだけが、進んだ福祉社会の理想ではないのです。障害者やその家族にとっては、一見何の変哲もない「普通の暮らし」の出 来ることこそ、究極の福祉、夢なのです。 (明日の福祉へ100人の夢 中央法規出版 1995年)  

   4、あたりまえのことなのに

 人が、自分の暮らし方、住む場所を自分で決める、そんなあたりまえな望みの叶わぬ世界に、障害者は、ずっと生きてきた。「それはおかしい…」と私が思い 始めた頃から十年以上も年月が経ち、ようやく、最近のこと、「障害があっても、生まれ育った地域で暮らす」のがより広く、より志向される考え方になって来 ている。ノーマライゼーションが世界的に提唱され、欧米では、障害者ばかり数百人一緒に居住していた大規模施設は次々に解体された。本人の希望に添って、 住み慣れた街で、小人数のグループホームなどで暮らすのがいちばん望ましい形、と考えられるようになり、周辺社会もそのようにやっと変化し始めている。
 我が国でも、その流れに沿って福祉制度が変わった。これまでは本人の頭越しに「措置」され、どこに住むか等の処遇まで決められていたのが、新しい制度で は、本人が望むところで生活出来るよう、利用する施設も自分で「選択」し、サービスを提供する事業所と本人とが「契約」することになった。だが、そうは云 うものの実際・実地の現実問題として、社会から忘れられた人里離れた大規模施設を解体するというのはそれとしても、そこに住んできた一人一人を、さあ、生 まれ育った街にどのようにして戻せれば良いのか。理念は素晴らしくても、果たして生まれ育ったその街に、具体的な受け皿や周囲の人の心構えが出来ているの だろうか。

 私の住む東京S区では、「障害があっても、生まれ育った街で自立して暮らせるようにしよう」という基本理念のもと、東京を遠く離れた施設から家庭も家族 もある地元に帰って来た人のため地域生活のための用意を調え、その後のバックアップ、緊急時の支援などを目的とした、小規模ながら知的障害者施設(入所施 設と支援センターなどの複合施設)を区内に、**町の国有地に、新しく立ち上げることになった。そこまでは事が運んだ。が、やっぱり…地元住民の反対運動 が連れて起こった。
 前年来話し合いは繰り返し行われ、説明会も何度も開かれた。区議会への建設促進の陳情も、都議会への陳情も満場一致で採択されていたものの、東京都の取 り決めの中に、地元の了解を得る(近隣住民全員からの了承印をもらう)というきつい一項があって、そこで難儀をした。反対する人はいろいろなことを言いた てるが、結局、最後に残った数人の理由は「とにかく、いや」なのである。

 地元説明会の通知と資料を配りに私も現地を訪れた。予定地は、これ以上はない、と思える良い環境のところ、高級マンションや瀟洒な新築住宅が境を接して 居る。
 …そうか、良すぎるのやな…。
 これまでにも沢山の知的障害者施設を見学してきたが、都内でも、近県であっても、ことごとく不便な場所にあって、何故か近くに霊園やゴミ処理施設があ る。どうも障害者施設とは”都会が出す不浄の部分”らしい。ちょっと普通じゃ家を建てるのを躊躇するような場所が、障害者施設にはふさわしい、と思われて いるようだ。だから、施設建設に反対する人は恐らくこう言いたいのだろう。
「どうしてこんな“まともな住宅地”にそんな施設が来なければならないのか、あんた達が身の程知らずなのだ。」

 障害を持ったばかりに、何故自分の住むところを、近所の許可をいちいち得て決めなくてはならないのか。そんな取り決め自体がおかしくないか。
 以前は国にも同じような取り決めがあったらしい。さすがに人権問題だと声があがり取り下げられたようだが、何故か東京都には残骸がハバを利かせていた。
 反対派の人には、まるで危険な動物でも飼うような言われ方までされた。
「散歩をする回数や時間帯を決めて欲しい」
「その時は必ず施設職員が付き添って(近隣に迷惑が掛からぬよう)見張っててほしい」
 本人の立場に立って考えれば納得できない話ばかりだが、それを自分では抗議出来ない人たちだとわかっていての言いたい放題。歯がゆく、切ない。
 ハンディがある人達だからこそ良い場所に住まわせてあげよう、そう周囲が発想を転換しない限り、こうした差別や反対は無くならない。ここに新しい施設が ちゃんと建設され運営され始めたなら、そして障害者たちの日々の姿を見れば、やみくもに酷い言い分で反対した人たちも、きっと人の生きて行く「ふつう」の 意味や尊さ自然さを感じ、学ぶはずなのだけれども。

 その後反対していた人も、前もっていろいろ条件を付けることで譲歩してくれ、平成十五年度の最後には国の予算もついた。
「ああ、やっと実現するわ」と喜んでいた最中に、仲間の一人、若いお母さんがこんなうわさ話を耳にしてきた。この人にダウン症の赤ちゃんが居るとは知らな いで、上の子の幼稚園仲間の親が、たわいないうわさ話として、こんなことを言ったのだ。
「**さん、この近くに心障者施設が出来るの、聞いています? この辺の雰囲気が変わってしまいますね。バスからフラフラ障害者に降りられたらいやですね え。」
「………」と、私。
「でも……私、その人を責めること出来ませんの。ダウン症の子どもが生まれてなかった一年前なら、私だって、少なからず同じ気持ちを持った、口にしたかも 知れないから。
でもね…この二つの世界の隔たりが、あんまりにも大きいと実感させられて。私、二三日落ち込んでしまって……。ねえ。どうしたらこの距離、が縮まるのかな あ」
 そのお母さんは、重い口つきで、苦しい胸の内をそう話し続けて私の顔をじっと見た。
 本当に…、どうすればこの距離が縮まるのだろう。
 
