「e-文藝館=湖(umi)」 小説

ほしあい みやこ   作家  香川県在住。1941年 京都市生まれ。京都大学薬学部卒業、早稲田大学文学部哲学科中退。
 香川県の「瀬戸内文学」同人を経て、1989年同人誌「滴」の発刊に関わり、以後  「滴」に同人として所属。現在「滴」編集人。
 初出 同人誌「滴」26号 2013年発行 (2016 11 01掲載)  (秦 恒平)



 

   似たひと 

                             星合 美弥子 

 

 

 テレビから、暮れのドキュメンタリー番組が、夕刻の居間に流れていた。
 岩手県の遠野を訪ねた女性歌手が、小学生のグループに土地の民話を、土地の言葉で話してもらって聴く、というものであった。
 柳田國男の「遠野物語」で知られるこの地方は、民話の宝庫である。
 指導される先生を中心に、方言で語られる話は、木綿の筒袖の着物を着た小学生の声とも、土地の精霊たちの声とも分けがたく、すぐそこに「座敷童子」の足音が聞こえてきそうに、迫真的で、それなのにのどかだった。
 訪ねた歌手も、カジュアルな格好で、
「その話、誰にしてもらったの」とメモを取りながら興味深げに尋ねる。
「おらえのばぁちゃん、もういねけど」
 坊主頭が答える。
「いいお話、してもらったね、話しかたを忘れないようにしてね」
 ちょっとハスキーな声で、歌手はしみじみと言う。
 その深いブルーの長いスカートをはいた歌手を見ていると、わたしの中で急に何かが溶けていくような、なつかしい情感が動いた。どうしてなのか。
 テレビは画面が変わって、海際の体育館の広い床を映し出していた。段差もない舞台にマイクを手にした先の歌手がいる。大勢の人たちがいる。
 ―― ほんとうに、おおきな津波でした。たくさんの方が、大切なひとを亡くされ、家を失くされ、つらい思いをなさっています。この東北の地が回復するのにどれほどの努力が要りますでしょう――
 という意味のことを彼女は言った。「私にできることは、歌をうたうことしかありません。聴いてください。そして、どうぞみなさん一緒にうたってください」
 幾分かすれた声で「知床旅情」をうたい出した。
 歌手は短く切った髪をディップでかためて軽く立てている。若くはないが、そんな流行の髪がよく似合う。それでいて、普段着の土地の人たちから浮き上がってもいない。
 落ち着いた年齢の醸し出す陰影が、悲しみにほんとうに共感していることを聴く者に伝える。
 ♪はるか国後に白夜は明ける
 そこのところまできたら、どうしたのか、思いがけずに涙が湧いてきた。
 どうして涙が出るのだろう。よく知っている歌なのに。歌手のうたう顔をみていると、なぜか、胸に迫るものがある。
 そのたたずまい全体から、ことに短い髪や重ね着してスカーフを無造作に首に巻いた感じから、私を和らげる気配がくる。
 涙が流れるのをそのままに、ようやく気がついてみれば、歌手は友人Eに似ているのだった。
 そうだったのか、と納得しながら、Eを失って、今更ながら、自分の深いところに空洞ができていることに衝撃をうけた。

 今年二〇一一年、秋彼岸に友人Eは亡くなった。闘病生活一年と二カ月。
 病気が見つかった昨年七月、本人にも周りの者にも、腎臓にがんがあることが明かされた。かなり難しい状態であることが解った。
 が、先を案じてともすれば、
「何とかならないの、いい薬だって日進月歩でしょう」
 辛抱のない弱音を吐いてしまうのは、私の方で、
「しょうがないわよ、やるだけはやってみる、とお医者もいってくれてるから」
 慰めてくれるのは彼女だった。
 九月、大学病院で最初の手術がすんだ。見舞いに行くと、痩せてウエストの辺りがへこんで、ひとまわり身が薄くなっていた。
 膵臓の一部と腎臓を一つ、Eは切除した
 しばらく家に帰っていた。通院して、抗がん剤治療が受けられるという。
 薬のせいなのか、
「味覚が変わって何も味がしないのよ」
 健啖家の彼女がもらした。食べなければならないのに食べられない情けなさは、よく分かる。
 芋名月のころで、さっそく、里芋に豚肉、葱、人参も入れて芋煮汁にして持参した。何か高カロリー食はないかと、いつも考えていた。
 食べてもらいたかった。滋養をつけて、治療に耐えられる身体を保っていてほしい。
 心配したけれど、意外に化学療法による強い副作用は出なくて、お医者も、こんな日本人は少ない、と驚いているということだった。
「私、サルだと思われてるのよ、きっと」
 Eはケロッとして面白いことを言ってのける。周りの者をさり気なく気づかってくれるのが分かる。
 確かに面やつれもみえず、普段の彼女の明るい可愛らしさは消えていない。
 このまま、上手く年を越してくれれば、と願った。
 彼女のご主人は蕪の浅漬けを作られる。お正月用に、うちの庭にある大きい蕪をお持ちしてみましょうか、と彼女に尋ねたところ、
「ダメ、誰にも会いたくない。顔が腫れて、お岩さんみたいになって、目が開かないの」
 珍しく不機嫌な声をだした。
「新年会は例年どおりするから、ご夫妻でいらしてね。それまでに、お岩さん状態を何とかしてよ、平穏にお年越しなさいますように」
 あえて平静な声を出して挨拶した。

