招待席

ひぐち いちよう 小説家。1872.5.2(旧3.25) - 1896.11.23 東京府内幸町に生まれる。閨秀画家上村松園が褒めそやされた博覧会で、まだ小説を書き始めない樋口一葉は、アルバイトをしていた。 その後、田辺花圃の成功に刺戟され、生活苦を助けるため創作の筆を執った一葉は、奇跡的な短期間に天才を発揮して『にごりえ』『たけくらべ』に登り詰め、 明治の果つる前、僅か二十五歳で彗星のように逝った。掲載作は、明治二十八年 (1895)五月刊の「太陽」第一巻第五号に初出。この作ではまだまだロマンチックな美文習作の域を遠く出ていない。 (秦 恒平)




      ゆく雲    樋 口 一葉



   上

 酒折(さかおり)の宮、山梨の岡、塩山(えんざん)、裂石(さけいし)、さし手(で)の名も都人(ここびと)の耳に聞きなれぬは、小仏ささ子(ご)の難 処を越して猿橋のながれに眩(めくる)めき、鶴瀬、駒飼見るほどの里もなきに、勝沼の町とても東京(ここ)にての場末ぞかし、甲府はさすがに大廈(たい か)高楼、躑躅が崎の城跡など見る処のありとは言へど、汽車の便りよき頃にならば知らず、こと更の馬車腕車(くるま)に一昼夜をゆられて、いざ恵林寺(え りんじ)の桜見にといふ人はあるまじ、故郷なればこそ年々の夏休みにも、人は箱根伊香保ともよほし立つる中を、我れのみ一人あし曳(びき)の山の甲斐に峰 のしら雲あとを消すことさりとは是非もなけれど、今歳この度みやこを離れて八王子に足をむける事これまでに覚ええなき愁(つ)らさなり。
 養父清左衛門、去歳(こぞ)よりどこそこからだに申分ありて寝つ起きつとの由は聞きしが、常日頃すこやかの人なれば、さしての事はあるまじと医者の指図 などを申しやりて、この身は雲井の鳥の羽がひ自由なる書生の境界に今しばしは遊ばるる心なりしを、先きの日故郷よりの便りに曰く、大旦那さまことその後の 容体さしたる事はござなく候へども、次第に短気のまさりて我意(わがまま)つよく、これ一つは年の故(せゐ)にはござ侯はんなれど、ずいぶんあたりの者ご 機げんの取りにくく、大心配をいたすよし、私など古狸の身なればとかくつくろひて一日二日と過し候へども、筋のなきわからずやを仰せいだされ、足もとから 鳥の立つやうにお急(せ)きたてなさるには大閉口に候、この中(ぢう)よりしきりにあなた様をお手もとへお呼び寄せなさりたく、一日も早く家督相続あそば させ、楽隠居)なされたきおのぞみのよし、これ然るべき事とご親類一同のご決義、私は初手からあなた様を東京へお出し申すは気に喰はぬほどにて、申しては 失礼なれどいささかの学問などどうでもよい事、赤尾の彦が息子のように気ちがひになつて帰つたも見てをり候へば、もともと利発のあなた様にその気づかひは あるまじきなれど、放蕩ものにでもおなりなされては取返しがつき申さず、今の分にて嬢さまとご祝言、ご家督引つぎもはや早きお歳にはあるまじくと大賛成に 候、さだめしさだめしその地には遊しかけのご用事もござ候はんそれらを然るべくお取まとめ、飛鳥(とぶとり)もあとを濁すなに候へば、大藤(おおふじ)の 大尽が息子と聞きしに野沢の桂次は了簡の清くない奴、どこやらの割前を人に背負せて逃げおつたなどとこういふ噂があとあとに残らぬやう、郵便為替にて証書 面のとほりお送り申候へども、足りずば上杉さまにてお立かへを願い、諸事清潔(きれい)にしてお帰りなさるべく、金故に恥じをお掻きなされては金庫の番を いたす我等が申わけなく候、前(ぜん)申せし通り短気の大旦那さましきりに待ちこがれて大じれにござ候へば、その地のお片つけすみ次第、一日もはやくと申 納侯、六蔵という通ひ番頭の筆にてこのやうの迎ひ状(ぶみ)いやとは言ひがたし。
 家に生(はえ)抜(ぬ)きの我れ実子にてもあらば、かかる迎えのよしや十度(たび)十五たび来たらんとも、おもい立ちての修業(しゅぎょう)なればひと 廉(かど)の学問を研(みが)かぬほどは不孝の罪ゆるし給(たま)えとでもいいやりて、その我(わが)ままの徹(とお)らぬ事もあるまじきなれど、愁 (つ)らきは養子の身分と桂次はつくづく他人の自由を羨(うらや)みて、これからの行く末をも鎖(くさ)りにつながれたるように考えぬ。

