「e-文藝館=湖(umi)」 論
説 寄稿
ひらやま
じょうじ 立教大学名誉教授 近代日本文學専攻。多くの著書により編輯者は學恩を忝なくしている。 掲載作
は立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター、平成二十二年(2010)四月二十五日刊「大衆文化」第三号初出 ご寄稿を快諾
して抜き刷りを頂戴した。 戦時中のニュース映画やコッポラ監督の映画『地獄の黙
示録』などの爆撃と殺戮の場面に用いられたワグナー作曲の『ワルキューレの試行』に思い及びながらの痛切な批評がさりげない筆致で書き込まれる。ぜひ一読
されたい、お奨めする。
(秦 恒平)
ワ
ルキューレはさまよう
平山 城児
プライヴェイトな話題から始めたい。私は昭和十二年から三十八年まで、年齢でいうと六歳から三十一歳位まで鎌倉で暮した。少年時代の娯楽の中心は映画
で、その全盛期にあたっていたので、私は母に連れられてしばしば映画館に通っていた。母がファンであったから、長谷川一夫主演の時代劇映画はほとんど見た
ような気がする。『阿波の踊子』『男の花道』など、いくつかの場面を今でも思い出すことができるし、のちの 『或る夜の殿様』 や正編続編の『蛇姫道中』
などは、娯楽作品としては今日でも立派に通用する豪華な映画だと思う。『蛇姫道中』に出演していた大河内伝次郎という役者は、セリフは不明瞭だったが、殺
陣(タテ)となると抜群の動きを見せた。海岸の砂浜で数十人の侍を切り倒しながら二百メートル位の距離を全力疾走するのである。見事であった。
余談ながら、その頃の映画館には冷暖房の設備がなかった。夏になると館の左右の窓はすべて明け放たれ、暗幕が引かれたが、風が強ければカーテンがひるが
えって、差しこんだ光線で画面が白くなり大騒ぎになった。冬には、通路のところどころに設けてあるくぼみに大量の炭火がはいった。その程度の暖房でもない
よりはましだった。開映のベルが鳴って館内が暗闇になった途端、再び場内が明るくなって観客の溜息が聞こえる。アナウンスを待つまでもなく、ニュース映画
のフィルムが到着しなかったからだと一同承知していた。ニュース映画のフィルムは当時の鎌倉の映画館に共通だったらしく、A館のニュースの上映が終わる
と、そのフィルムを自転車でB館へ運んでくるわけである。そのフィルムが往々にして定時に届かないので、以上のような事態が生じるのだった。
当時の映画館では、そうした劇映画の前に必ずニュース映画を上映することになっていた。日中戦争の最中(さなか)であったから、ニュース映画といって
も、中国大陸で蒋介石軍と戦う日本陸軍の姿とか、銃後の日本を支える
雄々しき乙女たちによる労働の状景とか、およそ楽しくはないフィルムばかりではあったが、テレビのない時代には実写のフィルムはそれなりに新鮮な魅力も
あって、ニュース映画のファンという者も多かった。現在は巨大なビルが林立して往年の光景を想像することさえできなくなった、東京駅の八重洲口の出口あた
りにニュース映画だけの専門館があって、私も何回かそこへ通ったことがある。
そうしたニュース映画では極く見慣れた場面だが、双発の爆撃機(正確に記すと、九六式陸上攻撃機十一型となる)が編隊を組んで中国上空に殺到する。やが
て、爆撃機の弾槽が開き、大量の爆弾がボタボタと落ちて行く。それらの爆弾が地上に到達すると、パッパッと白煙があがって、かくて日本軍による爆撃は成功
裡に終ったなどというアナウンスがかぶさってくるという、戦時中ではおなじみの場面であった。当時は平均的な軍国少年であった私がこうしたシーンを見て
も、その爆撃で一瞬のうちに殺されていった中国の無辜の市民たちの運命に思いが及ぶはずがなかった。ただ、その九六式陸攻が編隊を組んで飛行する場面の
バックに流れる音楽が妙に心に残ったのである。その音楽はけって雄壮活溌な曲ではなかった。というよりもむしろ、聞いている人間がうなされるようなメロ