   5、ファミリーレストラン

 それでも、嬉しいことに社会の障害者への理解は、確実に進んで来ている。
 ここで、息子の仕事の話をぜひしたい。

 我が家のS郎が養護学校高等部を卒業し、ファミリーレストランD社南阿佐ヶ谷店の厨房で働くようになって十年を越えた。
「ああ、三日続いた」
「三週間続いた」
「三ヶ月たった」と、ほっとした就職直後の緊張も、今は懐かしい思い出だ。

 今私達が住んでいる杉並区の区役所の真ん前、けやき並木に面した瀟洒な構えの店が息子の職場だ。店は年中無休二十四時間営業だが、息子の勤務は週五日、 朝の九時から午後四時まで年中同じで、盆も正月も連休も働く。コックさんが着るような立て襟ダブルの白衣を着て、食器洗い機に入れる前のお皿やカップを下 洗いし、大鍋や炊飯釜の汚れを落とし、灰皿を洗う。機械で洗い上がった食器を所定の場所に納める。食材が配送されてくると、これらを倉庫、冷蔵庫、冷凍庫 の所定の棚に納める。
 このような仕事が最初からスムーズに息子に出来たわけではない。高等部三年時の始めての実習で、どれよりも簡単だろうとあてがわれたナイフやフォークを みがく仕事でも、布巾を使いのろのろと一本ずつ拭くのがやっとこさ、とても業務にはならなかったのだ。

 知的障害者が一般の職場で就労するのが難しいのは、常識。ダウン症児の中でもうちの息子は特に能力が高いわけでなかったから、そんな仕事は望んでも無理 な夢だと半ば断念しかけていた。それでも試しに、小さな印刷所に三週間の実習に出してみたら、彼は「ふつうの職場」が、とても性に合ったようだった。ぼろ くそにしかられても、同じしくじりを毎日繰り返しても、彼はいそいそと勤めに出て行き、短い期間にもかかわらず親にもはっきりとわかる変化、成長を見せ た。
「先生。息子の能力から言って難しいのはわかっています。でも、私は一般就労(知的障害者の世界では、普通の職場で働くことをこう呼び、福祉作業所などで 働く福祉就労と区別している。)させたいのです。だって、彼は福祉作業所へ実習に行ったときより、この前の印刷屋さんの時の方が、ずっとずうっと、生き生 きとしているんです。」
 就職担当の青年教師H先生は、困惑しつつも私の言い分に共感してくれた。そして苦労の末に、都内養護学校の就労担当教師の連絡会でファミリーレストラン D社の障害者雇用の話を見つけて来てくれた。
「ファミリーレストランで働いてみますか? 私達にも始めての所で、様子はよくはわからないのですが…ね」
 この話に私は飛びついた。
「アメリカでは、マクドナルドのハンバーガーショップで、ダウン症の人が働いていると、数年前から聞いています。日本のダウン症の人にも、この種の仕事は きっと出来ると思います。やってみます。ぜひ、やってみたいです。やらせて下さい」
 こうして高等部三年の一学期、三週間の実習が始まった。その時の仕事ぶりは前述の通りである。実習の終わる頃には少しは進歩し改善されたとはいえ、息子 の働きぶりはD社の人事担当者を当惑させたようだった。

 D社の本社人事部が本格的に知的障害者の雇用に取り組み始めたのは、その二年前からなのだが、動機が面白い。
 我が国には障害者雇用を促進するために法定雇用率というのがあり、企業の規模に応じて雇用すべき障害者の人数が定められている。しかしこれは努力目標 で、殆どの企業で達成されておらず、代わりに納付金が支払われている。D社もそうだった。
 一人の営業マンが人事部へ異動してきて、自分達が汗水垂らして稼いだお金が、*千万円も、何の見返りもなく政府の外郭団体に納められていると知って「く やしい」と思った。タダで持って行かれるくらいなら、どんなわずかな仕事でも良いから障害者にやってもらおう。納付金をそっくりその人達の給料に充てよ う。(なんという、的確な発想!!)
 このプロジェクトを実際の軌道に乗せるには、さすがに、いろいろ苦労があったようだが、息子が実習を始めた頃はすでに二十名の知的障害者が、D社の、方 々の支店で働いていた。

 夏休みの終わり頃、担当のH先生の所へD社から相談があった。有り体に言えば、うちの息子の仕事ぶりがあまりにもおぼつかないので、この上秋に二度目の 実習を重ねたとしても、採用は難しいかも知れない、という通告だった。
 今更そう言われても他に心当たりはなく、なにより当の本人が大いにこの仕事を気に入っていて、彼としては精一杯懸命に頑張っているのである。ここは…、 よし、踏ん張り所だ。
 その事を私達親子に伝え、どうしたものかと悩む先生に、私はこう言った。
「実習をして、その結果が不採用でもかまいません。私達親子はこの仕事に賭けます。採用されるよう努力します。同世代の高校生の大半が、大学受験で浪人し ているではありませんか。どうしてこの子達だけが、高校卒業時に進路が決まっていなければならないのでしょう。駄目だったら再挑戦すればよいと思いま す。」
 先生はパッと愁眉を開かれた。
「親御さんにそう言ってもらえれば、そりや気が楽なんです。そう言えば、僕だって浪人したりしてたもんなあ」
 