 七つのとしより実家の貧を救われて、生れしままなれば素(す)跣足(はだし)の尻(しり)きり半纏(はんてん)に田圃(たんぼ)へ弁当の持(もち)はこ びなど、松(まつ)のひでを燈火(ともしび)にかえて草鞋(わらんじ)うちながら馬士(まご)歌(うた)でもうたうべかりし身を、目鼻だちのどこやらが水 子(みずこ)にて亡(う)せたる総領によく似たりとて、今はなき人なる地主の内儀(つま)に可愛(かわい)がられ、はじめはお大尽の旦那と尊(たっと)び し人を、父上と呼ぶようになりしはその身の幸福(しあわせ)なれども、幸福ならぬ事おのずからその中(うち)にもあり、お作という娘(むすめ)の桂次より は六つの年少(としした)にて十七ばかりになる無地(むじ)の田舎娘(いなかもの)をば、どうでも妻にもたねば納まらず国を出(いず)るまではさまで不運 の縁(えん)とも思わざりしが、今日(きょう)この頃は送りこしたる写真をさえ見るに物うく、これを妻に持ちて山梨の東(ひがし)郡(ごおり)に蟄伏(ち つぷく)する身かと思えば人のうらやむ造(つくり)酒家(ざかや)の大身上(おおしんしょう)は物のかずならず、よしや家督をうけつぎてからが親類縁者の 干渉(かんしょう)きびしければ、我が思う事に一銭の融通(ゆうずう)も叶(かな)うまじく、いわば宝の蔵の番人にて終るべき身の、気に入らぬ妻までとは いよいよの重荷なり、うき世に義理という柵(しがら)みのなくば、蔵を持ぬしに返し長途(ちょうと)の重荷を人にゆずりて、我れはこの東京を十年も二十年 も今すこしも離(はな)れがたき思い、そはなにゆえと問う人のあらば切りぬけ立派に言いわけの口上もあらんなれど、つくろいなき正(しょう)の処(とこ ろ)ここもとにただ一人すててかえる事のおしくおしく、別れては顔も見がたき後(のち)を思えば、今より胸の中もやくやとして自(おのずか)ら気もふさぐ べき種なり。

