「e-文藝館=湖(umi)」 書 下ろし長編小説

 ひびの  ひさえ  
1972年 山形県天童市に生まれる。『ママザメ』http://mamazame.com/の一員として子ども向けにおはなしを作ったりもしている、三人の子の母主婦。青 年海外協力隊の視聴覚教育隊員として、イ ンドネシアに2年赴任。 掲載作は、かなり練達の拘りのない筆づかいで、「インドネシア」体験に健康な根をおろしながら、なかなかおもしろい。書き始めの あたりのやや堅めの物言いを少しホグせば、方言も人間も状況もよく把握し表現されていて、粗雑でなく、薄い読み物でもない。ある時期の尾崎一雄文学などの もっていた笑いの味わいにも自然に近づいている。「mixi」のマイミクさんの中から得られた、これはこれ、文学的収穫として喜んでいる。さらなる創作を 期待する。  (秦 恒平)




           お寿司お父さん

       日比野 久枝

 

 日陰の残雪は路肩にしがみ付いていた。分厚い雲を通して届く太陽光線は穏やかで、路面の反射は少なく、ターフグリーンのあんどんカブが、曲がりくねった 山道を軽快にクリアしていた。
 次のカーブに砂利が浮いてると認識した時には、否応無くタイヤが横滑りを始め、そのままあえなく転倒した。
 長閑に笑う山懐から、ウグイスの初鳴きが響いてくる。
 萩生田正則は「よっこらしょ」とバイクを起こした。ズボンの膝株が擦り切れたものの、体に怪我は負わなかった。
 止まったエンジンをかけようと、ペダルを何発もキックしたが無反応で、チョークを引いて再度試みても結果は同じ。ステップバーは折れ、レッグカバーが割 れていた。おかもちを取り付ける出前機に致命傷が無いことを確かめると、アイボリーのジェットヘルメットを脱ぎ、肉付きのいい鼻の下をいびつな爪がのった 親指でこすり上げた。
 腕時計によれば約束まであと二十分あまり。バイクの速度でなら確実に目的地に到着できる時間だった。

 日照時間が日本一短いことだけが売りの田舎町で、正則は寿司屋を営んでいる。同居の両親は健在。きょうだい構成は、上に二人の兄、下に二人の妹。
 長男の正和は県庁職員、次男正利郵便局員、三男正則が寿司屋で、長女留子は小学校教諭、次女の末子は看護師。ついた職から察せるように、正則以外は皆 揃って勉強ができた。
「まんなかまんじゅうの則ちゃんは一番バカ」
 事ある毎に、おかしみの込もったレッテルを貼られていたが、本人はいたって平気で、気に病むことはなかった。中学卒業後、東京の親戚筋を頼って江戸前寿 司の見習いに入り、不器用ゆえの真面目さで十年勤めた。
 寿司酢で溶けた手の爪が当たり前になった頃、親方に一人前と認められ、町に戻り自宅を改造して『正寿司』を出した。
 きょうだい達は好都合とばかりに、年老いた両親を正則に任せ、嫁の地元や職場の近くへと引っ越して行った。
 正則は寿司屋が軌道に乗ってきたところで身を固めるべく、お見合いをすることにした。

 青柳露子の家は、松川沿いの国道から逸れ、山に向かって登っていく小道の突き当たりにある。鉄の塊と成り下がったバイクを押して登る身には、覚悟を強い てくる傾斜だ。
 正則は坂道を見上げ「どれ、あど一息だ」と、愛車に声を掛けてハンドルを握り直し、ほうほうの体で露子宅の目印として教えられた桜の木の下まで登り切っ た。
 傷付いた車体を桜の幹にもたれさせ、豆絞りの手ぬぐいで汗を押さえながら、せめて我の体裁を整えようと、丸いバッグミラーを覗き込んだものの、鏡には断 片的な灰色の空と、パブロ・ピカソが描いた愛人のような、配置の狂った顔が映し出されるだけだった。
 正則はとりあえず、短い前髪を唾でなでつけ、両肩をぽんぽんと払ってから、低いひさしのせり出す青柳家の玄関先に立つと「ごめんください」と声をかけ た。
 手のひらですっぽり包みこめそうな、乳白色の涙型の外灯が、その身をキンと硬くしたまま灯すことを止めている。
 「遅くなりました」背後では巨大な傘のごとく広がる桜がざわざわと揺れ、木の下闇に夜が立ち込めてきた。
 台所らしき窓は橙色に息づき、勝手口の横に置かれている、金網が張られたリンゴの木箱からは、カリカリと乾いた音が絶え間無い。中を覗いて見ると、うず ら達がせわしなく嘴で羽根を繕っている。
 「おばんです。遅くなってすいません」格子の引き戸に手をかけると、殆ど手応えが無いままに、カラカラと開いた。
 「ごめんくだっ」正則は息を呑んだ。上がり框で仁王立ちになっている男が居る。暗がりで表情をうかがい知ることは出来ない。
 「来る途中転んじまって、バイクがおシャカになっちまいまして」
 「まんず、来だがらには中さ入れ。小林さん方も見えでっからよ」
 露子の兄、晴男だった。
 「怪我は無がったが」
 「はい。大丈夫です。んだらば、お邪魔いたしますぅ」正則は半オクターブ高い声を出した。
 「萩生田です。大変遅くなりまして」
 たたきの奥の襖を開けると、茶の間は、たった今居ずまいを正したばかり、といった雰囲気に満ちていた。
 入口を背にして座っている仲介人の小林夫妻は、揃って上半身を正則の方にひねると、赤べこのように首を振りながら「よぐござったなっす」と、座布団をす すめてくれた。
 結んだ年月の長さを物語る、同じ表情の小林夫妻を目の前にすると、伴侶を得るのも悪くないなと思えた。
 「よぐ来てけだな。こっだな時間だもの、何か食べでってけらっしゃい」上座で顔を上気させ、煙草を揉み消している露子の父、九弥も一様に頷き、顔中の皺 を総動員させて笑っている。
 約束の時間から一時間以上遅れ、きつく当たられるだろうと縮こまっていた正則は、すっかり拍子抜けした。
 紬の座布団に着座し、何気なく室内を見回していると、先程から台所と茶の間を行き来している女が、熱い番茶を出してくれた。化粧気も無く、無言で立ち働 いている様子から、誰か知らぬがおさんどんの者であろうと判断した正則は、その女に軽く会釈をしただけで小林夫妻に向き直り、
 「ところで露子さんは今どちらに」と、切り出した。
 小林夫妻は、一拍置いてから互いの顔を見合わせ、眼を剥いた。
 「私が、露子です」番茶を載せていた螺鈿のお盆を胸に抱えた女が、正則を真正面から見据え「こんなんですみません」と、目笑した。
 白粉を乗せると二十八才という実年齢が、かえって透けて見えるようで、露子は普段から化粧を避けている。他愛のない女心だ。
 「俺はてっきり手伝いの人かと思ったっす」
 どっと上がった笑い声に、正則はばつ悪く頭を掻くと、改めて露子に向かい、深々とお辞儀をした。
 露子が急ごしらえで整えた夕飯は、調理を糧として暮らしている正則をも楽しませた。グリンピースの炊き込み飯は、塩だけの調味でとどめてあり、豆の初な 風味を際立たせている。砂糖醤油で炒り付けた鶏皮のこっくりとした脂は後を引き、酸味を効かせた人参の葉の胡桃和えは、口中を複雑な滋味で洗い上げる。小 鉢にちょこんと盛られた、岩のりの佃煮を試した正則は、しばし目を瞑ると
 「焼き海苔ありますか。それから、うずらの卵」と願い出た。

 正則の嫁となった露子は農家の娘で、堪え性のある根の明るい女だ。母親を早く亡くしていたので、家事の一切合切は露子が引き受けていたという。男所帯か ら女手をもらうのはいささか気が引けた正則だったが、そそと料理をこなす姿を見た時、二人で寿司屋を切り盛りしているイメージがすんなりと湧き、ほぞを固 めた。  
 露子の体は痩せぎすだが、決して貧相な印象ではなく、所作に小粋な感があり、口に運ぶものを選んでいる潔さが滲む。正則は「色白丸ぽちゃの女が好みだ」 と公言していたことに、今更ながら恥ずかしさを覚えた。
 時間にうるさい舅と、体より口を動かす姑の存在には、少なからず閉口する部分もあるだろうと「どっちみち、親が先に逝く順番ださげ、どうか今しばらく辛 抱してくれよ」などと予防線を張ると、
 「一晩寝っと、なんでも忘れるクチだがら、なんのなんの」と請け合ってくれる。波風を立たせずに夫を立て、器用に老人と渡り合う露子の柔和なしたたかさ に、正則は敬服するばかりだ。
 客あしらいも堂に入ったもので、決して出過ぎた真似はせず、話しかけられれば、絶妙の間合いで「ふふふ」と笑ったりする。
 正則はタネを片手に、つい露子の柳腰に見とれてしまい、温もってしまった切り身を無駄にすることがままあった。
 「シメにのりたま軍艦二皿ちょうだい」
 常連の小林夫妻から注文が入った。岩のりの佃煮の上に、うずらの卵黄を乗せた軍艦巻きが『正寿司』の看板となっていた。