 それから先生はD社の人に、自分達がどの様にして生徒達をここまで育ててきたか、今出来ないことでもやがて出来るようになる可能性を、
「彼らは持っています」と、切々と説いてくださった。
「あの先生の熱意に打たれたんです」と、採用が決まってから人事の人は私の顔をしげしげと見ながら言った。そして、にこっとされた。
 今度は本社人事部のその人が、息子の面倒を見るのを不安がる店長を噛んで含めてなだめすかすように、説得してくれた。だから採用が決まった時は、本人、 家族、先生に加えて、本社の人達も心から喜んでくれた。

 こうして沢山の人の心意気で、息子の就職は叶った。鬼軍曹を彷彿とさせるようなパートのおばさんが毎日厳しく仕事を仕込んでくれた。その厳しさに、なに も障害者にそこまで言わずとも、と思ったことは幾度もあったのだが、そのお陰で息子は一応の仕事がこなせるまでに成長した。やさしくいたわっているばかり では伸びない。とは言え、あのしごきに近い指導に耐えた息子のタフさに私は敬服している。

 この店で、一目で障害者とわかる息子が毎日元気に働く姿は、予想した以上に多くの人に感銘を与えている。
 こんなこともあった。ダウン症の子供を出産し、自分の将来はどうなるのだろうと憂いつつコーヒーを飲んでいた母親の目の前に、元気よくダウン症者の従業 員が現れた。
「私もきっと、育てて行ける!」
 この人はそう確信してくれたそうだ。
 お店の人達一人一人の、少しずつの協力と理解で支えられて障害者が働く、このような職場の様子がもっと社会に知られて良いと思う。福祉施設よりも経費が かからず、しかも本人の収入はずっと多い。第一本人が生き生きとしている。よいことずくめのように私にには思われるのである。

「十年も同じ仕事で大丈夫でしょうか? 飽きてこないでしょうか?」と本社障害者雇用担当の若い女性に訊ねられたことがある。
「いいえ、大丈夫です」
 ゆっくりと成長するうちの息子は、普通の人なら一週間もすれば身に着くことや気付くことにも、何年もたって、
「ああ、そうか」と納得している。
 知恵遅れ、とは良く言ったもの、僅かづつではあるが知恵が進む彼にとっては、職場はいつまでも日々新鮮らしい。まだまだ、この先当分は飽きたりはしな い。私はそう想う。少しでも長く、今の職場で元気に働けますように。そう祈っている。

   6、あんたは正気か?

 そんな息子の一番の趣味が、音楽。
 三歳頃だったか、やっと彼が私達に示してくれた“意味の有る行動”は、炬燵の上で歌い演じた当時流行の「電線音頭」だった。歌も好きだが踊りも得意、大 きくなってからは時々二人で音楽会やミュージカル観劇に行くようになった。

 渋谷オーチャードホールでミラノスカラ座版“ウエストサイドストーリー”を息子と一緒に観た。その夜は、通り一遍に素敵なミュージカルで感激したという 以上に、私達親子には身体の中からこみあげてくるものがあった。

 十年前、彼が卒業した養護学校の仲間たちと、学芸会の延長のようなミュージカル”サウンドオブミュージック”を養護学校の体育館で発表した。好評だっ た。なによりも、やったもの達が楽しかった。すっかり味をしめてしまった。
 発表会が終わった後も、その時参加したメンバーに会うたび私達世話役は訊ねられる。
「おばさん、次の練習はいつですか?」
「次はどうしよう?」
「ウエストサイドストーリーをやりましょう」と言い出したのは、私だ。
 その有名なブロードウエィミュージカルを、私がそんなに良く知っていたわけではない。大評判をとったその映画化作品さえ、まだ見ていなかった。ただ上の 子供の高校文化祭で生徒が大胆に上演していたのが強く印象に残っていた、だから私達の子供だって同じ若者だもの、出来るんじやないと単純に思っただけであ る。

「あんたは正気か?」
 ウエストサイドストーリーをやると決めたら、私達はみんなにそう言われた。
「台詞がちゃんと言えないだろう?」
「足があんなに高く上がるのかい?」
「童謡でさえ音をはずす人たちに、あのバーンスタインの難曲が歌えるのかい?」
 いちいちもっともな「?」だけれど、障害者が出来ないことを列挙などしたら、きりがないではないか。
「台詞がわからない、だから筋がわからない、それでも良いじゃないですか。ヨーロッパ公演で、日本のお能に向こうの観客が感動するのは何故ですか? 彼ら に日本の古い昔の言葉がわかり、謡曲を理解出来るからですか?」
 私は無茶苦茶な論理で反駁した。
 