 桂次が今おるここもとは養家の縁に引かれて伯父(おじ)伯母(おば)という間がらなり、はじめてこの家(や)へ来たりしは十八の春、田舎(いなか)縞 (じま)の着物に肩縫(かたぬい)あげおかしと笑われ、八つ口をふさぎて大人(おとな)の姿にこしらえられしより二十二の今日までに、下宿屋(げしゅく や)住居(ずまい)を半分と見つもりても出入り三年はたしかに世話をうけ、伯父の勝義(かつよし)が性質の気むずかしいところから、無敵にわけのわからぬ 強情の加減、ただただ女房(にょうぼう)にばかり手やわらかなる可笑(おか)しさも呑込(のみこ)めば、伯母なる人が口先ばかりの利口にて誰(た)れにつ きても根からさっばり親切気(しんせつげ)のなき、我欲の目当てが明らかに見えねば笑いかけた口もとまで結んで見せる現金の様子(ようす)まで、度々の経 験に大方は会得(えとく)のつきて、この家(や)にあらんとには金づかい奇麗(きれい)に損をかけず、表むきはどこまでも田舎書生の厄介者(やっかいも の)が舞(ま)いこみてお世話に相成(あいな)るというこしらえでなくては第一に伯母御前(ごぜ)がご機嫌(きげん)むずかし、上杉(うえすぎ)という苗 字(みょうじ)をばよいことにして大名(だいみょう)の分家と利(き)かせる見得(みえ)ぼうの上なし、下女には奥様(おくさま)といわせ、着物は裾(す そ)のながいを引いて、用をすれば肩がはるという、三十円どりの会社員の妻がこの形粧(ぎょうそう)にて繰廻(くりまわ)しゆく家の中(うち)おもえばこ の女が小利口の才覚ひとつにて、良人(おっと)が箔(はく)の光って見ゆるやら知らねども、失敬なは野沢桂次という見事立派の名前ある男を、かげに廻りて は家(うち)の書生がと安々こなされて、お玄関(げんかん)番(ばん)同様にいわれる事馬鹿(ばか)らしさの頂上なれば、これのみにても寄りつかれぬ価値 (ねうち)はたしかなるに、しかもこの家(や)の立はなれにくく、心わるきまま下宿屋あるきと思案をさだめても二週間と訪問(おとずれ)を絶ちがたきはあ やし。

 十年ばかり前にうせたる先妻の腹にぬいと呼ばれて、今の奥様には継(まま)なる娘(こ)あり、桂次がはじめて見し時は十四か三か、唐人髷(とうじんま げ)に赤き切れかけて、姿はおさなびたれども母のちがう子はどこやらおとなしく見ゆるものと気の毒に思いしは、我れも他人の手にて育ちし同情を持てばな り、何事も母親に気をかね、父にまで遠慮(えんりょ)がちなれば自(おの)ずから詞(ことば)かずも多からず、一目に見わたしたところでは柔和(おとな) しい温順(すなお)の娘というばかり、格別利発ともはげしいとも人は思うまじ、父母そろいて家の内に籠(こも)り居(い)にても済むべき娘が、人目に立つ ほど才女など呼ばるるは大方お侠(きゃん)の飛(と)びあがりの、甘(あま)やかされの我(わが)ままの、つつしみなき高慢(こうまん)より立つ名なるベ く、物にはばかる心ありて万(よろず)ひかえ目にと気をつくれば、十が七に見えて三分の損はあるものと桂次は故郷(ふるさと)のお作が上まで思いくらべ て、いよいよおぬいが身のいたましく、伯母が高慢がおはつくづくと嫌(い)やなれども、あの高慢にあの温順(すなお)なる身にて事なく仕えんとする気苦労 を思いやれば、せめては傍(そば)近くに心ぞえをも為(な)し、慰(なぐさ)めにも為りてやりたしと、人知らば可笑(おかし)かるべき自(うぬ)ぼれも手 伝いて、おぬいの事といえば我が事のように喜びもし怒(いか)りもして過ぎ来つるを、見すてて我れ今故郷にかえらば残れる身の心はそさいかばかりなるべ き、あわれなるは継子(ままこ)の身分にして、腑甲斐(ふがい)ないものは養子の我れと、今更(いまさら)のように世の中のあじきなきを思いぬ。