 アスニーが最初に覚えた日本人の名前は、MAYUMI Itsuwaだった。五輪真弓が歌う『心の友』は、インドネシアの第二の国歌と称される程、世代を超えて浸透しており、多かたのインドネシア人が、意味も 分らぬままに日本語の歌詞を口ずさむことができる。
 カキリマと呼ばれる移動屋台で買った、ハトロン紙に包まれた焼き飯を、ちょいちょいと指先でまとめ、親指の背に乗せて口に放り込みながら、アスニーは土 産物屋に訪れる観光客を眺めていた。
 日本人と見ればそれとなく『心の友』を口ずさんだが、気付く者はいなかった。
 隣では臨月のアスニーの母が、未熟なマンゴーをナイフで薄く削ぎ、塩をまぶした青唐辛子の微塵切りにちょっと付けては、無心に口に運んでいる。
 「あのつばの広い帽子を被っている女の子は日本人だね。ああやって笑ってても、腹の中までは見せないところがジャワ人と似てるんだ。顔は綺麗でもお尻は 汚いよ。紙でしか拭かないんだから。写真を撮る時、映画スターのようなポーズを必ず決めるのが中国人。男も女も同じポーズさ。Tシャツの中にランニング シャツを着てたら韓国人だ。肉がいっぱいついてる白人のアベック。うるさかったらイタリア人、静かだったらフランス人。でも、西洋人は止めておいた方がい い。何かと大きすぎるんだ。トラジャ人は小さいからね。丁度いいのは日本人だ。あれはアメリカ人。短パンにサンダルだもの、間違い無いね。自転車で走りま わってりゃ、オーストラリア人さ。それで、どこでも何かと偉そうなのが、華僑」
 手元のマンゴーが種だけになると「あとは任せたよ」と、摺り足で母屋に戻って行った。
 アスニーに妹が誕生したのは、その日の夜だった。オレンヂ色の満月が、濃紺の雲間から溶け出し山々を照らしていた。死産だった。
 「彼女は産まれたくなかったのよ」母は、泣くアスニーの髪を、鼻を鳴らして嗅いだ。
 「また作ればいい」父は眉毛一つ動かさなかった。
 産声を上げずに逝ったアスニーの妹は、アスミンと名付けられて『乳の木』に埋葬された。
 白い樹液を出す木に穴を穿ち、亡骸を安置する弔い方は、トラジャの観光資源にもなっている。既に六体の乳児を取り込み、生気を漲らせてそそり立っている 乳の木には、遺体の数だけ扉のような蓋がうちつけられており、賑やかなアパートメントの風情だ。中で眠る永遠の乳飲み子達は、木の成長と共に空に近づいて いく。
 乳の木をさすり、見上げ、アスニーはトラジャを出て働こうと決めた。トラジャ人は従順で勤勉というイメージと、インドネシアでは少数派のキリスト教徒で あるという点で、在尼外国人のメイドとして重宝がられている。働き口はいくらでもあった。
 アスニーは乳の木の小枝で作った十字架を握りしめ、バスに乗った。九時間揺られて南下して、州都ウジュンパンダンに駐在している日本人家庭で、住み込み のお手伝いさんとなった。
 初日は掃除だけを任され、難無くこなしたのだが、自分の食事は各自で作らなければならず、ガスコンロを初めて使うアスニーは難儀した。それらしきツマミ をひねり、マッチで点火し、インスタントラーメンを煮るまでは出来たのだが、火の消し方がわからず、ふーっふーっと、口で吹き消した。
 その様子を目の当たりにした雇い主の奥方が、素っ頓狂な悲鳴を上げ、日本語をわめきつつ駆け寄ってきた。飼われていたキバタンも、乗じて雄叫びを轟か せ、止まり木の上で羽根を散らせた。外で一服していた運転手が騒ぎに気付き、火の点いたままのタバコを手に台所に転がり込んできて、事は更に大事となりか け、語り草となった。
 シルクのパンツや化繊のブラジャーにまで、熱心にアイロンをかけて焦がしたことや、味噌汁に蜂蜜を入れたことも今は昔。二年もするとすっかり日本料理も 日本語も覚えた。

 露子の兄、晴男が結婚するという。不惑に手が届こうかという頃に、一回り以上も年下のインドネシア人をめとるらしい。「種蒔きも済ませだがらよ」などと 臆面もなく、芯から朗らかなのだと、露子は下がり眉を一層下げて正則に報告した。
 「ただいマンボー!」一人息子の正幸が、息を弾ませて店に飛び込んできた。
 帳場前に置かれた、モケットのオットマンの上にランドセルを投げ、軽やかにターンすると、
 「いってきマスラオー。今日もカレーがいいー!」と、近頃ぐっと高くなった空に向って叫び、どこかへ行った。
 「正幸は毎日カレーがいいんだって」露子はランドセルを拾い上げると、手に持っていた麻の台拭きで、熱気が残るランドセルをぬぐった。
 正則は仕込みの手を休め「兄さん、年も年ださげ、丁度いい頃合いだ」と呟いた。
 二人は光の中へ消え入りかけている息子の背中を眩しく見送った。

 月に一、二度、東京のデパートで農産物の物産展が行われる度、独り身でフットワークの軽い晴男が売り子として駆り出された。 
 眉が太く、赤い頬の親しみやすい面立ちにお国言葉が相まって、晴男は自然と上客達を和ませ、財布の口を緩ませる。そのねぎらいにと飲みに行く、馴染みの 店にアスニーは居た。
 黒目がちの団栗まなこと団子鼻が、愛玩動物の雰囲気を醸し出しつつ、朗々と『心の友』を歌い上げるちぐはぐな挙動を、晴男は気に入り愛でた。
 「おらだの辺りにはよ、フィリピンやら韓国から嫁に来た人いっぱい居っから、何も心配すっごどない」
 分け入れど付け入れど、屈託の無い晴男の来店を、将来への希望と共にアスニーが待ち焦がれるようになるのに、時間はかからなかった。

 「ハクチョウ、おいしそう」
 「カモなら旨いが、白鳥は食べたごどねぇなぁ」
 安定期に入ったアスニーを晴男の家に迎え入れる日、河口近くの川に寄って白鳥を見せた。
 「きっとおいしいよ」アスニーは確信に満ちた顔で頷く。
 「大きくなったら、三人で樹氷見に行くか」晴男は迫り出し始めたアスニーのお腹に向って話しかけた。
 「じゅひょう?」
 「樹氷ってよ、蔵王に現れる雪のモンスターよ。そのモンスターの偉いところはな、風が吹く方に向って伸びるってとこだ。逆風をもろともしねえで、風に 向って大きくなっていくってんだがら、大したもんだ。俺はこの話をよ、本物の樹氷の前で子どもにしてやりてぇんだ。男のロマンってやつだ。アスニーもな、 これから風当たりの強いこと、いっぱいあるがもしんねけど、俺さちゃんとつかまっておけば、どんな風が来たって飛ばされねぇ。アスニー、これからよろしく な」
 晴男は顔を引き締めて、アスニーの瞳を真っ直ぐに見つめた。
 「風、インドネシアでは風食べるよ。マカンアンギン。マカンが食べるでアンギンが風。出かけることや旅行のことを〈風を食べる〉って言います。私、これ までも日本の風いっぱい食べました。まずい風、しょっぱい風、沢山。これからはここでおいしい風をいっぱい食べて、じゅひょうモンスターのように大きくな るから、だから、晴男が私にちゃんとつかまってなさい!」
 決めのタイミングを逃した晴男は、小首を傾げたまま「はい」と、素直に頷いた。

 「お、くろんぼの嫁、そだんどさ立ってねで、さっさと上がらっしゃい」
 晴男の父九弥は、玄関先で所在無さげにかしこまるアスニーをほぐしてやろうと、軽口を叩いて出迎えた。
 「黒じゃないよ薄茶色だよ」アスニーは小声で主張した。
 「そうか。茶色の嫁っ子めんごいな。頭がスースーするな」
 家の中でも被りっぱなしの毛糸の帽子を取って、禿げ頭を叩いてみせた。
 二の句を継げる者が居ないまま、三者三様の笑みを浮かべ、漫然と家族になった。
 ほどなくしてアスニーは地区の『若妻会』に入った。
 月に一度、公民館で開かれる寄り合いでは、年間行事の打ち合わせをすることが多い。
 春はソフトバレーボール大会、夏は盆踊り、秋は運動会、冬はキムチ仕込みと蕎麦打ち体験会。その他にも、講演会やバザーなどの催し物がある。とは言え、 若妻会が主催するのは、気まぐれに開かれる料理教室ぐらいなもので、殆どの行事は青壮年会主導の下で執り行われていた。
 若妻会の会合は、公明正大なお茶飲みの会なのである。
 「にほんじんはかぞくどうしでもあいさつします」
 「ホトケサマノゴハンタベチャイケナイヨ」
 「お風呂は一番最後に入るべし」
 「てばなをかむとおどろかれます」
 「産婦人科は公立病院まで行かないと無いからね」
 「ハシモチャワンモヒトリヅツキマッテルモノヨ」
 新参のアスニーを囲み、遠巻きに助言する黄色いご婦人もあれば、我が事のように親身に寄り添ってくる茶色い若奥さんもいた。小さな山里の異文化交流はア スニーを慰め、和ませた。
 公民館から帰ると、九弥がどてらを二枚重ねで羽織って猫背になり、掘りごたつと一体化している。
 「お父さんどうしたの」
 アスニーが心配すると、九弥は肩をすくめて寒がってみせた。
 「風邪だべ」
 傍らで爪切りに勤しんでいる晴男はにべもない。
 初対面以来一ヶ月、ニコニコするだけで殆ど口を開かない九弥の扱いに戸惑っていたアスニーだったが、
 「お父さん、服脱いで、私、風邪治すの得意」と言いながら腕まくりをした。
 「アレ、やんのか」
 承知した晴男は、ズボンのポケットをジャラジャラとまさぐり、十円玉を選んでアスニーに投げてよこした。
 アスニーはおもむろに一枚、また一枚と九弥の服を剥ぎ取り、
 「マッサージします」と宣言した。
 鏡台から持ってきたティートゥリーオイルを、九弥のたるんだ背中にまんべんなく伸ばしていく。
 「何塗った? スースーするな、ハッカだが?」
 まな板の上の九弥は、八の字眉を不安気に強張らせるばかりだ。
 「いだだだだ」
 ドングリを突然奪われてしまったリスのように、上唇を持ち上げて前歯を覗かせ、九弥は痛みを訴えた。
 「あーじあじあじ、あーじい、あじじ」
 今度は季節外れに狂い鳴きするジージーゼミのごとく、暑さを訴えた。
 「いじじ、あだい、いじ、いだ、いづ、あだだっ」
 身悶えしながら引き続き暑さと痛みを訴えた。
 アスニーは執刀医さながらの面持ちで、九弥の背中に突き立てたコインを、背骨と肋骨に沿わせて執拗に往復させている。その跡は、熱を持って赤く膨らみ、 紅白模様の虎さながらだ。
 ひとしきり擦って満足したアスニーは、台所から瓶入りのサイダーと、露子が気に入っていた鉛ガラスの氷コップを運んできて、うやうやしくコップにサイ ダーを注ぎ、顎をしゃくって九弥に勧めた。
 盃をあおる要領でコップを空にした九弥は、飲み付けない炭酸飲料に目を白黒させ、ゲフッと小さくゲップをした。
 「出た!出たよ風邪。お父さんの中に入っていた風邪。口から出たからもう治ります」
 九弥の悪寒は相変わらずだったが、背中のヒリヒリとした刺激の方が圧倒的だった。
 「カチカチ山のタヌキにでもなった心持ちだなや。晴男、仏壇がらお年始でもらった吟醸酒持って来い」
 「お酒飲む元気でたね。それじゃあ私ダンドゥット踊るよ。心の友歌うよ」
 インドネシアのムード歌謡ダンドゥットを歌いながら、腰をくねらせ踊る身重のアスニーに、九弥は外れた手拍子で揚々と合の手を入れた。晴男も調子づき、 アスニーの動きを真似して賑やかした。三人の宴は四合瓶が二本空くまで続いた。

