「e-文藝館=湖(umi)」 論 攷 寄稿

ひらやま じょうじ  立教大学名誉教授 近代日本文学
専攻。多くの著書により編輯者は學恩を忝なくしている。  掲載作は、平成二十一年(2009)三月十五日刊「国文学踏査」第二十一号初出 ご寄稿を快諾 して頂 いた。 
真 に優れた教養に培われた森鴎外の境涯を、その従軍詩歌集の実作に細かに当たって立証し、暗に、この太平洋戦争時に硬直した詞藻を吐きちらしなが戦争讃美・ 好戦詩歌の宣布に奔走した昭和の著名詩人や歌人や作家を鋭く批判している。ぜひ一読されたい、お奨めする。 (秦 恒平)




   万葉調短歌と鴎外の「うた日記」

              平山 城児



 私は三十数年前、「古典の運命─万葉集の評価をめぐって─」 (昭39・12、『立教文学』) というエッセイを発表した。その中で、太平洋戦争中に国 家的な規模で戦意昂揚のために利用されたある種の万葉歌(記紀歌謡も含む)そのものと、それらの用語・詠みぶりを露骨に模倣したいわゆる万葉調の短歌をと りあげて、ある種の万葉歌が愛国精神を鼓舞するためにいかに重宝な歌であったか、なおかつ、その影響下にどれほどの国民が止むなく尊い生命を失わなければ ならなかったかを傷み、二度とそのような形で万葉歌が利用されないことを切望したいと主張したのである。
 その冒頭で、いわゆる万葉調の愛国歌を二十首ばかり掲げておいたが、その中から八首を選び、ここにも記しておきたい。
       
 一 吾大君ものな思ほし大君の御楯とならむ我なけなくに 
 二 大君の魂(たま)の御楯と身をなさば水漬く屍(みづくかばね)もなにかいとはむ
 三 あなあはれおぞや亜米利加神風の畏(かし)こき事を汝(なれ)は知らずや
 四 仇(あだ)し来ば撃ちてしやまむ仇来ずばさかしら人しうちてしやまむ
 五 (えみし)らがももとせかけし国土(くにつち)を片薙(かた な)ぎにすもすめらいくさは
 六 大君の任(まけ)のまにまに戦へばおのづから業(わざ)は神業(かむわざ)なすも
 七 何なれや心おごれる老大の耄碌国(もうろくこく)を撃ちてしやまむ
 八 海行かば水づく屍と上(かみ)つ代(よ)人(びと)言立(こと だて)せりき今の現(うつつ)はた

 あえて作者名を記さなかったのだが、ここにまとめて記しておく。一 平賀元義 二 伴林光平 三 鹿持雅澄 四 天田愚庵 五 浅利良道(博物) 六  川田順(心の花) 七 斎藤茂吉(短歌人) 八 佐佐木信綱(心の花)
 周知のように一から四までは幕末の国学者あるいは勤皇歌人である。一方、五から八までは太平洋戦争中に活躍していた歌人で、( )内は当時所属していた 結社名である。これら四首の歌は、すべて、柳田新太郎編『大東亜戦争歌集 愛国篇』 (昭18・2、天理時報社)から拾ったものである。一見して明瞭なよ うに、作者名を伏せてしまうと、幕末勤皇歌人も昭和の歌人も区別をつけることは困難である。それほど、国家主義的な愛国精神に則って詠まれた万葉調の短歌 は、時代を超越して訴えかけてくる言葉・思想が共通しているのである。
 これらの万葉調短歌の、どのような表現・用語が万葉集からの引用であるかという点についての綿密な考証をここで細かく行なう余裕はないが、万葉集との関 係を全く指摘せずに叙述を進めるのはあまりにも乱暴であろうから、大雑把な注だけはほどこしておきたい。
 「吾大王ものな思ほしすめ神の継ぎて賜へる我なけなくに」(巻一・77御名部皇女)。「今日よりはかへりみなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」(巻二十・4373今奉部与曽布)。「…海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧はせじと  言立て…」(巻十八・4094大伴家持)。
「常世辺に住むべきものを剣太刀汝が心からおぞやこ の君」(巻九・1741高橋虫麻呂歌集)。「…神風に い吹きまとはし…(巻二・199柿本人麻呂)。「…(あだ)守る 筑紫に至り…」(巻六・ 971高橋虫麻呂)。「みつみつし 久米の子らが 垣下に 植ゑし椒 口ひびく 我は忘れじ 撃ちてしやまむ」 (記紀歌謡)。「あな醜くさかしらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む」 (巻三・344大伴旅 人)。「蝦夷を一人百な人(ひたりももなひと)人は言へども抵抗(た たかひ)もせず」(日本書紀)。「霰降り鹿島の神を祈りつつすめらみくさに 吾は来にしを」(巻二十・4370大舎人部千文)。「もののふの 臣の壮士は大君の任(まけ)のまにまに聞くと言ふものぞ (巻三・369笠金村歌集)。「み吉野の山の嵐の 寒けくにはたや今夜もあが独り寝む」(巻一・74文武天皇)。
 出典を伏せてしまうと、幕末の歌であるか太平洋戦争中の歌であるか全く区別がつかなくなるということは、万葉集の時代 に用いられていたいくつかの単語あるいは言い廻わしを借用することによって、千年以上の時空を越えても少しも変わりのない天皇讃歌が詠みうるという事実を 示している。
 短歌の世界だけではない。大正時代に 「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」といったハイカラな小説を書いていた佐藤春夫が、中国との戦争に突入すると、たちま ち「皇国紀元ニ千六百年の賦」 で、「八紘(あめがした)ヲ掩ヒテ宇(いへ)トセント/大御言(おほみこと)遂ゲザラメヤハ!」と叫ぶ。これは、「撃ちて しやまむ」と同様に戦時中の国家的標語となった「八紘為宇(八紘一宇とも)」(日本書紀) をふまえている。太平洋戦争になると、『大東亜戦争』という詩 集を発表し、「特別攻撃隊の頌」「軍神加藤少将」「落下傘部隊礼讃」「日本陸軍の歌」「シンガポール陥落」などの愛国讃歌をたてつづけに披露した。これら の詩には、「すめらぎの神のみことは」「太平洋に
水漬くかばねと」「すめらぎのみ国を護る」「わざはひの醜の夷(しこのえみし)は」等々の、さきに掲げた万葉調短歌に使用されたものと 同様の単語・表現が頻出する。要するに、これらの長詩も幕末勤皇歌人の愛国歌も、どちらもすこしも変りない思想によって貫かれているのである。
 一方、近代的自我意識を追求した、あの『道程』を書き、妻の死後、絶唱とまで慕われる『智恵子抄』を書いた高村光太郎までが、「大詔渙発」「特別攻撃隊 の方々に」「撃ちてし止まむ」などの愛国詩を次々に発表した。「(は じかみ)の口ひびくともわれらは耐へて」(「源始にあり」)、「同胞 遠く水漬く屍となり」(「突端に立つ」)、「おん力、みいくさの千万(ちよろづ)の楯となる」(「おん魂来りうけよ」)等々、同様の万葉的表現を拾うのは容易で ある。戦後、光太郎はみずからの戦争詩を悔いて、東北花巻の山林の中で七年間も隠栖した。そのことがせめてもの救いである。
 今日目にしてさえ気恥ずかしい気持にかられるこれらの詩歌を、斎藤茂吉も佐佐木信綱も佐藤春夫も高村光太郎も、本心から詠出したのである。もちろん、こ のような著名人ばかりではなく、一般庶民の中にも熱狂的な愛国者は数多くいて、当時の日本を致命的なイクサに突入させていったのである。