 まま母育ちとて誰(た)れもいう事なれど、あるが中にも女の子の大方すなおに生(おい)たつは稀(まれ)なり、少し世間並(なみ)除(よ)け物(もの) の緩(ゆる)い子は、底意地はって馬鹿強情など人に嫌(きら)わるる事この上なし、小利口なるは狡(ず)るき性根(しょうね)をやしのうて面かぶりの大変 ものに成(なる)もあり、しゃんとせし気性ありて人間の質(たち)の正直なるは、すね者の部類にまぎれてその身に取れば生涯(しょうがい)の損おもうべ し、上杉のおぬいと言う娘、桂次がのばせるだけ容貌(きりょう)も十人なみ少しあがりて、よみ書き十露(そろ)盤(ばん)それは小学校にて学びしだけのこ とは出来て、我が名にちなめる針仕事は袴(はかま)の仕立までわけなきよし、十歳(とお)ばかりの頃までは相応に悪戯(いたずら)もつよく、女にしてはと 亡(な)き母親に眉根(まゆね)を寄せさして、ほころびの小言も十分に聞きしものなり、今の母は父親(てておや)が上役なりし人の隠(かく)し妻とやらお 妾(めかけ)とやら、種々(さまざま)曰(いわ)くのつきし難物のよしなれども、持(もた)ねばならぬ義理ありて引うけしにや、それとも父が好みて申(も うし)受(うけ)しか、その辺たしかならねど勢力おさおさ女房天下と申(もうす)ような景色(けしき)なれば、まま子たる身のおぬいがこの瀬(せ)に立ち て泣くは道理なり、もの言えば睨(にら)まれ、笑えば怒(おこ)られ、気を利かせれば小ざかしと云(い)い、ひかえ目にあれば鈍(どん)な子と叱(し)か られる、二葉の新芽に雪霜(ゆきしも)のふりかかりて、これでも延びるかと押(おさ)えるような仕方に、堪(た)えて真直(まっす)ぐに延びたつ事人間わ ざには叶(かな)うまじ、泣いて泣いて泣き尽(つ)くして、訴(うった)えたいにも父の心は鉄(かね)のように冷えて、ぬる湯一杯(いっぱい)たまわらん 情(なさけ)もなきに、まして他人の誰(た)れにか慨(かこ)つべき、月の十日に母(はは)さまがおん墓(はか)まいりを谷中(やなか)の寺に楽しみて、 しきみ線香(せんこう)それぞれの供え物もまだ終らぬに、母(はは)さま母さま私(わたし)を引取って下されと石塔(せきとう)に抱(いだ)きつきて遠慮 なき熱涙(ねつるい)、苔のしたにて聞かば石もゆるぐべし、井戸(いど)がわに手を掛(かけ)て水をのぞきし事三四度に及(およ)びしが、つくづく思えば 無情(つれなし)とても父様(ととさま)は真実(まこと)のなるに、我れはかなくなりてよからぬ名を人の耳に伝えれば、残れる恥(はじ)は誰(た)が上な らず、もったいなき身の覚悟(かくご)と心の中(うち)に侘言(わびごと)して、どうでも死なれぬ世に生中(なまなか)目を明きて過ぎんとすれば、人並 (ひとなみ)のうい事つらい事、さりとはこの身に堪えがたし、一生五十年めくらになりて終らば事なからんとそれよりは一筋に母様(ははさま)のご機嫌、父 が気に入るよう一切の身をないものにして勤むれば家の内なみ風おこらずして、軒(のき)ばの松に鶴(つる)が来て巣(す)をくいはせぬか、これを世間の目 に何(なに)と見るらん、母御(ははご)は世辞(せじ)上手(じょうず)にて人を外(そ)らさぬ甘(あま)さあれば、身をないものにして闇(やみ)をたど る娘よりも、一枚あがりて、評判わるからぬやら。

 お縫(ぬい)とてもまだ年わかなる身の桂次が親切はうれしからぬにあらず、親にすら捨てられたらんような我がごときものを、心にかけて可愛(かわい)が りて下さるは辱(かたじ)けなき事と思えども、桂次が思いやりに比べては遥(はる)かに落(おち)つきて冷(ひや)やかなるものなり、おぬいさん我れがい よいよ帰国したとなったならば、あなたは何(なん)と思うて下さろう、朝夕の手がはぶけて、厄介(やっかい)が減って、楽になったとお喜びなさろうか、そ れとも折ふしはあの話し好きの饒舌(おしゃべり)のさわがしい人が居なくなったで、少しは淋(さび)しい位に思い出して下さろうか、まあ何と思うてお出 (いで)なさるとこんな事を問いかけるに、おっしゃるまでもなく、どんなに家中(うちじゅう)が淋しくなりましょう、東京(ここ)にお出(いで)あそばし てさえ、ひと月も下宿に出て入(い)らっしやる頃(ころ)は日曜が待どおで、朝の戸を明けるとやがてお足おとが聞えはせぬかと存じまするものを、お国へお 帰りになっては容易にご出京もあそばすまじければ、またどれほどのお別れになりまするやら、それでも鉄道が通うようになりましたら度々お出あそばして下さ りましようか、そうならば嬉(うれ)しけれどと言う、我れとても行(ゆ)きたくてゆく故郷でなければ、ここに居られるものなら帰るではなく、出て来られる 都合ならばまた今までのようにお世話になりに来まする、なるべくはちょっとたち帰りにすぐも出京したきものと軽くいえば、それでもあなたは一家のご主人さ まになりて采配(さいはい)をおとりなさらずは叶うまじ、今までのようなお楽のご身分ではいらっしゃらぬはずと押えられて、されば誠に大難に逢(あ)いた る身と思(おぼ)しめせ。