 正則の長兄が家を新築した。冬季の大工仕事は安く上げられるとかで、掛かった費用より随分立派な家が建ったという。密かに両親を呼び寄せる手筈を整えて くれていたのだ。
 「やっぱり、長男だからな」
 七三分け歴二十一年の、絵に描いたような県庁職員正和は、正則を前に黒ぶち眼鏡を誇らしげに光らせた。
 「何かの時は父ちゃん達いつでも預がっから、言ってけろ。そのうち新築祝いと山菜持ってぐがらよ」
 正則はのりたま軍艦と巻ものを詰めた折箱を、兄に手渡して気遣った。
 正和は表情を緩め「奥とはちと揉めたんだがな」と、こっそり打ち明けると、顔半分だけで笑顔を作って末弟への親しさを覗かせてから、両親を引き取って いった。
 舅と姑を乗せたカローラを見送った露子は、道端に群生するオオイヌノフグリの空色にときめいた。ヒメオドリコソウの蜜を、久方ぶりについばんだところ で、浮かれている自分に気付き恥入った。
 いつも以上に質素な夕飯をつつがなく終えると、
 「すずろ歩きでもすっか」正則が露子を誘いだした。
 息子の正幸はドリフにかぶりつきで、両親に付いて行く気はさらさら無い。
 露子はそそくさと三人ばかりの食器を洗い上げ、玉編みのケープを羽織ると正則の背中を追った。
 暖簾が取り込まれた玄関の間口は日中より広く、二人を快く送り出してくれる。
 敷居をひと飛びにぴょんとまたいだ露子の鼻先に、ジンチョウゲの香りが夜風に乗ってつんと来た。
 擦り減った桐下駄を鳴らしながら、正則がやおら切り出した。
 「ヨーデルって知ってか。こっだな夜は、ヨーデルでもひとくさり歌ってみだぐなるな」
 「私は、お父さんより早ぐ死にだい。今ぐらいの季節に、花吹雪みたいにびゅーっと逝ぐの。お父さんより一日でも早ぐ」
 柄にも無い台詞が、露子の口から飛び出した。
 「俺は丈夫なだけが取り柄ださげ、保証付きだ。お前の死に水はミネラルウォーターでとってけっからな。ほれ、あの、エイリアンとかいうやつ」
 「エビアン」
 「んだんだ。それだ。特別大サービスだ。ほれ、あの、あれ、足でやるやつ」
 「タップダンス」
 「それそれ。二人でやってみっか」
 「社交ダンスならまだしも、タップダンスなんて、ここらじゃ習わんねべよ」
 「我流自己流独眼竜!こんな風によ」
 正則がマンホールの上でステップを踏むと、下駄の歯がくぐもった金属音を立てた。
 「独眼竜だば、片目でさんなねべした」
 正則の滑稽な動きに弾かれて、露子は声を立てて笑った。
 上空では、ちぎれ雲がぐんぐん加速していざよい月を追い越して行った。

 アスニーは産み月に入ってからも、大根を洗ったり、出荷用の箱を組み立てたりと、青柳家の嫁として農作業を手伝った。
 出産予定日二週間前の夜半、尿道に焼き火箸を突っ込まれたような感覚に襲われ、一瞬目を覚ましたが、刺すような痛みはそれきりで、再び下腹部を雑巾絞り にされるような疝痛がくるまでは、まどろみの中に居た。山の稜線が浮かび上がるに従い、痛みが定期的になってきたので、朝ぼらけの中軽トラックを飛ばし、 晴男と公立病院へ向かった。
 山道を下る間に腹痛の間隔は刻々と狭くなり、病院に着いた時には立っていることもままならず、救急外来口で車椅子に乗せられ、そのまま陣痛室行きとなっ た。
 「荷物はここに置いてください」
 「病衣に着替えてください」
 「血圧測ります」
 「お腹にベルト巻きますよ」
 入れ替わり立ち替わり、ナースが何かを言っては何かをしていく。
 晴男は「長丁場になるさげ、暇つぶしになるもの買ってくっからな」と、売店へ走っていった。
 便意を感じたアスニーは、室の一角にある小さなトイレに籠った。電気を点けることにまで気が及ばず、狭い個室はほの暗かったが妙に落ち着けた。辛うじて 見える壁紙の幼稚な小花柄が、アスニーを優しく包んでくれる。一息ついたのも束の間のこと。襲いくる便意と陣痛に翻弄され、アスニーは便器に座ったまま上 体を左右に大きく揺さぶった。痛みの波に合わせて動くと、少し楽になったが、段々に便意と陣痛の区別がつかなくなってくる。思わず咆哮を上げると、アス ニーを探す晴男の声が聞こえてきた。
 「アスニー、トイレさ居だなが?」
 アスニーは力無く戸を叩いて存在を知らせた。
 「青柳さん、大丈夫ですか?」
 次いでナースが呼びかけてくる。
 「でそうです」
 アスニーは声を振り絞った。
 「うんちですか?」
 「わかりません……」と言ったきり、唸り続けるアスニーの事態に、
 「カギ開けて、カギ! それ、うんちじゃありませんから!」
 ナースと晴男から両脇を抱えられ分娩台に上がったアスニーは、産婦人科医の舵取りの下、三度目のいきみで、生きながらにワタを引き抜かれるイカの感覚を 知った。快感だった。
 アスニーはこめかみに胎脂がこびり付いたままの赤ん坊と共に病室に運ばれた。ストレッチャーに揺られながら、「この子にピアスの穴を開けてやりたいで す」と、ナースに申し出たが、間髪置かずに断られた。
 あてがわれた病室の窓からは、病院の焼却炉と田んぼが見える。ピンと張られた水面から、やっと葉先を出し震えているいじらしい稲の姿に、アスニーは故郷 を重ねた。
 トラジャでは田植えと収穫が同時に見られる。トンボが卵を産みつけるように苗が手植えされる傍らで、頭を垂れた稲の穂がサクサクと摘まれてゆく。生と死 が喜びを持って混在する、アスニーの原風景だ。
 「赤ちゃんはこれに寝かせてください。だど」
 晴男がアクリル製の新生児用ベッドを運んできた。
 「この子の名前、あすみにしたいな」
 死んだ家族の名前を、新しい命に託すことはトラジャでは日常的だった。
 「めごこい名前だ。明日も美しいで明日美だな」
 晴男は諸手を挙げて賛成し、九弥に報告するために公衆電話へ向かった。手にはアスニーに渡し損ねた、真新しい妊婦向けの雑誌が丸めて握られていた。

 首も腰もすわっていない、無力な肉塊の明日美だが、その存在感は強大で、大人たちを即座にかしづかせる力がある。乳児を家に連れ帰ってからというもの、 これまでの生活はおままごと同然だったと思い知らされた。晴男を身綺麗にしてやることも、九弥の禿げ頭を揉んでやることも、今思えば娯楽だった。農作業に は骨が折れたが、どんな仕事にも一段落というものがあった。
 「激しく泣く子は心豊か」「明日美に過ぎたる宝無し」
 九弥は時々、格言めいたことを口にした。寝かしつけに苦心するアスニーに、「寝る子は育つが寝なくてもそれなりに育つ」と慰め、お腹の張りを気にすれ ば、「蛙腹は元気な証拠」と安心させてくれる。
 「子どもは舐めて育てりゃ間違いねえ」と笑い飛ばす九弥の言葉で、新米母は幾度も励まされた。
 晴男もまた、娘が相当に可愛いらしかった。
 「俺よ、自分の癖、気付いたんだ。明日美ばめんこいなぁって思うと、自然と前歯で唇ば噛むみだいでよ、見でみろこれ」
 血が滲んでボロボロに荒れた下唇を、アスニーに突き出してみせた。
 育児に関して気の利いた手伝いは得られなかったが、生まれながらに父親然とした晴男の佇まいは、なんとも心強かった。
 アスニーは昼夜をおかず明日美に乳を与え、明日美のおむつを替え、明日美の体を清潔に保つ。それだけに努めた。

 出産祝いの金一封と落花生を携えて、正則一家がやって来た。
 生後一ヶ月を過ぎた明日美は、日に日にふくふくとしてきて、頬にほんのりと赤みが差し、ふかしたての桃まんを思わせる。
 「よーく太らせて、玉のような赤ちゃんだわぁ、アスニーさん上手だごどぉ」
 「まるで天の使いだなや」
 露子と正則はおでこを突き合わせて、籐製のゆりかごの中でぐっすり眠る明日美を、心から誉めそやした。
 「お客さんが来るといつも寝てばかり」アスニーは申し訳なさそうに、ゆりかごを揺すってみせた。
 露子の脇から息子の正幸が、気恥ずかしそうに明日美の頭に手を伸ばしかけて止めた。ヒクヒクと動く頭皮を凝視している。
 「そこは、モレラっつって、まだ頭の骨が閉じてない割れ目だよ」
 脈に合わせて上下するモレラの上で、遊ぶようにカールしている髪の毛に、人種の違いを感じ取った正幸だったが、言葉には置き換えられず、乳臭い明日美の 寝息に、自分の呼吸を合わせては、胸を詰まらせていた。
 「そういえば、アスニーさん、リクエスト持ってきたよ。さや入りのでよがったっけかしら」
 露子が天日干しと太字で書かれた大袋入りの落花生を取り出した。
 「ありがとございます。インドネシアではおっぱいをいっぱい出すために、みんなピーナッツ食べます」
 アスニーは重そうな乳房を、大仰に持ち上げてみせた。
 子どもが生まれる前は、人前で胸を強調したり触ったりすることに抵抗があったアスニーだが、毎日水芸のように母乳を噴出させているミルク製造機には、も はや色気の欠片も無いことを悟っていた。
「もう十分おっぱい出でっぺしたー」誰もが口元まで出かかっている台詞を晴男が代弁した。