 ご本人達に聞いてみた。
「どんなものをやりたいの?」
「恋をするのが良い」
「”愛しています”っていう台詞があるのが良い。」
 なるほど、希望ははっきりしている。同じ質問を親ばかりのところですると、
「あの人達は年齢(とし)は大人でも中身は幼いんだし、やっぱりメルヘンチックなのが良いわねえ。白雪姫とか。」となる。
 この落差。障害のある青年達への無理解は、一番身近な親から始まっていることを知る。障害者のやるミュージカルに安全パイなんかない。
「やろうよ、やってみよう。」

 いろいろなことがあった。信じられないようなむちゃくちゃな頑張りと、多くの人との幸せな出会いに支えられて、とにかくその二年後、私達は三鷹公会堂の 満席の観客を感動させることが出来たのである。
「下手だけれど、心を打つ」とは観客の一人がアンケートに書いて下さった感想だが、息子の歌った「ワンハンド・ワンハート」の二重唱も、少し音ははずれた けれどしみじみと誰の心にも響いた。私は、そう感じた。
 
 言い忘れてはならない、私達母親もみな舞台に上がったのである。
 最初は後見役のつもり(実際そのようなこともした)が、やっている内にじわっとやみつきになり、そして本気になり、舞台上で演じる事により親も又これま でになく心が開放されたのである。障害のある子供を持ちその子と共に過ごした二十年以上にも及ぶ人生の、心の澱(おり)を、あの有名な”アメリカ”の歌と リズムとに乗せて、もう、やけくそのように振り払った。その姿もまた、見る人の感動を誘ったらしい。
 この頃からこのグループは、養護学校同窓会の「若竹会」にちなんで、自然に「若竹ミュージカル」と名乗るようになった。

 東京池袋から埼玉所沢へ向けて走る西武電車が、都内東久留米駅を過ぎてすぐ、右手に武蔵野の面影を残す丘を背負って、さして大きくない学校が見える。こ こが若竹ミュージカルの生まれたところ、T大学附属養護学校。
 この学校では昔から、学芸会、正確にいえば授業の一環としての「学芸発表会」が、一年中で一等寒い二月末に盛大に催されてきた。幼稚部、小学部、中学部 それぞれの生徒の熱演のあと、プログラム最後には必ず高等部全員で出演する劇が上演される。最後の場面の幕が下り、再び上がると、カーテンコールの最前列 にその年卒業する生徒が並んで、
「僕たち、私達はもうすぐ卒業します」と、挨拶がある。
 高校の卒業といえば、普通は洋々とした前途への門出が祝われるもの。しかし知的障害のある子供たちにとって、学校を巣立ち社会に出ることは、先の見えな い荒海へ乗り出すのと同じ、とても心細い。この日のように晴れがましくライトを浴びることは、もう生涯ないのではないか…と、そう思うと親はもとより、観 客もみな、拍手しつついつもいつでも、胸が、痛いほど一杯になるのだった。

「あの時の感動をもう一度味わいたいわね」と、養護学校創立40周年記念行事の一環として、かつての学芸会のスター達が集まり、体育館で「サウンドオブ ミュージック」を上演したのが「若竹ミュージカル」の萌芽となったのである。
 この「若竹ミュージカル」活動は順調に続いている。十年経った今、それは単なる余暇活動ではなく、メンバー一人一人にとっての生涯学習、大切な生活の一 部、生き甲斐になっている。自主公演、招待公演など重ねて、レパートリーも増えた。世話役の親達は確実に十歳、としを取ってしまった。しんどくなって来て はいる、が、やめるにやめられない、のがほんとうのところ。
 そんな私達へ
「立派な活動をなさってますね」と声をかけてくれる人はあっても、
「正気ですか?」と聞く人は、もういない。だから…、なんとなく停滞している、つまらない、と私は感じ始めていた。
 
 私達親子は久しぶりにウエストサイドストーリーの舞台を観て、自分たちに失われたものがいろいろ思い起こされて、こみ上げて来たのだ。息子は自分が演じ た役を思い出して休憩時間には”ジェット団員の歩き方”でトイレに向かう。しかし彼もあの日のようにはもう若くない。でも、私と同じ気持ちらしく、
「また、やりたいよ」と言う。
「もう一度、やりたいねえ本当に。」   

 次の練習の日に、
「私、もう一度ウエストサイドストーリーをやりたいの。今度やる時までに、まず体重を三キロ減らす。毎日腹筋運動をする。今度の舞台では髪の毛も染める わ」と言ったら、仲間達が、
「あなた正気なの?」と六十五になる私を笑った。
 もちろん、正気よ!

   7、なまえ

 まだ私も夫も学生だった頃、京の鞍馬から貴船まで歩いたことがある。貴船川の向こう岸に咲くヤマブキを指さして、
「スミレが咲いている」と彼が言ったので、私は腰が抜けそうにびっくりした。以来一緒に歩いていると彼は用心して、必ず、
「あれは何という花か」と先手を打って訊いてくる。
 ところが、実のところ私も植物の名前を覚えるのが苦手で、何度教わっても、何度図鑑で調べても、すぐ忘れてしまう。だから大学での専門科目である「薬用 植物学」は六十五点の低空飛行だった。有名どころはまずまず大丈夫としても、少し珍しいのになると憶えられない。
「頼りないなあ」といつも夫に言われる。