 我が養家は大藤村(おおふじむら)の中萩原(なかはぎわら)とて、見わたす限りは天目山(てんもくざん)、大菩薩峠(だいぼさつとうげ)の山々峰々(み ねみね)垣(かき)をつくりて、西南にそびゆる白妙(しろたえ)の富士の嶺(ね)は、おしみて面(おも)かげを示めさねども冬の雪おろしは遠慮なく身をき る寒さ、魚といいては甲府まで五里の道を取りにやりて、ようよう(まぐろ)の刺身(さしみ)が口に入る位、あなたはご存じなけれどお親父(とつ)さんに聞 (きい)て見給(たま)え、それはずいぶん不便利にて不潔にて、東京より帰りたる夏分などは我まんのなりがたき事もあり、そんな処(ところ)に我れは括 (くく)られて、面白くもない仕事に追われて、逢いたい人には逢われず、見たい土地はふみ難(がた)く、兀々(こつこつ)として月日を送らねばならぬかと 思(おもう)に、気のふさぐも道理とせめてはあなたでもあわれんでくれ給え、可愛(かわい)そうなものではなきかと言うに、あなたはそうおっしゃれど母な どはおうらやましきご身分と申(もうし)ておりまする。

 何がこんな身分うらやましい事か、ここで我れが幸福(しあわせ)というを考えれば、帰国するに先だちてお作が頓死(とんし)するというようなことになら ば、一人娘のことゆえ父親(てておや)おどろいてしばしは家督(かとく)沙汰(ざた)やめになるべく、然(しか)るうちに少々なりともやかましき財産など のあれば、みすみす他人なる我れに引(ひき)わたす事をしくもなるべく、または縁者(えんじゃ)の中(うち)なる欲ばりどもただにはあらで運動することた しかなり、その暁(あかつき)に何かいささか仕損(しそこ)ないでもこしらゆれば我れは首尾(しゅび)よく離縁になりて、一木立の野中の杉(すぎ)ともな らば、それよりは我が自由にその時に幸福(しあわせ)という詞(ことば)を与(あた)え給えと笑うに、おぬい惘(あき)れてあなたはそのようの事正気で おっしゃりますか、平常(つね)はやさしい方と存じましたに、お作様に頓死しろとは蔭(かげ)ながらの嘘(うそ)にしろあんまりでござります、お可愛想な ことをと少し涙ぐんでお作をかばうに、それはあなたが当人を見ぬゆえ可愛想とも思うか知らねど、お作よりは我れの方を憐(あわ)れんでくれていいはず、目 に見えぬ縄(なわ)につながれて引かれてゆくような我れをば、あなたは真のところ何とも思うてくれねば、勝手にしろという風で我れの事とては少しも察して くれる様子(ようす)が見えぬ、今も今居なくなったら淋しかろうとお言いなされたはほんの口先の世辞で、あんな者は早く出てゆけと箒(ほうき)に塩花が落 ちならんも知らず、いい気になってお邪魔(じゃま)になって、長居をしてお世話さまになったは、申訳がありませぬ、いやでならぬ田舎(いなか)へは帰らね ばならず、情(なさけ)のあろうと思うあなたがそのように見すてて下されば、いよいよ世の中は面白くないの頂上、勝手にやってみましょうとわざとすねて、 むっと顔(がお)をして見せるに、野沢さんは本当にどうか遊(あそば)していらっしゃる、何がお気に障(さわ)りましたのとお縫はうつくしい眉(まゆ)に 皺(しわ)を寄せて心の解(げ)しかねる体(てい)に、それはもちろん正気の人の目からは気ちがいと見えるはず、自分ながら少し狂(くる)っていると思う 位なれど、気ちがいだとて種なしに間(ま)違(ちが)うものでもなく、いろいろの事が畳(たた)まって頭脳(あたま)の中がもつれてしまうから起る事、我 れは気違いか熱病か知らねども正気のあなたなどがとてもおもいも寄らぬ事を考えて、人しれず泣きつ笑いつ、どこやらの人が子供の時うつした写真だというあ どけないのを貰(もら)って、それを明けくれに出して見て、面と向っては言われぬ事を並べてみたり、机の引出しへ叮嚀(ていねい)にしまってみたり、うわ 言をいったり夢(ゆめ)を見たり、こんな事で一生を送れば人は定めし大(おお)白痴(たわけ)と思うなるべく、そのような馬鹿になってまで思う心が通じ ず、なき縁ならばせめては優しい詞(ことば)でもかけて、成仏(じょうぶつ)するようにしてくれたらよさそうの事を、しらぬ顔をして情ない事を言って、お 出(いで)がなくば淋しかろう位のお言葉は酷(ひど)いではなきか、正気のあなたは何と思うか知らぬが、狂気(きちがい)の身にしてみるとずいぶん気づよ いものと恨(うら)まれる、女というものはもう少しやさしくても好(い)いはずではないかと立てつづけのひと息に、おぬいは返事もしかねて、私(わた)し は何と申してよいやら、不器用なればお返事のしようも分らず、ただただこころぼそくなりますとて身をちぢめて引(ひき)退(しりぞ)くに、桂次拍子ぬけの していよいよ頭の重たくなりぬ。