 蓑のお化けと見紛う稲杭が、乾いた田んぼに整列すると、地区の運動会が開催される。
 アスニーに手を引かれ、小中学校の校庭をよちよちと歩く明日美の姿に誰もが目を細めた。
 「愛らしいっちゃぁ」
 「歩ぐの達者だごと」
 「めごこいんぼごだ」
 あちらこちらで声をかけられている愛娘の様子に、晴男はただただ目尻を下げて下唇を噛みしめていた。
 晴男が出場するのは『新婚男子百メートル走』だ。結婚三年以内の男が参加資格を持つ、年齢不問の徒競走。ゴール地点では妻達が、それぞれの夫に向って声 を張り上げ、活を入れている。アスニーも最大ボリュームで黄色い声援を送っていた。
 スターターピストルの合図で、夫達は一斉に走り出した。晴男は喜々として手を振っている妻子に焦点を合わせ、一心に足を動かして走り抜き、堂々一位で ゴールテープを切った。破顔一笑でガッツポーズを決めると、そのままもんどり打って倒れた。喜びのパフォーマンスかと、会場は一瞬沸いたが、晴男のただな らぬ苦しみように騒然となった。
 「担架、担架!」
 「救急車!」
 運動会は中断され、晴男は公立病院に搬送された。救急車に一緒に乗り込んだアスニーは、晴男の手を握ることしかできない。チアノーゼを起こし始めた晴男 の表情は、窓から差し込む光の加減によって随分違って見えた。山陰に太陽が隠れると一気に生気を失い、陽の光が当たると顔色に幾分血の気が戻るように見え る。アスニーは太陽と晴男を交互に見ては気を揉んだ。
 「腹、減った」晴男が口を開いた。太陽は隠れていた。アスニーは太陽に晴男をみるのを止め、手を強く握り直した。

 急性心不全で晴々と急逝した晴男の葬儀は、一から十まで隣組が仕切ってくれた。
 病院から戻った亡骸を、駆け付けた大の男が五人がかりでようやく持ち上げ、仏間に運び入れた。主の心臓が停止したことに気づかないのか、髭がニョキと伸 びている。動かなくなった晴男の体は北枕で安置され、枕もとに用意した小机には魔除けとして果物ナイフが置かれた。神棚は和紙で目隠しされた。おとぎの準 備に盛り菓子の手配、寺への連絡や火葬の手続き、香典返しの注文等々が、近隣の人々の尽力で滞りなく行われ、弔いの儀は肩を切って進行していった。
 喪主となった九弥は、気丈に親戚へ連絡を入れていたが、アスニーは明日美がまだ小さいこともあり、通夜まではと、正寿司に避難していた。
 『本日休業』の札が下がった、入り口内側のカウンターでは、アスニーが頬杖をついて呆けている。
 明日美は露子におぶわれ、千鳥格子の亀の甲にすっぽりと収まり、すぴーすぴーと寝息を立てている。
 「いづめこ人形みてぇだなや」
 正則が明日美のほっぺたをそっと持ち上げると、露子は無言で目を三角にした。正則は肩をすくめ調理場に入り、濃い緑茶を用意し、アスニーの前に置き声を 掛けた。
 「アスニー、大丈夫だが」
 アスニーは無言でごつい湯呑に顔を埋め、立ち上る湯気を吸った。
 「晴男、救急車の中で腹減ったって言いました。何が食べたいか聞いたら、とっても苦しそうに言いました。のりちゃんの寿司と」
 今際の刻みに、自分の寿司を食べたがってくれたことを知らされた正則は、笑ってしまう膝を制御出来ずに、よろよろと帳場前のオットマンに座り込んだ。
 何故かしら晴男からバトンを渡されたような気持ちになり、体から力が抜けていく一方で、胸の深部では小さな聖火がぽっと灯るのを確かに感じていた。
 露子は目頭を押さえ、目覚めかけている明日美に「お父さん、お寿司食べたいっけどー」と、歌うように言って聞かせ、あやす素振りで外へ出た。
 「私と晴男さん結婚しましたが、届けはまだ出していません。私、オーバーステイしてるから、手続き色々面倒だから、先に子ども産めば強制送還されないと 友達から教えてもらって、子どもが生まれてから婚姻届けを出してビザをもらおうと思ってました。でも、もう晴男と結婚できない……」
 正則は乾いた手の平で何度も顔を擦った。アスニーの流暢な日本語が痛々しい。
 「明日美は晴男の子どもとして届けてあります。お葬式終わったら、これからのこと、仲間の所に行って相談してきます」
 初めて聞くことばかりで、動揺を禁じえない正則だったが、自分が何を出来るかもわからず、頷くばかりだった。
 「トラジャのお葬式も黒い服を着ます」
 アスニーはハンドバッグから角砂糖をひとつ取り出すと、薄紙を剥いて緑茶にぽとんと落とした。
 「でも、日本と違って急に燃やして体を消したりしません。お葬式まで何年も家族の近くに置きます。トラジャのお葬式では、死んだ家族を次の世界へ運んで もらうために、みんなの前で水牛を殺します。豚も殺します。そして、みんなで分けて食べます。日本のお葬式の料理は、肉も魚も使わないと、命は取らないと 言うけど、日本人には死が遠いところにあるように感じます」
 アスニーの独り語りは止まらない。
 「思えば俺はアスニーさんの国のこと、なんにも知らねぇんだなや。せっかぐださげ、色々教えでけろ」
 正則は悲痛な面持ちで饒舌になっているアスニーを受け止めようと、肌色の大学ノートと、ちびた鉛筆を持ってきて、真剣な面持ちで聞いた。
 「トラジャってどの辺さあんなや?」

 アスニーは、初七日を待って明日美を連れ、村を出た。そしてそのまま音信が途絶えた。

 明日美を小学校に入れる為にアスニーが村に舞い戻って来たのは、晴男の死から四年が過ぎた、竹が青々と茂る季節だった。
 五才まで都内のインドネシアコミュニティに居たという明日美は、耳で日本語を理解することは出来ているようだったが、会話を成立させるには程遠かった。 とは言え、言葉を超えて人の懐にすっと入れる得な性分を持っており、大勢の中で育ったことも幸いしているのか、他人に臆することのない、愛想のいい子ども に成長していた。母親譲りの団子鼻と父親譲りの赤いほっぺたが、ペコちゃんを彷彿とさせる憎めないルックスに仕上げていた。肌の色の濃さが特徴的ではあっ たが、日本人の子どもと並べてみても大差は無かった。
 九弥が目を止めたのは金のピアスだった。
 「こだな小っちぇ子の耳さ穴開けるなんて、土人みてえだな」
 「どじん?」
 「痛い思いさせて、可哀そうに」
 顔をしかめる九弥をよそに、
 「女の子、ピアス当り前」
 アスニーは薄く笑った。
 「そだなものだがした」
 九弥は明日美の無邪気な耳たぶに触れ、ひとりごちた。
 それから三日間、九弥とアスニーと明日美の三人は、今までずっとそうしていたかのように、至極当たり前の様子で一緒に暮らした。これからも、毛色の変 わった家族ではあるものの、こうしてずっとささやかな日常が続いて行くのかもしれないと、九弥が思い始めた矢先『かならずむかえにきます』という置手紙 と、粗末な木製の十字架を残し、アスニーだけが姿を消した。

 「サトゥ、ドゥア、ティガ、エンパッ……」
 インドネシア語で数える明日美の横で、九弥はテレビに照らされていた。みかんをひと房ひと房、天板の縁に一列に並べ終えると、明日美は九弥に倣って画面 を見た。四角い箱の中で、光が不規則に乱高下しては飛び散っている。音は意味を成さず、耳に障る嘲笑に支配されていた。足元の豆炭はほとんど灰になりか け、掘りごたつの中は、静謐な空気に満ちた別世界だ。
 テレビから流れてくるサクラの声を真似、明日美は「アハハハ」と笑った。九弥は目に光を戻し、明日美の顔を覗き込むと、
 「あははって、おめぇ、おもしぇえのわがんのが」と、顔を皺くちゃにして笑った。

 雪間の草が見え始める四月、明日美は近くの小学校に入学した。学習机とランドセルは、九弥が虎の子をはたいて上質の物を揃えてくれた。
 小学校と中学校が併設されている校舎は円形で、巨大な茶筒にも極太のキノコにも見える。中央に配されている螺旋階段を登り切ると、最上階の全フロアが丸 い体育館。教室の形は切り分けられたバウムクーヘン状だ。校庭の隅には大人がゆうに三人は入れるインコ小屋があり、十六羽のセキセイインコが飼育されてい る。
 明日美が三年生になった時、教室の窓からそのインコ小屋がよく見えた。インコの羽色は青、黄、緑、白、黒、灰、それらのミックスと様々で、ほっぺたには 必ず、濃いなり薄いなりのチーク模様がちょこんとあり、尾羽根の動きに性格が見て取れる。眺めていると実に個々様々で、授業中の観察対象としてもってこい だった。
 「先生、あの子かわいそう」
 明日美はいじめられているインコの存在に気づいた。
 「ああ、あれはアルビノだからな。白子は弱いのがもすんねなぁ。それより、今は授業中だぞ」
 先生は頼りにならなかった。
 そうしている間にも、白いインコは他のインコに首の回りの毛を抜かれたり、自分でも胸の辺りの毛を引き抜くので、一羽だけどんどんみすぼらしくなって いった。泣きはらしたような赤い目が、悲しげに明日美にSOSを送ってくる。
 明日美は可哀そうなインコに『アルビー』と名付け、人知れずアルビー救出作戦を練り、実行した。上級生がインコ小屋の掃除をしている所に躍り込み「アル ビー、にげろー!」と檻の外へ追い立てたのだ。
 アルビーは見事に逃げた。アルビー以外の数羽も一斉に自由の身となり羽ばたいた。明日美の作戦は誤算はあったものの、成功したかに見えた。
 ところが、近所で放し飼いにされている犬のジョンが、俺の出番とばかりに登場し、インコ小屋に向かい猛進してきた。限られた空間が全世界だったインコ達 は、高く飛ぶことを知らず、不器用なその羽ばたきは、ジョンのDNAを刺激した。宙を彷徨うインコに狙いを絞りジャンプで一咬み。的確に一羽ずつ捕獲して いくジョン。公安犬の血を継いでいると、飼い主が自慢するだけある、見事なハンターぶりだった。
 色とりどりの羽根が、紙吹雪のように舞い、アルビーも白い体を朱に染めて散った。明日美は凄絶な光景の中、半狂乱で「アルビーアルビー」と泣き叫んだ。 それから明日美は『アルビー』と呼ばれるようになった。