 言い訳ではないが、私自身には、名前なんぞわからなくてもあまり不自由がない。あの花……と思えば、出会ったときのこと、色も形も香りも、その日の天気 も、周囲の地形も、一緒にいた人も、そのまま一つのシーンになって浮かんでくるのだから、名前は所詮二の次なのである。だから、ちっとも名前が覚えられな いのだと思う。
「名もない花」とか「名も知らぬ花」とかいうけれど、それほど名前は重要なのだろうか? もちろん分類や同定に名前の必要なこと、言うまでもない。でも、 植物自身は自分がどんな名前を付けられているかなんて、当然にも全く意識していない。花は人間の付けた名前と関係なく美しく存在している。植物とのじかの お付き合いに、人間の都合で付けた名前は関係がないと思う私は、たんに屁理屈をこねているだけだろうか。

 私は名前(姓)に、大袈裟にいえば、振り回され立ち向かい続けた人生だったと思う。父の長兄のところに子供がなくて、父が準養子とかいう名目で跡取りに 昇格し、しかし私の前に生まれた男の子がたった半年で早世しその後弟も生まれなかったから、まわり廻って私に「跡取り娘」という身の上が降りかかって来 た。
「あなたは跡取りよ。婿養子さんを迎えて家を継ぐのよ」と言われても、それはありがた迷惑というものだった。それでも、そう言うものかなあと思って育っ た。母は、
「あんたはお嫁に行(い)くわけやないから」といって躾けをゆるめた。これはありがたかった。

 大学で知り合って結婚したいと思った友人(つまり夫だが)は、男兄弟四人の三男だったから、偶然にも婿養子に最適だった。でも、「いやだ」と彼は言っ た。彼の父上は「本人が承知するなら、かまわない」と言ってられたようだが、それでも「いやだ」と夫は言った。
 理由を、それ以上詳しく彼は説明しなかったし、私もその方が良いと思って訊かなかった。家を継ぐといってもとうに商売はやめていたから、要は「姓を継 ぐ」ことが意味を持っていた。新憲法下で家制度はなくなり、姓も、ただ、夫妻のどちらかの姓を「選択する」ことになっているけれど、実際はそんな簡単なも のではない。もし親の希望通りに私方の姓を名乗ったら、古い家のしがらみに私達二人が絡め取られそうな危惧も恐怖もあった。結婚することでそのしがらみか ら、京都の古い家のもつ息苦しさから、私は、たぶん夫も、抜け出したかったのである。
  
 そんな次第で、途中経過のいろいろはあったけれど、とにかく結婚出来た。私は夫の姓になっても別に夫の家に”嫁入りした”と思っていなかったし、また、 そんな私の我が儘を夫の両親は許して下さった。
 婿養子を取らずに家を絶やしたと親類のうるさ方から非難を浴びたのは、私本人よりもむしろ両親だったので、
「悪いことをしたな」とは、思った。でも、子にも、親の顔を立てられることと、立てられないことが、有る。
「ごめんね、父さん。ごめんね、母さん…」である。

 その後私達夫婦と私の両親は、結局東京で隣り合って暮らすようになったのだが、孫が次々に生まれ楽しく和やかな日常が綴られても、父も母も終生この事に はこだわっていたようだ。

 私に二人目の男の子が生まれたときには、これぞ天の与えたもうたチャンスとばかりに両親は喜んだ。次男に姓を継がそうと考えた。私もやや無責任に「それ も良いか」と思い始めた頃、この子に先天異常があり、知的障害のあることがわかった。それと知って、ぷっつりと、父も母も姓を継がせる話をしなくなった。
「跡取り」なんて、結局そう言うものなのね、障害のある子は「跡取り」にはなれないのね、もう跡取りにしたいとは言わないのね、と、私はかえってすっきり とした。でも、そんな両親に、私は今もこだわりを持っている。
 
 父の葬儀の時に親戚の人たちが集まってくれた。どこも殆どが代替(だいが)わりして若い世代になっていた。跡取り娘を家から出したと父や母を非難した人 たちも、もうあの世暮らし。あとを継いだ人たちには、親類に跡取りが居ようが居まいが大した関心事ではなく、それより、私の両親が晩年を娘夫婦や孫に囲ま れて過ごせたことを、
「幸せだったね」と、みな素直に喜んでくれた。
 何と言われようと私にはこの選択しかない、きっといつかはわかってもらえる、例えわかって貰えなくても良い…と、必死だった二十代の自分がいとおしく思 い起こされた。
「これで良かったのよ、もと子ちゃん。」とそっと自分に向けてささやいた。

 因果はめぐると謂うか、長男が結婚した相手も一人娘だった。こちらさんは別の事情で姓にこだわった。なにしろ母上が筋金入りのフェミニズムの論客、夫婦 別姓論者だったのである。当然のことに息子の結婚相手である彼女も別姓論者だったが、入籍しないわけにも行かない。とりあえず戸籍は夫の姓、仕事などで使 う通称は旧姓のまま、ということで落ち着いた。娘を手放すさみしさと主義を曲げた娘への怒りが共鳴して、母上は大層な不機嫌だった。
 若い二人はそれに耐えた。息子は、
「僕達さえちゃんとしてれば、そういうことは、いずれ何とかなるものです」と妙に落ち着いていて、妻である人の母親をビックリさせたそうだ。その話を伝え 聞いて嬉しかった。私と私の親との関係を身近に見て育った息子は、彼なりにそのような見解に達していた。そう想うことが出来た。
 息子夫婦も結婚して十年の上を経て来た。母上の怒りはとうの昔に氷解してさも楽しげな親子仲に見えている、が、もしかしたら、まだ根に持ってられるやも 知れない。

 夫婦別姓に関する世間の議論を聞く度に、まだそんなこと言い合ってるのかあ、と思う。どっちだって良いじゃないの、親から子に伝わるものが言葉で表せな くても、形で残っていなくても。大切なものは、もっと他のところにあるのに……。乱暴な謂いようかも知れないが、姓名など所詮は記号、そんなのに自分の人 生を振り回されて、たまりますか。
「なまえ」って、いったい、体何なの?