 素敵な黒いドレスで新年会に現れた友人は、きれいだった。内心安堵する。
「病気持ちだけど、病人じゃない、と家内はいつも言うておるんです」
 ご主人がニコニコしておっしゃる。
 Eは、その病人じゃないという思いを実行に移して、なかなかの食欲である。イタリア料理店で、お気に入りのニョッキやチコリのサラダを、よく食べた。ワインは、ちょっと彼女にしては控えている。
 この冬は、私も、いつも彼女の方角に聞き耳を立てて暮らしている感じだった。
 できる限り彼女優先で、その時その時の気持に寄り添っていきたいと思っていた。

 三月、東北地方に大津波がきた。家も寺の大屋根も車も船も、うねりながら川を遡上する波に巻きこまれていく映像を見た。
 津波が退いた後は、家の礎石だけが泥水に残り、廃墟を見るようだった。このまま日本が凋落していくのではないか。不安に襲われた。
 彼女は又入院治療になり、ほどなく、お風呂で倒れた。息ができないって? 報せを聞いて走って行くと、点滴につながれている。
 解らないけど、アタマのどこかに障りができた、ということだろう。
「検査ばっかりよ、アタマの治療しないと、四ヶ月の寿命らしいわ」
 呂律のちょっと怪しくなった口調で、人ごとみたいに言う。
「四ヶ月か……短いわね。それで、いっぱい言うべきこと言って、恨みなく死ねる?」
「しょうがないか」
『恨みなく死にたい』というのは最近の彼女の口癖だ。
 桃花のピンクが濃くなったころ、ガンマーナイフという放射線治療を受けに、一泊入院で岡山の病院へ行った。
 名前を聞いてさえ恐ろしいが、精密に頭部を計測して、病変部にピンポイントでガンマー線を照射するという。
 出発の前日に会ったが、当日は、何をしていてもEのアタマが思い浮かぶ。出先から帰りを急ぐ車に春嵐が来て、低くなった空から稲光がした。
 バッグの中で携帯電話が鳴った。
「すんだわよ」彼女の声だ。
「大丈夫なの?」
「もちろんよ、いま、お昼ごはん食べてるの」
「よかった、無事にすんで」
 いつもと変わりないEの声。治療がすんで、すぐにごはんを食べている。食欲が出るというところがすごい。折しも雲が切れて陽光が射してきた。
「いま、雲が切れて光が射してきたのよ、光よ、景色が明るくなった。顔見に行くわね」
 が、一難は制御できた、というところで、この小康状態がいつまで続くのか分からない。