 晴男が死に、アスニーが明日美を残して去ってからというもの、老いた九弥一人の手では、生活に支障をきたすようになってきた。  
 老人と子供の二人暮らしを支えるのは、正則夫婦だ。
 野良仕事全般に、雨どいの修繕やら雪囲い、雪下ろしまで。人が暮らすに事欠かないよう、あれやこれやと立ち働き「また来るさげな」と自動車で三十分の山 道を帰って行く。
 週に一度はおでんや煮込みなどの汁物を、寸胴で差し入れた。
 明日美は残り汁を伸ばしたものに、九弥が練ったそばがきを浮かべて食べるのが楽しみで、湯を回したそば粉を練り上げる際の、雪平鍋と菜箸が奏でる軽快な 音を聞くと、パブロフの犬状態となり、お腹がグーグー鳴きだすのだった。そばの風味が溶け込んだ残り汁を更にお湯で割り、醤油で色を付けて高野豆腐に煮含 ませ、最後の一滴まで食べ切るのが常だった。

 アスニーからの電話はワン切り後にかかってくるのが暗黙の了解だ。一昨年までは年に四、五回は電話があった。明日美の誕生日や、晴男の命日、クリスマス だったり、何でもない日にも。
 野分けがひどく、屋鳴りのする中、五年生になった明日美は洗濯機の前で脱水が終るのを待っていた。その時、電話のベルが一度鳴った。九弥は畑へ出ていて 家には誰も居ないというのに、音を立てないよう最小限の動きで電話ににじり寄った。
 案の定、再び電話は鳴った。
 「もしもし」
 「明日美―」
 アスニーはいつもあっけらかんとした声色で娘の名を呼ぶ。
 「お母さん、なんでずうっと電話くれねっけのや。じんちゃ、最近まだらボケで時々頭めんこくなっちゃって、わけわかんねぇ歌ばっかり歌ってんだよ」
 近況を伝えることで母を責め、
 「ねぇ、いつ? いつ私を迎えに来てくれるの?」
 一分の望みと一年分の期待を込めて聞いた。
 「いつか、迎えに行くから」
 返事は分かっていた。
 「お母さん、日本人は顔は笑ってても、心の中で何を考えているかわからないって言ってたべ。お母さんの方じゃないの、口でばっかりいい事言って、全然迎 えに来てくれねぇどれ」
 「私の明日美、怒らないで。いつか」
 「ふぇあふぇ、あんぎゃー!」
 耳を疑った。盛りのついた猫のような、新鮮な命の叫びが、会話を突然分断した。
 猫であってほしい。猫の鋭い爪で何もかも切り裂いて、もう全て終わりにしてほしい。
 「猫?」
 「明日美の、弟だよ」
 埃を被った木枠窓の桟の上では、黒目の大きなセセリ蝶が鱗粉の浮いた羽根を畳んで横たわっている。体を覆っている毛に生気は無く、家を震わせていた暴風 はいつしか静まっていた。
 「私、大丈夫。心配しねでけろな。お母さん。もう、切るよ」
 「明日美」
 アスニーは何かを言いかけたが、明日美はお手前でもしているかのように、形式ばって重い受話器を置いた。
 電話を切るとチーンと、小さな金属音がする。この、仏具のおりんを思わせる音を聞くたびに、九弥が毎朝たなごころを合わせ唱えている南無妙法蓮華経と白 檀の香りが、どこからともなく漂ってきて明日美を包んでくれる。
 次の日、地区公民館が燃えていると、小林のおじさんが知らせに来た。明日美が夕飯のカレーを温め直している時だった。遠山の金さんを観ていた九弥は「一 大事だ」と立ち上がり、小林さんと連れだって出て行った。
 盛り付けたライスカレーがすっかり冷めた頃、今度は小林のおばさんが息せき切って現れた。
 「アキレス腱切ってしまったなやのぉ」
 明日美は口を半開きにして首をひねった。
 「九弥さんがの、火事どご見よぅどして、背伸びしすぎで、ばっじぃーんって。本当で音すんなだのぉ。運良ぐ消防の人がだ居ださげ、応急処置してもらっ て、病院さ運ばれだどごだなや」
 九弥のまだらボケは、入院を機に大ボケへとステップアップしていった。

 久しぶりに再会した母と、片言のインドネシア語と日本語を折り混ぜ、たどたどしくも楽しいお喋りに花を咲かせつつ、土手の上を歩いていると、前方から 真っ黒な小山のようなゴリラが出現した。
 咄嗟に、まだ異変に気付かずにいる母を守らなくてはと奮い立ち、決死の覚悟でゴリラの懐目掛けて突撃するも、ゴリラに近付くにつれ、痛々しい細部が見え てきた。既に何者かに傷つけられ、毛は血で固まり、怪我を負っているようだ。しかし、そのダメージでゴリラが弱っている様子は全く無く、むしろ手負い状態 に陥っていることから、凶暴さは増していると推測される。空恐ろしくなって逃げ出したいのだけれど、怯む気持に反して突き進む足は止まらず、捨て身でゴリ ラの胸元に飛び込んだ瞬間、予期せぬ方向から嫌な視線を感じ、そちらに目を向けてみると、ゴリラをリモコンで遠隔操作しているらしき、サングラスに黒スー ツの二人組を発見。ゴリラそのものより、もっと怖い事実に気付いてしまったと、ますます恐怖を募らせ、勝ち目は無いと確信するのだが、ゴリラと戦うより他 の道は無い――。
 パン!パパン!パン!パン!
 地区運動会の決行を知らせる早朝の音花火の爆発音で、明日美はゴリラの夢から覚めた。急に現実に引き戻され、脳の芯が痺れている。忘れた頃に繰り返しみ る悪夢の後遺症は頭痛だ。
 「ほれ、眠り姫。運動会始まるぞ」
 露子が無遠慮に明日美の布団を剥がし、手際良く畳んでいく。
 「もう起ぎったじゅ」
 「運動会終わったら、引っ越しの準備さんなねんだからな」
 「わかってるってば。うるさいったらよぉ」
 明日美は毛布を引っ被ると、さっきみた夢を反芻した。
 暗記するほどに読み込んだ夢辞典によれば、黒い生き物は厄介事や、悩み、災いなどの良くないモノを表す。大きくて強そうな……。となれば事態は深刻。 戦ってはいるが勝つ気配が無いのは、自分では解決できない大事だということ。ゴリラを操る二人の黒幕は、根深い原因を示しているのだろう。
 表面的な対応を死に物狂いでこなしているのに、根本的な解決には至っていない。今の自分の状況をそのまま反映した夢だと、明日美は解釈している。
 夢辞典のアドバイスコーナーにはこんな事も書かれている。
 『夢の中では最後まで逃げ切れ』『夢の中で何かを追っていたら捕まえろ』『夢の中での喧嘩には勝て』さすればきっと全ては快方へ向かいましょう。
 「ゴリラを操る二人組は露子ばちゃん達だな」
 露子に毛布を取られてしまった明日美は、こめかみを押さえて頭痛が遠のくのを待ち、寝汗を拭いてから褐色の手足をあずき色のジャージにくぐらせ、くしゃ くしゃに乱れている髪は梳かしもせずに、荒く編み込み後ろでまとめた。

 「黙祷!」
 運動会の開会式は、晴男を悼む儀式から始まるのがここ十年の恒例となっており、老いも若きも高天の下身じろぎひとつせずに神妙に俯いている。
 「これ、アルビーが黙祷しないでどうすんだ」
 いつの間にか隣に立っていた校長が明日美を小突いた。
「先生だって目つぶってねぇがら、私さ気付くんだべしたぁ」
 屁理屈をこねながら、明日美は頭を垂れ、目をぎゅっと瞑り(お父さん、アルビー)と念じた。真っ暗な視界の中で、銀の流砂が点滅しながら渦巻いた。
 一分間の沈黙の後、次第は粛々と進み、準備体操の段となった。
 真っ白なキャップを被った校長が、本部テント脇の朝礼台に先達として立つと、大きなスピーカーからラジオ体操の軽快なピアノの音が流れてきた。校長は伴 奏部分から手を抜かず、踵をきびきびと上げ下げしてリズムを取っている。耳馴染みのある曲だけに、テンポがやけに早いのには、誰もが最初から気付いてい た。唯一人校長先生を除いては。
 本部席では音響担当者が、カセットデッキの前で右往左往している。その真横で、一つ一つの動きを妥協せずに、二倍速で体操し続ける校長の姿は、あまりに も真摯で爽やかで、止めに入る隙が無かった。
 参加者達は疑問符を頭上に冠しながら、高速ラジオ体操を最後までやり遂げた。 
 準備体操で既に疲れ切った明日美が出場する競技は『思春期親子デカパン競争』だ。大きなパンツの片足ずつに、年頃の子どもと、その親が入って障害物を越 え、スキンシップをはかろうという二人三脚の変則版。一緒に組むのは叔父の正則だ。
 「明日美ー! いっちょやるぞー!」
 缶コーヒーのシールを集めて貰ったというジャンバーを着た正則は、準備体操に余念が無い。
 「そだいでっかい声で喋らんたって、ちゃんと聞こえっじゅぅ」いつもの仏頂面をぶら下げて、明日美は正則を一瞥した。
 「アキレス腱だけは、ちゃーんと伸ばしておくんだぞー!」
 近頃急に耳が遠くなってきた正則は、それでなくても大きな声に一層張りが出てきた。
 (声の大きい人に悪い人は居ねぇって、露子ばちゃんはよぐ言うけどよ、じゃあ、犯罪者はみんな小声でしゃべんのかよ。ウィスパーボイスの善人はいねぇの かよ)
 明日美は心中で毒づき「うるっせぇっちゃ」と、ふてくされた。
 「おらだのパンツはピンクだどー!」
 (嗚呼!赤い糸で結ばってだ、どなたか存じねげど、白馬の王子様。ピンクのサテンのデカパンに囚われている私を助けて下さい。何が悲しくて、お父さんが 倒れた、アルビーの血を吸ったこのグラウンドで、こだな馬鹿げた格好で走りまわらねばならねんだ。私が口にする言葉は、思いの内の千分の一にも満たないっ てごど、会話は全部上っ面だってごど、デカパン穿いて喜んでる人は気付がねべ。気付けねんだべ。今日、育った家を出たら、私はもう屍となります。缶コー ヒーで満足できる男の家で、屍を演じて暮らします。誰かが救い出してくれるまで……)
 デカパン競争に参加している間中、明日美は正則を蔑み続けた。
 ゴールで待ち構えていた従兄の正幸が「バカ殿みてーだー」と、粉だらけの二人の顔を交互に指差して冷やかした。
 明日美正則ペアは、ひとつ目の障害『アメ食い』で手こずり、四組中三位だった。