   8、子どもが生まれる-1

「ちょっとニュースなの。子どもが出来たらしいの」と、娘の弾んだ声で電話が掛かってきた。
 結婚したとき三十歳を過ぎていたし、結婚後もアメリカへ行ってたりして、早や三年余が過ぎ、
「お待ち遠様!」の朗報であった。長男夫婦のところに子どもがいないので、私達にとっては始めての出来事、嬉しくて、そわそわしている。しかし、お産に絡 んでいろいろな出来事を経験した私は、無事に生まれてくるまでは、とうてい手放しで喜べない何かがある。どうか、どうか無事に、元気で生まれてきてね、と 祈っている。

 ところで、まだ妊娠三ヶ月にもならないのに、最近はエコー検査でもう赤ん坊の姿が見えるという。良いことだと私は思う。自分の身体の中で生命を育ててい る、ということがビジュアルに実感できれば、自然に大切に思う気持ちが起きてくるだろう。
 何ヶ月目からが「人」かの議論もあるけれど、やはり受精した時からもう「人」だと思うのが自然ではないか。その「人」の性別はもとより、身体的特徴、性 格や能力、病気になりやすさ等々はDNAで七割がた決定している、と言う学者もいる。とすれば、娘のお腹のなかで分裂中の子どもが、どんな子で、親達周囲 を将来どの様に喜ばすのか、悩ますのか、悲しますのか、そんな事までもうあらまし決まっていると、そう想うと、とても不思議な気がしてくる。じたばたして も仕方ないのやなあ、と妙に諦観の気分。心地。
 娘が見せてくれたエコー写真には、“ちょっと芽を出したお豆”のような小さな小さな胎児の姿がはっきり見て取れた。

「どこで診て貰っているの?」と聞くと、住まいの近くの、たまたま幼なじみのJ子ちゃんがこのあいだ出産したところ、とのこと。そして、
「初めは、みんな里帰り出産だから、私もそうするわ」と言う。”里帰り”なんて言葉が、ここにだけ残っているのが面白い。
「うちの近所でとなれば、やっぱり、あなたの生まれた同じところ、T産婦人科だよねえ。最近インターネット・ホームページがあるそうよ。見てごらん」
 T産婦人科は我が家から五分とかからない、一本道のブロックで二つ先にある個人病院。長男やこの娘(こ)を取り上げてくださった先生は亡くなって、今の 院長先生はご子息。いずれも東京では珍しく京都大学医学部の出身で、私には先輩筋。今の院長先生にも私は全幅の信頼を寄せているのだが、あまりにご近所過 ぎ、娘には値打ちがピンと来ない様子で、
「あの、きたない病院でしょ?」なんて言っている。ホームページを見て、やっと色々わかって安心したらしい。私も覗いてみた。医師の良心をなんとかして伝 えようとする心のこもった内容であった。

 里帰り、と簡単に言ってくれるがこりゃ大変だ、大掃除しなくてはならない…。でもまだ九ヶ月近くあるしと、待ち遠しいくせに、こんな時にはまだ時間のあ るのが有り難い。この間植えたチューリップの球根が芽を出し、花が咲いて、枯れてしまった頃に産まれるのやなあ、まだまだ先のことやなあ、とか、何を見て も聴いても結局そこへ思いがつながって行く。 
「子どもが出来た」と告げたときの私の親たちも、きっとこんな気持ちやったんや、そうやろなあ…。
 最初の子を私は流産したのだ、がっかり落ち込んだのは自分だけでなくて、さぞかし父も母もそれは落胆させたことだろうと、今頃申し訳なく思う。子を持っ て知る親心とは本当に本当だ。
 だから、娘には、
「気をつけなさいね」とばかり言ってしまう。
「私もいい年だし、失敗したら時間のロスが勿体ないもの、気をつけてるわ」
と、娘はしおらしくも、ドライに素直だ。

「子どもが出来て本当に良かったね」と言うと、娘は、
「人工授精した人とか、不妊治療がんばったって人も結構いるのよ」と、私も知っている彼女の友人の名まえを何人も口にする。勿論その人達はみな成功例で、 目出度く子どもが産まれたから「実はね……」と打ち明けられた。目下努力中とか、くやしく諦めた人も少なくないはず。できちゃった婚もあれば、予期せぬ妊 娠で運命が狂った人もいる。人が生まれると謂うのは、まこと、大変なことのだと今更にして思う。