           *
          
 4260 大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居(たゐ)を都となしつ (巻十九)
 4261  大君は神にしませば水鳥のすだく水沼
 (みぬま)を都となしつ (同)

 この二首は壬申の乱後に詠まれたと題詞には記されているが、つとに西郷信綱がのべている(『壬申紀を読む』)ように、これらはもっと後の、藤原京造営当 時の情景を詠んだものに違いない。だとすれば、「大君は神にしませば」という表現をもつ最も古い作としては、やはり、次の柿本人麻呂の歌をあげるべきであ ろう。
   
 235  大君は神にしませば天雲(あまぐも)の雷(いかづち)の上に庵(いほり)せるかも (巻三)

 「天皇は現人神(あらひとがみ)にましますから、今、天に轟く雷の名を持つてゐる山のうへに行宮(
あん ぐ う)を御造りになりたまうた、といふのである。雷は既に当時の人には天空にある神であるが、天皇は雷神の その上に神随(かむながら)にましますといふのである。/これは供奉した人麿が、天皇の衛威徳を讃仰し奉つたもので、人麿の真率な態度が、おのづからにし て強く大きいこの歌調を成さしめてゐる。」(『万葉秀 歌』)と茂吉は昭和十三年に書いている。戦争中この人麻呂歌に接した日本人の大半は、茂吉のこうした解釈をほとんどそのまま受け入れていたのではないだろ うか。
 現在いちおうは雷丘と目されている丘陵は、比高が精々二十メートル足らずの小丘である (西郷信綱も清原和義<『万葉の歌』一>も海抜で百 メートル余りと記しているが、この際海抜を記すのはナンセンスである)。そんな小丘に、人間である持統天皇が登ったことを「天雲の雷の上に庵」すと表現す るのは尋常の感覚ではない。それどころか、人麻呂は、持統が生きている神様でいらっしゃるから
と表現しているのである。
 古事記や日本書紀には多くの神々が登場するが、それらはこの世に生きた人間ではない。また、天武や持統も含めて、多くの生身の人間であった天皇たちの業 績も記録されているものの、それらの天皇たちが「神」であったとは一度も記されてはいないし、彼らが没したあと「神」として祀られた例もない。近江神宮 (天智)、平安神宮(桓武、孝明)、明治神宮(明治)など、こうした生身だった天皇
を祭神として祀っている神社はすべて明治以降の創設である。靖国神社は、国事国難に殉じた死者の魂を慰霊するという意味で創設された招魂社が、明治十二年 になって改称されたものである。
 生身の人間が死後に神として祀られるごく稀な例は、御霊信仰といわれるもので、無実の罪などによって殺害されたり、あるいは幽閉などの不幸な生涯を強制 されたりした人間を、死後怨霊となって祟ると加害者側がおびえた末に「神」として祀ったものである。菅原道真を祀った太宰府天満宮が代表的なものである が、京都の上下(かみしも)の御霊神社なども著名である。
 このように考えてくると、生身の人間である徳川家康を「神」として祀った日光東照宮はまことに異例の神社と言える。もっとも、日光東照宮のもとである久 能山東照宮に家康を祀るとき、天海と崇伝との間で論争がおこり、結局は天海の主張が通って家康は東照大権現となったわけで、権現(ごんげん)というのは、 仏教の仏がわが国では(かり)に神の姿をとってれるという意味であるから、そもそもは仏教的な墳墓を営んだ上、権現としても あがめることにしたのであろう。
 東照宮という例外はあるけれども、基本的には、日本では生身の人間を「神」とは考えないというのが常識であった。そのような常識から考えても、万葉集に おける「大君は神にしませば」という表現・思想はまことに異様で変則的なものであったと言える。別れる妻に対して、あれほどまでに純粋な愛の言葉を長編抒 情詩(巻二・131〜139)としてうたい上げることのできた人麻呂が、一方では持統天皇に向かって235番歌のような歌を詠んだという事実が私には納得 しがたい。妻に対する真情が真実であるならば、持統に対する天皇讃歌は阿諛追従ということなのだろうか。それとも、太平洋戦争中の歌人や詩人たちが先にの べたように迷いもなく天皇讃歌を量産したことを思うと、「詩人」というものは、なんのこだわりもなく時代の雰囲気にのみこまれて我を忘れてしまう人種なの だろうか。(佐藤春夫は昭和三十年六月には、一八〇度転じて「ゼネラル・マッカアサア頌」を書いている。)