 アキレス腱断裂は治りかけているものの、認知症を併発した九弥の入院が長引きそうだということで、明日美は正則の家で暮らすことになった。当初は祖父の 退院まで一人暮らしをすると頑張ったが、このまま併設されている中学校へ上がり、卒業するまで転校せずに越境通学を続けるという条件で、しぶしぶ引っ越し を受け入れた。
 萩生田の家の中で、明日美が思いっきり手足を伸ばせるのは自室だけだった。大学入学と共に家を出た元の正幸の部屋は和室で、ところどころ破れている障子 紙は、折り詰め用の包装紙で補強されている。部屋に戻ると、まず大きな伸びをしてから、学習机に突っ伏して目をつむり、檜の香りの中に、僅かに残る青柳家 の匂いを探す。
 学校へは青いシティで送迎してもらっていた。助手席には乗らず、後部座席の左側が定位置。並走する車があると、ガラスに息を吹きかけて曇らせ、鏡文字で 『たすけて』と書いた。
 食事時に正則夫婦が繰り返す同じような会話が、無意味で浅はかな行為に感じられ、耳を塞ぎたくなることが度々だったが、そこまで子供じみた真似は出来兼 ね、腹さえくちくなれば部屋に籠り、いたずらに自分の境遇を憂いては、無自覚に眠ってばかりいた。

 記録的な大雪に見舞われた冬の日曜日。十四の明日美に初めての来潮があった。正則達は「家が潰れっとわれさげ」と、無人の青柳家の雪下ろしで朝から出 払っている。露子が前もって用意していてくれた用品で淡々と始末をつけ、ねっとりとした睡魔が襲うに任せて横になり目を瞑った。下腹部の慣れない鈍痛が忌 々しい。拳大と習った子宮内では、粘膜の壁がもろもろと剥がれ落ちているのだろう。急に存在感を見せつけた自分の臓器に想いを馳せながら、明日美は入眠し た。
 どれくらいの時間が過ぎただろう。時計の針は六時五分を指している。継ぎ接ぎの障子戸を開けると窓が新雪で埋まっていた。明日美は制服に着替えて居間へ 出で「おはよ」と挨拶した。
 正則が新聞から顔を上げたまま固まっている。
 「今、なんて言った?」
 「おはよ」
 「おーい、お母さん、明日美がおはようって言ってっぞー」
 「それぐらい言うべしたー」露子の取り留めのない声が、台所から聞こえてくる。
 脚付の柳のまな板が、一段と朗らかな音を立て始めた。
 「明日美、今は夕方。これから晩飯だぞ。に、してもだ。明日美はだんだん良ぐなる。昨日より今日良ぐなった。今年より来年、来年より再来年、明日美はだ んだん良ぐなっぞ」
 「いつから予言者になったのや」
 十秒前の己の間抜けぶりは棚上げし、さも呆れた口ぶりで正則に言い放つ明日美の顔には、いつになく両親の面影が滲む。
 「いつからって、明日美が生まれた時からだ。自分の名前ば見でみろ。明日はもっと美しくなるから、明日美。だべ」
 「単純!」明日美は小鼻を膨らませて食卓についた。

 小さな町にも年毎に回転寿司が台頭し、正寿司は経営縮小を余儀なくされていた。明日美が町立高校を卒業する頃には、消防団の会合や隣組の宴会などを、月 に数回こなすだけの店となっていた。
 収入の大半は青柳家の田畑の収穫と、山で採れる山菜やキノコを出荷することで賄われた。
 寿司屋の軒先に出している『うずらの卵無人販売所』の売り上げは、うずらの世話をする見返りとして明日美の駄賃となり、売れ残りの卵は、フライパンいっ ぱいに割り入れ『細胞分裂焼き』として、しばしば食卓に上った。
 茶碗に湯を注ぎ、飯のこびりつきがうるけたところを、香の物でこそいで食べる九弥の食後の習慣は、いつしか皆に受け継がれていた。砂糖の代わりに柿で甘 みとコクを付けた露子の手作りたくあんは、茶碗の丸味にそってよくしなり、お湯をすっかり飲んでしまえばそのまま食器棚に戻せそうな程だ。
 「ごちそうさま」
 明日美は自分の白磁の茶碗と正則と露子の夫婦茶碗を重ねると、流しへ運び、露子と肩を並べて洗い物を片付けた。
 「露子ばちゃんのたくあん食べたら、そごらで売られてるのなんて、お菓子みたいに甘くて食べらんね」
 たくあんを食べる度に、ついつい出てしまう明日美のいつもの感想だ。
 「お茶が進んで丁度いいのんねがや甘い方が」露子は大抵こう受ける。
 「あんまり甘いと余計に喉が渇くがらなぁ。どうせ甘いの食べるんだったら、お父さんはアンパン食べてぇにゃ。牛乳飲みながら」
 正則も何度目か知れない話をした。
 「あんたは、アンパンの食べすぎ。仕事終わりに必ずコンビニでアンパンと牛乳買って帰ってきて、寝る前に食べるんだから。それさえ辞めれば肝臓の数値 だって中性脂肪だって、どんだけマシになるかわかんねぇよ」
 毎度お馴染みの露子の苦言が終るのを待って、
 「俺の楽しみ取らねでけろ!」
 「俺の楽しみ取らねでけろ!」
 明日美と正則が声を揃えた。
 家族とは吉本新喜劇の往年のギャグのごとく、何度も同じ話をするものなのだ。暗黙の了解のもとに繰り返される実の無い会話は、賽の河原の石積みにも似て いる。
 次に来るであろう台詞を当てるのが、明日美のニヒルな楽しみだ。
 「春になると明日美は短大生かぁ。保母さんの学校だば、おなごばっかりで、おめーますますもてねぇぞ、どうせ」
 「就職したっておなごばっかり。って、言いたいんだべ」
 「んだ。よぐわがったなぁ。俺の顔さそう書いてあっか?」
 「油性ペンで黒々と書がれであるもの、すぐわがるったな」
 明日美は鼻先で笑った。
 「んじゃ、明日美が知らねえ事でも、教えでやっかな」
 「また、得意のマジック披露されても、もう驚いてやんねぞ」
 「マジックでも油性ペンでもねぇぞ。俺が、お前の母ちゃんから聞いた話だ。ちゃーんとノートさまとめてあっから。ちょっと待ってろ。明日美の新しいス タートのはなむけだ」
 「随分安いはなむけだなや」
 憎まれ口を叩きながら、予期できなかった正則の不意の行動に明日美は内心たじろいでいた。
 「あったあった」
 ノートの埃を払いながら戻って来た正則は、「色々書いてあっぞー。誰だこれ書いたの、汚ねぇ字。まともに読めねぇなや」と道化てみせる。
 「自分で書いたんだべ、自分で読めっちゃ」
 ポットワゴンの引き出しから老眼鏡を取り出し、正則に渡した。
 「どれどれ、お!この眼鏡かけたら急に読めるようになったぞ。明日美マジックでもかけだんだが?」
 「はいはい、いいからいいから。読めんだったら読んでみろじゅ」
 今すぐにでもノートを奪い取り、自分で隅々まで読んでみたい衝動をこらえながら、明日美は急須の蓋を開け、桃の実の茶筒から茶ヘラで茶葉をすくおうとし た。だが、寒くもないのに手が悴んだように強張り、茶葉を取りこぼしてしまった。
 そんなことは気にも留めず、正則はノートを読み上げ始めた。
 「まず、トラジャの場所だ。インドネシア共和国はスラウェシ島、その真ん中あたりの山の上。赤道が近いが、標高が高いのでさほど暑くはねぇ。果物は一年 中、米は二回穫れる。季節は雨期と乾季のふたつ」
 「それくらいは、地理で勉強したがらわがるっちゃ」
 「生意気に勉強なんかしったっけのか。お父さん常々言ってっぺ」
 「勉強する暇あるんだったら手伝いしろ!だべ」
 「んだ。お、おもしぇ事書いてあっぞ。いわゆる、妖怪の類だな」
 正則は身を正して益々朗読調で読み上げた。
 「パラカン。長い髪で顔が覆われ、腹に穴が開いている女。夜、側溝の横にしゃがんでいる。深夜になると民家の台所に忍び込み、自ら腸を取り出し、鍋の中 に置いてくる。発見した者は腸に塩をかけるとよい。当のパラカンごと消滅してしまう。以前は沢山いたが、退治方法が広まってしまったため、最近は数が減っ ている。
 トゥユル。一見子どもだが禿げ頭。お金を盗み人間のボスに渡す。トゥユルからお金を守る方法は、お金の上に枝毛を置いておくこと。トゥユルがお金に手を 伸ばした瞬間に枝毛に巻きつかれて小さくなってしまう。
 アスミン。首にへその緒が巻き付き死産したアスニーの妹……」
 ここまで読み上げたところで、正則はまざまざと蘇ってくる記憶の大波にのまれ、言葉を継げなくなり、ノートを閉じると明日美に渡した。
 ノートには正則の若い文字が並んでいる。夫を失ったばかりの母が、傷心の最中に伝えた言葉達が。
 死んだ妹の名前を自分の娘に命名することで、明日美にはアスミンの分も生きてほしいと願っていること。晴男が我が子と樹氷を見に行きたがっていたこと。 アスミンが埋葬された木の小枝で十字架を作ったこと。トラジャの家は竹で作られた船形で屋根は揃って北の空を向き、やがて来る月からの迎えを待っていると いうこと。
 「俺、あの時よ、トラジャって所がまるでかぐや姫の世界だと思って、おめぇの母ちゃんさ竹取物語を話して聞かせだんだっけ。そしたらお返しにって、歌っ てくれたっけなぁ」
 正則は盛んに顔を擦り、記憶を整理しているようだった。
 「あ、これ、あのいっつもじんちゃが歌ってる歌。こごさ書いである!」明日美はノートに書きつけられた文字を指差した。
 認知症の太鼓判を押された九弥が、入院先で繰り返し口ずさんでいる誰も知らない歌の歌詞だった。