 この間に、どこかへ行こう。近くて楽しい所へ。
 女友達二人を誘うと、たちまち話がまとまった。鳴門の海を見て、ぶらぶら遊んでこようということになった。五月の連休前がいいだろう。
 グルメのEが主賓だから、ホテルは部屋だけ予約して、料理はその時の気分次第ということにした。
 予約、地図、その他車の手配など準備を引き受け、当日に向けて、当方も身体の具合を調整する。人様をお乗せするのだから、万全を期す必要がある。
 さて当日、Eの家で待機しているメンバーを車で迎えに行く。乗りこむや、そこを曲がれ、銀行に寄れ、次を左、となかなかEも人使いが荒い。
 高速道路に上がれば一時間足らずである。TもYも、うれしいね、なんだか遠足に行くみたい、と声が明るい。
 照りもせず降りもせず、ころあいのドライブ日和である。たいした話をする間もなくホテルに着いた。
 南欧ふうのアーチが並ぶ代謝色の屋根を持つホテルは、いつもの祝祭的喧騒が全く見られず、曇り日のうす暗さがロビーに淀んでいる。
「ガラガラに空いているんじゃないの」
 みんな驚く。
「いいわよ、借り切りみたいじゃん」
 Eは往路の疲れも見せず機嫌がいい。
 やはり、東日本大震災以後キャンセルが多くなったそうだ。
 夕食の前に、Eとお風呂に行く。
 予約の時、車椅子がありますか、と確かめたことなど杞憂に過ぎなかった。杖は持っているけれど、きゃしゃな紐結びの靴でしっかり歩く。
 露天風呂には、入日の残光が射してきていた。彼女の背中を流しながら、肉の締まったナイスバディが保たれてそこに在ることに、何にとはなく深く感謝する。
 湯船の中でも、足の先がしびれるのよ、と言いつつ、湯船への出入りも安心していられる動きで、そばで見ていて芯からほっとした。
 お風呂から帰りに、TとYに会う。あちらは元気組だそうで、部屋も軟弱組のEと私が一緒になっている。

「さあ、食べるぞ」
 食前酒を飲み干すと、Eは気合をいれた。すっかり暮れきったレストランには蝋燭の灯が揺れる。海は真っ暗だ。お客がまばらで、ちょっと寂しい。
 鳴門鯛とオマール海老の赤が縁起の良い一品が入ったコースを奮発する。野菜も肉も阿波産である。
 食べきれないな、とひそかに思うが、いいのだ、主賓が気に入れば。Yが思いがけなく、健啖かつ飲めば飲める女傑らしく、Eといい勝負である。
 程よく酔って、コーヒーを飲みながらEがつぶやく。
「わたしね、ダイエットしなくちゃ。重量オーバーなの。今日も食べすぎよ」
 がん治療中の人がダイエットをするとは……きいたことがない。太りすぎになるほど食欲があるなんて、ありがたいことではないか。
「すこし太ってる方が有事に備えて安心よ」
 うれしくなって、そう言った。言ってから有事ってなんだ、と無事を願う心の隅に、いつもざわめいている予感を振り払えない。
 お風呂で彼女の身動きのスムーズなことを確かめたからか、安心のあまり、酔うほど飲んでもいないのに、どっと疲れが出た。
 ちょっと、お散歩したい、というEを他の二人に任せて先にベッドに直行する。
 暖房が利いてないような、冷たい布団に入って、うとうとする間もなく、電話がきた。
「ねぇ、九階にあがってらっしゃいよ、バーにいるの、あなたの好きなグラッパがあるよ」
 Eのご機嫌な声。
 いかにグラッパがあろうとも、今はとても起き上がれない。それに、あれはナポリで舐めたから旨かったので、南欧の太陽がない所で強い蒸留酒など飲む気がしない。
 彼女と巡ったシチリアへはナポリから船で渡ったのだった。もう一度、同じメンバーで行くことはないだろう。ともかく、今夜は疲れた。
「悪いけど、お伴できない、ごめんなさい」
 後で思いだしたら、パジャマを脱いで、行くべきだった。残念というほかはない。
 部屋へ帰ってきた友人は、すぐ眠りに落ちた様子だった。私も少し眠った。
 真夜中過ぎ、Eはもう起きだし、椅子に掛けて、じっと海の方を見ていた。暗い部屋の中で、黒いセーターらしいおぼろな影が静かに座っている。
 話しかけてはいけないような、厳粛なものを彼女は身に添わせて、夜明け前の濃い藍色の海を見ていた。
 朝日は、雲を明るませただけで姿を見せなかった。

「今日は、一日じゅう何にもしない」
 私は朝食の時、皆にそう宣言したが、元気組は、二人とも俳人なので、部屋でなにやら勉強するらしい。果ては、降りだした雨の中を吟行に行くという。
 Eと私は、午後、屋上の大浴場に入って、エステルームでマッサージをしてもらった。このところ、緊張していた身体がオイルでほとび、施術されると、ゆるゆる溶けていくようだ。家庭の主婦は、いつもサービスを提供するばかりだから、たまには、こんな時間もいい。
 彼女も、上気した顔で、
「いいねぇ、極楽です」
 と、マッサージ後の身体を籐椅子にあずけてハーブティーをすすっていた。