 上杉の隣家(となり)は何宗かのおん梵刹(てら)さまにて寺(じ)内(ない)広々と桃(もも)桜(さくら)いろいろ植(うえ)わたしたれば、こなたの二 階より見おろすに雲は棚曳(たなび)く天上界に似て、腰(こし)ごろもの観音さま濡(ぬ)れ仏にておわしますおん肩(かた)のあたり膝(ひざ)のあたり、 はらはらと花散りこばれて前に供えし樒(しきみ)の枝につもれるもおかしく、下ゆく子守りが鉢巻(はちまき)の上(う)え、しばしやどかせ春のゆく衛 (え)と舞いくるもみゆ、かすむ夕べの朧月(おぼろづき)よに人顔ほのぼのと暗くなりて、風少しそう寺内の花をば去歳(こぞ)も一昨年(おととし)もその まえの年も、桂次ここに大方は宿を定めて、ぶらぶらあるきに立(たち)ならしたる処(ところ)なれば、今歳この度とりわけて珍(めず)らしきさまにもあら ぬを、今こん春はとても立(たち)かえり踏(ふむ)べき地にあらずと思うに、ここの濡れ仏さまにも中々の名残(なごり)おしまれて、夕げ終りての宵々(よ いよい)家を出(いで)てはおん寺(てら)参(まい)り殊勝(しゅしょう)に、観音さまには合唱を申して、我が恋人(こいびと)のゆく末を守り玉えと、お 志しのほどいつまでも消えねばよいが。


 我れのみ一人のぼせて耳鳴りやすべき桂次が熱ははげしけれども、おぬいと言うもの木にて作られたるようの人なれば、まずは上杉の家にやかましき沙汰(さ た)もおこらず、大藤村にお作が夢ものどかなるべし、四月の十五日帰国に極(き)まりて土産物(みやげもの)など折柄(おりから)日清の戦争画、大勝利の 袋(ふくろ)もの、ぱちん羽織の紐(ひも)、白粉(おしろい)かんざし桜香(さくらか)の油、縁類広ければとりどりに香水(こうすい)石鹸(しゃぼん)の 気取りたるも買うめり、おぬいは桂次が未来の妻にと贈(おく)りものの中へ薄藤色(うすふじいろ)の襦袢(じゅばん)の襟(えり)に白ぬきの牡丹花(ぼた んか)の形(かた)あるをやりけるに、これを眺(なが)めし時の桂次が顔、気の毒らしかりしと後(あと)にて下女の竹が申しき。