ディであった。たとえば軍艦行進曲のような能天気な曲であれば気が滅人るおそれはないが、その曲はそうではなかった。
当時の私はその曲が何であるかは全く知らず、そうした印象だけが残ったまま成人したのである。敗戦後何十年かたったある日、戦争中のニュース映画に使わ
れていた曲がワグナーの 「ワルキューレの騎行」 であったことに気付いた。当時、敵対国である英米の音楽は御法度であったけれども、ドイツ、イタリアは
同盟国であったからワグナーの曲はおかまいなしでニュース映画にも使えたのである。そうした事情はすぐに理解できたものの、雄壮活溌なるべきあのニュース
映画に、なぜ「ワルキューレ」が使われたのか、今でも私には理解がいかないのである。
ワルキューレはヴァルキュリアのことである。北欧神話の中での彼女たちは、オーデンに仕える美しい戦争の乙女たちであるが、本来は殺戮に無上の喜びを覚
える虐殺の女神たちであった。戦場に倒れている死者たちをヴァルハラに連れ去り、彼らはそこで蘇生させられる。「ワルキューレの騎行」という曲は、そうし
た戦場の死者たちを求めて空中に飛翔するワルキューレたちの姿をイメージして作られた曲である。そうしたコンセプトを知った上でこの曲を聞くならば、ワグ
ナーの作曲した音はワルキューレたちの動きを正確にとらえていたと思われる。彼女たちは空中に浮かんでいるのだが、実は死者を求めているのであり、しか
も、それは血みどろの死体なのである。空中に浮遊しているといっても朗らかな気分であるはずはなく、陰惨な重々しい想いをひきずっており、行く手には破滅
的な最期が待ち受けているかもしれないのである。中国本土を爆撃する皇軍の
爆撃機の飛翔するニュース映画にこのような音楽を添わせたのは一体どういう神経からか私には解らない。だが、この疑問はここでは宙釣りにしておいて、別の
話題に移りたい。
「ワルキューレの騎行」の曲を最も効果的に使ったのは、フランシス・コッポラの 『地獄の黙示録』であった。一九七九(昭和五十四)年に公開されたこの
映画を見た時の鮮烈な印象はいまだに失せていない。のちに、劇場公開用にカットした部分も復元した、さらに長尺の完全版の『地獄の黙示録』も見たが、もは
や最初に受けたほどの刺激は受けなかった。
ベトナム戟争という愚行を、コッポラはこの作品によって徹底的に暴こうとした。この作品は、ベトナム戦争とは無関係の、ジョゼフ・コンラッドの『闇の
奥』という作品がストーリーの下敷きになっている。そのために、冒頭に近い衝撃的な部分が終わったあと、ボートに乗ったウイラード大尉がジャングルの奥へ
奥へと進み、カーツ大佐のつくり上げた狂気の王国に行きつくのである。そこが「闇の奥」である。しかし、ベトナム戦争そのものと、このマ一口ン・ブランド
の扮するカーツの世界とは、本来は関係がない。
アメリカ軍はジャングル戦に悩んでいた。ジャングルに隠れてアメリカ兵を狙撃するベトナム兵に対抗するために、アメリカ軍はナパーム弾でジャングルを焼
き尽すことにした。一方では枯草剤をまき散してジャングルを枯死せしめた。武装ヘリによるナパーム弾の発射というのは、そういうわけで、ベトナム戦争で初
めて案出された戦法であった。コッポラはアメリカ軍からヘリコプターやナパーム弾を借用できると思っていたらしいが、これほど反戦的な作品に軍部が協力す
るはずはなかった。止むなく、コッポラはフィリッピン軍から武装ヘリやナパーム弾を借りてこの映画を撮った。膨大な費用のかかるこのシーンの撮影にはやり
直しは許されない。しかし、現実に撮影されたこのシーンはいくたの戦争映画の中でも屈指の迫力をもったものになった。
さらにこの戦場シーンを引きしめ、いかにベトナム戦争が愚行であったかを知らしめているのは、地上で米軍を指揮しているロバート・デュバル扮するキルゴ
ア中佐の怪演であった。戦場で遭遇した花形サーファーのランスの姿を見ると、キルゴア中佐は昂奮し、ランスにサーフィンをさせるためにベトコンを殲滅する