 ともかく、天武・持統の時代に天皇讃歌がいくつも詠まれ、「大君は神にしませば」というフレーズが人麻呂以外の作者によっても用いられているのは、天 武・持統の時代に古代天皇制が確立したからである。そして、その時代の天皇制とは全く異なった、近代天皇制が確立した時、時代も制度も何もかも異なってい るにもかかわらず、当時のイデオローグたちは、近代天皇制と古代天皇制とをダブらせて、人麻呂が持統を「神」としてあがめたのと同じレヴェルで、明治天皇 をさらに昭和天皇を「神」としてあがめるように、巧妙に理念操作を行なっていったのである。その操作は完全に成功したと言える。

          *

 日露戦争が始まると、森鴎外は第二軍軍医部長として従軍し、宇品を出港するとき次の歌を詠んだ。

   大君の任(まけ)のまにまにくすりばこもたぬ薬師(くすし)となりてわれ行く

 「くすりばこもたぬ薬師」とは、自らの職分が軍医ではあっても、直接傷病者の治療にあたる現場の医師としてではなく、後方で全体を統轄する司令部のメン バーとしてであったため、一種のしゃれた言葉遣いで自らを韜晦したのであろう。「大君の任のまにまに」とは、「天皇の御命令の下に」という意味であり、万 葉独特の表現をそのまま借りてはいるのだが、だからといって勤皇精神をひけらかしているのではなく、たまたま手元にあった万葉集からその用例を拝借しまし たよ、と言わんばかりの軽妙な手法なのである。出征にあたって佐佐木信綱が自ら出版した日本歌学全書版の万葉集を鴎外に贈ったので、鴎外は戦場でも常に座 右に置いて参照することができたのである。「大君の任のまにまに」というフレーズの集中の用例にしても、たとえば巻十七の3957番の大伴家持の長歌のよ うに、律令官人の一人として越中守に任ぜられた自分が任地へ赴くことを「大君の任のまにまに」と表現しているのであって、必ずしも心勇んで赴いたわけでは ない。
 ともかく、このようにして軍医部長として日露戦争に従軍した森鴎外は、軍務の束の間に浮かんだ俳句、短歌、さらに新体詩を日記のようにメモし、凱旋後に 一本にまとめて出版した。それが 『うた日記』(明40・9、春陽堂)である。書簡集にあたってみると、従軍中の鴎外は実に小まめにさまざまな人に宛てた 書簡に俳句や短歌、まれには新体詩までも書きこんで送っているが、それらはほとんど送られた日付の順序に「うた日記」 に収録されている。新体詩は送られ た例が少ないので、それぞれの創作年月日を確めるすべはないけれども、俳句や短歌の方の事情から類推すると、おそらく新体詩もそれぞれの日付ごとに完成 し、創作順に手元のノートに記載しておいたものと思われる。つまり、「うた日記」は文字通り、俳句や詩歌によって綴られた日記であって、多少の語句の修正 はあったものの、ほとんどの作品が従軍中のそれぞれの日に作られたまま、その順序で配列されて一冊の書物にまとめられたものなのである。ということは、個 々の俳句、短歌、新体詩の配列には全く意味はなく、全体の構成そのものには作者の意図が少しも加わっていないということを現わしている。従って、「うた日 記」の鑑賞にあたっては、それぞれの排句、それぞれの短歌、それぞれの新体詩に一々ぶつかってみる以外に方法はないのである。
 「うた日記」の注釈としては、日本近代文学大系J森鴎外(T) (昭49・9、角川書店) がある。注釈者は三好行雄である。私が「うた日記」に興味を もったのは随分前で、「万葉集と鴎外の「うた日記」」という論文を昭和三十八年十一月に『立教大学日本文学』に発表している。その後関心が他方面にわた り、「うた日記」とは距離を置いていた。同じ鴎外の 「奈良五十首」 には徹底的に取り組み、「鴎外「我百首」の価値」とを合わせて『鴎外「奈良五十首」 の意味』(昭50・10、笠間書院)を上梓した。その後も「うた日記」に対する関心は衰えることはなかったが、なかなかそこへ集中できなかったのは、先に のべたように、「うた日記」を真に理解するためには、俳句、短歌、新体詩のそれぞれにぶつかってそれらを解釈しなければ意味がないし、それは生半可な努力 では出来ない作業なので、つい尻ごみしていたからである。
 今回再び「うた日記」にとりかかろうとしたとき、まず日本近代文学大系本の注釈を開いた。正直なところ、今日までまともにこの本に向かったことがなかっ た。従って、三好行雄の注釈を読むのは初めてであった。頭注に佐藤春夫の評語が散見されるのは、『陣中の竪琴』(昭9・6、昭和書房)という、春夫による 「うた日記」頌が存在するから当然ではあるが、私自身の名が注釈の中のあちこちに登
場するのには驚いてしまった。補注を含めると、六ヶ所に引用があった。最も長い引用は、明治三十七年九月二十七日の日付のある「ひくほまれ」に関するコメ ントである。引用部分は次の通りである。