 雨中の吟行から帰ってきた隣室の二人は、
「何にもしないというのも難しいわね、あなた方の真似はできない。貧乏性なのよ、私たち」
 などと言って、私どもの部屋に遊びに来た。
 Eは悠々とビールを飲んでいる。ノンアルコールだということを感じさせないほど、旨そうに飲む。立派な大人が、バカンス気分なのにお茶では間が抜けてる、と思っているに違いない。
「よかったね、ゆっくりできて」
 誰にともなく、Yが言い、言外にEの行動にさしたる障りがないことを喜ぶ気配がする。
「今度は、もう少し遠くへ行こう、ミュージカルか、オペラを見に」
「ほんとに。行けたらいいな」
 Eもうれしそうだ。

 夏になって、Eは病院に入っている時間が多くなった。
 真夜中、「月がきれいです」とメールが来て、何の話からだったか、
「ところで、あなた、どんな作家がお好きなの?」
 とメールで聞いたら、
「ブリリアントな作品を書く人よ、三島由紀夫とか……」
 長くつきあってきたが、聞いてみないと分からないことがあるものだ。
 彼女は山歩きが好きで、旅行も南極大陸付近まで行ってきたりするし、アフリカではサファリに参加したと言うし、おしゃれな前向き志向の山ガールだと思っていた。
 ただ、あんまり旅に出るので、フットワークが軽いだけではないんだな、と思った。家庭の幸福だけに浸っていられない種類の人なのかも知れない、と感じるものはあった。
「しかし、三島とは……ね。分かったわ、あなた、なんだ、文学少女だったのね」
「そんなんじゃないけど、本は嫌いじゃない。あ、夜が明けてきた」
「以前、朝吹真理子の『きことわ』を東京から買ってきて下さったわね、とてもあなたらしい本の選択だと思ったわ」
 とりとめもなく、メールが行き来する。病室にいる人には、とりとめのないことでも何でもいい、夜の長さが忘れられれば。
 もちろんこちらも結構楽しませてもらっていた。
 何を話しても、偏見が少ないので言ったとおりを受け取ってくれる。良い意味で、昔のお嬢さん育ちは素直なのだ。

 退院してくると、彼女の親しい友人の招きで女木島の別荘に行った。お伴したかったが、七月に入って、こちらも夏バテで身体がいうことを聞かない。優しくて頑丈なTが一緒に行ってくれた。美味しい料理を作る方もいて、Eもたくさん食べたと報告をきいた。
 八月七日には、平安神宮・京の七夕歌舞伎を見に行く計画を立てていて実行した。すでに車椅子が必要になっていたが、高松からJRを使い岡山での新幹線乗り継ぎも、うまくいったそうだ。この度もすっかり、Tに任せて、私はお役に立てなかった。
 七夕歌舞伎は坂東玉三郎による「船弁慶」と「楊貴妃」。
 ライトアップされた平安神宮の丹塗りの社殿をバックに、妖艶そのものの舞が夢のようだったとTが言っていた。
 今生で見られた玉三郎の優美な姿を、Eはどんな思いで心に写し取ったのだろう。生き継ぐ力になっただろうか。
 身体に無理をかけてでも、平常どおり、好きなものを見に行く。あっぱれという他はない。とても真似が出来ない。その意志力と行動力に、あらためて感嘆する。