   9、子どもが生まれる-2

 月日は経ち、あの秋に球根を土に埋めたチューリップは、見事な花を見せてくれた。私はその花で、“チューリップのある静物”という絵を一枚描いた。描き ながら、娘の出産に備えて掃除や片づけものに励み、買い物に出れば必ずベビー用品売り場をうろつくようになった。
 娘は、彼女がお腹にいたときの私の姿に似て、大きなお腹を前に突きだしている。そのお腹をなでながら、
「お母さん、S郎がお腹にいたときも元気に動いていた? それとも、やっぱりダウン症だったから動きが弱々しかった…とか、思い当たることがあって?」と 聞く。
「ぜーんぜん。あなた達の時と変わらなかったわ。元気に動いてたわよ」
「そうか。だったら、この子だって……そうかもね…。まッ、いいか。」
「そうよ。だからS郎はとびきり丈夫なダウン症なのよ」

 S郎は普通の21トリソミーなので、遺伝の心配はないといわれている。
 私は一時、S郎の主治医だったI先生の研究室を手伝っていたことがあり、その時、染色体分析の手ほどきを受けて、自分やS郎の血液をサンプルに標本作り の練習をした。S郎から採った血液からリンパ球を分離し細胞分裂させて作成したスライド上には、どの細胞にも、蛍光染料に染められた21番染色体が、蛍の ように可愛く三個ずつ入っていた。同じように私の血液から作ったスライドにも、当然21番は二個ずつだった。
 S郎の47個の染色体は紛れもなく私と夫由来のものである。私達の子ども以外の何ものでもない。だから、たかがダウン症、なのである。ちょっと蛍が一つ 多いだけのこと。

 それにしても、医療技術がどんどん進んで、とんでもない事もわれわれは“自己決定”しなければならなくなった。
 羊水診断が普及し始めた頃から、ダウン症胎児は、まず手始めに恰好の標的となった。なぜダウン症が? 簡単にそうと分かるからである。では、その後をど うするか、それは自己決定して下さいと言われてしまう。分かってしまえば大概の人は出産を躊躇し、中絶が容認される。
 出生前にわからない先天異常ほど、お見逃し。障害の深刻さや療育の難易度も問題にされない。どじなドロボウが簡単に捕まって、警察が逮捕実績を作ってい るような按配。真っ先に命の灯を消されてゆくのが、ダウン症胎児た、可哀想に。そうと知っても出産しますという例外の親も存在はするが、勿論、ごく少数。
 私が第三子を妊娠した当時は、羊水診断は特定の医療機関でしかやれない高度な技術だった。医学部薬学科という所で学んだ私には、ダウン症についての一応 の知識はあったし、羊水診断も知っていたが、あまり自分の身に当てはめて考えはしなかった。ある確率でいろいろな先天異常の起こるのも知ってはいた、が、 それがこわくては子供は産めない。産むからには、
「矢でも鉄砲でも持ってらつしゃい。どんな子供であろうと育てます」と、一応の覚悟…を、私はしていたのである。
 当時、大都市から離れて住んでいた事もあり、生来がものぐさの私は、自分が高齢出産でダウン症のリスクは高いと知っていても、それくらいの事ではるばる 都会の病院に行き検査を受けるなんて面倒くさいことは考えもしなかった。

 生まれた子が、ダウン症――とわかった時も、
「おや、当たったか…」と、師走の二十六日日だったこともあって、歳末大売り出しの抽選で自転車が当たったかのような驚き方だった。勿論私とて人並みに、
「間違いじゃないの?」とか、
「困ったことになったなあ」とは思った、が、ダウン症児が生まれた事を他の人ほど不思議とは思わなかった。ダウン症とはそういう”偶然に起こる先天異常” だと知っていたからだろう。

 少し年月が経ってから、
「羊水診断を受けなくて良かった」としみじみと思った。受けていたら、当然妊娠中にダウン症児とわかっていたはずである。
「そうしたら……どうしてたやろ?」
 知ってながら産んで育てるほど私は強い人間ではない。諦めただろう、きっと。同時に、それで「難」をのがれる事の出来た自分を「賢明」と思えるほど私は 単純な人間でもない。自分の決定で一つの命を絶ったという重荷が、きっと、終生ついて廻ったろう。道でダウン症の人に会うたびに、自分の決定で生まれるこ との出来なかった子の姿を、そこに重ね合わせるに違いない。
 障害児を育てるという重荷を実際に背負うのと、精神的に子殺しの重荷を背負うのと、
「どちらが、大変なこと?」
 私には、前者を耐える方が向いていた。第一、ダウン症児は始めに思ったほどの「重荷」でなんか、なかった、のだ。「知らぬがほとけ」とは、ほんとうに、 良く言ったもの。
 
   10、誕生

 猛暑の中、予定日きっかり、無事に娘は女の子を出産した。体重は2.7キロと小さめながら動きの良い赤ん坊で、目を開けるとパッチリと黒瞳(ひとみ)が 大きかった。張りのある皮膚やくっきりした顔だちから、お互い口には出さないが、
「絶対、ダウン症ではない」と娘も私も確信した。
 目は、鼻は、口は誰に似ているかとひとしきり賑やかに詮索をしながら、みんなも喜び安心した。ふつうの子。なんと有り難いことかと感謝した。