        
  ここには、「罵(の)るとふ」「よしゑやし」「豈(あに)引かめやも」「取りがてぬかも」などのように、全面的に語句の面でも万葉調をみることができ るが、それよりも著しいことは、この作品全体の調子が、五七五七……七七と長歌形式を取り、最後の短歌が万葉集における反歌と同じ意味でそえられているこ とである。「うた日記」のなかで、これとおなじ形式をそなえたものを求めると、このほかに七つも見出すことができる。「ねぎごと」「さくら」「梨のはな」 「たまくるところ」「学校」「小金井壽慧造(すえぞう)を弔(とぶら)ふ」がそれで、「石田治作」には、反歌が二首そえられている。
  更に、この「ひくはまれ」をよく読んでみると、これが、万葉集の有名な長歌、巻2・一三一「柿本人麻呂、石見国より妻に別れて上り来りし時の歌二首并 びに短歌」の調子を借用していることが、すぐに納得がゆく。人麻呂の、「浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ」と、まず人の思惑を推量してお いてから、「よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも」と、ややすねたふうに否定し、つぎに来る語句を強調するという修辞法を、鴎外は巧みに 利用しているのである。「よしゑやし」は、この長歌以外にも多くの用例があるから、必ずしもこの長歌から鴎外がヒントを得たと、云い切ることは出来ない。 それにしても、鴎外はさきに挙げたような、多くの万葉集に出典を見る語句を完全に消化しながらこのような長歌ならびに反歌を見事に作っているのだから、よ ほど万葉集にしたしんでいたと考えなければならない。


 この論文には、鴎外が万葉集から借用したと思われる単語やフレーズを、一々歌番号も含めて抽出しておいたが、今回さらに丹念に探索した結果、総数が二倍 になるほど増加したので、出典の歌番号を省いて列挙しておきたい。配列は「うた日記」に登場する順で、二度以上登場する例は一度しか挙げていない。また、 先に再録した私の文中の例は省いてある。
 「凡(おほ)ならば」「ふふめる」「水漬屍(みづくかばね)」「ここだ」「朝びらき」「企救(きく)の浜松」「ますらたけを」「かなとで」「たまきは る」「うらもとなきに」「刈薦(かりこも)の乱れ」「おくつきどころ」「あかとき」「ゑまふ」「面輪(おもわ)」「妻問ふ鹿」「うべ」「司(つかさ)」 「直土(ひたつち)」「風(を)いたみ」「かつかつ」「うから」「うまいせる」「およづれ」「さはに」「せんすべしらに」「赭塗(
そほぬり)」「さつを」「縦横( たてぬき)に」「兵隊(いくさ)」「臥(こや)せる……あは れ」「つはもの」「まろねす」「あに引かめやも」「罵(の)らえつつ」「取りがてぬかも」「非時( ときじ)く」「黙(もだ)」「妹(いも)わぶらんか」 「我家(わぎへ)」「たもとほり」「いささめに」「しじ に」「犢(ことひ)」「あともひて」「思ほゆるかも」「荒雄(あらを)ら」「たはわざせる」「咲きををる」「枝もとををに」「木(こ)ぬれ」「はだれ」「しば鳴く」「まつろひし」「さ丹(に)塗 (ぬ)り」「気疎(けうと)くもあるか」「いで立つ我 は」「丘(つかさ)」「おぞや」「いさなとり」「翁(おきな)さびたり」「見れどあかぬかな」「陸奥(みちのく)のあたたらまゆみ」「夜光る玉」「ぬば玉の」「かがふりて」「好き人はよしとよく見て」「うつゆふの」「うべしこそ」「千尋(ちひろ)
栲縄(
たくなは)」「茜(あかね)さし」
  一見して了解されるように、鴎外はこれだけ万葉集から言葉やフレーズを借用しているのである。この中に、幕末勤皇歌人や太平洋戦争中の諸歌人が好んで使用 した「水漬屍」という言葉がある。陸奥国から金が産出したことを祝福するために大伴家持が作った長大な長歌(巻十八・4094番歌)の一部に、大伴氏が昔 から天皇家のためにこれほどにもつくして来たという証拠として、代々家に伝えられて来たという家訓が詠みこまれていて、「……海行かば 水漬(みづ)く屍 (かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の 辺(へ)にこそ死なめ 顧みは せじと言立て……」という部分が作曲までなされて、国民が耳が痛くなるほ ど聞かされた、この有名なフレーズ
の中の言葉である。この「水漬屍」を、鴎外は次のように借用していた。
           