 明日美がトラジャに行く気になったのは、従兄の正幸が入学祝いにと、インドネシア行きのオープンチケットを取り計らってくれたからだ。
 正幸は国立大学を卒業後、放送局の編成部に勤め、地方と東京を転々とする転勤族となっている。親戚の中で飛び抜けた出世頭となった正幸は、正則のきょう だい達から「ダークホース」と呼ばれ、格好のお茶うけ話しにされていた。
 地元の短大に通い始めた明日美は、初めての連休に初めての一人旅を決行した。「ゴールデンウィーク初日の飛行場は激混みだ」と、正幸に脅されていたの で、早々に搭乗手続きを済ませ、デューティーフリーショップには目もくれず、搭乗口近くの椅子を陣取った。時折り真新しい手帳を開いては、(五月一日成田 発同日ジャカルタ着、空港内のトランジットホテルに一泊。二日国内線でウジュンパンダンへ軽飛行機に乗り換えトラジャで二泊。五日帰国)と、頻繁に出る生 あくびをかみ殺しながら段取り確認に余念が無い。
 今朝方正則と露子は、今生の別れでも惜しむかのように新幹線のホームまで見送りに出てくれた。その二人の顔がもはや懐かしい。
 搭乗を促すアナウンスに背中を押され、飛行機に乗り込んだ。待ち構えていた客室乗務員の華やかな笑顔は、初めて機内に足を踏み入れた明日美を十分に気後 れさせた。勧められた雑誌に手を伸ばしかけたが、乗り物酔いを危惧して止め、トイレの使用も控えたかったので飲み物も丁重に断った。最初に配られた航空会 社のロゴが入った純露飴は受け取り、正則へのお土産にしようと、仏壇で見つけたちいさな十字架を入れた水玉のポーチにしまい込んだ。連休のはずが乗客は少 なく、隣の席は空いていた。シーフードとビーフの選択を迫られた機内食はシーフードを選び、全てきっちり胃の腑に収め、下げ膳されたところで、前方の大き なスクリーンで映画が始まった。邦画のようだとはわかったのだが、上映冒頭から墜落睡眠に陥ってしまい、目覚めた時にはエンドロールに合わせて『ステイ ウィズミー』が流れていた。
 丸い窓の外には空虚な宙に浮かぶ雲の島と青海原だけの、見るべきものが曖昧な空間が広がっていた。ふいに目を開けた時、目標物が定かでない場合、眼球は 自動的に地上を探すように出来ているらしい。空の下を、海の上を、陸を求めてオロオロと動き、何も見つけられないまま、再び眠り込んだ。
 七時間半のフライトは眠り姫にかかればあっという間だった。

 後に『インドネシア五月暴動』と言われる動乱の火種は、既にそこここで燻ぶり出していた。東南アジア諸国を巻き込んだ通貨危機と、政治の改革を求める声 と、インドネシアの経済を牛耳る華僑への反感が暴徒を自然発生させた。
 明日美がチェックインしたトランジットホテルのテレビでも、首都ジャカルタの不穏な様子が頻繁に報道されていたが、インドネシア語が全く分からなかった ので、目の前で起きているデモの映像も、自分の身に降りかかっている物価高騰の折れ線グラフも、ブラウン管の中の出来事としか捉えなかった。
 その日の夕飯は持参した栄養補助食品と、備え付けのミネラルウォーターで済ませ、早々に就寝した。
 翌朝はエアコンの動作音で目を覚ました。冷え切った肌をさすり窓を開けると、一陣の熱風が吹き込んでくる。「ドライヤーかっ」口を突いて出た空回りの一 人突っ込みが、明日美の中の常識と共に蒸発した。この国の血が自分に半分流れているのが信じ難い。違和感を覚えそうになる気持に蓋をして、そそくさとベッ ドを整え、晴男の形見のボストン鞄に荷物を詰め直し、チェックアウトと換金を済ませ、汗で煮しめたようなくたびれた札束を財布に押し込むと、スラウェシ島 行きの飛行機に乗り込んだ。
 機内ではパン菓子と密封されたプラスチックのコップに入った水がサービスされた。コップの表面を覆う硬いラップのようなものに、ストローを突き刺して飲 むという飲み方がわかるまで、甘いだけの乾いたパンをもそもそと口に運んだ。
 スラウェシ島の玄関口、ウジュンパンダン空港に着き、早速トラジャ行きの軽飛行機に乗り換える手続きをしようと、かりゆしウェアをよりオリエンタル調に した制服を着た空港職員にチケットを見せた。すると、理由はわからないが今日は飛ばないというジェスチャーだ。明日美は何をどうすればいいのか皆目見当が つかず、
 「エアプレーン トゥモロー オーケー?」と、明日のフライトの有無を尋ねた。職員氏の身振り手振りによれば、
 「飛ぶかもしれないし、飛ばないかもしれない」とのこと。あからさまにがっくりと肩を落とす明日美を見かねたのか、
 「今なら空港の前にホテルの送迎車が停まってるから、それに乗ってホテルに泊まってまた明日来てみたら。私が車まで案内してあげるから」というようなこ とを補足してくれた。
 明日美は今の時点では限りなくいい人に見える職員氏を信じる他に手立てはなく、彼に伴われて空港を出た。
 出入り口で待ち構えるポーター風の男達が、次々に明日美の荷物を運ぼうと寄って来たが、職員氏は蠅でも追い払うかのような手振りで道を開けさせた。明日 美はボストン鞄をしっかりと抱え『MGH』と派手にペイントされたワゴン車に乗りこんだ。車内では先客の西洋人カップルが炎暑にうだっている。
 「ハロー」
 明日美は小声で挨拶した。それから待つこと一時間。ホテルの送迎車は客を増やすことなく出発した。
 車に三十分揺られ着いた先は、大きな椰子の木が連なる沿岸に建つ、マカッサルグランドホテルだった。新しくはないが大きなホテルだったので、 明日美の気持ちは幾分落ち着いた。フロントで現在の状況をどうにか説明すると、ホテル内の旅行代理店のスタッフが呼び出された。中華系と思わしき童顔のス タッフは、あちこちに電話を入れては話を付けると「OK!」と会心の笑顔を明日美に投げかけてくる。明日美は「サンキュー」を繰り返したが、何がどうOK になったのかはわかっていなかった。ひとまず、このホテルに一泊して、また明日空港に行くことでOKとすることにした。
  当座の目途が立った途端に気が抜けた明日美は、案内された部屋に荷物を置き、貴重品を携帯し、ホテル内を散策することにした。
  海が近い割に潮の香りも波の音もしない。表通りから響いてくる喧騒音に紛れて、どこからともなくウッドベースの低音が流れてきた。音の方へ行くと、ホテル のエントランスから続くカフェで行われているバンドの演奏だった。
  明日美はカフェから一望できるスラウェシ海に誘われ店内に入り、背もたれのついた白いプラスチック製の椅子に腰をおろした。安普請な座り心地にそわそわし たが、生バンドが奏でる呑気な音と、海からの薫風に落ち着かされた。
 すぐにウェイターが来て、値段表示が軒並み訂正されているメニューリストを、しなを作って渡してくれた。飲み物欄の『NESCAFE』という文字が目に 入り、面白半分で頼んでみた。しばらくして運ばれてきたのは、お湯の注がれたコーヒーカップとネスカフェのインスタントコーヒー一袋。ここまで来てインス タントコーヒーを飲む羽目になった自分が無性に可笑しくてたまらず、誰かと一緒に笑い合いたかった。
 明日美を日本人と見て取ったバンマスが、テノールの美声で「KOKORONOTOMO!」と曲紹介をすると、明日美の方に体を向け直し『心の友』を歌い だした。
 九弥の音程が外れた民謡調のそれとは違い、一定したメロディに乗った歌詞は、まっすぐに明日美の中に入ってきて、胸中を突き上げた。母の言葉を写し取っ た正則の右上がり文字が、茶色の液体の上に浮かんでは沈み、沈んでは浮かぶ。母はどんな気持ちでこの歌を正則に歌って聞かせたのだろう。通りを行き交う人 々に母の面影を探しながら、ぬるいコーヒーをちびりちびりと飲み込んだ。
 海に沿って整備されている遊歩道では、屋台が軒を争い、家族連れや若者達で溢れている。車道では人力車や自転車、オートバイ、乗り合い小型バス、黄色や 青のタクシー、自家用車各種が無秩序に見える秩序を保ちながらごったがえしていた。
 ホテルが立ち並ぶ立地の割に、不思議と観光客の姿は見えない。
 「そういえば、あの二人、どさ居んだべ」
 空港から一緒だった西洋人カップルが見当たらないことに気がついた。カフェにも観光客は居ない。気のせいだろうか、みんなが自分の動きを注目しているよ うだ。コーヒーカップが空になったのを潮に、明日美は視線から逃げるように精算を済ませると、海岸通りに立ち並ぶ、ウジュンパンダン名物の屋台を覗いて歩 いた。
 最初に足を止めたのは、青いバナナを鉄板で押しながら焼いている店だ。買ってみようと思ったが、隣の店の焼きそばも気になる。海鮮を焼く匂いも漂ってく る。久しぶりに強烈な空腹を感じた明日美は、こんな時こそ食べる物を吟味しようと、客が多く寄っている遠くの屋台まで行ってみることにした。
 舗装されているとはいえ、でこぼこが多く歩きにくい道路と、忙しそうに行き交うゴキブリとフナムシに足をすくわれそうになりながら、明日美は一人旅を楽 しみはじめていた。
 突然
 「チャイナ!」という声が聞こえたかと思うと、明日美の足元で熟れたマンゴーが水風船のように破裂した。通りの向こうでたむろしている若者たちが明日美 に向かって、
 「オシン!」
 「チナ!」などと声を荒げている。
 足元から立ち上がるマンゴーの甘すぎる香りにむせそうになった。
 若者たちの顔は笑っていたが、目には得体の知れない憎悪と好奇の炎が揺らめいている。
 明日美は表情を変えずに踵を返すと、そのままホテルへ向かった。
 何者かに付けられている雰囲気を背中に感じ、戦慄した。徐々に複数の足音が速度を上げて近付いてくる。左手に広がる海に夕陽が落ち始め、闇が頭角を現し てきた。すれ違う地元民達は明日美の異質な動きに怪訝そうだ。心臓が喉元までせり上がってくるのをこらえ、明日美は能面のような顔で椰子並木の海岸通りを 疾走した。ホテルから百メートルほどしか離れていなかったが、その道のりは一キロにも十キロにも感じられた。
 ホテルのエントランスに駆け込んだところで、初めて後ろを振り返ったが、通りは相変わらず賑やかに混沌としているだけで、追って来る者はいなかった。部 屋のカギは持ったままだったので、フロントの前を平静を装って通り、部屋のドアを後ろ手に閉めると、そのままベッドに倒れ込み、仰向けになった。天井には メッカの方角を示す矢印がある。
 (かの聖地には何があるんだろう)
 明日美はテレビをつけ、延々と流れるミュージッククリップを観るともなしに眺め、朝を待った。
 朝食も取らずにチェックアウトした明日美は空港へ向かった。道中、タクシーの窓から白地に赤文字で『SAYONARA』と書かれた看板をみつけた。店の ウィンドウには極彩色のウェディングドレスがディスプレイされ、色褪せた結婚式のポスターが何枚も貼られている。
 「ブライダルサロン、サヨナラ」
 声に出して店名を読んでみた。
 「さようなら、ウジュンパンダン」
 近すぎる太陽に晒され揺らめく街並みに別れを告げ、母が生まれた土地を目指した。
 しかし、その日もトラジャ行きは飛ばなかった。
 「バスで行く方法もあるけど、途中の道が陥没しているから今は無理。復旧までには一週間はかかるだろう。飛行機がいつ飛ぶのかは神様しか知らない」とい うようなことを、昨日世話を焼いてくれた職員氏が教えてくれた。気の毒そうな表情で小さな舌打ちを繰り返している。
 明日美はトラジャから「お前は来るな」と拒まれているような気がした。
 打開策が見当たらないまま、予定を一日早めて帰国することに決め、ジャカルタ行きの手配を頼んだが、その路線も今日は終日飛ばないという。日本行きは、 バリ経由の臨時便しか無かった。
 一時間ほど機上の人となり、バリのデンパサール空港に着いたのは正午だった。空港内は軽装の観光客と、警備にあたる小銃を肩から下げた迷彩服の兵士が、 水と油のごとく付かず離れず混在している。
 壁に設置されているテレビの前が人だかりになっているので、明日美も近寄ってみた。アナウンサーの物々しい語り口調が、非常事態を演出している。映像が 切り替わり、坩堝と化したジャカルタの様子が映し出された。暴徒と戦車が睨み合っている。投石と略奪で破壊された商店が燃えている。炎マークがあちこちに つけられたインドネシア地図が大写しになると、辺りがざわめき出した。
 「ウジュンパンダンも華僑狙いですごいことになってるらしいな」
 「危険度が四に上がったらしいですよ」
 近くに居たワイシャツ姿の日本人男性達が訳知り顔で話している。
 明日美は耳をそばだてた。
 「中華系に見える色白のインドネシア人まで襲われてるっていうんだから、何でもありだな」
 画面ではブライダルサロン・サヨナラの看板が打ち砕かれていた。
 明日美は帰国が早まったことを伝えようと、国際電話をかけた。
 「もしもし明日美です」
 話しだそうとすると、
 「明日美、今どさ居んなや。成田さ居んなが。怪我してねぇが。明日美が行った所、ニュースさ盛んに出てるよ。暴動だが戦争だがわがんねけど、早く帰って おいで」と、露子が受話器から飛び出さんばかりの勢いで喋り出した。
 「大丈夫だよ。今、バリの空港で、成田行きの飛行機を待ってるとこ」
 明日美は心配症の露子を落ち着かせようとゆっくり話した。
 「正幸ば成田さ迎えに行かせるさげ、ちゃんと無事に帰っておいでよ」
 露子の下がり眉が見えるようだ。
 「迎えなんて、来らんたっていいがら」
 断ったところで正幸が来るであろうことは知っている。
 「正幸も心配してて、迎えに行きたいって言ってんだ。日本に着いたら、また電話してな」
 「はーい。あんまり心配すねでなー」
 バリ発成田行きの飛行機は、予定より七時間遅れて深夜便となった。日本までのフライトの間、明日美は昏々と眠り続けた。着陸準備のアナウンスで起きた明 日美は、いつの間にか掛けられていたブランケットを畳んで膝に乗せ、しばらくぼうっとしていた。