 勿論、「ふつう」でなかったからと云って困惑しない覚悟は、私には、恐らくダウン症の弟を持つ娘にも、あった。それでも正直に言って、赤ん坊の元気な姿 を確かめ、二人とも手放しで嬉しかった気持ちに偽りはない。Mと名付けられた赤ん坊はしっかり乳首に吸い付き、ちいさな顎をこくこくと動かしてお乳を飲ん でいる。なんとなく弱々しかったS郎の乳を飲む姿がふと想い浮かび、不安をうち消そうと努力しつつも悲しく悲しかった母親「我」が思い出された。
「やっぱりこんなに違うのね」と今更ながらS郎がふびんで、胸が痛い。

 ”おじさん”になったS郎は、勤めのない木曜日に早速産院へ出向いて、少しく緊張しの面持ちでちっちやな姪っ子と初対面した。その足で彼は駅ビルのおも ちゃ屋へ駆けて行き、
「Mちゃんによく肖ているよ」と、小さなピンクのぬいぐるみ人形を買い、お七夜のお祝いの席でプレゼントした。
「可愛いねえ」と少し距離を置いたところからじっと見守っている彼もまた、心からMの誕生を喜んでいるのだった。
 S郎の存在がみんなに一抹の不安の陰をもたらしていた事など、彼はみじんも気付いていない。
「お姉さんにMちゃんが生まれました。可愛いです」と彼は会う人ごとに宣伝している。
 ごめんね、S郎よ。

 私の住まいは二軒の家が庭続きに建っていて、一方には、元は私の両親が住んでいた。二人が他界した今、ふだんは空き屋状態であるが、そこに仏壇もある し、京都の家から持ってきたもろもろの家財道具が何となく処分しかねてそのまま置いてある。
 里帰り出産の舞台はこの家と決まった。仏となっても未だにこの家に住み着いているような私の両親にとって、これは、無上の喜びにちがいない。きっと曾孫 の無事の誕生を見守ってくれるだろうと心強かった。
 産院から赤ん坊が帰ってきた時、早速仏壇を開いて報告したかった…けれど、ちょっと変な気もしたので、人の居ないときに、こっそり扉を開いて「…曾孫で すよぅ」と赤ん坊を見せた。黒い位牌がほうっと照った気がした。
「家とか氏とかはともかくとして、あなたがたの血は受け継がれましたよ、これで勘弁してくださいね」と、私は両親とご先祖さまに語りかけ、扉を静かに閉じ た。

 部屋中にベビー用品が広がり、お乳とおむつの香りが入り交じって、家は甘く活気に包まれた。娘の幼なじみの先輩ママや、親類、友人と祝いの人が次々に出 入りして、暑さとあいまってもう私はふらふら、くたくた、になった。しかしそれもみんな赤ん坊の寝顔やしぐさに癒される。朝起きて、
「おはよう、Mちゃぁん」と声をかけるたび、赤ん坊はなんとなく大きくなっていた。
 
「ちょっと見ていてね」と娘に頼まれると、私はスケッチブックを持ってMのそばに陣取った。赤ん坊を写生するのは生まれて始めてなので、最初に描いたもの はぎこちなく堅かった。次第に柔らかい線が引けるようになって気付いたことだが、赤ちゃんの輪郭は定まらない。大人を写生すると線にその人のはっきりした 個性、輪郭が現れてくる。その瞬間瞬間にも細胞が増殖し成長している新生児は、輪郭がふわふわと動き続けているような気がした。そして沢山のスケッチを私 の手元に積み重ねて、赤ん坊は日々変化し順調に育っていった。

 一ヶ月検診を無事に済ませた翌日、日盛りを避けて暗くなってから、ベビーバスやら一切合切後部に積み込んだ車の、ベビーシートの中にMは埋め込まれるよ うに入れられて、パパの運転で”我が家”へと出発していった。帰って行った……。四月から大工を入れ、畳をかえ、障子を貼り替えた娘と孫との座敷は、とり あえず役目を終え、急に広々と、この部屋から父や母が逝った時よりももっと寂寥感を漂わせていた。 

   終章 ふつうのくらし

 朝七時に私の目覚まし時計が鳴る。洗顔し、門扉を開け新聞を取り込む。七時半には夫に声を掛け、四十五分にはトントンと二階へ上がり、
「おはようS郎、朝起きの時間ですよぅ。今日も、元気でがんばろう」と息子に声をかける。
「もうちょっと待ってぇ」と、返事も毎朝同じ。
 やがて二人は機嫌良く目覚め、いつも通りの朝食をそそくさととり、それぞれの仕事に出かける。私は日中の仕事に励む。

 勤めを終えて順次帰宅、お風呂に入って、
「家でのご飯が一番おいしいね」とか言いながら三人で夕食を賑やかにとる。
 夫と私はその日のおかずに合わせて、ビール、ワイン、日本酒、時には焼酎、泡盛などを飲み始める。もはや成人ではあるが、S郎はアルコール類を一切飲ま ない。勧めても、
「僕は飲みません」と意志ははっきりしていて、逆に、
「お父さん、お母さん、やめておいたほうが良いよ。すぐ寝てしまうんだから。それに、肥るよ」と親の痛いところを突いてくる。
 その間にもテレビで野球中継なんぞ見て、三人三様に異なるひいきチームの勝ち負けに一喜一憂する。それからスポーツニュースをハシゴして、十一時過ぎて やっと寝る。

「ふつうのくらし」とは、こんなものだろう。今、私の家族は「ふつう」に暮らしている。

                                (完)