 市(
いち)こぞりて水潰屍(みづくかばね)となりにきと薩哈連烏拉(さがれんうら)のなみのとむせぶ

 この歌についての三好行雄の頭注五「
薩哈連烏拉 サガ レン浦(樺太沖)か」は誤っている。『大日本地名辞書』によれば、樺太の異名の一つとして「薩哈嗹(サガリン)島」を掲げ、「専(もっぱら)、泰西人の呼称にして、固(もと)、満州(粛憤)語サガリンSaghalien、黒龍 江をサガリンウラと呼べるにより、その江口の海島に及ぼせるなり」とある。先に間宮林蔵が、その後ネヴェリエスキーが発見確認するまで、樺太はシベリア大 陸と陸つづきであると思われていた。黒龍江河口近くにある島なのでサガリンと呼んだのであろう。鴎外の歌の「薩連烏拉」は、黒龍江を指している。この歌の場合の「水漬屍」は、文字通り溺死し た黒龍江河口の人々そのものを指しているのであって、天皇陛下のために戦って名誉の戦死を遂げた日本国軍人とはなんの関係もなく、樺太がロシア領になるま での歴史のひとこまを詠んでいるに過ぎない。
 もう一首挙げる。

 冬の神たはわざせるよ咲きををる氷のはなに木末(こぬれ)かがやく

 これは明治三十八年一月十四日に十里河で詠まれている。極寒の冬の神はふざけたことをするものだ、しなった枝々の先に霧氷がこおりついて、まるで花でも 咲いたかのように梢が輝いているというのである。日本の平地では絶対に見られない満洲の自然の厳しい美しさをとらえた叙景歌である。ところが、ここに用い られている「たはわざ」 は、万葉集にただ一例しか見られない特別の言葉で、しかも一首全体の意味を知ると、鴎外がいかに原典から飛躍して万葉語を使用し ているかという事実がわかり、驚かされる。
          
 4487 いざ子どもたは業(わざ)なせそ天地(あめつち)の固めし国ぞ大和島根は  (巻二十)

 作者は藤原仲麻呂で、当時は紫微内相であった。一時は天皇の信任もあつく、恵美押勝という名前まで頂いて一世を風靡したが、のちに謀反を起こして失敗し 斬首された人物である。日本の国は天地の神々が作り固めた尊い国であるぞよ、さあみんな、ゆめゆめふざけた行いはするなよと皇太子の前で廷臣たちに呼びか けた歌である。そう呼びかけた本人の後の姿を知ってからよむと、いかにも人間の運命の皮肉を感じさせられる。もと歌での 「たはわざ」が、政治的に正道を 外れた行為といったような生臭い言葉であるにもかかわらず、鴎外はもと歌の持つニュアンスを全く切り放して風景描写の一助として用いているのである。鮮や かとしか言いようがない。
 このように、鴎外は万葉集から数多くの言葉やフレーズを借用していながら、そのほとんどがもと歌の持つ文脈やニュアンスを伴っていないのである。万葉集 から新奇な単語、フレーズを詩語として借りただけであって、幕末勤皇歌人や太平洋戦争中の歌人たち詩人たちのように、万葉集から忠君愛国の精神を移植しよ うとはしなかった。これは、幕末から昭和にかけての長い詩歌の歴史の中で稀有の例ではないだろうか。
 戦場へ赴く際に佐佐木信綱から寄贈された万葉集を座右に置いて、暇さへあればひもといていた鴎外は、帰国後信綱に向かって次のように語っていた。

  若い頃、寓葉略解で拾ひ読みをしたことはあつたが、全体を通読し、更に反読したのは、この軍旅の間に於いてが初めてである。おかげで貴君のよく言はれ る歌ごころが湧き、詠みためたものを、記念の為め集に出さうと思ふから一見してほしい。寓葉は愛読したが、萬葉の模倣歌を詠まうとはしなかつた。萬葉時代 には萬葉集があると同様に、明治には明治時代の歌風がおのづから出ねばならぬとおもふ。 (佐佐木信綱「鴎外博士と萬葉学」(『季刊文芸評論』昭23・ 12))

 この鴎外の発言は、短いながらも肯綮にあたる内容をもっている。
 鴎外は終世読書家だったし、記憶力もよく、眼光紙背に徹するほど読みこむのが常であった。さきに掲げた万葉集から借用した言葉、フレーズが思いもかけな いほどの数にのぼるのは、鴎外が全巻をくまなく読み通していたからであった。そして、鴎外は万葉独自の言葉、フレーズをすべて文脈から切り放して、新しい 明治の歌を創始するための素材としてのみ用い、確固としてその方式を貫いて「うた日記」中の詩歌を創作していたのである。「水漬屍」が勤皇精神を引きずら ずに、単純に「溺死した死体」という意味の言葉として用いられていたのは、このような、鴎外の明確な意志が存在していたからである。
 万葉集との関係から離れて、もう一例を挙げる。
      