のだ、ジャングルを石器時代にしてしまえと命令を下すのである。この愚かな、しかし爆音の中ですっくと立って指揮をするキルゴア中佐の狂気の姿を今でも忘
れられない。
この愚劣ではあるが激烈な武装ヘリによるナパーム弾の攻撃シーンに「ワルキューレの騎行」が使われたのである。いま、ものの本を参照すると、サー・ゲオ
ルグ・ショルティ指揮によるウィーン・フィルハーモニーの演奏であることが解って、実は驚いている。コッポラは映画のバック・ミュージックといえども、決
してないがしろにしていなかったのである。ベトナム戦争の時、どれだけ多くのベトナム人が殺されたか、どれほど広大なべトナムの山野が荒廃させられたかを
思うならば、ここに「ワルキューレの騎行」を響かせることは正解以上の至当性がある。現代のワルキューレである武装ヘリの群は、何万何十万という死者を連
れ去ったのである。
実はここらで文章にケリをつけてもよいのだが、もう一段階ワルキューレ″は飛ばなくてはならない。次にプルーストの『失われた時を求めて』(ちくま文
庫を使用)に触れる。バルベックで馬に乗っていた話者が遠出をしている途中で、突然馬が後脚で立ち上がる。「何か異様な物音をきいたのだった。」話者が馬
を制しながら空を見上げると、「頭上五十メートルのところ」 に鋼鉄製、双翼の飛行機を見つける。話者は、飛行機を見た、というだけのことで感動し、涙を
浮かべて、「半神」 ではないかとさえ思うのである。(「ソドムとゴモラ」) 「囚われの女」 の中でも、話者は「二千メートル」ほどの上空を飛ぶ飛行機
に関心を示している。そして、「見出された時」になると、パリの町はドイツ空軍の脅威にさらされる。空襲のたびにサイレンが鳴り、パリ市民は避難する。サ
ン=ルーは言う。「いやまったく、サイレンの音楽は、《ワルキューレの乙女たちの騎行》にそっくりだったからね!パリでワグナーの音楽をきくことができる
ためには、まさにドイツ軍の空襲を必要とする、というわけさ。」
プルーストは空襲をしかけに来たドイツ空軍の姿を見てワルキューレを連想しているわけで、プルーストがワグナーのこの曲に殺戮の生々しさを感じ取ってい
たからこそこのような描写がなされたのである。
ワグナーの音楽はナチによって賞讃支持され、ヒトラーはバイロイトへ赴いて、祝祭劇場の正面玄関で待ちかまえていたワグナーの後継者ヴィニフレッドに近
寄り、「やや身をかがめて、王朝風のうやうやしいキスの挨拶」をした(清水多吉『ヴァーグナ一家の人々』)というほどであった。そのようにナチとワグナー
との結びつきがあまりにも濃密であったため、ワグナーの音楽は一時毛嫌いされていた。現代はそれほどではないものの、ワグナーの楽劇には、本質的に北欧神
話に貫通している殺戮と死の匂いが漂っているのではないか。もしその見方が正しいとするならば、プルーストのとらえ方も誤っていなかったわけであるし、ベ
トナム戦争に対するコッポラのとらえ方にも通底するものがあったということになる。
となると、あの戦争中のニュース映画の九六式陸攻の中国への爆撃のシーンに「ワルキューレの騎行」の音楽を合わせた人物は、一体どういうことを考えてい
たのだろうかという疑問にもどってしまうのである。おそらく、当時「日映」 の社員であった某氏があの音楽を選んだのであろう。その人物がワグナーの音楽
を本当に理解していたとすれば、あの日本軍の爆撃によって殺された数千数万の中国人の死体を連想していたということも考えられる。その頃には実現してはい
なかったが、やがてサイパン、グアムから飛び立って、次々に日本の都市を焼土と化するために無数の焼夷弾を落としつづけたB29の編隊飛行のバック・
ミュージックにこそ、「ワルキューレ」はふさわしかったのではなかろうか。そして、広島・長崎に原爆を落とした爆撃機にも。「日映」 の某氏はそこまでは
考えていなかったとしても、すでに破滅への道を突き進んでいた日本国の運命をどこかで感じて 「ワルキューレの騎行」を選んでしまっ
のだろうか。