 歌舞伎見物から帰ってからは、自宅近くの病院に入って、家に帰ったり、ちょっと外食に出たりして過ごした。
 見舞いに行くと、空のベッドを見て看護師さんが、「外出でしょ」と、あたりまえのように言う。
 ひどく暑い夏だった。病院に入っていてよかった。
 ある午後、顔を見に行くと、
「ねぇ、買い物に行きたいんだけど、つきあって」
 差し迫った様子だった。ベッドから起き上がっている。たまたまTも来合わせていた。
「いいわよ、用意手伝おうか? デパートに行けばいいの?」
「そう、急ぐのよ、もう船にのらなくちゃいけないのに。羽織るものが要る。寒いのよ、とても」
 彼女の心は、南極の辺りなのかな、と納得した。けれど、この真夏にダウンのコートなど売り場にあるかしら、と案ずる。ま、行ってみて、聞けばいい。
 廊下に出て、エレベーターの前に行くと、
ご主人がいらして、わかった、わかった、というふうな身振りで、やさしく彼女の肩をたたき、車椅子を病室の方向にターンさせ、うやむやのように、連れ帰ってしまわれた。
 ご夫婦のことだから、きっと、彼女の気持ちを察しつつ、安心させてベッドに戻してあげたのだろう。
 現実を離脱したふうな言動は、痛みのコントロールをしているせいなのかも知れない。
 いちいち訊かないが、薬だってずいぶん飲んでいる筈だ。不具合が出て当然である。まれに、情緒が不安定になる日もあった。
「人間の尊厳なんて誰も考えてくれない。病人だって人間よ」
 と、ご主人に激しい口調で訴えていたのをドアの外できいた頃は、理路整然としていてまだまだ元気だった。
「叱られてばかりですわ」柔和な表情のまま、ご主人はたいてい、本を膝に、彼女のベッドの傍に付いていられた。
 私共も、休日続きの折などは遠慮して、東京から帰高のご長男や、関西のご長女ファミリー、ことにも愛らしい少女のお孫さんとの大切な時間をお邪魔しないようにした。
 ほんとうに、E自身もほとんど、痛い、苦しい、などと、言ったことがなかったが、周りの家族の方たちの看護も並みではなかった。しょっちゅう顔を見せてあげる。それが何より病人が一番嬉しいことだと思う。分かっていても、なかなかできることではない。
 他にも、Eにはサポーターがたくさんいて、ちょっと、車に乗せて近くをぐるっと廻って海の色を見せてあげる。食べたいものの店に連れて行ってあげる。そんな小さな気分転換には困らない。
 口に合うものを作っては届けるTのような、料理上手もいる。ズッキーニの花のフリッターをどうやって上手く作るか、Tが悩んでいた時もあった。

 九月も半ばに、彼女の好きな深い臙脂色の秋のティーシャツを持って、のぞいた。
「すてきね」
 その声がすこし力なくきこえた。たまたま、彼女だけだった。
「大丈夫?」
「まぁね、なんとか生きてる」
 掛けものから出ている手の爪先が、布地を切りっぱなしにしてほつれたままのフリンジのようだ。縦の繊維だけが弱くなって残っているようなギザギザの爪。
 足が冷えること以外言わないけど、服薬も長くなると、副作用も色々出ると思われる。
 その手を、さすりながら尋ねた。
「しんどいね、なんかずーっと道の向こうにお花畑が見えるっていうけど、見えてる?」
「見えない」
「たいへんやね、この道だけは独りで行かないとあかんし。誰も付いて行ってあげられへんのよ」
 こんなこと、本当に生死の境をゆらゆら浮き沈みしている人に言うべきことなのかしら、
慰めになるのかしら。
 傍にいて何もできない自分が情けなくて、私はおしゃべりになるのか。
 目をつむったまま彼女が言う。
「うん、大丈夫。夕べここで、息子とMさんとお月見したから。ビール飲んで」
 ご主人のことを彼女はMさんと言う。
 確かに、東向きのこの上階からなら、月がよく見えるだろう。ビールが飲めるほど体力があるなら、ありがたい。
「よかったわね、月に行く?」
「いいかもね」
「でも、できたら、もうちょっと生きていてほしい」
 無理なお願いかもしれないけど、それが、エゴイスティックな私の本心である。
 彼女とは、冗談を言いながら実はわりあい本音でつきあってきた。がんになってからは、死なねばならない道程そのものに、向きあってきたつもりだ。
 この期に及んで、うわべの挨拶などしたくない。
 おしゃべりしすぎて疲れさせた。後悔して、立った。帰りぎわ、
「ありがとう」
 はっきり、目をあけて、彼女が言った。

 九月二十三日、ご主人から連絡が入った。
「今朝、昏睡に入りました」
 とおっしゃった。
 ローズマリーを持って夫と大学病院にお別れに行った。Eは、眠っていた。すでにローズマリーが、枕辺に置かれていた。彼女がその匂いを好きなことは、みんな知っているらしい。
 ご主人がEの肩をたたき、耳元で「Hさんが来てくれたよ」と呼んで下さったのが、聞こえたかしら。
 今度こそ、光の中でお花畑を見ている。そうでなければ、あんなに静かな顔で眠っていられない。
 Eは、お子達が到着するまで、生きて待っていたと後に聞いた。

 その暮れにEに似た歌手の歌をきいた。
 以来、歌手が、予期せずにテレビの中で、麦わら帽子をかぶってトマトをちぎっている姿を目にしたりすると、すぐにテレビを消した。
 見たいようなのに見たくない。彼女がいなくなって一年くらい、そんなふうだった。お宅に伺うのも、落ち着かなかった。
 やっと、二年に近くなって、Eの彼女らしい写真がほしくなった。
                                  合掌