   同日鎮南浦にて閉塞船
一七の事を聞く
 朧夜や精衛
一 八の 石ざんぶりと
 
 「同日」というのは明治三十七年五月二日のことである。この句の三好行雄注は詳しく、のちの叙述にも必要なので、二つの頭注を次に列記する。

  一七 閉塞船 旅順港閉塞船。旅順港内のロシアの軍艦を封じこめるため明治三七年四月下旬より五月上旬にかけ(時期マ マ。正しくは下記に。)て、三回の決死隊による閉塞を敢行した。第二回の試みで戦死した広瀬中佐と杉野兵曹長のエピソー ドは有名で、軍歌にもうたわれた。
  一八 精衛の石 精衛は支那の想像上の小鳥。夏をつかさどる炎帝の娘が東海に溺れ、化して精衛となった。つねに西山の木石をくわえて飛来し、それを投 げこんで東海を埋めようとしたという故事 (「山海経」や、左思の「魏都賦」)をふまえている。船を沈めて港を閉鎖しようとしたのを精衛の石にたとえたも の。

 この二つの頭注は詳しいとは言うものの、先の鴎外の俳句を解釈するためには、まだ不充分である。まず「閉塞船」のこと。日露戦争の主戦場は遼東半島から 満洲へかけてであったから、日本軍は戟うための兵力、兵器、弾薬、食糧など、すべてのものを海を越えて大陸へ運ばなければならなかった。ところが、その半 島の突端にある旅順にはロシアの艦隊の一部が無庇のまま残っており、それらが出撃してくると、日本の制海権は断たれ、同時に陸軍への補給も不可能になるわ けである。そのため、日本軍は旅順湾口に船を沈没させて、ロシア艦隊が出撃できないようにしようと考えたのである。「まず二月二十四日未明、第一回閉塞を 実行して五隻の汽船を沈め、ついで三月二十七日第二回閉塞で四隻を沈めた。しかし、予定地点到達前の坐礁、あるいは探照灯に照らされての位置誤認、さらに は敵弾により撃沈されるなど期待した成果を収め得なかった。沈んでゆく汽船の上で、行方不明の部下を最後まで探し続けて戦死した広瀬武夫少佐(死後、中佐に昇進)が、以後「軍神としてあがめられることになったが、これは第二回閉 塞作戦中の出来事である。」 (古屋哲夫『日露戦争』(中央公論社) (太字・平山)
 鴎外がこの事実を聞いたのは「五月二日」だが、「朧夜」という春の季語を使っているところを見ると、三月二十七日の第二回閉塞のこと、つまり、のちには 軍神となった広瀬少佐殉職の夜のことを頭に浮かべて句を作ったと考え られる。
 次は精衛である。三好頭注に「佐思の 「魏都賦」」の名が挙がっているが、「魏都賦」には「翅翅精衛、銜木償怨」とあるだけで、この伝説の内容はここか らはほとんど知りえない。その点はともかくとして、「精衛海を填む」ということわざがあり、それは「実現できないことを企てて徒労に終わることのたとえ」 (『故事ことわざの辞典』(小学館))として通用している言葉であって、鴎外もそうした一般的な意味あいで用いてこの句を詠んでいるのである。
 聞くところによると、第二回の閉塞船の作戦も失敗に終わったようだ、当日は春の朧夜であったが、海軍は何をやっているのだろう、これでは精衛が大海を埋 めようとして木石を放りこんだようで、海軍の働きはどうやら徒労ではないか、というのがこの句の意味である。
 陸軍の戦いの成果は、一に海軍による制海権の確保にかかっていたから、鴎外も閉塞船の作業には格別の注意を払って情報を求めていたのであろう。一方、ウ ラジオストックにある東洋艦隊も健在で、六月には対馬海峡に現われてわが国の輸送船を撃沈し、七月には太平洋岸に出現して日本、イギリス、ドイツの船を撃 沈したりした。「当然、ウラジオ艦隊を見張って攻撃するはずの第二艦隊に対する非難は高まり、とくに上村司令長官の留守宅には、辞職しろとか切腹しろとか いう手紙が山をなし、はては上村はロシアの
スパイだと言い出すものや、家族をおどかすものまでもあらわれた。」 (前掲書)
 このような情況の中で、陸軍の鴎外が先のような句を詠んだのは、あ るいはむしろ当然であったとはいえる。しかし、のちには尋常小学唱歌第四学年用の唱歌(「広瀬中佐」)にもうたわれ、万世橋駅前には銅像も立ち、郷里の豊 後竹田では広瀬神社の祭神ともなった広瀬少佐の行動を知った上でも、 閉塞は徒労ではないかと句に詠んだ鴎外は、やはり忠君愛国の勤皇詩歌人とは異なったスタンスに身を置いていたのだと考えられる。