 桂次がもとへ送りこしたる写真はあれども、秘しがくしに取納(とりおさ)めて人には見せぬか、それとも人しらぬ火鉢(ひばち)の灰になり終りしか、桂次 ならぬもの知るよしなけれど、さる頃はがきにて処用を申(もうし)こしたる文面は男の通りにて名書きも六蔵の分なりしかど、手跡(しゅせき)大分(だい ぶ)あがりて見よげになりしと父親の自まんより、娘(むすめ)に書かせたる事論なしとここの内儀(ないぎ)が人の悪き目にて睨みぬ、手跡によりて人の顔つ きを思いやるは、名を聞いて人の善悪を判断するようなもの、当代の能書(のうしょ)に業平(なりひら)さまならぬもおわしますぞかし、されども心用い一つ にて悪筆なりとも見よげのしたため方はあるべきと、達者めかして筋もなき走り書きに人よみがたき文字ならば詮(せん)なし、お作の手はいかなりしか知らね ど、ここの内儀が目の前にうかびたる形は、横幅(よこはば)ひろく長(たけ)つまりし顔に、目鼻だちはまずくもあるまじけれど、鬢(びん)うすくして首筋 くっきりとせず、胴(どう)よりは足の長い女とおぼゆると言う、すて筆ながく引いて見ともなかりしか可笑(おか)し、桂次は東京に見てさえ醜(わ)るい方 ではないに、大藤村の光る君帰郷という事にならば、機場(はたば)の女が白粉(おしろい)のぬりかた思われるとここにての取沙汰(とりざた)、容貌(き りょう)のわるい妻を持つぐらい我慢(がまん)もなるはず、水呑(みずの)みの小作が子として一足飛(いっそくとび)のお大尽(だいじん)なればと、やが ては実家をさえ洗われて、人の口さがなし伯父伯母一つになって嘲(あざけ)るような口調を、桂次が耳に入らぬこそよけれ、一人(ひとり)気の毒と思うはお 縫なり。

 荷物は通運便にて先へたたせたれば残るは身一つに軽々しき桂次、今日(きょう)も明日(あす)もと友達(ともだち)のもとを馳(は)せめぐりて何やらん 用事はあるものなり、僅(わず)かなる人目の暇(ひま)を求めてお縫が袂(たもと)をひかえ、我れは君に厭(いと)われて別るるなれども夢いささか恨む事 をばなすまじ、君はおのずから君の本地(ほんち)ありてその島田をば丸曲(まるまげ)にゆいかえる折のきたるべく、うつくしき乳(ち)房(ぶさ)を可愛 (かわゆ)き人に含(ふく)まする時もあるべし、我れはただ君の身の幸福(しあわせ)なれかし、すこやかなれかしと祈(いの)りてこの長き世をば尽(つ く)さんにはずいぶんとも親孝行にてあられよ、母(はは)御前(ごぜ)の意地わるに逆(さか)らうようの事は君としてなきに相(そう)違(い)なけれども これ第一に心がけ給え、言うことは多し、思うことは多し、我れは世を終るまで君のもとへ文(ふみ)の便りをたたざるべければ、君よりも十通に一度の返事を 与え給え、睡(ねぶ)りがたき秋の夜は胸に抱(いだ)いてまぼろしの面影(おもかげ)をも見んと、このようの数々を並(なら)べて男なきに涙(なみだ)の こぼれるに、ふり仰向(あおのい)てはんけちに顔を拭(ぬぐ)うさま、心よわげなれど誰(た)れもこんなものなるべし、今から帰るという故郷(ふるさと) の事(こと)養家のこと、我身の事お作の事みなから忘れて世はお縫ひとりのように思わるるも闇(やみ)なり、この時こんな場合にはかなき女心の引入(ひき いれ)られて、一生消えぬかなしき影を胸にきざむ人もあり、岩木のようなるお縫なれば何と思いしかは知らねども、涙ほろほろこばれてひと言もなし。