 人気の少ない成田空港では正幸が待ちかねていた。
 明日美の手からボストン鞄をもぎ取り、
 「オープンチケットなんか渡したばっかりに怖い目に合わせて、ごめんなぁ」と露子譲りの眉毛を下げる。
 明日美は手持無沙汰になった両手をぶんぶん振り「ぜーんぜん」と強がってみせた。
 「朝ごはん、そこのレストランにすっか」
 明日美は早く空港から出たかったが、正幸に従い同じ八百円の朝定食を頼んだ。
 小さな紅鮭の切り身に薄い卵焼き、フレンチドレッシングのかかった千キャベツとレタスとキュウリのサラダ、納豆、味付け海苔、梅干し二つ、ワカメと豆腐 の味噌汁、ご飯はセルフでお代わり自由。
 「梅干し二つの理由、知ってっか?」
 正幸は割り箸で梅干しをつまみ上げながら質問した。
 「しゃね」
 知らないことは知らないとはっきり言うのが明日美の美意識だ。
 「一個だとよ、一つ。ひと切れは、人を切れに繋がるからダメ。じゃあ三個はどうだ。み切れは身を切れに繋がるからやっぱり駄目。ふた切れなら、蓋だも の、大丈夫。だからお新香の類は二切れでふたつってのが妥当なんだ。四切れも付けたらコストパフォーマンスが悪くなるからな」
 正幸は兄貴分らしく説いた。
 明日美はさも感心したように目をしばたかせながら味噌汁の上澄みをすすった。
 「フレンチドレッシングって映画あんの、知ってっか?」
 正幸は話を続けようとしたが、
 「ごめん!トラジャさ、行がんねっけの。せっかくチケット貰ったのに、ごめん!」
 明日美が割り込んだ。
 正幸に会ったらすぐに伝えようと思っていた言葉をようやく言えた明日美は、ごはんをどんどん口の中に入れて、元気に咀嚼した。
 「謝ることじゃないべ。明日美が無事で何よりだ。ごはん、美味しいか?」
 明日美の猛烈な食欲に圧倒され、正幸の箸は止まったままだ。
 「おかわり!」
 明日美は正幸の目の前に空の茶碗を突き出した。

 仕事に行く正幸と別れ、明日美は新幹線に乗った。降車する終着駅まで東京駅から三時間半、心置きなく眠ろうしたのだが、車窓から拝める風景の輪郭がやけ にくっきりと映り、山々の人工林も味気ない町並みも妙に新鮮で、流れゆく景色に目を奪われていた。
 よどんだ川を挟んだ土手の上に、小さな女の子と若い母親の姿を見た。女の子は両手を伸ばしてぴょんぴょんと跳ね、母親に抱っこをせがんでいるようだ。斜 面に萌える若葉の煌めきが、近頃めっきりみなくなった、土手でゴリラと戦う夢を彷彿とさせた。
 母を守れるのは自分だけだと信じていた。
 ゴリラと戦うより道は無いと思っていた。
 黒幕の二人は正則夫婦と決めつけていた。
 夢に勝手な意味付けをして救われていた。
 今になってみればわかる。一人相撲に過ぎなかったと。矢も盾もたまらず、ボストン鞄を力いっぱい抱きしめると、柔らかな牛革の匂いが鼻腔に留まって慰め てくれた。
 「ありがと」
 不意に口から出た言葉が、直ぐに自分の耳の中に戻って来てくすぐったい。明日美の顔が久しぶりにほころんだ。
 明日美が降りるホームには正則と露子が既に迎え出ていた。
 一言目に心配させたことを詫びるつもりの明日美だったが、
 「またぁ。わざわざ入場券買って入ってこらんたっていいじゅぅ」が、第一声となってしまった。
 「疲れたべ」
 「荷物貸せ」
 「お腹空いっだんねが」
 「少し痩せだんねが」
 二人は明日美を挟んで異口同音にまくしたてた。
 家に着いてからも、露子と正則はいかに明日美の身を案じていたかを繰り返した。
 「ニュースの度にインドネシアが大変だって出てくるから、生きた心地しなかったよ。お父さんも明日美の写真を眺めては、明日美―、明日美―って」
 露子はコーヒーメーカーをセットしながら、
 「とにかく心配だーって。ね、お父さん」さも可笑しそうに正則に振った。
 「俺はもう、ストレスのお陰で頭の毛も薄くなっては」
 「それは前からでしょ」
 「それは前からでしょ」
 「明日美―大丈夫だがー。お父さん心配だーって。あんまり心配で、あんぱんも喉を通らねぇんだっけぞ」
 正則は大事そうに写真を胸に抱いてみせた。
 「ああ、もう、心配しすぎ!」
 明日美はあまりに大げさな正則にうんざりして嘆息すると、声のトーンを落として続けた。
 「テレビのニュースなんてのは、局所的な事しか映さねんだがら、ちょっと危ない雰囲気もあったけど、こうして無事帰って来たべ」
 そう言い含めると、大きな伸びをひとつした。
 それでも正則は珍しく険しい表情で写真を指差し食い下がった。
 「お父さん、やっぱり心配なんだ。こご、見でみろ」
 正則の誕生日に、セルフタイマーで露子と明日美と三人で撮ったスナップショット。
 「明日美の肩の辺りさモヤ〜っとした、人の顔みたいなの写ってっぺ」
 「はぁ〜?」明日美は目を凝らした。
 確かに自分の肩口に靄のような白いものが写り込んでいる。
 「本当だ、気持ち悪ぃ。この位置で、撮ったっけんだよね……」
 明日美は自分の肩に恐る恐る目をやった。肩越しの後方で、コーヒーメーカーがシュコシュコ、コポーッと音を立てている。
 写真に目を戻し、自分の後ろに写り込むコーヒーメーカーを確認した。明日美が作ったバースデーケーキと一緒に飲むのだと、トラジャ産のコーヒー豆とコー ヒーメーカーを買い込んできて、正則がドリップコーヒーを淹れてくれたのだった。
 「これ、湯気……」
 言い終わらないうちに、笑いと涙と鼻水が三つ巴になって出口に殺到し、息が詰まった。行き場の無い感情を下唇を噛んで押さえ、正則の腕を何度も平手で叩 いた。田畑を守るようになって太さと硬さを増した上腕三角筋はぺチぺチと陽気な音を立てる。最初に堰を切った鼻水が一筋垂れると、それが呼び水となって涙 と笑いが同時に噴出した。
 写真の中の三人が笑顔で囲む手作りケーキは、たっぷりの生クリームでデコレーションされてあり、細いツイストキャンドルが気ままに傾きながら円周に沿っ て並んでいる。
 カラフルなマーブルチョコレートに囲まれた真ん中には、チョコペンで『お寿司お父さん』と書かれていた。