            *

 「扣鈕」という新体詩についてものべておきたい。この第二連に、「べるりんの 都大路の/「ぱつさあじゆ 電灯あをき/店にて買ひぬ/はたとせまへに」 とある。この「ぱつさ
あじゆ」については、川上俊之の「「ぱつ(ママ)あじゆ」考」 (『鴎外』42号)が極めて適切な注解を施している。三好注には 「passage(仏)歩道。」とあるが、これは 「抜裏」と訳すべきで、「鴎外が留学していた頃にウンター・
デン・リンデンから入ることができたカイザー・ガレリーまたはパッサージュともいわれたアーケードと思われる。」とあって、そこには各種の専門店、レスト ラン、ビヤホール、ショールーム、コーヒー店、蝋人形館などもあり、「そのようなシックな感じの賑わいのなかにあった服飾店でカフス・ボタンを買い求めた 過去の平和な一瞬が、戦場にある鴎外の脳裏をかすめたと想像することもできる。青
い電灯の下で品定めをした時に、連れ添っていたとも思わる(ママ)謎の乙女」もいたのでは ないかと記している。川上がそこに引いている、オシップ・デイモフの「襟」(鴎外訳『三田文学』明44・1)の文章を、もう少し長めに引用すると次の通り である。
  晩には方々を歩いたつけ。伽排店はヰクトリアとバウ                 
  エルとへ行った。それから黒猫(
シヤア、ノアル)や リン
  デンや抜裏(
パツサアジユ)なんぞの寄席にちよいち
  よい這入って覗いて見た。
 そんな「抜裏」 で買い求めた「
扣鈕」は、正に鴎外の 青春の象徴であったろう。それを失ってしまった鴎外の気持は痛いほどに伝わってくる。そうした意味で、これは鴎外の詩の中でも第一に推したい優れた抒情詩 である。
 この詩についても三好注は、佐藤春夫と平山の文章とを並記した上で自らのコメントを加えている。かつて私が書いた論文のこの部分は言葉足らずの面もある のでここには転載しないが、その末尾に私は次のように記した。「しかしもし「
扣鈕」のような作品を今度の太平洋戦争中に、軍医部長が発表したら、反軍的だといって、相当非難されたかも知れない。」
 第一回旅順(東鶏冠山)攻撃だけで日本軍の死傷者は一万五千八百人、奉天の会戦だけで約七万人の死傷者が出ているのである。日本全国から召集を受けたあ らゆる階層の男たちが、次々に殺されて遺骨となって帰国していったその最中(
さなか)に、「ますらをの 玉と砕けし/ももちたり それも惜しけど/こも惜し扣鈕/身に添ふ扣鈕」と軍医部長がの んびりとうたっていてよいものだろうか。当時の一般庶民の立場に立って読むならば、やはりこの詩は許せないという気がするのである。鴎外がこの詩だけは当 時に発表せ
ず、深く筐底に蔵したまま他界し、死後偶然に発見されたならどんなによかったことかと、かなうこともない思いに誘われることもある。
 「精衛」の句といい、この「
扣鈕」といい、鴎外は当時 の民衆の感情にはうとかったようである。今日の研究者ですら「うた日記」をまともに読もうとはしない。当時の民衆はなおさら読みはしなかったであろうか ら、かえって鴎外は批難されずにすんだのではないだろうか。このように「うた日記」はそうした面に配慮されることなく公刊されているのである。
 以下、枚数に限りもあるので、ほんの数首の短歌について感慨をのべておきたい。
                  
  夢のうち奢(
おごり)の花のひらきぬるだりにの市(いち)はわがあそびどころ

 「だりにの市 大連市。「だりに」は正しくはDal'niiダルニーで、大連のロシア名。「夢のうちの奢の花のひらきぬる」はロシアが遠大な都市計画の もとに大連市を着々と整備しつつあったことをいう。」と三好注にある。その大連に、日清戦争にも従軍した鴎外はかつて訪れている。その体験をふまえて「わ があそびどころ」と言った。のちに清岡卓行が「アカシアの大連」で描いたように、大連は西欧風の美しい町である。鴎外はベルリン時代を思い起しつつさま よったのではないか。
                 
  白きおくり黄なる迎へて髪長き宿世(
すくせ)をわぶ る民いたましき

 三好注は佐藤春夫の「髪良き」を女人とする説をあげているが、私はとらない。当時はまだ弁髪の中国人も多かった。「白き」はロシア人、「黄なる」は日本 人、いずれにしても支配者は異国人である。そうした侵略者たちに痛めつづけられている現地人を「いたましき」と哀れんでいるのである。「宿世」 の語に彼 らの深い諦めがうかがわれる。「黄なる」と言って自らを黄色人種とはっきり認識し、「白人」と 「黄色人種」との間の争闘としての戦いに加わっているとい う立場を鴎外は強く意識していた。鴎外の世界的な視野に立った感覚がうかがわれる。「黄禍」という詩もあり、『黄禍論梗概』という著書も出している。「黄 なる子の白きを懲らすを見つつ笑ふ天の口より光ながれぬ」という歌もある。

  雨やめど夜明まつ間をまだぬがぬ頭巾につつむうたたねの夢
  黍がらの蚊火たく庭によこたへし扉のうへにうまいす我fは
  ひたつちにきみがら敷きてまろ寝する枕にちかき虫のこゑごゑ