 春の夜の夢のうき橋、と絶(だ)えする横ぐもの空に東京を思い立ちて、道よりもあれば新宿までは腕車(くるま)がよしという、八王子までは汽車の中、お りればやがて馬車にゆられて、小仏の峠もほどなく越(こ)ゆれば、上野原、つる川、野田(のだ)尻(じり)、犬目(いぬめ)、鳥沢も過ぐれば猿(さる)は し近くにその夜は宿るべし、巴峡(はきょう)のさけびは聞えぬまでも、笛吹川(ふえふきがわ)の響(ひび)きに夢むすび憂(う)く、これにも腸(はらわ た)はたたるべき声あり、勝沼(かつぬま)よりの端(は)書(がき)一度とどきて四日目にぞ七里(ななさと)の消印ある封状(ふうじょう)二つ、一つはお 縫へ向けてこれは長かりし、桂次はかくて大藤村の人になりぬ。

 世にたのまれぬを男心という、それよ秋の空の夕日にわかに掻(か)きくもりて、傘(かさ)なき野道に横しぶきの難義さ、出あいしものはみなそのように申 せどもこれみな時のはずみぞかし、波こえよとて末の松山(まつやま)ちぎれるもなく、男傾城(おとこけいせい)ならぬ身の空(そら)涙(なみだ)こぼして 何(なに)になるべきや、昨日(きのう)あわれと見しは昨日のあわれ、今日の我が身に為(な)す業(わざ)しげければ、忘るるとなしに忘れて一生は夢のご とし、露(つゆ)の世といえばほろりとせしもの、はかないの上なしなり、思えば男は結髪(いいなずけ)の妻ある身、いやとても応とても浮世(うきよ)の義 理をおもい断つほどのことこの人この身にして叶(かな)うべしや、事なく高砂(たかさご)をうたい納むれば、すなわち新らしき一対の夫婦(めおと)出来あ がりて、やがては父とも言わるべき身なり、諸縁(しょえん)これより引かれて断ちがたき絆(ほだし)次第にふゆれば、一人(いちにん)一箇(いっこ)の野 沢桂次ならず、運よくは万の身代十万に延(のば)して山梨県の多額納税と銘(めい)うたんも斗(はか)りがたけれど、契(ちぎ)りし詞(ことば)はあとの 湊(みなと)に残して、舟は流れにしたがい人は世に引かれて、遠ざかりゆくこと千里、二千里、一万里、ここ三十里の隔(へだ)てなれども心かよわずは八重 がすみ外山(とやま)の峰(みね)をかくすに似たり、花ちりて青葉の頃までにお縫が手もとに文(ふみ)三通、こと細かなりけるよし、五月雨(さみだれ)軒 (のき)ばに晴れまなく人恋しき折ふし、かなたよりも数々思(おも)い出(いで)の詞うれしく見つる、それも過ぎては月一二度の便り、はじめは三四度もあ りけるを後(のち)には一度の月あるを恨みしが、秋蚕(あきご)のはきたてとかいえるに懸(かか)りしより、二月に一度、三月に一度、今の間に半年目、一 年目、年始の状と暑中見舞(しょちゅうみまい)の交際(つきあい)になりて、文言(もんごん)うるさしとならば端書にても事は足るべし、あわれ可笑(お か)しと軒ばの桜くる年も笑うて、隣(となり)の寺の観音様おん手を膝に柔和(にゅうわ)のおん相(そう)これも笑(え)めるがごとく、若いさかりの熱と いうものにあわれみ給えば、ここなる冷やかのお縫も笑くぼを頬(ほお)にうかべて世に立つ事はならぬか、相かわらず父様(ととさま)のご機嫌、母の気をは かりて、我身をないものにして上杉家の安穏(あんのん)をはかりぬれど、ほころびが切れてはむずかし。