 いずれも戦場での予期せざる体験を詠んでいるので、三首一度に並べてみた。第一首は雨が止んだにもかかわらず、また降るかもしれないので夜明けまでの束 の間、頭巾をかぶったままうたた寝をしている。ひょっとしたら、立ったままかもしれない。第二首は、破壊された家の扉を地面の上に置いて、その上に寝てい るのであり、第三首はそれどころか、地面の上に黍がらを敷いてじかに寝ているのである。軍医部長でも戦闘中はこのような体験をするのだということが如実に わかる、率直な歌でありながら、歌のことばは意外に優雅でもある。「うたたね」「蚊火」「うまい」「ひたつち」「まろ寝」「虫のこゑごゑ」──これらの雅 語が、こうした戦場危急の場でもとっさに浮かんでくるという点に、やはり鴎外の教養の深さと詩精神の豊かさを見る。「うまいす我は」 のように、第五句内 で主語と述語を転倒させて結ぶ形式は、「醜の御楯と出で立つ我は」 (巻二十・4373)のように、万葉から学んだ技巧である。
       そゝ                    
  いくさらが濺ぎし血かとわけいりて見し草むらの撫子(
なでしこ)の花

 草むらの中に真赤な色が見えるので、死傷者の血潮が飛び散っているのかと分け入ってみると、そうではなくて撫子の花が咲いているのだった、という一見何 気ないような歌である。だが、鴎外には一方に、「夏草の葉ずゑに血しほくろみゆく」という句もあって、日頃累々と敵味方の死体が重なっている戦場を目にし ているので、鴎外がふと兵士たちの血しぶきがこびりついているのかと感じて草むらに分け入ったのは、決して文飾上だけのことではないと思われる。
 そのほか、浪漫的でギリシア神話を思わせる「梨の花」、ロシア兵に強姦され、死のうとしてケシの花を食べてしまった中国の女性を、今度は嘔吐させようと して人糞を食べさせたという、信じられないような悲劇を題材にした「罌粟、人糞」、死に行くロシア兵の脳裡に去来する故郷の光景を描いた「ぷろしゆちや い」など優れた新体詩も数多く含まれているのだが、本稿では触れる余裕がない。

      *

 以上、本稿にのべたように、鴎外はあからさまに万葉語、万葉的表現を借用した忠君愛国的な作品を一つも作りはしなかった。これは、鴎外が特に反軍的非国 民的であったことを示すものではない。天皇が「神」ではないのは自明の理であるから、理性の眼の曇っていない鴎外は、万葉集におけるそうした言葉、表現に 反発を覚えて敢えて拒否をしたのであろう。当然のことを鴎外はしたに過ぎないが、同じように優れた知識人であったはずの太平洋戦争中の詩歌人たちは、どう してそのような単純な拒否ができなかったのであろうか。

    補 記

 『鴎外全集』第六巻 (昭4・10、鴎外全集刊行会)の口絵に、次の歌が書かれた鴎外自筆の色紙の写真が掲載されている。
  春廼日乃刀丘累毛之楽濺弖鯨捕留物語枳久沙農上能舟
 これは常磐会泳草の題詠「鯨」の第一首目の歌で、通行本には次のように記されている。

   春の日のたくるもしらで鯨とる物語聞く砂の上の舟

 この表記のうち「廼」「刀」「累」「捕」「沙」「農」の六文字は万葉集ではこのような訓としては使われていなかった。ただ「廼」は日本書紀には使用され ている。また「鯨」は文字としては使用されているが、すべてイサナと訓まれている。
 また、常磐会詠草の題詠「新椿山荘」は次のように記されている。

  山乃名乎移有庭之木立二波海石榴樹毛将有去来出而見牟
    ヤマノナヲウツセルニハノコダチニハツバキモアランイザイデテミム

  於那師名者余所丹母雖有君在者椿山跡波古々乎社云米
    オナジナハヨソニモアレドキミアレバツバキヤマトハココヲコソイハメ

 これらも調べてみると、ツバキを「海石榴」とする例はあるが、万葉では「樹」を伴っていない。オナジのジを「師」とするのは誤りで、またヨソを「余 所」、ココを「古々」とする例は、ともに万葉にはなかった。
 以上を総合すると、鴎外は、いわゆる万葉仮名の実体についてはあまり詳しくはなかったと言える。

 原稿提出後、鴎外にかかわる二つの著書の存在を知った。一つは末延芳晴の『森鴎外と日清・日露戦争』(平成二十
年八月、平凡社) である。「非戦の文学はいかにして可能なのか?」という帯のキャッチフレーズが示しているように、ある意味では本稿と似たような角度か ら書かれた評論である。そのため、本稿と同書とが重なる部分もあるかもしれないが、それは偶然である。
 もう一冊は岡井隆の『鴎外・茂吉・杢太郎−「テエベス百門」のタ映」(平成二十年十月、書肆山田)である。「我百首」についても言及しているので、私が すでに「鴎外「我百首」の価値」(昭49・10、『現代作家・作品論』河出書房新社)という論文を発表していることは記しておきたい。また、この新著で触 れている鴎外の「奈良五十首」仲の白毫寺を詠んだ歌の解釈は、明らかに失考であると思われる。私の『鴎外「奈良五十首」の意味』を参照していただきたい。 もっとも、その多宝塔は平成十四年三月十九日から二十日にかけて消失してしまったのだが……。